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2019年09月15日

ニュース:大嘗祭の献上米収穫の儀

「大嘗祭」献上米を収穫する儀式

 

天皇陛下の即位に伴って今年11月に行われる伝統儀式「大嘗祭」に献上する米を収穫する儀式が15日、大田市で行われました。「大嘗祭」は、天皇が、即位後初めて、新しく収穫された穀物を神々に供えた上でみずからも口にして、国と国民の安寧や五穀豊穣などを祈る儀式で、全国から米などが献上されます。

 

島根県では、大田市の農業生産法人の代表、中祖雅之さんが米を献上する献穀者に選ばれ、15日、関係者18人が出席して稲刈りの儀式、御抜穂式が行われました。ことし5月に田植えが行われた田んぼは、稲穂がたわわに実っていて、神職が祝詞をあげて収穫に感謝しました。そして、参加者たちは鎌を手に田んぼに入り、根元からていねいに稲を刈り取っていきました。刈り取られた稲は、組んだ木にかけて自然乾燥させ、来月下旬に献上されることになっています。栽培した中祖雅之さんは、「なかなかしっかりした稲が育ったと思います。一回しかない重要なことなので、令和の時代が平和になることを願って献上します」と話していました。

 

2019年09月15日

ニュース:秋篠宮家の佳子さま、欧州ご訪問

佳子さま欧州2カ国へ出発 初の海外公式訪問

(2019.9.15、産経)

 

秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまは15日、日本との友好、外交関係開設150周年を迎えたオーストリアとハンガリーを公式訪問するため、羽田発の民間機で出発された。佳子さまの海外公式ご訪問は初めて。25日に帰国される。15日夜(現地時間)にドイツ経由でオーストリアの首都、ウィーンに到着し、16日にファンデアベレン大統領を表敬される。17日は友好150周年記念レセプションに臨席し、あいさつをされる。

 

19日には空路でハンガリーの首都、ブダペストへご移動。20日にアーデル大統領を表敬し、大統領夫妻主催の昼食会に臨まれる。21日は外交関係開設150周年を記念した夕食会であいさつをされる予定。両国滞在中は、日本人学校などを訪れ、在留邦人とのご懇談の機会も設けられた。

2019年09月10日

テレビ:「昭和天皇は何を語ったのか」

9月7日深夜、Eテレで、NHKスペシャル“昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~”が再放送されました。番組は、初代宮内庁長官、田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」をNHKが入手し、戦後、昭和天皇がどういうお考えでいらっしゃたのか、またその当時の政治情勢を、昭和天皇と田島長官とのやり取りを通して描き出したものでした。

 

拝謁記(はいえつき)は、民間出身の田島長官が、長官就任の翌年、昭和23年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めたもので、天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像と占領期の実像を知る第一級の資料とされています。

 

この番組の中で、最も印象深かったことは、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語られ、1952年のサンフランシスコ講和条約後の独立記念式典の「おことば」で国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望されていましたが、当時の吉田茂首相の反対で、最終的に敗戦への言及は削除されたという事実です。しかし、吉田総理の判断は、単に彼が頑強な保守政治家だったからなされたのではなく、それは天皇を守るために採られたものであったこと、特に、当時あった天皇退位論を抑えるという目的があったという事実もわかりました。では、この点について掘り下げてみたいと思います。

★☆★☆

 

封印された天皇の「反省」

昭和天皇は、田島長官に次のように語られ、「おことば」に反省の言葉を入れることを強くこだわり続けられました。

 

「私はどうしても反省という字を入れねばと思う」

「反省といふのは私にも沢山あると言えばある」

「『軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか、…それらを皆反省して繰返したくないものだ』といふ意味も今度のいふ事(おことば)の内にうまく書いて欲しい」

 

こうした昭和天皇のご意向を受け、「おことば」の草案が書かれ、田島長官が吉田首相にお言葉案を説明されます。それに対する吉田首相の反応です。

 

「『戦争を御始めになった責任がある』と言われる危険がある。」

「今日は、もはや戦争とか敗戦とかいふ事は、言って頂きたくない気がする…。」

「大体結構であるが、(反省ばかりでなく)いま少し積極的に新しい日本の方向というものを力強く示していただきたい」

 

これを受け、田島長官は「新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは、期して待つべきであります」という言葉を加えたいとして最終案が作成され、吉田の大磯の自宅に送られました。数日後、首相からの返信が来ます。それを見た田島氏は慌てて、昭和天皇に相談します。それは、昭和天皇が反省の念を述べた、思い入れのある一説をすべて削ってほしいという要求があったからです。吉田総理大臣が、「おことば」の草案から削除を求めて、実際に削除された一節は、次の部分でした。

 

――――

国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、また摂政以来終始変わらざる念願であったにもかかわらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります。

――――

これに対して、昭和天皇は、「(それでも)私は反省をしなければならぬ、と思う」と譲られなかったそうです。

 

 

天皇退位論

吉田首相が、田島長官から昭和天皇の思いを聞いていたにもかかわらず、「反省」の部分を削除することにこだわった背景には、戦後直後からあった「昭和天皇退位論」が、この時期、再燃していたそうです。その急先鋒は、驚くなかれ、中曽根康弘元首相だったようです。番組ではこの辺りの事情を次のように再現してました。

 

国会において、中曽根議員は、「もし天皇が退位のご意志があるならば、平和条約発効の日が最も相応しいだろう」と、天皇陛下の意思さえあれば、平和条約発効とともに退位すべきだと述べたのです。これに対して、吉田首相は答弁として「これをいうものは非国民だ」と一蹴したと番組では紹介していました。

 

中曽根康弘という現在もご存命の大物政治家は、今では保守政治家の代表者のように言われていますが、若き頃は「風見鶏」と揶揄されていました。政治の風向きを読んで、自分の主張を180度でも変えるという批判です。当時、天皇退位論に乗っかた方がよいと判断されたのかもしれません。中曽根氏といえば、日本での原発推進の旗振り役された方でもありました。政治家にとって風を読むことは大事なことなのでしょうね。

さて、いずれにしても、この状況を受けて、田島長官は、昭和天皇に対して、「首相の思いとしては、せっかく今、声を潜めている退位論を呼び覚ます不安があること、今さら戦争とか敗戦などは聞きたくない、ということだ」と吉田首相の意図を説明されたそうです。結局、昭和天皇は、田島氏の努力を労いながら、憲法で定められた「象徴」として、総理大臣の意見に、最後は同意されたそうです。

 

私は、番組を通じて、昭和天皇が秘書役の田島長官に、自らの意見を存分に述べられていらっしゃったことに、何かしらの安堵感を覚えました。このほかにも、田島長官との会談を通して、当時の昭和天皇のお考えを知ることができます。

 

戦前の軍部と敗戦について

昭和天皇は、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考えれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかった」、「東条内閣の時は、すでに病が進んでもはやどうすることも出来ぬといふ事になっていた」と繰り返し語っていらっしゃったそうです。

 

戦後、「旧軍閥式の再台頭は絶対嫌だ」と、昔のような軍隊の復活には否定的でいっしゃいました。番組では、次のようなエピソードが紹介されていました。

 

1950年6月の朝鮮戦争を受けて、警察予備隊がその年の8月に発足した際、彼らが「捧げ筒」という銃口を上に向ける旧軍の儀式を行っていたのを、ごらんになられ、「例の声明には、反省するという文言はいれる方が良いね」と述べられたそうです。

 

 

戦後日本の再軍備について

朝鮮戦争勃発後、アメリカは日本に対して手のひらを返したように、日本に対して再軍備を求めました。そこで吉田内閣は警察予備隊を創設させますが、警察予備隊の位置づけに関しては、議論がありました。

 

吉田茂首相は、「経済力が回復するまでは国として軍隊を持たなくていい、アメリカにおんぶにだっこでいいじゃないか」という意見でした。番組では吉田首相の肉声を再現していました。「こないだダラスが来たときも、再軍備なんて冗談じゃない、と。日本の実情を知らないからそう言うことを言えるんだ、と本人にも言ってやりましたよ。日本としては、なるべくアイツを利用して、アメリカにおっかぶせて倹約しようと…」。吉田首相の豪快な一面は、自国の防衛は外国の軍隊に委ねることに疑問を呈してきた部下に対して、「番犬と思えばいいんだよ」と諭したエピソードなどでも知られていますね。

 

一方、吉田茂の政治的ライバル、鳩山一郎などの保守派は、「警察予備隊は、警察じゃなくて軍隊なんだから、いっそのこと憲法改正して軍隊にすればいい」と主張していました。ここに、護憲か改憲の議論も活発になったのでした。

 

さて、この極めて政治色の濃いテーマに、昭和天皇も自らのお考えを堂々と述べられていました。田島長官の「拝謁記」によれば、昭和天皇は「国として独立する以上、軍は必要」、「軍備の点だけ公明正大にして、堂々と改正してやった方が良い」と私的に発言なさっています。つまり、昭和天皇は、当時、保守派寄りの意見をお持ちだったのです。もちろん、「旧軍復活はダメ」という条件の下でではありました。

 

「拝謁記」にはまた、こうしたご発言をされた背景には、「当時、共産国が勢いを増し、東西冷戦の危機があった」と書かれています。さらに、昭和天皇は、田島長官に、「吉田首相にも質問の形で再軍備のことを促した方が良いよね」というような相談をされていっらっしゃたのですから驚き数倍です。

 

番組では、歴史家の秦邦彦氏が登場して、この件について次のように解説していました。

「ここでの日本の安保に対する天皇の意見は、第9条を改正して再軍備化するのは、国家として当然ではないか、と言っている。当然、旧軍閥の復活はダメだという前提はあるが…」。その一方で、「吉田茂は、『日本の経済力がまだ高くないうちは待ってくれ』という意味を込めて、再軍備には反対だった。天皇や保守派は、今後の危機を考えていっそのこと再軍備、を考え、吉田茂は現実的にお金がないから無理、と考えた」…

 

私は、共産主義の懸念以前の問題として、昭和天皇は、「国家が国民を守るために、軍隊を持つのは当然だ」という自然な良識から出されたご発言ではなかったかと思っています。また、吉田茂の考えは、単なる経済的な理由ではなく(お金のことは見せかけの理由)、深い思慮に基づいたもっと戦略的な動機があったのではないかと思っています。

 

では、再軍備に対する昭和天皇のご意見はどうなったのでしょうか?「拝謁記」では、田島長官は昭和天皇の意見に対して、「そういうことは政治のことゆえ、陛下がご意見をお出しにならぬ方が良いと存じます」と、首相にも言わない方がいいと助言されました。そして、昭和天皇もこれを受け入れられました。

 

★☆★☆

この番組を通して、私は、戦後日本に対する昭和天皇のご心労がいかほどであったか計り知れない思うと同時に、そのご心労を何よりも理解したであろう田島道治という人物の存在意義の大きさに感じ入りました。

 

<参考>

NHKスペシャル:昭和天皇は何を語ったか?

昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨

びぼうぶろぐ

2019年09月06日

歴史:源氏長者と徳川家康

先の参議院選挙で、徳川家康の末裔が立候補していたことをきっかけに、徳川家について調べる気になりました。また、秋田へ行った際、佐竹氏について学ぶうちに、源氏の起源というテーマに行きつきました。その源氏のストーリーの中で徳川家がほとんど出てきませんでした。征夷大将軍になるためには源氏でなければなりません。家康はいかなる手段を使って征夷大将軍になったのでしょうか?

 

このテーマに明るくない方は、「源氏について調べてみた(7月31日投稿)」を先に読んでいただくと理解が深まるものと思います。

 

――――――――――

源氏長者

「源氏長者(げんじのちょうじゃ)」という「氏長者(うじのちょうじゃ)」があります。「氏長者」とは、「氏(うじ)」の中で官位が最高位の人物が天皇より任命されます。源氏長者(げんじのちょうじゃ)の場合も、源氏一門の長であり、従一位の源氏の姓を名乗る者に対して与えられました。源氏長者とともに有名な氏長者には、藤原一族の「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」がいました。氏長者になると、氏のなかでの祭祀、召集、裁判、官位の推挙などの諸権利を持ちます。

 

最初に「源氏長者」を称したのは、平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源信(みなもとのまこと)(810~869)とされています。また、初代の嵯峨源氏嫡流である源融(みなもとのとおる)(822~895)は、皇族の子弟の学校である「淳和院」「奨学院」の別当(理事長に相当)に就任し、これ以降、源氏長者が「淳和院・奨学院の両別当を兼任する」ことが慣例となりました。

 

このように、源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていましたが、その後、公家の名家である村上源氏の久我(こが)家が、公家の代表として、その地位を継承していました。村上源氏は、藤原道長の子で関白頼通の養子、源師房を祖とする家柄で、元来、「源氏」と言えば村上源氏をさすほどでした。源頼朝、足利義満、武田信玄などの祖とされる武家の清和源氏は、平安時代のこの当時、公卿の警護や地方の受領でしかなかったといいます。

 

しかし、清和源氏の足利尊氏が、1398年、征夷大将軍となり、室町幕府を開くと、清和源氏の地位が一気に高まります。3代足利義満は、「源氏長者」と「淳和奨学両院別当」の地位を当時の久我家から奪うことに成功し、武家源氏では最初の源氏長者となったのです(征夷大将軍と源氏長者を兼ねたことも初)。これによって、武家の棟梁である義満は、公家のトップともなり、明との貿易では「日本国王」と名乗ることを許されました。

 

義満以降、足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名が、正式に源氏長者になっています。また、村上源氏の久我家も、源氏長者の地位に返り咲いており、この時代、源氏長者は、清和源氏・足利家と村上源氏・久我家が交替で務めていました。しかし、その後、足利将軍の地位が不安定となり、足利家の源氏長者へ関与しなくなったことで、戦国時代には再び村上源氏の久我家から源氏長者が任ぜられるようになりました。

 

ところで、ここまでの話しの中で、嵯峨源氏、清和源氏など〇〇源氏がでてきましたが、次に源氏嫡流について述べてみたいと思います。

 

 

源氏嫡流 

多くの源氏の中で、源氏の嫡流すなわち本家・宗家の血統を源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)と言います。ただし、源氏の嫡流といっても、源氏全体の嫡流を意味せず、特定の源氏の系統を指すことが多いとされています。同じ源氏でも、遠祖たる天皇によって、嵯峨源氏、醍醐源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などに分けられ、その嫡流を、例えば嵯峨源氏であれば、嵯峨源氏嫡流と呼ばれたりしていました。

 

また、公卿を輩出した公家源氏と武家の棟梁として活躍した武家源氏に大きく分けられることもあります。広く知られているのが後者で、中でも、清和源氏の流れは鎌倉幕府の源氏将軍として栄えました。さらに、清和源氏の系譜においても、2代目源満仲の嫡子で長男・頼光の子孫を摂津源氏、満仲の三男・頼信に始まる家系を河内源氏と呼び、それぞれ清和源氏の嫡流と主張していました。

 

摂津源氏は、京都を活動基盤としました。以仁王が平家を打倒すべく諸国の源氏に呼びかけた際に始めに挙兵した源頼政は摂津源氏でしたが、従う兵はその拠点であった摂津国をはじめとする畿内に限られたので失敗に終わってしまいました。

 

一方、河内源氏は坂東へ勢力を扶植し、後に、東国において圧倒的な求心力を得ていました。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる源義家から、源頼朝や足利尊氏を輩出し、清和源氏(河内源氏)が武家源氏の代表とみなされるようになりました。正確には、源頼朝が、武家の棟梁の地位を確実なものにしようという政治的な思惑により、源氏嫡流という地位を生み出したとの見方が支配的です。実際、頼朝は、弟・義経以下家人の自由任官を禁止し、源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占的地位を確保しました。

 

このように、頼朝は、東国武士を臣下としてきた河内源氏の遺産を受けぎ、朝廷から受けた将軍宣下など与えられた特権を背景に、頼朝の系統を嫡流とすることに成功したのです。こうして、頼朝の先祖を遡及し、頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏が武家の源氏嫡流と見られるようになりました。

 

ただし、源頼朝の一族が3代実朝で滅びると、武家源氏の棟梁という概念も重要性がなくなってしまいました。しかし、その後、足利尊氏がでて、京都の室町に幕府を開き、足利将軍家を確立して頼朝以来の源氏将軍を復活させました。さらに、足利義満が征夷大将軍の地位に加えて、源氏長者・淳和奨学両院別当に地位を得て、公家と武家にまたがる強大な権力を獲得したことは、既に説明した通りです。

 

河内源氏の流れを汲む家は、足利家だけでなく、新田義貞の新田家があり、また、源義家の弟である義光(新羅三郎義光)からは、武田家、佐竹家など名家を輩出します。しかし、武家の棟梁とある清和源氏(河内源氏)の系譜に、徳川の名前は出てきません。徳川家が、武家源氏の清和源氏であるという根拠は何もなく、素性が明らかでない三河の土豪との見方が支配的です。では、徳川家康はいかに、源氏の名を勝ち取り、征夷大将軍として幕府を開くことができたのでしょうか?その時、源氏長者の地位はどうなったのでしょうか?

 

徳川家の由来

徳川家康は、1555年(天文24年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、次郎三郎元信と名乗り、名は後に祖父・松平清康の偏諱(へんき:名前の一部)をもらって蔵人佐元康と改めています。

 

家康の転機は、1566年(永禄9年)、五摂家筆頭の近衛前久の力添えで、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓したことです。家康の遠祖は、新田源氏の流れで、上野国の「世良田(せらだ)郷・得川(とくがわ)氏」であるとしています。しかし、当初、朝廷は、「世良田氏が三河守になった前例がない」として家康の三河守の官職と、徳川の改姓を認めませんでした。しかし、近衛前久が、「得川氏はもと源氏で、その系統の一つに藤原になった先例がある(=藤原氏ならば「三河守」任官の前例がある)」として、家康個人のみが、松平から「徳川」に「復姓」するという奇策を考案しました。得川から徳川になった(漢字を変えた)のは「仔細あって」のことだそうです。

 

いずれにしても、これを朝廷が認め、家康は「徳川」という苗字を下賜され、三河守になることができたのでした。この特例ともいえる措置で、源氏の「徳川家」が誕生しました。しかし、三河守は藤原でなければならないので、家康は「藤原朝臣家康」と称していたそうです(朝臣あそんは朝廷の臣下の意)。ただ、家康は当時、藤原と源氏を巧みに使い分けていたと言われています。

 

しかし、その後、家康は豊臣秀吉への臣従を強いられます。1586年5月、秀吉の妹・朝日姫を正室として迎えさせられ、同年9月、秀吉の母・大政所まで家康の元に送られてきます。この結果、家康は秀吉の親族衆になり、「豊臣姓」を下賜されます(秀吉は1585年に関白に就任、翌9月に豊臣姓を賜り太政大臣に就任していた)。家康は、1596(慶長元)年5月、秀吉の推挙により、「正二位・内大臣」を受けましたが、「源(藤原)朝臣家康」ではなく「豊臣朝臣家康」での宣下であったと言われています。

 

1598年(慶長3年)8月、太閤・豊臣秀吉が死去します。これにより、徳川家康の天下人への道が開けたわけですが、この時の家康は、五大老・筆頭で、形式的には豊臣家の家臣でした。つまり、家康にとって、秀吉の死は、単に主君が秀吉から秀頼に代わったことを意味していました。

 

秀吉の死後、武家として朝廷の官位は、内大臣の家康が最上位となりました。徳川家康の官位は「正二位・内大臣」であったのに対して、豊臣秀頼の官位は、当時はまだ「従二位・権中納言」でした。官位では秀頼を凌いでいるのですが、家格(家柄・家の格式)で劣っていました。豊臣家に家格は、最高位の摂関家、しかも秀頼は将来は関白が見えています。これに対し、徳川家は清華家で最上位の摂関家の後塵に拝しています。

 

家康にとって秀吉に代わる天下人になるためには、豊臣家からの呪縛を離れ、秀頼を凌ぐ地位を確保することが必要になってきました。そのためには、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、源氏の最高位である源氏長者の格付けを得る必要がありました。そうすると、征夷大将軍の道が開かれます。

 

 

征夷大将軍と源氏長者への道

秀吉の死の翌年(1599年)、朝廷内でスキャンダルがありました。久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし)の密通の風聞が立ったのです。この結果、久我敦通・通世親子は、家領の多くを奪われ京都を追放され、失脚します。前述したように、久我(こが)家は村上源氏嫡流で、この時期、源氏長者を独占していました。これで、徳川家が源氏長者になるために障害が排除された形です。

 

1600年、家康は石田三成に関ヶ原の戦いを起させ、勝利します。ただし、関ヶ原の戦いとは、形式的には豊臣家臣同士の争いでした。ですから、家康は、大坂城の淀殿、秀頼へ戦勝報告を行い、淀殿と秀頼から褒美をもらっています。ここでも、家康の立場は、あくまで豊臣家臣だったのです。

 

そこで、家康は征夷大将軍として幕府を開くため、また源氏長者の格付けをめざして、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、徳川氏の系図の改姓を行いました。何でも、清和源氏の吉良家の系図を借用し(譲り受け)、徳川氏の系図を足利氏と同じく八幡太郎源義家に通じるようにさせたそうです。武家が日本を支配するために幕府を開くのは、源頼朝公以来の伝統であり、征夷大将軍に任命されねば幕府を開くことはできませんでした。そして、征夷大将軍になるには源氏(清和源氏系の河内源氏)でなければならないという不文律がありました。

 

ただし、征夷大将軍になっても官位は上がるとは限りません。この時の家康の官位は、「正二位」でしたが、将軍になる前にその上の「従一位」を望んだと言われています。というのも、豊臣秀頼が将来成人して関白を継げば従一位になることになるとされていました。そこで少なくとも秀頼に「負けない」ためにも「従一位」が必要だったのです。それだけではありません(むしろこちらの理由の方が重要)。源氏長者になる条件に「従一位の源氏の姓を名乗る者」というのがあったのです。家康にとって、徳川の世を盤石なものにするために、征夷大将軍だけでは不十分で、源氏長者になることが必要だったという思われます。そして遂にその日が来ました。

 

1602年(慶長7年)1月、徳川家康に「従一位」が与えられたのに続き、翌1603年2月、後陽成天皇が、徳川家康を征夷大将軍ならびに淳和奨学両院別当に任命しました。この時、家康は「源朝臣家康」として将軍宣下をうけています。家康はまた、征夷大将軍宣下と同時に、源氏長者宣下を受けることができました。1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、征夷大将軍になったのは1603年です。将軍になるまでに、3年かかった理由は、「源氏長者」になる条件ともいえる「従一位」を受けるのに時間がかかったということができるかもしれません。

 

家康は日本国王か?

征夷大将軍と源氏長者はセットのような印象がありますが、前述したように、室町時代までは、公家の村上源氏の系統がほぼ継いできました。しかし、村上源氏の久我敦通を失脚させ、源氏長者の地位が空位となった後、清和源氏・徳川将軍家が、江戸時代を通じて、征夷大将軍と源氏長者を独占(世襲)することができました。

 

武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、日本国王を名乗った足利義満から始まった慣例で、途中途切れていましたが、徳川家康が、藤原(豊臣)姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることに成功しました。とりわけ、源氏長者になることは、家康は「将軍」の権威を一層高め、武家だけでなく、公家の世界も掌握し、実質的な日本の最高実力者の地位を得る絶対条件だったのです。

 

 

<参考>

源氏嫡流嫡子(Wikipedia))

源氏長者(Wikipedia)

「徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?」

「久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道」

「徳川家康 将軍になるためルーツを詐称した」(SAPIO2018年5・6月号)

「徳川の武家政治は嘘から始まっている」など

 

2019年08月29日

伝承:一口に「七夕」と言っても…

夏も終わりに近づき、7月、8月は全国で夏祭りが行われました。先日(8月12日)、東北の三大祭りについて、紹介しましたが、三つのお祭りの由来に共通していたのが、七夕のお祭りでした。今回は、夏の終わりに七夕についてまとめました。

 

七夕伝説

 

七夕まつりは、五節句としての年中行事のひとつで、日本の星祭りです。縁起の良い「陽数(奇数)」が連なる7月7日の夕べに行われ(旧暦7月7日の行事)、「七夕の節句(しちせきのせっく)」と呼ばれています。七夕(たなばた)といえば、一般的には、織姫と彦星が年に一度再会する日として知られ、毎年7月7日の夜に、願いごとを書いた五色の短冊や飾りを笹の葉につるし、星(織姫と彦星)に願う習慣が今も残ります。ただし、この織姫と彦星の話しが中国から伝わったものであることを知っている人は意外と多くありません。かといって、単に中国の伝承が、そのまま日本に星まつりになったかというとそうでもありません。

 

<七夕の由来>

 

七夕は、日本古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説や、「お盆前の清めの風習」に、中国伝来の「織姫と彦星の伝説」と「乞巧奠(きっこうでん)」などが結びついて、現在のようなかたちになりました。

 

  • 織姫と彦星の伝説

日本の七夕のルーツの一つとして最も有名なのが、中国伝来の「織姫(おりひめ)」と「彦星(ひこぼし)による「機織りの女の子と牛飼いの物語」です。「織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)伝説とも呼ばれています。

 

織姫と彦星の物語

昔々、天の川の東には天の神様(天帝)が住んでいました。その天帝には、一人の娘がおり、名前を織姫と言いました。織姫は、雲霧消兼という布を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを見つけてやろうと思いました。天帝は、天の川の西側に住む働き者で有名な牛飼い、彦星「牽牛けんぎゅう」と引き合わせました(彦星は織姫の対義語)。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。こうして、天の川の西岸に住む機織りの織姫と、東岸に住む牛使い・彦星が、織姫の父親である天帝のすすめで結婚しました。

 

しかし、二人は、結婚すると、仲睦まじくするばかりで、全く仕事をしなくなってしまいました(大人の世界でいえば、夫婦の「営み」を盛んに行っていたようです)。織姫の作る織物は天の住人の着衣になるものです。また、牽牛が牛を放置しておくと、畑の作物は勝手に食べて暴れたり、逆に病気になったりしてしまいます。天の神様に、天上に住む人々から苦情が届くようになりました。

 

何度、注意しても聞かない二人に業を煮やした天帝は、「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、天の川の橋を壊し、川を隔ててふたりを離れ離れにしました。会おうとしても、巨大な天の川が二人の間に立ちはだかります。こうして、織姫はこと座のベガ星に、牽牛はわし座のアルタイル星で、暮らすことを余儀なくされてしまいました。その距離は、14光年だそうです。ただし、「一年に一度だけ、二人は会ってもよい」と、七月七日の七夕の夜に限って再会することが許されました。

 

その後、織姫と彦星は、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織り、彦星も天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜になると、織姫は、天帝の命を受けた白鳥座のデネブ(星)のカササギの翼にのって、天の川を渡り、彦星の所へ会いに行きます。地域によっては、七夕の夜、少しでも雨が降れば二人は会えないと伝えるところもあれば、その雨は織姫のうれし涙で二人は必ず会えるという伝承もあります。

 

このように、年に一度の逢瀬は、七夕のメインテーマとなり、この星伝説(織女牽牛伝説 )は、せつない恋愛話しとして、日本には奈良時代に伝わりました。一方、日本の七夕の行事は、願いごとを書いた五色の短冊や飾りを笹の葉につるしたりしますが、この風習はどこからきたのかというと、中国伝来の儀式・乞巧奠(きっこうでん)があるとされています。

 

 

  • 乞巧奠伝説

「乞巧奠(きっこうでん、きこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)」とは、星伝説の織姫にあやかり、機織りや裁縫などの技芸の上達を願う祭り(奠)で、庭先の祭壇に針などをそなえて、星に祈りを捧げます(織女は、天上で機を織る手芸の神様とされている)後に、機(はた)織りだけでなく、芸事や書道(針仕事や習字、詩歌)などの上達も願うようになったそうです。

 

日本には奈良時代に、乞巧奠が伝わると、宮廷の女性達(貴族)は、庭に祭壇を設けて、ヒサギの葉一枚に、五色の美しい彩りの糸を通した金銀7本の針を、供物とともに供え、裁縫の上達を祈りました。また、梶の葉に和歌を綴る風習もこの時に始まったとされています。

 

こうした中国からの伝説は、もともと日本に以前からあった神事である「棚機(つ)女(たなばたつめ)」の行事に由来します。もともとは七夕と書いて「しちせき」と読んでいましたが、七夕を「たなばた」と読むようになったのは、日本古来の「棚機つ女(棚機津女)」の伝説以降です。

 

 

  • 棚機津女伝説

古事記によれば、日本には「棚機津女(棚機つ女)(たなばたつめ)」を信仰する文化があったと記されています。「棚機津女(棚機つ女)」の「棚機(たなばた)」とは、文字通りの意味は、神様に捧げる着物を織った織機(しょっき)のことですが、棚機(たなばた)という名の神事を指すます。

 

これは、乙女が、川などの清い水辺にある棚造りの小屋(機屋はたや)で、神様に捧げる神聖な布(神様が着る衣)を織ります。織った着物を棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり、人々のけがれをはらい、村の災厄を除いたりというような、古い日本の禊ぎ(みそぎ)行事です。この時、選ばれた乙女を「たなばたつめ(棚機女、棚機つ女、棚機津女)」と呼び、七月七日に水辺の小屋に籠り、神様へ捧げる布を織るのです。

 

神話では、その後、七月六日に水辺の機屋(はたや)で神の訪れを待ちます。女性(=巫女)はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神になるとされていたそうです。実際の棚機(津つ)女は、織りあがった布を棚に置き機屋を出たそうですが、その際、水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えると言い伝えられています。

 

このように、外来の中国語「七夕」を「たなばた」と日本語読みしているのは、棚機津女(たなばたつめ)に由来します(たなばたの語源は「たなばたつめ」)。そして、この神事は7月7日に行われたことから、七夕のお祭りは、7月7日に行われるようになりました。では、なぜ、「たなばたつめ」の神事は7月7日だったのでしょうか?その答えは、日本のお盆との関係があります。

 

 

  • お盆の風習

この「棚機つ女(たなばたつめ)」の行事は、やがて仏教が伝わると、お盆(盂蘭盆会)を迎える準備期間である7月7日の夜に行われるようになったとされています(旧暦のお盆は7月15日)。一般的には、先祖の霊を迎えるための精霊棚(しょうりょうだな)や布飾りの幡(はた)を安置するそうです。一説には、この行事が、7月7日の夕方に行われたことから、7日の夕で「七夕」と書いて、当初はそのまま「しちせき」と呼ぶようになったという見方もあります(その後、「たなばた(棚幡)」とも発音されるようになった)。

 

このように、日本の七夕は、日本に古来からあった「棚機女(たなばたつめ)」やお盆の行事と、中国から伝来した織姫と彦星の星伝説や乞巧奠(きっこうでん)のお祭りなどが習合して、現在に至っています。

 

 

<日本の七夕の歴史>

 

前述したように、織女牽牛星(しょくじょ・けんぎゅう)伝説と、「乞巧奠(きっこうでん)」という儀礼が、中国から七夕の行事として、奈良時代に日本に伝わったとされています。また、この時代すでに、七夕のお祭りは、七月七日と定められたと言われています。ということは、既に、あるいは元々、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)伝説とお盆の風習も、七夕の行事に反映していたことになります。

 

いずれにしても、奈良時代に日本で始まった七夕は、宮中行事として行われるようになりました。平安時代になると、宮中の人々は、桃やなす、うり、アワビなどを供えて星をながめ、香をたいて、楽を奏でました。また、夜つゆを「天の川のしずく」と考えて、それで墨を溶かし、梶の葉に和歌を書いて願いごとして楽しんだといいます。梶は古くから神聖な木とされ、天の川を渡る船の梶となって星に願いが届くと考えられていたそうです。また、梶の葉は神前の供物を供えるための器(祭具)としても用いられていました。

 

その後、七夕は武家にも伝わり、江戸時代になると、七夕行事が五節句の一つに定められるたことで、庶民の間にも広がっていきました。そうすると、願い事を書く際には、梶の葉のかわりに、短冊が用いられるようになりました。人々は5色の短冊に様々な願い事を書いて、笹や竹の葉に飾るようになりました。冬でも緑を保ち、まっすぐ育つ笹竹は、昔から神を宿すことができる不思議な力を秘めた神聖な植物とされてきました。

 

こうして、笹竹に短冊、色紙、吹き流しという現代の七夕飾りの基本形が定着していったのでした。昔は、七夕の祭りの後、竹や笹を川や海に飾りごと流していました。「七夕流し」や「七夕送り」と呼ばれる風習は、七夕飾りが天の川まで流れ着くと願い事が叶うという伝承や、竹や笹にけがれを持っていってもらうという「けがれ祓い」の意味がありました。

 

参考

仙台七夕まつりの歴史

暮らしの歳時記ガイド

七夕の由来は?牽牛はなぜ彦星というの?(生活に役立つ情報)

七夕の星に願いをこめて、その一(お話歳時記)

梶の葉と七夕の関係は?願い事のルーツ?

世界の民謡・童謡

五節句の起源など

2019年08月21日

祭り:盆踊りの起源と由来

前回の投稿では、お盆を取り上げました。お盆は、仏教を原点としつつも、日本古来の民族風習が色濃い行事でした。お盆の習わしの一つである盆踊りも同様で、インドや中国にはない日本独自の風習です。今回は、この盆踊りについて考えます。

 

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盆踊りの由来

 

盆踊りとは、お盆の時期に踊る行事で、お祭りの会場などで櫓を囲み、浴衣を着た踊り子が円を描くように、民謡に合わせて踊ります。元来、盆踊りは、先祖を供養することを目的にしていましたが、現代では、宗教的・習俗的な色合いは薄れ、娯楽性が強くなっています。具体的に、盆踊りは、地域の一大イベントとして開催されることが多いため、地域の人々との交流の場、帰省した人たちの再会の場、さらには男女の出会いの場として、私たちの生活に根付く夏の風物詩となっています。

 

前述したように、盆踊りは、「仏教由来のもの」として始まり、やがて、日本の習俗としての「先祖などの霊を供養」という側面が強くなって、全国的に広がりました。仏教の側面から言えば、盆踊りの由来は、平安時代の空也上人や鎌倉時代の一遍上人がはじめた「踊り念仏(念仏踊り)」が元になっていると見られています。

 

それから、お盆のもう一つの起源が、死者・先祖の霊魂を供養するという日本独特の風習です。お盆には祖先の霊が帰ってくるとされています。盆踊りも亡くなった人や祖先の霊を供養・もてなす意味も込められています。お盆にお迎えした故人や先祖の霊を慰め、無事に送り帰すための踊りとして受け継がれてきたのです。また、帰って来た霊が供養のおかげで成仏できた喜びを、踊りで表現しているともいわれています。

 

盆踊りは、通常、お盆の終わりの時期である8月15日の夜に開催されます。これは、16日には先祖の霊はあの世へ帰ってしまわれるからです。さらに、盆明けの16日は、先祖の霊と共に過ごす最後の一夜ということで、16日の朝まで夜通しで踊るのが通例だったそうです。

 

 

◆盆踊りの歴史

盆踊りは、500年以上の歴史を持つとされ、その由来は、平安時代に遡ることができます。この頃、比叡山の僧侶には、念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道(ぎょうどう)してまわる「常行念仏」(じょうぎょうねんぶつ)という修行がありました。

 

山上の寺院堂内で行われていた念仏修行を、京都のまちなかの民衆の間に持ち込んで、「踊り念仏」という形で広めたのが、平安時代中頃にご活躍された「空也(くうや)上人」です。「空也」は、念仏を人々に覚えてもらおうと工夫してリズミカルに歌うように念仏を唱え始め、その念仏にあわせて踊りも踊るようになったのです。

 

ただし、それでも当時は、今のようにまだ全国的には普及してはいませんでした。この踊り念仏を全国的に広められたのが、鎌倉時代中頃に出られた一遍上人です。一遍上人と言えば、時宗を始められたことで知られています。神奈川県の藤沢にある時宗の遊行寺には、約700年前に一遍上人の一生を絵と物語で書いた国宝「一遍聖絵」(いっぺんひじりえ)があります。その中に、藤沢の片瀬や長野県の佐久で踊り念仏を行った絵があり、これが現存する踊り念仏の一番古い確証のある記録だそうです。

 

その後、一遍上人は、「踊り念仏」を独自に進化させた「念仏踊り」を生み出しました。「念仏踊り」は、踊りが主となった芸能を言います。「踊り念仏」は、もっぱら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら踊った一方、「念仏踊り」は、唱えるのは念仏でなくてもよく、代わりに歌も唄うようになったという違いがあります。「念仏踊り」の方は、宗派を問わず誰もが参加できるという特徴を持つので、全国的に広がるきっかけとなっていきました。今でも盆踊りが盛んな土地は、かつて一遍上人が全国行脚した時に訪れた土地であることが多いそうです。

 

全国的に「念仏踊り」が広がって来た頃、踊り念仏(念仏踊り)が、もっと古くからあった先祖の魂を供養するお盆の行事や民間で伝わる踊り、例えば、精霊や祖霊を迎えて踊るという「精霊踊」や地域独自の「踊り」などと結びつき、現在の「盆踊り」の原型をつくったと考えられています。当初は、仏教行事(「盂蘭盆会うらぼんえ」)であった「お盆」も、室町時代になると、死者供養としての「盆」の観念が色濃くなってきます。念仏踊り(踊り念仏)も全国に広がったとしても、まだ宗教的な要素が強く、仏教行事の一つであったものから、先祖を供養するための行事の側面が強くなっったのです。

 

ただし、今でいう「盆踊り」が登場するのは、一遍没後かなりたった室町時代のことです。室町の踊りは、「派手」な風流(ふりゅう)踊りが代表的です。風流とは、人を驚かすための華美な趣向であり、派手な踊りが踊られていたそうです。1400年代に入って、お盆に、風流踊りを踊ったとの記録があります。これが、盆踊りのスタートとみられています。このように、踊り念仏が、念仏踊り、風流(ふりゅう)踊りを経て、盆踊りになったと考えられています。

 

こうして、室町時代に始まった今でいう盆踊りは、江戸時代には、村々にまで浸透します。この頃になると、盆踊りは地域の人々の交流や男女の出会いの場となっていきます。盆踊りの歌の歌詞にははかなさや切なさなどの色恋めいた表現が多くあり、男女の出会いの場として踊られてきたことが伺えます。

 

 

明治以降の盆踊り

明治時代、炭坑節に代表される産業関連した盆踊りが生まれはしましたが、この時期、盆踊りは、冬の時代を迎えます。それは、明治時代には「風紀を乱す」との理由によって取り締まりが行われたことや、文明開化の影響で、盆踊りそのものが古い因習とみられたためでした。

 

しかし、大正時代は、「大正デモクラシー」と言われたように、日本の文化が様々に見直された時代であり、日本の伝統文化が再発見された時期でした。盆踊りも、大正時代末期には再び復活し、再び日本の各地域で開催されるようになり、現代に継承されています。

 

 

◆日本三大盆踊り

日本全国に今も数多く残る盆踊りには、何万人もの人が訪れるものから、町の集会所などで行われるような小規模なものまで様々ありますが、中でも有名なのは、「日本三大盆踊り」でしょう。

 

西馬音内の盆踊り(秋田)

西馬音内の盆踊り(にしもないのぼんおどり)は、秋田県の雄勝郡羽後町、西馬音内で開催される盆踊りです。毎年8月の16日〜18日まで開催され、国の重要無形民俗文化財にも指定されている700年以上の歴史ある盆踊りです。

 

郡上踊り(岐阜)

「郡上踊り(ぐじょうおどり)」は、岐阜県の郡上市八幡町で開催される盆踊りです。毎年7月中旬から9月上旬まで開催され、8月13〜16日には徹夜で夜通し踊る「盂蘭盆会(徹夜踊り)」が行われます。

 

阿波踊り(徳島)

徳島県徳島市で開催されるのが「徳島市阿波踊り(とくしましあわおどり)」です。毎年8月12日〜15日に開催され、起源はなんと400年前の江戸時代までさかのぼります。(すでに本HPレムリアで紹介、阿波おどり

 

 

<参考>

盆踊りの由来 | 盆踊りの世界

盆踊りとは?由来や歴史、有名な盆踊りも|いつから始まった? – 四季の美

盆踊りの由来と歴史、仏教との深い繋がり

仏教ウェブ入門講座

超便利、冠婚葬祭マナー

盆踊りの歴史にとんでもない事実が…!盆踊りの本当の意味や起源

盆踊りの歴史にとんでもない事実が…!盆踊りの本当の意味や起源

盆踊りとは?由来や歴史、有名な盆踊りも|いつから始まった?

芸能史からみた盆踊りの原点、盆踊りの世界など

 

2019年08月19日

伝承:「お盆」は仏教行事?

先日、投稿した阿波おどりも、京都の五山送り火も、お盆の恒例行事です。今回は、その「お盆」についてまとめてみました。

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日本では、毎年夏の「お盆」には、帰省ラッシュとなり、実家で、お墓参りをした後、親族がお供え物等を持ち寄ってご先祖様と一緒に過ごし、ご馳走を食べてお酒を飲んだりするのが恒例です。

 

■お盆(盆)とは

 

盆・お盆とは、祖先の霊を迎え、供養する行事です。お盆の期間には、年に一度、祖先の霊が子孫や家族の元に帰って来るとされています。盆の入りには「迎え火」を焚き祖先の霊をお迎えし、戻ってきた祖先の霊の供養をします。お盆の期間が過ぎる盆明けには「送り火」を焚いてお送ります。その間、お供えのきゅうりやなす、提灯など、お盆独特の習慣があります。これらの風習がお盆の風習として定着しています(迎え火、送り火については後に詳説)。

 

東京では7月13日から7月16日、その他の地方では8月13日から8月16日に行われ、8月のお盆のことを旧盆とか月遅れのお盆といいます(期日についても後述)。初盆(はつぼん)には四十九日、一周忌、三回忌などの法事法要とは別に、法要として供養の儀式が営まれますが、初盆以外のお盆には、家族親族だけで、祖先の霊と一緒に供養をするのが一般的です。

 

■お盆の由来

お盆は、仏教の行事だとされます。お盆は(盆)は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、略して「盆会」「盆」と言います。このお盆をさす古い言葉である「盂蘭盆(うらぼん)」は、もともと仏教の言葉で、仏教のお経にも「仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)」というのがあり、お盆の由来を説明しています。「仏説盂蘭盆経」(「盂蘭盆経」)は、ブッタの説かれたお経です。ではどんなことが説かれているのかというと、ブッタの十大弟子の一人、目連尊者のエピソードが書かれています。

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ブッタが祇園精舎におられた頃のことです。ある日、神通力第一といわれる目連尊者が、親孝行をしようと思い立ちました。ところがその神通力によって、目連尊者の亡きお母さんが、餓鬼道(食べ物を食べられず飢えに苦しむ地獄)に堕ちて骨と皮ばかりになって苦しんでいることが分かりました。

 

深く悲しんだ目連は、すぐに鉢にご飯を盛ってお母さんにあげようとします。お母さんが喜んでそれを食べようとすると、たちまちそのご飯はぼっと燃え上り、どうしても食べることができません。鉢を投げて泣きくずれるお母さんを尊者は悲しみ、ブッタのところに走っていき、「どうしたらお母さんを救えるでしょうか」と尋ねました。

 

その時、ブッタは「そなたの母親の罪は深い。そなた一人の力ではどうにもならない。この7月15日に、飯、百味(ひゃくみ)、五果(ごか)等の珍味を十方の大徳衆僧に供養しなさい」「布施の功徳は大きいから、亡き母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」と教えてくださいました。目蓮が、ブッタの仰せにしたがったところ、お母さんは、たちどころに餓鬼道から天上界に浮ぶことができたそうです。

 

盂蘭盆は、この目連尊者のエピソードから、お盆に多くのお寺では、餓鬼道や地獄に落ちて苦しんでいる霊を救うための施餓鬼会(せがきえ)と呼ばれる法要が営まれています。

(仏教ウェブ入門講座「お盆の期間とお供え・お盆の意味」から引用)

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一方、中国の仏教寺院では、「盂蘭盆会」という名前の儀式が古くから行われてきました。中国の「仏祖統紀」によれば、日本に仏教が伝えられた538年、中国の梁の武帝が盂蘭盆(うらぼん)の「斎(法事)」を設けたとあるので、この頃には中国では、お盆の行事が行われてたことがわかります。同様に、唐の時代や宋の時代にもお盆が行われていた記録が残されているそうです。

 

このように、「お盆」と仏教が関係深いことは間違いないようですが、「お盆=仏教の行事」と単純に括ることはできません。例えば、仏教には、「毎年、お盆にご先祖様が戻ってくる」という教えはありません。そもそも、仏教では、いったん成仏した魂がこの世に戻るということはないそうです。また、日本で、お盆に関連した行事として有名な「盆踊り」が、インドや中国で、お盆の時に踊られた形跡はないとの指摘もあります。

 

お盆は、仏教行事のひとつと位置付けられていますが、最初は仏教の「盂蘭盆経」を講説する斉(法事)だったのが、だんだん先祖供養のしきたりが入り込んでくるなど、日本の民俗的風習が溶け込むことで、育まれてきたと考えられます。では、次にその日本のお盆についてより詳細に解説してみます。

 

■日本のお盆

日本で最初のお盆の行事は、聖徳太子の時代に当たる616年の4月8日と7月15日に斎(法事)が営まれたとされています。(なお、4月8日はブッタの誕生を祝う花祭り、7月15日がお盆)。また、657年には、「盂蘭盆会を設く」、659年には、京都の色々な寺で「盂蘭盆経」の講釈があったと記録に残されているそうです。

 

こうして、お盆は、平安時代になると公家にも恒例行事として広まり、鎌倉時代には、滅亡した平家をお盆に弔うようになりました。さらに、庶民にも普及し、室町時代では、軒先に盆灯籠を立て、江戸時代には「迎え火」と「送り火」も行われるようになったそうです。

 

■お盆の時期

お盆の時期は、旧暦の7月15日頃を中心とした期間とされています。旧暦の7月15日頃というのは、現在の新暦では8月15日前後、全国的には8月13日から8月16日の4日間です。ただ、地域によっては(例えば東京や横浜の一部等)、新暦となった今でも7月13日から16日までをお盆の期間とするところもあります。いずれにしても、一般的にお盆の期間は、13、14、15、16日の4日間で、お盆の初日の13日を「お盆の入り(盆入り、迎え盆)」と呼び、お盆の最終日の16日を、「お盆の明け(盆明け、送り盆)と言います。

 

■お盆のしきたり

お盆の期間中、お墓参り、盆提灯や精霊棚の飾り付け、迎え火・送り火など様々な習慣やしきたりがあります。

 

迎え火

迎え火は、火を焚いて祖先の霊を迎えるもので、(お)盆の入りの8月13日(または7月13日)の夕方に焚かれます。祖先の霊が、迷わずにこの火を目印にして帰って来られるように、明るく照らすという意味で、火を焚いてお迎えします。

 

もともとは、迎え火の火はお墓で灯していました。13日にお墓参りをし、お墓の前で迎え火の火を灯して提灯に入れて家まで持って帰ってきます。その火を仏壇の蝋燭(ろうそく)に移していました。現代ではお墓が遠いため提灯に入れて迎え火を連れて来ることが難しい場合も多くなっています。そうした場合には、13日の夕方に、門口や玄関前などの危なくない場所で迎え火を焚きます。

 

送り火

送り火は、8月16日(または7月16日)のお盆明けの日に、祖先の霊を送るための儀式で、再び火を焚いて「送り火」として送り出します。あの世から家に戻ってきた先祖の霊が、またあの世へ帰って行くときに、迷わないようにという願いを込めたものです。京都の五山送り火や長崎の精霊流しも送り火の一つです。

 

*京都五山の送り火:文字どおり、先祖の霊をお送りする行事のひとつで、大文字の送り火(大文字焼き)と呼ばれることもある。

*長崎の精霊流し:お盆の供え物をのせた精霊舟に火を灯して海や川に流す行事です。精霊船は初盆の家のみが作ります。

 

盆提灯

盆提灯とは、お盆のみに用いる飾りで、故人の供養に使われるもので、お盆の期間中、その家に霊が滞在しているしるしとされます。また、迎え火・送り火を行うことがむずかしい場合は、盆提灯を飾って迎え火、送り火とされます。つまり、盆提灯も先祖の霊が戻ってくるときの目印としての役割もあるのです。

 

盆提灯には、上からつるす「御所提灯(ごしょちょうちん)」と、下に置く「大内行灯(おおうちあんどん)」などがあります。大内行灯には、火袋の中に和紙などが貼ってあり、走馬燈のように回転するものもあります。「走馬燈のように」という言い回しがありますね。その意味はあたかも回り灯篭に映る影のように、様々な記憶やイメージが脳裏に現れては過ぎ去っていくさまを示す表現のことを言いますが、お盆に関連する言葉として、現代でも定着しています。

 

精霊棚・盆棚

精霊棚(しょうりょうだな)とは、盆棚ともいい、故人や先祖の霊を迎えるために、お盆のみに用いられる祭壇のようなものです。お盆の間は位牌を仏壇から取り出し、仏壇の扉は閉めて、その前に飾り付けをします。精霊棚の上に、位牌を中心に、香炉、花立、燭台が置かれ、お花、ナスやキュウリ、季節の野菜や果物、精進料理を供えた仏膳などを供えます。お盆のお供え物のことを「盆供(ぼんく)」と言います。お供えの中で、最も有名なのは茄子(ナス)と胡瓜(キュウリ)です。

 

ナスの牛・キュウリの馬

キュウリを馬に、ナスを牛に見立てて、つまようじや割り箸で四つ足をつけ、キュウリとナスを供えます。これは、先祖の霊があの世から戻ってくるときは、馬に乗って早く戻ってきて欲しい、逆に、あの世へ帰るときは、牛に乗ってゆっくり帰って欲しいという願いを込めたものです。

 

お盆が終わると、お供え物は、かつて小さな船に乗せて川や海へ流したりしていましたが、最近は、送り火で燃やしたり、お寺に納めるています。

 

<参考>

「仏教ウェブ入門講座」

「法事・法要・四十九日がよくわかる」

「仏事まめ百科」

「超便利、冠婚葬祭マナー」など

2019年08月16日

ニュース:京都五山送り火と長崎精霊流し

古都の夜空に 京都五山送り火

(2019年8月16日、NHK news web一部抜粋)

京都のお盆の伝統行事「京都五山送り火」が16日行われ、火でともされた「大」の文字などが夜空に浮かび上がりました。「京都五山送り火」は、お盆に迎えた先祖の霊を送る京都の伝統行事で、300年以上の歴史があるとされています。

 

まず、京都市左京区の大文字山の火床に一斉に火がともされ、山の斜面に大きな「大」の文字が浮かび上がりました。続いて京都の街を囲む5つの山々に、「妙法(みょうほう)」、「船形(ふながた)」、「左大文字(ひだりだいもんじ)」、「鳥居形(とりいがた)」の順で火がともされました。炎で描かれた文字と形で彩られた古都の夜空を楽しもうと大勢の観光客が訪れ、このうち、京都市中心部のビルの屋上には、地元の人も含めておよそ400人が集まり、幻想的な風景に見入っていました。

 

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華やかに故人送る 長崎で精霊流し

(2019/8/16 西日本新聞 )

初盆を迎えた故人の霊をにぎやかに送り出す長崎県の伝統行事「精霊(しょうろう)流し」が15日、県内各地であった。長崎市中心部では爆竹やかねの音が響く中、遺族やゆかりの人が精霊船を引いて亡き人に思いをはせた。江戸時代から続く風習で、中国文化の影響を受け、爆竹を鳴らすことで邪気を追い払うと伝わる。台風10号の影響が残り、時折強い風が吹き付けるため用意した打ち上げ花火を控える船も。遺族らが放った爆竹が路上ではじけると、沿道を埋めた市民や観光客から歓声が上がった。

 

初盆を迎えた故人の霊を西方浄土へ送り出す伝統行事「精霊流し」が15日、長崎県内各地であった。台風接近による大きな影響はなく、故人をしのばせる趣向を凝らした船や、全国各地の災害被災地の慰霊と復興を願う船などが流された。かねや爆竹のにぎやかな音が響く中、家族や友人らが故人に思いをはせた。

 

2019年08月16日

ニュース:悠仁さま、ブータンご訪問へ

悠仁さま、初の海外旅行…秋篠宮ご夫妻とブータンへ

(2019年8月16日、読売新聞)

 

秋篠宮ご夫妻と長男でお茶の水女子大付属中1年の悠仁さま(12)は16日午前、ブータンを私的に訪問するため、民間機で東京・羽田を出発された。悠仁さまの海外旅行は初めて。危機管理上の理由で、皇位継承順位1位の秋篠宮さまと2位の悠仁さまは別便を利用。この日は午前11時過ぎ、同妃紀子さまと悠仁さまが経由地のタイに向けて出発し、約10分遅れて秋篠宮さまが別の便で出国された。

 

ご一家は滞在中、首都ティンプーでブータン国王らと交流するほか、寺院や伝統的な弓技などを見学される。宮内庁幹部によると、ご夫妻は、将来皇室の国際親善を担う悠仁さまが外国の文化や歴史に触れることで、海外と日本を比較する視点を持たれることを期待されているという。ご一家は25日に帰国される。

2019年08月16日

祭り:伝統芸能としての「阿波おどり」

先日、8月13日の投稿では、阿波おどりをニュースとして紹介しましたので、今回は、阿波おどりについて、その発祥や経緯など歴史的な側面をまとめてみました。

 

阿波おどりの起源

「徳島市阿波踊り」は、徳島県発祥の伝統芸能で、「日本三大盆踊り」のひとつに数えられるお祭りです。その始まりは約400年前に遡り、阿波踊りの起源はおもに3つの説が有力とされています。時代順に説明すると次のようなものです。

 

ひとつは、盆踊りを始まりとする「盆踊り起源説」です。鎌倉時代の「念仏踊り」から続く、先祖供養の踊り(「踊り念仏」)を起源とする説で、悪霊を払うために念仏を唱える際に踊る念仏踊りのうち、特に盆の時期に先祖の霊を供養するために踊る「精霊踊」が原型をつくったと考えられています。

 

二つめは、能楽の元とされる風流踊りを発祥とする「風流踊り起源説」があります。戦国時代、「三好記」に、阿波板野・勝瑞城で風流踊りの催しの様子が記録されていることがその根拠となっています(「風流」とは着物や装飾に趣向を凝らしたもの)。

 

三つめは、「徳島築城起源説」で、1586年(展生14年)、徳島藩の藩祖・蜂須賀家政が、城主となる際、徳島城の築城を祈念して、城下の人々に城内での無礼講を許した際に踊られたという説です。「阿波よしこの節」にも、「阿波の殿様 蜂須賀様(蜂須賀公)が 今に残せし 阿波おどり」と歌われています。なお、家政の父、正勝とは、若き頃の秀吉に仕えたあの蜂須賀小六です。

 

 

阿波おどりの進展

こうした原型に、地域の独自性や時代の進展とともに生まれた形式が加えられ、現在の阿波踊りが出来上がっていきました。近世において確立された3つの伝統的な踊りの手法が、「ぞめき」、「にわか」、「組踊り」でした。「ぞめき」とは、阿波おどりのお囃子のことを言い、「にわか(俄)」は座興のための滑稽な踊りで、「組踊(り)」は、「町組」という社会集団が中心となって数人が組んで踊ることを言います。

 

さらに、文化・文政期(1804~1830年)に、藍商人や船乗り達が全国各地との文化交流の担い手となり、各地のさまざまな要素が阿波おどりに取り入れられ、徳島の伝統芸能として定着してきたとされまています。例えば、「阿波踊り」に流れる民謡は、熊本の「ハイヤ節」、奄美・八重山の「六調」、沖縄の「カチャーシー」、広島の「ヤッサ節」などとの共通点が多いと言われています。

 

1830(文政13)年頃に流行したお蔭参り(伊勢神宮への集団参拝)では、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったと言われ、この時の踊りが好評を博し、全国的に阿波踊りが、知れ渡るようになったと言われています。

 

ただし、徳島藩は、古式精霊供養の踊りとしての「ぞめき」を重視したことから、「ぞめき」が急速に発展したとされています。特に、三味線が導入されたことが大きな引き金となったようです。その一方で、藩は、「にわか」、「組踊り」など他の踊りが、踊りの熱狂が一揆につながること弾圧し、何度も踊りの禁止令が出されました。1841年(天保12年)には徳島藩の中老・蜂須賀一角が踊りに加わり、乱心であると座敷牢に幽閉されたこともあるそうです。

 

この踊りの熱狂と言えば、1867(慶応3)年12月の幕末期の動乱には「ええじゃないか」が徳島に上陸しました。「ええじゃないか」とは、老若男女が「えいじゃないか」と言いながら歌い、踊り狂う民衆運動で、米屋や酒屋を襲撃する事件も多発しました。「ええじゃないか」は「踊り要素が強い」ことから、翌年、阿波一円で大流行していき、「ええじゃないか」は阿波踊りが発祥とする見方すらあるぐらいです。

 

明治から大正にかけての阿波踊りの様子は、その時代に晩年を徳島で過ごしたポルトガル人で、外交官・文筆家のモラエスが母国に送った「徳島の盆踊」の中でよく示されています。そこには、市民の熱狂ぶりが描写されているだけでなく、古来から続く「死者を敬う」先祖供養としての性格が強い踊りとして紹介されています。

 

大正時代末期から昭和にかけて、ラジオやポスターなどを通して徳島県外へ紹介されるようになり、全国へ認知されていきます。「阿波おどり」という言葉が定着するのもこの頃で、それまでは「徳島盆踊り」と呼ばれていました。1941年(昭和16年)には、東宝映画『阿波の踊子』(監督:マキノ正博、主演:長谷川一夫)が上映されています。ただし、第二次世界大戦により、徳島はB29による空襲で市内の約62%が焦土となったとされ、阿波おどりは中止を余儀なくされました。

 

しかし、終戦翌年の1946年(昭和21年)、まだバラックが建ち始めたばかりの状況の中にあっても、阿波おどりは復活していきました。戦後の徳島市民にとって、復興の象徴が「阿波踊り」だったのです。戦後のきわめて早い段階にすでに「連(阿波踊りを踊る団体・グループ)」が形成されたとされ、阿波踊りが急速に復興・拡大していきました。まさに、「阿波踊り」という民衆の文化が、荒廃した社会やまちを立ち直らせた精神的中核ともなっただけでなく、日本全体にその活力を供給し続け、文化的発信を続けていきました。その結果、阿波踊りを踊る人が急増し、全国へと阿波踊りの文化が広がっていきました。

 

 

阿波おどりの全国展開

1957(昭和32)年、東京・高円寺で阿波おどり大会が始まり、阿波おどりが全国で開催されるきっかけになりました。「高円寺阿波おどり」は、現在観客は85万人以上が来場し、首都圏最大規模のお祭りに発展しています。1970年(昭和45年)に大阪で開催された日本万国博覧会では、阿波踊りが披露され、これを契機に、海外遠征が行われるなど、阿波踊りは、「徳島のおどり」から「日本のおどり」として、広く認知されていきました。

 

目下、東京都内では、「高円寺阿波おどり(杉並区)」以外にも、「初台阿波踊り大会(渋谷区)」、「下北沢一番街阿波おどり(世田谷区)」など20か所近くで阿波踊りが実施されています。「高円寺阿波おどり」と埼玉県の「南越谷阿波踊り」は、本家の「徳島市阿波おどり」とともに「日本三大阿波踊り」に数えられています。さらに、首都圏以外でも、東は、北海道や福島県から、愛知県、西は、大阪府、長崎県などでも阿波おどり大会が開催されています。

 

400年超の歴史を持つ徳島の阿波おどりは、まさに全国の各地で開かれる阿波おどりの「総本山」と言えます。全国各地の踊り子は徳島を「聖地」と呼んでいるそうです。

 

今回はここまでです。次回は、「阿波おどり」から少し角度を変えて、「盆踊り」をとりあげてみたいと思います。

 

 

<参考>

阿波踊りの歴史(阿波おどり会)

約400年の歴史、徳島夏の風物詩「阿波おどり」

阿波踊りの歴史(阿波銀行)

阿波踊り:歴史、盆踊りの世界

徳島の阿波おどり、400年超の歴史(日本経済新聞)

 

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