イエスの宣教から処刑、十二使徒やパウロの命がけの伝道を経て、ローマ帝国からようやく公認されたキリスト教は、その後、どう展開していったかを見ていきましょう。
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- 公認されたキリスト教
ローマ帝国のコンスタンティヌス帝は、313年にミラノ勅令を出し、迫害され続けたキリスト教がローマ帝国内で信仰されることを公認しました。
もっとも、帝国領内には、古来のローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼も残っていましたし、マニ教やミトラ教(太陽信仰の一種)などの異教の信仰も盛んでしたので、この段階でキリスト教は、まだ信仰できる宗教の一つと認められただけでした(もちろん、過酷な弾圧を受けてきた過去を考えれば、大きな成果であることは間違いない)。
また、キリスト教そのものも、教義はまだ定まっておらず、信仰のこまかい部分で疑問や矛盾点が指摘され、さまざまな解釈が存在していました。
とくに、「イエス=キリストは神なのか人間なのか」で、はげしい論争が各地の教会で繰り広げられました。最大の論点は、やはりイエスの復活です。神学上、イエスの復活を認めるなら、イエスは神の子であるか、または神と同一の存在と認めなければならないことになります。
また、イエスは宣教中、ユダヤ教の唯一神であるヤハエ(ヤハウェ)を「わが主よ」と呼びかけています(キリスト教を起こしたのは弟子たちで、イエスは生涯ユダヤ教徒でした)。そうすると、イエスが神なら、一神教の絶対神とされるヤハエ(ヤハウェ)との関係はどう説明されるのか?さらに、イエスの母マリアにも聖性があるのかなどが論点となりました。マリアは普通の女性です。イエスが神なら、人間であるマリアが神を産んだことになります。
- ニケーア公会議
初期のキリスト教徒たちは、これらの疑問について、論争を繰り返した結果、いくつかの派閥に分裂しました。その中で、代表的なグループがアリウス派とアタナシウス派でした。
アリウス派は、イエスを人間と考え、崇拝の対象にはしません(イエスに人性を強く認め、神性を否定)。イエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではないと考えたのです。イエスの神性が否定されるので、母マリアに聖性があるかの問題もおきません。
これに対して、アタナシウス派は、「神ヤハウェが聖霊に姿を変えて処女マリアに宿り、イエスとして生まれた」と考えます。つまり、イエスは神の子であり、本質において神性を持ち、神自身と全く同質であると主張します。また、マリアは「神の母」だから聖性も認められます。
このアタナシウス派とアリウス派の対立が深刻になってきたことを受けて、コンスタンティヌス帝は325年に、皇帝は各地の教会の責任者を集め「ニケーア公会議」を開催し、話し合いによる教義の統一を求めました。
会議では、アタナシウス派が「正統」とされ、イエスは人間ではなく神であるとして、イエスの神性が認められました。これに対して、アリウス派は「異端」と断罪され、ローマ帝国を追放されてしまいました。アリウス派は、その後、ゲルマン民族に伝わりましたが、やがて消滅したとされています。ただし、ユダヤ教のイエス観に近く、またイスラム教の下地になったとも言われています。
こうした教義論争は、このあともたびたび行われ、異端とされた学派は追放され、アタナシウス派が現在のキリスト教の教義を形作ることになっていきます。
- 三位一体説
ニケーア公会議後、イエスは神の子であるというイエスの神性に加えて、神とイエスを一体と見る考え方と、聖霊にも神性を認める考えが結びつけられ、アタナシウス派の主張は、三位一体説として発展していきます。
欧米の映画などで、キリスト教会での洗礼などのシーンで、「父と子と聖霊の御名においてアーメン」と言って、十字が切られる場面を思い出される方はいませんか?三位一体説とは、「父(天にまします父なる神)」、「子(子なるイエス)」、「(イエスによって遣わされた)聖霊」は一体のものであるという考え方です。
より具体的には、神は、私たちとの関係において、「父(父なる神)」,「子(神の子)」,「聖霊」という3つの存在のしかたをしていると説明されます。
「父なる神」は、創造主としての存在です。
「神の子」は、イエス・キリストとして、この世に遣わされた存在です。
「聖霊」は、私たちを直接神と結びつけてくれる存在です。
神はこのように三つの存在の仕方をしてますが、実はその本性は一つで,それを指して「一体」と説明されます。「父と子と聖霊」は本質において同一で、「父」、「子」、「聖霊」は、どれもキリスト教の神のことを指すのです。本来、一神教であるキリスト教の神を,多様な呼び方をしているのですね。古代のキリスト者は、父と子と聖霊の三位一体を喩えて、太陽と光線と輝き、あるいは木、花、香りなどの関係に喩えて説明してきました。
こうして、アタナシウス派の三位一体説は、キリスト教の正統教義として体系づけられていったのでした。(381年に開催されたコンスタンティノープル公会議で、正統な信条として確定)。その後、キリスト教会は西のカトリック教会と東の正教会とに分裂しますが、どちらも、三位一体説のアタナシウス派です(聖霊の考え方には違いあり)。
なお、余談ですが、キリスト教徒でなければ、キリスト教は、イエス=キリスト(救世主イエス)を神として信仰し、イエスに祈り、自分たちの救いをイエス=キリストにお願いしていると感じがちです。これは、三位一体説の中で、イエスが本来信仰していた「天なる父」以上に、「神の子のイエス」の方が突出した存在になった結果だといえます。
- ローマの国教となったキリスト教
熱心なキリスト教徒だったとされる皇帝テオドシウス1世(テオドシウス帝)(在379年~395年)は、380年に、まずキリスト教の国教化を定めました。ただ、この時点では他の宗教団体も同様に信仰、布教が認められています。
また、翌381年に開催されたコンスタンティノープル公会議において、アタナシウス派の三位一体説が完成され正統であることを確定しました。この背景には、ニケーア会議後、アリウス派が勢いを盛り返し、時の皇帝コンスタンチヌス帝も妥協に傾いたことに対して、アタナシウス派が働きかけたのでした。
さらに、テオドシウス帝は、392年、アタナシウス派キリスト教以外の祭礼と供犠を法的に禁止する勅令を出しました。これによって、(アタナシウス派の)キリスト教は、正式にローマ帝国の国教となったのです。
異教への禁圧は徹底され、この勅令を無視して、393年にローマ領内のギリシアで、オリンポス十二神の祭礼が行なわれると、神殿の財産が没収され、ギリシアの古代オリンピア競技会も廃止されてしまいました。
- エフェソス公会議
ただし、これで、アタナシウス派の地位が不動になったかというとそうではなく、5世紀に入ると、三位一体説を揺るがすネストリウス派が台頭してきました(後述しますが、この時、すでにローマ帝国は東西に分裂している)。
ネストリウス派は、イエスが神だとすれば、人間マリアから生まれるはずがないと考え、イエスは人間として生まれた後、神の性質を帯びたと考えます。神学的な難しい言い方をすれば、イエス・キリストの神性(神としての性質)と人性(人間としての性質)を区別して考えるのです。母マリアについては、生まれたときのイエスは人だったので、マリアの聖性も認められません。彼らは、マリアを「神(イエスのこと)の母」ではなく「キリストの母」と呼びます。
そこで、431年、東ローマ皇帝テオドシウス2世の招集によりエフェソス公会議が開かれ、ネストリウス派は異端とされました(追放されたネストリウス派は、その後ササン朝に伝道し、唐代の中国に伝わり景教と呼ばれた)。
- カルケドン公会議
さらに、451年、カルケドン公会議が開かれ、最終的に三位一体説が正統であることが確認されました。この時は、アタナシウス派の三位一体論の一部である両性論と、これに反対するネストリウス派の流れをくむ単性論との対立がありました。
両性論は、イエス・キリストの神性(イエスの神としての本質)と人性(イエスの人間としての本質)を一体として考えます(イエスは人性と神性の両性を持つ)。ただし、それは融合した形で一つになって存在するのではなく、イエス・キリストは、神性になれば「父なる神と同質」となり、人性になれば「人間と同質」になる、すなわち、それぞれ別個に完全体として存在すると解釈されました。
一方、単性論では、イエスは人間として、この世に現れたが、それは形だけであり神性によって満たされているから、イエス・キリストの本性(本質)は神であると考えます。神学的には、「キリストの人性は、この世において神性と融合し、単一の神性をそなえた存在となった」とみなします。
このカルケドン公会議で、改めてアタナシウス派の三位一体説が、キリスト教の唯一の正統な教理であることが確認されました。もっとも、エジプトのコプト教会、エチオピア教会、シリア正教会(ヤコブ派)、アルメニア教会など、三位一体説を否認し、単性説の信仰を捨てなかった宗派は今なお存在しています。
また、カルケドン公会議は、単性説に対して三位一体説を守る必要を感じたローマ教会の司教レオ1世の働きかけがあって実現しました。このため、この会議以降、ローマ教会の発言力が強まり、他の教会に対する首位権を主張するローマ司教は「ローマ教皇」と言われるようになったとされています。
いずれにしても、「正統」か「異端」かの大きな論争に終止符が打たれたと言えますが、今度は、同じアタナシウス派のキリスト教の同士の分裂が引き起こされていくことになっていきます。
- ローマ帝国の東西分裂後の教会
時代の針を少し戻すと、テオドシウス帝は、395年、死に際して、帝国を東西に分割し、2人の子、長男のアルカディウスと、次男のホノリウスにそれぞれ分け与え、それぞれ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と、西ローマ帝国となりました。
テオドシウス帝はもともと、一つの帝国を2人で分割統治させる意向だったと言われていますが、結果的に、東西に分裂したまま、帝国は終焉してしまいます。東ローマ帝国は15世紀半ばまで存続しましたが、西ローマ帝国は、分裂後もゲルマン人の侵攻を受けて衰え、476年、傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされました。
さて、キリスト教の国教化がなされてから、少なくとも6世紀ごろまでに、ローマ帝国内には、「五本山」または「五大総司教区」などと呼ばれる、以下の5つの大きな教会の管理区域(5管区)がありました。
ローマ
コンスタンチノープル
アレキサンドリア
アンティオケヤ
エルサレム
それぞれの教会には、信徒を監督し指導する「総主教(総司教)」のようなまとめ役はいましたが、各教会間に、理念上は、優越性などなく、神のもとでみな同じであることで一致していました。しかし、実際は、長年ローマ帝国の首都があり、ペトロやパウロが殉教したローマ教会と、キリスト教公認後、帝都となったコンスタンチノープルの教会が有力となりました。
そして、ローマ帝国の分裂後、西ローマ帝国の西方教会、東ローマ帝国の東方教会という色分けされるようになりました。特に、7世紀になると、イスラム教がアラビア半島から勃興し、次第に勢力を西に広げたため、ビザンツ帝国は、小アジアやシリア、さらにエジプトなど北アフリカを失っていきました。キリスト教の拠点も、アレクサンドリア、アンティオキアだけでなく、聖地エルサレムまでもが、イスラム教徒に攻略されてしまいました。
こうして、西方のローマ教会(後のローマ・カトリック)と東方のコンスタンティノープル教会(後の正教会/ギリシャ正教)がキリスト教を代表するようになりました。いずれの教会も、アタナシウス派の三位一体説に従っているので、当初、教義上は大きな対立点はありませんので、共存する関係にあったと言えます。
しかし、西ローマ帝国滅亡後、欧州政治の変動に伴い、東西教会では次第に対立し、やがて分断していくことになります。
- 東西教会対立の芽生え
コンスタンティノープル教会は、東ローマ(ビザンツ)帝国内にあって、皇帝と結びついて発展しました。東ローマ(ビザンツ)皇帝は、初期の教義論争にも積極的に介入し、公会議を開催しましたし、コンスタンティノープル総主教を初めとする高級聖職者の人事権にも介入するなど、教会に影響力を行使できる立場にありました。
コンスタンティノープル教会を筆頭にした、東ローマ(ビザンツ)帝国内の教会をひとまとめにして、現在では、正教会(ギリシャ正教)と呼ばれますが、「ギリシャ正教はビザンツ皇帝を首長とする」とか、「「ビザンツ皇帝は地上におけるキリストの代理人としてギリシア正教会を支配する立場にある」などと形容された時期もありました。かつては、「皇帝教皇主義」という用語も使われたこともあります(もっともそこまでの権限はなかったとの見方が現在では一般的)。
一方、ローマを中心とする教会は、ラテン語の文化圏にあったことや(ローマ教会のことをラテン教会と呼ぶこともある)、西欧への伝道が中心であったことなどから、次第に他の四総主教と違った歩みを始めていました。とりわけ、前述したように、キリスト教教会の首位権を主張するローマ教会は、独自に「法王」という考え方を導入し、ローマ教会の大司教は「教皇」と呼ばれるようになりました。
ただし、ローマ教会は、西ローマ帝国が滅亡し、政治的な後ろ盾を失ったため、当時、かつての西ローマ帝国の領域を再び統一しつつあったゲルマン人のフランク王国に接近します。フランク王国としても、統治者としての正統性と権威を与えてくれる存在を求めていました。800年には、フランク国王のカール大帝が西ヨーロッパを制圧すると、ローマ教皇はカールに「西ローマ皇帝」の冠を与えました(カールの戴冠)。こうしてローマ教会はフランク王国と結びついて、西ヨーロッパ全域に影響力を持つようになっていきます。
こうして、西ローマ帝国が滅亡した後の西方教会(ラテン教会)が、フランク王国との結びつきを強くしていくに従い、東方教会との距離が遠くなり、ローマ教会(西方教会)とコンスタンティノープル教会(東方教会)は、独自に道を歩み始めます。
- 聖像禁止令
そうした中、東西教会を二分するきっかけとなったとされる「事件」が発生します。それは、8世紀のビザンツ帝国皇帝が打ち出した聖像禁止令を巡る聖像崇拝問題でした。
東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝レオ3世は、726年、聖像禁止令(偶像禁止令)を出します。これは、偶像崇拝を厳しく禁じたイスラム教の影響を受けて、聖像崇拝については否定的であったからです。これに対して、ローマ教会は、フランク王国などゲルマン人への布教に際して聖像(キリストなどの彫刻や絵画)を使っていたので、ビザンツ皇帝の禁止令に強く反発しました。
ビザンツ帝国の教会や修道院にあっても、聖像(イコン)を使用していたところもあったことから、ビザンツ帝国内でも聖像擁護派は、聖像破壊運動(イコノクラスム)と呼ばれる政策によって弾圧されました。
ビザンツ帝国での聖像禁止のうごきは9世紀には後退し、843年に、聖画像の使用は容認されて収束しましたが、正教会(ギリシャ正教)では、今日でもなお、偶像崇拝を避けるために、信仰に、イコンやモザイクなどの平画像の使用までしか認められていません。
- 東西教会の分裂
もっとも、この聖像禁止令によって、直ちにキリスト教会の東西分裂をもたらしたわけではありません。実際は、これを契機に、教会の首位権、典礼のあり方、ブルガリア教会を巡る管理権、教義など、双方の教会の間に様々な問題が生まれてきました
例えば、典礼(儀式・祭礼)に関して、コンスタンティノープル側が問題にしたのは、ローマ教会(ラテン教会)の典礼の方法として、ミサに種なしパン(イーストを入れないパン)を使っていることで、これをユダヤ教的な異端であると批判したのです(東方正教会では、種入りパンを使用)。
また、何より双方がどうしても譲れない問題は、ローマの優位性、つまりローマ教皇の存在です。ローマ教会は、使徒ペテロを初代教皇として、自らの正統性を制度化していました。コンスタンチノープルは、「キリストの教会における普遍的裁治権を行使し、教義を決定する究極の審判者」とされるローマ教皇を認めることはできません。
そうした中、欧州では、9世紀ころから各地を侵攻し始めたノルマン人の活動が新たな脅威となっており、11世紀半ば頃にはシチリアから南イタリアに進出してきました。そこで、(当時、教皇は政治的な力も保持していた)ローマ教会とビザンツ帝国は、共通の敵に対抗するため、両者は軍事同盟を結ぶべく、協議を重ねました。ところが、協議の過程でこれまでの両者の問題が改めて浮き彫りにされ難航します。
1054年3月、ローマ教皇レオ9世は、コンスタンティノープル側との交渉役に枢機卿フンベルトゥスを派遣し、協議を重ねましたが、コンスタンティノープル総大司教ミカエル=ケルラリオスとの間で、神学上の問題や、西方教会の東方教会に対する優位性を巡り、大論争となりました。
そして、遂に、同年7月、ローマ教皇の特使フンベルトゥスが、総大司教ケルラリオスとその一門に対し、破門を宣告したのです。これに対し、ケルラリオスは主教会議を召集し、ローマ教皇の代理人フンベルトゥスを逆に破門すると言う事態となってしまいました。この事件をもって東西教会が分裂したとされています。
ただし、この教会分裂は、神学的動機よりも、むしろ政治的動機に基づく、偶然的な事件と見られています。ノルマン人に対抗するための同盟そのものも、コンスタンティノープル側からすれば、コンスタンティノープル主教座に属する南イタリア地方の教会管轄権をローマ教会が侵害する意図があると疑っていたとされています。ただ、動機はどうであれ、ローマ教会もコンスタンチノープル教会も、お互いを破門したことで招いた分裂が、それから900年以上続くとは予想もしていなかったはずであると解されています。
むしろ、両教会の分離を決定的にしたのは1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル占領によってであった言われています。この時、イスラムの支配下にあった聖地エルサレムを奪還する目的で、ローマ教皇が派遣した軍隊である「十字軍」が、エルサレムではなく、コンスタンチノープルを攻略し、ラテン帝国を建てたのでした。
いずれにしても、1054年を機に、キリスト教の世界は、東西に二分されました。ローマ教皇を中心としたローマ教会(ラテン教会、西方教会)は、自らの「普遍性」を主張し(「カトリック」とは普遍という意味)、「ローマ・カトリック教会」と名乗り、コンスタンチノープル総主教を中心としたコンスタンチノープル教会は、自分らの「正統性」を主張して、「正教会(東方正教会、ギリシャ正教)」と名乗り、現在に至っています。
<関連投稿>
キリスト教史①:イエスの生涯とその教え
キリスト教史②:十二使徒とパウロの伝道
キリスト教史④:修道院運動の盛衰
キリスト教史➄:異端と魔女狩り
<参照>
聖書と歴史の学習館
世界史の窓
Manapedia(マナペティア)
5分で分かるキリスト教の歴史と神学
三位一体の意味、中部学院大学
父と子と聖霊、カトリック学校教師のページ
Wikipediaなど
(2020年7月16日、最終更新日2022年6月22日)