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2020年10月20日

古代史:インカ帝国(アンデス文明)とは?

前回のマヤ文明に続いて、今回はインカ帝国を中心にしたアンデス文明です。2019年8月、秋篠宮家の真子内親王のペルー・ボリビアご訪問の際、インカ帝国のマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に足を運ばれるなど、皇室ともゆかりのある地です。

 

大河沿いに誕生した世界の古代文明と違って、アンデス文明は山間部や高原地帯で発展しました。そのアンデス文明と言えば、まず上げられるのが、インカ帝国でしょう。インカ帝国は、1200年ごろアンデス高原に興り、現在のペルー・ボリビアを中心に南米に拡大した帝国で、マヤ文明、アステカ帝国と共に古代アメリカ文明を代表しています。インカ帝国誕生以前のアンデス文明から、インカ帝国の発展と滅亡の経緯をまとめてみました。

―――――――――

 

  • アンデス文明(インカ帝国誕生まで)

 

<初期入植者の時代(ペルー)>

大航海時代にヨーロッパ人が進出する以前の南アメリカには、アンデス山脈の中央高地を中心に独特の文明(アンデス文明)が発達していました。

 

最初の入植者が、南米ペルーに到着したのは、今から約2万年前とされていますが、考古学上、1万2千年前、アジアのモンゴロイド(モンゴル人)が、マンモスやトナカイを追って凍ったベーリング海峡を渡り、それからゆっくりとアメリカ大陸全域に定住したと考えられています。彼らは、もともと狩猟採集民でしたが、農業が発展するにつれて、集落と文明が出現していきました。

 

カラル文明BC3000年~AD1500)

その中で、今から約4600年前に存在したペルーのカラル文明は、南米というよりも、アメリカ大陸における最古の文明として重要で、その歴史は、メソポタミア、インド、エジプト文明と同じ時代まで遡ります。カラル遺跡はリマ北方にある渓谷に位置し、現在まで大神殿や18の居住区が確認されています。カラル遺跡からは、円形劇場ピラミッドや住居が発掘されただけでなく、30本以上のフルートが見つかったことで話題となりました。

 

チャビン文化(BC1800BC

カラル文明の後、アンデス文明はペルーのさまざまな地域に拡大し、多くの文明を生み出しました。例えば、BC1800年頃から土器の使用が始まり、BC200年頃までに、標高3200mの中部高地に、チャビン・デ・ワンタルという都市が築かれ、いわゆるチャビン文化が発達しました。都市には、縦横に地下通路がめぐらされ、また、都市の外側は薄い石を綿密に積み重ねて作られており、この地域にかなり早い時期から高度な石造建築の技術があったと見られています。

 

このカラル遺跡やチャビン・デ・ワンタル遺跡を初期入植者の文明跡と捉えるとすると、次は、「プレ・インカ(インカ以前)」と呼ばれる、紀元が変わり10世紀までの間に数々の文化が生まれた時代で、複数の小文化圏が散在していました。

 

 

<インカ以前(ペルー)>

 

1世紀には、北部のモチェ川流域に、灌漑農業や日干し煉瓦の都市を生み出していたモチェ文化や、南部の海岸に「ナスカの地上絵」で有名なナスカ文化が興りました。また、ペルー南部の都市アヤクーチョ付近には、二重の壁で都市を囲み、多くの建造物が作られたワリ文化の遺跡が発掘されています。この中でも、プレインカの時代を代表すると言えば、ナスカ文化となるでしょう。

 

ナスカ文化AD10700

ナスカの地上絵とは、ぺルーの乾燥地帯に存在する超巨大な図形群のことで、飛行機で空中から観測して初めて全体を見ることができるという稀有な地上絵です。西暦10年から700年頃に、古代ナスカ人によって作られたとされています(ナスカ文化そのものは800年頃まで栄えた)が、彼らが何のために描いたのか、未だ多くの謎に包まれています。

 

ナスカの地上絵に関する最古の記録は、1553年にスペイン人コンキスタドール(征服者)、シエサ・デ・レオンが書いた著書に登場しますが、当時、シエザは絵であるとは認識してはいませんでした。1927年になって、ペルー人の考古学者Toribio Mejía Xesspeが丘陵地帯をハイキング中に巨大な図形を発見しました。そして、1940年頃、アメリカ人考古学者のポール・コソックが飛行機で上空から調査を行い、その図形が鳥の形をしている超巨大な地上絵であることが確認されました。地上絵の解明作業は、ドイツの数学者マリア・ライヘに引き継がれました。日本でも、2004年から山形大学がその解明に力を入れて研究していてい、40点以上新しい地上絵を見つけています。

 

ここまでは、南米のアンデス文明を構成するペルーで生まれた文明についてみてきましたが、今度はボリビア側からインカ帝国に至る文明を先史時代から概観してみましょう。

 

 

<先史時代(ボリビア)>

 

チチカカ湖南東岸に文明

南米ペルーとボリビアの国境に位置し、またアンデス山中標高約4000メートルにある湖といえば、チチカカ(ティティカカ)湖が有名ですが、そのチチカカ湖周辺には、出土した尖頭器などから、氷期の終わりの頃に既に人類がなんらかの形で定着していたであろうと考えられています。実際、ティティカカ湖の湖水資源が、人類の生活の糧として活用され、チリパ文化へとつながっていったと見られています。

 

チリバ文明(BC1500~BC250)

チリバ文化は、紀元前1500年ごろに、チチカカ湖南東岸に出現しました。BC1000年までに、湖岸の動植物の採取・狩猟による生活が営まれており、BC800年までにはラクダ科動物の飼育や農耕などがなされています。さらに、文明の後期(BC800~BC250)には、祭事儀礼が開始され、基壇や地下式広場といった遺構を発見されています。

 

ティワナク(ティアワナク)文化(BC200~AD1150)

紀元前200年に入ると、ティティカカ湖周辺では、湖東岸にティワナク遺跡を中心としたティワナク文化が出現します。

 

300年から500年にかけて、ボリビアの先住民族アイマラ系の人々によって大神殿など大型祭祀建造物が建てられていました。中でも、祭祀場の跡とされる主要基壇(土台部分)・カラササヤ(遺跡の奥にある広場)には、一枚岩を削って作られた「太陽の門」や、両手で儀仗や儀器を捧げもった大型石彫が立てられています。

 

また、カラササヤ神殿の側には、様々な表情をした丸彫りの人頭像が壁面にはめ込まれた「半地下神殿」もあります。さらに遺跡周辺には、水路をともなった畑の跡も発見されており、作物栽培が行われていたと見られています。

 

ティアワナコ文化は、9 世紀から11世紀にかけて全盛期を迎え、その影響はボリビアだけでなく中央アンデス全域にまで拡大していきました。ティワナクの地は高度4000メートルという高地にあったことから、とりわけ、温暖な東部のコチャバンバや鉱物資源の豊富な南部のアタカマ砂漠方面へ広がりをみせました。さらに、同時期に発展していたワリ文化にも伝播しています。

 

2013年には、現在も観光地となっているティティカカ湖の湖底で、約1500年前の金銀細工や陶器だけでなく、インカ帝国時代の動物の石像など計2000点以上が見つかりました。ティティカカ湖に浮かぶ「太陽の島」はインカ帝国発祥地との伝説もあるくらいです。

 

このように、インカ帝国以前、ペルーではカラル文明に始まりチャビン文化と続き、ボリビアでは、チチカカ(ティティカカ湖)湖からティワナク(ティアワナク)文化が発展していました。こうした先史から古代にかけて興ったアンデス文明が、インカ帝国の誕生とインカ文明の発展に結実していきました。

 

 

  • インカ帝国

 

<概観>

インカ帝国は、13~16世紀(1200年~1500年)にかけて、アンデス山脈中で繁栄した国家で、5,000年以上前に始まったアンデス文明を継承し、高度なインディオの古代文明を発展させました。

 

アマゾン川の源流の一つで、ペルー南部を流れるビルカノタ川渓谷の中腹から高地に定住したケチュア族が建国しました。「インカ」とは、ケチュア語で太陽を意味し、クスコに住んでいたケチュア族の代名詞となりました。やがて、帝国の皇帝も、帝国そのものも全て「インカ」と呼ぶようになったのです。

 

高度な農耕、金属器文化を有していたケチュア族は、高地の巨石文化を統一し、初めてペルーを中心としたアンデス一帯を統一しました。最盛期における勢力範囲は、現在のペルーから、ボリビアおよびエクアドル全域、さらに、コロンビア、チリ(北部)、そしてアルゼンチンにまで、南北4000kmにおよぶ大帝国となりました。

 

なお、インカ帝国の正式な帝国の名称は、タワンチン・スウユ(タワンティンスヨ)です。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、巨大な帝国を東西南北の4地域に分割してそれぞれ地方長官を任命していたことからくる国名でした。

 

南部のクスコを都とし、北には空中遺跡のマチュピチュがあります。ケチュア語を公用語として、太陽を崇拝する太陽信仰の国でした。インカ社会には書き言葉がなかったため、人々や出来事、体験に関する正確な記録や日付は残されていませんでしたが、建築や農業に秀でており、高いレベルの富の分配における制度システムを有していたとされています。

 

 

<インカ帝国の成立>

 

アンデス世界では文字の記録がないので、その起源は定かではありませんが、インカ帝国は、1200年頃に、ケチュア族の中のインカ部族のマンコ・カパックが、中央アンデス(ペルー)南部のクスコに、地方の小王国を建国したことに始まります。この王国はインカ帝国の前身で、クスコ周辺から海岸部へと勢力を拡大していくことになります。インカ帝国では、初代のマンコ=カパックから13人の皇帝が即位しましたが、初代を除く12人の皇帝は実在の人物とされています。

 

 

<アンデス世界の統一>

 

2代から8代にいたる200余年のあいだは、帝国というよりも群雄割拠と呼んだ方がふさわしく、諸部族の小国家(スウユ)が多数あって、インカ部族は周辺諸国と戦闘を交えていました。ところが、15世紀の中ごろ、長年にわたる仇敵であった北方のチャンカ族に勝利すると、第9代皇帝パチャクテク(1438年に即位)は、現ボリビアのティティカカ湖周辺にも勢力を拡げ、近隣諸国を次々に征服しながら、その版図を拡大します。

 

パチャクチ皇帝の在位33年間で、帝国の版図は約一千倍に拡張したとも言われています。こうして、ボリビアの地はインカ帝国の一領土となり、ケチュア語が普及し、高度な都市文明が栄えていきました(この時期の遺跡からは極めて高度な技術水準の建造物や遺物が発見されている)。

 

第11代のワイナ=カパック(在位1493-1525)の時代になると、さらに領土を拡張して、エクアドル、ボリビアからチリにおよぶ、アンデス世界の100万平方km、南北の距離は4000kmに至る広大なインカ帝国が形成されていきました。

 

 

マチュピチュ遺跡

 

インカ帝国といえば、ペルー南部に残る遺跡のマチュピチュで有名です。15~16世紀の建造とされるマチュピチュ遺跡には、標高約2500メートルの断崖上に石組みの神殿や邸宅があり、麓(ふもと)からは見えず「天空の都市」と呼ばれます。ケチュア語で、老いた峰という意味のマチュチュは、ペルー南部のアンデス山中、ビルカバンバの更に山奥にあります。マチュピチュは、第9代皇帝パチャクテクが造った王族や貴族のための避暑地とも、スペイン人侵略期の応急の避難所ととも言われています。

 

マチュピチュ遺跡は、インカ帝国の滅亡から400年後の1911年、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見されました。発見者ハイラム・ビンガムは、映画インディ・ジョーンズの主人公のモデルとなっています。

 

マチュピチュと日本人

なお、マチュピチュは70年前、日本からの移住者が村長だったという歴史があります。福島県大玉村出身の農民だった野村与吉さんは1917年にペルーに移民として渡ると、マチュ・ピチュまでの鉄道建設に携わるなど、マチュ・ピチュの発展に貢献しました。これを契機として大玉村とマチュ・ピチュ村は、友好都市提携を結んでいます。

 

 

<インカ帝国の政治システム>

インカ帝国は宗教と政治が一体化していました。太陽信仰が国家の基本であり、インカ帝国の人々は太陽を崇拝していました。皇帝は「太陽の子」または太陽の化身として統治するという「太陽の帝国」でした。

 

創造神ビラコチャ

インカ神話に現れる最高神が、創造神という意味のビラコチャという名の神です。実際、ビラコチャは、太陽も含めてあらゆる神の上位にいる神で、伝説では、原初の混沌の中に最初に立ち現れた世界の創造主です。

 

ビラコチャ神は、まず、暗闇と人間を創りました。ティアワナコの地で石に彫って創られた人間を、地下にもぐらせ、呼びかけに応じて,各地の山,湖,洞穴などからその地に住む人間として姿を出させたとされています。しかし、ビラコチャが作り出した世界は一片の光もない暗黒に包まれ、人間は闇を這いずり回っていました。そこで、ビラコチャは、再びチチカカ湖に現れて、世界の再創造を行いました。太陽と月、人間、動物を作り、人間たちを特定の地域に配置してその地の民族の起源にしたと伝えられています。

 

太陽神インティ

ケチュア族の人々は、インティという名の太陽の神を天の序列の第一位に置きました(そもそも、ケチュア語で「インティ」は太陽の意)。それは、インカの人々にとって、太陽は農作物の収穫をもたらしてくれる絶対的存在だからです。インティだけが農作物を育て、病気を治してくれる存在であるとみなされていたのです。インティは、世界創造の基礎となる3要素(水・土・火)を統べ、しばしば雷光によって権力を示したとも言われています。

 

伝承では、インティは天の階級の一つの「月」であるママ・キジャを妻としたとされています。ちなみに、マチュ・ピチュには太陽の神殿があり、遺跡の奥に位置する高い山がワイナ・ピチュには月の神殿があります。

 

インカ皇帝

インカの支配者である皇帝は、太陽の化身、すなわちインティの現人神であるとされていました。あるいは、白い顔立ちに髭を生やした姿に変化することもできたと伝えられる創造神ビラコチャが降臨したとも信じられていました。ですから、インカ皇帝は専制的な権力をふるうことができ、数多くの神殿や要塞、道路を建設したのです。

 

このように、インカ帝国は祭政一致の国でしたので、皇帝を支える貴族層と太陽の神殿の儀礼を司る聖職者が存在しました。なお、インカ帝国の正式な名称は「タワンチン・スウユ(タワンティンスヨ)」です。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、国土は東西南北の4地域に分かれ、それぞれ地方長官が置かれていました。

 

 

<インカ帝国の経済>

 

インカ帝国では、内婚制(婚姻を集団内部で行う制度)の下で、2~3の胞族(フラトリー)が構成され、人々は、「アイユウ」という母系的な氏族集団、または生活領域を同じにする集団に所属していました。賦役や兵役の義務もあったとされています。

 

経済は統制経済で、貨幣はなく、物々交換によって経済活動が行われていました。大部分の国民は農民として、トウモロコシやジャガイモなどの栽培や、毛織物の原料であるヤーマ(リャマ)、アルパカなどの牧畜に従事していました。インカ帝国は、文字を持ちませんでした。伝達は口頭によるものでしたが、文字の代わりにキープ(結縄)と呼ばれる結縄が使われていました。キープは、縄の結び目の形や数で、人口や産業、税額や取引額など、数字(数量)情報を記録し伝えていました。

 

また、鉄器はなく、新石器文明に近かったようですが、金・銀や青銅器の鋳造は発達していたとされています。(ただし、青銅器の利用も少なかったとも言われている)。車輪の発明もされず、運搬に車を使うこともなかったので、戦車や荷車は作られませんでした。急峻な地形のアンデス地域では、物資は、人力か、ラクダ科のリャマやアルパカに載せて輸送されました。

 

農業や牧畜、さらに道路網の建設、灌漑施設、鉱山などの事業も公営で行われたころから、インカの社会は「太陽の社会主義」とも呼ばれました。その一方で、文字や鉄器、車輪を知らなかったため、スペイン人に簡単に滅ぼされてしまったとも指摘されています。

 

ここまでの説明なら、インカ帝国の経済基盤を脆弱に感じられますが、道路は、全長3万キロにも及び、エクアドルからペルー、チリ中部まで帝国を縦断するだけでなく、首都のクスコを中心として、東西南北に向かう幹線を道路網が広がっていました。道路は限りなくまっすぐに、二つの地域を最短距離で結びつけるように設計されていたとされ、谷には吊り橋がかかり、石畳の道や階段が整備されていました。インカ帝国は広大な支配地を統治するために、アンデスの産地やアマゾンの密林をつらぬく道路=王道(「インカの道」)が建設していたのです。

 

さらに、沿道にはチャスキと呼ばれる飛脚が、半レグア(2~3km)おきに配備され、クスコまで走って情報が伝えられました。彼らの踏破力は、一日140kmとも250kmとも言われ、情報は猛烈なスピードで伝えられたそうです。

 

 

<スペインの侵略>

 

この偉大なインカ帝国も、1533年に、征服者(コンキスタドール)、フランシスコ・ピサロに率いられたスペイン軍によって征服され滅亡し、以後300年間、スペインの植民地になりました。

 

スペイン人がやってきた頃、インカ帝国内では、皇帝ワイナ=カパックの死後、皇妃との間に生まれた正統な皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが帝位をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となっていました。1532年、結局アタウワルパが勝利を収めて帝位を嗣ぎましたが、時を同じくして、ピサロは、北端のツンベスから上陸して進撃してきました。

 

完全武装したスペイン軍の上陸に対し、アタウワルパは当然警戒しましたが、神託を占ったところ、「しばらく静観して監視を続けよ」という答えだったので、迎え撃つことをせず、(現エクアドル国境に近い)カハマルカという所で、ピサロと会見することにしました。

 

1532年11月、皇帝アタウワルパは、金色の玉座に腰を下ろし、400人の高官と数千のインカ兵に守られて、歩兵110名、騎兵76名、火縄銃13丁などで武装したピサロの「使節」を迎えました(実際、広場にきたのは20人の歩兵で、残りは広場の周囲に潜伏)。「使節」はキリスト教の布教のための平和使節であると称したといいます。

 

ドミニコ会修道士で、従軍司祭バルベルデが、皇帝に対して、キリストの教えを説き、皇帝がキリスト教に改宗することを求めて聖書を差し出しました。アタウワルパはこれを拒否して聖書投げ捨てると、その瞬間、広場の周囲に隠れていたスペイン兵が一斉に射撃を開始し、騎兵が突進してきました。武器を持たず、鉄器(剣)や鉄砲を知らなかったインカ兵は、次々と鋼鉄の剣でなぎ倒されるか、射殺され、広場は一瞬のうちに殺戮の場と化しました。

 

生け捕られ、幽閉されたインカ皇帝アタウワルパは、スペイン人が金に異常な関心を示すことを知り、部屋一杯の金銀を身代金として差し出すなどして、釈放を求めたが、認められず、1533年8月、処刑されました。ピサロは、かつて本国スペインで、アステカ帝国を征服したコルテスと会ったとき、インディオは王が殺されたら抵抗できなくなるから、まず皇帝を殺すことだと助言されていたとの逸話も残されています。

 

処刑の前日、アタウワルパは、改宗したら火あぶりではなく絞首刑にするという、修道士の勧めに従って、死の直前に改宗しました。インディオは火あぶりにされた者の魂は神のもとに行くことも、この世に戻ることもできないと信じられていたそうです。洗礼名はフランシスコ・アタワルパでした。こうしてインカ帝国は、崩壊しましたが、まだ完全に滅亡というわけではありませんでした。

 

 

インカ帝国後…・

 

インカ帝国の皇帝アタワルパを処刑した後、ピサロは、インカ帝国を完全支配するために、傀儡皇帝を立てて、抵抗軍を制圧しながら、インカ帝国の首都クスコを目指し、1533年11月に入城しました。インカでは、人を動かすには皇帝の命令が絶対であったので、ピサロを傀儡皇帝を必要としたのでした。

 

クスコのあまりにも大きく美しい町並みに驚いたスペイン人たちでしたが、すぐに掠奪を開始し、クスコの神殿や宮殿などを徹底的に破壊し、金銀を集めるだけ集めて、延べ棒に鋳造し直しました。黄金で輝いていたとされる太陽の神殿(コリカンチャ)も壊され、その石組みの上にサンドミンゴ教会が建てられました。

 

1535年、ピサロは、本国スペインとの交易の利便性を考え、新しい首都リマを太平洋岸に建設し、そこに移り住みました。もちろん、インカから奪った金銀がつぎ込まれました。

 

一方、この頃、クスコの傀儡皇帝マンコ=インカは、脱走して山岳地帯に逃れ、クスコより北西に位置するビルカバンバを拠点にして、「インカ皇帝」を名乗り続けました。先祖のミイラをクスコからこの地の神殿に移したと言われており、これを「ネオ=インカ国家」と呼ぶこともあります。

 

マンコ=インカは、しばしばスペイン側と交渉し、和平を実現しようとしましたが、スペイン人の際限のない金銀の要求に対して交渉を諦めた後の1536年、マンコ=インカのもとに集結した18万のインディオとともに、クスコを包囲し、インカの反乱を始めました

 

しかし、スペイン軍の火砲、騎兵によって敗れ、翌年までに反乱は鎮圧されました。その後、マンコ=インカも死を迎え、子のティトゥ=クシ=ユパンギ、さらにはユパンギの弟のトゥパク=アマルが皇帝位を継承して抵抗を続けましたが、勢力は次第に弱まり、1572年にトゥパク=アマルは捕らえられて処刑されました。ここに、インカの反乱は終焉し、インカ帝国は完全に消滅しました。インカの皇統も完全に途絶え、インカ帝国、最後の皇帝「トゥパク=アマル」の名は、今でもインディオのスペインに対する抵抗の象徴的な名前となっています。なお、住民らは征服前に宝物を隠そうと湖底に沈めたという伝承も残されています。

 

インカの抵抗を鎮圧する一方、スペイン人たちは、インカ帝国後のアンデス支配の基盤を固めていました。インカを実質的に滅ぼした後の1542年にはペルー副首都が形成され、スペイン王権の属国となりました。スペイン王は植民地を支配するため、王の代理人である副王を派遣していましたが、ペルー副王はリマを首都としてブラジルを除く南米全域を統治しました。スペインの中南米支配は19世紀のラテンアメリカ独立運動が起こるまで続き、この間、カトリックの修道会がペルーの人々にキリスト教を伝えました。

 

一方、ピサロはと言えば、インカの反乱軍を制圧しようとする最中、征服者同士で、財産をめぐる内輪もめの内戦も繰り広げ、ピサロは、インカ帝国征服後、ヨーロッパ人として初めてチリ遠征を行った盟友アルマグロを処刑しましたが、1541年、アルマグロの息子によって、暗殺されました。インカを征服し、彼らの生命と財産を略奪して莫大な富を手に入れた男の最後はあっけないものでした。

 

 

<参考>

世界最大のミステリー「ナスカの地上絵」はどうやって作られた?

(2019/06/21 ディスカバリー・ジャパン)

湖底からインカの石像 ボリビア・ティティカカ湖

(2013.10.9、産経)

ラテンアメリカ文明の興亡(網野徹哉他、中央公論社)

インカ帝国(泉靖一、岩波新書

世界史の窓、Wikipediaなど

 

 

2020年10月18日

古代史:マヤ文明とは?

先日、TVのクイズ番組で、ペルーのマチュピチュ遺跡を特集しているのをみて、今回から、かつて、中南米たくさん存在していた古代文明について、まとめてみようと思うようになりました。まずはマヤ文明からです。マヤ文明というと、10年ぐらい前に、「2012年12月21日に人類は滅亡する」の予言で有名になって、聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。

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<マヤ文明の成り立ち>

 

マヤ文明とは、紀元前1000年頃から16世紀にかけて、現在のメキシコ南東部のユカタン半島から、ベリーズ、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスにまたがる中米地域に成立したメソアメリカ文明(中米における先スペイン時代の古代文明圏)を代表する都市文明です。

 

マヤ文明の栄えた時期は、先古典期(前1800~後250年)、古典期(250~900年)、後古典期(900~16世紀前半)に区分されていますが、その最盛期は、これまで、古典期の紀元後250年から900年くらいまでの時期とされてきました(例えば、8世紀頃には、人口は中世ヨーロッパの人口に匹敵する約2500万人、領域はドイツの2倍ほどの地域であったと想定)。

 

しかし、近年の発掘調査によって、先古典期の後期(紀元前400年以降)に、すでに大規模な都市が存在していたことが明らかになっています。例えば、マヤ文明最大のピラミッドとされる、マヤ低地南部にあるエルミラドール遺跡の「ダンタピラミッド」もこの時期に建設されていました。

 

ただ、いすれにしても、マヤ文明は、巨大な統一王国による統治ではなく、1都市につき6万人から10万人もの人々が、この一帯でいくつもの王国が林立した都市群を形成し、多様な文化を有していたとみられています。

 

古代文明と言えば、ナイル川やチグリス・ユーフラテス川のように、大河流域で栄えたことをイメージされるかもしれませんが、マヤ文明はそれほどの大河が存在せず、川が近くにない場所にも大規模な都市がたくさん構築されていました。

 

では、文明を維持されるために必要な水はどうしていたかというと、例えば、マヤ低地(現在のグアテマラとメキシコにまたがる地域)南部に位置するティカルという所では、意図的に地形を削り傾斜を作ることで、高い所で雨水を貯水し、生活水として活用するだけでなく、使用した生活用水がさらに、低い所にある農地に流れ込むような用水路を築くなど、地形を修正しながら、生活環境を整えていたと考えられています。

 

また、大河流域で形成された他の文明と違って、ジャングル、サバンナやステップ地帯など、さまざまな自然環境の中でも発展することができたという特徴も備えていました。特に、ユカタン半島の密林地帯はコパル樹脂香やヒスイなど、希少品の独占的な産地でした。そのことが、マヤ文明において、王権の権力を誇示する建造物を可能にするなど、他地域に見られない特色ある文明を発達させることができたと考えられています。

 

さらに、マヤ文明では、鉄器は使用されなかったという特徴があります。非常に洗練された石器を巧みに利用して、彫刻やピラミッドなど建造物を作り上げながら、都市まで築くことができる高度な技術を持っていました。

 

そうした環境下、独自の宗教儀礼や世界観を持ったマヤ族は、高度な科学都市文明を形成し、神殿・ピラミッドを建築、20進法による記数法、複雑な象形文字(絵文字)、精密なマヤ暦を持ち、優れた天文学(天体観測)を行いながら、繁栄を極めていました。

 

なお、同時期に発展していた、マヤ文明と並ぶメソアメリカ文明の一つであるアステカ文明とも、当時から互いに交流があり、神話や宗教的な観念、世界観に多くの共通した部分がみられます。

 

 

<マヤ文明の栄華>

 

  • マヤ文字

 

マヤ族は、メソアメリカ(中米)で、初めて文字を使用したことで知られています。紀元前700年から400年頃のマヤ文明の遺跡から発見され、マヤ人は歴史に関する碑文などを石碑や祭壇、階段などに刻んだり、文書を土器などにも刻んだりしていました。

 

マヤの文字は非常に複雑な組み合わせで構成されており、総数は4~5万字といわれ、(単語を見るだけで意味を理解できる)表音文字と(単語を見ればその発音が分かる)表意文字からなっていました。スペインの侵攻により、マヤ文字は使用を禁じられたため、一時は「謎の文字」となってしまったが、現在では約80%の文字が解読されたといわれています。

 

 

  • マヤの天文学

 

マヤ文明では、高度な天文学が発達してました。当時、望遠鏡もない時代に、マヤ人は、時間の計測、地上の事象を把握するために、肉眼で天空を観測していたと言われ、太陽、月、金星などの動きからその周期を読み取り、日食や月食などの天文現象の研究までされていたとされています。その果、太陽と金星の周期をほぼ正確に算出し、そこから精密さの暦も作り出しました。マヤ人は地球が太陽を一周するのは365.2420日と計算しましたが、これは、現在、世界基準となっているグレゴリオ暦の365.0425日よりも実際の1年に近い数値だそうです。

 

 

  • マヤ暦

 

マヤ人だけでなく、メソアメリカの人々にとっては、暦はたんに時間を区切る道具ではなく、彼らの神話にもあるように、暦法と結びついて、宇宙の歴史や未来を予言するものでもありました。マヤ族は、太陽、月、金星などと結びついた太陽暦、太陰暦、金星暦を組み合わせた複雑な暦法を駆使して暦を作りました。こうした暦は、必ず循環し、この循環の中で、神話的・歴史的な事件が必ず繰り返されると考えられました。

 

マヤ暦には、「365日暦」と「260日暦」など、20進法を駆使した、いくつかの種類がありました。(マヤ族は、両手足の指を使って数を数えていたので、20で一桁繰り上がる(一桁目は20で完了する)20進法を生み出していた)。

 

365日(ハアブ)暦」は、日常的な生活のため、特に農耕における種蒔きや収穫の時期を知るために用いられた1年365日の暦でした。20進法を使っていたマヤ族は、一ヵ月を20日(0~19日)と定め、1年は18カ月として、360日(=1月20×18カ月)を1トゥンと呼びました。そこに名前のない5日間をプラスすることで、より正確な1年365日という暦を作りあげたそうです。

 

マヤ族は、儀式や儀式などのために別の暦も使用していました。これが「260日(ツォルキン)暦」と呼ばれる暦で、20の神の名と13の数字の組み合わせによって、1日ごとに異なる神の名がつけられました。そうすると、各月は20日で成り立ち、同じ組み合わせが登場するのに260日(=20×13)かかることになります。

 

例えば、20の神のうち、イミシュ(赤い龍/存在の神)、イク(白い風/呼吸)、アクバル(青い夜/直観)という神がいますが、それぞれ数字と組み合わされ、1・イミシュ、2・イク、3・アクバル……2・イミシュ、3・イク、4・アクバル……と呼ばれたそうです。なお、13というのは、マヤ族の神話で、天上界(天空)は13層からなるという信仰から来ていました(後述)。

 

この「365日暦」と「260日暦」を、歯車のようにかみ合わせて回転させるように組み合わせると、約52年で一巡することから、「循環暦」(「52年周期暦」)という長い年数の暦も生まれました。マヤ文明には、その上にさらに、5125年で一巡すると考える「長期暦」が存在しています。

 

 

2012年世界終末論の真実

 

10年ほど前に、「2012年12月21日に人類は滅亡する」と映画にもなって話題になったマヤ暦でしたが、いわゆる「世界終末論」の根拠はこの「長期暦」にありました。そのマヤ長期暦とは循環暦で、187万2000日で元に戻るという文字通り長い期間の暦で、この数字をマヤ暦の1年(365.2420日)で割ると約5125年の長さとなります。

 

マヤ神話における世界の始まりは紀元前3114年であるとされています。グアテマラにある古代マヤ文明のキグリア遺跡の石碑には、マヤ長期暦の始まりを表す絵文字に「4アハウ8クムク」とあり、これが紀元前3114年であると考えられています。

 

マヤ文明の世界が始まった日を起点にすると、西暦20121221が、5125年目に当たる節目となるために「2012年世界終末論」が流行しました。マヤ長期暦の暦元の日である紀元前3114は、マヤ文明が誕生するはるか前の日であり、それが、2012年12月21日で初めて一巡する日を迎えるとあって、世界から注目されたのです。

 

結局、何も起こることなく現在に至っていますが、元々、マヤ暦は世界が終わることなど予言していませんでした。マヤの預言書とされる「チラム・バラムの書」には、「2012年、4アハウの時、ククルカン(ケツアルコルトル)という神が帰還する」とあり、決して世界が終焉するとは述べられていません。

 

「2012年12月21日を世界の終わり説」は、マヤ暦を一巡する循環暦ではなく、現代の暦に対する考え方と同じように、直線暦ととらえたから、騒がれたと解されています。つまり、2012年12月21日を直線状の終わりの日を指すと「誤解」したのかもしれません。

 

もっとも、メソアメリカの神話には、大洪水によって古い世界が壊滅し、その後現在の世界が始まったとするものが多くあります。実際、大洪水が起こった年を「4アハウ・8クムク」となっているそうで、マヤ神話における世界が始まる前にも「長期暦」が一巡し、古い世界が一度、壊滅したとも推察されています。ですから、2012年12月21日までに、現代の世界にも大天変地異が起きてもおかしくはありませんでした。

 

また、前出の「チラム・バラムの書」には、93600日(約256年)を周期として、争乱・騒擾・破滅の期間が訪れると書かれ、過去におけるスペイン人による征服もこの期間にもたらされたものとされています。

 

 

  • マヤ文明のピラミッド

 

中米グアテマラ北部(マヤ低地)の深い密林の下に、古代マヤ文明の何万もの建造物が眠っているいるとみられ、特に、これまで発掘されたティカル遺跡やエルミラドール遺跡、サンバルトロ遺跡などにあるピラミッドは有名です。ちなみに、前述したエルミラドール遺跡の「ダンタピラミッド」は元々、マヤ文明の建造物の中で最も高い70mを超える巨大なピラミッドだったとも言われています。

 

ピラミッドは山をかたどったもので、人工的な山を象徴したものだと考えられ、マヤ文明では、山と建造物が重なるように建設して、ピラミッドを山と同一視しています。山は、天高く近づける神聖な場所とみなされ、高いピラミッドを作るのは、信仰の対象である太陽にできるだけ近づくためとされています。ピラミッドに使われる石は、人の手だけで切り出され、運ばれて積み上げられていったのですが、どのような高度技術が駆使されたのかは、エジプトのピラミッド同様不明です。

 

また、マヤ文明では、人工の神聖な山であるピラミッドを都市につくり、信仰と公共の祭祀の場としました。ピラミッドのある公共広場の近くには王や支配層が住み、その周辺に農民らが住むことで都市が形成されていったと推察されています。

 

マヤ文明のピラミッドには一番上に部屋がついており、神殿として使われたと考えられています。また、エジプトのピラミッドのように、マヤ文明のピラミッドからも王墓が発見されており、マヤ族は、ピラミッドを神殿として利用しつつも、一部にはそこに王墓も造営されたと考えられています。

 

余談ですが、マヤで見付かった石像の中には、天皇家の「菊の御紋」と全く同じ文様が刻まれているものが見つかっています。

 

マヤ文明のピラミッドの中で有名なものの一つが、「ククルカンのピラミッド」(チチェンイツ・イツァーのエル・カスティージョ)です。「羽毛のあるヘビ」と形容されるククルカンとは、メキシコ中央高原で古くから信仰されていたケツアルコアトルのマヤ語名で、風とハリケーンの神とも言われるそうです。

 

このピラミッドでは、春分・秋分の日の夕方の時間帯のみ、太陽の光がピラミッドに当たると、ククルカン(羽毛のあるヘビ)の形をした影が、ピラミッドの階段上に浮かび上がるのです。それがちょうど神殿から降りてくるように映ることから、「ククルカンの降臨」と呼ばれています。これは、当時のマヤ族が太陽高度と年間の運行を熟知していたことを物語たっています。

 

また、四面体のピラミッドの4面にそれぞれ91段の階段があり、91段×4面で計364。それに頂上の神殿の1段を合わせると一年と同じ365になり、これは365日暦を表現しているとされています。また、階段をはさんで左右の面には、各26コのくぼみがあり、両方合わせて52コのくぼみを、正面から見ることができます。これは、52年周期(=260日暦×365日暦)を表したものと解されています。マヤ文明の建築物にも、マヤ族の暦を生んだ知恵が活かれています。

 

このように、マヤ文明の文字や暦、ピラミッドには、古代マヤ人の独特な世界観(宇宙観)が表現されていることが推察されます。

 

 

<マヤ族の世界観(宇宙観)>

 

古代マヤ人は、世界が天界(天)・地上界(地)・地下界(地底)に分類されると信じていました。天上界は13層に分かれ、太陽、月、金星などの神々が住むところとされ、地上界(大地)は、海の浮かぶワニの背中やカメの甲らのような存在と考えられていました。

 

大地の中心には「セイバの木」という生命の木が立ち(ゆえに「生命樹」とも呼ばれる)、その枝は天上界へ、その根は地下界に繋がって世界を支えていると考えていました。また、雨と雷を司る四人のチャーク(チャック)神が東西南北に、4本の命の木として立っているとも信じられていました。

 

「あの世」として捉えられた地下界は、9層に分かれ、一番下に死の神が住まわっているとされました。ティカルやチチェンイツァなどの神殿からは王墓が発見されていますが、そのピラミッドは9層からなっています。9層のピラミッドは王墓であることが示唆されます。マヤ族にとって、「9」という数字は、「地下=死」を示すものだったと言われています。

 

逆に、生と死は表裏一体であることから、地底は生命の起源と考えられていました。そこで、地下界が乱れると、干ばつや飢饉や疫病をもたらすと畏れられ、地底の神々に対して供物を捧げていたという経緯があります。

 

山には洞窟が多く見られます。洞窟は、豊穣や創造の象徴として、雨や嵐の神々が超自然的な生き物といっしょに住んで、地上の人間の生活に影響を与えている空間と考えられていました。ですから、マヤ人にとって洞窟は、毎日の生活とは違った神聖な場所であり、重要な儀礼の場所であるだけでなく、地下界(「あの世」)に行くことのできる唯一の手段だとみなされました。マヤ文明において、洞窟(セノーテ)は、まさに、大地(地上界)と地下界を結ぶ路で、地下界の王国であるシバルバ(「恐怖の場所」の意)への入口であったのです。そこで、洞窟の中にいる神々と交信したとも考えられています。いくつかの洞窟では、人骨が発見されており、神々への「いけにえ」として捧げられたとみられていることも、洞窟の重要性を物語っています。

 

こうした理由から、マヤの人々は、ピラミッドの頂上にある神殿の入口を、山の洞窟に見立てて建設することで、神殿内部で洞窟と同様の儀式を行っていたと推察されます。このように、ピラミッドは、王を葬り、神々と交信するための建造物として作られたということがわかります。

 

 

<マヤ文明の崩壊>

 

このように、栄華を極めたマヤ文明でしたが、10世紀、メキシコ高原から進出してきたトルテカの勢力や、14世紀頃にあったチチメカ人の民族移動、さらには、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」後、16世紀のスペイン人侵略で破壊され、17世紀末に滅亡しました。

 

しかし、マヤ文明は、スペインの侵略を招く真因となった滅亡の原因、ある時を境に文明は急速に衰退した原因については、未だ謎に包まれているという神秘な文明です。人口が壊滅的に減ったとみられ、あれだけ繁栄を誇った町々が、今や見る影もなく廃墟となって、深いジャングルに覆われてしまっていることも、神秘性を深めています。

 

研究者たちは、滅亡のさまざまな原因をあげているが、どれも決定的なものはありません。例えば、気候変動による干ばつ、焼畑農業などの環境破壊によって食糧生産が滞り、滅亡したという見方があります。または、干ばつで食糧が不足し、危機的な水不足たため王国間の戦争が激化したせいで衰退したという意見もあります。

 

また、外敵の侵入や火山の噴火や自然災害によって滅亡したという説もあれば、疫病や内戦によって壊滅したという説もあります。内戦については、これまでの定説以上に、はるかに破壊的な戦闘行為が繰り広げられていたとの見解も最近では出されています。

 

もっとも、「マヤ文明は突然崩壊し、ジャングルに埋もれた」と言われるように、滅亡は唐突であったのではなく、長い時間をかけて、都市が次々に放棄されていったとされています。さらに、それは、マヤ低地南部において都市が放棄されただけで、マヤ低地北部ではむしろ繁栄を続けていたとの見方もあります。

 

いずれにしても、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」後、マヤ文明の栄えた地域は、16世紀初頭にメソアメリカ一帯に乗り込んできたスペイン人による侵略を受け、マヤ文明は急速に衰退したことは間違いありません。当初、根強く反抗を続けたマヤ族でしたが、17世紀になってカトリック信仰などのスペイン文化を受け入れ、結局、コロンブスの時代から200年近くたった、1697年に最後の王国がスペインに併合され、マヤ文明は滅亡しました。

 

スペイン人は、絵文書や彫刻などの文化遺産のほとんどを破壊しました。マヤ族は、スペイン人による殺戮と新しくもたらされた疫病などで、ほとんどが死亡した言われていますが、マヤの末裔となる人々は今も、800万人以上いて、計30のマヤ諸語を話しながら、マヤ文明の文化的遺産を継承していると言われています。

 

 

<参照>

マヤ文明と終末論の真実(ナショナル・ジオグラフィック)

513 講演―マヤ文明のピラミッド(マヤ文明研究者 Yuの語り)

マヤ文明の高度な技術(草の実堂)

マヤ・アステカ神話の終末(世界の終わりの話、草野巧)

 

古代マヤ人が封印した秘密トンネル、「地下世界への入り口」か

(2018.02.05 CNN)

メキシコでマヤ文明の宮殿発見 約1000年前まで使用

(2019年12月28日、時事ドットコム)

古代マヤ文明の要塞を発見

(ナショナル ジオグラフィック ニュース 2019年3月6日)

古代マヤ文明の滅亡は戦争が原因ではなかった?

(カラパイア、2019年8月16日)

マヤ文明の建造物6万個、空からのレーザー調査で発見 グアテマラ

(2018年2月2日、AFP)

密林に浮かび上がるマヤ文明の遺跡 レーザー技術で発見

(2018.08.18 CNN)

世界史の窓

Wikipediaなど

2020年10月13日

日本史:長崎とキリスト教

 これまでの投稿で日本各地の伝承や世界の歴史や宗教について紹介してきましたが、自分の故郷・長崎のことを調べてみると知らなかった事実などがたくさんでてきました。今回は、特にキリスト教との関連を中心に長崎の歴史についてまとめてみました。

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  • 「大村純忠」の誕生

 

地元の人間としては、長崎県と言えば、戦国大名での肥前大村藩の大村氏、島原藩の有馬氏、平戸藩の松浦(まつら)を思い起こすことができます。特に、大村純忠(すみただ)は、日本で初めてのキリシタン大名として全国的にも知られています。

 

大村氏の先祖は、「海賊王」藤原純友の孫・藤原直澄(なおずみ)とされ、直澄が994年に伊予から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化したと言われています。ただ、大村純忠に至るまで別の説もあり、また、有馬氏が藤原純友を先祖とするという説(あるいは両家とも)もあるなど、大村氏の経歴は明確ではないのが実情です。

 

大村家では、1474年、第16代の大村純伊(すみこれ)の時、島原の有馬貴純(たかずみ)との戦い(中岳の合戦)に敗れた結果、純伊は大村から追放され、唐津沖の加々良島(かからじま)へ逃れました。7年後の1480年、西肥前の豪族の力などを借り、大村の領地を取り戻すことにはなりましたが、この戦いを契機に大村氏は有馬氏の従属下に置かれることとなり、次代の大村純前(すみさき)の時代も、有馬晴純の圧迫を受けます。そのため、大村純前は実子の貴明を、武雄(佐賀藩の自治領)の後藤家に養子として出した上で、有馬晴純の次男・純忠を養子として迎えました。こうして、1550年、有馬純忠は18歳の時、大村家の家督を譲りうけ、大村純忠として、大村家18代当主となったのです。

 

しかし、養子の純忠にしたがわない家臣たちも多く、佐賀の龍造寺氏(竜造寺隆信)、平戸の松浦氏(松浦隆信)、武雄の後藤氏(後藤貴明)などと休みなく戦いをくりかえしました。特に、台頭してきた佐賀城主、龍造寺勢の攻勢を受けるようになりました。こうした苦境にあって、純忠はキリスト教に目をつけ、キリスト教の受け入れと外国との貿易によって富と軍事力を手に入れようと考えます。

 

 

  • 大村藩とキリスト教

 

大村純忠が家督を継いだ1550年は、イエズス会のフランシスコ・ザビエル一行が肥前国平戸(現・長崎県北に位置する)に入り、宣教活動を行うと同時に、ポルトガルの貿易船が平戸港にはじめて入港し貿易が行われた年でした。ザビエル自身は、1か月ほどしか平戸に滞在せず、宣教師のコスメ・デ・トーレスに委ね、京都へ向かいました(トーレスは平戸教会の初代、主任司祭となる)。当時の平戸領主・松浦隆信は、ポルトガルとの貿易は歓迎していましたが、キリスト教には関心を示しませんでした。そのため、平戸での布教が盛んになると、宣教師と仏僧との宗教的な争いや、ポルトガル人と日本人との間で殺傷事件まで発生するなど、ポルトガルと松浦氏と関係は悪化しました。

 

そこで、トーレスは、平戸に変わる新たな港を探すと大村領内の港に注目し、交渉を始めました。当時5つの村を統治していた領主の大村純忠は、横瀬浦(現在の西海市)の港を教会に与え、キリスト教布教を認める代わりに、横瀬浦をポルトガルとの貿易の自由港とするという提案を行いました。ポルトガルもこれに応じて交渉が成立し、1562年7月、横瀬浦で南蛮貿易(対ポルトガル貿易)が始まりました。さらに、翌年1563年6月には、純忠は横瀬浦の地で洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となったのです。

 

もっとも、純忠も最初は、キリスト教の信仰は二の次で、本当の目的は貿易でした。キリスト教に入れば、イエズス会の信頼を得て貿易を拡大できると考えていたようです。しかし、やがて、純忠はキリスト教を信じるようになり、家臣や領民をキリスト教に改宗させ、領内の寺社を次々に破壊していったことから、仏教徒や一部の家臣・領民の反感を買いました。

 

一方、開港後、横瀬浦には、大阪、堺、豊後などから貿易商人らが押し寄せ、活気に満ちましたが、純忠に対する反乱がおき、1563年11月、武雄の後藤貴明が横瀬港を襲撃して焼き討ちにしてしまいました。開港からわずか1年4ヶ月後の出来事でした。しかし、貿易で力を得ていた純忠は立て直し、翌1564年、三城(さんじょう)城を築城し、そこを拠点(現大村市)として、領土を拡大していきます。のちの大村藩領のほとんどは、純忠によってまとめられたとされています。

 

後藤貴明の襲撃後、宣教師達は、横瀬浦の港を放棄し、いったん平戸に戻りますが、キリスト教に寛容な大村領で貿易を望み、新たな港を探します。1565年、ポルトガル船は、(現長崎市から北西に位置する)福田港に来航しました。しかし、外海に面し条件の悪かったため、さらに良港を求めたどり着いたのが、深い入江の穏やかな長崎港でした。

 

 

  • 南蛮貿易とキリスト教の街・長崎

 

大村純忠は、南蛮貿易のさらなる発展をめざし、その拠点を福田浦から隣の長崎(深江浦)の港に移しました。こうして、長崎は、1571年、南蛮貿易の港として開港し、翌年、最初のポルトガル船が入港しました。長崎の港は、大きなポルトガル船が係留するにはとても適した場所だったそうです。

 

開港する以前の長﨑は、鎌倉時代以来、肥前国御家人になった長﨑氏が支配していました。長﨑氏は、戦国時代初期には島原の有馬氏の支配のもとにあり、有馬貴純(ありまたかずみ)の子康純(やすずみ)が長崎氏の養子となって、長﨑氏を相続しました(長﨑康純)

 

この頃の長﨑は、深江浦とも呼ばれ、浜辺にはわずかの民家が点在するだけの一寒村でしたが、大村純忠は、1571年、貿易のための長崎の町づくりを開始しました。開港とともに、当時、長﨑港に突き出した岬(今の諏訪神社前辺りから長崎県庁に向かって長い岬が突き出していた)には新しく6つの町(6ヶ町)が造成され(これを内町と呼ばれた)、貿易の拠点となりました。ちなみに、「長崎」という地名の由来は、この長い岬を「長んが崎」と呼んだことによるとも言われているそうです。

 

南蛮貿易では、生糸や絹織物など輸入されたことに加えて、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられました。なお、当時の領主は、大村純忠の娘婿、長崎甚左衛門純景(すみがげ)でしたが、この新しい貿易都市長崎は、長﨑氏の支配から分離され、大村氏の「直轄地」とされました。

 

また、岬の先端(現在は長崎県庁)には、イエズス会のキリシタン寺院(サン・パウロ教会:岬のサンタ・マリ ア教会)が建ちました。もっとも、長崎におけるキリスト教布教活動は、トーレスの命によって、1567年にすでに始まっており、布教の2年後には早くも長崎最初の教会堂トードス・オス・サントス教会が、ガスパル・ビレラ神父によって建てられました。場所は、長崎甚左衛門がポルトガル商人で医師の免許を持っていたルイス・デ・アルメイダに与えた土地(現長崎市夫婦川町)でした。

 

1570年、ポルトガル貿易港として開港されると、さらに市中には多くの教会や関連施設が建造されるとともに、各地から多くのキリシタンが移り住んできました。同時に、宣教師が訪れ、その布教活動により、キリスト教徒が増えていきました。

 

受洗しキリスト教会との関係を強化しながら、貿易を拡大していく大村純忠に対して、武雄領主後藤貴明、平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)や、諫早領主西郷純堯(さいごうすみたか)、佐賀藩の龍造寺隆信らから攻められますが、ポルトガルからの援軍で幾度となく凌ぎます。しかし、周りの戦国大名からの圧迫によって、大村氏の勢力は徐々に衰退し、貿易都市長崎の大村氏による直轄地としての支配は崩れていきました。これを受けて、貿易都市長崎では、居住している商人たちによる自治組織が、自然発生的に組織されて、大村氏に代わり町方としての自治も始まりました。

 

このように、大村家の長崎に対する支配は弱まり、長崎も自治都市化しつつある状況下、1580年、長崎に攻め込んできた龍造寺隆信との戦いに敗れて降伏した純忠は、貿易の定着と、自らの地位と領地を守るために、領内の長崎(長崎6ヶ町)、茂木をイエズス会に寄進するという大胆な行動にでたのです。イエズス会(ポルトガル)の軍事力を背景に、長崎・茂木は、イエズス会の領地へと瞬く間に変貌し、日本におけるキリスト教の中心地となりました。

 

1584年には、同じくキリシタン大名であった有馬晴信も、浦上を寄進し、浦上村一帯がキリシタンの村となりました。有馬晴信は、もともとキリスト教には関心がありませんでしたが、佐賀の龍造寺隆信の勢力が強くなり、有馬の地を脅かすようになると、晴信は一転して宣教師やイエズス会に支援を求め、1580年、13歳のとき自ら洗礼を受けて信者になりした。

 

1584年3月、龍造寺隆信は数万におよぶ大群を率いて島原半島に攻め込んできた沖田畷(おきたなわて)の戦いで、イエズス会は、大砲を提供して、有馬晴信を支援し、島津・有馬の連合軍に勝利をもたらしました。イエズス会への浦上村の寄進はまさに、晴信のイエズス会に対する謝意の表れでありました。

 

これにより、貿易都市・長崎、浦上村、茂木村が、イエズス会領長崎となり、長崎は実質的に、イエズス会が統治することになったのでした。イエズス会領となった長崎は武装を進めます。特に、キリシタン大名である大村純忠や有馬晴信に脅威を与えている龍造寺隆信を敵視し、イエズス会の中には、大村純忠に対して龍造寺隆信に対する挙兵を促すなど軍事路線を唱える意見もありました。

 

長崎を寄進した後の1582年には、大村純忠は、有馬晴信、豊後(大分)の大友宗麟らと共に、日本初のヨーロッパ公式訪問団である天正遣欧少年使節をローマに派遣しました。4人の少年使節の一人は、大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟である千々石ミゲル(ちぢわミゲル)が含まれていました。彼らは1590年に帰国し、当時世界最高の技術と知識を持ち帰りました。

 

 

  • 秀吉と家康の弾圧

 

この頃、世は豊臣秀吉の時代になっていました。純忠も、1585年、秀吉に恭順の意を示し臣下になり、1587年の秀吉による九州平定の後、所領を安堵されました。純忠は、この後、嫡男の喜前(よしあき)に後を継がせ、引退し信仰の生活に入りましたが、同じ年、病死しました。

 

純忠の死を聞いた秀吉は、1587年、宣教師を国外に追放するバテレン追放令を出し、イエズス会に寄進された長崎(浦上、茂木)を没収しました。秀吉は九州平定後、長崎がイエズス会の領地になっていたことや、神社やお寺が破壊されていたことを快く思っていませんでした。さらに、宣教師たちが関わったいたとされた日本人の奴隷貿易(人身売買)の事実を秀吉が知ったことも要因と言われています。

 

また、1596年には、サン=フェリペ号事件が発生します。土佐にスペイン船サン=フェリペ号が漂着し、水先案内人の「スペイン国王がキリスト教布教により他国を征服していく」という話しを耳にした秀吉は激怒して再び禁教令を出したのです。そうして、京都にいたフランシスコ会などの教徒を捕らえ、長崎に連行し、磔の刑に処しました(26聖人の殉教)。

 

それでも、秀吉は、南蛮貿易は奨励したのでキリスト教の禁教は不徹底でした。実際の個人の信仰については容認していました。そのため、バテレン追放令後も長崎の町は、キリシタンの町として栄え続けました。長崎には日本イエズス会本部が置かれ、外国人宣教師の指導で建てられた教会、病院、学校、福祉施設がたち並び、当時、長崎は「小ローマ」(「長崎は日本のローマなり」)とも呼ばれたそうです。

 

逆に、切支丹(キリスト教徒)たちが、長崎に古くから存在した神社や寺を放火・破壊する過激な行動もあり、長崎領内の寺院、神宮寺、神社などがほぼ全滅になったとも言われています。こうした治安の悪化や、貿易によるトラブルが各地で発生するなど、江戸幕府も看過できない事態となりました。

 

1612年、江戸幕府は、「慶長の禁教令」を全国に発します。宣教師の追放に加えて、キリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊が命ぜられ、2年後には、教会の破却も実施されました。長﨑でも多くの教会が破却され、1626年には、踏絵やキリシタン告発への報奨金制度を設けて、長﨑や浦上のキリシタン摘発がなされました。

 

長崎のキリシタンたちは、長崎奉行の残虐な摘発を恐れて多くのキリシタンが山林に逃げ込みました。山狩りも行われ、キリシタン信徒は捕縛されました。棄教者は直ちに釈放されましたが、拒む者は拷問によって棄教を迫られたと言われています(これ以降、キリシタンは潜伏して信仰を続けた)。

 

かつてイエズス会が領有し、秀吉が没収した長崎は、幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました。その後、徳川の時代の長い鎖国の間、長崎は唯一西洋との窓口として栄え続けました。

 

 

  • それからの長崎

 

一方、純忠の死後、後を継いだ大村喜前は、秀吉による朝鮮出兵において、小西行長に属して戦い、武功を挙げました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属したため、徳川家康から所領を安堵され、徳川政権下で、肥前大村藩の初代藩主となりました。

 

大村喜前は父同様、キリシタン大名でしたが、1602年に加藤清正の勧めを受けて日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧しました。そのため、恨みを買った喜前は、1616年にキリシタンによって毒殺されてしまいました。しかし、その後は、大村家は大過なく明治維新まで存続し、1884年に子爵、次いで1891年には伯爵に列せられました。

 

キリスト教については、明治維新後の1873年、キリシタン禁制の高札が撤廃されると、長崎には教会が建ち並びました。現在、長崎教区は、全国6つの教区の中で最多の130を超える教会堂が存在しています。中でも、離島や農村小規模の巡回教会が60近くあります。こうした教会とその関連する施設は、2018年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、世界遺産に登録されました。

 

なお、日本におけるカトリック信者数は約45万人で、このうち長崎教区の信者数は、東京教区の約9万6000人に次いで多い、6万3000人です。対人口比率では、東京教区が0.5%、長崎教区は4.3%となっており、長崎県のキリスト教人口の多さがわかります。

 

 

<参照>

戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!?(web歴史街道)

大村純忠~日本最初のキリシタン大名~(鳥居正洋の日本史to長崎)

大村純忠と南蛮貿易(大村市)

博物館のオススメ- 旅する長崎学 ~たびなが~

長崎キリシタン考

浦上とキリシタン禁教令(長﨑史談会 幹事 村崎春樹)

ナガジン! – 長崎市

秀吉によるバテレン追放令とは(戦国時代のキリスト教)

Wikipediaなど

 

 

2020年10月10日

憲法:23条(学問の自由)はいかにしてできたか?

前回の投稿では、日本国憲法第23条(学問の自由)を解説しました(「まじめな解説 学問の自由23条」)。今回はこの23条がどのような過程を経て、成立したのかをみてみましょう。

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日本国憲法第23条(学問の自由)

学問の自由は、これを保障する。

 

「まじめな解説」の中でも指摘したように、現在、外国の憲法において、学問の自由を独立した条文として謳っている例はほとんどなく、「表現の自由」など別の規定の中に組む込まれています。

 

ですから、明治憲法にも、学問の自由は保障されていませんでした。そのためか、戦前、時の政権や軍部は、「滝川事件」や「天皇機関説事件」などにみられるように、一部の学説を「危険思想」「不敬」として、その学者が大学から追われたり、その著作が発禁となるなどの弾圧がなされました。

(「滝川事件」と「天皇機関説事件」については、前回投稿を参照下さい)

 

そうした過去の反省から、現行憲法では、独立の条文で「学問の自由」を謳うことにつながったと広く認識されています。ただし、戦後、日本政府による最初の憲法原案(松本案)から日本国憲法が成立までの過程においては、多少の変遷が見られました。

 

まず、マッカーサーの示唆によって始められた帝国(明治)憲法改正作業は、当時の幣原内閣の時に設置された松本烝治法学博士を委員長とする憲法問題調査委員会(「松本委員会」)によって進められ、最初の原案が作られました。しかし、いわゆる松本案には、学問の自由についての規定はありませんでした。

 

もっとも、松本案自体が不十分として、マッカーサーのGHQ(連合国軍総司令部)はこれを拒否し、マッカーサーは自らのスタッフに帝国憲法改正案を作成させ、わずか10日程度で完成させたのがマッカーサー原案と呼ばれる改正案でしたね。そのGHQ案では、以下のように、学問の自由だけでなく職業選択の自由も同時に規定されていました。

 

GHQ

学究上の自由および職業の選択は、これを保障する

 

GHQ民生局スタッフは、一国の憲法原案をわずか10日間で書き上げるには、それなりのたたき台となるものがあるはずです。大概は自国の憲法をまず参考にするところですが、外国の憲法でも学問の自由を独立の条文で規定されていないと前述したように、アメリカ合衆国憲法にも「学問の自由」は明文化されていません。では、彼らは何を参考にしたかというと、世界でもっとも民主的な憲法と言われたドイツのワイマール憲法と、日本の民間団体、「憲法研究会」が作成した「憲法草案要綱」と言われています。実際、両者には学問の自由を定めた条文がありました。

 

ワイマール憲法 第142

芸術、学問、およびその教授は、自由である。国は、これらのものに保護を与え、かつ、その育成に参与する。

 

憲法研究会の憲法草案要綱

国民の言論学術宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布するを得ず

 

現行の「学問の自由」でその解釈の中で通説となっている学は問研究の内容を教授する自由が、ワイマール憲法では、その「教授の自由」が明文化されていたことは注目されます。

 

さて、GHQ案を受けて日本政府が出した案(「3月2日案」)では、職業選択の自由と切り離して、学問の自由を国民」に与えるとしました。

 

3月2日案

すべての国民は、研学の自由を侵さるることなし

 

これに対して、GHQは、学問(研学)の自由を「国民」に限定したことに異議を唱えました。結果として、現行23条と同じ文言の帝国憲法改正案が、最終的な政府案として帝国議会に提出され、そのまま成立しました。

 

帝国憲法改正案

学問の自由は、これを保障する。

 

 

<参考投稿>

憲法:13条(幸福追求権)はいかにしてできたか?

憲法;21条(表現の自由)はいかにしてできたか?

 

日本国憲法の制定過程については、次の投稿も参照下さい

憲法:日本国憲法は9日で書かれた!?

 

 

2020年10月09日

日本国憲法:まじめな解説 学問の自由(23条)

日本学術会議の新会員候補のうち6人の任命を、菅義偉首相が拒否したことについて、任命拒否は「『学問の自由』の核心である学問・専門分野の自律性、自主性への介入」、「学問の自由の侵害」であるといった抗議の声明が出されています。

 

これに対して、今回の問題は、6人の学者が学術会議の会員という「特別職国家公務員」に入れなかっただけで、「弾圧」と呼ばれるものではなく、他の研究者や一般の人々の「学問の自由」には影響はないとする意見もあります。そこで、今回、日本国憲法では、学問の自由をどのように定めているのかを吟味してみましょう。

――――

 

「学問の自由」は、日本国憲法で次のように定められています。

 

第23条

学問の自由は、これを保障する。

 

外国の憲法において、学問の自由を独立した条文として謳っている例は、ほとんどありません。内容からいって。「思想・良心の自由」や「表現の自由」の中で保障されていても差支えないとみられています。明治憲法にも、学問の自由についての規定はありませんでした。

 

では、なぜ日本国憲法では、一つの条文を設けて学問の自由を保障しているかというと、特に、戦前、国家によって都合の悪い学問や研究は、国家の政策にそぐわないという理由で弾圧の対象となってきたという事実があったからです。例えば、明治憲法下での「滝川事件」や「天皇機関説事件」などはその典型的な事例です。

 

滝川事件(1933年)

京都大学教授の滝川幸辰の講義内容が、共産主義的だとして休職処分になり、これに抗議した7教授も辞職したという事件。

 

天皇機関説事件(1935年)

天皇は国家という法人の機関にすぎないという天皇機関説を主張した美濃部達吉、貴族院議員に対して、政府は、美濃部を公職から追放し、その著書を発禁処分にした事件。

 

もともと、既存の価値を批判し、創作活動を行うことを本質とする学問は、時の権力の干渉を受けやすい性質ものであることを鑑みて、そうした「弾圧」が二度と起こらないように、また、その自由が確実に保障されなければならないという反省から、学問の自由が、憲法23条で保障されるようになりました。

 

さて、23条は、「学問の自由は、これを保障する」と簡潔に書かれているので、様々な解釈がなされ、学問の自由には、①学問研究の自由、②学問研究の結果を発表する自由、③大学における教授の自由、④大学の自治が含まれているというのが通説です。

 

  • 学問研究の自由

文字通り、公権力に干渉されることなく、自分が学びたいことを学び、研究したいことを研究できるという意味です。これは、個人の内面にとどまっていることなので、公共の福祉に制約されずに絶対的に保障されます。

 

学問研究への政府による干渉は絶対に許されないが、先端科学技術の研究がもたらす生命・健康に対する権利などへの重大な脅威・危機に対処するために不可欠と判断されれば、必要最小限度の規制を法律によって課すことも許容されると解されています。例えば、先端科学技術の研究を規制した法律として、「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」があります。

 

また、学問の自由は、真理研究そのものに向けられる作用なので、実社会に働きかけようとする実践的な政治的社会活動は、23条の問題ではありません(23条で保障されない)。

 

  • 研究発表の自由

学び研究したことを発表する権利です。こちらは学問研究の自由とは異なり、公共の福祉による制約があります。例えば、ヒトクローン研究が禁止されるなどがその事例です。

 

  • 教授の自由

自分の自由意思で学び研究した内容について、発表するだけでなく教え伝えるという権利です。ただし、研究発表の自由と同様に外部に表明することになるので、こちらも公共の福祉による制約を受けます。

 

具体的には、大学における教授の自由については、判例上も学説上も異論ありませんが、小学校や中学校の先生も自由に児童や生徒に教えることができるのかが問題とされました。現在では、「旭川学力テスト事件」判決が、下級教育機関(高等学校以下の初等中等教育)における普通教育の自由の保障についての一つの指針となっています。

 

最高裁は、この事件についての判旨で、「教師に教育の自由は一定の範囲において存在するが、合理的範囲において制限される」と述べました。つまり、小学校や中学校の義務教育では、一定の範囲での教授の自由は認められますが、教育の機会均等と全国的な教育水準の確保などの観点から、大学と同じように完全な教授の自由は認められないとしたのです。

 

旭川学力テスト事件

全国の中学2・3年生を対象に実施された全国中学校一斉学力テストに反対する教師A(被告人)が、教鞭をとる旭川市立永山中学校で、テストの実力阻止を行い、公務執行妨害罪などで起訴された事件。国が一方的に決めた全国統一学力テストは、憲法23条に規定されている教授の自由に反するのではないかが争われましたが、判決は、学力テストは合憲と判断されました。

 

 

  • 大学の自治

大学の自治とは、大学の内部組織の運営に関して、大学が権力からの干渉を受けずに、大学の自主的な運営に任される原理のことです。

 

なぜ、大学の自治が、学問の自由に含まれると考えられるようになったかは、大学に自治権を認めることによって、国民の学問の自由をより確かなものできるという考え方に基づいています。学問の自由の保障を強固にするためには、学問、研究の中心である大学の自治を制度として保障しようというわけです(憲法学ではこれを制度的保障という)。

 

大学の自治については、特に昭和20~40年代にかけてのいわゆる学園紛争の時代に、警察権との関係で多くの問題が発生しました。中でも、東京大学で発生した「東大ポポロ事件」は、警察権との関係で特に注目されました。判決では、大学の自治には以下の内容が含まれるとされています。

 

1)学長・教授その他の研究者の人事権

2)大学の施設管理権(大学の財政を含む)

3)学生の管理(学生の地位)

4)研究教育の自主決定権

 

ただし、これらの自治権が、同じ度合いで認められるのではなく、人事権は「当然」認めらるとした一方、大学施設や学生の管理については「ある程度」認められると判旨されました。

 

また、「施設が大学当局によって自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められる」として、大学の自治の主体は研究者のものであり、学生は大学の自治の主体ではないと指摘されました。もっとも、学問の自由は、大学における学者だけに保障される人権ではなく、国民すべてに保障される人権であると解されています。

 

東大ポポロ事件

東京大学の構内で大学公認の学生団体「ポポロ劇団」が大学の許可を得て開催した演劇発表会の観客席に、学生の情報収集のために潜んでいた私服警察官が、学生たちに発見されて逃げようとしたものの、学生たちに掴まえられ、暴力を受けた上に警察手帳を奪われた事件で、学生たちは暴力行為等処罰法違反で起訴されました。

 

裁判では、私服警官の潜入が大学の自治に反するのではないかが争われましたが、判決では、この場合の学生の集会は、大学の学問的研究発表の場ではなく、政治的社会的活動であったことから、この時の事件は大学の自治の範囲外であるとして学生側は有罪との判決が下りました。

 

また、私服警官の潜入という行為は合憲と判断されました。その理由としては、大学の自治は、直接には教授その他の研究者の研究活動のためのものであるから、学生が実生活の政治的社会的に当たる集会を開催する場合に、その集会に警察官が立ち入っても、大学の自治を侵害するものではないとされました。加えて、大学の自治も治外法権を意味するものではないから、大学の施設管理権を理由に、犯罪捜査のための警察官の構内立ち入りを拒否することはできないと>結論付けられたのです。

 

このように、学問の自由は広範囲に保障されていると解釈されています。さらに最近では、教師の教育の自由、生徒の学習の自由、学校選択の自由なども、学問の自由に含まれるとの考え方もでています。

 

以上、日本国憲法23条に定められた「学問の自由」を解説してみましたが、今回、菅総理が、日本学術会議の新会員候補のうち6人の任命を拒否した行為は、「学問の自由」の侵害だと思われますか?

 

<参考投稿>

日本国憲法:まじめな解説 幸福追求権(13条)

日本国憲法;まじめな解説 表現の自由(21条)

 

 

<参照>

憲法(弘文堂、伊藤真)など

 

 

2020年10月08日

世界史:ドイツ騎士団とは?

これまで、三大騎士修道会と言われた、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)テンプル騎士団について説明してきました。今回は、ドイツ騎士団についてです。聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団とは異なる展開をみせたドイツ騎士団の興亡は、あまり知られていない東欧史を教えてくれます。

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  • ドイツ騎士団の成立

 

ドイツ騎士団(正式名称「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」)は、1190年、エルサレム陥落後の第3回十字軍中に創設されました。文字通りドイツ人を主体とする組織でした。聖地エルサレムへ赴いたドイツ人戦士を保護するために、リューベックとブレーメンの商人が、聖ヨハネ騎士団の施設をまねて建てた野戦病院が起源で、1192年に、教皇ケレスティヌス3世に承認されました。

 

テンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団より創設が遅れた理由は、第1回十字軍はフランス・イタリアが中心で、ドイツでは神聖ローマ皇帝が叙任権問題などでローマ教皇と対立していたので、十字軍に参加した諸侯はわずかだったからです。しかし、第3回十字軍(1189~1192)では、フリードリヒ1世(バルバロッサ)が本腰を入れて参加したことが施設建設のきっかけとなりました

 

野戦病院は、ドイツ諸侯の保護を受けながら発展し、1198年に、テンプル騎士団を模した聖地の警護も行う修道騎士団に改組され、ドイツ騎士団となり、翌年にはローマ教皇インノケンティウス3世により公認されました。当初は、エルサレムに代わる聖地の臨時首都だったアッコンを本拠地にし、1220年にアッコンの北東に位置するモンフォール城を購入して本部としました。

 

ただし、ドイツ騎士団は、聖地ではあまり活動せず、ドイツに拠点を置き、バルト海方面の異教徒に対する北方十字軍に参加し、東方のスラヴ系の地域に進出していました。

 

 

  • 北方十字軍とドイツ騎士団領

 

1193年、ローマ教皇クレメンス3は、北欧・東欧およびバルト海沿岸地域をキリスト教化するための遠征を呼びかけました。カトリック教国であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドに加えて、ドイツ騎士団や他の修道騎士団も後に参加しました(これを北方十字軍とよ呼ぶ)。

 

現在、ドイツからバルト海に沿って東は、ポーランド、バルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)と続いていますが、当時は様相が異なっていました。まず、バルト海に面した現在のポーランド海岸地方一帯は、地名としてプロイセンと言われていました(ポーランドの支配下にはあった)。なお、この時代のプロイセン人は、後にドイツ帝国を建設するプロイセン人と区別して古プロイセン人と呼ぶことがあります。

 

また、中世のリトアニアは、今と違って、現在のベラルーシ、ウクライナ、ロシアの一部にまたがる広大な領土を保持する大国でした。そして、リトアニアからラトビア、エストニア南部にまたがる地域はリヴォニア(リボニア)と呼ばれていました。

 

さて、北方十字軍の展開ですが、1202年に創設されたリヴォニア帯剣騎士団(リヴォニア騎士団)が、ラトビアからエストニア一帯を征服しました。しかし、プロイセン地方に住むバルト諸部族は強い抵抗を示し、しばしばポーランドに反攻して略奪を行うなど、不安定な状態が続いていました。そこで、このプロイセン人の攻勢に耐えかねたポーランド北部を領するマゾフシェ公コンラートは、1225年にドイツ騎士団を呼び寄せ、プロイセン諸部族に対する防衛を担当させようとしました。

 

ところで、ポーランドに入る前のドイツ騎士団ですが、パレスチナでの十字軍の勢力が弱まり、大きな成果を出せない中、存在意義も失いつつありました。そうした中、1211年、ハンガリー王・アンドラーシュ2世は、ドイツ騎士団に対して、現在のルーマニア中部にあたるトランシルヴァニアに所領を与える代わりに、ハンガリーの領土を異教徒から守る防衛の役割を担うという案をもちかけます。

 

これに応じた騎士団は、ハンガリー国王の配下に入り、活動しました。ところが、自分たちは国王ではなく、教皇に対して忠誠心があることを表明し、ハンガリー王国から独立した領邦国家を形成し始めたのです。この騎士団の動きに警戒心を募らせたアンドラーシュ2世は、1225年、騎士団をトランシルヴァニアから追放しました。

 

ハンガリーから国外追放となったドイツ騎士団が次に向かったのがポーランドでした。マゾフシェ公に招かれドイツ騎士団は、1229年、プロイセン地方における非キリスト教徒の改宗と征服活動に従事する事になりました。ドイツ騎士団は、プロイセン人(プルーセン人)の鎮圧を見返りに、その居住地域を共有する権利を認められ、1230年に、彼らを征服した後、バルト海南岸のマリエンブルク(現ポーランドのマルボルク)を本拠地とする宗教的国家、「ドイツ騎士団国ドイツ騎士団領)」の創設に成功しました。

 

その後もプロイセン地域への拡大を続けたドイツ騎士団は、1260年までにプロイセンの過半を支配下に収め、1283年までほぼ平定させました。こうしてドイツ騎士団による13世紀末までにプロイセンの支配を確立させたのでした。

 

さて、ラトビア・エストニアを征服していたリヴォニア(帯剣)騎士団は、現在のリトアニア北西部に位置するサモギティアを巡って、1236年、サモギティア・リトアニア軍との戦い(「ザウレの戦い」)に敗れてしまいました。そこで、ドイツ騎士団は、リヴォニア騎士団を吸収し、勢力を拡大させました(リヴォニア騎士団は以後、ドイツ騎士団内の騎士団として存続)。

 

当時、リトアニアのサモギティアという場所は、プロイセンとリヴォニア(ラトビア・エストニア)の間に位置しました。このため、ドイツ騎士団にとって、この地を征服すれば、ドイツ騎士団国の領土は一つに繋がるので、是が非でも獲得しておきたい場所でした。ですから、ドイツ騎士団は当然、北欧の大国リトアニアと、さらには東欧の大国ポーランドとも継続的に争うことになります。

 

ところで、パレスチナの情勢は厳しく、1291年、十字軍の最後の拠点アッコンが陥落し、十字軍は撤退を強いられると、ドイツ騎士団は、本拠をアッコンからベネチアに移し、他の騎士団らと共に聖地奪回を図ろうとします。ところが、1307年にテンプル騎士団がフランス王フィリップ4世によって壊滅させられたことを知ると、1309年、ドイツに帰国し、プロイセンのマリエンブルク(現ポーランドの北部の都市)を本拠地とすることで、ドイツ騎士団国(ドイツ人国家「騎士団領」)の経営に力を入れることにしました。

 

例えば、1310年頃までに、バルト海に面した港湾都市、ポメレリアとダンツィヒを、ブランデンブルク辺境伯(11世紀にドイツ人が進出して作った領邦)とともに、ポーランドから獲得しました。海への出口を塞がれたポーランドとこの後、対立することになりますが、これで、神聖ローマ帝国と騎士団領を結ぶ事ができました。

 

こうして、ドイツ騎士団領の領域は、現在のポーランド北部から、バルト三国に及ぶ、バルト海南東岸一帯に拡がる領邦国家を形成し、ドイツ騎士団(国)は、バルト海での海上貿易を抑えるなど、14世紀には全盛期を迎えました。

 

 

  • リトアニア=ポーランド王国

このようなドイツ騎士団の東方進出に対して、危機感を募らせたのが、当時大国であったリトアニアとポーランドでした。そこで、両国はドイツ騎士団領に対抗するために1386年に合同して、リトアニア=ポーランド王国となりました。

 

きっかけは、リトアニア大公ヨガイラが、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚したことでした。しかも、ヨガイラはカトリックに改宗したので、ドイツ騎士団は、リトアニアの異教徒(多神教徒)をキリスト教に改宗させるという戦い(十字軍)という大義名分を失ってしまったのです。そうすると、他のキリスト教国からの人的・物的援助を期待できなくなってしまいます。

 

もっとも、この時期、ドイツ騎士団は、リトアニアにおける内紛に乗じて、念願のサモギティアを得たことで、領土を最大にすることができましたが、ポーランドとリトアニアが同君連合になるということは、ドイツ騎士団国家は両大国に囲まれて、地政学上、極めて不利な状況になりました。

 

1410年7月15日、ポーランド軍とリトアニア軍の連合軍は「ジャルギリス(タンネンベルク)の戦い」でドイツ騎士団に、総長以下、多数の幹部が戦死する壊滅的な打撃を与える大勝利を収めました。

 

その後も、ドイツ騎士団とポーランド=リトアニアとの領土争いは続き、両者は、フス戦争とリトアニア内戦を介しても戦いました。

 

1414年からのコンスタンツ公会議の結果、ボヘミアの宗教改革者フスが焚刑となり、怒ったフス派の信徒が神聖ローマ皇帝ジギスムントに対して起したフス戦争が、1419年から始まると、ジギスムントはドイツ騎士団の協力を求めたのに対して、フス派はポーランド=リトアニアに支援を要請しました。その結果、1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで攻め込みました(最後は和睦)。

 

また、リトアニア大公国では、1431年から大公ヴィタウタスの死去により、リトアニア継承戦争が起きると、対立する両陣営にそれぞれ、ドイツ騎士団(主力はリヴォニア騎士団)・皇帝ジギスムントと、ポーランド・フス派がつくと、騎士団は再びポーランドに侵攻しましたが、1435年の「パバイスカスの戦い」で、リヴォニア騎士団は大敗してしまいました。

 

さらに、ドイツ騎士団は、1454から1466年まで続いたポーランド=リトアニア王国との十三年戦争で敗れました。そのため、プロイセンの西側(西プロイセン)はポーランド王国に組み込まれ、バルト海への出口グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を奪われました。結果として、ドイツ騎士団領はプロイセンの東側(東プロイセン)のみとなり、ドイツ本国と切り離された形となりました。

 

 

  • ドイツ騎士団領からプロイセン公国へ

 

16世紀には、ドイツ騎士団長のホーエンツォレルン家アルブレヒトが、宗教改革を唱えるマルティン・ルターに感化され、カトリックからプロテスタントに改宗しました。その間も続いていたポーランドとの戦いでは相次いで敗れ、1525年4月、ドイツ騎士団はついに、ポーランドに降伏しました。これは、ドイツ騎士団の解体を意味しましたが、ポーランド王ジグムント1世は、実は甥でもあった騎士団長アルブレヒト・ホーエンツォレルンを初代プロイセン公に任命しました。

 

残りのドイツ騎士団領(東プロイセン)もポーランドの宗主下に置かれることになりましたが、結果的にドイツ人国家「ドイツ騎士団領」(西プロイセンと東プロイセン)は、ポーランド王の宗主権の下で、プロイセン公国と生まれ代わりました。(このプロイセン公国が、1701年、ブランデンブルク選帝侯国と合体し、ドイツ帝国の前身となるプロイセン王国に昇格する)。プロイセン公国では、かつてのプロイセンの自治は認められ、その領土の一部は神聖ローマ帝国内に残っていたので、神聖ローマ帝国諸侯の地位を維持しました。

 

また、ここまで、何とか独立を維持していたリヴォニア騎士団も、バルト海への進出を目指すイワン雷帝のロシアと、リヴォニア戦争(1588~61)を戦い惨敗し、1561年に、ポーランド・リトアニア連合に吸収されました(実際はポーランドの宗主下に入った)。

 

これで、ドイツ騎士団領は消滅しましたが、ドイツ騎士団は、形式的には存続し、1761年以降はハプスブルク家が、騎士団の総長を務めてきました。しかし、1809年にナポレオンの命令によって軍事的組織としては解散させられ、以後は現代まで、ドイツ騎士団は、慈善団体カトリックのドイツ修道会として、慈善活動を継続しています。

 

 

<参照>

東方征服 ドイツ騎士団(Zorac歴史サイト)

世界史の窓

世界史の目

中世を旅する

Wikipediaなど

 

 

2020年10月04日

世界史:テンプル騎士団とは?

前回の投稿では、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)について解説しました。今回はマルタ騎士団とともに中世の三大騎士団の一角とされたテンプル騎士団を取り上げます。

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  • テンプル騎士団とは?

 

テンプル騎士団、正式名称「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」は、中世ヨーロッパの宗教騎士団の一つで、第1回十字軍(1096年~1099年)」の遠征後の1119年に誕生しました。

 

第1回十字軍は、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還し、エルサレム王国を創設しましたが、内部対立などから、「事後処理」をすることなく帰国してしまいました。第1回十字軍の後、聖地エルサレムには、ヨーロッパから多くのキリスト教徒が巡礼に押し寄せました。しかし、エルサレムの周りの地区はイスラム教徒の支配地で、エルサレムに向かうキリスト教徒は攻撃の対象になるなど、パレスチナでは、キリスト教とイスラム教の対立が激しさを増していました。

 

そうした状況下、1118年、十字軍国家であるエルサレム王国のボードワン2世の下に、フランスのシャンパーニュ伯ユーグ1世の臣下であったユーグ・ド・パイヤン(ペイヤン)以下9人の騎士たちが集結し、十字軍に代わり、清貧・貞潔・服従をモットーとして、聖地巡礼に向かうキリスト教徒を保護する誓いを立てました。こうして、翌1119年、パイヤンを初代の騎士団長とするテンプル騎士団が生れたのです。

 

これに対して、エルサレム王ボードワン2世は、騎士達の本拠地として、王宮の東側に位置する、かつてソロモン王が創建し、「ソロモンの栄華」で有名な、古代のソロモン神殿(エルサレム神殿)があった場所(「神殿の丘」)を、騎士達に与えました。

 

このソロモン神殿(テンプル)にちなんで、パイヤンらの騎士団は「テンプル騎士団」と命名され、9名の修道騎士達は「キリストとソロモン神殿の騎士達」と呼ばれる騎士団の正式名称にもつながりました。

 

さらに、創設から10年後の1128年、騎士団は、ローマ教皇ホノリウス2世(在1124~1130)から「キリストの貧しき騎士にしてエルサレムなるテンプル騎士修道会」として、教皇に直属する修道会として、公認されました。この教皇認可は、シトー修道会の聖ベルナールから教皇への強い働きかけがあったとされています(聖ベルナールはテンプル騎士団創設にも深く関わったと言われている)。

 

もともと、騎士団のメンバーは、勇敢であるばかりか高潔であるという評判があった中、騎士団にローマカトリック教会の正式認可が下ると、ヨーロッパ中の富裕層からは豊富な資金援助が集まり始めるとともに、騎士団には名門一族の子弟たちからの入会志望者が続出するようになりました。ただし、入会できるのは、騎士の誇りを守るために男子のみで、その祭服は、白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけているのが特徴です。

 

 

  • 十字軍とテンプル騎士団

 

ローマ教会は、1147年、イスラム勢力が再び攻勢に出てきたことを受けて、第2回十字軍(1147~1148)を興しました。この時、テンプル騎士団は十字軍に初参加し、フランス王を救援する活躍をみせました(この時の十字軍そのものは目的を達することができずに退却した)。

 

その後も、約150年近く続いた十字軍の遠征に参加したテンプル騎士団は、常に士気も高く、十字軍の当初目的に忠実に活動した結果、失敗が続く十字軍側で随一の成果を上げたと評価されています。

 

聖地での活躍と幾多の功績に対して、騎士団には数多くの寄進が集まるとともに、様々な特権も与えられました。例えば、修道士や騎士団は貴族らから支援を受けた場合、捧げ物の十分の一を教会に納めなければならないという「十分の一税」をテンプル騎士団は免除されていたと言われています。

 

こうした富の蓄積によって、テンプル騎士団は、「軍事力」に加えて、「経済力」も兼ね備えるようになっていきました。十字軍から護衛料、入会者から入会金をとり、さらに免税特権などもあって、騎士団は財政を自由に運営することができました。また、テンプル騎士団に限らず、修道会は原則、会員は私有財産をすべて喜捨して入会したそうです。そのため会員数が多く、しかも貴族会員の割合が大きいテンプル騎士団には、それだけ入ってくるお金は膨大でした。

 

このように、テンプル修道会は富裕化し、やがて金融業を営むようになりました。現代の「トラベラーズ・チェック TC」も騎士団から始まりました。巡礼者達は、現金を持ち歩かなくてもいいように、ヨーロッパ本国で騎士団にお金を預け、その金銭に相応しい手形書類を受け取り、聖地で現地貨に換金することで、安心して巡礼に旅立つようになったのです。

 

こうした確かな安全と精度の高い金融システムを多くの国にまたがって構築し、テンプル騎士団は巨大な組織に成長していきました。

 

 

  • テンプル「金融帝国」

 

しかし、「第8回十字軍」の遠征後の1291年、十字軍最後の拠点であったアッコンが陥落し、十字軍は失敗のうちに終焉しました。このため、テンプル騎士団の聖地防衛と巡礼者の保護という「聖なる大義」は消滅してしまい、騎士団は、本部をエルサレムからキプロスに移し、本国フランスをはじめヨーロッパへ撤退していきました。

 

十字軍終了後、聖地エルサレムをイスラムに再び奪われたことにより、テンプル騎士団は多くの領地と名誉を失いましたが、それでもそれまで蓄積された莫大な富を生かして、財務管理を含めた今日の「銀行」業務を行うことで、その活動の幅を広げていきました。

 

騎士団は、欧州の王侯貴族への資金の貸し出しを増やしていき、欧州の君主国にとってメインバンク(主力銀行)の機能を果たすまでになっていきました。これは、テンプル騎士団が国際取引を行うことができる銀行シスいテムが歴史上初めて構築していたことを意味しています。このヨーロッパ内の国際金融システムの運営によって、テンプル騎士団は、後に財宝伝説も語り続けられるぐらい財政で巨万の富を築いていきました。

 

テンプル騎士団はまた、ヨーロッパから中東にいたる広い地域で多くの土地を買い占め、農園や果樹園などを運営し、さらに莫大な収益を上げました。アッコン陥落後、本部機能をエルサレムから移したキプロス島もテンプル騎士団が所有していた土地でした。

 

 

  • フィリップ4世の謀略

 

これに対して、一修道士の団体にすぎない彼らが、貪欲なまでに富を追求し、ヨーロッパ諸国の財政を牛耳っていることに対して、「恐怖の騎士団」と批判する王侯貴族や商人が現れてきました。その急先鋒でテンプル騎士団にとって致命的な存在となったのが、フランス国王で端麗王とも呼ばれたフィリップ4(在1285~1314)でした。

 

フィリップ4世と言えば、ローマ教皇・ボニファティウス8世を捕らえたアナーニ事件(1303年)や、教皇庁をローマからプロヴァンス地方アビニョンへ移した「教皇のバビロン捕囚」(1309~1377)を実行した人物です。

 

この当時のフランスは、北方イングランドやフランドルとの戦争が続き、「テンプル騎士団への莫大な借金に喘ぎ、国の財政が危機に瀕していました。この時、フィリップ4世が目をつけたのが、騎士団の膨大な資産でした。

 

巨大な資金力と支配力を誇示していたテンプル騎士団の存在を嫌ったフィリップ4世は、騎士団に対して、負債免除(借金を帳消し)をさせ、その財産を手に入れようと報復を企てます。さらに、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を一つにして、宗教騎士団を自身の管理下に置こうと考えていたと言われています。

 

フィリップ4世は、テンプル騎士団のジャック・ド・モレー総長(団長)にその要求を突きつけますが、当然拒否されます。すると、1307年10月、国王の意を受けたとされる教皇クレメンス5の命令により、モレーを含む数百人の騎士(団員)が逮捕され、異端の罪で起訴されました。

 

テンプル騎士たちは、黒魔術や悪魔信仰、男色行為、児童虐待、キリスト冒涜(反キリストの誓い)などさまざまな罪状で異端審問にかけられました。尋問は凄惨を究め、自白強要のため鞭打ち、足砕き、睾丸責めなどの拷問が行われたと言われています。拷問に耐えた者は衰弱して死亡し、判決は自白した者は終身刑、自白を拒否または撤回した者は偽証罪で火刑となったと言います。彼らの罪状はでっち上げであったとされ、濡れ衣を着せられた多くの騎士たちは火あぶりで処刑されてしまったのです。

 

1311年、ヴィエンヌ公会議開催され、教皇クレメンス5世は、テンプ騎士団の活動停止命令を出し、翌年、テンプル騎士団は、強制的に解散(廃止)させられました。その巨万の資産も大半も政府によって没収されました。また、残されたテンプル騎士団の利権は、聖ヨハネ騎士団に有償で譲渡されています。

 

このように、中世の時代に名をはせたテンプル騎士団は、突然の王権の介入によって、滅亡してしまいました。もっとも、ポルトガル王国の支部のように「キリスト騎士団」と名を変えて存続しているところもあります。

 

5年を超える拷問を耐え抜いた騎士団長ジャック・ド・モレーやメンバーの一部は、解散命令から2年後の宗教裁判を経て火あぶりの刑に処されました。団長モレーは、処刑の日、公衆の面前で「我々は今ここに真実を告げる、騎士団員は全員無実で、自白は偽りで、全て拷問による強要であった」と高らかに演説しました。火中でも最期まで祈り、騎士団の正義とフィリップ4世の非道を主張し続けたと言われています。なお、余談ですが、モレ―は、火中、呪いの呪文をかけたと噂され、実際、フィリップ4世もクレメンス5世も1年以内に死亡しています。

 

 

  • 回復された名誉といま

 

テンプル騎士たちの逮捕と処刑から騎士団の強制解散は、負債免除と彼らの資産没収を行おうとしたフィリップ4世による策略であったことが明白だったのですが、その後、何年も、テンプル騎士団の異端という汚名は、無批判に受け入れられていました。

 

ようやく、19世紀以降、歴史学者らからこれに疑義が呈されるようになり、現代のローマ・カトリック教会は、「テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったこと、また、テンプル騎士団の解散の決定も、当時の社会からの批判に流されたものであった」と結論づけたことから、テンプル騎士団は、名誉を回復しています。

 

なお、テンプル騎士団は、その栄華と没落が極端でかつ唐突であったことから、様々な伝説が語りづかれています。中には、数々の財宝伝説やフリーメーソン発祥伝説など陰謀論(都市伝説)もあります。映画「ダ・ヴィンチ・コード」でもテンプル騎士団が登場しました。

 

また、テンプル騎士団の入会は、秘密儀式が行われていたとか、テンプル騎士団の人たちは、錬金術、数秘学、ユダヤ教のカバラ思想の研究が行われいたとか言われ、謎めいた宗団であったとの指摘もあるなど、現代でも話題を提供してくれています。

 

 

<参照>

テンプル騎士団とは(ピクシブ百科事典)

テンプル騎士団について(バラ十字会日本本部公式ブログ)

5分でわかるテンプル騎士団!

世界史の窓

Wikipediaなど

 

 

2020年10月01日

世界史:マルタ騎士団とは?

国家として認められための三要件(領土、国民、主権)のうち、領土を持たないので国家ではないのに、世界の90を超える国と外交関係を有し、国連にもオブザーバー参加してる「国」のような「団体」があるのをご存知でしょうか?それは中世の時代に産声を上げ、現在にも存続している「マルタ騎士団」です。これまで、中世キリスト教についてみてきましたが、今回とりあえず最後のテーマとして、十字軍とともに創設された騎士団についてみてみます。

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  • 騎士団とは?

 

騎士団というと、剣と盾を持って戦う兵というイメージがあるかもしれませんが、騎士団はすべてが戦うために設立されたわけではありません。第1回十字軍(1096年~1099年)の勝利の後、十字軍は、現在のイスラエルからトルコ南部へ至る地中海沿岸に、エルサレム王国エデッサ伯国トリポリ伯国アンティオキア伯国の4つの主要キリスト教国家を設立しました。

 

騎士団は、この十字軍運動の進展に伴って形成され、修道と騎士精神を滋養しつつ(ゆえに、騎士団のことを騎士修道会とも言う)、騎士として、最初は、病気などになった巡礼者の巡礼の保護を担いました。後に聖地エルサレムや他の十字軍国家の防衛にも当たるようになり、イスラム教徒の軍事力に対する劣勢を補う役割を担いました。さらに、実質的な常備軍として、エルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家を防衛した騎士団もありました。

 

中世に創設された騎士団には、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団が三大騎士団として有名です。この他、スペインなどにもいくつもの宗教騎士団があり、これらは十字軍時代以降も存続し、一つの政治的勢力として活動を継続する騎士団もありました。その筆頭とともいえるのが聖ヨハネ騎士団です。

 

 

  • 聖ヨハネ騎士団

 

聖ヨハネ騎士団は、第1回十字軍(1096~1099)後の1100年頃(テンプル騎士団より15年ほど前)、巡礼保護を目的としてエルサレムで設立された慈善団体で、当初は「エルサレム・ホスピタル騎士団」と呼ばれていました。彼らは、正式名称から明らかなように、聖地エルサレムを訪れる巡礼者が、病気になったり怪我をした時に受け入れる病院や宿泊施設などを管理運営していました。

 

聖ヨハネ騎士団は、1113年、当時のローマ法王より、修道騎士団として公認された後も、巡礼者の安全の確保と医療奉仕を中心に活動を続け、「地中海の看護婦」とも称されていたほどです。しかし、ヨーロッパでは十字軍の遠征が再びなされると、十字軍の戦い(1095~1291)にも駆り出されるようになり、16世紀までは敵対するイスラム勢力と戦うことが主な活動となっていきました。

 

聖ヨハネ騎士団は、イスラム領主が創建した最強の要塞であったマルガット城(トリポリ伯国)を居城として、周囲を統治するなど、キリスト教世界における重要な宗教騎士団の一つとして認知されていました。エルサレムへの主要道路の通行料などの徴収で莫大な富を獲得した一方、聖地を巡礼するキリスト教徒にとって重要な経由地の守護者となりました。

 

当時のマルタ騎士団は、主に、カトリックを信仰する裕福な貴族の名家の男子(次男以下)で構成され、ほかにも、才能豊かな芸術家も騎士団員として迎え入れられていました。また、キリスト教国の王族や領主とも繋がり、さまざまな特権を得ていました。

 

しかし、第9回十字軍(1271~72)の失敗後、1291年に騎士団たちの最後の砦となったアッコンがイスラム(マムルーク朝)に陥落されました。このアッコンの陥落で、聖ヨハネ騎士団は、エルサレムから撤退し、キプロス島に逃れます。さらに、1309年、エーゲ海のロードス(ロドス)島を東ローマ帝国より奪取し、そこを拠点としました(ゆえに、彼らは「ロードス騎士団」とも呼ばれた)。

 

なお、この頃、フランスのルイ4世と反目したテンプル騎士団が、1312年に解散させられ、聖ヨハネ騎士団は、テンプル騎士団の利権を有償で譲り受けています。

 

十字軍が失敗に終わり、三大騎士団の一角も消滅する中、聖ヨハネ騎士団は、ムスリム(イスラム教徒)に対する聖戦の貴重な担い手として、以後、奮闘を続けましたが(ドイツ騎士団は聖地ではなく「東方」で活動した)、1522年、オスマン帝国のスレイマン1世との戦いに敗れ、ロドス島は陥落してしまいました。

 

聖ヨハネ騎士団は、7年の間、各地を転々とした後、1530年に、神聖ローマ帝国カール5世からマルタ島を実質的に供与され(正確には年間の賃料「1羽の鷹」という貸借契約であった)、本拠を地中海の要衝マルタ島に移しました。マルタにいる騎士団という事で、聖ヨハネ騎士団は、マルタ騎士団と呼ばれるようになりました。

 

 

  • 聖ヨハネ騎士団からマルタ騎士団へ

 

マルタ島でのイスラム勢力(オスマン帝国)と、一進一退の戦いを繰り広げる中、1565年、オスマン・トルコが総攻撃を仕掛けてきた大包囲戦「グレートシージ」と呼ばれた戦いも、マルタ側は降伏することなく耐え、オスマン軍を撤退させるなど、マルタ騎士団はマルタ島を死守しました。

 

この戦いの勝利で、マルタ騎士団はイスラム勢力からヨーロッパを守り抜いたと称賛され、後世に語り継がれましたが、17世紀以降、オスマン帝国の力の相対的な低下を受けて、イスラムの脅威が弱まってくると、マルタ騎士団も退廃が始まりました。

 

1798年、ナポレオン率いるフランス軍がエジプト遠征の途中で侵攻し、マルタ島は占拠されました。その際、騎士団は抵抗せず、無条件に島を明け渡し、そのままマルタを去っていきました。この頃のマルタ騎士団は、異教徒から、聖地とキリスト教徒を守るために、剣と盾をもって戦いに身を投じしていた頃の騎士団ではなくなっていました。

 

ナポレオンに島を追われたマルタ騎士団は、再び拠点を失い各地の支持者の領地を転々とした後、1834年、ようやく本部をローマに置くことができました。また、1872年にはマルタ騎士団協会が創設されて以降、騎士団は、世界各地への救急活動、医療品の提供などの活動を続けています。

 

 

  • 現在のマルタ騎士団

 

現在、マルタ騎士団は、正式名称「ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」(通称マルタ騎士団)として、ローマ・カトリック教会の騎士修道会として、存続しています。マルタ騎士団は、中世ヨーロッパ3大騎士団の中でなんと唯一現存する907年の歴史を誇るカトリック修道会の騎士団です。2013年には設立900年を迎えたばかりです。

 

騎士修道会とはローマ・カトリックの下部組織ではなく、「カトリックを信仰する貴族・騎士によって構成された独立国または独立した組織」です。ただ、マルタ騎士団は、ローマ教皇には絶対的に忠誠を誓っているとされ、ある意味、「ローマ教皇の民兵」とも言えるかもしれません。

 

現在のマルタ騎士団は、領土を保持していないので、国際法上、国家として認められていませんが、かつては、ロードス島とマルタ島に拠点となる領土を有していた経緯から「主権実体(sovereign entity)」として位置づけられています。ですから、マルタ騎士団は伝統的に、領土を失った後も、慣例で独立国家と同様の主権を有しているとされているのです。実際、ウィーン体制下の1822年に行われたベローナ会議でも、「領土を失っても国家である」と承認されています。

 

「主権実体」としてマルタ騎士団は、世界の約94か国と外交関係する樹立し、在外公館を保有しているなど、ここでも、伝統的に独立国家と同様の主権を持つ組織として扱われています。もっとも、各国に置かれた外交特権を有する在外公館の規模はNGO(非政府組織)の事務所程度のものであるようです。なお、日本はマルタ騎士団を国として承認しておらず、外交関係も持ちません。

 

一方、国際連合には、1994年に、オブザーバーとして加盟しています。、国際法的に、マルタ騎士団は、「(国連において)オブザーバーとして参加するために招待を受ける実体あるいは国際組織」の一ついう位置づけです。同じようにオブザーバーとして国連に参加している機関には、国際赤十字のようなNGOや、EU(欧州連合)やイギリス連邦のような国家共同体、パレスチナ自治政府などがあげられます。なお、オブザーバーの場合、国連総会の議事に参加できますが、主権国家の加盟国と違って投票権を持ちません。

 

また、「主権実体」としてマルタ騎士団の首都(本部)はローマ市で、1834年に設置されました。現在、騎士団事務局が置かれています(騎士団事務局を一種の大使館と見なすという見方もある)。

 

騎士団には領土はありませんが、本部として所有している建物が、騎士団のすべての主権範囲です。本部ビル内は「マルタ騎士団国」として、イタリアから自治と治外法権が認められた領域です。ただし、その建物もあくまでイタリアの主権範囲で、事務局の敷地はイタリア領です。ローマ教会のバチカン市国と違って独立領土としては認められておらず、マルタ騎士団はどこまでも、実質領土のない「国」なのです。従って、マルタ騎士団への「入境」にはイタリア入国とは別の許可が必要となります。

 

人口(団員数)は約1万1千人ですが、ここでいう人口とは団員数(騎士の数)で、騎士団に所属しています。公用語はイタリア語。首長は、騎士団総長で、伝統的にローマ教会より枢機卿の任命を受けます(これは名誉職的な意味あいが強いとされる)。マルタ騎士団のトップ幹部は全員男性で、すべて聖職者ではありませんが、清貧、貞潔、そして法王への服従という誓願を行っているそうです。また、騎士団では記念コインや切手、パスポートも発行しています。

 

このように、マルタ騎士団は、現在、設立当初の目的であった医療従事活動をはじめ、難民が発生したり、災害があった地域などで様々な奉仕活動を世界各国で行っています。複数の主権国家とも外交関係を結び、国連にもオブザーバーとして加盟しているほど、今も影響力の大きい団体です。

 

なお、現在、かつてマルタ騎士団が領有していたマルタ島には、騎士団が、1798年にナポレオンによってマルタ島を追われてから、マルタ島に住み着いた人々が、マルタ騎士団とは別の主権国家「マルタ共和国」を樹立しました。フランスの後にこの地を治めたイギリスから独立する形でした。現在、マルタ共和国は、EUに加盟し、ユーロも採用しています。

 

 

<参照>

現存する騎士団!?マルタ騎士団って何?

マルタ騎士団の歴史と成り立ちをご紹介 | マルタ留学FUN!

マルタ騎士団とは (マルタキシダンとは) [単語記事] – ニコニコ …大百科

マルタ騎士団という国 | 地中海の真珠、マルタ共和国へ

マルタの歴史、日本マルタ友好協会

世界史の窓

Wikipediaなど

 

 

2020年09月29日

キリスト教:異端と魔女狩り

前回の投稿「修道院運動の盛衰」でドミニコ修道院が積極的に異端尋問に関わったことにふれましたが、今回は中世におけるキリスト教会の異端尋問と魔女狩りについてまとめてみました。

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  • 異端とは?

 

ローマ・カトリック教会において、異端は、「悪魔が神の意に反する誤った教えを神の教えのように見せかけて人々を騙すこと」と考えられ、異端者とは、「キリスト教徒を名乗りながら、正統な教えから外れる信条を持つ人」のことを言うと定義づけられています。

 

もっとも、最初は、多神教徒をキリスト教化する布教の段階では、まずキリスト教徒にすることが重要と考えられ、教義の細かな違いには寛容だったそうです。ですから、各地の教会では現地の異教由来の風習が残っている所もあり、初期キリスト教会は、地域色が強くでていたと言われています。

 

それが、11世紀のグレゴリウス7世による教会改革(グレゴリー改革)で、「教皇庁(教会本部)で決めた教えが全てのカトリック教会で同じように伝えられるべき」と教義の統一が重視されるようになりました。それ以降、異端とは、「ローマ教皇庁の見解から外れる考え方や信条」とされ、異端(者)は忌み嫌われるようになりました。この11世紀以降、ヨーロッパのキリスト教社会では教皇権が絶頂に向かう時期でもありました。

 

その一方で、1095年から始まった十字軍の影響で盛んになった東西の交流の過程で、新たな思想も流入するようになると、ローマ教会の権威を否定し、ローマ教皇庁の教義とは異なる「異端」の考え方も各地で広まるようになりました。

 

 

  • ワルド派とカタリ派

 

異端とされた中世の代表的な宗派が、12世紀末に現れたワルド派とカタリ派です。いずれもペルシア起源のマニ教の影響を受け、善と悪、精神と物体など二元論的な世界観を持っています。その教義は、教会の権力や富を否定し、イエスの時代に帰り、清貧を有るべき信仰の姿と考えて実践しようとする共通性がありました。

 

ワルド派

ワルド派は、フランス王国のリヨンの富裕な商人であったピエール=ワルドーが、1173年に、その家財をなげうって、使徒の生活にならった清貧を実践しながらキリストの福音を広めようとしたことから始まりました。その信奉者は「リヨンの貧者たち」と言われ、ワルド派は、リヨンを中心にフランス南部に広がっていきました。

 

当初は熱心な布教団体としてローマ教会からも認められていましたが、彼らの活動が教会の聖職者の統制の外で広がっていくことに警戒するようになったローマ教皇庁は、1179年、ワルド派の信仰に対し、神学者に審判に当たらせ、1184年に異端と断定しました。しかし、ワルド派は南フランスからイタリアのロンバルディア、さらにドイツ、スペイン、ボヘミアに拡大していきました。

 

カタリ派

カタリ派は、もともと10世紀半ばに現れ、12世紀にワルド派とともに広く知られるようになり、中世の最大異端セクトと言われました。彼らは南フランス、アルビを中心としたトゥールーズ伯領に集中していたことから、アルビジョワ派(アルビ派)とも呼ばれました。

 

その根本思想は、「神により創造された精神が、悪により創造された肉体・物質に囚われている」というもので、清浄派・清純者の意であるカタリ(Cathari)という宗団名からも類推できるように、彼らは、極度に禁欲的な戒律を奉じました。また、カタリ派(アルビジョワ派)は、旧約聖書やローマ教皇の権威を認めず、ローマ教会を悪魔の教会として攻撃するなど、過激に教会制度を否定し、自らがキリストの真の教会と主張しました。

 

当初は正しい教えの説教・説得により解決を計ったローマ教皇庁でしたが、その広がりを抑えられず、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)は、フランス国王フィリップ2世に十字軍派遣を要請し、1209年から20年にわたる「アルビジョワ十字軍」が実行され、ルイ9世の時代、1229年に殲滅され消滅してしまいました。

 

ワルドー派やカタリ派は、もともとはキリスト教を改革しうという民衆運動に端を発したもので、特に清貧運動をルーツとしています。その意味では、フランシスコ会などの托鉢修道会と共通するものがあるという見方もできます。しかし、両派の拡大や過激な主張(特にカタリ派)は、当時、領主のような地位であったカトリック教会のローマ教皇以下の高位聖職者にとっては、自己の権力や富を否定されることであるので、異端として弾圧したと見られています。

 

 

  • 異端審問から魔女裁判へ

 

「アルビジョア十字軍(1209~1229)」の後、ヨーロッパにおいて激しい異端審問が実施されるようになりました。インノケンティウス3世の時代から、反教会的な異端の取り締まりの最前線の役割を担うこととなったのが、ローマ教皇公認の修道会でした。中でも、13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになりました。フランシスコ会も、その極端な清貧の勧めで、当初は自らが異端認定されそうだったのだが、公認を受けると、やがて異端審問を担うようになったのは皮肉なことです。

 

異端の撲滅のために、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)は異端審問官を設置し、異端狩りのために各地の司教から独立した権限を与えました。異端審問を独自に行うことが出来るようになった異端審問官は、強引な異端審問と認定で怖れられ憎まれる存在となり、教皇から直接異端審問官に任ぜられた最初の一人であったドイツのコンラート・フォン・マールブルクは、悪名高い審問官の一人で、1233年暗殺されています。

 

異端に対する徹底的な撲滅がめざされるなかで、異端は魔女と結びついているとされ、14世紀には魔女そのものを取り締まる「魔女裁判魔女狩り)」が行われるようになりました。「魔女狩り」とは、中世のキリスト教世界で行われた異端を排除するために行われた宗教裁判のことで、13世紀当たりから盛んになっていきました。

 

そもそも魔女とは、キリスト教以前の多神教の時代から存在していた古いヨーロッパの俗信で、古来の神や精霊など超自然的な力を得て、奇跡を起こした人々をいい、一般的に、魔女は呪術を使って人々に害を及ぼすと信じられていました。後に、キリスト教が盛んになってくると、魔女は、悪魔と契約して、超自然的な力を持って妖術(邪悪な術)を行い、悪魔と通じて人を破滅に導く者(女性)を指すようになりました。もちろん男性を指す場合もあり、魔女は、魔術師・呪術師とも呼ばれました。

 

魔女が行う人の心を惑わす不思議な術(行為)が魔術で、悪い魔術を黒魔術といい、黒魔術を使ったと見なされれば容赦なく拷問や神判に掛けられ、有罪ならば処刑されました。一神教のキリスト教では、最初から魔術を多神教徒の迷信として否定していました。ただし、悪魔は、人々を惑わせ、神の教えから離れさせ、悪の道に誘い込む存在ですが、それほど強い力は持たず、全知全能の神の下で、人間の信仰を試す役割を持つとされてきました。「この世は神の摂理に従っており、正しい信仰を持っていれば怖れるに足らない」とされてきたのです。

 

しかし、既にみてきたように、急激に異端に対する恐怖心が煽られた11世紀以降、多くの人が魔女として迫害されるようになり、特に、14世紀はこの傾向が顕著になったのでした。その背景には、「14世紀の危機」と言われた社会不安がありました。天候不良による飢饉に加えて、この世紀の半ばに大流行した黒死病(ペスト)が社会不安を一気に煽る形となりました。

 

ペストは、総人口の3割以上が死亡したとされ、地域によっては人がいなくなった村もあったとすら言われる、前代未聞の大災害となりました。当時、これを悪魔の仕業と考え、聖書の黙示録にあるように、悪魔とその信奉者たちがキリスト教徒に戦いを仕掛けていると考え、恐怖に怯えるようにさえなったと言われています。

 

また、十字軍の失敗に続く、教会大分裂(大シスマ)(1378~1417)で、ローマ教会の威信が低下し、教会への批判が強まります。カトリック教会はこの批判を抑えるために、ますます、厳しい異端尋問を行うだけでなく、魔女そのものを取り締まる「魔女裁判(魔女狩り)」が行われるようになったのです。

 

15世紀に入ると、異なった信仰を持つ者はもちろんのこと、悪魔と契約した魔女、悪魔の力を呼び出す黒魔術を使う者も積極的に異端審問で裁かれることになりました。「魔女」は異端とは違う悪魔崇拝者として激しい迫害を受けました。密告によって、女性でも男性でも魔女だと訴えられると魔女裁判で拷問にかけられ、自白させられて魔女と断定されると、火刑などに処せられました。魔女裁判が盛んに行われると、「魔女狩り」はあらゆる反社会的存在に及ぶこととなり、その犠牲者が増えていきました。村落内でも、異分子を探し出し異端として弾劾することで秩序を維持する傾向が出てきました。

 

また、社会の中で孤立している弱者を、魔女に仕立て上げて、社会の不満をそらす意味合いがあったとされています。実際、黒死病の流行した時代には、魔女の仕業として、ユダヤ人が捕らえられました。

 

さらに、1414年のコンスタンツ公会議では、聖書中心の信仰を説いたウィクリフフスは、異端として処刑されました。また、英仏の百年戦争(1339~1453)の最中、フランス軍の救世主となったジャンヌ・ダルクも、イギリス軍によって捕らえられ、魔女として焼き殺されました。異端尋問や魔女裁判はしばしば政治的にも利用されたのです。加えて、王権も異端審問を主導するようになり、不満分子を異端として一方的に弾圧したり、財産を没収することが行われました。

 

 

  • ルネサンス・宗教改革と魔女狩り

 

近代の曙と呼ばれるルネサンス時代には、ヒューマニズム思想が興り、人間の尊厳や自由が意識され、文学や科学の面でも新しい知見がもたらされましたが、カトリック教会は地動説を異端とするなど、時代の流れに対応できませんでした。結果的に、教会の権威はさらに揺るがされました。

 

民衆の中の魔女に対する恐怖心も無くならず、16世紀の宗教改革の時代に、むしろ魔女狩り(魔女裁判)は頻発するようになりました。これは、魔女狩りが、カトリック教会だけでなく、プロテスタント側も盛んに行ったことにあります。新旧両派が、敵対する他宗派の人間を魔女であると告発するようになり、共同体から排除しようとしたからです。彼らの非寛容の行為は、1600年頃を最盛期に、18世紀まで続きました。理性と合理性の時代とされる近代になっても、また魔女の存在は信じられ、恐れられていたわけです。最後の魔女裁判は、イングランドが1717年、フランスが1745年、ドイツが1775年、スペインが1781年、イタリアが1791年という記録が残されています。

 

現在では、異端審判や魔女狩りは、人類史上でもまれな「神の名による大犯罪」とされ、そこに、イエスの精神はほとんどありませんでした。最終的に、ローマ教会は、1971年2月4日、「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、20世紀後半になってようやく、異端と破門の問題は終わりを告げました。

 

 

<参照>

Zorac歴史サイト – 魔女と異端

世界史の窓、Wikipediaなど

 

 

2020年09月27日

キリスト教:修道院運動の盛衰

以前の投稿「カノッサの屈辱」の中で、グレゴリウス改革が模範としたクルニュー修道院やベネディクトゥスの戒律について言及しました。今回は、中世のキリスト教に影響を与えたこれらの修道院の活動を掘り下げてみたいと思います。

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古代の迫害の時代とは異なり、総じて平和な中世の西欧キリスト教世界においては、「命がけの信仰」は求められなくなり、信仰は「修道」によって表明されました。

 

修道には、ローマから退き、世俗から隠遁して一人で生活する場合もありますが、中世ヨーロッパでは、共同体を作って清貧をモットーに各地につくられた修道院での生活をさしました。修道院は、一般信徒の集う教会に対して、世俗から離れて修行に打ち込む修道士が共同生活を送る信仰の場です。また、修道院は、聖書の研究など古典文探求の場でもありました。

 

一方、教会の政治的経済的基盤も不安定な中で、聖職者の中には、安逸に流れ、華美な生活を送るなど腐敗堕落した者すら出てきました。そうした中、イエスの生きていた時代の純粋な信仰からは次第に乖離していくことに対して、本来の信仰に戻そうとする修道士や修道院が現れ、数次にわたって修道院を中心としたローマ=カトリック教会の改革運動がおきました。それらの運動を総称して修道院運動といいます。中世では、以下のおおよそ4つの修道院運動が起きました。

 

6世紀:ベネディクト派の修道院運動
11世紀:クリュニー修道院による改革運動
12世紀:シトー派修道会による改革運動
13世紀:托鉢修道会による改革運動

 

 

  • ベネディクト派の修道院運動

 

西ヨーロッパにおける本格的な修道院は、529年、ベネディクトゥス(480~550)がローマ南方の山中に建設したモンテ=カシノ修道院が最初のものでした。モンテ=カシノ修道院では、服従・清貧をかかげ、祈りと労働をモットーとした修道士の集団生活が行われ、多くの優秀な修道士が育成されました。厳しい修行に身を置いたベネディクト派の修道士はヨーロッパでの布教に大きな役割を果たしました。

 

ベネディクトウスは、晩年に近い540年頃、「祈り、働け」をスローガンとした73章から成る修道会則、「ベネディクトウスの戒律」を執筆し、長い間、宗教的な規範とされ、後世の修道院運動に大きな影響を与えました。「ヨーロッパ修道院の父」と言われる聖ベネディクトウスは、イタリア中部ヌルシアの古代ローマ貴族の家系に生まれ、モンテ=カシノ修修道院で生涯を過ごしたとされています。

 

なお、自らもベネディクト派の修道士生活を送った経験を持った言われるローマ教皇グレゴリウス1世(在590~604)は、修道院活動を支持して、ベネディクト派の修道士をゲルマン人布教のためにヨーロッパ各地に派遣したとされています。

 

 

  • クリュニー修道院の改革運動

 

「ベネディクトウスの戒律」の継承者

 

フランク王国の保護のもとでローマ教会は安定しましたが、フランク王国の解体、ノルマン人の侵攻と言った変動の中で、9~10世紀にかけて、教皇を頂点とした教会・修道院に、聖職売買や聖職者の妻帯など腐敗堕落が表面化するようになってきました。そうした世俗化したキリスト教会・修道院に対して、本来の信仰主体の回復をめざした修道院運動が、910年、フランス東部ブルゴーニュに創建されたクリュニー修道院によって開始されました。

 

クリュニー修道院(クリュニー修族/クリュニー会)は、清貧と神への献身と厳しい自己鍛錬を信仰の柱とした6世紀の「ベネディクトゥス戒律」の厳格な遵守を掲げ、ベネディクト派の質素で規則正しい修道士のお生活を復活させる改革運動を展開しました。また、世俗の権力から離れるために、ローマ教皇に直結する組織形態をとったことも特徴です。

 

黒い修道士」と呼ばれたベネディクト修道会にあやかり、クリュニー修道院の修道士も「黒い僧衣」をまとい活動しました。クリュニー修道院では、規律の遵守とともに、典礼(祈りの儀式)が重視されました。ベネディクトゥス戒律のスローガンである「祈り、働け」の反映です。

 

修道院そのものは、フランスの地方君主アキテーヌ公ギヨーム1世が、ブルゴーニュのロワール県クリュニーの地にあった自分の荘園を教会に寄進して建てられましたが、1088年から1130年にかけて「第三教会堂」と呼ばれる大型の付属教会堂(聖堂)が増築されるなど、クリュニー修道院は、最終的に巨大な建物となりました。17世紀に、バチカン(ローマ教皇庁)のサン・ピエトロ大聖堂が再建されまでは、クリュニー修道院・第三教会堂が「ヨーロッパ最大の教会堂」でした。

 

クリュニー修道院は、きわめて高名で影響力のある修道院長を輩出しました。最盛期の頃の第5代修道院長オディロン(960~1049)はローマ教皇や神聖ローマ皇帝に並ぶ権威をもっていたと言われています。

 

歴代の修道院長に有能な人物が続いたこともあって、都市部だけでなく、農民や貧しい人達の救済を通して、地方への布教を行い、最盛期の11世紀から12世紀の半ばにかけて、クリュニー修道院は、中世ヨーロッパ最大の教団会派に発展拡大していきました。フランスのみならずヨーロッパ各地に建てられた管轄下におく修道院は1200を超え、修道士は2万人を数えました(影響下にある修道院となると1500とも2000とも言われる)。

 

クルニュー修道院の衰退

 

ただ、クリュニー修道院の「栄華」も長くは続きませんでした。クリュニー修道院は、ローマ教皇直属の教団であり、教皇の権威を絶対視しているが故に、形式を重視する傾向が強くなり、修道院が巨大化・権威化するにつれて、儀式・典礼が極端なまでに厳粛、豪華になっていきました。

 

一日の生活中、学習や作務にさかれる時間よりも、日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われました。例えば、修道士が全員参加する豪華な典礼や壮麗な連祷(司祭と会衆とが交互に唱える連続した祈り)などが重要視され多くの時間を注がれる傾向が強くなっていきました。なお、中世の多声音楽(ポリフォニー)は、クリュニー修道院で発展していったとも言われています。

 

それに合わせて、修道院自身も、豪勢な建物と装飾を誇るようになりました。教会建築は、永遠なる神の全能を人々の目にみえるかたちで表現することが求められ、教会堂は異常に高いヴォールト天井や見事な柱頭彫刻が用いられ、さらにその内部は、あらゆる細部にいたるまで、過剰ともいえる装飾を施す事が重要であると考えられるようになったのです。同時に、高位の聖職者や聖務する修道士の日常も華美と豪華になり、彼らの生活は著しく贅沢になっていきました。

また、庶民に高い税を求めたり、死後の救いを願う国王や有力諸侯らから、土地や財の寄進や、多額の献金を受けるようになり、修道院には富が蓄積され、修道院側もそれを望ようになっていきました。

 

教団創立から数世紀を経過する間に、莫大な資産と宗教的な権威を背景として、クリュニー修道院の権力は膨張・拡大を続け、王侯貴族を遥かに凌ぐほど強力であったと言われています。クリュニー修道院は、創建の大修道院を頂点とした、中央集権的な巨大ピラミッド型の封建的組織へと変貌していきました。

 

こうして、「ベネディクトウスの戒律」を尊守しながらも、クリュニー修道院は、「祈れ、働け」というベネティクトゥスの戒律の基本のうち、労働よりも「祈り」に偏ったため、本来の「清貧」が忘れ去られてしまいました。結果的に、神聖たる修道会は宗教的な規律と基本理念を失ったのです。こうして、修道院としての清貧が失われ、本来の質素な修道院から再び離れていったところで、クルュニー修道院の凋落が始まり、次に登場するシトー派修道会や托鉢修道会などの台頭をうけ、13世紀には完全に衰退していくことになるのです。

 

グレゴリウス改革

 

クリュニー修道院の発展の過程で、その影響を受けた聖職者がローマ教皇に選ばれるようになりました。最初は、キリスト教会の東西分裂の時の教皇となったドイツ人のレオ9世(在位1049~1054)でした。レオ9世は、聖職者の粛正の第一歩として、当時横行していた聖職売買(司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引したり、相続の対象とすること)と聖職者妻帯の禁止を宣言し、また慣例となっていた皇帝による聖職叙任権(司教や修道院長の任命権)を否定するなど改革派教皇の先駆けとなりました。

 

その改革は、グレゴリウス7世(在位1073~1085年)に継承され、聖職売買と聖職者妻帯を禁止し、さらに、実質的に皇帝の聖職叙任権を教皇に移すなど「グレゴリウス改革」と呼ばれる一連の改革を断行し、教会と教皇の権威を回復させました。特に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争は、1077年に「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件に発展しました(詳細については投稿「カノッサの屈辱」を参照)。

 

なお、その後、クリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(在1088~1099)が、1095年に十字軍運動を提唱して、教皇の時代を現出させ、時代は13世紀のローマ教皇権の最盛期へと向かうことになりました。

 

このように、クリュニー修道院の改革運動は、中世キリスト教に大きなインパクトを与えたことがわかります。グレゴリウス改革についても、クリュニー修道院の運動に影響を受けたと一般的には説明されています。ただし、クリュニー修道院は、叙任権を含む皇帝や国王の教会支配に対する保護権にはむしろ妥協的だったとされています。また、グレゴリウス改革のころのクリニュー修道院は、既にみてきたように、本来の清貧と厳格さを失い始めており、グレゴリウス改革までに、実質的にその役割を終えていたとの見方もあります。時代は、次に述べるシトー派修道会に移りかけていたと言えるかもしれません。

 

 

  • シトー派修道会の改革運動

 

白い修道士

 

シトー派修道院(シトー修道会)は、クリュニー修道院より2世紀近く経った1098年、元クルニュー会修道士のロベール(1027年~1111年)によって、クリュニーと同じブルゴーニュ地方のシトーの地に設立されたシトー修道院を始まりとしています。

 

祈祷と清貧、倹約と労働など「聖ベネディクトの戒律」の厳格な励行をかかげ、妥協を許さない厳格で禁欲的な規律の修道生活が行われました。ベネティクト派の修道士やクリュニー派の修道士が黒衣を身にまとったのに対し、シトー派修道会の修道士の僧衣は、自己犠牲と清貧を象徴する白でした。

 

白衣のシトー修道士達は、地面の上に寝て、深夜2時前の起床から夜8時に就寝する間、粗挽きの大麦と蒸したブナの葉を食すなど衣食住を極端なまで簡素化し、ひたすら神に献身する日々を送ったと伝えられています。

 

修道院は、人里離れた山間部や草原、島、農村に建てられ、俗界から逃れた修道士は、苦行と瞑想の共同生活を送り信仰の純化を求めると同時に、盛んに未開地の開墾を行い、大開墾時代の一翼を担いました。また、イギリスからもたらされた牧羊を飼育して毛織物をつくる羊毛業や、ワインの醸造などの農業技術や地方産業の発展にも貢献しました。

 

こうして、シトー派修道院(シトー修道会)は、フランスを中心に、西はイングランドからポルトガル、南はイタリア、北はスカンジナビアまで、ほぼヨーロッパ全土に広がり、創設から最初の100年で、ヨーロッパ各地に710か所、12世紀~13世紀の200年間で1470か所もの修道院が建てられました(全期間では1750か所)。

 

聖ベルナールの活躍

 

この発展は、12世紀の半ばに現れたシトー派クレルヴォー修道院のベルナール(ベルナルドゥス)(1090~1153)の功績によるものと広く認められています。フランス南部のシャンパーニュの貴族出身のベルナールは、1113年に、家族・親族・友人など約30名とともにシトー修道会へ入会した後、本人の人格とずば抜けた説教の力で、教団は一気に拡大し、シトー修道会は歴史的な発展を成し遂げたと評されています。ベルナールが直接的に関わった新たな修道院の建立では、世界遺産フォントネー修道院など、生涯で69か所、ベルナールの「教え子」たちが建立した数を含めると、シトー修道会の全体約20%、350か所を数えました。

 

ベルナールの存在は、シトー修道会だけなく、カトリック教会ひいてはヨーロッパ宗教界に広く知れわたり、ローマ教皇さえもが助言を求めるほどであったそうです。1146年には、ローマ教皇エウゲニウス3世(在1145~1153)が聖地エルサレム救援の「第2回十字軍」の派遣を提唱した際(エウゲニウス3世もかつてベルナールの弟子であった)、ベルナールは、十字軍の派遣と参加を呼びかける演説を各地で行いました。後に伝説的と評されたベルナールの説教に感動したフランスの「若年王」ルイ7世や神聖ローマ帝国のコンラート3世をはじめ多くの国王や有力貴族が十字軍への参加を決意したと言われています。総勢10万人をこえる規模となった第2回十字軍(1147年~1148年)は、「聖ベルナールの十字軍」とも言わるほど、ベルナールの影響力は絶大だったわけです。

 

しかし、十字軍の戦いそのものは、指揮官同士の意見対立などによる統制の乱れから、軍事的な成果を上げることができないまま、失敗に終わってしまいました。同時に十字軍の派遣を呼びかけたローマ教皇エウゲニウス3世、そしてその勧誘説教を行った聖ベルナールの指導力と権威は急速に弱まってしまいました。(二人とも1153年に死亡)。ベルナールの死後、シトー修道会は徐々に衰退していきます。

 

シトー修道会の終焉

イエスとその使徒たちと同じ生活に戻ることをめざした修道院の閉じ込められた使徒的生活を永遠に続けることにはどうしても不可能であることは、歴史の教えるところです(過去のどの修道会も、半世紀とその理想を保持しえたものはなかったとの指摘もなされている)。シトー派修道会も例外ではありませんでした。後のドイツの「東方植民」とも結びつき、彼らは未開地の開墾活動を継続していきますが、シトー修道会も羊毛や家畜などの生産物を売って莫大な富を有するようになると、シトー修道会の「清貧」は捨て去られ、次第に俗化していったのです。

 

こうしてシトー修道会も、クルニュー修道院と同じ運命を辿ることになり、12世紀後半以降は托鉢修道会の出現によって急速に衰退していきました。その後のシトー派は、「百年戦争」や「ユグノー戦争」など数世紀間にわたった政治的混乱の影響を受け修道院の数は激減し、意を異にする複数の地域活動グループが生まれるなど、凋落と崩壊への一途となってしまいました。最後は、1791年にフランス革命政府から「修道院解散令」が発令されたことで、シトー修道院は閉鎖され事実上消滅、700年の歴史の幕を閉じました。

 

 

  • 托鉢修道会

 

クルニュー修道院、シトー修道会と続いた修道院運動は、13世紀になると、托鉢修道会がその役割を担いました。托鉢修道会は、徹底した清貧を説き、労働と托鉢を重じる修道会で、イタリアのフランチェスコ会と、南フランスのドミニコ会などをさします。

 

富や財産を蓄えることで世俗化し腐敗していった過去の修道院を反面教師とした托鉢修道会の修道士は、都市や農村を歩き回り、托鉢(信者からの寄付)のみで生活しながらイエスの教えに忠実に生きようとしました。

 

当時のローマ教皇インノケンティウス3世(在1198~1216)は、この二つの托鉢修道会を正式に認可し、そうした運動を取り込み、利用しながら、ローマ教会の体制維持に努めました。

 

 

<フランチェスコ会(フランシスコ会)>

 

清貧宗団・小さき兄弟会

 

フランチェスコ派修道会(フランチェスコ会)は、イタリアのアッシジ出身の修道士フランチェスコ(1182~1226)が、1208年に創立した托鉢修道会です。豊かな商人の子であったフランチェスコは、もともと病弱であったそうですが、ある時、大病を患って生死の境をみてから、信仰に目覚めると、家を含むすべての世俗的な欲を捨て、イエスと同じような清貧の生活を送ることを決心したのです。

 

当初、11人の仲間とともに、フランチェスコは、アッシジ郊外の丘の上に「小さき兄弟会(小さき兄弟たちの修道会)」を創設しました。その基本理念は、無所有と清貧で、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音を宣べ伝えることでした。

 

ボロ布のようなガウンをまとい、腰を麻の紐で縛っただけとも言われた服装で、共同生活を始めた彼らは、イエスがそうしていたように、街々をまわり、人々に悔い改めることを説きました。一切の所有権を放棄し、わずかな手仕事と、托鉢(他者からの喜捨)によって生計をつないでいました(人々からは乞食僧団と揶揄された)。

 

フランチェスコが神の啓示を受けて出されたいう会則は、簡潔さと妥協の余地のない厳格さを示し、わずか3カ条だけで、以下の新約聖書(福音書)にあるイエスの言葉からきていました。

 

第一条:マタイ伝19章21節

汝、もし完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」

 

第二条:マタイ伝10章9,10節

財布の中に金、銀または銭を入れてはならない。旅行のための袋も、二枚の下着も、靴も杖も持って行ってはならない。

 

第三条:マルコ伝8章34節

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 

フランチェスコの活動は、最初のうち、異端まがいに思われていましたが、フランチェスコみずからローマに赴き教皇インノケンティウス3世に面会し、趣旨を説明したところ、1210年、ローマ教皇から活動の承認を口約されました(正式認可は1223年)。教皇直属の組織となったフランシスコ会((正式会名は「小さき兄弟会」)は次第に参加の修道士が増え、創設から20年足らずで、会員三千人の組織に成長しました。ただし、フランチェスコは、修道会の発展には興味を示さず、むしろ、エジプトなど異教の民の改宗に熱意を燃やしたと言われています。

 

フランシスコ会派の分離独立

 

その一方で、組織的に発展すればするほど、フランシスコ会(小さき兄弟会)の原点である清貧からは遠ざかっていくのも避けられませんでした。清貧を求めているにもかかわらず、多くの人々の喜捨によって、修道会の財産は豊かなものになっていったのです。

 

そうすると、厳格な清貧生活を守ろうとするフランチェスコと、ローマ教皇に従って組織を拡大しようとする多くの修道士が対立するようになりました。そうした中、最後までイエスの精神を守り「清貧」を貫いたフランチェスコでしたが、再び病に侵され、1226年、静かに息を引き取りました。フランチェスコは、2年後、フランチェスコ会出身の教皇グレゴリオ9世により列聖(聖人と認めらた)されています。

 

聖フランチェスコの死後も、フランシスコ修道会(小さき兄弟会)は、現実路線を志向する穏健派と、聖フランチェスコの遺志をあくまで貫こうとする厳格派の対立は続きました。やがて、穏健派は、「共同体の兄弟たち(共同体派)」(後に(1250)コンベンツアルまたはコンムニタス)、厳格派は「会則遵守の小さき兄弟たち(遵守派)」(オブセルバンテス)(1368)と呼ばれるようになりました。

 

1517年、教皇レオ10世は、公式に、共同体派(穏健派)の流れを汲む「コンベンツアル兄弟会」と、遵守派(厳格派)の「会則遵守の小さき兄弟会オブセルバンテス小さき兄弟会)」とに分割し、当初のフランシスコ会(小さき兄弟会)は独立した二つの修道会となりました。

 

さらに、1525年、「会則遵守の小さき兄弟会(オブセルバンテス小さき兄弟会)」からは、より急進的なカプチン派が分派し、「カプチン小さき兄弟会」となりました(1619年に公式に独立)。

 

こうして最終的に、聖フランチェスコが創設したフランシスコ会(小さき兄弟会)(第1会)は3つ修道会に分裂しました。

 

・コンベンツアル聖フランシスコ修道会(コンベンツアル小さき修道会)

・フランシスコ会(小さき兄弟会)

・カプチン聖フランシスコ修道会(カプチン小さき修道会)

 

かつての厳格派のなかの一部には、カトリック教会全体の蓄財を批判したりするなどいくつかの極端な主張は異端として退けられ、代々のローマ教皇に活動を禁止されているグループもあります。

 

このように、フランシスコ会(小さき兄弟会)は、分散しながらも、会則の遵守という形で聖フランチェスコの精神は共有し、カトリック教会での最大の修道会として、その後も発展を続け、13世紀末には会員数が3万人を誇りました。、宗教改革の際にも会員5万人、18世紀半ばにはその数は13万人以上に擁する教団として現在も存続しています。

 

フランシスコ会の海外布教

 

一方、フランシスコ修道会の修道士による世界布教も活発に行われ、イタリアだけでなく、ヨーロッパ全土、北アフリカ、パレスチナおよびシリアへ広がり、さらには中国にも教線は拡大しました。1246年、インノケンティウス4世の命によりモンゴル帝国の首都カラコルムを訪れたプラノ・カルピニ(1182ごろ〜1252)や、13世紀末には中国伝道を初めたモンテ=コルビノ(1247~1328)などに活躍は特筆されます。

 

会員(会士)たちの活動も、福音宣教に限らず、学問、教育、福祉活動の分野に及びます。特に、スコラ哲学者・神学者のウィリアム・オッカム(1285~1347)は有名です。

 

 

<ドミニコ会>

 

ドミニコ会は、13世紀初め、スペイン人の聖ドミニコ(ドミニクス)によって創設された托鉢修道会です。28歳まで人文科学、哲学、神学など学究に従事していたが、布教に立ち上がることを決意したドミニコは、1204(6)年、ローマを訪れて、教皇インノケンティウス3世に面会、フランスで異端として勢力を持っていたカタリ派の改宗を託されました。

 

そこで、ドミニコはカトリックの伝道のためには、カタリ派に勝る敬虔と厳格主義(清貧)が必要と悟り、自ら清貧の生活を営みながら、教会だけでなく、町の広場や辻で説教や討論を繰り返しました。その後、トゥールーズに拠点を移し、南フランスだけでなくスペイン、イタリアの異端者たちを改宗させました。1216年にローマ教皇ホノリウス3から、修道会として正式に承認されました(正式会名は「説教者会」)。彼らも信者の寄付によって生活していたので「托鉢修道会」に属します。

 

ドミニコ派修道会(ドミニコ会/説教者会)の精神は、「観想し、観想の果実を他の人々に伝えよ」ということばに表現されるとよく言われます。共同生活の中で、祈り、神学研究を行いながら、三誓願(従順、清貧、貞潔)によってキリストの真理を智り、伝える(説教を行う)という理想を求めました。

 

「私有であれ共同体のものであれ財産はいっさい所有しない清貧生活を実践しながらも、従来の修道院のような、規律に従って上長の命令を守り、一個所に定住することなく、ヨーロッパ中を旅をして、イエスの福音を宣べ伝える」ことを行動原則としました。

 

また、ドミニコ会は、学問的貢献が著しく、ドミニコ派修道士として出発したスコラ哲学トマス=アクィナス(1225頃~1274)など高名な神学者を輩出し、パリ、ボローニャ、ケルン、ローマ、オクスフォードなどの大学に神学教授を提供しました。

 

ドミニコ会士は、キリスト教の布教に情熱を燃やすと共に、当時民衆に広まっていた異端の取り締まりと異端の改宗の先頭に立って活動しました。既に述べたように、ローマ教会によるカタリ派(アルビジョワ派)やワルド派にたいする弾圧に積極的に協力しました。また、村落の隅々まで、反教会的な異分子を魔女狩りと称して摘発し魔女裁判にかけていきました。

 

ドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって、「神の犬 Domini canes」(ドミニ・カネス)とも呼ばれてしまうほどでした。スペインのドミニコ会の修道士、トマス・デ・トルケマダ(1420-1498):スペインの初代異端審問所長。最も激しく異端審問を行ったことで知られています。逆に、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士の、ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600):コペルニクスの地動説を擁護し、異端として焚刑に処せられました。。

 

16世紀になり宗教改革を迎えてても、ドミニコ会は、プロテスタントやカトリック教会の改革派に対する攻撃の先頭に立ち、宗教裁判所を舞台に、さかんに異端審問を行っていきました。

 

ドミニコ会以降、修道院運動は、彼らの活動は修道院を離れて街頭での布教を重視していたので、次第に衰退しましたが、ドミニコ会そのものは、近代の一時期、低迷することもありましたが、その後復活し、現在に至っています。

 

 

<参照>

中世ヨーロッパのキリスト教世界/クリュニー修族とシトー修道会

異端と正統④: 河童の川流れ

歴史 – コンベンツアル聖フランシスコ修道会 – 聖母の騎士社

OFM Japan/フランシスコ会

Wikipediaなど

 

 

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