コロナワクチン:接種開始時期と死者増加時期が一致!
コロナワクチン接種を奨励するテレビやネットのCMに岸田総理が登場し、「ワクチン接種によって重症化リスクが軽減する」「海外旅行から帰国がスムーズにできる」と訴えています。相変わらず、ワクチンのリスクについては一言も触れない姿勢は一種の情報操作としか言えません。
12月に入り、非常にショッキングなニュースが2本出されましたが、メディアがテレビで積極的に取り上げる気配は感じられません。今回はその注目すべき2本のニュースを紹介したいと思います。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
最初のニュースは、超過死亡という統計から、3回目と4回目のワクチン接種以降、死者が増えているという報道です。
コロナワクチン「接種開始時期と死者増加時期が一致」のデータが意味するものとは
(2022.12.20 女性セブン)(一部抜粋)
命を救うはずのワクチンだが、接種を繰り返すとなぜか死者が増えていた。原因はコロナか、がんや心疾患か、それとも別に要因があるのか。一体、いま日本で何が起きているのか──データとデータを重ね合わせて読み解くと、ある不都合な真実が見えてきた。
日本人が猛烈なスピードで命を落としている。厚生労働省が発表した人口動態統計速報によると、2022年は1〜8月だけで2021年の同期間よりも死者数が7万1000人ほど増加した。そもそも2021年は死者数が前年比約6万7000人増と、戦後最大にまで増加したが、2022年はわずか8か月で前年の増加分を追い越した。
増加のペースもすさまじく、2022年2月は前年より約1万9000人増、8月は約1万8000人増となった。2011年の東日本大震災による死者は約1万6000人だったことを考えると、大震災に匹敵する“災害”が2度も発生した計算になる。
原因としてまず考えられるのが、新型コロナの流行だ。年始からの第6波、夏の第7波で感染者が激増し、それに伴って死者が増えたのではないだろうか。だが専門家は、その可能性は低いと話す。医師で南日本ヘルスリサーチラボ代表の森田洋之さんが指摘する。
「…2022年1〜8月のコロナによる死者数は2万1500人ほどに過ぎず、人口動態統計速報が指摘する死者7万1000人のうち、約5万人はコロナとは別の理由で死亡したことになります。それでは一体、何が原因なのかを考える必要があるのです」。
なぜ、日本人の死者数は、急激に増えているのだろうか。
接種開始の時期と死者増加の時期が一致
新型コロナのような感染症はその感染症で亡くなったと診断された患者以外にも、検査をせずに亡くなった感染者や、感染が原因で基礎疾患が悪化して亡くなった患者などが多数生じる。そうした感染症の全体図を把握したいときに用いられるのが「超過死亡」だ。
超過死亡とは、過去の統計から見込まれる死者数の推定値を、実際の死者数がどれだけ上回ったかを示す数値のこと。感染症がないときの平年の国の総死者の推定値と、感染症が流行したときの総死者数を比べれば、「感染症によってどれだけの人が死亡したのか」を導き出せる、という理屈である。
ここでも目立つのは2022年の数字の伸びだ。2022年2月の超過死亡は最小1万3561人〜最大1万9944人、2022年8月は最小1万2232人〜最大1万7968人だった。超過死亡が示す最大の死者数は、厚労省の人口動態統計速報とほぼ一致することも読み取れる。
この人たちはなぜ亡くなったのか。感染研の鈴木基感染症疫学センター長は戦後最大とされる超過死亡の要因について、「新型コロナ感染の流行」や「それに伴う医療逼迫の可能性」を主張し、大手メディアもこの説に追随する。しかし前述の通り、コロナと直接関係する死者は超過死亡ほど増えていない。「感染が拡大した2月や8月は医療が逼迫して入院できず、コロナ以外の疾患で亡くなったのでは?」という主張も疑わしい。
では何が戦後最大の超過死亡を招いたのか。ひとつの可能性として森田さんが指摘するのが「ワクチン接種」だ。
「死者が増加した2月と8月はワクチンの3回目接種、4回目接種の時期と一致します。コロナ感染が増えた結果、ワクチン接種が増えたとの反論もありますが、実際のデータを見るとコロナ感染が始まる前にワクチン接種数が伸びています。統計的には3回目接種、4回目接種と回数を重ねるほど死者数との相関が強くなっています」(森田さん)
小児がんや難治性血液病の専門家で、遺伝子治療やワクチンに詳しい名古屋大学名誉教授の小島勢二さんは話す。
「感染研のダッシュボードを見ると、3回目、4回目ワクチンの接種開始から10週間後にあたる2月、8月に超過死亡が観察される時期が始まっています。ワクチンの接種回数の推移と超過死亡の推移は一致しており、ワクチンの接種開始と超過死亡発生との時間的な関連は明白です」
「2022年2〜3月に観察された超過死亡は追加接種が増加した時期に一致しており・・・・。また、感染研は2022年6月に超過死亡のデータの集計方法を突然変えました。変更前のデータと比べて、変更後は高齢者のワクチン接種が始まって以降の『1週間あたりの超過死亡』の増加が観察された週数が、大幅に伸びています」
ワクチン死とコロナ死は似ている
ワクチンはコロナ対策の切り札と称賛され、莫大な費用を投じ、国を挙げての接種推進が繰り広げられた。国民の命を守るはずのワクチンを打つことがなぜ、死者の増加を招くのか。もともと、ワクチンの安全性には疑問が投げかけられていたと小島さんは言う。
「ファイザーやモデルナのmRNAワクチンは遺伝情報を打ち込み、いわば『人工のウイルス』に感染させることが大きな特徴ですが、産生されるスパイクたんぱく質が人体に与える影響までは充分配慮がされませんでした。現実に血栓症や自己免疫疾患の発症などのデメリットが海外の論文で指摘されています」
感染研のダッシュボードは、新型コロナ感染症以外の死因で超過死亡が生じた際の主な死因として、「呼吸器系疾患」「循環器系疾患」「悪性新生物(がん)」「老衰」「自殺」の5つを挙げ、超過死亡の数値を公表している。
実際に2022年2月の超過死亡を見ると、多い順に「循環器系疾患」(最小3248人〜最大5561人)、「老衰」(同1168人〜1886人)、「呼吸器系疾患」(同218人〜1563人)、「悪性新生物(がん)」(同117人〜683人)、「自殺」(同0人〜72人)だった。循環器系疾患や老衰が上位にくることからも、ワクチンとの関連が疑われる。
「断言はできませんが、ワクチン接種により血栓が増えることが報告されています。接種後の血栓で生じる脳梗塞や心筋梗塞などが循環器系疾患の死因となる可能性があります。またワクチンによって免疫全体が下がるとのデータもある。それをきっかけとして老衰による在宅死が増えたのかもしれません」(森田さん)
日本人の最大死因であるがんに目立った超過死亡は見られないが、森田さんは今後に不安があるという。「ワクチン接種後にがんの進行が速くなった事例があることは確かです。ワクチン接種とがんの因果関係は不明ですが、ワクチン接種後に免疫が落ち、がんが悪化することが心配されます」。
※女性セブン2023年1月5・12日号
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
2番目のショッキングなニュースでは、ワクチン接種後に亡くなった遺体の体温が非常に高く、ワクチン投与が免疫異常に関与していた可能が指摘されました。
ワクチン接種後に死亡「遺体の体温が非常に高かった」医師からの指摘も…遺族は厚労省に調査を求める
(CBCスペシャル「報道のチカラ」2022年12月17日)(一部抜粋)
コロナワクチン接種後に死亡したのは、2022年11月末までに1910人。しかし国はそのほとんどを「評価不能」と結論づけています。
ワクチン接種後に亡くなった遺体の「ある共通点」
ワクチンと死亡との因果関係を研究する医師もいます。長尾医師が注目したのは、ワクチン接種後に亡くなった遺体の「ある共通点」でした。遺体の体温が「非常に高かった」
「最初の時に気になったのが、警察が検死をした時に遺体の体温が非常に高かったと。33度とか34度とか普通じゃ考えられないような温度だった」
通常、検死をする段階では体温は20度台以下ですが、長尾医師が解剖した4人の遺体はいずれもまだ30度台だったのです。「死亡時の体温が非常に高かった。平熱を超えてそれこそ40度を超えるような」。
4人の死亡時の体温は42度から44度前後と推定。長尾医師の研究チームは遺伝子の状態を調べました。この数字は遺伝情報の変化を示すもの。それをグラフ化すると、もっとも強く出た反応は免疫系統の異常だったのです。「特に炎症関係の反応が強く出ていることがわかった。免疫の応答を調節することがうまくできなかったことを示唆している」
長尾医師の仮説は、ワクチンによって免疫に異常が起きて体内に炎症が広がり、体温が40度以上に上がったというもの。そのことが死因とは結論付けられませんが、ワクチンと免疫の関係はさらに研究が必要だと長尾医師は考えています。
「免疫反応に関係する遺伝子が非常に高進していた。データから、あるいは状況からだけでは黒とは言えないが白でもない。やはりグレーとしか言いようがないが、十分ワクチン投与が免疫異常に関与していた可能性はあると考えている」
★☆★☆★☆★☆
私は陰謀論に与する反ワクチン派ではありません。リスクを伝えることなく、マスコミとともにワクチン接種を一方的に進める政府に対して異議を唱えているのです。「ワクチンには○●○●○●のリスクがあります、○●○●○●の事例もあります。しかし、政府としては重症化を防ぐという効果も確認させることから、ワクチン接種を奨励したいと思います。ただし、それは強制ではなく、接種するしないの判断は、国民の皆さんお一人お一人の判断にお任せします」と言ってもらいたいのです。
<関連投稿>
誤りだらけだった?NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終わりました。人気脚本家の三谷幸喜さんが手がけただけあって、笑いあり涙ありと楽しく見させていただきましたが、小学生の時から、大河ドラマから歴史を学んできた私にとって、三谷作品にはやはり懐疑の念を持ってしまいました。それは、史実と違う内容が余りにも多かったからです。大河「ドラマ」ですから、史実をアレンジすることは一向に構わないのですが、それでも……。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映期間中は、途中から番組が終わるたびに史実を確認しながらこの時代を勉強させてもらいました。「鎌倉殿の13人」の史実との違いについては、プレジデント社もネットへの投稿記事で指摘されていたので、それをいくつか紹介しながら「疑惑」を明らかにしてみたいと思います。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
鎌倉時代の最大の見せ場の一つは承久の乱に際しての北条政子の言葉でしょう。史上初の武家政権の基盤は「御恩と奉公」の関係です。頼朝から所領を与えてもらった御恩に対して御家人が奉公するという双務的な関係こそが、鎌倉幕府の存立と発展のキーワードです。これを如実に示すのが政子の演説(実際は代読)です。
このシーンを三谷幸喜さんは、御恩の「ご」の字も奉公の「ほ」の字も出すことなく、弟(義時)を思う姉(政子)に感動した御家人たちが奮い立って、朝廷軍と戦うという風に仕立てました。
―――――――
NHK大河ドラマとはまったく違う…尼将軍・北条政子が御家人たちの前で史実として伝えたことドラマでは弟・義時を擁護する演説をしていたが…
(PRESIDENT Online、2022年12月18日)(一部抜粋)
承久の乱を前に、北条政子は御家人たちに何を話したのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「史料によれば、源頼朝の御恩を切々と説き、朝廷側についた武将を討てというものだった。大河ドラマで描かれたような、弟・義時についての発言はなかったはずだ」という――。
史料に残る政子の行動
鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』には、政子の演説の言葉が掲載されていますが、自ら語りかけたわけではありません。安達景盛(頼朝に仕えた安達盛長の子)に代読させています。政子は御簾の中にいたと思われます。
ドラマの政子演説であったような「この人(義時)は生真面目なのです。すべてこの鎌倉を守るため。一度たりとも私欲に走ったことはありません」「選ぶ道は二つ。未来永劫、西のいいなりになるか、戦って坂東武者の世をつくるか。ならば、答えは決まっています」との文句は『吾妻鏡』には当然ありません。
「鎌倉殿の13人」では、姉・政子が弟・義時を守るため、演説したようにも見えましたが、そんなことはなかったのです。『吾妻鏡』における政子演説の軸は、源氏将軍の御恩を説き、御家人を感奮・出撃させ、院方の首謀者である藤原秀康、三浦胤義(たねよし)らを討ち取ることにありました。そこで、弟・義時の命うんぬんの言葉が出てきたら、おそらく、御家人たちは白けてしまった可能性もあります。
―――――――(一部抜粋ここまで)
(実際の政子の有名な「演説」内容)
皆、心を一つにしてよくお聞きなさい。これが今度の最後の命令です。頼朝様の恩は山より高く、海より深いものです。感謝の気持ちは浅いものではないはず。それなのに、逆臣の告げ口のために、道理の通らない朝廷の命令が出ました。侍としての名誉を守ろうと思う者は、足利秀康や三浦胤義を討ち取って、鎌倉を守りなさい。但し、朝廷側に付きたいと思う者は、今、この場で宣言しなさい。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「鎌倉殿の13人」の中で、北条義時の最初の妻「八重」は、源頼朝との間に子をもった女性で、義時と八重の間に後の3代執権泰時が生まれたという設定でしたが、これは大半の歴史家から否定されています。三谷さんはごく少数派の説に飛びついたのだと思われます。
――――
NHK大河ドラマだから描けること…源頼朝の最初の妻「八重」をめぐる三角関係の歴史的事実ドラマでは「北条義時の初恋相手」とされているが…
(PRESIDENT Online、2022年4月24日)(一部抜粋)
ドラマでは、義時の初恋の相手として、八重(新垣結衣)という女性が登場する。
八重の父親は、伊豆国伊東荘の豪族・伊東祐親(すけちか)とされている。当時、伊東祐親には娘は4人いたという。この三女(一説には四女)と源頼朝とが恋愛関係となり、日が経つうちに、男子が誕生。
祐親は家を守るために、非道の決断をする。娘・八重の元に使いの者を遣わし、千鶴を誘い出した上、川に沈めてしまったのである。さらに祐親は、八重を頼朝から奪い返し、伊豆国の武士・江間次郎に嫁がせてしまったのであった。八重は…頼朝との関係を引き裂かれ、子供を親に殺され、再嫁した夫も戦死する。
それまでに、義時と八重に面識があったか否かは分からない。
少なくとも、ドラマあるような幼い頃からの親密な関係であったとは、史料には全く書かれていない。
さらに義時が八重のことを好きだったという証拠もない。
義時と八重が結婚し、鎌倉幕府第2代執権となる北条泰時を生んだというが…2人の間に子供が生まれた史実はない。
もちろん、ドラマである。例えば、義時が八重と結ばれて、泰時が生まれるという設定にするのは何も問題はない。
ただ、毎回番組の終わりに放送される「鎌倉殿の13人紀行」(4月3日)のなかで「義時の妻となった八重」とのナレーションがあったのには驚いた。このコーナーはドラマではなく、あくまで史跡探訪。そこにおいて「義時の妻となった八重」と確立された史実のように話すのは、いかがなものかと感じた。
――――――(一部抜粋はここまで)
では、実際の八重はその後どうなったかというと、千鶴丸を殺されたことや頼朝が政子と結婚したことを嘆き悲しんだあまりに入水自殺したとみられています。ですから、大河ドラマで描かれていたように、八重が義時と結婚したとか、頼朝の御所に勤めたという事実は限りなくなかったと思われます。なお、「鎌倉殿の13人」において、北条義時の妻・八重は、川に流されそうになっている鶴丸という男の子を助けようとして、急流に足を取られ、溺死しています。
一方、3代執権泰時の母は誰かというと、阿波局という御所に仕える官女だと広く認められています。つまり、三谷幸喜さんは、八重と阿波局を同一人物と見立てて描いたいのです。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
次の紹介する「史実と違うのではないか」と疑われる点は、今回、三谷幸喜さんが採用した、三浦義村・実朝暗殺黒幕説と、後妻・のえによる義時毒殺説です。これまでの2点と違って、歴史的にも確かに存在した説なのですが…
NHK大河ドラマは史実とはあまりに違う…北条義時の盟友・三浦義村が本当に考えていたこと、幕府の乗っ取りを狙っていたとは考えにくい
(PRESIDENT Online、2022年12月18日)(一部抜粋)
鎌倉幕府2代執権・北条義時を支えた三浦義村とはどんな人物か。歴史評論家の香原斗志さんは「史実をみれば、一族の存続を第一に考えていた武将だ。そのために、義時に近づき、どんな仕事でもこなした。NHK大河ドラマで描かれたように、打倒北条の機会ばかりをうかがっていたとは考えにくい」という――。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山本耕史演じる三浦義村に存在感があった。ドラマで印象的だったのは、北条義時の盟友として(血縁上も従兄弟だ)、ともに幕府を支えながら、あわよくば三浦が北条にとって代わろうとチャンスを狙っている姿だった。しかし無理はせず、まずは三浦一族が存続することを優先する。
大河ドラマでは、義村は2代将軍頼家の遺児である公暁から事前に、実朝を暗殺して自分が将軍になるという計画を相談されていた。しかも、それに協力する旨を伝えていた。いわば、公暁の黒幕に義村がいたように描いていたが、現実には、これまで危ない橋をことごとく避けてきた義村が、そんな計画に乗ったとは到底思えない。
―――――――(一部抜粋)
ちなみに、大河ドラマでは、実朝を討った公暁は、義村によって首をはねられましたが、実際は、義村が遣わした家人と争った末、討たれたというのが正確な史実のようです。
NHK大河ドラマとはまったく違う…史料に書かれている2代執権・北条義時の本当の死因ドラマでは後妻・のえによる毒殺と描かれたが…
(PRESIDENT Online、2022.12.24)
鎌倉幕府2代目執権・北条義時の死因はなんだったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「史料には、体調不良による病死と書かれている。NHK大河ドラマで描かれたような毒殺だとは考えにくい」という――。
史実に残された義時の本当の死因
1224年6月13日、鎌倉幕府の第2代執権・北条義時は、この世を去ります。62歳の生涯でした。
義時を死に至らしめたものはなんだったのか?
『吾妻鏡』は、「日者脚氣之上、霍乱計會す」と記しています。つまり、義時は日頃から脚気(かっけ)を患っていたというのです。それに「霍乱」(夏季に生ずる下痢や嘔吐を伴う体調不良)が加わる。それこそ、義時の死因だと『吾妻鏡』は記しています。
義時はどのような死を迎えるのか?妻・伊賀の方(ドラマでは「のえ」)による毒殺でした。
のえは、義時の嫡男・泰時ではなく、自分が産んだ義時との子・政村に家督を継がせたい。それが動機だと描かれました。
伊賀の方による毒殺はあり得ない
伊賀の方が我が子・北条政村を執権にしたいと考えた時、一番頼りになるのは、夫の義時だったはずです。最大の頼みの綱・義時を毒殺することは、政村の執権就任をかえって遠ざけることにつながるといえるでしょう。余談ですが、大河では毒の入手先を義時の盟友である三浦義村としていましたが、史実ではありません。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
最後に、そもそも、大河ドラマのタイトル「鎌倉殿の13人」にあるように、2代将軍・頼家を牽制するために、13人の有力御家人が集まって、合議制で政治が行われたのか、という根本的な問題(疑問)についてみていきます。
――――――
NHK大河ドラマは根本的に間違っている…「鎌倉殿の13人の御家人」が史実としてやったこと、「日本の歴史上、初めて合議制で政治が動いた」は本当か
(PRESIDENT Online、2022年7月24日)
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が亡くなった後、幕府はどのように政治を動かしていたのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、2代将軍・頼家と、13人の有力御家人による権力争いが描かれているが、これは史実と異なる」という――。
「13人の家臣が集まり、日本で初の合議制をした」は本当か
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第27回「鎌倉殿と十三人」(7月17日放送)で、主人公・北条義時をはじめとする御家人13人が集結し、2代将軍・源頼家に「13名でございます」と紹介した。これに対し、頼家は自らの側近衆を紹介。義時らが形成した「13人」を牽制する挙に出た。頼家と有力御家人たちの利害が対立する様子を描いている。
脚本を担当した三谷幸喜さんは、ドラマのPRで作品の意図を次のように書いている。
「『鎌倉殿』とは、鎌倉幕府の将軍のことです。頼朝が死んだあと、2代目の将軍・頼家という若者がおりまして、この頼家が2代目ということもあって、『おやじを超えるぞ!』と力が入りすぎて暴走してしまう。それを止めるために、13人の家臣たちが集まって、これからは合議制で全てを進めよう、と取り決めます。これが、日本の歴史上、初めて合議制で政治が動いたという瞬間で、まさに僕好みの設定です」
鎌倉幕府内の13人の有力御家人(これが、「鎌倉殿の13人」)が、頼家を牽制するために、皆で寄り集まって、会議をし、政治を進めていく。これが、いわゆる「十三人の合議制」なるものだ。しかし、この合議制は存在しなかったというのが私の考えだ。
頼家の権力を奪っていたわけではない
幕府を開いた源頼朝は、建久10年(1199)1月に突如、死去する。頼朝の後継者は、長男の頼家である。頼朝が亡くなった同じ年の4月、『吾妻鏡』(鎌倉時代の後期に編纂された歴史書)には次のような一文が見える。
「訴訟のことについて、頼家が直接、判決を下すことを停止する。今後、大小のことにおいては、北条時政、同義時、広元、康信、親能、義澄、知家、義盛、能員、盛長、遠元、景時、行政らが相談して決めること。そのほかの者は、訴訟のことを容易に頼家に言上してはならない」(『吾妻鏡』の地の文)と。
この文章は、それこそ、冒頭の三谷さんの言葉のように、頼家の権力を剝奪し、13人の有力御家人が合議によって政治を前に進めようとしたものと解釈されてきた。
しかし『吾妻鏡』の文章をよく見てみると、13人以外の者が「訴訟のことを容易に頼家に言上してはならない」とあるように、頼家の訴訟への介入を全否定したものではない。ただ、頼家に訴訟のことを言上できる対象を13人に限ったというだけの話である。
それを証明するかのように『吾妻鏡』には、この記述以降も、源頼家が訴訟に介入する事例が存在するのだ。
…この問題は、三善康信を通して、頼家のもとに持ち込まれた。頼家は、差し出された境界付近の絵図を見ると、急に筆をとり、墨で絵図の真ん中に線を引いてしまう。そして、こう言い放つのだ。
「土地の狭い広いは、その人の運不運だと思い諦めよ。わざわざ使者を出して、現地を調べる必要もない。今後、境界争いは、このように結審する。だから、そのつもりでいよ。それがダメだと思うような者は、裁判を起こさないように」と(『吾妻鏡』正治二年=一二〇〇年五月二十八日条)。
頼家の言動が正しいか否かは別にして、彼は力強く、訴訟に介入している。それどころか、「鎌倉殿の13人」の一人、三善康信が頼家に訴訟を持ち込んでいるのだ。
この事例を見ただけでも「頼家の暴走を防ぐために、13人の家臣たちが集まって、これからは合議制で全てを進めようと取り決めた」わけでもないし、そうした実態があったわけでもないことが窺えよう。
北条一門や有力御家人らが集まって、会議をすることはあったが、いわゆる「鎌倉殿の13人」全員が集まって、合議したとする史料は現時点では存在しない。よって「鎌倉殿の13人」(十三人の合議制)なるものは存在しなかったと言えよう。
――――(一部引用ここまで)
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
以上、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で、史実と異なる点を指摘したプレジデント社(PRESIDENT Online)の投稿の一部を紹介しました。
これらの史実と異なる脚本は、歴史を楽しみたいと思ってみる人たちにとっては、ドラマですから何の問題もないのですが、歴史を学びたいという人たちにとっては、もし脚本が史実と異なるなら、正しい歴史を知っておく必要があるでしょう。
三谷幸喜さんは一流の脚本家ですが、歴史を扱うときには「歴史」をもう少し尊重していただきたいと思います、と大脚本家に対して、一介の大河ファンが、「苦言」のようなものを呈するに至ったのは、三谷さんが脚本された大河ドラマ「真田丸」の時の「トラウマ」があったからです。
「真田丸」の最終回で、真田幸村が最後、佐助の介錯で自害する場面があったのです!あれは「完全に嘘だ」、「歴史の冒涜だ」と憤慨した記憶があります。まるで、大昔、お正月の民放の歴史ドラマで、千葉真一さん扮する明智光秀が、本能寺の変で、(千葉さんの代名詞ともいえる)柳生十兵衛ばりに信長を切り捨てるというシーンをみたときと同じ感情でした。
大河ドラマから歴史を学びたいと思っている視聴者のために、NHKさんには、今後、大河ドラマの放送終了時に毎回、「この番組はドラマであり、史実と異なる場合があります」的なテロップを入れて頂きたいと思います。
黒田の憂鬱:ようやく認めた?異次元緩和の失敗
現在、日本を襲っているインフレは円安が一因とされ、その円安の背景に、日銀の金融緩和政策の継続と、それに伴う日米金利差の拡大があります。これに対して、黒田東彦率いる日銀は、これまで動こうとしませんでしたが、黒田総裁は、2022年12月20日、長期金利の上限を従来の0.25%程度から0.5%程度に変更すると発表しました。
これを受け、市場では実質的な利上げ(金融引締め)と動揺が走りましたが、黒田総裁は「いわゆる金利引き上げだとか、金融引き締めではない」と述べ、安倍政権のアベノミクスから貫いた異次元の金融緩和を維持する方針に変わりはないと強調しています。黒田総裁、肝いりの異次元の金融緩和政策について考えます。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
日米金利差の拡大が引き起こした円安
総務省によると、2022年11月の消費者物価指数(生鮮食品を除く、コアCPI)は前年同月比3.7%上昇、第2次オイルショック後の1981年12月以来、40年11カ月ぶりの上昇率となるなど、私たちの日常生活に大きな影響を与え続けています。欧米ではさらに深刻で、インフレ率は10%を超えており、今回のインフレは世界規模で進む歴史的な物価高騰となっています。この影響で、電気・ガスや食料品、原材料、輸送費など幅広い分野の値上げが国民に襲いかかっており、ウクライナ情勢次第ではエネルギーや穀物の価格が一段と上昇する可能もあります。
このインフレ対策として、欧米、特にアメリカの中央銀行に相当するFRB(連邦準備制度理事会)は、大幅な政策金利の引き上げに踏み切り、その動きを加速させました。これに対して、黒田東彦・日銀総裁は、円安是正のための金融政策を見直す(金利を引き上げてインフレを抑える)考えがありませんでした。
世界中どの国も金利を引き上げて、物価を下げようと努力している中、黒田日銀だけが異例の金融緩和策を維持し、他の中央銀行とは異なる独自路線を邁進した結果、とりわけ日米の金利差が拡大しました。
金利差が広がれば金利が高いところにお金が流れるのは自然の成り行きです。投資家にとっては、金利の高いドルで資金を運用した方がより多くの利益が出るので、金利の低い円を売ってドルを買う動きが強まり、円安になっているのです(円売り/ドル買い⇒円安/ドル高)。
異次元緩和の継続
では、黒田総裁はどうして、こうした状況を受けても、金融緩和の継続に固執しているのでしょうか?この理由を、昨今のインフレによって利上げを求める声が高まったことに対するこれまでの黒田総裁の発言などから推測してみましょう。
まず、黒田氏の現状認識について、「輸入物価の上昇は円安というより、ウクライナ情勢でエネルギーや穀物など資源価格が一段と上昇する影響の方が圧倒的に大きい」と発言しています。
確かに、輸入物価の上昇は、ウクライナ情勢の影響を方が大きいことは間違いありませんが、輸入物価の値上がりを通じて商品や原材料価格が割高となるなど、家計や企業に与えるマイナスの影響が、円安の加速とともにより深刻になっていることは、日々の生活感覚から誰もがわかる事実です。
円安はプラス
また、黒田総裁は、次の発言から、円安が経済にとってプラスであるとの旧態依然の考えに固執しているようです。「円安には輸出企業の収益を拡大させるメリットも大きく、円安が全体として経済・物価をともに押し上げ、日本経済全体にとってはプラスに作用しているという基本的な構図は変わりない。」
かつては、円安になれば輸出価格が割安になって、輸出の拡大につながるといわれてきましたが、企業が海外での現地生産を増やした結果そのメリットは薄れています。「円安は中小企業にはメリットはほとんどない」という財界人も多くいます。
黒田総裁が繰り返す「円安はプラス」は、トヨタ自動車など大手輸出企業にとってプラスなのであり、実際、輸出製造業は、アベノミクス(安倍―黒田ライン)の株高を牽引してきました。日本がマクロ経済や為替政策を制定する過程で影響力を持つ重要な経済団体責任者の多くは、輸出に関連する製造業に従事していると指摘されています。
アベノミクスの柱が大胆な「金融緩和政策」だったことからもわかるように、安倍政権と二人三脚でやったきた日銀総裁も、彼らの利益を代弁したのかもしれません。しかし、大手輸出企業が潤っている間にも、私たち庶民が物価高で生活がどんどん苦しくなっています。現在、円安は日本経済全体にとってプラスに作用している基本構造ではないでしょう。
日銀総裁は、庶民の心を理解していないことは、今年の6月の講演で「日本の家計が値上げを受け入れている」と発言したことに対して、ネットで叩かれ「釈明」を強いられたことに如実に表れています。人々が物価高に悲鳴をあげていた頃のこの発言は、何かの経済統計の結果から導き出したようですが、黒田氏が、データとか理論だけを振りかざす「机上のエコノミスト」と同じレベルだったとは信じたくはありません。
上がる物価と上がらない賃金
加えて、黒田総裁が金利を低く抑え続けることが必要だとしているもう一つの理由は、日本の物価高は、アメリカとは異なり、景気の回復と賃金の上昇をともなっていないことにあります(もっとも、現在のアメリカは、物価が上がり過ぎて、賃上げが追い付かないという問題を抱えている)。賃金が十分に上がらず物価だけ上がる状況は、景気にマイナスの影響をもたらす恐れがあるとして、黒田日銀は金利を低く抑え続けることが必要だとしています。今の物価上昇は、黒田総裁がめざしている「経済が力強く回復したことによる物価の上昇」ではないのです(その意味で現在の物価上昇は「悪い物価上昇」と呼ばれている)。
これは、日本とアメリカのインフレの要因が異なることからくる結果です。日本の物価上昇は、アメリカのように、需要が高まってインフレになるディマンド・プルインフレではなく、費用の増大に伴い物価が上がるコスト・プッシュインフレによるものです。
アメリカの場合、物価上昇というマイナスの側面がある反面で、景気拡大というプラスの面があり、21年4月以降、経済成長率が顕著に高まりました。これに対して、日本は、21年10月以降は、輸入物価が上昇したことにより、産出量が減り、経済成長率も顕著に低下していきました。むしろ、成長率がマイナスにならなかったのは、コロナからの回復期待に伴う消費の増大など景気を下支えたと解されています。
だた、前述したのように、日本の場合に物価上昇が欧米諸国ほど激しくありません。通常、景気がよくなり失業率が低下すると、物価と賃金が上昇するという関係が見いだされます。しかし、日本では2000年以降、こうした相関関係が見られなくなり、産出量が増加しても(景気がよくなっても)、欧米と比較して、物価と賃金がそれほど上がっていません。
日本では長年、企業がコスト高を価格に反映させず(物価は上がらず)、人件費などで圧縮させる(賃金は上がらない)傾向がありましたが、今回のインフレ局面では、こうした企業努力も限界で、多くの企業で賃金は据え置かれたまま、物価は軒並み上昇している状況です。
また、特に賃金に関しては、相対的に賃金が低い非正規雇用が増え、労働市場が正規労働者と非正規労働者で二分されていることなどが原因で、低く抑えられています。これは労働市場の構造的な問題であり、この問題をマクロ的な金融緩和政策で解消できるものではありません。
10年経っても成果を出せない異次元緩和
ここまで、政策の視点から、黒田総裁が、金融緩和の継続を訴える理由をみてきましたが、それ以上に、黒田氏のプライドとメンツが関係しているように思われます。
2013年3月に日銀総裁の地位に就いた黒田東彦氏は、長引くデフレ脱却のために「2年で物価上昇率2%の実現」を目標に掲げ、「黒田バズーカ」ともてはやされた大規模な金融緩和政策(量的質的金融緩和政策)を採用してきました。景気浮揚を促す金融緩和は金利を引き下げ、円安・株高を誘引させ、特に、大手輸出企業は高収益と株高の好循環を実現してきました。
しかし、実体経済の方は、2年間での達成を目指した目標は果たせなかったどころか、「異次元」の金融緩和の導入から10年が過ぎようとしていますが、いまだに実現していません。
この間、日銀は、ゼロ金利政策とともに、量的・質的金融緩和政策を拡大させ、マイナス金利政策、さらには、10年国債の利回りをゼロ水準に誘導する、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和(イールドカーブ・コントロール)」を継続させ、現在に至っています。しかも、黒田総裁は、「物価目標を達成するまで続けると約束し」強気の姿勢を崩しませんでした。
10年かけても2%のインフレ目標は実現できないまま、黒田総裁が金融引き締めに転換すれば、自己否定につながり、晩節を汚すことになるだけでなく、同時に、アベノミクスも失敗であったことを認めることになってしまいます。
持続的な物価上昇が根付くにはそれを上回る賃上げが不可欠で、政府・日銀が掲げる2%の物価安定目標を達成するには、毎年3%程度の賃上げが必要だと試算されています。国内で最後に3%の賃上げが実現したのは、バブル末期の1990年代初めまで遡らなければならないそうですから、達成は難しいと見られています。
あくまで金融緩和政策の継続に固執する、今の黒田総裁は、医師が、患者さんにある薬を処方しても効かないから、投薬量を増やして、治るまでその薬を使い続けようとする「やぶ医者」の行為と同じことをしている印象を受けます。
薬は効かなければ変えないといけません。人は、投薬治療を続けると、たとえ正しい処方であったとしても副作用を起こし、誤った処方であれば死に至らしめることさえあります。10年に及ぶ異次元の金融緩和政策によって、日本経済も最近では副作用が次々と表面化しています。
例えば、成長できる力を測る潜在成長率と呼ばれる統計があります。NRI(野村総合研究所)によると、この日本経済の潜在力を測る指標は、日銀が現在の異例の金融緩和策を導入した2013年頃からほぼ一貫して低下し、現在ではほぼ0%となっています。異例の金融緩和が、成長を促進させるどころか、潜在成長率の低下も食い止める力も発揮しなかったことを示しています。
需要制約から供給制約へ
そんな中、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う港湾労働者の不足や、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発したことによる資源価格が高騰し、日本の物価上昇率は2%を超えてきました。物価上昇が、日銀が長年実施した金融緩和政策の結果ではなかったのは皮肉な結果です。しかも、前述したように、足元の物価上昇は原油や穀物高など輸入コスト上昇によるもので、黒田総裁がめざす、持続的・安定的な物価上昇とはほど遠いものです。
これまでデフレ脱却を目標として行われた黒田日銀による金融緩和政策は、需要不足からきたものでしたが、今回、新型コロナウイルスの世界的感染の拡大や、ロシアによるウクライナ侵攻などを起因とする供給制約の問題です。
デフレ脱却のための政策を、今のインフレの時代にも適用させようとするのは無理があります。経済の潮目が変わったにもかかわらず、黒田総裁は「短期金利をマイナス、長期金利を0%程度(変動許容幅の上限を0.25%)」とする、これまでの金融緩和政策を変更することを頑なに拒否してきました。
金利引き上げの時
しかし、こうした背景下、今、黒田日銀がとるべき対応は金利上昇容認で、異常な低金利状態から、金利を正常化させることです。
円高でインフレ抑制
物価上昇(インフレ)の問題は、輸入物価高騰からきており、これを引き起こしている一因が戦争と円安です。日銀はウクライナ戦争による供給障害には対応できませんが、円安には対処できます。円安が特に日米の金利差からきているのであれば、金利上昇を容認することによって、為替レートは円高になり輸入物価の上昇は抑えられます。
もちろん、金利上昇の容認は金融引き締めになってしまうため、景気には悪影響を与えます。一般に考えられることが、金利上昇によって、企業の設備投資が抑えれるというものですが、最近の日本では、設備投資は金融機関からの借り入れというよりは、日銀の金融緩和政策の恩恵で、ため込んできた内部留保で賄われている場合のほうが多いから、その影響は限定的になるとの指摘もあります。逆に、むしろ、円高を通じて、輸入物価が下がることによって、原材料費や光熱費の負担が抑えられると同時に、産出量が増え、経済を拡大させることになるのです。
こうした背景から懸命な識者やエコノミストは、政策金利(短期金利)を現状の-0.1%から引き上げてマイナス金利政策を解除し、また、長期金利(10年国債の利回り)のコントロールをやめ、上昇を一定程度容認する政策調整を行うことを提言していました。
そして、今回、黒田総裁は長期金利の上限を従来の0・25%程度から0・5%程度への変更を認めたことは、金利の正常化に向けての第一歩であり歓迎すべきことだと思われますが、当のご本人は「金融引締めではない」を繰り替えしています。
超低金利の日常
もちろん、金利引き上げに対する懸念は山ほど指摘されています。例えば、1000兆円を超える国債残高への影響が懸念されています。財務省は、金利が1%上昇すれば、国債の元利払いに充てる国債費は3.7兆円上振れする、と試算しています。また、長期金利が0.1%上昇すれば、国債の利払いが毎年1兆円も増えるという別の試算もあります(今回の変更のように長期金利が0.25%から0.5%まで上昇すれば、毎年2.5兆円の負担が増えることになる)。
しかし、冷静な専門家は、この程度の国債費の増加で、一気に財政危機が起きるものではない、仮に、政策金利を+0.1%程度まで引き上げたぐらいで、そうした事態は起こらないとみています。むしろ、政府が大規模金融緩和に便乗して、財政支出を野放図に増やし続けた「副作用」の方を問題視しています。
また、金利の上昇で懸念されるのは、住宅ローン金利の負担増加です。日銀の資金循環統計によれば、住宅ローンの融資残高は、マイナス金利が導入された2016年以降に増加傾向が強まり、過去10年間では40兆円ほど増えたといいます。
こうした異次元緩和の恩恵者にとって、長期金利が上昇していけば、今後住宅ローンの破産予備軍が増えていくことが懸念されています。しかし、住宅ローンを抱えている家計にとっても、金利の上昇で円高に振れ、輸入物価の低下によってインフレが抑えられる利点のことを忘れてはいけません。何より、預金に利子がついて、家計を助けてくれます。むしろ、超低金利が長く続いたため、金融機関の中には返済計画が緩い融資を実行していたところもあるというような「副作用」の方がやはり問題です。
これらの懸念は、政府も金融機関も国民も、異常な低金利に馴れてしまったことからきています。金利は低金利でないと、つまり現状の金融緩和状態が継続されなければ、社会が回らない日本経済となってしまったのかもしれません。薬漬けにされている人は、もはやその薬なしには生きていけなくなるのと同じです。もし、その薬が本来必要のないものであったとしたら、なおさらです。
正常な社会で金利はプラス
金利は本来、プラスであるのが当然で、おカネを預ければ利子がもらえ、おカネを借りれば利子を払うのが当たり前です。マイナス金利が適用される社会というのは、当たり前でないいびつな構造になってしまっています。
今回の日銀の発表を受けて、「長期金利1.0%」といった時代が来るかもしれない、という意見がありますが、黒田氏が日銀総裁に就任する前であれば、長期金利1.0%も政策金利+0.1%も(超)低金利の水準でした。
異次元緩和は、緊急時の処方箋で、それを10年続けることは、冷静に考えれば、異常なことなのです。2年で達成の目標が実現できなかった次点で、修正が必要でしたし、その後も継続されたとしても、少なくとも出口戦略は立ておくべきでした。
今回のインフレは、金利を元の正常にもどす絶好のチャンスですが、ここまでの段階で黒田総裁は意固地になって、政策の継続続けようとした結果、そのチャンスは逃してしまいました。いたずらに、引き延ばしつづけた黒田総裁の「罪」は重く、日銀の長すぎた超金融緩和の後始末は、今後長期にわたって続きます。
日本銀行の黒田東彦総裁が任期満了を迎える2023年4月までに、少なくも、マイナス金利政策の解除と、イールドカーブ・コントロールを廃止によって、金利水準をできるだけ正常化させることが、後世の世代への罪滅ぼしになります。
まとめ
私たち庶民はインフレに苦しめられています。ですから、その要因となっている円安対策も含めて、金利の引き上げ正常に戻すことが肝要です。金利が正常に戻れば、日々の生活の物価が下がり、私たちは預金から利子収入を得ることができます。
ただし、これには時間がかかります。その間、政治の出番で、税制や補助金など財政出動が必要です。これに対して財政赤字を増やすと批判されるかもしれませんが、金利の正常化は円高による輸入物価の安定を及ぼし、これによって、生産が拡大し、景気も回復、税収は増加していくのです。
ですから、今、防衛費のための増税などありえません。優先順位は、インフレの収束と国民生活の安定が先です。それでも防衛体制の充実がすぐに必要というなら、その財源は増税でなく国債です。
<参照>
ついに「黒田バズーカ」炸裂!日銀「大転換」でゾンビ企業とマンション住民を襲う「借金地獄」の厳しすぎる現実
(2022.12.26、現代ビジネス)
異次元緩和「日本の実態に合わない」元日銀理事が斬る
(2022/10/6、毎日新聞/岡大介)
日銀は円安進行にどう対応すべきか
(2022/07/19、NRI)
日本銀行の正常化策は経済悪化、財政危機を招くか
(2022/07/20、NRI)
絶望の円安136円…国民軽視「鬼の日銀」が絶対に利上げしない3つのワケ
(2022.06.27みんかぶ/佐藤健太)
止まらない円安~日銀のジレンマ
(2022.04.12、NHK解説室)
日本のインフレ対策には「金利上昇の容認」が必要な理由、マクロ経済学で解説
(2022/09/08、Diamond online 野口悠紀雄)
「反日の権化」江沢民の死と対中外交の失敗
中国の江沢民・元国家主席(以下敬称略)が、2022年11月30日、96歳で死去し、翌12月6日に、北京の人民大会堂で、追悼大会が行われました。江沢民時代の日中関係について顧みたいと思います。
★☆★☆★☆★☆
日本での江沢民に対する見方は、「天安門事件で失った国内の求心力を回復するため『反日』を利用することで、愛国主義教育を推進し、中国国民の反日感情を高めつつ、歴史問題をカードに対日強硬外交を展開した」というのが一般的です。その影響は、未来志向が期待された日中関係を後退させ、現在の両国関係にも禍根を残したと評されています。
江沢民は、1989年6月の天安門事件で、時の最高指導者・鄧小平の意向を受け、中国共産党総書記( 89年6月~02年11月)に就任後、国家主席まで上り詰めました(任期:93年3~ 03年3月)。
鄧小平の掲げた改革開放政策に従い「社会主義市場経済」路線を打ち出し、中国の経済成長を加速させた一方、民主化運動を武力弾圧した天安門事件を受けて、西側諸国の経済制裁によって、中国は外交的孤立を招きました。さらに、天安門事件の半年後にはベルリンの壁が崩壊、91年にはソ連が崩壊し、共産党支配の国内の引き締めも行わざるを得なくなるなど、江沢民は難しい舵取りを強いられました。
こうした中国の対外的窮地に真っ先に手を差し伸べたのが日本で、中国が国際社会に復帰する上で、重要なきっかけを提供しました。具体的には、主要先進国では、いち早く経済制裁を解除し、91年8月に西側の首脳としては天安門事件後初めて海部俊樹首相が訪中、さらに、92年10月には天皇、皇后両陛下までも中国を訪問されたのです。当時の中国の指導者らは、「天皇訪中は制裁を打ち破る最良の突破口だった」と述懐しています。
加えて、戦後50年を迎えた95年8月15日、当時の村山富市首相は、日本の「植民地支配」と「侵略」に「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明しました。日本としては、このいわゆる「村山談話」と、先の天皇訪中で、歴史認識問題に区切りを付け、新しい日中関係を構築しようと考えたとされています。
しかし、江沢民は、村山談話の発表から間もない9月3日の演説で、「日本は真剣に歴史の教訓をくみ取り、侵略の罪を深く悔い改めてこそ、アジアの人民と世界の理解と信頼が得られる」と述べました。歴史問題を収めるつもりはないことが表明されただけでなく、「愛国主義教育運動(愛国教育)」が積極的に推し進められました。「愛国教育」とは反日教育を意味しました。
江沢民の反日愛国教育
江沢民は、旧日本軍の残虐行為を強調した抗日戦争記念館などの施設を新増設させ、とりわけ、97年には全国規模で組織的に実施されるようになりました。中国人民抗日戦争記念館(盧溝橋)、侵華日軍731細菌部隊罪証陳列館(ハルビン市)、侵華日軍南京大虐殺偶難同胞記念館(南京市)、東北淪陥史陳列館(吉林省長春)などが有名で、こうした史跡は「愛国主義教育模範基地」に指定され、全国各地の学校で愛国教育が強化されました。
作家でジャーナリストの青沼陽一郎氏は、JBpressの記事 “江沢民、中国に「反日教育」深く浸透させた男”(2022.12.5)の中で、東北淪陥史陳列館について詳しく紹介しています(以下にその内容を要約)。
――――――
東北淪陥史陳列館には、日本の中国侵略の歴史を伝える「日本侵略中国東北史実展覧」が江沢民によって常設された。この展示場の入口に「「日本が中国人のもたらした苦難と屈辱、忘れてはならない」と掲げられ、さらに、説明文として、「日本が武力で中国東北を侵略・占領して偽満州国をつくり、植民地支配を行って東北人民を奴隷化し、資源を収奪すること14年の長きにわたった」 などと書かれているという。
この展示場内では、「文化」「教育」「宗教」などとテーマ別に、日本がこの東北の地をいかにして侵略し、「偽満州国」を建国して、どれだけ酷いことをしてきたかを示すコーナーが続いている。
例えば、「文化」についての解説では、「植民地支配を維持・強化するために、日本侵略者はあらゆる方法で中国固有の思想を破壊し・…」と続き、「実行 白色恐怖」というコーナーでは次のように説明されているという。「東北の人民には人身の自由と言論の自由は全くなく、少しのことにも嫌疑をかけられ、逮捕監禁されることになり、いわゆる“思想矯正”を受けたり、さらには殺害さえされた。銃剣が支配する東北の大地は極度の白色テロ(為政者が反政府運動や革命運動に対して行う激しい弾圧のこと)にさらされた」。
なお、この東北淪陥史陳列館は、満州国最後の皇帝だった溥儀の皇宮に隣接しており、その皇宮の真ん前にも、「9・18を忘れるなかれ 江沢民」と書かれた石碑が置かれている。「9・18」とは満州事変のきっかけとなったとされる柳条湖事件のあった日付を指す。
――――――
こうした江沢民が進めた「反日教育」の一環で、「反日施設」が中国全土に建設されて、学校でも徹底して教育されたということは、当時の教育を受けた若者たちが何億人もいることを考えただけでも末恐ろしく感じます。
また、別のエピソードで、歴史認識にこだわり続けた江沢民は、「日本軍国主義復活」を言及しては、反日の姿勢を崩しませんでした。98年8月、中国の外交当局者を集めた会議で、「日本軍国主義者は非常に残忍だった。(戦時中の)中国の死傷者は3500万人に達した」「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と指示していたと言われています(江氏の演説などをまとめた「江沢民文選」で明らかになっている)。
江沢民の「非礼」
江沢民自身も反日の権化となりました。98年11月、両国の平和友好条約20年を記念し、国家主席として初めて公式に訪日した際、執拗に日本批判を繰り返しました。とりわけ、宮中晩餐会における天皇陛下と江沢民のスピーチの「異様な」違いが特筆されます。
天皇陛下は、歓迎の挨拶の中で「貴国とわが国が今後とも互いに手を携えて直面する課題の解決に力を尽くし、地球環境の改善と人類の福祉のため、世界の平和のため貢献できる存在であり続けていくことを希望しております」と未来志向のお言葉を述べられました。
これに対して、江沢民は、天皇、皇后両陛下を前にして、あろうことか「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国国民などに大きな災難をもたらした」、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければならない」と強い口調で歴史認識問題に言及しながら日本批判を展開しました。
政治家同士の首脳会談ならまだしも、政治とは関係がない国民の象徴としての天皇陛下に招かれた宮中晩餐会の席で、日本は過去にこんな過ちをしたと「非礼」なスピーチを行ったのです。デイリー新潮(2022年12月07日)は、「常識として、どこかの家に食事に招かれた時、お前の親父にこんな迷惑を俺は受けたんだ、と言ってのける人がどれだけいるでしょうか」と、この江沢民の発言がいかに非常識だったかを強調していました。
さらに、この時の宮中晩餐会では、江沢民が黒い人民服を着用して出席したことも物議を醸しました。実際のこの時の服装は、作業服として使われることの多い「人民服」ではなく、酷似していますが、中山服(ちゅうざんふく)で、中国では正礼装(正式な服装)であり、儀礼上問題があるわけではありませんでした。しかし、中山服を着た江沢民には深慮があったようです。
有名な逸話として、鄧小平の指導の下、軍を使って民主化運動を徹底的に弾圧する側に回った李鵬首相は、中山服嫌いで知られていたにもかかわらず、威厳部隊を激励するために、黒い中山服を着て登場したそうです。中国の指導者が中山服を着用するのは、非常時の厳しい姿勢を示すときなのだと言われています。江沢民も、平時において中山服を着るのは、中央軍事委員会主席として人民解放軍幹部に訓示する場面だったそうです。
要するに、宮中晩餐会で、歴史認識問題に厳しい姿勢を示すことをあらかじめ決めていた江沢民は、「強硬姿勢」のイメージが演出できる中山服を選んだと見られています。外務省は、「何もよりによって宮中晩餐会に着てこなくても」というのが本音だったようです。
なお、この訪日中、江沢民は、首脳会談や各界との会見をはじめ、宮中晩餐、早大講演、日本記者クラブでの記者会見など、ほとんどすべての場で「過去」に言及しました。
早稲田大学での講演でも、学生を前に「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み」と指摘、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らねばならない」と宮中晩餐会と同じ趣旨の発言をしただけでなく、「日本軍国主義は全面的な対中国侵略戦争を起こし、中国は軍民3500万人が死傷し、6000億ドル以上の経済的損失を被った。正しい歴史観で国民と若い世代を導くべきだ」などと語りました。
ここまでくると、江沢民の反日姿勢は、「日本への恨みを忘れない、忘れさせない」とする怨念を感じてしまいます。
「江沢民派」の末路と遺産
江沢民は03年に一線を退いた後、自身の権力基盤である、いはゆる「上海閥」を率いた影響力を維持しようとしました。江沢民の後任の胡錦濤が後継者に、同じ中国共産主義青年団(共青団)出身の李克強を据えようとすると、江沢民は、共青団の影響力が強くなることを嫌い反対し、習近平を擁立しました。
習近平からすれば、江沢民はある意味、「恩人」に近いわけですが、習近平は、自らの権力基盤を強化するために、汚職や利権政治を排除すると銘打って、徹底した「反腐敗運動」を展開しました。その最初の標的となったのが、江沢民が率いる「上海閥」の共産党幹部たちで、江沢民の権力は完全に削がれてしまいました。
では、現在の習近平体制が、江沢民の反日を継承していないかというと、その強度の差はあれ、指導者が変わっても中国の「反日教育」は変わりません。江沢民の残した反日愛国教育の影響だけは健在なのです。そもそも、中国共産党にとって、抗日戦線こそが、中国を統治する正当性の根拠となっているので、共産党が中国を支配している限り、「日本への恨みを忘れない、忘れさせない」という反日政策は継続されます。
対中外交の失敗
そう考えると、江沢民時代の対中外交戦略は失敗であったと言わざるをえません。89年の天安門事件後、中国が直面した国際的孤立に手を差し伸べ、未来志向の外交を構築しようとした日本でしたが、結果的に、92年の天皇陛下の訪中、95年の村山談話も、未来志向の日中関係が推進されるきっかけにはなりませんでした。逆に、中国に政治利用された形になり、中国は日中関係をテコに天安門事件後の国際的孤立から脱却することに成功しました。
日本の「善意」は通じなかったわけです。日本の「善意」を中国があうんの呼吸で理解し答えてくれるとでも思ったのでしょうか?日本の「お人好し外交」もそろそろ終わりにしなければ、日本の国益を大きく損なうことになるかもしれません。
(参照)
日中関係後退させた歴史観 愛国教育で反日デモ拡大―江沢民氏
(2022年12月01日、時事通信)
江沢民死去で思い出す1998年11月26日の宮中晩さん会 日本人が不快感を覚えた中国の非礼 2022年12月07日、デイリー新潮
江沢民・元国家主席が死去 中国の反日を強化、歴史戦に火ぶた
( December 2, , Japan Forward)
江沢民、中国に「反日教育」深く浸透させた男
「忘れるなかれ、九・一八」(2022.12.5、JBpress)
愛国教育の強化、日中関係に波風が立つことも 江沢民氏死去
(2022.11.30、毎日新聞)
改めて認識したい ワクチンは100%安全とは限らない
先日、神奈川県でワクチン接種後死亡した人に数が105人いたというショッキングなニュースがありました。もちろん大手メディアは積極的にとりあげませんでしたが、このニュースを知った人たちは私を含めて久々にワクチンの安全性に注意を向けるきっかけになったように思います。
そこで、今回、ワクチン接種後の「不幸」な事件を追ってみました。こんなことをすれば、ワクチンの不安を煽ると批判を受けるかもしれませんが、逆に、政府のワクチン接種推進の方針を受けて、メディアでは、御用医師のような医療関係者の「ワクチンは安全です」という主旨の発言しか、私たちは聞かされないので、むしろ、ワクチンは100%安全ではないことを再認識するためにいい機会かもしれません。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ワクチン接種後死亡、神奈川で105人 因果関係は不明
(神奈川新聞 | 2022年11月21日)
新型コロナウイルスのワクチン接種を巡り、神奈川県は21日の県議会新型コロナ対策特別委員会で、医療機関から報告された副反応との関連性が疑われる事例のうち、接種後に死亡した県内在住者が105人いたことを明らかにした。いずれも接種との因果関係は分かっていないという。県によると、国の基準に基づくアナフィラキシー(重いアレルギー反応)の報告は県内で241件あった。
コロナワクチンで下半身不随に…医師は「治らない」と宣告
(TBSニュース2022年9月16日) (抜粋)
1回目の新型コロナワクチンを接種してから約3週間後、突然40度近い高熱が出て一時意識を失った40代の男性がいます。その後、男性の下半身は全く動かなくなり・…。医師の診断は「急性散在性脳脊髄炎」。自分の免疫で脊髄などの神経細胞が傷つけられ手足が動かなくなったり、目が見えにくくなったりする「自己免疫疾患」です。インフルエンザやB型肝炎などのワクチンが引き起こす重い副反応としても知られ、新型コロナワクチンでも留意すべき症状とされています。男性の場合も医師の診断書に「接種により引き起こされた」とワクチンの後遺症であることが指摘されています。
ワクチン接種数時間後に急死 「息子は浴槽に沈んでいた」・…
(2022年8月25日、TBSニュース/CBCテレビ)
新型コロナワクチンを接種したその日に息を引き取った13歳の少年。少年の搬送先の病院はワクチンの副反応と関係があるのではないかという報告書を国に提出しました。しかし、厚生労働省が出した結論は「評価不能」でした。
こう語るのは2021年10月、自宅の浴槽で溺死した神奈川県に住む13歳の少年の両親。少年は亡くなったその日に新型コロナワクチンを接種していました。その日、中学の野球部の試合に行き、午後4時半に集団接種会場でファイザー製ワクチンを接種。帰宅して午後8時半ごろ、風呂に入った少年。そして、いつもより入浴時間が長いと感じ母親が風呂場に行ったところ、浴槽に沈んだ息子を発見しました。
搬送先の病院は「少年の死はワクチンの副反応と関係があるのではないか」という報告書を国に提出しました。しかし、厚生労働省が出した結論は“評価不能”。ワクチンとの因果関係は分からないというものでした。原因がはっきりしない死亡の場合に作られる「死体検案書」には、少年の死因は溺死と記載。
『中学1年の女子生徒は歩行困難に』…コロナワクチン後遺症を訴える患者たち…(2022年6月30日、TBSニュース/毎日放送)(抜粋)
新型コロナウイルスワクチンによる長引く副反応いわゆる「後遺症」はあるのか?ワクチン接種後に長引く症状に悩む人たちを取材した。
歩行困難な症状が出た中学1年の女子生徒
去年10月に兵庫県尼崎市内の「長尾クリニック」を受診した中学1年の女子生徒は、1回目の新型コロナウイルスのワクチン接種後から歩くことも困難な症状に見舞われていた。女子生徒はこの病院で初めて『新型コロナワクチン後遺症』と診断された。
「長尾クリニック」では去年10月ごろから150人以上の患者を『ワクチン後遺症』と診断してきたという。(長尾クリニック 長尾和宏院長)
(長尾医師によると)、「動悸がするとか、頭痛とか、ブレインフォグといいまして認知機能の低下、あるいは足が動かない・手が動かない・歩けなくなった、多様な症状が出て、そのために日常生活から脱落する。ワクチンを打ったためにそうなったことが確実であろうという人、そういう方を『ワクチン後遺症』と呼んでいます」とのことです。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
2022年6月29日に発表された新型コロナウイルスのワクチン接種率は、1回以上が81.9%、2回完了が80.8%、3回完了が61.7%で、これまでの総接種回数は2億8476万2731回となっているとのことです。このうち死亡や障がいにつながる恐れのあるものなど重篤な副反応が報告された割合はファイザー社製で0.003%、モデルナ社製で0.0016%と極めて低い数値ですが、これには理由があります。
厚生労働省によると、これまでファイザー社製とモデルナ社製の新型コロナウイルスワクチンを接種した後に、重篤な副反応があったと医療機関から報告された事例は7276例。しかし、その症状が『ワクチン後遺症』と認められたケースは1例もありません。
また、厚労省のホームページにはワクチン接種後に死亡した人が1726人いると記載されています。しかし、そのうち99.3%は「ワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの」とされ、国は公的にはワクチン後遺症を認めていません。
現在、国は、以下のように、因果関係評価結果(公表記号)を示してます。
α(ワクチンと死亡との因果関係が否定できないもの)
β(ワクチンと死亡との因果関係が認められないもの)
γ(情報不足等によりワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの)
つまり、国はワクチン接種後に死亡した1726人に対して、大半を「γ」と評価しているのです。
ワクチンの副反応を巡っては、国は次のように、複数機関でチェックを行っているそうです。
副反応の疑いがあるケースが出た場合、まず医療機関や製薬会社からPMDA(医薬品医療機器総合機構)という国が委託する機関に報告が上がる。PMDAで患者の病歴やワクチン接種との関連など情報の精査が行われる。さらに外部の専門家が因果関係を評価した後、最終的に厚労省の検討部会で検証される。
――――――
副反応検討部会で毎回、重要な副反応という形で検討しているのは、心筋炎や心膜炎を中心に、脳出血や突然死、心筋梗塞だそうですが、因果関係についてなかなか検証がしにくいとされています。
ワクチン後遺症の解明が未だ進まないは、ワクチン接種を推し進める国の方針から、医者もその実態に目を背けているからだとの指摘も出されています。
子どもへのワクチン接種を推し進める動きは加速しています。厚生労働省の専門家会議は5歳から11歳の子どもへのワクチン接種について、これまで科学的知見を整理する必要があるとしていたものを「努力義務」に変更しました。国が安全だと言って打つように勧めたワクチンによって、子どもたちの命を奪われたりすることがあってはなりません。
γ(情報不足等によりワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの)判定をしていれば、責任が回避されるというものではないはずです。政府は、ワクチン推奨と同時に、必ず副反応等の弊害に関する情報も対等に公開し、ワクチン接種の選択肢は私たち国民の意思に委ねるべきです。
(出所:掲載した新聞記事とネットニュース)
<関連投稿>
「竹島は日本領」の動かぬ証拠が続々…
現在、韓国に不法に占拠されている島根県の竹島が、わが国の固有の領土であることを示す資料がまた新たに発表されました。以下、朝日新聞(デジタル)の記事を引用します。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
「竹島は日本領」示す米国製の地図発見 島根編入前の1897年発行
(2022年11月6日、朝日新聞デジタル)
日韓が領有権を争う島根県隠岐の島町の竹島(韓国名・独島)を日本領と表示した1897年発行の米国製の地図が見つかったと、島根大学の舩杉力修(ふなすぎりきのぶ)准教授(歴史地理学)が明らかにした。竹島が島根県に編入される1905年以前から、国際的に日本領と認識されていたことを裏づける資料だという。
地図は米ニューヨークの百科事典製作会社が発行したもので、隠岐の島町在住の個人が所蔵していた。地図では日本領は黄色、韓国領はピンク色で表示。竹島は日本領と同じ黄色で、英国での名称「ホーネット島」やフランスでの名称「リアンクール岩」と表記し、いずれも地図の索引に日本領と記載している。
舩杉准教授によると、竹島が日本領であると表示する1905年以前の地図が見つかったのはイギリス、フランス、ドイツ製の地図に続くという。舩杉准教授は「竹島が島根県に編入される1905年以前に、米国内では日本領であると認識されていたことを示す貴重な地図だ」と話している。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
また、今年に入って2月にも、発見された江戸時代の公的地図から竹島が日本領であったことが確認されていました。以下、読売新聞(デジタル)の記事を引用します。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
竹島を記した江戸期の公的地図、初めて発見…専門家「幕府は日本領と認識」
(2022/02/22、読売新聞)
江戸後期に長崎奉行が作成したとみられる航路図に、現在の竹島の記述が見つかった。島根県が定めた「竹島の日」(22日)を前に、領土問題などを研究する「日本国際問題研究所」(東京)が発表した。同研究所によると、竹島の記述がある当時の公的地図が発見されたのは初めてで、調査した研究者は「当時の幕府が竹島を日本領と認識していたことを示す史料だ」としている。(竹内涼)
調査したのは、研究所の委託を受けた島根大法文学部の 舩杉力修 准教授(歴史地理学)。2018年10月、東京都内の古書店で航路図を購入した。
舩杉准教授によると、航路図は縦102センチ、横137センチ。江戸後期の長崎周辺では密貿易(抜け荷)が横行し、密貿易の拠点や注意書きが地図上にあることなどから、取り締まりに当たった長崎奉行が1820~30年代に作成した可能性が高いという。
地図には北海道南部から種子島や屋久島までが描かれている。現在の竹島を「松嶋」、韓国・ 鬱陵島 (ウルルンド)を「竹嶋」と記し、長崎へ向かう昆布船が波風を避けるため、両島近辺の航路を使うようになったとあり、竹島について「草木無之、岩斗之小嶋ニ御座候(草木がなく、岩ばかりの小島である)」と説明されている。
鬱陵島への渡海は1696年以降に禁止されており、舩杉准教授は「渡海禁止後も、竹島に関しては日本領だという認識が続いていたことがわかる。日本の主張を補強する証拠としての価値は高い」としている。
航路図は、同研究所のホームページで公開している。県竹島資料室などでの展示の予定はないという。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
さらに、昨年10月には、サンフランシスコ講和条約時に、アメリカだけでなく、豪州や英国も竹島は日本領であることを認識していたことを示す資料も、既に公表されています。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
竹島日本領 英豪も認識 サンフランシスコ条約時 公文書で判明
(2021/10/2、山陰中央新報デジタル)
戦後、日本の独立と領土が決まった「サンフランシスコ平和条約」で、米国に加えて英国とオーストラリアも竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島(トクト))を日本領と認識していたことが両国の公文書などで明らかになった。政府は条約調印70年を記念して9月28日から東京・霞が関の領土・主権展示館で複写の展示を始め、近くネットでも公開する。
条約では日本が放棄すべき地域を「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と明記。これに対して韓国は3島だけでなく「独島も含まれる」と解釈し、領有権を主張している。
政府の委託事業で見つかった新たな資料は、条約の作成過程で、英国が竹島を日本領とする米国案に同意したことをオランダ代表との会合で示した公文書(1951年5月)や、オーストラリア外務省が釜山駐在の外交官に宛てた電報(同年7月)など。
電報では韓国側がオーストラリアに対し、条約で日本が放棄すべき地域に「独島」を入れるよう要請する際に不正確な位置を伝えたため、韓国の主張を評価できなかったことを示す内容という。
これまで、米国が竹島を日本領と認識する複数の資料が存在していたが、韓国側は「米国のみの見解で条約を結んだ連合国の総意ではない」と主張。今回の発見は韓国の主張を覆すものとなりそうだ。展示を企画した内閣官房領土・主権対策企画調整室の斎藤康平企画官は「条約の交渉過程で竹島の領有権について、日本の立場の正しさをより客観的に説明する史料が確認された」と話した。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
米軍横須賀・厚木基地から有害な有機フッ素化合物検出!
アメリカ海軍横須賀基地と厚木基地から、有害性が指摘されている有機フッ素化合物を含む排水が流出していたことが明らかになりました。以下、この件に関する記事を紹介します。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
米軍横須賀基地から有機フッ素化合物 9月調査で目標値の258倍検出
(2022/10/27、テレビ神奈川)(一部抜粋)
アメリカ海軍横須賀基地から、有機フッ素化合物を含む排水が流出したおそれがある問題で、9月に実施された調査の結果、目標値の258倍の有機フッ素化合物が検出されたことがわかりました。 この問題はことし6月、健康リスクが指摘されている有機フッ素化合物の「PFOS」や「PFOA」を含んだ排水が、基地から外部に流出した可能性があると、アメリカ側から防衛省に通報があったものです。
――――――――――――
米軍基地 有機フッ素化合物検出で横須賀市が立ち入り申請へ
(2022年10月27日、NHK NEWS WEB)(一部抜粋)
横須賀市のアメリカ海軍横須賀基地の排水処理施設では、ことし5月以降、有害性が指摘されている有機フッ素化合物、PFOSやPFOAが国の暫定的な指針値を超えて検出されていて、ことし8月29日にアメリカ軍が行った調査では、指針値の172倍の濃度で検出されました。
この問題を受けて、横須賀市の上地克明市長は27日の記者会見で、市の職員が基地に立ち入って、アメリカ軍の汚染防止対策などについて直接調査を行えるよう、在日アメリカ軍に申請することを明らかにしました。立ち入りを許可するかは日米合同委員会で協議され決められますが、基地が設置を進めている有害物質を吸着する、「活性炭フィルター」稼働後の来月1日以降に立ち入り調査を行い、排水処理施設で排水を採取して詳しく調べたいとしています。
また27日はアメリカ軍の新たな調査結果が、国を通じて市に伝えられました。8月30日に調査した4地点では指針値の0.7倍から5倍程度の濃度でしたが、1か月後の先月29日の調査では指針値の125倍から258倍と、再び高い濃度で検出されたということです。市は引き続き、原因の調査や汚染対策の強化を求めていくとしています
―――――――――――
米軍厚木基地 川から国の指針の3倍超の有機フッ素化合物検出
(2022年10月21日 NHK NEWS WEB)
神奈川県のアメリカ海軍横須賀基地の排水から、有害性が指摘されている有機フッ素化合物が相次いで検出されていますが、アメリカ海軍厚木基地でも先月、基地を流れる川から国の指針の3倍を超える濃度の有機フッ素化合物が検出されたことが分かりました。神奈川県は21日、防衛省に対し、再発防止と日米で周辺環境への影響調査を徹底するよう、口頭で要請しました。
先月24日、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがるアメリカ海軍厚木基地で、有害性が指摘されている有機フッ素化合物、PFOSやPFOAを含む消火剤をを基地の中を流れる蓼川(たてがわ)につながる調整池に誤って放出させたと、アメリカ海軍から防衛省に説明がありました。
防衛省が蓼川の基地の外側、2か所で調査をしたところ、下流の水から国が示す指針値の3.6倍の濃度の有機フッ素化合物が検出されたということです。神奈川県によりますと、厚木基地では消火剤が放出された調整池の水を放出し、たまっていた泥の回収と洗浄を終えたということです。
――――――――――
この一連の報道を受けて、東京新聞は、在日米軍による環境汚染を暴き続け、今回もその実態を暴いたとされる英国人活動家ジョン・ミッチェル氏の声を届けました。ミッチェル氏の活動の動機は、「PFASを含んだ汚染水を米軍基地内の家族や米軍も飲んでいる。日本人とアメリカ人の両方を助けたい」からだそうです。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
全国の米軍基地周辺で有機フッ素化合物汚染が頻発 実態暴いた記者ミッチェルさんは嘆く「もっと学んで」
(2022年10月30日、東京新聞)(一部抜粋)
◆「日本人とアメリカ人の両方を助けたい」
英・ウェールズ生まれのミッチェルさんは1998年に来日した。2010年から調べ始めたのが、沖縄に持ち込まれた有毒な枯れ葉剤の問題だ。ベトナム戦争で米軍がジャングルを枯らす目的で散布し、人々をむしばんだ猛毒は、沖縄にも持ち込まれていた。曽祖父が第1次世界大戦で毒ガスを浴びていたミッチェルさんは、化学兵器の被害から目をそむけることができなかった。
「沖縄なくしてベトナム戦争を続けることはできない」と言われたほど、当時の沖縄は米軍の重要な補給基地であり、対ゲリラ戦の訓練場だった。米軍は、兵士にすらそのリスクを隠していた。
沖縄駐留の元軍人たちは、その影響とみられる病気や体調不良を訴えていたが、米政府は長らく被害を認めていない。ミッチェルさんは、退役軍人や住民たちに取材。加えて、14年に米情報公開制度を使い、沖縄での枯れ葉剤を含む環境汚染に関する軍の内部文書を入手して関連を明らかにした。ミッチェルさんの一連の報道は、一部の退役軍人の補償へとつながった。
◆原動力は、差別される人々への深い共感
これまで入手した米国防総省や中央情報局の資料は1万2000枚を超えるという。在日米軍基地の環境汚染に関するこうした資料を、ミッチェルさんは、沖縄国際大学やハワイ大学などに寄贈してきた。米情報公開制度を使ったとはいえ、容易に入手できない資料ばかりだからだ。実際、ミッチェルさんが枯れ葉剤に関する情報請求をしてから、開示されるまで約1年半を要した。「情報を入手するにも多くの時間がかかり、粘り強い交渉が必要となる」という。
それでも、沖縄の枯れ葉剤汚染や米兵たちの被害を訴え続けてきたのは、差別される人々への深い共感があったからだ。
16年1月、沖縄県企業局による調査で北谷浄水場で高濃度のPFASが検出されていたことが発覚したのを契機に、PFASについても調査を始めた。
枯れ葉剤の調査で培った手法を駆使し、米軍内部資料を精査すると、PFASを含む泡消火剤の流出事故が多数起きていたことが分かった。「ずさんな管理体制によって何度も同じような事故が起きていた」
◆「日本政府はほとんど文句を言わない」
ミッチェルさんが強調するのは日本の特殊性だ。「米国内の基地でPFASによる汚染が判明した場合は、米軍は住民に公表し、ボトルの水など安全な水を提供している」。米軍基地のあるドイツ、ベルギー、ホンジュラスなどでも地元住民らに同様の報告をしているという。
一方、日本では十分な情報公開も補償もない。「日本政府は環境や人々の健康よりも日米地位協定を尊重している。ドイツや韓国など他国はもっと米軍の責任を強い姿勢で追及している。日本政府は、ほとんど文句を言わない」
ミッチェルさんのPFAS汚染の報道を受け、日本政府が米軍に「ジョン・ミッチェルに渡した文書がほしい」と依頼したこともあったという。「日本政府が、人々の命を守るための何の情報も得ていないことがとてもショックだった」 国民の健康被害のリスクに鈍感な日本の政治やメディアを嘆き、ミッチェルさんは訴える。「沖縄以外の人たちもPFASについてもっと学んでほしい」
◆デスクメモ 決して「遠い話」ではない
沖縄では、米軍が放出したPFOSが市中の川に流れ込んで大量に泡だち、保育園に飛散したこともある。下水から高濃度のPFOSが検出されても、米軍は「関連は分からない」と言い張る。この姿勢は、本土の基地でも同じはずだ。決して、「遠い沖縄の話」で済むことではない。
―――――――――――――
今後、再発防止が徹底されるだけでなく、在日米軍基地における環境汚染の今回の問題が氷山の一角でないことが望まれます。
エリザベス女王崩御:王位継承順位、称号・爵位はどうなる?
英国の女王エリザベス2世(96歳)が、2022年9月8日、滞在先のスコットランドのバルモラル城で逝去(せいきょ)されました。これに伴いチャールズ3世が即位しただけでなく、王位継承順位や称号・爵位の変更などがありました。女王崩御から約1週間経った現在のイギリス王室の状況をまとめました。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
<エリザベス女王の生涯>
エリザベス女王は、1926年4月21日にロンドンにて、ヨーク公アルバート王子(のちのジョージ6世・享年56)とエリザベス妃(享年101)の長女として誕生、1947年、21歳のときに、当時26歳で海軍将校だったフィリップ殿下(享年99)と結婚されました。ふたりの出会いは、エリザベス女王が13歳のとき、父の母校である王立海軍大学を訪問した際、フィリップ殿下が、案内役を務められたのが最初でした(出会いから8年もの年月を経て二人は結婚)。
エリザベス女王は、1952年2月に父である国王ジョージ6世の急死を受け、25歳の若さで即位しました。戴冠式は翌年行われ、史上初めてテレビ中継がなされたことで話題となりました。
以来、70年にわたって英国を統治し、在位70年7カ月は、(ヴィクトリア女王の記録を上回って)歴代の英国君主で最長でした(当時の英国首相はチャーチルで、歴代15人の首相が仕えてきた)。なお、72年以上にわたって君臨したフランス国王ルイ14世に次ぐ、世界史上2番目に在位期間の長い君主でもありました。
2021年4月、73年間連れ添われたフィリップ殿下が死去された後、自らも体調を崩され、主要行事を欠席することが多くありました。2022年4月に96歳の誕生日を迎え、6月には、英国で史上最長の在位70年間の祝賀行事「プラチナ・ジュビリー」が英国全土で盛大に開催された(プラチナ・ジュビリーを迎えた英国君主はエリザベス女王が最初となった)。
エリザベス女王は、確固たるリーダーとして威厳を放つと同時に、愛される存在で、国民から支持を得ていました。崩御後の世論調査では、国民の75%以上が「女王が好き」と回答しています。女王は、旧植民地諸国を軸とする連合体の英連邦(コモンウェルス)に所属するオーストラリア、ニュージーランド、カナダなど15カ国の元首でもあり、英連邦のほか世界からも「英国の母」と慕われていました。
日本の皇室との交流も深く、昭和天皇、上皇さま、天皇陛下の3世代にわたって続き、1975年5月には、英国の君主として初めて、夫の故フィリップ殿下と来日されました。
- 開かれた王室
エリザベス女王がその在位期間中、力を入れてこられたことが英王室の近代化であり、大切にしてきた信念のひとつとされているのが、「開かれた王室であること」でした。
エリザベス女王が即位後、自ら始めたのがクリスマス当日に国民に向けてスピーチを送るクリスマス放送でした。1957年12月25日に初めてテレビでスピーチを放送して以来、毎年欠かさず続けられ、伝統行事のひとつになっています。
バッキンガム宮殿は一般見学用に一部開放され、最近では、国民とコミュニケーションを積極的に取るべく、SNS(交流サイト)で、積極的に情報発信が行われています。さらに、直系男子優先だった王位継承制度を男子優位から男女平等に変更したのもエリザベス女王の時代でした。
私生活では、フィリップ殿下との間に、新国王チャールズ皇太子(73)、アン王女(72)、アンドリュー王子(62)、エドワード王子(58)の4人の子どもに恵まれ、8人の孫と12人のひ孫がいます。
ただし、子どもたちが成長する一方で、スキャンダルとの縁も少なくありませんでした。なかでもチャールズ皇太子の不倫によるダイアナ元皇太子妃(享年36)との離婚は、世界的にセンセーショナルな話題となりました。さらに、ダイアナ元皇太子妃が不慮の事故で亡くなった際には、英国王室を批判する声が多くあがりました。それでも、エリザベス女王は、国民の前では、毅然とした態度を崩さず、持ち前のユーモアで人々を魅了してきました。
<エリザベス女王の葬儀>
葬儀は、死去から10日後の19日にウエストミンスター寺院で国葬が執り行われます。その後ウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂でも葬儀が執り行われ、女王は最終的に、両親と妹が眠るウィンザー城のキングジョージ6世記念礼拝堂に埋葬されます(キングジョージ6世の記念礼拝堂は教会の別の部分にある)。
1952年に亡くなった女王の父国王ジョージ6世は、もともと王室の保管庫に埋葬されていましたが、1969年3月26日に新しく建設された礼拝堂に移されました。2002年には女王の母もこの礼拝堂に埋葬され、さらに同年に亡くなった女王の妹マーガレット王女の遺灰も、ここに納められています。
また、2021年4月9日に99歳で亡くなったエリザベス女王の夫フィリップ殿下も、セント・ジョージ礼拝堂のロイヤル・ボールト(王室の墓廟)に埋葬されていますが、女王の埋葬に合わせ、殿下の棺は女王の隣に移されるとみられています。
<新国王チャールズ3世>
エリザベス女王の逝去に伴い、王位継承権第1位のチャールズ皇太子(73)が新国王「チャールズ3世」として即位しました。英フィナンシャル・タイムズ紙は、73歳のチャールズ3世は最も長く待たされた後継者であると同時に、即位時の年齢が最も高い王になると報じました。
チャールズ新国王は、母であるエリザベス女王が亡くなった時点で自動的に即位していますが、手続き上、新国王の即位は10日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で行われた王位継承評議会(数世紀にわたる組織で、王族や政治家、宗教指導者で構成)の会合で正式に宣言されました。会合の模様は初めてテレビ中継されました。チャールズ国王は母方から王位を継承しているので、女系王になります。
この後、新国王は戴冠式に臨むことになりますが、現時点で詳細は明らかにされていません。戴冠式は、伝統的にロンドンのウェストミンスター寺院で行われていますので、今回も踏襲されると見られています。
チャールズ3世は、ケンブリッジ大卒業後、軍隊を経て、ダイアナ妃との間にウィリアム、ヘンリーの2人の王子をもうけましたが、結婚前から交際していた現カミラ王妃との不倫関係を継続し、離婚の原因となりました。1997年のダイアナ妃の事故死後は、世間の強い風当たりを受けながら、2005年にカミラ妃と再婚しました。
かつて皇太子時代、「人生のほぼ全てを準備に費やした」と英メディアに揶揄されたこともあったチャールズ3世ですが、400以上の慈善団を後援し、環境問題や代替医療など、多くの分野の社会活動家としても存在感を示してきたと評されています。
<王位継承者>
女王の死と新国王の即位を受け、英国の王位継承順位の第1位は、チャールズ3世の長男ウィリアム王子となりました。第2位はウィリアム王子の長男、ジョージ王子(9)。3位と4位は、ジョージ王子の妹シャーロット王女(7)、弟のルイ王子(4)となっています。
2013年に施行された王位継承法では、「2011年10月28日以降に誕生した王族は、性別によってその人物またはその子孫が他の王位継承者よりも優先されることはない」と規定されました。従来のイギリスでは、長男子単独相続制に従って、王位は、王の直系の子孫に男子優先で女子にも与えられていましたが。2013 年法はこの原則を性別によらないで王位継承の順序を決定するように改められました。
2013年の王位継承法以前は、エリザベス女王の長女であるアン王女や、女王の孫娘レディ・ルイーズのように、女性が王位継承権を持つ男性の弟に順位を逆転されることがありましたが、現在ではそうした事態は起きていません。実際、ウィリアム王子の長女シャーロット王女の王位継承順位は3位で、弟であるルイ王子より先になっています。
王位継承順位の第5位はウィリアム王子の弟、新国王と故ダイアナ元妃の次男ヘンリー王子(37)。それに続く第6位と7位は、ヘンリー王子と米国出身の元女優、メーガン・マークルの息子アーチー・マウントバッテン・ウィンザー(3)と、娘のリリベット(1)です。
チャールズ新国王の子と孫に次いで継承順位の上位に入るのは、エリザベス女王のほか3人の子どもとその子・孫たちとなり、8位は女王の次男アンドルー王子(62)です。しかし、アンドルー王子は未成年に対する性的虐待などで起訴されました。さらに勾留中に死亡した米国人富豪ジェフリー・エプスタイン(性犯罪で有罪判決を受けた)と交友関係があったことで国民からの批判を受け、2019年以降、公務からから退いています。
イギリスの王位継承順位
- ウィリアム皇太子(チャールズ新国王の第1子)
- ジョージ王子(ウィリアム王子とキャサリン妃の第1子)
- シャーロット王女(同第2子)
- ルイ王子(同第3子)
- ヘンリー王子(ウィリアム王子の弟でチャールズ新国王の第2子)
- アーチー・マウントバッテン=ウィンザー(ハリー王子とメーガン妃の第1子)
- リリベット・マウントバッテン=ウィンザー(同第2子)
- アンドルー王子(新国王の弟で女王の第3子)
- ベアトリス王女(アンドルー王子の第1子)
- シエナ・エリザベス・マペッリ・モッツィ(ベアトリス王女の第1子)
- ユージェニー王女(アンドルー王子の第2子)
- オーガスト・フィリップ・ホーク・ブルックスバンク(ユージェニー王女の第1子)
- エドワード王子(新国王の末弟で女王の第4子)
- セヴァーン子爵ジェームズ(エドワード王子の第2子)
- レディ・ルイーズ・マウントバッテン=ウィンザー(エドワード王子の第1子)
- アン王女(新国王の妹で女王の第2子)
- ピーター・フィリップス(アン王女の第1子)
- サバンナ・フィリップス(ピーター・フィリップスの第1子)
- アイラ・フィリップス(同第2子)
- ザラ・ティンダル(アン王女の第2子)
<「称号」の変更>
- カミラ夫人の肩書
新国王のチャールズ3世は9月9日、即位後の初の演説を行い、「新国王の妻」カミラ夫人はクイーン・コンソート(王妃)となると発表しました。
エリザベス女王は2022年2月、チャールズ3世の2番目の妻カミラ夫人の肩書を「プリンセス・コンソート(王の配偶者)」ではなく、「クイーン・コンソート(王妃)」となることを希望している(カミラ妃が将来「王妃」と呼ばれることを切に望む)と表明し、国民に許しと和解を促しました。
- ウィリアム王子とキャサリン妃
王位継承順位第一位となったウィリアム王子は、国王から皇太子の称号である「ウェールズ公」も引き継ぐことになりますが、この称号は、父から息子に自動的に継承されるものではないため、新国王(父王)から付与される必要があります(新国王が決める)。
そこで、チャールズ新国王は、9月9日、ウィリアム王子夫妻、プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)とプリンセス・オブ・ウェールズ(皇太子妃)になると発表しました。これは、チャールズ新国王がウィリアム王子をプリンス・オブ・ウェールズの後継者に指名したことを意味します。この結果、ウィリアム王子は、ウィリアム皇太子(ウェールズ公ウィリアム)と敬称されることになります。
キャサリン妃は、1997年に36歳で悲劇的な死を遂げたダイアナ元妃以来、初めてプリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公妃)(皇太子妃)の称号を継承することになりました。なお、カミラ夫人もプリンセス・オブ・ウェールズの称号を持っていましたが、不倫の後にチャールズ皇太子(当時)と結婚した経緯もあってか、このプリンセス・オブ・ウェールズの称号を公に使用することはなく、コンウォール侯爵夫人と名乗っていました。
また、ウィリアム王子とキャサリン妃は、2011年4月に結婚した際、エリザベス女王によってケンブリッジ公爵、公爵夫人の称号をそれぞれ与えられていましたが、父チャールズが新国王に即位したことを受け、新国王と王妃がそれまで名乗っていたコーンウォールの称号も引き継ぎます。ウィリアム皇太子はコーンウォール公爵、キャサリン皇太子妃はコーンウォール公爵夫人ともなります。
実際、ウィリアム王子とキャサリン妃のSNS(ツイッターとインスタグラム)のアカウント名が、ケンブリッジ公爵夫妻から「コーンウォールおよびケンブリッジ公爵夫妻」に変更されていました(現在は、ウェ―ルズ公爵夫妻を使用)。
なお、チャールズ新国王は、1958年から持っていたコンウォール侯爵という称号を使うことはなく、長らくプリンス・オブ・ウェールズの称号を多く名乗っていました。
- ウィリアム皇太子夫妻の3人の子ども達
今回の称号の変更に伴い、ウィリアム王子夫妻の子供であるジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子もこれまでの「ケンブリッジ」の名から「コーンウォールおよびケンブリッジ」の名になっています。正式には、次の称号を新しく得ることになりました。
プリンス・ジョージ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ
プリンセス・シャーロット・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ
プリンス・ルイ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ
また、「ウェールズ」の名をウィリアム王子が与えられたので、その称号も名乗ることになります。
- ヘンリー王子夫妻の子ども達
王子と王女
チャールズ国王の次男ヘンリー王子と妻メーガン妃(サセックス公爵夫妻)の子どもたちで、王位継承順位6位と7位となったアーチーとリリベットは、「王子(プリンス)」・「王女(プリンセス)」の称号(肩書)と、殿下・妃殿下(HisまたはHer Royal Highness、HRH)の敬称を得て、アーチー王子(殿下)とリリベット王女(妃殿下)になれるかが注目されています。
イギリス王室における「王子」・「王女」の称号と、殿下・妃殿下(HRH)の敬称の付与には、ヘンリー王子の高祖父にあたるジョージ5世は1917年に、「王国の君主の子供、君主の息子の子供(孫)およびプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の長男の長男(曾孫の長男)」に与えられると定めました。
エリザベス女王の在位中、チャールズ皇太子の長男であるウィリアム王子の長子ジョージ王子までがこれに該当しました。エリザベス女王は、これを変更し、シャーロット王女とルイ王子まで拡大したことから、ウィリアム王子とキャサリン妃のお子さんたちは、全員、「王子」・「王女」の称号と、(王室高位メンバーを意味する)HRHの敬称を得ています。
そして、今回、女王が崩御し、祖父チャールズが即位したことで、現行法に則れば、アーチ―君とリリベットちゃんは、君主の孫という立場になり、希望すれば自動的に、王子と王女の称号とHRHの敬称が与えられ、アーチー王子殿下、リリベット王女殿下になれます(希望しない場合もある)。
当初、チャールズ新国王は、シニアメンバーと呼ばれる主要王族の数を減らして、王政のスリム化を検討していることから、これを認めない可能性もあると指摘されていましたが、英紙サンは、アーチー君(3歳)とリリベットちゃん(1歳)は近く、正式に王子および王女となるが、殿下または妃殿下(HRH)の敬称は得られない見込みだと報じました。後者については、ヘンリー王子とメーガン妃が、2020年に王室を離脱した際、王室との合意の一環で、HRHの使用を放棄し、「王室として働いていない」ことが理由にあげられています。
マスターとレディ
アーチーとリリベットは、親が保持する「サセックス公爵」の称号も持っていません。そうすると、爵位を持たない2人には何かしらの称号はあるのでしょうか?
こうしたケースでは、当初、慣例に従い、ヘンリー王子の従属爵位(下位の爵位)であるダンバートン伯爵を儀礼称号(儀礼上の称号)として使用するとみられていましたが、両親の意向により爵位ではなく年少の貴族の子息の呼称であるマスター(Master)とレディ(Lady)を使っています。現在、アーチーはマスター・アーチ―、レディ・リリベットという敬称で呼ばれています。
マウントバッテン=ウィンザー
また、アーチーとリリベッドは、マウントバッテン=ウィンザーという姓を名乗っています。実際、2人の正式な名前は
アーチー・ハリソン・マウントバッテン=ウィンザー
リリベット・ダイアナ・マウントバッテン=ウィンザー。
この姓は、1960年にエリザベス女王とフィリップ王配が結婚した際、2つの名字(女王のウィンザー家と王配のマウントバッテン家)を組み合わせて誕生しました。エリザベス女王とフィリップ王配は、自分たちの子どもや子孫のために、マウントバッテン=ウィンザーという姓を作ったのです。公式には、エリザベス2世と夫フィリップ・マウントバッテン公の間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザーとする枢密院令が発せられました。
もっとも、女王の子ども達は、ケンブリッジ公、サセックス公、ウェールズ公など、それぞれの称号で呼ばれているため、マウントバッテン=ウィンザーという姓は使用していません。
なお、ウィンザーは、王室が属する王朝の名前であると同時に、エリザベス女王の祖父ジョージ5世の決定により、王家の家名(ファミリーネーム)ともなりました。
<王朝名も変更?>
チャールズ3世新国王の即位とともに、イギリス王室は、王朝名(家名)をウィンザー朝からマウントバッテン=ウィンザー朝に変える可能性もあると言われています。これは、エリザベス女王の王朝名であるウィンザー朝に、エリザベス女王の夫で、チャールズ3世の父であるエジンバラ公フィリップの家名を加えた名称です。
マウントバッテン=ウィンザー朝という折衷名にするのは、チャールズ3世が王位を継承しても、エリザベス女王の直系血筋が絶えるわけではないという考え方で、ウィンザー朝の継続という強調したものと言われています。
ただし、前述したように、マウントバッテン=ウィンザーは、1960年にエリザベス2世と夫が創設した姓(苗字)で、このときは、家名(王朝名)が変更されたわけではありませんでした。そのため、チャールズ3世が即位した今もその家名(王朝名)はウィンザーのままで、姓のマントバッテン=ウィンザーとはずれが生じていることを調整する狙いがあるのかもしれません。
<関連投稿>
イギリス王室:女王陛下とウィンザー家の人々
イギリス貴族の爵位と敬称:公爵から男爵まで
9.11から21年 アメリカのテロとの戦いは今
アメリカの同時多発テロから今年2022年で21周年になる。テロの脅威を忘れなないためにも、あの事件を風化させてはなりません。
ハフポスト紙が、「アメリカ同時多発テロはなぜ起きたのか。“史上最悪”のテロ事件を写真で振り返る【9.11から21年】」と題した記事を出してくれました。同時多発テロの発生の背景から、実際の惨事から、その後のアメリカのテロとの戦いについてまとめた記事で、今私たちが知るべき内容がすべて書かれていたので、まずはそのまま引用します。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
2977人の命が奪われたアメリカ同時多発テロから21年。史上最悪のテロ事件はなぜ起こったのか。
(2022年09月11日、ハフポスト日本版編集部)
民間機4機が国際テロ組織にハイジャックされ、日本人24人を含む2977人が犠牲になった、アメリカ同時多発テロ(9.11事件)から11日で21年を迎える。航空機が世界貿易センタービルに激突する瞬間や、ビルが白煙を巻き上げながら崩れ落ちていく映像がリアルタイムで放送され、その惨劇は世界を震撼させた。多数の民間人の命を奪う「対テロ戦争」の発端にもなった“史上最悪”のテロ事件は、なぜ起こったのか。事件現場はその後、どう変わったのか。写真と資料で振り返る。
2977人が犠牲に
2001年9月11日午前8時46分、乗客乗員計92人を乗せたボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便が、ニューヨークの世界貿易センタービル北棟に衝突した。その17分後、乗客乗員計65人を乗せたユナイテッド航空175便が、世界貿易センタービルの南棟に突入。午前9時37分には、バージニア州の国防総省(通称ペンタゴン)に、アメリカン航空77便が激突した。午前10時3分、ペンシルベニア州・シャンクスビルの平野に最後の1機のユナイテッド航空93便が墜落した。2機が衝突した世界貿易センタービルは、11日午前10時〜10時半ごろにかけて相次いで崩れ落ちた。
一連のテロ事件の犠牲者数は2977人に上った。その中には、建物内で生存者の救助活動にあたっていた警察官や消防隊員も含まれている。現場で有害物質を吸い込んだり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したりと事件による健康被害に今も苦しむ人は多い。
ハイジャックした19人の実行犯たちは、国際テロ組織「アルカイダ」のメンバー。航空機4機に4〜5人ずつ乗り込み、全員死亡した。ペンシルベニア州の平原に墜落したユナイテッド航空93便は、乗客と乗員たちがハイジャック犯に抵抗したため、標的であるワシントンD.C.のホワイトハウス(アメリカ合衆国議会議事堂とする説もある)に到達しなかった。
国際テロ組織「アルカイダ」とは
9.11事件を引き起こしたアルカイダは、1989年に誕生した国際テロ集団。どんな組織なのか?ソ連軍は1979年、アフガニスタンに侵攻する。ソ連軍の駆逐を目的とした「ジハード」(聖戦)に参加するため、アラブ諸国の若いムスリム(イスラム教徒)を中心とする義勇兵たちが、アフガニスタンや隣国パキスタンに向かった。
1989年にソ連軍がアフガンから撤退すると、対ソ連で戦った抵抗勢力の間で内乱が発生した。こうした中、一部のアラブ人義勇兵たちによって次のジハードを戦うための組織アルカイダが結成された。アルカイダの幹部らにとって、戦場を失った義勇兵たちの処遇は喫緊の課題だった。
1990年の湾岸危機で、米軍がメッカとメディナというイスラム教の2大聖地があるサウジアラビアに駐留したことは「異教徒の軍隊がイスラムの聖地を占領している」とみなされ、攻撃の対象とされた。アルカイダの論理はエスカレートし、サウジアラビア駐留軍だけでなく、全てのアメリカ人を「標的」とするようになった。
アルカイダの最高指導者のオサマ・ビン・ラディンは、2011年5月2日、パキスタンでアメリカ軍特殊部隊に殺害された。
泥沼化した「対テロ戦争」
アフガニスタンを支配していたタリバン政権は、アメリカ同時多発テロを計画したアルカイダ指導部の引き渡しを拒んだ。そのため2001年10月、アメリカはイギリスなどとともにアフガニスタン攻撃を開始。タリバン政権を壊滅させた。以降、アメリカや同盟国による「対テロ戦争」が激化していく。
1990年代後半から、米共和党内部で活発に活動していた「ネオコン」と呼ばれる新保守主義者たちは、特に9.11事件以降、積極的にイラクのフセイン政権打倒を主張していた。ネオコンの特徴の一つは、自由主義や民主主義といったアメリカの価値観を、軍事力や経済力を行使したとしても他国に広める、という思想だ。アメリカは開戦理由として、イラクが化学兵器や核兵器などの大量破壊兵器の開発を進めて保有していることや、アルカイダとつながっていることを挙げた。イラクはいずれの疑惑も否定し続けた。
「大量破壊兵器」は見つからなかった
イギリスや日本など一部の国を除き、イラクへの軍事攻撃に対する慎重論が上がっていた。しかし、アメリカは2003年3月20日、イラクへの武力攻撃を開始(イラク戦争)。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ポーランドの4カ国でつくる有志連合軍は、イラク各地で大規模な空爆を行った。
当時日本の首相だった小泉純一郎氏は、攻撃開始直後に談話を発表。「我が国の同盟国である米国をはじめとする国々によるこの度のイラクに対する武力行使を支持します」との立場を示した。
イラク戦争では空爆や、それに対抗して繰り返された自爆テロにより、イラクの多数の民間人が犠牲になった。2004年10月には、イラクの大量破壊兵器の捜索を担当していたアメリカの調査団による最終報告書が議会に提出された。イラクには大量破壊兵器は存在せず、開発計画もなかったと結論づけるものだった。その後、米兵によるイラク人への虐待や性暴力といった非人道的な行為も次々に暴かれた。
イラク戦争と、戦後のイラク国内の治安悪化で、アメリカに対する憎悪はますます膨らんだ。欧米など世界各地でテロ事件を計画・実行する過激派組織「IS」の誕生へとつながっていく。
タリバンの復権
タリバン政権は2001年の崩壊後、どうなったのか。その後もタリバン自体は壊滅せず、中央政府の手の届かない地域で力を蓄え、武装勢力として駐留米軍やアフガン政府軍と約20年にわたって戦った。2021年5月、アメリカ政府が米軍のアフガン撤退を本格化させると、タリバンは各地でアフガン政府軍を圧倒し支配地域の拡大を急速に進めた。8月15日に、タリバンは首都カブールを制圧した。
アルカイダは2011年のビンラディン殺害後もタリバンに忠誠を誓い、両者の深いつながりが指摘されている。一方、2020年にタリバンは米国と和平合意を結んだが、そのときの条件の一つは、タリバンがアルカイダとの関係を断絶することであった。
「グラウンド・ゼロ」はいま
世界貿易センタービル跡地は、「グラウンド・ゼロ」(爆心地)と呼ばれる。グラウンド・ゼロには、事件を伝える「9.11メモリアルミュージアム」が設置されたほか、犠牲者を悼む記念碑も整備された。超高層ビル「ワンワールドトレードセンター」なども建設され、2棟のタワーが崩壊した事件直後とは全く異なる表情を見せている。
毎年9月11日には、グラウンド・ゼロなど事件現場で追悼式典が行われている。9月11日夜〜翌朝まで、世界貿易センタービルの2棟に見立てた青い光のツインタワー「追悼の光」(Tribute in Light)が、ニューヨークの空を照らし出す。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆(引用ここまで)
記事にもあるように、2001年9月11日、米同時多発テロ後、実行犯の主犯格のオサマ・ビンラディンらアルカイダの指導者らを匿っているとして、アフガニスタンに軍事介入し、タリバン政権を打倒しました(米アフガニスタン戦争)。しかし、壊滅したかにみえたタリバンでしたが、武装勢力として、駐留米軍やアフガン政府軍に抵抗を続けました。2021年、アメリカ政府が米軍のアフガニスタン撤退を本格化させるのに合わせるかのように、力を再び蓄えてタリバンは各地で支配地域の拡大を急速に進め、同年8月、タリバンは首都カブールを制圧し、再びアフガニスタンを支配しました。アメリカのアフガニスタンにおけるテロとの戦いは、結局、失敗に終わったとしか言えません。
では、同時多発テロ後、G.W.ブッシュ大統領が宣言したアフガンも含めた世界中の「テロとの戦い」はどうなったのでしょうか?
G.W.ブッシュ大統領は、「テロとの戦いは冷戦より長くなる」と長期戦を示唆しました。実際、アメリカは、アフガニスタンのタリバン政権を崩壊させた後は、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指し批判し、イラクに対しても戦争を仕掛け、イランとの対立は現在も続いています。また、ブッシュ大統領は、「民主主義を世界に広める」とも宣言し、オバマ政権の2010年から2012年にかけておきた「アラブの春」で一部実現したという見方もできます。
1990年台から2000年台初頭まで、まだ冷戦後の世界秩序が模索されていた中、同時多発テロが発生したわけですが、当時から注目されていた理論に、国際政治学者ハンチントンの「文明の衝突」がありました。
ハンチントンは、世界の文明圏を、西欧文明(欧米豪)、スラブ・東方正教会文明、中華文明、日本文明、ヒンズー文明、イスラム文明、ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明の8つの文明圏に分類し、これからの世界は、イデオロギーの対立から文明の衝突が起きると予測しました(想像に難くないことですが、西欧文明がすべての戦いに勝利することが期待されているでしょう)。
論文の発表から8年後の2001年にアメリカ同時多発テロ事件がおき、その後、アフガニスタンやイラクとの戦争というように、冷戦後「テロとの戦いの時代」となったと、ブッシュ大統領が宣言したことから、「文明の衝突」はまさに冷戦後の世界を予見した研究として一躍注目されたのです。
さらに、一部の保守派は、「テロとの戦いはイスラム文明との戦い」と強引に解釈し、現代は西欧文明とイスラム文明の戦いに突入したとみなされるようになりました。仮にこの見解が正しいとして、西欧文明の旗手アメリカは、イスラム文明(ここではイスラム原理主義)との戦いに勝利したのかというと、決してそうではないでしょう。むしろ、アメリカはイスラム文明との戦いを拒否しているように思われます。
では、ハンチントンの「文明の衝突」は、これからの世界の先行きを占う予言書ではなかったのかというと、これは早急に結論付けできません。
「文明の衝突」によれば、イスラム(テロ)との戦いの後には、中華圏、スラブ圏、ヒンズー圏などとの戦いがあると読むこともできます。ハンチントンはすべての文明圏との対立は想定していないようですが、現状では、中華文明、ロシア文明(スラブ・東方正教会文明)との対決は、決して否定できないでしょう。
アメリカの外交戦略を歴史的にみれば、理論を現実化するという傾向があるように思えることから、今後もハンチントンの「文明の衝突」からは目を離せません。
<この記事のさらなる理解のために>
(2022年9月13日更新)
新型コロナウイルス、東京五輪から世界に拡散していた!
8月3日の「テレ朝ニュース」によると、「日本で独自に変異して『第5波』の主流となった新型コロナウイルスのデルタ株の亜種が東京オリンピック・パラリンピックの開催で海外に広がっていた」ことが東京大学医科学研究所の研究で分かりました。
第5波と言えば、2021年7月に入り感染が急拡大し、8月20日には全国で2万5995人と当時の過去最多を記録(東京都でも8月13日に5908人の感染が報告された)しました。この頃、東京オリンピックが、7月30日から8月8日まで開催され、200を超える国や地域から選手や大会関係者が入国していました。
東京大学医科学研究所付属ヒトゲノム解析センターの井元清哉教授は、東京オリンピック・パラリンピックが開催された去年7月から今年1月までの世界中のウイルスの遺伝情報を解析した結果、当時、国内で変異して生まれたデルタ株の亜種「AY.29」が、日本で出現した後、アメリカやインドなど20の国や地域で見つかっていたことがわかったそうです。
井元教授が発生源を調べたところ、大会が開催されていた東京やその周辺地域から拡散したと考えられることが分かったということです。
以下に、「女性自身」編集部の投稿記事を掲載します。当時の政治の動きが鮮明に思い出されてきました。
★☆★☆★☆★☆
“東京五輪でデルタ株亜種が世界拡散”発表が波紋「やっぱり」「だから反対したのに」(2022/08/04)
日本で独自に変異し、“第5波”の主流となった新型コロナウイルスのデルタ株の亜種『AY.29』。8月3日に「AY.29は東京オリンピック・パラリンピックの開催で海外に広がっていた」と発表され、ネットで波紋を呼んでいる。
各メディアによると、東京大学医科学研究所付属ヒトゲノム解析センターの井元清哉教授は、東京五輪が開催された昨年7月から今年1月までの世界中のウイルスの遺伝情報を解析。その結果、東京五輪の当時に“第5波”を迎えていた日本で変異して生まれたデルタ株の亜種『AY.29』をアメリカなど20の国や地域で確認。その発生源は東京やその周辺地域だったという。
昨年7月に開催された東京五輪。しかしコロナ禍で行われたため、当初から世論では「新型コロナウイルスが拡散されるのでは?」と反発の声が相次ぐことに。新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長(73)も’21年6月、国会で「パンデミックのなか、オリンピックを開催することは普通ではない」と指摘していた。
しかし、政治家たちの“強行する姿”が目立った。
「昨年5月に安倍晋三元首相(享年67)は『オールジャパンで対応すれば何とか開催できる』といい、『根性論だ』と批判されました。
さらに当時五輪大臣だった丸川珠代氏(51)は『東京五輪が、コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す』といい、同年6月には当時首相だった菅義偉氏(73)が『東京五輪は希望と勇気を世界にお届けできる』とコメント。抽象的な発言に『現実を見て』といった厳しい声が上がっていました」(全国紙記者)
またIOCのトーマス・バッハ会長(68)も話題となった。
「昨年4月、バッハ会長は『緊急事態宣言と五輪は無関係』と主張し、翌月には『大会が可能になるのは日本人のユニークな粘り強さという精神、逆境に耐え抜く能力をもっているから』と述べました。さらに7月、新型コロナの感染者数が再拡大するなか『感染状況が改善すれば、有観客も検討してほしい』と要望しました。
いっぽう東京五輪の直前、自身の言動について『“どんな犠牲を払っても前進する”と解釈されることもあった』といい、『開催に疑念があった』とも発言。その“手のひら返し”に非難轟々となりました」(前出・全国紙記者)
東京五輪は新型コロナ対策として、『バブル方式』を導入していた。例えば関係者には入国前と入国後にPCR検査が義務付けられ、「ホテルと練習会場、試合会場以外には原則移動できない」という制限も課せられていた。しかし『AY.29』の発生源となり、ウイルスを世界中に拡散ーー。ネットでは、こんな声が上がっている。
《こういう事になるだろうと予想していたからこそ東京五輪に多くの人々が反対の声を上げていた。聞く耳を持たなかった菅、自公政権》
《まじか。だから(五輪ファンだけど)反対したのに!》
《東京五輪は日本国内の感染をあまり拡大させなかったが世界の国々の感染は拡大させた模様。どっちにしてもあれほどのパンデミックの中で五輪みたいな世界大会開催する方が異常だな》
《当時懸念されてたけどやっぱり起きてたんだなという気持ち》
「女性自身」編集部
★☆★☆★☆★☆
当時の大手マスコミは、政府与党とともに、こぞってオリンピック開催賛成だったので、このニュースは、もっとメディアで取り上げられ、様々な検証がなされるべきですが、そうならないかもしれません。