ローマ教皇フランシスコの死:その足跡をたどる
ローマ・カトリック教会の第266代教皇フランシスコが、2025年4月21日、亡くなりました。88歳でした。
フランシスコ教皇は、アルゼンチン出身で、2013年3月、中南米出身者として(南北アメリカ大陸および南半球から)初めて教皇に選ばれました。欧州以外で生まれて教皇になったのは、シリアで生まれて741年に亡くなったグレゴリウス3世以来、約1300年ぶりのことでした。また、イエズス会の神父としても、初の教皇であったことも話題となりました。
さらに、前教皇のベネディクト16世が、2013年2月、高齢を理由に生前退位を表明したことを受けての即位となりました。教皇が自主的に退位するのは、約600年ぶりのことでした。ベネディクト16世は、名誉教皇として、バチカンにいたため、2022年12月に亡くなるまでの10年近く、「2人の教皇」が存在していたことになります。
◆ フランシスコ教皇の誕生まで
フランシスコ教皇は、1936年12月、ムッソリーニのファシスト政権から逃れるため、1929年にイタリアからアルゼンチンに移住した両親の長男として、首都ブエノスアイレスで生まれました。名前はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。
神学校・イエズス会
ベルゴリオは工業高校で化学を学び、卒業前にはナイトクラブの用心棒や清掃係として働いたそうです。そんなベルゴリオは、20歳の頃に聖職者の道を志し、1955年から神学校に入りました。その後、1958年に、宣教師フランシスコ・ザビエルらが創設した修道会、イエズス会に入り、哲学を学び、やがて文学と心理学を教えていました。
ブエノスアイレスでの宣教
その10年後に司祭として叙階されると、速やかに昇進し、1973年にアルゼンチン管区長に就任しました。聖職者としてほとんどの期間を故郷のアルゼンチンで過ごしたベルゴリオ管区長は、貧しい地区での活動に力を入れ、ブエノスアイレスのスラム街で人身売買の被害者や低賃金の労働者を支援していたと言われています。、
一方、第二次世界大戦後アルゼンチンでは、1983年まで軍政が断続的に続きました。とりわけ、1976年から1983年にかけて、何千人もの人が拷問を受けたり、殺害されたりした、いわゆるアルゼンチンの「汚い戦争」状態にありました。その際、ベルゴリオ司祭(フランシスコ教皇)は、軍事政権に対抗することに十分努力しなかったこと、たとえば、軍によって二人の神父が誘拐された事件では、救済に尽力しなかったと一部から批判されたこともありました。
それでも、信者や地域社会を支える活動を続け、1992年、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世から、ブエノスアイレス補佐司教に、また、1998年にブエノスアイレス大司教に任命されました。さらに、2001年には枢機卿となり、カトリック教会の行政を担う教皇庁でさまざまな役職に就きました。
教皇に選出
ベルゴリオ枢機卿は、2005年に教皇就任を初めて志し、2013年3月に、ローマ教皇に選出されました。その際、教皇として、貧しい人のために尽くした中世のイタリアの聖人「フランシスコ」の名前を選び、貧しい人たちのための教会を目指す考えを示しました。
また、これまでの前任者が住んだ使徒宮殿内の華美な住居を利用せず、「精神的な健康」のために共同生活を送る方が良いと述べていたと伝えられています。
◆ 教会改革
教皇としては異例なその経歴が、ヴァチカンを刷新できるのではないかとも期待されたフランシスコ教皇は、マフィアの資金洗浄疑惑が指摘されたバチカン銀行に調査のメスを入れ、聖職者による児童への性的虐待問題でも外部有識者を含めた委員会を作るなど、カトリック教会の改革を進め、教会の秩序回復に努めました。
その一方で、教会がタブーとする同性婚や人工妊娠中絶、離婚などの社会問題では、比較的寛容な姿勢を見せ、「開かれた教会」を目指しましたが、保守派から伝統を破壊したと非難にされ、さらなる改革を求める進歩派からも不十分との批判を受けたときもありました。
◆ 地球規模の問題解決に向けて
そうした中でも、在任中、世界的に貧富の差が拡大しているとして格差の解消を訴えたほか、難民や移民の保護や気候変動への対応を呼びかけるなど、地球規模の課題解決に向けて積極的に発信してきました。
このうち核兵器をめぐっては2017年、バチカンは国家としていち早く核兵器禁止条約を批准しました。フラシスコ教皇は、核兵器の使用に加えて、開発も保有も一切禁止すべきだという歴代の教皇よりも踏み込んだ姿勢を打ち出しました。
長崎・広島訪問
2019年にはローマ教皇として38年ぶりに来日し、被爆地・長崎と広島を訪問、広島から発信したメッセージでは、「核兵器は使うことも持つことも倫理に反する」と述べ、核兵器は使用にとどまらず、保有についても「倫理に反する」と踏み込み、核兵器の廃絶を強く訴えました。
◆ 紛争の平和的解決と宗教間対話
さらに、在位12年間に約60か国・地域を訪れたフラシスコ教皇は、各地で続く紛争の平和的な解決を求めただけでなく、宗教間の対話にも力を尽くしました。
アメリカ・キューバ
地域紛争の平和的解決のために、フラシスコ教皇は、スペイン語を話すラテンアメリカ出身者として、2014年、アメリカ政府がキューバとの歴史的な和解に歩み寄った際に、国交正常化交渉の開始に向けた動きを仲介し、翌年の国交回復に貢献しました。
パレスチナ
また、2014年に、イスラエルのシモン・ペレス大統領とパレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長をバチカンに招き、共に平和のために祈る場を設け、3人で祈りを捧げました。
東方正教会
2013年3月にバチカン市国のサンピエトロ広場で開かれたフランシスコ新教皇の就任ミサに、1054年の大分裂以来初めて、東方正教会の主座であるコンスタンティノープル総主教庁のバルトロメオ1世総主教が参加しました。
また、2016年2月、フランシスコ教皇は、東方正教会の最大勢力であるロシア正教会のキリル総主教と、キューバの首都ハバナで歴史的な会談を行いました。東西のキリスト教会トップが会談するのは約1000年ぶりのことで、会談後、両者は「乗り越えるべき多くの障害が残っていることは認識しているが、今回の会談が、神の望まれる東西教会再統一に寄与することを願う」との合同宣言に署名しました。
ロシアによるウクライナ侵略では、フランシスコ教皇は、2022年3月、自らがキリル総主教とオンライン会議システム「Zoom」を通じて、話し合いを行い、仲介を模索しました。しかし、プーチンの戦争を支持したキリル総主教を、フランシスコ教皇が「プーチンの侍者になるな」と諫めたとされ、両者の関係は致命的に悪化しました。同年6月に予定されていたエルサレムでの2回目の対面会談も、その場で延期となりました。
プロテスタント
一方、教皇は、プロテスタントのルーテル派やメソジスト派と対話を持ち、分裂したキリスト教諸教派の一致を目指すエキュメニカルな活動を継続しました。
2016年10月、訪問先のスウェーデン・ルンドでルター派(ルーテル教会)の関係者と共にエキュメニカルな祈りの集いに参加、共同の祈りを捧げ、ルーテル世界連盟(LWF)の代表者らと会談した。この行事は、マルチン・ルターが1517年、宗教改革のきっかけとなった「95ヶ条の論題」を発表して500年を、また、同時に、カトリック教会とルター派の対話が1967年に開始されて以来、50年を、それぞれ記念するものでした。
ルーテル世界連盟(LWF)の使節は、2021年6月と2024年6月にも、バチカンを訪問しています。
また、フランシスコ教皇は、2017年10月、メソジスト教会とカトリック教会との間でエキュメニカルな対話が始まってから、50年を迎えたことを記念して、バチカンを訪問した世界メソジスト協議会(WMC)の指導者らと会談しました。両教会は、1967年に「メソジスト=ローマ・カトリック国際委員会」を設置して以来、対話のための重要な協力関係を維持しています。
◆ アジア外交と中国
フランシスコ教皇は、約12年の在任中、カトリック教会の信者が比較的少ないアジアや中東なども積極的に訪れ、和平外交を推進しました。
アジア外交においては、国境を越えた「人道主義」を強く打ち出しました。即位翌年の2014年、韓国を訪れて「平和のためのミサ」を行い、朝鮮半島の和解を促しました2017年には、ミャンマーに続いて、バングラデシュを訪問した際には、同国に逃れたイスラム教徒少数民族ロヒンギャの難民と面会し、ミャンマーによる迫害に警鐘を鳴らしました。
また、フランシスコ教皇は、特に、これまで外交関係のなかった中国との関係改善に強い意欲を示しました。2018年には、司教任命権をめぐり、歴史的な暫定合意を締結しました。
中国には推計1200万人のカトリック教徒がいるとされるなか、これまで、バチカンは中国の「政府公認教会」を認めず、中国側が独自に、中国国内のカトリック教会の司教を任命すると破門で応じてきました。暫定合意は非公開のままで、司教任命に際して双方の役割を認める内容とされています。
バチカン側が暫定合意で妥協を受け入れたとみられ、中国との関係改善の足掛かりをつくることを優先したものと解れています。しかし、カトリック教徒弾圧が続く中での対中接近には、宗教への介入を強める中国政府に譲歩した結果だとして批判の声も強く上がりました。これによって、中国がバチカンの「お墨付き」を盾に、信者に絶対服従を迫るという懸念がでています。
◆ 教皇とイエズス会
前述したように、フランシスコ教皇は、イエズス会出身の初めての教皇です。教皇のアジア外交は、おひざ元の西欧でキリスト教徒人口が減少する中、新たな地平を開こうとするものでしたが、教皇が、アジア布教の歴史を持つイエズス会出身だったことが大きいとみられています。
イエズス会は、1540年、元兵士イグナチオ・デ・ロヨラが教皇パウルス三世の承認を得て創設し、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルで知られています。フランシスコ教皇は特に、17世紀に中国・明朝に仕え、東西文化の懸け橋となったイエズス会の宣教師マテオ・リッチに敬意を抱いていたと言われています。
解放の神学
1960年代後半、カトリック教会内で、「キリスト教は貧しい人々の解放のための宗教である」とみなす「解放の神学」が中南米を中心にして支持を広げ、共産主義にも接近していきました。
解放の神学は、不正打倒を目的に、キリスト教の思想とマルクス主義社会学を統合した政治勢力ともなり、イエズス会はこの運動を積極的に支えたのです。1970年代に入ると、右派独裁のアルゼンチンなど中南米の軍政と対峙し、イエズス会の聖職者たちは、左翼活動家と共闘するなど、体制批判の尖兵になりました。
こうした背景で、ヨーロッパ出身の歴代教皇は無神論を掲げる共産主義を「悪魔」と忌避していたことから、イエズス会は長い間、バチカンから批判的な目で見られていました。共産圏のポーランド出身で「反共」のヨハネ・パウロ2世は、イエズス会を毛嫌いしていたことは有名です。
イエズス会と共産主義の関係については明らかではありませんが、ロシア正教会のキリル総主教は、元KGBの諜報員で、「マルクス主義的な汚染」を任務としたされ、解放の神学の「浸透」に貢献したと言われています。
いずれにしても、フランスコ教皇は、司祭・枢機卿の時代から、解放の神学に与することはなかったと見られています。むしろ、イエズス会の中には、フランスコ教皇が司祭の時代から「解放の神学」にあまり興味を持っていないと批判する人たちもいたそうです。
しかし、フランシスコ教皇の改革志向は、イエズス会の伝統の延長線上にあり、教皇が共産主義の中国に拒否感を抱かなかったのは、中南米出身だったことと無縁ではなかったと指摘されています。フランシスコ教皇は、司教任命権をめぐって、ベトナムとも和解を進めていました。
中南米出身者として初めての教皇、イエズス会の神父として初の教皇…など初物ずくめのローマ教皇フランスコは、多様性の時代の象徴的な教皇であったと言えるかもしれません。
<関連投稿>
キリスト教(カトリック、プロテスタント、正教会)
<参照>
フランシスコ教皇死去 ローマ教皇庁 2019年訪日 核廃絶訴え
(2025. 4.22 NHK)
教皇フランシスコ死去 南米からヴァチカンへ……カトリック教会を変えた伝統的な教皇 (2025.422 BBC)
ローマ教皇フランシスコ死去…同性婚・人工妊娠中絶に比較的寛容な姿勢、「開かれた教会」目指す
(2025/04/21 読売オンライン)
ローマ教皇フランシスコ死去 88歳 イエズス会出身初の教皇、その改革と逸話、そして“知の騎士団”の実像
(2025.04.21 coki)
評伝・ローマ教皇フランシスコ アジアで人道外交 中国共産党との「和解」で是非論も
(2025/4/21 産経)
ローマ教皇、ロシア正教会トップを叱責 プーチン氏の「侍者になるな」
(2022.05.08 CNN)
ローマ教皇フランシスコ死去、脳卒中と心不全で 初の中南米出身者
(2025・4・22 ロイター)
教皇がスウェーデン訪問、ルーテル教会代表らとエキュメニカルな祈り
(2016. 10. 31 バチカン放送)
こんなにもある宮中祭祀をもっと身近に!
本HP 「むらおの歴史情報サイト『レムリア』」では、皇室についての情報を「日本の皇室」というテーマでお届けしていますが、その中の「宮中祭祀・宮中行事」について、これまで未筆の祭祀がありましたが、本日、一通り完成しました。
天皇陛下は、年間、これだけの祭祀をなされ、私たち国民のために、国の繁栄と世界の安寧の「祈り」を捧げていらっしゃるのですね。ご関心の祭祀があれば、またさらに皇室についてお知りになりたければ、赤字をクリックしてご覧ください。
宮中祭祀
1月1日 四方拝:元旦早朝の神秘な儀式
1月1日 歳旦祭:四方拝に続く陛下の初詣
1月3日 元始祭:天孫降臨と皇位を祝う!
1月4日 奏事始:伊勢からの報告
1月7日 昭和天皇祭:先帝祭として厳かに
1月中頃 歌会始の儀:奥ゆかしき宮中行事
1月30日 孝明天皇例祭:先帝以前三代の例祭の一つ
2月11日 紀元節祭:神武天皇の即位を祝って…
2月17日 祈年祭:五穀豊穣と国民の繁栄を…
2月23日 天長祭:天皇誕生日、かつての天長節
春分の日 春季皇霊祭・春季神殿祭:春分の日の宮中祭祀
4月3日 神武天皇祭・皇霊殿御神楽:皇居と橿原の地にて
6月16日 香淳皇后例祭:昭和天皇の皇后さまを偲んで
6月30日 節折の儀・大祓の儀:陛下と国民のためのお祓いの行事
7月30日 明治天皇例祭:先帝以前三代の例祭の一つ
秋分の日 秋季皇霊祭・秋季神殿祭:秋分の日の宮中祭祀
10月17日 神嘗祭:五穀豊穣を伊勢神宮に向けて感謝
11月23日 新嘗祭:五穀豊穣を宮中にて感謝
12月中旬 神話賢所御神楽:起源は「天の岩戸」神話」
12月25日 大正天皇例祭:先帝以前三代の例祭の一つ
12月31日 節折の儀・大祓の儀:陛下と国民のためのお祓いの行事
(関連サイト)
湾岸の首長国、カタールとUAEはこんな国!
中東の湾岸諸国の中から、リサーチの途中であった、アラブ首長国連邦(UAE)とカタールについてまとめました。この2か国を最初にとりあげた理由は、私自身が、UAEのドバイとカタール(ドーハ)を訪れたことがあるからです。その時の体験を思い出しながら、作業を進めました。
アラブ首長国連邦(UAE)
カタール国
もっと、中東地域の国々を学びたければ…
プーチンの侵攻から3年:改めてロシアとウクライナを学ぼう!
ロシアがウクライナに侵攻して3年が過ぎました。そもそもこの戦争は、ロシア大統領プーチンが、一方的にウクライナに侵攻したものです。なぜ、明らかに国際法に違反し、国際社会を敵に回すような非理性的・非合理的な行動をとったのか?その原因を探るために、ロシアとウクライナの歴史に遡って考えてみようと思いたち、両国について調べてみました。
当初、2カ月を予定していましたが、次から次に関心事が増え、スタートから5カ月近くたった本日、ようやく、以下のようなリサーチの成果を公開することができました。明確な答えがでたわけではありませんが、何かしらのヒントを得られたのではないかと思います。同じようにロシア・ウクライナ戦争にご関心の皆さまの資料の一つに採用されれば幸いです。
<ロシアの歴史>
<ウクライナの歴史>
<ロシア・ウクライナ戦争を考える>
なお、ウクライナの首都は現在キーウですが、最近までキエフと表記でした。歴史の中にでてくる場合はキエフ、現在のウクライナの記述においてキーウでの表記を多用しています。ロシアのプーチン大統領については、失礼ながら敬称略で記載しています。
ギリシャ神話:西洋の精神・思想、文化・芸術の脊柱
オリンピックの年、古代オリンピックについて投稿したことを皮切りに、ギリシャという国について、またその歴史について調べていくうちに、その関心はギリシャ神話にまで及んでいきました。
ギリシャ神話を学ぶことは、西欧の思想(世界観)・歴史・文芸・宗教の理解に不可欠です。またキリスト教とともに西欧の人々の精神的支柱となりました。実際、欧米の映画やアニメなどの作品の元ネタにもなっていることがわかりました。
ギリシャ神話は膨大で、すべてを語ることはできませんが、本HPレムリアでは主要なギリシャ神話について、以下のようにまとめてみました。これらの中には、古事記や日本書記の神話に類似の物語や、大人気アニメ「ワンピース」のストーリーにつながるような寓話など、新しい発見もありました。
<ギリシャ神話シリーズ>
<関連投稿>
古代オリンピック:ゼウスの神域・オリンピアの祭典
ギリシャ:西洋文明発祥の地の到達点
ギリシャ王室:かつてギリシャにも王がいた!
ギリシャ史 (古代):エーゲ文明からローマ支配まで
ギリシャ史 (近現代):独立戦争から王政崩壊まで
ヨーロッパの源郷・ギリシャとは?その国柄と歴史
2024年7月、パリオリンピック・パラリンピックの開催を機に、オリンピック発祥に地、ギリシャに関心が沸き、古代オリンピックからはじまり、ギリシャの古代史、さらにはギリシャ神話にまで、学習の範囲を広げていきました。
また、同年年5月の秋篠宮家の佳子さまのギリシャ訪問を受け、ギリシャの王室やギリシャの近現代史についてもまとめてみました。
もともと、大学では形だけは哲学専攻でしたので、ギリシャ哲学には愛着があり、今回のギリシャ・シリーズは、特別な思いを持ちながら取り組むことができました。
ギリシャ:西洋文明発祥の地の到達点
ギリシャ王室:かつてギリシャにも王がいた!
ギリシャ史 (古代):エーゲ文明からローマ支配まで
ギリシャ史 (近現代):独立戦争から王政崩壊まで
両陛下ご訪英、確認された日英の深いつながり
天皇、皇后両陛下は、2024年6月、国賓として英国を(公式)訪問されました(22日〜29日)。天皇が国賓として訪英するのは1971年の昭和天皇、98年の明仁上皇に続き26年ぶり3度目となりました。滞在中、天皇陛下とチャールズ国王は、2日英の最高勲章「大勲位菊花章 頸飾(けいしょく) 」と「ガーター勲章」を贈りあわれました。皇室、王室とも代替わりを経たうえでの親善訪問は、日英両国の絆をさらに深める機会となりました。訪英は当初、エリザベス女王の招待を受けて2020年春に予定されていましたが、新型コロナウイルス禍の影響で延期されていました。今年に入りチャールズ国王から改めて招待があったそうです。
今回、両陛下ご訪英において、個人的に関心がでてきたのが、両国君主が贈り合った勲章についてでした。そこで、本HP「レムリア」では、以下の4項目に分けて、日英の栄典制度についてまとめてみました。
復活祭だけではない復活祭の典礼
カトリック教会やプロテスタント教会における2024年の復活祭(イースター)(復活の主日)は、3月31日の日曜日に終了しましたが、復活祭に関連する典礼(儀礼・儀式)はその後も継続され、この5月19日(日)の「聖霊降臨の主日(ペンテコステ)」で終了しました。また、復活祭(イースター)の前も、その準備期間として、40日間の「四旬節(レント)」が設けられていました。その間、受難の主日(棕櫚の日曜日)、聖なる過越の3日間において、多くの儀式が挙行され、改めて、キリスト教における復活祭(イースター)の重要性を再認識した次第です。
そこで、今回は、復活祭前の「四旬節(レント)」、「復活祭」、その後の「復活節」についてまとめた投稿記事を出しましたので、参照下さい。
また、イースター(復活祭)についてのさらに知りたいかたは以下のサイトへアクセス下さい。
<関連投稿>
キリスト教の教派
カトリック教会:ローマ教皇とバチカン
プロテスタント教会:ルター発の聖書回帰運動
東方正教会:ギリシャから正統性を継承
アメリカのキリスト教:バプティストを筆頭に…
キリスト教史
キリスト教史①:イエスの生涯とその教え
キリスト教史②:十二使徒とパウロの伝道
キリスト教史③:東西教会はいかに分裂したか?
キリスト教史④:修道院運動の盛衰
キリスト教史➄:異端と魔女狩り
正教会のキリスト教史:ギリシャからロシアへ
回想 ヘンリー・キッシンジャー
アメリカ外交に史上最も影響力を与えた人物と評されたヘンリー・キッシンジャー氏(以下敬称略)が、2013年11月29日、コネティカット州の自宅で亡くなりました(100歳で、死因は不明)。
キッシンジャーと言えば、大国の現実的なパワーバランスによってのみ世界秩序が決まるという勢力の均衡(バランス・オブ・パワー)の考え方に徹し、米中和解、ベトナム戦争終結、ソ連との緊張緩和(デタント)など八面六臂の活躍をし、ノーベル平和賞も受賞するなど、輝かしい外交実績を残しました。
その一方で、キッシンジャー外交は、現実主義(リアリズム)の立場からアメリカの戦略的利益を追求するあまり、独裁体制を容認したり支持したりすることも厭わず、明らかに道徳的・理想主義的ではありませんでした。そのため、キッシンジャーは人権や民主主義を軽視した冷血漢と一部で批判されました。実際、大国やとう弄された小国の国民に多くの犠牲を出したことから、「戦争犯罪人」とまで呼ぶ人たちもいます。
このように、常に毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとったキッシンジャーの外交の足跡を追ってみましょう。
ーーーーーーーーー
ーーーーーーーーー
以下、本文の内容にご関心の方は、次のサイトで閲覧できます。
では、この投稿では、拙著「日本人が知らなかったアメリカの謎」で紹介したキッシンジャーについての記事を、今回特別に全文紹介したいと思います。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ヘンリー・キッシンジャーという人物
―なぜこの人がいつも陰謀論のやり玉にあがる!?―
まず、ヘンリー・キッシンジャーの輝かしい経歴を概観してみよう。キッシンジャーは、ユダヤ人亡命者として、ドイツからアメリカに移住し、ハーバード大学で学んだ。ロックフェラー家の支援を受けながら学者としてのキャリアを積んでいった。ネルソン・ロックフェラーが、68年にニクソンと共和党大統領候補を争った時、選挙参謀を務めた後に政界に転身した。
キッシンジャーは、ロックフェラーの政敵、ニクソン大統領のもとで、国家安全保障担当の特別国務補佐官、後に国務長官にもなった。次のフォード政権下でも留任し、実質、1970年代のアメリカ外交を握った人物として知られる。71年には、当時国交が回復していなかった中国に接近、北京を秘密裡に訪問する「忍者外交」を行い、翌年のニクソン大統領の訪中を実現させた。
73年には、パリでベトナム和平協定に調印し、4年越しのベトナム和平交渉にも成功。この功績が評価されて、キッシンジャーはノーベル平和賞を受賞した。また、ソ連との核ミサイル軍縮交渉も努め、「デタント(緊張緩和)」政策を展開した。
また、交友関係も広く、大学時代から面倒をみてもらっていたロックフェラー家だけでなく、欧州ロスチャイルド家などの上級階級、さらにはイギリス王室とも付き合いがあるとされる。
キッシンジャーは秘密が大好き!?
こうして華々しい成果とは裏腹に、キッシンジャーには常に「陰謀」の影がつきまとった。彼は、中国への「お忍び=忍者」外交を典型とした秘密外交を好んだ。その秘密が外交文書の公開によって徐々に明らかにされてきているのだ。
ベトナム戦争の軍事戦略も担ったキッシンジャーは、ベトナムに対する枯れ葉剤の散布や、カンボジアに対する「じゅうたん爆弾」を推進した。枯れ葉剤によって寄形児が生まれているという事実、また非人道的な「じゅうたん爆弾」で結果的に100万人近い農民を大量に虐殺したことの責任は問われないのか?と市民団体などから非難されている。そのキッシンジャーがノーベル平和賞を受賞したのだ!?北ベトナム側のレ・ドゥク・トも同時受賞したが彼は賞を辞退した。
また、カンボジア以外でも、ギリシャのキプロス侵攻、インドネシアの東ティモール侵攻、チリのアジェンダ左派政権の転覆などを支持(承認)したとされ、それが結果的に大量虐殺や暗殺などが行われることになってしまった。
こうしたことから、「戦争犯罪人」として裁くことを求める声が国際社会の中で高まった。実際、フランスでは、裁判所に戦争犯罪の重要参考人として呼ばれたほどである。 また、日本でも、田中角栄元首相をロッキード事件で政治的に失脚させたのもキッシンジャーが背後にいたといわれている。
キッシンジャー・アソシエイツの時代
キッシンジャーは70年代末には政治の表舞台から一応離れた後、1982年に「キッシンジャー・アソシエイツ」というコンサルタント会社を設立した。
主に、ロックフェラー系企業であるチェース・マンハッタン銀行(現チェースモルガン銀行)やAIG(保険)、アメックス、コカコーラ、化粧品のレブロンと顧問契約を結び、国際的な権益促進させてあげている。また、投資ファンドのブラックストーン・グループ(会長はピーターピーターソンでCFR理事長)とは戦略的同盟関係を結んだ。
キッシンジャー・アソシエイツの人脈もすごい。民主・共和党両党にコネを持っていることが伺える。会長だったブレント・スコウクロフトと社長のローレンス・イーグルバーガーは、ブッシュ(父)政権で、スコウクロフトが国家安全保障担当補佐官、イーグルバーガーが国務副長官(後に国務長官)になった。また、スタッフメンバーであったティモシー・ガイトナーはオバマ政権下の財務長官になり、ビル・リチャードソンはクリントン政権の国連大使、ブッシュ政権の時のエネルギー長官になった。
さらに、ユダヤ人としてADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)と連携しているといわれるキッシンジャーは、主にロックフェラー系の企業のコンサルタントを行い、CFRの「予言書」フォーリンアフェーズに定期的に執筆している…。キッシンジャーが述べる「予測」は、ロックフェラーの世界戦略を実現するための「予定」だと揶揄されているほどだ。
キッシンジャーと中国
米中和解の立役者としての縁で、キッシンジャーは中国との太いパイプを持ち続けている。キッシンジャー・アソシエイツの会員企業の多くが中国の市場に参入し、キッシンジャーが彼らの商業権益を確保してやっているのである。ブッシュ家が、中国で10兆円の資産を共産党と共同運用しているといわれており、それも、委託管理はキッシンジャーアソシエイツだそうだ。
キッシンジャーと中国の蜜月関係から、アメリカは中国と決定的に対立することは予想しずらい。米中がどんなに対立しても、裏ではアメリカと中国はキッシンジャーがパイプ役となって手を組んでいるという陰謀論が頭をもたげている。(了)
★☆★☆★☆★☆★☆★☆
拙著「日本人が知らなかったアメリカの謎」には、ほかにも、キッシンジャーと関係の深い、ロックフェラー家やCFR(外交問題評議会)などについても、雑学のレベルで読み物として紹介しています。ご関心のある方は、お買い求め、またはお近くの図書館でお読み頂ければと思います。
モーゼ・パーク!?に行ってみた
10月23日(月)、仕事で富山に来たので、空いた時間を使って、お隣の石川県の宝達(正確には羽咋郡宝達志水町)まで足を延ばし、「モーゼパーク」を訪れました。このレムリアでも、「日本の神話・伝承」の中で、「モーゼの墓」について紹介しましたが、その時は、聞いたり、調べたりしただけの内容でしたが、実際、フィールドワークして、初めて、日本にある伝承の一つとしてのモーゼ伝説について、自信をもってお伝えできるという気になりました。
さて、宝達山の麓にある「モーゼパーク」のモーゼの墓が、本当にモーゼの墓なのか、どうかとかいうことが問題なのではなく、モーセ伝説を通して、日本という国の懐の深さを感じることができた(異文化でも何でも受け入れてしまう)ことが有意義でした。とくに、モーゼパークもよかったのですが、宝達山そのものが霊山であり、神の山であると思いました。山全体から発せられているオーラのようなものを感じ、まさにパワースポットでした。モーゼパーク内でも「沐浴」できて、リフレッシュできました。また、パーク内のモーゼの墓の場所から見ることができた日本海も美しかったです。
モーゼパークは現在、自治体が管理しているとのことですが、願わくば、公園の整備に予算をもう少し投じていただければ、もっと来訪者が増えると思いました。
翌24日は、「モーゼの墓」の論拠となっている竹内文書と密接な関係のある、御皇城山(呉羽山)の「皇祖皇太神宮」(富山市金屋)に参拝しました。皇祖皇太神宮については、また改めて投稿記事にしてみたいと思います。
モーセ伝説の詳細や竹内文書については既に以下の記事を書いているので読んでみて下さい。