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2020年09月23日

皇室:秋季皇霊祭と秋季神殿祭

9月22日の秋分の日に、天皇皇后両陛下は、宮中祭祀「秋季皇霊祭の儀」と「秋季神殿の儀」にのぞまれました。また菅総理など閣僚らも参列しました。秋分の日の「お彼岸」には、家々で祖先の御霊をお祭りし、お墓参りをするのが風習となっているのと同様に、宮中でも「秋季皇霊祭(こうれいさい)」と「秋季神殿祭(しんでんさい)」が行われています。

 

秋季皇霊祭は、秋分の日に皇居の宮中三殿の一つである「皇霊殿(こうれいでん)」で行われるご先祖祭で、歴代天皇はじめ皇后・皇族すべての皇祖(天皇家の祖先)の神霊(御霊)を祀られます。

 

秋季神殿祭は、秋分の日に皇霊祭に続き、宮中三殿の一つである「神殿(しんでん)」で行われる神恩感謝の祭典で、天神地祇(てんじんちぎ)(天地の神々のこと)、八百万神(やおよろずのかみ)を祀られます。

 

両祭典とも、天皇陛下が親祭される宮中祭祀で、陛下自ら玉串を捧げて御拝礼され、皇祖皇宗の神霊に告げられる御告文(ごこうぶん)を奏せられます

 

皇霊殿:歴代天皇や皇后、皇族の皇霊が祀られている殿舎(やかた)。

神殿:全国の天神地祇の神々が祀られている殿舎。

 

なお、3月の春分の日にも、毎年「春季皇霊祭」、「春季神殿祭」が秋と同様に行われます。また、皇居だけでなく、伊勢神宮をはじめ全国の神社でも同様の祭儀(遙拝式)が挙行されます。

 

秋季皇霊祭・秋季神殿祭ともに、秋分の日に行われますが、現在の秋分の日は、もともと秋季皇霊祭と呼ばれていました。秋分の日(春分の日)にお墓参りをして先祖の供養をする習慣も、実は皇室の先祖の祭儀に由来するとされています。

 

秋季(春季)皇霊祭は、1848年に祭日として制定されていましたが、終戦後の1948年に、GHQ(連合国総司令部)の命で、秋季(春季)皇霊祭が廃止となり、代って秋分(春季)の日が国民の祝日として定められ、現在に至っています。

 

皇霊祭・神殿祭や、彼岸・秋分(春分)に日についての詳細は以下の投稿サイトを参照下さい。皇霊祭・神殿祭の由来と歴史や、お彼岸、秋分の日との関係などを紹介しています。

 

皇室:宮中祭祀「皇霊祭の儀」とは?

伝統行事:お彼岸、神仏習合のたまもの

 

 

 

2020年08月29日

皇室:宮中祭祀(天皇のご命日)

先月(7月)30日に明治天皇を偲んで、明治天皇例祭が行われたことを先日記事にしました。今回は歴代天皇の命日に行われている宮中祭祀についてまとめました。

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歴代の天皇のご命日に、御霊を慰める儀式が、宮中祭祀として行われるのは、初代の神武天皇と、「先帝」、「先帝以前三代の天皇」に限られています。

 

「先帝」とは、「先代の天子、さきのみかど」の意ですが、現在、平成の天皇が「上皇」として御健在ですので、「先帝」は昭和天皇をさします。「先帝」は崩御後の呼び方なので、今の上皇陛下は「先帝」ではなく「前帝」と呼ばれます。ですから、「先帝以前三代」の天皇とは、現在、昭和天皇よりも前の大正天皇、明治天皇、孝明天皇が該当します。それぞれの祭祀の名称とご命日に当たる実施日は以下の通りです。

 

神武天皇祭:4月3日

昭和天皇祭:1月7日

大正天皇例祭:12月25日

明治天皇例祭:7月30日

孝明天皇例祭:4月30日

 

例祭(れいさい)とは、毎年きまった月日に行われる祭りの意

 

祭典は、ご命日の日、皇居内にある歴代天皇の霊を祭る宮中三殿の皇霊殿(こうれいでん)において、皇霊殿の儀が行われます。陛下は装束姿で臨まれ、皇后 皇太子・同妃、各宮家の皇族も参列されます。また、天皇が葬られた陵(みささぎ)においても、「山稜(さんりょう)の儀」と呼ばれる祭典が挙行されます。さらに、その日の夜には、御神楽を奏して神霊をなごめる「御神楽(みかぐら)の儀」が皇霊殿において催されます。

 

皇居内の宮中三殿で行われる(宮中)祭祀は、大祭と小祭に分かれます。大祭は、天皇が自ら祭典を斎行し、拝礼した上で、御告文(おつげぶみ)を奏上されます。皇族方や三権の長など官僚らも参列します。これに対して、小祭は、皇室の祭祀をつかさどる掌典長が祭典を執り行い、天皇が拝礼(親拝)されます。

 

神武天皇祭、昭和天皇祭は、大祭として祭典が営まれ、「先帝以前三代」の天皇の大正天皇例祭、明治天皇例祭、孝明天皇例祭は、小祭として行われます。ただし、他の小祭と異なり、天皇陛下と皇太子殿下の御拝礼だけでなく、皇后陛下や皇太子妃殿下、宮家の成年皇族方も参列して、皇霊殿前の幄舎(あくしゃ)から祭典を見守られます。

 

また、「先帝以前三代」の天皇祭は、神武天皇祭と昭和天皇祭と同様に、崩御相当日に式年ごとの式年祭が大祭として行われています。式年祭(しきねんさい)とは決められた期間ごとに行われる祭祀のことをいい、天皇祭の場合、崩御の年から3年、5年、10年、20年、30年、40年、50年、100年、それ以降は100年ごとに営まれます。式年祭は、宮中祭祀の中でも「大祭」に位置付けられる重要な儀式で、皇居・皇霊殿と、それぞれの陵(天皇の墓)で行われます。なお、皇太后(先代の天皇の皇后)についても、例祭と式年祭があります。

 

 

  • 昭和天皇祭

 

昭和天皇祭は、昭和天皇のご命日である1月7日に執り行われる祭祀(大祭)で、天皇陛下が「皇霊殿の儀(昭和天皇祭皇霊殿の儀)」に臨まれます。また、東京都八王子市の武蔵野陵(むさしののみささぎ)においても山稜の儀があり、その日の夜には皇霊殿で御神楽(みかぐら)(昭和天皇祭御神楽の儀)も行われます。

 

昭和天皇祭は現在、先帝祭(先代の天皇が崩御された日を祭る宮中祭祀)として行われています。先帝祭は、天武天皇が崩御された際、国忌(こっき)といって、政務を休み、仏事を行い、歌舞を慎んだことを起源としています。以後、皇祖、先帝、母后などの命日にも適用され、明治維新の後、先帝祭は、神武天皇祭とともに国家の祭日とされました(戦後は廃止)。

 

また、昭和天皇祭は、式年祭も挙行されています。昭和天皇の逝去から30年の節目の年に当たった2019年1月7日は、「昭和天皇三十年式年祭の儀」が行われました。この時は、今の上皇陛下ご自身、昭和天皇が埋葬された武蔵陵(むさしののみささぎ)(東京都八王子市)までお出ましになり、「山陵の儀」を斎行されました(両陛下は昭和天皇の三年、五年、十年、二十年の式年祭はいずれも武蔵野陵での儀式に臨まれた)。その日は、秋篠宮ご夫妻ら皇族方のほか、総理ら三権の長ら約80人が参列しました。

 

一方、これに先立ち、「皇霊殿」では「皇霊殿の儀」が行われ、皇太子ご夫妻(今の天皇皇后両陛下)が天皇陛下の名代として拝礼されました。秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さまも参列されました。

 

昭和天皇の式年祭は今後、死去後50年までは10年ごと、その後は100年ごとに行われます。

 

 

  • 香淳皇后例祭

 

香淳皇后例祭は、昭和天皇の后(きさき)でいらっしゃた香淳皇后(こうじゅん)を偲び逝去(せいきょ)された6月16日に行われている宮中行事です。2020年は逝去から20年にあたり、「香淳皇后二十年式年祭の儀」が皇居と、武蔵陵墓地にある武蔵野東陵で行われました。

 

皇居の宮中三殿では、「皇霊殿の儀」が執り行われ、装束姿の天皇皇后両陛下が拝礼され、陛下は御告文(祭文)を読み上げられました。また、秋篠宮ご夫妻ら皇族方も参列されました。香淳皇后の武蔵野東陵では、「山陵に奉幣の儀」が執り行われ、天皇陛下の使者が玉串をささげた後、上皇ご夫妻の側近が代拝されました。続いて秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さまがそれぞれ拝礼されました。

 

 

  • 大正天皇例祭

 

大正天皇の祭祀は、毎年崩御日に相当する12月25日に、大正天皇例祭が小祭として斎行されており、式年の崩御日に相当する日に「大正天皇式年祭」が大祭として斎行されています。

 

宮中三殿の皇霊殿で「皇霊殿の儀」が執り行われ、大正天皇が埋葬されている多摩陵(たまのみささぎ)では「山陵の儀」が斎行されます。式年に当たる時は、天皇による山陵への行幸御親祭があり、皇霊殿では代わりに、宮内省の掌典長が拝礼されます。

 

大正15年(1926年)12月25日の大正天皇崩御に伴い、新たに「大正天皇祭」が制定され、昭和年間では、大正天皇祭が先帝祭となりました(大祭として斎行)。平成元年(1989年)1月7日に、昭和天皇が逝去されてから、この日は祭日ではなくなり、先帝祭は昭和天皇祭に変更されています。

 

 

  • 明治天皇例祭

 

明治天皇の祭祀は、毎年崩御日に相当する7月30日に、明治天皇例祭が小祭として斎行され、式年の崩御日に相当する日に「明治天皇式年祭」が大祭として斎行されています。皇居での「皇霊殿の儀」に続き、伏見桃山の陵所においても掌典職による祭祀「山陵の儀」が挙行され、その日の夜には皇霊殿で御神楽(みかぐら)明治天皇例祭御神楽の儀)も行われます。

 

明治天皇例祭は、大正天皇時代、「先帝祭・明治天皇祭(大祭)」として斎行され、大正天皇の逝去を受け、現在の「明治天皇例祭」となりました。

 

 

  • 孝明天皇例祭

 

孝明天皇例祭は、毎年崩御日に相当する1月30日に行われる小祭で、式年の崩御日には「孝明天皇式年祭」が大祭として同様の祭祀が斎行されています。

 

この日は、天皇陛下が宮中の皇霊殿で「孝明天皇例祭皇霊殿の儀」に臨まれ、孝明天皇の陵所(天皇の墓)である京都の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)でも「孝明天皇例祭皇山稜の儀」が行われます。夜には御神楽(孝明天皇例祭御神楽の儀)が奏されます。

 

孝明天皇例祭は、孝明天皇が1968年1月30日に崩御されたため、この日が祭日になり、「孝明天皇祭」として、明治天皇時代の「先帝祭」となりました。1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が逝去されたのに伴い、この日は祭日ではなくなり、新たに「明治天皇祭」が制定され、孝明天皇祭は孝明天皇例祭となりました。

 

 

  • 神武天皇祭

 

神武天皇祭は、神武天皇のご命日とされる4月3日に執り行われる大祭で、皇居の皇霊殿で「神武天皇祭皇霊殿の儀」が斎行され、天皇陛下は装束姿で臨まれ、皇后 皇太子・同妃、各宮家の皇族も参列されます。

 

また、神武天皇が葬られた奈良県橿原市の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)においても「山稜の儀」が挙行されます。その日の夜には、特に御神楽を奏して神霊をなごめる「皇霊殿御神楽(みかぐら)の儀」も催されます。

 

2016年4月3日には、大正5年以来、100年ぶりに、神武天皇式年祭(二千五百年式年祭)が挙行されました。この時、現在の上皇上皇后陛下は、大正天皇、貞明皇后が、神武天皇陵を参拝された前例にならい、奈良県橿原市まで赴き、拝礼されました。

 

神武天皇祭は、1871年(明治4年)に「四時祭典定則(しじさいてんていそく)」で規則化され、戦後、皇室祭祀令は、1947年(昭和22年)に廃止されましたが、現在も宮中祭祀として存続しています。なお、神武天皇が即位した2月11日は、明治6年に紀元節と定められましたが、戦後に廃止された後、昭和42年に「建国記念の日」として祝日となって現在に至っています。

 

<参考投稿>

明治天皇例祭と孝明天皇例祭

昭和天皇祭

香淳皇后例祭

神武天皇祭と神武天皇その人

 

 

 

 

2020年08月20日

皇室:明治天皇例祭と孝明天皇例祭

 

  • 明治天皇例祭

 

2020(令和2)年7月30日、明治天皇例祭(れいさい)が行われていました。その時の報道記事です(抜粋、まとめ)。

 

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天皇陛下や皇族方は、7月30日、皇居で「明治天皇例祭」にのぞまれました。この日は明治天皇の命日にあたり、皇居・宮中三殿の歴代天皇や皇族がまつられている皇霊殿で「明治天皇例祭の儀」が行われ、皇族方が見守る中、陛下が拝礼されました。皇后雅子さまは皇居にお出ましにならず、お住いの赤坂御所で慎み深くご遥拝されました。また当日、伏見桃山の陵所においても掌典により祭祀が行われました。
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宮中祭祀の一つである「明治天皇例祭」は、その名称からもわかるように「例祭(小祭)」なので、天皇陛下の代理として掌典職が祭典を行い、陛下が拝礼するという形がとられます。

 

ただし、明治天皇例祭は、他の小祭と異なり、天皇陛下と皇太子殿下の御拝礼だけでなく、皇后陛下や皇太子妃殿下、宮家の成年皇族方も参列して、皇霊殿前の幄舎(あくしゃ)から、祭典を見守られます。

 

なぜ、特別な扱いになるかというと、明治天皇は「先帝以前三代の天皇」のお一人でいらっしゃるからです。明治41年(1908)の「皇室祭祀令」公布以来、「先帝以前三代」の天皇だけ特別に崩御相当日に、毎年の例祭(小祭)と、式年ごとの式年祭(大祭)が行われています。「先帝以前三代」とは、令和2年(2020)現在、平成の天皇が上皇として御健在ですので、昭和天皇よりも前の孝明天皇・明治天皇・大正天皇が該当します。

 

なお、初代神武天皇の崩御伝承日(新暦4月3日)と先帝(昭和天皇に該当)の崩御相当日には、小祭ではなく、格別な大祭(それぞれ神武天皇祭と昭和天皇祭)が行われています。また、皇太后(先帝より後に崩御された皇后)についても、例祭と式年祭があります。香淳皇后(昭和天皇の后)の崩御から20年に当たった今年の6月16日は、式年祭が行われました。

 

 

  • 孝明天皇例祭

 

「先帝以前三代の天皇」のお一人でいらっしゃる孝明天皇例祭は、2020年1月30日に行われました(大正天皇例祭は、12月25日に行われる)。この日は、皇居にある宮中三殿の一つ「皇霊殿」で、天皇陛下は、「孝明天皇例祭の儀」に臨まれました。皇后陛下は、赤坂御所にてご遙拝・お慎みされました。また、孝明天皇の陵所である京都の月輪東山陵で祭典が行われました。

 

孝明天皇が崩御したのは慶応2年12月25日(旧暦)でしたが、明治5年の太陽暦採用に伴い、新暦に換算した1月30日に行われるようになりました。当初は仏式で行われていましたが、明治3年から神式に変更されました。

 

 

<参考>

皇室関係の用語辞典 | ミカド文庫

日テレNEWS24

Wikipediaなど

 

 

2020年07月08日

皇室:香淳皇后例祭/節折の儀・大祓の儀

新型コロナ感染症拡大に揺れる中、天皇陛下のご動静についてのニュースは減ってしまった感がありますが、6月には二つの宮中行事に臨まれていました。一つは、昭和天皇のお后の香淳皇后(こうじゅん)の逝去から20年に当たり行われた「香淳皇后二十年式年祭の儀」で、もう一つが、半年ごとに実施される祓いの祭儀、「節折の儀」と「大祓の儀」です。

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<香淳皇后例祭>

 

香淳皇后例祭は、昭和天皇の后(きさき)でいらっしゃた香淳皇后(こうじゅん)を偲び逝去(せいきょ)された6月16日に行われている宮中行事です。2020年は逝去から20年にあたり、「香淳皇后二十年式年祭の儀」が皇居と、武蔵陵墓地にある武蔵野東陵(東京都八王子市)で行われました。

 

皇居の宮中三殿では、「皇霊殿の儀」が執り行われ、装束姿の天皇皇后両陛下が拝礼され、陛下は御告文(祭文)を読み上げられました。また、秋篠宮ご夫妻ら皇族方も参列されました。

 

一方、香淳皇后の武蔵野東陵では、「山陵に奉幣の儀」が執り行われ、天皇陛下の使者が玉串をささげた後、上皇ご夫妻の側近が代拝(上皇ご夫妻は欠席)されました。続いて参拝服でマスクをした秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さまがそれぞれ拝礼されました。

 

  • 香淳皇后

香淳皇后は、1903年(明治36年)3月に久邇宮邦彦王(くにのみや-くによしおう)の長女として生まれ、良子(ながこ)と名付けられました。「久邇宮家」は、戦後に皇籍を離脱した宮家の1つでした。

 

1919年6月10日に皇太子裕仁親王との婚約が内定しましたが、時の権力者、山県有朋が、母方に色覚異常(色弱)があるとの疑いをかけ、結婚に反対し、婚約を取り消そうとしました(「宮中某重大事件」と呼ばれた)。しかし、山県の死後、「事件」は沈静化し、1924(大正13)年1月、無事結婚されました。

 

お二人は、お子様には恵まれ、2男5女が誕生されています。香淳皇后は、四人の内親王(一人は天折)を出産されましたが、親王に恵まれず、側室復活の声もあがったと言われています。しかし、昭和天皇はこれを固辞され、1933(昭和8)年12月、明仁親王(現、上皇陛下)が誕生されました(次男は常陸宮さま)。

 

戦争中、香淳皇后は昭和天皇と共に皇居にとどまり、靖国神社参拝や傷病兵慰問などを行われたと伝えられています。戦後、昭和天皇の公務に同行し、多忙な天皇を支えられました。昭和天皇とともに国民に溶け込もうとされ、その屈託のない笑顔から、当時は「国母」と慕われました。

 

2000(平成12)年6月、満97歳で崩御され、香淳皇后の誼号(しごう/おくりごう)を受けられ、武蔵野東陵に葬られました。諡(おくりな)の「香淳」は、日本最古の漢詩集『懐風藻』からとられたと言われています。

 

 

★☆★☆

 

<節折(よおり)の儀>

 

天皇陛下は、6月30日、皇居・宮殿の「竹の間」で、まず「節折(よおり)の儀」に臨まれました。この宮中行事は、天皇のために行われる、竹を使った祓いの儀式で、半年に一度、6月末と12月末に行われます。その起源は9世紀後半から10世紀の頃とされています。

 

「節折(よおり)の儀」は、かつて「御贖(みあがもの)の儀」として行われていました(貞観末年(867)頃に「御贖(みあがもの)の儀」が行われたとされる)。御贖物(みあがもの)とは、天皇や中宮の身柄(みがら)に代わって、罪や汚れを背負わせて除去し祓ういます。儀式では、御服(ごふく)・御麻(みぬさ)、御竹・御壺を、御贖物(みあがもの)を用いて行われます。

 

この儀式での天皇の所作や道具は、明らかではありませんが、平安時代に源高明によって撰述された朝廷儀式などのしきたりを記した書である「西宮記(さいきゅうき)」などによれば、次のように推測されています(「天皇のまつりごと」(所功著)、「國學院大學伝統文化リサーチセンター資料」も参照)。

 

  • 御服(ごふく)に、気息(きそく)を着す

御小直衣に金巾子の御冠を被って出御された陛下に、侍従から御服の呂の蓋(ふた)が開けて差し出され、それに陛下が口気を三度吹き入れられます。

 

  • 御麻(みぬさ)で体をなでる

侍従から御麻を受け取られ、陛下は、その御麻で体を三度撫でられます。

 

  • 竹で体をはかる

掌典職の賞典から御竹9本を受け取った侍従が、初めの長い一本で、陛下の背丈を測り、竹に筆で墨の印をつけ、それを下げ渡された掌典補が墨印のところで折ります。同様に次の二本で、陛下の胸から指先まで、次の二本で左右の膝から足元までを測って、それぞれに竹に墨印をつけます。それらを下げ渡された掌典補がそれぞれ印の所で竹を折り、櫃に納めます。

 

なお、「節折(よおり)の儀」の名前の由来は、御身の長さに御竹の節を折るところからきています。ちなみに、「節(よ)」は竹の節と節の間のことです。

 

  • 壺に口気を放つ

侍従から受け取った御壺に陛下が口気を三度吹き入れられます。

 

この一連の儀式が、二度繰り返して行われます。最初の儀式を「荒世(あらよ)の儀」といって荒御魂の御身(荒世)を祓い清め、二回目を「和世(にこ)の儀」と呼び、魂の御身(和世)を祓い清めると解されています(神道では、神には荒魂と和魂の両面の性質があると考える)。

 

このように、「節折の儀」は、天皇といえども、日々の生活の中で、無意識のうちに積んでしまわれるケガレ(穢れ)を祓い清めるものです。

 

 

<大祓(おおはらい)の儀>

 

天皇のための「節折の儀」に続き、この日、皇族方や国民のためのお祓いの儀式である「大祓(おおはらい)の儀」も行われました。場所は、皇居内の宮中三殿に付属する神嘉殿(しんかでん)前庭で、皇族方を代表して秋篠宮さまが参列されました。

 

「大祓の儀」に参列する成年皇族はかつて、慣例として、成年男性の「親王」に限られていましたが、皇族方の減少などを背景に、2014(平成26)年6月、成年女性も含む「皇族」に広げられるという、慣例が改める発表が宮内庁からありました。同年12月の大祓の儀には、秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまが女性皇族としては66年ぶりにご参列されました。これまで、昭和23年に、体調不良となった高松宮に代わって高松宮妃が参列したり、戦前は親王以外の男性皇族が参列したりした例もあったそうです。

 

もともと、大祓(おおはらえ、おおはらい)は、日本の神道儀式の祓の一つで、毎年6月と12月の晦日(みそか)に行われ、6月30日に行われる大祓は夏越大祓、または水無月大祓とも呼ばれます。

 

大祓は、記紀の中の伊邪那岐命(イザナギノミコト)の禊祓(みそぎはらい)が起源とされ、国の儀式として受け継がれました。平安時代の延喜式には四時祭(しじさい)(四季にわたって定期的に行わる祭儀)になった記されています。現在でも、多くの神社で同じ日に「大祓」の祭りが行われています。

 

 

<参照>

香淳皇后しのび二十年式年祭 両陛下、皇居で拝礼

(2020/6/16、時事通信)

「国母」と慕われた香淳皇后 崩御から20年…

(2020/6/25 、FNNプライムオンライン)フジテレビ 解説委員 橋本寿史

6、12月の「大祓の儀」ご参列 女性皇族にも拡大

(2012年6月10日産経新聞)

 

知っておきたい豆知識 | 年中行事と神社 | 神道青年全国協議会

國學院大學伝統文化リサーチセンター資料

「天皇のまつりごと」所功著

Wikipediaなど

 

 

 

2020年06月21日

皇室:仁徳天皇「民のかまど」とシラス政治

(本投稿は、2019年7月10日にアップした「仁徳天皇『民のかまど』の故事」を加筆したものです。)

 

2019年7月に世界文化遺産に登録された「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」の中の代表格と言えば、世界最大の前方後円墳として知られる「仁徳天皇陵古墳」です。第16代の仁徳天皇(257~399年?)は、徳政・仁政を行ったことで知られています。そのことを示すエピソードが、「民のかまどの逸話」です。

 

 

  • 民のかまどの逸話

 

★☆★☆★☆

仁徳天皇の四年、天皇が、高台(たかどの)に登り四方の国を見て言いました。
「国の中に釜戸の煙が出ていない。民が貧しくて家に飯を炊く者がいないのではないか?五穀が実らないで、国中のものは困窮している。都がこの有様だ、地方はもっとひどいであろう」と仰せられ、「これから三年の間、すべての人民の課役(えつき)(課税と使役)を免除し、民の苦しみを和らげる」と詔(みことのり)されました。

 

この日より、天皇は粗い絹糸の衣服を召され、傷んでも新調されず、食事も質素にされ、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理されず、風や雨がその隙間に入って衣服を濡らしました。星の光が破れた屋根の隙間から漏れて、床を照らしていました(という有様にも堪え忍び給いました)。

 

季節が巡り、天皇が再び、高台の上に居て、国の中を見ると、国中に釜戸の煙がたくさんと登るようになりました。この様子をご覧になった天皇は、かたわらの皇后に申されました。

「朕(ワレ)は、既に豊かになった。憂いは無い」

 

皇后は答えて言いました。
「どうして豊かになったと言えるのですか?」

天皇は答えました。
「(かまどの)煙が国に満ちている。民は豊かになっている。」

 

皇后はまた言いました。
「宮垣(みかき)は崩れ、殿屋(おおとの)は破れているのに、何を豊かだというのですか」

 

「よく聞けよ。天下を治める君主(天皇)が立つのは民のためだ。政(まつりごと)は、民を本としなければならない。だから古(いにしえ)の聖(ひじりの)王(きみ)は一人でも飢え凍えるときは、自らを省みて責めたものだ。いま、その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ。」天皇は、このように申されました。

 

六年の歳月がすぎた仁徳天皇の10年、「民は豊かになった」と判断された天皇は、ようやく課役(税と使役)を科され、宮室(おおみや)の修理を行われました。3年の間、全ての課役を免除された仁徳天皇に感謝した民は、その気持ちを示しました。その時の民の様子を「日本書紀」は次のように記しています。

 

「民、うながされずして、老いた人を助け、幼い子を抱え、材木を運び簣(こ)(盛り土を運ぶための篭)を背負い、日夜をいとわず力を尽くして競い作る。いまだ幾ばくを経ずして宮室ことごとく成りぬ。」

★☆★☆★☆

 

こうして、仁徳天皇の治世は人々に讃えられ、聖(ひじりの)帝(みかど)の世と言われたと現代にも伝えられています。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野の陵(みささぎ)に葬(そう)されました。

 

「民のかまどの逸話」は、理想的な君主としての代表である仁徳天皇がなされた「民を思いやる徳の政治」という日本の理想的な政治スタイルの事例として語り継がれていくべきものです。

 

 

  • 「シラス」と「ウシハク」

 

この「民を思いやる徳の政治」は、「古事記」の中でも、統治の形として「シラス」という言葉でも示されています。出雲神話で、天照大神の使者、建御雷神(タケミカヅチ)が、天照大神のみ言葉として、大国主神に国譲りを迫る場面です(詳細については、記紀「国譲り」を参照)。

 

汝のウシハケる、この葦原の中つ国は、わが御子のシラス国なるぞ

汝が領有するこの国(葦原の中つ国)は、わが御子が治める国である

 

「ウシハケる」は「ウシハク」、「領(ウシハ)ク」で、「領有する、支配する」という意味です。これは、西洋型の統治手法であり、戦いに勝った者が私有(所有)することを意味しています。

 

これに対して、「シラス」とは「治(シラ)ス」、または、「知(シラ)ス」と書き、神や民の心を知りながら、国を「治める」ということを意味しています。古事記の原文でも「知國(国)」となっています。国を治める天皇と民が一つになった「君民一致」の政治の理想が、古事記では、「シラス」という言葉で示されているのです。「治(シラ)す」政治の具体的な事例として、仁徳天皇の「民のかまどの逸話」があると位置づけることができます。

 

 

  • 帝国憲法第1条にも…

 

なお、近代に入って、「治(シラ)す」の政治を統治理念に掲げようとした人物がいました。それは、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者の一人である井上毅です。

 

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

(大日本帝国は、万世一系の天皇が統治する)

 

これは、帝国憲法第1条ですが、井上毅の草案は次のようになっていました。

 

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス所ナリ

(大日本帝国は、万世一系の天皇が治す(治める)ものである)

 

井上毅は、近代日本を世界に示すためにも、古来から継承されてきた日本の統治形態を「治(しら)す」という言葉を使って表そうとしたのですね。日本の古き良き「シラス」政治を語っていくためにも、仁徳天皇の「民のかまどの逸話」を多くの人々に知ってもらいたいものです。

 

大日本帝国憲法第1条については、次の機会に解説してみたいと思います。

また、仁徳天皇については、投稿「仁徳天皇陵は、仁徳天皇のお墓でない!?」も参照下さい。

 

 

<参照>

古事記 – 日本神話・神社まとめ

日本書紀 – 日本神話・神社まとめ

Wikipediaなど

 

 

2020年05月18日

皇室:コロナ危機と陛下の「自粛」

緊急事態宣言下、皇室行事も様々な制約を受けてしまっています。また、メディアが、天皇皇后両陛下や皇室方々について報じなくなった感があり、両陛下や皇族方のご動静も気になります。さらに、この先に対する不安が募る中、陛下のメッセージをお聞きしたいと思っている人たちも多いと思われます。

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 2020月5月は、天皇陛下のご即位から1年を迎えた節目の月ですが、新型コロナウイルスの感染拡大により、皇室では、2月23日の天皇誕生日の一般参賀中止以降、行事の取りやめや延期が続いています。コロナウイルスの影響で取り止めなどになった主な皇室の行事としては以下のご予定がありました。

 

  • 英国訪問

天皇皇かn后両陛下の即位後、初めての外国訪問となる予定だった英国訪問が延期となりました。

 

  • 秋篠宮さまの「立皇嗣の礼

4月19日に予定されていた、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」になられたことを内外に広く伝える「立皇嗣の礼(りっこうしのれい)」は延期となりました。これに関連して、天皇陛下の使者を伊勢神宮などに派遣する儀式や、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻が皇居の宮中三殿に参拝される儀式なども延期されることになりました。「立皇嗣の礼」は、2019年5月の天皇代替(だいが)わりに伴って国が行ってきた一連の儀式の締めくくりの行事となる予定でした。

 

  • 春の園遊会

園遊会とは、天皇皇后両陛下が主催される、毎年春と秋に各界の功績者ら東京・元赤坂の赤坂御苑に招いて開催される社交の場です。予定通り行われていれば、2018年11月以来で、天皇陛下の即位後初となるはずでしたが、中止となりました。

 

  • 全国植樹祭

両陛下ご臨席の下、5月に島根県で開催予定でした。全国植樹祭を含めて、国民と直接触れ合う機会として皇室が重視してきた地方訪問も中止または延期されています。

 

これら以外にも、日々の外国賓客との接見予定も取り止めが相次いでいます。

 

それでも、天皇陛下は、新型コロナウイルスの感染の拡大で活動が大幅に縮小する中、宮中祭祀や、政府から送られてきた書類に署名や押印を行う国事行為を続けながら、感染拡大の状況や影響について、さまざまな専門家から説明を受けられています。なお、宮中祭祀については、4月3日の「神武天皇祭」と、5月1日の月初めの「旬祭(しゅんさい)」は滞りなく行われました。

 

そうした中、「現代ビジネス」が「なぜコロナ禍に天皇からの「語り掛け」がないのか、皇室記者の考え」というの記事を5月13日に配信しました。記事では、感染拡大を「人類の危機」ととらえる見方もでているなか、陛下がこれまで、国民に向けてビデオなどで直接のメッセージを発していないことから、「それなのになぜ…」という気持ちを抱いている国民は決して少なくはないのではないかと問いかけています。

 

こうした疑問に対して、専門家の間では、「政府がさまざまな対策を講じる中で、天皇の発言は国政に影響を与えかねない」といった趣旨の発言が多く聞かれます。現在の日本国憲法において、天皇が国政に影響が出るような政治的な発言をすることは禁じられています。そこで、陛下は「挨拶」という形をとりながら、間接的に「尽力者へのねぎらい」などの言葉を慎重に選ばれながら国民に対してメッセージを発せられています。

 

例えば、2月の誕生日会見で、「感染の拡大ができるだけ早期に収まることを願っております」と言及されました。また3月、長女の敬宮(としのみや)愛子さまの高等科ご卒業に際して寄せた文書では、「多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と綴られていたそうです。さらに、4月には、両陛下は専門家会議の尾身茂氏から進講を受けられた際に、宮内庁は「天皇陛下からの冒頭ご発言要旨」と題して、陛下の発言を紹介する文書と、進講を受けられる写真を公表していました。

 

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尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講

令和2年4月10日

今日はお忙しいところ時間をとっていただきありがとうございます。尾身さんが,新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の副座長として,新型コロナウイルス対策に大変尽力されていることに深く敬意と感謝の意を表します。また,これまで,日夜,現場で医療などに携わってこられている多くの関係者のご努力を深く多としています。

 

現在,世界各地で新型コロナウイルスが猛威をふるっています。我が国でも,人々の努力と協力により,爆発的な感染がなんとか抑えられてきましたが,このところ東京などを中心に感染拡大の速度が速まってきていることなど事態の深刻化が懸念されております。医療提供体制のひっ迫が現れ始めていると聞き,先日は,政府による緊急事態宣言も出されました。

 

この度の感染症の拡大は,人類にとって大きな試練であり,我が国でも数多くの命が危険にさらされたり,多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後,私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら,この感染症を抑え込み,現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。(宮内庁HPより)

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これは、まさに国民向けのメッセージに等しいと言えますが、当初、宮内庁は、公表する趣旨について説明を何もせず、ただ紙が張り出されただけだったそうです。その後、4月28日に宮内庁ホームページにも全文が掲載されました。この経緯について、宮内庁側は「国民にも伝えることが良いだろうと考えた」と、遠回りな趣旨を説明しました。

 

今回のコロナ危機のような緊急事態が発生した際、天皇陛下が、励ましメッセージすら国民にストーレートに呼びかけられない憲法の制約があるのです。天皇と日本国憲法について考えさせられます。

 

<参考>

「両陛下、コロナの試練に寄り添われ」(2020.5.1、産経新聞)

「なぜコロナ禍に天皇からの「語り掛け」がないのか」
(2020年5月13日、現代ビジネス)

宮内庁ホームページなど