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2020年06月03日

異説:藤原純友「海賊と呼ばれた男」の真実

前回の投稿で、藤原純友の乱について書きました(藤原純友「海賊王に俺はなる」)が、あれは、一般的な通説に基づく歴史でした。私が教養サイト「レムリア」を立ち上げた理由の一つが、これまで通説と見られている歴史の解釈は「実はそう思いかまされているだけかもしれない、疑ってみよう」という立場から、史実を様々な角度で読み直してみることです。今回は、別の視点でみた藤原純友です。

 

”摂関家の藤原氏の出でありながら没落して、地方(伊予の国)に下り土着化し、海賊の棟梁になって、朝廷に反乱を起こした…”

果たして、これが本当の純友の姿だったのでしょうか?

―――

 

 

  • 藤原名家の末裔?

 

瀬戸内海の「海賊王」と称される藤原純友の生涯、実は謎に包まれています。生年もよくわかっていませんが、寛平5(893年)ごろと推察されています。純友は、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれ、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出した藤原北家(ほっけ)の流れを汲み、太政大臣・関白を務めた藤原忠平は、純友の父、良範の従弟に当たるなど、摂関家の血筋であるとされてきました。

 

しかし、純友は、伊予の豪族・越智氏の一族で、今治の高橋郷出身の高橋友久の子であったと言う説があります。越智氏を遡れば、神話の大山祇神(おやまづみのかみ)にたどり着くとされ、愛媛の大山祇神社(大三島神社)が全国の大山祇神社(三島神社)の総本社になっていることから、越智家というのはこの地域の名家と言えます。この説によれば、純友は、藤原良範が伊予の国司(伊予守)として赴任した際、良範の養子となり、藤原姓を名乗ることになったとされています。

 

いずれにしても、純友は名門貴族、藤原氏の一員になったのですが、父となった良範が早死にしてしまったので出世の見込みがほぼなくなってしまいました。当時は、世襲が当たり前の時代だったのです。

 

 

  • 伊予国に赴任

 

それでも、純友は、承平2(932)年、父良範の従兄弟(いとこ)で、当時、伊予守を務めていた藤原元名(もとな)に呼び寄せられ、下級官人(伊予の掾)となって、伊予国に赴任しました。

 

元名は、立身出世の道が閉ざされた純友を救ったというよりも、当時、瀬戸内海に横行していた海賊対策に純友の手腕を期待したと言われています。藤原純友は少年のころ、大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられた父の良範に従って、朝鮮半島との通商の要所であった九州の大宰府に赴いています。そのころ九州では、当時、朝鮮を支配していた新羅の衰退によって、朝鮮から海賊が襲来し、博多の商船などが狙われるという事件が相次いでいたそうです。若き純友は、そこで、武芸を身につける一方、海賊への取り締まりを見て学び、時には父とともに海賊の成敗に当たり、海賊への対応能力を養っていったとされています。

 

10代で京に戻った純友は、それから約30年の歳月を経て、藤原元名の下で、海賊討伐に励み(実際は、税である米や産物を京へ運ぶ運京租税の任に当たっていた)、一定の成果を出しつつ、海賊衆ともつながりを維持していました。これは、932~935年の4年ぐらいの間の出来事で、瀬戸内海周辺では「藤原純友、ここにあり」とその名がその地域に知られるようになったと言われています。

 

純友は、934年に任期が終わって一度帰京しましたが、伊予では、海賊との攻防が再び激しくなり治安の悪化が深刻になりました。そこで、過去の功績が認められた純友は、承平6(936)年3月に、伊予国警固使に任じられ、再び、伊予に赴くことになったのでした。純友の再着任から2か月後の、936年5月、藤原元名に代わる後任国司の紀淑人(きのよしと)が着任することになりました。

 

この時、純友は、「所定の税を納めて投降すれば、処罰は免れるようにする」と海賊たちを説得します。すると、これまで約5年近くも抵抗を続けていた海賊たちの多くが突然降伏したと言います。紀淑人もこれを認め、海賊たちの罪を問いませんでした。伊予国警固使としての純友は、紀叔人に従って、海賊を服属させながら、瀬戸内海の治安を守り、伊予国には平穏が戻ったと言われています。

 

 

  • 海賊の正体

 

ところで、伊予国で問題になっていた海賊とは、現在の私たちが連想する、航海中の船舶を手当たり次第に襲って金品を強奪したり、女、子どもを売り飛ばすといった無法者として賊徒ではなく、都に送られるコメや特産品などの官物を奪う者達のことでした。

 

伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で、外交などの儀式に関連した雑務をこなしていた舎人(とねり)という地方下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことから、儀式の数は減り、彼らの仕事も激減します。当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があったので、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて「海賊」と化したのでした。

 

特に、伊予国は、舎人に支給するためのお米の産地だったそうです(当時、舎人には税が免除され、米の支給を受ける特権があった)。舎人たちは海賊となって、支給されなくなったコメを、「自ら調達する」という理論で、輸送中に奪うという行為にでたと説明されています。

 

また、平安中期は、地方の政治を中央から派遣された国司(地方長官)に一任していた朝廷は、税として地方から国へ治める(コメや特産物などの)物品の数量を定め、それを超えた分は国司のものとしていました。そこで、国司の中には、過酷な取り立てを行い、中には私服を肥やす者も多くいました。そうすると、国司と、地方の豪族との対立も深刻になっていきます。伊予国などの場合、国司が、税を払わないかつての舎人らに対する弾圧を強めてきたわけです。それが逆に海賊行為がさらに横行するという悪循環に陥っていました。

 

 

  • 海賊 藤原純友の誕生?

 

さて、藤原純友は、伊予国警固使としての任期を終えた後も、平安京へは戻らず、伊予国に土着し、周辺の治安を守る豪族(地域の有力者)のような存在になっていきます。海賊衆(かつての舎人ら)も、純友との長年の戦いの中で、「敵といえども話せる人間」というように、ある種の信頼関係が構築され、国司からの弾圧に対抗するという意味からでも純友に下り、統制されるようになっていきました。

 

また伊予国以外にも、純友と同じように、貴族の出でありながら、出世が望めなくなって地方に下り、土着化した、いわゆる「没落貴族」が多くいました。彼らの中にも海賊と結びついて武将集団を形成していく者もいたわけです。藤原純友について、「承平6年(936年)頃までには、日振島(ひぶりじま)(愛媛県宇和島市)を拠点に2500人もの部下を従え、1000艘を組織する海賊の首領(頭目)となっていった」と表現されていますが、無法者たちの集団をまとめ上げた海賊の頭ではありませんでした。

 

藤原純友が抱えた「海賊集団」とは、純友と同じように、貴族でありながら地方に下り、かつての舎人らを率いて豪族のようになった「仲間」たちとの「連合体」のようなものでありました。しかも彼らは、以前は優秀な地方官で、裕福な者もあり、純友の強力な後ろ盾となっていったのです。その代表が、備前の藤原文元(ふみもと)であり、讃岐の藤原三辰(みつとし)、さらには、伊予にあって純友の腹心となった藤原恒利(つねとし)でした。。

 

 

当時、純友や文元らのように、地方に土着化し、出世の道が閉ざされたかつての貴族にとって、官位をもらい朝廷で高位の役職につくという出世の道は、武功(反乱などを鎮圧するなどの功績)によるしかありませんでした。しかし、伊予国周辺に936年から訪れた安泰は、本来、純友や文元らの活躍によるものでしたが、彼らの功績も評価されず、伊予国の場合、国司である紀淑人の手柄となってしまっていました。豪族や海賊たちにとって、こうした矛盾だらけの地方政治に対する不満はますます高まるだけであったと言っていいでしょう。

 

 

  • 純友の夢?

 

純友が、武勇によって出世することを考えていたのか不明ですが、純友にとって実はもう一つ壮大な計画があったことが明らかになりつつあります。それは、財力によって、政治を動かすことです。より具体的には、瀬戸内海の貿易を手中に収めることではなかったのかと考えられています。

 

そもそもこの地域に海賊行為が横行しだした一因に、海上輸送が盛んになってきたことがあげられます。瀬戸内海といえば、海運の大動脈ともいえる海域です。西日本からの物資や税の多くが、瀬戸内海を使って運ばれていました。かつて遣隋使や遣唐使もこの海を通りました。瀬戸内海の貿易の権益を握ってしまえば、朝廷の力に対抗することもできると純友は考えたのかもしれません。

 

そのためにも、海賊衆を手なずけ、同じ志をもつ「仲間」と力を合わせて、瀬戸内海で勢力を確保し、中国や朝鮮、東南アジア諸国へ船を差し向け交易を行おうとしたという可能性があります。純友が、海賊衆や、文元、三辰らにこの夢を語っていたならば…と考えると、936年、長年海を荒らしていた海賊たちが突然降伏した理由も頷けるような気がします。そして、この純友の野心を、純友の縁者(父、良範の従弟)で、時の太政大臣、関白・藤原忠平が知っていたら…、と仮定すると、藤原純友に関する様々な疑問が解決していきます。

 

天慶2(939)年12月17日、朝廷に、伊予国から「純友が船に乗って巨海に出ようとしている」との報告が届きます。これを受け、朝廷は純友の逮捕と、京への召喚命令を摂津(兵庫県)や中国地方の諸国に下します。通説では、「巨海」ではなく「海上」とされ、海賊・純友が瀬戸内海に出てくる(備前から京をめざす)と恐れられていたと解されていますが、純友は、当初から「巨海(東シナ海/南シナ海)進出」を目論んでいたのかもしれません。

 

では、仮にそうだとして、なぜ、この報告に対して、純友の逮捕と召還命令まで出されたのかと言えば、遣唐使が897年に廃止されて以降、外交は実質的な「鎖国」政策がとられている中、朝廷にすれば、純友の構想は看過できるものではなかったでしょう。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

ただし、純友はその前にやらなければならない「仕事」がありました。海賊討伐を共にした盟友の藤原文元(ふみもと)からの援軍要請を受け、「兵」を率いて備前国(今の岡山県東部)を目指したのです。藤原文元は、そこに土着した有力豪族でしたが、藤原子高(さねたか)という人物が備前国司として赴任してくると、徴税権を振りかざす子高と抜きがたい対立が生じていたのでした。

 

純友が備前国へ向っていることを知った子高は、この状況を報告しようと逃げるように都に向かいましたが、同年12月26日未明、摂津国の須岐駅家(すきのうまや)(兵庫県芦屋市付近)で文元らの武装集団に襲われ、子高は耳や鼻をそがれるなど惨い殺され方をされました。これは、当時の国司(受領)へ感情的な対立がいかに深刻であったかを物語るものです。

 

ただし、この事件は、直ちに「国への謀叛(むほん)」として朝廷に急報されました。国司に対する暴力行為は、朝廷への反逆以外の何物でもないからです。しかも、「藤原純友、藤原文元に加勢す」という報告もなされ、朝廷は衝撃を受けます。この襲撃に純友の郎党も加わっていたことが明らかになり、この時を機に、純友は「反乱者」となってしまいました。

 

朝廷は、すぐに純友に使者を派遣、京へ戻り説得に応じるよう促します。しかし、純友は、これを拒否し、逆に、「藤原文元の行いは、そもそも子高の圧政が原因であり、文元の行為は免責されるべきであること」、「936年の海賊討伐の際の勲功を活躍したものに恩賞を与えること」など要求を朝廷に突き付けるのです。

 

こうした強気な要求を出した純友には勝算がありました。純友が文元へ加勢し、朝廷に反旗を翻そうとしていた頃、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配していたのです。朝廷が東国でほぼ同時期に起きた「平将門の乱」への対応に謀殺され、純友の反乱にまで手が回らない状態であったことを、純友は見抜いていたのです。

 

 

  • 「比叡山の盟約」の裏側

 

ところで、藤原純友と平将門はともに天下を狙ったという共謀伝説があります。その共謀伝説の内容は、前回の投稿でも紹介しましたが、改めて紹介すると、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし」、「純友は藤原なれば関白になりて」、「政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。東から将門、西から純友が、同時に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画を立てたのです。

 

ただし、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」に、「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば…」と書かれているように、共謀説の主役は将門で、純友は「将門に同意した」と、将門に従った人物としてしか描写され、純友の顔は見えず、その真意を測ることはできません。

 

では、その真偽はといえば、将門と純友が比叡山に登ったとされる承平6年8月19日の頃は、将門は坂東に帰っており、純友は伊予の国に居たので、二人が京都にいて比叡山に登った事実はなさそうです。また、平将門の一代記の「将門記(しょうもんき)」には、将門・純友共謀説について記述は見られません。こうしたことから、純友と将門による「比叡山の陰謀」はおおむね否定されています。

 

それでも、当時、将門と純友の乱は、発生した時期が近いことから、朝廷は、乱の勃発当初より「連携して始められた」と疑っていたので、こうした「比叡山の誓い」のような劇的な伝説が生まれたことは想像に難くありません。

 

では、もし、共謀がなかったのなら、この二つの乱は全くの偶然の出来事なのでしょうか?実際は、純友がしたたかに将門の乱を利用したのではないかという疑念が生れます。まず、純友と将門が既知の仲であった可能性はないことはありません。二人に共通の人物に、何と、時の権力者で太政大臣になる藤原忠平がいるのです。将門は、藤原忠平の家人として仕えていたことがあり、15歳の頃、10年近く京都にいました。一方、伊予に赴任する以前に京都にいた純友の場合、縁者である忠平(父、良範の従弟)と接する機会も多かったと想定できますから、何らかの接触が二人とも在京していた時期にあったことは否定できません。ですから、「比叡山の陰謀(誓い)」というような劇的なドラマがなかったとしても、たとえ戯言でも、「将門は天皇、純友は関白」のような話しがなされ、純友は将門の「野望」を知っていたのかもしれません。

 

 

  • 純友の知略

 

純友と将門が起こした承平天慶の乱(天慶の乱)と呼ばれる反乱は、将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んでいます。将門の乱の場合、事の成り行きで、朝廷に矢を放つ結果になった感がありますが、純友の乱は、用意周到になされたことが伺えます。

 

将門によって追放された上野介、藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)でした。純友は尚範から、将門謀反の情報をいち早く掴んでいた可能性もあります。これにより反乱の決断の時期を決めることができたのかもしれません。また、純友の配下で、伊予から讃岐に移って活動していた藤原三辰(みつとし)は、以前は山城国の役人でした。その時以来、都についての情報網を保持し、純友と共有していた可能性もあります。一般的には、将門と純友が密に連絡を取っていたという共謀説は否定されたとしても、将門の反乱をいち早く知った純友が、朝廷が東国対策に忙殺されるのを見計らって、乱を起こしたことが想定できます。

 

 

実際、朝廷は、東西の反乱に対して、まずは、平将門の乱の平定に専念し、純友の要求をひとまず受け入れ、兵力を東国に集中させることにしました。天慶3年(940年)1月30日に、朝廷は、936年の海賊降伏に関する勲功として、純友に(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授け、都に上るよう求めます。また、純友以外の、例えば受領の藤原子高を襲った藤原文元にさえも勲功が与えることを決めたのです。

 

要求が満たされ、官位を受けた純友は、朝廷に従う姿勢を見せ、940年2月、純友は京へ向かいました。しかし同時に、藤原文元ほか仲間たちは、朝廷を無視して、四国・中国地方で暴れ続けます。そして遂に、藤原文元が備前国を、また、純友の別の盟友、藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

また、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰がいると見られ、朝廷内では、純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。

 

 

  • 純友の誤算

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ940年2月25日、「将門討伐」の報告が京にもたらされたのです。純友は、将門の死の報を知ると、日振島にいったん船を返し、戦略を立て直すべく動静を見守ることにしました。

 

東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった関白・藤原忠平は、純友に対する融和策を翻し、武力による鎮圧に踏み切ります。940年5月に将門討伐に向かっていた東征軍が帰京すると、6月、藤原文元を藤原子高襲撃犯と「断定」して追討令が出されます。藤原忠平は、文元など純友配下の者らと戦いつつ、純友に対しては、「文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるか」の二者択一を迫る二面作戦に出ました。

 

940年8月、戦いを優位に進める朝廷軍に対して、窮地に立たされた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで、純友も動き出します。讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、讃岐国を取り戻そうとしていた朝廷軍を圧倒しました。朝廷に従うか、朝廷に逆らって仲間を助けるかの選択を迫られていた純友は、「仲間」を選んだのです。こうして、純友は、将門と同様、謀叛人となり、反乱軍の棟梁として、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

天慶3(940)年8月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲し、国府を占拠した後、讃岐国を藤原三辰に任せ、自らは制圧地の拡大に乗り出します。備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を堕とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。

 

このように、千艘以上の船を操ったとされる純友は、朝廷の送った兵船、数百艘を焼き払い、官物も略奪しながら、東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていきました。

 

ただし、純友の戦いは、京への侵攻を狙っていたのではなく、朝廷との交渉を有利に進めるために、制圧地を増やし、自らの力を示すことが目的だったとされています。そのために、瀬戸内海全域から京都周辺にかけて、「仲間」を配備していたという考え方もできます。

 

 

  • 戦局の変化

 

しかし、土佐国まで攻め入るまでは順調でしたが、その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、朝廷は、報酬や官職をチラつかせ、純友軍を内部から崩壊させようとします。天慶4年(941年)2月には、純友の次将と言われた藤原恒利を朝廷側に寝返えらせることに成功、恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて、日振島(愛媛県宇和島市)を脱出した純友は、小島が乱立する瀬戸内海のどこかの島に姿をくらまします。それから4か月が経った941年5月、純友は突如、大宰府に姿を現し、朝廷にとって九州におけるこの最重要拠点を襲撃し、占拠しました。

 

純友は大宰府を制圧することで、朝廷と和平交渉を有利に進めようと考えたのかもしれません。しかし、勢いに乗った朝廷は、もはや純友と交渉する気はありませんでした。朝廷側は、藤原忠文を征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任じ攻勢を強めてきます。ただし、忠文到着の前に、すでに、山陽道の追捕使(ついぶし)に任じられていた歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や平将門の乱にも携わった源経基(つねもと)らが陸路から、追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は海路から九州に到着しました。

 

これに対して、純友軍は、大宰府を落として、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(今の福岡県柳川市)に迫りましたが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純友軍は止められてしまいました。

 

有明海に抜ける拠点を確保できなかったことで、純友は大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。戦いは、激戦の末に、純友軍の兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れました。しかし、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。こうして、藤原純友の反乱は鎮圧されました。

 

 

  • 「海賊と呼ばれた男」の見果てぬ夢

 

朝敵の最期が、討たれたのか獄死したのか定かではない、というのは何か違和感を覚えます。実は、藤原純友は「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶った」という伝承があるのです。もしこれが事実であれば、純友は文字通り、「巨海」に出たことになります。では、もしそうならば、朝廷軍との戦いの中、どのタイミングでそれができたのかを推察すると、九州・柳川での戦いにその機会があった可能性があります。

 

通説では、純友が大宰府を落とした後、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川に迫るものの、橘公頼(たちばなのきみより)が蒲池城(かまちじょう)で迎え撃ち、純乗を敗走させたとなっています。しかし、福岡県柳川市に伝わる伝承では、「蒲池城は藤原純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗した」とあるのです。さらに、蒲池城に拠る蒲池(かまち)の領主は、藤原純乗(すみのり)の一族であるとの説があります(築後の蒲池氏は藤原一族)。

 

そうすると、有明海に抜けることができる柳川での戦いで、藤原純乗(すみのり)は負けておらず、純友の一団はそこから、有明海を抜けて、東シナ海に出た可能性が残されます。博多湾で迎え討ったのは、純友の替え玉か別人であったのかもしれません。だからこそ純友の死も曖昧にされ、さらには、純友に関する史料すら消されたという解釈もできます(純友には出生の記録すらない)。

 

朝廷からすれば、反乱者を取り逃がしたとなれば、面子が丸つぶれとなります。ですから、純友を海賊王に仕立てあげ、討ち取ったというシナリオをでっち上げたとは考えられないでしょうか?それが、逆に「瀬戸内海の海賊王」が世界に飛び出していたというなら、痛快極まりないことです。

 

ただし、純友が再び日本に戻ってきたという話しはどこからも聞こえてきません。瀬戸内海の交易を通じて、政治を動かす歴史上人物は、日宋貿易で財力を蓄えた平清盛の登場を待たなければなりませんでした。

 

 

  • 純友の子孫

 

ここまでの話しは、推測の域をでてはいませんが、少なくとも、藤原純友は、通説のように、国司に不満を持った無法者の海賊たちを従えて、朝廷に対して反乱を起こしたのではありません。京の貴族社会から脱落し失地回復を図ろうとした純友自身は、瀬戸内海の交易を通じた財力で、政治を変えようとしてしたのであって、結果的に朝廷と戦うことになりましたが、決して、京都に攻め上ろうなどという意思はなかったといえます。

 

それだからかどうかわかりませんが、純友から3世後、孫の藤原直澄の時代、藤原純友は、朝廷から許されています。後世、肥前国の戦国大名、有馬氏・大村氏らは藤原純友の子孫と称しています。大村氏の系図や史書では、藤原直澄は、「正暦5年(994年)に伊予から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化していった」とされています(大村氏の先祖は藤原純友の孫・藤原直澄とされる)。有馬氏も、初伝によれば、純友の子直澄が有馬氏の祖になった、または純友の五世の孫幸澄が有馬氏を名乗ったそうです。

 

 

後記

ところで、本HP「レムリア」の投稿記事には自分のことは書かない方針ですが、今回は例外で、一言加えさせて頂きたいと思います。

 

私の出身は長崎県佐世保市です。昔でいえば、肥前国に属します。実は、わが村尾家も、私の父によれば、途中改ざんがあったかもしれないという前提ながら、家系図をたどれば、藤原純友に行きつくという伝承があります!なんでも、「村尾家」の先祖は、大村藩と松浦藩の国境いにいたから村尾になった(大村藩の端っこで村尾)ということらしく、先祖の名前を見ると、特に第一子には、純友の「純」の名が使われています。ちなみに私の父の姉(長女)の名前は「純子」さんでした。もし、この事実を思い出していれば、私の長男にも「純」の字を使ったかもしれないなどと思う今日この頃です。

 

<参考投稿>

歴史:藤原純友「海賊王に俺はなる!?」

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

比叡山の誓い 純友将門共謀説

伝承化する純友将門共謀説

摂津須岐駅襲撃事件:藤原純友の乱と日振島の財宝伝説

Wikipediaなど

 

2020年05月23日

歴史:藤原純友「海賊王に俺はなる!?」

前回の投稿で紹介した平将門とともに、平安時代の中期、武士の時代を先駆けた人物として評されるのが、藤原純友(すもとも)です。純友は、伊予(愛媛県)の日振島を拠点に、約1000艘の船を率いた海賊の首領です。(平将門については、「『平将門の乱』ってどんな戦い?」を参照下さい。)二人がほぼ同時期に起こした朝廷に対する反乱を、年号から「承平天慶の乱」と呼ばれています。

今回は、純友が、瀬戸内海から博多湾にかけて起こした「天業の乱(藤原純友の乱)」を振り返ることにしましょう。純友の乱に関する史料は、将門の乱に比べてかなり少なく、諸説がありますが、今回は、一般に知られている話しを紹介します。(6/3改訂)

―――

 

  • 名門貴族の末裔

 

藤原純友は、寛平4(892)年、筑前守・藤原良範(よしのり)の三男として生まれたとされています。当時の太政大臣・関白を務めた藤原忠平は良範の従弟に当たります。祖父は右大弁・藤原遠経(とおつね)で、関白に初めて就任した藤原基経と兄弟でした。さらに、曾祖父は、権中納言・藤原長良(ながら)で、摂政・藤原良房の兄です。

 

このように、純友は、藤原氏の中で最も栄え、藤原道長も輩出する藤原北家(ほっけ)の流れを汲む名門中の名門の血筋であったのです。ですから、純友もそれなりの地位に就くことは期待されたのですが、当時、世襲が当たり前の時代、幼くして父を亡くしたために出世の見込みがほぼなくなってしまいました。

 

 

  • 伊予国の役人

 

それでも、純友は、父の従兄弟(いとこ)で、伊予守に就任した藤原元名(もとな)に従って、931年頃、伊予掾(じょう)となって、伊予国(今の愛媛県)に赴任しました。初めは、救いの手を差し伸べてくれた水の元名の命を受けて、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にいたのです。

 

*「守」や「掾」は、中央から派遣された地方の役人(国司)の等級で、上から(かみ)、(すけ)、(じょう)、(もく)という地位に分けられていた。

 

当時、まだまだ、瀬戸内海には海賊が横行しており、治安の悪化は続いていました。ところで、伊予国などで発生した海賊たちは、そのほとんどが、朝廷内で外交などの儀式に関連した雑務をこなす舎人(とねり)という役職の地方の下級官吏たちのことを指していました。894年の遣唐使廃止以降、朝廷は外交を縮小させたことなどに伴い、解雇された舎人らは、収入の道が絶たれて、「海賊」と化したのでした。

 

伊予国で、海賊の取り締まりに当たる一方で、現地の海賊衆とつながりを持った純友は、任期が終わっても帰京せず、土着していきました。そして、都の政府に不満をもつ、瀬戸内海の豪族たちとともに、海賊集団を作り、その頭となっていったのでした。

 

これに対して、朝廷は、海賊の取り締まりのために、海賊追捕使(ついぶし)を定め、承平6(936)年6月、紀叔人(きのよしと)を伊予守と追捕南海道使に任命しました。これに対して、純友は、一時、紀叔人に従って朝廷に帰順し、海賊を抑えながら、瀬戸内海の治政・治安を守っていたと言われています。

 

 

  • 「純友の乱」の始まり

 

しかし、純友と紀淑人との蜜月関係は長くは続きませんでした。純友は、突如、朝廷に反旗を翻すのです。その間、純友は、日振島(ひぶりじま)(今の愛媛県宇和島市)を拠点に、1000の兵船を操り、2500人もの部下を従える海賊の首領(頭目)となっていったのです。「南海賊徒の首(かしら)、藤原純友。党を結び、伊予国日振島に屯集(とんしゅう)し、千余艘(そう)を設け、官物私財を抄劫(しょうごう)す」(日本紀略)と、史料にもあるように、瀬戸内海や九州を荒らし回っていたとされています。

 

天慶2(939)年12月17日、伊予国から「純友が船に乗って海上に出ようとしている」との報告が朝廷に届きます。これを受け、朝廷は、京への召喚命令を出しましたが、純友一党はこれに従いません。

 

それどころか、純友の命を受けたとされる部下の藤原文元(ふみもと)が、摂津国の須岐駅(すきのうまや)で、海賊対策に当たっていた備前介(びせんのすけ)の藤原子高(さねたか)を襲撃し、子高を惨殺したのでした。子高が純友の件を報告するため、京へのぼる途中の出来事でした。朝廷が派遣した国司を殺害したわけですから、国家への反逆となります。後に「藤原純友の乱」と呼ばれる戦いのきっかけとなる事件でした。

 

 

  • 比叡山の盟約!?

 

純友の反乱は、朝廷を大いに焦らせました。しかも、同時期に、関東では、平将門が「新皇」を称して関東一帯を支配する「平将門の乱」を起こし、その対応に謀殺されていました。また、朝廷内では、将門と純友による反乱は、勃発当初より連携して始められているのではないかとの噂が広がっていました。

 

実際、「比叡山の共謀伝説」というのもあります。その伝説によれば、京の都で出会った将門と純友が、承平6年(936年)8月に比叡山へ登って、都を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王(天皇)となるべし、純友は藤原なれば関白になりて、政事(まつりごと)をせし」と盟約を交わしたというのです。

 

東から将門、西から純友が、共に反乱を起こして京都に上り、将門は桓武天皇の子孫だから「天皇」となり、純友は藤原氏だから「関白」となって、新しい世を作ろうという壮大な計画が立てられたという逸話をどう思いますか?今日でも、将門と純友が比叡山で相談したという「将門岩」が残され、関東には純友の使者が上ったという川岸までもあります。しかも、これは、平安時代(12世紀)の歴史物語「大鏡」や、南北朝時代(14世紀半ば)の史論書「神皇正統記」など複数の史料にも登場しています。

 

 

  • 瀬戸内海の海賊王

 

この真偽は別にして(一般的には否定)、その頃、京では、山城の入り口である山崎の警備拠点が謎の放火によって焼き払われる事件が起きるなど、各所で放火が頻発しました。この一連の事件の背後には、かつて、山城の掾(じょう)であった藤原三辰(みつとし)がいると見られ、朝廷は純友の勢力が、瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけても、浸透しているのではないかと恐れました。

 

追捕使の小野好古(おののよしふる)の率いる軍が、瀬戸内海に出て、純友らを捕えようとしたが、逆に追い散らされてしまいました。小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告したことから、純友が京を襲撃するのではないかと恐れられました。藤原純友は、京への直接的脅威となっていたのです。純友が起こした反乱は、瀬戸内海や摂津は京に近いことから、朝廷は、東西から挟み撃ちにあっているような恐怖感に襲われたと言われています。

 

そこで、朝廷は、まずは「将門の乱」に対応するために、東国に兵力を集中させ、純友に対しては、位階を授けて懐柔をはかろうとします。天慶3年(940年)2月、純友に、(貴族の仲間入りとなる)従五位下(じゅごいのげ)の位を授けました。しかし、叙任の効果はありません。2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪ったことを皮切りに、藤原文元が備前国を、また藤原三辰(ふじわらのみつとし)が讃岐国(今の香川県)を制圧してしまいます。

 

ところが、純友にとってまさかの事態が起きてしまいます。同じ年の2月25日、「将門討滅の報告」が京にもたらされたのです。将門の死の報を受け、純友はすぐに、日振島にいったん船を返し、しばらく動静を見守ることにしました。東西から京へ攻め登るという盟約が実現できなくなったことから戦略の立て直しを強いられたのかもしれません。

 

一方、東国の「平将門の乱」を早期に鎮圧したことで、兵力を西国へ集中できるようになった朝廷は、純友に対する融和策を翻し、純友討伐に本腰を入れ始めます。天慶3(940)年8月、朝廷軍の攻勢を受けた藤原文元や藤原三辰らは、純友に援助を求めます。ここで純友はついに動きだし、讃岐国で戦っていた三辰に加勢し、朝廷軍を圧倒します。この結果、藤原純友は、平将門と同様、朝廷に弓を引いた「反乱者」となり、朝廷軍と本格的な戦いが始まりました。

 

同じ月、純友は、兵船400艘で、讃岐国の国府(香川県坂出市)を急襲した後、破竹の勢いで、備前国(岡山県)、備後国(広島県)、安芸国(広島県)、長門国(山口)を墜とすと、10月には、大宰府で、追捕使らの兵を敗走させました。11月、周防国(山口県の東側)で貨幣鋳造所を襲い、12月には、土佐国幡多郡(高知県)を襲撃しました。このように、純友は東は淡路島や紀伊、西は太宰府、南は土佐まで瀬戸内海全域を実質的な支配下に置いたのです。

 

 

  • 西へ西へ:純友の最期

 

しかし、純友の進軍もここまででした。その後は朝廷軍の猛攻にさらされます。純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は、941年1月、朝廷軍に奪回され、藤原三辰は討ち死にしてしまいました。また、純友にとって、致命的になったのが、味方の裏切りでした。天慶4年(941年)2月、純友の次将と言われた原恒利が朝廷側に寝返ったのです。恒利の手引きによって、朝廷軍は純友の伊予国の本拠地を攻撃し、純友軍に大打撃を与えます。

 

辛うじて日振島を脱出し、西に逃れた純友は瀬戸内海の孤島に身を隠していましたが、同年5月に、突如、筑前国(福岡県)に出現、太宰府を襲撃して占領します。大宰府は、朝鮮半島との交易の要所であり、朝廷にとっても西の最重要拠点です。純友にとって、まさに最終決戦の場として位置づけたのかもしれません。

 

天慶4年(941年)5月、山陽道の追捕使(ついぶし)に任命されていた、歌人でも知られる小野好古(おののよしふる)や、平将門の乱にも拘わった次官の源経基(つねもと)が陸路から、同じ追捕使の大蔵春実(おおくらはるざね)は、海路から九州に到着しました。

 

大宰府を落とした純友軍は、そのまま純友の弟・純乗(すみのり)が柳川(福岡県柳川市)に迫りますが、大宰権帥(ごんのそち)(大宰府の長官)の橘公頼(たちばなのきみより)に阻まれてしまいました。有明海へ抜ける退路を断たれた純友は。大宰府を焼いて、博多湾で朝廷軍を迎え撃ちました。

 

戦いは激戦の末に、純友軍は兵船800が焼き払われる大敗を喫し、純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、天慶4年(941年)6月、潜伏しているところを伊予国(愛媛県)警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)に、息子の重太丸(しげたまる)とともに討たれたとも、捕らえられ獄死したとも言われています。

 

盟友の藤原文元は逃亡の途中、但馬国(兵庫県北部)で討ち取られるなど、純友に従っていた残党も、その年のうちに駆逐され、「瀬戸内海の海賊王」の反乱は収束したとされています。一時、関東全域を支配した平将門の乱とともに、朝廷に反逆したとされる藤原純友の乱(両者を合わせて「承平・天慶の乱」)は、こうして終焉しました。

 

<参考投稿>

異説:「海賊と呼ばれた男」の真実

 

<参照>

藤原純友の乱 – 歴史まとめ.net

人文研究見聞録

藤原純友|歴史人物いちらん

藤原純友(築土神社HP)

藤原純友が藤原純友の乱を起こす(PRIDE OF JAPA)

藤原純友の乱はナゼ起きた?(武将ジャパン)

藤原純友「海賊の頭目」になった名門貴族の末裔(産経West)

「平安京物語」藤原純友の乱(川村一彦)

超わかりやすい藤原純友の乱

Wikipediaなど

 

2019年12月02日

伝承:モリヤ神とミシャグジ神

諏訪大社の祭神は、記紀に伝わる出雲神話の神、建御名方神(タケミナカタノカミ)ですが、11月7日の投稿「諏訪大社と住吉大社」で、「もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われた」という伝承があると紹介しました。そこで、今回は、諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神、さらには、モリヤ神を調べていくうちにでてきたミシャグジという神様に注目してみました。

(本投稿から初めて読まれる方は、「諏訪大社と住吉大社」の諏訪大社の項目を読んでからの方が理解が深まると思います。)

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建御名方神vs洩矢神

「古事記」の国譲り神話には、出雲の国の伊那佐の小浜で、天孫族の建御雷神(タケミカヅチ)との力比べに敗れた建御名方命(たけみなかたのみこと)は、諏訪(洲羽)に逃れてきて、諏訪の神になったと書かれていますが、諏訪にはタケミナカタ以前に「洩矢(モリヤ、モレヤ)の神」がいました。

 

洩矢神は、諏訪大社に祀られているタケミナカタ(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した土着神とされています。室町時代初期に編纂された「諏訪大明神画詞」にも、「大和朝廷による日本統一の前の時代、諏訪の地には、洩矢(もりや)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいましたが、そこに出雲王国の建御名方神(タケミナカタノカミ)率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た」という記載があります。

 

神戦の舞台は、江戸時代の伝承記録には天竜川のほとりとあります。現在でも両者の戦った場所は残っているとされ、出雲族の建御名方神の陣地跡には藤島明神(長野県岡谷市)が祀られ、洩矢神の陣地跡には天竜川を挟んで洩矢大明神が洩矢神社(岡谷市)に祀られているそうです。

 

戦いは、地主神の洩矢(モリヤ)神と洩矢族が負け、侵略者である建御名方神に諏訪の統治権を譲り、建御名方神が諏訪大社の御祭神と成りました。ただ、現在も建御名方神は、諏訪様(諏訪大明神)として、人々に親しまれています。これは、勝者である建御名方神が、侵略者としての圧政は敷かず、むしろ、洩矢族とともに諏訪を統治したことがあげられています。それどころか、この地に稲作を伝え、諏訪の国も豊かにしたことから、先住民である洩矢の人々と新しく来た出雲系の人々は、共存するようになったと言われています。さらに、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官として認め、洩矢族に代々祭政を任せたのでした。今もこの神官の地位(神長官)を守矢氏が引き継ぎ、現在78代目(守矢早苗さん)なのだそうです。

 

守矢(もりや)氏

諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神を氏神とする氏が、守矢一族とされ、守矢氏は洩矢神の後裔とみられています。前述したように守矢氏が受け継いできた神官名が、諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)です。この役職は、後述する「大祝(おおほうり)」という神職の即位式を含め、神事全般を掌握するだけでなく、土着の「ミシャグジ(ミシャグチ)」という神を降ろしたり上げたりするという祭事を担います。

 

大祝(おほいわり)とは、神職の最高位の階級で、成年前の童子が、決められた地域からそれぞれ1年毎に選ばれて即位しました。選ばれた童子は、即位式に当たり、神長官の屋敷の一室に一定期間籠り、儀式に臨みます。儀式は、諏訪大社前宮境内に、幕を引いて神殿を設け、そこで神長官(守矢氏)がミシャグジ神霊を呼び降ろし、「大祝(おおほうり)」に選ばれた童子に憑依させて現人神とするものだそうです。守矢(モリヤ)氏が代々務めた神長官(神長)は、「諏訪大社上社大祝(おおほうり)の職位式」などの神事を行ったり、呪術によって神の声を聴いたり、豊作祈願など祈祷する力などを持つとされました。

 

これに対して、諏訪神官の最高位である大祝という生神の位に就いた氏が、建御名方命の子孫である諏訪氏(神氏)です。諏訪氏といえば、戦国時代、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重が思い出されます。諏訪一族は、「大祝(おおほうり)」を代々務め、当時、頼重は信濃の名族・諏訪氏の惣領家でもありました。武田信玄は、諏訪の地を支配するために、諏訪頼重を討ち、頼重の娘を側室にしました。そして二人の間に生まれた勝頼を諏訪惣領家の後継に据えたのでした。

 

諏訪神社上社において、この「大祝(おおほうり)」を補佐して実質的に祭祀を取り仕切る役職が、洩矢神の子孫の守矢氏によって引き継がれた諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)という筆頭神官(諏訪大社の神職の長)の位です。そして、守矢(もりや)家が、古くから「七本の峰のたたえ」を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたと言われています。「七本の峰のたたえ」とはミシャグジが降りる木とされ、この内の一本が、守矢家屋敷の近くの「尾根(縄文時代の墓としての土坑)で、発掘されています。このため、守矢氏の氏神とされる洩矢神は、守矢氏が祀るミシャグジと同一視されることもあるそうです。そこで、洩矢(モリヤ)の神とミシャグジという神について、みてみましょう。

 

洩矢神(もりやしん、もりやのかみ)

侵攻してきた建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いに敗れた洩矢神には、守宅神(もりやのかみ、もりたかのかみ)と多満留姫命(たまるひめ)の二柱の御子神がいました。多満留姫命は、建御名方神の御子神・出早雄命(いづはやおのみこと)に嫁ぎました。このことは、土着神という洩矢神系と建御名方神の出雲系が婚姻したことを意味し、神話的には、戦いに敗れた守矢神が、娘を、建御名方神の御子に嫁がせ、延命と勢力保持を図ったという言い方が可能です。

 

洩矢神のもう一人の御子である守宅神は、洩矢神の祭政の跡継ぎとなり、千鹿頭神(ちかとのかみ)をもうけました(母神は未詳)。守宅神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲した後に生れたことがその名の由来のようです(現在も千鹿頭神は、狩猟神として信仰されている)。

 

洩矢神

守宅神-多満留姫命

千鹿頭神

 

千鹿頭神(ちかとがみ)は、洩矢神の祭政官としての地位を、守宅神から引き継ぎましたが、後に松本、奥州へと追放されてしまいます。このため、千鹿頭神の後継者となったのは、建御名方神の孫である児玉彦命(こだまひこのみこと)でした(児玉彦命は、守矢氏の系図では四代目に数えられる)。このことは、土着の洩矢神の血族がこの段階で断絶してしまってことを意味します。その後、洩矢神の祭祀は、児玉彦命(こだまひこのみこと)から、その子の八櫛神(やくしのかみ)、そして守矢氏が引き継ぎました。ですから、守矢氏は、洩矢神の後裔と言われていますが、血筋は直接つながっていないことになります。それにもかかわらず、その祭祀を受け継いだ守矢氏は洩矢神を一族の遠祖としているのです。ということは、タケミナカタ系の守矢氏が、諏訪大社上社の神長官をし、「ミシャグチ」を上げ下ろししていたことになります。では、守矢氏が守ってきたとされるミシャグジとは、どういう神様なのでしょうか?

 

ミシャグジ(チ)

ミシャグジとは、記紀には登場しない、太古より日本に伝わる、諏訪湖の土着神で、ミシャグジに対する信仰は、大和民族に対する先住民の信仰とされていました。その起源は縄文時代から祀られてきたといわれ、当初は、主に樹木、笹、石など、自然万物に降りてくる精霊・自然神と言わています。また、諏訪の御射山(みさやま)をご神体とする山神として、マタギ(猟師)をはじめとする山人達から信仰されていました。

 

さらに、時代を経るにつれて、ミシャグジは、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと考えられています。ですから、ミシャクジはこうした神々とも同一視されることもあるのです。

 

また、民俗学者の柳田國男は、ミシャグジを、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に一種の標識として立てた塞の神(サイノカミ)=境界の神とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神だそうです。

 

前述したように、現在、ミシャクジは、諏訪大社上社に祀られ、ミシャグジ降ろしの祭祀において、神官に憑依して宣託を下す神です。大昔には、一年毎に八歳の男児が神を降ろす神官にあ選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供(ひとみごくう)(人間を神への生贄とすること)とされるといった伝承も残されています。

 

ミシャグジ神を信仰する地域は、東日本広域に渡り、ミシャグジ信仰は、長野県の諏訪地方を中心に、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、岐阜県、滋賀県など東日本の広域に渡って分布しています。全国のミシャグジを祀る神社は約1800社もあります(このうち長野県には750余りのミシャグジ社が存在)。諏訪大社上社の前原は、ミシャグジを統括する祭祀場だったとされています。その信仰形態は多様で、地域によって差異はあります。

 

ここまで、出雲の建御名方神(タカミナカタノカミ)が出雲に侵攻してくる(記紀の出雲神話では逃れてくる)以前にいた、諏訪地方の土着の神である、洩矢(モリヤ)神とその一族とされる守矢氏、さらには、彼らが祀っていたミシャグジ(ミシャグチ)という神様についてまとめてみましたが、さらに興味深い話しがいくつか続きます。

 

洩矢(モリヤ)神は、物部守屋か?

古代史を紐解けば、仏教の受け入れを巡り、587年、崇仏派の蘇我馬子に討たれた物部守屋という人物がでてくると思います。日本史の教科書には、この結果、神道護持の物部氏は滅び、仏教は朝廷に公認され、広く布教されていく事に・・・式の説明がなされています。

 

しかし、諏訪では、物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れた後、諏訪の地まで落ち延びて、この地に祀られたとの伝承があるそうです。その祀られた場所が現在の守屋神社(長野県伊那市)です(この諏訪にある守屋神社と、岡谷市にあるモリヤ神を祭る洩矢神社は別の神社)。さらに、諏訪大社の裏に‘守屋’山(もりやさん)という山があり、諏訪大社上社の御神体である神体山とされ、その神官が、古代この地を治めていた洩矢族の78代目の守矢氏です。

 

ところが、「もりやさん」の字は、ミシャグジ神を代々祭る神長官・守矢氏の「守矢」ではなく、物部‘守屋’の「守屋」であることが興味深いですね。さらに、守屋山の頂上には磐座があり、守屋神の奥の宮とされているのです。まさに、洩矢神も物部守屋、どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体として、諏訪信仰の聖地に祭られてるのです。なお、物部氏と守矢氏の関係では、物部守屋の次男の武麿が、守屋山に逃れて、やがて守矢家へ養子入りして神長官となったという説があります。実際、その人物のお墓とされる古墳もあるようです。

 

古代イスラエルに遡る?

古代イスラエルには、「モリヤ」という聖なる地があったそうです。「イスラエルの失われた十支族」という伝承があるのはご存知ですか?旧約聖書に記されたイスラエルの12支族のうち、行方が知られていない10支族が日本にきていたというもので、この内のある支族が、紀元前のある時期に諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していたとする説があるのです。

 

この伝承に従えば、諏訪の国を侵攻してきた建御名方神(タケミナカタノカミ)も、この「モリヤ」が何であるかを知っていたからこそ、洩矢族の祭っていた神を認め、諏訪大社にも祀られるようになりました。さらに、同じイスラエルの支族の物部氏も、大和政権成立後、政治の中心にいましたが、「崇仏論争」で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、そこで安住した…という説もでています。

 

日本とイスラエルの古代史を融合させるのは無理があるような気もしますが、実は、ミシャグジも関連性があるようです。そもそも、ミシャグジ(チ)という神名も珍しいですよね?この立場に立てば、ミシャグジ(チ)とは、正確には、ミサクチ=ミ・イサク・チだそうで、これはヘブルアラム語のミ・イツァク・ティン=イサクに由来するとされています。または、古代の神ということから、語源的にはアイヌの音に通じるという説もあります。古代史はまったく興味が尽きません。

 

<参照>

信濃國一之宮 諏訪大社(公式サイト) より抜粋

諏訪大社とはー御柱祭

諏訪大社/上社前宮(3)

日本の神様辞典、やおよろず

ミシャグジ神を祭る神長官守矢氏 古代史日和

倭国、大和国とヘブライ王国

諏訪大社・上社前宮/神旅、仏旅 むすび旅

トランヴェール2019/9JR東日本など

 

2019年11月06日

歴史:沖縄と首里城

国の史跡でもあり、世界遺産、日本百名城にも選ばれている首里城が、火災で倒壊したというニュースは国内外に衝撃を与えました。沖縄と首里城の歴史を少し振り返ります。

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沖縄最大のグスク(城)である首里城(しゅりじょう)は、別名は御城(ウグシク)とも言う山城で、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城として、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました首里城の最初の築城は不明ですが、沖縄の三山時代には存在していたもようです。三山時代(さんざんじだい)と言うのは、1322年頃から1429年まで、沖縄が、北部の北山(ほくざん)、中部の中山(ちゅうざん)、南部の南山(なんざん)と3つの王朝に分かれていた時代をいいます。

 

このうち、琉球中山では、沖縄で生まれた最初の王統として、英祖王統(1259年頃~1349年)が、初代の英祖王から5代90年間栄えていました。その後、初代・察度(さっと)とその息子の武寧(ぶねい)の二代・56年間続いた察度王統(1350年~1405年)が続きました。

 

尚思紹王と尚巴志王

この時期、南山に、尚思紹王(しょう-ししょうおう)と言う人物が出ます。佐敷按司(佐敷の城主)を務めていた尚思紹王(1354~1421)には、嫡男の尚巴志王(しょう-はしおう)がいました。尚巴志王は、21歳のときに、父から南山の佐敷按司(さしきあんじ)を譲り受けると、1406年には中山王・武寧(ぶねい)を攻撃して察度王統(さっとおうとう)(1350年~1405年)を滅亡させます。

 

中山を手に入れた尚巴志王は、自らは王にならず、父・尚思紹(しょう・ししょう)に中山王に就いてもらいました。またこの時、尚巴志王は、中山の本拠を、英祖王統と察度王統の時代の浦添城から首里城に定めました。ここに、第一尚氏王統(1406年~1469年)が成立するとともに、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、首里城は、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇ることになります。

 

王国時代、首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開き、中国(明)をはじめ日本、朝鮮、ジャワなどとも交易を盛んに行われました。ただし、琉球王国では一般民衆の土地私有が認められていませんでした。そのため、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、農民などは貧しい生活を強いられていたと言われています。

 

琉球統一

さて、尚巴志王(しょう-はしおう)は、1416年には、北山王の居城である今帰仁城(なきじんじょう)も攻撃しました。この時、今帰仁按司の攀安知(はんあんち)は、家臣の裏切りもあって自刃したため、尚巴志王は北山も手に入れました。

 

1421年に、父・尚思紹王が死去すると、翌年、尚巴志王は中山王に即位し、首里城の整備を進めました。そして、1429年には、南山・島尻大里城(しましいおおざとじょう)の他魯毎(たるみい)を滅ぼし三山を統一し、初めて琉球を統一することに成功しました。尚巴志王はこのように大業を成し遂げ、1439年に亡くなると、次男・尚忠(しょう・ちゅう)が跡を継ぎ、第2代琉球国王(第一尚氏王統・第3代国王)となりました。その後、1453年、第一尚氏王統・第5代尚金福王(しょうきんぷくおう)の後、王位をめぐって王世子・志魯(しろ)と王弟・布里(ふり)との間で争いがおきました(志魯・布里の双方とも死去)。この志魯・布里の乱(しろ-ふりのらん)と呼ばれる争乱で、首里城は焼失してしまったのです。

 

さらに、1462年には、第6代国王の尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の重臣であった金丸が王位を継承し(クーデターで第一尚氏王統が滅んだとの見方もある)、第二尚氏王統の初代国王、尚円王(しょうえんおう)となりました。ただし、第二尚氏王統となっても、1453年の火災から復興した首里城は引き続き首都として栄えています。首里城は沖縄を統一してから大改修されたこともあり、戦闘用の軍事向けの城と言うよりは、政治や宗教の役割を重視した設計になっています。

 

1477年に即位した第二尚氏王統・第3代王の尚真(しょうしん)のとき、琉球に中央集権制を確立すると同時に、1519年には園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)が造られました。園比屋武御嶽は琉球王国の聖地のひとつで、国王が旅に出る際必ず拝礼したとされる礼拝所でした。

 

二重朝貢外交

琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、琉球と日本との衝突が起きていました。徳川幕府の成立後、島津氏は、琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとして画策して、1609年、琉球と薩摩藩との間で慶長の役が起きました。この時、薩摩藩の軍勢3000に対して、琉球軍は4000の首里親軍(しおりおやいくさ)などが首里城に籠城しましたが敗れ、琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王、尚寧王(しょうねいおう)は降伏して首里城を開城しました。

 

この結果、奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球王国は事実上、薩摩藩の従属国となりました。ただし、琉球は、薩摩藩へ年貢を納める義務を負いつつも、明国同様、清国にも朝貢(臣下の礼をとること)を続け体制を続けるなど一定の独自性を保っています(これを二重朝貢外交などと呼ばれる)。この慶長の役の際、薩摩軍の侵攻を許して城(グスク)は焼失してしまいました。その後、首里城は江戸時代において、1715年に3度目の火災で焼失しましたが再建され、太平洋戦争までその威容を保ちました。幕末の1853年には、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で那覇港を訪れ、首里城にて開港を求めるなど、日本の近代史の舞台にもなりました。

 

琉球処分

明治政府は、1871年に廃藩置県を行った翌1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年に琉球藩は沖縄県となりました。明治政府により琉球が強制併合された一連の過程は琉球処分と呼ばれ、約500年にわたって君臨した琉球王国はここに完全に滅亡しました。同年、最後の国王となった第二尚氏王統第19代の尚奉王(しょう・たいおう)は、首里城を明け渡し、明治政府の命令に従い、東京移住し、身分も、国王から華族へと格下げられました。

 

太平洋戦争

太平洋戦争中の沖縄戦では、日本陸軍が、首里城の地下に地下壕を掘って、第32軍総司令部としていたことから、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどから艦砲射撃を受け、首里城は灰燼に帰してしまいました。この時、首里城の地下では5000人もの重症兵が自決したとも言います。この沖縄の激戦で、琉球王国の宝物・文書も、その多くが失われました。わずかに残された宝物もアメリカ軍によって摂取され、一部は未だに返還されていません。

 

戦後復旧と今

戦後、首里城は、琉球大学のキャンパスとなりましたが、琉球大学の移転に伴い、1958(昭和33)年から復旧事業が開始されました。1972年5月の本土復帰の際、国指定史跡とされ、1992年、沖縄復帰20周年を記念し、約73億円かけて復元されました。こうして復活した首里城は、琉球王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂として、沖縄のシンボルとなったのでした。2000年12月には、首里城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産に登録されました。そんな首里城が、令和の時代に入った2019年10月31日、首里城祭りの開催期間中に全焼してしまったのです。

 

<参考>

首里城とは 尚思紹王と尚巴志王

「沖縄の世界遺産」守礼門や正殿 グスクとは?

「首里城は琉球王国の国王の居城だった(ニュース グッディ)」

沖縄県教育委員会HP

那覇市観光協会HP

沖縄観光HP

沖縄県観光チャネル

2019年10月29日

歴史:邪馬台国の真実を探る②

邪馬台国の真実を探る①に続くお話しです。

 

  • 九州説(北九州説)

九州説では、倭人伝にいう、2世紀後半から3世紀半ばにかけての邪馬台国は、北九州の伊都国に本拠を置いた時代の邪馬台国であると主張されます。伊都国の平原遺跡などから卑弥呼のものと思われる墓や副葬品が多数出土しており、卑弥呼は伊都国の出身という見方すら出されています。

 

また、倭人伝にある「環濠、宮室、楼閣、城柵」を備えた遺跡が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、福岡県の平塚川添遺跡などで見つかっているというのも九州説の論拠となっています。

 

さらに、古来、鉄は権力の象徴とよく言われますが、弥生時代の鉄器の出土数のトップは熊本と福岡であるのに対して、奈良からはほとんど出土されていないという指摘もあります。

 

加えて、倭人伝には、邪馬台国に対抗していた「狗奴国(くぬこく)」についての記載があります。狗奴国の所在地も熊本が有力視され、吉野ヶ里遺跡に匹敵する県内最大規模の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)が、狗奴国(くぬこく)の跡地と見られています。

 

一方、邪馬台国九州説から、さらに発展的に、邪馬台国東遷説が浮上します。

 

邪馬台国東遷論

これは、九州にあった邪馬台国が、王権とともにヤマト(大和)へ東遷し、大和朝廷になったとする考え方です。そうなると、1)神武天皇の東征は、邪馬台国が大和地方に進出したことであったという見方、2)邪馬台国時代の後に、神武天皇の筑紫(九州)から大和への遷都が行われたという考えまでてきます。逆に、3)邪馬台国は、大和朝廷が九州に攻め込む過程で、大和朝廷に征服されていたという説もあります。

 

 

  • 畿内説

九州説と畿内説との間で江戸時代から続く邪馬台国論争は、今も決着していませんが、2009(平成21)年秋に発掘された纒向(まきむく)遺跡の出現で、畿内説が優位になっています。

 

纒向遺跡(奈良県桜井市)は、今も神体山として信仰をあつめる三輪山のふもとに位置しています。そこで、宮殿を思わせる東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の巨大建物群の跡など4棟が見つかりました。また、3000個以上の桃の種、小動物、魚の骨が多数発見されただけでなく、土器も多く出土しており北陸、近江、河内、阿波、吉備などからも土器の搬入が確認されています。

 

卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政(まつりごと)を行い、倭国の首都だったのではないかとの期待が高まりました。また、纏向遺跡は、紀元180年頃にできたものとされていますが、卑弥呼が女王になった時期と一致しています。

 

さらに、纒向遺跡にある箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)は、日本最古の古墳とされており、これが、卑弥呼の墓であるとの見方が根強くあります。「日本書紀」によると、箸墓は、第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在で、何か予言の能力のようなものを持っていたらしく、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます(この逸話から箸墓という名がついたとも言われている)。この百襲姫(モモソヒメ)と卑弥呼のシャーマン的な姿が重なり、この古墳が、倭国の女王、「卑弥呼」の墓だと考えられているのです。

 

加えて、邪馬台国(卑弥呼の時代)に続くとされる大和朝廷(ヤマト政権)の時代は、地質学の観点から言えば、古墳時代(250~500年頃)にあたります(ヤマト王朝は、3世紀末から4世紀前半にかけて、奈良の地に出現したとされている。)

 

実際、3世紀中頃(247年か248年)、女王卑弥呼が亡くなったとされる頃、近畿地方の大和(奈良県)を中心に、瀬戸内海沿岸にかけて、古墳(有力者の墓)が造られるようになりました。最近の研究では、古墳時代の開始を、以前の3世紀末(大体280年頃)から3世紀中ごろとするのが大勢となっており、そうなると、卑弥呼の死亡時期とピタリと重なります。加えて、纏向遺跡があった邪馬台国とみられる地域は、紀元340年ごろ、急速に衰退したとされ、この時期も、初期の大和朝廷(ヤマト政権)が誕生したとされる頃と重なります。

 

このように、纏向遺跡の存在が、邪馬台国、畿内説を強力に後押ししています。これが、7月24日の「邪馬台国・畿内説は常識?」を投稿した背景です。

 

 

  • 畿内説批判

しかし、畿内説にしても批判がないわけではありません。特に、文献上から問題点が指摘されています。もともと「魏志倭人伝」に記された道のりと距離をそのまま読めば、邪馬台国は太平洋の海の中になってしまうことはすでに述べた通りですが、畿内説では「魏志倭人伝」に記された方角を「都合よく」解釈していると批判されています。

 

例えば、「魏志倭人伝」に「その(女王国の)南に狗奴(くな)国がある」と書かれています。畿内説の観点から狗奴国を考えようとすると、奈良県の南とは、紀伊半島の南部の熊野地方に当たりますが、そこに当時、女王国に敵対する勢力はなかったとされています。そこで、畿内説では、「魏志倭人伝」の「南」は「東」の誤りであるとして、狗奴国が、愛知県の濃尾平野にあった解釈しているのです。

 

また、邪馬台国畿内説は、日本の文献との矛盾も指摘されています。もっとも、日本の文献といっても神話に基づくいるのですが、邪馬台国の時代のに神武天皇の東遷(宮崎の高千穂から奈良の橿原へ)が行われたとすると、畿内に都があるのに、神武天皇が南九州から、東遷することは考えられません。

 

逆に、神武東遷が、卑呼の時代の前に行われたとすると、記紀(「古事記」「日本書紀」)に、神武天皇の後に、「女王」が即位したという記録はありません。あるとしたら、神功皇后が考えられますが、邪馬台国のあった時代と合致しません。

 

さらに、「纒向遺跡=邪馬台国跡」説も絶対ではありません。「纒向(まきむく)遺跡」の「まきむく」という地名は、「魏志倭人伝」には一度もでてきておらず、記紀には、第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の時代の下りで、「纒向の〇〇の宮」というのがでています。そもそも、第10代の崇神天皇が、大和朝廷(ヤマト政権)の創始者とも言われています。纒向は、崇神、垂仁、景行の三代にわたって都が置かれたヤマト政権の都であった可能性もあるわけです。

 

このように、邪馬台国が畿内にあったと、江戸時代から続く不毛に近い邪馬台国論争に、決着がついたとは言えないのですね。それどころか、邪馬台国の所在は、九州説・畿内説に限らず、以下のように、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地でその存在が主張されています。

 

邪馬台国はどこに(主要な九州説、畿内説以外)?

豊前宇佐説

吉野ケ里説

阿蘇説

奄美大島説

沖縄説

四国説

出雲説

 

どの説もそれぞれ興味深く、説得力もあります。個々の内容については、別の機会に紹介することにします。

2019年10月21日

歴史:邪馬台国の真実を探る①

先日10月9日の投稿で、「弥生時代の遺跡から胸に乳房が表現された女性とみられる人物の刻まれた土器片(紀元前1世紀ごろ)がみつかった」という報道を紹介しました。その女性が霊的な力を持つシャーマン(宗教的職能者)とする見方があります。そうすると、その時代は、邪馬台国の卑弥呼の時代から約300年前にさかのぼることから、当時の日本には女性が農耕祭祀で活躍する場がずっとあったことが示唆されるという点で注目されています。そこで、今回は、卑弥呼と邪馬台国についてまとめました。

 

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古代、中国を支配していた前漢の時代のことが記された「漢書」地理志によれば、  紀元前1世紀末頃(弥生時代の中期に相当)、中国は日本人を「倭人」と呼んでいましたが、当時の日本は百余国に分かれていたとされています。その後、中国では、前漢から後漢に代わり、その時代の歴史書「後漢書」東夷伝には、西暦57年に、博多湾岸にあった倭の奴国(なこく)が、後漢の都、洛陽に使者を送り、光武帝から金印「漢倭奴国王」を受けたとあります。

 

後漢に続く、魏の時代の歴史書、「魏志」倭人伝(「魏書」の東夷伝倭人の条)には、弥生時代の後期に当たる180年前後の頃、「倭国大乱」という70~80年も続く争乱の時代となり、「日本は大きく乱れた」とあります。この「倭国の大乱」は、奴国(なこく)と邪馬台国の争乱で、長く収まりませんでしたが、邪馬台国に女王卑弥呼が出現し、混乱を鎮め、30の小国を従えるようになったとあります。倭人伝によれば、「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と書かれています。

 

なお、この時代、日本の神話に照らし合わせると、応神天皇の父親である仲哀天皇が、現在の福岡県あたりに造営されていた皇宮を拠点に、熊襲と戦っていたとあります。

 

卑弥呼は、「鬼道によって国を治めていた」と伝えられ、祖霊信仰に属す祭祀に基づく政治がなされていたとみられています(鬼道とは巫女として神の意志をきくこと)。また、同じ魏志倭人伝には、「邪馬台国、女王の都するところなり」とも書かれています。ここから、卑弥呼は邪馬台国の女王と言うよりは、邪馬台国を含む倭国全体の女王で、邪馬台国にいたとの見方もあります。つまり、邪馬台国は倭国の首都だった可能性もあるわけです。

 

加えて、卑弥呼は、239年に魏に使いを出し、魏の皇帝・劉夏(りゅうか)から「親魏倭王」の称号と金印を授けられたとされています。その根拠は、「汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬(しじゅ)を与える」との記述が魏志倭人伝に見られるからです。当時の中国は、魏・呉・蜀がしのぎを削った三国志の時代でしたので、卑弥呼が外交相手に選んだのは、曹操(そうそう)が治める魏だったのですね。

 

そんなカリスマ的指導者、卑弥呼も、249年に近い頃に亡くなり、邪馬台国は、跡を継いだ宗女(嫡出の娘)、台与(とよ)=壱与(いよ)によって治められました。一説には、卑弥呼の死後、一時政治が乱れたものの、壱与(台与)という女性が王になり、争いを鎮めたとも言われています。また、「晋書」という中国の晋の国の歴史書には、266年に「倭の女王壱与が西晋に使者を送る」と記されています。

 

その後、邪馬台国がどうなったかは定かではありません。つまり、日本の歴史は、この後、大和朝廷(ヤマト政権)と呼ばれた統一国家ができて、日本を統治していくわけですが、その前の邪馬台国がどこにあって、大和政権にどう継承されていったかが明らかになっていないのです。こうした背景から、2~3世紀の日本に「邪馬台国」があったとされているのですが、日本の史料には「邪馬台国」は存在せず、中国の歴史書(「倭人伝」)に2000字の記載があるのみで、しかも方角と距離しか示されていません。

 

そこで、邪馬台国がどこにあったかについて、1910(明治)43年に、二人の学者によって、邪馬台国の所在地はそれぞれ九州、畿内と唱えられて以来、主に、北九州説と畿内説に分かれて、幾多の論争がおきましたが、いまだ結論には至、っていません。もはや今ある文献資料だけでは決着はつかないとの見方が支配的です。なぜこういうことになってしまったかというと、「魏志」倭人伝をそのまま素直に読むと、邪馬台国の位置は、太平洋のまん中のミクロネシア諸島のどこかか、小笠原の父島・母島あたりになってしまうからだそうです。

 

倭人伝では以下のようになっています。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり」、「(帯方)郡より女王国に至る(一万二千里…」、「邪馬台国、女王の都するところなり」

(現在のソウル近辺に相当する帯方郡から東南へ「5400キロメートルあまりの先に、女王卑弥呼の都する邪馬台国があり…」

 

つまり、古代の日本に、卑弥呼を女王とする邪馬台国があり、その邪馬台国は、帯方郡から東南方向に位置し、帯方郡から邪馬台国までの総距離が12,000里(5400㎞)あったとだけしか書かれていなかったのです。ですから、研究者たちは、方角を、例えば「南」となっているのを「東」と読替えてみたり、行程の日数や距離を縮めてみたりしながら、自説に合うように解釈してきました。著名作家の松本清張氏も、「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」と語っていたそうです。

 

なお、「魏志」倭人伝に記されている地名に従って、例えば、「帯方郡から南へ○○里、末蘆国から△へ〇〇里」というように、邪馬台国の位置を推測していくと、次のようになっていきます。

 

帯方郡⇒狗邪韓国⇒対馬⇒一大国⇒末蘆国⇒伊都国

⇒奴国⇒不弥国⇒投馬国⇒邪馬台国

 

「魏志」に書かれている「(魏からみて)奴国と投馬国は、邪馬台国より北、狗奴国は南にあり」というような記述などをもとに推測すると、各地名の現在地はほぼ固まっています。

 

帯方郡(たいほうぐん):現在の韓国ソウル

狗邪韓国(くやかんこく):現在の韓国釜山

対馬(つしま):現在の長崎県対馬市

一大国(一支国)(いきこく):現在の長崎県壱岐市

末盧国(まつらこく):現在の佐賀県唐津市から長崎県松浦市一帯

伊都国(いとこく):現在の福岡県糸島市

奴国(なこく):現在の福岡県春日市

不弥国(ふみこく):?

投馬国(とうまこく):?

邪馬台国(やまたいこく):?

 

そうすると、「帯方郡」から「奴国」までは、畿内説も九州説も一致していますが、「不弥国」から「投馬国」を経て、「邪馬台国」へ至る行程に違いがでて、論争が起こっているのです。では、それぞれの見解を少し検証してみましょう。

(続く)

邪馬台国の真実を探る②

2019年10月16日

祭り:長崎くんちと諏訪神社の由来が興味深い!

10月8日、ニュース(「令和初の長崎くんち」)で取り上げた「長崎くんち」は、長崎の諏訪神社の秋の祭礼行事ですが、その由来が興味深かったのでまとめて紹介します。

 

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長崎くんちの奉納は、寛永11年(1634年)、丸山町・寄合町の二人の遊女が諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したことが始まりとされています。ただし、長崎くんちというお祭りは、市民たちによって自発的に発生した祭りではなく、奉行所から参加を強制された祭礼でした。そして、諏訪神社の秋の祭礼である「長崎くんち」が行われる際には、「従わない者は極刑、領地からの追放」と言う厳しい罰が下すというお触れが出されたそうです。どうしてこういう事態になったかというと、江戸初期のキリスト教徒との「宗教戦争」が関係していました。

 

そもそも、長崎くんちの主催者である「諏訪神社」も、長崎奉行所の役人が再興したものでした。もともと、諏訪神社は、弘治年間(1555年~1557年)より、長崎市内に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社を起源としています。1555(弘治元)年、領主の大村純忠の重臣、長崎甚左衛門純景の弟、長崎織部亮為英が、京都の諏訪神社の分霊(御神体)を、現在の風頭山(かざかしらやま)の麓に迎えて祠ったのが始まりとされています。

 

しかし、長崎が1571年、海外との貿易港として開港すると、ポルトガルやスペインなどから多くの宣教師が訪れ、布教活動を行いました。その結果、キリスト教徒が増えていくなか、大村純忠は洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となっただけでなく、領地を寄進し、長崎はイエズス会の「教会領」となったのです。純忠は、当初、貿易が目的だったようですが、次第に信仰にものめり込み、家臣、領民にもキリスト教を強制しました。信者の中には過激な行動に出るものもあり、長崎に古くから存在した社寺はことごとく放火・破壊されました(この中に諏訪神社の三社も含まれていた)。

 

こうした事態に、豊臣秀吉は、純忠の死後、1587(天正15)年に、バテレン追放令(宣教師追放)を発して、宣教師による布教活動や人身売買などを禁じ、長崎の教会領も没収しました。これに対して、長崎のキリスト教徒(切支丹)たちの信仰心を反抗心に変え、社寺への圧迫は継続され、信者の数は減るどころかむしろ増えていったとされています。さらに、イエズス会側も、秀吉のバテレン追放令に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとする動きまででたそうです。そうなっていたら、日本と、当時の世界大国スペインとの戦争という事態まであり得たわけです。

 

江戸幕府も、1612(慶長17)年とその翌年、「慶長の禁教令」を発し、宣教師の追放にとどまらず、徹底的なキリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊を命じるなど、キリシタンへの弾圧を強めていったのでした。これに呼応するような形で、長崎においては、奉行の長谷川権六と代官の末次平蔵が、キリシタンによって破壊された諏訪神社の復興を行います。松浦一族で佐賀(唐津)の修験者(山伏)・青木賢清(かたきよ)が招かれ、かつて長崎にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社の再興に着手し、1625(寛永2)年、現在の諏訪神社が、創建され、長崎の氏神となりました。

 

なぜ、山伏(修験道者)が呼ばれたか?識者の中には、キリシタンから見れば、山伏は、彼らが悪魔の化身とみなす「天狗」であり、新たな諏訪神社の創建は、キリシタンに対する勝利の象徴を意味するとまで解釈する向きもあります。それだけ、キリシタンを強く意識していたということですね。実際、青木賢清は、諏訪神社の初代宮司を務め、長崎のキリシタンに目を光らせるのです。それから、9年後の1634年、ついに、「長崎くんち」が復活しました。ですから、長崎奉行所としては、祭りは必ず成功させなければならなかったので、領民の強制参加となったのでしょう。ある意味は、それは形を変えた踏み絵であったのかもしれません。長崎くんちは、その後、市民に浸透し、昭和20年夏の長崎原爆投下の年ですら、市民たちの「心意気」によりその秋に開催され、日本の三大祭りの一つに数えられたこともあるほど、全国的に知られています。

 

<参考>

日本三大祭「長崎くんち」開幕!くんちに秘められた長崎ならではの歴史とは

(Aera dot.)

鎮西大社諏訪神社HP

長崎くんち(長崎伝統芸能振興会HP)

Wikipedia(長崎くんち)

2019年09月06日

歴史:源氏長者と徳川家康

先の参議院選挙で、徳川家康の末裔が立候補していたことをきっかけに、徳川家について調べる気になりました。また、秋田へ行った際、佐竹氏について学ぶうちに、源氏の起源というテーマに行きつきました。その源氏のストーリーの中で徳川家がほとんど出てきませんでした。征夷大将軍になるためには源氏でなければなりません。家康はいかなる手段を使って征夷大将軍になったのでしょうか?

 

このテーマに明るくない方は、「源氏について調べてみた(7月31日投稿)」を先に読んでいただくと理解が深まるものと思います。

 

――――――――――

源氏長者

「源氏長者(げんじのちょうじゃ)」という「氏長者(うじのちょうじゃ)」があります。「氏長者」とは、「氏(うじ)」の中で官位が最高位の人物が天皇より任命されます。源氏長者(げんじのちょうじゃ)の場合も、源氏一門の長であり、従一位の源氏の姓を名乗る者に対して与えられました。源氏長者とともに有名な氏長者には、藤原一族の「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」がいました。氏長者になると、氏のなかでの祭祀、召集、裁判、官位の推挙などの諸権利を持ちます。

 

最初に「源氏長者」を称したのは、平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源信(みなもとのまこと)(810~869)とされています。また、初代の嵯峨源氏嫡流である源融(みなもとのとおる)(822~895)は、皇族の子弟の学校である「淳和院」「奨学院」の別当(理事長に相当)に就任し、これ以降、源氏長者が「淳和院・奨学院の両別当を兼任する」ことが慣例となりました。

 

このように、源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていましたが、その後、公家の名家である村上源氏の久我(こが)家が、公家の代表として、その地位を継承していました。村上源氏は、藤原道長の子で関白頼通の養子、源師房を祖とする家柄で、元来、「源氏」と言えば村上源氏をさすほどでした。源頼朝、足利義満、武田信玄などの祖とされる武家の清和源氏は、平安時代のこの当時、公卿の警護や地方の受領でしかなかったといいます。

 

しかし、清和源氏の足利尊氏が、1398年、征夷大将軍となり、室町幕府を開くと、清和源氏の地位が一気に高まります。3代足利義満は、「源氏長者」と「淳和奨学両院別当」の地位を当時の久我家から奪うことに成功し、武家源氏では最初の源氏長者となったのです(征夷大将軍と源氏長者を兼ねたことも初)。これによって、武家の棟梁である義満は、公家のトップともなり、明との貿易では「日本国王」と名乗ることを許されました。

 

義満以降、足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名が、正式に源氏長者になっています。また、村上源氏の久我家も、源氏長者の地位に返り咲いており、この時代、源氏長者は、清和源氏・足利家と村上源氏・久我家が交替で務めていました。しかし、その後、足利将軍の地位が不安定となり、足利家の源氏長者へ関与しなくなったことで、戦国時代には再び村上源氏の久我家から源氏長者が任ぜられるようになりました。

 

ところで、ここまでの話しの中で、嵯峨源氏、清和源氏など〇〇源氏がでてきましたが、次に源氏嫡流について述べてみたいと思います。

 

 

源氏嫡流 

多くの源氏の中で、源氏の嫡流すなわち本家・宗家の血統を源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)と言います。ただし、源氏の嫡流といっても、源氏全体の嫡流を意味せず、特定の源氏の系統を指すことが多いとされています。同じ源氏でも、遠祖たる天皇によって、嵯峨源氏、醍醐源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などに分けられ、その嫡流を、例えば嵯峨源氏であれば、嵯峨源氏嫡流と呼ばれたりしていました。

 

また、公卿を輩出した公家源氏と武家の棟梁として活躍した武家源氏に大きく分けられることもあります。広く知られているのが後者で、中でも、清和源氏の流れは鎌倉幕府の源氏将軍として栄えました。さらに、清和源氏の系譜においても、2代目源満仲の嫡子で長男・頼光の子孫を摂津源氏、満仲の三男・頼信に始まる家系を河内源氏と呼び、それぞれ清和源氏の嫡流と主張していました。

 

摂津源氏は、京都を活動基盤としました。以仁王が平家を打倒すべく諸国の源氏に呼びかけた際に始めに挙兵した源頼政は摂津源氏でしたが、従う兵はその拠点であった摂津国をはじめとする畿内に限られたので失敗に終わってしまいました。

 

一方、河内源氏は坂東へ勢力を扶植し、後に、東国において圧倒的な求心力を得ていました。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる源義家から、源頼朝や足利尊氏を輩出し、清和源氏(河内源氏)が武家源氏の代表とみなされるようになりました。正確には、源頼朝が、武家の棟梁の地位を確実なものにしようという政治的な思惑により、源氏嫡流という地位を生み出したとの見方が支配的です。実際、頼朝は、弟・義経以下家人の自由任官を禁止し、源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占的地位を確保しました。

 

このように、頼朝は、東国武士を臣下としてきた河内源氏の遺産を受けぎ、朝廷から受けた将軍宣下など与えられた特権を背景に、頼朝の系統を嫡流とすることに成功したのです。こうして、頼朝の先祖を遡及し、頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏が武家の源氏嫡流と見られるようになりました。

 

ただし、源頼朝の一族が3代実朝で滅びると、武家源氏の棟梁という概念も重要性がなくなってしまいました。しかし、その後、足利尊氏がでて、京都の室町に幕府を開き、足利将軍家を確立して頼朝以来の源氏将軍を復活させました。さらに、足利義満が征夷大将軍の地位に加えて、源氏長者・淳和奨学両院別当に地位を得て、公家と武家にまたがる強大な権力を獲得したことは、既に説明した通りです。

 

河内源氏の流れを汲む家は、足利家だけでなく、新田義貞の新田家があり、また、源義家の弟である義光(新羅三郎義光)からは、武田家、佐竹家など名家を輩出します。しかし、武家の棟梁とある清和源氏(河内源氏)の系譜に、徳川の名前は出てきません。徳川家が、武家源氏の清和源氏であるという根拠は何もなく、素性が明らかでない三河の土豪との見方が支配的です。では、徳川家康はいかに、源氏の名を勝ち取り、征夷大将軍として幕府を開くことができたのでしょうか?その時、源氏長者の地位はどうなったのでしょうか?

 

徳川家の由来

徳川家康は、1555年(天文24年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、次郎三郎元信と名乗り、名は後に祖父・松平清康の偏諱(へんき:名前の一部)をもらって蔵人佐元康と改めています。

 

家康の転機は、1566年(永禄9年)、五摂家筆頭の近衛前久の力添えで、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓したことです。家康の遠祖は、新田源氏の流れで、上野国の「世良田(せらだ)郷・得川(とくがわ)氏」であるとしています。しかし、当初、朝廷は、「世良田氏が三河守になった前例がない」として家康の三河守の官職と、徳川の改姓を認めませんでした。しかし、近衛前久が、「得川氏はもと源氏で、その系統の一つに藤原になった先例がある(=藤原氏ならば「三河守」任官の前例がある)」として、家康個人のみが、松平から「徳川」に「復姓」するという奇策を考案しました。得川から徳川になった(漢字を変えた)のは「仔細あって」のことだそうです。

 

いずれにしても、これを朝廷が認め、家康は「徳川」という苗字を下賜され、三河守になることができたのでした。この特例ともいえる措置で、源氏の「徳川家」が誕生しました。しかし、三河守は藤原でなければならないので、家康は「藤原朝臣家康」と称していたそうです(朝臣あそんは朝廷の臣下の意)。ただ、家康は当時、藤原と源氏を巧みに使い分けていたと言われています。

 

しかし、その後、家康は豊臣秀吉への臣従を強いられます。1586年5月、秀吉の妹・朝日姫を正室として迎えさせられ、同年9月、秀吉の母・大政所まで家康の元に送られてきます。この結果、家康は秀吉の親族衆になり、「豊臣姓」を下賜されます(秀吉は1585年に関白に就任、翌9月に豊臣姓を賜り太政大臣に就任していた)。家康は、1596(慶長元)年5月、秀吉の推挙により、「正二位・内大臣」を受けましたが、「源(藤原)朝臣家康」ではなく「豊臣朝臣家康」での宣下であったと言われています。

 

1598年(慶長3年)8月、太閤・豊臣秀吉が死去します。これにより、徳川家康の天下人への道が開けたわけですが、この時の家康は、五大老・筆頭で、形式的には豊臣家の家臣でした。つまり、家康にとって、秀吉の死は、単に主君が秀吉から秀頼に代わったことを意味していました。

 

秀吉の死後、武家として朝廷の官位は、内大臣の家康が最上位となりました。徳川家康の官位は「正二位・内大臣」であったのに対して、豊臣秀頼の官位は、当時はまだ「従二位・権中納言」でした。官位では秀頼を凌いでいるのですが、家格(家柄・家の格式)で劣っていました。豊臣家に家格は、最高位の摂関家、しかも秀頼は将来は関白が見えています。これに対し、徳川家は清華家で最上位の摂関家の後塵に拝しています。

 

家康にとって秀吉に代わる天下人になるためには、豊臣家からの呪縛を離れ、秀頼を凌ぐ地位を確保することが必要になってきました。そのためには、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、源氏の最高位である源氏長者の格付けを得る必要がありました。そうすると、征夷大将軍の道が開かれます。

 

 

征夷大将軍と源氏長者への道

秀吉の死の翌年(1599年)、朝廷内でスキャンダルがありました。久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし)の密通の風聞が立ったのです。この結果、久我敦通・通世親子は、家領の多くを奪われ京都を追放され、失脚します。前述したように、久我(こが)家は村上源氏嫡流で、この時期、源氏長者を独占していました。これで、徳川家が源氏長者になるために障害が排除された形です。

 

1600年、家康は石田三成に関ヶ原の戦いを起させ、勝利します。ただし、関ヶ原の戦いとは、形式的には豊臣家臣同士の争いでした。ですから、家康は、大坂城の淀殿、秀頼へ戦勝報告を行い、淀殿と秀頼から褒美をもらっています。ここでも、家康の立場は、あくまで豊臣家臣だったのです。

 

そこで、家康は征夷大将軍として幕府を開くため、また源氏長者の格付けをめざして、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、徳川氏の系図の改姓を行いました。何でも、清和源氏の吉良家の系図を借用し(譲り受け)、徳川氏の系図を足利氏と同じく八幡太郎源義家に通じるようにさせたそうです。武家が日本を支配するために幕府を開くのは、源頼朝公以来の伝統であり、征夷大将軍に任命されねば幕府を開くことはできませんでした。そして、征夷大将軍になるには源氏(清和源氏系の河内源氏)でなければならないという不文律がありました。

 

ただし、征夷大将軍になっても官位は上がるとは限りません。この時の家康の官位は、「正二位」でしたが、将軍になる前にその上の「従一位」を望んだと言われています。というのも、豊臣秀頼が将来成人して関白を継げば従一位になることになるとされていました。そこで少なくとも秀頼に「負けない」ためにも「従一位」が必要だったのです。それだけではありません(むしろこちらの理由の方が重要)。源氏長者になる条件に「従一位の源氏の姓を名乗る者」というのがあったのです。家康にとって、徳川の世を盤石なものにするために、征夷大将軍だけでは不十分で、源氏長者になることが必要だったという思われます。そして遂にその日が来ました。

 

1602年(慶長7年)1月、徳川家康に「従一位」が与えられたのに続き、翌1603年2月、後陽成天皇が、徳川家康を征夷大将軍ならびに淳和奨学両院別当に任命しました。この時、家康は「源朝臣家康」として将軍宣下をうけています。家康はまた、征夷大将軍宣下と同時に、源氏長者宣下を受けることができました。1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、征夷大将軍になったのは1603年です。将軍になるまでに、3年かかった理由は、「源氏長者」になる条件ともいえる「従一位」を受けるのに時間がかかったということができるかもしれません。

 

家康は日本国王か?

征夷大将軍と源氏長者はセットのような印象がありますが、前述したように、室町時代までは、公家の村上源氏の系統がほぼ継いできました。しかし、村上源氏の久我敦通を失脚させ、源氏長者の地位が空位となった後、清和源氏・徳川将軍家が、江戸時代を通じて、征夷大将軍と源氏長者を独占(世襲)することができました。

 

武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、日本国王を名乗った足利義満から始まった慣例で、途中途切れていましたが、徳川家康が、藤原(豊臣)姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることに成功しました。とりわけ、源氏長者になることは、家康は「将軍」の権威を一層高め、武家だけでなく、公家の世界も掌握し、実質的な日本の最高実力者の地位を得る絶対条件だったのです。

 

 

<参考>

源氏嫡流嫡子(Wikipedia))

源氏長者(Wikipedia)

「徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?」

「久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道」

「徳川家康 将軍になるためルーツを詐称した」(SAPIO2018年5・6月号)

「徳川の武家政治は嘘から始まっている」など

 

2019年07月24日

歴史:徳川家のその後

7月22日の投稿で、徳川宗家第19代当主の徳川家広氏の参院選出馬とともに、家広氏の人となりも紹介しましたが、明治維新後、徳川家がどうなったかについて、関心がでてきたので以下にまとめました。

 

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16代 徳川家達(いえさと)(1863~1940)

 

徳川家達は、御三卿(後述)の一つである田安家の生まれ(幼名は亀之助)、血筋をたどれば14代将軍徳川家茂とも、13代の徳川家定とも従弟(年下の男のいとこ)にあたることから、誕生から次期将軍候補(15代)として育てられたそうです。家茂も遺言には後継者は家達としていました。しかし、わずか20歳でしかも長州征伐のため滞在していた大坂城で、将軍家茂が亡くなってしまいました。このとき家達はわずか4歳で、当時の外国の脅威が迫っているという緊迫した状況化で、物心つくかつかないかの幼児をトップに据えるのではなく、年長者が望まれるべきとして、15代将軍は一橋家の一橋慶喜(徳川慶喜)に決まったという経緯があります。

 

結果、家達は江戸城に入ることはありませんでしたが、明治政府は「朝敵」とされた慶喜に代わり徳川宗家を継ぐよう命じたことから、1868年5月、当時5歳の徳川家達(いえさと)が、徳川宗家(本家)の16代当主となったのでした。その年の内に明治天皇に拝謁しています。1869年6月、静岡藩知事に就任、駿河府中へ移り住みましたが、1871(明治4)年の廃藩置県によって藩知事の職はなくなりました。その後、10代でイギリスへ留学、19歳の時には帰国して、近衛家の女性と結婚しています。

 

成人になった家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、1890(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。形式的には、徳川家が再び国政に関わることになったのです。家達は、その血筋から、政治の表舞台に引き上げられます。東京市長や首相にも担ぎ出されそうになりました。1898(明治31)年に、東京市長選の話しがでてくると、家達は、晩年の勝海舟に相談へ行ったそうです。すると、勝海舟は「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスしたという逸話もあります。実際、家達は、「徳川家が政治の表舞台で目立つのはよろしくない」として、これらの政治的地位を固辞しています。

 

しかし、徳川家達(いえさと)は、1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。その間、家達は1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めるなど、国際政治の表舞台にも立っています。ワシントン軍縮会議では、保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に失効した日英同盟に代わり、米・英・仏・日の四カ国条約が結ばれています。

 

そのほかにはも、慈善団体やスポーツ協会の立ち上げに関わったりと、いろいろな面の仕事をしております。特に注目されるのは、1940年開催予定の東京オリンピックの委員長も務めています。大河ドラマ「いだてん」でもお馴染みの「柔道」の始祖、嘉納治五郎氏ともに東京誘致に奔走していたのです。もっとも、東京オリンピックは、日中戦争など国際情勢の混迷を受け、日本政府が開催を辞退しました。幻の東京オリンピックとなった1940年、幻の16代将軍、徳川家達はこの世を去りました。

 

 

17代 徳川家正(いえまさ)(1884年3月~1963年2月)

徳川家達の長男として生まれた家正は、主に外交官・政治家として活躍しました。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、外務省に入省、1925年(大正14年)シドニー総領事を皮切りに、カナダ公使、トルコ大使を歴任し、1937年に外務省を退官しました。その後、父、徳川家達の薨去に伴い公爵を受け継ぎ、1940年に貴族院議員となり、1946年に最後の貴族院議長に就任しました。

 

1963年2月、心臓病のためで死去しました。妻は薩摩藩主島津忠義の十女・島津正子(しまづ なおこ)で、二人の間には、長男・家英がいましたが早世していたため、断絶を恐れた家正は、長女豊子と会津松平家の松平一郎夫妻の次男恒孝(つねなり)を養子としていました。

 

 

18代 徳川恒孝(つねなり)(1940年2月~)

徳川恒孝氏は、前述したように、会津松平家から養子入りし、徳川宗家の当主を引き継ぎました。会津松平家と言えば、最後は朝敵となった会津藩主松平容保の松平家で、恒孝は、松平容保のひ孫に当たります。恒孝氏は、学習院大学政経学部卒業後、実業界に入り、日本郵船で副社長を務めました。現在、公益財団法人徳川記念財団初代理事長、公益財団法人東京慈恵会会長など公的な地位にあります。

 

恒孝氏の父の松平一郎(1907~1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに赴任しており、終戦で収容所に入れられていたそうです。また、恒孝氏の父方の祖父である松平恆雄は第1回参議院議員通常選挙に当選し、第1回国会の議長選挙で初代の参議院議長に選出されています。徳川宗家は、現在、恒孝氏の嫡子、徳川家広氏が引き継いでいます。

 

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御三家と御三卿

冒頭で、徳川宗家第16代当主、徳川家達(いえさと)は、「御三卿の一つである田安家の生まれ」と書きましたが、ここで、御三卿、それから関連する御三家について説明してみたいと思います。

 

御三家

徳川御三家とは、徳川家一族である尾張家、紀伊(紀州)家、水戸家の三家のことを指します。初代の家康が、後に徳川の血が絶えたら困るからという理由で創設しました。仮に徳川宗家(本家)から後継ぎがでなくても、徳川一族の三家(「御三家」という)から出せるようにしたのですね。形式的には、家康の子供がそれぞれ興した分家が「御三家」です。

 

尾張徳川家←9男 義直

紀州徳川家←10男 頼宣

水戸徳川家←11男 頼房

 

このうち「紀州徳川家」からは、将軍家に跡継ぎが無いときに養子を出すことが出来ました。7代将軍家継が、七歳でこの世を去った際(この時、家康から続いた直系が途絶える)、御三家のうち、紀州家から出た八代将軍・徳川吉宗でした。14代将軍家茂も紀伊徳川家出身です。ちなみに15代将軍「徳川慶喜」は水戸徳川家の出身ですが、将軍になる前に、次に説明する「御三卿」の一角である「一橋徳川家」に養子に出されているので、徳川慶喜は、水戸家からの将軍ではないという扱いです。

 

御三卿

その御三卿とは、徳川吉宗が、御三家だけでは心もとないとして、自らの子ども達を分家させて作った体制を指します。それらは田安家、一橋家、清水家の三家でした。御三卿はいわば、将軍家や御三家に跡継ぎが無い場合に養子をだすために作られたと言えます。

 

8代吉宗の次男 宗武⇒田安徳川家

8代吉宗の四男 宗尹⇒一橋徳川家

9代家重の次男 重好⇒清水徳川家

 

御三卿は大名ではなく「徳川家の家族」という位置づけで、家格は御三家の次になります。それぞれの名の由来は、江戸城の門の名称、すなわち田安門、一橋門、清水門からきています。正式には「田安門・一橋門・清水門に近くに住んでる徳川家の人」ということになります。

 

14代将軍徳川家茂のように、田安家から御三家の紀州へ養子に出た例もある一方で、15代将軍一橋慶喜のように、格上にあたる御三家から来た人もいます。御三卿に中では、11代将軍家斉は一橋家の出身で、14代家茂はもともと田安家の出、15代慶喜は一橋家からの将軍です。幕末にかけて御三卿の存在は、徳川家継承の面では実にありがたいものになっていくのでした。

 

現在の御三家と御三卿はどうなっているのでしょうか?御三家では、紀州徳川家は、19代当主、徳川宜子(ことこ)氏が継承していますが、独身のため養子を得なければ今代で断絶となります。尾張徳川家は22代当主、徳川義崇(よしたか)、水戸徳川家は15代当主、徳川斉正(なりまさ)が当主を継承しています。御三卿ではそれぞれ当主は健在です。

 

田安徳川家:11代当主 德川宗英(むねふさ)

清水徳川家:9代当主 徳川豪英(たけひで)

一橋徳川家:14代当主徳川宗親(むねちか)

 

なお、徳川慶喜は、明治維新のshs後、徳川宗家から別家として改めて公爵を授けられたことから、徳川慶喜家として、存続しましたが、最後の当主・徳川慶朝(よしとも)が2017年9月に亡くなっており、養子も取らなかったために断絶しています。

 

(参考)

幻の16代将軍・徳川家達~幻の1940年東京オリンピックで委員長だったとは!

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由

(2019年6月13日 デイリー新潮。週刊新潮WEB取材班)

日本の歴史についてよくわかるサイト

武将ジャパン

御三家と御三卿って何がどう違う?吉宗が御三卿の田安家を創設する

徳川「御三家と御三卿」の違いは?役割やその特権について分かりやすく解説