アメリカ外交に史上最も影響力を与えた人物と評されたヘンリー・キッシンジャー氏(以下敬称略)が、2013年11月29日、コネティカット州の自宅で亡くなりました(100歳で、死因は不明)。
キッシンジャーと言えば、大国の現実的なパワーバランスによってのみ世界秩序が決まるという勢力の均衡(バランス・オブ・パワー)の考え方に徹し、米中和解、ベトナム戦争終結、ソ連との緊張緩和(デタント)など八面六臂の活躍をし、ノーベル平和賞も受賞するなど、輝かしい外交実績を残しました。
その一方で、キッシンジャー外交は、現実主義(リアリズム)の立場からアメリカの戦略的利益を追求するあまり、独裁体制を容認したり支持したりすることも厭わず、明らかに道徳的・理想主義的ではありませんでした。そのため、キッシンジャーは人権や民主主義を軽視した冷血漢と一部で批判されました。実際、大国や強国の間の駆け引きに翻弄された小国の国民に多くの犠牲を出したことから、「戦争犯罪人」とまで呼ぶ人たちもいます。
このように、キッシンジャーには常に毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまといますが、いずれにしても、キッシンジャー外交の足跡を追うことは、冷戦期のアメリカ外交の実際を顧みることに等しいと言えます。
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キッシンジャーは1923年5月27日、ドイツ南部のフュルトでユダヤ人の両親の下に生まれました。ワイマール共和国が崩壊し、ナチス政権が成立すると、ナチスの迫害を逃れて1938年、15歳の時に一家でアメリカに渡りました。第二次世界大戦中の1943年に米国籍を得て、陸軍に入隊し、後のCIA長官アレン・ダレス率いるOSS(後のCIA)の対諜報部隊軍曹として故郷ドイツに駐留しました。
復員後、47年にハーバードに入り、54年に同大大学院で欧州外交史を研究して博士号を取得、同大学政治学部で教鞭をとり、政治学者(外交専門家)の地位を確立しました。
博士論文では、ナポレオン戦争終の欧州に一世紀近くの安定をもたらした、1815年のウィーン会議をめぐる、オーストリア帝国宰相メッテルニヒらの現実主義外交について論じた。当時の大国、英国とオーストリア=ハンガリー帝国)が、台頭する革命後のフランスとドイツを如何に封じ込めたかが書かれていました。論文は3年後、邦題『回復された世界平和』として出版されています。また1957年の著書『核兵器と外交政策』は意外なベストセラーとなりました。
キッシンジャー外交の思想的背景には、オーストリアのメッテルニヒと、ドイツ帝国の「鉄血宰相」ビスマルクの外交があったとみられています。実際、キッシンジャーは、「外交政策は感情ではなく、強さの評価に基づいたものでなければならない」というビスマルクの信念に同調していたことを後に記しています。
米ハーバード大学の教授を務めていたキッシンジャーは、アメリカの代表的なシンクタンク「外交問題評議会」への参加を通じて(後に、世界の要人が集まるビルダーバーグ会議にも毎年出席)、同時代の外交政策にも積極的な提言を始めたとされ、すぐに、ジョン・F・ケネディやネルソン・ロックフェラー(後のフォード政権で副大統領)など政界トップの信任を得ました。特に、富豪ロックフェラー家との交流は深く、3代目の当主デビッド・ロックフェラーとも人脈を築いていました。
こうして若きキッシンジャーは、ジョンソン政権(63.11〜69.1)で国務省顧問、ニクソン政権(69.1〜74.8)では国家安全保障問題担当大統領補佐官、さらに、フォード政権(74.8〜77.1)で国務長官を歴任し(正確には、国務長官就任は73年9月)、当時のアメリカ外交に多大な功績を残していきました。
米中和解とベトナム戦争の終結
中国極秘訪問
キッシンジャーの最大の業績は、米中和解とされます。1969年1月、ハーバード大教授からニクソン政権の大統領補佐官に就任したキッシンジャーは、共産主義中国との関係改善に動き、72年のニクソン訪中、79年の米中国交正常化を実現させ、冷戦期の力関係を劇的に変えて見せました。米ソ対立の枠組みにおいて、中国を米国側に引き寄せることに成功し(米中協調路線の基礎を確立したのです。
当時のアメリカは、ベトナム戦争において、1968年の南ベトナム解放民族戦線によるテト攻勢から形勢逆転を許し泥沼化、世論も分断するなど混乱を極めていました。キッシンジャーは、69年1月に就任したニクソン大統領とともに、ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」(ベトナム戦争の有利な終結)を模索し始めていました。冷戦の最中、強大化するソ連の軍事的プレゼンスに対して、新たなアジア戦略とソ連包囲網を確立する必要に迫られました。
そうした中、冷戦枠組みの再編成のために中ソ対立の亀裂を利用しようと考え、それまでの対中国敵視政策を改め、中国との接近をはかったのです。
キッシンジャーは、1971年7月に、秘密裡にパキスタン経由で北京入りし、周恩来首相と会談、翌72年の早い時期にニクソン大統領が訪中する合意を取りつけました。1971年7月15日、来年2月にアメリカ大統領ニクソンが訪中するとの発表が、米中の当局から突如としてなされ、世界に衝撃を与えました。
このニュースは、日本や台湾を初めとする関係諸地域・国にもいっさい知らされていなかったため、「日米はパートナー」と考えていた日本は「裏切られた」との不満が沸き上がりましたが、根回しなしの外交手段がむしろ効を奏したと評され、キッシンジャーの神出鬼没の活躍は「忍者外交」と形容されました。
ニクソンの訪中は1972年2月21日に予定どおり実行され、ニクソンは毛沢東と会談し中共同宣言を発表、米中関係は劇的な転換を遂げました(最終的には1979年1月1日に正式な米中国交正常化を実現)。
ベトナム和平協定
アメリカと中国の接近は、キッシンジャーの目論見通りに、ベトナム戦争終結を後押しし、73年1月に、パリ和平協定が成立しました。この時も、ベトナム側とアメリカの公式交渉の裏で、北ベトナムの共産党政治局員レ・ドク・トとキッシンジャーが、70年2月以降、秘密会議を重ね、和平協定案をまとめ上げていました。キッシンジャーは、ベトナム和平協定締結に尽力した功績で73年に、レ・ドク・トとともにノーベル平和賞を受賞しました(レ・ドク・トは「戦争中」であることを理由に受賞を辞退した)。
パリ和平協定成立後、ニクソン大統領は、協定に基づき、南ベトナム駐留の米軍の撤退を開始、73年3月29日までに完了させますが、北ベトナムと南べトナム解放民族戦線は攻勢の手を緩めず、75年4月30日にはサイゴンを陥落させ、ベトナム戦争は終結しました。
ベトナム戦争は、アメリカにとって最悪の敗戦を喫したことになりましたが、米軍にとって破局的な状態を打開し、「名誉ある撤退」にこぎつけました。これも米中和解によって、中ソそれぞれの北ベトナムへの関与を弱めさせることができたからにほかなりません(もともと、ベトナム戦争は、アメリカと中ソとの代理戦争と言われていた)。
ソ連とのデタント
このように、キッシンジャーは、米ソ冷戦の最中、対中接近にかじを切り、米中和解を実現させた一方で、ソ連との間でいわゆるデタント(緊張緩和)を演出しました。ニクソン訪中という挙をつかれたソ連も、冷戦構造の変化と深刻化する中ソ対立の現実を受け入れる形でこれに応じます。1972年5月、キッシンジャーとともにニクソン自身がモスクワを訪問し、米ソは両国の弾道ミサイル保有数を制限するSALT I(第1次戦略兵器制限条約)を締結しました。
また、75年の東西対話を促進する全欧安全保障協力会議で「ヘルシンキ合意」の成立もキッシンジャーの功績の一つとされています。この時、安全保障に関しては国境の不可侵と信頼醸成措置などで合意がなされました。
中東シャトル外交
1973年9月に国務長官も兼任したキッシンジャーは、ウォーターゲート事件で退任したニクソンを引き継いだフォード政権(74.8〜77.1)において、国務長官として、外交政策の全般を掌握します。1973年の第4次中東戦争においては、頻繁に中東諸国を訪問してアラブ・イスラエル間の調停にあたる、いわゆる「シャトル外交」を展開し、和平合意を取り付けただけでなく、戦後の中東地域にアメリカ主導の新たな秩序を確立させました。
その時のキッシンジャーの功績といえば、最終的には中東を一変させたアラブ・イスラエル間の平和の土台を築いたことがあげられます。キッシンジャーは、74年、アラブ諸国の盟主で反イスラエル急先鋒だったエジプトに出向き、サダト政権をソ連から引き離したうえで親米へ方向転換させることに成功したのです。サダトは1977年11月、イスラエルを電撃訪問し、両国は79年3月にエジプト・イスラエル平和条約を締結しました。
エジプトは、4次にわたる中東戦争が財政を大きく圧迫したため、経済が立ち行かない状況となり、経済再建にはアメリカ資本の支援が必要と考えたサダト大統領は、打開策を模索していました。アメリカは、この時からエジプトに対して、潤沢な軍事援助および経済援助を今も与えています。
ドル覇権の立役者
余り知られていませんが、キッシンジャーは、ニクソン・ショック後の米ドル中心の金融システムを確立した立役者でもあります。ニクソン大統領は、1971年8月15日、金・ドルの交換停止などのドル防衛策を発表しました。当時、アメリカはドルと金の兌換をいつでも保証する通貨制度(金ドル本位制)を採用しており、各国からの要求があればいつでも金1オンス35ドルで、金を渡さなければなりませんでした。
ベトナム戦争による軍事費の増大やベトナム反戦運動の激化などの社会的騒乱を受けて、アメリカ経済と通貨ドルに対する信用不安(ドル不安)が高まったことから、ドルの金兌換要求が増加し、アメリカから大量の金が流出し始めました。危機感を募らせたニクソン大統領は、突如、米ドルと金の兌換を一方的に停止するという強行措置を発動したのでした(これをニクソン・ショックと呼ぶ)。
さらに、前述したように、73年に第一次石油ショックも発生しアメリカにとって、戦後最大の危機となりましたが、キッシンジャーはこの二つのショックを逆手にとって、鉄壁なドル覇権の土台を作りあげました。戦後の石油ビジネスは、米国の石油メジャーと呼ばれる企業が独占的に支配しており、原油取引も慣例的に、世界の基軸通貨でもあるドルが使われていました。当然の結果として産油国の資産もドル建て(取引の決済をドルで実施すること)でしたが、70年代前半、石油危機に伴うスタグフレーション(不況下の物価高)と、ニクソン・ショック後、結果的に固定相場制から変動相場制への移行によって、ドルの価値が一気に下落しました。この結果、産油国のドル建て収入や資産価値は激減してしまいました。
こうした状況下、キッシンジャーは、74年に中東各国を歴訪、石油戦略を発動した産油国に対して、一定の石油価格上昇をアメリカが受け入れる代わりに、石油取引を引き続きドル建てで行うことを産油国に確約させました。とりわけ、世界最大の産油国であるサウジアラビアとは、原油をドル建て決済で、アメリカに安定的に供給すれば、アメリカは安全保障を提供するという協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしました。
これにより、産油国が原油取引で得た大量のドル資金(オイルマネーと呼ばれた)は、国内への資本投下や財政支出に飽き足らず、余剰資金がユーロカレンシーとして、ロンドンを中心とした国際短期金融市場に流入することになりました。このオイルマネーは、結果的に、ユーロカレンシー市場を経由してほとんどがアメリカの金融市場へ還流されたのです。
このように、キッシンジャーは、米ドルと石油取引のリンクを強化するとともに、世界中に溢れかえったドルをアメリカ市場に積極的に投資させる仕組みを確立し、ドルの暴落を防いだと評価されています。
同時にアメリカは、穀物輸出も外交戦略上の武器に活用していました。折しもソ連が食糧危機に陥り、ニクソン政権は72年7月、米ソ穀物協定を締結し、大量の穀物がソ連に輸出されました。以降、穀物輸出はアメリカの「武器」となっただけでなく、穀物取引もドル建てが慣例となり、やがて、原油と同様、世界に溢れ返ったドルをアメリカ国内に還流させる役割を担ったのです。なお、ソ連に対して小麦を輸出した穀物商社カーギルをはじめとした、コンチネンタル・グレイン社、ドレイファス社などは「穀物メジャー」と呼ばれ、穀物市場において圧倒的な地位を確立しました。
こうしたキッシンジャーが確立したドル覇権のシステムが、軍事力と同等か、それ以上の力を発揮して、アメリカによる世界秩序の維持に大きな役割を今も果たしたと言えるでしょう。
キッシンジャーの過ち
パリ休戦協定を成就させた功績からノーベル平和賞を受賞したキッシンジャーでしが、同時に、その後、終生「戦争犯罪人」というレッテルを貼られ続けました。それは、大国の力の均衡を最優先した戦略に基づいた華々しい外交実績の影で、周辺小国への無数の犠牲を伴っていたからにほかなりません。その悲劇は、キッシンジャーがニクソン、フォード政権の外交政策を取り仕切ったわずか8年の間に、インドシナ半島のみならず、東ティモール、バングラデシュ、チリなど世界中に及び、300万〜400万人の死がキッシンジャーの判断によってもたらされたと推計する研究者もいます。
ベトナム戦争
キッシンジャーへのノーベル平和賞授賞に際して、審査委員会の中で激しい議論が巻き起こったそうです。反対者の最大の理由は、アメリカがカンボジアやラオスに対する爆撃と地上軍事作戦を展開したことでした(反対した2人の委員は抗議の辞任をした)。実際、キッシンジャーは、ニクソン訪中やその後のソ連とのデタントなど、大国間の調整を図りながら、ベトナム戦争終結の方向を探りつつ、積極的な侵攻策を立案しました。それは、アメリカの影響力を出来る限り維持しながら交渉を有利に進め、ベトナムからの「名誉な撤退」を実現するためでした。
具体的には、ラオスとカンボジアとの国境地帯に設けられたいわゆる「ホーチミン・ルート」と呼ばれる北ベトナムから南ベトナムに兵員や武器など軍需物資を供給するルートを壊滅させるため、カンボジアに無差別爆撃を行い、さらに北のラオスに対する爆撃と地上掃討作戦も強化しました。しかし、いずれも失敗し(南のサイゴン政権と軍の崩壊状況を止めることはできなかった)、逆に混迷を極めさせただけに終わりました。
有利な停戦を狙ってカンボジア侵攻さらにラオス空爆を行い、ベトナム戦争をいたずらに長引かせたことで、奪われる必要のなかった何万人ものカンボジアやラオスの兵士や市民を死に至らしめたとの批判は避けられないように思われます。
バングラデシュ
パキスタンは、1947年、イスラム教国として、イギリス(英領インド帝国)から分離・独立し、インドを挟んで、西パキスタン(現パキスタン)と、東パキスタン(現バングラデシュ)に分かれていましたが、1971年3月、ベンガル地方の東パキスタンが、中央政府のある西パキスタン(現パキスタン)からの独立を宣言しました。
すると、分離・独立を阻みたいパキスタン政府は軍を送り込んで、大量虐殺を行っていると国際社会から非難を浴びる中、キッシンジャーは、西パキスタンの独裁者と言われたヤーヒャ・カーン大統領を公然と支持し、武器供与も決定しました。これはパキスタン政府が、ニクソンの72年2月訪中を準備した米中秘密接触を仲介したからにほかなりません。
しかし、アメリカの(西)パキスタンへの武器供与が、結果的にベンガル人の死者を増やしたと非難されました。実際、大量の東パキスタン住民が殺戮から逃れるために難民となりました。死者の数は、独立後のバングラデシュ当局によれば「300万人」と、パキスタン側は「一般市民の犠牲者は2万6000人」としていましたが、「虐殺」があったとは間違いありません。
なお、パキスタンは、大量の難民を受け入れ、バングラデシュ独立を支援していたインドと、1971年12月に交戦しため、第3次インド=パキスタン戦争にまで発展しました。戦いはパキスタンが劣勢となり軍を撤収させた結果、東パキスタンは「バングラデシュ人民共和国」として独立を果たしました。
東ティモール
東ティモールは、1974年、宗主国ポルトガルが非植民地化政策(植民地独立容認)を宣言すると、独立派とインドネシア合併派が対立し、内戦状態となりました。そうした中、即時独立を目ざした「東ティモール独立革命戦線(フレティリン)」が有力となり、1975年11月、「東ティモール民主共和国」の独立を宣言しました。しかし、インドネシアのスハルト政権は、12月、東ティモールに軍事侵攻、翌76年7月にはこれをインドネシアの「第27番目の州」として併合しました。この時、侵攻後の2か月間で、インドネシア国軍は、反対派住民約6万人が殺害されたと言われています。
インドネシア軍による東ティモールへの全面侵攻は、奇しくも、米フォード大統領とキッシンジャーがジャカルタを訪問した翌日の出来事でした。独立後の東ティモールが、社会主義を標榜する「東ティモール独立革命戦線」の手に落ち共産化することを恐れたキッシンジャーがインドネシアに軍事占領させたのではないかとの疑惑がもたれています。また、アメリカはインドネシアにブロンコOV戦闘爆撃機などの武器援助を、イギリスや豪州とともに継続して実施しました。
東チモール独立革命戦線の武装闘争などに対する弾圧は、併合後も続き、1991年には、独立を求めるデモ行進を行っていた市民に対して無差別に発砲した「サンタクルス虐殺」事件も起きています。事件の様子は映像などで海外にも伝えられ、東ティモールの独立を求める国際世論は大きな高まりを見せる中、1999年に住民投票が実施され、分離・独立派が勝利しました。インドネシアの占領は終結、国連が東ティモール暫定行政機構を設立し、02年にようやく独立を果たしました。
インドネシアによる統治の間に虐殺や飢餓などで命を失った東ティモール人は10万〜20万人にのぼったと試算され、第二次世界大戦後の世界における虐殺のなかでも最悪なものに数えられるとされています。
チリ
キッシンジャーは、73年の南米チリの軍部クーデターで、ピノチェト将軍による、アジェンデ社会主義政権の転覆を支援した張本人と批判されています。南米チリでは、1970年9月の大統領選挙で、容共派の社会民主主義者サルバドール・アジェンデが勝利し、南米で初の選挙を経た社会主義政権を発足させました。アジェンデ大統領は、社会主義政策により産業の国有化路線を推進しようとしました。
これは、チリに大きな権益を持つアメリカ資本にとっては深刻な脅威でした。実際、銅資源に恵まれたチリにおいては、60年代まで、アナコンダとケンネコットの米系多国籍企業2社がその80%を支配していましたが、アジェンデ政権はその2社を国有化すると発表したのです。キッシンジャーは「アジェンデは(キューバの)カストロよりはるかに脅威だ」と激怒したと伝えられ、密かにアジェンデの排除を画策したと見られています。アメリカの諜報機関CIAの秘密作戦部門を動かして、反アジェンデ勢力の軍部に資金と軍事支援をさせ、73年9月11日、ピノチェト将軍にクーデターを起こさせたのです。大統領公邸を反乱軍に包囲されたアジェンデは、自ら機関銃を取って戦いましたが、最後は自殺しました。
クーデター後、戒厳令を出したピノチェトは、アジェンデ派と目される人々は根こそぎ逮捕し、臨時の強制収容所と化したリチ・スタジアムに連行し、拷問にかけて2千〜3千人もの人々を殺害したとされています。またクーデター1年後になお約7万人投獄されていたと言われています。ピノチェトは、アメリカの庇護の下で、17年間の独裁政権を維持しました。
キッシンジャーの影響力
ここまで、キッシンジャー外交の功罪をみてきましたが、その是非はともかく、戦後の世界秩序構築に大きな役割を果たしたことだけは間違いないでしょう。キッシンジャー流の国家間のパワーバランスを考えた現実主義は、国際政治を分析する枠組みとして、現在でも有効です。
キッシンジャーは国務長官を退任し、政権から離れた後も、積極的に言論活動を行い、1982年には、国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、主に対中ビジネスを行う企業を対象にコンサルタント業務も始めました。同社には、イーグルバーガー国務長官やスコウクロフト元国家安全保障担当大統領補佐官(ブッシュ父政権)、ガイトナー元財務長官(オバマ政権)など後の政権で要職についた面々も在籍しており、キッシンジャーは同社を拠点に政財界へ影響力を行使していたとも言えます。
実際、カーター大統領以降の歴代政権の外交・安全保障政策に隠然と関与していたとされています。確かに、ブッシュ子政権時はネオコン(新保守主義)勢力によって、キッシンジャーの路線は一時、否定されましたが、同政権において、終わってみれば、最も信頼する外交アドバイザーでありましたし、トランプ大統領ですらキッシンジャーに助言を仰いだと言われています。
07年には、オバマ大統領による「核廃絶」の訴えの呼びかけ人となったことで、メディアの注目を浴びました。直近でも、ロシアのウクライナ侵攻の和平策としてウクライナの領土の一部割譲というキッシンジャー流の現実主義的な提言を行いました。2023年7月には、北京の釣魚台迎賓館で習近平国家主席と会談、中国側の信頼は依然として厚かったことが伺えました。冷戦時代、アメリカの覇権時代における外交設計者であるヘンリー・キッシンジャー、歴史は彼の死後、キッシンジャーをどう評価していくのか注目されます。
<参考>
<参照>
最期まで真のヨーロッパ人だった「米外交の重鎮」…「複雑なリアリスト」キッシンジャーが逝く
(2023年12月7日、Newsweek)
現代社会にも生きるキッシンジャーの現実主義外交
(2023年12月11日、Wedge Online、岡崎研究所)
非西欧的価値観と衝突したキッシンジャーの限界世界を「西欧的価値観」で普遍化しようとしたが…
(2023/12/06、東洋経済)
キッシンジャー元米国務長官が死去 米中和解、対ソ緊張緩和進める―ノーベル平和賞受賞、100歳
(2023年11月30日、JIJIドットコム)
功罪相半ばする「ヘンリー・キッシンジャー」とは?米経済の地位を高めた見事な戦略
(2023/12/14、FinTech)
キッシンジャーの勝利と大失敗から得られる教訓 NYTコラム
(2023年12月17日、朝日新聞)
キッシンジャー米元国務長官の死去、大国現実主義外交の陰で問われる「戦争犯罪」
2023.12.15 、ダイヤモンドオンライン(一部)
400万人殺害説も。今振り返るキッシンジャー元米国務長官「100歳の生涯」の裏
(まぐまぐニュース! 高野孟 2023/12/05)
キッシンジャー等(世界史の窓)
ヘンリー・キッシンジャー等(Wikipedia)
キッシンジャーとは?等(コトバンク)
(2023年12月28日)