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2020年07月08日

皇室:香淳皇后例祭/節折の儀・大祓の儀

新型コロナ感染症拡大に揺れる中、天皇陛下のご動静についてのニュースは減ってしまった感がありますが、6月には二つの宮中行事に臨まれていました。一つは、昭和天皇のお后の香淳皇后(こうじゅん)の逝去から20年に当たり行われた「香淳皇后二十年式年祭の儀」で、もう一つが、半年ごとに実施される祓いの祭儀、「節折の儀」と「大祓の儀」です。

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<香淳皇后例祭>

 

香淳皇后例祭は、昭和天皇の后(きさき)でいらっしゃた香淳皇后(こうじゅん)を偲び逝去(せいきょ)された6月16日に行われている宮中行事です。2020年は逝去から20年にあたり、「香淳皇后二十年式年祭の儀」が皇居と、武蔵陵墓地にある武蔵野東陵(東京都八王子市)で行われました。

 

皇居の宮中三殿では、「皇霊殿の儀」が執り行われ、装束姿の天皇皇后両陛下が拝礼され、陛下は御告文(祭文)を読み上げられました。また、秋篠宮ご夫妻ら皇族方も参列されました。

 

一方、香淳皇后の武蔵野東陵では、「山陵に奉幣の儀」が執り行われ、天皇陛下の使者が玉串をささげた後、上皇ご夫妻の側近が代拝(上皇ご夫妻は欠席)されました。続いて参拝服でマスクをした秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さまがそれぞれ拝礼されました。

 

  • 香淳皇后

香淳皇后は、1903年(明治36年)3月に久邇宮邦彦王(くにのみや-くによしおう)の長女として生まれ、良子(ながこ)と名付けられました。「久邇宮家」は、戦後に皇籍を離脱した宮家の1つでした。

 

1919年6月10日に皇太子裕仁親王との婚約が内定しましたが、時の権力者、山県有朋が、母方に色覚異常(色弱)があるとの疑いをかけ、結婚に反対し、婚約を取り消そうとしました(「宮中某重大事件」と呼ばれた)。しかし、山県の死後、「事件」は沈静化し、1924(大正13)年1月、無事結婚されました。

 

お二人は、お子様には恵まれ、2男5女が誕生されています。香淳皇后は、四人の内親王(一人は天折)を出産されましたが、親王に恵まれず、側室復活の声もあがったと言われています。しかし、昭和天皇はこれを固辞され、1933(昭和8)年12月、明仁親王(現、上皇陛下)が誕生されました(次男は常陸宮さま)。

 

戦争中、香淳皇后は昭和天皇と共に皇居にとどまり、靖国神社参拝や傷病兵慰問などを行われたと伝えられています。戦後、昭和天皇の公務に同行し、多忙な天皇を支えられました。昭和天皇とともに国民に溶け込もうとされ、その屈託のない笑顔から、当時は「国母」と慕われました。

 

2000(平成12)年6月、満97歳で崩御され、香淳皇后の誼号(しごう/おくりごう)を受けられ、武蔵野東陵に葬られました。諡(おくりな)の「香淳」は、日本最古の漢詩集『懐風藻』からとられたと言われています。

 

 

★☆★☆

 

<節折(よおり)の儀>

 

天皇陛下は、6月30日、皇居・宮殿の「竹の間」で、まず「節折(よおり)の儀」に臨まれました。この宮中行事は、天皇のために行われる、竹を使った祓いの儀式で、半年に一度、6月末と12月末に行われます。その起源は9世紀後半から10世紀の頃とされています。

 

「節折(よおり)の儀」は、かつて「御贖(みあがもの)の儀」として行われていました(貞観末年(867)頃に「御贖(みあがもの)の儀」が行われたとされる)。御贖物(みあがもの)とは、天皇や中宮の身柄(みがら)に代わって、罪や汚れを背負わせて除去し祓ういます。儀式では、御服(ごふく)・御麻(みぬさ)、御竹・御壺を、御贖物(みあがもの)を用いて行われます。

 

この儀式での天皇の所作や道具は、明らかではありませんが、平安時代に源高明によって撰述された朝廷儀式などのしきたりを記した書である「西宮記(さいきゅうき)」などによれば、次のように推測されています(「天皇のまつりごと」(所功著)、「國學院大學伝統文化リサーチセンター資料」も参照)。

 

  • 御服(ごふく)に、気息(きそく)を着す

御小直衣に金巾子の御冠を被って出御された陛下に、侍従から御服の呂の蓋(ふた)が開けて差し出され、それに陛下が口気を三度吹き入れられます。

 

  • 御麻(みぬさ)で体をなでる

侍従から御麻を受け取られ、陛下は、その御麻で体を三度撫でられます。

 

  • 竹で体をはかる

掌典職の賞典から御竹9本を受け取った侍従が、初めの長い一本で、陛下の背丈を測り、竹に筆で墨の印をつけ、それを下げ渡された掌典補が墨印のところで折ります。同様に次の二本で、陛下の胸から指先まで、次の二本で左右の膝から足元までを測って、それぞれに竹に墨印をつけます。それらを下げ渡された掌典補がそれぞれ印の所で竹を折り、櫃に納めます。

 

なお、「節折(よおり)の儀」の名前の由来は、御身の長さに御竹の節を折るところからきています。ちなみに、「節(よ)」は竹の節と節の間のことです。

 

  • 壺に口気を放つ

侍従から受け取った御壺に陛下が口気を三度吹き入れられます。

 

この一連の儀式が、二度繰り返して行われます。最初の儀式を「荒世(あらよ)の儀」といって荒御魂の御身(荒世)を祓い清め、二回目を「和世(にこ)の儀」と呼び、魂の御身(和世)を祓い清めると解されています(神道では、神には荒魂と和魂の両面の性質があると考える)。

 

このように、「節折の儀」は、天皇といえども、日々の生活の中で、無意識のうちに積んでしまわれるケガレ(穢れ)を祓い清めるものです。

 

 

<大祓(おおはらい)の儀>

 

天皇のための「節折の儀」に続き、この日、皇族方や国民のためのお祓いの儀式である「大祓(おおはらい)の儀」も行われました。場所は、皇居内の宮中三殿に付属する神嘉殿(しんかでん)前庭で、皇族方を代表して秋篠宮さまが参列されました。

 

「大祓の儀」に参列する成年皇族はかつて、慣例として、成年男性の「親王」に限られていましたが、皇族方の減少などを背景に、2014(平成26)年6月、成年女性も含む「皇族」に広げられるという、慣例が改める発表が宮内庁からありました。同年12月の大祓の儀には、秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまが女性皇族としては66年ぶりにご参列されました。これまで、昭和23年に、体調不良となった高松宮に代わって高松宮妃が参列したり、戦前は親王以外の男性皇族が参列したりした例もあったそうです。

 

もともと、大祓(おおはらえ、おおはらい)は、日本の神道儀式の祓の一つで、毎年6月と12月の晦日(みそか)に行われ、6月30日に行われる大祓は夏越大祓、または水無月大祓とも呼ばれます。

 

大祓は、記紀の中の伊邪那岐命(イザナギノミコト)の禊祓(みそぎはらい)が起源とされ、国の儀式として受け継がれました。平安時代の延喜式には四時祭(しじさい)(四季にわたって定期的に行わる祭儀)になった記されています。現在でも、多くの神社で同じ日に「大祓」の祭りが行われています。

 

 

<参照>

香淳皇后しのび二十年式年祭 両陛下、皇居で拝礼

(2020/6/16、時事通信)

「国母」と慕われた香淳皇后 崩御から20年…

(2020/6/25 、FNNプライムオンライン)フジテレビ 解説委員 橋本寿史

6、12月の「大祓の儀」ご参列 女性皇族にも拡大

(2012年6月10日産経新聞)

 

知っておきたい豆知識 | 年中行事と神社 | 神道青年全国協議会

國學院大學伝統文化リサーチセンター資料

「天皇のまつりごと」所功著

Wikipediaなど

 

 

 

2020年06月21日

皇室:仁徳天皇「民のかまど」とシラス政治

(本投稿は、2019年7月10日にアップした「仁徳天皇『民のかまど』の故事」を加筆したものです。)

 

2019年7月に世界文化遺産に登録された「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」の中の代表格と言えば、世界最大の前方後円墳として知られる「仁徳天皇陵古墳」です。第16代の仁徳天皇(257~399年?)は、徳政・仁政を行ったことで知られています。そのことを示すエピソードが、「民のかまどの逸話」です。

 

 

  • 民のかまどの逸話

 

★☆★☆★☆

仁徳天皇の四年、天皇が、高台(たかどの)に登り四方の国を見て言いました。
「国の中に釜戸の煙が出ていない。民が貧しくて家に飯を炊く者がいないのではないか?五穀が実らないで、国中のものは困窮している。都がこの有様だ、地方はもっとひどいであろう」と仰せられ、「これから三年の間、すべての人民の課役(えつき)(課税と使役)を免除し、民の苦しみを和らげる」と詔(みことのり)されました。

 

この日より、天皇は粗い絹糸の衣服を召され、傷んでも新調されず、食事も質素にされ、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理されず、風や雨がその隙間に入って衣服を濡らしました。星の光が破れた屋根の隙間から漏れて、床を照らしていました(という有様にも堪え忍び給いました)。

 

季節が巡り、天皇が再び、高台の上に居て、国の中を見ると、国中に釜戸の煙がたくさんと登るようになりました。この様子をご覧になった天皇は、かたわらの皇后に申されました。

「朕(ワレ)は、既に豊かになった。憂いは無い」

 

皇后は答えて言いました。
「どうして豊かになったと言えるのですか?」

天皇は答えました。
「(かまどの)煙が国に満ちている。民は豊かになっている。」

 

皇后はまた言いました。
「宮垣(みかき)は崩れ、殿屋(おおとの)は破れているのに、何を豊かだというのですか」

 

「よく聞けよ。天下を治める君主(天皇)が立つのは民のためだ。政(まつりごと)は、民を本としなければならない。だから古(いにしえ)の聖(ひじりの)王(きみ)は一人でも飢え凍えるときは、自らを省みて責めたものだ。いま、その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ。」天皇は、このように申されました。

 

六年の歳月がすぎた仁徳天皇の10年、「民は豊かになった」と判断された天皇は、ようやく課役(税と使役)を科され、宮室(おおみや)の修理を行われました。3年の間、全ての課役を免除された仁徳天皇に感謝した民は、その気持ちを示しました。その時の民の様子を「日本書紀」は次のように記しています。

 

「民、うながされずして、老いた人を助け、幼い子を抱え、材木を運び簣(こ)(盛り土を運ぶための篭)を背負い、日夜をいとわず力を尽くして競い作る。いまだ幾ばくを経ずして宮室ことごとく成りぬ。」

★☆★☆★☆

 

こうして、仁徳天皇の治世は人々に讃えられ、聖(ひじりの)帝(みかど)の世と言われたと現代にも伝えられています。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野の陵(みささぎ)に葬(そう)されました。

 

「民のかまどの逸話」は、理想的な君主としての代表である仁徳天皇がなされた「民を思いやる徳の政治」という日本の理想的な政治スタイルの事例として語り継がれていくべきものです。

 

 

  • 「シラス」と「ウシハク」

 

この「民を思いやる徳の政治」は、「古事記」の中でも、統治の形として「シラス」という言葉でも示されています。出雲神話で、天照大神の使者、建御雷神(タケミカヅチ)が、天照大神のみ言葉として、大国主神に国譲りを迫る場面です(詳細については、記紀「国譲り」を参照)。

 

汝のウシハケる、この葦原の中つ国は、わが御子のシラス国なるぞ

汝が領有するこの国(葦原の中つ国)は、わが御子が治める国である

 

「ウシハケる」は「ウシハク」、「領(ウシハ)ク」で、「領有する、支配する」という意味です。これは、西洋型の統治手法であり、戦いに勝った者が私有(所有)することを意味しています。

 

これに対して、「シラス」とは「治(シラ)ス」、または、「知(シラ)ス」と書き、神や民の心を知りながら、国を「治める」ということを意味しています。古事記の原文でも「知國(国)」となっています。国を治める天皇と民が一つになった「君民一致」の政治の理想が、古事記では、「シラス」という言葉で示されているのです。「治(シラ)す」政治の具体的な事例として、仁徳天皇の「民のかまどの逸話」があると位置づけることができます。

 

 

  • 帝国憲法第1条にも…

 

なお、近代に入って、「治(シラ)す」の政治を統治理念に掲げようとした人物がいました。それは、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者の一人である井上毅です。

 

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

(大日本帝国は、万世一系の天皇が統治する)

 

これは、帝国憲法第1条ですが、井上毅の草案は次のようになっていました。

 

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス所ナリ

(大日本帝国は、万世一系の天皇が治す(治める)ものである)

 

井上毅は、近代日本を世界に示すためにも、古来から継承されてきた日本の統治形態を「治(しら)す」という言葉を使って表そうとしたのですね。日本の古き良き「シラス」政治を語っていくためにも、仁徳天皇の「民のかまどの逸話」を多くの人々に知ってもらいたいものです。

 

大日本帝国憲法第1条については、次の機会に解説してみたいと思います。

また、仁徳天皇については、投稿「仁徳天皇陵は、仁徳天皇のお墓でない!?」も参照下さい。

 

 

<参照>

古事記 – 日本神話・神社まとめ

日本書紀 – 日本神話・神社まとめ

Wikipediaなど

 

 

2020年06月16日

伝承:能登にモーゼの墓がある!?

 

前回の投稿で、「青森にキリストの墓がある!?」として、イエス・キリスト伝説を紹介しましたが、実は石川県にも旧約聖書の「十戒(じっかい)」で有名なモーゼの伝説があります。「モーゼはシナイ山に登った後、天浮船(あまのうきふね)に乗って能登宝達に到着。583歳の超人的な天寿を全うした」というイエスに勝るとも劣らない驚愕の伝承が残されています。

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  • モーゼパーク!?

 

モーゼの墓があるとされる場所は、能登半島の最高峰・宝達山の(最高峰と言っても標高637m)、石川県の羽咋郡(はくいぐん)西側のふもとにある宝達志水町(ほうだつしみずちょう)という所です。

 

モーゼの墓は「モーゼパーク」の名前で、公園として自治体によって整備され、観光地化しています(正式名称は「伝説の森モーゼパーク」)。公園からモーゼの墓へは、遊歩道でつながり、10分ほど上ると、「三ツ子塚」と呼ばれる古墳群が見えてくるそうです。モーゼの墓と目されている所は、「三ツ子塚古墳(正確には「河原三ツ子塚古墳群」)」という正式な古墳なのです。しかも、石川県の埋蔵文化財になっています(もっともモーゼの墓だからという訳ではないとのこと)。

 

古墳時代中期のものと推定されるこの古墳群は、全部で10基の円墳が確認されていますが、このうち、3基の古墳がひときわ大きく(名前のごとく3つの墳墓が並んでいる)、モーセの墓といわれるのは、真ん中に位置し、一番大きな2号墳の上に立てられています。古墳の頂上へ行くと、「神人モーセロミユラス魂塚(モーゼ大聖主之霊位)」と墨書かれた古びた柱(木の墓標)がひっそりと立っているそうです。ちなみに残りの2つの墳墓は、妻である皇女と孫のものであるとされています。

 

地元の人たちは、本気でこのモーゼの墓伝説を信じているとは思われませんが、人口が少なく、産業もない当時の押水町(現、宝達志水町)が町おこしの一環として、「モーゼの墓伝説」に着目したとみられています。1993年、押水町商工会は、宝達山の三ツ子塚古墳群を「伝説の森・モーゼパーク」として整備したことから、観光スポット(珍スポット)として、三ツ子塚古墳のモーゼの墓が知られるようになったというのが現実的な話しのようです。

 

では、この「モーゼの墓の伝説」の根拠は何かと言えば、「キリストの墓が日本(青森県)にある」と書かれた同じ古文書「竹内文書」です。

 

 

  • 竹内文書のモーゼ伝説

 

モーゼ伝説は、モーゼがシナイ山から、天浮船(あまのうきふね)(天空浮船(あめそらうきふね)ともいう)に乗り、日本の能登半島にやってきたというところから始まります。ちなみにイエスが最初に到着した場所も、能登半島でした。

 

乗ってきたのが大船ですので、実際は、「宝達山水門」にたどり着いたとされています。現在、宝達山は海から8km内陸にあり、船着き場(宝達山水門)はないのですが、大昔は海の底で、宝達山のふもとまで海が迫っていたことは、地質学上、近くの地名(「敷浪」と「敷波」)などから、事実である可能性がないことはありません。一方、天浮船は、船ではなく、古代世界に存在した超高速の飛行船という見方もあります。中に、それは、UFOであるという説まで飛び出しています。

 

いずれにしても、時は、今からおよそ3430年前、不合朝(あえずちょう/ふきあえずちょう)・第69代・神足別豊耡(カンタルワケトヨスキ)天皇の時代と言われています。不合朝なんて聞いたことがないという方も多いと思いますが、竹内文献などの古文書には、神武天皇まで73代続いた王朝(不合朝)があった記されています(この時代の天皇のお話はまた別の機会に)。

 

さて、能登に到着したモーゼは、その後、日本に12年滞在し、日本の「神道」の修行に励んでいたと言われています。モーゼがシナイ山で神から授かったとされる十戒(じっかい)(唯一神の信仰、偶像崇拝の禁止など10箇条の戒め)も、竹内文書では、この期間中、能登の宝達山で授かったとされています。

 

より正確には、時の天皇に拝謁したモーセは、天皇に十戒を彫り込んだ「十戒石」を献上し、承認を待っていたそうです。しかも、その間、天皇の第一皇女である大室姫(おおむろひめ)を妻に迎えたとされています。

 

やがて天皇から十戒の承認を得たモーセは、再び天浮船(天空浮船)に乗って宝達山を出発し、イタリア・ボローニャ地方を経由してシナイ山に渡りました。そこで、十戒を世界に広めたのでした。

 

旧約聖書では、モーゼは、同胞のユダヤの民衆を、エジプトからイスラエルの地へ導いた後、シナイ山に登って、神から十戒を授かると書かれていますが、竹内文書では、シナイ山に上った後、そこから、天浮船に乗って、1万kmも離れた能登宝達(宝達山)に再び戻ってきたというのです。

 

そこで、583歳という超人的な天寿を全うし、最期は宝達山のふもとにある三ツ子塚(みつこづか)に葬られたと語られています。それが現在も宝達志水町に残されている伝説の森・モーゼパークのモーセの墓なのです。

 

 

  • いくつかの繋がり

 

モーゼの墓は、キリストの墓と比べると、竹内文書以外の客観的な状況証拠が明らかに少ないと指摘されていますが、いくつか興味深い逸話は残されています。

 

モーゼが降り立ったという宝達山の頂に手速比咩神(てはやひめ)神社があり、そこには、エジプトのスフィンクスに似たこま犬が置いてあるそうです。エジプトは、モーゼがイスラエルの民を脱出させた(出エジプト)という有名な旧約聖書の話しがあるように、モーゼと深い関連がある地です。また、同じ宝達山にある宝達神社には、天皇家の「菊の御紋」が掲げられていたと言われています。

 

また、能登半島周辺には、平林(へらいばし)という地名がありますが、その読み方は通常、「ひらばやし」です。しかし、そこではヘブライを連想させる「へらいばし」と読まれているそうなのです。ただし、地元の方たちに尋ねると、たしかに、「平林」という地名は実在していますが、「へらいばし」という読みはしないという声が多いようです。

 

 

  • GHQも調査

 

こうしたモーセ伝説を聞きつけたマッカーサーのGHQ(連合国軍総司令部)が塚を掘り起こして、戦後のある時、発掘調査も行なっています。そのときの調査では、墓の近くの石灰山で、膝からくるぶしまで約75センチもある異常に大きな人骨が発掘されたとも伝えられています。モーゼの身長は2メートルもあったといわれており、発掘された人骨がモーセのものであった可能性がないわけでもありません。

 

また、古代に使われていた土器のつぼや、異国風の兜などが発掘されたと言われています。実際の調査の真相については、発掘は極秘に行われ、その内容は一切不明だとされています。もっとも、当時の証言によれば、アメリカ兵たちは、地元の人たちにアルバイト料を払って発掘に協力してもらったそうで、極秘というわけでもなく、また、調査の結果、人骨がでたという話しはなかったと言われています。

 

宝達志水町の隣の羽咋(はくい)市は、「UFOの町」として、愛好家の間で有名な場所です。能登半島の周辺は、ミステリーゾーンとして、何かあるのかもしれません。

 

なお、モーゼは、一般的にはモーセまたはモーシェという記載が多いようですが、地元では「モーゼパーク」とあるように、モーゼとなっていますので、この投稿ではモーゼで統一しています。

 

 

<参考>

宝達志水町「伝説の森公園(モーゼパーク)」

伝説の聖者が日本に眠る「モーセの墓」

宝達山の謎~モーセの墓と竹内文書~(ベネディクト地球歴史)

「モーゼ583歳 能登に眠る?…」『中日新聞』(2010年11月6日)

Wikipediaなど

 

2020年06月14日

伝承:青森にキリストの墓がある!?

6月7日、青森県三戸郡新郷村で行われる予定であった地元の恒例行事「キリスト祭」は、コロナウィルスの感染拡大の影響で中止となりました。

 

今回のこの投稿では、単に青森の伝統行事をお伝えするのではなく、このキリスト祭(キリスト慰霊祭)が、実はふつうは想像できない伝承に基づいて50年以上行われているという事実を紹介し、日本の伝承・伝説の奥深さの一端を垣間見たいと思います。

――――

 

イエス・キリストと言えば、「十字架に磔(はりつけ)にされて処刑された後、復活した…」というのが、全世界のキリスト教徒にとっての常識ですね。ところが、もし、青森県の南端、十和田湖の東に位置する三戸郡新郷村(しんごうむら)に「キリストの墓が存在する…、イエスは、ゴルゴダの丘で処刑されずに、密かに日本に逃れ、新郷村で、天寿を全うした…」と言われたら、彼らはどう思うでしょうか?このあまりにも突拍子のない伝承と奇祭が、青森県三戸郡新郷村にはあるのです。

 

 

  • キリスト渡来説

 

ユダヤ人のイエスは、21歳の時に、能登半島に上陸し、越中で12年間修行されました。時は、第11代の垂仁天皇の時代(前29~後70年)でした。

 

修行を終えたイエスは、33歳の時にユダヤの地に戻り、神の教えを広めましたが、迫害にあって磔刑(たっけい)に処されそうになりました。しかし、実際に十字架の上で処刑されたのは、身代わりとなった弟のイスキリだったのです。

 

数人の弟子とともにひそかに姿をくらましたイエスは、シベリアを横断し、アラスカを経由して現在の青森県八戸市に上陸して、戸来村(へらいむら)(今の新郷村)に居を定めました。

 

イエスはこの村の山奥で、天狗と呼ばれながら生活を続け、106歳で天寿をまっとうしました。一説には、妻子ももうけた、最後は漢字とカタカナで遺書を書き残したとも言われています。

 

 

  • キリスト慰霊祭

 

こうした伝承に基づいて、1935(昭和10)年、青森県の新郷村(旧戸来村)には「キリストの墓」が「発見」され、塚の上に十字架が建てられています(正確にはイエスと弟のイスキリのために2つの十字架が建てられている)。

 

このイエス・キリストの霊を慰める「キリスト御霊祭(キリスト祭)」が、1964(昭和39)年から毎年、6月の第一日曜日に、キリストの墓周辺の「キリストの里公園」で開催されています。2020年は、第57回目のキリスト祭が行われるはずでした。

 

儀式(慰霊祭)そのものは90分程度で終了します。十字架の立った「キリストの墓」の前で、神官による祝詞(のりと)の奏上から始まります。キリスト教の聖職者ではなく、村で由緒ある戸来三嶽(みたけ)神社の宮司が祝詞をあげ、列席者による玉串奉奠(たまぐしほうてん)が行われます。初回は、キリスト教式でしたが、その後神式となったそうです。

 

続いて、笛と太鼓の演奏のなか獅子舞が舞い踊った後、盆踊りの奉納があります。キリストの墓の周りを踊ります。この盆踊りは、「ナニャドヤラ」と呼ばれる青森県に伝わる踊りで、浴衣姿の女性たちが中心となって、「ナニャドヤラ~・ナニャドナサレノ・ナニャドヤラ~…」と歌うのですが、歌詞の意味は不明なのだそうです。柳田國男や金田一京助は、「方言のくずれたもの」と説明したとされていますが、ある学者がヘブライ語に当てはめてみたところ、「おまえの聖名をほめたたえん おまえに毛人(えみし)を掃討して おまえに聖名をほめたたえん」とつながったそうです(「おまえ」の訳出が適切かどうかは疑問)。

 

 

  • エルサレム市も認知!?

 

新郷村は、イスラエルのエルサレム市と友好関係にあます。2004年(平成16年)6月6日の第41回キリスト祭には、エルサレム市から友好の証として、縦25センチ、横70センチのエルサレム・ストーンと呼ばれる大理石(石版)が寄贈され、2つの十字架の間に埋め込まれています(エルサレム・ストーンとは、エルサレム市街の建築物外壁で建材として広く使われている白い石灰岩のこと)。表面にはヘブライ語で「この石はイスラエル国、エルサレム市と新郷の友好の証としてエルサレム市より寄贈されたものである」と刻まれ、除幕式には、驚くべきことに、イスラエル駐日大使も出席されました。大使の参列ということは、イスラエル政府もキリスト伝承を認めたということなのでしょうか?

 

 

  • 「キリストの墓」のルーツは竹内文書

 

ただし、キリストの墓は、新郷村が2000年以上にもわたり「キリストの墓」を守ってきたわけではありません。前述したように、新郷村でキリストの墓が発見されたのは、1935(昭和10)年の話です。

 

この時(8月)、竹内家の当主、竹内巨麿(皇祖皇大神宮天津教の開祖)が、古代史研究家らを引き連れて、当時の戸来村(今の新郷村)を訪れてきました。茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家には、竹内文書と呼ばれる古文書が伝えられています。その中に、「ゴルゴダの丘で磔刑になったキリストが実は密かに日本に渡来し、新郷村で一生を終えた」との記載があり、一行は調査のために来たのです。

 

すると、小高い丘のやぶの中の笹に埋もれていた塚が発見され、これがキリストの墓と「断定」されたことから、キリスト伝説が生まれました(正確には、2つの土盛りを見つけ、それぞれイエスとイスキリの墓とみなされた)。

 

 

  • 地域興しに一役

 

もちろん新郷村の人々が、キリスト伝説を真面目に信じているかはわかりませんが、この伝承は、観光客誘致など、地域興しという観点からある程度受け入れられていると思われます。だからこそ、1964(昭和39)年からキリスト祭が原則、毎年開催され(キリスト祭は旅行会社や新郷村自体が積極的に宣伝している)、住民もその墓を守っているわけですね。

 

また、「キリストの墓」の近くには、資料館として「キリストの里伝承館」が建てられ、竹内文書写本や「キリストの遺書」など関連資料が展示されています。さらに、現地へ向かう国道には、「キリストの墓」という標識まであれば、「キリスト・ラーメン」などキリストにちなんだ「特産品・土産物」も販売されています。

 

 

  • 神秘の村・新郷村

 

では、なぜ、キリストの墓が青森県の新郷村なのでしょうか?新郷村には、竹内文書以外にも、ユダヤ人やキリスト教に関連すると思われる逸話があります。

 

まず、新郷村の旧名、戸来村の「戸来(へらい)」という地名は、ユダヤを意味する「ヘブライ」が転化したものであると説や、新郷村では、父親をアヤまたはダダ、母親をアパまたはガガと呼ぶそうですが、これもアダムとイブがなまったものであるという見方があります。

 

また、新郷村では、幼子を初めて野外に出すとき額に墨で十字(十字架)を書くという風習や、足がしびれたときには額に十字を書く風習もあるそうです。

 

さらに、「ダビデの星」に似た五角形の模様を代々家紋とする家があります。その家の代表は、現地の沢口家で、「キリストの墓」が発見された当時の沢口家当主は青い目をしていて、背丈は185センチと大柄で、イエスの末裔(まつえい)とみられていたという言い伝えも残されています。

 

<ひと言>

そもそも「キリストの墓伝説」の根拠となった「竹内文書」は、現在では「偽書」と断定されています。ただし、通説とされていた歴史の見方に別の角度からスポットを当ててみようという本HPの趣旨のもと、とくに一方的に「偽書」とされている竹内文書のような文献については、別の機会にしっかりと検証してみたいと思います。

 

参考投稿:能登にモーゼの墓がある!?

 

<参照>

キリスト祭(日本観光振興協会)

キリスト祭とは?

(あおもり暮らし、青森県移住・交流ポータルサイトより)

イエスの墓? 新郷村の「キリスト祭」が完全に地元になじみきっている

(2015年6月8日、タウンネット青森県)

信じるかは貴方しだい!青森のパワースポット「キリストの墓」

(lineトラベル)

キリスト伝説を訪ねる 青森・新郷村 ロマンが観光の目玉

(2014年3月26日、日経)

「キリスト」ラーメンは青森・新郷村! 住民、墓守る

(2014/5/2、日経)

キリスト祭 幻想的な舞…青森県新郷村

(読売新聞オンライン)

民ゾクッ学「青森にキリストの墓」説

(2019/8/7、読売新聞)

Wikipediaなど

 

 

 

 

2020年06月08日

憲法:21条(表現の自由)はいかにして生まれたか?

これまでに、「表現の自由」が憲法でどのように保障されているかについて、日本国憲法21条と、それに対応する帝国憲法(明治憲法)第26・29条をみてきました。

 

今回は、日本国憲法21条がどのような過程を経て生まれたのかを見てみます。これまでに問題提起してきた「明治憲法『悪』、日本国憲法『善』」の構図は、GHQ(連合国軍総司令部)の占領期に確立されたという言い方も可能です。GHQの意図を探ることによって、日本国憲法21条をよりよく理解できるかもしれません。

 

そのためにも、日本国憲法設立の経緯についてまとめた投稿記事「『日本国憲法は10日間で書かれた』を考える」を是非読まれた上で、お進み頂ければと思います。

――――

 

  • 日本国憲法の「表現の自由」

 

第21

  1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
  2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 

「表現の自由」は、心の中で考えていることや感じたことを、言論や出版などを通して自由に外部に表わすことができる権利で、民主政の政治過程にとって不可欠な人権です。

 

第1項で、まず「集会の自由」と「結社の自由」、「言論の自由」と「出版の自由」を例示して認め、さらに、たとえ明言していなくても「その他一切の」表現の自由を保障しています。「その他一切」の中には、「表現の自由」を享受できるためになくてはならないメディアの報道や取材の自由、さらには国民の「知る権利」も含まれています。

 

また、第2項の前段では、検閲を表現の自由の最も重大な脅威とみなし、絶対的に禁止しています。公共の福祉を理由とする例外も認めない趣旨を明らかにしたものと解されています。なお、検閲とは、公権力(国)が、言論や出版などの表現活動を事前に検査し、不適当と判断する場合には発表を禁止したり、その内容などについて削除や訂正を求めたりすることです。さらに、第2項の後段では、私生活・プライバシー保護の一環としても重要な通信の秘密も保障しています。

(詳説については、「日本国憲法:まじめな解説 表現の自由21条」を参照)

 

このように、表現の自由を徹底して保障し、実際に運用されているのは、やはり戦前の日本において、表現の自由の侵害による著しい人権侵害があったからだとされています。もっとも、次のように帝国憲法においても表現の自由は保障されていました。

 

 

  • 明治憲法の「表現の自由」

 

帝国憲法 第29条

日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於(おい)テ 言論著作印行(いんこう)集会及結社ノ自由ヲ有ス

日本臣民は法律の範囲内において、言論・著作・印行・集会及び結社の自由を有する。

 

印行:印刷して発行すること

 

 

帝国憲法 第26条

日本臣民ハ 法律ニ定メタル場合ヲ除ク外(ほか) 信書(しんしょ)ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ

日本臣民は法律で定められた場合を除いて、通信の秘密を侵されることはない

 

信書:特定の個人にあてた通信文を記載した文書、手紙のこと。

 

しかし、「法律の範囲内において」という留保(条件)があり、法律によりさえすれば、通信の秘密を含む表現の自由は制限されました。戦前の治安警察法や治安維持法などの法律をみれば、わかる通りです。

(詳細については、「明治憲法:善意と悪意の解説 表現の自由26・29条」を参照)

 

とりわけ問題になったのが検閲でした。戦前、出版法、新聞紙法、映画法などに基づいて、内務省が書籍、新聞、映画などの表現物の検閲を行なっていました。制作者は特高警察に逮捕され拷問を受け、時には死に至らしめるということまでありました。このように、検閲は政府を批判する言論の抑圧に使われてきたのです。

 

こうした背景から、GHQは、表現の自由について、徹底した規定を盛り込んだと解されています。もっとも、GHQ自身も円滑な占領政策遂行のために、検閲を実施していたこともまた事実ですが…。

 

では、次に21条制定プロセスをみてみましょう。

 

 

  • 松本案とGHQ案

 

まず、GHQによる帝国憲法の改正要請(実際は指示)を受けて、当時の幣原内閣の憲法問題調査委員会(松本委員会)が出した政府案では、以下のような改正試案が出されていました。

 

帝国憲法29条改正案

日本臣民は言論、著作、印行、集会及結社の自由を有す、公安を保持する為必要なる制限は法律の定むる所に依る

 

帝国憲法26条改正案

日本臣民は其の信書の秘密を侵さるることなし、公安を保持する為必要なる制限は法律の定むる所に依る

 

松本案では、明治憲法の「法律の範囲内において(法律に定めたる場合を除くほか)」の部分を、「公安(治安)を保持するためだけに制限する」と変更されました。しかし、日本を民主化することが至上命令であるGHQからすれば、この程度の改正は不十分であるとして、次のようなGHQ(総司令部)案を出します。そこには、検閲禁止の規定なども加えられていました。

 

(GHQ案は、松本案に不服であったマッカーサーが、マッカーサー3原則に従って、GHQのスタッフにわずか10日あまりで書かせたもの。詳細は、投稿「『日本国憲法は10日間で書かれた』を考える」を参照)

 

GHQ案

  • 集会、言論および定期刊行物ならびにその他一切の表現形式の自由を保障する。検閲はこれを禁じ、通信手段の秘密はこれを侵すべからず
  • 結社、運動および住居選定の自由は一般の福祉と抵触せざる範囲内に於て何人にも之を保障する(以下略)

 

 

  • 日本政府の「3月2日案」と最終案

 

そこで日本側が起草した「3月2日案」では、「極端な風俗壊乱」を防ぐためであるという理由から「公共の安寧秩序」という文言を付記して「法律の留保」を復活させました。

 

(「3月2日案」とは、日本側はGHQ草案に原則として沿う形で案を練り直すことが求められ、3月4日にGHQに対してとして再提出した改正案のこと)

 

3月2日案(政府案)

  • すべての国民は安寧秩序を妨げざる限りにおいて、言論、著作、出版、集会及結社の自由を有す。検閲は法律の特に定むる場合のほかこれを行うことをえず。
  • すべての国民は信書その他の通信の秘密を侵さるることなし。公共の安寧秩序を保持するため必要なる処分は法律の定むる所による

 

 

しかし、その後、GHQ側との協議(審議)で、追加された「(公共の)安寧秩序」の規定は、「濫用のおそれあり」として、GHQ(総司令部)から拒否されました。こうして、最終的にできた帝国憲法改正案では、「法律の留保」の部分はすべて削除され、現行の21条とほぼ同じものになったのでした(結局、最初のGHQ案に戻された形)。

 

 

  • 日本国憲法21条のたたき台は?

 

ところで、表現の自由についての規定に関して、アメリカの合衆国憲法では、信教の自由と請願権とともにまとめて規定されていますが、日本国憲法21条で定めた「結社の自由」や、「検閲禁止」、「通信の秘密」についての規定はありません。

 

合衆国憲法修正第1

連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない

 

そうすると、GHQは、何を根拠に、GHQ案をあの短期間の間に起草したのかを考えると、ドイツのワイマール憲法がたたき台になったことが想定されます。ワイマール憲法は、当時、世界で最も民主的な憲法と評価されるともに、自由世界にあって最も社会主義的な憲法とも言われています。

 

ワイマール憲法117(通信の秘密)

信書の秘密ならびに郵便、電信・電話の秘密は不可侵である。例外はライヒの法律によってのみ、許される。

 

ワイマール憲法118(表現の自由一般と検閲の禁止)

各ドイツ人は、一般法律の制限内において、言語、文書、印刷、画面、図画または、その他の方法で、その意見を自由に表明する権利を有する。(後略)

検閲は行なわない。ただし、映画については、法律によって別段の規定を設けることができる。(後略)

 

ワイマール憲法123(集会の自由)

すべてのドイツ人は、届出または特別の許可なしに、平穏に、かつ武器を携帯しないで、集会する権利を有する。

 

屋外の集会は、ドイツの法律によって届出の義務あるものとなし、かつ、公共の安全に対して直接の危険があるときは、これを禁止することができる。

 

ワイマール憲法124(結社の自由)

すべてのドイツ人は、刑法に反しない目的のために、社団または組合を結成する権利を有する。(後略)

 

 

<参考投稿>

日本国憲法:まじめな解説 表現の自由21条

明治憲法:善意と悪意の解説 表現の自由26・29条

『日本国憲法は10日間で書かれた』を考える

 

 

2020年06月07日

明治憲法:善意と悪意の解説 表現の自由(26・29条)

前回の投稿で、日本国憲法21条(表現の自由)を解説しました。では大日本帝国憲法(明治憲法)では表現の自由は認められていたのでしょうか?もちろん、帝国憲法でも表現の自由を定めていました。今回は、日本国憲法21条に対応する帝国憲法29条と26条について解説します。

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帝国憲法第29(言論・出版・集会・結社の自由)

日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於(おい)テ 言論著作印行(いんこう)集会及結社ノ自由ヲ有ス

日本臣民は法律の範囲内において、言論・著作・印行・集会及び結社の自由を有する。

 

印行:印刷して発行すること。

 

<悪意の解釈>

明治憲法においても、言論、著作、刊行、集会、結社の自由という、日本国憲法でも規定されている「表現の自由」が保障されていました。しかし、「法律ノ範囲内ニ於(おい)テ」という条件(=これを「法律の留保」という)をつけることで、法律によって、表現の自由を制限できるようにしました。

 

実際、治安警察法(1900)や治安維持法などの治安立法によって、国体(天皇主権の国家体制)の変革や共産主義思想の波及を目的とした言論や集会活動などが厳しく弾圧されました。また、出版の自由に関しても、「出版法」(1893年)、「新聞紙法」(1909年)という法律が定められ、当局の判断で、書籍や新聞は販売頒布(はんぷ)禁止処分(発禁)にされることが相次いだのです。

 

 

<善意の解釈>

帝国憲法において、表現の自由が保障された背景には、言論、著作、図書の刊行、集会、結社の自由を認めて、人々の意見交換を活発させることは、社会の進化のために有益であるという考え方がありました。

 

しかも、「法律の範囲内において」との条件(「法律の留保」)を設け、表現行為も、罪悪を行ったり、治安を妨害したり、また、他人の栄誉や権利を侵害するような行動である場合には、公共秩序の維持のために、法律による処罰もあることを規定しています。そうした法律があることで、社会の進化のための言論、著作、図書の刊行、集会、結社といった表現活動が可能になることが期待されたのでした。

 

さらに、「法律の留保」に関して、帝国憲法起草者、伊藤博文は「こうした制限は必ず、議会の法律によって定めなければならず、政府の行政命令の範囲外でなければならない」と述べ。政府による恣意的な(勝手な)「表現の自由」への干渉がないように、表現の自由に対する制限は、臣民(国民)の代表者による議会が作る法律だけが行えると説明しています。

 

しかしながら、伊藤の願いも空しく、後の政治家たちは、「法律ノ範囲内ニ於(おい)テ」という法律の留保を悪用し、批判されるような事態を引き起こしてしまいました。本条の理想とは裏腹に、その運用は失敗に終わったのです。

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帝国憲法第26条(信書の秘密)

日本臣民ハ 法律ニ定メタル場合ヲ除ク外(ほか) 信書(しんしょ)ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ

日本臣民は法律で定められた場合を除いて、通信の秘密を侵されることはない

 

<悪意の解釈>

確かに、表現の自由の一つである信書(特定の個人にあてた通信文を記載した文書、手紙のこと)の秘密が保障されていますが、帝国憲法29条と同様、「法律に定めたる場合を除くほか」と「法律の留保(条件をつけること)」があり、法律で定めれば、信書の秘密をいくらでも制限することはできます。

 

これに対して、日本国憲法では、表現の自由の規定の中で、文言上は、留保をつけることなく信書(現行憲法では「通信」)の秘密を保障しています。

 

日本国憲法第21条②

検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。

 

 

<善意の解釈>

帝国憲法によって、近代文明の恩恵の一つである信書の秘密が保障されるようになりました。「法律ニ定メタル場合」とは、刑事上の捜索や戦時、事変、その他、法律に定めたる場合を指し、それ以外は、行政府が、個人の信書を開封したり破棄したりするような信書の秘密を侵すことを許さないことを定めています。

 

ですから、本条の場合も、議会で作られる法律が、国民の人権(ここでは信書の不可侵)を政府から守ってくれます。日本国憲法でも、信書(現行憲法では「通信」)の秘密を保障していますが「法律の留保」がありません。「法律の留保」があった方が、逆に政府からの干渉や圧力を排し、人権保障を確かなものにすることができます。

 

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<参考投稿>

日本国憲法 まじめな解説 表現の自由(21条)

 

私たちは学校教育を通じて、「明治憲法『悪』、日本国憲法『善』」という構図を徹底的に教えられてきた観があります。既存の考え方に疑問を呈してみようという本HPの趣旨に沿って、大日本帝国憲法(明治憲法)については、「善意の解釈」も紹介して、これからできるだけ中立的な立場で解説していきたいと思います。

 

明治憲法は、伊藤博文ら明治の元勲らの英知の結集で出来上がったものです。学校で教わったような単純に「戦争に導いた『悪い憲法』」とは言い切れません。おそらく、19世紀後半の日本の状況から判断して、帝国憲法(明治憲法)は、最高傑作でしたが、結果的に運用に失敗したのではないでしょうか?

 

 

2020年06月06日

日本国憲法:まじめな解説 表現の自由(21条)

ネット上(SNS)で誹謗中傷を受けた人が自殺に追いやられてしまう事件が、社会問題化しています。これを受けて、政府は、インターネット上の発信者の特定を容易にするための制度改正を検討する姿勢を示していますが、SNS規制については、表現の自由を侵害することになるとか、特に、安倍政権側が政治的言論の封殺に利用する恐れがあるとかの反対意見も出ています。

 

そこで、今回は、憲法で、「表現の自由」がどのように規定されているのか、日本国憲法21条を解説してみたいと思います。

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日本国憲法第21条(表現の自由)

① 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。

 

表現の自由とは、思想・意見を自由に発表することができる権利で、「表現」行為とは、以下のような形態別に分類されます。

  • 演説、演奏、芝居などのパフォーマンス
  • 書籍、新聞、雑誌などの文章による表現
  • 絵画、写真、映画などビジュアル表現

 

では、「表現の自由」が保証される意義とは何でしょうか?憲法学では、自己実現の価値と自己統治の価値が保証されるという難しい説明をします。

 

自己実現の価値とは、思想・言論の自由が確保されていてこそ(言論活動を通して)、人間は各自の人格を発展させられるという考え方で、表現の自由は、個人の人格の形成・発展のために必要と考えます。

 

自己統治の価値とは、表現の自由が保障されることによって、民主主義を維持・発展されることができるというものです。仮に不当な法律が成立しても、新聞記事やテレビ報道などが、さまざまな表現の自由を行使することによって、有権者である私たちは、選挙の際、不当な法律を成立させた国会議員らを落選さたり、法律を改正するように働きかけることができます。人格を高めた個人が社会に参加すれば、各種の表現を通して得た情報をもとに判断し、行動することによって、民主主義を発展させることができるというわけですね。

 

 

<21条1項>

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

  • 集会、結社の自由

21条は、最初に集会と結社の自由を保障しています。

 

集会の自由

集会とは、共同の目的をもって一定の場所に集まることを言います。ただし、集会の自由が認められているからといって、建物や空き地などの所有者が、集会のためにそれらを提供すべき義務を負うわけではありません。

 

結社の自由

結社とは、共同の目的をもって、組織や団体を作り結合することを言います。結社の自由に関しては、一定の職業(弁護士会、税理士会)について、結社を強制したり加入を強制されたりしていることも認められています。

 

では、動く集会と言われる集団行進(デモ行進)の自由はどうなのでしょうか?

 

集団行進(デモ行進)の自由

デモ行進は、参政権的意義があり、一般市民が情報の送り手となる数少ない場として、表現の自由の一形態(「その他一切の表現の自由」)として認められています。

 

ただし、集会や集団行進は、多数人の集合という特質から、社会に及ぼす影響が大きいものです。ですから、国民の社会生活上の利益(ex.「静かにして欲しい」)を考慮して、事後的な規制よりも制約の程度も大きい「事前」の規制が許容されています。

 

そこで、議論となったのは、地方自治体が作る法令の一つである公安条例による規制は合憲か違憲(21条に反する憲法違反)かということでした。

 

公安条例では、公共の場所で集団行動を行う場合において、事前に公安委員会の許可を必要とすると定められています。

 

結論は合憲(公安条例で規制をしても、表現の自由の侵害にならない)です。ただし、公安条例による規制の手段は原則として届出制でなければならず、許可制は否定されています。

☞(新潟公安条例事件(S29.11.24)、東京都公安条例事件(S35.7.20)

 

「許可制」(=行政庁の裁量がある)」は不可

「届出制」(=行政庁の裁量がない)」ならば可

 

許可制とは?

許可を受けなければ、デモ行進を行うことができないと、一般的に禁止しておき、申請されたデモ行進を行わせても弊害がないと判断した場合において、個別に禁止を解除して許可すること。

 

届出制とは?

集団行動それ自体はまったく自由であるという前提をとった上で、デモ行進を行うためには、公安委員会に通知すれば足りるとすること。公安委員会は原則として受理する義務を負います。

 

もっとも、条文上「許可制」であっても、実際の運用上行政庁の裁量が否定できる「実質的届出制」であったり、許可基準や制限の形式が、明確かつ厳格に限定されていればよいとされています。

 

明確性の原則(=漠然性ゆえに無効の原則)

明確か否かは、「通常の判断能力を有する一般人の理解において…基準が読み取れるかどうか」で判断されます。

☞(判例)徳島市公安条例事件(S50.9.10)

 

 

  • 言論、出版その他一切の表現の自由

 

21条第1項後段は、「その他一切の表現の自由」の「その他一切」で保障された権利とは何かが問題となります。

 

まず、問題提起されるのが、メディアの報道に関する自由です。報道がなされるには、次の情報流通過程があります。

 

収集(取材)⇒加工(編集)⇒発表(報道)⇒受領(「知る」)

 

個々の過程において、表現の自由が保障されるかが問題となりました。論点となったのは、発表するという「報道の自由」だけでなく、「取材の自由」と「知る権利」、それに関連する「アクセス権」が、21条第1項の「その他一切の表現の自由」として保障されるかどうかです。

 

報道の自由(「21条で保障」)

元来、表現の自由は、思想・意見の発表の自由を意味しています。しかし、報道の自由は、単なる「事実の発表の自由」に過ぎません。事実を述べるだけの報道の自由も21条で保障されるのかというのが問題となったのです。

 

「マスコミの報道は国民の知る権利に奉仕するものであり、事実の報道は憲法21条の保障のもとにある」との判例を受け、報道の自由は「保障」されると解されています。

☞(判例)博多駅取材フィルム提出命令事件(S44.11.26)

 

 

取材の自由(「21条で尊重」)

生の事実に接近する「収集の自由」に過ぎない「取材の自由」が、21条で保障されるかどうかが論点となりました。結論から言えば、「取材の自由」は、報道の自由の実現に欠かせないもので、国民の知る権利にも質するためも、取材の自由も21条で保障されると解されていますが、裁判所は、はっきり保障を肯定せず、「十分尊重に値する」というに表現にとどめました。つまり、「報道の自由」と比較して、「取材の自由」は、ある程度の制約を受けることもやむをえないということです。

☞(判例)博多駅取材フィルム提出命令事件(S44.11.26)

 

例えば、取材源の秘匿権は憲法上保障されるか?つまり、裁判の審理や警察の尋問などで、メディアに対して、取材源を公表することを求められて、「取材の自由」を根拠に、これを拒否できるかという議論があります。判例によれば、結論は以下の通りです。

 

刑事事件の場合、「取材の自由を根拠に証言拒絶はできない」(石井記者事件)

民事事件の場合、「取材源に関する証言を拒絶できる」(NHK記者事件)

 

(参考)NHK記者事件

米国企業の日本法人が所得隠しをしたとする報道に絡み、NHK記者が民事裁判で取材源を明かさなかった問題で、最高裁第三小法廷は、「証人となった報道関係者は、原則として、取材源に係る証言を拒絶することができると解するのが相当である」として、企業側の特別抗告を棄却する決定をした(最判平成18年10月3日)。

 

 

知る権利(21条で保障)

思想・意見等、情報「受領の自由」に過ぎない「知る権利」が、21条で保障されるかという問題について、最高裁は、「報道は、民主主義において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである」として、国民の知る権利を認めました。

 

知る権利は、「受け手」の視点から、表現の自由を保障したもので、「自由権」的な側面と、「社会権」(または「国務請求権」)的な側面があると解されています。

 

「自由権」的側面とは、例えば、「好きな本を好きなように読める」など公権力からの不当な干渉を受けることなく、自分の意見を持てる権利です。

 

「社会権(または国務請求権)」的な側面とは、公権力に対して、積極的に政府情報等の公開を要求することのできる権利(情報開示請求権)です。知る権利は、一般市民のメディアに対する権利ではありませんので、「犯罪被害者に対して「知る権利」があるから取材に応じてくれ」などという主張はできませんが、首相に「しっかりと答えて下さい(説明責任を果たしてくれ)」と求めることはできます。

 

アクセス権(21条では保障されない)

アクセス権とは、人々がマスメディアに自分の意見を表明の場を作るように要求する権利で、マスメディアにアクセス(接近)して利用する「一般利用権」という言い方もできます。「知る権利」に対して、表現の自由の主体であるマスメディアでとり上げられない情報を国民に提供させることで、表現の自由を追求する権利を求めるものです。

 

しかし、アクセス権は、国家に対する請求でなく、私人である報道機関に対する請求(意見掲載請求)なので、憲法21条から直接この権利を導き出すことは困難とされています(憲法の問題は国家と私人の関係)。

 

また、メディアも、望まない記事を書いたり、好ましくない人物を出演させたりすることは、メディアの表現の自由の侵害ともなり、最悪、言論統制を強いられることにもなりかねないことからアクセス権には否定的です。

 

判例では、自党の批判記事を書いたサンケイ新聞に対して、共産党が反論記事の掲載を求めた裁判では、共産党が主張する反論権は、認められませんでした。

サンケイ新聞事件(S62.4.24)

 

 

ここまでが、マスメディアなど報道に関する表現の自由についての議論でしたが、「その他一切の表現の自由」についての論点はほかにもあります。

 

選挙運動の自由(21条で保障)

選挙運動の自由とは、「特定の選挙において、特定の候補者に当選を得させ、または得させないために直接または間接に必要かつ有利となりうる一切の行為を行う自由」と難しく定義されています。

 

選挙は、民主主義にとってなくてはならないものですので、選挙運動の自由は、表現の自由に含まれます。(21条のみならず、国民主権を根拠としても保障される)。ただし、「公正な選挙」の実現のためには、法令上、制限される規定もあります。例えば、事前運動の禁止、戸別訪問の禁止、文書、図画、新聞、雑誌による選挙運動の制限、泡沫新聞の排除などです。これは、資金の豊富な者が有利になったり、国民の社会生活の平穏を害するようなことがないようにするためですね。

 

 

営利広告の自由(21条で保障)

テレビのCM、雑誌や中吊り広告、看板などの営利広告とは、利益目的または事業目的で製品またはサービスを広告する言論をいい、営利的言論とも呼ばれます。国民一般が、消費者として、広告などを通じてさまざまな情報を受け取ることの重要性にかんがみ、営利的言論の自由も、営利的表現の自由として、表現の自由に含まれると解されています。

 

ただし、誇大広告や詐欺的広告などに代表されるように、それによってもたらされる弊害を考慮して、広範な制約が許容されています。

 

また、営利的言論(営利的表現の自由)は、政治的言論(政治的な表現の自由)よりも、制約の必要性が高く、保障の程度は低いと解されています。これは、営利的言論には、前述した「自己実現の価値」はありますが、政治参加などを通じた民主主義の発展につながる「自己統治の価値」が弱いからです。

 

このように、他者に訴えかけ、議論する前提となる「表現の自由」(精神的自由権の一つ)は、民主政の政治過程にとって不可欠なものです。ですから、表現の自由を代表とする精神的自由権は、職業選択の自由などの経済的自由権よりも優越性があるとされ(「二重の基準論」という)、思想表現に関する制約の合憲性の審査は厳格になされます(表現の自由に対する制約は、違憲となる場合が多い)。

 

 

<「表現の自由」と「公共の福祉」>

 

そうした「表現の自由」にも公共の福祉の観点から一定の制限があります。表現の自由は、自己の内面ではなく外に向けられるものなので、他者との人権の調整が必要になります。これを「公共の福祉」による制約といいます。ですから、「表現の自由」には、経済的自由権い対して優越性があって、集会、結社、言論、出版、その他一切の表現の自由が、保障されるといっても、「一切の表現」が完全に保障されわけではありません。そこで、プライバシー権と、わいせつ表現との関係をみてみたいと思います。

 

  • 名誉権・プライバシー権との関係

一般的に、個人の名誉を著しく傷つけたら、名誉棄損罪で罰せられます。

 

刑法230条第1項

公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは50万円以下の罰金に処する。

 

しかし、刑法230条の2第1には次のような規定があります。

  • 公共の利害に関する事実に係り」、
  • その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には」、
  • 事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときには

名誉棄損行為を処罰しない。(番号は筆者による)

 

これは、名誉棄損行為があったとしても、上の3つのケースであれば、表現者が名誉棄損行ま為で罰せられることはないと定めていますが、この法律の解釈は、「表現の自由」についてより深い意味を教えてくれます。

 

①の「公共の利害に関する事実」について

 

月刊ペン事件

雑誌「月刊ペン」が1976年3月号に掲載した、ある宗教法人の会長の私生活上の行状に関するある醜聞記事が掲載したことに対して、これは名誉毀損罪にあたるとして、編集長が告訴された事件がありました。

 

この時、最高裁判決では、「被告人によって摘示された○○会長らの前記のような行状は、刑法230条の2第1項にいう「公共の利害に関する事実」にあたると解するのが相当であって、これを一宗教団体内部における単なる私的な出来事ということはできない」とされました。

 

この裁判で、最高裁は、私人の私生活上の行状であっても、「その携わる社会的活動の性質、及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度いかんによっては」、公共の利害に関する事実にあたる場合があると断じたのです。一般的にいえば、私生活上の事実は「公共の利害に関する事実」に当たりませんが、公職者やその候補者の場合には、その人の資質の事項とも結びついて理解されるので、「公共の利害に関する事実」に該当するのですね。

 

 

➂の「事実の真否を判断し、真実であることの証明」について

 

夕刊和歌山時事事件

Xは、自分の発行する「夕刊和歌山時事」に、他新聞の社主Aの名誉を棄損する記事を掲載し、名誉棄損罪で起訴されました。

 

このとき、裁判では、Xは記事の内容が真実であることを証明することができなかったことが問題となりました。法律を文言通りに解釈すれば、裁判の時点で、真実であることを証明できなければ、名誉棄損罪が成立するように思われます(表現の自由は制限される)。

 

しかし、最高裁は、「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実であると誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当である」と判示したのです。

 

この2つの判例からわかることは、確かに、人の名誉やプライバシーは、「人格的な生存に不可欠な人権」として重要な人権で、表現の自由といえども、侵害することは、許されるものではありませんが、裁判では、「表現の自由」を尊重する解釈が採られていることがわかります。それほど、表現の自由は尊重されているのですね。

 

 

  • わいせつ表現との関係

 

性的な表現は、そもそも価値が低いとみられ、刑法で、「わいせつ」な表現物の販売等は、犯罪として処罰されます。

 

刑法175条第1項(わいせつ物頒布等の罪)

わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。 電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする

 

しかし、性的な表現行為も、動機や目的によっては、21条1項の表現の自由の権利保障の対象になると解されています。もちろん、その保障は無制約ではなく、性的秩序を守り、性道徳を維持するという「公共の福祉」による制約を受けます。

 

☞(判例)

チャタレー事件 (S32.3.13)

悪徳の栄え事件 (S44.10.15)

四畳半襖の下張 (S55.11.28)

 

これらの裁判では、作品がわいせつ文書にあたるとして、翻訳者や出版社が起訴されたことに対して、表現の自由を刑法175条で規制することが違憲ではないか、また、わいせつかどうかの判断に、芸術性や思想性が考慮されるべきかなどが争われました。

 

結果は、被告の主張は退けられました。作品はすべて「わいせつ文書」にあたるとされ、刑法175条も合憲、また、「芸術性・思想性がわいせつ性を解消させるものではない」として、「わいせつ文書」に該当する限り、その表現物のもつ芸術性や思想性に影響を受けないと判示されました。

 

 

<21条2項>

検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。

 

  • 検閲の禁止

検閲は、表現に対する事前抑制の一つで、表現の自由の最も重大な脅威とみなされ、例外なく、絶対的に禁止されています。

 

検閲とは、次のように定義されています。

行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することをその特質として備えるもの。

☞ (判例) 税関検査事件

 

要約すると、「①行政権が、②表現内容を、③その受領前に審査し、不適当と認められれば、発表を禁止すること」を検閲と呼びます。

 

(論点1)検閲の主体=行政権

裁判所がプライバシー侵害や名誉毀損を理由に、出版物の「事前差止め」を容認することは、検閲とは呼ばれません。裁判所は行政機関ではなく、司法機関だからです。

 

(論点2)検閲の対象=表現内容(思想内容+表現事実)。

思想だけでなく、事実の報道の規制も検閲とされてしまいます。

 

(論点3)検閲の時期=受領前

表現行為には、発表するという行為だけでなく、受領行為(知ること)も含みます。これによって、検閲は情報の流通の阻止も意図するものであることが明確にされます。

 

これらを踏まえて、教科書検定や、税関検査が検閲に該当するかが問題となりました。

 

教科書検定:検閲でない

学校教育法に基づいて、小・中・高等学校の教科書は、文部科学大臣の検定に合格しなければ、教科書として出版できません。しかし、検定で不合格となっても、一般図書として発行することはできます。したがって、検定制度は、発表禁止目的や発表前の審査などの性質がないことから、検閲に当たらないとされています。

 

税関検査:検閲でない

税関検査により、輸入が禁止される表現物は国外で既に発表済みで、発表そのものが禁止されるわけでなく、また、税関検査は、輸入禁止を目的として行われるもので、思想内容を審査して規制するものではないので、検閲とは見なされていません。

 

 

  • 検閲と事前抑制の関係

 

事前抑制とは、公権力が何らかの手段で、表現行為を事前に抑制することで、例えば、裁判所による出版社に対する出版の事前差し止めが事例としては上げられます。

 

では、裁判所の事前差し止め行為は、憲法21条との観点から認められるのでしょうか?結論から言えば、事前抑制は、原則禁止、ただし、絶対的禁止でないので例外的に許される場合があります。

 

21条1項の規定により、一般的には、出版という表現の自由を事前に抑制することは許されません。しかし、裁判所による出版の事前差し止めは、裁判所が行政権でないので(裁判所は司法権の担い手)、検閲ではありません。ですから、事前差し止めは、絶対的に禁止されているわけではなく、明確かつ厳格な基準を満たす場合、例外的に認められています。

 

(判例)北方ジャーナル事件(S61.6.11)

北海道知事選挙に立候補予定の者を批判攻撃する記事を掲載した雑誌が、発表前に名誉棄損を理由に差し止められた事件

 

判決で、最高裁は、例外的に事前抑制が認められる場合の3つの要件を以下のように提示しました。

 

1)表現内容が真実でないか

又は、2)それが専ら公益を図る目的でないことが明白であって

かつ、3)被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるとき

 

 

  • 通信の秘密

 

意思や情報の伝達である通信活動は、一種の表現活動とみなされます。また、特定人間の間のコミュニケーションなので、私生活・プライバシーの保護が求められます。ですから、憲法では21条2項後段で、「これ(通信の秘密)を侵してはならない」と定め、公権力(政府など公的機関)が、私人(個人や企業)の通信内容を調べたり、漏洩したり、ましてや検閲することを禁止しています。(積極的知得行為、漏洩行為、通信検閲の禁止)

 

ただし、通信の秘密の保障も絶対的ではなく、以下のように、法律に基づいた制限があります。

 

在監者の信書発受の制限(監獄法46条、47条)

 

郵便物の押収(刑事訴訟法100条、222条)

通信機関の保管・所持する郵便物等につき、「被告人から発し、又は被告人に対して発した」もの、または「被告事件に関係があると認めるに足りる状況のあるもの」であれば、差し押さえることができる。

 

電話傍受(通信傍受法)

通信傍受法(組織的な犯罪に対処するため、法定された対象犯罪に限定して、法定された要件のもとで、裁判官の発する傍受令状によって通信の傍受を認めている)が、憲法上許されるかが、問題になりました。

 

裁判では、「一定の要件のもとで…捜査の手段として、憲法上全く許されないものではない」と判示され、電話傍受も、犯罪捜査の手段としてはほかに方法がないという状況下、厳格な条件の下で許容されています。

 

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以上が、日本国憲法第21条(表現の自由)の解説でした。

今回のSNS規制の問題は、表現の自由との対立構造が浮き彫りにされますが、「検閲」や「通信の秘密」の問題も考慮した上での対応が求められます。さらに、憲法21条とその解釈がこの問題を解決に至らせるに足る条文なのかも併せて考えたいものですね。

 

 

<参考投稿>

明治憲法:善意と悪意の解説 表現の自由(29条)

 

<参照>

憲法 伊藤真(弘文堂)

Wikippediaなど

 

 

 

2020年06月03日

異説:藤原純友「海賊と呼ばれた男」の真実

前回の投稿で、藤原純友の乱について書きました(藤原純友「海賊王に俺はなる」)が、あれは、一般的な通説に基づく歴史でした。私が教養サイト「レムリア」を立ち上げた理由の一つが、これまで通説と見られている歴史の解釈は「実はそう思いかまされているだけかもしれない、疑ってみよう」という立場から、史実を様々な角度で読み直してみることです。今回は、別の視点でみた藤原純友です。

 

”摂関家の藤原氏の出でありながら没落して、地方(伊予の国)に下り土着化し、海賊の棟梁になって、朝廷に反乱を起こした…”

果たして、これが本当の純友の姿だったのでしょうか?

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  • 藤原名家の末裔?

 

瀬戸内海の「海賊王」と称される藤原純友の生涯、実は謎に包まれています。生年もよくわかっていませんが、寛平5(893年)ごろと推察されています。純友は、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれ、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出した藤原北家(ほっけ)の流れを汲み、太政大臣・関白を務めた藤原忠平は、純友の父、良範の従弟に当たるなど、摂関家の血筋であるとされてきました。

 

しかし、純友は、伊予の豪族・越智氏の一族で、今治の高橋郷出身の高橋友久の子であったと言う説があります。越智氏を遡れば、神話の大山祇神(おやまづみのかみ)にたどり着くとされ、愛媛の大山祇神社(大三島神社)が全国の大山祇神社(三島神社)の総本社になっていることから、越智家というのはこの地域の名家と言えます。この説によれば、純友は、藤原良範が伊予の国司(伊予守)として赴任した際、良範の養子となり、藤原姓を名乗ることになったとされています。

 

いずれにしても、純友は名門貴族、藤原氏の一員になったのですが、父となった良範が早死にしてしまったので出世の見込みがほぼなくなってしまいました。当時は、世襲が当たり前の時代だったのです。

 

 

  • 伊予国に赴任

 

それでも、純友は、承平2(932)年、父良範の従兄弟(いとこ)で、当時、伊予守を務めていた藤原元名(もとな)に呼び寄せられ、下級官人(伊予の掾)となって、伊予国に赴任しました。

 

元名は、立身出世の道が閉ざされた純友を救ったというよりも、当時、瀬戸内海に横行していた海賊対策に純友の手腕を期待したと言われています。藤原純友は少年のころ、大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられた父の良範に従って、朝鮮半島との通商の要所であった九州の大宰府に赴いています。そのころ九州では、当時、朝鮮を支配していた新羅の衰退によって、朝鮮から海賊が襲来し、博多の商船などが狙われるという事件が相次いでいたそうです。若き純友は、そこで、武芸を身につける一方、海賊への取り締まりを見て学び、時には父とともに海賊の成敗に当たり、海賊への対応能力を養っていったとされています。

 

10代で京に戻った純友は、それから約30年の歳月を経て、藤原元名の下で、海賊討伐に励み(実際は、税である米や産物を京へ運ぶ運京租税の任に当たっていた)、一定の成果を出しつつ、海賊衆ともつながりを維持していました。これは、932~935年の4年ぐらいの間の出来事で、瀬戸内海周辺では「藤原純友、ここにあり」とその名がその地域に知られるようになったと言われています。

 

純友は、934年に任期が終わって一度帰京しましたが、伊予では、海賊との攻防が再び激しくなり治安の悪化が深刻になりました。そこで、過去の功績が認められた純友は、承平6(936)年3月に、伊予国警固使に任じられ、再び、伊予に赴くことになったのでした。純友の再着任から2か月後の、936年5月、藤原元名に代わる後任国司の紀淑人(きのよしと)が着任することになりました。

 

この時、純友は、「所定の税を納めて投降すれば、処罰は免れるようにする」と海賊たちを説得します。すると、これまで約5年近くも抵抗を続けていた海賊たちの多くが突然降伏したと言います。紀淑人もこれを認め、海賊たちの罪を問いませんでした。伊予国警固使としての純友は、紀叔人に従って、海賊を服属させながら、瀬戸内海の治安を守り、伊予国には平穏が戻ったと言われています。

 

 

  • 海賊の正体

 

ところで、伊予国で問題になっていた海賊とは、現在の私たちが連想する、航海中の船舶を手当たり次第に襲って金品を強奪したり、女、子どもを売り飛ばすといった無法者として賊徒ではなく、都に送られるコメや特産品などの官物を奪う者達のことでした。

 

伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で、外交などの儀式に関連した雑務をこなしていた舎人(とねり)という地方下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことから、儀式の数は減り、彼らの仕事も激減します。当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があったので、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて「海賊」と化したのでした。

 

特に、伊予国は、舎人に支給するためのお米の産地だったそうです(当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があった)。舎人たちは海賊となって、支給されなくなったコメを、「自ら調達する」という理論で、輸送中に奪うという行為にでたと説明されています。

 

また、平安中期は、地方の政治を中央から派遣された国司(地方長官)に一任していた朝廷は、税として地方から国へ治める(コメや特産物などの)物品の数量を定め、それを超えた分は国司のものとしていました。そこで、国司の中には、過酷な取り立てを行い、中には私服を肥やす者も多くいました。そうすると、国司と、地方の豪族との対立も深刻になっていきます。伊予国などの場合、国司が、税を払わないかつての舎人らに対する弾圧を強めてきたわけです。それが逆に海賊行為がさらに横行するという悪循環に陥っていました。

 

 

  • 海賊 藤原純友の誕生?

 

さて、藤原純友は、伊予国警固使としての任期を終えた後も、平安京へは戻らず、伊予国に土着し、周辺の治安を守る豪族(地域の有力者)のような存在になっていきます。海賊衆(かつての舎人ら)も、純友との長年の戦いの中で、「敵といえども話せる人間」というように、ある種の信頼関係が構築され、国司からの弾圧に対抗するという意味からでも純友に下り、統制されるようになっていきました。

 

また伊予国以外にも、純友と同じように、貴族の出でありながら、出世が望めなくなって地方に下り、土着化した、いわゆる「没落貴族」が多くいました。彼らの中にも海賊と結びついて武将集団を形成していく者もいたわけです。藤原純友について、「承平6年(936年)頃までには、日振島(ひぶりじま)(愛媛県宇和島市)を拠点に2500人もの部下を従え、1000艘を組織する海賊の首領(頭目)となっていった」と表現されていますが、無法者たちの集団をまとめ上げた海賊の頭ではありませんでした。

 

藤原純友が抱えた「海賊集団」とは、純友と同じように、貴族でありながら地方に下り、かつての舎人らを率いて豪族のようになった「仲間」たちとの「連合体」のようなものでありました。しかも彼らは、以前は優秀な地方官で、裕福な者もあり、純友の強力な後ろ盾となっていったのです。その代表が、備前の藤原文元(ふみもと)であり、讃岐の藤原三辰(みつとし)、さらには、伊予にあって純友の腹心となった藤原恒利(つねとし)でした。。

 

 

当時、純友や文元らのように、地方に土着化し、出世の道が閉ざされたかつての貴族にとって、官位をもらい朝廷で高位の役職につくという出世の道は、武功(反乱などを鎮圧するなどの功績)によるしかありませんでした。しかし、伊予国周辺に936年から訪れた安泰は、本来、純友や文元らの活躍によるものでしたが、彼らの功績も評価されず、伊予国の場合、国司である紀淑人の手柄となってしまっていました。豪族や海賊たちにとって、こうした矛盾だらけの地方政治に対する不満はますます高まるだけであったと言っていいでしょう。

 

 

  • 純友の夢?

 

純友が、武勇によって出世することを考えていたのか不明ですが、純友にとって実はもう一つ壮大な計画があったことが明らかになりつつあります。それは、財力によって、政治を動かすことです。より具体的には、瀬戸内海の貿易を手中に収めることではなかったのかと考えられています。

 

そもそもこの地域に海賊行為が横行しだした一因に、海上輸送が盛んになってきたことがあげられます。瀬戸内海といえば、海運の大動脈ともいえる海域です。西日本からの物資や税の多くが、瀬戸内海を使って運ばれていました。かつて遣隋使や遣唐使もこの海を通りました。瀬戸内海の貿易の権益を握ってしまえば、朝廷の力に対抗することもできると純友は考えたのかもしれません。

 

そのためにも、海賊衆を手なずけ、同じ志をもつ「仲間」と力を合わせて、瀬戸内海で勢力を確保し、中国や朝鮮、東南アジア諸国へ船を差し向け交易を行おうとしたという可能性があります。純友が、海賊衆や、文元、三辰らにこの夢を語っていたならば…と考えると、936年、長年海を荒らしていた海賊たちが突然降伏した理由も頷けるような気がします。そして、この純友の野心を、純友の縁者(父、良範の従弟)で、時の太政大臣、関白・藤原忠平が知っていたら…、と仮定すると、藤原純友に関する様々な疑問が解決していきます。

 

天慶2(939)年12月17日、朝廷に、伊予国から「純友が船に乗って巨海に出ようとしている」との報告が届きます。これを受け、朝廷は純友の逮捕と、京への召喚命令を摂津(兵庫県)や中国地方の諸国に下します。通説では、「巨海」ではなく「海上」とされ、海賊・純友が瀬戸内海に出てくる(備前から京をめざす)と恐れられていたと解されていますが、純友は、当初から「巨海(東シナ海/南シナ海)進出」を目論んでいたのかもしれません。

 

では、仮にそうだとして、なぜ、この報告に対して、純友の逮捕と召還命令まで出されたのかと言えば、遣唐使が897年に廃止されて以降、外交は実質的な「鎖国」政策がとられている中、朝廷にすれば、純友の構想は看過できるものではなかったでしょう。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

ただし、純友はその前にやらなければならない「仕事」がありました。海賊討伐を共にした盟友の藤原文元(ふみもと)からの援軍要請を受け、「兵」を率いて備前国(今の岡山県東部)を目指したのです。藤原文元は、そこに土着した有力豪族でしたが、藤原子高(さねたか)という人物が備前国司として赴任してくると、徴税権を振りかざす子高と抜きがたい対立が生じていたのでした。

 

純友が備前国へ向っていることを知った子高は、この状況を報告しようと逃げるように都に向かいましたが、同年12月26日未明、摂津国の須岐駅家(すきのうまや)(兵庫県芦屋市付近)で文元らの武装集団に襲われ、子高は耳や鼻をそがれるなど惨い殺され方をされました。これは、当時の国司(受領)へ感情的な対立がいかに深刻であったかを物語るものです。

 

ただし、この事件は、直ちに「国への謀叛(むほん)」として朝廷に急報されました。国司に対する暴力行為は、朝廷への反逆以外の何物でもないからです。しかも、「藤原純友、藤原文元に加勢す」という報告もなされ、朝廷は衝撃を受けます。この襲撃に純友の郎党も加わっていたことが明らかになり、この時を機に、純友は「反乱者」となってしまいました。

 

朝廷は、すぐに純友に使者を派遣、京へ戻り説得に応じるよう促します。しかし、純友は、これを拒否し、逆に、「藤原文元の行いは、そもそも子高の圧政が原因であり、文元の行為は免責されるべきであること」、「936年の海賊討伐の際の勲功を活躍したものに恩賞を与えること」など要求を朝廷に突き付けるのです。

 

こうした強気な要求を出した純友には勝算がありました。純友が文元へ加勢し、朝廷に反旗を翻そうとしていた頃、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配していたのです。朝廷が東国でほぼ同時期に起きた「平将門の乱」への対応に謀殺され、純友の反乱にまで手が回らない状態であったことを、純友は見抜いていたのです。

 

 

  • 「比叡山の盟約」の裏側

 

ところで、藤原純友と平将門はともに天下を狙ったという共謀伝説があります。その共謀伝説の内容は、前回の投稿でも紹介しましたが、改めて紹介すると、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし」、「純友は藤原なれば関白になりて」、「政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。東から将門、西から純友が、同時に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画を立てたのです。

 

ただし、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」に、「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば…」と書かれているように、共謀説の主役は将門で、純友は「将門に同意した」と、将門に従った人物としてしか描写され、純友の顔は見えず、その真意を測ることはできません。

 

では、その真偽はといえば、将門と純友が比叡山に登ったとされる承平6年8月19日の頃は、将門は坂東に帰っており、純友は伊予の国に居たので、二人が京都にいて比叡山に登った事実はなさそうです。また、平将門の一代記の「将門記(しょうもんき)」には、将門・純友共謀説について記述は見られません。こうしたことから、純友と将門による「比叡山の陰謀」はおおむね否定されています。

 

それでも、当時、将門と純友の乱は、発生した時期が近いことから、朝廷は、乱の勃発当初より「連携して始められた」と疑っていたので、こうした「比叡山の誓い」のような劇的な伝説が生まれたことは想像に難くありません。

 

では、もし、共謀がなかったのなら、この二つの乱は全くの偶然の出来事なのでしょうか?実際は、純友がしたたかに将門の乱を利用したのではないかという疑念が生れます。まず、純友と将門が既知の仲であった可能性はないことはありません。二人に共通の人物に、何と、時の権力者で太政大臣になる藤原忠平がいるのです。将門は、藤原忠平の家人として仕えていたことがあり、15歳の頃、10年近く京都にいました。一方、伊予に赴任する以前に京都にいた純友の場合、縁者である忠平(父、良範の従弟)と接する機会も多かったと想定できますから、何らかの接触が二人とも在京していた時期にあったことは否定できません。ですから、「比叡山の陰謀(誓い)」というような劇的なドラマがなかったとしても、たとえ戯言でも、「将門は天皇、純友は関白」のような話しがなされ、純友は将門の「野望」を知っていたのかもしれません。

 

 

  • 純友の知略

 

純友と将門が起こした承平天慶の乱(天慶の乱)と呼ばれる反乱は、将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んでいます。将門の乱の場合、事の成り行きで、朝廷に矢を放つ結果になった感がありますが、純友の乱は、用意周到になされたことが伺えます。

 

将門によって追放された上野介、藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)でした。純友は尚範から、将門謀反の情報をいち早く掴んでいた可能性もあります。これにより反乱の決断の時期を決めることができたのかもしれません。また、純友の配下で、伊予から讃岐に移って活動していた藤原三辰(みつとし)は、以前は山城国の役人でした。その時以来、都についての情報網を保持し、純友と共有していた可能性もあります。一般的には、将門と純友が密に連絡を取っていたという共謀説は否定されたとしても、将門の反乱をいち早く知った純友が、朝廷が東国対策に忙殺されるのを見計らって、乱を起こしたことが想定できます。

 

 

実際、朝廷は、東西の反乱に対して、まずは、平将門の乱の平定に専念し、純友の要求をひとまず受け入れ、兵力を東国に集中させることにしました。天慶3年(940年)1月30日に、朝廷は、936年の海賊降伏に関する勲功として、純友に(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授け、都に上るよう求めます。また、純友以外の、例えば受領の藤原子高を襲った藤原文元にさえも勲功が与えることを決めたのです。

 

要求が満たされ、官位を受けた純友は、朝廷に従う姿勢を見せ、940年2月、純友は京へ向かいました。しかし同時に、藤原文元ほか仲間たちは、朝廷を無視して、四国・中国地方で暴れ続けます。そして遂に、藤原文元が備前国を、また、純友の別の盟友、藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

また、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰がいると見られ、朝廷内では、純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。

 

 

  • 純友の誤算

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ940年2月25日、「将門討伐」の報告が京にもたらされたのです。純友は、将門の死の報を知ると、日振島にいったん船を返し、戦略を立て直すべく動静を見守ることにしました。

 

東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった関白・藤原忠平は、純友に対する融和策を翻し、武力による鎮圧に踏み切ります。940年5月に将門討伐に向かっていた東征軍が帰京すると、6月、藤原文元を藤原子高襲撃犯と「断定」して追討令が出されます。藤原忠平は、文元など純友配下の者らと戦いつつ、純友に対しては、「文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるか」の二者択一を迫る二面作戦に出ました。

 

940年8月、戦いを優位に進める朝廷軍に対して、窮地に立たされた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで、純友も動き出します。讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、讃岐国を取り戻そうとしていた朝廷軍を圧倒しました。朝廷に従うか、朝廷に逆らって仲間を助けるかの選択を迫られていた純友は、「仲間」を選んだのです。こうして、純友は、将門と同様、謀叛人となり、反乱軍の棟梁として、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

天慶3(940)年8月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲し、国府を占拠した後、讃岐国を藤原三辰に任せ、自らは制圧地の拡大に乗り出します。備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を堕とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。

 

このように、千艘以上の船を操ったとされる純友は、朝廷の送った兵船、数百艘を焼き払い、官物も略奪しながら、東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていきました。

 

ただし、純友の戦いは、京への侵攻を狙っていたのではなく、朝廷との交渉を有利に進めるために、制圧地を増やし、自らの力を示すことが目的だったとされています。そのために、瀬戸内海全域から京都周辺にかけて、「仲間」を配備していたという考え方もできます。

 

 

  • 戦局の変化

 

しかし、土佐国まで攻め入るまでは順調でしたが、その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、朝廷は、報酬や官職をチラつかせ、純友軍を内部から崩壊させようとします。天慶4年(941年)2月には、純友の次将と言われた藤原恒利を朝廷側に寝返えらせることに成功、恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて、日振島(愛媛県宇和島市)を脱出した純友は、小島が乱立する瀬戸内海のどこかの島に姿をくらまします。それから4か月が経った941年5月、純友は突如、大宰府に姿を現し、朝廷にとって九州におけるこの最重要拠点を襲撃し、占拠しました。

 

純友は大宰府を制圧することで、朝廷と和平交渉を有利に進めようと考えたのかもしれません。しかし、勢いに乗った朝廷は、もはや純友と交渉する気はありませんでした。朝廷側は、藤原忠文を征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任じ攻勢を強めてきます。ただし、忠文到着の前に、すでに、山陽道の追捕使(ついぶし)に任じられていた歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や平将門の乱にも携わった源経基(つねもと)らが陸路から、追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は海路から九州に到着しました。

 

これに対して、純友軍は、大宰府を落として、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(今の福岡県柳川市)に迫りましたが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純友軍は止められてしまいました。

 

有明海に抜ける拠点を確保できなかったことで、純友は大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。戦いは、激戦の末に、純友軍の兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れました。しかし、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。こうして、藤原純友の反乱は鎮圧されました。

 

 

  • 「海賊と呼ばれた男」の見果てぬ夢

 

朝敵の最期が、討たれたのか獄死したのか定かではない、というのは何か違和感を覚えます。実は、藤原純友は「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶った」という伝承があるのです。もしこれが事実であれば、純友は文字通り、「巨海」に出たことになります。では、もしそうならば、朝廷軍との戦いの中、どのタイミングでそれができたのかを推察すると、九州・柳川での戦いにその機会があった可能性があります。

 

通説では、純友が大宰府を落とした後、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川に迫るものの、橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純乗を敗走させたとなっています。しかし、福岡県柳川市に伝わる伝承では、「蒲池城は藤原純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗した」とあるのです。さらに、蒲池城に拠る蒲池(かまち)の領主は、藤原純乗(すみのり)の一族であるとの説があります(築後の蒲池氏は藤原一族)。

 

そうすると、有明海に抜けることができる柳川での戦いで、藤原純乗(すみのり)は負けておらず、純友の一団はそこから、有明海を抜けて、東シナ海に出た可能性が残されます。博多湾で迎え討ったのは、純友の替え玉か別人であったのかもしれません。だからこそ純友の死も曖昧にされ、さらには、純友に関する史料すら消されたという解釈もできます(純友には出生の記録すらない)。

 

朝廷からすれば、反乱者を取り逃がしたとなれば、面子が丸つぶれとなります。ですから、純友を海賊王に仕立てあげ、討ち取ったというシナリオをでっち上げたとは考えられないでしょうか?それが、逆に「瀬戸内海の海賊王」が世界に飛び出していたというなら、痛快極まりないことです。

 

ただし、純友が再び日本に戻ってきたという話しはどこからも聞こえてきません。瀬戸内海の交易を通じて、政治を動かす歴史上人物は、日宋貿易で財力を蓄えた平清盛の登場を待たなければなりませんでした。

 

 

  • 純友の子孫

 

ここまでの話しは、推測の域をでてはいませんが、少なくとも、藤原純友は、通説のように、国司に不満を持った無法者の海賊たちを従えて、朝廷に対して反乱を起こしたのではありません。京の貴族社会から脱落し失地回復を図ろうとした純友自身は、瀬戸内海の交易を通じた財力で、政治を変えようとしてしたのであって、結果的に朝廷と戦うことになりましたが、決して、京都に攻め上ろうなどという意思はなかったといえます。

 

それだからかどうかわかりませんが、純友から3世後、孫の藤原直澄の時代、藤原純友は、朝廷から許されています。後世、肥前国の戦国大名、有馬氏・大村氏らは藤原純友の子孫と称しています。大村氏の系図や史書では、藤原直澄は、「正暦5年(994年)に伊予から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化していった」とされています(大村氏の先祖は藤原純友の孫・藤原直澄とされる)。有馬氏も、初伝によれば、純友の子直澄が有馬氏の祖になった、または純友の五世の孫幸澄が有馬氏を名乗ったそうです。

 

 

後記

ところで、本HP「レムリア」の投稿記事には自分のことは書かない方針ですが、今回は例外で、一言加えさせて頂きたいと思います。

 

私の出身は長崎県佐世保市です。昔でいえば、肥前国に属します。実は、わが村尾家も、私の父によれば、途中改ざんがあったかもしれないという前提ながら、家系図をたどれば、藤原純友に行きつくという伝承があります!なんでも、「村尾家」の先祖は、大村藩と松浦藩の国境いにいたから村尾になった(大村藩の端っこで村尾)ということらしく、先祖の名前を見ると、特に第一子には、純友の「純」の名が使われています。ちなみに私の父の姉(長女)の名前は「純子」さんでした。もし、この事実を思い出していれば、私の長男にも「純」の字を使ったかもしれないなどと思う今日この頃です。

 

<参考投稿>

歴史:藤原純友「海賊王に俺はなる!?」

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

比叡山の誓い 純友将門共謀説

伝承化する純友将門共謀説

摂津須岐駅襲撃事件:藤原純友の乱と日振島の財宝伝説

Wikipediaなど

 

2020年05月23日

歴史:藤原純友「海賊王に俺はなる!?」

前回の投稿で紹介した平将門とともに、平安時代の中期、武士の時代を先駆けた人物として評されるのが、藤原純友(すもとも)です。純友は、伊予(愛媛県)の日振島を拠点に、約1000艘の船を率いた海賊の首領です。(平将門については、「『平将門の乱』ってどんな戦い?」を参照下さい。)二人がほぼ同時期に起こした朝廷に対する反乱を、年号から「承平天慶の乱」と呼ばれています。

今回は、純友が、瀬戸内海から博多湾にかけて起こした「天業の乱(藤原純友の乱)」を振り返ることにしましょう。純友の乱に関する史料は、将門の乱に比べてかなり少なく、諸説がありますが、今回は、一般に知られている話しを紹介します。(6/3改訂)

―――

 

  • 名門貴族の末裔

 

藤原純友は、寛平4(892)年、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれたとされています。当時の太政大臣・関白を務めた藤原忠平は良範の従弟に当たります。祖父は右大弁・藤原遠経(とおつね)で、関白に初めて就任した藤原基経と兄弟でした。さらに、曾祖父は、権中納言・藤原長良(ながら)で、摂政・藤原良房の兄です。

 

このように、純友は、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出する藤原北家(ほっけ)の流れを汲む名門中の名門の血筋であったのです。ですから、純友もそれなりの地位に就くことは期待されたのですが、当時、世襲が当たり前の時代、幼くして父を亡くしたために出世の見込みがほぼなくなってしまいました。

 

 

  • 伊予国の役人

 

それでも、純友は、父の従兄弟(いとこ)で、伊予守に就任した藤原元名(もとな)に従って、931年頃、伊予掾(じょう)となって、伊予国(今の愛媛県)に赴任しました。初めは、救いの手を差し伸べてくれた水の元名の命を受けて、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にいたのです。

 

*「守」や「掾」は、中央から派遣された地方の役人(国司)の等級で、上から(かみ)、(すけ)、(じょう)、(もく)という地位に分けられていた。

 

当時、まだまだ、瀬戸内海には海賊が横行しており、治安の悪化は続いていました。ところで、伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で外交などの儀式に関連した雑務をこなす舎人(とねり)という役職の地方の下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことなどに伴い、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて、「海賊」と化したのでした。

 

伊予国で、海賊の取り締まりに当たる一方で、現地の海賊衆とつながりを持った純友は、任期が終わっても帰京せず、土着していきました。そして、都の政府に不満をもつ、瀬戸内海の豪族たちとともに、海賊集団を作り、その頭となっていったのでした。

 

これに対して、朝廷は、海賊の取り締まりのために、海賊追捕使(ついぶし)を定め、承平6(936)年6月、紀叔人(きのよしと)を伊予守と追捕南海道使に任命しました。これに対して、純友は、一時、紀叔人に従って朝廷に帰順し、海賊を抑えながら、瀬戸内海の治政・治安を守っていたと言われています。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

しかし、純友と紀淑人との蜜月関係は長くは続きませんでした。純友は、突如、朝廷に反旗を翻すのです。その間、純友は、日振島(ひぶりじま)(今の愛媛県宇和島市)を拠点に、1000の兵船を操り、2500人もの部下を従える海賊の首領(頭目)となっていったのです。「南海賊徒の首(かしら)、藤原純友。党を結び、伊予国日振島に屯集(とんしゅう)し、千余艘(そう)を設け、官物私財を抄劫(しょうごう)す」(日本紀略)と、史料にもあるように、瀬戸内海や九州を荒らし回っていたとされています。

 

天慶2(939)年12月17日、伊予国から「純友が船に乗って海上に出ようとしている」との報告が朝廷に届きます。これを受け、朝廷は、京への召喚命令を出しましたが、純友一党はこれに従いません。

 

それどころか、純友の命を受けたとされる部下の藤原文元(ふみもと)が、摂津国の須岐駅(すきのうまや)で、海賊対策に当たっていた備前介(びせんのすけ)の藤原子高(さねたか)を襲撃し、子高を惨殺したのでした。子高が純友の件を報告するため、京へのぼる途中の出来事でした。朝廷が派遣した国司を殺害したわけですから、国家への反逆となります。後に「藤原純友の乱」と呼ばれる戦いのきっかけとなる事件でした。

 

 

  • 比叡山の盟約!?

 

純友の反乱は、朝廷を大いに焦らせました。しかも、同時期に、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配する「平将門の乱」を起こし、その対応に謀殺されていました。また、朝廷内では、将門と純友による反乱は、勃発当初より連携して始められているのではないかとの噂が広がっていました。

 

実際、「比叡山の共謀伝説」というのもあります。その伝説によれば、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし、純友は藤原なれば関白になりて、政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。

 

東から将門、西から純友が、共に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画が立てられたという逸話をどう思いますか?今日でも、将門と純友が比叡山で相談したという「将門岩」が残され、関東には純友の使者が上ったという川岸までもあります。しかも、これは、平安時代(12世紀)の歴史物語「大鏡」や、南北朝時代(14世紀半ば)の史論書「神皇正統記」など複数の史料にも登場しています。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

この真偽は別にして(一般的には否定)、その頃、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰(みつとし)がいると見られ、朝廷は純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れました。

 

追捕使の小野好古(おののよしふる)の率いる軍が、瀬戸内海に出て、純友らを捕えようとしたが、逆に追い散らされてしまいました。小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告したことから、純友が京を襲撃するのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。純友が起こした反乱は、瀬戸内海や摂津は京に近いことから、朝廷は、東西から挟み撃ちにあっているような恐怖感に襲われたと言われています。

 

そこで、朝廷は、まずは「将門の乱」に対応するために、東国に兵力を集中させ、純友に対しては、位階を授けて懐柔をはかろうとします。天慶3年(940年)2月、純友に、(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授けました。しかし、叙任の効果はありません。2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪ったことを皮切りに、藤原文元が備前国を、また藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ年の2月25日、「将門討滅の報告」が京にもたらされたのです。将門の死の報を受け、純友はすぐに、日振島にいったん船を返し、しばらく動静を見守ることにしました。東西から京へ攻め登るという盟約が実現できなくなったことから戦略の立て直しを強いられたのかもしれません。

 

一方、東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった朝廷は、純友に対する融和策を翻し、純友討伐に本腰を入れ始めます。天慶3(940)年8月、朝廷軍の攻勢を受けた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで純友はついに動きだし、讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、朝廷軍を圧倒します。この結果、藤原純友は、平将門と同様、朝廷に弓を引いた「反乱者」となり、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

同じ月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲した後、破竹の勢いで、備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を墜とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。このように、純友は東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域を実質的な支配下に置いたのです。

 

 

  • 西へ西へ:純友の最期

 

しかし、純友の進軍もここまででした。その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、純友にとって、致命的になったのが、味方の裏切りでした。天慶4年(941年)2月、純友の次将と言われた原恒利が朝廷側に寝返ったのです。恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて日振島を脱出し、西に逃れた純友は瀬戸内海の孤島に身を隠していましたが、同年5月に、突如、筑前国(福岡県)に出現、太宰府を襲撃して占領します。大宰府は、朝鮮半島との交易の要所であり、朝廷にとっても西の最重要拠点です。純友にとって、まさに最終決戦の場として位置づけたのかもしれません。

 

天慶4年(941年)5月、山陽道の追捕使(ついぶし)に任命されていた、歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や、平将門の乱にも拘わった次官の源経基(つねもと)が陸路から、同じ追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は、海路から九州に到着しました。

 

大宰府を落とした純友軍は、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(福岡県柳川市)に迫りますが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)に阻まれてしまいました。有明海へ抜ける退路を断たれた純友は。大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。

 

戦いは激戦の末に、純友軍は兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。

 

盟友の藤原文元は逃亡の途中、但馬国(兵庫県北部)で討ち取られるなど、純友に従っていた残党も、その年のうちに駆逐され、「瀬戸内海の海賊王」の反乱は収束したとされています。一時、関東全域を支配した平将門の乱とともに、朝廷に反逆したとされる藤原純友の乱(両者を合わせて「承平・天慶の乱」)は、こうして終焉しました。

 

<参考投稿>

異説:「海賊と呼ばれた男」の真実

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

Wikipediaなど

 

2020年05月20日

歴史:「平将門の乱」ってどんな戦い?

NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」をふと思い出し、今回は平将門についてまとめました。平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の関東の豪族で、武士の魁(さきがけ)ともいわれ、当時、最大の内乱となった「天慶の乱(平将門の乱)」を起こしました。

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  • 平将門の出生

 

平将門は、平安中期の関東の豪族で武士の先駆けのような存在であると同時に、桓武天皇から五代めの子孫にあたり、皇族の血(桓武平氏の血筋)も引き継いでいます。

桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-良将-将門

 

桓武天皇の曽孫(ひ孫)である高望王(たかもちおう)は、890年ころに「平」の姓を授けられて皇族の籍を離れ、東国に下り、国司として上総国(千葉県周辺)に赴任しました。高望王には何人もの男子がおり、将門はそのうちの良将(よしまさ)の三男に当たります(高望王は将門の祖父)。

 

高望王は、任期が過ぎても帰京せず、そのまま一族とともに住み着き、常陸国や下総国へ進出、未開地を開発して膨大な領地を獲得し、長男国香(くにか)には真壁郡石田を、次男良兼には真壁郡羽鳥を、六男良正には筑波郡水守郷(今のつくば市)をそれぞれ与えました。また、この3人息子たちは、嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)の3人の娘をそれぞれ娶って、勢力を拡大させます。一方、将門の父・良将は、下総国(茨城県南部)を本拠として、鎮守府将軍という任務に就くなど、坂東平氏の地盤を固めていったのでした。

 

当時、地方の有力な豪族の子供たちは、都で朝廷や貴族に仕えて、官位や、国司など官職をもらって国へ戻るというのが一般的でした。将門も15歳~16歳の頃、都に憧れて京にのぼり、時の権力者で摂政・関白となった藤原忠平に10年余り仕えていました。しかし、父・良将が若くして死去したために、帰郷すると、将門が若年であることよいことに、豊田(今の茨城県結城郡石下)・猿島(茨城県岩井市)・(今の茨城・千葉にあった)相馬など父の所領の多くが、伯父(叔父)の国香、良兼、良正に奪われていたのでした。

 

 

  • 源護・平国香との戦い

 

将門はそれに怒り、土地を返すよう要求し続けますが、伯父(叔父)たちは、返さないばかりか、彼らと姻戚関係にある常陸国真壁に勢力のあった源護(みなもとのまもる)と手を組みます。そして、ついに、935年2月、将門は源護の子である扶、隆、繁の三兄弟に、常陸国野本(筑西市)で襲撃されますが、源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、将門は三兄弟を討ち取りました。さらに伯父・国香の館にも火をかけ、国香を攻め滅ぼしたのでした。

 

翌10月、源護は朝廷に告状を出して将門を訴えましたが、朱雀天皇の元服の大赦によって、京都に召還された将門は帰国が許されました。もっとも、争いは一族の内紛であり、平将門が罪に問われることはありませんでした。逆に、この戦いで、将門の勇名は諸国にとどろき、将門は、下総国豊田(今の茨城県結城郡石下)を本拠として勢力を拡げていきました。

 

 

  • 武蔵武芝・興世王・源経基・平貞連

 

938(天慶1)年、武蔵国の足立郡(今の埼玉県)を治めていた郡司(郡の長官)、武蔵武芝は、朝廷が派遣してきた武蔵権守(むさしごんのかみ=武蔵国の長官代理)の興世王(おきよおう)が、兵をひきいて勝手に郡内にはいり、武芝の家を含む民家から財物などを奪い取っていったと主張して、興世王とその補佐役、武蔵介(むさしのすけ)として任官にあった、清和源氏の祖となる源経基の二人を相手に、戦いを始めようとしていました。

 

それを聞いた将門は、両者の仲を取り持とうと調停に入ると、興世王は将門の話に同意しましたが、源経基は応じようとしませんでした。そこで、武蔵武芝の軍勢が源経基の館を包囲して圧力をかけたところ、源経基は脱出して京に逃げ帰り、「平将門は武蔵武芝とともに、朝廷から遣わされた私を亡き者にしようとした」「謀叛である」と密告をしたのです。この時、将門は、常陸(茨城県)、下総(千葉県・茨城県)、下野(栃木県)、武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県)、上野(群馬県)のこの五国の代表者たちに、「将門は無実だ」という「謀反無実ノ由」を書いてもらい、都の藤原忠平のもとに届けて、事なきを得ました。

 

939年6月、百済王貞連(くだらのこにきし ていれん)が武蔵国に国司として赴任してきましたが、貞連と興世王(おきよおう)は不仲となり、興世王は冷遇されてしまいます。すると、興世王は、本来敵であるはずの将門のもとに身を寄せるという奇策を講じると、国司に反感を持っていた将門もこれを受け入れました。

 

 

  • 藤原維幾と平貞盛との戦い

 

同じ年の11月、今度は、常陸国那珂(なか)の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきました。玄明は、国司の厳しい取り立てをする常陸国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否し、物も強奪したため、追捕令が出されていました。維幾は玄明の引渡しを将門に要求しますが、将門は玄明を匿い応じませんでした。

 

常陸介維幾は、平貞盛の叔父でした。貞盛は維幾を前面に立てて、将門と対抗しようとしたため、将門と貞盛の対立が高まります。なお、この年の6月には将門の宿敵、叔父の良兼が死去し、将門にとっての敵は、国香の子の貞盛だけとなっていました。将門は、常陸国府(常陸府中市)にいた貞盛を討つべく、兵1000人を率いて出陣し、維幾の3000の兵と激突しました。戦いは、将門が勝利し、国府を襲いましたが、貞盛を討ち漏らしてしまいました。そこでやむを得ず、将門は国府(茨城県石岡市)の建物とまわりの民家300戸を焼き払い、国司(長官)の藤原維幾を捕らえ、国印(国司の印)と鎰(やく)(国倉の鍵)を奪って引き上げました。

 

このことは直に、都へ知らされます。国府を襲った行為は、まさに重大事態であり、これにより、将門は朝廷にたいする「反逆者=謀叛人」と見なされることを意味していました。

 

ところが、坂東の地では、「いっそのこと、関東の国々をぜんぶ征服し、朝廷が遣わした役人たちは、都へ追い返してしまったらどうだ」と、将門と共に戦った興世王(おきよおう)は、関東8国の制覇を唱えるのです。

 

関東の8国

下総(しもうさ)(茨城・千葉)       上総(かずさ)(千葉)、

下野(しもつけ)(栃木)                 上野(こうずけ)(群馬)、

常陸(ひたち)(茨城)                     安房(あわ)(千葉)

武蔵(むさし)(神奈川・東京・埼玉)、相模(さがみ)(神奈川)

 

これを受け、将門もその気になり、939年12月、下野国府(栃木市)と上野国府(前橋市)を襲い、国司から国印と鎰(やく)を奪って降伏させました。

 

 

  • 「新皇」将門、関東制圧

 

上野国(群馬県)を占拠した時、将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れます。お告げを伝えると言って神がかりの状態になった巫女は、「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣したのです。こう告げられた将門は、「菅原道真の霊魂だった」と後に言われた巫女の前にひれ伏したとも伝えられています。

 

これに従って、平将門は、天慶2年(939年)12月19日、自らを新皇(しんのう)と自称し、石井(いわい)(今の茨城県坂東市岩井)を王城に定めました。当時、京都には朱雀天皇が御座しましたが、将門は朱雀天皇を本皇(ほんのう)としてしまったのです。以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは逃げ出し、将門は、残りの関東八ヵ国の国府を次々と占領し、遂に関東全域を手中に収めたのです。そして、独自に一族の者を関東諸国の国司を任命し、「独立政権」を樹立しました。

 

 

  • 藤原秀郷平貞盛との戦い

 

こうした事態に、摂政・太政大臣藤原忠平ら朝廷の権力者たちは、驚愕します。特に、同じ頃に西国で「藤原純友の乱」の報も入ったこともあって、朝廷が慌てたのは、言うまでもありません。対応に苦慮した朝廷は、940(天慶3)年1月、「将門を討った者は、身分を問わず貴族とする(4位の位と功田を与える)」との「太政官符(追補官府)」を全国各地に発布し、諸社諸寺には調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられました。

 

また、坂東8国に、下野の藤原秀郷、常陸の平貞盛、真壁の平公雅・平公連(将門の伯父良兼の息子)ら8人を押領使(地方の暴徒の鎮圧などにあたった官職)に任命しました。さらに、朝廷は、藤原忠文を征夷大将軍に任命、その印としての太刀(節刀)が下賜され、追討軍が京を出立しました。

 

一方、そのころ、将門は、常陸で平貞盛の軍を追い散らしたこともあって、下総の本拠へ戻り、兵を休養と田植えの準備のため地元へ帰還させてしまっていました。この結果、将門の手持ちの兵は下総の兵だけで、 全軍2千の5分の1以下の400人足らずを残すだけとなっていました。これを聞いた平貞盛は、下野の国(栃木県)の豪族、藤原秀郷(ひでさと)に掛け合い、将門討伐の軍を立てたのでした。2月、貞盛と秀郷の兵、併せて4000が、将門の10倍の兵力をもって、下総の国(千葉県・茨城県)に攻め入り、将門軍を撃破、将門の館に火を放ちます。

 

火の中を逃れた将門は、ひるまず騎馬隊の先頭にたって、貞盛の陣を襲います。風向きは将門にとって都合がよく、南風(春一番)が吹き荒れ、将門軍は矢戦を優位に展開、貞盛・秀郷の軍は総崩れとなっていきました。しかし、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風を負って勢いを得た貞盛・秀郷軍は反撃に転じます。突然の風向きの変化に、風煙が舞い、将門の乗った馬が立ちすくんだその瞬間、藤原秀郷が放ったとされる矢が、将門の額に命中し落馬、その瞬間に首を刎ねられました。

 

 

  • 将門の死

 

将門の死によって将門軍は鎮圧され、「関東独立国」はわずか2ヶ月で瓦解しました。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛らには従五位下がそれぞれ授けられました。将門の首は、都へ運ばれ、晒しものにされましたが、その首は、いつまでもかっと目をみひらき、切り離された胴体をもとめて、東国へ飛んでいったというような様々な「将門伝説」が生れています。

 

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<参照>

平将門の乱(Hi-ho)

歴史事象 平将門の乱(毛呂山町)

5分でわかる平将門の乱

Wikipediaなど

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