世界の中の日本

  • マップ
  • マップ
北アメリカ 南アメリカ 国連 ヨーロッパ アフリカ 中東 アジア 日本 オセアニア
1 2 23
2020年06月06日

憲法:表現の自由(21条)をまじめに解説してみた…

ネット上(SNS)で誹謗中傷を受けた人が自殺に追いやられてしまう事件が、社会問題化しています。これを受けて、政府は、インターネット上の発信者の特定を容易にするための制度改正を検討する姿勢を示していますが、SNS規制については、表現の自由を侵害することになるとか、特に、安倍政権側が政治的言論の封殺に利用する恐れがあるとかの反対意見も出ています。

 

そこで、今回は、憲法で、「表現の自由」がどのように規定されているのか、日本国憲法21条を解説してみたいと思います。

――――

 

日本国憲法第21条(表現の自由)

① 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。

 

表現の自由とは、思想・意見を自由に発表することができる権利で、「表現」行為とは、以下のような形態別に分類されます。

  • 演説、演奏、芝居などのパフォーマンス
  • 書籍、新聞、雑誌などの文章による表現
  • 絵画、写真、映画などビジュアル表現

 

では、「表現の自由」が保証される意義とは何でしょうか?憲法学では、自己実現の価値と自己統治の価値が保証されるという難しい説明をします。

 

自己実現の価値とは、思想・言論の自由が確保されていてこそ(言論活動を通して)、人間は各自の人格を発展させられるという考え方で、表現の自由は、個人の人格の形成・発展のために必要と考えます。

 

自己統治の価値とは、表現の自由が保障されることによって、民主主義を維持・発展されることができるというものです。仮に不当な法律が成立しても、新聞記事やテレビ報道などが、さまざまな表現の自由を行使することによって、有権者である私たちは、選挙の際、不当な法律を成立させた国会議員らを落選さたり、法律を改正するように働きかけることができます。人格を高めた個人が社会に参加すれば、各種の表現を通して得た情報をもとに判断し、行動することによって、民主主義を発展させることができるというわけですね。

 

 

<21条1項>

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

  • 集会、結社の自由

21条は、最初に集会と結社の自由を保障しています。

 

集会の自由

集会とは、共同の目的をもって一定の場所に集まることを言います。ただし、集会の自由が認められているからといって、建物や空き地などの所有者が、集会のためにそれらを提供すべき義務を負うわけではありません。

 

結社の自由

結社とは、共同の目的をもって、組織や団体を作り結合することを言います。結社の自由に関しては、一定の職業(弁護士会、税理士会)について、結社を強制したり加入を強制されたりしていることも認められています。

 

では、動く集会と言われる集団行進(デモ行進)の自由はどうなのでしょうか?

 

集団行進(デモ行進)の自由

デモ行進は、参政権的意義があり、一般市民が情報の送り手となる数少ない場として、表現の自由の一形態(「その他一切の表現の自由」)として認められています。

 

ただし、集会や集団行進は、多数人の集合という特質から、社会に及ぼす影響が大きいものです。ですから、国民の社会生活上の利益(ex.「静かにして欲しい」)を考慮して、事後的な規制よりも制約の程度も大きい「事前」の規制が許容されています。

 

そこで、議論となったのは、地方自治体が作る法令の一つである公安条例による規制は合憲か違憲(21条に反する憲法違反)かということでした。

 

公安条例では、公共の場所で集団行動を行う場合において、事前に公安委員会の許可を必要とすると定められています。

 

結論は合憲(公安条例で規制をしても、表現の自由の侵害にならない)です。ただし、公安条例による規制の手段は原則として届出制でなければならず、許可制は否定されています。

☞(新潟公安条例事件(S29.11.24)、東京都公安条例事件(S35.7.20)

 

「許可制」(=行政庁の裁量がある)」は不可

「届出制」(=行政庁の裁量がない)」ならば可

 

許可制とは?

許可を受けなければ、デモ行進を行うことができないと、一般的に禁止しておき、申請されたデモ行進を行わせても弊害がないと判断した場合において、個別に禁止を解除して許可すること。

 

届出制とは?

集団行動それ自体はまったく自由であるという前提をとった上で、デモ行進を行うためには、公安委員会に通知すれば足りるとすること。公安委員会は原則として受理する義務を負います。

 

もっとも、条文上「許可制」であっても、実際の運用上行政庁の裁量が否定できる「実質的届出制」であったり、許可基準や制限の形式が、明確かつ厳格に限定されていればよいとされています。

 

明確性の原則(=漠然性ゆえに無効の原則)

明確か否かは、「通常の判断能力を有する一般人の理解において…基準が読み取れるかどうか」で判断されます。

☞(判例)徳島市公安条例事件(S50.9.10)

 

 

  • 言論、出版その他一切の表現の自由

 

21条第1項後段は、「その他一切の表現の自由」の「その他一切」で保障された権利とは何かが問題となります。

 

まず、問題提起されるのが、メディアの報道に関する自由です。報道がなされるには、次の情報流通過程があります。

 

収集(取材)⇒加工(編集)⇒発表(報道)⇒受領(「知る」)

 

個々の過程において、表現の自由が保障されるかが問題となりました。論点となったのは、発表するという「報道の自由」だけでなく、「取材の自由」と「知る権利」、それに関連する「アクセス権」が、21条第1項の「その他一切の表現の自由」として保障されるかどうかです。

 

報道の自由(「21条で保障」)

元来、表現の自由は、思想・意見の発表の自由を意味しています。しかし、報道の自由は、単なる「事実の発表の自由」に過ぎません。事実を述べるだけの報道の自由も21条で保障されるのかというのが問題となったのです。

 

「マスコミの報道は国民の知る権利に奉仕するものであり、事実の報道は憲法21条の保障のもとにある」との判例を受け、報道の自由は「保障」されると解されています。

☞(判例)博多駅取材フィルム提出命令事件(S44.11.26)

 

 

取材の自由(「21条で尊重」)

生の事実に接近する「収集の自由」に過ぎない「取材の自由」が、21条で保障されるかどうかが論点となりました。結論から言えば、「取材の自由」は、報道の自由の実現に欠かせないもので、国民の知る権利にも質するためも、取材の自由も21条で保障されると解されていますが、裁判所は、はっきり保障を肯定せず、「十分尊重に値する」というに表現にとどめました。つまり、「報道の自由」と比較して、「取材の自由」は、ある程度の制約を受けることもやむをえないということです。

☞(判例)博多駅取材フィルム提出命令事件(S44.11.26)

 

例えば、取材源の秘匿権は憲法上保障されるか?つまり、裁判の審理や警察の尋問などで、メディアに対して、取材源を公表することを求められて、「取材の自由」を根拠に、これを拒否できるかという議論があります。判例によれば、結論は以下の通りです。

 

刑事事件の場合、「取材の自由を根拠に証言拒絶はできない」(石井記者事件)

民事事件の場合、「取材源に関する証言を拒絶できる」(NHK記者事件)

 

(参考)NHK記者事件

米国企業の日本法人が所得隠しをしたとする報道に絡み、NHK記者が民事裁判で取材源を明かさなかった問題で、最高裁第三小法廷は、「証人となった報道関係者は、原則として、取材源に係る証言を拒絶することができると解するのが相当である」として、企業側の特別抗告を棄却する決定をした(最判平成18年10月3日)。

 

 

知る権利(21条で保障)

思想・意見等、情報「受領の自由」に過ぎない「知る権利」が、21条で保障されるかという問題について、最高裁は、「報道は、民主主義において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである」として、国民の知る権利を認めました。

 

知る権利は、「受け手」の視点から、表現の自由を保障したもので、「自由権」的な側面と、「社会権」(または「国務請求権」)的な側面があると解されています。

 

「自由権」的側面とは、例えば、「好きな本を好きなように読める」など公権力からの不当な干渉を受けることなく、自分の意見を持てる権利です。

 

「社会権(または国務請求権)」的な側面とは、公権力に対して、積極的に政府情報等の公開を要求することのできる権利(情報開示請求権)です。知る権利は、一般市民のメディアに対する権利ではありませんので、「犯罪被害者に対して「知る権利」があるから取材に応じてくれ」などという主張はできませんが、首相に「しっかりと答えて下さい(説明責任を果たしてくれ)」と求めることはできます。

 

アクセス権(21条では保障されない)

アクセス権とは、人々がマスメディアに自分の意見を表明の場を作るように要求する権利で、マスメディアにアクセス(接近)して利用する「一般利用権」という言い方もできます。「知る権利」に対して、表現の自由の主体であるマスメディアでとり上げられない情報を国民に提供させることで、表現の自由を追求する権利を求めるものです。

 

しかし、アクセス権は、国家に対する請求でなく、私人である報道機関に対する請求(意見掲載請求)なので、憲法21条から直接この権利を導き出すことは困難とされています(憲法の問題は国家と私人の関係)。

 

また、メディアも、望まない記事を書いたり、好ましくない人物を出演させたりすることは、メディアの表現の自由の侵害ともなり、最悪、言論統制を強いられることにもなりかねないことからアクセス権には否定的です。

 

判例では、自党の批判記事を書いたサンケイ新聞に対して、共産党が反論記事の掲載を求めた裁判では、共産党が主張する反論権は、認められませんでした。

サンケイ新聞事件(S62.4.24)

 

 

ここまでが、マスメディアなど報道に関する表現の自由についての議論でしたが、「その他一切の表現の自由」についての論点はほかにもあります。

 

選挙運動の自由(21条で保障)

選挙運動の自由とは、「特定の選挙において、特定の候補者に当選を得させ、または得させないために直接または間接に必要かつ有利となりうる一切の行為を行う自由」と難しく定義されています。

 

選挙は、民主主義にとってなくてはならないものですので、選挙運動の自由は、表現の自由に含まれます。(21条のみならず、国民主権を根拠としても保障される)。ただし、「公正な選挙」の実現のためには、法令上、制限される規定もあります。例えば、事前運動の禁止、戸別訪問の禁止、文書、図画、新聞、雑誌による選挙運動の制限、泡沫新聞の排除などです。これは、資金の豊富な者が有利になったり、国民の社会生活の平穏を害するようなことがないようにするためですね。

 

 

営利広告の自由(21条で保障)

テレビのCM、雑誌や中吊り広告、看板などの営利広告とは、利益目的または事業目的で製品またはサービスを広告する言論をいい、営利的言論とも呼ばれます。国民一般が、消費者として、広告などを通じてさまざまな情報を受け取ることの重要性にかんがみ、営利的言論の自由も、営利的表現の自由として、表現の自由に含まれると解されています。

 

ただし、誇大広告や詐欺的広告などに代表されるように、それによってもたらされる弊害を考慮して、広範な制約が許容されています。

 

また、営利的言論(営利的表現の自由)は、政治的言論(政治的な表現の自由)よりも、制約の必要性が高く、保障の程度は低いと解されています。これは、営利的言論には、前述した「自己実現の価値」はありますが、政治参加などを通じた民主主義の発展につながる「自己統治の価値」が弱いからです。

 

このように、他者に訴えかけ、議論する前提となる「表現の自由」(精神的自由権の一つ)は、民主政の政治過程にとって不可欠なものです。ですから、表現の自由を代表とする精神的自由権は、職業選択の自由などの経済的自由権よりも優越性があるとされ(「二重の基準論」という)、思想表現に関する制約の合憲性の審査は厳格になされます(表現の自由に対する制約は、違憲となる場合が多い)。

 

 

<「表現の自由」と「公共の福祉」>

 

そうした「表現の自由」にも公共の福祉の観点から一定の制限があります。表現の自由は、自己の内面ではなく外に向けられるものなので、他者との人権の調整が必要になります。これを「公共の福祉」による制約といいます。ですから、「表現の自由」には、経済的自由権い対して優越性があって、集会、結社、言論、出版、その他一切の表現の自由が、保障されるといっても、「一切の表現」が完全に保障されわけではありません。そこで、プライバシー権と、わいせつ表現との関係をみてみたいと思います。

 

  • 名誉権・プライバシー権との関係

一般的に、個人の名誉を著しく傷つけたら、名誉棄損罪で罰せられます。

 

刑法230条第1項

公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは50万円以下の罰金に処する。

 

しかし、刑法230条の2第1には次のような規定があります。

  • 公共の利害に関する事実に係り」、
  • その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には」、
  • 事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときには

名誉棄損行為を処罰しない。(番号は筆者による)

 

これは、名誉棄損行為があったとしても、上の3つのケースであれば、表現者が名誉棄損行ま為で罰せられることはないと定めていますが、この法律の解釈は、「表現の自由」についてより深い意味を教えてくれます。

 

①の「公共の利害に関する事実」について

 

月刊ペン事件

雑誌「月刊ペン」が1976年3月号に掲載した、ある宗教法人の会長の私生活上の行状に関するある醜聞記事が掲載したことに対して、これは名誉毀損罪にあたるとして、編集長が告訴された事件がありました。

 

この時、最高裁判決では、「被告人によって摘示された○○会長らの前記のような行状は、刑法230条の2第1項にいう「公共の利害に関する事実」にあたると解するのが相当であって、これを一宗教団体内部における単なる私的な出来事ということはできない」とされました。

 

この裁判で、最高裁は、私人の私生活上の行状であっても、「その携わる社会的活動の性質、及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度いかんによっては」、公共の利害に関する事実にあたる場合があると断じたのです。一般的にいえば、私生活上の事実は「公共の利害に関する事実」に当たりませんが、公職者やその候補者の場合には、その人の資質の事項とも結びついて理解されるので、「公共の利害に関する事実」に該当するのですね。

 

 

➂の「事実の真否を判断し、真実であることの証明」について

 

夕刊和歌山時事事件

Xは、自分の発行する「夕刊和歌山時事」に、他新聞の社主Aの名誉を棄損する記事を掲載し、名誉棄損罪で起訴されました。

 

このとき、裁判では、Xは記事の内容が真実であることを証明することができなかったことが問題となりました。法律を文言通りに解釈すれば、裁判の時点で、真実であることを証明できなければ、名誉棄損罪が成立するように思われます(表現の自由は制限される)。

 

しかし、最高裁は、「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である」と判示したのです。

 

この2つの判例からわかることは、確かに、人の名誉やプライバシーは、「人格的な生存に不可欠な人権」として重要な人権で、表現の自由といえども、侵害することは、許されるものではありませんが、裁判では、「表現の自由」を尊重する解釈が採られていることがわかります。それほど、表現の自由は尊重されているのですね。

 

 

  • わいせつ表現との関係

 

性的な表現は、そもそも価値が低いとみられ、刑法で、「わいせつ」な表現物の販売等は、犯罪として処罰されます。

 

刑法175条第1項(わいせつ物頒布等の罪)

わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。 電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする

 

しかし、性的な表現行為も、動機や目的によっては、21条1項の表現の自由の権利保障の対象になると解されています。もちろん、その保障は無制約ではなく、性的秩序を守り、性道徳を維持するという「公共の福祉」による制約を受けます。

 

☞(判例)

チャタレー事件 (S32.3.13)

悪徳の栄え事件 (S44.10.15)

四畳半襖の下張 (S55.11.28)

 

これらの裁判では、作品がわいせつ文書にあたるとして、翻訳者や出版社が起訴されたことに対して、表現の自由を刑法175条で規制することが違憲ではないか、また、わいせつかどうかの判断に、芸術性や思想性が考慮されるべきかなどが争われました。

 

結果は、被告の主張は退けられました。作品はすべて「わいせつ文書」にあたるとされ、刑法175条も合憲、また、「芸術性・思想性がわいせつ性を解消させるものではない」として、「わいせつ文書」に該当する限り、その表現物のもつ芸術性や思想性に影響を受けないと判示されました。

 

 

<21条2項>

検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。

 

  • 検閲の禁止

検閲は、表現に対する事前抑制の一つで、表現の自由の最も重大な脅威とみなされ、例外なく、絶対的に禁止されています。

 

検閲とは、次のように定義されています。

行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することをその特質として備えるもの。

☞ (判例) 税関検査事件

 

要約すると、「①行政権が、②表現内容を、③その受領前に審査し、不適当と認められれば、発表を禁止すること」を検閲と呼びます。

 

(論点1)検閲の主体=行政権

裁判所がプライバシー侵害や名誉毀損を理由に、出版物の「事前差止め」を容認することは、検閲とは呼ばれません。裁判所は行政機関ではなく、司法機関だからです。

 

(論点2)検閲の対象=表現内容(思想内容+表現事実)。

思想だけでなく、事実の報道の規制も検閲とされてしまいます。

 

(論点3)検閲の時期=受領前

表現行為には、発表するという行為だけでなく、受領行為(知ること)も含みます。これによって、検閲は情報の流通の阻止も意図するものであることが明確にされます。

 

これらを踏まえて、教科書検定や、税関検査が検閲に該当するかが問題となりました。

 

教科書検定:検閲でない

学校教育法に基づいて、小・中・高等学校の教科書は、文部科学大臣の検定に合格しなければ、教科書として出版できません。しかし、検定で不合格となっても、一般図書として発行することはできます。したがって、検定制度は、発表禁止目的や発表前の審査などの性質がないことから、検閲に当たらないとされています。

 

税関検査:検閲でない

税関検査により、輸入が禁止される表現物は国外で既に発表済みで、発表そのものが禁止されるわけでなく、また、税関検査は、輸入禁止を目的として行われるもので、思想内容を審査して規制するものではないので、検閲とは見なされていません。

 

 

  • 検閲と事前抑制の関係

 

事前抑制とは、公権力が何らかの手段で、表現行為を事前に抑制することで、例えば、裁判所による出版社に対する出版の事前差し止めが事例としては上げられます。

 

では、裁判所の事前差し止め行為は、憲法21条との観点から認められるのでしょうか?結論から言えば、事前抑制は、原則禁止、ただし、絶対的禁止でないので例外的に許される場合があります。

 

21条1項の規定により、一般的には、出版という表現の自由を事前に抑制することは許されません。しかし、裁判所による出版の事前差し止めは、裁判所が行政権でないので(裁判所は司法権の担い手)、検閲ではありません。ですから、事前差し止めは、絶対的に禁止されているわけではなく、明確かつ厳格な基準を満たす場合、例外的に認められています。

 

(判例)北方ジャーナル事件(S61.6.11)

北海道知事選挙に立候補予定の者を批判攻撃する記事を掲載した雑誌が、発表前に名誉棄損を理由に差し止められた事件

 

判決で、最高裁は、例外的に事前抑制が認められる場合の3つの要件を以下のように提示しました。

 

1)表現内容が真実でないか

又は、2)それが専ら公益を図る目的でないことが明白であって

かつ、3)被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるとき

 

 

  • 通信の秘密

 

意思や情報の伝達である通信活動は、一種の表現活動とみなされます。また、特定人間の間のコミュニケーションなので、私生活・プライバシーの保護が求められます。ですから、憲法では21条2項後段で、「これ(通信の秘密)を侵してはならない」と定め、公権力(政府など公的機関)が、私人(個人や企業)の通信内容を調べたり、漏洩したり、ましてや検閲することを禁止しています。(積極的知得行為、漏洩行為、通信検閲の禁止)

 

ただし、通信の秘密の保障も絶対的ではなく、以下のように、法律に基づいた制限があります。

 

在監者の信書発受の制限(監獄法46条、47条)

 

郵便物の押収(刑事訴訟法100条、222条)

通信機関の保管・所持する郵便物等につき、「被告人から発し、又は被告人に対して発した」もの、または「被告事件に関係があると認めるに足りる状況のあるもの」であれば、差し押さえることができる。

 

電話傍受(通信傍受法)

通信傍受法(組織的な犯罪に対処するため、法定された対象犯罪に限定して、法定された要件のもとで、裁判官の発する傍受令状によって通信の傍受を認めている)が、憲法上許されるかが、問題になりました。

 

裁判では、「一定の要件のもとで…捜査の手段として、憲法上全く許されないものではない」と判示され、電話傍受も、犯罪捜査の手段としてはほかに方法がないという状況下、厳格な条件の下で許容されています。

 

――――

以上が、日本国憲法第21条(表現の自由)の解説でした。

今回のSNS規制の問題は、表現の自由との対立構造が浮き彫りにされますが、「検閲」や「通信の秘密」の問題も考慮した上での対応が求められます。さらに、憲法21条とその解釈がこの問題を解決に至らせるに足る条文なのかも併せて考えたいものですね。

 

 

<参照>

憲法 伊藤真(弘文堂)

Wikippediaなど

 

 

 

2020年06月03日

異説:藤原純友「海賊と呼ばれた男」の真実

前回の投稿で、藤原純友の乱について書きました(藤原純友「海賊王に俺はなる」)が、あれは、一般的な通説に基づく歴史でした。私が教養サイト「レムリア」を立ち上げた理由の一つが、これまで通説と見られている歴史の解釈は「実はそう思いかまされているだけかもしれない、疑ってみよう」という立場から、史実を様々な角度で読み直してみることです。今回は、別の視点でみた藤原純友です。

 

”摂関家の藤原氏の出でありながら没落して、地方(伊予の国)に下り土着化し、海賊の棟梁になって、朝廷に反乱を起こした…”

果たして、これが本当の純友の姿だったのでしょうか?

―――

 

 

  • 藤原名家の末裔?

 

瀬戸内海の「海賊王」と称される藤原純友の生涯、実は謎に包まれています。生年もよくわかっていませんが、寛平5(893年)ごろと推察されています。純友は、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれ、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出した藤原北家(ほっけ)の流れを汲み、太政大臣・関白を務めた藤原忠平は、純友の父、良範の従弟に当たるなど、摂関家の血筋であるとされてきました。

 

しかし、純友は、伊予の豪族・越智氏の一族で、今治の高橋郷出身の高橋友久の子であったと言う説があります。越智氏を遡れば、神話の大山祇神(おやまづみのかみ)にたどり着くとされ、愛媛の大山祇神社(大三島神社)が全国の大山祇神社(三島神社)の総本社になっていることから、越智家というのはこの地域の名家と言えます。この説によれば、純友は、藤原良範が伊予の国司(伊予守)として赴任した際、良範の養子となり、藤原姓を名乗ることになったとされています。

 

いずれにしても、純友は名門貴族、藤原氏の一員になったのですが、父となった良範が早死にしてしまったので出世の見込みがほぼなくなってしまいました。当時は、世襲が当たり前の時代だったのです。

 

 

  • 伊予国に赴任

 

それでも、純友は、承平2(932)年、父良範の従兄弟(いとこ)で、当時、伊予守を務めていた藤原元名(もとな)に呼び寄せられ、下級官人(伊予の掾)となって、伊予国に赴任しました。

 

元名は、立身出世の道が閉ざされた純友を救ったというよりも、当時、瀬戸内海に横行していた海賊対策に純友の手腕を期待したと言われています。藤原純友は少年のころ、大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられた父の良範に従って、朝鮮半島との通商の要所であった九州の大宰府に赴いています。そのころ九州では、当時、朝鮮を支配していた新羅の衰退によって、朝鮮から海賊が襲来し、博多の商船などが狙われるという事件が相次いでいたそうです。若き純友は、そこで、武芸を身につける一方、海賊への取り締まりを見て学び、時には父とともに海賊の成敗に当たり、海賊への対応能力を養っていったとされています。

 

10代で京に戻った純友は、それから約30年の歳月を経て、藤原元名の下で、海賊討伐に励み(実際は、税である米や産物を京へ運ぶ運京租税の任に当たっていた)、一定の成果を出しつつ、海賊衆ともつながりを維持していました。これは、932~935年の4年ぐらいの間の出来事で、瀬戸内海周辺では「藤原純友、ここにあり」とその名がその地域に知られるようになったと言われています。

 

純友は、934年に任期が終わって一度帰京しましたが、伊予では、海賊との攻防が再び激しくなり治安の悪化が深刻になりました。そこで、過去の功績が認められた純友は、承平6(936)年3月に、伊予国警固使に任じられ、再び、伊予に赴くことになったのでした。純友の再着任から2か月後の、936年5月、藤原元名に代わる後任国司の紀淑人(きのよしと)が着任することになりました。

 

この時、純友は、「所定の税を納めて投降すれば、処罰は免れるようにする」と海賊たちを説得します。すると、これまで約5年近くも抵抗を続けていた海賊たちの多くが突然降伏したと言います。紀淑人もこれを認め、海賊たちの罪を問いませんでした。伊予国警固使としての純友は、紀叔人に従って、海賊を服属させながら、瀬戸内海の治安を守り、伊予国には平穏が戻ったと言われています。

 

 

  • 海賊の正体

 

ところで、伊予国で問題になっていた海賊とは、現在の私たちが連想する、航海中の船舶を手当たり次第に襲って金品を強奪したり、女、子どもを売り飛ばすといった無法者として賊徒ではなく、都に送られるコメや特産品などの官物を奪う者達のことでした。

 

伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で、外交などの儀式に関連した雑務をこなしていた舎人(とねり)という地方下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことから、儀式の数は減り、彼らの仕事も激減します。当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があったので、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて「海賊」と化したのでした。

 

特に、伊予国は、舎人に支給するためのお米の産地だったそうです(当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があった)。舎人たちは海賊となって、支給されなくなったコメを、「自ら調達する」という理論で、輸送中に奪うという行為にでたと説明されています。

 

また、平安中期は、地方の政治を中央から派遣された国司(地方長官)に一任していた朝廷は、税として地方から国へ治める(コメや特産物などの)物品の数量を定め、それを超えた分は国司のものとしていました。そこで、国司の中には、過酷な取り立てを行い、中には私服を肥やす者も多くいました。そうすると、国司と、地方の豪族との対立も深刻になっていきます。伊予国などの場合、国司が、税を払わないかつての舎人らに対する弾圧を強めてきたわけです。それが逆に海賊行為がさらに横行するという悪循環に陥っていました。

 

 

  • 海賊 藤原純友の誕生?

 

さて、藤原純友は、伊予国警固使としての任期を終えた後も、平安京へは戻らず、伊予国に土着し、周辺の治安を守る豪族(地域の有力者)のような存在になっていきます。海賊衆(かつての舎人ら)も、純友との長年の戦いの中で、「敵といえども話せる人間」というように、ある種の信頼関係が構築され、国司からの弾圧に対抗するという意味からでも純友に下り、統制されるようになっていきました。

 

また伊予国以外にも、純友と同じように、貴族の出でありながら、出世が望めなくなって地方に下り、土着化した、いわゆる「没落貴族」が多くいました。彼らの中にも海賊と結びついて武将集団を形成していく者もいたわけです。藤原純友について、「承平6年(936年)頃までには、日振島(ひぶりじま)(愛媛県宇和島市)を拠点に2500人もの部下を従え、1000艘を組織する海賊の首領(頭目)となっていった」と表現されていますが、無法者たちの集団をまとめ上げた海賊の頭ではありませんでした。

 

藤原純友が抱えた「海賊集団」とは、純友と同じように、貴族でありながら地方に下り、かつての舎人らを率いて豪族のようになった「仲間」たちとの「連合体」のようなものでありました。しかも彼らは、以前は優秀な地方官で、裕福な者もあり、純友の強力な後ろ盾となっていったのです。その代表が、備前の藤原文元(ふみもと)であり、讃岐の藤原三辰(みつとし)、さらには、伊予にあって純友の腹心となった藤原恒利(つねとし)でした。。

 

 

当時、純友や文元らのように、地方に土着化し、出世の道が閉ざされたかつての貴族にとって、官位をもらい朝廷で高位の役職につくという出世の道は、武功(反乱などを鎮圧するなどの功績)によるしかありませんでした。しかし、伊予国周辺に936年から訪れた安泰は、本来、純友や文元らの活躍によるものでしたが、彼らの功績も評価されず、伊予国の場合、国司である紀淑人の手柄となってしまっていました。豪族や海賊たちにとって、こうした矛盾だらけの地方政治に対する不満はますます高まるだけであったと言っていいでしょう。

 

 

  • 純友の夢?

 

純友が、武勇によって出世することを考えていたのか不明ですが、純友にとって実はもう一つ壮大な計画があったことが明らかになりつつあります。それは、財力によって、政治を動かすことです。より具体的には、瀬戸内海の貿易を手中に収めることではなかったのかと考えられています。

 

そもそもこの地域に海賊行為が横行しだした一因に、海上輸送が盛んになってきたことがあげられます。瀬戸内海といえば、海運の大動脈ともいえる海域です。西日本からの物資や税の多くが、瀬戸内海を使って運ばれていました。かつて遣隋使や遣唐使もこの海を通りました。瀬戸内海の貿易の権益を握ってしまえば、朝廷の力に対抗することもできると純友は考えたのかもしれません。

 

そのためにも、海賊衆を手なずけ、同じ志をもつ「仲間」と力を合わせて、瀬戸内海で勢力を確保し、中国や朝鮮、東南アジア諸国へ船を差し向け交易を行おうとしたという可能性があります。純友が、海賊衆や、文元、三辰らにこの夢を語っていたならば…と考えると、936年、長年海を荒らしていた海賊たちが突然降伏した理由も頷けるような気がします。そして、この純友の野心を、純友の縁者(父、良範の従弟)で、時の太政大臣、関白・藤原忠平が知っていたら…、と仮定すると、藤原純友に関する様々な疑問が解決していきます。

 

天慶2(939)年12月17日、朝廷に、伊予国から「純友が船に乗って巨海に出ようとしている」との報告が届きます。これを受け、朝廷は純友の逮捕と、京への召喚命令を摂津(兵庫県)や中国地方の諸国に下します。通説では、「巨海」ではなく「海上」とされ、海賊・純友が瀬戸内海に出てくる(備前から京をめざす)と恐れられていたと解されていますが、純友は、当初から「巨海(東シナ海/南シナ海)進出」を目論んでいたのかもしれません。

 

では、仮にそうだとして、なぜ、この報告に対して、純友の逮捕と召還命令まで出されたのかと言えば、遣唐使が897年に廃止されて以降、外交は実質的な「鎖国」政策がとられている中、朝廷にすれば、純友の構想は看過できるものではなかったでしょう。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

ただし、純友はその前にやらなければならない「仕事」がありました。海賊討伐を共にした盟友の藤原文元(ふみもと)からの援軍要請を受け、「兵」を率いて備前国(今の岡山県東部)を目指したのです。藤原文元は、そこに土着した有力豪族でしたが、藤原子高(さねたか)という人物が備前国司として赴任してくると、徴税権を振りかざす子高と抜きがたい対立が生じていたのでした。

 

純友が備前国へ向っていることを知った子高は、この状況を報告しようと逃げるように都に向かいましたが、同年12月26日未明、摂津国の須岐駅家(すきのうまや)(兵庫県芦屋市付近)で文元らの武装集団に襲われ、子高は耳や鼻をそがれるなど惨い殺され方をされました。これは、当時の国司(受領)へ感情的な対立がいかに深刻であったかを物語るものです。

 

ただし、この事件は、直ちに「国への謀叛(むほん)」として朝廷に急報されました。国司に対する暴力行為は、朝廷への反逆以外の何物でもないからです。しかも、「藤原純友、藤原文元に加勢す」という報告もなされ、朝廷は衝撃を受けます。この襲撃に純友の郎党も加わっていたことが明らかになり、この時を機に、純友は「反乱者」となってしまいました。

 

朝廷は、すぐに純友に使者を派遣、京へ戻り説得に応じるよう促します。しかし、純友は、これを拒否し、逆に、「藤原文元の行いは、そもそも子高の圧政が原因であり、文元の行為は免責されるべきであること」、「936年の海賊討伐の際の勲功を活躍したものに恩賞を与えること」など要求を朝廷に突き付けるのです。

 

こうした強気な要求を出した純友には勝算がありました。純友が文元へ加勢し、朝廷に反旗を翻そうとしていた頃、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配していたのです。朝廷が東国でほぼ同時期に起きた「平将門の乱」への対応に謀殺され、純友の反乱にまで手が回らない状態であったことを、純友は見抜いていたのです。

 

 

  • 「比叡山の盟約」の裏側

 

ところで、藤原純友と平将門はともに天下を狙ったという共謀伝説があります。その共謀伝説の内容は、前回の投稿でも紹介しましたが、改めて紹介すると、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし」、「純友は藤原なれば関白になりて」、「政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。東から将門、西から純友が、同時に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画を立てたのです。

 

ただし、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」に、「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば…」と書かれているように、共謀説の主役は将門で、純友は「将門に同意した」と、将門に従った人物としてしか描写され、純友の顔は見えず、その真意を測ることはできません。

 

では、その真偽はといえば、将門と純友が比叡山に登ったとされる承平6年8月19日の頃は、将門は坂東に帰っており、純友は伊予の国に居たので、二人が京都にいて比叡山に登った事実はなさそうです。また、平将門の一代記の「将門記(しょうもんき)」には、将門・純友共謀説について記述は見られません。こうしたことから、純友と将門による「比叡山の陰謀」はおおむね否定されています。

 

それでも、当時、将門と純友の乱は、発生した時期が近いことから、朝廷は、乱の勃発当初より「連携して始められた」と疑っていたので、こうした「比叡山の誓い」のような劇的な伝説が生まれたことは想像に難くありません。

 

では、もし、共謀がなかったのなら、この二つの乱は全くの偶然の出来事なのでしょうか?実際は、純友がしたたかに将門の乱を利用したのではないかという疑念が生れます。まず、純友と将門が既知の仲であった可能性はないことはありません。二人に共通の人物に、何と、時の権力者で太政大臣になる藤原忠平がいるのです。将門は、藤原忠平の家人として仕えていたことがあり、15歳の頃、10年近く京都にいました。一方、伊予に赴任する以前に京都にいた純友の場合、縁者である忠平(父、良範の従弟)と接する機会も多かったと想定できますから、何らかの接触が二人とも在京していた時期にあったことは否定できません。ですから、「比叡山の陰謀(誓い)」というような劇的なドラマがなかったとしても、たとえ戯言でも、「将門は天皇、純友は関白」のような話しがなされ、純友は将門の「野望」を知っていたのかもしれません。

 

 

  • 純友の知略

 

純友と将門が起こした承平天慶の乱(天慶の乱)と呼ばれる反乱は、将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んでいます。将門の乱の場合、事の成り行きで、朝廷に矢を放つ結果になった感がありますが、純友の乱は、用意周到になされたことが伺えます。

 

将門によって追放された上野介、藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)でした。純友は尚範から、将門謀反の情報をいち早く掴んでいた可能性もあります。これにより反乱の決断の時期を決めることができたのかもしれません。また、純友の配下で、伊予から讃岐に移って活動していた藤原三辰(みつとし)は、以前は山城国の役人でした。その時以来、都についての情報網を保持し、純友と共有していた可能性もあります。一般的には、将門と純友が密に連絡を取っていたという共謀説は否定されたとしても、将門の反乱をいち早く知った純友が、朝廷が東国対策に忙殺されるのを見計らって、乱を起こしたことが想定できます。

 

 

実際、朝廷は、東西の反乱に対して、まずは、平将門の乱の平定に専念し、純友の要求をひとまず受け入れ、兵力を東国に集中させることにしました。天慶3年(940年)1月30日に、朝廷は、936年の海賊降伏に関する勲功として、純友に(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授け、都に上るよう求めます。また、純友以外の、例えば受領の藤原子高を襲った藤原文元にさえも勲功が与えることを決めたのです。

 

要求が満たされ、官位を受けた純友は、朝廷に従う姿勢を見せ、940年2月、純友は京へ向かいました。しかし同時に、藤原文元ほか仲間たちは、朝廷を無視して、四国・中国地方で暴れ続けます。そして遂に、藤原文元が備前国を、また、純友の別の盟友、藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

また、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰がいると見られ、朝廷内では、純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。

 

 

  • 純友の誤算

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ940年2月25日、「将門討伐」の報告が京にもたらされたのです。純友は、将門の死の報を知ると、日振島にいったん船を返し、戦略を立て直すべく動静を見守ることにしました。

 

東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった関白・藤原忠平は、純友に対する融和策を翻し、武力による鎮圧に踏み切ります。940年5月に将門討伐に向かっていた東征軍が帰京すると、6月、藤原文元を藤原子高襲撃犯と「断定」して追討令が出されます。藤原忠平は、文元など純友配下の者らと戦いつつ、純友に対しては、「文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるか」の二者択一を迫る二面作戦に出ました。

 

940年8月、戦いを優位に進める朝廷軍に対して、窮地に立たされた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで、純友も動き出します。讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、讃岐国を取り戻そうとしていた朝廷軍を圧倒しました。朝廷に従うか、朝廷に逆らって仲間を助けるかの選択を迫られていた純友は、「仲間」を選んだのです。こうして、純友は、将門と同様、謀叛人となり、反乱軍の棟梁として、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

天慶3(940)年8月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲し、国府を占拠した後、讃岐国を藤原三辰に任せ、自らは制圧地の拡大に乗り出します。備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を堕とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。

 

このように、千艘以上の船を操ったとされる純友は、朝廷の送った兵船、数百艘を焼き払い、官物も略奪しながら、東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていきました。

 

ただし、純友の戦いは、京への侵攻を狙っていたのではなく、朝廷との交渉を有利に進めるために、制圧地を増やし、自らの力を示すことが目的だったとされています。そのために、瀬戸内海全域から京都周辺にかけて、「仲間」を配備していたという考え方もできます。

 

 

  • 戦局の変化

 

しかし、土佐国まで攻め入るまでは順調でしたが、その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、朝廷は、報酬や官職をチラつかせ、純友軍を内部から崩壊させようとします。天慶4年(941年)2月には、純友の次将と言われた藤原恒利を朝廷側に寝返えらせることに成功、恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて、日振島(愛媛県宇和島市)を脱出した純友は、小島が乱立する瀬戸内海のどこかの島に姿をくらまします。それから4か月が経った941年5月、純友は突如、大宰府に姿を現し、朝廷にとって九州におけるこの最重要拠点を襲撃し、占拠しました。

 

純友は大宰府を制圧することで、朝廷と和平交渉を有利に進めようと考えたのかもしれません。しかし、勢いに乗った朝廷は、もはや純友と交渉する気はありませんでした。朝廷側は、藤原忠文を征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任じ攻勢を強めてきます。ただし、忠文到着の前に、すでに、山陽道の追捕使(ついぶし)に任じられていた歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や平将門の乱にも携わった源経基(つねもと)らが陸路から、追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は海路から九州に到着しました。

 

これに対して、純友軍は、大宰府を落として、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(今の福岡県柳川市)に迫りましたが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純友軍は止められてしまいました。

 

有明海に抜ける拠点を確保できなかったことで、純友は大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。戦いは、激戦の末に、純友軍の兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れました。しかし、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。こうして、藤原純友の反乱は鎮圧されました。

 

 

  • 「海賊と呼ばれた男」の見果てぬ夢

 

朝敵の最期が、討たれたのか獄死したのか定かではない、というのは何か違和感を覚えます。実は、藤原純友は「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶った」という伝承があるのです。もしこれが事実であれば、純友は文字通り、「巨海」に出たことになります。では、もしそうならば、朝廷軍との戦いの中、どのタイミングでそれができたのかを推察すると、九州・柳川での戦いにその機会があった可能性があります。

 

通説では、純友が大宰府を落とした後、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川に迫るものの、橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純乗を敗走させたとなっています。しかし、福岡県柳川市に伝わる伝承では、「蒲池城は藤原純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗した」とあるのです。さらに、蒲池城に拠る蒲池(かまち)の領主は、藤原純乗(すみのり)の一族であるとの説があります(築後の蒲池氏は藤原一族)。

 

そうすると、有明海に抜けることができる柳川での戦いで、藤原純乗(すみのり)は負けておらず、純友の一団はそこから、有明海を抜けて、東シナ海に出た可能性が残されます。博多湾で迎え討ったのは、純友の替え玉か別人であったのかもしれません。だからこそ純友の死も曖昧にされ、さらには、純友に関する史料すら消されたという解釈もできます(純友には出生の記録すらない)。

 

朝廷からすれば、反乱者を取り逃がしたとなれば、面子が丸つぶれとなります。ですから、純友を海賊王に仕立てあげ、討ち取ったというシナリオをでっち上げたとは考えられないでしょうか?それが、逆に「瀬戸内海の海賊王」が世界に飛び出していたというなら、痛快極まりないことです。

 

ただし、純友が再び日本に戻ってきたという話しはどこからも聞こえてきません。瀬戸内海の交易を通じて、政治を動かす歴史上人物は、日宋貿易で財力を蓄えた平清盛の登場を待たなければなりませんでした。

 

 

  • 純友の子孫

 

ここまでの話しは、推測の域をでてはいませんが、少なくとも、藤原純友は、通説のように、国司に不満を持った無法者の海賊たちを従えて、朝廷に対して反乱を起こしたのではありません。京の貴族社会から脱落し失地回復を図ろうとした純友自身は、瀬戸内海の交易を通じた財力で、政治を変えようとしてしたのであって、結果的に朝廷と戦うことになりましたが、決して、京都に攻め上ろうなどという意思はなかったといえます。

 

それだからかどうかわかりませんが、純友から3世後、孫の藤原直澄の時代、藤原純友は、朝廷から許されています。後世、肥前国の戦国大名、有馬氏・大村氏らは藤原純友の子孫と称しています。大村氏の系図や史書では、藤原直澄は、「正暦5年(994年)に伊予から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化していった」とされています(大村氏の先祖は藤原純友の孫・藤原直澄とされる)。有馬氏も、初伝によれば、純友の子直澄が有馬氏の祖になった、または純友の五世の孫幸澄が有馬氏を名乗ったそうです。

 

 

後記

ところで、本HP「レムリア」の投稿記事には自分のことは書かない方針ですが、今回は例外で、一言加えさせて頂きたいと思います。

 

私の出身は長崎県佐世保市です。昔でいえば、肥前国に属します。実は、わが村尾家も、私の父によれば、途中改ざんがあったかもしれないという前提ながら、家系図をたどれば、藤原純友に行きつくという伝承があります!なんでも、「村尾家」の先祖は、大村藩と松浦藩の国境いにいたから村尾になった(大村藩の端っこで村尾)ということらしく、先祖の名前を見ると、特に第一子には、純友の「純」の名が使われています。ちなみに私の父の姉(長女)の名前は「純子」さんでした。もし、この事実を思い出していれば、私の長男にも「純」の字を使ったかもしれないなどと思う今日この頃です。

 

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

比叡山の誓い 純友将門共謀説

伝承化する純友将門共謀説

摂津須岐駅襲撃事件:藤原純友の乱と日振島の財宝伝説

Wikipediaなど

 

2020年05月23日

歴史:藤原純友「海賊王に俺はなる!?」

前回の投稿で紹介した平将門とともに、平安時代の中期、武士の時代を先駆けた人物として評されるのが、藤原純友(すもとも)です。純友は、伊予(愛媛県)の日振島を拠点に、約1000艘の船を率いた海賊の首領です。(平将門については、「『平将門の乱』ってどんな戦い?」を参照下さい。)二人がほぼ同時期に起こした朝廷に対する反乱を、年号から「承平天慶の乱」と呼ばれています。

今回は、純友が、瀬戸内海から博多湾にかけて起こした「天業の乱(藤原純友の乱)」を振り返ることにしましょう。純友の乱に関する史料は、将門の乱に比べてかなり少なく、諸説がありますが、今回は、一般に知られている話しを紹介します。(6/3改訂)

―――

 

  • 名門貴族の末裔

 

藤原純友は、寛平4(892)年、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれたとされています。当時の太政大臣・関白を務めた藤原忠平は良範の従弟に当たります。祖父は右大弁・藤原遠経(とおつね)で、関白に初めて就任した藤原基経と兄弟でした。さらに、曾祖父は、権中納言・藤原長良(ながら)で、摂政・藤原良房の兄です。

 

このように、純友は、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出する藤原北家(ほっけ)の流れを汲む名門中の名門の血筋であったのです。ですから、純友もそれなりの地位に就くことは期待されたのですが、当時、世襲が当たり前の時代、幼くして父を亡くしたために出世の見込みがほぼなくなってしまいました。

 

 

  • 伊予国の役人

 

それでも、純友は、父の従兄弟(いとこ)で、伊予守に就任した藤原元名(もとな)に従って、931年頃、伊予掾(じょう)となって、伊予国(今の愛媛県)に赴任しました。初めは、救いの手を差し伸べてくれた水の元名の命を受けて、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にいたのです。

 

*「守」や「掾」は、中央から派遣された地方の役人(国司)の等級で、上から(かみ)、(すけ)、(じょう)、(もく)という地位に分けられていた。

 

当時、まだまだ、瀬戸内海には海賊が横行しており、治安の悪化は続いていました。ところで、伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で外交などの儀式に関連した雑務をこなす舎人(とねり)という役職の地方の下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことなどに伴い、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて、「海賊」と化したのでした。

 

伊予国で、海賊の取り締まりに当たる一方で、現地の海賊衆とつながりを持った純友は、任期が終わっても帰京せず、土着していきました。そして、都の政府に不満をもつ、瀬戸内海の豪族たちとともに、海賊集団を作り、その頭となっていったのでした。

 

これに対して、朝廷は、海賊の取り締まりのために、海賊追捕使(ついぶし)を定め、承平6(936)年6月、紀叔人(きのよしと)を伊予守と追捕南海道使に任命しました。これに対して、純友は、一時、紀叔人に従って朝廷に帰順し、海賊を抑えながら、瀬戸内海の治政・治安を守っていたと言われています。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

しかし、純友と紀淑人との蜜月関係は長くは続きませんでした。純友は、突如、朝廷に反旗を翻すのです。その間、純友は、日振島(ひぶりじま)(今の愛媛県宇和島市)を拠点に、1000の兵船を操り、2500人もの部下を従える海賊の首領(頭目)となっていったのです。「南海賊徒の首(かしら)、藤原純友。党を結び、伊予国日振島に屯集(とんしゅう)し、千余艘(そう)を設け、官物私財を抄劫(しょうごう)す」(日本紀略)と、史料にもあるように、瀬戸内海や九州を荒らし回っていたとされています。

 

天慶2(939)年12月17日、伊予国から「純友が船に乗って海上に出ようとしている」との報告が朝廷に届きます。これを受け、朝廷は、京への召喚命令を出しましたが、純友一党はこれに従いません。

 

それどころか、純友の命を受けたとされる部下の藤原文元(ふみもと)が、摂津国の須岐駅(すきのうまや)で、海賊対策に当たっていた備前介(びせんのすけ)の藤原子高(さねたか)を襲撃し、子高を惨殺したのでした。子高が純友の件を報告するため、京へのぼる途中の出来事でした。朝廷が派遣した国司を殺害したわけですから、国家への反逆となります。後に「藤原純友の乱」と呼ばれる戦いのきっかけとなる事件でした。

 

 

  • 比叡山の盟約!?

 

純友の反乱は、朝廷を大いに焦らせました。しかも、同時期に、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配する「平将門の乱」を起こし、その対応に謀殺されていました。また、朝廷内では、将門と純友による反乱は、勃発当初より連携して始められているのではないかとの噂が広がっていました。

 

実際、「比叡山の共謀伝説」というのもあります。その伝説によれば、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし、純友は藤原なれば関白になりて、政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。

 

東から将門、西から純友が、共に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画が立てられたという逸話をどう思いますか?今日でも、将門と純友が比叡山で相談したという「将門岩」が残され、関東には純友の使者が上ったという川岸までもあります。しかも、これは、平安時代(12世紀)の歴史物語「大鏡」や、南北朝時代(14世紀半ば)の史論書「神皇正統記」など複数の史料にも登場しています。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

この真偽は別にして(一般的には否定)、その頃、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰(みつとし)がいると見られ、朝廷は純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れました。

 

追捕使の小野好古(おののよしふる)の率いる軍が、瀬戸内海に出て、純友らを捕えようとしたが、逆に追い散らされてしまいました。小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告したことから、純友が京を襲撃するのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。純友が起こした反乱は、瀬戸内海や摂津は京に近いことから、朝廷は、東西から挟み撃ちにあっているような恐怖感に襲われたと言われています。

 

そこで、朝廷は、まずは「将門の乱」に対応するために、東国に兵力を集中させ、純友に対しては、位階を授けて懐柔をはかろうとします。天慶3年(940年)2月、純友に、(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授けました。しかし、叙任の効果はありません。2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪ったことを皮切りに、藤原文元が備前国を、また藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ年の2月25日、「将門討滅の報告」が京にもたらされたのです。将門の死の報を受け、純友はすぐに、日振島にいったん船を返し、しばらく動静を見守ることにしました。東西から京へ攻め登るという盟約が実現できなくなったことから戦略の立て直しを強いられたのかもしれません。

 

一方、東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった朝廷は、純友に対する融和策を翻し、純友討伐に本腰を入れ始めます。天慶3(940)年8月、朝廷軍の攻勢を受けた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで純友はついに動きだし、讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、朝廷軍を圧倒します。この結果、藤原純友は、平将門と同様、朝廷に弓を引いた「反乱者」となり、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

同じ月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲した後、破竹の勢いで、備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を墜とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。このように、純友は東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域を実質的な支配下に置いたのです。

 

 

  • 西へ西へ:純友の最期

 

しかし、純友の進軍もここまででした。その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、純友にとって、致命的になったのが、味方の裏切りでした。天慶4年(941年)2月、純友の次将と言われた原恒利が朝廷側に寝返ったのです。恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて日振島を脱出し、西に逃れた純友は瀬戸内海の孤島に身を隠していましたが、同年5月に、突如、筑前国(福岡県)に出現、太宰府を襲撃して占領します。大宰府は、朝鮮半島との交易の要所であり、朝廷にとっても西の最重要拠点です。純友にとって、まさに最終決戦の場として位置づけたのかもしれません。

 

天慶4年(941年)5月、山陽道の追捕使(ついぶし)に任命されていた、歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や、平将門の乱にも拘わった次官の源経基(つねもと)が陸路から、同じ追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は、海路から九州に到着しました。

 

大宰府を落とした純友軍は、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(福岡県柳川市)に迫りますが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)に阻まれてしまいました。有明海へ抜ける退路を断たれた純友は。大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。

 

戦いは激戦の末に、純友軍は兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。

 

盟友の藤原文元は逃亡の途中、但馬国(兵庫県北部)で討ち取られるなど、純友に従っていた残党も、その年のうちに駆逐され、「瀬戸内海の海賊王」の反乱は収束したとされています。一時、関東全域を支配した平将門の乱とともに、朝廷に反逆したとされる藤原純友の乱(両者を合わせて「承平・天慶の乱」)は、こうして終焉しました。

 

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

Wikipediaなど

 

2020年05月20日

歴史:「平将門の乱」ってどんな戦い?

NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」をふと思い出し、今回は平将門についてまとめました。平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の関東の豪族で、武士の魁(さきがけ)ともいわれ、当時、最大の内乱となった「天慶の乱(平将門の乱)」を起こしました。

――――

 

  • 平将門の出生

 

平将門は、平安中期の関東の豪族で武士の先駆けのような存在であると同時に、桓武天皇から五代めの子孫にあたり、皇族の血(桓武平氏の血筋)も引き継いでいます。

桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-良将-将門

 

桓武天皇の曽孫(ひ孫)である高望王(たかもちおう)は、890年ころに「平」の姓を授けられて皇族の籍を離れ、東国に下り、国司として上総国(千葉県周辺)に赴任しました。高望王には何人もの男子がおり、将門はそのうちの良将(よしまさ)の三男に当たります(高望王は将門の祖父)。

 

高望王は、任期が過ぎても帰京せず、そのまま一族とともに住み着き、常陸国や下総国へ進出、未開地を開発して膨大な領地を獲得し、長男国香(くにか)には真壁郡石田を、次男良兼には真壁郡羽鳥を、六男良正には筑波郡水守郷(今のつくば市)をそれぞれ与えました。また、この3人息子たちは、嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)の3人の娘をそれぞれ娶って、勢力を拡大させます。一方、将門の父・良将は、下総国(茨城県南部)を本拠として、鎮守府将軍という任務に就くなど、坂東平氏の地盤を固めていったのでした。

 

当時、地方の有力な豪族の子供たちは、都で朝廷や貴族に仕えて、官位や、国司など官職をもらって国へ戻るというのが一般的でした。将門も15歳~16歳の頃、都に憧れて京にのぼり、時の権力者で摂政・関白となった藤原忠平に10年余り仕えていました。しかし、父・良将が若くして死去したために、帰郷すると、将門が若年であることよいことに、豊田(今の茨城県結城郡石下)・猿島(茨城県岩井市)・(今の茨城・千葉にあった)相馬など父の所領の多くが、伯父(叔父)の国香、良兼、良正に奪われていたのでした。

 

 

  • 源護・平国香との戦い

 

将門はそれに怒り、土地を返すよう要求し続けますが、伯父(叔父)たちは、返さないばかりか、彼らと姻戚関係にある常陸国真壁に勢力のあった源護(みなもとのまもる)と手を組みます。そして、ついに、935年2月、将門は源護の子である扶、隆、繁の三兄弟に、常陸国野本(筑西市)で襲撃されますが、源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、将門は三兄弟を討ち取りました。さらに伯父・国香の館にも火をかけ、国香を攻め滅ぼしたのでした。

 

翌10月、源護は朝廷に告状を出して将門を訴えましたが、朱雀天皇の元服の大赦によって、京都に召還された将門は帰国が許されました。もっとも、争いは一族の内紛であり、平将門が罪に問われることはありませんでした。逆に、この戦いで、将門の勇名は諸国にとどろき、将門は、下総国豊田(今の茨城県結城郡石下)を本拠として勢力を拡げていきました。

 

 

  • 武蔵武芝・興世王・源経基・平貞連

 

938(天慶1)年、武蔵国の足立郡(今の埼玉県)を治めていた郡司(郡の長官)、武蔵武芝は、朝廷が派遣してきた武蔵権守(むさしごんのかみ=武蔵国の長官代理)の興世王(おきよおう)が、兵をひきいて勝手に郡内にはいり、武芝の家を含む民家から財物などを奪い取っていったと主張して、興世王とその補佐役、武蔵介(むさしのすけ)として任官にあった、清和源氏の祖となる源経基の二人を相手に、戦いを始めようとしていました。

 

それを聞いた将門は、両者の仲を取り持とうと調停に入ると、興世王は将門の話に同意しましたが、源経基は応じようとしませんでした。そこで、武蔵武芝の軍勢が源経基の館を包囲して圧力をかけたところ、源経基は脱出して京に逃げ帰り、「平将門は武蔵武芝とともに、朝廷から遣わされた私を亡き者にしようとした」「謀叛である」と密告をしたのです。この時、将門は、常陸(茨城県)、下総(千葉県・茨城県)、下野(栃木県)、武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県)、上野(群馬県)のこの五国の代表者たちに、「将門は無実だ」という「謀反無実ノ由」を書いてもらい、都の藤原忠平のもとに届けて、事なきを得ました。

 

939年6月、百済王貞連(くだらのこにきし ていれん)が武蔵国に国司として赴任してきましたが、貞連と興世王(おきよおう)は不仲となり、興世王は冷遇されてしまいます。すると、興世王は、本来敵であるはずの将門のもとに身を寄せるという奇策を講じると、国司に反感を持っていた将門もこれを受け入れました。

 

 

  • 藤原維幾と平貞盛との戦い

 

同じ年の11月、今度は、常陸国那珂(なか)の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきました。玄明は、国司の厳しい取り立てをする常陸国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否し、物も強奪したため、追捕令が出されていました。維幾は玄明の引渡しを将門に要求しますが、将門は玄明を匿い応じませんでした。

 

常陸介維幾は、平貞盛の叔父でした。貞盛は維幾を前面に立てて、将門と対抗しようとしたため、将門と貞盛の対立が高まります。なお、この年の6月には将門の宿敵、叔父の良兼が死去し、将門にとっての敵は、国香の子の貞盛だけとなっていました。将門は、常陸国府(常陸府中市)にいた貞盛を討つべく、兵1000人を率いて出陣し、維幾の3000の兵と激突しました。戦いは、将門が勝利し、国府を襲いましたが、貞盛を討ち漏らしてしまいました。そこでやむを得ず、将門は国府(茨城県石岡市)の建物とまわりの民家300戸を焼き払い、国司(長官)の藤原維幾を捕らえ、国印(国司の印)と鎰(やく)(国倉の鍵)を奪って引き上げました。

 

このことは直に、都へ知らされます。国府を襲った行為は、まさに重大事態であり、これにより、将門は朝廷にたいする「反逆者=謀叛人」と見なされることを意味していました。

 

ところが、坂東の地では、「いっそのこと、関東の国々をぜんぶ征服し、朝廷が遣わした役人たちは、都へ追い返してしまったらどうだ」と、将門と共に戦った興世王(おきよおう)は、関東8国の制覇を唱えるのです。

 

関東の8国

下総(しもうさ)(茨城・千葉)       上総(かずさ)(千葉)、

下野(しもつけ)(栃木)                 上野(こうずけ)(群馬)、

常陸(ひたち)(茨城)                     安房(あわ)(千葉)

武蔵(むさし)(神奈川・東京・埼玉)、相模(さがみ)(神奈川)

 

これを受け、将門もその気になり、939年12月、下野国府(栃木市)と上野国府(前橋市)を襲い、国司から国印と鎰(やく)を奪って降伏させました。

 

 

  • 「新皇」将門、関東制圧

 

上野国(群馬県)を占拠した時、将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れます。お告げを伝えると言って神がかりの状態になった巫女は、「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣したのです。こう告げられた将門は、「菅原道真の霊魂だった」と後に言われた巫女の前にひれ伏したとも伝えられています。

 

これに従って、平将門は、天慶2年(939年)12月19日、自らを新皇(しんのう)と自称し、石井(いわい)(今の茨城県坂東市岩井)を王城に定めました。当時、京都には朱雀天皇が御座しましたが、将門は朱雀天皇を本皇(ほんのう)としてしまったのです。以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは逃げ出し、将門は、残りの関東八ヵ国の国府を次々と占領し、遂に関東全域を手中に収めたのです。そして、独自に一族の者を関東諸国の国司を任命し、「独立政権」を樹立しました。

 

 

  • 藤原秀郷平貞盛との戦い

 

こうした事態に、摂政・太政大臣藤原忠平ら朝廷の権力者たちは、驚愕します。特に、同じ頃に西国で「藤原純友の乱」の報も入ったこともあって、朝廷が慌てたのは、言うまでもありません。対応に苦慮した朝廷は、940(天慶3)年1月、「将門を討った者は、身分を問わず貴族とする(4位の位と功田を与える)」との「太政官符(追補官府)」を全国各地に発布し、諸社諸寺には調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられました。

 

また、坂東8国に、下野の藤原秀郷、常陸の平貞盛、真壁の平公雅・平公連(将門の伯父良兼の息子)ら8人を押領使(地方の暴徒の鎮圧などにあたった官職)に任命しました。さらに、朝廷は、藤原忠文を征夷大将軍に任命、その印としての太刀(節刀)が下賜され、追討軍が京を出立しました。

 

一方、そのころ、将門は、常陸で平貞盛の軍を追い散らしたこともあって、下総の本拠へ戻り、兵を休養と田植えの準備のため地元へ帰還させてしまっていました。この結果、将門の手持ちの兵は下総の兵だけで、 全軍2千の5分の1以下の400人足らずを残すだけとなっていました。これを聞いた平貞盛は、下野の国(栃木県)の豪族、藤原秀郷(ひでさと)に掛け合い、将門討伐の軍を立てたのでした。2月、貞盛と秀郷の兵、併せて4000が、将門の10倍の兵力をもって、下総の国(千葉県・茨城県)に攻め入り、将門軍を撃破、将門の館に火を放ちます。

 

火の中を逃れた将門は、ひるまず騎馬隊の先頭にたって、貞盛の陣を襲います。風向きは将門にとって都合がよく、南風(春一番)が吹き荒れ、将門軍は矢戦を優位に展開、貞盛・秀郷の軍は総崩れとなっていきました。しかし、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風を負って勢いを得た貞盛・秀郷軍は反撃に転じます。突然の風向きの変化に、風煙が舞い、将門の乗った馬が立ちすくんだその瞬間、藤原秀郷が放ったとされる矢が、将門の額に命中し落馬、その瞬間に首を刎ねられました。

 

 

  • 将門の死

 

将門の死によって将門軍は鎮圧され、「関東独立国」はわずか2ヶ月で瓦解しました。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛らには従五位下がそれぞれ授けられました。将門の首は、都へ運ばれ、晒しものにされましたが、その首は、いつまでもかっと目をみひらき、切り離された胴体をもとめて、東国へ飛んでいったというような様々な「将門伝説」が生れています。

 

関連投稿:将門伝説ってご存知ですか

 

<参照>

平将門の乱(Hi-ho)

歴史事象 平将門の乱(毛呂山町)

5分でわかる平将門の乱

Wikipediaなど

2020年05月18日

ニュース:京都「葵祭」、静かに開催(5/15)

京都「葵祭」神事のみ厳粛に 恒例行列「路頭の儀」中止 …

(2020年5月15日、毎日新聞)

 

京都三大祭りの一つ「葵(あおい)祭」が15日、京都市内であり、下鴨神社(左京区)と上賀茂神社(北区)で関係者による神事「社頭の儀」が執り行われた。今年は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、平安時代の宮廷装束を身にまとった約500人が練り歩く行列「路頭の儀」は1995年以来の中止となり、祭りのヒロイン「斎王代(さいおうだい)」も選ばれなかった。

 

葵祭は両神社の例祭。午前11時ごろ、黒い衣冠を着用した天皇のお使いが下鴨神社に到着し、舞殿で祭文(さいもん)を奏上。国家安寧、疫病退散などを祈願し、天皇の御幣物(ごへいもつ)が神職により本殿に納められた。上賀茂神社でも午後から同様の「社頭の儀」があり、神職らが厳粛な雰囲気の中で神事を進めた。

 

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 

葵祭の後祭 「献茶祭」

(2020年5月17日 、KBS京都)

 

京都三大祭りの一つ葵祭の「献茶祭」がきょう、京都市北区の上賀茂神社で営まれました。上賀茂神社の献茶祭は祭りが無事とり行われたことに対する感謝を奉告するもので表千家と裏千家が1954年から毎年交代でつとめています。午前10時、境内の本殿で上賀茂神社の田中安比呂宮司が祝詞を読み上げたあと、裏千家の伊住宗陽宗匠がお点前を披露しました。厳かな雰囲気が漂うなか美しい所作で濃茶と薄茶がたてられました。注がれた茶は、神職が慎重にそれぞれ神前に運び、祭神に捧げました。今年は新型コロナウイルスの影響で、境内の野点席が中止となるなど規模を縮小しての開催となりました。

 

<関連>

投稿記事:令和初の京都・葵祭(2019/5/16)

葵祭」について

 

2020年05月18日

皇室:宮中祭祀「旬祭」とは?

即位から1年を迎えられた天皇陛下は、5月1日、皇居で宮中祭祀「旬祭」に臨まれました。通常、「旬祭」について報道されることはありませんが、2020年は、即位1周年に当たったので、この日、「旬祭」の拝礼のために皇居に入られる陛下のご様子が報じられました。

 

旬祭(しゅんさい)」は、宮中三殿で行われる恒例の宮中祭祀の一つで、元日を除く毎月1日などに国の安寧や国民の幸せを祈る儀式です。装束姿の天皇陛下は宮中三殿を回り、玉ぐしをささげて拝礼されます。「旬祭」は毎月1日、11日、21日に掌典長が祭典を行い,原則として1日には天皇陛下のご拝礼があります。

 

宮中三殿

皇居内の吹上御苑の東南にある賢所・皇霊殿・神殿の総称。

 

  • 賢所(かしこどころ):皇祖天照大御神がまつられている。
  • 皇霊殿(こうれいでん):歴代天皇・皇族の御霊がまつられており,崩御・薨去の1年後に合祀される。
  • 神殿(しんでん):国中の神々がまつられている。

 

掌典長

掌典長は、掌典職のトップの役職者のことです。掌典職(しょうてんにしょく)は、日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門で、宮内庁の組織ではなく、内廷(皇室の私的機関)に属しています。そこで働く人々は、宮内庁職員ではなく「天皇の内廷職員」という身分になります。

 

<参照>

宮内庁HP、Wikipediaなど

 

2020年05月18日

皇室:コロナ危機と陛下の「自粛」

緊急事態宣言下、皇室行事も様々な制約を受けてしまっています。また、メディアが、天皇皇后両陛下や皇室方々について報じなくなった感があり、両陛下や皇族方のご動静も気になります。さらに、この先に対する不安が募る中、陛下のメッセージをお聞きしたいと思っている人たちも多いと思われます。

★☆★☆

 

 2020月5月は、天皇陛下のご即位から1年を迎えた節目の月ですが、新型コロナウイルスの感染拡大により、皇室では、2月23日の天皇誕生日の一般参賀中止以降、行事の取りやめや延期が続いています。コロナウイルスの影響で取り止めなどになった主な皇室の行事としては以下のご予定がありました。

 

  • 英国訪問

天皇皇かn后両陛下の即位後、初めての外国訪問となる予定だった英国訪問が延期となりました。

 

  • 秋篠宮さまの「立皇嗣の礼

4月19日に予定されていた、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」になられたことを内外に広く伝える「立皇嗣の礼(りっこうしのれい)」は延期となりました。これに関連して、天皇陛下の使者を伊勢神宮などに派遣する儀式や、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻が皇居の宮中三殿に参拝される儀式なども延期されることになりました。「立皇嗣の礼」は、2019年5月の天皇代替(だいが)わりに伴って国が行ってきた一連の儀式の締めくくりの行事となる予定でした。

 

  • 春の園遊会

園遊会とは、天皇皇后両陛下が主催される、毎年春と秋に各界の功績者ら東京・元赤坂の赤坂御苑に招いて開催される社交の場です。予定通り行われていれば、2018年11月以来で、天皇陛下の即位後初となるはずでしたが、中止となりました。

 

  • 全国植樹祭

両陛下ご臨席の下、5月に島根県で開催予定でした。全国植樹祭を含めて、国民と直接触れ合う機会として皇室が重視してきた地方訪問も中止または延期されています。

 

これら以外にも、日々の外国賓客との接見予定も取り止めが相次いでいます。

 

それでも、天皇陛下は、新型コロナウイルスの感染の拡大で活動が大幅に縮小する中、宮中祭祀や、政府から送られてきた書類に署名や押印を行う国事行為を続けながら、感染拡大の状況や影響について、さまざまな専門家から説明を受けられています。なお、宮中祭祀については、4月3日の「神武天皇祭」と、5月1日の月初めの「旬祭(しゅんさい)」は滞りなく行われました。

 

そうした中、「現代ビジネス」が「なぜコロナ禍に天皇からの「語り掛け」がないのか、皇室記者の考え」というの記事を5月13日に配信しました。記事では、感染拡大を「人類の危機」ととらえる見方もでているなか、陛下がこれまで、国民に向けてビデオなどで直接のメッセージを発していないことから、「それなのになぜ…」という気持ちを抱いている国民は決して少なくはないのではないかと問いかけています。

 

こうした疑問に対して、専門家の間では、「政府がさまざまな対策を講じる中で、天皇の発言は国政に影響を与えかねない」といった趣旨の発言が多く聞かれます。現在の日本国憲法において、天皇が国政に影響が出るような政治的な発言をすることは禁じられています。そこで、陛下は「挨拶」という形をとりながら、間接的に「尽力者へのねぎらい」などの言葉を慎重に選ばれながら国民に対してメッセージを発せられています。

 

例えば、2月の誕生日会見で、「感染の拡大ができるだけ早期に収まることを願っております」と言及されました。また3月、長女の敬宮(としのみや)愛子さまの高等科ご卒業に際して寄せた文書では、「多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と綴られていたそうです。さらに、4月には、両陛下は専門家会議の尾身茂氏から進講を受けられた際に、宮内庁は「天皇陛下からの冒頭ご発言要旨」と題して、陛下の発言を紹介する文書と、進講を受けられる写真を公表していました。

 

―――

尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講

令和2年4月10日

今日はお忙しいところ時間をとっていただきありがとうございます。尾身さんが,新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の副座長として,新型コロナウイルス対策に大変尽力されていることに深く敬意と感謝の意を表します。また,これまで,日夜,現場で医療などに携わってこられている多くの関係者のご努力を深く多としています。

 

現在,世界各地で新型コロナウイルスが猛威をふるっています。我が国でも,人々の努力と協力により,爆発的な感染がなんとか抑えられてきましたが,このところ東京などを中心に感染拡大の速度が速まってきていることなど事態の深刻化が懸念されております。医療提供体制のひっ迫が現れ始めていると聞き,先日は,政府による緊急事態宣言も出されました。

 

この度の感染症の拡大は,人類にとって大きな試練であり,我が国でも数多くの命が危険にさらされたり,多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後,私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら,この感染症を抑え込み,現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。(宮内庁HPより)

―――

 

これは、まさに国民向けのメッセージに等しいと言えますが、当初、宮内庁は、公表する趣旨について説明を何もせず、ただ紙が張り出されただけだったそうです。その後、4月28日に宮内庁ホームページにも全文が掲載されました。この経緯について、宮内庁側は「国民にも伝えることが良いだろうと考えた」と、遠回りな趣旨を説明しました。

 

今回のコロナ危機のような緊急事態が発生した際、天皇陛下が、励ましメッセージすら国民にストーレートに呼びかけられない憲法の制約があるのです。天皇と日本国憲法について考えさせられます。

 

<参考>

「両陛下、コロナの試練に寄り添われ」(2020.5.1、産経新聞)

「なぜコロナ禍に天皇からの「語り掛け」がないのか」
(2020年5月13日、現代ビジネス)

宮内庁ホームページなど

 

2020年05月16日

神話:「日本武尊」のものがり

本HP「レムリア」で連載してきた「日本の神話(記紀)を読もう」シリーズの最終回は、古代日本のヒーロー、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の物語です。なお、ヤマトタケルノミコトは古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」の漢字が使われていますが、ここではカタカナで表記します。

ーーーーー

 

日本神話において最も武力に優れた英雄的な神さまとして知られるヤマトタケルは、12代景行天皇(在71~130年)の第二子として生まれました。母は播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)で、幼名を小碓命(オウスノミコト)といい、大碓命(オオウスノミコト)(おおうすのみこと)という双子の兄がいたとされています。

 

ある日、景行天皇の日代宮(ひしろのみや)(今の奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は、父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召し連れてくるように言われました。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は、二人があまりに美しい娘たちだったので自分のもとに置くことと決め、父には別の娘を引き合わせました。

 

しかし、このことが景行天皇に知られることとなります。大碓命(オオウスノミコト)は、父の前に顔を出しづらくなり、朝夕の食事にも同席せず、大事な儀式に出てこなくなりました。父は弟の小碓命(オウスノミコト)に、食事の席に出るように兄を諭してくるよう命じましたが、それでも大碓命が顔を出しません。そこで、小碓命にどうしたのかと問いました。すると、小碓命は、大碓命が言うことを聞かないので、「手足をもぎ取り、むしろに包んで投げ捨てました」と答えました(この逸話については異論あり)。

 

景行天皇は、小碓命(オウスノミコト)の超人的な力と、時折みせる荒々しい性格をみて、自分から遠ざけておこうと思われ、九州南部で勢力を拡大し、自分に従わない熊襲(くまそ)を征伐するように命じました。この時、小碓命はまだ16歳でした命じられたものの、わずかな手勢しか与えられず、困った小碓命は、伊勢神宮で天照大神を祀っている叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)を訪れると、倭比売命は、女性の御衣(みけし)と御裳(みも)を与えてくれました。

 

 

  • 熊襲討伐

 

その後、伊勢を発った小碓命らは、西暦97年12月に熊襲の国に到着しました。熊襲には、王の熊襲建(クマソタケル)またの名は川上梟師(カワカミタケル)が、この地を治めていました。当時、大きな家を新築したばかりの熊襲建は、親族を集めて宴会を開こうとしていました。そこで、小碓命(オウスノミコト)は、髪をほどいて少女のように髪を結い、叔母からもらった衣を着て、宴にいる女たちの中に紛れ込みます。腰に付けた剣は裀(みごろ)(=衣服)の裏に忍ばせませした。宴の最中、女たちの中にひときわ目立つ童女の姿を見つけた熊襲建(クマソタケル)は、手を取って隣に座らせ、お酒を飲みながら戯れていました。夜が更けた時、小碓命(オウスノミコト)は、ここぞとばかりに懐に持っていた短刀で、熊襲建の胸を一気に刺しました。

 

熊襲建(クマソタケル)は、息絶える前「待たれよ、まだ刀を抜かれるな」と頼みます。小碓命(オウスノミコト)がとどめをささずにいると、続けて言いました。

 

「そなたは何者か」

「私は大足彥天皇(オオタラシヒコノスメラミコト)の子で名は日本童男(ヤマトオグナ)である」「帝の命に従わないお前たちを、成敗しに来たのだ」

と小碓命が答えました。熊襲建がまた言いました。

 

「この国には、私より強い者はいない。私はこれまで多くの武人に会ってきたが、そなたのような者は初めてである」「尊号を奉じさせてもらってもよろしいか?」

「聞こう」

小碓命(オウスノミコト)が答えると、熊襲健(クマソタケル)は言いました。

 

「建(タケル)の名を献上させてもらいたい。」(「建」は勇敢な者という意味を持つ)

「これからは倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と名乗ってほしい。」

(ヤマト(大和)の強い男という意味)

 

と言い終わったところで、小碓命は刀を振りおろして、熊襲健の息の根を止めました。こうして、これ以降、小碓命(オウスノミコト)は、ヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)と名乗るようになったのでした。

 

 

  • 出雲討伐

 

熊襲の帰途、出雲に立ち寄ったとされるヤマトタケル(倭建命)は、その地の王である出雲建(イズモタケル)と親交を結ぶことにしました。しかし、ヤマトタケルの目的は、出雲建を征伐してこの地を平定することでした。ヤマトタケルは、密かに硬いイチイガシの木で刀を作りました。そして二人で河に入り水につかっていました。先に上がったヤマトタケルは出雲建が置いていた刀を取って「今から刀を換えて太刀合わせをしよう」と言いました。そこで、出雲建も河から上がりヤマトタケルの刀を持ち勝負しようしましたが、木刀だったので切り殺されてしまいました。

 

 

  • 東国へ派遣

 

ヤマトタケルは、西暦97年2月、意気揚々と大和に帰還し、熊襲と出雲の両地を平定した様子を天皇に報告しました。景行天皇は、皇子の功績をことのほか褒めますが、ヤマトタケルは休む間もなく、次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。東国の荒ぶる者たちが朝廷に叛いたので、乱を平定起こしていたからです。

 

父の景行天皇は、西暦110年7月、伊勢、尾張、三河、遠江(とおとうみ)、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(ふさ)、常陸、陸奥(みちのく)、東国の12か国を平定するよう倭健命に命じ、吉備武彥(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)をに同行させました。

 

同年10月出発したヤマトタケルは、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)にあいさつするため、伊勢に立ち寄り、「西の熊襲を討って都に戻ってきて、間もないのに、今度は、東国の12道の悪しき者たちを征伐せよと命じられました。父は私に死ねと思っておられるのか、本当はやめたいのです」と打ち明けます。すると、倭比売命(ヤマトヒメ)は、ヤマトタケルを諭し、伊勢神宮にあった神剣で、三種の神器のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、小袋に入った火打石を持たせて送り出しました。大和から尾張に入ると、ヤマトタケルは、国造の娘の美夜受比売(ミヤズヒメ)と出会い、東国の平定後に結婚すると約束して進んでいったと伝えられています。

 

 

  • 駿河にて~天叢雲剣の活躍

 

ヤマトタケルは、その年のうちに、初めて駿河の国に入りました。その地の国造(クニノミヤツコ)がヤマトタケルを迎え、「ここは広い野原で、鹿がたくさんいます。さあ、狩りをしましょう」と誘います。尊(ミコト)は、その者の言うことを信じ、野の中に入って行きましたが、それは罠でした。国造は、背後から野に火を放ち、辺りは火に囲まれてしまいます。

 

ヤマトタケルは、騙されたことに気づき、ヤマトヒメから授かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙(な)ぎ払い、火打ち石を使って向かえ火を起こすと、またたくまに敵に向かって炎が燃え盛り、逆に焼き払うことができました。この時、天叢雲剣が周りの草をなぎ払ったことから、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりました。

 

ヤマトタケルを罠に陥れようとした賊たちは捕らえられ焼き殺されました。海の近くで燃えた草原であったことから、この地は焼津(やいづ)と呼ばれるようになったと言われています。また、ヤマトタケルが近くの小高い丘に登り、周りの平原を見渡していた様子を見た土地の人たちが、そこを「日本平」と名付けたという逸話も残されています。

 

 

  • 相模にて~弟橘媛の入水

 

焼津を抜け出したヤマトタケルは、相模まで到り、ここから船で対岸の上総国(房総半島)に渡ろうとして言いました。

「こんな小さな海、一つ飛びで渡れるだろう」

 

そうして三浦半島の海から船を沖に進ませましたが、急に暴風が吹き荒れました。そのため、雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船は先に進みません。この時、大和から同行していた妃で弟橘媛(オトタチバナヒメ)が、尊に言いました。

「これは、海神の祟(たた)りです。尊の代わりに、私がその怒りを静めましょう。」

 

言い終えると弟橘媛は海に身を投げました。すると、嵐はやみ、船は進みました。ヤマトタケルは、最愛の妻を失う事となりましたが、無事に、上総国に上陸することができました。この時よりこの海を「馳水=走水(はしりみず)」(東京湾)と呼んだと言われています。

 

 

  • 蝦夷が服従

 

ヤマトタケルはすぐに、上総から海路で、蝦夷の境にあたる陸奥国(東北地方)に入りました。この時、蝦夷の首領の嶋津神(しまつかみ)(=蝦夷の首領)や国津神(くにつかみ)たちは竹水門(たけのみなと)(今の宮城県の多賀城市付近が有力)にいて入港を阻止しようとしていました。しかし、遠くから近付く、ヤマトタケルの船の威容を見て、勝ちそうもないことを悟ると、皆、弓矢を捨てて、尊に服従しました。これを見たヤマトタケルは蝦夷たちを許し、蝦夷の首領を従者としました。

 

 

  • 信濃で「坂の神」を成敗

 

蝦夷を平定した後、帰途に就いたヤマトタケルたちは、日高見国(ひたかみのくに)(東北の地のこと)から常陸を経由し、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)に来ました。ここで、尊は、「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。ただ、信濃国(長野県)と越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、いまだに帝に従わないでいる」と言った後、甲斐より北の武蔵(むさし)(東京~埼玉県一帯)、上野(かみつけ)(群馬県)を経由して西の碓日坂(うすいのさか)(群馬県碓氷峠)に到着しました。

 

そこで、弟橘媛(おとたちばなひめ)のことを思い出した尊(みことは)は、碓日峰に登り、東国を望んで、「吾妻(吾嬬)はや」(わが妻よ……)と嘆きました(「嬬」は「つま)と読む)。

それが契機となって、ここから東の国々を「あづまのくに」(東国/吾妻(嬬)国)と呼ぶようになったと言われています。

 

ヤマトタケルの一団は、ここから分かれて進み、吉備武彦を越国に遣わし、尊は山深い信濃へと進みました。

 

ヤマトタケルらが、足柄の坂本(今の神奈川・静岡県境)で食事をしているとき、「坂の神(山の神)」が尊を苦しめようとして、白鹿に化けて尊の前に立ちはだかりました。しかし、ヤマトタケルが一つまみの蒜(ひる)(=野蒜のびる)で打ちかけると、それが目に当たり、白鹿は死んでしまいました。これまで、信濃坂(しなののさか)を通る多くの人々は、霊気を浴び、病で伏せっていましたが、尊が白鹿を殺してからは、この山を越える者は蒜を噛んで、人や馬に塗ると神気に当たらなくなったと言います。

 

こうして、信濃(科野国)の「坂の神」を成敗したヤマトタケルは、美濃に出て、尾張の国境、内津(うつつ)峠に入りました。その間、越から戻ってきた吉備武彦とも再会できました。

 

 

  • 伊吹山での悲劇

 

東国を平定したヤマトタケルは、大和へ帰る途中、尾張(今の名古屋あたり)に戻ってきました。そこで、約束通り、尾張氏の娘の宮簀媛(美夜受比売)(ミヤズヒメ)と結婚しました。しばらく、尾張に留まって数か月が経ちましたが、近江の伊吹山(五十葺山)に荒ぶる神がいると聞いたヤマトタケルは、その神を征伐するために伊吹山に向かいました。しかしこの時、「素手で戦う」と言って、なぜか護身の呪力を持った草薙の剣を、ミヤズヒメのもとに置いたまま出立したのでした。。

 

伊吹山に着くと、山の神が大蛇(おろち)に化けて道を塞いでいました。ヤマトタケルは、蛇が山の神の化身とは気づかず、「この大蛇はきっと荒ぶる神の従者にちがいない。とるに足りぬ」と半ば無視して、蛇を踏み越えて進みました(なお、大蛇ではなく、大きな白猪(しろいのしし)という説もある)。

 

これに怒った山の神は、呪いをかけ、毒気のある氷雨を降らしたり、霧で道を迷わすなどしたため、ヤマトタケルは大きな痛手を被い、やがて病となり、やっとのことで山を下ることができました。山の麓で、意識もうろうとしながら、辿り着いたヤマトタケルは、泉の湧き水を飲んでようやく正気を取り戻せました。この泉を居醒清水(いさめのしみず)といいます。

 

しかし、尊(ミコト)の足はふくれあがり「歩けない、たぎたぎしくなった」と吐露しました(この逸話から、この地を「当芸野(たぎの)」と呼ぶようにようになったとされる)。また、急な坂を上るために、杖をつきながら歩かなければなりませんでした(この坂は杖衝坂(杖突坂)(つえつきざか)と呼ばれるようになったされる)。

 

それでも、ヤマトタケルは、立ち上がって尾張へ戻ってきました。しかし、宮簀媛(ミヤズヒメ)の所には戻らず、伊勢に向かい、尾津(おづ)(今の三重県桑名市)に到着しました。途中、「あまりにも疲れて足が三重にも折れ曲がったようだ」とつぶやきました。これが、この地を三重と呼ぶようになった由来だといわれています。

 

 

  • 臨終の地~能褒野

 

ヤマトタケルは、終焉の地となる能褒野(のぼの)(三重県亀山市)に着きました。この時、故郷(ふるさと)を懐かしんで、こう歌を詠みました。

 

大和は国のまほろば、たたなずく 青垣、山隠(やまこも)れる大和しうるわし

(大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く青い垣根のような山々に囲まれ、本当に美しい。)

 

この時、尊の病気はかなり悪くなりました。

嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きし 剣(つるぎの大刀(たち)その大刀はや

私が乙女(ミヤズヒメ)の寝床(ねどこ)に置いてきた、草薙の剣。ああ、その太刀よ

 

ヤマトタケルノミコトは、歌い終わると息を引き取りました。崩御された年齢ははっきりしませんが、御歳30歳とも言われています。

 

 

  • 日本武尊伝説

 

尊の死を痛く悲しんだ景行天皇は、すぐに群臣を集め、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)(三重県亀山市)に葬りました。

 

この時、陵墓から一羽の白鳥が出て、天に昇り、大和の方角へ飛び立ちました。群臣が棺を開いて見てみると、明衣(みょうえ)(=神事の衣服)だけが残され、遺体はありませんでした。そのため、使者を遣わして白鳥を追い求めさせたとも言われいます。
その白鳥が最初に舞い降りたとされる場所が、大和の琴弾原(ことひきはら)(奈良県御所市)で、この地に白鳥陵があります。再び空へと舞い上がった白鳥は、河内(かわち)に到り、旧市邑(ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ちました。そこにまた陵が造られました。それから、白鳥は再び空天高く飛び去っていったといいます。人々は、これらの三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んでいたそうです。

 

 

<参照>

ヤマトタケルって実在の人物?古事記や日本書紀の神話を簡単に解説!

日本武尊伝説

日本武尊の足跡を追いかける

Wikipediaなど

 

2020年05月11日

伝承:「金太郎」は実在していた!

桃太郎や牛若丸と同様に、五月人形の代表が、赤い腹懸けをして、まさかり(鉞)を担いだ姿でお馴染みの金太郎です。金太郎の人形を飾ることで、力強く、気持ちの優しい子どもに成長してほしいという願いがこめられています。

 

前回の投稿で、桃太郎のモデルが、崇神天皇の皇子、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)という説を紹介しました。金太郎の場合はどうでしょうか?日本に伝わる金太郎の昔話からみていきましょう。

―――

 

  • 金太郎伝説

 

心優しい力持ち

むかしむかし、足柄山(現在の静岡県駿東郡)というところに、ひとりの男の子が母親と2人で暮らしていました。その子の名は金太郎。山に住む熊や鹿や馬や牛とともに、相撲をとったり綱引きをして遊んだり、元気に成長しています。こんな逸話もあります。

 

ある日のこと、熊に乗っていた金太郎が、谷で立ち往生している動物たちところに出くわしました。なんでも、橋がないから向こう側に渡れず困っているとのことです。そこで、金太郎は、近くにあった大木を体当たりで倒すと、その木を谷にかけて橋にしたことで、動物たちが向こう側に渡れるようにしてやりました。

 

源頼光との出会い

その後も、すくすくと成長して若者となった金太郎は、足柄峠で、たまたま通りかかった、とある武士と出会うこととなります。その侍の名は源頼光(みなもとのよりみつ)といいました。各地を回って武士となる人を探していたそうです。頼光は、金太郎の姿を見て、その胆力を見抜き、自分の従者にしたいと申し出ます。金太郎は、母親や動物たちと別れるのは辛いと思ったものの、母親からの後押しもあって、源頼光の家来になりました。この時、「坂田金時」という名を与えられた金太郎は、ついには源頼光「四天王」の一人と呼ばれるようになるまで、順調に出世していき、京の都で大仕事を成し遂げます。

 

酒呑童子退治

当時の京では、神隠しの騒ぎが起きていました。陰陽師である安倍晴明に占わせたところ、神隠しは「酒呑童子(しゅてんどうじ)」という鬼の仕業であることがわかりました。「酒吞童子」は、丹波国(今の京都府北部)の大江山に居て、悪党を束ね、都に度々現れては悪さをしていました。源頼光は、一条天皇の「酒呑童子征伐」の勅命を受け、坂田金時を含む「頼光四天王」を引き連れて、酒呑童子の退治に向かいます。

 

その道中、一行はとある老人に出会いました。老人は「山伏に化けて行きなさい」という助言をくれ、「神変奇特酒」という眠り薬入りの特殊な酒を与えてくれました。実はこの老人たち、頼光が熱心に参詣していた石清水八幡宮や熊野神社の神さまでした。

 

山伏に身をやつした頼光たちは、酒呑童子に接触し、宴を開きました。その席で授けられた酒を与え、酔いつぶれた鬼をひとり残さず退治することに成功したのでした。そして、神隠しにあったとされているさらわれた者たちを連れ戻すことができました。

 

 

  • 金太郎のモデル

 

この金太郎の話の元となっているのが、平安時代に実在した武士で、金太郎の童話の中にも出てきた坂田金時(さかたのきんとき)と言われています。

 

金時神社(静岡県駿東郡小山町)の社伝などによると、京の都に、箱根の足柄山の彫物師十兵衛の娘で、「八重桐(やえぎり)」という女性が暮らしていました。そこで、宮中に仕えている「坂田蔵人」という人物と結ばれ、出産のために故郷へ帰ることとなり、金時(金太郎)を産みます。しかし、坂田蔵人がこの世を去ってしまったため、出産後は京へ戻らずにそのまま故郷である足柄山で金時(金太郎)を育てることになったそうです。

 

一説によれば、金時(金太郎)が生まれたのが、956年5月、幼名が「金太郎」、後に源頼光と出会うのが974年4月とされています。酒呑童子を倒し、坂田金時は武士として源頼光に仕え続けた坂田金時は、九州の賊を征伐するため筑紫国(今の福岡県)へ向かう途中、美作(今の岡山県)で病に伏し、1012年1月11日、死去したと言われています。享年55歳。

 

 

  • 金太郎は雷神の子!?

 

このように、坂田金時は、成長してから源頼光の家来となり、四天王のひとりとして大江山に住む酒呑童子(実際は「山賊」と見られる)を退治したことで有名になりました。その坂田金時の幼名が「金太郎」であったということから、金太郎伝説が生まれたと想定されています。

 

金太郎伝説の中には、金太郎の母親は足柄山に暮らしていた山姥(やまんば)で、父親は山に棲む雷神(赤龍)だったという逸話があります。これによれば、金太郎は、赤い顔に赤い腹掛けをして、鉞(まさかり)を担いでいる理由は、雷神の色は赤で、雷神は火の神であり、まさかりを持っているからだとみなされています。さらに、金太郎は、赤い竜の父である雷神から赤い肌と強い力を、また山の神に仕える女性である山姥からは、心の優しさを受け継いだとされているのです。実際、平安末期の「今昔物語」には、金太郎の母が、「この子は、わたしが山で眠っていたところ、夢の中で赤い竜と通じ、身ごもった子なのです」と語った説話が残されています。

 

ただし、現代に通じる心優しい力持ちの金太郎の印象が確立したのは、「酒吞童子」退治の話しが流布し、江戸時代の近松門左衛門作の歌舞伎や浄瑠璃の題材として演じられるようになってからのことだとされています。これは、坂田金時が生きていた時代の600年ほど後になります。

 

なお、坂田金時が仕えた源頼光は、清和源氏2代目、源満仲の嫡子で、摂津源氏の祖です(詳細は「源氏」参照)

 

<参照>

「金太郎」は実在した?昔話のあらすじや伝説、退治された酒呑 …

昔話「金太郎」のモデルとなった源頼光の四天王、坂田金時とは?

Wikipediaなど

 

 

 

 

 

2020年05月10日

伝承:「桃太郎」は実在していた?

金太郎や牛若丸とともに、端午の節句に飾られる五月人形のひとつとして、桃太郎があります。今回は桃太郎についてまとめました。「桃太郎は皇族の皇子だった」と言われたらビックリではないでしょうか?

―――

 

  • 桃太郎のおとぎ話

 

桃太郎の話しは、室町時代以前にその原型があったと考えられていますが、江戸時代から語り継がれて有名になったと言われています。そのお話しは大方次のようなものです。

 

川で洗濯をしていたお婆さんが、流れてきた桃を拾って、家に帰って割ってみると、男の子が出てきました。桃太郎と名づけられた子が健やかに成長すると、きび団子を持って鬼退治に出発します。鬼が住む「鬼ヶ島」に向かう途中、桃太郎は、犬、猿、雉(きじ)を仲間にして、村の人々を苦しめている鬼を退治します。そして、鬼たちの持っていた財宝を手に入れると、育ててくれたお爺さんやお婆さんをはじめ、村の人々に分け与えて幸せに暮らしました。

 

 

  • 「端午の節供」と桃太郎

 

男の子を持つ親が桃太郎を「端午の節句」で飾るのは、この桃太郎のように、健やかなに成長し、鬼に立ち向かう勇気や力強さを持ち、犬、猿、雉を従えた人望や賢さを兼ね備えた理想の男の子に育って欲しいという期待が込められているからです。また、桃太郎が鬼を退治したということから、わが子にも災厄から身を守る運の強さやがあって欲しいという願望も込められていると解されています。このように、端午の節句の桃太郎は、邪気を払い、子どもの健やかな成長を祈る庶民信仰の対象となっていったのでした。

 

 

  • 「桃の節句」と桃太郎

 

一方、桃太郎は、「端午の節供」だけでなく、「桃の節供(3月3日)」の時にも登場します。桃が昔から悪い邪気を払う神聖なものとして用いられ、その邪気の象徴は鬼とされており、邪気を祓う力のある桃には、鬼を退治する力もあると考えられてきました。また、桃は、不老長寿を与える植物とされるなど長生きの象徴であると同時に、生命を宿す女性も意味するとされるなど女性の象徴でもありました。さらに、旧暦の3月3日は桃の花期にあたるため、桃を用いて行事を行うようになった(「桃の節句」と呼ばれる所以)と言われています。こうした背景からも、桃から生まれた桃太郎が、邪気を象徴する鬼を退治をする民話が誕生し、桃の節供の3月3日にも、桃太郎が取り上げられています。

 

 

  • いろいろな桃太郎

 

ところが、このように昔から親しまれてきた桃太郎のおとぎ話にも、諸説あります。まず、桃太郎伝説の舞台は、岡山県(吉備)と見られています。これは、犬やキジや猿をお供にするきっかけとなったきび団子が「吉備団子」ということからきていますが、愛知県や香川県が舞台という説もあるのです。

 

また、鬼退治をするといった同様の話しは、北海道から沖縄まで、幾つも存在しています。逆に、桃太郎の昔話に中には、怠け者の桃太郎や、腕白な桃太郎もいたり、桃太郎のお供をするのは、犬、猿、雉ではなく、名前に「太郎」の付いた仲間達と旅をするといったように、童話の設定が異なるものもあります。

 

さらに、桃太郎伝説の原型では、「桃太郎は桃から生まれてなかった」のかもしれません。前述したように、桃は古来、不老長寿を与える植物とされていたことを反映していたからかどうか確かではありませんが、明治時代初期までの桃太郎のお話は、「桃を食べたおばあさんとおじいさんが若返って、桃太郎が生まれた」というものであったと言われています。今に伝えられている「桃から生まれた桃太郎は…」の童話は、明治20年に国定教科書に採用される際に、「子供向け」に変更されてからの話しなのだそうです。では、「大人向け」の桃太郎の逸話はあるのでしょうか?

 

 

  • 実在の桃太郎!?

(吉備津彦命の伝説/温羅伝説)

 

桃太郎は、紀元前3世紀頃に活躍した吉備津彦命(キビツヒコノミコト)がモデルであるとする説があります。吉備津彦命は、「古事記」や「日本書紀」などの歴史書に登場する神さまで、第7代天皇である孝霊天皇(コウレイテンノウ)と妃の倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ)の間にできた子です。正確に言えば、「吉備津彦命(キビツヒコノミコト)」は別名で、本来の名前は「五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)」です。

 

孝霊天皇の跡継ぎではなく、将軍という地位だった五十狭芹彦命(後の吉備津彦命)は、第10代、崇神天皇(スジンテンノウ)の御世に、吉備国(きびのくに)(今の岡山県)へ派遣され、その地を支配し人々を苦しめていたとされる温羅(おんら/おんうら)の討伐を命じられ、吉備の地を平定したという伝説があります。五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)は、温羅を討ち取り吉備国を平定したため、後に「吉備津彦」を名乗ったと言われています。

 

吉備津彦命伝説(温羅伝説)によれば、温羅(おんら)は、元々、朝鮮半島の百済(くだら)の王子でしたが、空を飛んで日本に渡ってきた後、吉備の国を支配し、圧制を敷いたとされています。その容貌はといえば、まさに鬼のごとく、「目には狼のような獰猛さを宿し、髪は赤く燃え盛り、身長は4メートルを超えた」と形容され、好き放題に暴れ回っていたと伝えられています。この温羅という「鬼」が拠点とした城を、人々は恐怖の意味を込めて「鬼の城(きのじょう)」と呼んでいたそうです。

 

恐れおののいた人々が都へ出向いて助けを求めたことを受けて、武勇の名将である五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)が派遣されることになったのです。都より大軍を率いて吉備の中山に本陣を構えた五十狭芹彦命は、一本ずつ矢を放ちますが、温羅が投げた岩にぶつかり、一進一退となります。そこで、命(みこと)が、2本の矢を同時に射ると、1本の矢が温羅の左目を射抜きました。致命的な傷を負った温羅は、とっさに雉(きじ)に姿を変え山中に逃げますが、五十狭芹彦命は鷹になって追いかけ、さらに、鯉に姿を変えて川に逃げた温羅を、鵜(う)の姿になって追いかけ、飲み込んで捕えました。最後は、温羅の首を切り落とし、無事に討伐に成功したのです。

 

このように、昔の人々は、鬼のような温羅を討った五十狭芹彦(後の吉備津彦命)を讃え、桃太郎伝説として後世に語り継いでいったとみられています。もっとも、温羅は、大方、討伐されるべき「悪者」として描かれていますが、吉備国に製鉄技術をもたらした渡来人であるという説もあり、その正体は正確にはわかっていません。

 

吉備津彦命(キビツヒコノミコト)も、実在した人物なのかもはっきりしていません。岡山県には、吉備津彦命が実在したと思わせる場所がいくつか残っているそうですが、命が281歳まで生きたと言われていることから、伝説上の人物だという見方が多いようです。

 

 

  • 犬・猿・雉の正体

 

一方、桃太郎のお供についた犬・猿・雉(きじ)は、一体何に由来しているのでしょうか?これについても諸説ありますが、吉備津彦命に仕えた三人の家来のことだったという「家来説」が有力です。その三人とはそれぞれ犬・猿・鳥という名前がついた以下の三人です。

 

・犬飼部犬飼健命(いぬかいべのいぬかいたけるのみこと)
・猿飼部楽々森彦命(さるかいべのささきもりひこのみこと)
・鳥飼部留玉臣(とりかいべのとめたまおみ)

 

犬の犬飼健命(いぬかいたけるのみことは、猟犬を飼育、朝廷に仕えた一族で、子孫は現在の犬飼(犬養)家。猿の楽々森彦命(ささきもりひこのみこと)は、吉備津彦命の軍師的存在で、子孫は現在の高塚家、藤井家。鳥の留玉臣(とめたまおみ)は、百里を飛ぶ能力を持つ術師だったとされ、子孫は現在の鳥飼家、鳥越家とそれぞれ言われています。

 

 

<参照>

端午の節句に「桃太郎人形」を飾るのはなぜ?

なぜ桃の節句というのか? 桃太郎との関係

古代史の旅桃太郎と神武東征伝説(古代史の旅)

桃太郎さん(吉備津彦神社HP)

桃太郎のモチーフとなった温羅伝説とは?(神社CH)

桃太郎と神武東征伝説

 

 

1 2 23