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2019年05月19日

ニュース:東京・神田祭と浅草三社祭

<三社祭>

 

三社祭「宮出し」 令和の活気、浅草駆ける

(毎日新聞2019年5月19日)

東京・浅草に初夏の訪れを告げる浅草神社(東京都台東区)の三社祭が19日、最終日を迎えた。本社神輿(みこし)3基を境内から街に担ぎ出す「宮出し」があり、祭りは最高潮に達した。神事の後、氏子たちの一本締めを合図に午前5時45分ごろ、宮出し。法被を着た担ぎ手たちが「オイサ」と威勢の良い掛け声でみこしを揺らしながら、浅草神社の隣の浅草寺の境内や仲見世など浅草の街中を練り歩いた。

 

絢爛100基の神輿が練り歩く 東京・浅草の三社祭

(2019.5.18、産経)

東京・浅草の三社祭で18日、浅草神社の氏子44ケ町の神輿(みこし)による「町内神輿連合渡御」が行われ、新天皇の即位と新元号「令和」を祝って、浅草寺の本堂裏に約100基の町神輿が参集した。氏子たちによる手締めのあと、1基ずつ出発。浅草神社でのおはらいを受け、威勢のいい掛け声とともに東京の下町へと繰り出していった。三社祭は19日が最終日。早朝から3基の浅草神社の本社神輿が神社を出発する「宮出し」が行われる。

 

三社祭が浅草でスタート 3日間で150万人見込み

(2019年5月17日、日刊スポーツ)

三社祭が17日、東京・浅草でスタートした。3日間で150万人の人出が見込まれる。初日の大行列にも、多くの見物客が訪れた。おはやし屋台を筆頭に町を練り歩いた後は、東京都無形文化財の「びんざさら舞」も奉納された。18日は浅草氏子44ケ町の町内みこし約100基の渡御が予定され、にぎわいが予想される。

 

三社祭とは?

三社祭りは浅草神社の祭です。浅草神社は、「浅草寺をつくった土師真中知命(はじのまつちのみこと)と聖観世音菩薩を川から引き揚げた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟をまつる神社で、明治維新の神仏分離令によって浅草寺と分かれ、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に浅草神社となった」と伝えられています。

 

三社祭りの1日目は、浅草神社で五穀豊穣を祈願して無形文化財「びんざさら舞」を奉納します。びんざさらとは、竹や木の薄い板を何枚も重ねて紐で綴った楽器です。2日目は氏子44町会から約100基の神輿が出て、浅草神社でお祓いを受けた後、「セイヤ、セイヤ」の掛け声とともに各町内を渡御します。最終日は宮出しで3基の大きな宮神輿が氏子たちに担がれて発進します。三社祭の神輿は、「魂振り(たまふり)」と言って激しく神輿を上下左右に動かします。わざと荒々しく揺さぶることで、神輿に坐す神様の霊威を高め、豊作・豊漁や、疫病が蔓延しないことを祈願するそうです。

 

(浅草神社、「暮らし歳時記」HPなどから参照・引用)

 

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<神田祭>

 

平安絵巻華やかに 「神田祭」で1000人が都心練り歩く

(2019年5月11日、NHKニュース)

 

江戸三大祭りの一つとされる「神田祭」で11日、平安時代の色鮮やかな装束を身にまとった人たちが都心を練り歩く「神幸祭(しんこうさい)」が行われています。「神田祭」は、東京 千代田区にある神田明神が、江戸時代から続く祭事として2年に1度行っています。3日目の11日は、祭りのハイライトの一つ、「神幸祭」が行われ、出発を告げる神事のあと、平安時代の色鮮やかな装束を身にまとった神職や羽織はかま姿の氏子など約1000人が行列をなし、神社を出発しました。行列は「鳳輦(ほうれん)」と呼ばれる大きなみこしを中心に弓や刀を持った人や馬車、それに人力車も加わり、数百メートルの長さにおよびました。神田祭りは今月15日まで続き、12日は、大小200を超えるみこしが神田明神を目指す「神輿宮入」が行われます。

主な行事
5/11〈神幸祭〉神田明神の宮神輿の巡行
5/12〈神輿宮入〉神田明神に町神輿が練り込み
5/15 〈例大祭〉 神田明神で行われる神事

 

神田祭りとは?

神田祭は、江戸総鎮守「明神」の祭礼です。京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本の三大祭りの1つとされています。神田祭には、奇数の年に行われる神輿の出る「本祭(ほんまつり)」と、偶数の年に行われる神輿が出ない「蔭祭(かげまつり)」の2つがありますが、一般に神田祭というと賑やかな本祭を指します。本祭りは山王祭と隔年で行われます。

 

1300年以上の歴史ある神田明神ですが、特に祭が盛んになったのは江戸時代です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康が神田明神に戦勝を祈願して勝利したとされています(例大祭はこの9月15日に行われている)。戦の前には、必ず家来に神田明神で戦勝を祈らせたとも言われています。その後、徳川家康は見事天下統一を果たし、神田明神に感謝して立派な社殿や神輿を寄進。以後、神田明神は、徳川幕府によって江戸城を守護する神社となりました。家康の支援により、祭りは現在のような盛大なものになり、将軍が上覧する「天下祭」と呼ばれていました。

 

神田明神は、大手町、丸の内、神田、日本橋、秋葉原、築地魚市場など都心の108の氏子町の総氏神で、神社は天平年間(8世紀)創建です。

 

神田祭の見どころは、平安時代の衣装をまとった500人ほどの行列「神幸祭(しんこうさい)」で、神田明神の周辺地域を守る神々が3つの神輿、大黒様を乗せた「一の宮鳳輦(いちのみやほうれん)」、恵比須様を乗せた「二の宮神輿(にのみやみこし)」、将門様を乗せた「三の宮鳳輦(さんのみやほうれん)」に乗って、町々を祓い清めるという趣旨で行われ、氏子の108町会を巡ります。平安時代の衣装の人々は、神々の付き添いだそうです。

 

神幸祭の翌日には、神田神社周辺の町からおよそ100基の神輿が出され、神田明神へと向かいます。これを「神輿宮入(みこしみやいり)」(「神輿渡御」)と呼びます。氏子町が町神輿を競い合う祭りの華とも言えます。最終日は、祭りの締めくくりとして最も重要な神事、例大祭が執り行われ、平和と繁栄が祈願されます。

 

(東京観光財団や主催者側のHPなどを参照)

 

 

 

2019年05月19日

神道:上賀茂神社と下鴨神社 賀茂氏とは?

先日投稿した葵祭は、祇園祭、時代祭と並ぶ京都三大祭の一つで、京都最古の歴史を有する上賀茂神社と下鴨神社(両社を総称して賀茂神社)の祭事です。今回は賀茂神社と賀茂氏(賀茂神社は賀茂氏の氏神)について解説します。なお、現在、上賀茂神社と下鴨神社とは別に、滋賀県に賀茂神社も存在しますが、ここでいう賀茂神社とは上賀茂・下鴨両神社の総称としての賀茂神社です。

 

上賀茂神社・下鴨神社

 

賀茂神社(賀茂社)の創始は太古に遡り、京都の社寺では最も古い部類に入ります。上賀茂神社の社伝によれば、「神武天皇の御代に賀茂山の麓に、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が降臨した」とされています。第二代の綏靖天皇の御代(BC580頃)には神事が始まったと言われ、下鴨神社境内の糺の森から縄文時代の祭祀遺跡や旧境内から集落など発掘されています。一方、崇神天皇の時代(BC90頃)には、社殿が造営されたとの記録があることから、この頃に創建されたという説もあるようです。

 

欽明天皇の治世(544年)に、賀茂祭(葵祭)も始まりました。奈良時代には、山城国(京都)の神社の枠を超えて全国的な広がりをみせ、民衆さらには朝廷からも崇敬を受けました。また、上賀茂神社から下鴨神社が分置されたのも、奈良の天平の時代とされています。794年の平安遷都後は、「皇城鎮護の神社」として、807年は神社の格付け(社格)では最高位である「正一位」の神階を受け、賀茂社(賀茂神社)の祭祀は勅祭(天皇が使者を派遣して行われる祭祀)とされました。

 

さらに、810年以降、約400年にわたって、斎院が置かれ、斎王の制度が設けられました。斎王とは神社に巫女として遣わされた未婚の皇室の女性のことです。皇女を斎王として神のそばにおくことで、神への崇敬の念を表されたのです。この斎王の制度が適用されたのは、賀茂神社と伊勢神宮だけです。賀茂神社が、古来から朝廷の尊崇を厚く受けていたことがわかります。

 

明治に入って定められた近代の社格制度においても、賀茂神社は、伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる勅祭社に定められました。上賀茂神社と下鴨神社両社の祭事が賀茂祭(通称 葵祭)です。現在では、その社殿と境内が国指定の文化財となり、平成6(1994)念には、世界の文化財として世界文化遺産に登録されています。

 

賀茂氏について

冒頭でも述べたように、賀茂神社(賀茂社)に最初に降臨したのは、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)であり、賀茂神社は賀茂氏の氏神です。実際、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は、上賀茂神社の祭神となっており、上賀茂神社は正式には、賀茂別雷神社といいます。

 

では、賀茂別雷命が賀茂氏の始祖かというとそうではありません。山城国風土記によると、賀茂別雷命は、玉依日売(たまよりひめ)という神様を母としてますが、この時の出生にまつわる話しは極めて神話的です。玉依日売は、賀茂川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされていたとき、川上から赤い矢を流れてきて、その矢を拾われて、帰って床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命だというのです。この赤い矢は丹塗矢(にぬりや)といって神の化身とされ、依り代(よりしろ)、つまり神が宿る媒体になることがあるそうです。この時、この矢には、乙訓社の火雷神(ほのいかづち)もしくは大山咋神(おおやまくい)が宿っていたとされています。なお、玉依日売(たまよりひめ)は、記紀の「海幸彦・山幸彦」神話に登場し、神武天皇の母に当たられます。

 

下鴨神社には、玉依媛命(たまよりひめのみこと)とその父である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祭られています。この賀茂建角身命こそ、賀茂氏の祖先神で、しかも、「神魂命(かみむすびのみこと)」のひ孫にあたります。神魂命(神皇産霊尊、神産巣日神)とは、天地開闢のとき、高天原にでた造化三神の一柱です。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、八咫烏(やたがらす)の化身とされています。八咫烏は、記紀で神武天皇の東征の際、先導して勝利に導いた立役者として知られています。そうすると、賀茂氏が神武天皇による日本の建国を助けたという解釈も可能になります。神武天皇を初代とする現在の皇室と賀茂氏の関係は深く、天皇即位の儀式である大嘗祭(だいじょうさい)において、今も賀茂氏の一族の一人が灯りを持って新しい天皇を先導しています。

 

賀茂氏を調べていくと様々な興味深いことに出くわします。上賀茂神社と下鴨神社の祭事である「葵祭」でも知られるように、賀茂神社の神紋は「葵」です。江戸幕府の徳川家も葵紋を用いています。これは、徳川家の祖である松平氏が賀茂神社の氏子であったからだそうです。トヨタ自動車が本社がある豊田市は、旧三河国加茂郡に属していました。さらに、平安時代中期には、賀茂一族の中から陰陽博士の賀茂忠行を輩出し、その子孫は暦道を伝えました。陰陽師と言えば安倍晴明を思い出しますが、安倍晴明の師であったのが、この賀茂忠行で、その後、安倍氏と賀茂氏が陰陽道の宗家として君臨しました。

 

<参考>

日本神話・神社まとめ

日本の神様辞典

賀茂県主同族会

上賀茂神社・下鴨神社HPなど

 

 

2019年05月16日

ニュース:令和初の京都・葵祭

令和最初の葵祭、平安絵巻にうっとり

(2019/5/15、京都新聞)

 

京都三大祭りのトップを飾り、令和最初の葵祭が15日、京都市内で繰り広げられた。平安王朝を再現した優雅な行列が新緑の映える都大路を進み、沿道の人たちを華やかな絵巻の世界に引き込んだ。下鴨、上賀茂両神社の例祭で「源氏物語」にも登場するなど時代を超えて受け継がれてきた。正式には「賀茂祭」だが、祭りに関わる人たちや社殿にフタバアオイとカツラで作った葵桂を飾ることから「葵祭」と呼ばれるようになった。

 

午前10時半に約500人の行列が京都御所(上京区)の建礼門前を出発した。狩衣(かりぎぬ)姿の肝煎(きもいり)を先頭にした本列(近衛使代列)ではフジの花で彩られた牛車などが玉砂利をきしませて進んだ。女官が先導する斎王代列(女人列)が続き、十二単(ひとえ)姿の第64代斎王代、負野(おうの)李花さん(23)が乗る専用の輿(こし)「腰輿(およよ)」が近づくと歓声が上がった。(京都新聞)

 

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葵祭について(京都観光協会のサイトから抜粋)

 

葵祭の〝あおい〟とは、行列の御所車、勅使、供奉者の衣冠などに飾られた緑の葉のことです。葵祭は、もともとは「賀茂祭」と呼ばれていましたが、江戸時代に祭が再興されてから葵の葉を飾るようになり、「葵祭」と呼ばれるように。祭で使われる葵は毎年両神社から御所に納められています。

 

祭の見どころは、天皇の使者である勅使が下鴨、上賀茂の両神社に参向する道中の「路頭の儀」。近衛使(勅使代)をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、古の姿そのままに馬36頭、牛4頭、500余名の行列が京都御所建礼門前より出発し、王朝絵巻さながらに行われます。平安貴族の装束を身にまとった人々の行列は、葵祭のハイライト。

 

五衣裳唐衣(いつつぎぬものからぎぬ)をまとい、腰輿(およよ)という輿に乗って登場する斎王代は、葵祭のヒロイン。平安時代には内親王が「斎王」として祭に奉仕していましたが、鎌倉時代に途絶えていました。昭和31(1956)年、葵祭を盛り上げようと市民から斎王代が選ばれ、女人列が復活しました。

 

平安貴族の装束をまとった行列が有名な葵祭。そのほかにもたくさんの行事が開催されています。5月1日の競馬足汰式(くらべうまあしぞろえしき)、5月3日は流鏑馬(やぶさめ)神事、5月4日には斎王代女人列御禊神事など、「前儀」と言われるさまざまな儀式が下鴨神社や上賀茂神社で行われます。

 

 

2019年05月15日

ニュース:歌会始の儀 お題は「望」に

来年の歌会始 お題は「望」 令和最初…宮内庁が発表

(2019/5/15 FNN)

 

2020年1月に行われる新春恒例の宮中行事「歌会始の儀」について、宮内庁は、お題を「望(のぞみ)」と発表した。「歌会始の儀」は、鎌倉時代には始まっていたと考えられ、天皇がお題を決め、催す新春恒例の宮中行事。天皇陛下は、成年皇族となった1981年の歌会始以降、毎年和歌を寄せていて、2020年、令和2年1月に行われる即位後初の歌会始のお題を「望」と定められた。応募は、宮内庁宛てに郵送で、9月いっぱい受け付けられる。

2019年05月15日

ニュース:天皇陛下、首相から初の内奏

 

天皇陛下、即位後初めて首相の内奏受ける

(2019年5月14日、朝日新聞)

 

天皇陛下は14日、皇居・宮殿で、安倍晋三首相から内奏を受けた。即位後初めてで、宮内庁が写真を公開した。陛下は即位した今月1日、宮内庁幹部の人事について、菅義偉官房長官から内奏を受けていた。14日は宮殿・鳳凰かの間で午前10時から行われた。内奏は、首相や閣僚が一対一の場で、所管する事柄を説明するもの。内容は明らかにされない。

 

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本サイトでは、皇室に対する健全な理解につながればとの希望から、令和の新時代を迎えたことを契機として、象徴としての陛下の国事行為など皇室の活動について紹介しています。このニュースも、普段私たちには知らされていない内容で、私も「こういうことがなされているのか」とさらなる関心を持たせていただきました。

 

 

 

 

2019年05月15日

神道:大黒様と恵比寿様の話し

5月12日の投稿で、「出雲の大国主神様と事代主神様は、大黒様と恵比寿様として親しまれている」と紹介しました。大国様と恵比寿様は、大黒天と恵比寿(天)で、日本では「七福神」の中に数えられています。

 

七福神は、庶民に暮らしに幸運をもたらす七柱の福の神で、日本において民間信仰として、室町時代末期から広がったとされています。このうち日本の神は恵比寿様だけで、恵比寿天以外は、インドと中国の神仏です。

 

恵比寿:日本(神道)
大黒天;インド(ヒンドゥー教)
毘沙門天:インド(ヒンドゥー教)
弁財天:インド(ヒンドゥー教)
布袋(ほてい):中国(仏教)
福禄寿:中国(道教)
寿老人:中国(道教)

 

今回は、七福神について、特に、大国主神と事代主神に関係の深い大黒天と恵比寿(天)についてまとめました。どうして、大国主神と大黒天、事代主神と恵比寿天とがつながっているのでしょうか?

 

恵比寿(天)

 

恵比寿様と言えば、左手に鯛、右手に釣竿を持つ漁業・商売繁盛の神様として親しまれています。恵比寿天の信仰は、記紀(古事記と日本書記)神話における蛭子(ひるこ)神への信仰から始まりました(ですから、恵比寿は「夷」「戎」「蛭子」とも表記される)

 

蛭子神は、国造りの神、伊弊諾尊(いざなぎのみこと)、伊弊舟尊(いざなみのみこと)の間に生まれた子供なのですが、3歳になっても自分で立つことができなかったため葦の船に乗せて海に流されたと書かれています。蛭子が漂着した場所が現在の西宮(兵庫県)で、そこの浜の漁民に祭られ信仰が始まりました(現在でも西宮神社の祭神は、蛭子神=恵比寿天である)。以来、日本の漁村では、海からの漂着物を、福をもたらす遠方から来た神様(夷様=恵比寿様)とみて祭る習俗が広まったとされています。

 

一方、事代主神は、もともと海の果ての常世国に住む神とみられていました。実際、古事記における国譲り神話において、国譲りに応じた後、海の果てに奥方の神とともに去っています。ここに、海から来て事代主神と、高天原から流れてきた蛭子=戎=恵比寿が重なりあったものと推察されます。 恵比寿信仰が西宮神社を中心に各地に広がると、同じような性格をもつ事代主神も恵比寿様であるとみなされるようになったのかもしれません。

 

 

大黒天

 

大黒天は、もともと「偉大な黒」を意味するインドの「マハーカーラ」という、暗黒をつかさどるヒンズー教の神様(シバ神)でした。日本では、このインドのシバ神に、出雲の大国主神が習合して、現在の大黒様(天)となり、大地を掌握する農業神、または財宝・福徳開運をもたらす神として信仰されるようになりました(一説には、ヒンズー教の神様を日本に持ち込んだのはあの最澄だとか)。確かに、現在、大黒様は、頭に頭巾を被り、左肩に袋、右手に福槌を持ち、米俵に座す姿で知られていますね。

 

では、どうして大国主神が大黒天とつながったのかと言えば、古代中国の神話と関係がありそうです。古代の中国では、家鼠を霊獣(神獣)とする鼠の信仰があり、ネズミを大黒天の使者とする考えがあるとされています。

 

「古事記」の中にも、鼠が大国主命を救う話があります。大国主命の父とされる素妻鳴尊(スサノオ)が大国主命に試練を与えるために、大国主命を広い野原に行かせてそこの草に火を放ちました。すると火はたちまち燃え広がり、大国主命は逃げ場を失い窮地に立たされます。しかし、この時一匹の鼠が現われて、「この下に穴がある」と教えたことから、大国主命は、火がおさまるまで穴の底に身を伏せて難を逃れることができました。

 

中国から霊(神)獣としての鼠の信仰が日本に伝わった時に、大国主神と、大黒天の使者である鼠が結びついたと考えられます。また、大国主神は国つ神として、日本の国土を守る神様として信仰されてきました。万能の力をもつ大黒天に対する信仰が、インド、中国から日本に入ってきたあとに、大黒天が大国主神に結びつけられることになったのでしょう。

 

そして、戦国時代には、記紀の世界では親子である大黒天と恵比寿天を、特別に御利益のある身近な福の神だとする考えて同時に祭る習俗が、特に商工民の間で、京都から各地に広がったそうです。

 

今回はここまで。残りの七福神については、また別の機会に紹介したいと思います。

 

2019年05月13日

ニュース:「斎田点定の儀」大嘗祭の米決定 

大嘗祭の新穀、栃木と京都=皇居で「斎田点定の儀」

(2019年5月13日、時事通信社)

 

11月の大嘗祭で使う新穀を作る「斎田(さいでん)」の都道府県を決める「斎田点定(てんてい)の儀」が13日午前、皇居・宮中三殿の神殿と神殿前庭で行われた。亀甲を使った「亀卜(きぼく)」と呼ばれる古代からの占いで、東日本の「悠紀(ゆき)地方」から栃木県、西日本の「主基(すき)地方」から京都府がそれぞれ選ばれた。

 

儀式は午前10時から始まり、神殿前庭に設けられた「斎舎(さいしゃ)」内で、将棋の駒のような形に加工したアオウミガメの甲羅を竹箸ではさみ、「火鑽具(ひきりぐ)」でおこした火にウワミズザクラの木をくべてかざして焼き、生じたひびの入り具合で2地方を選んだ。宮内庁は前例を踏襲し、新潟、長野、静岡の3県を含む東日本の18都道県を「悠紀地方」、それよりも西の29府県を「主基地方」に分類した。同庁が東京都小笠原村から8頭分の亀甲を調達。都内の業者が縦約24センチ、横約15センチ、厚さ約1ミリに加工し、8枚が用意された。

 

儀式は非公開で、衣冠姿の掌典長と掌典3人がテント張りの斎舎に入って行い、約40分で終わった。結果は山本信一郎長官が宮殿・表御座所で待機していた天皇陛下に報告して了承され、それぞれの知事にも電話で伝えられた。宮内庁と今回決まった両府県、農業団体、農家などが協議して斎田の具体的な場所を決める。秋に行う「斎田抜穂(ぬきほ)の儀」で新穀を収穫し、11月14日から15日にかけ、皇居・東御苑で行われる大嘗祭で供えられる。

 

2019年05月12日

神話:相撲の起源は神様の力比べ

5月8日の投稿で、大相撲の土俵上の吊屋根の四隅に、垂れ下がる4色の房(四房)は、天の四神獣を表していることを説明した際、相撲の起源が神話に遡ると述べました。今回は、古事記に書かれた相撲の話しをします。

 

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神話の時代、今の日本は、出雲の国を中心に、大国主大御神様(オオクニヌシノオオカミ)という神様が治めていました。しかし、高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大御神様(アマテラスオオミカミ)は、「葦原中国(あしはらのなかつくに=地上の国)は我が子が治めるべき」とお考えになられました。天の安河で、天上の神々(高天原の八百万の神々)による会議が開かれ、地上の統治を天上に委ねさせることが決定されました。

 

そこでは、天照大神は、力自慢の建御雷神様(タケミカヅチ)と、足の速い天鳥船神様(アメノトリフネ)の二神を、地上に差し向けました。二人の神は出雲の国の小浜(稲佐の浜)に降り立ち、大国主神に直々に「国譲りの」談判をしました。そして、大国主神様に、「我々は天照大神の命令できた。『葦原中国(地上の国)は、我が子が統治すべきだ』と天照大御神様はおっしゃっているが、どう思うか?」と強い口調で言いました。

 

すると、大国主大神様は、「私の一存ではお答えできません。息子の事代主神様(コトシロヌシ)と相談します。ですがあいにく美保の岬に鳥を狩りに行っています」と答えました。そこで、建御雷神様(タケミカヅチ)は、天鳥船神様(アメノトリフネ)を迎えに行かせ、事代主神を呼んで来させます。事情を聞いた事代主神様は、父の大国主神様に、「かしこまりました。おっしゃるように、天照大神の御子に奉りましょう」と答えました。

 

その時そこへ、大国主神様のもう一人の息子(事代主神の弟)で、力持ちの建御名方神様(タケミナカタ)が大きな岩を抱えて戻ってきました。建御名方神様(タケミナカタ)は、国譲りに反対し、「この国が欲しいのなら力競べだ」と言って大岩を投げ捨て、建御雷神(タケミカヅチ)に力勝負を挑みます。建御名方神様(タケミナカタ)は、建御雷神様(タケミカヅチ)の腕をぐいとつかみましたが、建御雷神様(タケミカヅチ)の腕が氷柱に変わり、さらにその氷柱は剣の刃に変わりました。建御名方神様(タケミナカタ)が驚き一瞬ひるむと、今度は、建御雷神様(タケミカヅチ)が建御名方神様(タケミナカタ)の腕をつかみ、軽くひねって投げ飛ばしてしまいました。

 

この出雲を舞台とした力競べが大相撲の始まりと言われています。そこで、使者が戦って勝負が決まったことから、「重要なことを決めるにあたり相撲を取ることによって神の意志がどちらにあるかを占う」という風習が生まれたとされています。相撲は神事として行われていたのです。現代でも、神社の敷地内に土俵があり、そこで神奉納相撲が行われています。相撲の起源が神事に関係していたからこそ、土俵を五神が守り、さらには、五穀豊穰が祈念されるようにもなっていきました。

 

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さて、出雲の国譲り神話の結末はどうなったのでしょうか?力競べに負けた健御名方神様(タケミナカタ)は、出雲から信濃の国(現在の長野県)まで逃げましたが、追いかけてきた建御雷神様(タケミカヅチ)に、諏訪湖辺りで追いつめられ組み伏せられてしまいました。健御名方神様(タケミナカタ)は、葦原中国を譲ることを約束し、命と引き換えに、諏訪の地から外には出ないことを誓ったとされています。こうして、それまで、葦原中つ国(あしはらのなかつくに=日本)を治めておられた大国主神様、事代主神様(コトシロヌシ)、そして健御名方神様(タケミナカタ)は、出雲の地においてその統治権を天照大御神にお返しになられました。ここに国譲りが実行されたのです。

 

大国主神様は、国を譲った代償として、お隠れになられる際、出雲の地に高天原の御殿のような壮麗な神殿を立ててもらい、そのみ魂が祀られました。その神殿こそ、現在の出雲大社です。事代主神様は、国譲りを受け、美保の御岬から、船に乗って海に出られ、海中にお隠れになられたとされています。大国主神様と事代主神様は、後世においても人々にこよなく愛され、それぞれ大黒様恵比寿様として親しまれています。諏訪の地に引き籠もった健御名方神様(タケミナカタ)は、諏訪神社の祭神となりました(諏訪神社の起源)。

 

一方、大国主神様から葦原中つ国(日本)の統治権を譲り受けた天照主大御神様は、孫の瓊瓊杵尊様(ニニギノミコト)を地上に送りこみ、統治を委ねました。記紀神話は、天孫降臨のストーリーとして進んでいくのです。

2019年05月10日

仏教:如来と菩薩、四神と四天王とはどう違う?

「東北・蝦夷の魂」(高橋克彦著)を読みました。そこに、世界遺産「平泉」の中尊寺について書かれていました。

 

中尊寺の落慶に際して、藤原清衡が読み上げた供養願文

(前略)

五色の旗で飾った仏堂に釈迦三尊を、三重塔に大日如来弥勒菩薩を安置しました。瓦葺きの蔵には、紺の紙に金と銀とで経を写した一切経を納めました。鐘をつき堂を造り、梵鐘を吊るました。その鐘の音は、世界のあらゆる人のもとに届き、苦しみをやわらげ、心を清らかにするでしょう。

(中略)

平泉は、東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武、四方を神仏が守護する理想に地です。平泉を都とし、陸奥は恩寵あらたかなる国になりました。

(後略)

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この中の用語を説明しながら、仏教について学びましょう。

 

(1)釈迦三尊、大日如来、弥勒菩薩とは何か?

 

釈迦三尊

釈迦如来像を中央に、その左右に2つの脇侍(きょうじ)像を配した造像・安置形式を言います。脇侍像には、文殊菩薩と普賢菩薩や、薬王(やくおう)菩薩や薬上(やくじょう)菩薩などが配されています。

また、釈迦如来とは、仏教の開祖、釈迦(本名はゴータマ=シッダールタ)を仏として敬う呼び名で、釈迦如来とはその釈迦が悟りを得た姿をあらしています。

 

大日如来

『大日経』や『金剛頂経』などに説かれる仏で、「毘盧遮那仏」ともいわれ、生きとし生けるものの根本となる仏様です。

密教(真言宗)では、大日如来は、宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指す仏の中の最高の仏とされています。すなわち、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、すべての仏は大日如来の化身と考えられています。

 

もっとも、一般的には仏教では、多くの仏様の中で一番上の仏様は、阿弥陀如来とされています。『般舟経』には、すべての仏は、阿弥陀如来のお力によって仏のさとりを開かれたと説かれているからです。そうすると、釈迦も、大日如来も薬師如来も阿弥陀如来の弟子ということになります。(「仏像ワールド」「仏教ウェブ入門」などより)

 

弥勒菩薩

遠い未来に人々を救うことが約束されている釈迦を継ぐ者。弥勒とは古代インドではマイトレーヤと呼ばれ、慈悲から生まれた者を意味しています。釈迦が亡くなられてから56億7千万年後に仏となりこの世に現れ、釈迦の教えで救われなかった人々を救済するといわれています。(「仏像ワールド」より)

 

◇ 如来と菩薩の違い

如来とは、仏と同じ意味で、最高の段階。「真理に目覚めた者」のことを言います。菩薩とは、人々を救いつつ、仏(如来)になることを目指して修行する人のことだとされています。

 

 

(2)青龍、白虎、朱雀、玄武とは?

天の四神獣(しじんじゅう)と言われ、天の四方の方角を司る、中国の神話に基づく霊獣です。また、この四神は季節も表わしています。

 

東方の守護神 青龍神(せいりゅうしん)⇒龍⇒春

南方の守護神 朱雀神(すざくしん)  ⇒鳥⇒夏

西方の守護神 白虎神(びゃっこしん) ⇒虎⇒秋

北方の守護神 玄武神(げんぶしん)  ⇒亀⇒冬

 

 

この中国の四神は、日本の国技、「相撲」と密接な関係があります。

大相撲の土俵の上には、「吊り屋根」と呼ばれる大きな屋根が釣り下がっていますが、その吊屋根の四隅に4色の房(四房しぶさ)が垂れ下がっていますね。

その四房の色は青、白、赤、黒で、時計回りに、正面は黒、東は青、向正面は赤、西は白となっています。大相撲の放送で、「向正面 赤房下 審判〇〇」なんて、アナウンサーが言ってますよね。この4色は方角も表し、黒は北、青は東、赤は南、白は西を示し、さらに、天の四神獣を表しているのです。

 

青:青龍神 (東)

白:白虎神 (西)

赤:朱雀神 (南)

黒:玄武神 (北)

 

土俵には神様がいて、四神獣が、四隅から土俵を守っています。相撲は神事なんですね。では、相撲は中国発祥かというと、全くそうではなく、相撲は、古事記に遡った日本の神話に由来します。

 

一方、仏教においても、東西南北を守る四天王が、次のように、天界の4守護神(仏法の守護神)といわれて、存在しています。

 

東方守護:持国天

西方守護:広目天

南方守護:増長天

北方守護:多聞天 (毘沙門天)

 

四天王は、それぞれ、戦闘用の甲冑に身を固め、仏法の敵である邪鬼を踏みつけています。平泉の中尊寺にも、持国天と増長天が配置されています。もともと、四天王は、密教の曼陀羅の須弥山に描かれていますが、この後、密教や曼陀羅について勉強しましょうか?

 

2019年05月08日

ニュース:天皇陛下、即位後 初の宮中祭祀

即位礼の期日報告=両陛下、装束姿で-皇居・宮中三殿

(2019.5.8 時事通信社)

 

天皇陛下が秋の即位の礼と大嘗祭の期日を皇居・宮中三殿に報告される「期日奉告の儀」が8日午前、行われた。即位後、初めて臨む宮中祭祀(さいし)で、秋篠宮ご夫妻ら皇族方8人に加え、安倍晋三首相ら三権の長や閣僚、都道府県や市町村の代表ら46人が参列。陛下は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」という天皇専用の装束を初めてお召しになられた。皇后さまも装束姿で臨まれた。

 

午前10時半すぎ、陛下は立纓(りゅうえい)の冠に黄櫨染御袍姿で、皇祖神とされる天照大神を祭る賢所(かしこどころ)の殿上に姿を見せられた。皇位の証しとされる剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)=をささげ持った侍従を前後に、厳粛な面持ちで回廊を歩き、一礼して内陣へ入られた。陛下は拝礼の後、10月22日に即位の礼の中心儀式「即位礼正殿の儀」を、11月14、15の両日に大嘗祭を行うことを告げる「御告文(おつげぶみ)」を読んだ。賢所に続き、歴代天皇や皇族の霊を祭る皇霊殿、国中の神々を祭る神殿でも同様の所作を行った。

 

続いて皇后さまが、十二単(ひとえ)に似た「五衣(いつつぎぬ)・小袿(こうちぎ)・長袴(ながばかま)」を着て、殿上で同様に拝礼した。皇后さまが宮中三殿全てに参拝するのは皇太子妃時代の2002年12月以来17年ぶり。この後、モーニング姿の皇族方や各参列者も庭上で拝礼した。

 

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