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2020年02月19日

神社:西宮神社の「親」だった広田神社

前回、正月、福男の行事でお馴染みの西宮神社について紹介しました。その時、西宮神社はかつて廣田神社の摂社であったという事実を知って、今回は廣田神社についてまとめてみました。

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廣田神社(ひろたじんじゃ)

  • 概説

兵庫県西宮市に位置する廣田(広田)神社は、西暦201年、神功皇后(第14代仲哀天皇のお后)が新羅征伐から帰還の際、ご神託を受け、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に創祀されたと伝えられる兵庫県第一の古社です。

 

主祭神は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)で、伊勢神宮の内宮の第一別宮・荒祭宮の御祭神と同じです。御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたま・あまさかるむかつひめのみこと)と言われ、神功皇后御征韓の際、御霊威を示された大神です。

 

また、廣田神社には、主祭神の天照大御神の荒御魂だけでなく、脇殿神として、住吉三前大神、八幡三所大神、諏訪建御名方大神、高皇産霊大神の4柱の神々は、それぞれ第一脇殿~第四脇殿に祀られています。御脇殿奉祀四社は、御主神に縁由深い神々で、古くはあわせて廣田五社と称していたそうです。

 

【主祭神】
天照大神荒魂 (天照大御神之荒御魂)

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

(つきさかきいつのみたま・あまさかるむかいつひめのみこと)

 

【脇殿神】
住吉大神(すみよしのおおかみ)
八幡大神(やはたのおおかみ)
武御名方大神(たけみなかたのおおかみ)
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)

 

 

なお、主祭神の天照大神荒魂とは、瀬織津姫(せおりつひめ)のことであったとする説があります。これは、廣田神社の戦前の由緒書きには、主祭神が瀬織津姫であると明記されていたことなどによります(もしこれが事実なら、これまでの神話の概念を覆すこともありうる事態となるので、このことについては改めて解説したい)。

 

 

  • 創建の由緒(神功皇后の神託)

神功(じんぐう)皇后は、西暦201年(神功皇后摂政元年)、新羅征伐(三韓征伐)に出発する際、「和魂が皇后の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろう」という天照大神の神託を受け取られました。この時、神功皇后は、皇子(後の第15代応神天皇)をご懐妊されていましたが、軍船の先鋒となり軍を導き、神託通り、建国初の海外遠征に大勝利を収められました(新羅を攻め、次いで高麗・百済も降伏させた)。

 

一方、皇后の留守の間に、仲哀天皇の皇子の忍熊王(おしくまのみこ)が、神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていました。忍熊王は、仲哀天皇の死後、神功皇后が後の応神天皇を生んだため、同母兄の香坂王(かごさかのみこ)とともに皇位継承をめぐって、神功皇后と対立していました。

 

戦いを終え、御凱旋の帰途、それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指しました。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまったそうです。そこで、兵庫の港(務古水門)に帰って、神意をうかがう(占う)」と、「(天照大神の)荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良いだろう」という神託を得ました。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に命じて、神託通りに広田の地に、天照大神の荒魂を祀られたのでした(これが廣田神社の創建とされている逸話となっている)。

 

また、このとき、神功皇后の軍に従っていた稚日女尊(わかひるめのみこと)、事代主尊(ことしろぬしのみこと)、住吉三神(底筒男命そこつつのおのみこと・中筒男命なかつつのおのみこと・表筒男命うわつつのおのみこと)からも、それぞれ次のような神託がありました。

 

「吾(われ)は、活田長峽国(いくたながをのくに)(今の神戸)に居ることを欲す」

「吾(われ)を御心(みこころ)の長田の国に祀れ」

「我が荒魂を穴門(あなと=長門)の山田の邑(やまだのむら)(今の下関)に祀りなさい」

そこで、これらの託宣に従い、それぞれの神の奉祀が行われました(これが、現在の生田神社、長田神社、住吉神社(下関)の創建の由来となっている)。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王(おしくまのみこ)の軍を打ち破ることができました。

 

 

  • 西宮と甲山

廣田神社は、京の都から西国方向を目指す街道上にある重要な神社ということで、平安中頃より、別称として「西宮」(にしのみや)とも呼ばれるようになりました。後に、「西宮」の語は、廣田神社の荘園である廣田神郷一帯(現在の神戸市東部〜尼崎西部)全体の地名として使われるようになったと言われています。その西宮地方を見守っているとされる御山に甲山があります。

 

甲山(かぶとやま)は、六甲山の東南端に位置し、西宮の象徴とも言われています。甲山の名前の由来は、神功皇后が甲冑を埋めたからという説や、山の形が「兜」の形に似ているからという説、さらには、神の山が、神山になり、甲山と転じたのではないかという諸説があります。

 

廣田(広田)神社は、当初、この甲山(かぶとやま)山麓の高隈原に鎮座しました。高隈原は高台にあって、神々が人目に触れず隠れて住まわれる神聖な広地という意味があったそうです。後に御手洗川のほとりに遷座しましたが、水害のため、享保9年(1724年)に現在の西山の地に遷座しました(1945年、空襲による全焼したが、戦後復興した)。

 

 

  • 六甲山神社と六甲比命神社

さらに、昔「向津峰(むかつみね)」と呼ばれた六甲山全体も、元は廣田神社の社領であったそうです。実際、山上にある六甲山(むこやま)神社と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)は、かつて、広田神社の奥宮であったと考えられています。

 

六甲山神社(むこやまじんじゃ)は、古くから六甲山大権現を祭神の一つとしています。神社の奥に石祠である石の宝殿(いしのほうでん)が置かれていますが、六甲山大権現は、石宝殿で祀られる神とされています。その石は、神功皇后が三韓征伐の際に持ち帰って納めたという伝承もあります。

 

六甲比命神社(むこひめじんじゃ)は、荘厳な磐座をご神体とする神社で、吉祥院多聞寺の奥の院とされています。7世紀中頃、大化改新の頃に渡来したインドの法道仙人が、この地で修行中、毘沙門天を感得し、六甲山北の古寺山に吉祥院多聞寺を開き、付近は修験道の修行の場となったと言い伝えられています。。

 

 

  • 廣田神社と西宮神社

全国のえびす神社の総本社で、参拝一番乗りをめざす恒例の神事「福男選び」で有名な西宮神社は、かつて、廣田(広田)神社の摂社(末社)でした。西宮神社は、かつて、西宮戎神社といい、浜南宮を中心とした地域(旧西宮町)にありました。ただ、時代とともにエビス神信仰が盛んになるにつれ戎社は、廣田神社から独立して西宮神社となったのでした。

 

その経緯をみると、明治時代の始めに、西宮神社は、社名を大国主西神社と改めましたが、当時の教部省は、西宮戎神社と大国主西神社を別の神社と見ていたため混乱が生じました。そこで、社名を西宮神社に戻し、境内にあった社(境内社)を大国主西神社としました。明治7年(1874年)には、廣田神社が境内地を分割譲与し、末社の西宮神社は独立しました。第二次世界大戦後も、廣田神社と西宮神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格を持たない神社として、西宮神社の境内神社として存続しています。

 

一方、西宮神社の境内に南宮神社(南宮社)があります。浜の南宮と呼ばれ、西宮戎社とともに、廣田神社の摂社(末社)として、南の浜に祀られていた社で、平安期には京都の貴族の崇敬を受けていました。戎社が独立して西宮神社となり、南宮社(南宮神社)はその境内社になりましたが、廣田神社の摂社(末社)の位置づけです。

 

 

<参照>

廣田神社HP

神功皇后の伝承地〜天照大神荒魂を祀る廣田神社〜

(神旅、仏旅、むすび旅)

天照大神荒魂を祀る廣田神社

廣田神社(兵庫県)人文研究見聞録

六甲山神社(兵庫県)人文研究見聞録

2020年02月15日

伝統行事:知られざる「立春」と「暦」の関係

前回の投稿「節分の豆まきと恵方巻」の中で、「(今の)節分は立春の前日に当たる日」と定義されると解説し、立春についても多少は言及しましたが、今回は、もう少ししっかりと立春について述べてみたいと思います。

 

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  • 立春と二十四節気

一般的に、2月4日は、立春(りっしゅん)で、暦の上で春が始まる日と解されています。なぜ、2月4日が立春なのかと言えば(もっとも2021年の立春は、2020年が閏年となることから2月3日になる)、古代中国で作られた二十四節気(にじゅうしせっき)と呼ばれる暦を元に定められているためです。

 

二十四節気(にじゅうしせっき)は、地球と太陽の位置関係、つまり太陽の運行に基づいて作成され、1年で最も昼の長い日を夏至、1年で最も昼の短い日を冬至、昼と夜の長さが同じ日を春分・秋分と定めています。より具体的には、まず「夏至を夏の中心」、「冬至を冬の中心」そして「昼と夜の長さが同じ春分・秋分を春の中心と秋の中心」として1年を4等分し、春夏秋冬を決めたとされています。夏至、冬至、春分、秋分は、合わせて「二至二分(にしにぶん)」と呼ばれ、さらに、この4つの節気(夏至、冬至、春分、秋分)を基準として1年を24分割するのです。

 

立春はこの冬至と春分のちょうど中間の日で、暦の上ではこの日から春が始まります。2月上旬の立春だけでなく、立夏(5月上旬)・立秋(8月上旬)・立冬(11月上旬)も、それぞれ夏秋冬の始まりの日として重要な節気とされます。なお、立春・立夏・立秋・立冬を「四立(しりゅう)」、また、二至二分と四立を合わせて「八節(はっせつ)」と言います。

 

「二十四節気」は、もともと農業を指導するために作られた暦とされ、古代中国の殷(BC1600~BC1046)の頃に「二至二分」が、西周(BC1046~BC770)の頃に「八節」が、春秋戦国(BC770~BC221)の頃に「二十四節気」がそれぞれ成立したそうです。なお2016年に中国の「二十四節気」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。

 

 

  • 日本と二十四節気

日本では、平安時代に、二十四節気(にじゅうしせっき)に取り入れられ、これに基づた暦が使われるようになったと言われています。ただし、日本と中国とでは位置も気候も異なり、中国の二十四節気は必ずしもすべてが日本の気候に合うものではなく、季節感にずれがあります。例えば、立春の日、ニュースなどで、「暦の上ではもう春です」とよく言われるように、立春と言ってもまだまだ冬真っ只中なのです。日本では、2月が最も寒い月で、12月は1月、2月よりは暖かいのに対して、中国では1月が最も寒く、2月より12月の方が冷え込むそうです。それでも、二十四節気に基づく暦は、農業とは無関係に私たちの生活に根付いています。

 

実際、日本の二十四節気(にじゅうしせっき)に基づく暦でも、1年は24等分され、それぞれに名前が付けられています。例えば、春の節気は、立春(りっしゅん)から春が始まって、雨水(うすい)、啓蟄(けいちつ)、春分(しゅんぶん)、清明(せいめい)、穀雨(こくう)と続きます。

 

 

  • 立春と雑節

さらに、日本では、二十四節気だけでは日本の気候の説明には足りないので、日本だけの節気で「雑節」(ざっせつ)というものを設けました。例えば、「八十八夜」とか「二百十日」というのは、いずれも立春から数えた日にちを言います。「八十八夜」(はちじゅうはちや)は、立春から88日目は5月2日ごろで、この頃、イネの苗代(イネの苗を作る場所)を作ったり、作物の種まきをしたりする日です。「二百十日」(にひゃくとおか)は、9月1日ごろで、台風の多い日と言われています。雑節はほかにも、「入梅」、「土用」、「彼岸」、「半夏生」などがあり、実は「節分」もこの雑節に入ります。

 

 

  • 立春と旧正月

一方、立春は、旧暦の旧正月のことと勘違いされがちです。立春と旧正月は別物です。二十四節気が、太陽の運行にもとづいた暦であったのに対して、旧暦は、月の満ち欠けを基準として、閏月で調整した暦です。これをよく太陰暦といいますが、この場合は文字通り、月の運行を基準にして作られる暦をいいます。実際は、月の満ち欠けは約29.5日で1周するので、これを一月(ひとつき)としていけば、実際の季節とずれることから、閏月を入れて1年の季節感を調整しているそうです。また、旧暦の場合、旧正月(旧暦の1月1日)は、必ず朔(さく)と呼ばれる新月の日になるように定めています。ですから、立春と旧正月が一致するのは約30年に1度しかないそうです。なお、中国の春節は、旧暦の旧正月のことを言います。

 

立春の「旬の食べ物・季節の料理」

いよかん

ポンカン

フキノトウ

 

立春の「季節の花」

福寿草(フクジュソウ)

黄梅(オウバイ)

ツバキ

プリムラ

 

 

2020年02月13日

伝統行事:節分の「豆まき」と「恵方巻」

2020年2月3日は、節分の日でした。節分は、2月の代表的な年中行事(毎年決まった日に行われる儀式や催しのこと)です。子どもの頃からそうであったように、節分と言えば、豆まきですが、最近では、節分と言えば「恵方巻」を食べるという風習も定着しています。今回は「節分」と「豆まき」、「恵方巻」についてまとめてみました。

 

  • 節分とは?

今年がそうであったように、節分は「2月3日」と覚えている方も多いかもしれませんが、実は節分は必ずしも2月3日とは限りません。節分は、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」と4つある季節の変わり目のうち、「立春」の前日にあたる日を指します。

 

「立春」「立夏」「立秋」「立冬」という分け方そのものも、古代中国で生まれた「二十四節気(にじゅうしせっき)」と呼ばれる暦を基にした区分でした。日本でも平安時代ごろから1年を24分割した「二十四節気」の暦が使われ、立春から春が始まり、立夏から夏が始まり、立秋から秋が始まり、立冬から冬が始まりますというようになったのでした。

 

節分とは、本来これらの「立春の前日」「立夏の前日」「立秋の前日」「立冬の前日」のことを意味し、もともとは年4回の行事でした。「節分」という漢字も、季「節」を「分」けると解されています。しかし、江戸時代の後期以降、立春の前日の「節分」だけが残り、他の3回の節分は行事として無くなってしまいました。

 

このように、立春の日も「二十四節気」に従って決められ、現在の暦では、だいたい毎年2月4日頃に該当するので、節分はその前日である2月3日頃になるのです。ちなみに2020年はうるう年となり、2021年の立春は2月3日、節分は2月2日となります。

 

 

  • 節分と豆まき

昔から春・夏・秋・冬の季節の変わり目には、邪気(鬼)が生じると考えられていたそうです。そこで、節分には、古い季節の邪気(厄)を払い、新しい季節に福を迎え入れるように、豆まきをする風習が生まれたとされています。当初は、豆ではなくお米を撒いたこともあったそうで、節分の豆まきや鬼退治(鬼やらい)が本格的に行われるようになったのは、室町時代の頃と言われています。

 

では、なぜ豆で鬼を追い払うのかと言えば、「豆」が、「魔滅(まめつ)」、「魔目(まめ)」に通じ、それぞれ魔物を滅する、鬼の目を打つという意味があるから、また、中国の医薬書に大豆は鬼毒に効果があると書かれていたという理由などがあげられています。共通することは、豆には鬼を追い払う力があると信じられてきたことにあるようです。

 

 

  • 豆まきの由来

節分の豆まきや鬼退治などの風習は、古代中国で行われていた追儺(ついな)や大儺(たいな)という祭りが由来となっています。古代中国では、追儺のことを「儺」(ぬお)と言っていたそうですが、これは、「邪神や疫病を追い払い福を招く祭り」として、中国において最も頻繁に行われた儀式だそうです。「追儺(儺)」が庶民のお祭りだとすると、「大儺(たいな)」は、朝廷や諸侯によるお祭りでした。

 

日本には、この中国の「大儺」が伝わって「追儺」として宮廷の年中行事になりました。この「追儺」は、飛鳥時代(6世紀末~8世紀初頭)にはすでに行われていたそうです。具体的には、宮廷内の貴族たちが、赤い長衣を着て、四つ目の面をつけ、右手に矛、左手に盾を持って、「方相氏(ほうそうし)」と呼ばれる厄払い役とその手下に扮しました。そして、宮廷内を叫び声をあげ、弓を放ったり、振り太鼓を振って、邪気(鬼)を追い払うという「儀式」だったそうです。様式もそのまま取り入れていたとされ、これが後世「豆をまいて鬼を追い払う」節分の儀式になったと言われます。

 

ただし、日本では、鬼を追い払う「方相氏」がやがて鬼そのものと化して、追い払われる側になってしまい現在の節分の形式になっていったという経緯があります。中国において「追儺」「大儺」は、清朝末期に廃れ、1949年の中華人民共和国成立後は「害ある迷信」と見なされ廃止されました。日本でも、宮廷の行事としての「追儺(ついな)」はやがて消失しましたが、江戸時代からは、庶民の間で、「追儺」の行事が、「節分」の行事という形で盛んになっていきました。

 

なお、豆まきに関して、日本の古神道の観点からは全く別の由来がありますが、これについては別の機会に紹介してみたいと思います。

 

 

  • 恵方巻

さて、節分と言えば、豆まきとすぐに連想できますが、節分の風物詩が恵方巻(えほうまき)を食べる習慣です。恵方巻は、江戸時代から明治時代にかけての大阪の花街で、節分をお祝いしたり、商売繁盛を祈ったりしたのに始まったといわれ、現在では、節分の日に「恵方(えほう)」を向いて無言で、一気に食べると福が訪れると言われています(一気に食べるのは一気に福を頂くためだとか)。ただ、節分の2月3日に食べるのが定番化したのはごく最近のことだそうです。

 

恵方(えほう)とは、歳徳神(としとくじん)がおられる方向を指し、運のよい方角を意味しています。歳徳神はその年の福をつかさどる神さまで、正月の年神(としがみ)と同じ神さまです。この歳徳神がいらっしゃる方向が、縁起のいい恵方とされ、この方向に向かってする事はすべて吉となると言われているのです。実際、江戸時代末までは、初詣では氏神さまのいる神社や、恵方にある寺にお参り(恵方詣り)が行われていたそうです。

 

ただし、恵方は常に定まっているのではなく、その年の十干(じっかん)によって毎年変わります。「十干(じっかん)」とは、古代中国で年を表したり方角を表したりするのに使われていた十種類の記号(「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」)のことを言います。かつて、日本でも例えば丙午(ひのえうま)の年というように、十干を使って、その年を表現していました(正確には、ひのえ・うま(丙午)のひのえ(丙)の部分が該当)。その年の十干は、西暦を使った早わかりのルールがあります。西暦の一の位の数字によって以下のように恵方がわかります。

 

4、9の年⇒東北東
0、5の年⇒西南西
1、3、6、8の年⇒南南東
2、7の年⇒北北西

 

今年2020年は1の位が「0」なので、恵方は西南西に当たります。なお、2020年の十干は、庚(かのえ)だそうです。

 

恵方巻は、七福にちなんで7種の具材が巻かれています。中国でも、「7」という数字は、縁起物として扱われ、その七種の具材を海苔で巻くことで、福を巻き込むという願いも込められているそうです。

 

しいたけ
椎茸の形が陣笠に似ていることから、健康で元気であることを表す。

 

うなぎ
うなぎのぼりの出世や、長い姿から長寿を表す。

 

かんぴょう:
長い形から長寿を表す。

 

高野豆腐
大豆は厄除けとして使われ、四角い形から盾豆腐として災いを除ける盾となる。

 

伊達巻
学問や習い事など目指しているものが叶う。

 

桜でんぷ
桜色は願いが叶うことでもたらされる幸福な色。

 

きゅうり
9つの利(きゅうり)をもたらしてくれることを表す。

 

 

<参照>

節分の由来、本当の意味は?(HugKum はぐくむ)

節分の歴史と習慣・豆まきと追儺の由来

「恵方巻き」の意味と由来!恵方の決め方、2020は西南西!

Wikipediaなど

2020年02月01日

神社:福男選びの西宮神社はどんな神社?

毎年、新春恒例の「福男(一番福)選び」で有名な兵庫県の西宮神社について調べてみました。令和2年の「開門神事福男選び」については、ニュース記事を紹介した「一番福は高校教師 令和初の福男決まる」を参照下さい。

★☆★☆

 

  • 福の神「えびす様」

西宮神社は、福の神として崇敬され、全国に約3500社ある「えびす様(蛭子神)」をお祀りする神社の総本社です。

 

その本殿は、3つの屋根が連なる三連春日造(さんれんかすがづくり)という珍しい構造で、別名「西宮造り」とも呼ばれています。江戸時代の1663年、4代将軍徳川家綱により寄進され国宝にも指定されていました。また、室町時代建立の全長247メートルに及ぶ大練塀と、通称赤門と云われる豊臣秀頼の奉献による桃山建築の表大門は国の重要文化財に指定されていました。昭和20年に戦火にあい消失しましたが、昭和36年に、桧皮葺から銅板葺に変わったほかは、ほぼ元通りに復興されました。

 

本殿には、えびす様以外にも、天照大御神、大国主大神、須佐之男大神の神さまも祀られています。大国主大神は、明治になって配祀されたので、もともとは、日本書紀では御兄弟の神として描かれている天照大御神、蛭児(えびす)大神、須佐之男大神の三神が崇敬の対象でした。

 

御祭神

第一殿(東):えびす大神(蛭児大神)、

第二殿(中):天照大御神、大国主大神

第三殿(西):須佐之男大神

 

もっとも、冒頭でも紹介したように、西宮神社と言えば、えびす様(蛭子神)が代名詞です。えびす様を祀る神社では、十日えびすと呼ばれる市場が立つところが多いことからもわかるように、えびす様は商売の神様としても全国的に篤い信仰を集める神さまです。そのえびす様も、ヒルコ(蛭子)神と事代主神(ことしろぬしのかみ)との2つの系統があるとされています。西宮神社で祀られているえびす様は、前者の蛭子(蛭児)神の方です。

 

 

  • えびす様、御鎮座伝説

えびす様は、もともと、地元の漁師さんがお祭りする漁業の神さまとして信仰されていました。そこから、西宮の人たちにとっては、商売繁盛の神、さらには地域の守り神というような素朴な信仰の対象であった言われています。現在、西宮神社の門松は逆さに飾られているのもその名残りとされています。えびす祭りの前夜、えびす神は、神馬に乗って氏子地域を巡行されると信じられていました。ところが、当時の竹に松を盛った大きな門松では通りが狭くなるので、巡行されるえびす様の邪魔にならないように、逆さにつけかえたとの言い伝えがあるそうです。

 

西宮神社の創建の年代は、定かではありませんが、平安時代に遡るとされています。元々は、廣田神社の一角という位置づけでしたが、「えびす信仰」が盛んになるにつれ後に独立して「西宮神社」になりました。

 

そのご由緒の逸話は次のようなものです。昔々、西宮・鳴尾の漁師が、沖で漁をしていたところ、網に大きな手ごたえを感じ、引き上げてみると、御神像であることがわかりました。そこで、その猟師は、布にくるみ、家に持ち帰り、毎日お供え物をして、お祀りしました。しばらくたったある夜、眠りについた猟師の夢の中に、お祀りしている御神像が現れ、「吾は蛭児(ひるこ)の神である。日頃丁寧に祀ってもらって有り難いが、ここより西の方に良き宮地がある。そこに遷し宮居を建て改めて祀ってもらいたい」との御神託があったのでした。

 

記紀(天地開闢の神話)によると、蛭児(蛭子)命(ひるこのみこと)は、神代の昔、伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)二柱から生まれましたが、国生みの試行錯誤を重ねる段階だったので、三歳になるまで足が立たなかった不具の子でした。そこで、夫婦神は仕方なくヒルコを、葦船に入れて茅渟(ちぬ)の海へ流してしまわれたという伝説があります。「蛭子」の「蛭」の字は、蛭(ひる)のように足腰が立たない発育不全の子どもだったことを表していると言われています。

 

さて、鳴尾の漁師は恐れ謹み、漁師仲間と相談し、蛭児大神を輿にお乗せし、御神託の通り西の方にある良き宮地を求めた結果、最終的に西宮の地にたどり着き、蛭児の神はお鎮まりになったのです。このように、えびす様のご神像が現在の神戸の和田岬の沖から、かつて茅渟の海((ちぬのうみ)と云われた大阪湾を漂流しながら、西宮の地に辿(たど)り着いたのが、西宮神社の創始だと伝えられています(正確には、古社・廣田神社の浜南宮の内に鎮座された)。

 

それ以降、海より甦った蛭児の神が、えびす大神(蛭児大神)として、とりわけ海に生業を持つ人々の間で絶大な信仰を、全国的に集めていったのです。実際、海に流されたえびす様が、別の土地にたどり着いたという伝説は、日本各地に残っていてえびす信仰の広がりがわまります。

 

  • 蛭子神=えびす(恵比寿)

 

では、「蛭児(ひるこ)の神」がどうして、福の神、商売繁盛の神である「えびすの神」になっていったのでしょうか?蛭子神は、海から現れたとの伝承から、当初は漁業や航海の神として信仰されていきました。同様に、「えびす」の神さまも古くから漁業の神であったという共通点があります。

 

また、漁業の神に対する信仰の対象は、主にクジラでした。これは、クジラが出現すると豊漁をもたらすという伝承に基づいているそうです。さらに、漂着してきたクジラを「寄り神」と呼びました。これも、クジラの到来により思わぬ副収入を得たり、飢饉から救われたりしたという逸話が日本各地に残されています。こうしたえびす様の漁業神としての性格だけでなく、漂着神(寄り神)としての側面も、蛭子神と一致しているのです。ですから、「えびす様」の「えびす」の漢字表記は、一般的な「恵比寿」、「夷」、「戎」に加えて、「蛭子(蛭児)」とも書きます。

 

 

  • 西宮神社の発展

歴史的には、平安時代後期の文献にすでに「えびす」の名が記されています。鎌倉時代(1250年代)には、(正月10日に行われる)「十日えびす」の祭礼(後述)や、戎(えびす)の名のつく「市」なども開かれていたようです。

 

室町時代になると、日本に七福神信仰が広まります。七福神のおひと方が、「えびす(恵比寿)」で、福の神の代表的な存在でした。この七福神信仰と相まって、蛭子神は、「えびす」と一体となって、商売繁盛にご利益のある神さまとなっていくのです。こうした背景下、西宮神社では、人形操りや謡曲、狂言などの芸能も盛んになり、西宮神社は、全国のえびす信仰の中心に位置していきます。

 

戦国時代には、後奈良天皇から、また桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には4代将軍徳川家綱により御寄進を受け、社殿の御造営もなされ規模も大きくなっていきます。さらに、将軍家綱は、西宮神社が、えびす神の総本社としての地位を確立することにつながるある特権を与えます。今でもそうですが、当時から、自分の家の神棚でお祀りして家をお守り戴くために、神社でお神札(ふだ)を購入しますね。そのお札に関しては、家綱は、「西宮神社の頒布するものが、えびす神の正式なお札である」と宣言し、お礼(神礼)の版権を与えたのです。

 

江戸時代になると、上方の商業経済の発達に伴って、福の神えびす様が商売繁盛の神さま「えべっさん」(=えびす様の俗称)として、庶民にも広く信仰されるようになっていきました。これに合わせるように、年の始めに、「えびす様」に商売繁盛、家内安全、五穀豊穣などを祈願する、西宮神社の祭礼、十日えびすも盛大に行われるようになりました。西宮では西国街道の宿場町としても開け、市が立ち、やがて市の神、そして商売繁盛の神様の本拠地として、隆盛を極めるようになります。西宮神社の記録によると、十日えびすに授与するお札の数量が、元禄(1700年代)のころから天明(1780年代)にかけて十数倍に激増したそうです。明治に入り、鉄道が開通すると参拝者数も飛躍的に増加したことは言うまでもありません。

 

 

  • 十日えびす(戎)

西宮神社の十日戎の祭典は、かつて御狩神事(みかがりしんじ)とか忌籠祭(いごもりさい)と呼ばれた行事が発展して誕生したと言われています。その神事は、狩猟をして神意を伺う農耕儀礼のお祭りだそうです。古い資料には、西宮神社の巫女が男装をして狩の舞踏をしていたとか、鎌倉時代には実際に狩猟をして、その多寡によって豊穣を占っていたという記録はあるようですが、具体的な内容は定かではありません。

 

ただし、神社周辺では室町時代から江戸時代にかけて、神職だけでなく町の人々も、1月9日の夕刻に門を閉じ、家に籠もって清らかに過ごす「忌籠(居籠)」(いごもり)をする習慣があったと言われています。これは、えびす様(えべっさん)が市中を廻られるためなのだそうで、神意を窺っている間、謹慎斎戒していたと解することもできますね。いずれにしても、十日えびすの原点はその年の五穀豊穣・繁栄を願う祭りであったことは間違いなさそうです。そうして、人々は、忌籠り明けの翌朝、身を清めて神社に詣でたといいます。この時、神門が開かれ、真っ先にお参りしようとして人々が競うように参道を急いだことが、今の開門神事の由来となったそうです。

 

明治に入り暦が変わりましたが、十日えびすは旧暦の1月10日行われていました。しかし、新暦の1月10日の参拝も多く、明治41年からは新暦の1月10日に神事を行うようになりました。昭和15年から、西宮神社では、開門神事で何事も一番参りをされた参拝者を称えようと、先着上位3名を福男として認定するようになったそうです。昭和20年の空襲により社殿が全焼、翌年の十日えびすから福男選びは中止になりましたが、戦後、復活継承されました。

 

現在では1月9日、10日、11日の「十日えびす」には、全国から3日間で百万人に及ぶ参拝者で賑わうなか、10日早暁の大祭終了後の「開門神事・走り参り」は、福男選びとして、西宮神社・十日戎の代名詞になっています。

 

西宮神社の十日戎大祭は、10日の早朝4時に執行されます。そのため、1月9日の夜12時になると、どれほど参拝者があっても、神社の全ての門を閉じ、神職たちは大祭に向けて身を清め、心を鎮める「居籠(いごもり)」を行います。そうして、午前4時の十日えびす大祭が終わると、午前6時の一番大太鼓を合図に、表大門(赤門)が開き、待ち構えた参拝者が一斉に参道に駆け出す本殿への走り参りを行います。到着順に一番福から三番までが福男として認証されます。

 

なお、西宮神社では、1月の十日戎(えびす)以外でも、9月22日の例祭と翌日の渡御祭、和田岬までの海上渡御、産宮参りも、秋の西宮まつりとして賑わいをみせています。

 

 

<参照>

えびす宮総本社(西宮神社 公式サイト)

西宮神社の由緒・歴史(西宮観光協会)

西宮えびす【御由緒】 (DECCA JAPAN)

兵庫県・西宮神社とえびす様を紹介!(神様のひとりごと)

正月の風物詩「福男選び」 (Lifull homes press)

Wikipediaなど

2020年01月31日

ニュース:「孝明天皇例祭の儀」

天皇陛下は、令和2年1月30日、皇居・皇霊殿で行われた「孝明天皇例祭の儀」に臨まれました。皇后さまは、式典に当たり、赤坂御所にてご遙拝、お慎みなされました。孝明天皇例祭の儀は、孝明天皇の崩御相当日に行われる宮中祭祀です。

 

ただし、主要各紙は式典について報じることはなく、産経新聞の「両陛下ご動静」のような形でのみの報道にとどまりました。

 

2020年01月29日

伝統行事:お正月は神さまを迎える行事だった!

令和2年の1月も早くも終わろうとしています。代替わりとなって初めてのお正月、日本の伝統行事を考える機会がありました。

 

<正月とは>

一般的に、お正月と言えば、年末から各家庭で注連縄を飾り、門松をたてて、お正月の準備をして、元旦の日、お雑煮とおせち料理をいただいて、家族で初詣に出かける・・・・というような過ごし方をする家庭が多いと思います。しかし、日本の正月というのは、古来から、歳神(としがみ)と呼ばれる神さまをお迎えする祭りです。歳神さま、地域によっては「歳徳神(としとくじん)」と呼ばれる神さまとは、元旦になると山など高い場所から降りてきて、作物に実りをもたらし、家に幸せをもたらす神さまとされています。それが祖先神と同一視されることもあります。

 

<お正月準備>

神棚や仏壇などの煤払(すすはら)いや家の中をきれいにする大掃除、また、門松を立てたり、注連縄(しめなわ)飾りをするお正月の準備も、歳神さを気持ちよく迎え入れるために行われました(門松、注連縄については後述)。また、家族一人一人が、一年間、身についた罪や穢れを祓い浄めて、清浄な心身でお正月を迎えるために、神社では、12月31日には「年越祓(としこしのはらえ)」というお祓いの神事が行われます。

 

飾る日も重要で、12月31日に飾ることを「一夜飾り(いちやかざり)」と言って避けます。これは、「歳神様をお迎えする直前に慌てて飾り付けることは神様に対して失礼である」として縁起が悪いとされているためです。また、「一夜飾り」は、もともと葬儀の際になされるものであることも、31日が避けられる背景です。では、30日はと言えば、この日は、旧暦の大晦日なので、その日も「旧暦の一夜飾り」として避けた方がよいとされています。さらに、12月29日は、「9」が苦(9)の語呂になる、また、29そのものも「二重苦(にじゅうく)」となるので、縁起が悪いとされます。したがって、「お正月飾り」は、12月28日までに終わらせるのが最も良いと言われています。

 

◆年越しそば

大晦日には、日本全国、「年越し蕎麦(そば)」をいただくのが恒例となっています。新年の準備をすべて終え、除夜の鐘を聞きながら12時になるまでにいただくというのが理想とされ、年を越してから食すれば、白髪やしわが増えると言われている地域もあります。通常、おそばに入っている「葱(ねぎ)」は、神社の神官の位の一つである「禰宜(ねぎ)」に通じるとされています。そこで、年越しそばにネギを入れて食べるということは、「禰宜に今年一年をお祓いしてもらい、新年に備える」という意味が込められているそうです (「禰宜」は、「宮司」に次ぐ役職である)。

 

<元旦>

元旦の日は、神棚や仏壇にお正月料理を供えます。そして、家族そろって挨拶を交わし、お屠蘇(おとそ)やおせち料理、お雑煮などをいただいて、新年の訪れをお祝いします。子ども達は、お年玉をもらい、外では、男の子は駒しや凧揚げ、女の子は羽子板をやり、お家ではすごろくなどに興じて家族で楽しいひと時を過ごす…というのもお正月のありようです。

 

門松(かどまつ)

門松は、歳神さまが家においでになるときの依り代(よりしろ)(=神霊が依りつく目印)とするために飾ります。門松は歳神さまを家に招く目印でもあるのです。歳神さまは松の葉や竹のように尖っている部分を好まれるとされているので、松の葉や枝に乗せて家々にお迎えするのです。ちょうど、お盆の時、先祖の御霊を迎え、送りだすために、迎え火や送り火を焚くのと同じ考え方です。

 

◆注連縄・注連飾り

家の門や玄関に、注連縄(しめなわ)を張ったり、注連飾り(しめかざり)を飾ったりするのは、家が清められていることを示すと同時に、歳神様がいるという目印にもなるからだそうです。

 

◆鏡餅(かがみもち)

床の間に飾る鏡餅は、もともと歳神さまにお供えするためのものです。御餅は、稲の霊が宿った神聖なものとみなされ、お正月には歳神様が宿ると言われています。

 

語源からみても、「鏡餅」の「鏡」は、「神さま」に通じます。鏡は、日の光を反射し太陽のように光ることから、神話の時代から、太陽神(天照大神)に見立てられ崇拝の対象(ご神体)となりました。このため古来、日本では鏡は神様が宿るものと考えられるようになったのです。昔の鏡というのは銅鏡で、お餅のように丸い形をしていました。そこで、歳神様に捧げるお餅を、神が宿る丸い鏡に見立てて「鏡餅」と呼ぶようになりました。こうして、鏡餅は、年神さまの依り代(居場所)として正月にお供えするようになったのでした。

 

鏡餅は、大小二段重ねにすることが一般的です(三段重ねにするところもある)。大小二つのお餅は、「陰」と「陽」、「月」と「太陽」を表し、それらを重ねることで、円満に年を重ねる、転じて、夫婦和合などの意味も込められています。鏡餅は、次のように飾るのが一般的なようです。三方(さんぽう)の上に白い奉書紙、または四方紅(しほうべに)を敷き、裏白(うらじろ)、ゆずりは(楪)や紙垂などの上に鏡餅を乗せます。餅の上には、「昆布」と「串柿」を置いたうえで、「橙(だいだい)」を載せて飾ります。

三方(さんぽう):折敷に台がついたお供え用の器のことです。
四方紅(しほうべに):四方が紅く彩られた和紙

 

裏白(うらじろ)

シダの一種である裏白(うらじろ)は、葉の表は濃い緑色ですが、裏面が白いので、「裏(うら)白(じろ)」という名前がつけられました(漢字があてられた)。この名前の由来から、裏白は潔白で正直な心を表す植物とみなされています。加えて、裏白は、葉が左右対称に生えていることから、夫婦仲むつまじく長生きできることに、また、古い葉が落ちずに新しい葉が出てくることから、家族の繁栄を意味している言われています。

 

さらに、群がって生育することが多いため、先祖の霊魂が宿っている場所と信じられてきました。ですから、お正月に歳神さまをお迎えするために、裏白の葉を折って門松や鏡餅に飾るようになりました。裏白にはまた、悪霊を払う霊力が宿っているとも言われています。なお、鏡餅に飾る際には、「裏白」を裏側の白い方を上にして、御餅が置かれます。

 

ゆずりは(楪)

裏白(うらじろ)とは逆に、新しい葉が出てから古い葉が落ちることから、親から子へ家督が代々譲られ、家系が続き繁栄することを表します。親子草とも呼ばれているそうです。

 

昆布
昆布(こんぶ)は、「よろこぶ(喜ぶ)」との語呂合わせで、お祝いの意味があります。また、養老昆布(よろこぶ)と書けることから不老長寿の願いを、さらに、「子生」(こぶ)と書いて子宝に恵まれるようにという願いを込めて飾られています。一方、古くは昆布の事を「広布」(ひろめ)と言い、喜びが広がる縁起ものとしても好まれていました。蝦夷(えぞ)で取れる昆布は、夷子布(えびすめ)と呼ばれ、七福神の恵比寿に掛けて福にが授かる意味合いもあるそうです。

 

串柿
柿は「嘉来」に通じる縁起ものです。串柿は、文字通り干し柿を串に刺したもので、鏡餅には一般的に1本の串に10個の干し柿を刺して飾ります。干し柿は「食べられない渋柿でも、修練の末には床の間の飾りにもなる」という高い精神性を表すとされています。

 

橙(だいだい)

橙は、「代々」とも書き、鏡餅のお飾りの最後に「家が代々栄えますように」との思いを込めて「橙(だいだい)」を載せます。また、代々は、1本の木に何代もの実がなることから、長寿弥栄えを表しています。鏡餅のお飾りの中で、餅は鏡を、串柿は剣を、橙は玉をそれぞれ表し、この3品で「鏡、玉、剣」の三種の神器を表すとも言われています。

 

◆お年玉

お年玉は、もともと、歳神さまに供えられた鏡餅を人々に分け与えた古来の習慣に由来するものでした。前述しhたように、鏡餅は、文字通り鏡をかたどったものとされ、鏡は神さまの魂を映すものといわれてきました。魂は玉に通じます。それで、歳神(としがみ)さまの魂、すなわち歳(年)霊(玉)(としがみ)から転じて、「年玉」となりました。また、私たちは、歳神様が宿った鏡餅をお雑煮として分けていただきます。これを「御魂(みたま)分け」と呼ばれ、転じて「歳魂(としだま)=年玉」に通じるとの見方もあります。いずれにしても、年神さまから頂く、鏡餅のお下がりなので、敬って「お」をつけ「お年玉」と呼ぶようになったといわれています。

 

さて、新年を迎えて、元旦には家族がそろってお祝いをする際、最初にいただくのが「御屠蘇(おとそ)」です。

 

お屠蘇

お屠蘇(とそ)には、山椒、桔梗などの薬草が含まれており、これをいただくと一年の邪気が祓われ、寿命を伸ばすことができると信じられています。胃薬として効果があるほか初期の風邪にも効くと言われています。歴史的に、「屠蘇」は中国の三国時代の医者、華陀(かだ)が考案した「屠蘇延命散(とそえんめいさん)」いう漢方薬を、酒や味醂(みりん)に浸したものだそうです。お屠蘇は、一家の家長から年少者に注がれます。これは、年長者の知恵が分かち与えられると信じられています。「御屠蘇」でお祝いしたあとは「御雑煮(おぞうに)」です。

 

◆お雑煮

お雑煮は、一般的に、「年神さま」にお供えした神饌(お食事)と餅を合わせて煮て食べたことに始まると言われています。お雑煮は年神様から「お下がり」を頂いて、年神様の恩恵にあずかるという意味で食べられていたということですね。ですから、お正月にお雑煮を食べることは、古くから日本人にとって、特別な意味を持っていたと言われています。お雑煮を作るときも、その年最初に井戸からくみ上げたお水(若水)と、最初に点けた火で一番だしを引いて煮込んでいったそうです。

 

「雑煮」の語源は、肉や野菜など色々な種類の具材が煮られ、食されたということに由来し、当初は、「煮雑ぜ(にまぜ)」と呼ばれていたそうです。このため、地方によって味の違いや具材の違いがあります。例えば、公家風か武家風かの違いで、関西のお雑煮は、丸餅を白味噌仕立てにするのに対し、関東では長方形の形をしたののし餅を清汁(すましじる)仕立にするとよく指摘されます。

 

様々な具材がある中で、お雑煮に必ず入っているのがお餅です。お餅は「よく伸びる」ことから、長生きできるように、という願いが込められていると伝えられています。お餅は、稲作が始まった縄文時代からすでに人々の間に広まっていたと言われ、時が経つにつれ、収穫を祝う行事やその他お祝い事、神様へのお供えなどに欠かせない具材となります。

 

一方、お雑煮の始まりは、室町時代だと言われ、武家の間で、お祝いの席でお酒のおつまみとして、最初にお雑煮が出されていたそうです。お雑煮が宴の初めに食べられていたということは、お雑煮が縁起の良い料理と考えられていたことが伺えます。また、それは、お雑煮が当初、お正月以外にも食べられていたということでもありますが、お目出たいときに食べるお雑煮がやがて、お正月に食べる風習となってみられています。

 

これに対して、武家社会とは別に、一般庶民も同時期にお雑煮を食べ出したようですが、当初は、お米の値段が高かったことから、餅の代わりに里芋が使われていたそうです。一般庶民もお餅が食べられるようになり、お雑煮にも餅が入るようになったのは、江戸時代になってからだと言われています。地域色もこの頃から出始め、当時、北海道と沖縄を除いた、日本全国の地域でお雑煮が食べられるようになりました。(北海道へは明治以降に本州から伝えられ、沖縄ではお雑煮を食べるという食文化はあまり育たなかった)。

なお、お雑煮は年神さまへのお供えを煮込んだことに始まるとする説以外にも、神話に遡ればさらに興味深いお話しがありますが、別の機会に紹介することにします。

 

お節料理(おせちりょうり)

お雑煮を食べた後は、お節料理を頂きます。御節料理(おせちりょうり)とは、もともと、お正月や、ひな祭り、七夕など節句に、神さまにお供えするご馳走のことをいいました。おせち(御節)の語源も、節句にお供えするという意味の「御節供(おせちく)」からきているとされています。その時、豊作や健康、家の繁栄などを願って、身近に採れる材料を利用して縁起をかついだ料理を作るという風習が続くなか、江戸時代中頃には、その中の正月の料理のみが「御節料理」と呼ばれるようになりました(かつては、「節会(せちえ)料理」と呼ばれた)。

 

ですから、御節料理の品々には、それぞれに祈りが込められています。御節料理に何を詰めるかは、土地柄や家によっても異なり、縁起をかついだり、語呂合わせでめでたいものが選ばれてきました。その中で、数の子、ごまめ、黒豆の三種は「祝儀肴(いわいざかな)」(三種肴という)として欠かせないものとされています。地方によって黒豆の代わりにたたきごぼうを入れることもあります。

 

数の子

数の子はにしん(鰊)の卵(腹子)。その由来は、二親(にしん=両親)から多くの子供が生まれるという縁起をかついだもので、子孫繁栄が祈られました。

 

黒豆

まめに暮らせるという願いが込められています。

 

ごまめ(五万米)

ごまめは片口鰯(かたくちいわし)の稚魚。「五万米」という字が示すように五穀豊穣が願われます。かつては、片口鰯を田の肥料として使われたことから「田作り」ともいわれます。

 

たたきごぼう

根が地中に深く張るごぼうに、家の基礎がしっかりするようにとの願いが込められます。

 

そのほかにも、長寿を願う「海老」、めでたい「鯛」、喜びや運を広める「昆布まき」、学業や仕事の成功を祈る「日の出蒲鉾」など、重箱を賑わせてくれますが、一品一品に意味があります。お雑煮やおせち料理を食べるときに「祝い箸」と呼ばれるお箸は使います。このお箸は両端が丸く細くなっています。これは、片方が歳神さまが使われ、もう片方が私たち使うからだそうです。別名「両口箸」ともいわれる祝い箸を使って、神さまと私たちが一緒にお祝い膳を食べるのです。まさにお正月行事は一種の神事なのですね。

 

初詣

初詣は、年が明けてから始めて神社に参拝することをいい、氏神さまや、その年の恵方(えほう)にあたる神社などにお参りして、新しい年の無事と平安を祈る行事です。

氏神:自らの住む土地をお守りくださる神さま
恵方:その年の干支(えと)に基づいてめでたいと定められた方角。

 

初詣する時期ですが、古くは「年籠もり(としごもり)」といって、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、社寺にお籠もりして、新年を迎えるのが慣わしでした。やがて、この年籠もりは、除夜の鐘が鳴り終わると同時にお参りする「除夜詣で」と、元旦の朝からお参りする「元日詣で」の二つに分かれ、初詣のもとの形となったとされています。

 

初詣の歴史は意外と浅く、明治時代以降に始まった慣習だと言われています。江戸時代後期までは、その年の恵方に参拝する「恵方参り」が行われていましたが、明治になって、各地で鉄道が開業すると、1890年代(明治23年)頃から、人々が郊外の大きな寺社に参拝できるようになり、元日の参拝(「元日詣で」)が定着していきました。

 

また、本来、非常に複雑なものだった寺社への参拝や祈祷が簡略化したことも、一般の人の寺社詣(で)が広がる一因となったと言われています。例えば、神社で手を洗い口をすすぐ手水(てみず、ちょうず)も、本来は全身を海や川で清めるのが作法でした。また、柏手を打つ前に鈴を鳴らすのも、もともと、鈴を使って巫女(みこ)さんが舞うというのがしきたりでした。さらに、おみくじも、本来は巫女(みこ)さんに神が乗り移って神の言葉を(巫女が)聞く「託宣(たくせん)」を起源としています(おみくじについては後に詳説)。こうして、初詣は、日本人の75%が出かけると言われるほど、国民的行事となって、全国的に広まっていったのです。

 

なお、初詣に行くのは神社かお寺か、ということになると、参拝客の数の順位を見れば、神社が混在していることからもわかるように、どちらでも良いとされています。

 

初詣の参拝者数、全国平均ランキング

第1位 明治神宮(東京)
第2位 成田山新勝寺(千葉)
第3位 川崎大師 平間寺(神奈川)
第4位 浅草寺(東京)
第5位 伏見稲荷大社(京都)
第5位 鶴岡八幡宮(神奈川)
第7位 住吉大社(大阪)
第8位 熱田神宮(愛知)
第9位 武蔵一宮氷川神社(埼玉)
第10位 太宰府天満宮(福岡)

 

◆お賽銭(さいせん)

現在では神社にお参りすると、お賽銭箱に金銭でお供えしますが、このように金銭を供えることが一般的となったのは、近年のことだそうです。もともと、御神前には海や山の幸が供えられました。秋になるとお米の稔りに感謝をして刈り入れた米を神様にお供えしました。そもそも米は、日本の神話でニニギノミコト(瓊瓊杵尊)がこの地上に降りてこられる天孫降臨の際に、天照大御神がお授けになられた貴重なものとされ、人々はその恵みを受け、豊かな生活を送ることができるよう祈ったと言われています。

 

お賽銭のはじまりは、こうした信仰にもとづき、神前にお米をまく「散米(さんまい)」や、洗ったお米を白紙に包んでお供えする「おひねり」という形でお供えしていました。しかし、時代が下り、貨幣の普及とともに、米に代わって、お金をお供えするようになりました。これを「散銭(さんせん)」といい、これが後に「賽銭」というようになりました。お賽銭は、お参りする前に賽銭箱に投げ入れますが、お供物(お金)を投げてお供えすることには、祓いの意味があるともいわれています。

 

お賽銭を神さまに捧げることは、日々お守りいただいていることを感謝する心の表れとして、あるいはお願い事を叶えていただくためのお祈りのしるしです。金額は、よく「ご縁がありますように」などと語呂合(ごろあ)わせで、五円玉をあげるのがいいという言い方がありますが俗説です。昔から、○○して下さいという願かけの際には「身削り(みけずり)」などと言って、自分の生活を切り詰めて、贅沢(ぜいたく)をがまんしてお賽銭を上げていたそうです。なお、神さまに上げられたお賽銭は、神殿の修理や境内の整備などに使われます。

 

◆おみくじ

神社に参拝した際に、参拝者の多くは「おみくじ」を引きます。一般的におみくじは、個人の運勢や吉凶を占うために用いられます。その内容は、吉凶判断・金運・恋愛・失(う)せ物・旅行・待ち人・健康など生活全般にわたります。生活の指針となる和歌などを載せている神社もあります。

 

ただし、本来おみくじは、巫女(みこ)さんに神が乗り移って、神の言葉を(巫女が)聞く「託宣(たくせん)」を起源としています。おみくじは神さまのメッセージという訳です。ですから、占いの一種である「おみくじ」は、人々では決められない事を問う神事の手段ということができます。また、おみくじは、物事の始めにあたって、まず御神意を仰ぎ、これに基づいて懸命に事を遂行しようとする、ある種の信仰の表れであるという見方もあります。

 

例えば、その年の豊作を祈り、その年の作柄や天候を占う「粥占神事」(かゆうらしんじ)や、神社の祭事に奉仕する頭屋(とうや)などの神役を選ぶ「頭渡し行事(とうわたしぎょうじ)」などの際、御神意を伺うために、また御神慮に適う者を選ぶために「くじ」を引いて決めることなど古くから続けてこられました。

 

国の祭礼や政(まつりごと)においても、後継の選定の段に御心(御神意)を伺う手段として、占い(おみくじ)は使われてきました。例えば、鎌倉時代には、源頼朝が鶴岡八幡宮の移転先をおみくじで決め、戦国の世においては、戦国大名は、戦さの日取りや陣営配置などを占ったりしていました。織田信長を裏切ったとされる明智光秀は、本能寺の変で出陣を決起するため三回みくじを引き直したと伝えられます。

 

ただし、現在のように、参詣者の吉凶を占うようになったのは、鎌倉初期の頃からと言われます。おみくじの順番は、大吉・中吉・小吉・吉・末吉・凶・大凶という並び方が標準です。神社で引いたおみくじは、「凶」なら木の枝に結び付け、吉のおみくじはお守りとして持ち帰るのがよいと言われたりしています。引いたおみくじを結ぶという行為は、木々の生命力にあやかり、「願い事が結ばれるように」という祈願が込められています。「おみくじ」は吉凶判断を目的として引くだけでなく、神さまのお諭(さと)し(大御心、おおみこころ)として、その内容を今後の生活指針としていくことが大切なこととされています。

 

一方、おみくじは、神社だけなく、お寺にもあります。仏教の観点から、おみくじの発祥の地は、比叡山延暦寺の「元三大師堂」と言われています。元三大師堂(がんざんだいしどう)は、名僧「元三大師=良源(912~985年)」の住房(じゅうぼう=すまい)です。良源は、平安時代の天台宗の僧侶で、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています(諡号は慈恵大師じえだいし)。その元三大師(良源)が観音菩薩様に祈念し授かった、五言四句の偈文(げもん)百枚がおみくじの原型だとされています。これを、江戸時代初期の名僧、慈眼大師・天海が発見し、「元三大師百籤(ひゃくせん)(「観音百籤」)」となり、天台宗以外でも広まっていきました。

 

仏教のおみくじは、将来を予言するものでも、吉凶を占うものでも、また、ご自身の決意を後押しするものでもないとされ、神社のおみくじとは異なります。どうすべきか自分では判断できないという人生の岐路に立たれた時に、大師に決めていただくものだそうです。

 

  • 絵馬(えま)

絵馬は、祈願や感謝のために奉納する馬の絵を描いた額のことをいいます。絵馬の起源は、神さまに生きた馬を献上する古代の風習にあるとされています。馬は、古来より神さまの乗り物であると考えられてきたので、歴代の天皇は祈願の際に、生きた馬を神馬(しんめ)として神社に奉納していました。絵馬の発祥は、水の神さまをまつる京都の貴船神社だと言われています。貴船神社には、雨ごいの祈願のときには黒い馬を、晴れの祈願のときには灰色または赤毛の馬が献上されていたそうです。

 

しかし、平安時代から、本物の馬に代わりに、次第に木彫りの馬や粘土製の馬が代用されるようになり、やがて、板に描いた馬の絵が奉納されるようになりました。室町時代になると、個人も絵馬を奉納するようになり、江戸時代にはさらに、家内安全や商売繁盛といった身近なお願い事を書く風習が庶民にも広がっていったそうです。これに伴い、現在のように、馬以外の絵馬も描かれるようになっていったと言われています。

 

  • 破魔矢(はまや)

破魔矢は、魔除け(まよけ)に欠かせぬ縁起物(えんぎもの)で、本来、破魔弓(はまゆみ)と一式になったものを指していました。

 

破魔矢は、宮中の正月行事の一つであった「射礼(じゃらい)」を起源としています。これは、子どもたちの弓の技術を試す競技で、清寧天皇(在480~484)の時代にその最古の記録が残っているそうです。この時、使用されていた的(まと)を「はま」と呼んでいたことから、そこから弓を「はま弓(浜弓)」、矢を「はま矢(浜矢)」と呼ぶようになりました。また、破魔矢の由来としては、弓矢を射って作物の豊凶を占う「年占」もあげられます。この行事は、二組が対抗して(弓矢で的を射る)勝負を行い、年間の運勢を予想する破魔打(はまうち)という正月遊びに発展していきました。

 

さらに、中国の民間伝承にある「鍾馗(しょうき)という強い武神が弓でもって悪霊を祓った」という逸話が入ってきたことから、「弓矢は邪気から身を守る力がある」と信じられるようになりました。ハマヤのハマに「破魔」の漢字が当てられるようになったのは、この影響からだと推察されます。実際、「破魔」は仏語で悪魔を打ち破るという意味があります。もともと、的(まと)という意味の「ハマ」という言葉に対して、鬼や悪魔を破り、祓うという「仏語」としての「破魔」の意味の文字を兼ね合わせ、「破魔(ハマ)」になったというわけですね。

 

こうした様々な要素があいまって、奈良時代には、前述した、弓で的を射る「射礼(じゃらい)」が儀式として定着化し、平安時代になると「追儺(ついな)」と呼ばれる鬼や悪魔を祓う儀式も行われるようになったとされています。江戸時代以降、破魔矢と破魔弓は、広く民衆に伝わり、子供の成長を祈る縁起物として装飾が施され、「健やかに、強くたくましく育ってほしい」「魔除け」という願いを込めて、男子の初正月や初節句に贈られるようになりました。とくに江戸の末期には、中国の鍾馗(しょうき)を五月人形にしたり、魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習も地域によってはあるようです。なお、破魔矢の「矢」には「無患子(むくろじ)」という鳥の羽をつけてありますが、「無患子」という漢字が、「子が患(わずら)わ無い」と書くことから、「無病息災」のお守りの意味があるとされています。

 

このように、現在の「破魔矢」は、本来、歴史的にみると、的(まと)も含めて弓と矢のセットで「魔除け・厄除け」の意味があるのですが、今では矢だけが神社で授けられるようになりました。これは、矢は邪気を破る力を持つ神や神主が放つものであり、一般の人にはその力は必要ないからだそうです。

 

◆ 羽子板(はごいた)

羽子板の由来は、奈良時代に宮中で行なわれていた「毬杖(ぎっちょう)」という遊びだとされています。「毬杖(ぎっちょう)」は、先が小槌のような形をした杖(つえ)で木製の毬(まり)を打ち合う遊びです。それが時代とともに変化して、この杖が羽子板の形となり、木製の毬は変化し黒くて固い玉になっていったそうです。さらに、その玉には羽根が付けられ、羽子板遊びは、女の子の間で行なわれお正月の風物詩となったのでした。

 

また、「羽根ついた黒い玉が飛び交う様子」が「トンボ」に似ていることが当時、話題となったようです。トンボは、作物の害虫や、当時の子どもの病気の原因の一つと考えられていた蚊を食べることから、羽根をトンボに見立て空中に舞わせることで、羽子板は、五穀豊穣と子供の無病息災という願いを込めた縁起物とみられるようになりました。まさに、羽子板で「魔をはね(羽根)のける」ということですね。なお、羽根の黒玉にも破魔矢と同様、「無患子(むくろじ)」の実を使っています。こうして、男子に破魔矢・破魔弓を贈る習慣と同時期に、女子に羽子板を贈る習慣として広まりました。

 

ここまでみてきた、門松、しめ縄、破魔弓、羽子板など正月の飾りものを総称して、「お正月節句飾り」「お正月飾り」と言います。

 

  • 七草

1月7日の朝、七草粥(ななくさがゆ)を食べる風習があり、正月行事として定着しています。一般的には、お正月のご馳走に疲れた胃腸をいたわり、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給をするために七草粥を食べる…と言われていますが、実際はもう少し、深い意味があります。

 

七草粥は、本来1月7日の「人日」の日に行われる「人日(じんじつ)の節句」の行事で、五節句*のひとつです。人日とは文字通り「人の日」という意味です。

五節句:江戸幕府が定めた式日(儀式のある日のこと)で、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽をさす。

 

古く中国では、前漢の時代、元日から六日までの各日に、動物をあてはめて占いを行う風習がありました。元日には鶏、2日は戌(いぬ)(狗犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬をというように占っていき、それぞれの日に占いの対象となる動物を大切に扱いました。そして正月7日目に人を占うことから「人日の節句」と呼ぶようになったのです。なお、8日には、穀(こく)を占って新年の運勢をみて、その日が晴天ならば吉、雨天ならば凶の兆しであるとされていました。

 

さらに、6世紀頃の唐の時代の書物に、「正月七日を人日となす。七種の菜を以て羹(あつもの)(=熱く煮た吸い物)をつくる」と書かれてあり、七日に「七種菜羹(ななしゅさいのかん/しちしゅのさいこう)」という7種類の若菜を入れた汁物にして食べると年中無病でいられるという俗信が生まれてきました。

 

ただし、日本には、もともと1月7日に、若菜を神さまにお供えし、それをいただいて豊作を祈る風習がありました。そこに、中国の「人日」に七草の汁物をいただいて無病を祈る風習が、奈良時代に日本へ伝わってきたことから、七草粥を食べるようになったと解されます。江戸時代に「人日の節句」(七草の節句)として五節句のひとつに定められると、この日に七草粥を食べることで、新年の無病息災を願う風習が、人々の間に定着していきました。では七草粥には何を入れているかというと、一般的には現在、七草粥の七草は「春の七草」をさします。

 

春の七草

芹(せり)……水辺の山菜
薺(なずな)……別称はペンペン草
御形(ごぎょう)……別称は母子草で、草餅の元祖。
繁縷(はこべら)……ナデシコ科の食物で、薬草として使用。
仏の座(ほとけのざ)……別称はタビラコ。
菘(すずな)……蕪(かぶ)のこと。
蘿蔔(すずしろ)……大根(だいこん)のこと。

このように、七草粥には、新春に若菜を食べて、寒い季節を乗り越え、自然界から新しい生命力をいただきたいとの思いが込められています。

 

  • 小正月(こしょうがつ)

 

お正月が一段落した15日には、小正月の行事が行われます。小正月は、元日(または元旦から7日)を大正月(おおしょうがつ)というのに対して呼んだ名で、1月15日に相当します。これは、かつて太陰暦を採用していた日本は、一年で一番最初の満月(旧暦1月15日)の日を「年の始まり」としていたことからきています。つまり、明治時代になって太陽暦となった現在でも、その名残から15日を小正月と呼んでいるのです。

 

「大正月」が、新年に歳神さまをお迎えするのに対し、「小正月」は五穀豊穣や無病息災を祈る行事が多く行われます。

 

左義長(さぎちょう)

左義長は、大正月にお迎えした歳神さまをお送りする行事で、注連縄や門松などのお正月飾りや書き初め、古いお神札(おふだ)などを集めて焚き上げます。その燃やしたときの火や煙に乗って、歳神さまが天上にお帰りになるといわれています。その火でお餅を焼いて食べることで万病を防ぐとされています。また左義長は、地域によって「どんど焼き」などとも呼ばれます。

 

粥占神事(かゆうらしんじ)

粥占はおかゆを炊いて、この1年間の天候や作物の豊凶などについて占う行事で、各地の神社で祭礼として行われます。その様式は呪術的と評されています。

 

ほかにも、その時期、餅花(もちばな)などを飾って豊作を祈る風習があります。お正月には家の外に門松を飾りますが、小正月では柳などの枝に小さく切った紅白のお餅や団子をさした餅花(もちばな)を飾り、1年の五穀豊穣を祈ります。また、この1年の健康を願って小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習があります。小豆(あずき)の赤い色には、昔から邪気を払う力があると考えられています。

 

さらに、正月飾りのうち破魔矢・羽子板は、小正月の1月15日に片付けるのが慣例です。なお、しめ縄や門松は1月7日とされています。

 

以上、お正月行事についてのまとめてみました。1年の最初の月に、多くの日本の風習や文化が散りばめられている感じがしました。来年のお正月は、もっと「日本」を感じながら過ごしたいと思いました。

 

 

<参考>

お正月―その伝承と由来さまざま〈季節のおいしいコラム〉

お節料理(おせちりょうり)(辻調おいしいネット)

お正月と言えば「お雑煮」その起源と由来

初正月の祝い方、破魔矢・羽子板の意味

絵馬とは?意外と知らない絵馬の由来と書き方(ホトカみ)

神社お寺が好きになる記事(ホトカみ)

おみくじ、神社本庁

お賽銭、神社本庁

暮らしの歳時記/正月の行事・楽しみ方(年末年始)

七草粥の由来と春の七草の意味や覚え方・七草の日はいつ?

七草がゆの豆知識、七草研究会

お正月飾りに欠かせない「ウラジロ」(生薬ものしり辞典)

なぜ鏡餅を飾るの? 鏡餅の意味や由来・飾り方・飾る時期

おみくじの由来・神社参拝の前に知っておきたいお話し

破魔矢とは?(日本神道)

またお正月? 1月15日は「小正月」

正月とは(奥宮)など

 

 

2020年01月19日

皇室:古式ゆかしき「歌会始の儀」

1月16日、宮中行事である「歌会始の儀」が行われました(投稿記事「令和初の「歌会始めの儀」」参照)。歌会始について、まとめてみると伝統的・文化的に奥の深いものがありました。

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歌会始とは?

和歌(短歌)は,日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものといわれているなか、600年以上の長い歴史をもつ宮中の歌会始は,国民参加の文化行事となって現在に至っています。「歌会」(うたかい)とは、人々が集まって共通の題で歌を詠み,その歌を発表する会をいいますが、天皇が年の始めに正月行事としてお催しになる歌会を「歌会始(うたかいはじめ)」といいます。

 

「歌会始」は、長い歴史のある宮中の行事で、そこには独特の言葉の使い方があります。一般の人たちが歌を応募することを「詠進」(えいしん)といいます。詠進した歌を選考する人を「選者」(せんじゃ)といいます。そして詠進して選ばれることを「選に預かる」といい、その歌を「選歌」(せんか)といいます。

 

「歌会始」には一般の方、選者のほかに、「召人」(めしうど)といって天皇陛下から特別に要請されて歌を詠進する方もあります。召人は広く各分野で活躍し貢献している人々を選び,今年は国文学者の久保田淳氏が選ばれました。詠まれた和歌は「」(うた)といいますが、皇族殿下、妃殿下のは「お歌」(おうた)、皇后陛下のは「御歌」(みうた)、天皇陛下のは「御製」(ぎょせい)と申し上げます。これらの歌を詠み上げることを「披講」(ひこう)といいます。

 

この儀式の進行は,読師(どくじ=司会役),講師(こうじ=全句を節をつけずに読む役),発声(はっせい=第1句から節をつけて歌う役),講頌(こうしょう=第2句以下を発声に合わせて歌う役)の諸役が行います。

 

歌会始の儀

「歌会始」は、宮中の松の間のある長和殿で行われ、天皇皇后両陛下の御前で歌が披講されます。進行は司会役の読師(どくじ)が行います。最初に節をつけずにすべての句を講師(こうじ)が読み、つぎに第1句から節をつけて発声(はっせい)が歌うと、第2句以下を発声にあわせて講頌(こうしょう)が続き歌います。

 

披講の順番は、一般の応募作(今年は1万5324首)から詠進された選歌(入選者)、つぎに選者の歌、天皇陛下に招かれた召人(めしうど)の歌、皇族方のお歌(三笠宮家の寛仁親王妃信子さま、秋篠宮妃紀子さま、秋篠宮さま)、皇后陛下の御歌と続き、最後に天皇陛下の御製となります。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣,日本芸術院会員,選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。

 

歌会始の歴史

歌会は、「万葉集」にもあることから、奈良時代には既に行われていたと推察されています。歌会の中で、天皇がお催しになる歌会を「歌御会」(うたごかい)といい、宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)も催されるようにもなりました。

 

これらの中で天皇が年の始めの歌会(正月行事)としてお催しになる歌御会を「歌御会始」(うたごかいはじめ)といいました。歌御会始の起源は,必ずしも明らかではありませんが、遅くとも,鎌倉時代中期まで遡ることができるものと言われています。歌御会始は,江戸時代を通じほぼ毎年催され,明治維新後も,明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれています。

 

明治の近代化の過程で、明治3年には、一般の人に苗字を名乗ることが許されるようになると、明治7年(1874年)に、これまで皇族・貴顕・側近など宮中の方々のみに限定されていた参加資格が、一般国民にも拡大しました。明治12年(1879年)には一般の詠進歌(応募された和歌)のうち特に優れたものを選歌とし,歌御会始で披講(披露)されることとなりました。これが、今日の国民参加の歌会始の始まりといえます。大正15年(1926年)には,皇室儀制令が制定され,古くから歌御会始といわれていたものが,以後は「歌会始」といわれることになりましたが、大正天皇崩御のため、実際に歌会始と呼ばれたのは昭和3年(1928年)の歌会始からです。

 

第二次世界大戦後は、広く一般の詠進(応募)を求めるため,お題は平易なものとされ、預選者(選ばれた人)は式場への参入が認められただけでなく,天皇皇后両陛下の拝謁や選者との懇談の機会が設けられるようになりました。さらに、テレビの中継放送が導入されて,さらに多数の人々が歌会始に親しむことができるようになりました。こうして歌会始への国民参加は,ますます促進されるばかりか、最近では、海外からも作品が寄せられています。

 

<参考>
歌会始(宮内庁HP)
宮中の「歌会」から国民参加の「歌会」へ(Tenki.com)
Wikipedia

2020年01月16日

ニュース:令和初の「歌会始めの儀」

両陛下、未来担う世代詠む 令和初の歌会始

(2020/1/16、日本経済新聞、一部抜粋)

 

新年恒例の「歌会始の儀」が16日、皇居・宮殿「松の間」で催された。令和となって初めてのお題は「望」。天皇、皇后両陛下や皇族方が詠まれた歌のほか、1万5324首の応募作から選ばれた10人の入選者、天皇陛下に招かれた召人(めしうど)らの歌が古式にのっとった節回しで披露された。代替わり後初めての開催となった今回は、中央に両陛下が座り、秋篠宮ご夫妻ら皇族方が両側に着席した。皇后さまが歌会始の儀に出席されるのは、療養が始まった2003年以来17年ぶり。19年に退位した上皇ご夫妻は出席されず、歌の披講もなかった。

 

両陛下は即位後の2019年6月、東京都内の保育園に足を運び、子どもたちと交流された。12月には台風19号の被災地を見舞うため、宮城県丸森町と福島県本宮市を訪問。被災者や復興に尽力した人々に励ましの言葉を掛けて回られた。こうした活動を通じ、両陛下ともに未来を担う世代への希望を歌に込められた。

 

天皇陛下

学舎(まなびや)にひびかふ子らの弾む声さやけくあれとひたすら望む

皇后さま

災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす

 

儀式は午前10時半から始まり、入選者、選者、召人、三笠宮家の寛仁親王妃信子さま、秋篠宮妃紀子さま、秋篠宮さま、皇后さま、陛下の順に披露されました。また、宮内庁は2021年の歌会始のお題を「実」とし、応募要領を発表しました。

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歌会始の解説については、投稿記事「古式ゆかしき『歌会始の儀』」も参照下さい。

2020年01月15日

神社:伊勢神宮は内宮と外宮だけではない!

伊勢神宮は、有名な「内宮」と「外宮」(両社で「正宮」という)だけでなく、「別宮」、「摂社」、「末社」、「所管社」と呼ばれるお社からなり、全部で125社で構成されています。その範囲は伊勢志摩地方にひろく及び4つの市と2つの郡にまたがります。伊勢神宮について、前回の投稿「伊勢神宮、外宮と内宮の神さま」に続く第2段です。今回は、伊勢神宮の全体像をみてみましょう。

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正宮(しょうぐう)> 計2社

外宮(豊受大神宮)
祭神:豊受大御神(とようけおおみかみ)

内宮(皇大神宮)(こうたいじんぐう)
祭神:天照大御神

 

外宮と内宮のなかでも有名なのが御正殿(ごしょうでん/ごせいでん)で、通常、私たちは、それぞれの御正殿を外宮、内宮とみなすでしょう。御正殿とは、神社の本殿、宮殿の中心となる建物で、天照大御神は、内宮の御正殿でお祀りされています。外宮と内宮についての詳細は「伊勢神宮、外宮と内宮の神さま」へ。

 

別宮(べつぐう)> 14社

別宮とは、正宮と特に関わりの深い神さまをお祀りする格の高い神社で、御正殿に次ぐお宮です。正宮に準じて祭祀が行われています。別宮のお宮も、式年遷宮が行われます。伊勢神宮の別宮は、外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に10社あります。別宮にも格付けのようなものがあり、外宮の第一別宮である多賀宮(たかのみや)や、内宮の第一別宮である荒祭宮(あらまつりのみや)には、大きな祭祀fが行われる際、天皇陛下が幣帛(へいはく)(=絹の反物など)をお供えされます。

 

外宮別宮(4):多賀宮土宮、月夜見宮、風宮

 

  • 多賀宮(たかのみや)

御祭神:豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)

 

豊受大御神荒御魂とは、豊受大御神(とようけのおおみかみ)の荒く猛々しい時の御霊のことです。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、小高い丘の上に鎮座しています。外宮の別宮では最も格式の高い第一別宮で、20年に一度の式年遷宮の際、外宮では多賀宮のみ正宮と同じ年に行われます。

 

神道では、神さまの荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを「荒御魂(あらみたま)」、神さまの御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」といいます。 

 

  • 土宮(つちのみや)

御祭神;大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)

 

大土乃御祖神は、古くから山田原(やまだのはら)の鎮守の神でしたが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、平安時代末期に別宮に昇格しました。他の別宮は全て南向きですが、土宮だけ東を向いています。

 

  • 月夜見宮(つきよみのみや)

御祭神:

月夜見尊(つきよみのみこと)

月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)

 

月夜見尊は、天照大御神の弟神で、月の満ち欠けを教え暦を司る神とされています。内宮別宮 月読宮でも祀られています(同じ祭神)。

 

 

  • 風宮(かぜのみや)

御祭神:

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

級長津彦命と級長戸辺命は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子神で、特に風雨を司る神さまです。内宮別宮の風日祈宮(かぜひのみのみや)のご祭神と同じです。雨風は農作物に大きな影響を与えるので、正宮に準じてお祀りされています。また、鎌倉時代の元寇に際して神風を吹かして日本を守って下さったことから、国を救ってくれる祈願の対象ともなってきました。

 

内宮別宮(10)

荒祭宮、月読宮(4)、瀧原宮(2)、伊雑宮、風日祈宮、倭姫宮

 

  • 荒祭宮(あらまつりのみや)

御祭神:天照大御神荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)

 

天照大御神の荒御魂をお祭りしており、内宮に所属している10社の別宮のうち、第一位(第一別宮)とされ、20年に一度の式年遷宮の際、内宮では荒祭宮のみ正宮と同じ年に行われます。

 

内宮の敷地内には、天照大御神をお祀りする御正殿(ごせいでん)の他に2つの別宮があり、一つはこの荒祭宮で、もう一つが風日祈宮です。

 

 

  • 風日祈宮(かざひのみのみや)

御祭神

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

外宮別宮の風宮と同じように、特に風雨を司る神さまをお祀りしています。

 

 

  • 月読宮

祭神:月読尊

 

外宮別宮の月夜見宮(つきよみのみや)と同じように、天照御大神の弟神である月読尊(つきよみのみこと)をお祀りしています(外宮では月夜見尊と書く)。役割は、「月を読む」という名前の通り、月の満ち欠けを教え暦を司ることです。外宮では、月夜見尊の荒御魂も祭神となっていますが、こちらでは、月読尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)は、月読宮とは異なる別宮(月読荒御魂宮)に祀られています。

 

また、月読宮には、天照大御神と月讀尊の父母神である「父:伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「母:伊弉冉尊(イザナミノミコト)」も、伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮にそれぞれ祀られています。このように、内宮の月読宮の敷地には、月読宮だけでなく、以下の3社の別宮が並んで存在しています。

 

月読荒御魂宮(祭神:月読尊荒御魂)

伊佐奈岐宮(同:伊佐奈岐命)

伊佐奈弥宮(同:伊佐奈弥命)

 

  • 瀧原宮(たきはらのみや)

祭神:天照大御神の御魂

(天照坐皇大御神御魂/あまてらしますすめおおみかみのみたま)

 

瀧原宮は、伊勢市から40kmほど離れた渡会郡の山間に位置し、文字通りの「瀧原宮」と、「瀧原並宮(たきはらならびのみや)」の2つの別宮が並立しています。昔から神宮の遙宮(とおのみや)(遠い宮という意味)と呼ばれ、品格があることで知られています。祭神は、どちらも「天照大御神の御魂(あまてらすおおみかみのみたま)」とされていますが、瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原並(竝)宮は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られるとする説明もあります。

 

伝承では、かつて、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀るため、相応しい聖地を探し求めていたところ、内宮より先に、この渡会の地に瀧原宮を建てて、天照大御神を祀ったという話しが残されています。しかし、その後、現在の内宮のある伊勢の地に新宮を建てたため、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったと言われています。

 

内宮の雛形とといわれている瀧原宮は、「ミニ内宮」の様相を呈しているとされ、五十鈴川と同じように清流が美しい御手洗場もあります。入口の鳥居から参道を抜けると、奥に社伝がたたずんでいます。

 

  • 伊雑宮(いざわのみや)

祭神:天照大御神の御魂

 

志摩市に鎮座している伊雑宮(いざわのみや)は、別名「いぞうぐう」とも呼ばれています。天照大御神の御魂をお祭りしていて、地元の人々からは海の幸、山の幸の豊饒が祈られてきました。毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、「磯部の御神田(おみた)」の名で知られ、日本三大田植祭の一つとされます(後の二社は香取神社と住吉大社)。瀧原宮(たきはらのみや)と同様、別宮の中でも「遙宮(とおのみや)」と呼ばれ、地元からも篤く崇敬されています。

 

 

  • 倭姫宮(やまとひめのみや)

祭神:倭姫命

 

倭姫宮は、天照大御神を伊勢にお連れした、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)を祭神としています。内宮と外宮を結んでいる御幸道路の中ほどの倉田山に鎮座し、別宮の中で最も新しいお宮です。

 

摂社(せっしゃ)> 43社

摂社は、平安時代中期(927年)にまとめられた国家の官帳である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載されているお社で、外宮(豊受大神宮)に16社、内宮(皇大神宮)に27社あります。いくつかの摂社を紹介します。

 

  • 草名伎神社(くさなぎじんじゃ)(外宮摂社)

祭神:標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)

 

外宮の摂社として格式が高く、1210年に、月夜見宮が別宮に昇格してから、第一摂社となりました。祭神は標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)で、度会氏の祖とされる大若子命(おおわくこのみこと)が、標劔仗神から剣を賜り、越の国の阿彦という賊徒を討伐したことから、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の名を賜ったという伝承が残されています。「草奈伎」の社号も、この剣を日本武尊の「草薙の剣」に例えたものと言われています。

 

大若子命(おおわくこのみこと)は、度会氏の祖とされ、天照大神の伊勢遷座のところ で、南伊勢の豪族として協力した功績から、官職の一つである神国造(かみのくにのみやつこ)と、神宮の大神主(おおかんぬし)(=神官で禰宜ねぎの上位)に任じられたとされています。また、「草薙の剣」は、倭姫命(やまとひめのみこと)から日本武尊へ授けられる以前に「神宮」にあったとされ、草奈伎神社では、草薙の剣の御魂を祀るという説も残されています。

 

  • 朝熊神社(あさくまじんじゃ)(内宮摂社)

祭神

大歳神(おおとしのかみ)
苔虫神(こけむしのかみ)
朝熊水神(あさくまのみずのかみ)

 

朝熊神社は、内宮摂社の中で格式が高い内宮第一摂社で、桜の名所(朝熊山)としても知られています。祭神は、上記したこの土地を守る神(熊野平野の守護神)かつ五穀と水の神の三柱です。ただし、別の資料では、大歳神(おおとしのかみ)ではなく、その子の桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)とする説もあります。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名ともされています。

 

  • 多岐原神社(たきはらじんじゃ)(内宮摂社)

祭神:真奈胡神(まなこのかみ)

真奈胡神は、倭姫命(やまとひめのみこと)が宮川を渡るのをお助けした土地の神で、社も倭姫命を出迎えたとされる瀧原の近くの場所に建てられたとされています。

 

末社(まっしゃ)> 計24社

末社は、延喜式神名帳には載せられていませんが、807年に成立した伊勢の神宮の儀式帳で、鎮座の由来などについて記した「延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)(「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」と「止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)」の併称)」に記載されている神社です。なお、末社は、外宮(豊受大神宮)に8社、内宮(皇大神宮)に16社、あります。

 

  • 伊我理神社(いがりじんじゃ)(外宮の末社)
    祭神:伊我利比女命(いがりひめのみこと)

 

伊我利比女命は、かつて存在した外宮の御料田(神宮の神田)の井泉の神で、古く外宮御料田の耕種始めの神事、鍬山伊我利神事(くわやまいがりしんじ)が行われていました。このお祭りは、猪の害を防ぐためのもので、社名の「伊我理(利)」も猪狩(いかり)に由来するといわれています。

 

  • 小社神社(おごそじんじゃ) (内宮末社)

御祭神:高水上命(たかみなかみのみこと)

 

高水上命は、この土地の神で灌漑用水の神と伝えられています。小社神社は、この地方では「雨の宮」と呼ばれ、ひでりの折には雨乞祈願をしたといわれます。内宮神主の荒木田氏が、この地域を開拓した当時、産土神として尊ばれた神さまです。

 

所管社(しょかんしゃ)>計42社

所管社は、摂社と末社以外に、正宮や別宮にゆかりがあり、水やお酒、お米、塩、麻、絹などの御料(ごりょう)(=お供え物)、宮域鎮護など、祭祀にあたり深く関係を持つ神々がお祀りされている場所です。外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に30社、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)に3社、伊雑宮(いざわのみや)に5社あります。ここでは、数ある所管社の中で、まず、内宮の域内にある2つの所管所をみてみましょう。

 

  • 子安神社(こやすじんじゃ)(内宮所管社)
    祭神:木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

 

祭神の木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)は、猛火のうちに御身無事に、三柱の御子をお生みになられたという神話から、子授け、安産、厄除けの神として篤い信仰を受けています。もっとも、木華開耶姫命は、元々は伊勢・宇治館町の「産土神(うぶすながみ)」という土地の守護神という伝承があり、木華開耶姫命に対する信仰はこの地に根付いています。

 

木華開耶姫命は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘神であることでも知られています。木華開耶姫命の御神体は「富士山」と云われており、父神の大山祇神からゆずり受けたとされております。子安神社の奥には、その大山祇神を祀る大山祗神社があります。

 

 

  • 大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)

祭神:大山祇神

 

大山祇神(おおやまずみしん)は、木華開耶姫命の父神で、山の神として全国から崇敬を集めています。子安神社と大山祇神社はともに、内宮の衛士見張所の近くにあり、親子神で並んで内宮の宮域でお祀りされています。なお、両社は、伊勢神宮の所管社ではありませんでしたが、1900年(明治33年)に再び、内宮(皇大神宮)の所管社として登録されています。

 

次に、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)にある若宮神社、長由介神社、川島神社をとりあげます。

 

  • 若宮神社(わかみやじんじゃ)(瀧原宮所管社)

祭神:若宮神(わかみやのかみ)

 

若宮神は、瀧原の地に縁のある水の神といわれていますが、由緒など詳細は不明とされています。天若宮(あめのわかみや)と呼ばれることもある若宮神社は、瀧原宮所管社3社のうち第一位です。

 

 

  • 長由介神社(ながゆけじんじゃ)(瀧原宮所管社)

祭神:長由介神

 

長由介神(ながゆけのかみ)は、瀧原宮の御饌(みけ・食物)の神といわれています。御饌の神だから、豊受大神の御霊あるいは分霊とする説もあります。長由介(=長生き)と解され、長生きの神であるとの民間信仰があり、江戸時代には、長寿祈願の参拝者でにぎわったそうです。

 

  • 川島神社(かわしまじんじゃ)

祭神:川島神

由緒など詳細は不明。川島神社は、1874年(明治7年)以降、長由介神社に合祀されるようになりました。

 

瀧原宮を訪れると、周る順番も、瀧原宮→瀧原並宮→若宮神社→長由介神社(川島神社は長由介神社と同座)が推奨されています。

 

一方、所管所の中には、社殿を持たない石神(磐座)祭祀など原初的な形式で祀られている所管所もあります。

 

  • 瀧祭神(たきまつりのかみ)

古代より、瀧祭神は氾濫が多かったとされる五十鈴川の守り神であったとされ、五十鈴川の龍神(水神)を鎮めるために祀られていると言われています。従って、瀧祭神は、五十鈴川の御手洗場近くの杜の中に鎮座し、板垣の内側に御神体の石がお祀りされています。元々は、対岸となる五十鈴川の西側の川辺に鎮座していたという説もあります。

 

  • 四至神(みやのめぐりのかみ)

四至神は、神の神域(大宮)の四方の境界を守護する神で、内宮と外宮に1箇所ずつ鎮座しています。元々はそれそれの境内に数十箇所以上も存在しと言われていますが、それらが統合されて1箇所にまとめられました。なお、四至とは宮の四方の意味です。

 

内宮の四至神の鎮座地は、神楽殿・五丈殿のやや東方、忌火屋殿の程近くにある石畳の上の白石で、そこで、石神としてまつられ、白石の石神(=四至神)のみがお祀りされた神域となっています。江戸時代までは、神様の依り代としての一本の桜の木=「桜大刀自神桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)」が祀られていたそうです。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名との見方もあります。

 

このように、伊勢神宮(「神宮」)は、外宮・内宮(正宮)に加えて、別宮、摂社、末社、所管社、計125社の総称で、社殿を有するお社や、石畳の上に祀られるお社など様々な形があります。なお、どの社が、別宮、摂社、末社、所管社となるかは、各時代によって制定された神祇制度(じんぎせいど)により神社の格(社格)が定められ、その格に応じて摂社・末社と分類されています。

 

<伊勢の祭り(神宮祭祀)>

この125社からなる伊勢神宮では、新年の歳旦祭(さいたんさい)から大晦日の大祓(おおはらえ)まで、各神社の祭祀を合計すると、年間を通じて、数十種以上およそ1500回も行われています。伊勢の神宮の祭りは、「神嘗祭(かんなめさい)」、「恒例祭(こうれいさい)」、「臨時祭(りんじさい)」、「遷宮祭(せんぐうさい)」の4つに分類されます。

 

10月の神嘗祭は、その年に最初に収穫した稲穂(初穂)を天照大御神に感謝のお供えをする祭祀です。また、「恒例祭(こうれいさい)」は、6月・12月の月次祭(つきなみさい)や毎日の神饌祭など定期的に行われる祭祀で、「臨時祭(りんじさい)」は、「天皇陛下ご即位〇〇年を祝う・・」など皇室・国家および神宮の重大事に臨んで行われます。そして「遷宮祭(せんぐうさい)」は20年に一度実施される一大祭祀でしたね。また、「神宮」では春先の祈年祭(きねんさい)、御田植祭(田植えの前に豊作を祈願する儀式)、秋の神嘗祭(かんなめさい)など、稲作に関わるお祭りが多く行われます。

 

このように、伊勢神宮の年間千五百回ほどにおよぶ祭典では、皇室国家の繁栄と国民の幸せを願う祈りがささげられています。

 

 

<参照>

神宮の歴史と文化(伊勢神宮HP)

教えてお伊勢さん(伊勢神宮HP)

BUSHOO!JAPAN 日本史データベース:寺社・宗教

伊勢神宮への参拝で日本人なら知っておきたい7つの秘密

伊勢神宮誕生から現在までの歴史 | 神ズム

かつて桜の神もいた!伊勢神宮内宮、太古の神祭りに触れる参拝(Lineトラベルjp)

別宮、摂社、末社、所管社とは

伊勢神宮はゼロ磁場!?

Line トラベル

伊勢志摩観光ナビ

お伊勢さん125か所参り(伊勢神宮崇敬会)

草奈伎神社・延喜式神社の調査

Wikipedia

 

2020年01月13日

神社:伊勢神宮、外宮と内宮の神さま

昨年11月、天皇皇后両陛下は、伊勢神宮に参拝され、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告されました。また、令和2年に入って、年初の仕事始めの前に、総理を含め与野党を問わず多くの政治家も伊勢詣でしています。皇室の祖、ひいては日本人の祖ともいえる天照大御神をまつる伊勢神宮とは、どういう神社なのでしょうか?

 

伊勢神宮という呼び方は、実は通称で、伊勢の神宮、より正式には単に「神宮(じんぐう)」と呼ばれます。また、伊勢神宮(「神宮」)と一言でいっても、一つの社だけをさすのではなく、相並び立つ「内宮」(ないくう)と「外宮」(げくう)、さらには別宮、摂社、末社、所管社と呼ばれる大小さまざまな社(やしろ)を含め、あわせて125社からなるのが神宮です。ただ一般に「(伊勢)神宮」といえば、「内宮」と「外宮」を連想する人が多いでしょう。今回は、特に内宮と外宮の神さまを中心にまとめてみました。

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内宮では、皇室の御祖先神、日本人の総氏神とされる天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまを、また外宮では天照大御神さまのお食事を司り、産業の守り神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)をおまつりしています。

 

外宮(げくう):豊受大御神(とようけおおみかみ)

内宮(ないくう):天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 

<内宮の起源>

伊勢神宮の始まりは神話の「天孫降臨」の時代に遡ります。皇孫、瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天照大御神の命を受けて、高天原から地上の豊葦原中ツ国(とよあしはらのなかつくに)に降りる際、天照大御神は、ニニギノミコトに、お鏡(八咫鏡やたのかがみ)を授けられ、鏡を自分(天照大御神)の御霊(みたま)とみなして、同じ御殿で祀るように命じられました。

 

この時から、天照大御神は、伊勢の地に鎮座される以前に、皇居内の天皇のお側で祀りされていました。しかし、第10代崇神(すじん)天皇(BC148~BC29)の時、その御神威を畏(かしこ)み、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所でお祀りすることにしました。

 

この背景について神話では、崇神天皇の時代に疫病が流行し、大勢の死者が出た際、この原因が、「神の祟り」で八咫鏡のせいではないかという噂が流れたと言います。そこで、崇神天皇は、「お鏡(八咫鏡)」を、宮中(皇居)の外に出されことを決意されたという説もあります。

 

いずれにしても、崇神天皇は、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に、皇居外のふさわしい場所を探すように、お命じになられます。すると、豊鍬入姫命は、皇居外の神聖な地を選んでおまつりすることにし、大和の国の笠縫村(かさぬいむら)(奈良県桜井市)に神籬(ひもろぎ)(=神霊を招き降ろすための樹木)を立てて、大御神を祀られたのでした。この場所が現在の大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社「檜原神社(ひばらじんじゃ/奈良県桜井市三輪)」の辺りではないかと云われています。

 

その後、第11代の垂仁(すいにん)天皇(BC69~AD70)の代になると、八咫鏡をお祀りする役目が、垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に交代します。倭姫命は、天照大御神が、新たに末永くお鎮まりになるのにふさわしい土地を諸国を尋ね歩かれました。大和国を出発し、伊賀、近江、美濃、桑名を巡られた末に、伊勢の国に入られた時、天照大御神は伊勢の地を望まれました。「日本書紀」には、この時、天照大御神が次のよう告げたと書かれています。

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この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、最も美しい永遠の宮処としてふさわしい場所である。この国にいようと思う

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こうして、倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢の五十鈴川の川上に、八咫鏡(天照大御神)を移してお祀りするための「御社殿」を建て、天照大御神さまをお祭りしました。この御社殿こそが、今日の伊勢神宮(内宮)となるのでした。これが今から約2000年前の出来事です。

 

<外宮の起源>

内宮ができてから、約500年後、天照大御神の食事を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をまつった場所が外宮(豊受大神宮/とようけだいじんぐう)です。また、この神さまは、私たち日本民族の主食であるお米をはじめ五穀、衣食住のめぐみを与えてくださる産業(農耕)の守護神でもあります。豊受大御神は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の御世(今から約1500年前)に、天照大御神のお示しによって京都の丹波(たんば)の国(天橋立付近)から、現在の地に迎えられてお鎮まりになったと伝えられています。

 

前出の天孫降臨の神話においても、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降る場面で、天照大御神が天上の高天原でつくられた田の稲穂を手渡される場面があります。この逸話は、天で育った稲を地上にも植え、この国を天上界のような稔り豊かな国にするように託されたと解されています。

 

さて、その外宮には御饌殿(みけでん)という御社殿があり、そこで天照大御神に朝夕二回のお食事がお供えされています。「献立」は、御飯三盛、鰹節、魚、海草、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献で、これらに御箸を添えて供えられているそうです。

 

また、伊勢神宮のHPによれば、神饌(しんせん)(神さまのお食事)を調理するのは忌火屋殿(いみびやでん)という建物で行われ、神に奉る神饌は特別におこした火と特別な水で調理することになっています。火は、清浄な火という意味で忌火(いみび)と呼ばれ、神職が古代さながらに火鑚具(ひきりぐ)を用いて火をおこしています。また、御水は外宮神域内にある上御井神社から毎日お汲みしてお供えされているそうです。さらに、お食事はただ出されるのではなく、「皇室のご安泰、国民が幸福であるように」との祈りと感謝を捧げる、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という祭祀の形で行われています。しかも、日別朝夕大御饌祭は、外宮の御鎮座以来、1500年間、欠かすことなく、朝夕の二度行われているのです。

 

<八咫鏡と斎王>

さて、内宮においては、7世紀末(飛鳥時代)に、天皇が即位する度に、未婚の女性皇族)」の中から、天皇に代わって天照大御神(八咫鏡)に仕える「斎王(さいおう)」という制度が確立しました。すなわち、伊勢神宮における斎王とは、天照大御神の御霊がお宿りする「八咫鏡を祀る任務を担う役職」のことで、一代の天皇が即位する度に未婚の皇女が1人選出されていました。

 

ただし、伊勢へ下ると、斎王は、日々、神宮で奉仕していたかというとそうではなく、基本的に、伊勢神宮の最も大切な祭典「三節祭」が執り行わる際にのみ、神宮へ赴き奉仕したと言われています。普段は、伊勢国多気郡の櫛田川付近(現在の近鉄斎宮駅の付近)に位置した「斎宮」で生活していたとされています。斎王はあくまで象徴的な存在だったのでしょう。

 

なお、「三節祭」とは、神宮内の数ある祭典(神事)の中でも特に重要視されている6月と12月の「月次祭」と10月の「神嘗祭」の3回の祭典をいいます。天皇は現在も、「三節祭」の時には、伊勢神宮へ使者「勅使(ちょくし)」をつかわして「絹織物」などを奉納されていたそうです。

 

しかし、この斎王の制度は、神宮創建後の約660年後となる室町時代の1330年頃、ちょうど朝廷が2つに割れた「南北朝時代」には廃止されてしまいました。政治の混乱とともに、斎王の制度を維持していく財源がなくなったことが要因とみられています。実際、南北朝時代を境に、朝廷の権威は衰えていきました。後醍醐天皇による天皇親政の復活を図った「建武の新政」も失敗し、武家が完全に権力を掌握する時代に移り変わってゆきます。天皇家が政治の中心いた時代では、財源の確保が容易にできましたが、武家の時代になると天皇のもとへ直接、財が集まらなくなりました。結果的に「斎王」の制度が執り行えなくなり、14世紀以降、時代から消えてしまいました。それまで、皇女が務めた歴代の斎王の人数は60余人にのぼりましたが、現在、伊勢神宮に「斎王」は存在しません。

 

<神宮の祭主>

参考までに、伊勢神宮には、現在も「斎王」と似て非なる存在として「祭主」がいます。神宮祭主は、天皇の代理として神宮の祭事をつかさどる役職で、天皇の「勅旨」を受けて決まります。神宮祭主のはじまりは不詳で、平安時代まではさかのぼると言われています。

 

現在の祭主は、上皇陛下の長女、黒田清子(さやこ)さんです。その前は、昭和天皇の4女の池田厚子さんで、戦後の祭主には、皇族出身の女性が就任されてきました(過去には、男性がなったり、華族らがなったりしていた)。やはり、伊勢神宮成立の経緯からして、皇室の祖先の神である「天照大御神」にご奉仕する「斎王」と同様、伊勢神宮の祭事に携わる「祭主」は、天皇陛下が定めた皇族、または元皇族の方が、務めると言うことが通例でした。

 

「祭主」は、神宮の祭事をつかさどる役職といっても、年間「千数百回」も行われていると言われるお祭りすべてに携わっているわけではなく、祭主が直接、神事に携わる(ご奉仕する)のは、神嘗祭(10月)など一部に限られています(このほかに出席するだけの「ご参列」もある)。ですから、祭主になると、伊勢への「常駐」が求められるかというと、祭主が直接関わる祭りは限られているため、伊勢に住みこむ必要はありません。黒田さんも、必要があるときに神宮を訪れるという対応をとられています。

 

以上、ここまで、内宮、外宮の起源とその後についてみてきました。では、内宮と外宮、どちらから参拝したらいいのでしょうか?答えは外宮からです。

 

<外宮先祭>

神宮のお祭りは、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、まず外宮から行われるのが慣例となっています。これは、豊受大御神(とようけおおみかみ)を伊勢の地にお迎えになった天照大御神から「我が祭りに仕え奉る時は、まず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」との御神託があったと伝えられているからです。

 

従って、内宮のお祭りに先立ち、神饌(しんせん)と呼ばれる神さまのお食事をお供えする日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい))が行われるならわしからきています。ですから、お祭りの順序にならい、お伊勢参りも外宮・内宮の順に参拝するのが慣例なのです。

 

<式年遷宮>

伊勢神宮(外宮・内宮、別宮)では、20年に1度、隣の敷地にそのままの姿で社殿を建て替うて、ご神体を遷す式年遷宮と呼ばれる最大の祭典が行われます。式年遷宮は、飛鳥時代の持統天皇の世の690年から、1300年以上にわたって、続けられています。直近では、2013年10月に行われました。

 

ただし、その年のみ儀式があるのではなく、遷宮の年の7年前から数々の行事がこなされます。ご神体(神さま)が古い正殿から新しい正殿へと遷られるという最重要の儀式は、「遷御の儀」という儀式です。御神体(神さま)にお移りいただいた後、古い社は解体されます。また、建物だけではなく、装束や宝物などの道具も新調されます。「遷宮」とは、言わば、神さまのお引越です。こうした過程で、技術は、「見習いの職人⇒棟梁⇒後見人」というように面々と引き継がれていくことになります。そういう意味で、式年遷宮は、建築や製品の技術を次の世代に伝えていくと制度もあります。

 

これに対して、外国にも歴史的な宮殿がいくつもあります。例えば、ギリシャ神殿は2千年以上も建ち続けています。しかし、それを千年、二千年に1回を建て改めるとなったとしても、同じ建築をつくれる人はもういないと言われています。

 

 

<私幣禁断の制>

古来、伊勢神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りする、皇室にゆかりのある神社であることから、一般の人々は今のような自由な参拝はままなりませんでした。そのことを象徴的に示す制度に、天皇以外の幣帛(へいはく)(=食べ物以外のお供え物)を禁じる「私幣禁断(しへいきんだん)の制」がありました。幣帛(へいはく)とは、麻や木綿など食べ物以外の品を箱に入れてお供えすることで、伊勢神宮にお参りして、これらの品々を奉納できるのは(天皇の)「勅使」や「斎王」のみに限られ、個人は禁止されていたのです。

 

この私幣禁断(しへいきんだん)の制の「伝統」から、一般の人が伊勢神宮をお参りする時、「個人的な願い事をしてはいけない」と言われています。伊勢の神宮は、天皇が天照大御神さまの前で、国民と国家安寧のための公的な祈りの場であるので、「個人的な願いをかなえようと手を合わせて祈ってはいけません」となったのですね。ですから、現在も外宮・内宮の正殿の前には、「おさい銭箱」はありません。もっとも、皆がお賽銭を投げ入れるので脇に「箱」が置かれるようになったそうです。

 

<伊勢詣で>

もっとも、私幣禁断の制によって、一般の人々の参拝までも禁止されたわけではありませんでした。ですから、勅使のお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに伝えられていくうちに、次第に神宮の存在が広く知られるようになったと言われています。平安時代の後半には、神嘗祭に「千万人」、鎌倉時代中頃には外宮遷宮に「幾千万」と文献には残されているように、神宮への参向者は年々増えていったようです。

 

江戸時代になると、全国に伊勢信仰が広がり、「お伊勢まいり」が流行するほどでした。この伊勢ブームに大きな功績があったのが御師(おんし)と称される人々です。伊勢の御師とは、神宮の外宮と内宮に所属して、参詣者の様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とする一種の下級神職でした。仏教の檀家制度に近く、檀家にお神札の頒布や祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をしたり、御神楽を行ったそうです。江戸の全盛時代には、二千人あまりの御師が活躍し、伊勢の外宮方面(山田)と内宮方面(宇治)に、御師の館が1,000軒あったと言う説もあるくらいです。ただし、御師制度は明治時代に廃止されてしまいました。

 

このように、伊勢神宮は、一生に一度は伊勢参りと言われるくらい、人々に定着していったのでした。しかしながら、天皇は、江戸時代まで、皇室の祖である天照大御神を祀る伊勢神宮を参拝したことはなかったという驚くべき事実があります。(続)

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