キリスト教史②:十二使徒とパウロの伝道

 

前回は、イエスの生涯とその教えについてみてきましたが、今回は、イエスが「復活」した後のキリスト教について、ローマ帝国に公認されるまでの経緯をまとめました。

 

なお、古代におけるキリスト教は、概ね以下のように区分されます。

原始キリスト教:キリスト教成立から新約聖書の成立まで

初期キリスト教:新約聖書の成立後の1世紀後半から古代末期の3世紀まで

古代末期のキリスト教:3世紀以降のキリスト教

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  • ペンテコステと教会の成立

 

キリスト教徒(クリスチャン)にとって、重要な行事が3つあります。それは、まず勿論、イエスの生誕を祝うクリスマス、それからイエスの復活を祝うイースター(復活祭)、そして、3つ目の大きな行事がペンテコステです。

 

ペンテコステ(聖霊降臨)とは、復活したイエス(キリスト=救世主)が天に昇ってから50日後、残された弟子たち(信徒120人)が集まって祈っていたところ、天(神)から聖霊が降りてきたという象徴的な出来事のことをいいます。現在も聖霊降臨節は、イースターから50日後にお祝いされています。ペンテコステは、ギリシャ語で50を指し、聖霊とは「神と人との生ける交わりをとりなしている御霊(みたま)、神そのもの」と定義づけられています。

 

このイエスが蘇られてから、50日後のペンテコステ(聖霊降臨)が、教会の起源とされています。紀元後35年頃の出来事です。キリスト教を信仰する人にとって欠かせない場である教会は、キリスト教を信仰する人々の集まりを意味しています。

 

ちなみに、「教会」とはギリシア語の「エクレシア」の訳語で、エクレシアにはもともと「人々の集会」「呼び出された者の集まり」を示す意味があるそうです。イエスの十字架の後、集まった人々のもとに聖霊が降りたわけですから、その場こそが教会(エクレシア)なのです。

 

この時、約3000人の人々が使徒ペテロの説教に対して、イエスこそ旧約聖書が予言していた救い主(キリスト)であると信仰告白し、一つの共同体が形成されました。これが教会の始まりとされています(ゆえに、ローマ・カトリック教会では、ペトロを初代ローマ教皇とみなす)。

 

この原始教会とも呼ばれる最初の教会は、聖霊の降臨にあずかった、ペトロを含むいわゆる十二使徒(じゅうにしと)が中心となって、エルサレムに建てられました。イエスは自身も間接的ながら、教会を建てると宣べており(マタイ16:18)、約束が成就したわけです。

 

当初、イエスの死を聞いた弟子たちは、自分が助かりたい一心で師を見捨て、裏切ってしまったことに対して、深い絶望と後悔の念に苛まれました。しかし、イエスが復活し、聖霊を通して、彼らのもとに現れたという「体験」が、彼らは目覚めさせました。

 

弟子たちは、復活が神の愛の証拠であり、神の愛を説いたイエスは、みずからの死と復活で、その愛を体現した本当のキリスト(救世主)なのだ、と確信を得たのでしょう。それからというもの、弟子たちは、神の愛と、それを示したイエスの生涯と死、さらには復活をまわりの人々に語り始めました(伝道の始まり)。これが、教会設立の原動力となり、キリスト教が広がっていく端緒となるのです。

 

 

  • 異邦人への布教

 

ペテロやヤコブなど12使徒(後述)たちは当初、エルサレムなどのパレスチナ地方で、「ユダヤ人、アブラハムの子孫」を対象に伝道をしていましたが、やがて、パレスチナ地方に住む非ユダヤ人への布教も始まりました。

 

ペテロは、今のイスラエル北西部の町、カイザリヤに在住のローマ軍の「イタリア隊」の百人隊長、コルネリオに請われて、コルネリオの家の人々に説教すると、コルネリオ自身が回心しました(コルネリオは、ペトロから洗礼を授かった最初の異邦人とされる)。また、伝道者のピリポ(フィリポ)は、サマリヤ人(異邦人とされているが、もともとは北イスラエル王国の住民でその後、混血)たちに説教し、多くの者がキリスト教の信仰を持ちました。

 

しかし、パレスチナでの布教は長くは続きませんでした。エルサレム教会の責任者だったヤコブは捕えられ殺されるなど、ユダヤ人による迫害が激しくなったのです。そこで、弟子たち、イエスの12使徒たちは、伝道のために地中海各地に散っていくのでした。

 

今日では、キリスト教の始祖はイエス・キリストと言われますが、キリスト教という一つの教団を興し、発展させたのは、ペテロやパウロなどイエス昇天後の弟子達でした。とりわけ、イエスの教えが、それまでギリシャ伝来のオリュンポスの神々を信仰していたギリシャ人に伝えられて、キリスト教は発展を遂げていくことになります。

 

そもそも、厳格には、キリスト教というのも、「キリスト」という言葉は、救世主を意味するメシアのギリシャ語訳であることからもわかるように、ギリシャ人に伝えられて、彼らがイエスの教えに従ったところで、出てきた名称です。

 

ギリシャへの伝道は、中東(西アジア)生まれのユダヤ教の一派が、異郷の西洋へ、キリスト教として、渡っていったという側面もあり、その教えは「西洋化=ギリシャ化」されていきました。

 

聖書にしても、新約聖書の原典は、イエスや12使徒達の共通言語であるヘブライ語(へブルゴ)ではなく、ギリシャ語で書かれています。イエスの言葉を含む新約聖書は、「ギリシャ語に翻訳」されて伝わり、私たちは聖書を読む際は訳文読んでいたのです。

 

 

  • パウロの伝道と教え

 

ギリシャ世界へ福音(神のみ言葉)を宣べ伝えた使徒が伝道者パウロでした。キリスト教の拡大は、パウロによって、ギリシャ人を対象とされたところから始まったと言っても過言ではありません。これによってキリスト教は、ユダヤ人だけではなく、人類すべての人々のための宗教となり、イエスは、人類の救世主(キリスト)」となっていくのです。

 

使徒パウロは、ユダヤ教パリサイ派の人物で、はじめはイエスの弟子たちや教会を迫害していましたが、やがて、イエスと出会うという超体験を通して回心し、イエスの教えを伝える側になりました。伝えられているその時の「パウロの回心」と呼ばれる逸話です。

 

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紀元34年頃、パウロは、ダマスコへ向かう途中、「サウロ(パウロのこと)、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエスの声を聞きました。すると、その後、目が見えなくなったパウロでしたが、キリスト教徒がパウロのために祈るとパウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになりました。この経験から、イエスがメシヤだったことを悟ったパウロはキリスト教徒となったのです。

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パウロはその後、自らの経験から、パレスチナの中では、イエスの教えを受け入れられないと判断し、今のトルコやとギリシャ各地に赴きます。そして、アンティオキア(現トルコの南端アンタキア)を拠点として、パウロは、生涯かけて伝道し、苦難の末、ギリシャ世界での布教を成功させました。

 

この背景には、パウロが、原罪や贖罪という考え方を使って、イエスの教えを、思想化し、キリスト教に普遍性を持たせたことにあると思われます。

 

旧約聖書の「創世記」には、以下のように、エデンの園(天国)にいたアダムとイブの話しがあります。アダムとイブは、神から「あなたは、楽園のどの木のからでも実を食べてよい。しかし、善悪の知恵の木の実を取って食べてはならない」と言われました。しかし、蛇(サタン)の誘惑により、二人は「知恵の木の実」をとって食べてしまいました…。

 

これが最初の罪で、原罪と言われます。キリスト教では、神の意志に背いたアダムとイブの罪を、人間は皆、原罪として背負っていると解釈されています(パウロはこの原罪思想を弘めた)。パウロは、神に背いて自分の欲望のままに生きようとしたことから来る原罪の苦しみから逃れるためには、どうしたらいいのかを考えたときに得た答えが、キリスト教だったのです。

 

パウロは、イエスが、十字架での死により、全人類の罪をまとめて引き受けたと考えました(贖罪思想)。さらに、律法の遵守は難しく、できたとしても律法を形式的に守るだけでは不十分で、神とイエスを信仰することで救われると教えました。すべての人間は罪人ですが、信仰によってのみ神の赦しが得られると、ギリシャ人たちに説いていったのでした(信仰義認説)。

 

また、死後の「神の国」という考え方も、人々を魅了しました。キリスト教徒にとっての死後の場所は、父なる神、またキリストがいる「天国」です。そこは、苦しみや罪もなく、栄光に満ち、喜びや愛が充満していると考えられました。イエスは、自身の死と復活によって、私たち人間のために、「天国の門」を開いてくれたと考えられています。

 

このギリシャ人への伝道におけるパウロ以降の思想が、現在のキリスト教の教えの骨格をなすという言い方をしても間違いではないでしょう。

 

 

  • キリスト教の拡大

 

こうして、初期のキリスト教は、当時の支配者であったローマ帝国へと入っていくことになるのでした。ユダヤ人を対象にしたパレスチナ地方の宗教活動であった「イエスの教え」は、先ずは北上してシリアに伝えられ、次いで、小アジア(現在のトルコ)の諸都市に伝わり、さらにギリシャ本土に伝道されていきました。

 

そうして、地中海各地で信者を増やしながら、帝国の首都ローマや、地中海に面するエジプトのアレクサンドリア、またトルコのアンティオキアなどに、キリストの名の下に集まる教会が建てられました。

これに応じて、キリスト教徒の組織化も進み、まとめ役となる監督、長老、執事といった役割を担う役職ができていきます。やがて、2世紀と3世紀、人数が増えるに連れて教会はますます階級的になる中、現代の司教や司祭、助祭といった「聖職者」が教会の指導者となったいくのです。

 

 

  • 新約聖書の成立

 

キリスト教の教典である聖書が生まれたのもこの時期です。聖書は、イエスが山上の垂訓などで語ったことを自ら書き留めたものではありません。イエスの教えは、使徒達によりパレスチナから地中海一帯へと伝えられる中で、使徒たちによって記されたイエスの生涯と言行録がまとめられました。西暦150年ごろには、新約聖書ができていたとされています(「新約」とは、イエスが神と新たに契約したという意味)。もっとも、エルサレムが崩壊した紀元後70年までには、新約聖書はほぼ完成して、教会の間で回覧されていたとも言われています。

 

前述したように、キリスト教という教団は、イエスの弟子達が作り出したものなので、新約聖書には、イエスが語っていた創造神「天なる父」の姿は前面に描かれず、「神の子イエス」その人のことが書かれいます。

 

なお、新約聖書に対して、ユダヤ教の経典である旧約聖書があります。新約聖書は、旧約聖書を土台としており、旧約聖書の知識なしには、キリスト教を十分に理解できないと言われいます。旧約聖書は、メシヤの民であるユダヤ民族の歴史書という側面と、メシヤの必要性を説き、メシヤの来臨を予測する「予言書」です。これに対して、新約聖書は、メシヤであるイエスが、私たちを罪から救うための「導きの書」と、キリスト教では位置づけています。ですから、イエスが宣教するまでの経緯を記すものとして、旧約聖書もキリスト教の教典とみなされています。

 

 

  • ローマ帝国による迫害から公認

 

さて、教会の組織や制度が整えられ、聖書も完成した2世紀中頃には使徒信条の原型もできてくるなど、キリスト教の基盤が確立しつつあった反面、ローマでの迫害は過酷を窮めました。

 

当時のローマは多神教でしたので、他の宗教に寛容でしたが、時の皇帝の性格によって、その政策は容易に変化していきました。キリスト教に対するローマ帝国最大の迫害といえば、西暦64年の皇帝ネロの弾圧で、ペテロやパウロも犠牲となりました。

 

303年にも多くのキリスト教徒が迫害されるなど、約250年近く、キリスト教徒たちは断続的に、ローマからの弾圧され続けたのです。なお、ペテロやヤコブ以外にも、12使徒のうち11人は殉教しています(パウロは12使徒には含まれない)。

 

しかし、それでもキリスト教は、ローマ人支配者からの弾圧を受け、殉教者を出しながら、根強く布教されました。時には、「カタコンベ」とよばれる地下の避難所に逃れ、ひそかに信仰が維持されました。

 

こうして、キリスト教は、やがてローマ帝国全土に広がり、もはやその勢力を無視できなくなりました。313年、時の皇帝コンスタンティヌスは、ミラノ勅令を出し、ついにキリスト教を公認したのです。ローマの統治には、弾圧よりも懐柔が有効とする政治的な判断でした。

公認後、新しい首都コンスタンティノープルや、エルサレムにも教会が建てられました。エルサレムへの巡礼も行われるようになり、そこでイエスの墓とされるものも発見され、その場所に「聖墳墓教会」が建てられました。

 

こうして、ローマ帝国からの公認を得たキリスト教は、以後、さらなる発展を遂げるわけですが、ここに至るには、12使徒など指導者や信徒の犠牲の上にあったことは記憶に留められるべきですね。

 

 

<十二使徒(The Twelve Apostles)>

 

使徒とは、原始キリスト教会において最重要の地位を占め,大きな権限を委託された指導者群をさし、イエスは福音を伝えるために、12人の弟子を選んで、使徒と名づけました。

 

  • ペトロ(Petrus

(ヘブライ名シモン、英語名ピーター、仏語名ピエール、ロシア名ピョートル)。

 

ガリラヤの漁夫ペトロは、12使徒の最長老で、イエスの一番弟子、初代教会の指導者となりました(カトリック教会では初代ローマ教皇)。ガリラヤ湖で弟アンデレと漁をしている時にイエスに声をかけられ、最初の弟子になったとされています。

 

ペトロは、ローマで布教していましたが、AD67年、皇帝ネロの迫害により逆さ十字架にかけられて殉教しました。ローマのサンピエトロ大聖堂に埋葬されています。

 

 

  • アンデレ(Andreas

 

アンデレはペトロの弟で、兄ペトロとともにイエスの弟子になりました。元は、イエスと同様、洗礼者ヨハネの弟子です。アンドレは、黒海沿岸で伝道を行っていましたが、ギリシアのパトラ(Patras)でX字型の十字架で処刑されました。

 

 

  • 大ヤコブ(Jacobus

(英語名ジェームス、仏語名ジャック)

 

ヤコブは、同じ12使徒の一人、アルファイの子のヤコブ(小ヤコブ)と区別するために、大ヤコブ、またはゼベダイの子ヤコブと呼ばれます。

 

大ヤコブは、ヨハネの兄で、ペテロ、ヨハネと共にイエスの一番弟子とされています。イエスの死後、スペインで、6年間布教活動を行った後、エルサレムに戻り、最初のエルサレム教会の指導者となりました。しかし、当時は、パレスチナの王ヘロデ・アグリッパによるキリスト教迫害が激しさを増していた時で、44年頃、ヤコブは捕らえられ斬首刑になりました。使徒の中で最初の殉教者でした。

 

ヤコブの弟子達は、遺骸をパレスチナからスペインに運びましたが、その後、スペインはイスラムの勢力下に入り、その場所はわからなくなりました。しかし、9世紀になって、レコンキスタ(イスラム勢力からの国土回復運動)が進む中、ヤコブの遺体が、サンティアゴ・デ・コンポステーラの地で奇跡的に発見されました。以後、その場所は、イスラムと闘うキリスト教徒を守護するシンボルとなり、ヤコブはスペインの守護聖人と崇められるとともに、サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ローマ、エルサレムと並ぶ大巡礼地になりました。

 

 

  • ヨハネ(Johanne

(英語名ジョン、仏語名ジャン、露語名イワン、

女性形では、ジョアンナ、ジャンヌ、ジャネット)

 

大ヤコブの弟のヨハネは、ガリラヤの漁師の子で、アンドレと同様、イエスを洗礼した洗礼者ヨハネの弟子です。ヤコブ、ペテロと共にイエスの一番弟子という位置づけで、気性が荒い性格で、イエスから「雷の子」というあだ名を付けられたと言われています。

 

ヨハネは、常にイエスと行動を共にしましたが、12使徒の中で唯一殉教を免れ、晩年をエーゲ海のパトモス島で過ごしました。また、新約聖書の「ヨハネによる福音書」や「ヨハネの黙示録」を記したことでも有名です。

 

 

  • フィリポ (Philippe

(英語名フィリップ、スペイン語名フェリペ)

 

フィリポは、ヨルダン川の岸辺にいたところを、イエス自身が「私についてきなさい(使徒になるように)」とイエスに直接招かれて、弟子になりました。

 

使徒としてのフィリポの活躍の中には、例えば、エルサレムで、エチオピアの女王カンダケに仕える高官(宦官)に、イエスについて福音を伝え、洗礼を受けさせたという事例があります。使徒行伝によれば、この宦官が洗礼を受けた最初の非ユダヤ人とされています(この高官は、エチオピアに戻り教会を設立し、エチオピアや北アフリカには、かなり早い時期にキリスト教が普及することに貢献した)。

 

その後、フィリポは、トルコ西部で宣教を行いました。そこで、神殿の軍神マルス(ギリシャ神話のアレース)の立像の下から現れた龍を退治し、龍の毒で病気になった人たちを癒し、死んだ者を生き返らせ、大勢の人々を改宗させたという逸話が残されています。

 

さらに、ヒエラポリスという町へ移動したフィリポは、エピオン派(ユダヤ教の要素を取り入れたキリスト教徒)の多くを改宗させましたが、異教の神官らに捕らえられ、逆十字に縛られた上、石打ちにされて処刑されました。この時、フィリポの娘2人も殉教したと伝えられています。

 

 

  • バルトロマイ(Bartholomew

(英語名バーソロミュー、バート)

 

バルトロマイ(別名ナタナエルNathanael)は、フィリポの友人で、フィリポのすすめで、イエスに会いに行きました。この時、イエスから「あなたは、真のイスラエル人。この人には偽りがない」と言われたことに感激して、フィリポとともに弟子になりました。

 

イエスの死後、インドからアルメニアで伝道活動をしていましたが、捕らえられて生きながら皮を剥がされる「皮剥ぎの刑」で殉教したとされています。

 

 

  • トマス(Thomas

(英語名トーマス、トム、トミー、仏語名トマ)

 

ガリレア地方の生まれで、ゲネザレト湖畔で漁師をしていたトマスは、イエスの弟子になり、イエスの「最後の晩餐」にも同席していますが、「疑い深いトマス」とのあだ名をつけられました。

 

復活したイエスは、弟子が集まったところに現れましたが、その場にいなかったトマスは、「イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じない」と言い張り、イエスの復活を信じようとしませんでした。

 

しかし、8日後、イエスはトマスの前にも現れ、「あなたの指を私の手とわき腹に入れてみなさい」と述べられたことで、トマスは復活を信じたとされています。その後、トマスはイエスの昇天に立ち会い、聖霊降臨の際には、聖母マリアや他の使徒たちとともに聖霊の賜物を受けたそうです。

 

こうした体験を受けて、トマスは宣教に立ち上がり、東方に赴きました。ペルシャで説教した後、南へ向かい、インドで伝道を行いました(南インドにはトマスが設立した教会がある)が、西暦68年~75年ごろ、チェンナイ(旧マドラス)のマイラプールという所で、ブラマン教徒により槍で刺されて殉教したと伝えられています。

 

 

  • マタイ(Matthaeus

(英語名マシュー、仏語名マテュー)

 

マタイは町の徴税人で、ユダヤ人社会からのけ者にされていました。当時、徴税人は、ローマ帝国から徴税業務を請け負った者で、貪欲な者がなる仕事とみなされ、住民からは嫌われていたのです。

 

ある日、イエスは収税所にいるマタイに「弟子になるように」と声をかけると、マタイは立ち上がって、徴税人の仕事を辞め、イエスの後に従いました。その後マタイは、裏切り者扱いされ嫌われている自分に声をかけてくれたイエスに、感謝を表すために、イエスと弟子たちを招待して盛大にもてなしたという逸話があります。

 

イエスの死後、当初エルサレムの教団内に留まったマタイは、その後、使徒として各地で伝道を行いましたが、エチオピアあるいはトルコ(ヒエラポリス)で殉教したとされています。ある教会の説教で、その地の王を批判するような内容であったため、その王が送った刑吏に刺殺されたと言われています。

 

マタイは、紀元80年から90年頃に書かれたとされる新約聖書「マタイの福音書」の著者でもあります。

 

 

  • シモン(Simon

(英語名サイモン)

 

シモンがイエスの弟子になったきっかけは、イエスを、ローマ帝国からユダヤの地を解放してくれる政治的指導者として期待したからだとされています。というのも、シモンは、ローマの支配に抵抗する「熱心党」と呼ばれる組織のメンバーだったからです。

 

熱心党は、紀元6年に、ローマのユダヤ総督が実施しようとした国勢調査に反対することをきっかけとして立ち上げられたガリラヤのユダヤ人が組織で、ユダヤの地を支配する外国勢力(ローマのこと)を認めず、戦ってでも独立の目的を実現しようとする国粋主義的な団体です。当初は、それほど影響力はなかったようですが、次第に民衆の支持を得て、紀元66年に、ローマ帝国に反乱を起こし(ユダヤ戦争)、反乱軍の中心的な存在となって、時の皇帝ネロのローマ軍と戦いました。しかし、70年に、エルサレムが破壊(ヤハエ神殿も倒壊)され、74年春に。死海の南岸に近いマサダの要塞も陥落し、戦いは終わりました。残された熱心党のメンバーも集団自決したと伝えられています。

 

さて、その熱心党の一員であったシモンでしたが、イエスの復活を機に回心し、伝道者(使徒)となり、エジプトに赴きました。その後、十二使徒のひとりであるユダ(タダイ)(裏切り者のユダではない)とともにペルシャやアルメニアで活動し、そこで殉教しました。一説には、ペルシャで、鋸(のこぎり)で切断されて処刑されたとも言われています。

 

ちなみに、シモンとは、イスラエルの祖ヤコブの十二人の息子の次男シメオンにちなんだ名前とされています。

 

 

  • 小ヤコブ(Jacobus

 

アルファイの子ヤコブあるいは小ヤコブと呼ばれているヤコブは、イエスの近親者で、イスラエルの習慣上、「イエスの兄弟」と呼ばれ、また、シモンとユダ(タダイ)の兄弟とも言われています。

聖霊降臨後に復活したイエスに出会い、エルサレム教会に加わり、教会を代表する人物として活躍し、初代エルサレム教会の司教になりました。新約聖書「ヤコブの手紙」の著者ともいわれ、パウロはヤコブをペトロとヨハネと共に教会の柱と見なしていたとされています。一説には、復活したイエスも小ヤコブに特別に現われたそうです。

 

ヤコブはモーセの律法を厳重に守り、毎日エルサレムの神殿に詣でるなど、キリスト教徒とユダヤ人の両方から聖人と仰がれていましたが、パリサイ(ファリサイ)人の反感をかい、殉教してしまいました。エルサレムの神殿の屋根から突き落とされ、人々の石を受けて倒れたところを、こん棒で打たれて殉教したといわれています。

 

 

  • ユダ(タダイ)Judas

 

小ヤコブの兄弟あるいはイエスの親族だったといわれるユダ(タダイ)は、イエスを裏切ったとされる「イスカリオテのユダ」ではありません。ユダという名前が嫌われて「忘れられた聖人」とも呼ばれており、実際、ユダ(タダイ)に関する資料はあまり残されていません。

 

ユダ(タダイ)は、バルトロマイとともにエデッサ(トルコ南東部のウルファ)やアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬されているそうです。別の伝承では、シモンとともに、ペルシャやアルメニアで活動したとも言われています。いずれにしても、ユダ(タダイ)は、かの地で、斧によって殺害されて殉教したとされています。

 

 

  • イスカリオテのユダJudas

(英語名ジュード)

 

ユダがいつイエスの弟子になったかは、福音書には書かれておらず、不明です。聖書の中のユダは、イエスから信頼され、お金の管理を任されていましたが(ユダは財務担当だった)、銀貨30枚でイエスをユダヤ教の祭司長に売り渡し(ユダが持ちかけたとされる)、歴史上の裏切り者として描かれています。

 

ユダは祭司長たちをイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡したとされています。イエスは、彼の裏切り行為を知って、「私を裏切る人は生まれなければよかった」ときびしく戒める反面、「友よ、しようとしていることを、するがよい」とユダを友と呼び赦しています。

 

ユダは、イエスに死刑判決が下ったことを知り、ユダは自らの行いを悔いて、受け取った銀貨をユダヤ教の祭司たちに返そうとしました。これを拒絶されたユダは、銀貨を神殿に投げ込んで、首を吊って自殺したとされています。

 

 

  • マティア(Matthias

 

イエスの復活後、エルサレムに戻ってきた使徒たちは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダの代わりに、マティアを使徒にたてました(くじ引きで選ばれたとも)。マティアは、トルコやカスピ海地方、また遠くエチオピアまで布教したと言われています。伝承では、エルサレムでユダヤ人によって石うちの刑にあい、斬首され殉教したそうです。

 

 

<関連投稿>

キリスト教史①:イエスの生涯とその教え

キリスト教史③:東西教会はいかに分裂したか?

キリスト教史④:修道院運動の盛衰

キリスト教史➄:異端と魔女狩り

 

 

<参照>

聖書人物記 R.P.ネッテルホルスト(創元社)

聖書と歴史の学習館

キリスト教マメ知識(女子パウロ)

Wikipediaなど

 

(2020年7月9日、最終更新日2022年6月22日)