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2020年04月04日

ニュース:神武天皇祭 皇霊殿の儀

天皇陛下 マスク姿で皇居へ

(2020年4月3日、FNNprime、一部抜粋)

 

天皇陛下は3日、宮中祭祀(さいし)に臨むため、マスク姿で皇居に入られた。午前9時すぎ、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、陛下は、報道陣らを前に初めてマスクを着用し、会釈をして皇居に入られた。3日皇居では、初代天皇とされる神武天皇をしのぶ宮中祭祀「神武天皇祭皇霊殿の儀」が行われ、陛下は装束姿で臨まれた。

 

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橿原神宮で「神武天皇祭」

(2020年04月03日、NHKニュース)

 

日本書紀などで初代の天皇とされる神武天皇をまつっている奈良県橿原市の橿原神宮で、国の平安などを祈る「神武天皇祭」が参列者がいない形で行われました。この神事は、神武天皇が亡くなったとされる4月3日に毎年行われています。神事は橿原神宮の内拝殿で行われ、神職10人余りが神前に米やお酒、魚などを供えたあと、久保田昌孝宮司が祝詞をあげました。きらびやかな衣装に身を包んだ4人のみこが、「浦安の舞」という神楽を舞って、国の平安などを祈りました。「神武天皇祭」には毎年全国から参列者が訪れますが、ことしは新型コロナウイルスの感染を防ぐため、参列を中止して神事が営まれました。

 

2020年03月27日

皇室:宮中祭祀「皇霊祭の儀」とは?

3月20日、春分の日に、天皇陛下が宮中祭祀「春季皇霊祭の儀」と「春季神殿祭の儀」にのぞまれたというニュースがありました(「天皇皇后両陛下 春分の日の宮中祭祀」)。「皇霊祭」「神殿祭」とはどのような宮中祭祀なのでしょうか?

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  • 皇霊祭と神殿祭

 

春分の日の「お彼岸」には、家々で祖先の御霊をお祭りし、お墓参りをするのが風習となっていますが、宮中でも「春季皇霊祭(こうれいさい)」と「春季神殿祭(しんでんさい)」が行われています。

 

春季皇霊祭の儀」とは、毎年春分の日に、天皇自ら、宮中三殿の一つである「皇霊殿(こうれいでん)」において、歴代天皇はじめ皇后・皇族すべての皇祖(天皇家の祖先)の神霊(御霊)を祀られる皇室の祭儀です。

 

春季神殿祭の儀」とは、皇霊祭に続き、天皇自ら、宮中三殿の一つである「神殿(しんでん)」において、天神地祇(てんじんちぎ)(天地の神々のこと)、八百万神(やおよろずのかみ)を祀る祭祀(親祭)です。

 

宮中三殿とは、皇居内になある賢所(かしこどころ)、皇霊殿、神殿のことで、「皇霊殿」には、歴代天皇や皇后、皇族の皇霊が祀られ、「神殿」には、全国の天神地祇の神々が祀られています。

 

皇霊祭、神殿祭ともに、天皇による祭祀として行われ、天皇のみが着用する「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」をまとわれた陛下、自ら玉串を捧げて御拝礼され、皇祖皇宗の神霊に告げられる御告文(ごこうぶん/ごこくぶん/ごこうもん)を奏せられます。皇后さまや皇族方も御出席、拝礼されます。

 

当日、皇霊祭拝礼の後、皇霊殿前庭で「東遊(あずまあそび)」と呼ばれる雅楽(神楽)が奉納されます(正式には「東遊の儀」という)。これは第27代安閑天皇の頃に、駿河の有度(うど)浜(今の三保松原付近)に舞ひ降りてきた天人の姿を象った(かたどった)舞と言い伝えられています。なお、神殿祭の際に「東游の儀」はありません。

 

9月の秋分の日にも、毎年「秋季皇霊祭」、「秋季神殿祭」が春と同様に行われます。また、皇居でけでなく、伊勢神宮をはじめ全国の神社でも同様の祭儀(遙拝式)が挙行されます。

 

 

  • 皇霊祭・神殿祭の歴史

 

古くは記紀(古事記・日本書記)などの古典から、皇室において、皇祖の御霊(みたま)を祀る祭儀が行われていたことが伺えます。

 

実際は、平安中期から江戸時代まで、京都御所清涼殿(せいりょうでん)内の御黒戸(おくろど)の間(ま)というところで、一般の先祖供養に当たる「追孝の義」が行われていました。み祭りは神仏習合の影響で仏式でした。

 

明治になると、神仏分も離によって神式による祭典となりました。当初は神祇官(じんぎかん)にて崩御日に正辰祭(しょうしんさい)(命日祭)として行われてました(辰は「日取り、日程」の意味がある)。その後、1878年(明治11)から、春分(秋分)の中日に、皇霊殿と神殿で、天皇の親祭による春秋二季の「皇霊祭」、「神殿祭」が始められました。つまり、現在の春分・秋分の日の祝日は、それぞれ「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」と呼ばれていたのです。

 

しかし、戦後、占領下でGHQによって、「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」は、春分、秋分の日と改変されました。1948(昭和)23年、春分の日、秋分の日は、宗教色を廃し、「祖先を敬い、亡くなった人を偲ぶ」、民間の先祖供養の日として国民の祝日に制定されました。もちろん、皇居では「皇霊祭」と「皇霊祭」が古来から継続して行われています。

 

投稿記事:「お彼岸、神仏習合のたまもの」も併せてお読みください。

 

2020年03月25日

ニュース:2020年東京五輪パラ、1年延期

東京オリンピック・パラリンピック延期 課題は山積

(2020年3月25日、NHKニュース、一部抜粋)

 

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受けて、東京オリンピック・パラリンピックが大会史上初めて1年程度延期されることになり、具体的なスケジュールの確定や施設・人材の確保といった運営面に加え、大会の主役となる選手の代表選考など競技の面でも課題は山積しています。

 

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受けて、IOC=国際オリンピック委員会は、24日、臨時の理事会でバッハ会長と安倍総理大臣とで合意した東京オリンピック・パラリンピックの1年程度の延期を承認しました。これまで2020年の大会に向けて選手や関係者は開催が決まった7年前からさまざまな困難を乗り越え準備を続けてきましたが開幕までちょうど4か月となる日に行われた大きな判断を受けて改めて急ピッチの準備が進められることになります。

 

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オリンピック、初めて延期 中止は5回、実は東京大会も

(2020年3月25日、朝日新聞)

 

24日、今夏に開催する予定だった東京オリンピック(五輪)・パラリンピックが1年程度延期されることが決まった。近代オリンピック(五輪)が延期になった例は過去にはない。中止になったことは夏冬合わせて5回あり、いずれも戦争が理由だった。5回中、2回は日本で開催される予定だった大会だ。

 

一番最初に中止になったのは、1916年のベルリン大会、直前に始まった第1次世界大戦で、欧州が戦火に包まれたためだった。40年は東京大会となるはずだった。しかし、日中戦争のため38年に返上。国際オリンピック委員会(IOC)はヘルシンキ(フィンランド)を代替地に選んだが、ソ連のフィンランド侵攻が始まり、結局中止になった。

 

さらに、44年に予定していたロンドン大会は第2次世界大戦のため、2大会連続で中止に。ロンドンでは戦後の48年に大会が開かれたが、戦争の責任を問われ、日本とドイツは招待されなかった。この頃は夏季五輪と冬季五輪が同じ年に開催されており、冬季では40年札幌大会、44年コルチナ・ダンペッツォ(イタリア)大会が中止になっている。

 

 

中止になったオリンピック

<夏季>

1916年 ベルリン(第6回大会)

第1次世界大戦により中止に

 

1940年 東京(第12回大会)

日中戦争のため開催2年前に返上。アジアで初開催になるはずだった。ヘルシンキ(フィンランド)が代替地となったが戦況の悪化で中止

 

1944年 ロンドン(第13回大会)

第2次世界大戦により中止。4年後の48年、第14回大会がロンドンで開催された

 

<冬季>

1940年 札幌

1944年 コルチナ・ダンペッツオ(イタリア)

いずれも同年開催予定だった夏季五輪と同様の理由で中止

 

 

2020年03月25日

伝統行事:お彼岸、神仏習合のたまもの

3月20日は春分の日の祝日でした。春分の日と言えば、お彼岸で、お墓参りに行ったり、おはぎを食べたり…というように、お彼岸は日本の伝統的な行事として定着しています。今回は春分の日とお彼岸についてまとめました。

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  • 彼岸とは?

 

「暑さ寒さも彼岸まで」という慣用句がありますね。これは春分(秋分)の日が「季節の変わり目」である彼岸に当たり、春分の日を境に厳しい冬の寒さ、また秋分の日を境に夏の暑さに別れを告げることを言っています。

 

「春分の日」と「秋分の日」は、学校で学んだ通り、太陽が真東から登り真西に沈み、昼夜の長さ(時間)が同じになります。「お彼岸」とは、その春分の日(秋分の日)を中日とした前後3日間をあわせた7日間のことをいいます。春分・秋分の日だけがお彼岸でないのですね。春分の日(秋分の日)は、彼岸の中間に位置するので、「彼岸の中日(ちゅうにち)」と呼ばれ、春分(秋分)の3日前の日を「彼岸の入り」、3日後を「彼岸の明け」と言います。

 

また、春分(秋分)の日は、暦の上で毎年同じ日とは限らず、それがいつかによって、彼岸の期間が決まります。2020年の場合、春分の日は3月20日(彼岸の中日)で、彼岸の期間(春彼岸)は3月17日~3月23日となります。秋分の日は9月22日、秋彼岸の期間は9月19日~9月25日です。なお、「彼岸」とだけ言った場合は、通常、春の彼岸を指し、秋の彼岸は「秋彼岸」と言います。

 

「お彼岸」には、家族そろってお墓参りに行き、お墓の掃除やお供え、焼香を行うなど、祖先を供養するのが風習となっています。では、なぜお彼岸にお墓参りをするのでしょうか?お彼岸は、一般的に仏教の行事とみなされているので、お彼岸に墓参りをする理由も仏教に関連していることが想定できます。ただ、インドやミャンマー、タイ、中国などの他の仏教国には、お彼岸の法要はなく、お彼岸は、日本特有の仏教行事と解されます。

 

 

  • お彼岸に墓参り

 

仏教では、「お彼岸」の行事を「彼岸会(ひがんえ)」といい、春分(秋分)の日の前後三日間の都合一週間を彼岸(ひがん)として、仏教の各宗派とも法要(ほうよう)などが営まれています。この仏教の「彼岸会」が現在の「彼岸」の由来とされています。この時期、在家信者さんは、お寺に詣でたり、お墓参りをしたりして、ご先祖の成仏を祈ります。

 

また、仏教では、比喩的に大きな川をはさんで、向こう側の岸(向こう岸)を指す「彼岸(ひがん)」と、こちら側の岸を意味する「此岸(しがん)」の2つの世界があると考えます。「此岸(しがん)」は、私たちが今いる現世で、迷いのある状態、煩悩に満ちた、生老病死の四苦、108の煩悩のある世界です。これに対して、「彼岸(ひがん)」は、悟りをひらいた者が到達する「ほとけ」の世界であり、「此岸」から解脱した「涅槃(ねはん)」の状態だと解されています。

 

もともと「彼岸」というのは、ある季節や期間を表す言葉ではありませんでした。彼岸は、古代インドのサンスクリット語(梵語ぼんご)の「パーラミター」(波羅蜜多) (はらみった)を漢訳した「到彼岸(とうひがん)」を略した言葉(仏教用語)でした。「彼岸に到達する(=到彼岸)」、つまり、彼岸(=到彼岸)とは、人間の苦しみ、恨み、悲しみ、喜びなどが混在している迷いの世界、煩悩の世界(「此岸(しがん)」)から、迷いのない悟りと安らぎの世界(「彼岸(ひがん)」)に到達することを意味していました。

 

この「彼岸」のサトリ(悟り)が、後々の世で意味が変形し、彼岸をあの世(死後)の「極楽浄土」を指すようになり、さらにそれが、亡くなった先祖たちの霊が住む世界を「彼岸」と考えるようになったと考えられています。これが「彼岸に墓参りするようになった背景と言えるでしょう。この彼岸に墓参りをすると言った風習は、江戸時代の頃から始まったと指摘されています。

 

 

  • 彼岸の墓参りと春分(秋分)の日

 

では、なぜ彼岸の墓参りが、春分(秋分)の日前後に行われるようになったのでしょうか?彼岸(会)の中日に当たる春分・秋分の日は、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。

 

仏教では、「彼岸」は西にあり、「此岸」は東にあるとされ、春分の日と秋分の日は「彼岸と此岸が通じやすくなって先祖供養に良い、先祖に思いが届きやすい」と言われています。また、阿弥陀仏の極楽浄土は「西」にあるとされています(西方極楽浄土という言い方もありますね)。そのため、真西に太陽が沈む春分(秋分)の日は、夕日が極楽浄土への道しるべとなると考えられているそうです。

 

また、春分・秋分の日は、昼と夜が同じ時間になる特別な日でもあります。昼夜を二分すると言う点で、仏教でいうとらわれを離れた不偏中正(ふへんちゅうせい)の正しい決断や行動が行うことを意味する「中道(ちゅうどう)」の精神をあらわしていると考えられました。彼岸の時期には、中道の精神を発揮して、特に悟りの内容を実践することが期待されました。例えば、大乗仏教では、彼岸会の期間中に「六波羅蜜行」という仏教の修業が行われました。仏様の世界へ至る実践徳目として、他のために励む、決まりを守り、我慢強く耐え忍ぶなど、六つの実行を説いています。

 

ですから、仏教的な意味で彼岸は、此岸から彼岸へ渡ったご先祖の供養やお墓参りをすることに加えて、自分自身を見つめ直す機会にする日ということになります。

 

 

  • 彼岸のはじまり

 

お彼岸は、一説には聖徳太子の頃に始まったとされていますが、起源については定かではありません。ただ、記録として残っている彼岸会としては、桓武天皇の時代の806年(大同元年)、早良親王(さわらしんのう)の霊を鎮めるために行った彼岸会が日本初との見方が一般的です。早良親王というのは、桓武天皇の弟にあたる人で、長岡京遷都を提唱していた藤原種継を暗殺した疑いをかけられ、幽閉、配流され、憤死してしまいました。

 

その後、安殿親王(後の平城天皇)が発病し、天皇妃や母が病死します。また、巷(ちまた)では、天然痘の流行や、洪水、日照りなどの天災も相次ぎ、人々は早良親王の祟りではないかと恐れました。そこで、天皇は親王の御霊をなぐさめるために御霊神社に祀り、彼岸会をとり行ったというわけです。この時、早良親王を崇道天皇と追称することを決め、七日間の間、昼夜を問わずにお経(七日金剛般若経)を転読することを諸国の僧に命じたとされています。

 

彼岸(会)の法要は、この時から始まっております。仏教の観点からいえば、彼岸は、平安時代に鎮魂の法要から始まって、江戸時代にかけて、ご先祖様を供養する風習に変わりました。彼岸に墓参りをするようになったのも江戸時代からで、それが習慣化し、年中行事となっていきました。

 

そうすると、春分(秋分)の日の彼岸に先祖供養する(墓参りに行く)という風習は、もともとは仏教的な要素ではなく、仏教伝来以前に日本にあった風習ではなかったのかと推察されます。もともと、仏教は個人の悟りを大事にする宗教で、先祖供養という発想はあまりありません。

 

 

  • 日本の古来からの風習

 

もともと、日本では、特に農耕との関係で、春分・秋分の日は季節を分ける重要な日として考えられていました。春分はちょうど種苗(種まき)の時期、秋分は収穫を控えた時期にあたります。農村部を中心に、春分の頃に豊作を祈り、秋分の頃に収穫に感謝して供え物をする五穀豊穣と収穫感謝の祭りが行われてきました。神社でも祈年祭や新嘗祭などの祭祀が行われています。

 

さらに、そこから、作物を育くむ太陽(自然)と、自分たちを守る祖先神や土着神への信仰が育っていました。例えば、山の神様を春分以前に山から里に迎え、秋分以降に里から山へ送る儀式が行われていたのです。自然神や祖先神に対する信仰から、祖先を敬い大切にする伝統が育まれ、春分(秋分)(彼岸の頃)に先祖の霊を敬い墓参りをする日本独自の風習が根付いていました。これは、皇室の先祖の祭儀に由来します。

 

古くは記紀などの古典に、皇祖の御霊(みたま)を祀った例が示されています。平安時代の中期以降、宮中では、歴代天皇の御霊を祀る行事が行われてきました。当初、仏教の影響もあり仏式で行われていましたが、明治以降、神仏分離によって神式による祭典となり、春分(秋分)の日を「春季(秋季)皇霊祭(こうれいさい)」と定められました。宮中において祖先をまつる日となった事がきっかけで、一般市民の間でもそのように定着し、「春分(秋分)の日」には、家々で祖先の御霊をお祭りするのが風習となっていったと見られています。

 

また、太古の日本と仏教の死生観が一致したという側面もあるかもしれません。日本人は古くから死者は、遠く海の彼方にある「根の国」に往くと考えられていました(神話では地底深くとも表現されている)。仏教にも、私たちは死後、西方十万億土の彼方にあるとされる、阿弥陀仏のおられる極楽浄土に行けるという浄土信仰があり、日本でも流行しました。これが、日本人の間ではいつの間にか死者の国は西方にあると考えられるようになりました。この日本古来の考え方と仏教の極楽浄土の教えが結び付き、死者(=ご先祖様)を偲ぶ日としてお彼岸の行事が発生してきたとみられています。

 

このように、太古の人は、春分(秋分)の日を、「農作の春と秋を祝い、自然(自然神と祖霊神)に感謝する日」と見なしてきました。それが、仏教が伝来すると、春分・秋分の日がそれぞれ彼岸の中日にあたることもあり、浄土思想など仏教の教えや習俗が古来の風習と習合した結果、春(秋)分は「春(秋)の彼岸」として祖先を供養し、お墓参りをするといった風習が定着してきたと考えられます。

 

まとめると、お彼岸は、仏教の行事と思われがちですが、日本独自の伝統的な習俗が、仏教の教えと結びついて発展したもので、もともとは日本の伝統的な祖先を敬い大切にする信仰に由来しています。ですから、彼岸は、他の仏教の国にはない、日本的な仏教行事というよりは、古来からあった日本の習俗と仏教文化が融合して現在の姿になった神仏習合の所産という方がより適切なのかもしれません。

 

 

<付録>

「お彼岸」と「お盆」

 

 お墓参りをする機会といえば、お彼岸以外には、お盆を連想できるでしょう。お彼岸は、「ご先祖様へこちらから歩み寄る」のに対して、お盆は、「ご先祖様を家へお招きする」というご先祖様に対する接し方が異なるという違いはありますが、どちらもお墓参りをする点では似た行事です。このお盆も、一見すると仏教行事のように思われがちですが、こちらも、日本人の祖先崇拝と仏教の盂蘭盆会が融合したものです。「お盆」については、「お盆と仏教行事」を参照下さい。

 

投稿記事「宮中祭祀「皇霊祭の儀」とは?」も併せてお読み下さい。

 

 

<参考>

お彼岸の由来-日本オリジナルの行事?-(大野湊神社)

秋のお彼岸、お彼岸の由来と歴史を解説! 早良親王の祟り? 波羅蜜って?

お彼岸の話し(こよみのページ)

暦と天文の雑学

2020年のお彼岸はいつ?由来や意味、お供えについて知ろう|(四季の美)

春分・秋分(彼岸)は特別な日。ぼた餅とおはぎの素敵な関係。

 

2020年03月20日

ニュース:天皇陛下、春の皇霊祭と神殿祭

天皇皇后両陛下 春分の日の宮中祭祀

(2020年3月20日News Every)

 

天皇皇后両陛下は20日、皇居で春分の日の宮中祭祀にのぞまれた。天皇陛下は20日午前9時過ぎ、宮中三殿で行われる祭祀にのぞむため皇居に入られた。皇居では、毎年春分の日に歴代の天皇などをまつる「皇霊殿」で「春季皇霊祭の儀」が、国の神々をまつる「神殿」で、「春季神殿祭の儀」が天皇による祭祀として行われ、皇族方も出席されている。

 

病気療養中の皇后さまの祭祀は、去年12月の即位にともなう拝礼以来で、春分の日については2002年以来18年ぶりとなる。

 

2020年03月20日

英王室:イギリスの貴族と爵位

ギリスのサセックス公爵ウィリアム王子夫妻が、3月31日で王室の高位メンバーから正式に抜けることになります。ただ、公爵の称号は失わないとされています。イギリス貴族の爵位制についてまとめてみました。

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■イギリスの貴族

 

一般的に、貴族とは、生まれ(血縁)や功績によって、貴族院の議員になれるなどの社会的特権を認められた人や一族をさします。いわゆる上流社会を形成し、他の社会階級の人々からは区別されたエリート集団です。

 

イギリスの貴族は、その歴史的な経緯から、イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、連合王国貴族に分類されます。イングランド貴族は、1707年以前にイングランド王国で創設された全ての貴族で構成され、同様にスコットランド貴族 も、1707年以前にスコットランド王国で創設された貴族の総称です。1707年に、スコットランド王国がイングランド王国と合同し、「グレートブリテン王国」が成立すると、その年から授爵された貴族はイングランド貴族とスコットランド貴族に替わりグレートブリテン貴族と呼ばれました。その後、1801年に「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立して、連合王国貴族が新設されました。このため、イングランド貴族が最も古い貴族となるので、同じ爵位の場合、他の貴族よりも序列では上位となります。

なお、中世以来、イギリスの君主によって叙されたアイルランド貴族は存在し、1801年以降も新たなアイルランド貴族は創設できましたが、1898年を最後に創設されていません。

 

イングランド貴族Peerage of England (~1706)

スコットランド貴族(~1706)

グレートブリテン貴族Peerage of Great Britain1707~1800

連合王国貴族(Peerage of the United Kingdom)(1801~)

 

 

■イギリスの爵位(title/peerage)

 

貴族は、国王・皇帝から認められた爵位(しゃくい)によってランク付けされます。爵位とは、貴族にだけ与えられる称号で、イギリスの爵位には、上から序列順に、公爵(Duke)・侯爵(Marquess)・伯爵(Earl)・子爵(Viscount)・男爵(Baron)までの各階位があります(これを五爵または五等爵と呼ぶ)。公爵から伯爵までが上位貴族、子爵と男爵を下位貴族とする分類もあるます。

 

 

  • 公爵((Dukeデューク)

 

公爵(こうしゃく)は、爵位の最高位で、王族や大貴族に与えられた称号です。現在も王族に属する「王族公爵」(8家)と、功績のあった臣民(貴族)に授爵される「臣民公爵」(24家)があります。

 

王族公爵といえば当然、エリザベス女王の長男であるチャールズ皇太子や、その長男のウィリアム王子と、次男のヘンリー(ハリー)王子が思い浮かべることができるでしょう。王族は、慣例で結婚時に公爵の称号がエリザベス女王から与えられます。チャールズ皇太子、長男のウイリアム王子、次男のヘンリー(ハリー)王子もそれぞれに以下のような公爵位を持っています(なお、イギリスでは一人で複数の爵位を保持できる)。

 

コーンウォール公爵(Duke of Cornwall)(チャールズ皇太子)

ロスシー公爵」(Duke of Rothesay)(チャールズ皇太子:)

ケンブリッジ公爵(Duke of Cambridge)(ウィリアム王子)

サセックス公爵(Duke of Sussex)(ヘンリー王子)

 

公爵の敬称は「Durk of ○○」で、○○の部分には、姓ではなく、「爵位名」が入ります。爵位名には、王室の歴史に所縁(ゆかり)のある場所や、比較的伝統的な場所などの地名がつけられます。上の例では、コーンウォール、ロスシー、ケンブリッジ、サッセクスがそうです。では、本人とその地名とは関係があるのかというと、その必要はありません。例えば、エジンバラ公爵という爵位があります。エジンバラ公爵は、スコットランドのエジンバラ出身でなくてもいいのです。実際、現在のエジンバラ公爵は、エリザベス女王の王配(配偶者)で、フィリップ王配はギリシャの王族出身です。

 

なお、冒頭でイギリスの貴族は、歴史的にイングランド貴族スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族に分けられると説明しました。チャールズ皇太子、ウィリアム王子とヘンリー王子が保持する公爵位も、この分類に当てはめてみれば以下のようになります。

 

コーンウォール公爵⇒イングランド公位(イングランド貴族の公爵)

ロスシー公爵⇒スコットランド公位(スコットランド貴族の公爵)

ケンブリッジ公爵⇒連合王国公位(連合王国貴族の公爵)

サセックス公爵⇒連合王国公位(同上)

 

そうすると、例えば、チャールズ皇太子は、イングランド公爵のひとつである「コーンウォール公爵」、ウィリアム王子は、連合王国貴族としての「ケンブリッジ公爵」の爵位を叙爵されているという言い方ができます。

 

イギリスで、公爵(デューク)と言うタイトルは、エドワード3世が、1337年に、自分の長男、エドワード・ブラック・プリンス(エドワード黒太子)に、コーンウォール公の位を授けたのが初めとされます。エドワード3世には、男子だけで5人の子どもがいて、全員、公爵となりました。また、王太子(おうたいし)(=長男)だけでなく、次男以下の子ども達や、自分の弟などに地方の領地を治めさせる際に、国王が公爵の地位を叙爵したというケースも数多く見られます。

 

一方、臣民公爵については、近年、王族以外で、新しく公爵の称号を受ける事はほとんどありませんが、歴史的には、地方の領地を軍事的に統治した大諸侯(中世の時代では封建君主)が公爵の称号を保持していました。現在も、1483年から世襲しているハワード家のノーフォーク公爵をはじめ、リッチモンド公爵、レノックス公爵、ゴードン公爵が伝統的な臣民公爵として知られています。

 

臣民貴族も王族同様に、イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族に分類できます。そこで、公爵内の序列をまとめると、まず王族公爵が別格で上位で、その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵以下、連合王国貴族公爵まで上記の順序で序列化されます。

 

大公Grand Duke

ところで、歴史書などに接すると、公爵とは別に、大公という称号を目にすることがあるでしょう。大公とは大公爵の略称で、グランドデューク(Grand Duke)の訳語です。公爵の中でも、国を治める王に匹敵するほどの権力を持った人物に対して用いられます。実際は、王以外の王族(王の息子や弟など)や分家の長などに適用されることがあります。公爵を大公爵(大公)とすることで、他の王族公爵や臣民公爵(duke)と区別し、公爵よりも上位であることを示す狙いがあるとされています。イギリスでは、チャールズ皇太子を大公と呼ぶ場合があります。また、歴史的には、大公が国を治めるとそこは大公国と呼ばれ、一つの国家となります。

 

 

  • 侯爵(Marquessマーキス)

 

侯爵(こうしゃく)は、ヨーロッパ大陸(特にドイツ)において、国境付近など重要な地域を領地として任せられた諸侯が受けることができる爵位でした。そもそも、諸侯とは、主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された貴族のことを言いますが、君主から侯爵の称号を与えられた諸侯は、確固とした軍事力を保持しており、有事の際には戦果を挙げることが期待されました。逆に言えば、王族ではない諸侯が戦果をあげて公爵に上り詰めるのはかなり至難の業だと言われており、かつて侯爵は、王族以外で実質的に最高位とされていました。

 

イギリスにおいて、侯爵の称号は、非嫡出子を含む国王にとって遠縁の血族者に爵位を与えるために創設されたと言われています(正当な嫡出子や血筋の近い王族には公爵が与えられた)。侯爵は、1385年にオックスフォード伯爵ロバート・ド・ヴィアーがダブリン侯爵(Marquess of Dublin)に叙されたのが始まりとされ、現在は、約35の侯爵家が存在しています。その中では、1551年に初代が叙爵したポーレット家のウィンチェスター侯爵が有名です(現当主のナイシェル・ポーレットは、18代目に当たる)。

 

 

  •  伯爵(Earlアール)

 

伯爵(はくしゃく)という称号は、ウィリアム1世が1066年にイングランドを征服する以前、エドワード懺悔王(在1042~1066年)が、イングランドを四分割して、それぞれを治める豪族に与えたことに始まります。伯爵(アール)は、ヴァイキングのデーン人が使っていた名称に由来するそうです。五爵位の中で最も古い創設で、数世紀にわたり、最高位の爵位でありました。

 

その後、伯爵は、王族の側近で、地方へ派遣されてその地を治めている地方領主のことを指すようになりました。爵位が上の侯爵よりも、支配している領土は狭く、権限が小さいのが特徴です。こうした伯爵の中で、土着の諸侯を監視したり、その力を抑えるために派遣された伯爵の場合、彼らとの争いの中で没落していく場合が多かったようです。逆に勝利すればその領地を手に入れ、王に意見できるような権力を持った伯爵も出たそうです。現存する伯爵家は190を超え、ダイアナ妃のスペンサー家や、ヘンリー8世の妃アンのブーリン家が有名です。

 

 

  • 子爵(Viscount ヴァイカウント)

 

子爵(ししゃく)は、伯爵の副官(補佐)の地位にあたる貴族で、爵位の中でも最後に創設されました。1440年に、ボーモント男爵ジョン・ボーモントにボーモント子爵(Viscount Beaumont)位が与えられたのが始まりですが、地方領主たる伯爵に任せられた小都市や城の管理など地方行政の官僚としての役割を担いました。後に、子爵は、伯爵の嫡男が伯爵位を継ぐまでに名乗る暫定的な爵位として利用されるようになったと言われています。子爵(ししゃく)(Viscount)は、現存する子爵家は112あります。

 

 

  • 男爵(Baronバロン)

 

男爵は、貴族の中で最も下位の爵位で(男爵までが貴族)、爵位が自分より上の諸侯が治める領地内にある村や町などの小領地を治めました。また、子爵以上の爵位を持たない領主が治めていた村や町を、君主から与えられたりもしました。イングランドでは、13世紀頃までバロン(baron)という言葉は、貴族の称号ではなく、国王から直接に封土を受ける臣下を意味していたそうです。

 

貴族は一般的に世襲で生涯、貴族でいられますが、イギリスには一代貴族、法服(法律)貴族、聖職貴族など世襲制でない貴族もあります(それゆえ、世襲貴族hereditary peerという言い方もある)。

 

一代貴族(life peerage)は文字通り、一代限りで貴族に叙されるもの(爵位が有効なのは本人一代限り)で、男爵が一代貴族に当たります。つまり一代貴族と言えば、それはすべて男爵でした。男爵位は、イギリス国家への貢献度の高い人に対して、出身階級にかかわりなく授与されます。現存する男爵家は450近くあるとされ(600人前後)、サッチャー元首相も一代貴族として女男爵(Baroness、バロネス)になっています。

 

なお、世襲貴族(公爵から子爵と准男爵)において、継承されていく爵位は男女の性に関係なく、直系の一族の長子が受け継いでいきます。また爵位を持つ人物の妻は、例えば公爵夫人(Duchess)として、爵位を授与されます。

 

さて、イギリスには、法律上は貴族として扱われませんが、独自に、準男爵(バロネット)とナイト(騎士)の爵位制があります(準男爵が騎士の上位)。準男爵とナイト爵を準貴族ということがあります。

 

 

  • 准男爵(baronetバロネット)

 

准男爵(バロネット)は、イギリスの爵位制度において、世襲称号ではありますが、その中では最下位です。貴族ではなく平民で、貴族院にも議席を有しません。こ

 

准(準)男爵の称号は、17世紀、イングランド王のジェームズ1世が、アイルランド征服・開拓のための資金を集めるために、新しく創設した称号です。具体的には、兵士30人を3年間養える費用を献納した地主に与えられたと言われています。現在では、国家に大きな功績ではありませんが、評価に値する人物、逆に功績をあげたものの貴族にさせたくない人物に与えられているという指摘もあります。

 

準男爵を授与された有名人はビールメーカーのベンジャミン・ギネスやロールスロイスの創設者のヘンリー・ロイス、作曲家 エドワード・エドガーがおり、古くは、世界的科学者、アイザック・ニュートンもいます。

 

なお、当主である女性が凖男爵を叙爵されると、バロネテス(baronetess)となり、女準男爵と呼ばれます。バロネット(baronet)の短縮形はBtまたはBartで、バロネテス(baronetess)はBtssで表記されます。

 

 

  • ナイト爵(Knight騎士)

 

ナイトは中世の騎士階級に由来した称号で、騎士とは、中世ヨーロッパにおいて、国家や君主に尽くした功績に対して褒美として与えられた名誉的称号でした。これにちなんで、主に文化・学術・芸能・スポーツ面で著しい功績があった人に与えられる称号です。ナイトの称号は、一代限りで、世襲することはできません。

 

ナイト(騎士)の称号を受けた有名人には、チャ―リー・チャップリン、ポール・マッカートニー(ビートルズ)、エルトンジョン、ミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ボノ、さらには、マイクロソフト創設者のビル・ゲイツなどが含まれています。また、長崎出身でイギリスに在住、2017年にノーベル文学賞を受賞した作家のカズオ・イグロ氏も、イギリス王室からナイトの爵位が授与されました。

 

なお、ナイトは等級があり、王室から受ける勲章に応じて一等から五等に分類され、一等はナイト・グランドクロス、二等はナイト・コマンダーなどの名称が付いています。これに対して、民間団体が「ナイト」を模した民間称号を与える場合もあります。

 

 

貴族に対する敬称

では、イギリスの貴族(公爵から男爵まで)や準貴族(準男爵とナイト爵)はどのように呼ばれるのでしょうか?

 

  • 公爵

公爵に対する敬称は、「Your Grace(ユア・グレース)(閣下)」で、正式な呼び方は、〇〇公爵(Duke of 〇〇)、〇〇には名前や姓ではなく、爵位名(号)が入ります。

 

例えば、王族貴族のケンブリッジ公爵の称号を持つウィリアム王子であれば、ウィリアム公爵ではなく、ケンブリッジ公爵(Duke of Cambridge)と呼ばれます。名前を入れる場合は、ケンブリッジ公(爵)ウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge)となります。

 

また、臣民公爵のハワード家のノーフォーク公爵(当主トーマス・ハワード)の場合、ノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)または、ノーフォーク公トーマス・ハワード(Thomas Howard, Duke of Norfolk)となります。

 

公爵を正式な場で呼びかける場合は、「Your Grace(ユア・グレース)」「閣下」で、通常のパーティのような場所では「Duke(デューク)(公爵)」と呼びかけることになります。

 

一方、公爵夫人に対する敬称には、Duchess(ダッチェス)が使われ、「Duchess of 〇〇(爵位号)」で、ハワード家のノーフォーク公爵夫人であれば、Duchess of Norfolkとなります。公爵夫人を正式な場で呼びかける時は、「Your Grace(ユア・グレース)」、少しくだけた場所では「Duchess(ダッチェス)」を用います。

 

「Your Grace」(閣下)」は、貴族の中で公爵だけに使わる尊称で、侯爵から男爵まで他の貴族の敬称は、「Lord(ロード)(卿)」です。

 

 

  • 侯爵

正式な呼び方は、〇〇侯爵(マーキス)(Marquess of 〇〇)、○○には名前や苗字ではなく、爵位名が入ります。

 

ポートレット家のウィンチェスター侯爵(当主ウィリアム・ポーレット)であれば、ウィンチェスター侯爵(Marquess of Winchester)で、ポートレット侯爵(Marquess of Paulet)や、ウィリアム侯爵(Marquess of William)ではありません。個人名を入れる場合は、ウィンチェスター侯爵ウィリアム・ポーレット(William Paulet, Marquess of Winchester)となります。

 

正式な場で呼びかける時は、「My Lord(マイ・ロード)(閣下)」、それ以外の場では、「Lord Winchester(ロード・ウィンチェスター)(ウィンチェスター卿)」と呼びます。

 

 

  • 伯爵

正式な呼び方は、〇〇伯爵(アール)(Earl of 〇〇)です。

 

スペンサー家のスペンサー伯爵(当主エドワード・スペンサー)であれば、スペンサー伯爵 (Earl Spencer)で、名前を入れる場合は、スペンサー伯(爵)エドワード・スペンサー(Edward John Spencer, Earl Spencer)となります。正式な場で呼びかける時の敬称は、同様に「My Lord(マイ・ロード)(閣下)で、それ以外の場では、「スペンサー卿」(「Lord Spencer(ロード・スペンサー)と呼ばれます。

 

 

  • 子爵・男爵

 

子爵の正式な呼び方は、○○子爵(ヴァイカウント)(Viscount 〇〇)で、

男爵の正式な呼び方も、〇〇男爵(バロン)(Baron 〇〇))となり、〇〇にはそれぞれ爵位名が入ります。

 

アスター家のアスター子爵(当主ウィリアム・アスター)の場合、

アスター子爵(Viscount Astor)、名前を入れるなら、アスター子爵ウィリアム・アスター(William Astor, Viscount Astor)となります。

 

ベアリング家のノースブルック男爵(当主フランシス・ベアリング)なら、

ノースブルック男爵(Baron Northbrook)

ノースブルック男爵フランシス・ベアリング(Francis Baring, Baron Northbrook)

 

正式な場で呼びかける時の敬称は、それぞれ同様に「My Lord(マイ・ロード)(閣下)で、それ以外の場所では、「アスター卿(Lord Astor)」、「ノースブルック卿(Lord Northbrook)」と呼びかけます。

 

一方、侯爵以下の貴族の妻は、侯爵夫人、伯爵夫人、子爵夫人、男爵夫人となり、Lady(レディ)が敬称として使われます(「Lady +爵位号」)。例えば、ノースブルック男爵(Baron Northbrook)夫人は、Lady Northbrookとなります。

 

 

  • 准男爵・ナイト爵

 

侯爵から男爵までの貴族の敬称が「Lord(ロード)」であるのに対して、准男爵(バロネット)ナイトの場合、「Sir」(サー)(卿)が使われ、名前(ファーストネームあるいはファーストネーム+苗字)の前に、「Sir」を付けて呼ばれます。

 

例えば、准男爵であるサッチャー元首相の夫、デニス・サッチャーの場合サー・サッチャーではなく、サー・デニス・サッチャー(Sir Denis Thatcher)(デニス・サッチャー卿)。または、サー・デニス(デニス卿)となります。

 

「ナイト」の称号を受けたノーベル文学賞を受賞者のカズオ・イシグロ氏も、叙爵前なら、ミスター・イシグロ(Mr. Ishiguro)だったのが、現在は、サー・カズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro)またはサー・カズオ(Sir Kazuo)と呼ばれます。Sir Ishiguro(イシグロ卿)とはならないことに気をつけましょう。

 

このように、侯爵から男爵まで貴族の称号が「Lord(ロード)+爵位名」であるのに対して、准(準)男爵やナイトの呼称は「Sir(サー)+名前」となります。

 

准男爵・ナイト爵の称号を持った人、例えばデニス・サッチャー卿を呼びかける時は、場所を問わず、「Sir Denis(サー・デニス)(デニス卿)」となります。

 

なお、準男爵やナイトの妻なら、侯爵以下の夫人と同様に、Ladyの敬称が使われます。例えば、カズオ・イシグロ卿の奥様であれば、「Lady Isiguro(レディ・イシグロ)」となります。呼びかける場合も同様です。侯爵から男爵の夫人であれば、「Lady+爵位名」でしたが、準男爵と騎士の夫人の場合は「Lady+姓」となります。

 

まとめ

貴族・準貴族の敬称

公爵(Duke)⇒Your Grace(ユア・グレース)

侯爵(Marquess) ⇒ Lord(ロード)

伯爵(Earl) ⇒ Lord(ロード)

子爵(Viscount) ⇒ Lord(ロード)

男爵(baron)⇒ Lord(ロード)

准男爵(Baronet)⇒Sir (サー)

ナイト(爵)(Knight)⇒Sir (サー)

 

<参照>

イギリス貴族階級の爵位と名前(世界雑学ノート)

知られざるイギリス貴族の真実(イギリス・All About)

「爵位」の意味とは?日本とイギリスの爵位制度・序列も解説(Tran.biz)

公爵、侯爵、男爵って?イギリス爵位の一覧

貴族制度と呼び方について解説。最低限これだけは押さえておきたい要素とは?

Wikipediaなど

 

2020年03月19日

ニュース:ローマ教皇「奇跡の十字架」を前に祈り

教皇、ローマの2教会でパンデミック収束を祈る

(2020年3月16日、Vatican news)

 

教皇フランシスコは、ローマ市内の2つの教会で、パンデミックの収束のために祈られた。教皇フランシスコは、3月15日午後、ローマ市内の2つの教会を訪れ、パンデミックの収束のために祈りを捧げられた。バチカンのマッテオ・ブルーニ広報局長によれば、教皇は同日夕方、私的な形でバチカンを後にされ、聖マリア大聖堂(バシリカ・ディ・サンタ・マリア・マッジョーレ)を訪問された。教皇は同大聖堂に保管される古い聖母子画「サルス・ポプリ・ロマーニ(ローマ人の救い)」の前で祈られた。この聖母子画に対する教皇フランシスコの崇敬はよく知られており、教皇は様々な祭日はもとより、海外への司牧訪問の前後にも、この前で祈られている。

 

続いて、教皇は巡礼者として、ローマ中心街を貫くコルソ通りの一部を歩き、聖マルチェロ教会(キエーザ・ディ・サン・マルチェッロ・アル・コルソ)に向かわれた。同教会には、1522年にペストがローマを襲った際、感染の鎮静を祈る宗教行列で掲げられたキリストの磔刑像がある。当局からの禁止にも関わらず、民衆によって始められたこの宗教行列は、16日間にもおよび、この十字架を掲げた行列がローマのあらゆる地区を練り歩く中、ペストは次第に下火になっていったという。

 

1600年から、「聖年」を記念するたびに、聖マルチェロ教会から聖ペトロ大聖堂に向かう宗教行列が行われるようになった。十字架の裏には「聖年」が行われた年と、その時代の教皇の名前が彫られている。教皇は同教会で、ローマを「大ペスト」から救ったという「奇跡の十字架」を見上げ、祈りを捧げられた。この2つの教会への訪問を通して、教皇はイタリアをはじめ世界で拡大する新型コロナウイルス感染症の収束と患者たちの回復、また亡くなった方々の冥福と親しい人々への慰めを祈られた。教皇の祈りは、仕事を通して社会のために奉仕する医療関係者、医師や看護師らにも向けられた。教皇は、この訪問後、バチカンに戻られた。

 

2020年03月18日

ニュース:東京五輪パラ、聖火採火式・引き継ぎ式…

古代オリンピック発祥の地ギリシャで東京2020オリンピック聖火リレー聖火採火式を開催

(2020年3月12日、Tokyo 2020 一部抜粋)

 

2020年3月12日(木)、古代オリンピック発祥の地ギリシャ・オリンピア市にある古代オリンピア競技場、ヘラ神殿において、東京2020オリンピック聖火リレー聖火採火式が開催されました。式典には公益財団法,人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(東京2020組織委員会)、国際オリンピック委員会(IOC)、ギリシャオリンピック委員会(HOC)が参加しました。ヘラ神殿では、古代の衣装に身を包んだ巫女(女優)が、凹面鏡で太陽光を集め採火。

 

ギリシャ国内聖火リレーの第1聖火ランナーは、ギリシャ人でリオデジャネイロ2016オリンピックの射撃女子25mピストル個人で金メダルを獲得した、アンナ・コラカキ選手が務めました。アンナ・コラカキ選手から第2聖火ランナーとして聖火を引き継いだのは、アテネ2004オリンピックの女子マラソンで金メダルを獲得された野口みずきさん。東京2020オリンピック競技大会開催国の日本から日本人最初のランナーとして選出され、ギリシャの地を走りました。

 

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ギリシャの聖火リレー中止 新型コロナ対策で「必要な決断」―東京五輪

(2020年03月14日、Jijiドットコム、一部抜粋)

 

ギリシャ・オリンピック委員会(HOC)は13日、古代オリンピック発祥の地オリンピアで12日に始まった東京五輪の聖火リレーを中止した。AFP通信などによると、13日に同国南部スパルタで行われたリレーで沿道に人が殺到。新型コロナウイルスの感染予防のため、19日まで実施する予定だったギリシャ国内のリレーが取りやめとなった。

 

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アテネで聖火の引き継ぎ式 コロナで無観客、時間も短縮

(2020年3月19日、朝日新聞)

 

東京五輪の聖火の引き継ぎ式が19日、ギリシャ・アテネのパナシナイコスタジアムで開かれた。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて無観客にし、予定も1時間ほど短縮して約30分に。日本側も大会組織委員会の森喜朗会長、五輪3連覇の柔道の野村忠弘さん、レスリングの吉田沙保里さんは渡航を取りやめ、ビデオメッセージを送った。引き継ぎ式では、ギリシャの陸上女子棒高跳びの五輪覇者のエカテリニ・ステファニディ選手(30)が場内でリレーするなどした後、アテネ在住の元競泳五輪代表で、国連児童基金(ユニセフ)教育専門官の井本直歩子(なおこ)さん(43)が森会長の代役としてトーチを受け取り、火をランタンにともした。

 

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東京2020オリンピック聖火が日本に到着

(Olympic channel 2020 3. 20)

 

オリンピック聖火は、3月20日、宮城県の松島基地に大歓声の中で到着し、56年ぶりに日本へ戻ってきた。聖火を載せたチャーター機は、強い海風を受けながら予定より約90分早い午前9時36分に着陸した。ローズゴールドのランタンに格納された聖火は、共に3つの五輪金メダルを手にした吉田沙保里(レスリング)と野村忠宏(柔道)の両氏によって飛行機から運び出された。聖火を使って、吉田、野村の両氏はステージ上で聖火皿を点灯。頭上では航空自衛隊のブルーインパルスが赤、青、黄、緑、黒のオリンピックカラーによるパフォーマンスを繰り広げた。聖火は2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた宮城、岩手、福島の3県で5日間にわたり一般公開される。

 

2020年03月12日

原発:日本が原発大国になったワケ

東日本大震災から9年が経った2020年3月11日、日本の原発政策について改めて考えたいと思います。

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日本に原発を導入し、わが国を原発大国にした人物といえば、元読売新聞社主の正力松太郎氏と、昨年末に他界された中曽根康弘元首相の名前が真っ先にあげられます。当時の二人の関係は、正力氏の意向を、中曽根氏が実現させたと言えます。さらに正力氏を動かしたのがアメリカで、米政府―正力―中曽根の太いパイプが築かれていたのでした(以下、登場人物の敬称は略)。

 

 

  • 中曽根康弘という政治家

 

中曽根の功績は、国家予算に初の原子力研究費を実現させたことです。1954年3月、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程されました。両院議員総会において、科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円、ウラニウム資源調査費1500万円、計2億500万円の予算案提出の合意に達し、予算の名称は「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」とすることで採択されました。翌月、予算案が可決され、以後、巨額の税金が利権として吸い上げられる構造が確立していくことになったのでした

 

 

  • 正力松太郎という後ろ盾

 

当時の中曽根は、自民党内では、旧改進党系で、主流派の旧自由党系の代議士ではありませんでしたが、原子力予算の計上を一代議士で実現させることができたのはなぜでしょうか?中曽根を背後で支持(指示)していたのが読売新聞の社主・正力松太郎と言われています。原子力開発を訴え「原子力の父」と呼ばれた正力は、戦後、戦犯として訴追されましたが、戦犯訴追解除後、古巣の読売新聞社に復帰しました。その後、衆議院議員になり、日本テレビ放送網社長(1952~55)の地位を掴み、56年1月には、初代の原子力委員会委員長に、また同年5月、科学技術庁長官にも就任しました。

 

この正力松太郎は、正力が戦犯不起訴で巣鴨刑務所出獄後に、アメリカの諜報機関CIA(中央情報局)の工作に「協力」していたことが、米国立公文書記録管理局が公開した外交文書によって明らかになっています。50年代から60年代にかけて、CIA(中央情報局)は、公職復帰した政治家、右翼、反社会勢力の人物などを含めた日本の保守層に、資金援助する形で囲い込みました。アメリカの目的は、冷戦下にあった当時、日本の保守政権を安定させる(日本を共産化させない)こと、情報を提供させ日本の実態を把握すること、かつアメリカの対日政策を推進させることなどがあげられます。

 

55年の自由民主党(自民党)の結党においても、CIAの資金供与があったとされ、また、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力政治家に数百万ドルを提供していたという事実も、米国務省などの公開資料から明らかにされています。自民党という政党は、その誕生から「親米」政党であることが運命づけられていたのです。そうした、CIAとのつながりを取り沙汰されていた人物としては、戦前の特務機関を仕切っていたとされた「右翼のドン」、児玉誉士夫が有名ですが、読売の正力松太郎や元首相の岸信介も、CIAと取引した人物と目されています。

 

 

  • アメリカの原子力戦略

 

では、当時のアメリカの目論見とは何だったのでしょうか?アメリカは、1950年代に入り、原子力の発電利用に傾いていました。この背景には当時、核兵器はカネにならないことがわかったことがあげられます。核兵器は余りに残虐な兵器なので、戦争では使えない、輸出もできない、ソ連との軍拡競争で核兵器の数を増やしても「割に合わない」ことが明らかになったのです。そうなると、アメリカが先駆けた核の技術も不要になってしまう恐れがありました。また、大戦中に原爆開発に関わってきた何万人もの技術者の仕事を確保してあげなければなりませんでした。

 

そこで目につけたのが、原子力発電です。原発は「掘り尽くせぬ宝の山」と表現されるように、巨万の富を生み出すとされました。原子力エネルギーの原料であるウランは希少資源であることから高価で、また、取り扱いが極めて危険なため、新規の参入者も少なく独占化できるという特長があります。アメリカは、原子力という新しい産業を興し、外交においても強い地位を保ち続けようとしていたのです。

 

このために、アメリカは、「原子力の平和利用」の一大宣伝を始めます。1953年、アイゼンハワー大統領うは、国連総会で「平和のための原子力」政策を打ち出し、「核が生む莫大なエネルギーの平和利用のために技術供与をしよう」と呼びかけたのでした。1954年3月に、中曽根康弘が主導した初の原子力予算を上程し、実現させたというのは、このアメリカの政策の延長線上にあったと考えられます。

 

 

  • CIAと読売の情報操作

 

ただし、戦後、日本国民の核アレルギーは極めて強く、日本が原子力エネルギーを受け入れる見込みはないと見られていました。そこで、CIAは、日本に原子力を輸出することを可能にするために、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くための心理戦を繰り広げます。そこで利用されたのが、正力の読売新聞です。1955年1月、読売新聞は、アメリカの「平和のための原子力」プログラムをトップ記事で大々的に紹介し、放送やイベントを含む半年に渡る一大PR活動を開始したのです。奇しくも、その2年前にテレビ放送が開始されメディア力が最大限利用されました。

 

これが奏功したのか、翌1955年(昭和30年)には、原子力基本法が制定されました。日本の原子力の利用にむけて、国の諸政策の根拠となるこの法律には、原子力の研究・開発・利用を推進して将来に渡るエネルギー資源を確保すること、産業の振興に寄与すること、平和利用に徹することを、原子力利用の目的とすることなどが書き込まれました。

 

この基本法は自民党成立後、超党派の議員による議員立法で成立し、ほぼ全会一致で認められました。当時、自民党・社会党を問わず、「エネルギーは国家百年の計」で、原子力は、無資源国である日本の国力増進の重要な手段と認識されていました。革新派は、「無資源国の日本が資源を止められたことが無謀な戦争の一因になった」ことへの反省、保守派は、かつての米ソ冷戦構造下において「自衛のためなら核兵器を持てる」との発想で「日本の核武装化」への布石、または少なくとも「核兵器を持てる技術を維持する」という意図があったとされます。

 

正力松太郎は、56年1月に、初代の原子力委員会委員長に就任、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表するなど、原発推進政策を推し進めようとします。ただし、当時、科学者たちから核兵器への転用や技術的な不透明さを懸念する声が上がります。ある時、原子力委員会の委員だったノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」、「研究者が本当の基礎の基礎から積み上げていこう」と主張しました。これに対し、正力氏は「つくる技術がなかったら買ってくればいい」と反論し、米国からの技術導入を推進する委員会の方針を打ち出したのです。湯川博士は、これに反対して委員を辞任しました。

 

こうして、日本は、アメリカと正力、中曽根の目論見通りに、原発を各地に建設していくことになったのでした。正力と中曽根は、政界における原発推進の両輪となって動き、正力松太郎は「原子力の父」と呼ばれるようになり、中曽根康弘は、1959年に科学技術庁長官に就任、1982年には総理の座まで射止めます。

 

 

  • 田中角栄と原発

 

一方、原子力発電所の誘致を、土建屋的な見地で利益誘導したのが田中角栄元首相と言われています。地元の新潟に柏崎刈羽原発を誘致する際、田中は土地取引で4億円の利益を上げたそうです。1974年に制定された電源三法(電源開発促進税法、特別会計に関する法律、発電用施設周辺地域整備法)の仕組みを作ったのも、田中角栄と言われています。これは、地域住民の福祉向上と称して、発電用施設周辺の公共施設整備を行い、原発立地の地元にカネを還元することで、発電用施設の立地を促進するもので、原発利権という言葉も生まれました。

 

原子力発電所1基あたりの建設費用は、5000億円以上とされ、政治家にとっては巨大な公共事業となり、原発を地元に誘致すれば、多額の交付金が入って来るし、ゼネコンや地元の土建業者など一部の人たちに大きな利益をもたらし、それがそのまま選挙における票田になるというわけです。

 

 

  • 原発大国の虚像

 

こうして、’70年代、石油ショックを経て、「資源のない日本における原子力の平和利用』は、国是となり、政官民が一体となって原発を推進していくことになったのでした。東日本大震災前まで、日本国内で稼動している原子炉は、54基に及び、世界で第3位の「原発大国」となりました。自民党政府、官僚機構と電力会社は、一体となって「原子力は日本に必要不可欠だ」とのキャンペーンを数十年にわたって繰り返した結果です。安全性に関しても、「原子力発電は、絶対に必要である」、「だから原子力発電は、絶対に安全だということにしなければならない」というロジックが成り立っていたそうです。

 

東日本大震災から9年、原発の是非についての議論はもはや消えてしまった感がありますが、感染症の問題とともに国民の安全と健康の観点から改めて問われるべきではないでしょうか?

 

 

<参考>

原子力特集 原発マネーに群がった政治家・学者・マスコミ

(週刊現代,、2011.5月16日)

1950年制定の原子力基本法、中曽根康弘演説を読み返す

(2013年10月28日GEPR)

戦後史の歩き方(2)核を求めた被爆国・日本

(2013年5月20日、日経)

日本の原発導入の歴史1 -事実が隠される構造

(週刊ポスト2017年2月10日号)

Wikioediaなど

2020年03月11日

ニュース:東日本大震災から9年

東日本大震災から9年 4万8000人近くが今も避難生活

(2020年3月11日、NHK News Web)

 

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から11日で9年です。今も福島県の住民を中心に4万8000人近くが避難生活を余儀なくされています。また災害公営住宅の建設など住まいの復興事業がほぼ完了した一方、震災前と比べて人口が減少し、暮らし向きや地域のつながりについて「復興した」という実感は乏しいままです。

 

9年前の平成23年3月11日午後2時46分ごろ、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北や関東の沿岸に高さ10メートルを超える津波が押し寄せました。これまでに確認された死者と行方不明者は1万8428人、また避難生活などで亡くなった「震災関連死」は3700人以上で、「関連死」を含めた死者と行方不明者は2万2000人を超えています。

 

政府が「復興・創生期間」と位置づけた震災10年まで残り1年となる中、住まいの復興事業はほぼ完了し、ことし1月末までに自宅を失った人などが入る「災害公営住宅」は、計画の99.7%に当たる2万9555戸が完成し、高台への移転や地盤のかさ上げ工事で完成した宅地は、合わせて1万8053戸と計画の99%に達しました。

 

人口減少に歯止めかからず

一方、避難を余儀なくされている人は、復興庁の先月時点のまとめで全国で4万7737人に上っていて、このうち県外で避難生活を送っている人は福島県からが3万914人と全体のおよそ65%を占めています。また、被災地では人口減少に歯止めがかからず、NHKが国勢調査をもとにした自治体のデータを使い、先月1日までの人口の増減をまとめたところ、岩手、宮城、福島の35の自治体のうち、震災前と比べて10%以上人口が減った自治体は23と6割以上に上っています。

 

復興実感乏しいまま

被災地の現在の復興の姿についてNHKが岩手・宮城・福島の被災者に行ったアンケートでは「思い描いていたより悪い」が49%と半数近くを占めています。これらの人に分野ごとの復興実感を尋ねたところ、地域経済は10%に届かず、暮らし向きと地域のつながりは、いずれも20%以下にとどまる結果となりました。

 

福島第一原発 廃炉作業引き続き難しく

一方、9年前の3月11日、10メートルを超える巨大津波によって電源を喪失し、その後、3基の原子炉が次々にメルトダウンを起こす世界最悪レベルの事故に至った福島第一原発では、40年に及ぶとされる廃炉作業の工程のおよそ4分の1の期間がすぎました。

 

現場では多量の「放射性物質」の存在が引き続き作業を難しくしています。その大きな課題の1つは原子炉の下などに溶け落ちた核燃料を水を注入して冷やしているため、今も毎日、放射性物質を含んだ170トン前後の汚染水が発生していることです。汚染水は回収され放射性物質を取り除く処理をしていますが、除去が難しいトリチウムなど一部の放射性物質が残ってしまうため、現在およそ1000基のタンクにおよそ120万トンが保管されています。

 

東京電力は現状の計画では2022年夏ごろにはすべてのタンクが満杯になるとしています。この水に関して、経済産業省の小委員会は「基準以下に薄めて海か大気に放出する方法が現実的で、海のほうがより確実に実施できる」などとする報告書を先月政府に提出しましたが、地元関係者などから風評被害を心配するさまざまな声が上がっています。最終的にどう処分をするか方針を決めるのは政府ですが、今後どのような形で意見の集約を図っていくのか、大きな注目が集まっています。

 

もう1つ廃炉作業に立ちはだかる課題は、溶け落ちた核燃料、いわゆる「燃料デブリ」の取り出しです。1号機から3号機の原子炉の中や原子炉を納める原子炉格納容器の中に溶け落ちているとみられ、3基の合計は880トンと推定されています。このうち調査が最も進んでいるのは2号機で、去年、遠隔操作のロボットでデブリと見られる堆積物をつかむことに成功しました。こうしたことから、2号機はいよいよ来年、取り出しを始める予定です。

 

しかし、堆積物を確認した周辺の放射線量は1時間当たり6シーベルトを超えていて、1時間ほどその場所にとどまると死に至るほどのレベルです。このため作業は「遠隔操作」によるロボットを使った極めて難しいもので、最初の取り出し量も「数グラム程度」の予定です。東京電力などは段階的に取り出しの規模を拡大していくとしていますが、新しい技術開発も必要となり、廃炉作業はこれからより難しい段階を迎えるといえます。

 

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