プロテスタント教会:ルター発の聖書回帰運動

 

「西欧のキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれている」、「プロテスタントはカトリックから分離した」といった事実を、知っている方は多いと思います。今回は、複雑に枝分かれしたプロテスタント教会についてまとめました。

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ルターの宗教改革

 

プロテスタント」とは「抗議する者」の意味で、ローマ・カトリック教会が本来の教義から逸脱して腐敗したとして、16世紀、マルチン・ルターが抗議の行動を起こして始まった宗教改革以来の新しいキリスト教の宗派です。

 

13世紀〜16世紀頃のカトリック教会は、修道院運動などによって、改革がなされていましたが、総じて堕落していた時代と言われました。一番の原因は、「国家と宗教が繋がっていることで、教会の地位が上がり、聖職者たちが権力を乱用する様になったことだ」と指摘されています。

 

腐敗の温床とされたのが、免罪符(贖宥状)の発行でした。免罪符(贖宥状)とは、教会が発行した原罪もふくめた信徒の罪の「免除証書」のような札で、ローマ教会は免罪符を販売して教会の収入にしていました。

 

当時の教皇レオ10は、1517年、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の大改修の費用を得るため、ドイツにおいて免罪符を大々的に発売しました。「免罪符を買うことで、人は現世の罪が赦され、天国に行くことができる、また死んだ人のために買えばその人も救われる」と、庶民に免罪符の購買が勧められました。これまで何年もの間、一部の修道士や学者らはローマ教会の神学的、政治的な悪用に対して異議を唱えましたが、すべては「異端」として沈黙させられました。

 

しかし、1517年、マルティン・ルター(ルーテル)という名のドイツ人修道士が、免罪符を必死に売ろうとするローマ教会の行為に対する批判を、「九五か条の論題」という形で質問状を箇条書きにして、ヴィッテンベルク教会の扉にはりつけました。

 

免罪符によって罪は消えないことを主張したその内容は、結果的に、教皇の権威を否定するもので、ルターの質問状の写しがドイツ国内に流布されると、熱狂的支持を受けたと言われています。これが宗教改革の始まりでした。

 

ルターは、新約聖書「ローマ人への手紙」の一説に「義人は信仰によって生きる」という聖句に接し、救いは、教会の儀式の執行や秘跡(礼典)や戒律の遵守によってではなく、聖書(キリスト)を通して、神を信じることによって得られることを悟ったとされています。人は信仰によってのみ救われるという考え方は、信仰義認といわれ、以後、プロテスタント諸派の根本思想になります。聖書にある言葉に忠実に生きようということですね。

 

ルターは、教会から「破門」されましたが、1520年には、その破門状を公衆の面前で焼却して、決意を示しました。これまでであれば、かつてのフスのように捕らえられ宗教裁判で火刑に処されるところですが、ルターの場合は、多くの民衆に支持され、ドイツ諸侯とも利害を一致させていました。ドイツの諸侯は、領内の住民から税を取り立て、領内の政治にも干渉するカトリック教会に反発していたことから、教皇の権威を否定するルターに賛同し、破門されたルターを匿い保護したのです(具体的に、ルターはザクセン選帝侯フリードリッヒ三世に庇護された)。

 

こうして、ルターの教会批判から、ドイツを中心に宗教改革の火がつき、次にスイスに飛び火していきました。ルターからすこし遅れて、カルヴァンによって宗教改革が押し進められていきます。

 

 

カルヴァンの宗教改革

 

ジャン・カルヴァン(カルビン)も、はじめはローマ・カトリック教会の聖職者でしたが、ルターの著書を読んで影響を受けたカルヴァンは、1534年にカトリックの聖職を捨て、「信仰によってのみ救われる」道を選択しました。しかし、カトリック教会に追われたため、スイスに逃れ、活動の拠点をジュネーブに置いて宗教改革を押し進めました。

 

カルヴァンは、1536年に、プロテスタント初の体系的神学書「キリスト教網要」を著し、プロテスタントの信仰に立って、厳格な清い生活態度(禁欲的生活)を市民に説きました。

 

また、ジュネーブ大学を創設したカルヴァンはまた、商工業にも深い関心を持ち、人々に勤労を勧めました。当時、金儲けを「卑しい」行為と考えられていた時代、カルヴァンは、人々の真面目な勤労の結果としての金儲けや貯蓄、さらには金を貸して利子を取ることも良しとしたのです。この考え方は、とりわけ商工業に広く受け入れられ、ジュネーブでの絹織物工業や時計製造の発展にも寄与しました。

 

こうしたローマ・カトリック教会とは異なるカルヴァンの職業観や金銭観は、その後の資本主義の発展に多大な貢献したと評価されています。

 

 

イギリス国教会の誕生

 

もちろん、プロテスタンは、ルター派やカルヴァン派だけではありません。イギリス国教会もローマ・カトリックから分離した宗派で、プロテスタントの一派と見られます。ただし、その由来はルター派とカルヴァン派とは異なります。

 

イギリス国教会(正式にはイングランド国教会)は、1534年,当時のヘンリー8がローマ・カトリック教会と断絶したことで誕生しました。国王は好きな女性ができたので、その時の妻との離婚を認めるよう教皇に頼みましたが、教皇がこの離婚を認めませんでした。そこで、ヘンリー8世は、1534年、首長令(国王至上法)という法律をつくり、イギリス国内の教会は国王が支配するイギリス国教会を創設したのです。

 

イギリス国教会はその名の通りイギリスの国教となりました。イングランドに生まれた人は、信仰をもつ前に幼児洗礼(新生児洗礼)が授けられ、国教会員になりました。司祭も国の公務員という位置づけでした。

 

こうして、イギリスのキリスト教会もまた、カトリックから分離して、独立した教会となりました。ただし、独立したのは、教義内容の違いというよりも、政治的な動機に基づいていたからだったので、教義や儀礼体系はカトリックに近いと言われ、最高権威者が、ローマ教皇からイギリス国王になっただけだという指摘もあります。

 

イギリス国王は、イギリス国教会の首長(「信仰の擁護者」)で、カンタベリー大主教が最高聖職位とされました。なお、イギリス国教会は、外国においては聖公会と呼ばれて活動しています。

 

 

プロテスタント教会の成立

 

こうして、16世紀初頭にルターとカルヴァンがはじめた宗教改革によって、カトリック教会から分離した「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれる諸教会が誕生し、新約聖書の基本に戻って、純粋なキリスト教である原始キリスト教を回復しようという一連の運動が展開されました。活版印刷術の改良によって聖書が普及し、人々が直接聖書を読めるようになったことから、プロテスタンは、イギリスや北欧諸国やアメリカなどで広く信仰されています。

 

なお、プロテスタントは歴史的に新しくできた教会なので「新教」とも呼ばれます(これに対してローマ・カトリック教会は「旧教」という)。

 

もっとも、「プロテスタント」という一つの教会があるのではなく、色々な教派の教会を一つにまとめて、プロテスタントと呼ばれています。プロテスタントは、元々カトリック教会から分離してできたので、カトリックから飛び出した組織は全てプロテスタントとも言えます。では、彼らの主張を、当時のカトリック教会と比較しながら改めて整理してみましょう。

 

 

プロテスタントの特徴

 

プロテスタント諸教会の大前提は、当時カトリック教会が救われを献金に求めたとされたことに対して、「人は信仰によってのみ救われる」とする信仰義認の立場です。そして、救われは、福音(イエスの教え)による神の恵みととらえます。

 

伝統重視のカトリックに対して、プロテスタントは、「聖書に帰れ」と、聖書の言葉だけを信仰の対象とすることを説きます。聖書だけを神からの啓示の書物として認め、聖書に書かれていないことは教会として受け入れません。

 

結果として、神と人との間の介在者としてイエス・キリストのみを認め、ローマ教皇の存在を否定します。全ての信者は、神の前では対等な兄弟姉妹であり、キリストを通して直接神様と交わることができるとされています。

 

ゆえに、プロテスタントでは「万人が司祭である」と唱えられます。神と人との関係でいえば、カトリック教会では、「神⇒教会(神父)⇒個人」というように、教会(神父)を仲介者として置きますが、プロテスタントでは「神⇒(聖書)⇒個人」という直接の関係になります。

 

プロテスタントでは、聖書を通して、皆等しく、神と人とが直接つながるからので、カトリック教会のような位階制度(ヒエラルキー)を認めておらず、カトリック教会のように総本山(ローマ教皇庁/バチカン)もありません。

 

カトリック教会には、聖職者として、序列に従って「司教・司祭・助祭」がおり(ローマ教会の司教が教皇)、聖職者と言えば、一般的には、司祭を指します(司祭を呼ぶ際の敬称が神父)。

 

これに対して、プロテスタントには司祭(神父)はおらず、先生のような存在としての牧師がいます(プロテスタントでは聖職者のことを司祭ではなく、牧師と呼ぶ)。ちなみに、牧師には女性でもなれますし、結婚も離婚も自由です。

 

さらに、伝統や儀式を重視するカトリックの教会は豪華なものが多いですが、プロテスタントの教会は質素で、シンプルなデザインものが多いのが特徴です。そもそもプロテスタントでは儀式とはいわず、礼拝といいます。

 

教会の十字架にも違いがあります。カトリック教会の十字架にはイエス像がありますが、プロテスタントの場合、十字架だけのシンプルなもので、十字架にキリスト像を用いません。なお、カトリック教会では、お祈りの時に十字を切りますが、プロテスタントでは切りません。

 

そのほかにも、カトリック教会では、マタイ、パウロ、ヨハネなどが「聖人」に列せられていますが、プロテスタントでは「聖人」を認めていません。聖人崇敬とならないように、洗礼名(クリスチャンネーム)もありません。

 

また、カトリック教会では、イエスと同様、聖母マリアも崇敬の対象ですが、プロテスタントでは、イエスの母マリアは人であるので崇拝しません。聖母マリアを含めて偶像崇拝もなされません。

 

 

分派するプロテスタン教会

 

カトリックは全世界統一した組織ですので、一切の分派を認めませんが、プロテスタントは分派も自由で、実際、様々な主義主張がなされ、今では、数百から数千もの教派が存在すると言われています。これは、「自由」を本質とするプロテスタントだからこそのことですが、逆に言えば、たくさんできた教派間で、組織的な統一もなく各分派でバラバラな状態です。教義においても、意見を異にする点がいくつもあります。しかし、それでも、聖書を最重要視すること、信仰による救われを強調していることについては、首尾一貫して共有し合っています。

 

では、ルター派、カルヴァン派(改革派)、バプテスト派、メソジスト派、福音派などに枝分かれしたプロテスタントの代表的教派について、その幾つかを見てみましょう。

 

◆ ルーテル派

 

ルーテル派(ルター派)は、マルチン・ルーテルの流れを汲み、プロテスタントにおける最古の教会とされます。ドイツをはじめ、スウェーデン、デンマークなど北欧諸国に多く見られ、そこから移民が渡った先のアメリカ、カナダ、ブラジルにも広がりました。J.S.バッハ、メンデルスゾーン、パッヘルベルなど、著名な音楽家が多く所属していました。全世界に7500万人の信徒がいると試算されています。

 

 

◆ 改革派・長老派

 

改革派教会と長老派教会は、ジャン・カルヴァンの流れを汲み、両者に大きな違いはありません(カルヴァン派とは言わない)。敢えて違いを指摘すれば、「改革派(改革派教会)」は、カルヴァンが教えた信仰のあり方を強調してつけた名称で、「長老派(長老教会)」は、改革教会で採用された長老制度という教会の行政組織から付けられた名称です。

 

長老制度(長老主義)とは、一般信者のなかから経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営するという制度で、選ばれた長老たちが牧師を補佐します。一般的に、ヨーロッパ大陸では改革派教会、イギリスや北米では長老教会と呼ばれていることが多いとされています。信徒数は不明ですが、全世界に8000万人いるとの試算もあります。

 

なお、改革派・長老派という呼ひ方以外にも、カルヴァンの流れを汲む新教徒は、スコットランドではプレスビテリアン、オランダではゴイセン、フランスではユグノー、イギリスではピューリタン(清教徒)と呼ばれます。

 

 

◆ バプテスト派

 

バプテスト教会の発祥は、17世紀のイギリスに遡ります。イギリス国教会はイギリスにおいて、国教会以外の宗派は弾圧しましたが、最初のバプティスト教会は、オランダに逃れていた新教徒が帰国して、1612年にロンドンで組織されました。ただ、バプテストには、ルターやカルヴァンのような、特定のカリスマ的な創始者はおらず不特定多数の改革者たちによって改革運動が始められました。

 

17世紀にピューリタン革命(1642~49)が発生する流れの中で、イギリス国教会内部においてもさまざまなグループが生まれました。その中に、国教会内部から改革するグループと、国教会から離れて改革するグループがありました。後者を「分離派」と呼び、バプテストは、この分離派の運動の中から発展しました。

 

イギリス国教会の制度的、強制的な面は否定され、個人の自覚的信仰と教会の立が尊重されました。バプテテストは、特に、カトリックでなされている儀式的な幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人の洗礼を重視しました。

 

洗礼には一般に、水を数滴たらす「滴礼」方式と、体を水の中に沈める「浸礼(しんれい)」方式の2種類があります。バプテスト派では滴礼を認めず、浸礼での洗礼だけを認めます。バプテストという名称は、洗礼(バプテスマ)から来た言葉で、一般に「浸礼派」と訳されています。

 

そのほかにも、バプテストは、キリスト者としての「生活」を重視し、愛の倫理と、非戦主義を説き、教会と国家の分離を主張しました。

 

イギリスで誕生したバプテストはその後、新大陸へ移住する者が多くあったことから、黒人も含めアメリカにおいて目覚ましく発展し、アメリカではカトリックを除いて最大の教派となっています。信徒数は4000万人と試算されています。

 

 

◆ フレンド派

 

フレンド派(キリスト友会)は、17世紀イギリスのピューリタンであったジョージ・フォックスを初代指導者とする覚醒運動から始まり、彼らは「クェーカー」とも呼ばれています。フレンド派が「クェーカー」とも呼ばれるのは、彼らが全身全霊を込め、神の威光に体をふるわせながら祈ったので、人々は「ふるえる者たち」(クェーカー)と嘲笑的に呼んだのです。しかし、信者たちはそれを喜んで受け、自分たちでもそう呼ぶようになったと言われています。

当時17世紀のイギリスの教会が、国家の支配下に置かれ、礼拝は形式的で、霊性を放棄してしまったかのように感じたジョージ・フォックスは真実の宗教体験を求めて、放浪の旅に出た結果、1646年に個人的な啓示とキリスト体験を得たとされています。

フォックスは、直接的なキリスト体験を重視し、キリスト者は聖書を持つだけでは足らず、生活の中でキリストの義に従って生きていけば、真理は魂への神の直接的な語りかけによって体験できると説きました。

 

フレンド派は、迫害を受けながらも内外で急成長しました。注目されることは、アメリカ・インディアンや、アラスカのエスキモー、さらにはボリビアのアイマラ族に至る土着民の中にも多くの信者を獲得していることです。日本では、明治・大正期の教育家として知られる新渡戸稲造がフレンド派でした。

 

 

◆ メソジスト派

 

メソジスト派は、18世紀のイギリスで、ウェスレー兄弟によって創始された覚醒的な福音主義運動から始まりました。当時のイギリス国教会が貴族主義的で、生気のないものとなっていたと批判されたことに対して、聖書的キリスト教を取り戻すことをめざし、生き生きとした宗教的体験が重視されました。

 

そこで、兄のジョン・ウェスレーは、聖書に証(あかし)されているイエス・キリストの福音(喜ばしい教え)を体験するために、厳格な戒律と敬虔な信仰生活の実践を目指しました。メソジストという名前の由来は、信者たちに求められた断食など厳格な禁欲的生活手法(method)を、若者たちが揶揄してメソジスト(Methodist)と命名したことにあります。

 

ジョン・ウェスレーのカリスマ性と行動力で、信者を獲得していきましたが、イギリス国教会側からは疎んじられたことから、ウェスレー兄弟の死後、イギリス国教会から独立しメソジスト派が形成されました。

 

メソジスト教会は、その後全世界に広がり、信徒数は8000万人以上とされています。世界的な慈善事業団体「救世軍」の創始者ウィリアム・ブースは、メソジスト派の牧師でした。なお、20世紀になって、メソジスト教会からペンテコステ運動が始まり、ペンテコステ派が生まれています。

 

 

<参考投稿>

カトリック教会:ローマ教皇とバチカン

東方正教会:ギリシャから正統性を継承

キリスト教:宗教国家アメリカの事実

 

 

<参照>

プロテスタント教会とは(コトバンク)

プロテスタント(ピクシブ百科事典)

プロテスタント(Wikipedia)など

 

(2020年10月28日、最終更新日2022年6月20日)