回想 ヘンリー・キッシンジャー
アメリカ外交に史上最も影響力を与えた人物と評されたヘンリー・キッシンジャー氏(以下敬称略)が、2013年11月29日、コネティカット州の自宅で亡くなりました(100歳で、死因は不明)。
キッシンジャーと言えば、大国の現実的なパワーバランスによってのみ世界秩序が決まるという勢力の均衡(バランス・オブ・パワー)の考え方に徹し、米中和解、ベトナム戦争終結、ソ連との緊張緩和(デタント)など八面六臂の活躍をし、ノーベル平和賞も受賞するなど、輝かしい外交実績を残しました。
その一方で、キッシンジャー外交は、現実主義(リアリズム)の立場からアメリカの戦略的利益を追求するあまり、独裁体制を容認したり支持したりすることも厭わず、明らかに道徳的・理想主義的ではありませんでした。そのため、キッシンジャーは人権や民主主義を軽視した冷血漢と一部で批判されました。実際、大国やとう弄された小国の国民に多くの犠牲を出したことから、「戦争犯罪人」とまで呼ぶ人たちもいます。
このように、常に毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとったキッシンジャーの外交の足跡を追ってみましょう。
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以下、本文の内容にご関心の方は、次のサイトで閲覧できます。
では、この投稿では、拙著「日本人が知らなかったアメリカの謎」で紹介したキッシンジャーについての記事を、今回特別に全文紹介したいと思います。
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ヘンリー・キッシンジャーという人物
―なぜこの人がいつも陰謀論のやり玉にあがる!?―
まず、ヘンリー・キッシンジャーの輝かしい経歴を概観してみよう。キッシンジャーは、ユダヤ人亡命者として、ドイツからアメリカに移住し、ハーバード大学で学んだ。ロックフェラー家の支援を受けながら学者としてのキャリアを積んでいった。ネルソン・ロックフェラーが、68年にニクソンと共和党大統領候補を争った時、選挙参謀を務めた後に政界に転身した。
キッシンジャーは、ロックフェラーの政敵、ニクソン大統領のもとで、国家安全保障担当の特別国務補佐官、後に国務長官にもなった。次のフォード政権下でも留任し、実質、1970年代のアメリカ外交を握った人物として知られる。71年には、当時国交が回復していなかった中国に接近、北京を秘密裡に訪問する「忍者外交」を行い、翌年のニクソン大統領の訪中を実現させた。
73年には、パリでベトナム和平協定に調印し、4年越しのベトナム和平交渉にも成功。この功績が評価されて、キッシンジャーはノーベル平和賞を受賞した。また、ソ連との核ミサイル軍縮交渉も努め、「デタント(緊張緩和)」政策を展開した。
また、交友関係も広く、大学時代から面倒をみてもらっていたロックフェラー家だけでなく、欧州ロスチャイルド家などの上級階級、さらにはイギリス王室とも付き合いがあるとされる。
キッシンジャーは秘密が大好き!?
こうして華々しい成果とは裏腹に、キッシンジャーには常に「陰謀」の影がつきまとった。彼は、中国への「お忍び=忍者」外交を典型とした秘密外交を好んだ。その秘密が外交文書の公開によって徐々に明らかにされてきているのだ。
ベトナム戦争の軍事戦略も担ったキッシンジャーは、ベトナムに対する枯れ葉剤の散布や、カンボジアに対する「じゅうたん爆弾」を推進した。枯れ葉剤によって寄形児が生まれているという事実、また非人道的な「じゅうたん爆弾」で結果的に100万人近い農民を大量に虐殺したことの責任は問われないのか?と市民団体などから非難されている。そのキッシンジャーがノーベル平和賞を受賞したのだ!?北ベトナム側のレ・ドゥク・トも同時受賞したが彼は賞を辞退した。
また、カンボジア以外でも、ギリシャのキプロス侵攻、インドネシアの東ティモール侵攻、チリのアジェンダ左派政権の転覆などを支持(承認)したとされ、それが結果的に大量虐殺や暗殺などが行われることになってしまった。
こうしたことから、「戦争犯罪人」として裁くことを求める声が国際社会の中で高まった。実際、フランスでは、裁判所に戦争犯罪の重要参考人として呼ばれたほどである。 また、日本でも、田中角栄元首相をロッキード事件で政治的に失脚させたのもキッシンジャーが背後にいたといわれている。
キッシンジャー・アソシエイツの時代
キッシンジャーは70年代末には政治の表舞台から一応離れた後、1982年に「キッシンジャー・アソシエイツ」というコンサルタント会社を設立した。
主に、ロックフェラー系企業であるチェース・マンハッタン銀行(現チェースモルガン銀行)やAIG(保険)、アメックス、コカコーラ、化粧品のレブロンと顧問契約を結び、国際的な権益促進させてあげている。また、投資ファンドのブラックストーン・グループ(会長はピーターピーターソンでCFR理事長)とは戦略的同盟関係を結んだ。
キッシンジャー・アソシエイツの人脈もすごい。民主・共和党両党にコネを持っていることが伺える。会長だったブレント・スコウクロフトと社長のローレンス・イーグルバーガーは、ブッシュ(父)政権で、スコウクロフトが国家安全保障担当補佐官、イーグルバーガーが国務副長官(後に国務長官)になった。また、スタッフメンバーであったティモシー・ガイトナーはオバマ政権下の財務長官になり、ビル・リチャードソンはクリントン政権の国連大使、ブッシュ政権の時のエネルギー長官になった。
さらに、ユダヤ人としてADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)と連携しているといわれるキッシンジャーは、主にロックフェラー系の企業のコンサルタントを行い、CFRの「予言書」フォーリンアフェーズに定期的に執筆している…。キッシンジャーが述べる「予測」は、ロックフェラーの世界戦略を実現するための「予定」だと揶揄されているほどだ。
キッシンジャーと中国
米中和解の立役者としての縁で、キッシンジャーは中国との太いパイプを持ち続けている。キッシンジャー・アソシエイツの会員企業の多くが中国の市場に参入し、キッシンジャーが彼らの商業権益を確保してやっているのである。ブッシュ家が、中国で10兆円の資産を共産党と共同運用しているといわれており、それも、委託管理はキッシンジャーアソシエイツだそうだ。
キッシンジャーと中国の蜜月関係から、アメリカは中国と決定的に対立することは予想しずらい。米中がどんなに対立しても、裏ではアメリカと中国はキッシンジャーがパイプ役となって手を組んでいるという陰謀論が頭をもたげている。(了)
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拙著「日本人が知らなかったアメリカの謎」には、ほかにも、キッシンジャーと関係の深い、ロックフェラー家やCFR(外交問題評議会)などについても、雑学のレベルで読み物として紹介しています。ご関心のある方は、お買い求め、またはお近くの図書館でお読み頂ければと思います。
佳子さまペルーご訪問 皇室の南米外交を担う秋篠宮家
秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さま(佳子内親王/身位は内親王。敬称は殿下)は、2023年11月、日本とペルーの外交関係樹立150周年を記念して、南米のペルーを公式訪問されました。
滞在中は、記念式典で挨拶され、日系人らと交流されたほか、インカ帝国時代の城塞都市遺跡、「空中都市」と呼ばれる世界遺産のマチュピチュ遺跡や、アンデス山脈にある都市クスコを訪問され、インカ帝国時代の太陽神殿コリカンチャなどを視察されました。
佳子さまの外国公式訪問は2019年のオーストリア・ハンガリー以来、4年ぶり2回目となり、また、ペルーは2014年に秋篠宮ご夫妻、19年に長女小室眞子さんが訪れています。
ペルーの国柄、日本や皇室との関係、また、インカ帝国については、以下の投稿記事でまとめています。興味のある方はご一読下さい。
過去10年、秋篠宮家が、ペルーを含む南米の訪問を担っています。秋篠宮ご夫妻は14年にペルーとアルゼンチン、15年にブラジル、17年にはチリをご訪問され、当時の眞子内親王殿下(現小室眞子さん)は、16年にパラグアイ、18年にブラジル、19年にはペルーとボリビアを訪れています。
なぜ、秋篠宮家が南米の国際親善を担っているかについて、「皇室の少子高齢化」の影響が指摘されています。日本から南米までは、長時間のフライトであり、現地での移動も時間がかかります。訪問先は暑いところが多い一方、山間地では気温がぐっと下がるなど過酷な環境の場所が多く、体力が必要なため、若い皇族でなければ、その任に耐えられないと言われています。
こうした背景から、近年、若い秋篠宮家がその役割を担うようになりました。秋篠宮ご夫妻が50代になられた時期からは、最初は眞子内親王殿下、そして、眞子さまご結婚後の現在は佳子さま(佳子内親王殿下)が、南米訪問を任される立場になっている模様です。
<参照>
佳子さまが「エネルギッシュな笑顔」でペルーへ出発 なぜ秋篠宮家が南米の訪問を担うのか (2023/11/02、AERA)
モーゼ・パーク!?に行ってみた
10月23日(月)、仕事で富山に来たので、空いた時間を使って、お隣の石川県の宝達(正確には羽咋郡宝達志水町)まで足を延ばし、「モーゼパーク」を訪れました。このレムリアでも、「日本の神話・伝承」の中で、「モーゼの墓」について紹介しましたが、その時は、聞いたり、調べたりしただけの内容でしたが、実際、フィールドワークして、初めて、日本にある伝承の一つとしてのモーゼ伝説について、自信をもってお伝えできるという気になりました。
さて、宝達山の麓にある「モーゼパーク」のモーゼの墓が、本当にモーゼの墓なのか、どうかとかいうことが問題なのではなく、モーセ伝説を通して、日本という国の懐の深さを感じることができた(異文化でも何でも受け入れてしまう)ことが有意義でした。とくに、モーゼパークもよかったのですが、宝達山そのものが霊山であり、神の山であると思いました。山全体から発せられているオーラのようなものを感じ、まさにパワースポットでした。モーゼパーク内でも「沐浴」できて、リフレッシュできました。また、パーク内のモーゼの墓の場所から見ることができた日本海も美しかったです。
モーゼパークは現在、自治体が管理しているとのことですが、願わくば、公園の整備に予算をもう少し投じていただければ、もっと来訪者が増えると思いました。
翌24日は、「モーゼの墓」の論拠となっている竹内文書と密接な関係のある、御皇城山(呉羽山)の「皇祖皇太神宮」(富山市金屋)に参拝しました。皇祖皇太神宮については、また改めて投稿記事にしてみたいと思います。
モーセ伝説の詳細や竹内文書については既に以下の記事を書いているので読んでみて下さい。
プーチンは国際刑事裁判所 (ICC) で裁かれるか?
国際刑事裁判所(ICC)は、2023年3月17日、戦争犯罪の疑いで、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領に逮捕状を出しました。この後、プーチン大統領は逮捕され、国際司法の場で裁かれるのか、逮捕状後の展開を予想してみましょう。ICCはプーチン大統領を戦争犯罪人として裁けるのでしょうか?
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プーチン大統領らに逮捕状、ウクライナ侵攻めぐる戦争犯罪容疑 国際刑事裁判所
(2023/3/18、英BBC)(一部抜粋)
オランダ・ハーグに本部を置く国際刑事裁判所(ICC)は3月17日、ウクライナ侵攻をめぐる戦争犯罪容疑で、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領らに逮捕状を出した。 ICCは、ロシアが占領したウクライナの地域から子どもたちをロシアへと不法に移送しており、プーチン氏にこうした戦争犯罪の責任があるとしている。 ロシア政府は、戦争犯罪疑惑を否定し、逮捕状は「言語道断」だとしている。
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ウクライナのイエルマーク大統領府長官は「ロシアによる子供の連行は1万6000件以上が記録され、実数はさらに多い可能性がある」と指摘。「これまでに返還されたのは308人に過ぎない」とし、今後も返還に向けた作業を続けると表明しています。また、米エール大が2月に公表した報告書によると、「少なくとも6000人のウクライナの子供らがロシア国内の43施設に収容された。ウクライナ政府は3月初旬、収容者数が1万6000人を超えた可能性がある」と指摘しています。(2023/3/18、産経新聞より)
国際刑事裁判所(ICC)は、ロシアがウクライナに侵攻したことを受け、2022年2月からロシア軍がウクライナで行った戦争犯罪と人道に対する罪についての立件に向けて捜査を開始していました。今回の逮捕状はその結果ということになります。
ICCの管轄権
ICC(国際刑事裁判所)は2002年に発効したICCローマ規程によって設立され、123の国・地域が加盟していますが、ロシアもウクライナも非加盟で、通常、ICCは事件を管轄できません。
しかし、締約国ではない場合でも、事件の発生地の国か容疑者の国籍がある国のどちらかがICCの管轄権を認める(受諾)宣言をすれば、ICCは非加盟国の犯罪も裁くことができます。実際、ウクライナは南部のクリミア半島を一方的にロシアに併合された後の2015年、無期限の形で「戦争犯罪と人道犯罪について管轄権を受諾する」宣言をしています。
プーチン大統領は、戦況について側近から事実を知らされていないとの情報もありましたが、ICCの設置法「ローマ規程」には、軍隊の上官だけでなく政府の上層部にも責任は及ぶ「上官責任」の規定があります。実際に犯罪行為を行った「実行行為者」はもちろん、「自らは行っていないが、それを命じた者」も処罰の対象に含まれています。また、直接、命令していなくても、犯罪行為が行われていること(兵士らの行為)を知っていながら、プーチン大統領や軍幹部などが、その犯罪の実行を防止または抑制する措置を取らなかったことが認定されれば責任が問うことができます。
プーチンはロシア国内で拘束されない?
今回、逮捕状が出されたので、プーチン大統領は戦争犯罪容疑者になりましたが、この先、実際にプーチン大統領の身柄が拘束された後、ICCに引き渡され、プーチン大統領がオランダ・ハーグの裁判に出廷する可能性は極めて低いとされています。
ICC(国際刑事裁判所)には容疑者を逮捕する権限はなく、ICC捜査官がロシアに行って拘束することはできません(ICCが介入できるのは、国家が捜査や加害者の訴追を行えない、あるいは行おうとしない場合に限定される)。
もっとも、ICC非加盟国であるロシアは、捜査・訴追への協力義務も、身柄引き渡しなどの義務は負っていません。仮にロシアが加盟国であっても、ロシア国内で揺るぎない権力を享受しているプーチン大統領を、ロシア政府がICCに引き渡す見込みもありません。プーチン大統領がロシア国内にいれば、主権の壁、つまり、政権トップの場合は免責特権による保護もあります。ですから、プーチン大統領がロシアにとどまる限り、逮捕のリスクはないということになります。もし、プーチン大統領がロシア当局によって拘束されるとしたら、ロシア国内で政変が起きてプーチン大統領が失脚し、特権剥奪に至る場合ぐらいしか想定できません。
実際、セルビアのミロシェビッチ元大統領は1990年代のボスニア紛争における戦争犯罪と大量虐殺の罪で起訴され裁判中に獄中死したが、国際法廷がその身柄を拘束できたのは同氏が失脚した後でした。
また、リベリアのチャールズ・テイラー元大統領も、リベリアの隣国シエラレオネにおける戦争犯罪と人道に対する罪をほう助したとして2012年、国連の支援を受けたシエラレオネ特別法廷により禁固50年の有罪判決を受けたが、同法廷に引き渡されたのは、自国からの追放と亡命後のことでした。
プーチンがロシアを出国した場合
一方、プーチン大統領が国外に出た場合は、ICC規程に、締約国に対し、「国際犯罪の責任を負う者に対して自国の刑事裁判権を行使することが、すべての国の義務だ」とあるように、ICC加盟国には、捜査・訴追への協力義務が生じるので、プーチン大統領が入国したら拘束してICCに身柄を引き渡すことが求められます。
しかし、これまで、政治的考慮から、この義務を守らない国が多く、特に今回は、大国ロシアと敵対するリスクが生じることから、現実的には難しいとみられています。
たとえば、2003年、約30万人の民間人が犠牲となったスーダンの「ダルフール紛争」では、当時のバシル大統領に対して、ICCはダルフールでの戦争犯罪、人道に対する罪、大量虐殺の罪で09年及び10年に起訴したが、その身柄はまだ確保できていないどころか、その後、バシルがアフリカ諸国など他国を訪問しても、その国も拘束しませんでした。
(スーダンのバシル元大統領は19年、政権から追放され汚職の罪で有罪判決を受けたが、スーダンの軍指導部はICCに対する約束にもかかわらず、同氏引き渡しには依然消極的とされる)。
プーチンへの逮捕状の意義
加えて、ICCには、容疑者不在のまま裁判ができる欠席裁判の制度がないことから(ICCの裁判には被告本人の出席が必要)、「逮捕状止まり」になる可能性が高いことも懸念されています。ですから、今回、プーチン大統領に出された逮捕状によって、今後、プーチン大統領に有罪判決を言い渡して収監することは難しいでしょう。
もっとも、「プーチンに逮捕状を出す」ことに意義はあると見る向きも多い。プーチン大統領が外遊しても身柄を拘束されない可能性が高いにしても、ICC加盟国への渡航に慎重にならざるを得なくなり、首脳外交も制限されるかことが予想されます。何より、国際社会での威信が失墜することは間違いありません。
<資料>
国際司法や戦争犯罪についての基礎知識を学びたい方は、拙著
「なぜ?」がわかる!政治・経済(p225〜238)を参照下さい。
<参考>
露、プーチン氏逮捕状に「無意味」と猛反発 国家への攻撃とみなす
(2023/3/18、産経)
プーチン大統領の逮捕が困難な理由 戦争犯罪を認定する意義は?
(2022/04/20 aera)
プーチン氏を罪に問えても「逮捕状止まり」の可能性 「それでも意義はある」と専門家
(2022/04/19 aera)
解説:国際犯罪とウクライナ戦争
(2023/01/19、Swissinfo.ch)
「戦争犯罪」って? プーチン氏逮捕できる? ジェノサイドは
(2022年04月06日、就活ニュースペーパー)
富士山はいつ噴火してもおかしくない!
「治に居て乱を忘れず」
今年も肝に銘じておかなければならない格言ですが、新年早々、興味深い記事がでました。そのまま引用します。
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「いつ噴火しても不思議ではない状態」約300年の休止期間を経て…富士山が「次に噴火する日」は予知できるのか
(2023/01/04、文春オンライン)
知られているだけでも富士山は何十回もの噴火をしてきている。たとえば平安時代は400年間あったが10回も噴火したのが目撃されている。歴史に記録されていない有史以前の噴火も、地質学的な調査から分かっている。
しかし不思議なことに、1707年の「宝永噴火」があって以後、富士山は噴火していない。そこから現在に至るまで約300年間も噴火が見られないのは、過去の噴火歴からすると異例の休止期間である。世界的に見ても、長い休止期間のあとの噴火の規模は大きいことが多かった。これは不安要素である。
過去にいろいろなタイプの噴火をしてきた
富士山が、これから永久に噴火しないことはあり得ない。火山学でいえば、富士山は「いつ噴火しても不思議ではない状態にある活火山」なのである。
だが、いつ、どんな形式で噴火するのか、それを予知することはいまの科学では不可能である。噴火の予知や、いまどのくらい噴火に近づいているかを学問的に知ることはとても難しい。じつは、この数年来、富士山には不思議なことがたくさん起きている。河口湖の水位が異常に下がったり、富士宮市の住宅地で水が噴き出したり、林道に深い亀裂が走ったりしている。以前の記録はなく、前兆かどうかは分からない。
富士山は「噴火のデパート」で、過去にいろいろなタイプの噴火をしてきた。今度、どんな噴火が起きるかは分からないのが富士山なのである。噴火口が山頂なのか、東西南北どこかの山腹なのかによって噴火の影響は大幅に違ってしまう。宝永噴火は東南の山腹からだった。いままでの歴史上の噴火で、とくに大きな規模の噴火だった富士山の三大噴火は延暦の噴火(800~802年)と貞観の噴火(864~866年)と宝永噴火(1707年)である。
首都圏に火山灰が降る
文明が進歩するということは、自然災害には弱くなることだ。たとえば過去たびたび首都圏を襲ってきた大地震でも、地震のたびに被害が大きくなり、いままではなかった新しい被害が増えてきている。つまり「対策は、いつも被害を追いかけてきている」のである。火山災害も同じ道をたどるにちがいない。
富士山の噴火は首都圏にも大きな影響が及ぶ。首都圏に住む人間にとって、けして他人事ではない。日本の上空の成層圏には偏西風という強い西風がいつも吹いている。このため噴火で成層圏の高さである8キロ以上まで吹き上がった火山灰は東に飛ぶ。こうして、首都圏に多くの火山灰が降ることになる。富士山から新宿までは95キロしか離れていない。宝永噴火のときと同じく、噴火後わずか2時間足らずで富士山からの火山灰は東京にも達することになる。
人体、交通、電力、精密機械への影響
火山灰はさまざまな影響を及ぼす。大きいのは人体への影響だ。なかでもコンタクトレンズを着用している人だ。前回の噴火時にはなかったことだ。火山灰は顕微鏡で見ると尖った岩の粉でガラス質だ。このためレンズと目との間に火山灰が入りこむと角膜剥離を起こす。このほか火山灰がわずか0.1ミリ降っただけでも喘息患者の43%もが症状が悪化したという報告がある。数ミリ火山灰が降ると、健康な人も、のど、鼻、目に異常を訴える。火山灰の影響は、人体だけではない。交通にも大きな影響を及ぼす。火山灰によって視界が悪くなって交通事故が起きやすくなる。その上道路が火山灰で覆われると事故の危険性はさらに高くなる。
交通への影響も
火山灰がわずか1ミリ積もっただけでも道路の白線が消え、道路標示が見えなくなり、飛行場の滑走路の線が消える。また火山灰が積もった路面は乾いていても非常に滑りやすく、もし雨が降って湿るともっと始末が悪い。道路だけではない。もともと電車は降灰に弱い。次の踏切に異常がないかとか、前に電車が止まっているといった情報を信号としてレールに流している。降灰があると車輪とレールの間に火山灰が挟まり、信号が流れなくなる。そのほか電力への影響もある。降灰によって停電が起きることがあるし、火山灰は電線にくっついて重くなり、電線を切ってしまうこともある。
また湿った火山灰には導電性があるので電気がショートして送電が止まる。停電は暖房などに必要な電気機器が使えなくなってしまう。コンピューター本体やコンピューターのハードディスクなど精密機械に火山灰が入ると動作しなくなる。その上、火山灰が帯びている静電気が部品に吸着するなど、電子機器にさらに悪さをする。
現代では多くのものがコンピューターで制御されているから、たとえば電気やガスの供給や、多くの産業活動、交通システム、通信システム、銀行のシステム、コンビニやスーパーなどの物流、上水道や下水道の施設もコンピューターで動いている。それゆえ火山灰によって動作が出来なくなると、広範囲に影響を受けてしまう。
南海トラフ地震が富士山の噴火を引き起こす可能性は…?
新しいハザードマップでは、噴火の規模によっては麓を通っている新幹線や東名高速道路にまで被害が及ぶ可能性がある。東西日本が分断されてしまうのだ。東京の被害は一国だけの被害に留まらず、国際的にも影響が大きい。いずれ襲って来る首都圏直下型地震だけではなく、富士山の噴火も東京を麻痺させてしまう。宝永噴火なみの大規模降灰に見舞われた近代都市はない。じつは宝永噴火は南海トラフ地震の大きな「先祖」宝永地震の49日後に起きた。地震も噴火もプレートの境で起きる現象だから、今度の南海トラフ地震がマグマ溜まりを刺激して富士山の噴火が続いて起きる可能性がないわけではない。
――――引用終わり
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以下に、富士宮市HPから富士山の噴火の歴史を引用します。
富士山の噴火史について
◆小御岳火山(約70万年前~20万年前)
富士山の周辺一帯は数百万年前から火山活動が活発であったことが知られています。その中で約70万年前、現在の富士山の位置に小御岳火山が活動を始めました。その頃は南東にある愛鷹山の活動も活発で、ふたつの大きな活火山が並んでいました。現在この火山の頭部が、富士山北斜面5合目(標高2300メートル)の小御岳付近に出ています。
◆古富士火山(約10万年前~)
小御岳火山がしばらく休止した後、約10万年前から富士山は新たな活動時期に入りました。この時期を古富士火山といいます。古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、大量のスコリア、火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000メートルに達する大きな山体を形成していきました。古富士火山の山体は宝永山周辺など富士山中腹にかなり認めることができます。
◆氷河期と泥流
富士山周辺の調査では、古富士火山の時代には火山泥流が頻発したことが判明しています。当時は氷河期で、もっとも寒冷化した時期には、富士山における雪線(夏季にも雪が消えない地帯の境界)は標高2,500メートル付近にあり、それより高所には万年雪または氷河が存在したと推定されています。山頂周辺の噴火による火山噴出物が雪や氷を溶かして大量の泥流を発生させたと推定されています。
◆溶岩主体に移行
約11,000年前になると、富士山の噴火の形態が大きく変わり、その後約2,000年間は断続的に大量の溶岩を流出させました。富士山の溶岩は玄武岩質で流動性が良く遠くまで流れる傾向があります。この時期に噴火した溶岩は最大40キロメートルも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達しています。
◆新富士火山(約5千年前~)
富士山は、古富士火山の溶岩流のあと約4,000年間平穏でしたが、約5,000年前から新しい活動時期に入りました。現在に至るこの火山活動を新富士火山と呼んでいます。新富士火山の噴火では、溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、側火山の噴火などの諸現象が発生しており、噴火のデパートと呼ばれています。また、新富士火山の火山灰は黒色であることが多く、新富士火山の噴火は、地層的にも新しく、また8世紀以後には日本の古文書に富士山の活動が記載されており、噴火について貴重なデータを提供しています。
◆3,000年前の爆発的噴火
縄文時代後期に4回の爆発的噴火が起こりました。これらは仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリアとして知られています。富士山周辺は、通常西風が吹いており噴出物は東側に多く積もりますが、大沢スコリアのみは、東風に乗って浜松付近まで飛んでいます。
※ スコリアとは、鉄分の多い黒っぽいマグマが発泡しながら固まったもの
◆御殿場泥流
約2,300年前、富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場市から東へは足柄平野へ、南へは三島市を通って駿河湾へ流下しました。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当します。山体崩壊が発生した原因は、現在のところ特定されていませんが、崩壊当時、顕著な噴火活動が見られないこともあって、富士川河口断層帯ないし国府津松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説が出されています。
◆延暦大噴火(800年)
「日本紀略」の記事によりますと、800年(延暦19年)、(旧暦)3月14日から4月18日にかけて大規模な噴火が起こったとされます。また、2年後の802年(延暦21年)1月8日にも噴火の記録があります。これに伴って相模国足柄路が一次閉鎖され、5月19日から翌年の1年間は、箱根路が代わりに用いられることになりました。
◆貞観大噴火(864~866年)
864年(貞観6年)富士山の北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す噴火が起こりました。流れ出た溶岩の一部は当時あった大きな湖(せの海)を埋めて西湖と精進湖に分断し、大部分は斜面を幅広く流れました。これは青木が原溶岩と呼ばれ、現在そこには樹海が広がっています。
◆宝永大噴火(1707年)
1707年(宝永4年)大量のスコリアと火山灰を噴出した宝永大噴火が起こりました。この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させるなど特徴的な噴火でした。噴火の1~2か月前から山中のみで有感となる地震活動が発生し、十数日前から地震活動が活発化、前日には山麓でも有感となる地震が増加しました(最大規模はマグニチュード5程度)。
12月16日朝に南東山腹(今の宝永山)で大爆発を起こし、黒煙、噴石、降灰があり、激しい火山雷があったとのことです。また、その日のうちに江戸にも多量の降灰があり、川崎で5センチメートル積もっています。噴火は月末まで断続的に起きましたが、次第に弱まっていきました。山麓で家屋や耕地に大きな被害があり、噴火後は、洪水等の土砂災害が継続しました。
◆山頂周辺での噴気活動(江戸時代晩期~昭和中期)
宝永の大噴火後、富士山では大規模な火山活動はありませんでしたが、江戸時代晩期から、昭和中期にかけて、山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動がありました。 この活動は1854年の安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、明治、大正、昭和中期に掛けての期間、荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動が存在したことが、測候所の記録や登山客の証言として残されています。
この噴気活動は明治中期から大正にかけて、荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされています。活動は昭和に入って低下し始めましたが、1957年の気象庁の調査においても50度の温度を記録していました。その後1960年代には活動は終息し、現在、山頂付近には噴気活動は認められていません。 しかしながら、噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたとの記録もありました。
◆山頂で有感地震(1987年8月20日~27日)
富士山で一時的に火山性地震が活発化し、山頂で有感地震を4回記録しました。(最大震度3) やや深部での低周波地震の多発(2000年10月~12月及び2001年4月~5月)富士山のやや深部で、低周波地震が一時的に多発しました。
◆古文書などでの富士山の噴火記録
古記録によれば新富士火山の噴火は781年以後17回記録されています。噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に12回の噴火記録があります。また噴火の合間には平穏な期間が数百年続くこともあり、例えば1083年から1511年までは400年以上も噴火の記録がありません。また1707年の宝永大噴火以後も約300年間噴火しておらず、平穏な状態が続いています。
黒田の憂鬱:ようやく認めた?異次元緩和の失敗
現在、日本を襲っているインフレは円安が一因とされ、その円安の背景に、日銀の金融緩和政策の継続と、それに伴う日米金利差の拡大があります。これに対して、黒田東彦率いる日銀は、これまで動こうとしませんでしたが、黒田総裁は、2022年12月20日、長期金利の上限を従来の0.25%程度から0.5%程度に変更すると発表しました。
これを受け、市場では実質的な利上げ(金融引締め)と動揺が走りましたが、黒田総裁は「いわゆる金利引き上げだとか、金融引き締めではない」と述べ、安倍政権のアベノミクスから貫いた異次元の金融緩和を維持する方針に変わりはないと強調しています。黒田総裁、肝いりの異次元の金融緩和政策について考えます。
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日米金利差の拡大が引き起こした円安
総務省によると、2022年11月の消費者物価指数(生鮮食品を除く、コアCPI)は前年同月比3.7%上昇、第2次オイルショック後の1981年12月以来、40年11カ月ぶりの上昇率となるなど、私たちの日常生活に大きな影響を与え続けています。欧米ではさらに深刻で、インフレ率は10%を超えており、今回のインフレは世界規模で進む歴史的な物価高騰となっています。この影響で、電気・ガスや食料品、原材料、輸送費など幅広い分野の値上げが国民に襲いかかっており、ウクライナ情勢次第ではエネルギーや穀物の価格が一段と上昇する可能もあります。
このインフレ対策として、欧米、特にアメリカの中央銀行に相当するFRB(連邦準備制度理事会)は、大幅な政策金利の引き上げに踏み切り、その動きを加速させました。これに対して、黒田東彦・日銀総裁は、円安是正のための金融政策を見直す(金利を引き上げてインフレを抑える)考えがありませんでした。
世界中どの国も金利を引き上げて、物価を下げようと努力している中、黒田日銀だけが異例の金融緩和策を維持し、他の中央銀行とは異なる独自路線を邁進した結果、とりわけ日米の金利差が拡大しました。
金利差が広がれば金利が高いところにお金が流れるのは自然の成り行きです。投資家にとっては、金利の高いドルで資金を運用した方がより多くの利益が出るので、金利の低い円を売ってドルを買う動きが強まり、円安になっているのです(円売り/ドル買い⇒円安/ドル高)。
異次元緩和の継続
では、黒田総裁はどうして、こうした状況を受けても、金融緩和の継続に固執しているのでしょうか?この理由を、昨今のインフレによって利上げを求める声が高まったことに対するこれまでの黒田総裁の発言などから推測してみましょう。
まず、黒田氏の現状認識について、「輸入物価の上昇は円安というより、ウクライナ情勢でエネルギーや穀物など資源価格が一段と上昇する影響の方が圧倒的に大きい」と発言しています。
確かに、輸入物価の上昇は、ウクライナ情勢の影響を方が大きいことは間違いありませんが、輸入物価の値上がりを通じて商品や原材料価格が割高となるなど、家計や企業に与えるマイナスの影響が、円安の加速とともにより深刻になっていることは、日々の生活感覚から誰もがわかる事実です。
円安はプラス
また、黒田総裁は、次の発言から、円安が経済にとってプラスであるとの旧態依然の考えに固執しているようです。「円安には輸出企業の収益を拡大させるメリットも大きく、円安が全体として経済・物価をともに押し上げ、日本経済全体にとってはプラスに作用しているという基本的な構図は変わりない。」
かつては、円安になれば輸出価格が割安になって、輸出の拡大につながるといわれてきましたが、企業が海外での現地生産を増やした結果そのメリットは薄れています。「円安は中小企業にはメリットはほとんどない」という財界人も多くいます。
黒田総裁が繰り返す「円安はプラス」は、トヨタ自動車など大手輸出企業にとってプラスなのであり、実際、輸出製造業は、アベノミクス(安倍―黒田ライン)の株高を牽引してきました。日本がマクロ経済や為替政策を制定する過程で影響力を持つ重要な経済団体責任者の多くは、輸出に関連する製造業に従事していると指摘されています。
アベノミクスの柱が大胆な「金融緩和政策」だったことからもわかるように、安倍政権と二人三脚でやったきた日銀総裁も、彼らの利益を代弁したのかもしれません。しかし、大手輸出企業が潤っている間にも、私たち庶民が物価高で生活がどんどん苦しくなっています。現在、円安は日本経済全体にとってプラスに作用している基本構造ではないでしょう。
日銀総裁は、庶民の心を理解していないことは、今年の6月の講演で「日本の家計が値上げを受け入れている」と発言したことに対して、ネットで叩かれ「釈明」を強いられたことに如実に表れています。人々が物価高に悲鳴をあげていた頃のこの発言は、何かの経済統計の結果から導き出したようですが、黒田氏が、データとか理論だけを振りかざす「机上のエコノミスト」と同じレベルだったとは信じたくはありません。
上がる物価と上がらない賃金
加えて、黒田総裁が金利を低く抑え続けることが必要だとしているもう一つの理由は、日本の物価高は、アメリカとは異なり、景気の回復と賃金の上昇をともなっていないことにあります(もっとも、現在のアメリカは、物価が上がり過ぎて、賃上げが追い付かないという問題を抱えている)。賃金が十分に上がらず物価だけ上がる状況は、景気にマイナスの影響をもたらす恐れがあるとして、黒田日銀は金利を低く抑え続けることが必要だとしています。今の物価上昇は、黒田総裁がめざしている「経済が力強く回復したことによる物価の上昇」ではないのです(その意味で現在の物価上昇は「悪い物価上昇」と呼ばれている)。
これは、日本とアメリカのインフレの要因が異なることからくる結果です。日本の物価上昇は、アメリカのように、需要が高まってインフレになるディマンド・プルインフレではなく、費用の増大に伴い物価が上がるコスト・プッシュインフレによるものです。
アメリカの場合、物価上昇というマイナスの側面がある反面で、景気拡大というプラスの面があり、21年4月以降、経済成長率が顕著に高まりました。これに対して、日本は、21年10月以降は、輸入物価が上昇したことにより、産出量が減り、経済成長率も顕著に低下していきました。むしろ、成長率がマイナスにならなかったのは、コロナからの回復期待に伴う消費の増大など景気を下支えたと解されています。
だた、前述したのように、日本の場合に物価上昇が欧米諸国ほど激しくありません。通常、景気がよくなり失業率が低下すると、物価と賃金が上昇するという関係が見いだされます。しかし、日本では2000年以降、こうした相関関係が見られなくなり、産出量が増加しても(景気がよくなっても)、欧米と比較して、物価と賃金がそれほど上がっていません。
日本では長年、企業がコスト高を価格に反映させず(物価は上がらず)、人件費などで圧縮させる(賃金は上がらない)傾向がありましたが、今回のインフレ局面では、こうした企業努力も限界で、多くの企業で賃金は据え置かれたまま、物価は軒並み上昇している状況です。
また、特に賃金に関しては、相対的に賃金が低い非正規雇用が増え、労働市場が正規労働者と非正規労働者で二分されていることなどが原因で、低く抑えられています。これは労働市場の構造的な問題であり、この問題をマクロ的な金融緩和政策で解消できるものではありません。
10年経っても成果を出せない異次元緩和
ここまで、政策の視点から、黒田総裁が、金融緩和の継続を訴える理由をみてきましたが、それ以上に、黒田氏のプライドとメンツが関係しているように思われます。
2013年3月に日銀総裁の地位に就いた黒田東彦氏は、長引くデフレ脱却のために「2年で物価上昇率2%の実現」を目標に掲げ、「黒田バズーカ」ともてはやされた大規模な金融緩和政策(量的質的金融緩和政策)を採用してきました。景気浮揚を促す金融緩和は金利を引き下げ、円安・株高を誘引させ、特に、大手輸出企業は高収益と株高の好循環を実現してきました。
しかし、実体経済の方は、2年間での達成を目指した目標は果たせなかったどころか、「異次元」の金融緩和の導入から10年が過ぎようとしていますが、いまだに実現していません。
この間、日銀は、ゼロ金利政策とともに、量的・質的金融緩和政策を拡大させ、マイナス金利政策、さらには、10年国債の利回りをゼロ水準に誘導する、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和(イールドカーブ・コントロール)」を継続させ、現在に至っています。しかも、黒田総裁は、「物価目標を達成するまで続けると約束し」強気の姿勢を崩しませんでした。
10年かけても2%のインフレ目標は実現できないまま、黒田総裁が金融引き締めに転換すれば、自己否定につながり、晩節を汚すことになるだけでなく、同時に、アベノミクスも失敗であったことを認めることになってしまいます。
持続的な物価上昇が根付くにはそれを上回る賃上げが不可欠で、政府・日銀が掲げる2%の物価安定目標を達成するには、毎年3%程度の賃上げが必要だと試算されています。国内で最後に3%の賃上げが実現したのは、バブル末期の1990年代初めまで遡らなければならないそうですから、達成は難しいと見られています。
あくまで金融緩和政策の継続に固執する、今の黒田総裁は、医師が、患者さんにある薬を処方しても効かないから、投薬量を増やして、治るまでその薬を使い続けようとする「やぶ医者」の行為と同じことをしている印象を受けます。
薬は効かなければ変えないといけません。人は、投薬治療を続けると、たとえ正しい処方であったとしても副作用を起こし、誤った処方であれば死に至らしめることさえあります。10年に及ぶ異次元の金融緩和政策によって、日本経済も最近では副作用が次々と表面化しています。
例えば、成長できる力を測る潜在成長率と呼ばれる統計があります。NRI(野村総合研究所)によると、この日本経済の潜在力を測る指標は、日銀が現在の異例の金融緩和策を導入した2013年頃からほぼ一貫して低下し、現在ではほぼ0%となっています。異例の金融緩和が、成長を促進させるどころか、潜在成長率の低下も食い止める力も発揮しなかったことを示しています。
需要制約から供給制約へ
そんな中、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う港湾労働者の不足や、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発したことによる資源価格が高騰し、日本の物価上昇率は2%を超えてきました。物価上昇が、日銀が長年実施した金融緩和政策の結果ではなかったのは皮肉な結果です。しかも、前述したように、足元の物価上昇は原油や穀物高など輸入コスト上昇によるもので、黒田総裁がめざす、持続的・安定的な物価上昇とはほど遠いものです。
これまでデフレ脱却を目標として行われた黒田日銀による金融緩和政策は、需要不足からきたものでしたが、今回、新型コロナウイルスの世界的感染の拡大や、ロシアによるウクライナ侵攻などを起因とする供給制約の問題です。
デフレ脱却のための政策を、今のインフレの時代にも適用させようとするのは無理があります。経済の潮目が変わったにもかかわらず、黒田総裁は「短期金利をマイナス、長期金利を0%程度(変動許容幅の上限を0.25%)」とする、これまでの金融緩和政策を変更することを頑なに拒否してきました。
金利引き上げの時
しかし、こうした背景下、今、黒田日銀がとるべき対応は金利上昇容認で、異常な低金利状態から、金利を正常化させることです。
円高でインフレ抑制
物価上昇(インフレ)の問題は、輸入物価高騰からきており、これを引き起こしている一因が戦争と円安です。日銀はウクライナ戦争による供給障害には対応できませんが、円安には対処できます。円安が特に日米の金利差からきているのであれば、金利上昇を容認することによって、為替レートは円高になり輸入物価の上昇は抑えられます。
もちろん、金利上昇の容認は金融引き締めになってしまうため、景気には悪影響を与えます。一般に考えられることが、金利上昇によって、企業の設備投資が抑えれるというものですが、最近の日本では、設備投資は金融機関からの借り入れというよりは、日銀の金融緩和政策の恩恵で、ため込んできた内部留保で賄われている場合のほうが多いから、その影響は限定的になるとの指摘もあります。逆に、むしろ、円高を通じて、輸入物価が下がることによって、原材料費や光熱費の負担が抑えられると同時に、産出量が増え、経済を拡大させることになるのです。
こうした背景から懸命な識者やエコノミストは、政策金利(短期金利)を現状の-0.1%から引き上げてマイナス金利政策を解除し、また、長期金利(10年国債の利回り)のコントロールをやめ、上昇を一定程度容認する政策調整を行うことを提言していました。
そして、今回、黒田総裁は長期金利の上限を従来の0・25%程度から0・5%程度への変更を認めたことは、金利の正常化に向けての第一歩であり歓迎すべきことだと思われますが、当のご本人は「金融引締めではない」を繰り替えしています。
超低金利の日常
もちろん、金利引き上げに対する懸念は山ほど指摘されています。例えば、1000兆円を超える国債残高への影響が懸念されています。財務省は、金利が1%上昇すれば、国債の元利払いに充てる国債費は3.7兆円上振れする、と試算しています。また、長期金利が0.1%上昇すれば、国債の利払いが毎年1兆円も増えるという別の試算もあります(今回の変更のように長期金利が0.25%から0.5%まで上昇すれば、毎年2.5兆円の負担が増えることになる)。
しかし、冷静な専門家は、この程度の国債費の増加で、一気に財政危機が起きるものではない、仮に、政策金利を+0.1%程度まで引き上げたぐらいで、そうした事態は起こらないとみています。むしろ、政府が大規模金融緩和に便乗して、財政支出を野放図に増やし続けた「副作用」の方を問題視しています。
また、金利の上昇で懸念されるのは、住宅ローン金利の負担増加です。日銀の資金循環統計によれば、住宅ローンの融資残高は、マイナス金利が導入された2016年以降に増加傾向が強まり、過去10年間では40兆円ほど増えたといいます。
こうした異次元緩和の恩恵者にとって、長期金利が上昇していけば、今後住宅ローンの破産予備軍が増えていくことが懸念されています。しかし、住宅ローンを抱えている家計にとっても、金利の上昇で円高に振れ、輸入物価の低下によってインフレが抑えられる利点のことを忘れてはいけません。何より、預金に利子がついて、家計を助けてくれます。むしろ、超低金利が長く続いたため、金融機関の中には返済計画が緩い融資を実行していたところもあるというような「副作用」の方がやはり問題です。
これらの懸念は、政府も金融機関も国民も、異常な低金利に馴れてしまったことからきています。金利は低金利でないと、つまり現状の金融緩和状態が継続されなければ、社会が回らない日本経済となってしまったのかもしれません。薬漬けにされている人は、もはやその薬なしには生きていけなくなるのと同じです。もし、その薬が本来必要のないものであったとしたら、なおさらです。
正常な社会で金利はプラス
金利は本来、プラスであるのが当然で、おカネを預ければ利子がもらえ、おカネを借りれば利子を払うのが当たり前です。マイナス金利が適用される社会というのは、当たり前でないいびつな構造になってしまっています。
今回の日銀の発表を受けて、「長期金利1.0%」といった時代が来るかもしれない、という意見がありますが、黒田氏が日銀総裁に就任する前であれば、長期金利1.0%も政策金利+0.1%も(超)低金利の水準でした。
異次元緩和は、緊急時の処方箋で、それを10年続けることは、冷静に考えれば、異常なことなのです。2年で達成の目標が実現できなかった次点で、修正が必要でしたし、その後も継続されたとしても、少なくとも出口戦略は立ておくべきでした。
今回のインフレは、金利を元の正常にもどす絶好のチャンスですが、ここまでの段階で黒田総裁は意固地になって、政策の継続続けようとした結果、そのチャンスは逃してしまいました。いたずらに、引き延ばしつづけた黒田総裁の「罪」は重く、日銀の長すぎた超金融緩和の後始末は、今後長期にわたって続きます。
日本銀行の黒田東彦総裁が任期満了を迎える2023年4月までに、少なくも、マイナス金利政策の解除と、イールドカーブ・コントロールを廃止によって、金利水準をできるだけ正常化させることが、後世の世代への罪滅ぼしになります。
まとめ
私たち庶民はインフレに苦しめられています。ですから、その要因となっている円安対策も含めて、金利の引き上げ正常に戻すことが肝要です。金利が正常に戻れば、日々の生活の物価が下がり、私たちは預金から利子収入を得ることができます。
ただし、これには時間がかかります。その間、政治の出番で、税制や補助金など財政出動が必要です。これに対して財政赤字を増やすと批判されるかもしれませんが、金利の正常化は円高による輸入物価の安定を及ぼし、これによって、生産が拡大し、景気も回復、税収は増加していくのです。
ですから、今、防衛費のための増税などありえません。優先順位は、インフレの収束と国民生活の安定が先です。それでも防衛体制の充実がすぐに必要というなら、その財源は増税でなく国債です。
<参照>
ついに「黒田バズーカ」炸裂!日銀「大転換」でゾンビ企業とマンション住民を襲う「借金地獄」の厳しすぎる現実
(2022.12.26、現代ビジネス)
異次元緩和「日本の実態に合わない」元日銀理事が斬る
(2022/10/6、毎日新聞/岡大介)
日銀は円安進行にどう対応すべきか
(2022/07/19、NRI)
日本銀行の正常化策は経済悪化、財政危機を招くか
(2022/07/20、NRI)
絶望の円安136円…国民軽視「鬼の日銀」が絶対に利上げしない3つのワケ
(2022.06.27みんかぶ/佐藤健太)
止まらない円安~日銀のジレンマ
(2022.04.12、NHK解説室)
日本のインフレ対策には「金利上昇の容認」が必要な理由、マクロ経済学で解説
(2022/09/08、Diamond online 野口悠紀雄)
「反日の権化」江沢民の死と対中外交の失敗
中国の江沢民・元国家主席(以下敬称略)が、2022年11月30日、96歳で死去し、翌12月6日に、北京の人民大会堂で、追悼大会が行われました。江沢民時代の日中関係について顧みたいと思います。
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日本での江沢民に対する見方は、「天安門事件で失った国内の求心力を回復するため『反日』を利用することで、愛国主義教育を推進し、中国国民の反日感情を高めつつ、歴史問題をカードに対日強硬外交を展開した」というのが一般的です。その影響は、未来志向が期待された日中関係を後退させ、現在の両国関係にも禍根を残したと評されています。
江沢民は、1989年6月の天安門事件で、時の最高指導者・鄧小平の意向を受け、中国共産党総書記( 89年6月~02年11月)に就任後、国家主席まで上り詰めました(任期:93年3~ 03年3月)。
鄧小平の掲げた改革開放政策に従い「社会主義市場経済」路線を打ち出し、中国の経済成長を加速させた一方、民主化運動を武力弾圧した天安門事件を受けて、西側諸国の経済制裁によって、中国は外交的孤立を招きました。さらに、天安門事件の半年後にはベルリンの壁が崩壊、91年にはソ連が崩壊し、共産党支配の国内の引き締めも行わざるを得なくなるなど、江沢民は難しい舵取りを強いられました。
こうした中国の対外的窮地に真っ先に手を差し伸べたのが日本で、中国が国際社会に復帰する上で、重要なきっかけを提供しました。具体的には、主要先進国では、いち早く経済制裁を解除し、91年8月に西側の首脳としては天安門事件後初めて海部俊樹首相が訪中、さらに、92年10月には天皇、皇后両陛下までも中国を訪問されたのです。当時の中国の指導者らは、「天皇訪中は制裁を打ち破る最良の突破口だった」と述懐しています。
加えて、戦後50年を迎えた95年8月15日、当時の村山富市首相は、日本の「植民地支配」と「侵略」に「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明しました。日本としては、このいわゆる「村山談話」と、先の天皇訪中で、歴史認識問題に区切りを付け、新しい日中関係を構築しようと考えたとされています。
しかし、江沢民は、村山談話の発表から間もない9月3日の演説で、「日本は真剣に歴史の教訓をくみ取り、侵略の罪を深く悔い改めてこそ、アジアの人民と世界の理解と信頼が得られる」と述べました。歴史問題を収めるつもりはないことが表明されただけでなく、「愛国主義教育運動(愛国教育)」が積極的に推し進められました。「愛国教育」とは反日教育を意味しました。
江沢民の反日愛国教育
江沢民は、旧日本軍の残虐行為を強調した抗日戦争記念館などの施設を新増設させ、とりわけ、97年には全国規模で組織的に実施されるようになりました。中国人民抗日戦争記念館(盧溝橋)、侵華日軍731細菌部隊罪証陳列館(ハルビン市)、侵華日軍南京大虐殺偶難同胞記念館(南京市)、東北淪陥史陳列館(吉林省長春)などが有名で、こうした史跡は「愛国主義教育模範基地」に指定され、全国各地の学校で愛国教育が強化されました。
作家でジャーナリストの青沼陽一郎氏は、JBpressの記事 “江沢民、中国に「反日教育」深く浸透させた男”(2022.12.5)の中で、東北淪陥史陳列館について詳しく紹介しています(以下にその内容を要約)。
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東北淪陥史陳列館には、日本の中国侵略の歴史を伝える「日本侵略中国東北史実展覧」が江沢民によって常設された。この展示場の入口に「「日本が中国人のもたらした苦難と屈辱、忘れてはならない」と掲げられ、さらに、説明文として、「日本が武力で中国東北を侵略・占領して偽満州国をつくり、植民地支配を行って東北人民を奴隷化し、資源を収奪すること14年の長きにわたった」 などと書かれているという。
この展示場内では、「文化」「教育」「宗教」などとテーマ別に、日本がこの東北の地をいかにして侵略し、「偽満州国」を建国して、どれだけ酷いことをしてきたかを示すコーナーが続いている。
例えば、「文化」についての解説では、「植民地支配を維持・強化するために、日本侵略者はあらゆる方法で中国固有の思想を破壊し・…」と続き、「実行 白色恐怖」というコーナーでは次のように説明されているという。「東北の人民には人身の自由と言論の自由は全くなく、少しのことにも嫌疑をかけられ、逮捕監禁されることになり、いわゆる“思想矯正”を受けたり、さらには殺害さえされた。銃剣が支配する東北の大地は極度の白色テロ(為政者が反政府運動や革命運動に対して行う激しい弾圧のこと)にさらされた」。
なお、この東北淪陥史陳列館は、満州国最後の皇帝だった溥儀の皇宮に隣接しており、その皇宮の真ん前にも、「9・18を忘れるなかれ 江沢民」と書かれた石碑が置かれている。「9・18」とは満州事変のきっかけとなったとされる柳条湖事件のあった日付を指す。
――――――
こうした江沢民が進めた「反日教育」の一環で、「反日施設」が中国全土に建設されて、学校でも徹底して教育されたということは、当時の教育を受けた若者たちが何億人もいることを考えただけでも末恐ろしく感じます。
また、別のエピソードで、歴史認識にこだわり続けた江沢民は、「日本軍国主義復活」を言及しては、反日の姿勢を崩しませんでした。98年8月、中国の外交当局者を集めた会議で、「日本軍国主義者は非常に残忍だった。(戦時中の)中国の死傷者は3500万人に達した」「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と指示していたと言われています(江氏の演説などをまとめた「江沢民文選」で明らかになっている)。
江沢民の「非礼」
江沢民自身も反日の権化となりました。98年11月、両国の平和友好条約20年を記念し、国家主席として初めて公式に訪日した際、執拗に日本批判を繰り返しました。とりわけ、宮中晩餐会における天皇陛下と江沢民のスピーチの「異様な」違いが特筆されます。
天皇陛下は、歓迎の挨拶の中で「貴国とわが国が今後とも互いに手を携えて直面する課題の解決に力を尽くし、地球環境の改善と人類の福祉のため、世界の平和のため貢献できる存在であり続けていくことを希望しております」と未来志向のお言葉を述べられました。
これに対して、江沢民は、天皇、皇后両陛下を前にして、あろうことか「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国国民などに大きな災難をもたらした」、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければならない」と強い口調で歴史認識問題に言及しながら日本批判を展開しました。
政治家同士の首脳会談ならまだしも、政治とは関係がない国民の象徴としての天皇陛下に招かれた宮中晩餐会の席で、日本は過去にこんな過ちをしたと「非礼」なスピーチを行ったのです。デイリー新潮(2022年12月07日)は、「常識として、どこかの家に食事に招かれた時、お前の親父にこんな迷惑を俺は受けたんだ、と言ってのける人がどれだけいるでしょうか」と、この江沢民の発言がいかに非常識だったかを強調していました。
さらに、この時の宮中晩餐会では、江沢民が黒い人民服を着用して出席したことも物議を醸しました。実際のこの時の服装は、作業服として使われることの多い「人民服」ではなく、酷似していますが、中山服(ちゅうざんふく)で、中国では正礼装(正式な服装)であり、儀礼上問題があるわけではありませんでした。しかし、中山服を着た江沢民には深慮があったようです。
有名な逸話として、鄧小平の指導の下、軍を使って民主化運動を徹底的に弾圧する側に回った李鵬首相は、中山服嫌いで知られていたにもかかわらず、威厳部隊を激励するために、黒い中山服を着て登場したそうです。中国の指導者が中山服を着用するのは、非常時の厳しい姿勢を示すときなのだと言われています。江沢民も、平時において中山服を着るのは、中央軍事委員会主席として人民解放軍幹部に訓示する場面だったそうです。
要するに、宮中晩餐会で、歴史認識問題に厳しい姿勢を示すことをあらかじめ決めていた江沢民は、「強硬姿勢」のイメージが演出できる中山服を選んだと見られています。外務省は、「何もよりによって宮中晩餐会に着てこなくても」というのが本音だったようです。
なお、この訪日中、江沢民は、首脳会談や各界との会見をはじめ、宮中晩餐、早大講演、日本記者クラブでの記者会見など、ほとんどすべての場で「過去」に言及しました。
早稲田大学での講演でも、学生を前に「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み」と指摘、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らねばならない」と宮中晩餐会と同じ趣旨の発言をしただけでなく、「日本軍国主義は全面的な対中国侵略戦争を起こし、中国は軍民3500万人が死傷し、6000億ドル以上の経済的損失を被った。正しい歴史観で国民と若い世代を導くべきだ」などと語りました。
ここまでくると、江沢民の反日姿勢は、「日本への恨みを忘れない、忘れさせない」とする怨念を感じてしまいます。
「江沢民派」の末路と遺産
江沢民は03年に一線を退いた後、自身の権力基盤である、いはゆる「上海閥」を率いた影響力を維持しようとしました。江沢民の後任の胡錦濤が後継者に、同じ中国共産主義青年団(共青団)出身の李克強を据えようとすると、江沢民は、共青団の影響力が強くなることを嫌い反対し、習近平を擁立しました。
習近平からすれば、江沢民はある意味、「恩人」に近いわけですが、習近平は、自らの権力基盤を強化するために、汚職や利権政治を排除すると銘打って、徹底した「反腐敗運動」を展開しました。その最初の標的となったのが、江沢民が率いる「上海閥」の共産党幹部たちで、江沢民の権力は完全に削がれてしまいました。
では、現在の習近平体制が、江沢民の反日を継承していないかというと、その強度の差はあれ、指導者が変わっても中国の「反日教育」は変わりません。江沢民の残した反日愛国教育の影響だけは健在なのです。そもそも、中国共産党にとって、抗日戦線こそが、中国を統治する正当性の根拠となっているので、共産党が中国を支配している限り、「日本への恨みを忘れない、忘れさせない」という反日政策は継続されます。
対中外交の失敗
そう考えると、江沢民時代の対中外交戦略は失敗であったと言わざるをえません。89年の天安門事件後、中国が直面した国際的孤立に手を差し伸べ、未来志向の外交を構築しようとした日本でしたが、結果的に、92年の天皇陛下の訪中、95年の村山談話も、未来志向の日中関係が推進されるきっかけにはなりませんでした。逆に、中国に政治利用された形になり、中国は日中関係をテコに天安門事件後の国際的孤立から脱却することに成功しました。
日本の「善意」は通じなかったわけです。日本の「善意」を中国があうんの呼吸で理解し答えてくれるとでも思ったのでしょうか?日本の「お人好し外交」もそろそろ終わりにしなければ、日本の国益を大きく損なうことになるかもしれません。
(参照)
日中関係後退させた歴史観 愛国教育で反日デモ拡大―江沢民氏
(2022年12月01日、時事通信)
江沢民死去で思い出す1998年11月26日の宮中晩さん会 日本人が不快感を覚えた中国の非礼 2022年12月07日、デイリー新潮
江沢民・元国家主席が死去 中国の反日を強化、歴史戦に火ぶた
( December 2, , Japan Forward)
江沢民、中国に「反日教育」深く浸透させた男
「忘れるなかれ、九・一八」(2022.12.5、JBpress)
愛国教育の強化、日中関係に波風が立つことも 江沢民氏死去
(2022.11.30、毎日新聞)
「竹島は日本領」の動かぬ証拠が続々…
現在、韓国に不法に占拠されている島根県の竹島が、わが国の固有の領土であることを示す資料がまた新たに発表されました。以下、朝日新聞(デジタル)の記事を引用します。
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「竹島は日本領」示す米国製の地図発見 島根編入前の1897年発行
(2022年11月6日、朝日新聞デジタル)
日韓が領有権を争う島根県隠岐の島町の竹島(韓国名・独島)を日本領と表示した1897年発行の米国製の地図が見つかったと、島根大学の舩杉力修(ふなすぎりきのぶ)准教授(歴史地理学)が明らかにした。竹島が島根県に編入される1905年以前から、国際的に日本領と認識されていたことを裏づける資料だという。
地図は米ニューヨークの百科事典製作会社が発行したもので、隠岐の島町在住の個人が所蔵していた。地図では日本領は黄色、韓国領はピンク色で表示。竹島は日本領と同じ黄色で、英国での名称「ホーネット島」やフランスでの名称「リアンクール岩」と表記し、いずれも地図の索引に日本領と記載している。
舩杉准教授によると、竹島が日本領であると表示する1905年以前の地図が見つかったのはイギリス、フランス、ドイツ製の地図に続くという。舩杉准教授は「竹島が島根県に編入される1905年以前に、米国内では日本領であると認識されていたことを示す貴重な地図だ」と話している。
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また、今年に入って2月にも、発見された江戸時代の公的地図から竹島が日本領であったことが確認されていました。以下、読売新聞(デジタル)の記事を引用します。
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竹島を記した江戸期の公的地図、初めて発見…専門家「幕府は日本領と認識」
(2022/02/22、読売新聞)
江戸後期に長崎奉行が作成したとみられる航路図に、現在の竹島の記述が見つかった。島根県が定めた「竹島の日」(22日)を前に、領土問題などを研究する「日本国際問題研究所」(東京)が発表した。同研究所によると、竹島の記述がある当時の公的地図が発見されたのは初めてで、調査した研究者は「当時の幕府が竹島を日本領と認識していたことを示す史料だ」としている。(竹内涼)
調査したのは、研究所の委託を受けた島根大法文学部の 舩杉力修 准教授(歴史地理学)。2018年10月、東京都内の古書店で航路図を購入した。
舩杉准教授によると、航路図は縦102センチ、横137センチ。江戸後期の長崎周辺では密貿易(抜け荷)が横行し、密貿易の拠点や注意書きが地図上にあることなどから、取り締まりに当たった長崎奉行が1820~30年代に作成した可能性が高いという。
地図には北海道南部から種子島や屋久島までが描かれている。現在の竹島を「松嶋」、韓国・ 鬱陵島 (ウルルンド)を「竹嶋」と記し、長崎へ向かう昆布船が波風を避けるため、両島近辺の航路を使うようになったとあり、竹島について「草木無之、岩斗之小嶋ニ御座候(草木がなく、岩ばかりの小島である)」と説明されている。
鬱陵島への渡海は1696年以降に禁止されており、舩杉准教授は「渡海禁止後も、竹島に関しては日本領だという認識が続いていたことがわかる。日本の主張を補強する証拠としての価値は高い」としている。
航路図は、同研究所のホームページで公開している。県竹島資料室などでの展示の予定はないという。
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さらに、昨年10月には、サンフランシスコ講和条約時に、アメリカだけでなく、豪州や英国も竹島は日本領であることを認識していたことを示す資料も、既に公表されています。
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竹島日本領 英豪も認識 サンフランシスコ条約時 公文書で判明
(2021/10/2、山陰中央新報デジタル)
戦後、日本の独立と領土が決まった「サンフランシスコ平和条約」で、米国に加えて英国とオーストラリアも竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島(トクト))を日本領と認識していたことが両国の公文書などで明らかになった。政府は条約調印70年を記念して9月28日から東京・霞が関の領土・主権展示館で複写の展示を始め、近くネットでも公開する。
条約では日本が放棄すべき地域を「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と明記。これに対して韓国は3島だけでなく「独島も含まれる」と解釈し、領有権を主張している。
政府の委託事業で見つかった新たな資料は、条約の作成過程で、英国が竹島を日本領とする米国案に同意したことをオランダ代表との会合で示した公文書(1951年5月)や、オーストラリア外務省が釜山駐在の外交官に宛てた電報(同年7月)など。
電報では韓国側がオーストラリアに対し、条約で日本が放棄すべき地域に「独島」を入れるよう要請する際に不正確な位置を伝えたため、韓国の主張を評価できなかったことを示す内容という。
これまで、米国が竹島を日本領と認識する複数の資料が存在していたが、韓国側は「米国のみの見解で条約を結んだ連合国の総意ではない」と主張。今回の発見は韓国の主張を覆すものとなりそうだ。展示を企画した内閣官房領土・主権対策企画調整室の斎藤康平企画官は「条約の交渉過程で竹島の領有権について、日本の立場の正しさをより客観的に説明する史料が確認された」と話した。
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エリザベス女王崩御:王位継承順位、称号・爵位はどうなる?
英国の女王エリザベス2世(96歳)が、2022年9月8日、滞在先のスコットランドのバルモラル城で逝去(せいきょ)されました。これに伴いチャールズ3世が即位しただけでなく、王位継承順位や称号・爵位の変更などがありました。女王崩御から約1週間経った現在のイギリス王室の状況をまとめました。
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<エリザベス女王の生涯>
エリザベス女王は、1926年4月21日にロンドンにて、ヨーク公アルバート王子(のちのジョージ6世・享年56)とエリザベス妃(享年101)の長女として誕生、1947年、21歳のときに、当時26歳で海軍将校だったフィリップ殿下(享年99)と結婚されました。ふたりの出会いは、エリザベス女王が13歳のとき、父の母校である王立海軍大学を訪問した際、フィリップ殿下が、案内役を務められたのが最初でした(出会いから8年もの年月を経て二人は結婚)。
エリザベス女王は、1952年2月に父である国王ジョージ6世の急死を受け、25歳の若さで即位しました。戴冠式は翌年行われ、史上初めてテレビ中継がなされたことで話題となりました。
以来、70年にわたって英国を統治し、在位70年7カ月は、(ヴィクトリア女王の記録を上回って)歴代の英国君主で最長でした(当時の英国首相はチャーチルで、歴代15人の首相が仕えてきた)。なお、72年以上にわたって君臨したフランス国王ルイ14世に次ぐ、世界史上2番目に在位期間の長い君主でもありました。
2021年4月、73年間連れ添われたフィリップ殿下が死去された後、自らも体調を崩され、主要行事を欠席することが多くありました。2022年4月に96歳の誕生日を迎え、6月には、英国で史上最長の在位70年間の祝賀行事「プラチナ・ジュビリー」が英国全土で盛大に開催された(プラチナ・ジュビリーを迎えた英国君主はエリザベス女王が最初となった)。
エリザベス女王は、確固たるリーダーとして威厳を放つと同時に、愛される存在で、国民から支持を得ていました。崩御後の世論調査では、国民の75%以上が「女王が好き」と回答しています。女王は、旧植民地諸国を軸とする連合体の英連邦(コモンウェルス)に所属するオーストラリア、ニュージーランド、カナダなど15カ国の元首でもあり、英連邦のほか世界からも「英国の母」と慕われていました。
日本の皇室との交流も深く、昭和天皇、上皇さま、天皇陛下の3世代にわたって続き、1975年5月には、英国の君主として初めて、夫の故フィリップ殿下と来日されました。
- 開かれた王室
エリザベス女王がその在位期間中、力を入れてこられたことが英王室の近代化であり、大切にしてきた信念のひとつとされているのが、「開かれた王室であること」でした。
エリザベス女王が即位後、自ら始めたのがクリスマス当日に国民に向けてスピーチを送るクリスマス放送でした。1957年12月25日に初めてテレビでスピーチを放送して以来、毎年欠かさず続けられ、伝統行事のひとつになっています。
バッキンガム宮殿は一般見学用に一部開放され、最近では、国民とコミュニケーションを積極的に取るべく、SNS(交流サイト)で、積極的に情報発信が行われています。さらに、直系男子優先だった王位継承制度を男子優位から男女平等に変更したのもエリザベス女王の時代でした。
私生活では、フィリップ殿下との間に、新国王チャールズ皇太子(73)、アン王女(72)、アンドリュー王子(62)、エドワード王子(58)の4人の子どもに恵まれ、8人の孫と12人のひ孫がいます。
ただし、子どもたちが成長する一方で、スキャンダルとの縁も少なくありませんでした。なかでもチャールズ皇太子の不倫によるダイアナ元皇太子妃(享年36)との離婚は、世界的にセンセーショナルな話題となりました。さらに、ダイアナ元皇太子妃が不慮の事故で亡くなった際には、英国王室を批判する声が多くあがりました。それでも、エリザベス女王は、国民の前では、毅然とした態度を崩さず、持ち前のユーモアで人々を魅了してきました。
<エリザベス女王の葬儀>
葬儀は、死去から10日後の19日にウエストミンスター寺院で国葬が執り行われます。その後ウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂でも葬儀が執り行われ、女王は最終的に、両親と妹が眠るウィンザー城のキングジョージ6世記念礼拝堂に埋葬されます(キングジョージ6世の記念礼拝堂は教会の別の部分にある)。
1952年に亡くなった女王の父国王ジョージ6世は、もともと王室の保管庫に埋葬されていましたが、1969年3月26日に新しく建設された礼拝堂に移されました。2002年には女王の母もこの礼拝堂に埋葬され、さらに同年に亡くなった女王の妹マーガレット王女の遺灰も、ここに納められています。
また、2021年4月9日に99歳で亡くなったエリザベス女王の夫フィリップ殿下も、セント・ジョージ礼拝堂のロイヤル・ボールト(王室の墓廟)に埋葬されていますが、女王の埋葬に合わせ、殿下の棺は女王の隣に移されるとみられています。
<新国王チャールズ3世>
エリザベス女王の逝去に伴い、王位継承権第1位のチャールズ皇太子(73)が新国王「チャールズ3世」として即位しました。英フィナンシャル・タイムズ紙は、73歳のチャールズ3世は最も長く待たされた後継者であると同時に、即位時の年齢が最も高い王になると報じました。
チャールズ新国王は、母であるエリザベス女王が亡くなった時点で自動的に即位していますが、手続き上、新国王の即位は10日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で行われた王位継承評議会(数世紀にわたる組織で、王族や政治家、宗教指導者で構成)の会合で正式に宣言されました。会合の模様は初めてテレビ中継されました。チャールズ国王は母方から王位を継承しているので、女系王になります。
この後、新国王は戴冠式に臨むことになりますが、現時点で詳細は明らかにされていません。戴冠式は、伝統的にロンドンのウェストミンスター寺院で行われていますので、今回も踏襲されると見られています。
チャールズ3世は、ケンブリッジ大卒業後、軍隊を経て、ダイアナ妃との間にウィリアム、ヘンリーの2人の王子をもうけましたが、結婚前から交際していた現カミラ王妃との不倫関係を継続し、離婚の原因となりました。1997年のダイアナ妃の事故死後は、世間の強い風当たりを受けながら、2005年にカミラ妃と再婚しました。
かつて皇太子時代、「人生のほぼ全てを準備に費やした」と英メディアに揶揄されたこともあったチャールズ3世ですが、400以上の慈善団を後援し、環境問題や代替医療など、多くの分野の社会活動家としても存在感を示してきたと評されています。
<王位継承者>
女王の死と新国王の即位を受け、英国の王位継承順位の第1位は、チャールズ3世の長男ウィリアム王子となりました。第2位はウィリアム王子の長男、ジョージ王子(9)。3位と4位は、ジョージ王子の妹シャーロット王女(7)、弟のルイ王子(4)となっています。
2013年に施行された王位継承法では、「2011年10月28日以降に誕生した王族は、性別によってその人物またはその子孫が他の王位継承者よりも優先されることはない」と規定されました。従来のイギリスでは、長男子単独相続制に従って、王位は、王の直系の子孫に男子優先で女子にも与えられていましたが。2013 年法はこの原則を性別によらないで王位継承の順序を決定するように改められました。
2013年の王位継承法以前は、エリザベス女王の長女であるアン王女や、女王の孫娘レディ・ルイーズのように、女性が王位継承権を持つ男性の弟に順位を逆転されることがありましたが、現在ではそうした事態は起きていません。実際、ウィリアム王子の長女シャーロット王女の王位継承順位は3位で、弟であるルイ王子より先になっています。
王位継承順位の第5位はウィリアム王子の弟、新国王と故ダイアナ元妃の次男ヘンリー王子(37)。それに続く第6位と7位は、ヘンリー王子と米国出身の元女優、メーガン・マークルの息子アーチー・マウントバッテン・ウィンザー(3)と、娘のリリベット(1)です。
チャールズ新国王の子と孫に次いで継承順位の上位に入るのは、エリザベス女王のほか3人の子どもとその子・孫たちとなり、8位は女王の次男アンドルー王子(62)です。しかし、アンドルー王子は未成年に対する性的虐待などで起訴されました。さらに勾留中に死亡した米国人富豪ジェフリー・エプスタイン(性犯罪で有罪判決を受けた)と交友関係があったことで国民からの批判を受け、2019年以降、公務からから退いています。
イギリスの王位継承順位
- ウィリアム皇太子(チャールズ新国王の第1子)
- ジョージ王子(ウィリアム王子とキャサリン妃の第1子)
- シャーロット王女(同第2子)
- ルイ王子(同第3子)
- ヘンリー王子(ウィリアム王子の弟でチャールズ新国王の第2子)
- アーチー・マウントバッテン=ウィンザー(ハリー王子とメーガン妃の第1子)
- リリベット・マウントバッテン=ウィンザー(同第2子)
- アンドルー王子(新国王の弟で女王の第3子)
- ベアトリス王女(アンドルー王子の第1子)
- シエナ・エリザベス・マペッリ・モッツィ(ベアトリス王女の第1子)
- ユージェニー王女(アンドルー王子の第2子)
- オーガスト・フィリップ・ホーク・ブルックスバンク(ユージェニー王女の第1子)
- エドワード王子(新国王の末弟で女王の第4子)
- セヴァーン子爵ジェームズ(エドワード王子の第2子)
- レディ・ルイーズ・マウントバッテン=ウィンザー(エドワード王子の第1子)
- アン王女(新国王の妹で女王の第2子)
- ピーター・フィリップス(アン王女の第1子)
- サバンナ・フィリップス(ピーター・フィリップスの第1子)
- アイラ・フィリップス(同第2子)
- ザラ・ティンダル(アン王女の第2子)
<「称号」の変更>
- カミラ夫人の肩書
新国王のチャールズ3世は9月9日、即位後の初の演説を行い、「新国王の妻」カミラ夫人はクイーン・コンソート(王妃)となると発表しました。
エリザベス女王は2022年2月、チャールズ3世の2番目の妻カミラ夫人の肩書を「プリンセス・コンソート(王の配偶者)」ではなく、「クイーン・コンソート(王妃)」となることを希望している(カミラ妃が将来「王妃」と呼ばれることを切に望む)と表明し、国民に許しと和解を促しました。
- ウィリアム王子とキャサリン妃
王位継承順位第一位となったウィリアム王子は、国王から皇太子の称号である「ウェールズ公」も引き継ぐことになりますが、この称号は、父から息子に自動的に継承されるものではないため、新国王(父王)から付与される必要があります(新国王が決める)。
そこで、チャールズ新国王は、9月9日、ウィリアム王子夫妻、プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)とプリンセス・オブ・ウェールズ(皇太子妃)になると発表しました。これは、チャールズ新国王がウィリアム王子をプリンス・オブ・ウェールズの後継者に指名したことを意味します。この結果、ウィリアム王子は、ウィリアム皇太子(ウェールズ公ウィリアム)と敬称されることになります。
キャサリン妃は、1997年に36歳で悲劇的な死を遂げたダイアナ元妃以来、初めてプリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公妃)(皇太子妃)の称号を継承することになりました。なお、カミラ夫人もプリンセス・オブ・ウェールズの称号を持っていましたが、不倫の後にチャールズ皇太子(当時)と結婚した経緯もあってか、このプリンセス・オブ・ウェールズの称号を公に使用することはなく、コンウォール侯爵夫人と名乗っていました。
また、ウィリアム王子とキャサリン妃は、2011年4月に結婚した際、エリザベス女王によってケンブリッジ公爵、公爵夫人の称号をそれぞれ与えられていましたが、父チャールズが新国王に即位したことを受け、新国王と王妃がそれまで名乗っていたコーンウォールの称号も引き継ぎます。ウィリアム皇太子はコーンウォール公爵、キャサリン皇太子妃はコーンウォール公爵夫人ともなります。
実際、ウィリアム王子とキャサリン妃のSNS(ツイッターとインスタグラム)のアカウント名が、ケンブリッジ公爵夫妻から「コーンウォールおよびケンブリッジ公爵夫妻」に変更されていました(現在は、ウェ―ルズ公爵夫妻を使用)。
なお、チャールズ新国王は、1958年から持っていたコンウォール侯爵という称号を使うことはなく、長らくプリンス・オブ・ウェールズの称号を多く名乗っていました。
- ウィリアム皇太子夫妻の3人の子ども達
今回の称号の変更に伴い、ウィリアム王子夫妻の子供であるジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子もこれまでの「ケンブリッジ」の名から「コーンウォールおよびケンブリッジ」の名になっています。正式には、次の称号を新しく得ることになりました。
プリンス・ジョージ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ
プリンセス・シャーロット・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ
プリンス・ルイ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ
また、「ウェールズ」の名をウィリアム王子が与えられたので、その称号も名乗ることになります。
- ヘンリー王子夫妻の子ども達
王子と王女
チャールズ国王の次男ヘンリー王子と妻メーガン妃(サセックス公爵夫妻)の子どもたちで、王位継承順位6位と7位となったアーチーとリリベットは、「王子(プリンス)」・「王女(プリンセス)」の称号(肩書)と、殿下・妃殿下(HisまたはHer Royal Highness、HRH)の敬称を得て、アーチー王子(殿下)とリリベット王女(妃殿下)になれるかが注目されています。
イギリス王室における「王子」・「王女」の称号と、殿下・妃殿下(HRH)の敬称の付与には、ヘンリー王子の高祖父にあたるジョージ5世は1917年に、「王国の君主の子供、君主の息子の子供(孫)およびプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の長男の長男(曾孫の長男)」に与えられると定めました。
エリザベス女王の在位中、チャールズ皇太子の長男であるウィリアム王子の長子ジョージ王子までがこれに該当しました。エリザベス女王は、これを変更し、シャーロット王女とルイ王子まで拡大したことから、ウィリアム王子とキャサリン妃のお子さんたちは、全員、「王子」・「王女」の称号と、(王室高位メンバーを意味する)HRHの敬称を得ています。
そして、今回、女王が崩御し、祖父チャールズが即位したことで、現行法に則れば、アーチ―君とリリベットちゃんは、君主の孫という立場になり、希望すれば自動的に、王子と王女の称号とHRHの敬称が与えられ、アーチー王子殿下、リリベット王女殿下になれます(希望しない場合もある)。
当初、チャールズ新国王は、シニアメンバーと呼ばれる主要王族の数を減らして、王政のスリム化を検討していることから、これを認めない可能性もあると指摘されていましたが、英紙サンは、アーチー君(3歳)とリリベットちゃん(1歳)は近く、正式に王子および王女となるが、殿下または妃殿下(HRH)の敬称は得られない見込みだと報じました。後者については、ヘンリー王子とメーガン妃が、2020年に王室を離脱した際、王室との合意の一環で、HRHの使用を放棄し、「王室として働いていない」ことが理由にあげられています。
マスターとレディ
アーチーとリリベットは、親が保持する「サセックス公爵」の称号も持っていません。そうすると、爵位を持たない2人には何かしらの称号はあるのでしょうか?
こうしたケースでは、当初、慣例に従い、ヘンリー王子の従属爵位(下位の爵位)であるダンバートン伯爵を儀礼称号(儀礼上の称号)として使用するとみられていましたが、両親の意向により爵位ではなく年少の貴族の子息の呼称であるマスター(Master)とレディ(Lady)を使っています。現在、アーチーはマスター・アーチ―、レディ・リリベットという敬称で呼ばれています。
マウントバッテン=ウィンザー
また、アーチーとリリベッドは、マウントバッテン=ウィンザーという姓を名乗っています。実際、2人の正式な名前は
アーチー・ハリソン・マウントバッテン=ウィンザー
リリベット・ダイアナ・マウントバッテン=ウィンザー。
この姓は、1960年にエリザベス女王とフィリップ王配が結婚した際、2つの名字(女王のウィンザー家と王配のマウントバッテン家)を組み合わせて誕生しました。エリザベス女王とフィリップ王配は、自分たちの子どもや子孫のために、マウントバッテン=ウィンザーという姓を作ったのです。公式には、エリザベス2世と夫フィリップ・マウントバッテン公の間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザーとする枢密院令が発せられました。
もっとも、女王の子ども達は、ケンブリッジ公、サセックス公、ウェールズ公など、それぞれの称号で呼ばれているため、マウントバッテン=ウィンザーという姓は使用していません。
なお、ウィンザーは、王室が属する王朝の名前であると同時に、エリザベス女王の祖父ジョージ5世の決定により、王家の家名(ファミリーネーム)ともなりました。
<王朝名も変更?>
チャールズ3世新国王の即位とともに、イギリス王室は、王朝名(家名)をウィンザー朝からマウントバッテン=ウィンザー朝に変える可能性もあると言われています。これは、エリザベス女王の王朝名であるウィンザー朝に、エリザベス女王の夫で、チャールズ3世の父であるエジンバラ公フィリップの家名を加えた名称です。
マウントバッテン=ウィンザー朝という折衷名にするのは、チャールズ3世が王位を継承しても、エリザベス女王の直系血筋が絶えるわけではないという考え方で、ウィンザー朝の継続という強調したものと言われています。
ただし、前述したように、マウントバッテン=ウィンザーは、1960年にエリザベス2世と夫が創設した姓(苗字)で、このときは、家名(王朝名)が変更されたわけではありませんでした。そのため、チャールズ3世が即位した今もその家名(王朝名)はウィンザーのままで、姓のマントバッテン=ウィンザーとはずれが生じていることを調整する狙いがあるのかもしれません。
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9.11から21年 アメリカのテロとの戦いは今
アメリカの同時多発テロから今年2022年で21周年になる。テロの脅威を忘れなないためにも、あの事件を風化させてはなりません。
ハフポスト紙が、「アメリカ同時多発テロはなぜ起きたのか。“史上最悪”のテロ事件を写真で振り返る【9.11から21年】」と題した記事を出してくれました。同時多発テロの発生の背景から、実際の惨事から、その後のアメリカのテロとの戦いについてまとめた記事で、今私たちが知るべき内容がすべて書かれていたので、まずはそのまま引用します。
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2977人の命が奪われたアメリカ同時多発テロから21年。史上最悪のテロ事件はなぜ起こったのか。
(2022年09月11日、ハフポスト日本版編集部)
民間機4機が国際テロ組織にハイジャックされ、日本人24人を含む2977人が犠牲になった、アメリカ同時多発テロ(9.11事件)から11日で21年を迎える。航空機が世界貿易センタービルに激突する瞬間や、ビルが白煙を巻き上げながら崩れ落ちていく映像がリアルタイムで放送され、その惨劇は世界を震撼させた。多数の民間人の命を奪う「対テロ戦争」の発端にもなった“史上最悪”のテロ事件は、なぜ起こったのか。事件現場はその後、どう変わったのか。写真と資料で振り返る。
2977人が犠牲に
2001年9月11日午前8時46分、乗客乗員計92人を乗せたボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便が、ニューヨークの世界貿易センタービル北棟に衝突した。その17分後、乗客乗員計65人を乗せたユナイテッド航空175便が、世界貿易センタービルの南棟に突入。午前9時37分には、バージニア州の国防総省(通称ペンタゴン)に、アメリカン航空77便が激突した。午前10時3分、ペンシルベニア州・シャンクスビルの平野に最後の1機のユナイテッド航空93便が墜落した。2機が衝突した世界貿易センタービルは、11日午前10時〜10時半ごろにかけて相次いで崩れ落ちた。
一連のテロ事件の犠牲者数は2977人に上った。その中には、建物内で生存者の救助活動にあたっていた警察官や消防隊員も含まれている。現場で有害物質を吸い込んだり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したりと事件による健康被害に今も苦しむ人は多い。
ハイジャックした19人の実行犯たちは、国際テロ組織「アルカイダ」のメンバー。航空機4機に4〜5人ずつ乗り込み、全員死亡した。ペンシルベニア州の平原に墜落したユナイテッド航空93便は、乗客と乗員たちがハイジャック犯に抵抗したため、標的であるワシントンD.C.のホワイトハウス(アメリカ合衆国議会議事堂とする説もある)に到達しなかった。
国際テロ組織「アルカイダ」とは
9.11事件を引き起こしたアルカイダは、1989年に誕生した国際テロ集団。どんな組織なのか?ソ連軍は1979年、アフガニスタンに侵攻する。ソ連軍の駆逐を目的とした「ジハード」(聖戦)に参加するため、アラブ諸国の若いムスリム(イスラム教徒)を中心とする義勇兵たちが、アフガニスタンや隣国パキスタンに向かった。
1989年にソ連軍がアフガンから撤退すると、対ソ連で戦った抵抗勢力の間で内乱が発生した。こうした中、一部のアラブ人義勇兵たちによって次のジハードを戦うための組織アルカイダが結成された。アルカイダの幹部らにとって、戦場を失った義勇兵たちの処遇は喫緊の課題だった。
1990年の湾岸危機で、米軍がメッカとメディナというイスラム教の2大聖地があるサウジアラビアに駐留したことは「異教徒の軍隊がイスラムの聖地を占領している」とみなされ、攻撃の対象とされた。アルカイダの論理はエスカレートし、サウジアラビア駐留軍だけでなく、全てのアメリカ人を「標的」とするようになった。
アルカイダの最高指導者のオサマ・ビン・ラディンは、2011年5月2日、パキスタンでアメリカ軍特殊部隊に殺害された。
泥沼化した「対テロ戦争」
アフガニスタンを支配していたタリバン政権は、アメリカ同時多発テロを計画したアルカイダ指導部の引き渡しを拒んだ。そのため2001年10月、アメリカはイギリスなどとともにアフガニスタン攻撃を開始。タリバン政権を壊滅させた。以降、アメリカや同盟国による「対テロ戦争」が激化していく。
1990年代後半から、米共和党内部で活発に活動していた「ネオコン」と呼ばれる新保守主義者たちは、特に9.11事件以降、積極的にイラクのフセイン政権打倒を主張していた。ネオコンの特徴の一つは、自由主義や民主主義といったアメリカの価値観を、軍事力や経済力を行使したとしても他国に広める、という思想だ。アメリカは開戦理由として、イラクが化学兵器や核兵器などの大量破壊兵器の開発を進めて保有していることや、アルカイダとつながっていることを挙げた。イラクはいずれの疑惑も否定し続けた。
「大量破壊兵器」は見つからなかった
イギリスや日本など一部の国を除き、イラクへの軍事攻撃に対する慎重論が上がっていた。しかし、アメリカは2003年3月20日、イラクへの武力攻撃を開始(イラク戦争)。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ポーランドの4カ国でつくる有志連合軍は、イラク各地で大規模な空爆を行った。
当時日本の首相だった小泉純一郎氏は、攻撃開始直後に談話を発表。「我が国の同盟国である米国をはじめとする国々によるこの度のイラクに対する武力行使を支持します」との立場を示した。
イラク戦争では空爆や、それに対抗して繰り返された自爆テロにより、イラクの多数の民間人が犠牲になった。2004年10月には、イラクの大量破壊兵器の捜索を担当していたアメリカの調査団による最終報告書が議会に提出された。イラクには大量破壊兵器は存在せず、開発計画もなかったと結論づけるものだった。その後、米兵によるイラク人への虐待や性暴力といった非人道的な行為も次々に暴かれた。
イラク戦争と、戦後のイラク国内の治安悪化で、アメリカに対する憎悪はますます膨らんだ。欧米など世界各地でテロ事件を計画・実行する過激派組織「IS」の誕生へとつながっていく。
タリバンの復権
タリバン政権は2001年の崩壊後、どうなったのか。その後もタリバン自体は壊滅せず、中央政府の手の届かない地域で力を蓄え、武装勢力として駐留米軍やアフガン政府軍と約20年にわたって戦った。2021年5月、アメリカ政府が米軍のアフガン撤退を本格化させると、タリバンは各地でアフガン政府軍を圧倒し支配地域の拡大を急速に進めた。8月15日に、タリバンは首都カブールを制圧した。
アルカイダは2011年のビンラディン殺害後もタリバンに忠誠を誓い、両者の深いつながりが指摘されている。一方、2020年にタリバンは米国と和平合意を結んだが、そのときの条件の一つは、タリバンがアルカイダとの関係を断絶することであった。
「グラウンド・ゼロ」はいま
世界貿易センタービル跡地は、「グラウンド・ゼロ」(爆心地)と呼ばれる。グラウンド・ゼロには、事件を伝える「9.11メモリアルミュージアム」が設置されたほか、犠牲者を悼む記念碑も整備された。超高層ビル「ワンワールドトレードセンター」なども建設され、2棟のタワーが崩壊した事件直後とは全く異なる表情を見せている。
毎年9月11日には、グラウンド・ゼロなど事件現場で追悼式典が行われている。9月11日夜〜翌朝まで、世界貿易センタービルの2棟に見立てた青い光のツインタワー「追悼の光」(Tribute in Light)が、ニューヨークの空を照らし出す。
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記事にもあるように、2001年9月11日、米同時多発テロ後、実行犯の主犯格のオサマ・ビンラディンらアルカイダの指導者らを匿っているとして、アフガニスタンに軍事介入し、タリバン政権を打倒しました(米アフガニスタン戦争)。しかし、壊滅したかにみえたタリバンでしたが、武装勢力として、駐留米軍やアフガン政府軍に抵抗を続けました。2021年、アメリカ政府が米軍のアフガニスタン撤退を本格化させるのに合わせるかのように、力を再び蓄えてタリバンは各地で支配地域の拡大を急速に進め、同年8月、タリバンは首都カブールを制圧し、再びアフガニスタンを支配しました。アメリカのアフガニスタンにおけるテロとの戦いは、結局、失敗に終わったとしか言えません。
では、同時多発テロ後、G.W.ブッシュ大統領が宣言したアフガンも含めた世界中の「テロとの戦い」はどうなったのでしょうか?
G.W.ブッシュ大統領は、「テロとの戦いは冷戦より長くなる」と長期戦を示唆しました。実際、アメリカは、アフガニスタンのタリバン政権を崩壊させた後は、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指し批判し、イラクに対しても戦争を仕掛け、イランとの対立は現在も続いています。また、ブッシュ大統領は、「民主主義を世界に広める」とも宣言し、オバマ政権の2010年から2012年にかけておきた「アラブの春」で一部実現したという見方もできます。
1990年台から2000年台初頭まで、まだ冷戦後の世界秩序が模索されていた中、同時多発テロが発生したわけですが、当時から注目されていた理論に、国際政治学者ハンチントンの「文明の衝突」がありました。
ハンチントンは、世界の文明圏を、西欧文明(欧米豪)、スラブ・東方正教会文明、中華文明、日本文明、ヒンズー文明、イスラム文明、ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明の8つの文明圏に分類し、これからの世界は、イデオロギーの対立から文明の衝突が起きると予測しました(想像に難くないことですが、西欧文明がすべての戦いに勝利することが期待されているでしょう)。
論文の発表から8年後の2001年にアメリカ同時多発テロ事件がおき、その後、アフガニスタンやイラクとの戦争というように、冷戦後「テロとの戦いの時代」となったと、ブッシュ大統領が宣言したことから、「文明の衝突」はまさに冷戦後の世界を予見した研究として一躍注目されたのです。
さらに、一部の保守派は、「テロとの戦いはイスラム文明との戦い」と強引に解釈し、現代は西欧文明とイスラム文明の戦いに突入したとみなされるようになりました。仮にこの見解が正しいとして、西欧文明の旗手アメリカは、イスラム文明(ここではイスラム原理主義)との戦いに勝利したのかというと、決してそうではないでしょう。むしろ、アメリカはイスラム文明との戦いを拒否しているように思われます。
では、ハンチントンの「文明の衝突」は、これからの世界の先行きを占う予言書ではなかったのかというと、これは早急に結論付けできません。
「文明の衝突」によれば、イスラム(テロ)との戦いの後には、中華圏、スラブ圏、ヒンズー圏などとの戦いがあると読むこともできます。ハンチントンはすべての文明圏との対立は想定していないようですが、現状では、中華文明、ロシア文明(スラブ・東方正教会文明)との対決は、決して否定できないでしょう。
アメリカの外交戦略を歴史的にみれば、理論を現実化するという傾向があるように思えることから、今後もハンチントンの「文明の衝突」からは目を離せません。
<この記事のさらなる理解のために>
(2022年9月13日更新)