ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

ウクライナの歴史をシリーズでお届けしています。前回は、ロシア革命からソ連が形成され、その支配下にあって、ウクライナが、第二次世界大戦から冷戦期に経験した抑圧の歴史をみてきました。シリーズ最終回は、ソ連が崩壊し、独立を果たしたウクライナでしたが、結局、ロシアから侵攻を受けたウクライナ現代史を概観します。

 

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<ソ連からの分離独立>

 

1985年、ソ連に登場したゴルバチョフによる、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げた改革によって、ソ連邦の動揺が続く中、1989年に一連の東欧革命が起こりました。東欧諸国の社会主義体制が崩壊すると、ウクライナでも同年9月、長く権力を維持していたウクライナ共産党第一書記のシチェルビツキーが解任されました。

 

◆「ウクライナ」誕生

 

ウクライナの民主勢力は「ルーフ」(運動の意味)を結成し、1990年1月21日、リヴィウからキエフまでの30万人の「人間の鎖」をつなぎ、共産党支配に対する抗議と、ウクライナの連帯を示しました。同年3月の最高議会選挙では、初めて共産党以外の政党が立候補し議席を獲得、共産党の独裁支配に対して楔を打った形です。

 

1990年6月、ロシア共和国(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)がソ連から独立して主権宣言を行うと、続いてウクライナ最高会議が7月16日にウクライナ共和国の主権宣言を行いました。8月24日、国家としてソ連邦からの独立を宣言、これにともない国名もウクライナ共和国(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)から「ウクライナ」と改めました(ウクライナ共産党は解散)。

 

さらに、12月1日、独立に関する国民投票が実施され、投票参加者の90%以上の圧倒的多数の支持で独立を達成しました(首都はキーウ(キエフ))。同時に、初代大統領として、共産党第二書記でしたが、改革派に転じたクラフチュク最高会議議長が選出されました。国民投票に関しては、ロシア系住民がどのような判断をするか注目されましたが、ほぼ80%が独立に賛成しました。ただし、最もロシア系の多いクリミアでは54%で過半数をようやく上回りました。

 

12月3日、ロシア共和国が独立を承認するに至って同国の独立(ソ連邦からの離脱)は決定的になり,更に,旧ソ連諸国からなる独立国家共同体(CIS)の誕生,ソ連邦解体によって、12月末にウクライナは名実ともに独立国となることができました。

 

CISの結成 

ウクライナが国民投票で完全独立を決定したことが、ソ連解体を決定づけました。12月8日、ロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチューク、ベラルーシのシュシケヴィッチの三首脳が会談し、ソ連邦の解散と「独立国家共同体(CIS)」の結成を宣言しました。12月25日、ソ連邦の消滅に伴い、ウクライナは名実ともに独立国となりました。

 

 

◆ ウクライナの核放棄

 

ソ連崩壊後の最大の懸案は、各地に置かれた膨大な軍事施設、特に核兵器とそれを遠方に撃ち込める弾道ミサイルの管理でした。ソ連末期、ウクライナにはICBM(大陸間弾道ミサイル)176基、戦略爆撃機46、核弾頭は実に1592(1828)発、さらに無数の戦術核が存在していました。1991年のソ連崩壊後、ウクライナには大量の核兵器が残され、米国、ロシアに次ぐ世界3位の核保有国となっていました。

 

また、ソ連時代、ウクライナには戦略ロケット軍があり、核装備したミサイル基地が置かれ、東部ドニプロでは米東海岸を攻撃するための世界最高水準の核ミサイルが製造されていました。

 

ブダペスト宣言 

1994年12月、ハンガリーのブダペストにおいて開催された全欧安全保障協力会議(CSCE)において、ウクライナは、ベラルーシやカザフスタンと共に、ロシアを含む核保有国からの安全の保証と引き換えに核兵器を放棄しました(放棄する道を選びました)。

 

ブダペスト合意と呼ばれる覚書では、難交渉の末、ウクライナを含む三国が核拡散防止(NPT)条約に加盟し、旧ソ連から引き継いだ核兵器を、正式にロシアに移管することを認めました。その代わり、アメリカ、イギリス、フランス、中国、そしてロシアは、三国に対して、攻撃しないこと(「領土保全」や「独立を侵害しないこと」)を約束しました。

 

もっとも、ウクライナは、世界3位の核保有国であったと言っても、ソ連の一部だったからこそ、保有できたのであって、単独で核兵器を扱ったことはありません。ウクライナにあった核兵器はソ連国防省が設計・製造したもので、ウクライナには専門の技術者や研究者がいません。

 

また、ウクライナが自力で保有し続けるのは経済的にも不可能だったとみられています。当時、ウクライナはロシアにガス代の巨額の借金があり、核弾頭に含まれるウランをロシアに売ることで返済したと言われています。

 

クリミア帰属問題 

1991年、ウクライナは独立を達成しましたが、クリミア半島やウクライナ東部には多くのロシア人を抱え込むこととなりました。

 

ウクライナ人の多い西部は、早くから西ヨーロッパ諸国とのつながりを意識し、ロシアの影響力から脱してEUとNATOへの加盟を目指しましたが、ロシア系住民の多い東部、特にクリミア半島はロシアとの一体感が強く残っています。

 

ウクライナが独立したといっても、黒海に面し、EUに隣接しているウクライナは穀倉地帯であり、工業力も高いという点で、ロシアにとってウクライナは、重要な位置に存在していることには変わりありません。それでも、ウクライナはロシアに核兵器を委譲する代わりに、クリミア半島の領有を認めさせたといわれています。

 

◆ ウクライナ経済とロシア

 

新経済計画

ウクライナ(クラフチュク大統領(当時))はルーブル圏からの離脱を主目的として、92年3月に「新経済計画」を採択しました。ルーブル圏にとどまる限り、ロシア発のインフレがウクライナに波及してしまうことや、ロシア中央銀行がルーブル札の発行を独占するために、ウクライナはルーブル紙幣の不足にも対応することができなくなるからです。

 

また、ウクライナの経済危機の原因はロシアから生じており、ロシア・ルーブル圏から離脱すれば、経済危機は解決できる、とする楽観的な見方があったのです。

 

しかし、期待に反して、ウクライナはロシアを上回る経済危機に見舞われました。92年11月に、唯一の法定通貨となった「カルボバネッツ」が、キャッシュやクレジットの形で増発され、インフレが制御できなくなってしまったことや、93年1月から実施されたロシア産エネルギーの国際価格化にウクライナは対応できず、結果的にロシアによるガス供給の縮小・停止は、エネルギー供給をロシアに依存するウクライナの経済を直撃しました。

 

93年に入るとインフレーションと生産低下がさらに加速し、93年度のインフレ率は1万パーセントを突破しました。加えて、エネルギー危機が市民生活を直撃しました。

 

CIS経済同盟

このような状況に直面し、「新経済計画」は1年後には早くも方向転換を余儀なくされ、ウクライナの対外経済政策は、「ロシア・ルーブル圏からの離脱」から「ロシア(CIS諸国)との経済統合」に代わっていきました。

ウクライナは93年9月、CIS経済同盟条約に「準加盟」資格で参加しました。CIS経済同盟とは、1993年5月創設のロシアが中心となってまとめた経済統合のための同盟で、共通金融・通貨政策の策定,物資・資本流通,統一市場の確立を目指しています。当時、CIS加盟 11ヵ国のうち9ヵ国が参加を表明しました。

 

ウクライナが準加盟にとどまった理由は、ロシアなしにウクライナは生き残ることができないことを認めつつも、ロシアとの共通ルーブル圏、金融・税政策などの一体化は旧ソ連への回帰であるからです。

 

IMFによる経済改革
しかし、ウクライナは、94年10月からIMF(国際通貨基金)勧告による経済改革を実施し、ロシアとの緩やかな経済統合の道を選びませんでした。IMFという国際金融機関が、ウクライナの対露エネルギー債務を肩代わりし、さらに将来のウクライナ経済に深く関わっていくことを意味します。これによって、ウクライナはG7諸国からのクレジットを得て、貿易収支赤字(エネルギー債務)問題を乗り切ることに成功しました。

 

危機は乗り切っても、ウクライナ経済の対ロシア依存傾向が続きました。ウクライナは、EU諸国との貿易拡大やエネルギー供給源の多元化を推し進めていますが、EU経済圏との統合は進まず、エネルギー面での対露依存は引き続き大きいものでした。

 

 

◆ ウクライナの中立外交

 

ソ連邦末期の1990年7月にウクライナ最高会議で採択された「主権宣言」において、ウクライナは、中立・軍事ブロック外国家であることを宣言しました。。93年夏に議会で採択された「外交の基本方針」において、EU加盟が究極的目標であるとされ、この方針は、NATOへの加盟と同様に、現在に至るまで国是とされています。

 

この時期のウクライナ外交は、欧州志向であることに加えて、全欧安保協力会議(、CSCE)の枠内で、近い将来にウクライナがヨーロッパに統合され、モスクワ、キエフを含む「欧州共通の家」が建設されるのというのが、ウクライナの展望でした。連邦崩壊後に作られたCISはその創設文書において「共同の経済空間、軍事空間の維持」を謳っていましたが、ソ連邦から独立し中立国を標榜していたウクライナに、CIS軍事同盟(タシケント条約)へ加盟する意志はありませんでした。

 

その代替として、93年初に「中・東欧安定・安全保障圏構想」を提唱しました。この構想は、バルト-黒海地域の全ての国々を含む、全欧州型安全保障システムを構築し、西欧-ロシア間の「架け橋」となることを意図していたものでした。

 

ウクライナの提唱する安全保障圏構想が国際的支持を得られませんでしたが、94年1月にNATOが提唱した「平和のためのパートナーシップ構想(PfP)」が、この構想を実現した形となりました。PfPは、NATOと非NATO加盟国をつなぎことをめざし、東方との関係強化による全欧州地域の安全保障と安定の強化を謳っていました。

 

そこで、ウクライナは、「平和のためのパートナーシップ構想(PfP)」に対して独立国家同体(CIS)諸国の中でもっとも早く参加を表明し、NATO(北大西洋条約機構)への将来の加盟も示唆しました。また、NATOが1999年3月、ポーランド、ハンガリー、チェコの加盟を正式に承認したことを歓迎し、NATOの東方拡大の流れに乗る姿勢を見せました。

 

 

<ウクライナの民主化運動>

 

1994年6月に行われた大統領選挙は、実質的に現職クラフチュクとクチマ首相との一騎打ちとなりましたが、決選投票の結果、クチマが逆転で大統領に当選しました。ただし、クチマ大統領は、親露的とみられ、政権批判の声も高まっていました。

 

◆ オレンジ革命

 

2004年大統領選挙

そのクチマ大統領の任期終了に伴い、2004年11月、ウクライナでは、大統領選挙が実施されました。選挙戦では、東部を基盤にした親ロシア派の与党ヤヌコヴィチと、西部を基盤としてEUとの接近をはかることを掲げた親欧米民主派の野党ユシチェンコの戦いとなり、ユシェンコの46%に対して、親露派のヤヌコビッチが49%を獲得し勝利しました。

(東ウクライナはロシア語話者の正教地域で、西ウクライナには強い北米の支持者がいる)。

 

しかし、野党側は、大規模な選挙違反があったとして選挙のやり直しを訴え、広範囲なデモや集会を繰り返しました。ヤヌコーヴィチとロシアは反発しましたが、翌12月、再選挙が行われ、ユシチェンコが勝ち(得票率52%)、大統領に就任しました。

 

このとき、野党側や民衆は、シンボルカラーのオレンジ色のマフラーを首に巻いてより自由で民主的な政治を求める変革(抗議)運動を起こしました。その様子はテレビを通じて世界中に知られ、ウクライナの政変は、民衆が選挙の不正を覆して大統領を選び直すという民主化を実現した「オレンジ革命」と称されました。

 

なお、この選挙の2カ月前の9月、ユシチェンコは、何者かにダイオキシン毒を盛られ、顔面が痘痕(あばた)だらけになるという事件も起きました。このとき、3人のロシア人と会食をしたときだったとされ、取り調べのために、すでにロシアへ帰国した疑惑の3人の引き渡しをロシアに求めましたが拒否されたことから、いまだに全貌は明らかになっていません。

 

2010年大統領選挙

オレンジ革命後も、ウクライナ政情は安定せず、親ロシア派、反ロシア=親西欧派の対立が続く中、2010年の大統領選挙では、現職のユシェンコ大統領に近かったティモシェンコと、共産党から推され06年に首相に就任した新ロ派のヤヌコビッチが再び立候補し、激戦の末、ヤヌコビッチが当選、親ロシア派政権が誕生しました(この時も対立候補ユリヤ=ティモシェンコはヤヌコーヴィチ陣営の選挙不正を主張したが、このときは覆らなかった)。

 

◆ ユーロマイダン革命 

 

ウクライナ国内では、親西欧派はEUとNATOへの加盟を主張したのに対して、親ロシア派のヤヌコーヴィチ政権と、その背後のロシアが、親西欧派を強く弾圧するという図式の対立が続きました。

 

2013年11月には、ウクライナとEUの間で、両国の関係を強化する連合協定(経済・貿易等の協力協定)が締結される予定でしたが、当時のヤヌコビッチ大統領(在2010〜14)が、突如として署名を、ロシアの圧力で棚上げ(拒否)し、逆に、ロシアが主導する「ユーラシア経済同盟」との協力を強化しようとしました。

 

これに反発した、親西欧派を中心としたウクライナの多くの民衆は、首都キーウ(キエフ)中心部の「独立広場(マイダン)」で大規模な抗議デモを開始しました。さらに、批判(反発)の矛先は、親ロシア派政権の汚職や金権体質にも向けられ、デモは激化、2014年2月には、「ウクライナ騒乱」ともいわれる大規模な反政府暴動に発展し、キーウでは独立広場でデモ隊と警察部隊が衝突して、双方に犠牲者が出ました。

 

ウクライナ議会は、混乱の責任は大統領にあるとその解任を決議すると、ヤヌコーヴィチ大統領はキエフを脱出してロシアに亡命し、政権は崩壊しました。

 

このヤヌコビッチ大統領を追放して政権交代をもたらした民衆の蜂起は、ウクライナでは、NATO加盟支持派(親欧米派)が仕掛けた「ユーロマイダン革命」または「マイダン革命」と呼ばれています。ユーロは欧州、マイダンは広場の意味。現在のウクライナではオレンジ革命に続く民主化のためのステップとされています。

 

2014年大統領選挙

なお、政変後の2014年5月に実施された大統領選挙で、ヤヌコーヴィッチ政権下で閣僚を歴任するもマイダン革命を支持していたペトロ・ポロシェンコが当選しました。もちろん、ヤヌコーヴィッチとプーチンは民族主義者、ネオナチが起こした暴力的なクーデタと主張して政権交代を認めていません。

 

一方、ヤヌコビッチ政権の崩壊を受け、ウクライナ南部クリミア半島や東部ドンバス地域(ドネツク、ルガンスク両州)では、ロシアに支援された親露派武装勢力(神ロシア派)が蜂起しました。ウクライナ軍もこれに対抗して実施した反テロ作戦が高じて、同地域では内戦状態となりました(ロシア側は、ウクライナ東部のロシア語話者(ロシア系住民)に対するウクライナ軍の弾圧を指摘)。

 

 

<クリミア併合と東部分離運動> 

 

◆ ロシアによるクリミア併合

 

こうした状況を受けて、ロシアのプーチンは、クリミア半島の住民がロシア編入を希望しているとして、クリミアのロシアへの併合へ動きました。2014年3月、ロシア系住民保護を理由に軍を派遣し、ロシア軍統制下(その支援の下)で、一方的に住民投票を行わせました。それによって圧倒的多数の賛成を得たとして、「住民投票」の結果を根拠にクリミア併合を宣言したのです。この結果、クリミアは、事実上ウクライナから分離し、親ロシア派によるクリミア自治共和国として、ロシア連邦に編入された形になっています。

 

ロシアは、その後、クリミア半島とロシア本土の間のケルチ海峡に巨大な橋を建設し、ケルチ海峡で黒海とアゾフ海の船の出入りを管理するなど実効支配を強めています。

 

もちろん、国際社会はロシアを批判し、ロシアのクリミア併合を承認していません。先進国首脳会議(サミット)はロシアの参加を拒否し、G8から除外しました。また、ウクライナも、旧ソ連構成国の合議体である独立国家共同体(CIS)から離脱しました。

 

 

◆ ウクライナ東部の分離運動

 

さらに、2014年4月には、ウクライナの東部のロシア系住民の多い、ドンバス地域のルハンシク州とドネツク州の一部が、ウクライナからの分離を表明しました。しかし、ウクライナは、東部諸州の分離勢力は直接的にロシアの軍事支援を受けていると非難し、これを認めず、激しい内戦に突入しました。

 

ウクライナ東部はロシア系住民も多く、ロシア語が通用している地域であり、プーチンはその二州のウクライナからの分離独立を認めさせて、衛生国家化を狙ったのでした。2014年夏には、ウクライナの親ロシア派支配地区上空を航行中のマレーシア航空機がミサイルで撃墜されるという悲劇が起きています。

 

ミンスク合意とその崩壊 

戦闘の停止など和平に向けた道筋が示されない状態が続くなか、2015年2月、ベラルーシのミンスクで、ドイツ・フランスの仲介によって、ロシアのプーチン、ウクライナのポロシェンコ両大統領も参加した停戦合意、「ミンスク合意」が成立しました。しかし、合意実行に向けた争点となったのが、ウクライナから分離を宣言した地域に対しては「特別の地位(高度な自治)」を認めるというもので、ウクライナは事実上のロシアによる実効支配につながると合意の内容に不満を示しました。

 

合意によって、大規模な戦闘は止まったものの、合意実行ができないまま、ウクライナ東部では、依然としてロシア系住民と、ウクライナ人の民族主義グループの衝突が断続的に起こり、事実上、戦争状態が続きました(「ドンバス戦争」とも呼ばれるようになった)。

 

ミンスク合意の骨子

ウクライナ東部での包括的な停戦

ウクライナ領からの外国部隊の撤退

東部の親ロシア派支配地域に「特別な地位」を与える恒久法を採択

ウクライナ政府による国境管理の回復

 

このように、2014年春に始まったウクライナ東部紛争は、親ロシア派武装組織が実効支配するウクライナ東部ルガンスク州・ドネツク州に対し、ウクライナ政府軍がその奪還を図るという構図で、戦いは泥沼化、長期化していきました。

 

 

<ロシアによるウクライナ侵攻>

 

ゼレンスキー当選

2019年5月、大統領選挙で、現職のポロシェンコが汚職疑惑などから票が伸びず、国民的な知名度の高い、コメディアン出身のゼレンスキーが当選しました。ゼレンスキーは、NATO加盟を公約に掲げる一方、東部紛争の解決に乗り出すことを表明しました。

 

新たにNATOへの加盟を求めるウクライナに対して、プーチンは、2021年12月、ウクライナ国境に17万5000人規模の陸上部隊を配置して軍事圧力をかけ、アメリカに対してウクライナがNATOに加盟しない確約を求めましたが、アメリカは書面で拒否を回答し、緊張は高まりました。

 

アメリカは早くからロシアの侵攻を予測し、警告を発する一方で、NATO未加盟国であるウクライナにはアメリカ軍を直接投入することはないと表明していました。

 

◆ 特別軍事作戦の開始

 

2022年2月24日、ロシアはついに、ドンバス2州を「国家承認」した上でウクライナに対する「特別軍事作戦」の開始を宣言することで、ウクライナ侵攻を実行に移しました。

 

プーチンは、これは戦争ではなく、東部ウクライナにおけるロシア系住民を、ネオナチ勢力に支配されているウクライナ政府によるジェノサイド(大量殺害)から守るための「特別軍事行動」であると説明し、正教徒を含むロシア語話者の多い東部ドンバス2州の独立を作戦発動の口実にしたのです。

 

しかし、ロシア軍は東部ウクライナだけでなく、北部のベラルーシと、南部のクリミナ半島からも軍隊を侵攻させ、首都キーウ(キエフ)を目指すという全面的な軍事行動であり、宣戦布告なき戦争であることは明らかでした。ユーロマイダン革命(尊厳の革命)から8年後、この対立が極点に達した結果が、クリミア侵攻を経た、プーチンが「特別軍事作戦」と称する今回の侵攻(戦争)です。

 

国際社会はプーチン・ロシアの行動を国際法違反、国連憲章違反であるときびしく糾弾し、ただちにロシアに対する経済封鎖に踏み切りました。また3月2日、国際連合緊急特別総会もロシアの行動を侵略であるとする非難決議を採択しましたが、国連安保理は、ロシアが常任理事国であるので拒否権を行使するため、集団安全保障の行動を起こすことは困難な状況です。

 

◆ ウクライナの抵抗と膠着

 

プーチンは、首都キーウを「数日」で陥落させられると想定したようですが、すでに3年は経過し、停戦も平和条約のめどもたたないまま、多くの死傷者が出ています。ウクライナ軍はNATO軍に鍛えられており、アゾフ連隊など私兵や各種宗派の兵士たちによって、キーウ空港を襲ったロシア空挺部隊は完敗しました。ゼレンスキー大統領も、首都キーウに留まっており、SNSで盛んに抵抗を呼びかけ、国民の圧倒的支持を受けています。

 

その後、ロシアは態勢を立て直し、東ウクライナに兵力を集中、東南部のヘルソンや東部二州で攻勢に出ましたが、現在も膠着状態です。これまで、数回、停戦交渉が行われましたが、ゼレンスキーが、停戦の前提として、戦闘の停止を訴えたのに対して、プーチンは、ウクライナの非武装と中立化、クリミア半島などの分離の承認を条件として引かず、ウクライナ現政権を倒すという狙いを顕わにしています。

 

現在、アメリカにトランプ政権が再登場し、停戦に向けて動いていますが、その成果は不透明です。

 

 

<関連投稿>

ロシアの歴史

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

ウクライナの歴史

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

 

ロシア・ウクライナ戦争を考える

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

 

<参照>

露軍のウクライナ侵攻に関する両国民の意識と心理

(2023年7月30日、日本国際フォーラム/袴田 茂樹)

なぜ世界はここまで「崩壊」したのか…「アメリカ」と「ロシア」の戦いから見る「ヤバすぎる現代史」(2023.02.22、現代ビジネス)

「ウクライナ紛争」が発生した「本当のワケ」――ロシアを激怒させ続けてきた欧米

地政学と冷戦の戦後世界史 後編

(2023.02.22、現代ビジネス)

ウクライナ危機の影の主役──米ロが支援する白人右翼のナワバリ争い

(2022年01月31日、ニューズウィーク)

“プーチンの戦争”は歴史家への挑戦 「帝国の敗北で終わる」

(2023年8月10日、国際NHK)

「ウクライナ戦争の解明」

(金沢星稜大学)

ロシアとウクライナ「民族の起源」巡る主張の対立ウクライナと呼ぶようになったのはなぜなのか

(2023/03/24、東洋経済)

ロシアとウクライナのキリスト教を知らずに“プーチンの戦争”は語れない

(2022年9月2日 Economist online下斗米伸夫)

世界最大の領土を誇った大陸国家ロシア帝国ができるまで/

(図解でわかる 14歳からの地政学、 2022年4月4日)

女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

(2023.11.3 19:00、Diamond online 池上彰)

手にとるように世界史がわかる本

(かんき出版)

ウクライナ(世界史の窓)

Wikipeidaなど

 

 

 

投稿日:2025年4月5日

むらおの歴史情報サイト「レムリア」