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2020年12月10日

憲法:24条(両性の平等)はいかにしてできたか?

前回の投稿「まじめな解説 婚姻の自由と両性の平等」で、憲法24条の解説をしました。今回は他の条文同様、その成り立ちをみていきます。

―――

 

日本国憲法第24

(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)

 

  1. 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
  2. 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

戦前の日本において、本人が意図しなくても、親や「家」が結婚を決めるということは普通でした。また、民法においては、嫡男(長男)が、財産などを単独承継するという家督相続(長子相続)が基本あり、妻から離婚を申し込めない、父のみが親権を行使できるといった家父長的な規定が数多く制定されていました。当然、帝国憲法(明治憲法)では、本条のような両性の平等について規定した条文はありませんでした。

 

ですから、GHQ(連合国軍総司令部)は、こうした家族主義的な男尊女卑の慣行を問題視し、明治憲法下の日本に貫かれた、封建制の象徴である「家」制度を解体させようと、日本国憲法第24条を書かせたと広く信じられています。

 

実際、24条で「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」が定められたと言っても、婚姻と夫婦間の平等についての規定で、そこには、親兄弟姉妹、祖父母については一言も触れられていません。親子よりも夫婦の関係を重視するアメリカの影響を受けことは十分考えられることではあります。

 

いずれにしても、マッカーサーの指示で、GHQが10日程度で書き上げた帝国憲法改正案(GHQ案)は、他の条文の試案よりもかなりの長文になっていました。

 

GHQ(総司令部)案

家族は人類社会の基底にして、その伝統は善かれ悪しかれ国民に浸透す。婚姻は男女両性の法律上および社会上の争うべからざる平等の上に存し、両親の強要の代わりに、相互同意の上に基礎づけられ、かつ男性支配の代りに協力により維持せらるべし。

 

これらの原則に反する諸法律は廃止せられ配偶の選択、財産権、相続、住所の選定、離婚ならびに婚姻および家族に関するその他の事項を個人の威厳及両性の本質的平等に立脚する他の法律を以ってこれに代わるべし

 

ところで、マッカーサーが、ホイットニーGHQ民政局長に、日本国憲法の草案作成を命じた際、実務責任者(キャップ)となったケーディス陸軍大佐が、テーマ毎に8つの小委員会に分けて担当させました(詳細については「日本国憲法は9日間で書かれた?」参照)。

 

このうち、「人権に関する委員会」に所属し、現在の日本国憲法第24条の条文起草に尽力したのが、当時22歳のベアテ・シロタという女性で、当時、日本語をしゃべれた数少ないGHQスタッフでした。

 

父親の仕事の関係で、5歳から15歳までを日本で過ごしたシロタさんは、日本では女性の地位が低いことを肌で感じた体験から、女性の権利の充実を意識したそうです。特に、日本において、女性は好きでもない人と結婚させられていることにショックを受けたと後に述懐しています。そこでシロタさんは、両性の平等、相互の合意に基づく結婚、両性の協力、非嫡出子や養子の権利などを、GHQ案に盛り込んだのでした。

 

さて、日本国憲法の制定においては、GHQ(総司令部)案を基に、日本側も修正案を出すことが認められておりましたが、「三月二日案」と呼ばれた日本側の草案では、シロタさんが書いた家族に関する部分の多くを削除したものになっていました。

 

「三月二日案」

婚姻は男女相互の合意に基づきてのみ成立し、かつ夫婦が同等の権利を有することを基本とし相互の協力により維持せらるべきものとする。

 

日本側の修正説明では、GHQ案の「善かれ悪しかれ~」の文言は、日本の法文に合わないことや、文章が事実の叙述で特別の法的意味がない、内容的にも日本の歴史や文化に合致しないなどという理由をあげたとされています。

しかし、その後の日本側との折衝において、ケーディスは、削除された部分を整理する形で復活させることを「提案」(実際は「要求」)し、正式な帝国憲法改正案として、議会に提出されました。

 

帝国憲法改正案

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

議会では、一部の保守層が、GHQ案で引用された「両性の平等」という表現も復活したことを問題しました。保守層は「両性の平等」はマルクス用語であるとしてその使用を嫌ったのです。実際、両性の平等に関する規定は、最初の社会主義国の憲法(1936年制定のスターリン憲法)でも書かれていました。

 

スターリン憲法(第122条)

ソ同盟における婦人は,経済的,国家的,文化的および社会的・政治的生活のすべての分野において,男子と平等の権利を与えられる。(後略)

 

しかし、結局、改正案は、そのまま無修正で議会を通過し、日本国憲法第24条となりました。

 

なお、世界で最も民主的な憲法と言われたドイツのワイマール憲法にも「両性の平等」についての記載があります。

 

ワイマール憲法第119条

婚姻は、家族生活および国民の維持・増殖の基礎として、憲法の特別の保護を受ける。婚姻は、両性の同権を基礎とする。(後略)

 

 

2020年12月08日

日本国憲法:まじめな解説 婚姻の自由と両性の平等(24条)

秋篠宮さまは、11月、長女・眞子さまと小室圭さん(29)の結婚について、憲法第24条に言及され、「(結婚については)本当にしっかりした確固たる意志があれば、それを尊重するべきだと私は思います」として、お二人のご結婚を認める発言をされました。今回は、憲法24条をとりあげます。

―――

 

第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)

  1. 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
  2. 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

24条には、「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」という「見出し」がつけられる場合があります。ただ、文言通りに解釈すれば、婚姻の自由と夫婦同等の権利を謳い、これが法律にも反映されることが求められています。ですから、24条は、親兄弟姉妹、祖父母を含めた家族制度全体というよりも、婚姻と夫婦間の平等について定めた条項と言えます。

 

第1項では、「結婚は男女の合意だけで成立する」と婚姻の自由を規定した上で、「夫婦が同等の権利を持っていることを基本に、互いに協力しながら、夫婦の関係を維持しなければならない」と、婚姻関係における男女平等を定めています。

 

「婚姻は、両性の合意のみ」という部分は、結婚を親や「家」が結婚を決めるのではなく、本人たちの意思で決めるということを強調したものだとされています。これは、戦前、本人が意図しなくても、親や「家」が結婚が決まることも多くあったことを受けたものです。

 

 

第2項では、結婚相手の選択、財産権、相続、結婚や離婚など家族に関する事柄について、憲法の権利を具体化する法律(民法など)においても、夫婦に差はなく平等、対等であることを基本として制定されなかればならないと述べ、「夫婦に差はなく対等」であることが念押しされています。

 

戦前の民法において、嫡男(長男)が、財産などを単独承継するという家督相続(長子相続)が基本でした。また、妻から離婚を申し込めない、父のみが親権を行使できるといった規定がありました。しかし、日本国憲法制定後に改正された民法では、例えば、民法では、これらの男性優位の旧制度を廃止し、両性の本質的平等の理念に忠実な制度に変わりました。

 

こうした点から、24条は、憲法の基本理念である個人の尊厳(13条)や、「法の下の平等」(14条)の理念を、夫婦間、家庭生活にも浸透させ、男女平等の社会を実現することを目指す条文であると解されています。

 

では、秋篠宮家の眞子さまのご結婚に関しては、憲法学上、「人権の享有主体」の問題がでてきます。憲法の規定は、日本国民に与えられた権利であって、天皇・皇族には一定の制約がかかるという考え方です。ですから、眞子さまのご結婚も、憲法24条の「婚姻の自由」を根拠に当然、認められるべきとは完全には言い切れないのが現状です。実際、自民党の伊吹文明元衆院議長は、「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、……法律的には日本国民ではあられない」と発言しています。

 

一方、日本の社会に目を向ければ、現在、男女の不平等は徐々に改善され、24条が規定する夫婦間の平等の理念は定着しつつあるようです。ただし、本条を巡っては、同性婚や選択的夫婦別姓(氏)制の問題などがでてきています。また、古き良き意味での家庭の絆を憲法にも反映させたいとする声もあります。

 

同性婚は認められるか?

日本では、24条一項前半の「婚姻は両性の合意にのみ基づいて成立」との規定から、同性婚は認められていないと解されています。なぜなら、本条の「両性」は男女を意味すると解釈されているからです。もっとも、民法上の規定において同性カップルを「特別配偶者」とすることで、現行憲法のままでも同性婚が認められるとする立場もあります。

 

 夫婦別姓は認められるか?

旧民法では「結婚は妻が夫の家に入る」という伝統的な考え方を反映して、「妻が夫の氏を称する」と定められていました。これに対して、国憲法制定後に改正された現在の民法(第750条)では、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とする「夫婦同氏の原則」が規定されています。

 

しかし、女性の社会進出が目覚ましい今日、改姓(氏)によって女性が社会的な不便や不利益を被る場合があるとして、結婚の際に、女性が望む場合には結婚後も旧姓を使うことを認める選択的夫婦別姓制度の採用を求める声が上がっています。しかし、法律(第750条)の文言上は、「夫婦協議が認められている」として、一般には、「夫婦同氏の原則」が平等原則違反とは解されていません。実際、2015年12月、最高裁は「夫婦同姓」は合憲との判断を示しています。

 

保守層の主張

 

一方、保守層からは、「家族」よりも「個人」に重きを置きつつ、「両性の平等」を定めた24条については根強い批判が出されています。彼らにとっての伝統的な日本の夫婦、家族の在り方とは、和と相互の思いやりを重んじた関係です。ですから、第24条が、女性の権利を擁護しているように見えるものの、その実態は、夫婦や家族、男女の対立を加速させ、離婚の増加、家族の破壊につながっていると考えるのです。

 

そこで、保守派など改憲を望む人々は、「家族は助け合う」というような「家族の絆」を憲法の条文に取り入れるべきだという主張もなされています。実際、現憲法には、24条にあるように婚姻について定めた条項はありますが、家族について規定した条項はありません。そこで、かつて自民党は、改憲案に「家族は互いに助け合わなければならない」という文言を加えることを提起しました。しかし、憲法で国民に新たな義務を課すのは、国民の人権を守るという憲法の目的から外れるとの指摘も聞かれています。

 

2020年12月06日

仏教:原始仏教から部派仏教へ

皆さんは、釈迦が開いた仏教が、後に小乗仏教と大乗仏教とに分かれていったことはご存知だと思いますが、今回は、釈迦の死後、仏教が2つに分裂するまでの仏教についてまとめてみました。

 

以下の投稿を合わせて読んでいただくとさらに理解が深まると思います。

釈迦の一生と仏教の始まり

釈迦は何を教えたか

―――

 

<初期仏教教団の創設>

 

仏教は、前5世紀頃、ガウタマ=シッダールタ(仏陀、釈迦)が、ガンジス川中流のマガダの地で、自ら悟ったことを人々に説いていったことに始まります。

 

ブッタ(仏陀=仏):悟りを開いた人の呼称

釈迦=釈迦牟尼:仏陀となったシッダールタに対する敬称

(出家修行者のことを比丘、比丘尼という)

 

仏教は、クシャトリヤ(武人・貴族層)やヴァイシャ(手工業者・農民層)など幅広い層に受け入れられていきました。すると、その教えを信じた人々の中から出家し、釈迦の弟子となる者たちが多く現れるようになると、仏教教団(サンガ)が作られました。サンガが初期仏教教団の原型です。彼らは一ヶ所に定住することなく、釈迦から教えを受けつつ、普段は旅をして村々こを歩きながら、托鉢をしたり、樹下で瞑想をするなど修業に励んでいました。

 

こうした弟子たちの中には、修行によって、阿羅漢(アラカン)という域に到達する優秀な者も輩出されるようになりました。阿羅漢(羅漢ともいう)とは、「アルハット」という古代インド語を音写した言葉で、「…するに値する人」という直訳から転じて、「悟りを得て尊敬するに値する人」という意味に使われれました。俗にいう聖者であり、長老、高僧で、中でも、「十大弟子」「十六羅漢」などと呼ばれた弟子たちが有名です。

 

 

<十大弟子>

 

■舎利弗(しゃりほつ)(サーリプッタ)(シャーリプトラ)

 

舎利弗は、同じ十大弟子で子供の頃からの友人であった目連と共に、それまで修行していた自由思想家サンジャヤの信徒250人を引き連れて釈迦の弟子になり、教団教団の上首となりました。

 

「智慧」に秀で(「智慧第一」と賞された)、その智慧によって多くの人に仏教を伝え、コーサラ国の富豪、須逹多(シュダッタ)と共に、祇園精舎を建立したことでも知られています。「般若心経」や「阿弥陀経」など多くの経典で、観音菩薩や仏の説法の相手として登場します。舎利弗は病気でお釈迦様より先に亡くなっています。

 

 

■目連(もくれん)(モッガラーナ)

摩訶目犍連(まかもっけんれん)

(パーリマハーモッガラーナ)、(マハーマゥドガリヤーヤナ)

 

目連は、未来や過去を知りことができるといったあらゆる超人的な神通力を身につけていいたとされています(ゆえに「神通第一」と賞された)。この能力により、地獄で苦しむ母の姿を知り、救うために供養をしたという逸話も残されています(これが「お盆」の起源となったという説になる)。

 

目連は、釈迦の護衛をしていたとされ、死因も釈迦を殺害しようとした外道によって撲殺されたと伝えられています。この時、自分の命を狙われたことは、自らの過去世の「業」が原因であると知り、最後は自らの意志で神通力を封じ、死を持って「業」を果たした言われています。

 

 

■摩訶迦葉(まかかしょう)

大迦葉(だいかしょう)、迦葉(かしょう)

(マハーカッサパ、マハー・カーシャン)

 

摩訶迦葉は、十大弟子の中で一番の長老で、釈迦の弟子となったときには、すでに悟りに近い域に達しており、弟子入りして八日目には阿羅漢となっていたと言われています。大富豪の家に生まれた摩訶迦葉でしたが、清廉潔白で非常な厳格さをもって生き抜いたことで知られ、少欲知足を意味する「頭陀(ずだ)第一」と賞されました。

 

釈迦生存中は、山林にこもり、自らの修行に没頭していましたが、釈迦の亡き後は、教団の指導的役割を担い、釈迦の教法を編集する結集(経典編纂会議)の座長を務めました。今に仏教が残っているのは、この時の迦葉の尽力によるとされています。

 

 

須菩提(しゅぼだい)(スブーティ)

 

「諸法皆空(あらゆるものは空であり実体がない)」という真理を、誰よりもよく理解したことから「解空第一」と称されました。解空(げくう)とは文字通り、「空」を良く理解しているという意味です。また、他人と争わないことから「無諍(むそう)第一」、さらに、多くの人々から尊敬され供養を受けたことから「被供養第一」とも賞されました。須菩提は、お釈迦様に祇園精舎を寄進した須達多(すだった)長者の甥といわれています。

 

 

■富楼那(ふるな)

富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)

(プンナ・マンターニープッタ、プールナ・マイトラーヤニープトラ)

 

富楼那は、釈迦が悟りを開いて初めての説法(初転法輪)後の第一の弟子で、十大弟子の中では一番早く弟子となった人です。大変な雄弁家で、他の弟子より説法が優れ(「説法第一」と賞された)、60種類の言語にも通じていたといわれます。インド西方の伝道を釈尊から許可されるなど、さわやか弁舌と解りやすい説教で人々を仏の道へと導き、仏教興隆の大きな柱となりました。なお、富楼那と呼ばれた人は複数いたといわれます。

 

 

■迦旃延(かせんねん)

摩訶迦旃延(まかかせんねん)(マハーカッチャーナ)、(マハーカートゥヤーヤナ)

 

迦旃延は、論義の人(「論議第一」)と賞され、釈迦の教えを良く理解し、詳細に解説する第一人者と言われています。西インドのアバンティ国出身の迦旃延は、釈迦に出会う前に仕えていたとも言われる国王を仏教に導いています。

 

 

■阿那律(あなりつ)(アヌルッダ、アニルッダ)

 

釈迦の従弟。釈迦の説法中に居眠りをして叱責をうけた阿那律(あなりつ)は、自らの行いを恥じ、眠らぬ誓いをたて、不眠・不臥の修行をした結果、視力を失ってしまいました。しかし、そのためにかえって、天眼(何でも見通す真理を見る眼)を得、「天眼第一」と仰がれるようになりました。

 

 

■優波離(うばり)(ウパーリ)

 

優波離は理髪師で、釈迦の髪を剃ったことがきっかけで弟子となりました。インドの階級制度において最下位の身分(カースト)に生まれながら、釈尊の教団の中で、高弟として活躍しました。とりわけ戒律に精通し、戒律の第一人者となりました(「戒律第一」と賞された)。釈迦の後、経典を編纂する結集において、戒律部門の編集の中心人物として活躍しています。

 

 

羅睺羅(らごら)(ラーフラ)

 

羅睺羅は、釈迦の実子で、釈迦の出家直前に生まれました。釈迦が悟りを得て帰郷した時、12歳になった羅喉羅は出家して、初の沙弥(少年僧)となりました。戒律の微細な規則まで厳密に守り「密行」を完成させ、「密行第一」と賞されました。密行とは緻密、厳密、手抜かりのないことをいいます。

 

 

阿難(あなん)

阿難陀(あなんだ)、(アーナンダ)

 

釈迦の従弟であった阿難は、阿那律(あなりつ)とともに出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人(従者)として仕えていました。釈迦の秘書的役割を勤めていたため、説法を最も多く聴聞することができ、「多聞第一」と称されていました。経典の編纂(結集)の時には、記憶力に優れた阿難の記憶に基づいて、お経が編纂されていったと評されています。

 

なお、十六羅漢と呼ばれる高僧たちもいました。その中には、須菩(しゅぼだい)(スブーティ)、富楼那(ふるな)(プンナ・マンターニープッタ)、優波離(うばり)(ウパーリ)を除く、七人の十大弟子を含む16人を指摘する経典もあれば、他の教典では、十大弟子とは異なる16人の名前があげられたりしています。

 

いずれにしても、こうした阿羅漢(長老)たちは、最高の悟りを得られて後、各々各地へ伝導の旅を続けていきました。釈迦の弟子が増えて、直接、釈迦に教えを受けられないようになると、それぞれの専門分野に優れた長老(高僧)について教わるようになっていきました。釈迦入滅後も、布教に尽力した十大弟子や十六羅漢らがいたからこそ、その後の仏教の興隆につながったと言われています。

 

 

<釈迦入滅>

 

釈迦が亡くなったのは、日本では一般に紀元前383年頃とされています(ただ、釈迦の生没年には諸説があり、前565年~前486年説、前465年~前386年説などが有力視されている)。ブッダの死後も、仏教はインド各地で布教され、マウリヤ朝(BC317~BC180年頃)の保護のもとで全インドに広がりました。仏教団にあって、釈迦の十大弟子で一番の長老であった摩訶迦葉(まかかしょう)(マハーカッサパ)が、釈迦に代わって教団を統率していました。

 

師の教えが散逸してしまうことを懸念した迦葉(かしょう)は、その教えを正しく継承していくために、阿羅漢の悟りを得た五百人の長老(高弟)をラジギールの七葉窟(しちようくつ)に集まるよう呼びかけ、釈迦の教え(お経と戒律)を整理して体系化することにしました。これは、いわば経典の編集会議(これを「結集」という)で、釈迦の生前と同様の僧団の維持が期されたといえます。ちなみに、この時集まった500人の弟子達は五百羅漢と呼ばれています。

 

この会議で、お経については、「多聞第一」のアーナンダ(阿難)長老が代表して唱え、また、戒律(律)については、持戒堅固なウパーリ(優波離長老が釈迦の言葉を述べ、それをみんなで確認し合い、編集されました。こうして、釈迦の教えが整理、体系化され、初めて経典(釈迦の教えを集大成した聖典)が成立したのです。

 

ただし、経典と言っても、文字にされたのは、最初の教典編集会議から、かなり後代であり、それまでは記憶され口から口への伝承でした。しかし、紀元前1世紀頃(BC35-32年)、スリランカで、口伝えされた釈迦の教えが、紙代わりのシュロの葉(ヤシの葉)を用いて、鉄筆ではじめて文字として書かれました。これが現代に伝わる経典の写本としては最古のものとされ、釈迦入滅から400年から500年近くも経っていました。

 

ですから、このパーリ―語による経典を、2500年前の釈迦の肉声が蘇ったと評価する向きもあれば、原始仏典といえども、必ずしも釈迦の生の声による教えを網羅しえていないという見方もあります。いずれにしても、釈迦の説かれすべての教えは経典として文字化され、お経だけで、今日、一切経(いっさいきょう)七千余巻が書き残されています。

 

現在、最古層の原始仏典として、「阿含経」という経典の中の小部(クッダカ・ニカーヤ)の経典である「スッタニパータ」、「ダンマパダ」、「テーラガータ」などがあげられており、これらの教典は、釈迦の生の言葉が韻文として伝えられているのではと考えられています。

 

なお、釈迦の教えである経典は、真理を説き示した教理である「(お)」と、教団を運営するために必要な規則「」とに分かれます。また、釈迦の死後、弟子たちは師の教えをさまざまに研究し、解釈した解釈書を「」と言います。この「経」と「律」と「論」を合わせて「三蔵」と呼びます。

 

 

仏教団の分裂>

 

さて、話しを元に戻すと、マハーカッサパ(摩訶迦葉)長老、アーナンダ(阿難)長老、ウパーリ(優波離長老など釈迦の高弟たちの尽力で、釈迦入滅後も、釈迦の教えと僧団の護持が図れました。しかし、その成果も長くは続かず、僧侶は、お金を布施として受け取ってもよい(当時はお金にさわることも禁止されていた)、正午までと決められた食事の時間を少しのばす、といった戒律上の変革を求める人たちが現れました。やがて、仏教団の中で、そうした改革派と呼ばれる人たちに対して、今まで通り伝統を継承しようとする保守派とに分かれて対立するようになりました。

 

保守派の上座に座る長老たちは、700人の僧侶をヴァイシャーリーに結集し、再度仏典の編集会議(第2回結集)を開いて、釈迦の時代に守られていた規則を時代に合わせて修正していくかどうかについて、話し合いました。結果は、修正せず、自分たちの主張を再確認しました。しかし、この会議に対抗し改革を求める僧侶たちが1万人近く集まり、それまでの僧団からの離脱を宣言してしまったのです。

 

こうして、釈迦の死去(仏滅)後、100年にして、仏教教団は、戒律の解釈の違いから、保守派の上座部と、改革派(進歩派)の大衆部との二つの分裂することになったのです(これを「根本分裂(こんぽんぶんれつ)」という)。

 

時は、仏教の拡大に貢献したマウリア朝のアショカ王(在位BC268~232)が即位する15年ほど前の出来事であったと推定されています。なお、原始仏教と呼ばれる仏教は、釈迦が亡くなられてから、この部派に分裂する前の、一つにまとまっていた仏教をいいます(釈迦の生きた時代を含める場合もある)。

 

その後も、釈迦の教えに対する解釈の違いなどから、上座部、大衆部それぞれの中でも分裂を繰り返し、最初の分裂からさらに100年の間に約20の部派(上座部が11部、大衆部が9部)が成立しました。この部派に分かれた時代の仏教を部派仏教と呼ばれます。部派仏教の時代は、釈迦 入滅後100年ごろから約300年の間、紀元前2世紀から1世紀頃までをいいます。

 

ただし、その時代の部派僧団は、あくまでも釈迦の教えや戒律の解釈に対する食い違いから生じた学派で、部派仏教の僧侶たちは皆、同じ袈裟衣を着て、ほとんど同じ様な戒律や実践方法を採っていました。(ゆえに一般の人々からみれば差異はわからなかったとされる)。

 

また、彼らは、釈迦の時代なら、樹下に自らの住まいを求め旅をして修行していましたが、部派に分かれた時代になると、アショーカ王など権力者の保護のもと、一人にひとつ部屋割りされた僧院の中で、規則正しい生活をしながら、厳しい戒律を守り、瞑想と思索、他派との論戦に明け暮れていました。そうすると、次第に民衆の悩みや苦しみを救済するという実践的な布教活動からは離れて行き、部派仏教は、学問的な研究を主体とする貴族仏教(学問仏教)になっていったと言われています。

 

一方、仏教そのものは、根本分裂の後(部派仏教の時代となる前)、インドを初めて統一したマウリア王朝のアショカ王によって、インド国内だけでなく、周辺の諸外国にまで宣布されていました。例えば、紀元前250-210年頃、アショーカ王の王子マヒンダ長老らが、上座部の仏教をスリランカにもたらしています。

 

 

<大乗仏教の成立>

 

しかし、そのマウリヤ朝も前180年ごろには滅亡し、その後、紀元前2世紀から、ギリシア系のバクトリア王国など、現在のアフガニスタン地方から、北西インドに進出してきました。ギリシャやペルシャなど西域からの侵入した外来民族は、誰をも許容する仏教の信仰を得ていくと同時に(西域の人々によるアジャンターの巨大石窟寺院の建設などが有名)、仏教側も、ギリシャのヘレニズム文化や、ゾロアスター教など西域の宗教の多大な影響を受けたと言われています。

 

ただ、この地域の民衆にとって、彼らは侵略者でもあり、生活そのものを脅かされる受難の日々が続きました。このような混乱した時代にあって、人々は僧侶たちの教えに聞き入り、沈思黙考する余裕はなく、むしろ、疲弊する多くの人々を救済し、心の安穏を見いだしてくれる新しい仏教の信仰を求めるようになりました。

 

こうした背景下、紀元前後、インド北西部の進歩派仏教信仰者の中から、広く衆生の救済をめざし、仏教を大衆のものにしようとする変革運動が起きてきました。これは、これまでの部派仏教が、出家による自己救済を主眼とし、民衆の信仰から離れてしまったことに対する批判でもありました。

 

この新しい仏教は、紀元後1世紀に成立し、中央アジアから北西インドにかけて支配したクシャーナ朝の保護を受けて盛んになり、自らを大乗仏教と称するようになりました。大乗(マハーヤーナ)とは「大きな乗り物」という意味で、釈迦の教えに従って出家して悟りをひらくことは、自分一人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという思想です。大乗の仏教徒は、上座部仏教に代表される部派仏教を、人を救済することの出来ない「小さな乗り物=小乗」であると非難し、小乗仏教と蔑称しました。彼らは、自分たちを大乗と名乗り、仏教をすべての人々のための教えとして捉え、民衆の救済を強調したのです。

 

このような考え方の違いは、根本分裂のきっかけとなった第2回結集(経典編集会議)の時に始まっていたとされていますが、1世紀頃になって、新たにインドを統一したクシャーナ朝から支持されたことを背景に、大乗仏教が成立することとなりました。仏教の中心もインドの北東から、西北地域に移っていきました。

 

これに対して、上座部仏教(部派仏教)側は、本来、仏陀の弟子となって出家するのは自分自身の煩悩を払い、解脱を求めるものであるとして、大乗仏教の思想を釈迦の教えを拡大解釈するものとして否定しました。日本は大乗仏教を受け入れた国なので、小乗仏教を否定的にとらえる見方が支配的で、こうした上座部仏教(小乗仏教)側の姿勢を批判し、当時の僧侶たちは僧院に閉じこもり、自分たちの修行や思索に耽るだけだった一様に解釈されています。

 

しかし、保守的・伝統的な上座部仏教(小乗仏教)の僧侶たちは、定住する場を得て、釈尊の教えを分類整理し、個々の概念の意味内容を吟味しながら、体系化していきました。こうした作業は、仏教を後世に残すためになくてはならないことでした。前述したように、「経」・「律」・「論」の「三蔵」がこうして集大成され、今日の仏教の礎が出来上がったとされています。「三蔵」がまとめられたのは、大乗の仏教者が、上座部(部派)仏教を「小乗」「小乗」と批判していた時代のことであり、大乗仏教の思想的探求が可能になったのも、上座部仏教の僧侶たちの努力のお陰です。

 

いずれにしても、1世紀以降、仏教は、大乗仏教と小乗仏教(部派仏教)に大きく二分されることになりました。今日スリランカを始めミャンマー、タイなど南方の各国で行われている仏教(南伝仏教)は、この上座部の仏教によって伝播されたものであり、大乗仏教は中央アジアを経て、北伝仏教として、中国、朝鮮、日本に伝えられることとなりました。次回は、大乗仏教についてまとめます。

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る

文化を築く施設 十大弟子 of 念仏宗 ナーランダ僧院

世界史の窓

Wikipediaなど

 

 

2020年12月01日

仏教:釈迦は何を教えたか?

前回の仏教に関する投稿では、釈迦の生誕から入滅までの過程で、仏教がいかに成立していったかを紹介しました。今回はそもそも釈迦が生きている間に何を教えたかついてまとめてみました。現在の仏教は難解な印象があるのですが、その創始者である釈迦の教えは意外とシンプルではなかったのかといつも思っていました。実際はどうだったでしょうか?

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  • 釈迦の悟り

 

以前の投稿(「釈迦の一生と仏教の始まり」)でも紹介したように、王子として何不自由なく生活していたシッダールタ(釈迦)が出家するきっかけとなったのは、城門をでて、病気や貧困に悩み、苦しみ、死んでいく人々を見たことであるとされています。

 

この時、シッダールタはこの娑婆(現実)の世界の「苦(苦しみ)」の原因は何か、そして、当時からインドで信じられていた輪廻(人は生死を繰り返すという考え方)を脱する、この場合、苦しみの連鎖をいかに絶つことができるかを智ろうとした(悟り)と解されています。

 

長い修業の後にシッダールタが悟ったことは、四諦(したい)の理で、さらに、苦の真因としての十二因縁(じゅうにいんねん)、苦から脱するための八正道(はっしょうどう)を顕(あきらか)かにしました。また、悟りを得れば日常的に求められる中道の精神と慈悲の心についても説きました。

 

釈迦の悟りの中核は、「四諦」といえ、四諦こそ釈迦が菩提樹の下で開かれた第一の悟りです。実際、釈迦(仏陀)が、入滅まで、衆生に終始一貫して説いたのが四諦の法門(仏教の教え)であったと言われています。釈迦は、この世にある四つの真理(四諦)を示しながら、八正道を歩むことで、私たちが持つ、生・老・病・死の苦しみから逃れ、現象へのとらわれから解脱した境地を説かれたのです。

 

四諦:苦しみとその原因および苦しみを滅する方法に関する4つの真理。

八正道:苦の原因を滅する8つの方法。

十二因縁:老死に至る苦の原因を12階段にわたって示した真理。

中道:両極端ではなくその中間的な生き方。

慈悲:生きとし生けるものに対して慈しむ心。

 

 

  • 四苦八苦

 

釈迦は、「実相(じっそう)をありのままに受け入れる事が苦を滅する第一歩である」と説かれたそうです。では、世の実相とは何でしょうか。釈迦は、人生はすべて苦である(一切皆苦)と教えました。「苦」は「思いどおりにならない」という意味で、生・老・老・死の4つの苦しみを「四苦」と定義づけられました。

 

(しょう):生きるということは苦である。

(ろう):老いていくことは苦である。

(びょう):病にかかることは苦である。

(し):死ぬということは苦である。

 

どのような境遇に生まれるか思い通りになりません。生まれれば、老いたくなくともいつかは老いてしまいます。また、病気になりたくなくてもいつかは病気になり、死にたくくなくともいつかは死なねばなりません。

 

また、四苦(生老病死)に以下の4つの苦を加えて、八苦という場合もあります。非常に苦労することを現在でも、四苦八苦(しくはっく)すると言いますね。

 

愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れる苦しみ

怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者と会う苦しみ

求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ

 

五蘊盛苦(ごうんじょうく)

人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)や心から生じる一切の苦痛や苦悩のこと、五陰盛苦(ごおんじょうく)、五取蘊苦(ごしゅおんく)ともいう。

 

 

  • 四諦(したい)

 

このような人生の苦しみを解決するために説かれたのが、苦、集、滅、道の四諦です。日本語では、四諦の「諦」は「あきらめる」という意味にとられますが、ここでは「真理」を意味します。四諦とは、苦しみとその原因、および苦しみを滅すること、その滅に至る方法に関する4つの真理をいいます。

 

苦諦(くたい)

人生はすべて苦しみに満ちている(四苦八苦)という真理。

 

集諦(じったい)

苦しみの原因は心の迷い、煩悩にあるという真理。煩悩とは、私たちを悩まし、苦しませ、誤った方向に導く不善の心のことをいい、克服すべき3つの煩悩として、(とん)・(じん)・(ち)があると説かれています。この3つの煩悩を毒に例えて三毒(人間の諸悪・苦しみの根源)といいます。

 

貪欲:むさぼること
瞋恚(しんい):憎み、怒ること
愚癡:無知でおろかなこと

 

集諦の「集」というのは「集起(しゅうき)」の略で「原因」という意味です。人生の苦しみにも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれを悟ることが求められます。不幸を呼び起こす苦しみの原因とは何かというと、必要以上にものごとを貪り求める渇愛(かつあい)にあると説かれています。釈迦も、もろもろの苦の原因は、自分の欲望にまかせて執著する貪欲(とんよく)であると述べているそうです。

 

滅諦(めったい)

煩悩を消すことで苦を取り除くことが出来るという真理。その方法が次の道諦で示されます。

 

道諦(どうたい)

正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理。苦を滅する道は苦から逃れようと努力することではなく、八正道という八つの徳目を実践することです。

 

 

  • 八正道

 

八正道(はっしょうどう)とは、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の8つの道のことをいいます。

 

正見(しょうけん)(正しく見る)
自己中心的な見方や、偏見を持たず、正しく物事を見ること

 

正思(しょうし)(正しく考える)

自己本位に偏らず、貪る心(貪欲)、怒る心、邪な心(愚痴)を捨て去り物事を考えること。

 

正語(しょうご)(正しく話し語る)

社会生活の上で、嘘、二枚舌、悪口、戯言を慎み、真理に合った言葉使いをすること。

 

正行(しょうぎょう)(正しく行動する)

殺生、盗み、淫行をせず、仏の戒めにかなった正しい行いをすること。

 

正命(しょうみょう)(正しく生活する)

人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけないこと。

 

正精進(しょうしょうじん)(正しく努力する)

自分の使命や目的に対して、怠りや脇道にそれたりしない一方、とらわれ過ぎたり偏ったりもせず、正しく励みこと。

 

正念(しょうねん)(正しく思いめぐらす)

自己本位によらず、ものごとの真実の実相を見極めることができるように、心を落ち着かせて正しく考える。

 

正定(しょうじょう)(正しく心を決定させる)

心が正しい状態に定まり、外部から迷わされないこと。

 

 

  • 三法印(四法印)

 

釈迦が悟った人生についての普遍的な真理として、三つの基本理念として、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静、」があります。これを、仏教の特徴をあらわす三つのしるしという意味で、三法印(さんほういん)と呼び、前述した「一切皆苦」を含めて、四法印(しほういん)ともいいます。

 

諸行無常
あらゆるものは絶えず変化してやまず、生滅変化する(生まれ、変化し、死ぬ)ことを言います。逆に言えば、この世に不変・常住なものはないということを意味します。

 

 

諸法無我

 

諸法無我とは、存在するすべてのものは無常であるから(諸行無常)、常に同一の状態を保ち、自らを統制できる力をもつ「我(アートマン)」は存在せず、無我であるという意味です。「自分の命もすべて自分のもののようであって自分のものでない」などと例えられ、無我は非我(我にあらず)に近いとされています。諸法無我の根底にある法門(仏教の教え)が、因縁を説いた「縁起の法」です(⇒十二因縁)(後述)。

 

 

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 

無常であり、無我であるのが、ものの真実の姿で、これを悟ることができれば、迷妄が消え、静かな安らぎの境地に入ることができるという、仏教の理想の境地を示したものです。反対に、諸行無常、諸法無我を悟ることができないところに苦が生じるということになります。

 

迷妄の消えた安らぎの境地とは、悟りの境地であり、涅槃(ねはん)の状態です。悟りとは、釈迦が瞑想の中で論理的に把握した真理であり、悟った釈迦は、瞑想の中で、依然として火のように燃え盛る、自らの心の中の執着や欲望と戦い、やがてその火を吹き消し、苦を離れた静寂な心境(涅槃の境地)を獲得したと伝えられています。

 

 

  • 縁起の法

 

この世に生れ出たものはなぜ無常の運命を免れられないのか(諸行無常)、またなぜいかなる存在も不変の本質を有しないのか(諸法無我)の答えが、縁起の法です。

 

縁起とは因縁生起(いんねんしょうき)の略で、一切の現象(ものごと)が生ずるには、かならず因(原因)と縁(条件)があると説かれます。例えば、お湯は、火という縁があって水からお湯になるといった具合いです。縁起の法は、「この世の全ての事に偶然は無く、全て必然である」、「全ての物事は縁で繋がっている」という考え方で、「人は善い行いをすると良い報いがあり、悪い行いをすると悪い報いがある」とする因果応報と言う言葉にも象徴されます。

 

釈迦は、すべての存在(諸法)の真実の姿(実相)を「縁起」に見出しました。ですから、一切の現象はこうした因縁の相互関係の上に成立しているから、「有我」や「不変」といったことはありえず、「無我」であり「無常」となるのです。

 

 

  • 十二因縁

 

また、「一切皆苦」の世界にあって、釈迦は、人間の苦しみや悩みがいかに成立するかを瞑想し、その原因が、無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)の12の項目にあると悟りました。これは後に「十二因縁(じゅうにいんねん)」と呼ばれるようになりました。

 

  1. 無明(むみょう)

「無明」とは、無知、間違った判断という意味です。人間の存在発生の時、人は無知であり、知恵がありません。すべてのものごとのあり方や、人生についての意義を知らず、また知ろうともしない状態が無明で、根本煩悩とされています。

 

  1. (ぎょう)

「行」とは、無明(無知)のために、真理に合わない行動をすることをさします。これには、自分の過去世や先祖の代から潜在的に影響を受けた無意識な行為も含みます。

 

  1. 識(しき)

「識」は、そうした無意識の行動(行為)が、習慣によって、次第に物事を知り分ける意識ができあがってくるというような、識別作用の働きをいいます。私達の「識」の中には、生と死を繰り返す輪廻(りんね)した魂の潜在意識の中にある前世の業(ごう)(=行い)も含まれています。

 

  1. 名色(みょうしき)

「名色」とは、不完全な識(しき)(=心身の作用)が除々に形を整え、自分の存在を意識するようになる状態のことを言います。「名色」の「名」は無形のもの(心や精神世界)をいい、「色」は有形のもの(肉体)を意味します。

 

  1. 六処(ろくしょ)

「六処」とは、名色が発達して得られた心身の六つの働きのことをいいます。それは、眼(げん)(視覚)・耳(に)(聴覚)・鼻(び)(嗅覚)・舌(ぜっ)(味覚)・身(しん)(触覚)の五感と、その五官を分別や区別する意(に)(心=知覚)の六根(ろっこん)をさします。人はこの段階の状態で、この世に生まれ出てくるとされています。

 

  1. (そく)

「触」とは、体の部分の五官(眼・耳・鼻・舌・身)と、心の部分の知覚(意)が発達した状態をいいます。これは、「名色」と「六処」が互いに影響しあって結果で、赤ちゃんが成長して両親を識別ができるように、人は、物事を見分け、判断できるようになります。

 

  1. (じゅ)

「受」とは、心に起こる最初の感情をいい、「触(心身)」の感覚が発達してくると、好き・嫌い・憂い・悲しみ・苦しみなどのような、さまざまの感情(「受」)が起こるようになります。人で言えば、6~7歳ごろを指します。ものの受け取り方や感じ方は、環境や価値観の違いから人によって異なりますが、これは過去の経験から生じてくると言われています。

 

  1. (あい)

「愛」とは、好きなものに心がとらわれることです。「受(好き、嫌い、苦楽の感情)」が起きてくると、ものごとに対して「愛着」が起きてきます。この「愛」は「渇愛」ともいわれ、異性に対する愛情と考えていいものです。だだし、この段階ではまだ無邪気な心の動きの状態だとされています。

 

  1. (しゅ)

「取」は、「愛」の感情が強くなって生じる所有欲や独占欲のことで、執着心と呼べるものです。反対に、嫌なものを遠ざけたい、逃げたいという心の働き「取」といえます。

 

  1. (う)

「有」とは、差別や区別する自己本位な心の状態のことで、「取(執着心)」の結果生じます。「有」が芽生えるのは、物事に対する考え方や判断が人それぞれ違ってくるからで、そうなると、意識に幸・不幸を感じるようになり、他人との不調和が発生し、人は憂・悲・苦に悩まされます。

 

  1. (しょう)

「生」とは、「有(差別心)」によって起きる対立や争いの結果生じる、苦しみの人生をいいます。この「生」は本人だけでなく、子々孫々にも影響を与えると考えられています。苦楽の意識は、業(ごう)(=行い)として、魂にすり込まれ、さらに次の世においても同じような意識で人生が展開されていきます。

 

12.老死(ろうし)

「老死」とは、人間はこの世に生を受ければ、やがて老いて死を迎えなければならない運命のことをいいます。

 

以上、十二因縁の教えは、「無明は行に縁たり」、すなわち「行というものは無明という縁を介して生じた…」式に、すべて縁起(原因と条件)の連鎖でつながっています(ゆえに十二因縁は十二縁起説ともいう)。

 

ここから、人間が苦の人生を送る状態は、「無明」を根本原因として、十二因縁のさまざまの段階においてその無知を深めた結果であるとされます。このように、十二因縁の法則を、「無明によって行あり、行によって識あり…」と、人間の存在発生から死にいたるまで、ものごとが縁により生じるものを順に観察し、苦の原因を追究することを「順観」と呼んでいます。

 

釈迦は、ブッダガヤーの菩提樹下において、この人生苦を消滅し、輪廻から解脱する為にはどうすればよいかをお考えになられました。この時、順観の発想を逆転させ、「無明滅すれば行滅す、行滅すれば識滅す…」と苦滅への方法を示す「逆観」をなされ、縁起を順と逆に観じて、悟りを開かれたと言われています。

 

十二縁起説は、人間は、無明に基づいて、間違った生き方をしてきたことに対して、根本原因である「無明」を滅し、正しい判断力を得ることによって、人生の苦しみに消え、正しい生き方ができることを教えています。「無明」をなくさない限り、親や先祖の「無明」が、子や孫へと受けつがれ、いつまでも、苦楽の意識を継続され、束縛やとらわれから逃れることはないと説かれています。

 

インドでは古代から、あらゆる生き物は、死んではまた別の存在に生まれ変わり、何度も生死を繰り返すという「輪廻(りんね)」または「輪廻転生(てんしょう)」が信じられてきました。この観点からも、「無明」をなくさない限り、いつまでも「苦」の輪廻を繰り返すことになってしまいます。

 

無明をなくすためには、釈迦の教えを学び智ることです。人生において、偏りのない中道の精神で、八正道の行いを積み重ねると、次の世では、環境の良い処へと生まれ変わり、よりよい人生を送ることができます。そうすると、最終的には、輪廻から脱出し(これを解脱という)、涅槃の状態(仏の境界)に到達できるとされています。

 

 

  • 慈悲

 

四諦、八正道、縁起など悟っていく過程で、さまざまな我執が取り除かれたとき、人は、周囲の人々やあらゆる生き物に対して慈悲の心が開花します。慈悲(じひ)とは、命あるものへの限りない慈しみの心をいいます。釈迦は、すべての命あるものに対して、慈悲の心を説きました。「慈」とは、あらゆるものを慈しみ、楽しみを与えること、「悲」は、命あるものの苦しみを悲しみ、その苦しみを取り除こうとする同情心です。

 

 

  • 平等

 

インドは、カースト制という身分制度が古代から採用されていましたが、釈迦は、身分制度を、修行僧の集まりである仏教教団内に持ち込みまず、また、バラモン教の聖典ヴェーダの権威や儀式を認めませんでした。この意味でも、釈迦は、儀礼や身分にとらわれることなく、皆平等に、悟りの道を示しました。釈迦にとっての理想の世界は、慈悲の心をもとに、すべての生きとし生けるものが平等に生きることであると解されています。

 

 

  • 無記(むき)

(釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたこと)

 

釈迦は、人生問題の解決とは無関係な、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無といった形而上学的問題について質問されても、沈黙を守ってあえて回答されませんでした。その一方で、釈迦は、バラモン教にもみられる神秘主義を克服し、正しい論理を身につけることも説かれています(のちの仏教哲学構築につながったとされる)。

 

 

<参照>

仏教ウェブ入門講座

仏様のお話し(養老山立國寺HP)

仏教とは?全日本仏教会

仏教のルーツを知る(小冊子「ダンマサーラ」)

初めての説法:サールナート

その18 初転法輪(最初の御説法) – お釈迦様のお話 –

仏様のお話し(養老山・立國寺HP)

仏様の世界(Flying Deity Tobifudo)

世界史の窓

Wikipediaなど

 

 

2020年11月28日

皇室:今上天皇、初めての「新嘗祭」

天皇陛下は、2020年11月23日、皇居の「神嘉殿」で、毎年の宮中祭祀で最も重要とされる「新嘗祭」に臨まれました。「新嘗祭」には、秋篠宮さまも、11月8日の「立皇嗣の礼」が終わったことを受けて、初めて「神嘉殿」の殿舎にあがり皇嗣として拝礼されました。今回は、この新嘗祭についてまとめました。
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<新嘗祭とは?>

 

新嘗祭(にいなめさい)は、五穀豊穣に感謝する宮中祭祀で、天皇がその年に収穫された五穀の新穀を、皇祖神・天照大御神をはじめとする天地の神々(天神地祇)(てんじんちぎ)に供えすすめ、自らも食されます。その上で、農作物の恵みと収穫に感謝し、翌年の豊作、ならびに国や国民の幸せを祈られます。

 

新嘗祭は、古くは「にひなへのまつり」と読みました。新嘗祭の「嘗」という漢字には、「なめる」「にえ」などと訓読されますが、「賞味する」という字義です。新嘗(にいなめ)とは、その年に収穫した新しい穀物で作った食事や酒を味わう(嘗める)ことで、その祭りを新嘗祭というのです。

 

新嘗祭は、律令制度のもと11月の2番目の卯の日に行われるものでしたので、本来は旧暦の11月、新暦ならば12月の冬至の頃の宮中祭祀(皇室行事)でした。しかし、明治の改暦以後、この新嘗祭は、現在も11月23日に行われています。

 

 

<新嘗祭の式次第>

新嘗祭は、11月22日から24日まで3日間行われます。

 

  • 鎮魂祭

 

宮中祭祀としての新嘗祭は、まず、前日11月22日の前夜に斎行される鎮魂祭(ちんこんさい)から始まります。鎮魂祭とは、新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式で、宮中三殿に近い「綾綺殿(りょうきでん)」で行われます(天皇に対する鎮魂の場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う)。

 

鎮魂祭は、天皇の魂を体内に安鎮させ、健康を祈ると同時に、神々に接する重大な祭事に臨む天皇の霊を「強化」するための儀式とされています。日本書記にも記載されていることから、古代からの宮中祭祀でした。なお、鎮魂祭は、宮中と同日に、石上神宮・彌彦神社・物部神社などの神社でも行われています。

 

新嘗祭そのものは、夕刻から深夜にかけて斎行される「夕の儀(ゆうのぎ)」と、深夜から明け方にかけて斎行される「暁の儀(あかつきのぎ)」から構成されている。

 

  • 夕の儀(ゆうのぎ)

 

夕刻の午後6時、天皇は、宮中三殿近くにある神嘉殿にお渡りになられ、外陣(げじん)の御座に著御されますが、この間、神饌(しんせん)(=神への供物)が運ばれ、神嘉殿に供えられます。これを「神饌行立の儀(しんせんぎょうりゅうのぎ)」といいます。このとき、お供えものとなる新穀は、各都道府県から2軒ずつ選ばれた農家で収穫された新米や麦、キビ、栗、豆などの五穀です。また、神饌(供物)には、陛下が自ら皇居で栽培した新米も含まれています。

 

天皇は、御座に著御されると、お手づから箸を取られて、お皿に調進した神饌をご自身で神々にお進めされ、お召しあがりいただきます。これを「御親供の儀(ごしんくのぎ)」といいます(御親供とは、天皇みずから神に供物を捧げること)。

 

御親供の後、天皇は、天照大御神や天神地祇(てんじんちぎ)といわれる天や地の神々にご拝礼され、五穀豊穣に対する感謝や国家と国民の平安への祈りを捧げられます。天神地祇へのご奉告が終わると、天皇は、皇祖への御告文(おつげぶみ)を奏されます。

 

その後、天皇は、神々にお供えした同じ神饌の米と粟との御飯、御酒を使った食事をお召しになられます。(これを「夕御饌の儀(ゆうみけのぎ)」という)。こうして、その日、御親祭(ごしんさい)を終えられた天皇は、神嘉殿を一旦御退出されます。

 

 

  • 暁の儀(あかつきのぎ)

 

続いて天皇は、深夜から明け方にかけて、「暁の儀」を御親祭されます。午前4時に再び神嘉殿に入り、「夕御饌(ゆうみけ)の儀」と同じように、神々と共食されながら、感謝を示されます(これを「朝御饌の儀(あさみけのぎ)」という)。なお、合計2回行われる「夕御饌(ゆうみけ)の儀」と「朝御饌(あさみけ)の儀」を「御直会の儀(おんなおらいのぎ)」といいます。

 

こうして、前夜からの「御直会の儀(おんなおらいのぎ)」が終わると、最期に、天皇は神々をお見送りされます。皇祖と食事を共にすることで神々をおもてなしされる「御直会の儀(おんなおらいのぎ)」は、新嘗祭の核心ともいうべき厳粛な儀式です。新嘗祭において、天皇は、夜を徹して最高の丁重さをもって神々をおもてなし(ご奉仕)されるのです。

 

 

<新嘗祭の歴史>

 

  • 神話の時代の新嘗祭

 

新嘗祭の由来は記・紀神話にまで遡ります。古事記によると、天照大御神(あまてらすおおみかみ)自らが、稲作を行い、収穫の後に感謝の心を捧げるお祭りを行っていたことが描かれています。

 

また、天上界である高天原(たかまのはら)を治められていた天照大御神が、地上の日本国を治めることを、孫にあたる「邇邇芸命(瓊瓊杵尊)(ににぎのみこと)」に任せることにした「天孫降臨」の神話によれば、天照大御神が、ニニギノミコト(天津彦火瓊瓊杵尊)の降臨に際して、「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂(ゆにわのいなほ)を以て、また吾が兒(みこ)にまかせまつるべし」との神勅を下し、斎庭の稲を授けています(「斎庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅」と呼ばれる)。

 

この神勅は、高天原で育てられていた稲穂を広げて(稲作を行い)、子孫を養い、国を繁栄させよというご命令でした。実際、ニニギノミコトが高千穂の地に降臨されて、初めて葦原中国(日本のこと)でも稲が栽培され、日本(豊葦原瑞穂国)でも農業が始まったとされています。日本人にとって稲は、太陽神「天照大御神様」からの贈り物であり、また「命の根」でもあるのですね。

 

また、歴代天皇の祖先であるニニギノミコトは、太陽神・天照大神から豊穣の力を受け継いで、地上の統治者となり、国作りを始められました。歴代の天皇は、そのニニギノミコト以来の豊穣の霊威を受け継いでいるとみなされました。ですから、歴代の天皇はこの天孫降臨の際の神勅(「斎庭稲穂(ゆにわのいなほ)の神勅」)を基に、五穀豊穣を神々に感謝する祭りとして新嘗祭が続けられていると解されています。

 

こうした神話や伝承を背景に、日本では、古来より五穀の収穫を祝う祭祀が行われており、新嘗祭の原型となる祭祀は、弥生時代にはすでにあったのではないかと見られています。文献上、一番古い歴史として出てくる最初の新嘗祭は、飛鳥時代の西暦642年12月12日、第35代の皇極天皇(在642年2月~645年7月)の時代に行われています。また、第40代の天武天皇(在673~686)の時にも、677年に宮中で新嘗祭が行われたという記録が残されています。

 

 

  • 近世期の新嘗祭

 

その後、新嘗祭は、皇位継承儀礼に組み込まれながら、宮中祭祀として続いていましたが、応仁の乱(1467~77)などによる朝廷の窮乏により、1463年以来長らく中断してしまいました。当時、102代の後花園天皇(1428~64)の時に行われた新嘗祭が当時、最後となった形です。

 

それでも、江戸の元禄時代の1688年、第113代の東山天皇(在1687~1709)の時、霊元上皇の強い意向により「新嘗御祈(おいのり)」という形の略式で、新嘗祭は再興されました。またこの時、現在の祭場である神嘉殿が当時なかっため、紫宸殿を代わりの祭場として使用されました。

 

次いで、第115代の桜町天皇(在1735年~1747年)の時代(1740年)に、略式ではなく元の形に復興し、さらに、第119代の光格天皇(1779~1817)の治世の1791年には内裏の造営に伴って神嘉殿が再建され、現在に至っています。もっとも、新嘗祭そのものは、東山天皇の代以降、毎年必ず行われており、新嘗祭再興の祖は東山天皇と言ってもよいと思われます。

 

 

  • 近代以降の新嘗祭

 

明治時代になり、1873年(明治6年)に太陽暦が採用されると、新嘗祭も、現在の11月23日に固定され、その日は国民の祭日に定められました。また、1908(明治41)年9月制定の「皇室祭祀令」で、新嘗祭は「大祭」に指定され、宮中祭祀(神祭)の中でも重要な祭り位置づけられました。

 

しかし、「皇室祭祀令」は戦後の1947年(昭和22年)5月に廃止され、それ以降現在まで、「皇室祭祀令」に則って新嘗祭が行われています。さらに、1948年(昭和23年)、「新嘗祭」は、「勤労感謝の日」と名称変更となりました。これは、戦後のGHQの占領政策の一環で、国民の意識から天皇の行事である新嘗祭を薄れさせようとしたと解されています。GHQは、天皇と国民の接点となる祝祭日の存在を危険視し、皇室祭祀との公的関係をなくそうとしたものと見られています。

 

勤労感謝の日の趣旨は、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」日となっています。それ自体に何の問題もないのですが、日本の歴史や文化の特質を知るためにも、もともとの新嘗祭の意味を多くの人々に理解しておいてもらいたいですね。

 

新嘗祭は、宮中だけでなく伊勢神宮や出雲大社をはじめ、全国各地の神社でも行われています。これは、新嘗祭が、天皇と国民が一体となって、毎日頂く食材となるもとの穀物など天地万物(自然や神々)がもたらす恩恵に対して感謝の祈りを捧げる機会であることを示しています。また、新嘗祭は、神話に遡るほど古い時代から神々や祖先と繋がるだけでなく、次の世代へ連綿と継承される機会を与えてくれています。

 

 

<祈年祭・大嘗祭・神嘗祭との違い>

新嘗祭とよく似たものに祈年祭や、神嘗祭や大嘗祭があります。

 

祈年祭(きねんさい、としごいのまつり)は、五穀豊穣を祈願して春先の2月17日に行われる宮中祭祀で、五穀豊穣に感謝する「収穫祭」としての意味も持つ新嘗祭とはセットとみなされます。

 

大嘗祭(だいじょうさい)は、新しい天皇が「即位の礼」の後に初めて行う新嘗祭のことをいいます(天皇が即位した最初の新嘗祭を大嘗祭と呼ぶ)。今上陛下は、2019年、即位に伴う一世に一度の伝統儀式として、初めての「新嘗祭」となる「大嘗祭」に臨まれました。

 

神嘗祭(かんなめさい)は、新嘗祭に先立つこと1ヶ月前10月の15~17日に行われ、皇祖(皇室の先祖)である天照大神を祀る伊勢神宮に、時の天皇がその年に収穫した穀物などを捧げ、遠く離れた宮中からこれを遥拝するという儀式です。

 

両者とも、五穀豊穣を神々に感謝を示す祭祀で、新穀を捧げるという点では同じですが、神嘗祭の五穀は天照大御神のみに供えるもので、新嘗祭は、天照大神だけでなく、天神地祇といわれる神々に供えます。さらに、大きな違いは、新嘗祭に場合、神々に供えるだけでなく、供え物を自ら行った天皇自身もこれを神々とともに食するということです。また、新嘗祭は宮中と全国の神社で行われますが、神嘗祭は、伊勢神宮と宮中で挙行されます。

 

 

<参照>

天皇陛下 「新嘗祭」に臨まれる(NHKニュースweb)

令和初の新嘗祭 五穀豊穣に感謝(FNNプライムオンライン)

新嘗祭(越前屋)

日本人なら知っておきたい「新嘗祭」の意味!令和最初の「大嘗祭」とは?

私の授業 古墳時代の信仰 (2)祈年祭と新嘗祭

「新嘗祭」 祝日の意義を考える(清水節、雑誌日本)

「新嘗祭」、天皇の宗教的権威の源泉(二)

新嘗祭はいつからいつまで?(Precious.jp編集部 )

Wikipediaなど

 

 

2020年11月25日

仏教:釈迦の一生と仏教の始まり

これまでの投稿では、キリスト教についてまとめてました。今回から仏教シリーズです。仏教というと、宗派がいくつもあって経典も難解な印象がありますが実際はどうなのでしょうか?キリスト教には、イエスの教えに戻ろうとする宗教改革がありました。仏教にはそうした歴史はありませんが、ここでは、そもそも釈尊が開いた仏教とはどうい教えだったのかというとろから始めてみたいと思います。まず、原始キリスト教ならぬ原始仏教の成り立ちを追ってみましょう。

――――

 

<お釈迦さまの名前>

 

仏教の開祖はといえば、お釈迦さまと答えるかもしれませんが、お釈迦さまの名前は、ゴータマ・シッダールタ(父親の氏姓がゴータマ、名はシッダールタ)です。シッダールタの漢訳が悉達多(シッダッタ)となります。

 

シッダールタは、修行によって悟りを開いた後、出身部族であるシャークヤ(釈迦)族の聖者(ムニ)という意味で「シャークヤ・ムニ(釈迦牟尼)」と呼ばれました(括弧は中国で音写された呼び方)。さらに、中国や日本では、「釈迦牟尼」が短縮されて、「釈迦」と呼ばれるようになりました。また、僧侶などが釈迦を指す時は、釈尊と呼びます。釈尊は釈迦牟尼世尊を略したものといわれます。世尊(せそん)とは、幸運・繁栄を有するものという意味で、仏(釈迦)の尊称です。

 

さらに、インドの言葉で、「(真理に)目覚めた人、(真理を)悟った人」のことを「ブッタ」といっています。つまり、悟りを開いたシッダールタ(釈迦)を「ブッタ」と呼ぶのです。仏はブッダの音写語で、中国では、漢字で「仏陀」と書きました。日本には、仏陀がそのまま伝わり、さらに上の1字の「仏」だけをとって「ほとけ(仏)」と呼ばれるようになりました。ですから、日本ではお釈迦さまを仏さまと呼ぶのです(お釈迦様=仏様)。お釈迦さまを釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と呼ぶこともありますが、これは釈迦を仏(ブッタ)として敬う呼び名です。このように、仏教の開祖のゴータマ・シッダールタには、釈迦、釈尊、仏陀、仏(様)などさまざまな呼び方があります。

 

(本投稿では、悟りを開く前のお釈迦さまをシッダールタ、悟りを開かれた後のお釈迦さまを釈迦と表記します。)

 

 

<釈迦の誕生>

 

仏教は、今から約2500年前の前5世紀頃、ガータマ=シッダールタが悟りを開いてブッダ(仏陀)となり、ガンジス川中流のマガダの地でその教えを人々に説いたことに始まります。

 

シッダールタは、ヒマラヤ山脈の南方、ちょうどインドとネパールの国境地域にあった釈迦族の国(釈迦国)の王子として生まれました。都はカピラバスト(カピラ城)と呼ばれ、シッダールタが生まれ育った場所は、現在のネパール領のルンビニーというところです。

 

古代のインド人は歴史の年代を残さなかったそうで、シッダールタについても、その生没年は紀元前463~383年頃、紀元前566~486年頃、紀元前624~544年頃と様々で、正確な年代は解っていません(一般的には紀元前5世紀頃とされる)。シッダールタ(釈迦)の生誕に関しては、多くの伝承・伝説が残されています。例えば、お釈迦さまは、天界から牙が六本ある白い象の姿になって、カピラ城の母になるマーヤ(摩耶)の胎内に入られたそうです。マーヤが出産のためお里に帰る途中、産気づいて、ルンビニー園という花園でお休みになった時、マーヤがアショーカの枝に手を伸ばした時、右の脇から王子が生れたと言われています。この時、九頭の龍があらわれ、天から甘露の雨(甘い味のする雨)を注いで、産湯としたそうです。

 

また、お釈迦さまは、ルンビニーという花園で、生まれてすぐ、(東西南北に向けてそれぞれ)七歩あゆまれて、右手は天を、左手は地を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)(天にも地にも、ただ独り、(個としての)我が尊い=誰もが皆、平等に尊い存在である)」と唱えたとも言い伝えられています。

 

 

<釈迦の四門出遊(しもんしゅつゆう)>

 

実母のマーヤ(摩耶)は、シッダールタが誕生してから七日目に亡くなられましたが、シッダールタは、学問、武芸ともにすぐれ、心のやさしい王子として成長し、何不自由のない生活をしていました。しかし、シッダールタは、王族としての生活を捨てて29歳で出家するのです。その時のエピソードとして四門出遊(しもんしゅつゆう)の逸話があります。

 

ある時、シッダールタが、東西南北にある四つの城門から郊外に出かけたところ、東の門から外出され老衰した人を、次の日は南の門で病人を、その次の日には西の門で、死人とその弔いの行列を見かけ、この世界のさまざまな苦しみを知りました。そして、最後の北の門で修行者をご覧になって、出家することを決心されました。

 

人が生まれた限りにおいては、老い、病気し、いつかは死ぬことからは逃れられない。この思い通りにならない生老病死の「苦」を超克するための智慧を求めて出家し修行したと考えらえています。

 

 

<釈迦の成道(じょうどう)>

 

シッダールタは、カースト制度のように生まれが全てを決してしまう伝統的なバラモン教の考え方に反対していたので、バラモン教の修行をせず、努力によって解脱を得ようとする自由修行者(沙門)の道を選びました。

 

釈迦(シッダールタ)が生れた時代のインドは、農耕が営まれ、かつ貨幣が流通して商工業も盛んになるなど都市国家が生まれていました。当時、バラモンという聖職者たちが、絶対の権威を持って振る舞い、ヴェーダ聖典を用いて祭祀を司っていました。それと同時に、釈迦の生れた地域は、思想的に自由な空気があり、そうした権力者の姿勢を批判したり、自ら家を出て自由に修行し思索に励む人々が多く現れていました。彼らは、バラモン教の伝統にとらわれず、合理的な考えを自由に説いたので、自由思想家と呼ばれました。シッダールタもその一人だったのです。

 

シッダールタは、アーラーダ・カーラーマ、ウドラカ・ラーマプトラという仙人のもとで、瞑想の修行をし、苦行もしましたが、悟りは得られませんでした。その後は、マガダ国の山林に籠って、生死の境を行き来するような難行苦行を6年間続けましたが、それでも悟りをえることはできず、「苦行のみでは悟りを得ることはできない」とその無意味さを知り苦行を捨てました。

 

シッダールタは、苦行で責めやつしすぎた身体を清めるため、やっとの思いで、近くの川で沐浴(もくよく)していました。その様子をみていたスジャーターという娘から乳がゆの供養を受け(乳粥供養といわれる)、体力を回復することができました。悟りを得るまではそこを動くまいと決心したシッダールタは、菩提樹の下に座り、瞑想を続けた結果、七日目の12月8日の夜明け、ついにそこで悟りを得られました。御年35歳、(今のビハール州)ブッダガヤ(仏陀伽耶)の地での成道(じょうどう)でした。

 

シッダールタは、この世の道理を知ることによって、生老病死に代表される苦しむ生の連続から、いかに解放するかの術を認識するに至ったのでした。その後7日間、足を組んだままの姿勢で「解脱 の安楽」を味わったと言われています。

 

このように、悟りを開いたシッダールタは、仏陀になられ、この時から釈迦族の聖者、釈迦牟尼(お釈迦さま)と呼ばれるようになりました。

 

ただし、その後、釈迦はいったん、自分のさとった縁起の理法を世間の人々に説くのをためらわれたといいます。釈迦の悟ったこの真理は深遠で、難解であり、かつ絶妙で、思考の域を超えたものであるので、この真理を、世の人は理解しないかもしれないことを憂慮されたのです。

 

そのような釈迦の前に、梵天(インドで最高位にあるとされる神)が現れ、悟りの真理を人々に説き、苦しみにあえぐ人々を救済するように三度にわたって願い求められました。そこで、釈迦は、梵天の声に従い、衆生のために法を説き、悟りに導くために布教することを決意し、救いに立ち上がるのです。

 

 

<釈迦の初転法輪(しょてんぽうりん)

 

最初の説法(初転法輪)は、インド北東に位置し、古来、宗教上の聖地と見なされていたベナレス(ヴァーナーラシー)郊外にあるサールナート(鹿野苑)(ろくやおん)と呼ばれる「鹿の園」にてなされました。なぜ、サールナートだったかと言えば、そこには、かつて苦行をともにし、釈迦が苦行を捨てたのを、落伍者とか臆病者と言ってとがめた5人の旧友がいたからです。

 

五人の比丘(出家修行者)は、釈迦の姿を目にした時、一緒に修行をした頃の釈迦の姿や雰囲気と違い驚き、自然と釈迦の語る言葉に耳を傾けたと言われています。

 

  • 中道

 

釈迦が最初に説いたのは、悟りを得るためには「極端に偏らずに生きてゆく姿勢が何より大切」で、二つの極端を離れる「中道」が重要である、ということでした。その二つの極端とは、心地よい生活ばかりに溺れて、常に何かを欲しいと求め続けること、逆にその欲望をすべて捨て去って、自分を苦しめ、極限まで追いつめるということで、ひとつの極端な生き方に固執して、人間としてのバランスを欠いてはいけないと説いたのです。これは苦行を続ける比丘たちの心を射抜いたと言われています。

 

ただし、中道とは、一方に片寄らない、ちょうど真ん中という意味ではなく、その時々の状況や立場に応じて、真理に沿った調和のとれた生き方を意味しています。そして、釈迦は、中道をえるためには、、八つの道(八正道)を歩むことであると説かれました。

 

 

  • 八正道

八正道(はっしょうどう)とは、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の8つの道のことをいいます。

 

正見(しょうけん)(正しく見る)

正思(しょうし)(正しく考える)

正語(しょうご)(正しく話し語る)

正行(しょうぎょう)(正しく行動する)

正命(しょうみょう)(正しく生活する)

正精進(しょうしょうじん)(正しく努力する)

正念(しょうねん)(正しく思いめぐらす)

正定(しょうじょう)(正しく心を決定させる)

 

 

  • 四苦八苦

 

また、釈迦は、この世にある四つの真理(四諦)を示しながら、この八正道を歩むことで、私たちが持つ生きる苦しみから逃れられると説きました。人生はすべて苦である(一切皆苦)というのが釈迦の教えです。「苦」は「思いどおりにならない」という意味で、生(しょう)・老・病・死の4つの苦しみを「四苦」と定義づけられました。

 

また、四苦(生老病死)に以下の4つの苦を加えて、八苦という場合もあります。非常に苦労することを現在でも、四苦八苦(しくはっく)すると言いますね。

 

愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れる苦しみ

怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者と会う苦しみ

求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ

五蘊盛苦(ごうんじょうく):人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)や心から生じる一切の苦痛や苦悩のこと、五陰盛苦(ごおんじょうく)、五取蘊苦(ごしゅおんく)ともいう。

 

 

  • 四諦

 

このような人生の苦しみを解決するために説かれたのが、苦、集、滅、道の四諦(四つの真理)です。四諦(したい)は、釈迦が菩提樹の下で悟りを開かれたときに悟られた内容だといわれます。日本語では、四諦の「諦」は「あきらめる」という意味にとられますが、ここでは「真理」を意味します。

 

苦諦(くたい)

人生はすべて苦しみに満ちている(四苦八苦)という真理。

集諦(じったい)

苦しみの原因は心の迷い、煩悩にあるという真理。

滅諦(めったい)

煩悩を消すことで苦を取り除くことが出来るという真理。

道諦(どうたい)

正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理。

 

この正しい実践が前述した八正道ということになります。このように、釈迦のなされた最初の説法は、初めて法(教え)の輪が車輪のように回りながら広がったことから、「初転法輪(しょてんぽうりん)」といいます。

 

これらの教えは、苦行でも快楽主義でもない中道を得るための具体的実践方法であり、人生の苦しみを滅する方法が説かれました。とりわけ、四諦の教えは、初転法輪から入滅の直前まで、釈尊が一貫して説かれた人生の真理とされています。

 

 

<釈迦の弟子たち>

 

さて、釈迦の説法に感銘した、かつての仲間であった五人の修行僧(比丘)たちは、悟りの境地に至り、釈迦の弟子(仏弟子)になりました。

 

この時、悟りを開きブッダ(仏)となった釈迦が、言葉によって法を人に伝え、子弟関係が生れたとき、5人の僧侶による僧団としての仏教が誕生したことになります。同時にそれは、仏教徒にとって帰依の対象となる「仏・法・僧」の「三宝」が確立したことを意味しました。

 

:悟りを開いた人(釈迦)
:仏の説いた教え。
:仏の教えに従って悟りを目ざして修行する人達、仏と法に帰依する人たち。

 

五比丘

阿若・憍陳如(あにゃ・きょうちんにょ)

阿説示(あせつじ)

摩訶摩男(まかなまん)

婆提梨迦(ばつだいりか)

婆敷(ばしふ)

 

この初転法輪以降、釈迦は、80才で生涯を閉じられるまでの45年間、人々に法を説き伝え続けられるのです。

 

釈迦の布教活動の地域は、東北インドのマガタ国周辺でした。、当時、古代インドで強大だったマガダ国の王舎城(おおしゃじょう)(現在のインドのビハール州のラージギール)は、霊鷲山(りょうじゅせん)など五山に囲まれ、マガダ最大の都として文化的・経済的に栄えていました。釈迦は、ここに最も長く居住、主にガンジス河中流域を歩いて旅をしつつ教えを説かれたとされています。また、竹林精舎(ちくりんしようじや)や、霊鷲山などで多く説法をされたことが、多くの仏教経典の冒頭から類推されています。

 

説教の方法は、決して自ら信者を集め教えを垂れるという姿勢ではなく、集まり来る弟子たちや悩みを抱える人たちの求めに応じてお諭しになるというように、相手の状況や能力にあわせて、そのひとに相応しいことを説かれました(この手法を対機説法という)。ですから、歴史上の釈迦が、仏教教義を体系的に説かれたということはなかったと言われています。

 

釈迦の教えの中には、前述した一切皆苦、四諦、八正道以外にも、三法印、縁起の法、慈悲の教えなど広範な教えが含まれています(思想内容については次の機会で解説)。

 

また、マガダ国のビンビサーラ王の帰依を受けましたが、王たちと釈迦の関係も、弟子と師の関係であり、王権からは一切の規制を受けることなく、自由に諸国を往来することができました。このことは、その後の仏教が確固たる地位を築き発展する大きな礎となったと言われています。

 

このように、インドの国中に教えを説いて歩かれる釈迦の評判も日に日に高まっていき、迦葉(かしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、目連など「十大弟子」を含めて、多くの弟子がいました。彼らもまた一ヶ所に定住することなく、普段は旅をしながら、早朝には村へ托鉢に行き、食事の間や長老から教えを受ける他は樹下で瞑想に励んでしました。当時すでに王たちや裕福な商人の寄進した精舎(しょうじゃ)と呼ばれる宿泊施設もあったそうです。

 

十大弟子

舎利弗(しゃりほつ)

目連(もくれん)

摩訶迦葉(まかかしょう)

阿那律(あなりつ)

須菩提(しゅぼだい)

富楼那(ふるな)

迦旃延(かせんねん)

優波離(うばり)

羅喉羅(らごら)

阿難(あなん)

 

 

<釈迦の入滅>

 

こうして布教を続けた釈迦でしたが、80歳になり、体の具合が悪くなる中、釈迦は、マガダ国から故郷を目指して旅をされました。しかし、今のラジギールからパトナ、ヴァイシャーリーを通ってインド北部のマッラ国のクシナーラー(クシナガラ)に達したところで、最期を迎えられます。

 

釈迦は、クシナガラのシャーラ双樹(沙羅の樹林)の下に横になられました。「わが亡き後は、わが教えを守り精進せよ」というお言葉を残されて、頭を北に向け安らかに涅槃に入ったとされています。

 

釈迦の遺体(「仏舎利」と呼ばれる)は、地元のバラモン僧の手によって火葬された後、遺骨は8等分され、残った灰は2つに分けて周辺の10カ所の寺院に舎利塔として祀られることとなりました。その後、舎利塔は掘り起こされ、仏舎利はさらに細かく分けられ、最終的には八万余りの寺院に再配布されたと伝えられています。

 

 

<参照>

仏教ウェブ入門講座

仏教とは?全日本仏教会

広済寺HP

仏教のルーツを知る(小冊子「ダンマサーラ」)

初めての説法:サールナート

その18 初転法輪(最初の御説法) – お釈迦様のお話 –

仏舎利とはなんですか?仏舎利の意味(大人のためのbetterlife)

仏様のお話し(養老山・立國寺HP)

仏様の世界(Flying Deity Tobifudo)

世界史の窓

Wikipediaなど

 

 

2020年11月19日

世界史:正教会からみたキリスト教史

前回の投稿で、ギリシャ正教(東方正教会)について、その概略をカトリック教会と比較しながら制度や教義を中心にまとめました。今回は視点を少し変え、正教会からみたキリスト教史についてみてみたいと思います。私たちは欧州中心の歴史観に慣れ親しんでおり、キリスト教も、カトリック教会(ローマ教会)からギリシャ正教が分離したような印象を受けてしまいますが、キリスト教の正統を謳う正教会から見れば、逆になります。視点を変えてみることで、読者のキリスト教の理解がさらに深められることを期待します。

 

(本稿では、イエス・キリストは、正教会が使うギリシャ語読みのイイスス・ハリストスを用います。)

―――

 

  • 十二使徒と初期キリスト教

 

イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)は、およそ30才の時に公に人々の前に現れ、神の国を教え、やがて、罪ある人間を救うために十字架に架けられ、後に復活したとされています。ハリストスは、「死」の直前、自分のそばに、ペトル(ペテロ)を初めとした特別な弟子12人(十二使徒)を選び招き入れていました。

 

イイススが昇天後、使徒たちのもとへ聖神(聖霊)が降臨した時、使徒たちはハリストスの「復活の証人」となりました。ここから、ハリストスの教えの意味、十字架と復活の意味を十分に悟った使徒たの福音の宣教が始まったとされています。

 

正教会では、聖神(聖霊)降臨の日を教会誕生の日と呼ぶ場合があります。使徒たちにとってハリストスは、やがてこの世の終わりに栄光のうちに再び来られる救世主(メシア)という存在です。教会も、ハリストスの昇天と再臨の間の期間のために与えられたものとみなされているのです。

 

使徒たちによる宣教によって、洗礼を受ける人たちが増えると、彼らは「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。クリスチャンたちは毎週日曜日には集まって共に祈り、パンを裂いて食し(現在の「聖体礼儀」の原型)、「洗礼」やその他の祈祷が、定型の祈祷文によって執り行われていたと言われています。

 

また、使徒たちは、布教する町々で自分の後継者を育て、その後継者を中心とした教会が地方毎に大きくなっていきました。この後継者たちが、現在、正教会でいう「主教」に当たる人たちです(聖書では「長老」と呼ばれた人たちのこと)。

 

一方、宣教そのものはというと、イイスス(イエス)の死後、キリスト教は邪教としてローマ帝国の弾圧されました。なかでも暴君ネロは、ローマ大火をキリスト教徒による放火として信者を多数処刑したことは有名です(このときペテロが殉教した)。また、初期のキリスト教は、イイスス(イエス)も試みたパレスチナの地、特にエルサレムでの布教が進まなかったので、人口が多い近くの都市での布教を目指しました。

 

私たちが慣れ親しんできたカトリック史観では、初期キリスト教の歴史は、ネロの弾圧を受けて、イエスが生きたエルサレムから帝都ローマへと移ってしまいますが、実際は、初期のキリスト教は、イイスス(イエス)も試みたパレスチナの地、特にエルサレムでの布教が進まなかったので、ローマ人への布教の前に、人口が多い近くの都市に住むギリシャ人への布教が目指されました。

 

もっとも、ギリシャ人といっても、アテネやスパルタといった古代ギリシアのポリスは衰退していたので、ギリシャという国に住むギリシャ人ではなく、文化や学問の中心となったエジプトのアレクサンドリアや、当時のセレウコス朝シリアの首都アンティオキアといった、当時ヘレニズムと呼ばれた地中海沿岸の諸都市に住む、ギリシア人の知識人たちへの布教でした。だからこそ新約聖書は、ギリシア語で書かれているのです。ある意味、キリスト教は「ギリシア人の宗教」として始まったと言っても過言ではありません。

 

いずれにしても、教会は、3世紀末までには、ギリシャ、エジプト、小アジア(トルコ)からローマ、アフリカ、さらにはアラビア、インドなどにも広がっていきました。

 

 

  • キリスト教の公認

 

一方、ローマ帝国は、紀元1世紀から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(五賢帝)の時代に最盛期を迎えたのち、混乱と分裂の時代となりました。なおも弾圧され続けたキリスト教にとっても、4世紀以降大きな転換点が訪れました。

 

コンスタンティヌス1(在306~337)は、313年のミラノ勅令で、キリスト教を公認し、325年のニケーア公会議では、三位一体論を唱えるアタナシウス派を正統としました。330年には、首都をローマからビザンティウムに移しています(コンスタンティヌス帝の死後「コンスタンチノープル」と改名)。さらに、テオドシウス1世は、392年、(アタナシウス派)キリスト教を国教とし、それ以外の宗教、宗派を禁止したのです。

 

ローマ帝国で公認され、政治的には平和の時代を迎えたキリスト教は、教義の統一と組織の整備を図るために、また後を絶たない教会内の異端に対応するため、教義の確立が求められました。この役割を担ったのが、主教や特別な聖人、「聖師父」(「教父」)と呼ばれる指導者たちでした。

 

もっとも、教義といっても、最初は、使徒たちがハリストス(キリスト)について語ったことばが書き留められていきました。それが膨大になってくると、そうした様々な文書からどれが正統であるかを決める必要が生じてきました。

 

こうして、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた伝承の記録(聖伝)が編集され、新約聖書として正典化されていきました。その中身は、何千人もの目撃者が実際に見たことの記録であり、「新約」と名づけられているように、ハリストスにより神と新たに結ばれた契約が書かれています。

 

西暦367年、神学者のアタナシウスは「マタイによる福音書」から「ヨハネの黙示録」まで、今日と同じ27の書を、正式に新約聖書として定め、後に教父アウグスチヌス(354~430)らが各地に普及させていったとされています。

 

そして、聖書の「何をどのように信じるか」を端的にあらわした信仰箇条が各教会で作られるようになり、やがて「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」(後述)に集約され固定されることになるのです。

 

 

  • 7つの全地公会

 

このように、キリスト教として教義が確立されていくのですが、それでも、内部から異端者は後を絶たちませんでした。そこで、325年のニケヤ公会議と同じように、全地公会と呼ばれる会議が、さらに6回開催されました。

 

七回の全地公会

 

第一ニケヤ会議(325年)

☞ハリストスを被造物(神が創った)と唱えるアリウスの異端を断罪

 

第二コンスタンチノープル会議(381年)

☞信経(信仰箇条)の決定。

 

第三エフェス(エペソ)会議(431年)

☞マリアを生神女と認めないネストリウスの異端を断罪

 

第四カルケドン会議(451年)

☞ハリストスに神性しか認めない単性論の異端を断罪

 

第五コンスタンチノープル会議(553年)

☞ハリストス(キリスト)に関する再定義。

 

第六コンスタンチノープル会議(680年)

☞ハリストス(キリスト)に神の意志しか認めない単意論の異端を断罪。

 

第七 ニケヤ会議(787年)

☞イコンを偶像として破壊した聖像破壊論者を断罪

 

この時、第一ニケヤ会議と第二コンスタンチノープル会議の結果、前述した信経(しんけい)と呼ばれる信仰箇条が確立され(正式には「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」という)、すべてのキリスト教会は、「一つの聖なる公なる使徒の教会」(ニケヤ・コンスタンティノープル信仰告白)と宣言されました。

 

正教会は、これらの全地公会で定義された教義的内容を、永遠に揺るぎないものとして、修正や付加したり削除したりすることなく、忠実に守り、また「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」のみを、信仰の具体的な指針としての信仰箇条として、現在も正式に採用しています。

 

一方、381年に、テオドシウス1世が召集した第二コンスタンティノポリス公会議では、ローマ帝国内に5つの大きな教会の中心地が形成されつつあったことなどを受けて、5大聖地に「総主教区」を置くことが決められました。

 

イエス自らが布教を行ない殉教したエルサレム、使徒たちが拠点としたアレクサンドリアとアンティオキア、帝国の首都ローマ、そして帝国の新首都であるコンスタンティノポリスです。同時に決定された「五大総主教区」の序列も以下の通りです。

 

ローマ

コンスタンチノープル

アレキサンドリア

アンティオキヤ

エルサレム

 

5つの聖地一つ一つには、信徒を監督し指導しまとめる「総主教」が置かれましたが、5人の総主教のうちだれが支配権をもつかなどは話し合われませんでした。神のもとでみな同じであるということで一致していたからです。しかし、町の規模としてはコンスタンチノープルとローマが大きかったため、首位権をめぐる確執が表面化するようになり、次第に両者に亀裂が生じてきました。

 

 

  • 西ローマ帝国の滅亡

 

また、ちょうどその頃から、これまでも混乱は続いていたローマ帝国の体制がさらに揺らぎ始めます。キリスト教を国教としてわずか3年後の395年、テオドシウス1世が死去、「自分の死後は帝国を2つに分け、2人の王子にそれぞれに継承させるように」との遺言に従い、ローマ帝国は東西に分離したのです。このうち、西ローマ帝国は4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動によって、476年に早くも滅亡しました。

 

これによって、政治的・軍事的に危機的状況に立たされたのが、ローマ総主教区でした(他の4総主教区は東ローマ帝国内にあった)。このときローマ教会が選んだ道は、西ローマ帝国を実質的に引き継いだ形となったフランク王国の宗教的権威者になることで、生き残りを図ることでした。そのためには、ローマ教会が「キリスト教の5つの総主教区のひとつ」ではなく、「独立」して、ローマ教会の総主教が、神の唯一の「地上での代理人」=法王(教皇)となることだったと解されています。

 

こうして、ローマ教会は西方教会、コンスタンチノープルなど4総主教区の教会は東方教会と呼ばれるようになりました。この後、1054年に東西教会は分裂しますが、正教会の立場からすれば、ローマ教会が、5大総主教区の制度から離れていったとみなされています。

 

 

  • 聖像禁止令

 

一方、一般的に東西教会の分裂の原因とされているのが、東ローマ皇帝が出した聖像禁止令でした。本来、キリスト教では、モーゼの十戒にあるように、偶像崇拝は厳しく禁止されていました。しかし、キリスト教が4世紀にローマ帝国に公認され、広く布教されていく中で、特に、ゲルマン民族への布教のためにイエスやマリアの像が使われるようになっていました。

 

これに対して、7世紀以降、偶像崇拝を徹底するイスラムの影響を受けて、ビザンツ帝国領の聖職者の中にも、イエスやマリアの聖像を偶像として、その崇拝を否定する考えを持つ者が出てきました。これを受け、ビザンツ皇帝レオ3世は、726年、聖像禁止令を出し、聖像の製造禁止と聖像破壊を命じました(ビザンツ帝国各地でイコノクラスムと言われる聖像破壊運動が広がった)。

 

ビザンツ皇帝が出した聖像禁止令に対して、西方教会(ローマ教会)の教皇グレゴリウス2世が反発します。ローマ教会ではむしろ、聖像破壊は悪質な反教会的行為とされ、聖像を破壊する者は異端者であるとみなされるようになり、次第に東西教会の対立は決定的となっていったのです。こうして、最終的に、両教会は1054年に、互いに破門し合って、キリスト教会は、東の正教会と西のローマ・カトリック教会に分離してしまいました。

 

なお、東方教会において広がったイコノクラスム(聖像破壊運動)は、787年の第7回公会議で一旦禁止令は廃止され、その後復活したものの、最終的には、843年には聖像禁止令は廃止されました。ただし、彫刻や立像は認められず、平面像のみの条件で「イコン」の使用のみ可能となっています。

 

 

  • 東ローマ帝国の発展

 

では時代の針を若干、戻して、ローマ帝国の分裂後、生き残った東ローマ帝国(ビザンツ帝国)についてみてみると、東ローマ帝国のキリスト教は、コンスタンチノープル、アレキサンドリア、アンティオキア、エルサレムの4総主教区を中心に、帝国の国教として、長らく発展していきました。

 

最盛期のビザンティン帝国の領土は、首都のコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を軸に、アナトリア半島(現在のトルコ)は言うまでもなく、バルカン半島から黒海周辺(ブルガリア、ルーマニア)や地中海東岸(シリア)まで広がっていました。

 

476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンチノープルの人々は当然のごとく、自分たちが住む東ローマ帝国が、ローマ帝国の正統な後継だと考えるようになります。なお、コンスタンチノープルの人々とは、帝国の首都の住人であったギリシア人で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、東西帝国の分裂後、およそ1000年にわたってギリシア人の国だったと言うことができます。それゆえ、東ローマ帝国の国教としてギリシア人が奉じていた東方教会が「ギリシア正教」と呼ばれるようになったのです。

 

 

  • イスラムの台頭

 

しかし、正教会の後ろ盾だったビザンツ帝国はやがて、イスラム勢力に押されて衰退していくことになります。歴史の次の大きなうねりとして、7世紀には、ムハンマド(モハメッド)を祖とするイスラム教が創始され、イスラム勢力が勃興します。彼らは、アラビア半島を統一した後も、勢力を広げ、638年には、聖地エルサレムを攻略し統治下に置きました。イスラム勢力はその勢いで東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を攻めますが、頑強な抵抗に会い、いったんは西進をあきらめ、進路を南にとると、一気にエジプトから北アフリカ一帯さらにイベリア半島(現在のスペイン)南部にまで勢力を拡げていきました。

 

この過程で、キリスト教の5大総主教区のうちエルサレムだけでなく、アレクサンドリアも異教徒の手に落ちてしましました。さらに、アンティオキアも、ビザンツ帝国に圧力をかけるイスラム勢力と対峙する最前線となったことから、荒廃・衰退していきました。

 

また、ビザンツ帝国の南側をイスラム勢力に抑えられてしまった以上、東方教会は、布教のためには北を目指ざすしかありませんでんした(後述)。

(前述した聖像禁止令が出されたのはこの時代で、やがて、東西両教会の相互破門と分裂につながった。)

 

一方、イスラムの攻勢に対して、聖地エルサレム奪回の目的で、カトリック教会から派遣された軍隊が「十字軍」(1096~1272)でした。第1回十字軍で、一度はエルサレムを奪還するもののすぐに奪い返され、第四回十字軍に至っては、1204年、こともあろうに、エルサレムではなく、コンスタンチノープルを攻略し、ラテン帝国というカトリック教会の国家を建設してしまいます。その後、約半世紀の間、ギリシア正教は否定され、ローマ教会の信仰が強要されました。(この十字軍の「蛮行」こそが、正教会とカトリック教会の分離を決定付けた事件と言われている)

 

もっとも、1261年には、東ローマ帝国の亡命政権の軍隊によって、コンスタンティノープルは奪回されて、ビザンツ帝国は復活(ラテン帝国は滅亡)し、コンスタンチノープルも再び帝国の首都となりました。

 

しかし、その後、強力となったオスマン・トルコによって、ビザンツ帝国は徐々に領土を奪われ、最後には、領土がコンスタンティノープルの城壁の中だけとなり、1453年には、メフメット2世によって、コンスタンティノープルも陥落して、ローマ帝国の東西分裂から、1000年以上続いた正教の国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は滅亡してしまいました。

 

ビザンティン帝国が滅亡後、正教会はイスラム教の下に置かれ、かつては正教信徒がたくさんいた町や地方はイスラム教徒で満たされました。首座を失った正教会は、ブルガリア、セルビアなど東ヨーロッパ各地やロシアへと散っていき、最終的にはロシアのモスクワが実質的に、コンスタンチノープルの後継となっていくのです。では、ロシア正教会がいかに発展していったのかをみてみましょう。

 

 

  • ルーシとキリル文字

 

現在のルーマニアやウクライナのある黒海北岸は、当時は、文字や文化もない蛮族の(未開の)(遊牧民)土地でした。しかし、ゲルマン人が西へと移動し、フン族の勢力が衰退すると、北からスラブ民族が流入してくるようになり、8世紀になるとキエフ(現在のウクライナ)にルーシ(ロシア)という東スラブ人の国が生まれました。

 

こうして9世紀になって、ビザンティン人は、帝国の北縁に住むようになったスラブ民族(ルーシ、東スラブ人)の存在を知るようになりました。そして、前述したように、南方をイスラムに抑えれらた東ローマ(ビザンティン)帝国は、北方に勢力を伸ばすためにキリスト教の布教に力を入れました。

 

スラブ民族(ルーシ)に、最初に、キリスト教(正教)を伝道(布教)したのが正教の修道士・聖キリルと兄のメフォディでした。しかし、布教をしようとしても、その頃、スラブ語には文字がなく、聖書を読んでもらうこともできませんでした。そこで、二人は、ギリシア文字とヘブライ文字を組み合わせて、スラブ語のアルファベット(無文字言語であったスラヴ語のために文字)を考案しました。この文字は、聖キリルにちなみ「キリル文字」と呼ばれ、現在のロシア文字になりました。こうして、キリル文字を使って、聖書や、祈祷書など教会の諸文書が翻訳され、奉神礼が行なわれるようになったことで、北方(ロシア)への伝道と繋がっていきました。

 

 

  • キエフ公国とウラジミール大公

 

945年にブルガリアがキリスト教を国教とし総主教座が設置されると、キエフ(現在のウクライナ)やセルビアにもキリスト教は伝えられました。

 

9世紀後半にはキエフ公国(キエフ朝ロシア)が台頭し、ウラジミール大公(在980~1015)の時代に、国土の統一を成し遂げ最盛期を迎えました。そこで、国王(大公)は、王国にふさわしい宗教を取り入れようと、自ら正教の洗礼を受けて(国民にとって最良の宗教を選ぼうと使節団を派遣した結果)、ギリシア正教を選択しました。これは、ウラジミール大公がビザンティン帝国皇帝バシレウス2世の妹アンナを妻とし、ビザンティン皇帝と親族関係を結んだことがきっかけでした。

 

さらに、988年に、ギリシア正教を国教とし、国民全員に洗礼を受けさせ、宗教的統一が図られました。これが、ロシアの正教会の始まりとされ、この時、キエフ総主教座が設置されました。11世紀には、修道院も建設され、ハリストスの福音が実践されました。

 

 

  • 「タタールのくびき」とモスクワ大公国

 

しかしその後、キエフ公国は、モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって(モンゴルの襲来を受け)、1240年に滅ぼされて、ロシアは混乱期を迎えました。ロシアはその後、「タタールのくびき」と呼ばれたモンゴル人(タタール)の支配を受け続けます。

 

それでも、1380年には、モスクワ公ディミトリイがモンゴル軍を打ち破ってことを契機として次第にタタール支配は崩れ、1480年に、イヴァン3(在1462~1505)が独立を回復し、ロシアを再統一させました。この困難の時代、精神的支柱となり、国家の復興に貢献した人物が、聖セルギイ(セルギイ・ラドネシスキイ)で、今もロシアで最も敬愛されている聖人の一人とされています。

 

モンゴルは宗教に関心を示さなかったので、正教会は、モスクワ大公国(1328~1547)の下で、勢力を維持し、ロシアが「タタールのくびき」から解放されると、正教会の総主教座もキエフからモスクワへと引き継がれました。

 

ロシア人の中には、モンゴルに支配されたことを、屈辱の歴史とする見方もありますが、その間、ロシアにとって歴史的な転換点につながる事件が発生します。それが、1453年にビザンティン帝国がオスマン・トルコに攻め滅ぼされてしまったことです。

 

 

  • 第三のローマ:モスクワ

 

ビザンティン帝国滅亡後の1473年、イワン3世(イヴァン大公)はビザンティン最後の皇帝の姪を妃に迎えました。これによって、ロシアはビザンティン帝国の正統な後継者を名乗ったのです。ゲルマン民族によって滅ぼされた「第一のローマ」に続いて、「第二のローマ」であるコンスタンチノープルが崩壊した後、モスクワが「第三のローマ」として、ローマ帝国の正統を継ぐとしました。

 

これによって、イワン3世は「大公」から「皇帝」となり、ツァーリの称号を得ると同時に。東ローマ(ビザンツ)帝国の「双頭の鷲」のシンボルをも継承しました。なお、ツァーリとは、ローマ帝国のカエサルがロシア語に転化したもので、その称号は全ロシアの支配者の意味として使われました。

 

「ビザンティン史観」に立つと、ローマ帝国の正統は、コンスタンティノポリス(新ローマ)を経て、モスクワ(第三のローマ)に継承され、最終的には、ロシア皇帝がメシアとなって神の王国に君臨するとさえ一部では信じられていました。

 

また、ビザンティン帝国の滅亡(コンスタンティノープルの陥落)で、正教会の4つの総主教区は、すべてイスラムの手に落ちたことになり、正教の主座も、「第三のローマモスクワに移りました。さらに、キリスト教の正統である総主教の座も、ローマ(バチカン)ではなくモスクワにあると主張されるようになりました。

 

その後、ロシアでは、雷帝と異名をとったイヴァン4世の時代(在1533~84)となり、ツァーリズムと呼ばれた皇帝専制体制を始めました。この体制は、ロマノフ朝ピョートル1世(在1682~1725)と次の女帝エカチェリーナ2世(在1762~96)の時に完成されました。

 

ただし、ピョートル大帝の時代、西欧化政策が採られました。ピョートル大帝は、ロシアの伝統に否定的な態度をとり、ヨーロッパ文明を極端に、強引に取り入れました。西欧化は教会の制度にも及び、ピョートル大帝は、1721年ロシアにおける「総主教制度」をも廃止し、かわりに「聖務会院」という制度を作りました。これは、皇帝の指名する役員によって教会を運営していく組織で、正教会の伝統とはかけ離れたプロテスタント的な制度でした。そのほかにも、神学や奉神礼、イコンや聖歌などにも西欧化の影響は及びましたが、正教会の根幹は揺るぐことはなかったとされています。

 

しかし、その後、第一次世界大戦の最中の1917年、ロシア革命が起こり、ロシア(ソビエト連邦)は無神論の国なりました。聖務会院は廃止され、総主教制度が復活しましたが、信徒は迫害されました。スターリンは、「宗教の自由」と同時に「反宗教の宣伝の自由」を憲法に掲げ、公式に教会を迫害した。聖堂は壊され、修道院は没収されました。

 

それでも、1991年、共産主義国家のソ連邦は70年で崩壊しました。その迫害に耐え抜いた正教会は、ペレストロイカ以降、息を吹き返し、スターリン時代に爆破されたモスクワの救世主大聖堂が1997年に再建されています。

 

 

<参照>

東方正教会の歴史(日本正教会HP)

ギリシャの東方正教会(ワールド航空サービス)

ビザンティン帝国=ギリシアが答えだった

(橘玲の世界投資見聞録)

キリスト教の正統は、ローマではなくロシアにある

(橘玲の世界投資見聞録)

世界史の窓

Wikipediaなど

 

 

2020年11月15日

キリスト教:ギリシャ正教(東方正教会)

これまでの投稿で、キリスト教の歴史とともに、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会をみてきました。今回はもう一つの大きなキリスト教の宗派であるギリシャ正教(東方正教会)についてまとめてみました。

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<「ギリシャ正教」の意味>

 

ギリシャ正教は、東方正教会、東方教会、ビザンツ教会、正教会など様々な呼称があります。「ギリシャ正教」という時の「ギリシャ」は、現在の国としてのギリシャではなく、ギリシャ文化(ヘレニズム文化)の伝統をさし、それゆえ「ギリシャ正教」は、ギリシャ文化の土壌で成熟したキリスト教であることを意味しています。

 

また、カトリック教会が発展した地域の名を冠してローマ・カトリック教会というように、正教会も地域としての「ギリシャ」を前面に押し出して、ギリシャ正教と呼ばれるようになったとも解されています。しかし、現在、「ギリシャ正教会」といえば、ギリシャ国内の教会だけを指すことになるため、教会全体を総称する場合は、「東方正教会」または「正教会」の語を用いるのが一般的になっています。

 

「正教会」は、英語でOrthodox Churchというように(オーソドックスとは「正統」という意味)、自分たちこそキリスト教の正統であることを主張します。

 

イエスが天に昇られた後、使徒たちはイエスの教えを、ローマ世界へと広め、この過程で初期のキリスト教ができました。「使徒」とは、文字通リの意味では、イエスの特別な弟子のことをいいますが、正教会では特に、イエス・キリストの十字架刑による死と三日目の復活という出来事を直接体験し(聖霊を通じて復活したイエスに会った体験)、それを証人として世界中に伝えた弟子たちのことだと強調されています。

 

ちなみに、正教会では、イエス・キリストをイイスス・ハリストスと呼びます。イイススという名前は「救う者」という意味で、ハリストスとはメシアをギリシャ語で意訳した言葉です。

 

正教会は、自分達がその「生きたハリストス」のことを伝える教会で、ハリストス(キリスト)とその弟子たちから現代まで連綿と継承していると見なしています。また、彼らは、イエスがエルサレムに建てた教会をそのまま引き継ぎ、教義においても、ハリストス(イエス)の教えと、この使徒たちの信仰を唯一正しく、途切れることなく、受け継いできたと自負しています。

 

また、新約聖書の原書は、ローマで使用されていたラテン語ではなく、ギリシャ語で書かれました。正教会は、聖書を原書のギリシャ語で写本して守ってきたとされています。

 

加えて、正教会は、教義に関しても、ニケーヤ公会議(325年)やコンスタンチノープル公会議など、東西教会の分離前に開催された7つの公会議によって、ローマ教会を含む全教会で確認したキリスト教信仰だけを保持し続けています。ですから、分離後、カトリック教会の教義となった「ローマ教皇の不可誤謬性(ローマ教皇の首位権)」、「煉獄」の存在、「聖母マリアの処女懐胎や被昇天」を認めていません(後述)。

 

こうした点を背景に正教会は自らを「正統」な教会と位置づけています。ですから、ローマ・カトリック史観ですと、正教会が分離したとなりますが、正教会史観では自らが正統で、ローマ・カトリックが分離したとなります。

 

この辺りも確認しつつ、ここでは簡単に正教会史をみてみましょう(正教会の歴史については、別の投稿で改めてまとめる)。

 

 

正教会の略史

 

ローマ帝国は、4世紀後半に西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分裂しました。そして、西ローマ帝国では、バチカンを中心にローマ教会が、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、コンスタンティノープルを中心にコンスタンティノープル教会が栄えていきました。ただし、この時には別々の宗派に分かれたわけではありませんでした。

 

しかし、東方正教会では、偶像崇拝を厳しく禁じているイスラム教の影響を受け、726年に聖像禁止令が出され、偶像崇拝が禁じられると、両者の溝が深まり始めました。カトリック教会ではマリア像の信仰があるように偶像崇拝は普通に行われていたからです。

 

その後、十字軍における確執なども相まって、1054年に相互破門という形で、東方教会と西方教会に完全に分裂しました(この経緯についても後に改める)。その東方教会が正教会(ギリシャ正教)であり、西方教会がローマ・カトック教会です。

 

ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパ中心に広がったのに対し、正教会はイエス・キリストが生まれたエルサレムや、アンティオキア、アレクサンドリアなど中近東を中心に、ギリシャ、東欧、ロシアへ広がりました(ゆえに東方正教会と呼ばれる)。

 

正教会は、その後もさらなる発展を遂げましたが、20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきました。ただし、これが逆に、世界各地に正教会の名を広め、教会の設立にもつながったとされています。今日、正教会の信徒数は、1億5000万から2億人と言われ、全キリスト教徒のほぼ10分の1を占めています。

 

 

正教会の仕組み

 

正教会は、カトリックのバチカン(教皇庁)のような世界を統一した組織はありませんし、教皇のような全世界の指導者も存在しません。というのも、正教会は、それぞれの国に伝道されると、その国の文化を重んじ、吸収しながら成長、成熟すると独立という形がとられ、各正教会はゆるやかに手を結び合っているにすぎないからです。

 

国や地域によりロシア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、アメリカ正教会など、国名・地域名を冠した正教会に分かれています(正教会はその国の名前を頭につけて呼んでいる)(日本にある正教会は日本正教会という)。しかし、プロテスタント諸教会のように、教義の解釈などで対立しさまざまな教派があるわけでもありません。

 

その独立した一つ一つの教会には主教がおり、その教会全体を管理します。主教は形式的に「総主教⇒大主教⇒府主教」に区分されています。現在の正教会には、かつての五大総主教区からの4人と、後世に至って認められた5人の計9人の総主教がいます。

 

かつての五大総主教区とは、コンスタンチノープル、アレキサンドリア、アンテオケ、エルサレムの総主教で、正教会の基礎を築いた教区です。なお、古代の五大総主教の一人であったローマの総主教(現在のローマ教皇に相当)は、当然、正教会の総主教には数えられません。また、後代に総主教区位を認められた正教会とは、ロシア、グルジア、セルビア、ルーマニア、ブルガリアの教会をさします。

 

ちなみに、大主教は、キプロス、ギリシャ、アルバニア、シナイ、フィンランドの正教会で、府主教は、ウクライナ、ポーランド、アメリカ、チェコ、スロヴァキア、日本の正教会の主教の肩書となります。

 

このように、正教会は、カトリックのようなローマ教皇を頂点とするピラミッド型の組織ではなく、各地に総主教(大主教、府主教)という責任者をおいてそれぞれに発展しました。各地の総主教はいずれも「使徒」たちの後継者であり、各国の正教会の主教に権威の差異はないとはされていますが、名誉上、コンスタンチノープル総主教がすべての主教の首座にあたります。また、各国の正教会も「コンスタンティノープル総主教座」(トルコのイスタンブール)に加えて「モスクワ総主教座」の2つがまとめ役を担っています。ですから、各地の正教会は主教座を中心とし、それぞれ自治を行っていると言えます。

 

また、各教会においては、カトリック教会と同じように、ヒエラルキーと呼ばれる階級制度が存在します。聖職者の位階は、正教会の場合「主教―司祭―輔祭」となっています(カトリックの場合は「司教―司祭―助祭」)。

 

 

<正教会の教義>

 

では、正教会の教義をカトリック教会と比較しながら、みてみましょう。両者は伝統も歴史も文化も異なり、キリスト教の教義にも対立がみられます。

 

  • ローマ教皇の首位権

 

カトリック教会では、ローマ教皇を最高権威として全世界の教会を支配するとしていますが、正教会は、神キリスト(ハリストス)以外に世界の最高権威は存在しないと考えるので、ローマ教皇の絶対権力を否定します.

 

また、カトリック教会が、ローマ教皇を頂点とし、全世界の教会が司教を中心に一枚岩となるピラミッド型の組織を作りだしたのに対して、東方正教会は、前述したように、各地の総主教は同格で、各地域の正教会がゆるやかに手を結びあう分権主義的な構造になっています。

 

 

  • 三位一体説

 

教会の礼拝などで「父と子と聖霊の名においてアーメン」という言い回しを聞いたことはありませんか?正教会もカトリック教会も、「父なる神(天なる父)」と「その子キリスト(神の子)」と「聖霊」を唯一の神として信仰する三位一体説(正教会では「至聖三者」と言うを受け入れていますが、その解釈については隔たりがあります。この説明の前に、三位一体(正教会では「至聖三者」)説についてまとめると以下のように解釈できるでしょう。

 

天なる父

ここでいう「父」とは、万物を創造された、私たちの上におられる全能で唯一の愛の「神」という意味です。

 

神の子

ここでいう「子」とは、神の子であるイエスのことを指します。イエス(ハリストス)は、神(父)から、マリアを通して生まれた「神の子」で、完全に人間になった神(「神が人間になったお方」)です。このことを、カトリックなどでは「受肉」、正教会では「籍身(せきしん)」といいます。

 

聖霊(聖神)

(正教会では「霊」を幽霊や動物霊などと区別して、聖霊ではなく聖神を用いる)

 

「聖霊(聖神)」とは、神そのものであられ「私たちの内におられる神」と例えられ、「私たちの救いのために私たちのもとへ遣わされる」という言い方がされます。具体的には、洗礼の時、「光や鳩のような形で聖霊(聖神)が降りてきた」と表現がなされたり、イエスが病人などを癒す奇跡も、聖霊(聖神)の力と共になされたという言い方がされたりします。ですから、私たちも聖霊(聖神)によってイエス(ハリストス)の救いに預かることができるとされ、正教会は、日々、聖霊(聖神)の降臨を祈り求めています。

 

このように、三位一体説は、神には三つの人格ならぬ「神格」があり、父としての神格と、人間性を取った神格と、聖霊としての神格の三つはまったく同じ神としての本性をもっていると解釈されています。父、子、聖霊(聖神)の三つの神がいるようですが、あくまで一つの神なのです。

 

さて、この三位一体の聖霊に関して、カトリック教会では、聖霊は「天なる父」からだけでなく、「神の子(イエス)」からも出るとしている一方、正教会では、聖神は「父」のみから出ると主張しています。正教会は、父のみが聖霊(聖神)の唯一の本源であることを強調します。聖書は、聖霊(聖神)は、父より子を通してこの世に出る(降臨する)と教えているからです。

 

 

  • 偶像崇拝とイコン崇敬 

カトリック教会では、神(天なる父)やキリストと並んで、聖母マリアが信仰の対象としされ、カトリックの教会や学校にはマリア像があります。これに対して、726年に聖像禁止令を出した正教会では、偶像崇拝が禁じられ、カトリック教会と対立しました(東西両教会分裂の一因ともなった)。

 

正教会では、今日でもなお、偶像崇拝を避けるために、イコンやモザイクなどの平画像しか認められていません。イコン(聖画像)とは、イエスや聖人の姿、聖書や教会史上の重要な出来事などを絵にしたものです。

 

このイコン(聖像画)崇敬によって、正教会ではキリストの復活によって実現した救いの喜びが強調され、カトリック教会の原罪やキリストによる十字架の贖罪が重視されるカトリック教会とは対照的です。

 

 

  • 聖母マリアと煉獄

 

さらに、聖母マリアの関して、カトリック教会では「マリヤの無原罪懐胎」と「マリアの被昇天」を主張します。「マリヤの無原罪懐胎」とは、人間は原罪を負っているというキリスト教の考え方がありますが、マリアは原罪の汚れや「とが」を存在のはじめから一切受けていなかったとする教義で、「聖母マリアの被昇天」は、マリアは、霊魂も肉体もともに天に引き上げられたというものです。

 

これに対して、正教会では、聖母マリアについて、神であるハリストス(イエス)が、マリアを通して人間になったとしか言っていません。

 

また、正教会は、煉獄(れんごく)についても、多くを語りません。煉獄は、死後、地獄にも墜ちないものの、天国には行けない人が行く場所で、人はここで苦罰によって、罪を償い、浄化された後、天国に入ることができるとされます。

 

煉獄の存在は、カトリック教会が主張するもので、正教会では、マリヤの無原罪懐胎なども含めて、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙することをモットーとしています。これは、古代教会の姿勢を遵守していると言われ、カトリック教会が加えた「新しい教え」は一切、退けられます。

 

 

  • 礼拝

 

正教会は、カトリック教会を比較して、神秘主義的、形而上的、瞑想的などと言われます。その典型が礼拝です。正教会の礼拝堂は、カトリックと比べて荘厳である上に、礼拝そのものも壮麗な印象があります。

 

正教会では、礼拝全体を「奉神礼(ほうしんれい)」と言い、その中で、最も重要な儀式が聖体礼儀で、主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)が復活したとされる毎日曜(主日)を中心に行われます。

 

聖体礼儀は、イエス・キリストが最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与え「パンは私の体であり、杯は私の血による契約である」と述べたことにちなんで、パンとぶどう酒(聖体聖血)を会衆に分け合い食する(これを「領聖」という)儀式です。正教会では最も重要な奉神礼とされています。

 

カトリック教会とプロテスタント教会でも、正教会の奉神礼にそれぞれ相当するミサ聖餐式(せいさんしき)と呼ばれる礼拝の中でも同様に行われていますが、正教会の場合は、とりわけ、パンと爵(祭器)から、聖体・聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス(イエス)と神と一つになることが強調されます。

 

正教会の奉神礼(聖体礼儀)は、かなり儀式的で、初代教会の礼拝のかたちと霊性がしっかり保たれているので、信者が奉神礼に集まる時、使徒たちの上に聖霊(神)降臨が起きたように、必ずそこの神の臨在があるとされています。

 

ちなみに、カトリック教会では、礼拝(ミサ)で楽器を使用するのに対して、正教会は、奉神礼では、一切楽器を使用せず肉声だけで行ないます。

 

 

  • 儀礼

 

キリスト教には、神の見えない恩寵(神の人類に対する慈愛)を具体的に見える形で表す各種の儀礼(儀式)があり、正教会では「機密」と呼ばれます(カトリック教会では「秘蹟サクラメント)」、また、プロテスタントでは「聖礼典」と呼ぶ)。

 

聖体礼儀で行わる聖体機密もその一つで、正教会もカトリック教会も7つの機密(秘蹟)があり、礼拝で(礼儀として)行われます。

 

 

正教会の機密(括弧はカトリックの秘蹟)

 

洗礼機密(洗礼)

人が新しい生命に更生し、ハリストス(イエス)と共に復活する恩寵が得られる機密。聖礼礼儀で行われる。

 

傅膏機密(堅信(けいしん)・傳膏(ふこう))

使徒と同じように聖霊(聖神)が降臨することを祈る機密、洗礼機密の直後に、聖膏を塗ることで執行される。聖礼礼儀で行われる。

 

聖体機密(正餐(せいさん))

ハリストス(キリスト)の体と血となったパンと葡萄酒を食する機密、聖体礼儀で行われる。

 

痛悔機密(告解(こっかい)・痛悔(つうかい))

信徒が教会生活から離れたときの赦罪(罪の赦し)を得るための機密で、告解礼儀で行われる。

 

神品機密(叙階・神品(しんぴん))

神品(主教・司祭・輔祭)を任ずる機密で、他人の霊を育てる恩寵を得ることができる。聖体礼儀で行われる。

 

婚配機密(結婚・婚配)

婚姻と、子を生み養育する事を得られるための機密で、戴冠礼儀で行われる。

 

聖傅機密((病人への)塗油(とゆ)・聖傳(せいふ))

霊疾(霊の病)と身体の疾病の癒しの恩寵を得るための機密で、聖傅礼儀で行われる。

 

なお、プロテスタント諸会派では「洗礼」と「正餐」の二つだけしか認めていません。

 

 

  • 聖書

 

正教会では、信仰の源泉に旧新約聖書を置きますが、それだけでなく、正教会が認定した「聖伝(伝承)」も経典に含まれます。

 

聖伝とは、キリスト教における伝承のことで、連綿と受け継がれてきた神による啓示に基づく信仰と教えをいいます。それは、文書や単なる事件の記録、記念物といったものだけでなく、聖師父の著作、全地公会議による規定、奉神礼で用いられる祈祷書といった文書となっているものもあげられます。さらに、正教会において、聖書も正教会の聖伝から生みだされたと考えられ、「聖書は聖伝の中に含まれる」と捉えます。これに対して、カトリック教会では「聖書と聖伝」と並び称します。

 

 

  • その他の違い

 

カトリック教会は、司祭の妻帯を認めませんが、正教会は、聖職者に対して独身の要求をしていません(妻帯者を司祭に任命することができる)。ただし、司祭になってからでは、新たに結婚できないので、未婚で司祭になったら、結果として、そのまま生涯独身となります。また、カトリックと同様に、男性しか司祭にはなれません。

 

信徒の離婚については、カトリック教会では認めていませんが、正教会において、離婚は基本的には好ましくないというスタンスですが、その諸事情により判断されます。

 

 

<参照>

東方正教会〜キリスト教はカトリックとプロテスタントだけじゃないよ〜

日本正教会HP

Wikipediaなど

 

 

2020年11月11日

皇室:秋篠宮さま「立皇嗣の礼」

天皇皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻は、2020年11月8日、皇居・宮殿で、「立皇嗣の礼」と関連する皇室の行事などに臨まれました。そこで、今回は、「立皇嗣の礼」の式次第に沿って記念すべき儀式についてまとめました。

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  • 立皇嗣の礼とは?

 

立皇嗣の礼(りっこうしのれい)」は、秋篠宮さまが「皇嗣」となられたことを広く内外に伝える儀式」で、主に「立皇嗣宣明(せんめい)の儀」と「朝見の儀」の二つの国事行為で構成されています。関連する皇室の行事としては、「壺切御剣(つぼきりぎょけん)の親授」、「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」、「伊勢神宮、神武天皇陵、昭和天皇陵などへのご参拝」が行われます(広義には、この5つを「立皇嗣の礼」の儀式ととらえることもできる)。

 

そもそも、皇嗣(こうし)とは、天皇の世継ぎ、皇位継承順位第1位の皇族を指す呼称で、現在では、皇嗣の中で、在位中の天皇の皇男子である者には皇太子(こうたいし)の称号が付されます。秋篠宮さまは皇太子ではなく、「皇嗣」でおられるため、今回は「立皇嗣の礼」で皇嗣であることを宣言する行事となるのです(皇太子であれば、「立太子の礼」となる)。

 

天皇の弟が皇位継承予定者として宣言される今回の「立皇嗣の礼」は憲政史上初めて儀式となりました。実際は、大正天皇が崩御された際、昭和8年に、今の上皇さまがお生まれになるまでの約7年間、昭和天皇の弟でいらっしゃった秩父宮さまが「皇嗣」となられたことはありますが、この時、「立皇嗣の礼」は行われていませんでした。

 

ですから、今回の歴史的な「立皇嗣の礼」は、1991(平成3)年2月23日、当時皇太子でいらした天皇陛下31歳の誕生日に行われた「立太子の礼(りったいしのれい)(今上天皇が皇太子であることを宣言する行事)」を踏襲して行われました。

 

 

  • 立皇嗣宣明の儀

 

天皇陛下は、8日朝、皇居の宮中三殿で皇室の祖先や神々に「立皇嗣の礼」を行うことを伝える儀式に臨まれました。その後、午前11時過ぎから、「立皇嗣の礼」の中心儀式である「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が、皇居・宮殿「松の間」にて、憲法に定められた国事行為として挙行されました。

 

はじめに、天皇陛下が、「皇室典範の定めるところにより、文仁親王が皇嗣であることを、広く内外に宣明します」とおことばを述べられると、秋篠宮さまが紀子さまとともに天皇陛下の前に進み、「皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と決意表明にあたるおことばがありました。陛下は、天皇にだけ許される装束である「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を、また秋篠宮さまは、皇嗣を示す「黄丹袍(おうにのほう)」という太陽が昇る色の装束をまとわれ、皇后さまと紀子さまは十二単姿でした。

 

このあと、菅総理大臣が「ここに改めて皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます」と祝辞である「寿詞(よごと)」を述べた後、両陛下、秋篠宮ご夫妻が退出され、儀式は約15分で終了しました。儀式には、天皇皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻のほか、常陸宮ご夫妻、秋篠宮ご夫妻の長女眞子さま、次女佳子さまをはじめとした9人の成年の皇族方が参列され、内閣総理大臣など三権の長や外国の大使の代表など招待者46人も式に臨みました。

 

 

  • 壺切御剣の親授

 

「立皇嗣宣明の儀」の後、陛下が秋篠宮さまに「皇太子の守り刀」と伝わる「壺切御剣(つぼきりのぎょけん)」を授けられる皇室行事、「壺切御剣の親授」が、皇居・宮殿「鳳凰(ほうおう)の間」において、非公開で行われました。

 

「壺切御剣」は、皇太子の印(しるし)として、歴代の皇太子に代々伝わるもので、「三種の神器」である天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)などと並んで、「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(皇室経済法7条)とされています。皇嗣は皇太子と同等の扱いのため、今回、秋篠宮さまに授けられました。御剣は通常、宮内庁が管理し、今後は秋篠宮さまが賢所での祭祀で拝礼される際に側近が持参するそうです。

 

天皇が御剣を次の皇位継承者に下賜するこの慣例は、893年(寛平5年)、史上初めて関白となった藤原基経が、第59代天皇の宇多天皇に御剣を献上し、後の醍醐天皇が皇太子となる際に授けられたのが記録に残る最初の事例とされています。その後、儀式の時期は定まっていませんでしたが、平安後期から「立太子の礼」に合わせて授けられることが慣例化したとされています。この儀式は、皇室と姻戚関係を結んだ藤原氏が、皇太子の地位を安定させるために創設し定着させたという説もあるそうです。

 

大日本帝国憲法下、明治42年に制定された立儲令(りっちょれい)では、御剣を授ける儀式は、「立太子の礼」の中心儀式の一部に位置付けられ、皇居・賢所で行われていましたが、新憲法下では、「立太子の礼」に伴う祭祀などとともに関連行事とされました。また、歴史的にみれば、御剣は立太子の礼当日に渡されていない事例もあったそうですが、上皇さまは「立太子の礼宣制の儀」の後、勅使を介して下賜され、陛下も「立太子の礼」当日、上皇さまから授けられました。

 

 

  • 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀

 

その後、宮殿を出られた秋篠宮さまは、午前11時50分ごろ、陛下の立太子の礼の際にも使われた「3号」と呼ばれる儀装馬車に乗り、御剣とともに皇居内の宮中三殿にご移動、秋篠宮妃紀子さまとともに宮中三殿を、賢所、皇霊殿、神殿の順に回り、殿上で拝礼されました。なお、儀式には、ご夫妻の長女、眞子さまと次女、佳子さまをはじめとした皇族方も参列されています。

 

これまで秋篠宮ご夫妻は、令和元年5月1日に秋篠宮さまが皇嗣となられた後でも、年間の宮中祭祀では、殿に上がることなく殿前から拝礼をされてきましたが、この日は、秋篠宮ご夫妻が皇嗣同妃として、殿上で拝礼された初めての機会となりました(ご夫妻としてはご成婚の際以来のこと)。

 

宮中三殿などに入れるのは、正式な装束をまとった歴代天皇、皇后と皇位継承順位1位の皇太子と同妃、祭事を補佐する掌典などに限られています。これに対して、他の皇族方は、殿の下の庭上で拝礼されます(ただし、成年式、結婚の際は例外として認められる)。

 

 

  • 朝見の儀

 

夕方(午後4時半すぎ)には、立皇嗣の礼のもう一つの国事行為である「朝見の儀(ちょうけんのぎ)」が行われました。朝見とは、天皇皇后両陛下にお会いすることで、この儀式では、秋篠宮ご夫妻が、「立皇嗣の礼」を行っていただいたことに対して両陛下に感謝の気持ちを伝え、両陛下が祝いのおことばを述べられます。

 

秋篠宮さまは、紀子さまとともに天皇陛下の前に進み、「本日は、立皇嗣宣明の儀をあげていただき、誠に畏れ入りました。皇嗣としての務めを果たすべく、これからも、力を尽くしてまいりたく存じます」とお礼のことばを述べられると、天皇陛下が秋篠宮ご夫妻に「これまでに培ってきたものを十分にいかし、国民の期待に応え、皇嗣としての務めを立派に果たしていかれるよう願っています」とおことばを贈られました。このあと、天皇皇后両陛下が、秋篠宮さま、紀子さまの順に、それぞれさかずきを授けられるなどして儀式が終わりました。

 

これで、昨年4月の「退位礼正殿の儀」から始まった上皇さまから天皇陛下への皇位継承に伴う一連の国の儀式がすべて終わりました。もともと、政府は、立皇嗣の礼を4月19日に予定していたが、新型コロナの感染拡大を受けて延期していました。なお、祝宴「宮中饗宴の儀」は、同じ理由で中止とされました。

 

 

  • 伊勢神宮、神武天皇陵、昭和天皇陵などへのご参拝

 

立皇嗣の礼の後に行われる皇室の関連行事として、伊勢神宮、神武天皇陵、昭和天皇陵への秋篠宮ご夫妻のご参拝も予定されています。これは、秋篠宮ご夫妻が、無事に「立皇嗣の礼」を終え、皇嗣となったことを、皇祖とされる天照大神、初代天皇とされる神武天皇、そして昭和天皇など先の天皇に報告をされるものです。しかし、宮内庁は新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、年内は実施困難との見通しを示しています。

 

なお、「立皇嗣の礼」に伴い、伊勢神宮には、「立皇嗣の礼」を行うことが記された「御祭文」を天皇陛下から授かった勅使が既に遣わさていました。神宮の内宮と外宮を参拝した勅使は、神さまに奉告し、天皇陛下からの供え物である「奉幣」を捧げました。

 

 

(補足)「立太子(立皇嗣)の礼」の経緯と意義

 

皇太子を定める「立太子の礼」は、かつては天皇の後継指名の場として、平安時代後期ごろには確立したとされています。しかし、南北朝時代の終わりから戦国時代にかけて、戦乱が相次いだため、約300年間行われなくなってしまいました。江戸時代に入ると、朝廷の儀式再興に尽力した霊元天皇が、後の東山天皇を皇太子に立てる際に儀式を挙行し、以降も儀式や祭祀の復興が続きました。

 

明治維新の後、1889年(明治22年)に、皇室典範が制定され、皇位継承に関する規定ができたことで皇位継承順位は明確になり、儀式の性質も、皇位継承者のお披露目の場となりました。また、儀式の細部も明治42年の立儲令(りっちょれい)で定めらました。戦後、立儲令は廃止されましたが、「立太子の礼」(今回の「立皇嗣の礼」)は、前代の儀式を参考に、政教分離など時代の要請に合わせて修正を加えながら連綿と続いています。

 

ちなみに、次の天皇の存在を国内外に示す儀式である立皇嗣の礼は、天皇の「男系男子」維持に重要な意味を持つとの見方もあります。というのは、一度、次の天皇をお披露目した後に、女系女性天皇を容認し、「(天皇家の長女である)愛子さまを天皇にします」とするのは、国際的に理解されずらくなると見られているからです。

 

その一方で、「立皇嗣の礼」が終わったことで、天皇の退位に関する皇室典範の特例法が平成29(2017)年6月に国会で成立した際に決議された付帯決議に基づき、女性宮家の創設など議論が、政府や国会などで始まることを期待する向きもあります。

 

 

<参照>

立皇嗣の礼行われる 皇位継承に伴う一連の国の儀式すべて終了

(2020年11月8日 NHKニュース)

天皇陛下、秋篠宮さまに守り刀「壺切御剣」を授ける 馬車で宮中三殿に

(2020/11/8、毎日新聞)

皇太子の印「壺切御剣」陛下から秋篠宮さまに授ける

(2020年11月8日、日刊スポーツ、共同)

立皇嗣の礼 天皇の「男系男子」維持に重要な意味を持つ

(2020/11/8、Newsポストセブン)

立皇嗣の礼 黒田清子祭主ら伊勢神宮で奉告祭

(2020/11/9、三重テレビ放送)

史上初の儀式「立皇嗣の礼」とは 29年前の「立太子の礼」を振り返る

(2020年11月6日、FNNプライムオンライン)

【立皇嗣の礼】装束にマスク姿…コロナ対策凝らし厳粛に 宣明の儀

(2020.11.8、産経)

【立皇嗣の礼】守り刀「壺切御剣」親授も 陛下から秋篠宮さまへ

(2020.11.8、産経)

【立皇嗣の礼】廃太子や戦乱によるイレギュラーな即位も 日本史彩る「立太子」めぐるドラマ

(2020.11.8 産経新聞)

【立皇嗣の礼】今後は殿上でご拝礼、関連行事は来年以降に

(2020.11.9、産経新聞)

 

 

2020年11月03日

神社:明治神宮、鎮座100年祭

明治神宮は、2020年11月1日で、鎮座してから100年を迎え、鎮座百年祭が取り行われました。祭典では、天皇陛下からの御幣物が奉られ東游という舞が納められました。また、祭典を記念して明治天皇が詠まれた和歌を歌詞とする神楽舞が作られ、初めて舞い納められました。

 

天皇皇后両陛下は、記念祭典の前の10月28日に、明治神宮に参拝されました。両陛下が明治神宮にそろって参拝されたのは平成14年以来で、18年ぶりのことだったそうです。

 

明治神宮(東京・渋谷区)は、1920年11月1日に、その名の通り、第122代の明治天皇と、お后(きさき)の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)を御祭神とする神社です。

 

1912年(明治45年)、明治天皇は59歳でご崩御された際、今は神宮外苑となっている東京の青山で御大葬が行われ、京都南郊の伏見桃山陵に埋葬されました。その2年後の大正3年(1914)には、後を追うように昭憲皇太后も亡くなられました。

 

これを受け、国民の間からは「お二人のご神霊をおまつりした神社」の建立を求める声が高まりました。それに応える形で、実業家の渋沢栄一などの有力者により委員会が組織され、1915年、当時は御料地として土地の空いていた場所で、お二人が生前よく訪れていたゆかりのある代々木の地に、神宮を建設することが決まりました。

 

境内はそのほとんどが、全国から集った延べ11万人にも及ぶ青年団の勤労奉仕により造苑整備され、着工から5年後の1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われ、明治神宮は創建されました。この時、体調の優れない大正天皇の名代として、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が出席されています。明治神宮創建にあたって、全国から献木された234種、約10万本が植栽され、人工林の「永遠の杜」が造成されました。

 

しかし、1945年4月太平洋戦争の折、明治神宮は米軍の空襲に見舞われ、創建当初の主要な建物が焼失してしまいましたが、戦後、多くの浄財が寄せられ、1958年11月に明治神宮は現在の姿となって復興し、現在に至っています。

 

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明治天皇

明治天皇は、1852年11月3日、孝明天皇と、権大納言の中山忠能の娘である中山慶子との間に第二皇子として誕生され、1867年1月30日、父の孝明天皇が崩御すると同2月13日)、満14歳で践祚(皇位につくこと)されました。明治維新を成し遂げ、近代化が進んだ日本を支えた天皇として、国民に広く親しまれています。

 

昭憲皇太后

昭憲皇太后の旧名は、一乗美子(はるこ)と言いました。一乗家は藤原家ゆかりの家柄です。お二人の間には子どもが生れず、側室5人の間に15人の子が生まれましたが、10人は夭折し、成人した男子は典侍(ないしのすけ=女官)柳原愛子(やなぎわらなるこ)の子・明宮(はるのみや)(嘉仁親王)だけだったそうです。そこでお二人は、嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)を養子とされ、皇位を繋がれました。

 

 

<参照>

明治神宮HP

Wikipediaなど

 

 

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