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2020年01月19日

皇室:古式ゆかしき「歌会始の儀」

1月16日、宮中行事である「歌会始の儀」が行われました(投稿記事「令和初の「歌会始めの儀」」参照)。歌会始について、まとめてみると伝統的・文化的に奥の深いものがありました。

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歌会始とは?

和歌(短歌)は,日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものといわれているなか、600年以上の長い歴史をもつ宮中の歌会始は,国民参加の文化行事となって現在に至っています。「歌会」(うたかい)とは、人々が集まって共通の題で歌を詠み,その歌を発表する会をいいますが、天皇が年の始めに正月行事としてお催しになる歌会を「歌会始(うたかいはじめ)」といいます。

 

「歌会始」は、長い歴史のある宮中の行事で、そこには独特の言葉の使い方があります。一般の人たちが歌を応募することを「詠進」(えいしん)といいます。詠進した歌を選考する人を「選者」(せんじゃ)といいます。そして詠進して選ばれることを「選に預かる」といい、その歌を「選歌」(せんか)といいます。

 

「歌会始」には一般の方、選者のほかに、「召人」(めしうど)といって天皇陛下から特別に要請されて歌を詠進する方もあります。召人は広く各分野で活躍し貢献している人々を選び,今年は国文学者の久保田淳氏が選ばれました。詠まれた和歌は「」(うた)といいますが、皇族殿下、妃殿下のは「お歌」(おうた)、皇后陛下のは「御歌」(みうた)、天皇陛下のは「御製」(ぎょせい)と申し上げます。これらの歌を詠み上げることを「披講」(ひこう)といいます。

 

この儀式の進行は,読師(どくじ=司会役),講師(こうじ=全句を節をつけずに読む役),発声(はっせい=第1句から節をつけて歌う役),講頌(こうしょう=第2句以下を発声に合わせて歌う役)の諸役が行います。

 

歌会始の儀

「歌会始」は、宮中の松の間のある長和殿で行われ、天皇皇后両陛下の御前で歌が披講されます。進行は司会役の読師(どくじ)が行います。最初に節をつけずにすべての句を講師(こうじ)が読み、つぎに第1句から節をつけて発声(はっせい)が歌うと、第2句以下を発声にあわせて講頌(こうしょう)が続き歌います。

 

披講の順番は、一般の応募作(今年は1万5324首)から詠進された選歌(入選者)、つぎに選者の歌、天皇陛下に招かれた召人(めしうど)の歌、皇族方のお歌(三笠宮家の寛仁親王妃信子さま、秋篠宮妃紀子さま、秋篠宮さま)、皇后陛下の御歌と続き、最後に天皇陛下の御製となります。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣,日本芸術院会員,選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。

 

歌会始の歴史

歌会は、「万葉集」にもあることから、奈良時代には既に行われていたと推察されています。歌会の中で、天皇がお催しになる歌会を「歌御会」(うたごかい)といい、宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)も催されるようにもなりました。

 

これらの中で天皇が年の始めの歌会(正月行事)としてお催しになる歌御会を「歌御会始」(うたごかいはじめ)といいました。歌御会始の起源は,必ずしも明らかではありませんが、遅くとも,鎌倉時代中期まで遡ることができるものと言われています。歌御会始は,江戸時代を通じほぼ毎年催され,明治維新後も,明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれています。

 

明治の近代化の過程で、明治3年には、一般の人に苗字を名乗ることが許されるようになると、明治7年(1874年)に、これまで皇族・貴顕・側近など宮中の方々のみに限定されていた参加資格が、一般国民にも拡大しました。明治12年(1879年)には一般の詠進歌(応募された和歌)のうち特に優れたものを選歌とし,歌御会始で披講(披露)されることとなりました。これが、今日の国民参加の歌会始の始まりといえます。大正15年(1926年)には,皇室儀制令が制定され,古くから歌御会始といわれていたものが,以後は「歌会始」といわれることになりましたが、大正天皇崩御のため、実際に歌会始と呼ばれたのは昭和3年(1928年)の歌会始からです。

 

第二次世界大戦後は、広く一般の詠進(応募)を求めるため,お題は平易なものとされ、預選者(選ばれた人)は式場への参入が認められただけでなく,天皇皇后両陛下の拝謁や選者との懇談の機会が設けられるようになりました。さらに、テレビの中継放送が導入されて,さらに多数の人々が歌会始に親しむことができるようになりました。こうして歌会始への国民参加は,ますます促進されるばかりか、最近では、海外からも作品が寄せられています。

 

<参考>
歌会始(宮内庁HP)
宮中の「歌会」から国民参加の「歌会」へ(Tenki.com)
Wikipedia

2020年01月16日

ニュース:令和初の「歌会始めの儀」

両陛下、未来担う世代詠む 令和初の歌会始

(2020/1/16、日本経済新聞、一部抜粋)

 

新年恒例の「歌会始の儀」が16日、皇居・宮殿「松の間」で催された。令和となって初めてのお題は「望」。天皇、皇后両陛下や皇族方が詠まれた歌のほか、1万5324首の応募作から選ばれた10人の入選者、天皇陛下に招かれた召人(めしうど)らの歌が古式にのっとった節回しで披露された。代替わり後初めての開催となった今回は、中央に両陛下が座り、秋篠宮ご夫妻ら皇族方が両側に着席した。皇后さまが歌会始の儀に出席されるのは、療養が始まった2003年以来17年ぶり。19年に退位した上皇ご夫妻は出席されず、歌の披講もなかった。

 

両陛下は即位後の2019年6月、東京都内の保育園に足を運び、子どもたちと交流された。12月には台風19号の被災地を見舞うため、宮城県丸森町と福島県本宮市を訪問。被災者や復興に尽力した人々に励ましの言葉を掛けて回られた。こうした活動を通じ、両陛下ともに未来を担う世代への希望を歌に込められた。

 

天皇陛下

学舎(まなびや)にひびかふ子らの弾む声さやけくあれとひたすら望む

皇后さま

災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす

 

儀式は午前10時半から始まり、入選者、選者、召人、三笠宮家の寛仁親王妃信子さま、秋篠宮妃紀子さま、秋篠宮さま、皇后さま、陛下の順に披露されました。また、宮内庁は2021年の歌会始のお題を「実」とし、応募要領を発表しました。

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歌会始の解説については、投稿記事「古式ゆかしき『歌会始の儀』」も参照下さい。

2020年01月15日

神社:伊勢神宮は内宮と外宮だけではない!

伊勢神宮は、有名な「内宮」と「外宮」(両社で「正宮」という)だけでなく、「別宮」、「摂社」、「末社」、「所管社」と呼ばれるお社からなり、全部で125社で構成されています。その範囲は伊勢志摩地方にひろく及び4つの市と2つの郡にまたがります。伊勢神宮について、前回の投稿「伊勢神宮、外宮と内宮の神さま」に続く第2段です。今回は、伊勢神宮の全体像をみてみましょう。

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正宮(しょうぐう)> 計2社

外宮(豊受大神宮)
祭神:豊受大御神(とようけおおみかみ)

内宮(皇大神宮)(こうたいじんぐう)
祭神:天照大御神

 

外宮と内宮のなかでも有名なのが御正殿(ごしょうでん/ごせいでん)で、通常、私たちは、それぞれの御正殿を外宮、内宮とみなすでしょう。御正殿とは、神社の本殿、宮殿の中心となる建物で、天照大御神は、内宮の御正殿でお祀りされています。外宮と内宮についての詳細は「伊勢神宮、外宮と内宮の神さま」へ。

 

別宮(べつぐう)> 14社

別宮とは、正宮と特に関わりの深い神さまをお祀りする格の高い神社で、御正殿に次ぐお宮です。正宮に準じて祭祀が行われています。別宮のお宮も、式年遷宮が行われます。伊勢神宮の別宮は、外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に10社あります。別宮にも格付けのようなものがあり、外宮の第一別宮である多賀宮(たかのみや)や、内宮の第一別宮である荒祭宮(あらまつりのみや)には、大きな祭祀fが行われる際、天皇陛下が幣帛(へいはく)(=絹の反物など)をお供えされます。

 

外宮別宮(4):多賀宮土宮、月夜見宮、風宮

 

  • 多賀宮(たかのみや)

御祭神:豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)

 

豊受大御神荒御魂とは、豊受大御神(とようけのおおみかみ)の荒く猛々しい時の御霊のことです。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、小高い丘の上に鎮座しています。外宮の別宮では最も格式の高い第一別宮で、20年に一度の式年遷宮の際、外宮では多賀宮のみ正宮と同じ年に行われます。

 

神道では、神さまの荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを「荒御魂(あらみたま)」、神さまの御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」といいます。 

 

  • 土宮(つちのみや)

御祭神;大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)

 

大土乃御祖神は、古くから山田原(やまだのはら)の鎮守の神でしたが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、平安時代末期に別宮に昇格しました。他の別宮は全て南向きですが、土宮だけ東を向いています。

 

  • 月夜見宮(つきよみのみや)

御祭神:

月夜見尊(つきよみのみこと)

月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)

 

月夜見尊は、天照大御神の弟神で、月の満ち欠けを教え暦を司る神とされています。内宮別宮 月読宮でも祀られています(同じ祭神)。

 

 

  • 風宮(かぜのみや)

御祭神:

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

級長津彦命と級長戸辺命は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子神で、特に風雨を司る神さまです。内宮別宮の風日祈宮(かぜひのみのみや)のご祭神と同じです。雨風は農作物に大きな影響を与えるので、正宮に準じてお祀りされています。また、鎌倉時代の元寇に際して神風を吹かして日本を守って下さったことから、国を救ってくれる祈願の対象ともなってきました。

 

内宮別宮(10)

荒祭宮、月読宮(4)、瀧原宮(2)、伊雑宮、風日祈宮、倭姫宮

 

  • 荒祭宮(あらまつりのみや)

御祭神:天照大御神荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)

 

天照大御神の荒御魂をお祭りしており、内宮に所属している10社の別宮のうち、第一位(第一別宮)とされ、20年に一度の式年遷宮の際、内宮では荒祭宮のみ正宮と同じ年に行われます。

 

内宮の敷地内には、天照大御神をお祀りする御正殿(ごせいでん)の他に2つの別宮があり、一つはこの荒祭宮で、もう一つが風日祈宮です。

 

 

  • 風日祈宮(かざひのみのみや)

御祭神

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

外宮別宮の風宮と同じように、特に風雨を司る神さまをお祀りしています。

 

 

  • 月読宮

祭神:月読尊

 

外宮別宮の月夜見宮(つきよみのみや)と同じように、天照御大神の弟神である月読尊(つきよみのみこと)をお祀りしています(外宮では月夜見尊と書く)。役割は、「月を読む」という名前の通り、月の満ち欠けを教え暦を司ることです。外宮では、月夜見尊の荒御魂も祭神となっていますが、こちらでは、月読尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)は、月読宮とは異なる別宮(月読荒御魂宮)に祀られています。

 

また、月読宮には、天照大御神と月讀尊の父母神である「父:伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「母:伊弉冉尊(イザナミノミコト)」も、伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮にそれぞれ祀られています。このように、内宮の月読宮の敷地には、月読宮だけでなく、以下の3社の別宮が並んで存在しています。

 

月読荒御魂宮(祭神:月読尊荒御魂)

伊佐奈岐宮(同:伊佐奈岐命)

伊佐奈弥宮(同:伊佐奈弥命)

 

  • 瀧原宮(たきはらのみや)

祭神:天照大御神の御魂

(天照坐皇大御神御魂/あまてらしますすめおおみかみのみたま)

 

瀧原宮は、伊勢市から40kmほど離れた渡会郡の山間に位置し、文字通りの「瀧原宮」と、「瀧原並宮(たきはらならびのみや)」の2つの別宮が並立しています。昔から神宮の遙宮(とおのみや)(遠い宮という意味)と呼ばれ、品格があることで知られています。祭神は、どちらも「天照大御神の御魂(あまてらすおおみかみのみたま)」とされていますが、瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原並(竝)宮は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られるとする説明もあります。

 

伝承では、かつて、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀るため、相応しい聖地を探し求めていたところ、内宮より先に、この渡会の地に瀧原宮を建てて、天照大御神を祀ったという話しが残されています。しかし、その後、現在の内宮のある伊勢の地に新宮を建てたため、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったと言われています。

 

内宮の雛形とといわれている瀧原宮は、「ミニ内宮」の様相を呈しているとされ、五十鈴川と同じように清流が美しい御手洗場もあります。入口の鳥居から参道を抜けると、奥に社伝がたたずんでいます。

 

  • 伊雑宮(いざわのみや)

祭神:天照大御神の御魂

 

志摩市に鎮座している伊雑宮(いざわのみや)は、別名「いぞうぐう」とも呼ばれています。天照大御神の御魂をお祭りしていて、地元の人々からは海の幸、山の幸の豊饒が祈られてきました。毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、「磯部の御神田(おみた)」の名で知られ、日本三大田植祭の一つとされます(後の二社は香取神社と住吉大社)。瀧原宮(たきはらのみや)と同様、別宮の中でも「遙宮(とおのみや)」と呼ばれ、地元からも篤く崇敬されています。

 

 

  • 倭姫宮(やまとひめのみや)

祭神:倭姫命

 

倭姫宮は、天照大御神を伊勢にお連れした、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)を祭神としています。内宮と外宮を結んでいる御幸道路の中ほどの倉田山に鎮座し、別宮の中で最も新しいお宮です。

 

摂社(せっしゃ)> 43社

摂社は、平安時代中期(927年)にまとめられた国家の官帳である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載されているお社で、外宮(豊受大神宮)に16社、内宮(皇大神宮)に27社あります。いくつかの摂社を紹介します。

 

  • 草名伎神社(くさなぎじんじゃ)(外宮摂社)

祭神:標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)

 

外宮の摂社として格式が高く、1210年に、月夜見宮が別宮に昇格してから、第一摂社となりました。祭神は標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)で、度会氏の祖とされる大若子命(おおわくこのみこと)が、標劔仗神から剣を賜り、越の国の阿彦という賊徒を討伐したことから、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の名を賜ったという伝承が残されています。「草奈伎」の社号も、この剣を日本武尊の「草薙の剣」に例えたものと言われています。

 

大若子命(おおわくこのみこと)は、度会氏の祖とされ、天照大神の伊勢遷座のところ で、南伊勢の豪族として協力した功績から、官職の一つである神国造(かみのくにのみやつこ)と、神宮の大神主(おおかんぬし)(=神官で禰宜ねぎの上位)に任じられたとされています。また、「草薙の剣」は、倭姫命(やまとひめのみこと)から日本武尊へ授けられる以前に「神宮」にあったとされ、草奈伎神社では、草薙の剣の御魂を祀るという説も残されています。

 

  • 朝熊神社(あさくまじんじゃ)(内宮摂社)

祭神

大歳神(おおとしのかみ)
苔虫神(こけむしのかみ)
朝熊水神(あさくまのみずのかみ)

 

朝熊神社は、内宮摂社の中で格式が高い内宮第一摂社で、桜の名所(朝熊山)としても知られています。祭神は、上記したこの土地を守る神(熊野平野の守護神)かつ五穀と水の神の三柱です。ただし、別の資料では、大歳神(おおとしのかみ)ではなく、その子の桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)とする説もあります。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名ともされています。

 

  • 多岐原神社(たきはらじんじゃ)(内宮摂社)

祭神:真奈胡神(まなこのかみ)

真奈胡神は、倭姫命(やまとひめのみこと)が宮川を渡るのをお助けした土地の神で、社も倭姫命を出迎えたとされる瀧原の近くの場所に建てられたとされています。

 

末社(まっしゃ)> 計24社

末社は、延喜式神名帳には載せられていませんが、807年に成立した伊勢の神宮の儀式帳で、鎮座の由来などについて記した「延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)(「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」と「止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)」の併称)」に記載されている神社です。なお、末社は、外宮(豊受大神宮)に8社、内宮(皇大神宮)に16社、あります。

 

  • 伊我理神社(いがりじんじゃ)(外宮の末社)
    祭神:伊我利比女命(いがりひめのみこと)

 

伊我利比女命は、かつて存在した外宮の御料田(神宮の神田)の井泉の神で、古く外宮御料田の耕種始めの神事、鍬山伊我利神事(くわやまいがりしんじ)が行われていました。このお祭りは、猪の害を防ぐためのもので、社名の「伊我理(利)」も猪狩(いかり)に由来するといわれています。

 

  • 小社神社(おごそじんじゃ) (内宮末社)

御祭神:高水上命(たかみなかみのみこと)

 

高水上命は、この土地の神で灌漑用水の神と伝えられています。小社神社は、この地方では「雨の宮」と呼ばれ、ひでりの折には雨乞祈願をしたといわれます。内宮神主の荒木田氏が、この地域を開拓した当時、産土神として尊ばれた神さまです。

 

所管社(しょかんしゃ)>計42社

所管社は、摂社と末社以外に、正宮や別宮にゆかりがあり、水やお酒、お米、塩、麻、絹などの御料(ごりょう)(=お供え物)、宮域鎮護など、祭祀にあたり深く関係を持つ神々がお祀りされている場所です。外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に30社、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)に3社、伊雑宮(いざわのみや)に5社あります。ここでは、数ある所管社の中で、まず、内宮の域内にある2つの所管所をみてみましょう。

 

  • 子安神社(こやすじんじゃ)(内宮所管社)
    祭神:木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

 

祭神の木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)は、猛火のうちに御身無事に、三柱の御子をお生みになられたという神話から、子授け、安産、厄除けの神として篤い信仰を受けています。もっとも、木華開耶姫命は、元々は伊勢・宇治館町の「産土神(うぶすながみ)」という土地の守護神という伝承があり、木華開耶姫命に対する信仰はこの地に根付いています。

 

木華開耶姫命は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘神であることでも知られています。木華開耶姫命の御神体は「富士山」と云われており、父神の大山祇神からゆずり受けたとされております。子安神社の奥には、その大山祇神を祀る大山祗神社があります。

 

 

  • 大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)

祭神:大山祇神

 

大山祇神(おおやまずみしん)は、木華開耶姫命の父神で、山の神として全国から崇敬を集めています。子安神社と大山祇神社はともに、内宮の衛士見張所の近くにあり、親子神で並んで内宮の宮域でお祀りされています。なお、両社は、伊勢神宮の所管社ではありませんでしたが、1900年(明治33年)に再び、内宮(皇大神宮)の所管社として登録されています。

 

次に、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)にある若宮神社、長由介神社、川島神社をとりあげます。

 

  • 若宮神社(わかみやじんじゃ)(瀧原宮所管社)

祭神:若宮神(わかみやのかみ)

 

若宮神は、瀧原の地に縁のある水の神といわれていますが、由緒など詳細は不明とされています。天若宮(あめのわかみや)と呼ばれることもある若宮神社は、瀧原宮所管社3社のうち第一位です。

 

 

  • 長由介神社(ながゆけじんじゃ)(瀧原宮所管社)

祭神:長由介神

 

長由介神(ながゆけのかみ)は、瀧原宮の御饌(みけ・食物)の神といわれています。御饌の神だから、豊受大神の御霊あるいは分霊とする説もあります。長由介(=長生き)と解され、長生きの神であるとの民間信仰があり、江戸時代には、長寿祈願の参拝者でにぎわったそうです。

 

  • 川島神社(かわしまじんじゃ)

祭神:川島神

由緒など詳細は不明。川島神社は、1874年(明治7年)以降、長由介神社に合祀されるようになりました。

 

瀧原宮を訪れると、周る順番も、瀧原宮→瀧原並宮→若宮神社→長由介神社(川島神社は長由介神社と同座)が推奨されています。

 

一方、所管所の中には、社殿を持たない石神(磐座)祭祀など原初的な形式で祀られている所管所もあります。

 

  • 瀧祭神(たきまつりのかみ)

古代より、瀧祭神は氾濫が多かったとされる五十鈴川の守り神であったとされ、五十鈴川の龍神(水神)を鎮めるために祀られていると言われています。従って、瀧祭神は、五十鈴川の御手洗場近くの杜の中に鎮座し、板垣の内側に御神体の石がお祀りされています。元々は、対岸となる五十鈴川の西側の川辺に鎮座していたという説もあります。

 

  • 四至神(みやのめぐりのかみ)

四至神は、神の神域(大宮)の四方の境界を守護する神で、内宮と外宮に1箇所ずつ鎮座しています。元々はそれそれの境内に数十箇所以上も存在しと言われていますが、それらが統合されて1箇所にまとめられました。なお、四至とは宮の四方の意味です。

 

内宮の四至神の鎮座地は、神楽殿・五丈殿のやや東方、忌火屋殿の程近くにある石畳の上の白石で、そこで、石神としてまつられ、白石の石神(=四至神)のみがお祀りされた神域となっています。江戸時代までは、神様の依り代としての一本の桜の木=「桜大刀自神桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)」が祀られていたそうです。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名との見方もあります。

 

このように、伊勢神宮(「神宮」)は、外宮・内宮(正宮)に加えて、別宮、摂社、末社、所管社、計125社の総称で、社殿を有するお社や、石畳の上に祀られるお社など様々な形があります。なお、どの社が、別宮、摂社、末社、所管社となるかは、各時代によって制定された神祇制度(じんぎせいど)により神社の格(社格)が定められ、その格に応じて摂社・末社と分類されています。

 

<伊勢の祭り(神宮祭祀)>

この125社からなる伊勢神宮では、新年の歳旦祭(さいたんさい)から大晦日の大祓(おおはらえ)まで、各神社の祭祀を合計すると、年間を通じて、数十種以上およそ1500回も行われています。伊勢の神宮の祭りは、「神嘗祭(かんなめさい)」、「恒例祭(こうれいさい)」、「臨時祭(りんじさい)」、「遷宮祭(せんぐうさい)」の4つに分類されます。

 

10月の神嘗祭は、その年に最初に収穫した稲穂(初穂)を天照大御神に感謝のお供えをする祭祀です。また、「恒例祭(こうれいさい)」は、6月・12月の月次祭(つきなみさい)や毎日の神饌祭など定期的に行われる祭祀で、「臨時祭(りんじさい)」は、「天皇陛下ご即位〇〇年を祝う・・」など皇室・国家および神宮の重大事に臨んで行われます。そして「遷宮祭(せんぐうさい)」は20年に一度実施される一大祭祀でしたね。また、「神宮」では春先の祈年祭(きねんさい)、御田植祭(田植えの前に豊作を祈願する儀式)、秋の神嘗祭(かんなめさい)など、稲作に関わるお祭りが多く行われます。

 

このように、伊勢神宮の年間千五百回ほどにおよぶ祭典では、皇室国家の繁栄と国民の幸せを願う祈りがささげられています。

 

 

<参照>

神宮の歴史と文化(伊勢神宮HP)

教えてお伊勢さん(伊勢神宮HP)

BUSHOO!JAPAN 日本史データベース:寺社・宗教

伊勢神宮への参拝で日本人なら知っておきたい7つの秘密

伊勢神宮誕生から現在までの歴史 | 神ズム

かつて桜の神もいた!伊勢神宮内宮、太古の神祭りに触れる参拝(Lineトラベルjp)

別宮、摂社、末社、所管社とは

伊勢神宮はゼロ磁場!?

Line トラベル

伊勢志摩観光ナビ

お伊勢さん125か所参り(伊勢神宮崇敬会)

草奈伎神社・延喜式神社の調査

Wikipedia

 

2020年01月13日

神社:伊勢神宮、外宮と内宮の神さま

昨年11月、天皇皇后両陛下は、伊勢神宮に参拝され、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告されました。また、令和2年に入って、年初の仕事始めの前に、総理を含め与野党を問わず多くの政治家も伊勢詣でしています。皇室の祖、ひいては日本人の祖ともいえる天照大御神をまつる伊勢神宮とは、どういう神社なのでしょうか?

 

伊勢神宮という呼び方は、実は通称で、伊勢の神宮、より正式には単に「神宮(じんぐう)」と呼ばれます。また、伊勢神宮(「神宮」)と一言でいっても、一つの社だけをさすのではなく、相並び立つ「内宮」(ないくう)と「外宮」(げくう)、さらには別宮、摂社、末社、所管社と呼ばれる大小さまざまな社(やしろ)を含め、あわせて125社からなるのが神宮です。ただ一般に「(伊勢)神宮」といえば、「内宮」と「外宮」を連想する人が多いでしょう。今回は、特に内宮と外宮の神さまを中心にまとめてみました。

☆★☆★☆★☆★

 

内宮では、皇室の御祖先神、日本人の総氏神とされる天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまを、また外宮では天照大御神さまのお食事を司り、産業の守り神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)をおまつりしています。

 

外宮(げくう):豊受大御神(とようけおおみかみ)

内宮(ないくう):天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 

<内宮の起源>

伊勢神宮の始まりは神話の「天孫降臨」の時代に遡ります。皇孫、瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天照大御神の命を受けて、高天原から地上の豊葦原中ツ国(とよあしはらのなかつくに)に降りる際、天照大御神は、ニニギノミコトに、お鏡(八咫鏡やたのかがみ)を授けられ、鏡を自分(天照大御神)の御霊(みたま)とみなして、同じ御殿で祀るように命じられました。

 

この時から、天照大御神は、伊勢の地に鎮座される以前に、皇居内の天皇のお側で祀りされていました。しかし、第10代崇神(すじん)天皇(BC148~BC29)の時、その御神威を畏(かしこ)み、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所でお祀りすることにしました。

 

この背景について神話では、崇神天皇の時代に疫病が流行し、大勢の死者が出た際、この原因が、「神の祟り」で八咫鏡のせいではないかという噂が流れたと言います。そこで、崇神天皇は、「お鏡(八咫鏡)」を、宮中(皇居)の外に出されことを決意されたという説もあります。

 

いずれにしても、崇神天皇は、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に、皇居外のふさわしい場所を探すように、お命じになられます。すると、豊鍬入姫命は、皇居外の神聖な地を選んでおまつりすることにし、大和の国の笠縫村(かさぬいむら)(奈良県桜井市)に神籬(ひもろぎ)(=神霊を招き降ろすための樹木)を立てて、大御神を祀られたのでした。この場所が現在の大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社「檜原神社(ひばらじんじゃ/奈良県桜井市三輪)」の辺りではないかと云われています。

 

その後、第11代の垂仁(すいにん)天皇(BC69~AD70)の代になると、八咫鏡をお祀りする役目が、垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に交代します。倭姫命は、天照大御神が、新たに末永くお鎮まりになるのにふさわしい土地を諸国を尋ね歩かれました。大和国を出発し、伊賀、近江、美濃、桑名を巡られた末に、伊勢の国に入られた時、天照大御神は伊勢の地を望まれました。「日本書紀」には、この時、天照大御神が次のよう告げたと書かれています。

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この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、最も美しい永遠の宮処としてふさわしい場所である。この国にいようと思う

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こうして、倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢の五十鈴川の川上に、八咫鏡(天照大御神)を移してお祀りするための「御社殿」を建て、天照大御神さまをお祭りしました。この御社殿こそが、今日の伊勢神宮(内宮)となるのでした。これが今から約2000年前の出来事です。

 

<外宮の起源>

内宮ができてから、約500年後、天照大御神の食事を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をまつった場所が外宮(豊受大神宮/とようけだいじんぐう)です。また、この神さまは、私たち日本民族の主食であるお米をはじめ五穀、衣食住のめぐみを与えてくださる産業(農耕)の守護神でもあります。豊受大御神は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の御世(今から約1500年前)に、天照大御神のお示しによって京都の丹波(たんば)の国(天橋立付近)から、現在の地に迎えられてお鎮まりになったと伝えられています。

 

前出の天孫降臨の神話においても、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降る場面で、天照大御神が天上の高天原でつくられた田の稲穂を手渡される場面があります。この逸話は、天で育った稲を地上にも植え、この国を天上界のような稔り豊かな国にするように託されたと解されています。

 

さて、その外宮には御饌殿(みけでん)という御社殿があり、そこで天照大御神に朝夕二回のお食事がお供えされています。「献立」は、御飯三盛、鰹節、魚、海草、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献で、これらに御箸を添えて供えられているそうです。

 

また、伊勢神宮のHPによれば、神饌(しんせん)(神さまのお食事)を調理するのは忌火屋殿(いみびやでん)という建物で行われ、神に奉る神饌は特別におこした火と特別な水で調理することになっています。火は、清浄な火という意味で忌火(いみび)と呼ばれ、神職が古代さながらに火鑚具(ひきりぐ)を用いて火をおこしています。また、御水は外宮神域内にある上御井神社から毎日お汲みしてお供えされているそうです。さらに、お食事はただ出されるのではなく、「皇室のご安泰、国民が幸福であるように」との祈りと感謝を捧げる、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という祭祀の形で行われています。しかも、日別朝夕大御饌祭は、外宮の御鎮座以来、1500年間、欠かすことなく、朝夕の二度行われているのです。

 

<八咫鏡と斎王>

さて、内宮においては、7世紀末(飛鳥時代)に、天皇が即位する度に、未婚の女性皇族)」の中から、天皇に代わって天照大御神(八咫鏡)に仕える「斎王(さいおう)」という制度が確立しました。すなわち、伊勢神宮における斎王とは、天照大御神の御霊がお宿りする「八咫鏡を祀る任務を担う役職」のことで、一代の天皇が即位する度に未婚の皇女が1人選出されていました。

 

ただし、伊勢へ下ると、斎王は、日々、神宮で奉仕していたかというとそうではなく、基本的に、伊勢神宮の最も大切な祭典「三節祭」が執り行わる際にのみ、神宮へ赴き奉仕したと言われています。普段は、伊勢国多気郡の櫛田川付近(現在の近鉄斎宮駅の付近)に位置した「斎宮」で生活していたとされています。斎王はあくまで象徴的な存在だったのでしょう。

 

なお、「三節祭」とは、神宮内の数ある祭典(神事)の中でも特に重要視されている6月と12月の「月次祭」と10月の「神嘗祭」の3回の祭典をいいます。天皇は現在も、「三節祭」の時には、伊勢神宮へ使者「勅使(ちょくし)」をつかわして「絹織物」などを奉納されていたそうです。

 

しかし、この斎王の制度は、神宮創建後の約660年後となる室町時代の1330年頃、ちょうど朝廷が2つに割れた「南北朝時代」には廃止されてしまいました。政治の混乱とともに、斎王の制度を維持していく財源がなくなったことが要因とみられています。実際、南北朝時代を境に、朝廷の権威は衰えていきました。後醍醐天皇による天皇親政の復活を図った「建武の新政」も失敗し、武家が完全に権力を掌握する時代に移り変わってゆきます。天皇家が政治の中心いた時代では、財源の確保が容易にできましたが、武家の時代になると天皇のもとへ直接、財が集まらなくなりました。結果的に「斎王」の制度が執り行えなくなり、14世紀以降、時代から消えてしまいました。それまで、皇女が務めた歴代の斎王の人数は60余人にのぼりましたが、現在、伊勢神宮に「斎王」は存在しません。

 

<神宮の祭主>

参考までに、伊勢神宮には、現在も「斎王」と似て非なる存在として「祭主」がいます。神宮祭主は、天皇の代理として神宮の祭事をつかさどる役職で、天皇の「勅旨」を受けて決まります。神宮祭主のはじまりは不詳で、平安時代まではさかのぼると言われています。

 

現在の祭主は、上皇陛下の長女、黒田清子(さやこ)さんです。その前は、昭和天皇の4女の池田厚子さんで、戦後の祭主には、皇族出身の女性が就任されてきました(過去には、男性がなったり、華族らがなったりしていた)。やはり、伊勢神宮成立の経緯からして、皇室の祖先の神である「天照大御神」にご奉仕する「斎王」と同様、伊勢神宮の祭事に携わる「祭主」は、天皇陛下が定めた皇族、または元皇族の方が、務めると言うことが通例でした。

 

「祭主」は、神宮の祭事をつかさどる役職といっても、年間「千数百回」も行われていると言われるお祭りすべてに携わっているわけではなく、祭主が直接、神事に携わる(ご奉仕する)のは、神嘗祭(10月)など一部に限られています(このほかに出席するだけの「ご参列」もある)。ですから、祭主になると、伊勢への「常駐」が求められるかというと、祭主が直接関わる祭りは限られているため、伊勢に住みこむ必要はありません。黒田さんも、必要があるときに神宮を訪れるという対応をとられています。

 

以上、ここまで、内宮、外宮の起源とその後についてみてきました。では、内宮と外宮、どちらから参拝したらいいのでしょうか?答えは外宮からです。

 

<外宮先祭>

神宮のお祭りは、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、まず外宮から行われるのが慣例となっています。これは、豊受大御神(とようけおおみかみ)を伊勢の地にお迎えになった天照大御神から「我が祭りに仕え奉る時は、まず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」との御神託があったと伝えられているからです。

 

従って、内宮のお祭りに先立ち、神饌(しんせん)と呼ばれる神さまのお食事をお供えする日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい))が行われるならわしからきています。ですから、お祭りの順序にならい、お伊勢参りも外宮・内宮の順に参拝するのが慣例なのです。

 

<式年遷宮>

伊勢神宮(外宮・内宮、別宮)では、20年に1度、隣の敷地にそのままの姿で社殿を建て替うて、ご神体を遷す式年遷宮と呼ばれる最大の祭典が行われます。式年遷宮は、飛鳥時代の持統天皇の世の690年から、1300年以上にわたって、続けられています。直近では、2013年10月に行われました。

 

ただし、その年のみ儀式があるのではなく、遷宮の年の7年前から数々の行事がこなされます。ご神体(神さま)が古い正殿から新しい正殿へと遷られるという最重要の儀式は、「遷御の儀」という儀式です。御神体(神さま)にお移りいただいた後、古い社は解体されます。また、建物だけではなく、装束や宝物などの道具も新調されます。「遷宮」とは、言わば、神さまのお引越です。こうした過程で、技術は、「見習いの職人⇒棟梁⇒後見人」というように面々と引き継がれていくことになります。そういう意味で、式年遷宮は、建築や製品の技術を次の世代に伝えていくと制度もあります。

 

これに対して、外国にも歴史的な宮殿がいくつもあります。例えば、ギリシャ神殿は2千年以上も建ち続けています。しかし、それを千年、二千年に1回を建て改めるとなったとしても、同じ建築をつくれる人はもういないと言われています。

 

 

<私幣禁断の制>

古来、伊勢神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りする、皇室にゆかりのある神社であることから、一般の人々は今のような自由な参拝はままなりませんでした。そのことを象徴的に示す制度に、天皇以外の幣帛(へいはく)(=食べ物以外のお供え物)を禁じる「私幣禁断(しへいきんだん)の制」がありました。幣帛(へいはく)とは、麻や木綿など食べ物以外の品を箱に入れてお供えすることで、伊勢神宮にお参りして、これらの品々を奉納できるのは(天皇の)「勅使」や「斎王」のみに限られ、個人は禁止されていたのです。

 

この私幣禁断(しへいきんだん)の制の「伝統」から、一般の人が伊勢神宮をお参りする時、「個人的な願い事をしてはいけない」と言われています。伊勢の神宮は、天皇が天照大御神さまの前で、国民と国家安寧のための公的な祈りの場であるので、「個人的な願いをかなえようと手を合わせて祈ってはいけません」となったのですね。ですから、現在も外宮・内宮の正殿の前には、「おさい銭箱」はありません。もっとも、皆がお賽銭を投げ入れるので脇に「箱」が置かれるようになったそうです。

 

<伊勢詣で>

もっとも、私幣禁断の制によって、一般の人々の参拝までも禁止されたわけではありませんでした。ですから、勅使のお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに伝えられていくうちに、次第に神宮の存在が広く知られるようになったと言われています。平安時代の後半には、神嘗祭に「千万人」、鎌倉時代中頃には外宮遷宮に「幾千万」と文献には残されているように、神宮への参向者は年々増えていったようです。

 

江戸時代になると、全国に伊勢信仰が広がり、「お伊勢まいり」が流行するほどでした。この伊勢ブームに大きな功績があったのが御師(おんし)と称される人々です。伊勢の御師とは、神宮の外宮と内宮に所属して、参詣者の様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とする一種の下級神職でした。仏教の檀家制度に近く、檀家にお神札の頒布や祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をしたり、御神楽を行ったそうです。江戸の全盛時代には、二千人あまりの御師が活躍し、伊勢の外宮方面(山田)と内宮方面(宇治)に、御師の館が1,000軒あったと言う説もあるくらいです。ただし、御師制度は明治時代に廃止されてしまいました。

 

このように、伊勢神宮は、一生に一度は伊勢参りと言われるくらい、人々に定着していったのでした。しかしながら、天皇は、江戸時代まで、皇室の祖である天照大御神を祀る伊勢神宮を参拝したことはなかったという驚くべき事実があります。(続)

2020年01月11日

ニュース:令和初の福男 西宮神社  

「一番福」は高校教師 令和初の福男決まる 西宮神社

(2020年1月10日、神戸新聞)

 

商売繁盛の神様「えべっさん」の総本社、兵庫県西宮市社家町の西宮神社で10日早朝、参拝一番乗りを目指して境内を駆ける「開門神事福男選び」があった。約5千人の中から、堺市に住む大阪府立藤井寺工科高校保健体育科教諭、黒木悠輔さん(33)が先頭で拝殿に駆け込み、令和で初めての「一番福」に輝いた。

 

江戸時代に始まったとされる伝統行事で、毎年「十日えびす」の本えびすを迎える10日に催される。参加者は9日夜から南門に集まり、くじ引きで前列に並べる約260人が決まった。夜明け前の午前6時。「開門」の掛け声で朱色の門が開き、参加者は約230メートルの参道を疾走。本殿では神職が、到着順に一~三番福の3人を抱きかかえた。一番福を手にした黒木さんは13回目の福男神事。12年間くじに外れ続けたが諦めなかった。「生徒には挑戦しないと何も始まらないと伝えたい」と満足げな表情を見せた。

2020年01月09日

ニュース:昭和天皇祭「皇霊殿の儀」(1/7)

天皇陛下は、2020年1月8日、歴代天皇の霊を祭る皇居・宮中三殿の皇霊殿で行われた「皇霊殿の儀」に臨まれました。ただ、この昭和天皇祭皇霊殿の儀((しょうわてんのうさいこうれいでんのぎ)について、主要各紙はほとんど報じていませんでしたが、産経新聞は「両陛下ご動静(7日)」として、宮内庁の発表を記事としてWebニュースを載せていました。

 

【午前】

陛下 昭和天皇祭皇霊殿の儀(皇居・皇霊殿)

皇后さま 昭和天皇祭皇霊殿の儀に当たりご遙拝・お慎み(赤坂御所)

陛下 賢所勤労奉仕団ご会釈《昭和天皇祭御神楽の儀奉仕につき〉〈蓮池参集所)

 

【午後】

陛下 ご執務の(赤坂御所)

陛下 昭和天皇祭御神楽の儀(皇居・皇霊殿)

皇后さま 昭和天皇祭御神楽の儀に当たりご遙拝・お慎み(赤坂御所)

両陛下 昭和天皇祭御神楽の儀終了までお慎み(赤坂御所)

(2020.1.8 産経ニュース)

 

昨年2019年は、昭和天皇の逝去から30年の節目の年でしたので、「昭和天皇三十年式年祭の儀」が挙行されました。昭和天皇の式年祭は逝去後20年の2009年以来のことでした。

 

「昭和天皇をしのぶ式年祭」とも呼ばれる祭祀では、昭和天皇が埋葬された武蔵陵(むさしののみささぎ)で、「山稜の儀」が、また、皇居では昭和天皇など歴代天皇の霊を祭る「皇霊殿」では、「皇霊殿の儀」がそれぞれ行われました。(式年祭とは、決められた期間ごと行われる祭祀のこと)

 

ご参考に、昨年の昭和天皇祭について報じた日本経済新聞の記事です。

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昭和天皇しのび30年式年祭 両陛下、武蔵野陵を参拝

(2019/1/7、日経)

 

昭和天皇の死去から満30年となる7日、昭和天皇が埋葬されている武蔵野陵(東京都八王子市)と皇居・宮中三殿で「昭和天皇三十年式年祭の儀」が営まれた。武蔵野陵での「山陵の儀」には天皇、皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻ら皇族方のほか、安倍晋三首相ら約80人が参列。昭和天皇をしのび、天皇陛下が御告文(おつげぶみ)を読み上げられた。モーニングの上にコートを着た天皇陛下は米や酒などが供えられた陵前で玉串をささげて拝礼し、御告文を大和言葉で読まれた。宮内庁によると「どうぞ国家、国民をお守りくださり、さらに繁栄させていただきますようお願い申し上げます」との趣旨という。

 

これに先立ち、歴代天皇の霊を祭る皇居・宮中三殿の皇霊殿では「皇霊殿の儀」が行われた。皇太子ご夫妻が両陛下の名代として古式にのっとった装束で臨み、拝礼された。秋篠宮家の長女、眞子さまや次女、佳子さまらも参列された。昭和天皇の式年祭は今後、死去後50年までは10年ごと、その後は100年ごとに行われる。

2020年01月07日

ニュース:与党も野党も伊勢神宮参拝

政治は伊勢神宮参拝から始まる!?

 

立民・枝野代表が伊勢参拝 昨年は党内外から批判が殺到

(2020.1.4、産経)

立憲民主党の枝野幸男代表が4日、伊勢神宮(三重県伊勢市)を参拝した。昨年1月に参拝した際は党内外から「支持層に背中を向ける行為」などと批判が殺到していた。5日は出雲大社(島根県出雲市)を参拝する予定だ。

 

 

立憲・枝野氏と国民・玉木氏が伊勢神宮に 合流近づくも参拝は別々

(2020年1月4日、中日新聞、一部抜粋)

立憲民主党の枝野幸男代表、国民民主党の玉木雄一郎代表が四日、それぞれ伊勢市の伊勢神宮を参拝し、記者会見した。両党の合流に向け、二人は近く党首会談をすると表明したものの、参拝は別々だった。県議は立民側に二人が同行しただけで、旧民進系県議らは「どちらかの党にだけついて行くわけにはいかない」と早期の合流を求めた。

 

午前に参拝した枝野氏には、県選出の中川正春衆院議員、芝博一参院議員らが同行。参拝後の会見で枝野氏は両党幹事長が年末に進めた合流協議について「大変難しいさまざまなハードルを乗り越えて大きく前進した」と評価した。玉木氏は午後に古川元久代表代行と参拝。玉木氏も会見で合流に前向きな姿勢を示す一方、党名や人事など協議することは多いとし「(立民への)吸収合併はあり得ない。新党をつくっていく」と強調した。

 

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安倍首相 伊勢神宮に参拝

(2020年1月6日、NHK、一部抜粋)

安倍総理大臣は年頭にあたって6日午後、三重県伊勢市の伊勢神宮を訪れ、萩生田文部科学大臣や加藤厚生労働大臣ら10人の閣僚とともに外宮、内宮の順に参拝しました。

 

 

安倍総理が伊勢神宮参拝 年頭会見で「憲法改正を私自身の手で成し遂げていく」と語る

(2020年1月6日、日テレニュース、一部抜粋)

安倍総理大臣は6日、伊勢神宮を参拝し、その後の年頭記者会見で「憲法改正を私の手で成し遂げたい」と意欲を示しました。総理としての参拝は、第2次安倍政権発足以降、8年連続です。参拝後の記者会見では、今年を「新時代を切り開く1年とする」と決意を述べました。また、憲法改正について、安倍総理は、「国会議員として、憲法改正に対する国民的意識の高まりに対して、無視することはできないと思う。憲法改正を私自身の手で成し遂げていくという考えに全く揺らぎはない」などと語りました。

2020年01月06日

皇室:天皇陛下のお正月

令和となって初めて迎えた元日、1月1日から、天皇陛下は、午前5時半から激務をこなされました。天皇陛下のお正月はいかなるものなのでしょうか?天皇の「お仕事」として、年間80を超えるとされる数多くの宮中祭祀や、国事行為・公的行為のうち1月1日から4日までを追ってみました。

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<1月1日>

◇ 四方拝

天皇陛下は、早朝5時30分に、皇居の神嘉殿南庭で、伊勢神宮,歴代天皇が眠る山陵、四方(東南西北)の神々をご遙拝(拝礼)される年中最初の宮中祭祀、四方拝に臨まれます。

 

◇ 歳旦祭

四方拝に続き、天皇陛下は、5時40分から、宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で、そこにそれぞれ祀られている皇祖・天照大神や、八百万の神々(天神地祇)、歴代天皇・皇后・皇族の霊(皇霊)に対し拝礼されます。宮中三殿で行われる年始の祭典です。

 

(なお、四方拝と歳旦祭についての詳細は、皇室:新年最初の宮中行事「四方拝」を参照下さい。)

 

四方拝と歳旦祭の後、朝食をとられます。天皇陛下がとられる朝食は、「御祝先付の御膳」と呼ばれる料理です。「本膳で小串鰤焼き、浅々大根(大根の塩漬け)、菱葩というお餅。二の膳で割伊勢海老、栗を甘い汁で煮込んだ福目煮勝栗、雉の胸肉を焼いて熱燗を注いだ雉酒などがある」とされています。雑煮や屠蘇は出ないと言われています。

 

 

◇ 新年祝賀・晴の御膳

 

ご朝食後、午前9時すぎからは祝賀行事が分刻みで続きます。まず、両陛下のお住まいである御所にて、「新年祝賀およびお祝酒」が行われます。そこで、両陛下は、日々身の回りのお世話をする侍従長はじめ侍従職職員から新年のあいさつを受けられます。その後、諸行事を行う宮殿に移られ、宮内庁長官ら幹部職員、参与や御用掛(ごようがかり)といった相談役からもあいさつを受けられます。

 

9時半には、同じ皇居(宮殿)にて、陛下は、「晴の御膳(はれのごぜん)」という行事に臨まれます。「晴れの御膳」とは、お正月に天皇にだされる食事の意で、新年を迎えたお祝いと自然の恵みに感謝するための儀式です。そこでは、勝栗や干しナツメなどの木の実や果物、塩や酢などの調味料、鮎白干しなどのメニューが用意されるそうです。おせちのルーツともいわれていますが、天皇陛下が皿に箸を立てる所作をするだけで、これらの料理を召し上がることはないそうです。

 

(「晴の御膳」や「御祝先付の御膳」の中身については、特に週刊ポスト「天皇陛下元日の食事…」参照引用)

 

 

◇ 新年祝賀の儀

 

「新年祝賀の儀」は、元旦1月1日に、天皇、皇后両陛下が、皇居・宮殿において、皇族や三権の長(総理大臣、衆参両院の議長)や議員、それに日本に駐在する外国の大使などから新年のお祝いを受ける儀式で、憲法に基づく国事行為に位置づけられています。両陛下が祝賀を受ける人数は、680人近くにものぼります。宮殿内では、祝賀を述べる方々が両陛下の部屋に来るのではなく、面会相手ごとに部屋が割り当てられており、両陛下は複数の部屋を回られます。

 

では、タイムスケジュールは、いかなるものであったのか、2018年1月1日付け産経新聞の「天皇陛下のお正月、ご多忙の元日・・・」の記事など新聞報道を中心にまとめてみました。

 

午前10時、天皇、皇后両陛下は、皇居・宮殿「松の間」で、まず、各皇族から、新年の祝賀を受けられます。両陛下が正面に立ち、皇位継承順位1位の「皇嗣」の秋篠宮さま、秋篠宮妃紀子さま、他の宮家皇族が、それぞれ男性皇族、妃殿下の順に挨拶されます。皇族方の中には、黒田清子(さやこ)さん夫妻ら元皇族も含まれ、また秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまからのごあいさつもあります。

 

午前11時になると、両陛下は皇族方と共に、「松の間」の右隣にある「梅の間」に移られ、首相、各大臣、官房長官・副長官、各副大臣らの夫妻から祝賀を受けられます。続いて、再び「松の間」に移動され、今度は、衆・参両議院の議長・副議長や一部の国会議員らの夫妻から挨拶を受けられます。ここで、陛下は、「年頭にあたり国民の幸せと国の発展を祈ります」とお言葉があります。その後、左隣の「竹の間」に移動され、最高裁判所長官、同判事、各高等裁判所長官らの夫妻からも同様の祝賀を受けられます。これにより、天皇の権威が、行政、立法、司法の三権よりも上位に位置していることが確認されます。ちなみに、三権の長から祝賀を受ける際、天皇は壇の上に立たれます

 

午前11時半からは、各中央省庁の事務次官、都道府県の知事や都道府県議会議長らの夫妻から挨拶を受けられます。なお、自治体の長は全員ではなく、宮内庁が毎年交代で複数指名されるそうです。両陛下は、皇族方との昼食会を挟み、午後にも宮内庁や皇宮警察の現職・OBらとお会いになられます。

 

午後2時半になると、最後に再び「祝賀の儀」として、両陛下は、皇族方とともに、「松の間」で、125の国と地域の外国大使夫妻から順番に一組ずつ祝賀を受けられます。各国の駐日大使は、それぞれの国を代表した全権大使です。その国の代表者らから祝賀を受けるのが、首相ではなく天皇であることは、日本の「国家元首」が天皇であることを示していると指摘する識者もいます。

 

「新年祝賀の儀」は、飛鳥時代の「元日朝賀」まで遡るとされ、1300年以上前から行なわれていた伝統祭祀です。この時から、朝廷において、皇族や大臣以下役人たちが元日、天皇に拝賀していたと言われています。

 

夕刻まで続く「祝賀の儀」が終わると、皇族方と夕食をとられます。献立は、日本の伝統的な慶事の食膳である「御祝御膳」で、その際、雑煮も食されると言われています。夕食は、22時頃まで続くこともあるそうです。いずれにしても両陛下は非常に長い元旦の一日を過ごされるのです。

 

<1月2日>

◇一般参賀

新年一般参賀は、1月2日、陛下と皇后さまをはじめとする成年の皇族方が宮殿・長和殿のベランダに並び立ち、東庭に集まった参賀者に手を振って応えられる行事です。ちなみに、ベランダは新年と天皇誕生日の一般参賀のために取り付けられるそうです。

 

午前10時10分からの1回目の参賀では、天皇陛下がマイクを通じ、挨拶されます。一般参賀で読み上げられるお言葉は、陛下ご自身でお考えになり、準備されると言われています。今年の陛下のお言葉は以下の通り。

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新しい年を迎え、皆さんとともに祝うことをうれしく思います。その一方で、昨年の台風や大雨などにより、いまだご苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じています。本年が災害のない安らかで良い年になるよう願っております。年の始めに当たり、わが国と世界の人々の幸せを祈ります。

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2回目以降の参賀はそれぞれ午前11時、同11時50分、午後1時半、同2時20分と、計5回行われました。参賀の回数は、平成21(2009)年以降、5回行われるようになりました。今回の参賀には上皇ご夫妻も、午前中3回の参賀にお出ましになられました。

 

宮内庁によると、令和初となった今年の一般参賀には、6万8710人が訪れました。なお、平成に入り、参賀者が最も多かったのは、皇太子ご夫妻のご成婚後初めての新年一般参賀だった平成6(1994)年の11万1700人でした(ただ、この年は特別に8回行われた)。また、上皇陛下が平成28(2016)年8月に譲位の意向を示された後の翌年の新年一般参賀には9万6700人が詰めかけ、過去2番目の多さとなりました。

 

新聞報道によれば、新年の一般参賀は、戦後間もない昭和23(1948)年に始まり、当初は元日に記帳のみ受け付けたそうです。昭和26(1951)年には、昭和天皇と香淳(こうじゅん)皇后が初めて宮内庁庁舎の中央バルコニーにお出ましになられました。昭和28(1953)年から、参賀の日が1月2日に変更になり、場所が現在の宮殿・長和殿となったのは、昭和44(1969)年からとなります。

 

<1月3日> 

◇元始祭(げんしさい)

元始祭は、1月3日、天皇陛下が宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で拝礼し、年始にあたり、皇位の大本と由来とを祝すとともに、国と国民の繁栄を願われる宮中祭祀です。

 

「皇位の大本と由来」とは、日本の神話による天孫降臨のことをさします。記紀(古事記と日本書記)によれば、天照大神の孫であるニニギノミコト(邇邇芸命または瓊瓊杵尊)が、高天原と黄泉の国の間にある葦原中国(日本)の統治のために降臨した(これを「天孫降臨」という)とされています。すなわち、元始祭では、天孫降臨とそれによって天皇の位が始まったことが祝われるのです。

 

元始祭(げんしさい)は、明治3年(1870年)1月3日に始まり、明治6年(1873年)1月3日から現在のように、宮中三殿で天皇が親祭される形式となりました(それまでは神祇官八神殿にて実施)。また、同年、太政官布告により祝祭日となり、明治41年(1908年)制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定されています。しかし、この法律は昭和22(1947)年に廃止され、昭和23年制定の国民の祝日からは外されました。しかし、宮中では現在でも従来通りの元始祭が行われています。宮中では伝統が護持されていることがわかりますね。

 

<1月4日>

◇奏事始(そうじはじめ)

奏事始(そうじはじめ)は、1月4日、掌典長(しょうてんちょう)(皇室の宮中祭祀の責任者)が年始に当たって,伊勢神宮と宮中の祭事のことを天皇陛下に奏上する行事です。具体的には、天皇陛下は午前10時から、宮殿の鳳凰の間で掌典長から伊勢神宮と宮中三殿などにおいて、前年12か月間に、それぞれの祭祀が滞りなく執り行われたという報告を受けます。

 

前年の祭祀報告は、神霊を祭る祭祀でも祭儀ではありませんが、単なる形式的な行事ではなく、祭祀・祭儀に必要な行事だとみなされています。というのも、皇祖神を祀る伊勢神宮では、毎年数十種以上、年間何百回もの祭典が行われ、また、皇室においても、宮中三殿や勅祭社、各地にある陵墓などを含めれば、様々なみ祭が何10種も実施されているからです。

 

ただし、奏事始(そうじはじめ)は、戦前には「政始(まつりごとはじめ)」と呼ばれ、その年の国政開始の行事だったそうです。政治とは、かつて政(まつりごと)と呼ばれ、神のみ心を取り次ぐ仕事だという考え方がありました。元始祭の後に、政始が行われたのは、ある意味、祭政一致の伝統に基づくものであったと言えるかもしれません。しかし、日本国憲法施行後の昭和24年以降、現在の様式になりました。

 

 

<参照>

「天皇のまつりごと」(所功著、生活人新書)

日本一忙しい天皇陛下「平成三十年」の元日

(週刊ポスト2018年1月1・5日号)

天皇陛下元日の食事 小串鰤焼き、浅々大根、割伊勢海老など

(週刊ポスト2014年1月1・10日号)

令和初、天皇皇后両陛下が皇居で「新年祝賀の儀」

(2020年1月1日、共同)

天皇陛下「国民の幸せと国の発展を祈ります」新年祝賀の儀

(2020年1月1日、産経ニュース)

天皇陛下のお正月、ご多忙の元日 未明の祭祀で国民の幸せ祈られ 一般参賀は最多更新なるか

(2018年1月1日、産経)

天皇陛下「災害のない安らかで良い年となるよう願う」 令和初の新年一般参賀 上皇ご夫妻もお出まし

(2020.1.2、産経新聞)

令和初の新年一般参賀 6万8710人が参加

(2020年01月02日、時事ドットコム)

2020年01月05日

皇室:新年最初の宮中行事「四方拝」

令和初の新春を迎え、天皇皇后両陛下は、元旦に、皇族や三権の長らから新年のお祝いを受ける「新年祝賀の儀」や、2日には、秋篠宮ご夫妻をはじめ成年皇族方とともに「一般参賀」へのお出ましなど、新年の行事をこなれました。ただ、元旦の「祝賀の儀」に先立ち、陛下は、夜明け前に、「四方拝(しほうはい)」と「歳旦祭(さいたんさい)」という宮中祭祀に臨まれていたことはあまり報じられませんでした。数ある祭祀の中でも最重要の儀式の一つとも言われる「四方拝」を中心に知られざる祭祀について紹介します。

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四方拝(しほうはい)

<概要>

四方拝とは、宮中で行われる一年最初の儀式で、1月1日(元日)の早朝、天皇が皇祖神の天照大神をまつる伊勢神宮や、歴代天皇が眠る山陵、さらに四方の神々に向かって遥拝(ようはい)(遠く離れた所からおがむこと)され、その年の五穀豊穣と国の安寧、国民の幸せを祈願される儀式です。

 

天皇陛下は、四方拝に先立つ大晦日の夜、御湯(みゆ)で身を清める「潔斎(けっさい)」という儀式を受けられます。その後、元旦の寅の一刻(午前四時頃)、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と呼ばれる天皇のみが着ることが出来る特別な装束に着替えられ、早朝5時半、天皇陛下は宮中の神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになられます。

 

祭祀は、正確には皇居の宮中三殿の西側に付属する神嘉殿の南側の前庭に設けられた仮屋の中の畳の上で行なわれます。最初に皇室の祖先神が祀られている伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)・皇大神宮(内宮)の両宮に向かって、次に東南西北の順番で四方の神々に拝礼され、国家国民の安寧と五穀豊穣を神々に祈られます。

 

なお、「四方の神々」とは、以下の神社(神宮)の方向を指します。

氷川神社(埼玉)
上賀茂神社・下鴨神社(京都)
石清水八幡宮(京都)
熱田神宮(愛知)
鹿島神宮(茨城)
香取神宮(千葉)

 

さらに、先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵にも拝されるとされています。

 

四方拝は、数ある宮中祭祀の中でも最も重要な祭祀の一つとされ、天皇陛下自らしか行うことはできません。また、巫女の介添えもなく天皇お一人がされる特別の祭祀です。天皇が何かしらの事情で行えない際も御代拝(ごだいはい)(代理人が祭祀を代行すること)は認められません。そのため、天皇の体調が優れないなどの場合、四方拝は中止となります。過去においては、天皇がみこ元服を迎える前は御座だけ作られて四方拝は行われず、また日蝕(にっしょく)や、天皇が喪に服している期間は行われないことが慣例となっているそうです。

 

<四方拝の歴史>

四方拝は平安時代に定着

四方拝は、7世紀中期の飛鳥時代に起源を持つとも言われていますが、史料で確認できる起源は、平安時代の初め、嵯峨天皇の時代まで遡ります。ただし、正月の祭祀として定着したのは宇多天皇の時代とされています。

 

当初は、在来の信仰を土台としつつも、中国的要素が強かったようです。とりわけ、道教、より具体的には陰陽道の影響が濃厚な祭祀でした。その所作は、これまで公開されていませんが、平安時代の儀式書、「内裏儀式(だいりぎしき)」や「江家次第(ごうけしだい)」などには、四方拝の様式が記されています。また、2009年1月3日には、日本テレビ系列で放送された「ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎」でも四方拝について解説されました。その時の放送内容などをまとめました。

 

北斗七星の属星

平安時代以降、四方拝は禁裏御所(現在の京都御所)にある清涼殿の東庭(とうてい)で行われていました。東庭の御座には、畳で3つの座が設けられ、一つは属星(ぞくしょう)を拝し、一つは天地四方の神々を拝し、一つは天皇陵を拝するための座でした。三つの座の北側には燈台と机が置かれていたといいます。机にはお香と花が供えられ、それらを取り囲むように屏風が張り巡らされていた記されています。

 

天皇は、最初の座で「属星(ぞくしょう)」を拝礼します。属星は、年の干支(えと)を、北斗七星の7つの星にそれぞれ割り振ったもので、具体的には次のようになります。

 

貪狼星(どんろうせい)⇒子年(ねずみ)
巨門星(こもんせい)⇒丑年(うし)、亥年(いのしし)
禄存星(ろくそんせい)⇒寅年(とら)、戌年(いぬ)
文曲星(ぶんきょく)⇒卯年(うさぎ)、酉年(とり)
廉貞星(れんていせい)⇒辰年(たつ)、申年(さる)
武曲星(ぶきょくせい)⇒巳年(へび)、未年(ひつじ)
破軍星(はぐんせい)⇒午年(うま)

(令和2年は子年(ねずみ)ですから、今年の属星は「貪狼星(どんろうせい)」といことになる。)

 

御座に着座された天皇は、御笏(みしゃく)(神主が手に持つ白木の板)をおとりになり、北に向かい新年の属星の名字を七回唱えられ、拝礼されます。その作法は、まず正座の姿勢から立ち上がり、腰を折って深々と頭を下げながら正座に戻り、そのまま平伏(へいふく)(両手をつき、頭を地や畳につけて礼をすること)になります。この動作を2回繰り返す「再拝」に続けて、以下のような呪文が唱えられたそうです。

 

賊冦之中過度我身(ぞくこうしちゅうかどがしん)
(賊冦の中、我が身を過し度せよ)

毒魔之中過度我身(どくましちゅうかどがしん)
(毒魔の中、我が身を過し度せよ)

毒氣之中過度我身(どくけしちゅうかどがしん)
(毒氣の中、我が身を過し度せよ)

毀厄之中過度我身(きやくしちゅうかどがしん)
(毀厄の中、我が身を過し度せよ)

五急六害之中過度我身(ごきろくがいしちゅうかどがしん)
(五急六害の中、我が身を過し度せよ)

五兵六舌之中過度我身(ごひょうくぜつしちゅうかどがしん)
(五兵六舌の中、我が身を過し度せよ)

厭魅之中過度我身(えんみじゅそしちゅうかどがしん)
(厭魅の中、我が身を過し度せよ)

百病除癒、所欲随心、急急如律令
(ひゃくびょうじょゆ、しょよくずいしん、きゅうきゅうにょりつりょう)

 

その内容は、賊、毒、危害、病気、苦悩などの排除を祈願するものですが、天皇は「さまざまな国難はわが身を通過しますように」と唱えられています。つまり、この呪文は、さまざまな災いを天皇が一身に受け、国民に向かぬように守りたまえと、国家国民の安泰を祈る厄払い(魔除け)の呪文であると解されています。最後の「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」は、陰陽道の呪文とされ、四方拝に中国の道教色が反映している好例と言えるでしょう。

 

天地四方の神々

続けて天皇は、二つ目の座で、天と地、四方の神々を遥拝(ようはい)されました。まず北に向かって天を、次に北西に向かって地を再拝されました。そして東・南・西・北の順にそれぞれの方角を拝されました。最後に、天皇が三番目の座で拝礼されるのは、歴代天皇が葬られている天皇陵で、天皇は再拝を2回重ねる「両断再拝」を行って、祭祀は終了したそうです。

 

このように、平安時代の四方拝では、天皇は元旦の早朝に天皇がその年の北斗七星の属星(ぞくしょう)、天と地、四方の神々、山陵(さんりょう)(天皇陵)を拝み、年の災いを祓い、国家・国民の安康、豊作を祈願されたのでした。

 

現在の四方拝

さて、四方拝は、応仁の乱で一時中断されましたが、後土御門天皇の文明7年(1475年)に再興されて孝明天皇に至るまで続き、明治以降は、日本的な内容が取り込まれ、現在の形が確立しました。大きな変化は、何より呪文を唱えなくなり、中国(道教・陰陽道)色が薄くなったことで、儀式の次第も、伊勢神宮の皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮)の両宮に向かっての拝礼が加えられ、その後、四方の諸神祇等を拝するように改められました。祭祀の場所も遷都に伴い、京都御所の清涼殿の前庭(東庭)から、皇居の神嘉殿になりました。

 

法令面では、四方拝(当時は四方節と呼ばれた)の様式は、明治41(1908)年制定の皇室祭祀令(こうしつさいしれい)で規定され、戦前までは国家行事として行われ、祝祭日の中の四大節の一つでした。終戦後、皇室祭祀令は廃止されましたが、現在の四方拝は天皇の私的な祭祀として、明治時代の作法に準拠して行われ、今も脈々と引き継がれています。

なお、平成24(2007)年には、天皇陛下(現上皇陛下)の年齢と体調を考慮し、代理が懸案されましたが、前述したように、四方拝は代理人が祭祀を行う御代拝を認めていません。したがって、祭祀の場所を、皇居の宮中三殿の西側に付属する神嘉殿南庭に設けられた仮屋から、皇居内のベランダに移して執り行われ、また、天皇のみが着る黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなく、タキシード(モーニングコート)姿という簡略化した形で執り行われていました。しかし、代替わりの2020年の四方拝は、従来通り皇居の神嘉殿にて挙行されました。

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歳旦祭(さいたんさい)

 

実は、現在の四方拝は10分ほどで終わります。陛下は、四方拝の後すぐに宮中三殿に移動され、5時40分から「歳旦祭」という年始の祭典に臨まれます。歳旦祭は、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿にそれぞれ祀られている皇祖・天照大神や、八百万の神々(天神地祇)、歴代天皇・皇后・皇族の霊(皇霊)に対し拝礼する祭祀です。天皇にとって、いわば「初詣」のようなものと評されています。歳旦祭は、戦前の祝祭日の中の皇室祭祀礼に基づく小祭の一つで、明治時代以降、行なわれるようになり、天皇は国家国民の安寧を祈られます。

 

歳旦祭の次第は、四方拝が始まる同じ時刻(5時30分)、宮中三殿では、掌典長(宮中祭祀の儀礼担当責任者)が主宰し祝詞をあげ、午前5時40分ごろ四方拝を済ませた天皇陛下が拝礼されます。その後、陛下が退室されてから、皇太子(皇嗣)が続いて拝礼します。

 

上皇陛下が天皇であらせられた際、陛下は四方拝の後に拝礼されてきましたが、平成24年から体調への負担を考慮して掌典職(しょうてんしょく)が陛下の代わりに拝礼していました。ただ、代拝になってからも、陛下は御所に戻った後、皇后さまとともに儀式終了までお慎みされていました。

 

なお、伊勢神宮をはじめ、全国の神社においては、皇統の繁栄と、五穀豊穣と国民の加護を祈念する歳旦祭が行われています。

 

 

<参考>

陰陽道とは何か: 日本史を呪縛する神秘の原理

(戸矢学、PHP出版)

「ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎」

(2009年1月3日、日テレ)

四方拝 人の幸せを祈る 困難を過度する

ぼやきくっくり時事ネタぼやきと番組書き起こし

最も重要な宮中祭祀~四方拝~

年間約30回!天皇陛下が守り続ける「祈り」とは何か

(週刊FLASH 2017年1月10日号)

四方拝のやり方・・心の御柱(こころのみはしら)Gooブログ

(2012年11月1日)

天皇にとって1年のうちで最も忙しい日、元日の過ごし方

(Newsポストセブン)

天皇陛下のお正月、ご多忙の元日

(2018年1月1日、産経)

日本人なら知っておきたい皇室

(週刊ダイヤモンド2016年9月17日号特集)

2020年01月02日

ニュース:天皇陛下、新年祝賀の儀・一般参賀

令和初、天皇皇后両陛下が皇居で「新年祝賀の儀」

(2020年1月1日、日刊スポーツ)

 

令和初の新年を迎えた1日、天皇、皇后両陛下が皇族や三権の長らから新年のお祝いを受ける「新年祝賀の儀」が、皇居・宮殿で開かれ、天皇陛下は「国民の幸せと国の発展を祈ります」と応じられた。午前に宮殿「松の間」で秋篠宮ご夫妻と長女眞子さま、次女佳子さまら皇族があいさつした。その後、両陛下は皇族と共に宮殿の各部屋を回り、安倍晋三首相や閣僚、衆参両院議長らの祝賀を受けた。上皇ご夫妻は参加せず、住まいの吹上仙洞御所で皇族や宮内庁職員らのあいさつに応じた。

 

陛下は祝賀の儀に先立ち、夜明け前に、皇居・神嘉殿(しんかでん)前の庭で、国の安寧や豊作を祈る宮中祭祀(さいし)「四方拝(しほうはい)」に装束姿で臨んだ。在位中の上皇さまは2012年から負担軽減で住まいの御所の庭で行っていた。

 

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天皇陛下「国民の幸せと国の発展を祈ります」新年祝賀の儀

(2020年1月1日、産経ニュース)

 

令和となって初めて迎えた元日に、皇居では「新年祝賀の儀」が行われ、天皇陛下が「国民の幸せと国の発展を祈ります」と新年のあいさつをされました。「新年祝賀の儀」は、年の初めに天皇が皇后とともに、皇族や総理大臣、衆参両院の議長と議員、それに日本に駐在する外国の大使などから新年のお祝いを受ける儀式です。

皇居・宮殿の「松の間」では、午前11時すぎから、天皇皇后両陛下が、皇位継承順位1位の「皇嗣」の秋篠宮さまなど皇族方とともに儀式に臨まれました。天皇陛下は、出席した衆参両院の議長や議員らを前に「年頭にあたり国民の幸せと国の発展を祈ります」と述べられました。午後からは、125の国と地域の大使などが、皇居を訪れました。華やかな民族衣装を身につけた大使夫妻などは、順番に両陛下の前に進み出て、新年のあいさつをしていました。

 

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天皇陛下「災害のない安らかで良い年となるよう願う」 令和初の新年一般参賀 上皇ご夫妻もお出まし

(2020.1.2、産経新聞)

 

令和初となる新年恒例の一般参賀が2日、皇居で行われ、天皇、皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻をはじめ成年皇族方が宮殿「長和殿」のベランダで集まった人々に応えられた。午前10時10分からの1回目の参賀では、天皇陛下がマイクを通じ、昨年の台風や大雨による被災者を案じるとともに「本年が災害のない安らかで良い年となるよう願っております。年の始めに当たり、わが国と世界の人々の幸せを祈ります」とあいさつをされた。多くの人が開門前までに列をなしたため、宮内庁は午前9時半予定の開門を20分早めて対応した。

 

今回の参賀には上皇ご夫妻もお出ましに。上皇さまは譲位後、すべての公務を陛下に引き継いでおり、代替わり後、陛下とともに公の場で国民に姿を見せられた初めての機会となった。2回目以降の参賀はそれぞれ午前11時、同11時50分、午後1時半、同2時20分から。参賀の希望者は午後2時10分までに皇居正門(二重橋)から宮殿前の東庭に入る。上皇ご夫妻は午前中の参賀に限って参加される。

 

新年一般参賀での陛下のお言葉は以下の通り。

「新しい年を迎え、皆さんとともに祝うことをうれしく思います。その一方で、昨年の台風や大雨などにより、いまだご苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じています。本年が災害のない安らかで良い年になるよう願っております。年の始めに当たり、わが国と世界の人々の幸せを祈ります」

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