キリスト教史④:修道院運動の盛衰

 

これまで、キリスト教の歴史について、イエスの時代から古代の東西教会分裂までをみてきました(参考投稿欄を参照)が、今回は、中世のキリスト教に多大な影響を与えた修道院の活動を掘り下げてみたいと思います。

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<修道院運動とは?>

 

キリスト教会において、古代の迫害の時代が過ぎ去り、中世の時代になると、聖職者たちは、「命がけ」の信仰から「修道」による信仰を行うようになります。修道には、ローマから退き、世俗から隠遁して一人で生活する場合もありますが、中世ヨーロッパでは、共同体を作って清貧をモットーに各地につくられた修道院での生活が主になります。修道院は、一般信徒の集う教会に対して、世俗から離れて修行に打ち込む修道士が共同生活を送る信仰の場です。また、修道院は、聖書の研究など古典文探求の場でもありました。

 

一方、教会の政治的経済的基盤も不安定な中で、聖職者の中には、安逸に流れ、華美な生活を送るなど腐敗堕落した者すら出てきました。そうした中、イエスの生きていた時代の純粋な信仰からは次第に乖離していくことに対して、本来の信仰に戻そうとする修道士や修道院が現れ、数次にわたって修道院を中心としたローマ=カトリック教会の改革運動がおきました。それらの運動を総称して修道院運動といいます。中世では、以下のおおよそ4つの修道院運動が起きました。

 

6世紀:ベネディクト派の修道院運動
11世紀:クリュニー修道院による改革運動
12世紀:シトー派修道会による改革運動
13世紀:托鉢修道会による改革運動

 

 

<ベネディクト派の修道院運動>

 

西ヨーロッパにおける本格的な修道院は、529年、ベネディクトゥス(480~550)がローマ南方の山中に建設したモンテ=カシノ修道院が最初のものでした。モンテ=カシノ修道院では、服従・清貧をかかげ、祈りと労働をモットーとした修道士の集団生活が行われ、多くの優秀な修道士が育成されました。厳しい修行に身を置いたベネディクト派の修道士はヨーロッパでの布教に大きな役割を果たしました。

 

ベネディクトウスは、晩年に近い540年頃、「祈り、働け」をスローガンとした73章から成る修道会則、「ベネディクトウスの戒律」を執筆し、長い間、宗教的な規範とされ、後世の修道院運動に大きな影響を与えました。「ヨーロッパ修道院の父」と言われる聖ベネディクトウスは、イタリア中部ヌルシアの古代ローマ貴族の家系に生まれ、モンテ=カシノ修修道院で生涯を過ごしたとされています。

 

なお、自らもベネディクト派の修道士生活を送った経験を持った言われるローマ教皇グレゴリウス1世(在590~604)は、修道院活動を支持して、ベネディクト派の修道士をゲルマン人布教のためにヨーロッパ各地に派遣したとされています。

 

 

<クリュニー修道院の改革運動>

 

◆「ベネディクトウスの戒律」の継承者

 

フランク王国の保護のもとでローマ教会は安定しましたが、フランク王国の解体、ノルマン人の侵攻と言った変動の中で、9~10世紀にかけて、教皇を頂点とした教会・修道院に、聖職売買や聖職者の妻帯など腐敗堕落が表面化するようになってきました。そうした世俗化したキリスト教会・修道院に対して、本来の信仰主体の回復をめざした修道院運動が、910年、フランス東部ブルゴーニュに創建されたクリュニー修道院によって開始されました。

 

クリュニー修道院(クリュニー修族/クリュニー会)は、清貧と神への献身と厳しい自己鍛錬を信仰の柱とした6世紀の「ベネディクトゥス戒律」の厳格な遵守を掲げ、ベネディクト派の質素で規則正しい修道士のお生活を復活させる改革運動を展開しました。また、世俗の権力から離れるために、ローマ教皇に直結する組織形態をとったことも特徴です。

 

黒い修道士」と呼ばれたベネディクト修道会にあやかり、クリュニー修道院の修道士も「黒い僧衣」をまとい活動しました。クリュニー修道院では、規律の遵守とともに、典礼(祈りの儀式)が重視されました。ベネディクトゥス戒律のスローガンである「祈り、働け」の反映です。

 

修道院そのものは、フランスの地方君主アキテーヌ公ギヨーム1世が、ブルゴーニュのロワール県クリュニーの地にあった自分の荘園を教会に寄進して建てられましたが、1088年から1130年にかけて「第三教会堂」と呼ばれる大型の付属教会堂(聖堂)が増築されるなど、クリュニー修道院は、最終的に巨大な建物となりました。17世紀に、バチカン(ローマ教皇庁)のサン・ピエトロ大聖堂が再建されるまでは、クリュニー修道院・第三教会堂が「ヨーロッパ最大の教会堂」でした。

 

また、クリュニー修道院は、きわめて高名で影響力のある修道院長を輩出しました。最盛期の頃の第5代修道院長オディロン(960~1049)はローマ教皇や神聖ローマ皇帝に並ぶ権威をもっていたと言われています。

 

歴代の修道院長に有能な人物が続いたこともあって、都市部だけでなく、農民や貧しい人達の救済を通して、地方への布教を行い、最盛期の11世紀から12世紀の半ばにかけて、クリュニー修道院は、中世ヨーロッパ最大の教団会派に発展拡大していきました。フランスのみならずヨーロッパ各地に建てられた修道院は1200を超え、修道士は2万人を数えました(影響下にある修道院となると1500とも2000とも言われる)。

 

◆クルニュー修道院の衰退

 

ただ、クリュニー修道院の「栄華」も長くは続きませんでした。クリュニー修道院は、ローマ教皇直属の教団であり、教皇の権威を絶対視しているが故に、形式を重視する傾向が強くなり、修道院が巨大化・権威化するにつれて、儀式・典礼が極端なまでに厳粛、豪華になっていきました。

 

一日の生活中、学習や作務にさかれる時間よりも、日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われました。例えば、修道士が全員参加する豪華な典礼や壮麗な連祷(司祭と会衆とが交互に唱える連続した祈り)などが重要視され多くの時間を注がれる傾向が強くなってしまったのです。なお、中世の多声音楽(ポリフォニー)は、クリュニー修道院で発展していったとも言われています。

 

それに合わせて、修道院自身も、豪勢な建物と装飾を誇るようになりました。教会建築は、永遠なる神の全能を人々の目にみえるかたちで表現することが求められ、教会堂は異常に高いヴォールト天井や見事な柱頭彫刻が用いられ、さらにその内部は、あらゆる細部にいたるまで、過剰ともいえる装飾を施す事が重要であると考えられるようになったのです。同時に、高位の聖職者や聖務する修道士の日常も華美と豪華になり、彼らの生活は著しく贅沢になっていきました。

また、庶民に高い税を求めたり、死後の救いを願う国王や有力諸侯らから、土地や財の寄進や、多額の献金を受けるようになったりするなど、修道院には富が蓄積され、修道院側もそれを望ようになっていきました。

 

教団創立から数世紀を経過する間に、莫大な資産と宗教的な権威を背景として、クリュニー修道院の権力は膨張・拡大を続け、王侯貴族を遥かに凌ぐほど強力であったと言われています。クリュニー修道院は、創建の大修道院を頂点とした、中央集権的な巨大ピラミッド型の封建的組織へと変貌していきました。

 

こうして、「ベネディクトウスの戒律」を尊守しながらも、クリュニー修道院は、「祈れ、働け」というベネティクトゥスの戒律の基本のうち、労働よりも「祈り」に偏ったため、本来の「清貧」が忘れ去られてしまいました。結果的に、神聖たる修道会は宗教的な規律と基本理念を失ったのです。こうして、修道院としての清貧が失われ、本来の質素な修道院から再び離れていったところで、クルュニー修道院の凋落が始まり、次に登場するシトー派修道会や托鉢修道会などの台頭をうけ、13世紀には完全に衰退していくことになるのです。

 

 

  • グレゴリウス改革

 

一方、前後しますが、クリュニー修道院の発展の過程で、その影響を受けた聖職者がローマ教皇に選ばれるようになりました。最初は、キリスト教会の東西分裂の時の教皇となったドイツ人のレオ9世(在位1049~1054)でした。レオ9世は、聖職者の粛正の第一歩として、当時横行していた聖職売買(司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引したり、相続の対象としたりすること)と聖職者妻帯の禁止を宣言し、また慣例となっていた皇帝による聖職叙任権(司教や修道院長の任命権)を否定するなど改革派教皇の先駆けとなりました。

 

その改革は、グレゴリウス7世(在位1073~1085年)に継承され、聖職売買と聖職者妻帯を禁止し、さらに、実質的に皇帝の聖職叙任権を教皇に移すなど「グレゴリウス改革」と呼ばれる一連の改革を断行し、教会と教皇の権威を回復させました。その過程では、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争は、1077年に「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件も引き起こされました。(詳細については投稿 「カノッサの屈辱:叙任権の争い、教皇権の隆盛」を参照)。

 

その後、クリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(在1088~1099)が、1095年に十字軍運動を提唱して、教皇の時代を現出させ、時代は13世紀のローマ教皇権の最盛期へと向かうことになりました。

 

このように、クリュニー修道院の改革運動は、中世キリスト教に大きなインパクトを与えたことがわかります。グレゴリウス改革についても、クリュニー修道院の運動に影響を受けたと一般的には説明されています。ただし、クリュニー修道院は、叙任権を含む皇帝や国王の教会支配に対する保護権にはむしろ妥協的だったとされています。また、グレゴリウス改革のころのクリニュー修道院は、既にみてきたように、本来の清貧と厳格さを失い始めており、グレゴリウス改革までに、実質的にその役割を終えていたとの見方もあります。時代は、次に述べるシトー派修道会に移りかけていたと言えるかもしれません。

 

 

<シトー派修道会の改革運動>

 

  • 白い修道士

シトー派修道院(シトー修道会)は、クリュニー修道院より2世紀近く経った1098年、元クルニュー会修道士のロベール(1027年~1111年)によって、クリュニーと同じブルゴーニュ地方のシトーの地に設立されたシトー修道院を始まりとしています。

 

祈祷と清貧、倹約と労働など「聖ベネディクトの戒律」の厳格な励行をかかげ、妥協を許さない厳格で禁欲的な規律の修道生活が行われました。ベネティクト派の修道士やクリュニー派の修道士が黒衣を身にまとったのに対し、シトー派修道会の修道士の僧衣は、自己犠牲と清貧を象徴する白でした。

 

白衣のシトー修道士達は、地面の上に寝て、深夜2時前の起床から夜8時に就寝する間、粗挽きの大麦と蒸したブナの葉を食すなど衣食住を極端なまで簡素化し、ひたすら神に献身する日々を送ったと伝えられています。

 

修道院は、人里離れた山間部や草原、島、農村に建てられ、俗界から逃れた修道士は、苦行と瞑想の共同生活を送り信仰の純化を求めると同時に、盛んに未開地の開墾を行い、大開墾時代の一翼を担いました。また、イギリスからもたらされた牧羊を飼育して毛織物をつくる羊毛業や、ワインの醸造などの農業技術や地方産業の発展にも貢献しました。

 

こうして、シトー派修道院(シトー修道会)は、フランスを中心に、西はイングランドからポルトガル、南はイタリア、北はスカンジナビアまで、ほぼヨーロッパ全土に広がり、創設から最初の100年で、ヨーロッパ各地に710か所、12世紀~13世紀の200年間で1470か所もの修道院が建てられました(全期間では1750か所)。

 

  • 聖ベルナールの活躍

この発展は、12世紀の半ばに現れたシトー派クレルヴォー修道院のベルナール(ベルナルドゥス)(1090~1153)の功績によるものと広く認められています。

 

フランス南部のシャンパーニュの貴族出身のベルナールは、1113年に、家族・親族・友人など約30名とともにシトー修道会へ入会した後、本人の人格とずば抜けた説教の力で、教団は一気に拡大し、シトー修道会は歴史的な発展を成し遂げたと評されています。ベルナールが直接的に関わった新たな修道院の建立では、世界遺産フォントネー修道院など、生涯で69か所、ベルナールの「教え子」たちが建立した数を含めると、シトー修道会の全体約20%、350か所を数えました。

ベルナールの存在は、シトー修道会だけなく、カトリック教会ひいてはヨーロッパ宗教界に広く知れわたり、ローマ教皇さえもが助言を求めるほどであったそうです。1146年には、ローマ教皇エウゲニウス3世(在1145~1153)が聖地エルサレム救援の「第2回十字軍」の派遣を提唱した際(エウゲニウス3世もかつてベルナールの弟子であった)、ベルナールは、十字軍の派遣と参加を呼びかける演説を各地で行いました。後に伝説的と評されたベルナールの説教に感動したフランスの「若年王」ルイ7世や神聖ローマ帝国のコンラート3世をはじめ多くの国王や有力貴族が十字軍への参加を決意したと言われています。総勢10万人をこえる規模となった第2回十字軍(1147年~1148年)は、「聖ベルナールの十字軍」とも言わるほど、ベルナールの影響力は絶大だったわけです。

 

しかし、十字軍の戦いそのものは、指揮官同士の意見対立などによる統制の乱れから、軍事的な成果を上げることができないまま、失敗に終わってしまいました。同時に十字軍の派遣を呼びかけたローマ教皇エウゲニウス3世、そしてその勧誘説教を行った聖ベルナールの指導力と権威は急速に弱まってしまいました。(二人とも1153年に死亡)。ベルナールの死後、シトー修道会は徐々に衰退していきます。

 

  • シトー修道会の終焉

イエスとその使徒たちと同じ生活に戻ることをめざした修道院の閉じ込められた使徒的生活を永遠に続けることにはどうしても不可能であることは、歴史の教えるところです(過去のどの修道会も、半世紀とその理想を保持しえたものはなかったとの指摘もなされている)。シトー派修道会も例外ではありませんでした。後のドイツの「東方植民」とも結びつき、彼らは未開地の開墾活動を継続していきますが、シトー修道会も羊毛や家畜などの生産物を売って莫大な富を有するようになると、シトー修道会の「清貧」は捨て去られ、次第に俗化していったのです。

 

こうしてシトー修道会も、クルニュー修道院と同じ運命を辿ることになり、12世紀後半以降は托鉢修道会の出現によって急速に衰退していったと言われています。その後のシトー派は、「百年戦争」や「ユグノー戦争」など数世紀間にわたった政治的混乱の影響を受け修道院の数は激減し、意を異にする複数の地域活動グループが生まれるなど、凋落と崩壊への一途となってしまいました。最後は、1791年にフランス革命政府から「修道院解散令」が発令されたことで、シトー修道院は閉鎖され事実上消滅、700年の歴史の幕を閉じました。

 

 

<托鉢修道会>

 

クルニュー修道院、シトー修道会と続いた修道院運動は、13世紀になると、托鉢修道会がその役割を担いました。托鉢修道会は、徹底した清貧を説き、労働と托鉢を重じる修道会で、イタリアのフランチェスコ会と、南フランスのドミニコ会などをさします。

 

富や財産を蓄えることで世俗化し腐敗していった過去の修道院を反面教師とした托鉢修道会の修道士は、都市や農村を歩き回り、托鉢(信者からの寄付)のみで生活しながらイエスの教えに忠実に生きようとしました。

 

当時のローマ教皇インノケンティウス3世(在1198~1216)は、この二つの托鉢修道会を正式に認可し、そうした運動を取り込み、利用しながら、ローマ教会の体制維持に努めました。

 

 

  • フランチェスコ会(フランシスコ会)

 

清貧宗団・小さき兄弟会

フランチェスコ派修道会(フランチェスコ会)は、イタリアのアッシジ出身の修道士フランチェスコ(1182~1226)が、1208年に創立した托鉢修道会です。豊かな商人の子であったフランチェスコは、もともと病弱であったそうですが、ある時、大病を患って生死の境をみてから、信仰に目覚めると、家を含むすべての世俗的な欲を捨て、イエスと同じような清貧の生活を送ることを決心したのです。

 

当初、11人の仲間とともに、フランチェスコは、アッシジ郊外の丘の上に「小さき兄弟会(小さき兄弟たちの修道会)」を創設しました。その基本理念は、無所有と清貧で、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音を宣べ伝えることでした。

 

ボロ布のようなガウンをまとい、腰を麻の紐で縛っただけとも言われた服装で、共同生活を始めた彼らは、イエスがそうしていたように、街々をまわり、人々に悔い改めることを説きました。一切の所有権を放棄し、わずかな手仕事と、托鉢(他者からの喜捨)によって生計をつないでいました(人々からは乞食僧団と揶揄された)。

 

フランチェスコが神の啓示を受けて出されたいう会則は、簡潔さと妥協の余地のない厳格さを示し、わずか3カ条だけで、以下の新約聖書(福音書)にあるイエスの言葉からきていました。

 

第一条:マタイ伝19章21節

汝、もし完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」

 

第二条:マタイ伝10章9,10節

財布の中に金、銀または銭を入れてはならない。旅行のための袋も、二枚の下着も、靴も杖も持って行ってはならない。

 

第三条:マルコ伝8章34節

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 

フランチェスコの活動は、最初のうち、異端まがいに思われていましたが、フランチェスコみずからローマに赴き教皇インノケンティウス3世に面会し、趣旨を説明したところ、1210年、ローマ教皇から活動の承認を口約されました(正式認可は1223年)。教皇直属の組織となったフランシスコ会((正式会名は「小さき兄弟会」)は次第に参加の修道士が増え、創設から20年足らずで、会員三千人の組織に成長しました。ただし、フランチェスコは、修道会の発展には興味を示さず、むしろ、エジプトなど異教の民の改宗に熱意を燃やしたと言われています。

 

フランシスコ会派の分離独立

 

その一方で、組織的に発展すればするほど、フランシスコ会(小さき兄弟会)の原点である清貧からは遠ざかっていくのも避けられませんでした。清貧を求めているにもかかわらず、多くの人々の喜捨によって、修道会の財産は豊かなものになっていったのです。

 

そうすると、厳格な清貧生活を守ろうとするフランチェスコと、ローマ教皇に従って組織を拡大しようとする多くの修道士が対立するようになりました。そうした中、最後までイエスの精神を守り「清貧」を貫いたフランチェスコでしたが、再び病に侵され、1226年、静かに息を引き取りました。フランチェスコは、2年後、フランチェスコ会出身の教皇グレゴリオ9世により列聖(聖人と認めらた)されています。

 

聖フランチェスコの死後も、フランシスコ修道会(小さき兄弟会)は、現実路線を志向する穏健派と、聖フランチェスコの遺志をあくまで貫こうとする厳格派の対立は続きました。やがて、穏健派は、「共同体の兄弟たち(共同体派)」(後に(1250)コンベンツアルまたはコンムニタス)、厳格派は「会則遵守の小さき兄弟たち(遵守派)」(オブセルバンテス)(1368)と呼ばれるようになりました。

 

1517年、教皇レオ10世は、両者を公式に、共同体派(穏健派)の流れを汲む「コンベンツアル兄弟会」と、遵守派(厳格派)の「会則遵守の小さき兄弟会オブセルバンテス小さき兄弟会)」とに分割し、当初のフランシスコ会(小さき兄弟会)は独立した二つの修道会となりました。

 

さらに、1525年、「会則遵守の小さき兄弟会(オブセルバンテス小さき兄弟会)」からは、より急進的なカプチン派が分派し、「カプチン小さき兄弟会」となりました(1619年に公式に独立)。

 

こうして最終的に、聖フランチェスコが創設したフランシスコ会(小さき兄弟会)(第1会)は3つ修道会に分裂しました。

 

・コンベンツアル聖フランシスコ修道会(コンベンツアル小さき修道会)

・フランシスコ会(小さき兄弟会)

・カプチン聖フランシスコ修道会(カプチン小さき修道会)

 

かつての厳格派のなかの一部には、カトリック教会全体の蓄財を批判したりするなどいくつかの極端な主張は異端として退けられ、代々のローマ教皇に活動を禁止されているグループもあります。

 

このように、フランシスコ会(小さき兄弟会)は、分散しながらも、会則の遵守という形で聖フランチェスコの精神は共有し、カトリック教会での最大の修道会として、その後も発展を続け、13世紀末には会員数が3万人を誇りました。、宗教改革の際にも会員5万人、18世紀半ばにはその数は13万人以上に擁する教団として現在も存続しています。

 

 

フランシスコ会の海外布教

 

一方、フランシスコ修道会の修道士による世界布教も活発に行われ、イタリアだけでなく、ヨーロッパ全土、北アフリカ、パレスチナおよびシリアへ広がり、さらには中国にも教線は拡大しました。1246年、インノケンティウス4世の命によりモンゴル帝国の首都カラコルムを訪れたプラノ・カルピニ(1182ごろ〜1252)や、13世紀末には中国伝道を初めたモンテ=コルビノ(1247~1328)などに活躍は特筆されます。

 

会員(会士)たちの活動も、福音宣教に限らず、学問、教育、福祉活動の分野に及びます。特に、スコラ哲学者・神学者のウィリアム・オッカム(1285~1347)は有名です。

 

 

  • ドミニコ会

 

ドミニコ会は、13世紀初め、スペイン人の聖ドミニコ(ドミニクス)によって創設された托鉢修道会です。28歳まで人文科学、哲学、神学など学究に従事していたが、布教に立ち上がることを決意したドミニコは、1204(6)年、ローマを訪れて、教皇インノケンティウス3世に面会、フランスで異端として勢力を持っていたカタリ派の改宗を託されました。

 

そこで、ドミニコは、カトリックの伝道のためには、当時、北イタリアや南フランスで盛んで、異端とされたカタリ派に勝る敬虔と厳格主義(清貧)が必要と悟り、自ら清貧の生活を営みながら、教会だけでなく、町の広場や辻で説教や討論を繰り返しました。その後、トゥールーズに拠点を移し、南フランスだけでなくスペイン、イタリアの異端者たちを改宗させました。1216年にローマ教皇ホノリウス3から、修道会として正式に承認されました(正式会名は「説教者会」)。彼らも信者の寄付によって生活していたので「托鉢修道会」に属します。

 

ドミニコ派修道会(ドミニコ会/説教者会)の精神は、「観想し、観想の果実を他の人々に伝えよ」ということばに表現されるとよく言われます。共同生活の中で、祈り、神学研究を行いながら、三誓願(従順、清貧、貞潔)によってキリストの真理を智り、伝える(説教を行う)という理想を求めました。

 

「私有であれ共同体のものであれ財産はいっさい所有しない清貧生活を実践しながらも、従来の修道院のような、規律に従って上長の命令を守り、一個所に定住することなく、ヨーロッパ中を旅して、イエスの福音を宣べ伝える」ことを行動原則としました。

 

また、ドミニコ会は、学問的貢献が著しく、ドミニコ派修道士として出発したスコラ哲学トマス=アクィナス(1225頃~1274)など高名な神学者を輩出し、パリ、ボローニャ、ケルン、ローマ、オクスフォードなどの大学に神学教授を提供しました。

 

異端の撲滅

ドミニコ会士は、キリスト教の布教に情熱を燃やすと共に、当時民衆に広まっていた異端の取り締まりと異端の改宗の先頭に立って活動しました。特に、ローマ教会によるカタリ派(アルビジョワ派)やワルド派にたいする弾圧に積極的に協力しました。また、村落の隅々まで、反教会的な異分子を魔女狩りと称して摘発し魔女裁判にかけていきました。

 

ドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって、「神の犬 Domini canes」(ドミニ・カネス)とも呼ばれてしまうほどでした。スペインのドミニコ会の修道士、トマス・デ・トルケマダ(1420-1498):スペインの初代異端審問所長。最も激しく異端審問を行ったことで知られています。逆に、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士の、ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600)は、コペルニクスの地動説を擁護し、異端として焚刑に処せられました。。

 

16世紀になり宗教改革を迎えてても、ドミニコ会は、プロテスタントやカトリック教会の改革派に対する攻撃の先頭に立ち、宗教裁判所を舞台に、さかんに異端審問を行っていきました。

 

ドミニコ会以降、修道院運動は、彼らの活動は修道院を離れて街頭での布教を重視していたので、次第に衰退しましたが、ドミニコ会そのものは、近代の一時期、低迷することもありましたが、その後復活し、現在に至っています。

 

 

<関連投稿>

キリスト教史①:イエスの生涯とその教え

キリスト教史②:十二使徒とパウロの伝道

キリスト教史③:東西教会はいかに分裂したか?

キリスト教史➄:異端と魔女狩り

カノッサの屈辱:叙任権の争い、教皇権の隆盛

 

 

<参照>

中世ヨーロッパのキリスト教世界/クリュニー修族とシトー修道会
異端と正統④: 河童の川流れ

歴史 – コンベンツアル聖フランシスコ修道会 – 聖母の騎士社

OFM Japan/フランシスコ会

Wikipediaなど

 

(2020年9月27日、最終投稿日2022年6月23日)