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2020年05月18日

皇室:宮中祭祀「旬祭」とは?

即位から1年を迎えられた天皇陛下は、5月1日、皇居で宮中祭祀「旬祭」に臨まれました。通常、「旬祭」について報道されることはありませんが、2020年は、即位1周年に当たったので、この日、「旬祭」の拝礼のために皇居に入られる陛下のご様子が報じられました。

 

旬祭(しゅんさい)」は、宮中三殿で行われる恒例の宮中祭祀の一つで、元日を除く毎月1日などに国の安寧や国民の幸せを祈る儀式です。装束姿の天皇陛下は宮中三殿を回り、玉ぐしをささげて拝礼されます。「旬祭」は毎月1日、11日、21日に掌典長が祭典を行い,原則として1日には天皇陛下のご拝礼があります。

 

宮中三殿

皇居内の吹上御苑の東南にある賢所・皇霊殿・神殿の総称。

 

  • 賢所(かしこどころ):皇祖天照大御神がまつられている。
  • 皇霊殿(こうれいでん):歴代天皇・皇族の御霊がまつられており,崩御・薨去の1年後に合祀される。
  • 神殿(しんでん):国中の神々がまつられている。

 

掌典長

掌典長は、掌典職のトップの役職者のことです。掌典職(しょうてんにしょく)は、日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門で、宮内庁の組織ではなく、内廷(皇室の私的機関)に属しています。そこで働く人々は、宮内庁職員ではなく「天皇の内廷職員」という身分になります。

 

<参照>

宮内庁HP、Wikipediaなど

 

2020年05月18日

皇室:コロナ危機と陛下の「自粛」

緊急事態宣言下、皇室行事も様々な制約を受けてしまっています。また、メディアが、天皇皇后両陛下や皇室方々について報じなくなった感があり、両陛下や皇族方のご動静も気になります。さらに、この先に対する不安が募る中、陛下のメッセージをお聞きしたいと思っている人たちも多いと思われます。

★☆★☆

 

 2020月5月は、天皇陛下のご即位から1年を迎えた節目の月ですが、新型コロナウイルスの感染拡大により、皇室では、2月23日の天皇誕生日の一般参賀中止以降、行事の取りやめや延期が続いています。コロナウイルスの影響で取り止めなどになった主な皇室の行事としては以下のご予定がありました。

 

  • 英国訪問

天皇皇かn后両陛下の即位後、初めての外国訪問となる予定だった英国訪問が延期となりました。

 

  • 秋篠宮さまの「立皇嗣の礼

4月19日に予定されていた、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」になられたことを内外に広く伝える「立皇嗣の礼(りっこうしのれい)」は延期となりました。これに関連して、天皇陛下の使者を伊勢神宮などに派遣する儀式や、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻が皇居の宮中三殿に参拝される儀式なども延期されることになりました。「立皇嗣の礼」は、2019年5月の天皇代替(だいが)わりに伴って国が行ってきた一連の儀式の締めくくりの行事となる予定でした。

 

  • 春の園遊会

園遊会とは、天皇皇后両陛下が主催される、毎年春と秋に各界の功績者ら東京・元赤坂の赤坂御苑に招いて開催される社交の場です。予定通り行われていれば、2018年11月以来で、天皇陛下の即位後初となるはずでしたが、中止となりました。

 

  • 全国植樹祭

両陛下ご臨席の下、5月に島根県で開催予定でした。全国植樹祭を含めて、国民と直接触れ合う機会として皇室が重視してきた地方訪問も中止または延期されています。

 

これら以外にも、日々の外国賓客との接見予定も取り止めが相次いでいます。

 

それでも、天皇陛下は、新型コロナウイルスの感染の拡大で活動が大幅に縮小する中、宮中祭祀や、政府から送られてきた書類に署名や押印を行う国事行為を続けながら、感染拡大の状況や影響について、さまざまな専門家から説明を受けられています。なお、宮中祭祀については、4月3日の「神武天皇祭」と、5月1日の月初めの「旬祭(しゅんさい)」は滞りなく行われました。

 

そうした中、「現代ビジネス」が「なぜコロナ禍に天皇からの「語り掛け」がないのか、皇室記者の考え」というの記事を5月13日に配信しました。記事では、感染拡大を「人類の危機」ととらえる見方もでているなか、陛下がこれまで、国民に向けてビデオなどで直接のメッセージを発していないことから、「それなのになぜ…」という気持ちを抱いている国民は決して少なくはないのではないかと問いかけています。

 

こうした疑問に対して、専門家の間では、「政府がさまざまな対策を講じる中で、天皇の発言は国政に影響を与えかねない」といった趣旨の発言が多く聞かれます。現在の日本国憲法において、天皇が国政に影響が出るような政治的な発言をすることは禁じられています。そこで、陛下は「挨拶」という形をとりながら、間接的に「尽力者へのねぎらい」などの言葉を慎重に選ばれながら国民に対してメッセージを発せられています。

 

例えば、2月の誕生日会見で、「感染の拡大ができるだけ早期に収まることを願っております」と言及されました。また3月、長女の敬宮(としのみや)愛子さまの高等科ご卒業に際して寄せた文書では、「多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています」と綴られていたそうです。さらに、4月には、両陛下は専門家会議の尾身茂氏から進講を受けられた際に、宮内庁は「天皇陛下からの冒頭ご発言要旨」と題して、陛下の発言を紹介する文書と、進講を受けられる写真を公表していました。

 

―――

尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長 御進講

令和2年4月10日

今日はお忙しいところ時間をとっていただきありがとうございます。尾身さんが,新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の副座長として,新型コロナウイルス対策に大変尽力されていることに深く敬意と感謝の意を表します。また,これまで,日夜,現場で医療などに携わってこられている多くの関係者のご努力を深く多としています。

 

現在,世界各地で新型コロナウイルスが猛威をふるっています。我が国でも,人々の努力と協力により,爆発的な感染がなんとか抑えられてきましたが,このところ東京などを中心に感染拡大の速度が速まってきていることなど事態の深刻化が懸念されております。医療提供体制のひっ迫が現れ始めていると聞き,先日は,政府による緊急事態宣言も出されました。

 

この度の感染症の拡大は,人類にとって大きな試練であり,我が国でも数多くの命が危険にさらされたり,多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後,私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら,この感染症を抑え込み,現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています。(宮内庁HPより)

―――

 

これは、まさに国民向けのメッセージに等しいと言えますが、当初、宮内庁は、公表する趣旨について説明を何もせず、ただ紙が張り出されただけだったそうです。その後、4月28日に宮内庁ホームページにも全文が掲載されました。この経緯について、宮内庁側は「国民にも伝えることが良いだろうと考えた」と、遠回りな趣旨を説明しました。

 

今回のコロナ危機のような緊急事態が発生した際、天皇陛下が、励ましメッセージすら国民にストーレートに呼びかけられない憲法の制約があるのです。天皇と日本国憲法について考えさせられます。

 

<参考>

「両陛下、コロナの試練に寄り添われ」(2020.5.1、産経新聞)

「なぜコロナ禍に天皇からの「語り掛け」がないのか」
(2020年5月13日、現代ビジネス)

宮内庁ホームページなど

 

2020年05月16日

神話:「日本武尊」のものがり

本HP「レムリア」で連載してきた「日本の神話(記紀)を読もう」シリーズの最終回は、古代日本のヒーロー、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の物語です。なお、ヤマトタケルノミコトは古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」の漢字が使われていますが、ここではカタカナで表記します。

ーーーーー

 

日本神話において最も武力に優れた英雄的な神さまとして知られるヤマトタケルは、12代景行天皇(在71~130年)の第二子として生まれました。母は播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)で、幼名を小碓命(オウスノミコト)といい、大碓命(オオウスノミコト)(おおうすのみこと)という双子の兄がいたとされています。

 

ある日、景行天皇の日代宮(ひしろのみや)(今の奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は、父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召し連れてくるように言われました。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は、二人があまりに美しい娘たちだったので自分のもとに置くことと決め、父には別の娘を引き合わせました。

 

しかし、このことが景行天皇に知られることとなります。大碓命(オオウスノミコト)は、父の前に顔を出しづらくなり、朝夕の食事にも同席せず、大事な儀式に出てこなくなりました。父は弟の小碓命(オウスノミコト)に、食事の席に出るように兄を諭してくるよう命じましたが、それでも大碓命が顔を出しません。そこで、小碓命にどうしたのかと問いました。すると、小碓命は、大碓命が言うことを聞かないので、「手足をもぎ取り、むしろに包んで投げ捨てました」と答えました(この逸話については異論あり)。

 

景行天皇は、小碓命(オウスノミコト)の超人的な力と、時折みせる荒々しい性格をみて、自分から遠ざけておこうと思われ、九州南部で勢力を拡大し、自分に従わない熊襲(くまそ)を征伐するように命じました。この時、小碓命はまだ16歳でした命じられたものの、わずかな手勢しか与えられず、困った小碓命は、伊勢神宮で天照大神を祀っている叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)を訪れると、倭比売命は、女性の御衣(みけし)と御裳(みも)を与えてくれました。

 

 

  • 熊襲討伐

 

その後、伊勢を発った小碓命らは、西暦97年12月に熊襲の国に到着しました。熊襲には、王の熊襲建(クマソタケル)またの名は川上梟師(カワカミタケル)が、この地を治めていました。当時、大きな家を新築したばかりの熊襲建は、親族を集めて宴会を開こうとしていました。そこで、小碓命(オウスノミコト)は、髪をほどいて少女のように髪を結い、叔母からもらった衣を着て、宴にいる女たちの中に紛れ込みます。腰に付けた剣は裀(みごろ)(=衣服)の裏に忍ばせませした。宴の最中、女たちの中にひときわ目立つ童女の姿を見つけた熊襲建(クマソタケル)は、手を取って隣に座らせ、お酒を飲みながら戯れていました。夜が更けた時、小碓命(オウスノミコト)は、ここぞとばかりに懐に持っていた短刀で、熊襲建の胸を一気に刺しました。

 

熊襲建(クマソタケル)は、息絶える前「待たれよ、まだ刀を抜かれるな」と頼みます。小碓命(オウスノミコト)がとどめをささずにいると、続けて言いました。

 

「そなたは何者か」

「私は大足彥天皇(オオタラシヒコノスメラミコト)の子で名は日本童男(ヤマトオグナ)である」「帝の命に従わないお前たちを、成敗しに来たのだ」

と小碓命が答えました。熊襲建がまた言いました。

 

「この国には、私より強い者はいない。私はこれまで多くの武人に会ってきたが、そなたのような者は初めてである」「尊号を奉じさせてもらってもよろしいか?」

「聞こう」

小碓命(オウスノミコト)が答えると、熊襲健(クマソタケル)は言いました。

 

「建(タケル)の名を献上させてもらいたい。」(「建」は勇敢な者という意味を持つ)

「これからは倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と名乗ってほしい。」

(ヤマト(大和)の強い男という意味)

 

と言い終わったところで、小碓命は刀を振りおろして、熊襲健の息の根を止めました。こうして、これ以降、小碓命(オウスノミコト)は、ヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)と名乗るようになったのでした。

 

 

  • 出雲討伐

 

熊襲の帰途、出雲に立ち寄ったとされるヤマトタケル(倭建命)は、その地の王である出雲建(イズモタケル)と親交を結ぶことにしました。しかし、ヤマトタケルの目的は、出雲建を征伐してこの地を平定することでした。ヤマトタケルは、密かに硬いイチイガシの木で刀を作りました。そして二人で河に入り水につかっていました。先に上がったヤマトタケルは出雲建が置いていた刀を取って「今から刀を換えて太刀合わせをしよう」と言いました。そこで、出雲建も河から上がりヤマトタケルの刀を持ち勝負しようしましたが、木刀だったので切り殺されてしまいました。

 

 

  • 東国へ派遣

 

ヤマトタケルは、西暦97年2月、意気揚々と大和に帰還し、熊襲と出雲の両地を平定した様子を天皇に報告しました。景行天皇は、皇子の功績をことのほか褒めますが、ヤマトタケルは休む間もなく、次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。東国の荒ぶる者たちが朝廷に叛いたので、乱を平定起こしていたからです。

 

父の景行天皇は、西暦110年7月、伊勢、尾張、三河、遠江(とおとうみ)、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(ふさ)、常陸、陸奥(みちのく)、東国の12か国を平定するよう倭健命に命じ、吉備武彥(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)をに同行させました。

 

同年10月出発したヤマトタケルは、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)にあいさつするため、伊勢に立ち寄り、「西の熊襲を討って都に戻ってきて、間もないのに、今度は、東国の12道の悪しき者たちを征伐せよと命じられました。父は私に死ねと思っておられるのか、本当はやめたいのです」と打ち明けます。すると、倭比売命(ヤマトヒメ)は、ヤマトタケルを諭し、伊勢神宮にあった神剣で、三種の神器のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、小袋に入った火打石を持たせて送り出しました。大和から尾張に入ると、ヤマトタケルは、国造の娘の美夜受比売(ミヤズヒメ)と出会い、東国の平定後に結婚すると約束して進んでいったと伝えられています。

 

 

  • 駿河にて~天叢雲剣の活躍

 

ヤマトタケルは、その年のうちに、初めて駿河の国に入りました。その地の国造(クニノミヤツコ)がヤマトタケルを迎え、「ここは広い野原で、鹿がたくさんいます。さあ、狩りをしましょう」と誘います。尊(ミコト)は、その者の言うことを信じ、野の中に入って行きましたが、それは罠でした。国造は、背後から野に火を放ち、辺りは火に囲まれてしまいます。

 

ヤマトタケルは、騙されたことに気づき、ヤマトヒメから授かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙(な)ぎ払い、火打ち石を使って向かえ火を起こすと、またたくまに敵に向かって炎が燃え盛り、逆に焼き払うことができました。この時、天叢雲剣が周りの草をなぎ払ったことから、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりました。

 

ヤマトタケルを罠に陥れようとした賊たちは捕らえられ焼き殺されました。海の近くで燃えた草原であったことから、この地は焼津(やいづ)と呼ばれるようになったと言われています。また、ヤマトタケルが近くの小高い丘に登り、周りの平原を見渡していた様子を見た土地の人たちが、そこを「日本平」と名付けたという逸話も残されています。

 

 

  • 相模にて~弟橘媛の入水

 

焼津を抜け出したヤマトタケルは、相模まで到り、ここから船で対岸の上総国(房総半島)に渡ろうとして言いました。

「こんな小さな海、一つ飛びで渡れるだろう」

 

そうして三浦半島の海から船を沖に進ませましたが、急に暴風が吹き荒れました。そのため、雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船は先に進みません。この時、大和から同行していた妃で弟橘媛(オトタチバナヒメ)が、尊に言いました。

「これは、海神の祟(たた)りです。尊の代わりに、私がその怒りを静めましょう。」

 

言い終えると弟橘媛は海に身を投げました。すると、嵐はやみ、船は進みました。ヤマトタケルは、最愛の妻を失う事となりましたが、無事に、上総国に上陸することができました。この時よりこの海を「馳水=走水(はしりみず)」(東京湾)と呼んだと言われています。

 

 

  • 蝦夷が服従

 

ヤマトタケルはすぐに、上総から海路で、蝦夷の境にあたる陸奥国(東北地方)に入りました。この時、蝦夷の首領の嶋津神(しまつかみ)(=蝦夷の首領)や国津神(くにつかみ)たちは竹水門(たけのみなと)(今の宮城県の多賀城市付近が有力)にいて入港を阻止しようとしていました。しかし、遠くから近付く、ヤマトタケルの船の威容を見て、勝ちそうもないことを悟ると、皆、弓矢を捨てて、尊に服従しました。これを見たヤマトタケルは蝦夷たちを許し、蝦夷の首領を従者としました。

 

 

  • 信濃で「坂の神」を成敗

 

蝦夷を平定した後、帰途に就いたヤマトタケルたちは、日高見国(ひたかみのくに)(東北の地のこと)から常陸を経由し、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)に来ました。ここで、尊は、「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。ただ、信濃国(長野県)と越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、いまだに帝に従わないでいる」と言った後、甲斐より北の武蔵(むさし)(東京~埼玉県一帯)、上野(かみつけ)(群馬県)を経由して西の碓日坂(うすいのさか)(群馬県碓氷峠)に到着しました。

 

そこで、弟橘媛(おとたちばなひめ)のことを思い出した尊(みことは)は、碓日峰に登り、東国を望んで、「吾妻(吾嬬)はや」(わが妻よ……)と嘆きました(「嬬」は「つま)と読む)。

それが契機となって、ここから東の国々を「あづまのくに」(東国/吾妻(嬬)国)と呼ぶようになったと言われています。

 

ヤマトタケルの一団は、ここから分かれて進み、吉備武彦を越国に遣わし、尊は山深い信濃へと進みました。

 

ヤマトタケルらが、足柄の坂本(今の神奈川・静岡県境)で食事をしているとき、「坂の神(山の神)」が尊を苦しめようとして、白鹿に化けて尊の前に立ちはだかりました。しかし、ヤマトタケルが一つまみの蒜(ひる)(=野蒜のびる)で打ちかけると、それが目に当たり、白鹿は死んでしまいました。これまで、信濃坂(しなののさか)を通る多くの人々は、霊気を浴び、病で伏せっていましたが、尊が白鹿を殺してからは、この山を越える者は蒜を噛んで、人や馬に塗ると神気に当たらなくなったと言います。

 

こうして、信濃(科野国)の「坂の神」を成敗したヤマトタケルは、美濃に出て、尾張の国境、内津(うつつ)峠に入りました。その間、越から戻ってきた吉備武彦とも再会できました。

 

 

  • 伊吹山での悲劇

 

東国を平定したヤマトタケルは、大和へ帰る途中、尾張(今の名古屋あたり)に戻ってきました。そこで、約束通り、尾張氏の娘の宮簀媛(美夜受比売)(ミヤズヒメ)と結婚しました。しばらく、尾張に留まって数か月が経ちましたが、近江の伊吹山(五十葺山)に荒ぶる神がいると聞いたヤマトタケルは、その神を征伐するために伊吹山に向かいました。しかしこの時、「素手で戦う」と言って、なぜか護身の呪力を持った草薙の剣を、ミヤズヒメのもとに置いたまま出立したのでした。。

 

伊吹山に着くと、山の神が大蛇(おろち)に化けて道を塞いでいました。ヤマトタケルは、蛇が山の神の化身とは気づかず、「この大蛇はきっと荒ぶる神の従者にちがいない。とるに足りぬ」と半ば無視して、蛇を踏み越えて進みました(なお、大蛇ではなく、大きな白猪(しろいのしし)という説もある)。

 

これに怒った山の神は、呪いをかけ、毒気のある氷雨を降らしたり、霧で道を迷わすなどしたため、ヤマトタケルは大きな痛手を被い、やがて病となり、やっとのことで山を下ることができました。山の麓で、意識もうろうとしながら、辿り着いたヤマトタケルは、泉の湧き水を飲んでようやく正気を取り戻せました。この泉を居醒清水(いさめのしみず)といいます。

 

しかし、尊(ミコト)の足はふくれあがり「歩けない、たぎたぎしくなった」と吐露しました(この逸話から、この地を「当芸野(たぎの)」と呼ぶようにようになったとされる)。また、急な坂を上るために、杖をつきながら歩かなければなりませんでした(この坂は杖衝坂(杖突坂)(つえつきざか)と呼ばれるようになったされる)。

 

それでも、ヤマトタケルは、立ち上がって尾張へ戻ってきました。しかし、宮簀媛(ミヤズヒメ)の所には戻らず、伊勢に向かい、尾津(おづ)(今の三重県桑名市)に到着しました。途中、「あまりにも疲れて足が三重にも折れ曲がったようだ」とつぶやきました。これが、この地を三重と呼ぶようになった由来だといわれています。

 

 

  • 臨終の地~能褒野

 

ヤマトタケルは、終焉の地となる能褒野(のぼの)(三重県亀山市)に着きました。この時、故郷(ふるさと)を懐かしんで、こう歌を詠みました。

 

大和は国のまほろば、たたなずく 青垣、山隠(やまこも)れる大和しうるわし

(大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く青い垣根のような山々に囲まれ、本当に美しい。)

 

この時、尊の病気はかなり悪くなりました。

嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きし 剣(つるぎの大刀(たち)その大刀はや

私が乙女(ミヤズヒメ)の寝床(ねどこ)に置いてきた、草薙の剣。ああ、その太刀よ

 

ヤマトタケルノミコトは、歌い終わると息を引き取りました。崩御された年齢ははっきりしませんが、御歳30歳とも言われています。

 

 

  • 日本武尊伝説

 

尊の死を痛く悲しんだ景行天皇は、すぐに群臣を集め、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)(三重県亀山市)に葬りました。

 

この時、陵墓から一羽の白鳥が出て、天に昇り、大和の方角へ飛び立ちました。群臣が棺を開いて見てみると、明衣(みょうえ)(=神事の衣服)だけが残され、遺体はありませんでした。そのため、使者を遣わして白鳥を追い求めさせたとも言われいます。
その白鳥が最初に舞い降りたとされる場所が、大和の琴弾原(ことひきはら)(奈良県御所市)で、この地に白鳥陵があります。再び空へと舞い上がった白鳥は、河内(かわち)に到り、旧市邑(ふるいちむら)(大阪府羽曳野市)に降り立ちました。そこにまた陵が造られました。それから、白鳥は再び空天高く飛び去っていったといいます。人々は、これらの三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んでいたそうです。

 

 

<参照>

ヤマトタケルって実在の人物?古事記や日本書紀の神話を簡単に解説!

日本武尊伝説

日本武尊の足跡を追いかける

Wikipediaなど

 

2020年05月11日

伝承:「金太郎」は実在していた!

桃太郎や牛若丸と同様に、五月人形の代表が、赤い腹懸けをして、まさかり(鉞)を担いだ姿でお馴染みの金太郎です。金太郎の人形を飾ることで、力強く、気持ちの優しい子どもに成長してほしいという願いがこめられています。

 

前回の投稿で、桃太郎のモデルが、崇神天皇の皇子、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)という説を紹介しました。金太郎の場合はどうでしょうか?日本に伝わる金太郎の昔話からみていきましょう。

―――

 

  • 金太郎伝説

 

心優しい力持ち

むかしむかし、足柄山(現在の静岡県駿東郡)というところに、ひとりの男の子が母親と2人で暮らしていました。その子の名は金太郎。山に住む熊や鹿や馬や牛とともに、相撲をとったり綱引きをして遊んだり、元気に成長しています。こんな逸話もあります。

 

ある日のこと、熊に乗っていた金太郎が、谷で立ち往生している動物たちところに出くわしました。なんでも、橋がないから向こう側に渡れず困っているとのことです。そこで、金太郎は、近くにあった大木を体当たりで倒すと、その木を谷にかけて橋にしたことで、動物たちが向こう側に渡れるようにしてやりました。

 

源頼光との出会い

その後も、すくすくと成長して若者となった金太郎は、足柄峠で、たまたま通りかかった、とある武士と出会うこととなります。その侍の名は源頼光(みなもとのよりみつ)といいました。各地を回って武士となる人を探していたそうです。頼光は、金太郎の姿を見て、その胆力を見抜き、自分の従者にしたいと申し出ます。金太郎は、母親や動物たちと別れるのは辛いと思ったものの、母親からの後押しもあって、源頼光の家来になりました。この時、「坂田金時」という名を与えられた金太郎は、ついには源頼光「四天王」の一人と呼ばれるようになるまで、順調に出世していき、京の都で大仕事を成し遂げます。

 

酒呑童子退治

当時の京では、神隠しの騒ぎが起きていました。陰陽師である安倍晴明に占わせたところ、神隠しは「酒呑童子(しゅてんどうじ)」という鬼の仕業であることがわかりました。「酒吞童子」は、丹波国(今の京都府北部)の大江山に居て、悪党を束ね、都に度々現れては悪さをしていました。源頼光は、一条天皇の「酒呑童子征伐」の勅命を受け、坂田金時を含む「頼光四天王」を引き連れて、酒呑童子の退治に向かいます。

 

その道中、一行はとある老人に出会いました。老人は「山伏に化けて行きなさい」という助言をくれ、「神変奇特酒」という眠り薬入りの特殊な酒を与えてくれました。実はこの老人たち、頼光が熱心に参詣していた石清水八幡宮や熊野神社の神さまでした。

 

山伏に身をやつした頼光たちは、酒呑童子に接触し、宴を開きました。その席で授けられた酒を与え、酔いつぶれた鬼をひとり残さず退治することに成功したのでした。そして、神隠しにあったとされているさらわれた者たちを連れ戻すことができました。

 

 

  • 金太郎のモデル

 

この金太郎の話の元となっているのが、平安時代に実在した武士で、金太郎の童話の中にも出てきた坂田金時(さかたのきんとき)と言われています。

 

金時神社(静岡県駿東郡小山町)の社伝などによると、京の都に、箱根の足柄山の彫物師十兵衛の娘で、「八重桐(やえぎり)」という女性が暮らしていました。そこで、宮中に仕えている「坂田蔵人」という人物と結ばれ、出産のために故郷へ帰ることとなり、金時(金太郎)を産みます。しかし、坂田蔵人がこの世を去ってしまったため、出産後は京へ戻らずにそのまま故郷である足柄山で金時(金太郎)を育てることになったそうです。

 

一説によれば、金時(金太郎)が生まれたのが、956年5月、幼名が「金太郎」、後に源頼光と出会うのが974年4月とされています。酒呑童子を倒し、坂田金時は武士として源頼光に仕え続けた坂田金時は、九州の賊を征伐するため筑紫国(今の福岡県)へ向かう途中、美作(今の岡山県)で病に伏し、1012年1月11日、死去したと言われています。享年55歳。

 

 

  • 金太郎は雷神の子!?

 

このように、坂田金時は、成長してから源頼光の家来となり、四天王のひとりとして大江山に住む酒呑童子(実際は「山賊」と見られる)を退治したことで有名になりました。その坂田金時の幼名が「金太郎」であったということから、金太郎伝説が生まれたと想定されています。

 

金太郎伝説の中には、金太郎の母親は足柄山に暮らしていた山姥(やまんば)で、父親は山に棲む雷神(赤龍)だったという逸話があります。これによれば、金太郎は、赤い顔に赤い腹掛けをして、鉞(まさかり)を担いでいる理由は、雷神の色は赤で、雷神は火の神であり、まさかりを持っているからだとみなされています。さらに、金太郎は、赤い竜の父である雷神から赤い肌と強い力を、また山の神に仕える女性である山姥からは、心の優しさを受け継いだとされているのです。実際、平安末期の「今昔物語」には、金太郎の母が、「この子は、わたしが山で眠っていたところ、夢の中で赤い竜と通じ、身ごもった子なのです」と語った説話が残されています。

 

ただし、現代に通じる心優しい力持ちの金太郎の印象が確立したのは、「酒吞童子」退治の話しが流布し、江戸時代の近松門左衛門作の歌舞伎や浄瑠璃の題材として演じられるようになってからのことだとされています。これは、坂田金時が生きていた時代の600年ほど後になります。

 

なお、坂田金時が仕えた源頼光は、清和源氏2代目、源満仲の嫡子で、摂津源氏の祖です(詳細は「源氏」参照)

 

<参照>

「金太郎」は実在した?昔話のあらすじや伝説、退治された酒呑 …

昔話「金太郎」のモデルとなった源頼光の四天王、坂田金時とは?

Wikipediaなど

 

 

 

 

 

2020年05月10日

伝承:「桃太郎」は実在していた?

金太郎や牛若丸とともに、端午の節句に飾られる五月人形のひとつとして、桃太郎があります。今回は桃太郎についてまとめました。「桃太郎は皇族の皇子だった」と言われたらビックリではないでしょうか?

―――

 

  • 桃太郎のおとぎ話

 

桃太郎の話しは、室町時代以前にその原型があったと考えられていますが、江戸時代から語り継がれて有名になったと言われています。そのお話しは大方次のようなものです。

 

川で洗濯をしていたお婆さんが、流れてきた桃を拾って、家に帰って割ってみると、男の子が出てきました。桃太郎と名づけられた子が健やかに成長すると、きび団子を持って鬼退治に出発します。鬼が住む「鬼ヶ島」に向かう途中、桃太郎は、犬、猿、雉(きじ)を仲間にして、村の人々を苦しめている鬼を退治します。そして、鬼たちの持っていた財宝を手に入れると、育ててくれたお爺さんやお婆さんをはじめ、村の人々に分け与えて幸せに暮らしました。

 

 

  • 「端午の節供」と桃太郎

 

男の子を持つ親が桃太郎を「端午の節句」で飾るのは、この桃太郎のように、健やかなに成長し、鬼に立ち向かう勇気や力強さを持ち、犬、猿、雉を従えた人望や賢さを兼ね備えた理想の男の子に育って欲しいという期待が込められているからです。また、桃太郎が鬼を退治したということから、わが子にも災厄から身を守る運の強さやがあって欲しいという願望も込められていると解されています。このように、端午の節句の桃太郎は、邪気を払い、子どもの健やかな成長を祈る庶民信仰の対象となっていったのでした。

 

 

  • 「桃の節句」と桃太郎

 

一方、桃太郎は、「端午の節供」だけでなく、「桃の節供(3月3日)」の時にも登場します。桃が昔から悪い邪気を払う神聖なものとして用いられ、その邪気の象徴は鬼とされており、邪気を祓う力のある桃には、鬼を退治する力もあると考えられてきました。また、桃は、不老長寿を与える植物とされるなど長生きの象徴であると同時に、生命を宿す女性も意味するとされるなど女性の象徴でもありました。さらに、旧暦の3月3日は桃の花期にあたるため、桃を用いて行事を行うようになった(「桃の節句」と呼ばれる所以)と言われています。こうした背景からも、桃から生まれた桃太郎が、邪気を象徴する鬼を退治をする民話が誕生し、桃の節供の3月3日にも、桃太郎が取り上げられています。

 

 

  • いろいろな桃太郎

 

ところが、このように昔から親しまれてきた桃太郎のおとぎ話にも、諸説あります。まず、桃太郎伝説の舞台は、岡山県(吉備)と見られています。これは、犬やキジや猿をお供にするきっかけとなったきび団子が「吉備団子」ということからきていますが、愛知県や香川県が舞台という説もあるのです。

 

また、鬼退治をするといった同様の話しは、北海道から沖縄まで、幾つも存在しています。逆に、桃太郎の昔話に中には、怠け者の桃太郎や、腕白な桃太郎もいたり、桃太郎のお供をするのは、犬、猿、雉ではなく、名前に「太郎」の付いた仲間達と旅をするといったように、童話の設定が異なるものもあります。

 

さらに、桃太郎伝説の原型では、「桃太郎は桃から生まれてなかった」のかもしれません。前述したように、桃は古来、不老長寿を与える植物とされていたことを反映していたからかどうか確かではありませんが、明治時代初期までの桃太郎のお話は、「桃を食べたおばあさんとおじいさんが若返って、桃太郎が生まれた」というものであったと言われています。今に伝えられている「桃から生まれた桃太郎は…」の童話は、明治20年に国定教科書に採用される際に、「子供向け」に変更されてからの話しなのだそうです。では、「大人向け」の桃太郎の逸話はあるのでしょうか?

 

 

  • 実在の桃太郎!?

(吉備津彦命の伝説/温羅伝説)

 

桃太郎は、紀元前3世紀頃に活躍した吉備津彦命(キビツヒコノミコト)がモデルであるとする説があります。吉備津彦命は、「古事記」や「日本書紀」などの歴史書に登場する神さまで、第7代天皇である孝霊天皇(コウレイテンノウ)と妃の倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ)の間にできた子です。正確に言えば、「吉備津彦命(キビツヒコノミコト)」は別名で、本来の名前は「五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)」です。

 

孝霊天皇の跡継ぎではなく、将軍という地位だった五十狭芹彦命(後の吉備津彦命)は、第10代、崇神天皇(スジンテンノウ)の御世に、吉備国(きびのくに)(今の岡山県)へ派遣され、その地を支配し人々を苦しめていたとされる温羅(おんら/おんうら)の討伐を命じられ、吉備の地を平定したという伝説があります。五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)は、温羅を討ち取り吉備国を平定したため、後に「吉備津彦」を名乗ったと言われています。

 

吉備津彦命伝説(温羅伝説)によれば、温羅(おんら)は、元々、朝鮮半島の百済(くだら)の王子でしたが、空を飛んで日本に渡ってきた後、吉備の国を支配し、圧制を敷いたとされています。その容貌はといえば、まさに鬼のごとく、「目には狼のような獰猛さを宿し、髪は赤く燃え盛り、身長は4メートルを超えた」と形容され、好き放題に暴れ回っていたと伝えられています。この温羅という「鬼」が拠点とした城を、人々は恐怖の意味を込めて「鬼の城(きのじょう)」と呼んでいたそうです。

 

恐れおののいた人々が都へ出向いて助けを求めたことを受けて、武勇の名将である五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト)が派遣されることになったのです。都より大軍を率いて吉備の中山に本陣を構えた五十狭芹彦命は、一本ずつ矢を放ちますが、温羅が投げた岩にぶつかり、一進一退となります。そこで、命(みこと)が、2本の矢を同時に射ると、1本の矢が温羅の左目を射抜きました。致命的な傷を負った温羅は、とっさに雉(きじ)に姿を変え山中に逃げますが、五十狭芹彦命は鷹になって追いかけ、さらに、鯉に姿を変えて川に逃げた温羅を、鵜(う)の姿になって追いかけ、飲み込んで捕えました。最後は、温羅の首を切り落とし、無事に討伐に成功したのです。

 

このように、昔の人々は、鬼のような温羅を討った五十狭芹彦(後の吉備津彦命)を讃え、桃太郎伝説として後世に語り継いでいったとみられています。もっとも、温羅は、大方、討伐されるべき「悪者」として描かれていますが、吉備国に製鉄技術をもたらした渡来人であるという説もあり、その正体は正確にはわかっていません。

 

吉備津彦命(キビツヒコノミコト)も、実在した人物なのかもはっきりしていません。岡山県には、吉備津彦命が実在したと思わせる場所がいくつか残っているそうですが、命が281歳まで生きたと言われていることから、伝説上の人物だという見方が多いようです。

 

 

  • 犬・猿・雉の正体

 

一方、桃太郎のお供についた犬・猿・雉(きじ)は、一体何に由来しているのでしょうか?これについても諸説ありますが、吉備津彦命に仕えた三人の家来のことだったという「家来説」が有力です。その三人とはそれぞれ犬・猿・鳥という名前がついた以下の三人です。

 

・犬飼部犬飼健命(いぬかいべのいぬかいたけるのみこと)
・猿飼部楽々森彦命(さるかいべのささきもりひこのみこと)
・鳥飼部留玉臣(とりかいべのとめたまおみ)

 

犬の犬飼健命(いぬかいたけるのみことは、猟犬を飼育、朝廷に仕えた一族で、子孫は現在の犬飼(犬養)家。猿の楽々森彦命(ささきもりひこのみこと)は、吉備津彦命の軍師的存在で、子孫は現在の高塚家、藤井家。鳥の留玉臣(とめたまおみ)は、百里を飛ぶ能力を持つ術師だったとされ、子孫は現在の鳥飼家、鳥越家とそれぞれ言われています。

 

 

<参照>

端午の節句に「桃太郎人形」を飾るのはなぜ?

なぜ桃の節句というのか? 桃太郎との関係

古代史の旅桃太郎と神武東征伝説(古代史の旅)

桃太郎さん(吉備津彦神社HP)

桃太郎のモチーフとなった温羅伝説とは?(神社CH)

桃太郎と神武東征伝説

 

 

2020年05月09日

伝統行事:日本由来の「端午の節供」

5月5日は、「端午の節句」でした。日本では「男の子の節句」、「子供の日」として定着していますが、その歴史的・文化的な背景についてはあまり知られていません。今回は「端午の節句」についてまとめてみました。そこには意外な事実も発見できました。

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1.「端午の節句」の由来と歴史

 

「端午の節句(たんごのせっく)」が5月5日であることは、今では当然のように知られていますが、「端午」とは、もともと「月の初め=端(はじめ)の、午(うま)の日」という意味で、5月に限った言い方ではありませんでした。その後、5月が十二支でいう「午の月」であることから、「端午」は「5月の初旬」と解されるようになりました。さらに、「端午」の「午(ご)」と数字の「五(ご)」の音が同じなので、毎月5日を指すとされ、やがて、「端午の節句」は、5月5日になったと伝えられています。

 

 

  • 邪気払いの端午節

 

この「端午の節句」の起源は、旧暦の5月5日に行われた古代中国の「端午」の行事(=端午節)にあると言われています。古代中国で、旧暦5月は、雨季に当たるとともに急に暑くなる時期で、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多いことから、「毒月」と呼ばれたり、物忌みの「悪月」とされたりしていました。また、5が重なる5月5日は重五(ちょうご)と呼ばれ、病気や災厄を祓う節句とされるなど、この時期、病気や災厄の祓い(邪気祓い)は、大事な行事で、健康を祈願していました。

 

その際、薬草にも使われる香り高い菖蒲(しょうぶ)や(よもぎ)は、厄除け(やくよけ)、毒除け、魔除け効果があると昔からの信仰があり、節句には、菖蒲や蓬(よもぎ)の葉を門に刺したり、蓬で作った人形(ひとがた)を軒に飾ったり、菖蒲酒を飲んだり、湯に入れて「菖蒲湯」として浴する習慣がありました。

 

 

  • 屈原を慕った端午節

 

また、中国の端午節(たんごせつ)は、今から約2300年前の戦国時代に生きた「屈原(くつげん)」という人物の話しにも由来しています。楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃~前278頃)という政治家がいました。詩人でもあった屈原(くつげん)は、その正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は、同僚の陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。

 

中国古典文学史上、不朽の名作として、現在も読み継がれている長編叙事詩「楚辞」の「離騒(りそう)」は、屈原が国を憂い、その想いが届かず世を儚(はかな)んでいる心情が詠われています。そしてその詩のように、故国の行く末に失望した屈原は、5月5日に、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。

 

楚の人々は、屈原の遺体を探すために、川に船を出しました。しかし遺体は見つかりません。そこで、屈原の体が川の中で魚の餌になるのはしのびないと考えた人々は、小舟で川に行き,船から太鼓を叩いて、魚を追い払い、「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。それ以降、5月5日は屈原を偲んで川に船を出すという習慣が生まれ、舳先(へさき)に竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事となり、それがやがて、今日のドラゴンボートレース(龍舟比賽)として発展することとなったのです。

 

また、屈原の死を悲しんだ人々は、命日に川に集まり、竹筒に米を入れて投げ入れていました。ところが、屈原の霊が現れ、「米が龍に食べられてしまうので、龍が嫌う栴檀(せんだん)の葉で包んで糸で結んで欲しい」と言ったそうです。中国の故事によると,粽(ちまき)は,栴檀(せんだん)の葉でくるまれたのが始まりだと伝えられています。これがちまき(肉粽=ローツォン)の起源で、この事から「端午の節句」にちまきや柏餅を食べる風習が広まっていきました。

 

 

  • 古代中国の端午節

 

これらが、やがて中国全土に広がり、毎年命日の5月5日には、屈原を偲び、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れる行事となって行ったのでした。そして、その風習は、屈原の追悼だけでなく、病気や災厄(さいやく)を除き、無病息災や、国の安泰を祈念する端午節となったと言われています。三国志の時代(180年頃~280年頃)になると、魏の国が、端午節を旧暦5月5日に定めたとされています。

 

こうした中国の端午節は、やがて日本に入ってくるわけですが、伝わったのは、屈原を偲ぶ行事ではなく、無病息災を願う邪気払いの風習でした。しかも、中国の「端午節(たんごせつ)」が、そのまま日本の「端午の節句」になったのではありません。

 

 

 

  • 日本古来の「端午の節句」

 

中国から端午の節句(端午節)が伝わる前の日本では、5月5日は、もともと女の子の節句で、5月1日~5日に「女児節(じょじせつ)」という女の子を着飾らせてお祝いをする習慣がありました。その女児節のルーツは、田植えの時期に行われていた日本古来の早乙女(さおとめ)のまつりでした。当時の田植えは神聖なものとされ、「早乙女(さおとめ)」と呼ばれる農家の若い清らかな女性たちが行っていました。

 

当時の日本には、田植え月の五月に「五月忌み(さつきいみ)」という日本古来の風習がありました。「五月忌み」は、早乙女が、田の神様のために、巫女となって、田植えを始めるこの時期に五穀豊穣を祈り、仮小屋や神社などに籠って、穢れを祓い身を清める儀式です。つまり、5月5日は、田の神様に対する女性の厄祓いの日で、神聖な存在になってから田植えに臨むようになったのです。「五月忌み」はある意味、神事といえますね。

 

こうした日本古来の風習(神事)に、中国から伝わった端午節と結びつき、早乙女は、菖蒲(しょうぶ)や、蓬(よもぎ)で屋根を葺いた仮小屋に一晩こもり、菖蒲酒を飲み、菖蒲湯に入り、穢れを払うという習わしが生まれたと考えられています。ですから、日本の「端午の節句」は、中国に由来するというよりも、日本の古来の早乙女の祭り「五月忌み」のような風習に中国の端午節の要素の一部が加味されて生まれたという言い方が正確かもしれません。

 

 

  • 奈良・平安時代の「端午の節句」

 

いずれにしても、古代中国の風習)が飛鳥時代の頃、日本に伝わり、奈良時代に日本でも「端午の節句」が行われるようになりました。当時、季節の変わり目である端午の日には、病気や災厄をさけるための行事が催され、平安時代には「端午の節会(せちえ)」という宮中行事としても定着していました。

 

日本でも菖蒲の薬効と香りは穢れを祓うとされ、厄除けとして使われており、宮廷ではこの日、軒(のき)に菖蒲やよもぎを挿(さ)したり、冠に飾ったり、菖蒲の葉で作った薬玉(くすだま)を柱に下げたりするなど、厄よけの飾り物としたそうです。また、薬草(菖蒲や蓬)摘みをして、贈り合ったり、菖蒲の葉を浮かべたお風呂(菖蒲湯)に入ったり、菖蒲を浸した酒を飲んだりして楽しみんだと伝えられています。さらに、病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る騎射(うまゆみ)、競馬(くらべうま)などの勇壮な催し(儀式)も行われました。

 

 

  • 鎌倉時代の「端午の節句」

 

古来から行われていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと衰えてきました。逆に、武士のあいだでは、飾られる菖蒲(しょうぶ)が、勝負や尚武(武芸を尊ぶ)に通じる上、菖蒲の葉の形が刀に似ているということから、菖蒲は勇ましさの象徴となり、「端午の節句」を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。

 

また、その日に、男の子に五月人形(後述)の鎧兜や太刀を贈ったり、鎧兜と一緒に菖蒲を飾ったり、流鏑馬(やぶさめ)をする風習も生まれて、「端午の節句」が武家社会の中で重要な行事に変わっていきました。

 

 

  • 江戸時代の「端午の節句」

 

江戸時代に入ると、1616年(元和2)の制令などで、「端午の節句(5月5日)」は、徳川幕府の重要な式日(現在の祝日)(五節供のひとつ)に定められました。大名や旗本は、節句の日に染帷子(そめかたびら)の式服で江戸城に出仕し、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に世継ぎが生まれると、城中に馬印(うましるし)や幟(のぼり)、作り物の槍、薙刀、兜などをを立てて祝いました。

 

やがて、端午の節句は、武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まり、男の子の誕生を祝う日となっていったのです。初節句には厚紙でこしらえた兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども屋外に飾るようになり、さらに、江戸時代の中期には、武家の幟(のぼり)に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。

 

こうして、「端午の節句」は、江戸時代、五月五日に、「鯉のぼり」を掲げて、「武者人形(五月人形)」を飾る、現在のように、男の子の前途を祝う男の子のお祭りとして定着したのでした。作り物の鎧兜は、やがて屋内に引き入れられ、精巧な内飾りに変化していきます。また、外飾りの場合は、民間ではのぼりに武者絵などを大きく描いて、にぎやかに飾り立てました。

 

 

  • 現代の「端午の節句」

 

明治時代に入ると、節句行事そのものが廃止され、あらたに国の祝祭日が定められたことかおら、端午の節句も一時衰えました。しかし、男の子の誕生を祝いその成長を祈るという風習はやがて復活し、昭和23年に「国民の祝日に関する法律」で、端午の節句にちなみ、5月5日は「こどもの日」として継承されています。

 

繰り返しにはなりますが、日本の「端午の節句」は、古代中国から伝わった「端午」の行事(端午節)を起源とするというよりは、もともと、日本の習慣の中にあったものが、中国の端午節が伝わったことで進化して、現在の「こどもの日」になったということができます。実際、中国の端午節は「こどもの日」ではありません。中国の「こどもの日」は、現在6月1日で、中国政府が2002年に「児童節」として新たに定めた新しい祝日です。

 

 

2.端午の節句に行われる様々な風習

 

  • 鯉のぼりと吹き流し

 

室町時代から、武家では五月五日の端午の節句に、男の子が生まれた印として、竹竿に布を張り幟(のぼり)(=吹き流し)を立てていたそうです。鯉のぼりは、江戸時代になって、町人たちが、武家をまね、和紙で作った鯉の幟(のぼり)を、竿につけて高く揚げたのが始まりだとされています。

 

もともと、鯉のぼりは、「鯉が滝を登って龍になった」という中国の故事成語「登竜門」にちなんだものです。日本でも「鯉の滝のぼり」としてなじみ深い言い伝えで、鯉は立身出世の象徴となりました。コイは、昔から威勢のいい魚として知られ、子供が元気に育つようにという親の願いから、男の子の祭りである端午の節句には鯉のぼりを掲げ、健やかな成長を願ったのです。また、家族が増えるごとに鯉の数も増えていくなど、鯉のぼりは、お家繁栄の縁起物となっています。

 

一方、鯉のぼりの中には五色の吹き流しがあります。なぜ、吹き流しは五色なのかというと、古代中国の陰陽五行説に由来し「木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒」を表しています。

 

 

  • 五月人形

 

端午の節句には、鯉のぼりに加え、五月人形(武者人形)を飾る風習もあります。金太郎や牛若丸といった有名な武者や、桃太郎などの英雄を模したものを「武者人形」と呼び、勇ましい男子に育つよう願いが込められています。

 

「五月人形」は、「雛まつり」のひな人形(流しびな)と同様、人形が、子ども一人一人の厄災を受けてくれるという身代り信仰の風習を引き継ぐものです。五月人形は実際に手を触れることがその子の災厄を移すという考え方もあるそうです。

 

 

  • 鎧・兜

 

武士の命を守る大切な道具である鎧(よろい)と兜(かぶと)は、様々な災いから子供を守って、無事に逞しく成長するよう願って飾られます。五月人形と同様、「端午の節句」に飾る鎧や兜もまた、ひとりひとりの災厄を身代わるという風習から生れたもので、「一生のお守り」のような存在です。

 

 

  • 菖蒲

 

菖蒲(しょうぶ)は、薬草にも使われ、邪気を祓い魔除け効果があるとされ、節句にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。枕の下に敷いて眠ったり、菖蒲酒を飲むという地域もあります。また、菖蒲を束ねて地面を叩き、その音の大きさを競う”菖蒲打ち”という遊びもあるそうです。

 

 

  • ちまきと柏餅

 

端午の節句には、関東では柏餅を、関西ではちまき(粽)を食べるという風習が広く伝わっています。古代中国の「屈原」の話しの中で説明したように、ちまき(粽子)は、屈原を偲んで、中国の「端午の節句」(端午節)食べられます。もともと、ちまきは、中国では古い時代からある食べ物で、米を竹などの植物の葉で包み、それをゆでたり蒸したりすることで植物から出る灰汁が防腐剤代わりとなる保存食だったそうです。平安時代には日本に伝わっていたとされています。

 

一方、ちまきに並んで、柏餅も端午の節句の重要な食べ物です。柏餅の柏の葉は、新しい葉の芽が出ないと古い葉が落ちません。そこから、「家が断絶しない」「子孫繁栄」をもたらす縁起物となり、武家社会で重宝されました。

 

 

  • 薬玉

 

薬玉(くすだま)とは、もぐさや鹿の角などの薬種と、沈香などの香料を入れ玉状にしたものです。菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)の茎や葉で玉を編み、隙間を花や五色の糸で飾って、部屋にかけることで、厄除けの役割を果たしました。日本では、貴族同士で薬玉を贈りあう習慣もあったそうです。

 

 

<五節供(節句)>

 

季節の節目となる日で、江戸時代に一年間の五つの節句が定められました。3月3日や5月5日のように奇数の重なる日が選ばれていますが、1月は7日の人日(じんじつ)が五節供の中に取り入れられています。

 

人日(じんじつ)の節供(=1月7日):七草の節供

上巳(じょうし)の節供(=3月3日):桃の節供

端午(たんご)の節供(=5月5日):菖蒲の節供

七夕(しちせき)の節供(=7月7日):笹の節供

重陽(ちょうよう)の節供(=9月9日):菊の節供

 

邪気を祓うために、旬の植物から生命力をもらうということで、それぞれの節供には植物の名前がついています。

 

<参考>

伝統行事:日本由来の「ひな祭り」

 

<参照>

端午の節句の歴史(日本人形協会)

端午の節句とは?|意味や歴史を簡単に

端午の節句の由来といわれ – こうげつ人形

五節供(暮らしの歳時記)

端午の節句(こどもの日、菖蒲の節句)

2020年05月05日

憲法:明治憲法の「国家緊急権」を読む

日本国憲法において、国家緊急権の表われといえるような緊急事態条項は、規定されていません。ですから、戦後の政府は、緊急事態法制の整備には及び腰で、今回、新型インフルエンザ等対策特別措置法においても、原則、罰則はなく、都市封鎖(ロックダウン)など強制力のある措置がとれないと言われています。

 

日本国憲法に、原則、緊急事態条項が規定されていない背景には、戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)には、緊急勅令(8条)、戒厳の宣告(14条)、天皇の非常大権(31条)というように国家緊急権の発動が規定され、軍部が独走したことに対する「反省」があったからと説明されています。

 

そこで今回は、明治憲法の国家緊急権について説明してみたいと思いますが、「日本国憲法は、明治憲法の反省の上に書かれた」式に、明治憲法「悪玉」論が支配的です。本HP「レムリア」では、一般的に信じられている内容について、実はそうではなかったのかもしれないという視点に立って考えることを一つの目的としています。従いまして、明治憲法についても、実はこんな解釈もされているという見方も同時に紹介したいと思います。

 

 

<明治憲法を一般的に解釈したら…>

 

第8条(緊急勅令大権

  1. 天皇は公共の安全を保持し、またはその災厄を避けるため緊急の必要があり、かつ帝国議会が閉会中の場合において、法律に代わる勅令を発する。
  2. この勅令は、次の会期に帝国議会に(法律案として)提出しなければならない。もし議会において承認されなければ、政府は将来その勅令が効力を失うことを公布しなければならない。

 

勅令:天皇が発する命令。議会を通さない法律のこと。

 

既存の解釈

帝国議会が閉会中、災害や凶荒な疫病など緊急な事態が発生した時に、天皇が緊急勅令(緊急命令)を出すことができることを定めています。緊急勅令は、実質的には法律と同じ効力を持っており、政府が議会とは無関係に独自に立法を行うことができました。さらに、緊急勅令は法律に代わる事ができ、現行の法律を停止(変更、廃止)できるのです。

 

もっとも、本条第二段で議会に承認権を認めているとして、本条を擁護する立場もありますが、神聖で不可侵の天皇が発する勅令を議会が承認しないということは、現実的には困難でした。これに対して、国会を唯一の立法機関としている日本国憲法では、そのような緊急命令(緊急勅令)は一切認めていません。

 

 

第14条(戒厳大権)

  1. 天皇は戒厳を宣告する。
  2. 戒厳の要件や効力は法律によって定める。

 

既存の解釈

外敵・内変、戦時など非常事態が発生し、戒厳令が宣告された場合、法律が停止され、行政、司法の全権または一部の権限が軍に移されます。そうなると一般の人々の権利に重大な影響を及ぼしてしまいますが、こうした規定は、日本国憲法にはありません。

 

 

第31条(非常大権)

本章に掲げた(臣民の権利義務に関する)条規は、戦時または国家事変の場合において、天皇大権の施行を妨げることはない。

 

既存の解釈

本条は、いわゆる「天皇の非常大権」を規定した条文で、戦時または国家事変において、本章に掲げられた臣民(国民)の権利、義務に関する規定の一部または全部を停止できる権限を天皇大権(帝国議会の協賛を受けずに行使される天皇の権能)として認めています。天皇が帝国議会の参与なしに国家行為を行うことができるとする非常大権は、人権保障を危うくするおそれがあり、こうした規定は日本国憲法にはありません。

 

 

<帝国憲法を善意に解釈したら…>

これに対して、帝国憲法の緊急事態条項について、善意に解釈すれば、それぞれ次のようになります。

 

第8条(緊急勅令大権

  1. 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ 又ハ其ノ災厄ヲ避クル為 緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ 法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
  2. ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ 帝国議会ニ提出スヘシ 若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ

 

  1. 天皇は公共の安全を保持し、またはその災厄を避けるため、緊急の必要がありかつ帝国議会が閉会中の場合において、法律に代わる勅令を発することができる。
  2.  この勅令は、次の会期に帝国議会に(法律案として)提出しなければならない。もし議会において承認されなければ、政府は将来その勅令が効力を失うことを公布しなければならない。

 

善意の解釈

災害や疫病など緊急事態が発生した場合、公共の安全を保ち、予防救済に努めることが求められます。とりわけ、議会が閉会中となれば、政府が天皇の勅令を法律に代えて、これに対処することは、国家として当然の行為といえるでしょう。

 

ただし、帝国憲法は、この緊急勅令権を本条において保証すると同時に、その乱用を戒めています。まず、緊急勅令を発する場合は、本条第1項に、①公共の安全を維持し、またはその災厄の予防救済の目的があること、②帝国議会の閉会中で、③緊急の必要があること、という条件を置いています。また、運用上も、緊急勅令を発するに当たっては必ず天皇の相談役的な機関である枢密顧問の諮詢(しじゅん)(諮問)を要しました。

 

加えて、本条第2項には、議会にこの特権の監督者としての役割を与え、緊急命令を事後に検査して、これを承諾させる必要のある事を定めています。その際、議会は、緊急勅令が憲法に矛盾したり、または本条1項に掲げた①から③の要件を満たしていないと判断したりした場合は、承諾を拒む事ができました。さらに、もし、次の会期において議会が承諾しなかった場合、政府は更に将来効力を失う旨の公布をしなければならない義務を負いました。

 

 

第14条(天皇の戒厳大権)

  1. 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
  2. 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

 

  1. 天皇は戒厳を宣告する
  2. 戒厳の要件や効力は法律によって定める。

 

善意の解釈

天皇は戒厳令を宣告することができます。ただし、天皇の戒厳大権が行使された場合、人々の権利に重大な影響を及ぼすので、戒厳大権は、法律の条項に準拠した上で行使されなければならないと本条2項に規定されました。具体的には、法律によって、戒厳の要件(必要な規程)や効力(権力の及ぶ限界)を定め、また運用上も、国務大臣や枢密顧問の輔弼が不可欠とされ、慎重に実施されるような歯止めがかけられていました。さらに、現実的にその運用そのものも軍の将帥(軍隊を率いて指揮する大将)に委任されていました。

 

 

第31条(天皇の非常大権)

本章ニ掲ケタル条規ハ 戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ 天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ

本章に掲げた条規は、戦時または国家事変の場合において、天皇大権の施行を妨げることはない。

 

善意の解釈

帝国憲法では本条において、国家に緊急事態が発生した場合、天皇は非常大権を保持し、臣民の権利に優先されるとする「天皇の非常大権」について定めています。

 

帝国憲法を起草した伊藤博文は、自ら解釈した「憲法義解」の中で、次のように天皇の非常大権の重要性を指摘しています(以下要約)。

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すぐれた船長は転覆や沈没を避け、乗客の生命を救うために必要なときは、その積荷を海中に投棄しなければならないこともある。また、良将は全軍の敗北を避けるために、やむを得ない時期にあたって、その一部隊を見捨てる場合も避けられない。

 

これと同じように、国家元首である天皇は、国家の非常時において、その存立を保持するために、最後の手段として、法律や臣民の権利の一部を犠牲にしなければならない場合もでてくる。この国の存立と保持のために採る行動は、天皇の元首としての権利だけでなく、最大の義務でもある。従って、国家にもしこの非常大権がない場合、国家権力は非常時に際して、その職責を尽くす手段がないことになってしまう。

 

常識で考えても、世界各国の憲法をみれば、このことを明示し、あるいは明示しないにかかわらず、非常時の国家権力の発動を認めていない憲法はない。国家は戦争など非常時には何らかの必要な処分を行なわなければならないからである。

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この伊藤博文の見解に立てば、現行憲法において、国家緊急権(緊急事態条項)についての規定がないというのは、国の存立と国民の生命や財産を、国家は守らないと言っていることに等しくなります。ただし、伊藤は平時において、みだりに非常大権を持ち出して、臣民の権利を蹂躙することは、各国の憲法は決して許さないことであるとして、天皇の非常大権を政府が濫用することもしっかりと戒めています。

 

なお、この31条の非常大権は、一度も発動されたことはありませんでした。

 

 

2020年05月05日

憲法:「日本国憲法は9日間で書かれた」を考える

5月3日は、1947年に施行された日本国憲法の誕生の日(憲法記念日)でした(公布は46年11月3日)。今月は日本国憲法について投稿していきたいと思います。まずは、「日本国憲法は、マッカーサーのメモ書き(マッカーサー・ノート)を基にしてGHQが1週間ほどで書いた」という見方を検証します。

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  • 松本委員会とマッカーサー3原則

 

日本は1945年(昭和20年)8月にポツダム宣言を受諾した後、戦争状態を終結させる講和条約を締結するまでの間、マッカーサーをトップとする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)(以後、総司令部またはGHQと表記)によって、日本政府の形は残したまま間接的に統治されました。

 

1945年10月、マッカーサーは、日本の民主化政策の一環として、治安維持法などの弾圧の手段に活用された法律などの廃止、実際に弾圧を行った内務省警保局・特高警察の廃止など定めた人権指令を出した後、早くも、戦後最初の東久邇宮(ひがしくにみや)稔彦(なるひこ)内閣の近衛文麿国務相(元首相)に、憲法改正を求めました。しかし、大日本帝国憲法を改正する意思のなかった東久邇内閣は総辞職、近衛も戦犯として逮捕される直前に自殺してしまいます。

 

そこで、連合国軍総司令部(GHQ)は、大正デモクラシーの時代、欧米との協調外交(幣原外交)で知られた幣原喜重郎が首相に就任させたのでした。就任の挨拶にきた幣原に対して、マッカーサーは、婦人参政権、財閥解体、農地改革などの五大改革に加えて、「憲法の自由主義化」を要求、すなわち「憲法の改正を示唆」しました。

 

GHQの「指示」を受けた幣原内閣は、1945年10月27日、憲法担当大臣、松本烝治(じょうじ)法学博士(国務大臣)を委員長とし、憲法学者や官僚からなる憲法問題調査委員会(「松本委員会」)を設け、憲法改正に取り組みました。

 

しかし、松本委員会では、天皇が統治権を保持するという、大日本帝国憲法(明治憲法)の基本原則を変えず、帝国憲法の条文を部分的な修正する方針で議論が進められていました。例えば、帝国憲法第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのが、「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」とされるなど、表現を言い換えただけのものもあったほどです。

 

こうした松本委員会の憲法改正試案(「松本案」)をマッカーサーは、1946年2月1日、毎日新聞のスクープによって、事前に知ることになります。当然、その内容はマッカーサーが満足するものでは到底ありませんでした。そこで、マッカーサーは、日本政府に憲法草案を作成させるのを諦め、2月3日、「マッカーサー3原則」を打ち出し、GHQ民政局局長のコートニー・ホイットニーに、GHQ草案(いはゆるマッカーサー草案)の起草を指示します。後に「マッカーサー・ノート」とも呼ばれる「マッカーサー3原則」とは次の通りです。

 

マッカーサー3原則

〔1〕天皇は国家元首の地位にある。(象徴天皇制)

〔2〕国家の主権としての戦争は廃止される。(戦争放棄)

〔3〕日本の封建制度は廃止される。(華族制度の解体)

 

さて、マッカーサーが、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草のためにホイットニーに与えた期限は2月12日でした。一国の根本法である憲法草案をわずか9日間で作成しろという通達です。

 

マッカーサーはどうして憲法の制定を急いだのかというと、GHQ主導で進む日本の占領政策に、同じ連合国のソ連とイギリスが反発し、1945年の12月(形式的には9月)にイギリス、ソ連、アメリカの外相会議で、連合国が日本を占領管理するための極東委員会(Far Eastern Commission)の設置が決まったからです。極東委員会は、13か国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、1949年11月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表から構成された連合国による対日占領政策決定の最高機関となり、GHQも極東委員会の決定には従うものとされました。つまり、GHQは、第1回会合が開かれる2月26日以降、極東委員会の管理下に入り、憲法改正を含めたGHQの決定には極東委員会の事前承認が必要となるのでした。そこで、マッカーサーは、ソ連などが口を出してくる前に自分の手で日本の憲法の形を作り上げてしまおうと考えたのです。

 

 

  • マッカーサー草案の作成

 

2月4日、GHQ民政局スタッフわずか25人余りが緊急招集され、マッカーサー草案(日本国憲法の原案)の策定が、日本政府だけでなく他のGHQの部署に対しても極秘に開始されました。ホイットニー民政局長は実務責任者として陸軍大佐のチャールズ・L・ケーディスを任命、ケーディスは、スタッフを、取りまとめとしての「運営委員会」以下8分野ごとに受け持たせました。これをみると、例えば、憲法「前文」の草案を一人の人物が執筆したという事実もまた驚きです。

 

  • 運営委員会

C.L.ケーディス陸軍大佐、A.R.ハッシー海軍中佐、M.E.ラウエル陸軍中佐、R.エラマン

  • 前文に関する委員会

A.R.ハッシー海軍中佐

  • 天皇・条約・授権規定に関する委員会

J.A.ネルソン陸軍中尉、R.A.プール海軍少尉

  • 人権に関する委員会

P.K.ロウスト陸軍中佐、H.E.ワイルズ、B.シロタ

  • 立法権に関する委員会

F.E.ヘイズ陸軍中佐、G.J.スウォープ海軍中佐、O.ホージ海軍中尉、G.ノーマン

  • 行政権に関する委員会

C.H.ピーク、J.I.ミラー、M.J.エスマン陸軍中尉

  • 司法権に関する委員会

M.E.ラウエル陸軍中佐、A.R.ハッシー海軍中佐、M.ストーン

  • 地方行政に関する委員会

C.G.ティルトン陸軍少佐、R.L.マルコム海軍少佐、P.O.キーニ

  • 財政に関する委員会

F.リゾー陸軍大尉

 

また、他国の憲法を書くという歴史的な偉業に携わった民政局スタッフの顔ぶれをみれば、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉クラスの士官が13人、後は弁護士や学者を含む文官でしたが、憲法の専門家が一人もいませんでした。ホイットニー局長自身は弁護士でしたが、憲法についての実務的な知識に欠けたていたと言われています。

 

しかも、日本語に精通した人は一人もいませんでした。唯一、通訳要員として採用されていたベアテ・シロタ・ゴードンという当時22歳の女性がメンバーに含まれていましたが、彼女も日本語を読めたわけではありませんでした。後年、シロタさんは、「このときに、私はまだ22歳だった。…私が憲法について知っている事といったら、高校の社会科で学んだだけのことだった」と述懐したそうです。

 

  • マッカーサー草案と合衆国憲法

 

憲法のスペシャリストでない人々が憲法の原案を書くとなると通常、何が起きるでしょうか?まず、当然、自国の合衆国独立宣言、南北戦争時のリンカーンのゲティスバーグ演説、合衆国憲法などから、また今も世界で最も民主的な憲法と評価されている第一次世界大戦後のドイツのワイマール憲法など、世界中の憲法から自分たちが気に入った条文を引き抜いて、切り貼りしながら草案を練ることになります。この指摘はあながち間違いではなく、とりわけアメリカ合衆国憲法からの引用は多くみられます。例えば、以下のように、その前文や条文が日本国憲法の中に見いだされます。

 

日本国憲法前文

…日本国民は(中略)、われらとわれらの子孫のために(中略)、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、(中略)、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する

合衆国憲法前文

われらとわれらの子孫のために自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のために、この憲法を制定し、確定する。

 

 

日本国憲法第31条

何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

アメリカ合衆国憲法 修正第5条

何人も、法の適正な過程によらずに、生命、自由または財産を奪われることはない。

 

 

  • マッカーサー草案と憲法研究会

 

また、憲法について「素人」であれば、専門家が書いたものを参考にするでしょう。マッカーサー草案起草に当たっても、GHQは、当初から日本の政党や民間団体の憲法草案などを注目していました。その中でも、マッカーサー草案(GHQ草案)に大きな影響を与えたとされているのが、日本の「憲法研究会」という民間団体が1945年12月末に発表した「憲法草案要綱」でした。

 

憲法研究会の「憲法草案要綱」には、「天皇は政治的権限を持つべきではない」という象徴天皇制や、「日本国の統治権は日本国民より発す」とした国民主権が明確に規定されていました。また、男女平等や言論の自由などの基本的人権の保障や、平和主義の思想も盛り込まれていました。

 

GHQは、憲法研究会の「憲法草案要綱」を詳細に分析し、「ここに含まれる条文は、極めて民主主義的で受け入れられる」「著しく自由主義的」などと高く評価していました。実際、憲法草案要綱を読んだGHQの政治顧問アチソンは、「最高統治機関は議会・国会に責任のある内閣となっており、天皇は儀礼的・形式的長官にすぎないと規定」されていたことに驚嘆の意を表明しています。

 

また、運営委員会のメンバーとしてマッカーサー草案起草に携わったラウエル中佐は、「私たちはこれ(憲法研究会の草案)を確かに使いました」と影響を受けたことを認め、さらに次のように述懐しています。「私はこの民間草案を使って、若干の修正をすれば、マッカーサー最高司令官が満足し得る憲法ができると考えました。それで民政局の仲間たちも安心したのです。これで、憲法ができると。」

 

実際、憲法研究会の「憲法草案要綱」をみれば、現行憲法と同じような草案が数多く見られます(太字が憲法研究会の草案)。

 

国民は法律の前に平等にして出生又は身分に基く一切の差別は之を廃止す

⇒日本国憲法第14条第1項:すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

国民は労働の義務を有す

⇒日本国憲法第27条第1項:すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

 

国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す

日本国憲法第25条第1項:すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 

ところで、ラウエル中佐にそこまで言わせた憲法研究会とは、どういう団体なのでしょうか?憲法研究会は、1945年10月、社会運動家の高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成されました。著名マルクス主義の憲法史家の鈴木安蔵や経済学者の森戸辰男らが参加しました。高野に学んだ森戸は、日本社会党の結党にも尽力し、戦後初の衆議院議員総選挙に出馬し当選、左派政治家として活躍しました。彼らの多くは戦前、政府による言論統制で投獄されるなど弾圧を受け、森戸も執筆した論文がもとで東大を追われたという経緯があります。

 

 

  • パッチワークのマッカーサー草案?

 

いずれにしても、マッカーサー三原則(マッカーサー・ノート)の提示からわずか9日後の2月12日、日本国憲法の総司令部(GHQ)案が完成、翌日、日本政府に提示されました。日本国憲法を「押しつけ憲法」と主張する人々の中には、憲法の専門家でない少ない人数による突貫作業で起草されたGHQ案(マッカーサー草案)を以下のように批判します。

 

マッカーサーノートと呼ばれる走り書きをベースに、自国や他国の憲法、ならびに日本の民間団体(「憲法研究会」等)の草案などを参考資料として寄せ集めた、パッチワーク作業の「コピペ」と呼ぶしかない代物である。(コピペ;copy and past コピーとペーストの略)

 

確かに、そうした一面もあるかもしれませんが、事実はそう単純ではありません。たとえ、各国の憲法典や憲法研究会のような民間団体の憲法試案などをつなぎ合わせる手法でも、一国の憲法草案をわずか9日間で完成させることはできなかったのではないでしょうか?しかし、もし、マッカーサーやGHQに対する指示書のようなものが存在していたとしたら、それは可能です。

 

 

  • マッカーサー草案とSWNCC

 

1944年3月に米国務省では、「アメリカの対日戦後目的」なる報告書が作成されていました。日米戦争の最中のその時期に、すでに勝利を確信したアメリカが対日戦後処理政策を考えていたのです。そして、同年12月、アメリカ政府内部に、国務省、陸軍省、海軍省の意見調整を図るため国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCCスウィンク)が設置され、日本が降伏した年の11月27日に「日本の統治制度の改革」(SWNCC228)をまとめて、マッカーサーに「指示」を与えていた事実が昨今、明らかになっています。

 

この「日本の統治制度の改革」(SWNCC228)こそ、マッカーサー三原則とその後のマッカーサー草案(総司令部案)に大きな影響を与えた文書ではなかったかと推測されます。その報告書の中で、例えば天皇制について、「…日本人が天皇制を維持すると決定したときは、最高司令官(マッカーサーのこと)は、日本政府当局に対し、次に掲げる安全装置が必要なことについても、注意を喚起しなければならない」と以下のような具体的な措置を「指示」しています。

 

  • 天皇の軍事に関する大権の剥奪
  • 皇室財産を国庫への繰り入れと皇室費の国家予算への編入
  • 内閣による天皇の全行為に対する助言と補佐
  • 信任と責任に基づく議院内閣制の採用

 

そのなかで、「内閣による天皇の全行為に対する助言と補佐」については、日本国憲法第3条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」となって反映されています。軍事的、外交的な権限だけでなく、(内閣の助言と承認の下で)国政に関する実質的な権能をもたない天皇による統治の姿は、まさに象徴天皇制が示されていたと言えるかもしれません。

 

また、「皇室財産の国庫への繰り入れと皇室費の国家予算への編入」も、日本国憲法第88条「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」として結実しています。

 

一方、このSWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)が「日本の統治制度の改革」(SWNCC228)をまとめた背後に、OSS(米戦略情報調査局)という米軍の特務機関(諜報機関)の存在も見え隠れしています。OSSは、日米開戦後の1942(昭和17)年6月の段階で、明治憲法などの分析を行い「日本計画」なる報告書をルーズベルト大統領に提出し、戦後の占領政策の青写真をすでに描いていたとされているのです。OSSこそが、後にCIA(米中央情報局)となる機関です。

 

日本国憲法の原案に、アメリカ政府の意向が強力に反映していたとすると、今の憲法はマッカーサーの思いつきによるメモ書き程度、さらには、アメリカ内外の憲法や条約文のつぎはき合わせではなかったことになります。逆に言えば、マッカーサー草案(GHQ案)が、憲法の専門家もいない少人数で、わずか9日間で作り上げることができた理由は、アメリカ本国において、帝国憲法など戦前の日本の統治システムについて徹底して調べ上げられ、綿密な戦略ができていたからであった可能性は極めて高いように思われます。

 

もちろん、マッカーサー草案(GHQ案)がそのまま日本国憲法になったわけではありませんが、アメリカの対日戦略に裏打ちされたマッカーサー三原則に基づくGHQ案が、骨子となっていることは間違いなさそうです。

 

なお、日本国憲法がどのように成立したかをもう少し詳細に知りたい方は、「日本国憲法の制定経緯」を参照下さい。

 

 

2020年05月03日

神話:「海幸彦と山幸彦」のものがたり

前回、「天の岩戸開き」神話について書きましたが、今回は、ニニギノミコトの「天孫降臨」後、「神武天皇の東征」があるまでの間のお話しです。本HP「レムリア」では、「日本の神話・伝承」を以下の順序で紹介しています。こちらも参考にして頂ければ幸いです。

 

記紀(天地開闢)

記紀(天の岩戸)

記紀(出雲神話)

記紀(国譲り)

記紀(天孫降臨)

記紀(神武の東征)

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  • ニニギノミコトと木花之咲夜姫の出会い

 

天孫降臨後、葦原の中津国で国の経営をしていたニニギノミコト(迩迩芸命、瓊瓊杵尊)がある日、笠沙の岬を散歩しているとき、一人の美しい姫に出会いました。ニニギノミコトが名を尋ねると「私はオオヤマツミノカミ(大山津見神/大山祇神)の娘で、木花之咲夜姫(コノハナサクヤヒメ)と申します」と答えました。

 

一目で心を奪われたニニギノミコトは、すぐに木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)に結婚を申し込みました。ただ、サクヤヒメは謹み深く「父に伺います」と答えました。天から降ってこられた御子が娘を乞うたことを聞いたオオヤマツミノカミ(大山津見神/大山祇神)は、大そう喜び、結婚を了承をします。それどころか、サクヤヒメの姉の磐長姫(イワナガヒメ)も差し出し「一緒に娶って下さい」と、たくさんの婚礼用品を添えて二人の娘をニニギノミコトの所に送りました。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹二人は、ニニギノミコトの元を訪れましたが、ニニギノミコトは、けっして美人とは言えなかったイワナガヒメ(磐長姫)を送り返してしまい、美しい木花咲耶姫とだけ結婚しました。

 

オオヤマツミノカミ(大山祇神)は、「コノハナサクヤヒメは、美貌を持っているが、木の花のように散りゆく運命にある。一方、イワナガヒメは、体は頑丈で、岩のように永遠の命を持つから、私はイワナガヒメを一緒に嫁がせた。だから、イワナガヒメ(石長姫)もともに迎えてくれたら、生まれてくる子孫の命は岩のように永遠のものになっていたのに…。サクヤヒメ(咲夜姫)とだけ結婚したら、生まれてくる子孫は、天津神のような永遠ともいえる寿命を持つことはできず、短い命になるだろう」と残念そうにおっしゃいました。以後、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)とその子孫は寿命があることになったのです。

 

 

  • 木花咲耶姫の懐妊と誓約(うけい)

 

こうした経緯はあったにせよ、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは、天界の者と地上界の者が初めて結ばれたことになりました。その二人は一度しか交わらなかったのですが、サクヤヒメはその一回の交わりで懐妊しました。咲夜姫がそのことを告げると、ニニギノミコトは「一夜で子供を授かるのはおかしい」、その子は、自分以外の国津神の子ではないかと疑うのです。

 

疑いを受けたコノハナサクヤヒメは不快に思いましたが、「お腹の子は、間違いなくあなたの子です。あなたの疑いを晴らすために、私は火の中で出産して見せましょう。天津神の子供であるのならば、無事生まれるはずです」と言い、サクヤヒメは、産気付くと、産屋に入ったのち火を付け、燃え盛る小屋の中で、3人の元気な子を産み落しました。

 

火照命(ホテリノミコト)(=海幸彦)

火須勢理命(ホスセリノミコト)

火遠理命(ホオリノミコト)(=山幸彦)

 

 

  • 山幸彦と豊玉姫

 

兄の火照命(ホテリノミコト)は、釣り道具を使って魚(海の幸)を採り、弟の火遠理命(ホオリノミコト)は、弓矢を使って獣(山の幸)を採って生活していました。ですから、兄は、海幸彦(ウミサチヒコ)、弟は、山幸彦(ヤマサチヒコ)と呼ばれていました。ある時、弟の山幸彦(ホオリノミコト)は、兄の海幸彦(ホテリノミコト)に「たまにはお互いの道具を交換して仕事をしてみよう」と提案します。兄はあまり乗り気ではなかったのですが、弟が何度も頼むので、渋々承知しました。

 

山幸彦は、早速、兄から譲り受けた釣り針を持って、海に魚を釣りに行きます。しかし、慣れないため、魚を釣ることができなかったばかりか、兄から借りた釣り針を海の中に落してしまいました。夕方家に帰って、そのことを正直に言うと、兄の海幸彦(ホテリノミコト)は怒り、「釣針を返せ」とひたすら山幸彦に迫るのでした。そこで、山幸彦(ホオリノミコト)は、自分の剣を割って500本の釣針を作って返しますが、兄は「あの釣針でないと駄目だ」と言います。更に1000本作っても、「自分の釣り針がいい」と弟の申し出を拒むのでした。

 

悲嘆にくれる山幸彦は、海辺に行き、何もできずに泣いていると、潮流の神である塩椎神(シオツチノカミ)が突如姿を現しました。山幸彦(ホオリノミコト)の事情を聞くと、シオツチは、竹で隙間のない籠(かご)を造り、ホオリを乗せて言いました。「この船で潮の流れに身を流せば、そのうち、海神、綿津見神(ワタツミノカミ)の宮殿が見えてくる。そうしたら、その門の近くの泉のそばに1本の木がある。そこに座っていなさい。ワタツミの娘がそなたを助けてくれるだろう」と。

 

そこで、山幸彦は、シオツチに言われた通り、潮の流れに乗ると、本当に宮殿が見えて来ました。そして、入り口のそばにあったカツラの木に登り、座っていました。やがて、宮殿の門から、ワタツミの娘である豊玉姫(トヨタマヒメ)の侍女がでてきました。水を汲みに来たようでしたが、木の上にいる山幸彦を見つけて驚きます。山幸彦が「水を一杯くださいませんか」と言うので、侍女は容器にその泉から汲んで差し出しました。山幸彦は、決して水を飲むでもなく、首にかけていた玉を口に含み、その容器に玉を吐き出しました。すると、何故か、玉は容器から取れなくなってしまいました。

 

侍女は、急いで姫の元に戻り、このことを説明すると、不思議に思った豊玉姫(トヨタマヒメ)は、外にでて、木の上の山幸彦(ホオリノミコト)の姿を見るや一目惚れしてしまいました。そして、父の所へ行き、「宮殿の前に立派な男の方がいます。中に入って頂いていいですか」と許しを求めます。海神ワタツミ(綿津見)は、山幸彦が天の神の御子(天孫)と知るや、宮殿の中へ招き入れ、豪勢なおもてなしをし、その後、豊玉姫と結婚させました。

 

そんな、山幸彦が、ワタツミの宮殿で幸せな日々を過ごすうちに、早3年が経ちましたが、ある日、山幸彦はふと釣針のことを思い出し、そのことを豊玉姫に打ち明けました。すると、事情を聞いた父のワタツミ(綿津見)は、魚たちに大集合を掛け、心当たりのある者はいないか、と尋ねたところ、何匹かの魚たちが「近頃、赤鯛が喉に何かをひっかけて、痛いと申しております」と言いました。そこで赤鯛が呼んで調べてみると、山幸彦が失くした釣り針が出てきたのでした。

 

ワタツミ(綿津見)は、この釣り針を、潮の満潮を示す潮満珠(しおみちのたま)・潮干珠(しおひのたま)とともに、山幸彦に手渡して言いました。「この釣り針を兄上殿に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、いらいらする針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。」

 

また、「兄上殿が高い所に田を作ったら、婿殿は低い所に田を作りなさい。兄上殿が低い所に田を作ったら、婿殿は高い所に田を作りなさい」と助言しました。そして、「もし、兄が攻め来るようなことがあれあば、潮満珠(鹽盈珠)(しおみちのたま)で兄を溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら潮干珠(鹽乾珠)(しおひのたま)で命を助けなさい」と付け加えました。こうして、当初の目的を達した山幸彦(ホオリノミコト)は、父のワタツミ(綿津見)が用意したワニ(鰐鮫)の背中に乗って、国元に帰っていきました。

 

一日のうちに故郷に戻った山幸彦は、ワタツミ(綿津見)に教えられた通り、兄の海幸彦に釣り針を返し、田を耕しました。海の神ワタツミは、水源を取り仕切っているため、山幸彦(ホオリノミコト)の田には水がよく来て作物が実りますが、兄、海幸彦(ホテリノミコト)の田には、水が行き届かず、収穫できません。日増しに貧しくなり、心も荒れて来た海幸彦は、山幸彦の元に攻め込んできました。

 

そこで、山幸彦は、ワタツミに言われた通り、もらった潮満珠(しおみちのたま)を出して「潮満ちよ」と言うとたちまち水があふれて海幸彦は溺れ、「助けてくれ」と許しを請うと、潮干珠(しおひのたま)を使って兄を救出しました。しかしそれでもまた攻めて来ようとするので、これを何度か繰り返すと、海幸彦も、どうやら弟には海の神の守護がついているということが分かり、弟の下に組することを誓いました。こうして、山幸彦は兄の海幸彦を完全に屈服させることに成功したのでした。

 

 

  • 豊玉姫との別れ

 

さて、月日がたち、豊玉姫(トヨタマヒメ)が夫を追って、海の国のワタツミの宮殿から、山幸彦を訪ねて、地上にやって来ました。話を聞くと、豊玉姫(トヨタマヒメ)は、山幸彦の子を授かり、出産を間近に控えたので、陸地で生む為にやってきたというのです。山幸彦は喜んで、鵜の羽根を使って産屋(うぶや)を建て始めましたが、屋根を完全に葺き終えない内に姫は臨月になり、豊玉姫は産気づいてしまいました。姫は、産屋に入るやいなや、ホオリに、こう言い渡しました。「この子を産むためには、私も元の姿にならなければなりません。恥ずかしいので、決して、産屋の中を見ないで下さいね。」

 

ところが、わが子を一目でも早く見たい山幸彦は、我慢仕切れずに、未完成の産屋の壁の隙間から、中をのぞいてしまいました。すると、そこには、お産に苦しむ大きなワニの姿がありました。驚いた山幸彦は、その場を逃げ出してしまうのでした。豊玉姫は、そんな夫の姿に失望しながらも、無事に男の子を出産を成し遂げました。しかし、山幸彦に見られたことを恥ずかしがり「見ないでと言ったのに」と言い残して、子を置いたままワタツミの神の宮殿へと帰ってしまいました。

 

しかし、子を思う親の心は変わりなく、「あの子を育てに行ってくれないか」と、妹の玉依姫(玉依毘売命)(タマヨリビメ)遣わし、子育てを頼むのでした。この山幸彦(ホオリノミコト)と豊玉姫の子どもは、後に成長し、鵜の羽根を使った建設途上の産屋で生まれた神として、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と名付けられました。

 

 

  • 鵜草葺不合命玉依姫

 

その後、成長したウガヤフキアエズは、育ててくれた叔母の玉依姫(タマヨリヒメ)を妻として、五瀬命(イツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)の四柱の御子をもうけていきました。このうち、若御毛沼命(ワカミケヌノミコトは、後に、神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイハレビコ)、すなわち、初代天皇、神武天皇となります。

 

こうして、天孫降臨に始まったニニギノミコトから、子のホオリノミコト(火遠理命)(山幸彦)、そして、その子、ウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合)の三世代は、日向三代(ひむかさんだい)と呼ばれるようになりました。なお、山幸彦は高千穂の山の西にある高千穂の宮で580年間暮らしたとされています。

 

 

2020年05月02日

神話:「天の岩戸」のものがたり

本HP「レムリア」では、戦後教育で排除された日本の神話を紹介しています。今回は、天照大御神が「天の岩戸(あまのいわと)」にお隠れになるお話しです。なお、その前後のストーリーについては、「日本の神話・伝承」を参照下さい。

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  • 天照大神と須左之男命の誓約

 

イザナギノミコト(イザナギ)の指示で、海を治めることになった建速須左之男命(タケハヤスサノオ)(以下スサノオ)でしたが、亡くなった母のイザナミノミコト(イザナミ)のいる黄泉の国(よみのくに)(=根の国)に行きたいと泣いてばかりです。そこで、イザナギは、言うことをきかない須左之男命(スサノオノミコト)を地上から追放してしまいました。

 

追われたスサノオは、天上界にいる姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に別れを告げてから、母(イザナミ)に会いに行くと行って、高天原(たかまのはら)(=天照大神が支配する天の国)におもむきます。ところが、向かっている途中、スサノオの勢いが凄まじく、草木はざわめき、地を揺らしてやって来たため、天照大神はスサノオが高天原を奪いに来たと勘違いして武装をして天安河(あまのやすかわ)という河原で待ち受けました。

 

天照大神は、やってきたスサノオに対峙して「何をしに来たのだ」と問いただすと、スサノオは、「単に別れを言いに来ただけだ」と答えますが、信じてもらえません。天照大神が言いました。「ならば、あなたの心が清く正しいことはどうやって証明するのですか?」するとスサノオが答えます。「誓約(うけい)(≒占い)をして子供を生みましょう」

スサノオは、アマテラスの国を奪おうとは考えていないので、自分の心の内を誓約(うけい)によって明らかにしようとしたのです。こうして、二柱は、天安河を間に挟んで誓約をします。天照大神は、スサノオが持っていた「十拳の剣(とつかのつるぎ)」を受け取って、三つに折り、清らかな水が湧く天真名井(あまのまない)で清めてから噛み砕き、吹き捨てました。すると、その息吹から、美しい三柱の女神が生まれました。これが宗像三女神(むなかたさんじょしん)です。

 

宗像三女神
多紀理毘売命(タキリヒメノミコト)

多岐都比売命(タキツヒメノミコト)

市寸嶋比売命(イチキシマヒメノミコト)

 

続いて、スサノオは、天照大神の身に着けていた八尺勾玉(やさかのまがたま)を、同じように清めると、吹き捨てる息が霧になった時に五柱の男神が現れました。

 

天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)

天菩卑能命(アメノホヒノミコト)

天津日子根命(アマツヒコネノミコト)

活津日子根命(イクツヒコネノミコト)

熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)

 

この誓約(占い)で、心優しい3女神が、スサノオの持っていた剣から生まれたということは、スサノオの心が清らかだとして、スサノオノミコトが誓約(うけい)に勝ったことになりました。こうして、スサノオは高天原にしばらく滞在することが許されました。

 

 

  • スサノオの粗暴

 

ところが、須左之男命(スサノオノミコト)は、元々荒っぽい神である為、高天原に滞在中、たんぼの畦道は壊したり、神殿に糞はするなど乱暴な行ないを続けます。最初は天照大神も弟のことをかばっていましたが、スサノオの乱暴な行為は止むことはありませんでした。そうした中、天照大神に仕える機織の娘が、作業中に機織の道具板に当たり死してしまうという事故が起きてしまいました。これも、スサノオが馬の死体を機織場に投げ込んだことに娘が驚いた当たってしまったのでした。

 

※スサノオが数々の粗暴な行為をしたという話しは誤解釈という説があります。

 

これには、さすがの天照大神も、恐ろしくなって(怒り)、天の岩屋戸(=天の岩戸)(とびらが大きな岩で作られた洞窟)の中に引き籠り、岩戸を閉じて隠れてしまいました。太陽神・天照大神に隠れられては大変です。高天原の天の国も葦原の中国(あしはらのなかつくに)(=地上の世界)も真っ暗になり、世の中は闇に包まれてしまいました。同時に、多くの邪神の声が、夏の蝿のように満ちて響き、あらゆる災いが溢れかえりました。

 

そこで、困り果てた八百万(やおよろず)の神々は、「(高天原の)天の安河」の川原に集まり相談します。会議では、天照大御神がどうしたら岩戸から出てこられるかを真剣に討議し、造化三神の一柱である高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の子の思金神(オモイカネノカミ)が対応策を考えることになりました。思金神の策は、祭り(=宴)を開くというものでした。

 

まず、鋳物の神様、金属加工の神様として知られる女性神、伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)に、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせました。次に、宝石の神、玉祖命(タマノオヤノミコト)に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を連ねた玉緒を作らせました。それから、天の香具山のサカキの木を一本抜いてきて、上に玉緒(八尺瓊勾玉)を、中段に八咫鏡を、下段には白と青の布を垂らしました。

 

その飾ったサカキを布刀玉命(フトダマノミコト)が持ち、天児屋命(アメノコヤネノミコト)が祝詞を唱える役を担いました。そして、天手力男(アメノタヂカラオノミコト)が岩戸のそばに隠れて立って準備が完了しました。

 

宴の主役は、女神の天宇受売命天鈿女命(アメノウズメノミコト)でした。ヒカゲカズラという植物をたすきがけにし、マサキカズラを髪に飾ったアメノウズメは、手には笹の葉を束ねて持ち、岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、踊り出しました。その踊り方があまりにも滑稽だったので、八百万の神々はどっと吹き出し、その笑い声が高天原全体に響き渡りました。

 

その声を聞いた天照大神は「いったい何事ですか」と、天の石屋戸を少しだけ開いて、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、(アメノウズメは)楽しそうに舞い、八百万の神々は笑っているのか」と尋ねました。すると、天宇受売が「あなた様より高貴な神様がお出ましになったので、みんな嬉しくてはしゃいでおります」と答え、その間に、天児屋命(アメノコヤネノミコト)と布刀玉命(フトダマノミコト)が鏡を差し出しました。天照大神は、岩戸から覗きこむと、そこに映った輝く自分の姿をその貴い神だと思い、その姿をもう少しよく見ようと岩戸をさらに開けました。その時、側に隠れていた天手力男神(アメノタヂカラオノミコト)がグイと天照大神の手を引いて岩戸から引出しました。そしてすぐに、布刀玉命(フトダマノミコト)が尻久米縄(しくりめなわ=しめ縄)を天照大神の後方に掛けて、中に戻れないようにしました。

 

こうして、天照大神が岩戸から出てきたので、高天原も葦原中つ国にも、光が舞い戻り、世界は明るくなりました。

 

 

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