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2019年11月10日

ニュース:天皇陛下の即位を祝うパレード挙行

両陛下を11万9千人が祝福 祝賀御列の儀

(2019.11.10、産経新聞)

 

天皇、皇后両陛下は10日午後、天皇陛下の即位に伴い、皇居・宮殿から赤坂御所をパレードする国事行為「祝賀御列(おんれつ)の儀」に臨まれた。約4・6キロのコース沿道には約11万9千人が集まり両陛下を祝福。両陛下は約30分のパレード中、絶えず手を振って応えられた。

 

両陛下のパレードは、平成5年6月のご結婚以来。午後3時前、陛下はえんび服姿に勲章、皇后さまは白のロングドレスにティアラと勲章を身に着け、皇居・宮殿前で、新調されたトヨタ・センチュリーのオープンカーにご乗車。新たに作曲された奉祝行進曲「令和」が宮内庁楽部により演奏される中、出発された。

 

パレードの車列は秋篠宮ご夫妻のお車のほか、安倍晋三首相、山本信一郎宮内庁長官らの車など約50台、約400メートルに及んだ。警視庁や国会議事堂正門前などを平均時速約10キロで進み、両陛下は左右の沿道で祝福する人々に笑顔で手を振るなどして応えられた。両陛下の車は午後3時半過ぎ、皇宮警察本部音楽隊の演奏に迎えられ、お住まいの赤坂御所に到着された。

 

パレードは「即位の礼」の中心儀式「即位礼正殿(せいでん)の儀」などと合わせて10月22日に行われる予定だったが、台風被害を考慮して延期されていた。5月の陛下のご即位から続いた国事行為「即位の礼」の一連の儀式は「祝賀御列の儀」で終了。両陛下は14、15日、皇室行事として、皇位継承に伴う重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」に臨まれる。

 

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天皇陛下の即位祝う国民祭典開催

(2019年11月9日、NHK News Web、抜粋)

 

天皇陛下の即位を祝う「国民祭典」が、9日、皇居前広場で開かれ、天皇皇后両陛下は、皇居の二重橋近くから、集まった人たちの祝意にこたえられました。「国民祭典」は、天皇陛下の即位を祝うため、超党派の議員連盟や、経済界などが参加する民間団体が開催しました。

 

第1部の「奉祝まつり」では、皇居近くで祝賀パレードが行われ、来年の東京オリンピックで活躍が期待される陸上の桐生祥秀選手や、フィギュアスケートの紀平梨花選手らによるテープカットのあと、秋田の「秋田竿燈まつり」や、沖縄の伝統舞踊エイサーなどの全国各地の郷土芸能が披露されました。

 

その後、第2部の「祝賀式典」が皇居前広場で開かれ、国会議員や各界の著名人、それに一般客の合わせておよそ3万人が参加しました。はじめに若い世代を代表して女優の芦田愛菜さんが、「天皇陛下のご即位にあたり心よりお祝い申し上げます。日本そして世界の平和に対する陛下のみ心(御心)に心を打たれました。古くから日本に伝わる文化を大切にしつつ新しい日本へと躍進していく時代になっていくことをせつに願っております」と述べました。

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このあと、ピアニストの辻井伸行さんらの演奏で、人気アイドルグループ「嵐」が、即位を祝ってつくられた「奉祝曲」を披露しました。「Ray of Water」というこの曲は、水をめぐる問題に関心の高い天皇陛下を意識してつくられたということで、演奏の間には、皇后さまが涙をぬぐわれる場面もありました。

 

そして、天皇陛下が、おことばを述べられました。天皇陛下は、「即位から約半年、多くの方々から寄せられる気持ちをうれしく思いながら過ごしています。またこの間、さまざまな機会に国民の皆さんと直接接し、皆さんの幸せを願う思いを私たち二人で新たにしてきました」と述べられました。

 

そのうえで、台風19号などの大雨災害で被災した人たちなどへの気持ちをあらわし、「ここに改めて国民の幸せを祈ると共にわが国の一層の発展と世界の平和を願います。きょうは寒い中にもかかわらずこのように大勢の皆さんが集まり即位をお祝い頂くことに深く感謝いたします」と締めくくられました。おことばが終わると、会場では万歳三唱が行われ、集まった人たちが手にしたちょうちんを振って祝意をあらわすと、両陛下もにこやかな表情でちょうちんを振ってこたえられていました。

 

2019年11月07日

神社:諏訪神社と住吉神社

10月16日の投稿で、長崎くんちと諏訪神社(鎮西大社諏訪神社)について書きましたが、本家の諏訪神社(諏訪大社)と住吉神社(住吉大社)について調べてみました。

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諏訪大社

 

<概説>

諏訪神社と名のつく神社は、全国に約25,000社もあります。諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)と命名されるほど、諏訪神社は日本全国に広まっています(長崎の諏訪神社もその一つ)。その諏訪信仰の総本山が、長野県の諏訪にある諏訪神社で、現在は諏訪大社と呼ばれています。

 

また、諏訪大明神とも称される諏訪の神様は、水や風といった自然を司る竜神信仰であり、海や農業、狩猟・漁業の守り神として、古くから信仰を集めてきました。それゆえ、歴史のある港町には、水の守り神=海の守り神として、諏訪大明神が祀られています。長崎にわざわざ遠い諏訪から諏訪の神々が勧請されたのもこうした背景があったものと推察されます。

 

<祭神>

諏訪大社の祭神は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)(狭義には「諏訪大明神」とも呼称)と、その妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、全国の諏訪神社もこの2神を主祭神としています。

(明神:神を尊んで呼ぶ称。また神仏習合説によって神を仏教側から呼ぶ称。)

より正確には、諏訪大社は、先にできた上社と後から建てられた下社に分かれ、かつそれぞれ2つの社があり、全体としては4社で構成されています。4社の名称とその祭神は以下の通りです。

 

上社本宮:(主祭神)建御名方神
上社前宮:(主祭神)八坂刀売神

下社秋宮・下社春宮:

(主祭神)八坂売神

(配神)建御名方神、八重事代主神

 

諏訪大社としての公式な見解として、「4社」の祭神は、同じ建御名方神と八坂刀売神、総じて「諏訪大明神=諏訪大神」としています。または、上社の主催神は建御名方神、下社の主祭神が妻の八坂刀売神ともいえます。なお、配神とは、主祭神のほかに、同じ神社の中に他に祀られた神のことをいいます。凍結した諏訪湖の氷が堤状にせり上がる自然現象「御神渡り」は建御名方神が妻である八坂刀売神に会いに行く為に湖を渡った跡であると伝わっています。

 

<起源>

  • その1:記紀(「古事記」「日本書紀」)説

 

大国主命の国作りによって豊になった地上の国を見て、天界の天照大御神は、武神・建御雷神(タケミカヅチの神)を遣わし、地上の国を自分の子に譲るように迫ります。

これに対して、大国主命は答えを渋り、子で建御名方神の兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)(別称. 八重(やえ)事代主神または積羽八重(つみはやえ)事代主神)に委ねます。事代主神は、父の代わりに国譲りを承諾しますが、建御名方命は、容易に承知せず、建御雷神(タケミカヅチの神)と力競べをして決することになりました(この時の力比べが相撲のはじまりとされている)。

 

結果は、タケミカヅチが勝利し、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、信濃国の諏訪湖まで敗走します。追い詰められた建御名方命は、国譲りを認め、自身は諏訪湖から出ないことを約束し、許されました。こうして、建御名方命は諏訪湖のほとりに止まり、諏訪明神となった伝えられています。また、このとき、建御名方神は、諏訪の地から2度と出ないと誓いの印に、4本の柱を立て外に出ないようにしたとされ、これが諏訪大社の始まりとされています。なお、4本の柱が今も諏訪大社に伝わる御柱祭の起源となっています。

 

  • その2:甲賀三郎の物語

 

昔、近江の国に、甲賀に甲賀権守という者に三人の息子がいて、長男を甲賀太郎、次男を甲賀次郎、三男を甲賀三郎といいました。ある日、魔物を退治に出掛けた甲賀三郎は、地面に穴が開いているところを発見し、中に入るとそこには魔物に捕われていた姫君がいました。三郎はこの姫君を助け、妻に娶りました。しかし、姫君があまりにも美しかったので、兄たちは嫉妬し、姫君をさらってしまいました。

 

三郎は妻を探し回った結果、信州蓼科山の人穴で発見し、救出しますが、ここでも、兄弟達の策略にはまり、三郎はその人穴から出られなくなってしまいます。そこで、穴の奥底に進んでいくと、異国の維縵国 (ゆいまこく) という地底国に行きつきました。そこで、三郎は、そこの国王に気に入られて、その国の姫と結婚し、維縵国で13年暮らしました。しかし、時が経過しても、三郎は、前妻を忘れられないと、国に帰ることを希望すると、国王も仕方なく認めてくれました。

 

三郎は、なんとか日本に帰ってくることができましたが、出てきた所は信濃の国、浅間山の大沼でした。しかも、三郎の体は、巨大な蛇(龍の姿)に変わっていました。そのため、道行く人々に恐れられることを嫌がった三郎は塔の下に隠れていました。すると、その塔の前に、老僧に身を変えた神が現れました。この僧(神)に導かれ、池の水を飲み、僧が呪文を唱えるとヒトの姿に戻ることができたのです。

 

その後、前妻と再会することができた三郎は、妻と天竺に赴き、神通力を身につけ、神となって日本に帰ってきました。こうして、信濃の国に現れた二人は、諏訪の神となり、現在、諏訪大社の上社、下社にそれぞれ祀られるようになりました。

 

  • その3 融合・折衷

 

諏訪大社の由来は、この「記紀」と、「甲賀三郎」の物語があるのですが、地元では後者の話しが伝承として親しまれているそうです。ただ、どちらかの説が正しいかと言うよりは、「本来の祭神は出雲系の建御名方神ではなく、諏訪地方の先住民達が信仰する土着の神々であり、これらが建御名方神と習合した」と考えるのでがいいのかもしれません。

 

実際、もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われたという物語もあります。モリヤ神は、蛇または龍の形をした神様とされており、甲賀三郎が巨大な蛇になった話しとつながります。さらに、諏訪明神の神体は竜蛇であると古くから伝えられています。

 

この土着のモリヤ神とケミナカタ神が習合したという見方は、諏訪大社の神事や祭祀が、他の一般的な神社のものとは異なり土着信仰に関わる様式が数多くあることなどからも支持されています。例えば、動物の頭を備える御頭祭といった他では見られない風習、信仰が伝わっています。

 

加えて、古代の信濃国は、大和と先住民との境界に位置しており、両者が融合したという見方もあります。諏訪地方は、縄文遺跡が数多く発見されているだけでなく、最近では、稲作を中心とした弥生文化が一番最後?に伝播した地域であることも分かってきています。そこには、狩猟的=先住民文化(縄文文化)に、タケミナカタの「敗走」によって、農耕的=大和文化(弥生文化)が伝えられたと見る向きもあります。諏訪湖が文化の融合点だったのではないかというわけですね。

 

<パワースポットとしての諏訪大社>

諏訪大社の鎮座する位置が、風水的、地質学的にも特異であることから、諏訪大社は、パワースポットと呼ばれています。

 

  • 諏訪大社は、「フォッサマグナ(本州を東西に分割する大断層)」の西側の境界線である糸魚川・静岡構造線と、「中央構造線(南西日本を縦断する日本最大級の断層である)」の交わる場所に鎮座している。
  • 諏訪大社は、日本三霊山の富士山と立山を結ぶレイライン上に鎮座している。
  • 諏訪大社の真東に、鹿島神宮が鎮座している(鹿島神宮には、建御名方神と同じように軍神・建御雷神が祀られている)、つまり、両社で東西ラインを形成している。

 

<参考>

諏訪大社HP

諏訪の神様ってどんな神様?今日もゼロ発信・matchy

パワースポット諏訪大社のご利益・・・日本の観光地・宿

artwiki

関東農政局HP

 

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住吉大社

 

大阪の「住吉大社」は、下関など全国に約2300社ある住吉神社の総本社で、海洋国家日本の海の安全を守り、穢れを祓ってくださる厄除け、海上守護の神様として信仰されています。

 

<御祭神>

住吉大神(すみよしのおおかみ)

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

住吉大神とは以下の三男神の総称です。

●底筒男命(そこつつの おのみこと)
●中筒男命(なかつつの おのみこと)
●表筒男命(うわつつの おのみこと)

 

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、一般に神功皇后(じんぐうこうごう)と呼ばれます。この神功皇后こそ、211年に住吉大社を創建された方です。

 

<創建の由来>

第14代仲哀天皇の后である神功皇后は、住吉大神の加護を得て、新羅を平定され(三韓遠征・新羅遠征)、無事帰還を果たされました。この凱旋の途中、住吉大神のご神託があり、住吉大神を現在のこの地に鎮斎されました。また、大昔、住吉の地は松の名所で、その樹に三羽の白鷺が止まったのを見た神功皇后は、それを住吉三神の使いだと思われ、この地に祀ることを決めたとの伝承も残されています。のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられました。

 

<由緒>

祓(はらひ)の神

「記紀」神話によりますと、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の(よみのくに=死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。

 

住吉大神(住吉三神)は、伊邪那岐命がその穢(けが)れを清めるために海に入って禊祓いした時、「海の底」「海の中程」「海の表面」からそれぞれ、底筒男命 (そこつつのおのみこと)、中筒男命 (なかつつのおのみこと)、表筒男命 (うわつつのおのみこと)がお生まれになられました。この誕生の経緯から住吉大神は、神道で極めて大事な「禊(みそぎ)・祓(はらい)」を司る神とされています。住吉大社の夏祭りで、日本三大祭りに一つとされる「住吉祭」は、単に「おはらい」と呼ばれ、大阪だけでなく、摂津国・河内国・和泉国ひいては日本中をお祓いするという意義がある重要な神事とされています。

 

航海安全の神

住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があります。仁徳天皇の時代に、住吉津が開港されて以来、航海関係者や漁民の間で、海上安全の守護神として崇敬を集めました。特に、遣隋使や遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事が祈られたとされています。江戸時代に海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がりました。

 

農耕・産業の神

住吉大神が苗代をつくる方法を教えたという伝説により、古くから「農耕の神」として篤い崇敬を受けてきました。境内には約二反の御田があり、毎年6月14日には「御田植神事」が盛大に行われております。

 

弓の神

神功皇后の新羅遠征(三韓遠征)の際、神功皇后は住吉大神の神威を受け、御自らも弓鉾をとって御活躍されたという経緯から、弓の神としての信仰があります。

そのほかにも、住吉大神は、「相撲の神」、「和歌の神」としても崇敬を集めています。

 

<建築様式>

住吉大社には、第一本宮から第四本宮まで4つの棟があり、それぞれ底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后をお祀りしている。4棟はすべて海に向かって西向きに建ち、第一本宮から第三本宮が縦に並び建っている姿は大海原をゆく船団を表しているとされています。

 

また、4つの棟すべての本殿部分は、1810年(文化7年)に造営されたもので国宝指定を受けている。「住吉造(すみよしづくり)」という直線的な日本古来の建築様式で、神社建築史上最も古い様式だとされています。これに対して、重要文化財に指定されている4つの棟の拝殿部分は、曲線的で、大陸(中国)からの影響を受けた様式と考えられています。

 

なお、住吉大社は、奈良時代(749年)より伊勢神宮と同じように20年に一度の式年遷宮の制度が定められており、2011年(平成23年)には49回目の遷宮が「御鎮座1800年記念大祭」と合わせて行われました。

 

<島津家の誕生石>

住吉大社の境内には、島津家発祥の地となった「誕生石」があり、今でも「誕生石」として島津家代々から篤い信仰を受けています。そこは、源頼朝の寵愛をうけた丹後局(たんごのつぼね)が、不思議な狐火に導かれて、北条政子から逃れてきたところで、局はここで産気づき大石を抱きながら男の子を出産したとされています。この時生まれた子が、後の薩摩藩「島津氏」の祖となった「島津忠久」と伝えられています。

 

<参考>

住吉大社HP

住吉大社~みそぎの神様と国宝社殿の秘密~

住吉大社・神社専門メディア「奥宮」

2019年11月06日

歴史:沖縄と首里城

国の史跡でもあり、世界遺産、日本百名城にも選ばれている首里城が、火災で倒壊したというニュースは国内外に衝撃を与えました。沖縄と首里城の歴史を少し振り返ります。

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沖縄最大のグスク(城)である首里城(しゅりじょう)は、別名は御城(ウグシク)とも言う山城で、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城として、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました首里城の最初の築城は不明ですが、沖縄の三山時代には存在していたもようです。三山時代(さんざんじだい)と言うのは、1322年頃から1429年まで、沖縄が、北部の北山(ほくざん)、中部の中山(ちゅうざん)、南部の南山(なんざん)と3つの王朝に分かれていた時代をいいます。

 

このうち、琉球中山では、沖縄で生まれた最初の王統として、英祖王統(1259年頃~1349年)が、初代の英祖王から5代90年間栄えていました。その後、初代・察度(さっと)とその息子の武寧(ぶねい)の二代・56年間続いた察度王統(1350年~1405年)が続きました。

 

尚思紹王と尚巴志王

この時期、南山に、尚思紹王(しょう-ししょうおう)と言う人物が出ます。佐敷按司(佐敷の城主)を務めていた尚思紹王(1354~1421)には、嫡男の尚巴志王(しょう-はしおう)がいました。尚巴志王は、21歳のときに、父から南山の佐敷按司(さしきあんじ)を譲り受けると、1406年には中山王・武寧(ぶねい)を攻撃して察度王統(さっとおうとう)(1350年~1405年)を滅亡させます。

 

中山を手に入れた尚巴志王は、自らは王にならず、父・尚思紹(しょう・ししょう)に中山王に就いてもらいました。またこの時、尚巴志王は、中山の本拠を、英祖王統と察度王統の時代の浦添城から首里城に定めました。ここに、第一尚氏王統(1406年~1469年)が成立するとともに、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、首里城は、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇ることになります。

 

王国時代、首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開き、中国(明)をはじめ日本、朝鮮、ジャワなどとも交易を盛んに行われました。ただし、琉球王国では一般民衆の土地私有が認められていませんでした。そのため、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、農民などは貧しい生活を強いられていたと言われています。

 

琉球統一

さて、尚巴志王(しょう-はしおう)は、1416年には、北山王の居城である今帰仁城(なきじんじょう)も攻撃しました。この時、今帰仁按司の攀安知(はんあんち)は、家臣の裏切りもあって自刃したため、尚巴志王は北山も手に入れました。

 

1421年に、父・尚思紹王が死去すると、翌年、尚巴志王は中山王に即位し、首里城の整備を進めました。そして、1429年には、南山・島尻大里城(しましいおおざとじょう)の他魯毎(たるみい)を滅ぼし三山を統一し、初めて琉球を統一することに成功しました。尚巴志王はこのように大業を成し遂げ、1439年に亡くなると、次男・尚忠(しょう・ちゅう)が跡を継ぎ、第2代琉球国王(第一尚氏王統・第3代国王)となりました。その後、1453年、第一尚氏王統・第5代尚金福王(しょうきんぷくおう)の後、王位をめぐって王世子・志魯(しろ)と王弟・布里(ふり)との間で争いがおきました(志魯・布里の双方とも死去)。この志魯・布里の乱(しろ-ふりのらん)と呼ばれる争乱で、首里城は焼失してしまったのです。

 

さらに、1462年には、第6代国王の尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の重臣であった金丸が王位を継承し(クーデターで第一尚氏王統が滅んだとの見方もある)、第二尚氏王統の初代国王、尚円王(しょうえんおう)となりました。ただし、第二尚氏王統となっても、1453年の火災から復興した首里城は引き続き首都として栄えています。首里城は沖縄を統一してから大改修されたこともあり、戦闘用の軍事向けの城と言うよりは、政治や宗教の役割を重視した設計になっています。

 

1477年に即位した第二尚氏王統・第3代王の尚真(しょうしん)のとき、琉球に中央集権制を確立すると同時に、1519年には園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)が造られました。園比屋武御嶽は琉球王国の聖地のひとつで、国王が旅に出る際必ず拝礼したとされる礼拝所でした。

 

二重朝貢外交

琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、琉球と日本との衝突が起きていました。徳川幕府の成立後、島津氏は、琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとして画策して、1609年、琉球と薩摩藩との間で慶長の役が起きました。この時、薩摩藩の軍勢3000に対して、琉球軍は4000の首里親軍(しおりおやいくさ)などが首里城に籠城しましたが敗れ、琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王、尚寧王(しょうねいおう)は降伏して首里城を開城しました。

 

この結果、奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球王国は事実上、薩摩藩の従属国となりました。ただし、琉球は、薩摩藩へ年貢を納める義務を負いつつも、明国同様、清国にも朝貢(臣下の礼をとること)を続け体制を続けるなど一定の独自性を保っています(これを二重朝貢外交などと呼ばれる)。この慶長の役の際、薩摩軍の侵攻を許して城(グスク)は焼失してしまいました。その後、首里城は江戸時代において、1715年に3度目の火災で焼失しましたが再建され、太平洋戦争までその威容を保ちました。幕末の1853年には、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で那覇港を訪れ、首里城にて開港を求めるなど、日本の近代史の舞台にもなりました。

 

琉球処分

明治政府は、1871年に廃藩置県を行った翌1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年に琉球藩は沖縄県となりました。明治政府により琉球が強制併合された一連の過程は琉球処分と呼ばれ、約500年にわたって君臨した琉球王国はここに完全に滅亡しました。同年、最後の国王となった第二尚氏王統第19代の尚奉王(しょう・たいおう)は、首里城を明け渡し、明治政府の命令に従い、東京移住し、身分も、国王から華族へと格下げられました。

 

太平洋戦争

太平洋戦争中の沖縄戦では、日本陸軍が、首里城の地下に地下壕を掘って、第32軍総司令部としていたことから、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどから艦砲射撃を受け、首里城は灰燼に帰してしまいました。この時、首里城の地下では5000人もの重症兵が自決したとも言います。この沖縄の激戦で、琉球王国の宝物・文書も、その多くが失われました。わずかに残された宝物もアメリカ軍によって摂取され、一部は未だに返還されていません。

 

戦後復旧と今

戦後、首里城は、琉球大学のキャンパスとなりましたが、琉球大学の移転に伴い、1958(昭和33)年から復旧事業が開始されました。1972年5月の本土復帰の際、国指定史跡とされ、1992年、沖縄復帰20周年を記念し、約73億円かけて復元されました。こうして復活した首里城は、琉球王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂として、沖縄のシンボルとなったのでした。2000年12月には、首里城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産に登録されました。そんな首里城が、令和の時代に入った2019年10月31日、首里城祭りの開催期間中に全焼してしまったのです。

 

<参考>

首里城とは 尚思紹王と尚巴志王

「沖縄の世界遺産」守礼門や正殿 グスクとは?

「首里城は琉球王国の国王の居城だった(ニュース グッディ)」

沖縄県教育委員会HP

那覇市観光協会HP

沖縄観光HP

沖縄県観光チャネル

2019年11月01日

ニュース:沖縄・首里城、またも火災で全焼

“世界遺産“首里城で火災 過去にも4回の火災で繰り返し再建

(2019/10/31 FNN Prime online)

 

10月31日未明、沖縄の那覇市にある世界遺産の首里城で火事があり正殿など3棟が全焼した。里城は、2000年の九州・沖縄サミットの夕食会場として世界に発信されたほか、2000円札に守礼門が描かれるなど沖縄のシンボルとしても親しまれてきた。沖縄県民のみならず観光スポットとしても親しまれ、去年12月には首里城公園の入園者がのべ6000万人を突破した。

 

首里城は1453年に起きた王位継承を争う内乱で全焼して以降、これまでに4回の火災に見舞われている。1945年にはアメリカ軍の攻撃によって全焼。しかし、1992年に沖縄の本土復帰20周年を記念して、国営公園として復元するなど火災のたびに再建を繰り返して来た。戦後、多くの人々の努力により復元され一部が世界遺産にも登録されている首里城は沖縄の象徴的な建造物として親しまれていて、今年2月には三十数年にわたって行われた内部も含めた復元がようやく完了したばかりだった。

2019年10月29日

歴史:邪馬台国の真実を探る②

邪馬台国の真実を探る①に続くお話しです。

 

  • 九州説(北九州説)

九州説では、倭人伝にいう、2世紀後半から3世紀半ばにかけての邪馬台国は、北九州の伊都国に本拠を置いた時代の邪馬台国であると主張されます。伊都国の平原遺跡などから卑弥呼のものと思われる墓や副葬品が多数出土しており、卑弥呼は伊都国の出身という見方すら出されています。

 

また、倭人伝にある「環濠、宮室、楼閣、城柵」を備えた遺跡が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、福岡県の平塚川添遺跡などで見つかっているというのも九州説の論拠となっています。

 

さらに、古来、鉄は権力の象徴とよく言われますが、弥生時代の鉄器の出土数のトップは熊本と福岡であるのに対して、奈良からはほとんど出土されていないという指摘もあります。

 

加えて、倭人伝には、邪馬台国に対抗していた「狗奴国(くぬこく)」についての記載があります。狗奴国の所在地も熊本が有力視され、吉野ヶ里遺跡に匹敵する県内最大規模の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)が、狗奴国(くぬこく)の跡地と見られています。

 

一方、邪馬台国九州説から、さらに発展的に、邪馬台国東遷説が浮上します。

 

邪馬台国東遷論

これは、九州にあった邪馬台国が、王権とともにヤマト(大和)へ東遷し、大和朝廷になったとする考え方です。そうなると、1)神武天皇の東征は、邪馬台国が大和地方に進出したことであったという見方、2)邪馬台国時代の後に、神武天皇の筑紫(九州)から大和への遷都が行われたという考えまでてきます。逆に、3)邪馬台国は、大和朝廷が九州に攻め込む過程で、大和朝廷に征服されていたという説もあります。

 

 

  • 畿内説

九州説と畿内説との間で江戸時代から続く邪馬台国論争は、今も決着していませんが、2009(平成21)年秋に発掘された纒向(まきむく)遺跡の出現で、畿内説が優位になっています。

 

纒向遺跡(奈良県桜井市)は、今も神体山として信仰をあつめる三輪山のふもとに位置しています。そこで、宮殿を思わせる東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の巨大建物群の跡など4棟が見つかりました。また、3000個以上の桃の種、小動物、魚の骨が多数発見されただけでなく、土器も多く出土しており北陸、近江、河内、阿波、吉備などからも土器の搬入が確認されています。

 

卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政(まつりごと)を行い、倭国の首都だったのではないかとの期待が高まりました。また、纏向遺跡は、紀元180年頃にできたものとされていますが、卑弥呼が女王になった時期と一致しています。

 

さらに、纒向遺跡にある箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)は、日本最古の古墳とされており、これが、卑弥呼の墓であるとの見方が根強くあります。「日本書紀」によると、箸墓は、第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在で、何か予言の能力のようなものを持っていたらしく、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます(この逸話から箸墓という名がついたとも言われている)。この百襲姫(モモソヒメ)と卑弥呼のシャーマン的な姿が重なり、この古墳が、倭国の女王、「卑弥呼」の墓だと考えられているのです。

 

加えて、邪馬台国(卑弥呼の時代)に続くとされる大和朝廷(ヤマト政権)の時代は、地質学の観点から言えば、古墳時代(250~500年頃)にあたります(ヤマト王朝は、3世紀末から4世紀前半にかけて、奈良の地に出現したとされている。)

 

実際、3世紀中頃(247年か248年)、女王卑弥呼が亡くなったとされる頃、近畿地方の大和(奈良県)を中心に、瀬戸内海沿岸にかけて、古墳(有力者の墓)が造られるようになりました。最近の研究では、古墳時代の開始を、以前の3世紀末(大体280年頃)から3世紀中ごろとするのが大勢となっており、そうなると、卑弥呼の死亡時期とピタリと重なります。加えて、纏向遺跡があった邪馬台国とみられる地域は、紀元340年ごろ、急速に衰退したとされ、この時期も、初期の大和朝廷(ヤマト政権)が誕生したとされる頃と重なります。

 

このように、纏向遺跡の存在が、邪馬台国、畿内説を強力に後押ししています。これが、7月24日の「邪馬台国・畿内説は常識?」を投稿した背景です。

 

 

  • 畿内説批判

しかし、畿内説にしても批判がないわけではありません。特に、文献上から問題点が指摘されています。もともと「魏志倭人伝」に記された道のりと距離をそのまま読めば、邪馬台国は太平洋の海の中になってしまうことはすでに述べた通りですが、畿内説では「魏志倭人伝」に記された方角を「都合よく」解釈していると批判されています。

 

例えば、「魏志倭人伝」に「その(女王国の)南に狗奴(くな)国がある」と書かれています。畿内説の観点から狗奴国を考えようとすると、奈良県の南とは、紀伊半島の南部の熊野地方に当たりますが、そこに当時、女王国に敵対する勢力はなかったとされています。そこで、畿内説では、「魏志倭人伝」の「南」は「東」の誤りであるとして、狗奴国が、愛知県の濃尾平野にあった解釈しているのです。

 

また、邪馬台国畿内説は、日本の文献との矛盾も指摘されています。もっとも、日本の文献といっても神話に基づくいるのですが、邪馬台国の時代のに神武天皇の東遷(宮崎の高千穂から奈良の橿原へ)が行われたとすると、畿内に都があるのに、神武天皇が南九州から、東遷することは考えられません。

 

逆に、神武東遷が、卑呼の時代の前に行われたとすると、記紀(「古事記」「日本書紀」)に、神武天皇の後に、「女王」が即位したという記録はありません。あるとしたら、神功皇后が考えられますが、邪馬台国のあった時代と合致しません。

 

さらに、「纒向遺跡=邪馬台国跡」説も絶対ではありません。「纒向(まきむく)遺跡」の「まきむく」という地名は、「魏志倭人伝」には一度もでてきておらず、記紀には、第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の時代の下りで、「纒向の〇〇の宮」というのがでています。そもそも、第10代の崇神天皇が、大和朝廷(ヤマト政権)の創始者とも言われています。纒向は、崇神、垂仁、景行の三代にわたって都が置かれたヤマト政権の都であった可能性もあるわけです。

 

このように、邪馬台国が畿内にあったと、江戸時代から続く不毛に近い邪馬台国論争に、決着がついたとは言えないのですね。それどころか、邪馬台国の所在は、九州説・畿内説に限らず、以下のように、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地でその存在が主張されています。

 

邪馬台国はどこに(主要な九州説、畿内説以外)?

豊前宇佐説

吉野ケ里説

阿蘇説

奄美大島説

沖縄説

四国説

出雲説

 

どの説もそれぞれ興味深く、説得力もあります。個々の内容については、別の機会に紹介することにします。

2019年10月27日

神社:皇室にゆかりの御霊神社とは?

京都の御霊神社で、天皇陛下の「即位礼正殿の儀」と同じ日に、陛下の即位を報告する神事(奉告祭)が開かれたという以下のニュースがでていました。

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皇室ゆかりの御霊神社 即位を報告する神事 京都

(2019年10月22日、NHK News Web)

 

「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀」に合わせて、皇室とゆかりが深い京都の御霊神社では即位を報告する神事が行われました。「奉告祭(ほうこくさい)」と呼ばれるこの神事は天皇の即位を神に報告するもので、皇室とゆかりが深い京都市上京区の御霊神社で行われました。はじめに宮司が神前で祝詞をあげ、即位を報告するとともに皇室の安泰と国の平安を祈りました。拝殿では明治天皇の和歌が読まれる中、宮司が舞を納めました。続いて、平安時代からの和歌の文化を受け継ぐ冷泉家(れいぜいけ)和歌会の7人が王朝装束に身を包み、令和の出典となった万葉集から四季の和歌、5首を披露しました。

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即位礼と同時並行して神事が行われるというのは余程、格式のある神社か、文字通リ、皇室に深いご縁のある神社なのかと関心がでて、御霊神社について調べてみました。

 

 

御霊神社(ごりょうじんじゃ)

 

◆概説

御霊神社は、「上御霊神社(かみごりょう)」とも呼ばれ、平安遷都以来、京都御所の北側にある厄除けの神社、皇室崇敬の神社として知られています。

 

当時の京都では御霊(ごりょう)信仰が盛んでした。御霊信仰とは、その頃、頻発した天変地異や疫病が、時の政争により都を追われ非業の死を遂げた怨霊の祟りであるとされ、その御霊を神として祀ることで、疫神・疫病を鎮めようとする信仰です。御霊神社も、794年、桓武天皇の弟で、非業の死を遂げた早良親王の神霊を祀ったことが始まりとされ(早良親王は崇道天皇として祀られた)、以後、疫病除の霊社として有名になりました。

 

この御霊信仰を祭りにしたのが御霊会(ごりょうえ)で、鎮魂のための儀礼です。京都の夏祭りの多くは御霊会だと言われ、御霊神社の祭礼が、御霊会発祥の一つと位置づけられています。また、京都の上京区にある御霊神社の一帯は、かつて「御霊の森」が広がっていたとされ、境内は、室町時代の応仁の乱の発端の地になりました。

 

◆祭神

御霊神社の祭神(祀られている神)は、前述した桓武天皇の弟・崇道天皇(早良親王)だけでなく、奈良・平安時代初期に不運のうちに亡くなった他の七柱の神霊で、八所御霊(はっしょごりょう)として、本殿八座に祀られています。桓武天皇が794年5月に、崇道天皇の神霊を祀った後、仁明天皇、清和天皇の治世において、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀されました(6柱の神は六所御霊(ろくしよごりよう)と総称された)。さらに、この六所の荒魂として火雷神(菅原道真)と吉備大臣(吉備真備)が併祭されました。

 

  • 崇道天皇(早良親王)

桓武天皇の弟だった早良親王は、785年、長岡京造営長官・藤原種継暗殺事件に関与したとされ、淡路島に左遷され、断食死してしまいました。

 

  • 井上大皇后(いのえのおおきさき)
  • 他戸親王(おさべしんのう)

井上大皇后(井上内親王)は、桓武天皇の異母で、(桓武天皇の父光仁天皇の姉の)難波内親王を呪い殺した嫌疑により、子の他戸親王(桓武天皇の異母弟)とともに幽閉され、母子同時に死去しました。毒殺されたとの見られています。

 

  • 藤原大夫人(ふじわらのたいふじん)

生前の名前は、藤原吉子(よしこ)で、桓武天皇の夫人でしたが、謀反の嫌疑により、子の伊与(いよ)親王とともに川原寺に幽閉され飲食を絶たれ没しました(死後、藤原大夫人として祀られた)。

 

  • 橘大夫(きつだいぶ)

生前、有力貴族であった橘逸勢(たちばなのはやなり)は、842年の承和の変(伴健岑とともに皇太子恒貞親王を奉じて東国で謀反を企てたとされる)に連座したとして捕らえられ、伊豆へ流される途中で没しました。ただ、この事件は、藤原氏による最初の他氏排斥事件として位置づけられています。

 

  • 文大夫(ぶんのたいぶ)

生前の文屋宮田麿命(ふんやのみやたまろ)は、843年に突然謀反の疑いありとの訴えにより、伊豆に配流されれました。

  • 火雷神(からいしん)

火雷神(火雷天神)とは、太宰府左遷後に悶死した菅原道真のことと解釈されがちですが、時代が合わないため、上記六神(六座)の御霊の「荒魂」と解釈されています。

 

  • 吉備大臣(きびのおとと)

吉備大臣は、有力貴族の吉真備命(きびのまきび)のことという説もあります。確かに、吉備真備は、藤原仲麻呂に疎まれ、筑前守に一時左遷されたこともありますが、怨霊になったという話しは聞こえてきません。従って、上記六座の御霊の「和魂」と解釈されています。

 

なお、神道には、神様を祀るだけでなく、神様の魂を祀るという考え方がかり、「荒魂(あらたま)」は、神様の荒々しい力を示す神霊であるのに対して、「和魂(にぎたま)」は穏やかな働きのことをいいます。これらの八神は、平安京鬼門に祀られ八所御霊大明神と称されました。現在、御霊神社には12柱の神霊が祀られ、分祀も30余社あるとされています。

 

 

◆御霊祭

前述したように、上御霊神社の祭礼である御霊祭は、御霊会(怨霊の退散を祈願した御霊信仰の祭り)の発祥で、京都で最も古い祭礼の一つとされています。863年、平安京で「咳逆病」が流行し、朝廷主催の御霊会が神泉苑で行われました。このとき、六座(崇道天皇、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫)の神座を設け、祀られたとされています。

 

かつては神幸祭(7月18日)から還幸祭(8月18日)の一カ月に渡り行われ、江戸時代には、天皇、皇族も高覧されました(現在は、5月1日から5月18日まで催されています。神輿(みこし)は、明治になって1871年以来途絶えていましたが、2009年に神輿の御所巡行が約140年ぶりに復活しています。

 

◆由緒(由来)

御霊神社の創建と変遷の詳細は不明とされています。かつて、この京都の一帯は山背国愛宕郡出雲郷と呼ばれ、794年の平安遷都以前から先住していた出雲一族の居住する地域でした。

 

飛鳥時代~奈良時代

延暦年間(728-806)にかけて、出雲一族の氏寺としての出雲寺(上出雲寺)が創建されました。一説に最澄が開創したとも言われています。このお寺は、「上(かみつ)出雲寺」と「下(しもつ)出雲寺」に分かれており、その後、上出雲寺に鎮守社(寺の鎮守のために建立された神社)として御霊社が建てられ、これが現在の御霊神社になったと言われています。

 

移住氏族である出雲氏は、天穂日命(あめのほひのみこと)を祖神とし、賀茂氏とともに北山城盆地の開拓に関わったとされています。飛鳥時代、672年の壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に付き戦功をあげ臣の姓を賜りましたが、その後、出雲氏の勢力は弱く、平安時代初期にはすでに衰微していました。これに伴い寺も衰退した半面、御霊神社が上出雲寺御霊堂として知られていきました。

 

平安時代

794年

桓武天皇の勅願により、平安京の守神として、非業の死を遂げた桓武天皇の弟・早良親王(崇道天皇)の神霊を祀る。

 

863年

悪疫退散の御霊会が勅命で催された。

 

室町時代

1423年:足利義満が参詣し、太刀を奉納した。

1427年:足利義持が社殿を寄進。

 

室御霊神社の「御霊の森」が応仁の乱(1467-1477)の発端となりました。

応仁の乱とは、8代将軍・足利義政下、管領家の畠山、斯波家の跡目争いと、幕府管領の細川勝元と山名持豊(山名宗全)らの権力争いが絡んだ争乱です。1467年1月、御霊神社の森に布陣した畠山政長を、畠山義就の軍が攻めた「御霊合戦」を機に、戦乱は応仁の乱へと拡大していったのです。

 

1478年12月:御霊神社、焼失。その後、足利氏により再建される。

 

江戸時代

後陽成天皇(在1586年12月~1611年5月)の時、神輿と牛車が寄進される。

霊元天皇(上皇)の時、1723年9月、1729年2月に行幸された。この時、願文(がんもん)が納められ、以後、天皇家の産土神とされた。

光格天皇の時代、1788年の天明の大火により焼失するも、1790(1791)年に、内侍所(ないしどころ)が寄進され、1798年現在の拝殿が建立される。

 

明治

1868年:神仏分離令後の廃仏毀釈

1871年以降、御霊祭の御所巡行が途絶える。
1877年2月、明治天皇は勅使を参向させた。

 

現代

1952年12月、皇太子・明仁親王の成年式、立太子礼奉告の幣帛(へいはく=お供え物)を献じられる。

1968年1月、本殿の再建復興に際し、昭和天皇、常陸宮、秩父宮、高松宮、三笠宮の四宮家よりの寄進。1970年に本殿が再建される。

2002年、11月、当時の皇太子・徳仁親王が行啓

2009年、御霊祭の御所巡行が復活する。

 

御霊神社をどうして、上御霊神社とも呼ぶ理由は、上御霊神社とは別に下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)があるからです。下御霊神社については「日本の神社」の御霊神社へ。

 

<参照>

御霊神社HP

下御霊神社HP

きょうとnavi

Kyoto design

京都風光(京都寺社案内)HP

 

2019年10月25日

外交:即位礼に王族たちが勢ぞろい、米露中は?

天皇陛下が内外に即位を宣明された「即位礼正殿の儀」に180か国以上の代表が出席しました(なお、平成の即位礼のときは160か国からの参列があった)。今回の天皇即位の祝賀外交において、国王(皇太子を含む)や大統領など各国は元首級を日本に送ってきました。その数、約80か国にもなりました。皇室とゆかりの深い各国の王族からは、英国のチャールズ皇太子、オランダのアレクサンダー国王、スペインのフェリペ6世国王、ブータンのワンチュク国王など最高位の方々が多く参列されました。

 

まず、この機会に、世界には、国王を戴く王制や立憲君主制の世界の国々がどれくらいあるのかをみてみましょう。

 

【アジア・大洋州】

ブータン ワンチュク国王夫妻

ブルネイ ボルキア国王

カンボジア ノロドム・シハモニ国王

マレーシア アブドラ第16代国王夫妻

トンガ ツポウ6世国王夫妻

 

【欧州】

ベルギー フィリップ国王夫妻

リヒテンシュタイン アロイス皇太子

ルクセンブルク アンリ大公

モナコ アルベール2世公

オランダ ウィレム・アレクサンダー国王夫妻

ノルウェー ホーコン皇太子

スペイン フェリペ6世国王夫妻

スウェーデン カール16世グスタフ国王

英国 チャールズ皇太子

 

【中東】

バーレーン サルマン皇太子

ヨルダン フセイン皇太子

カタール タミーム首長

 

殺人教唆疑惑を受けているサウジアラビアのムハンマド皇太子も、当初は参列予定でしたが直前で取り止めとなりました。

 

【アフリカ】

エスワティニ ムスワティ3世国王夫妻

レソト レツィエ3世国王夫妻

モロッコ ムーレイ・ラシッド王子

 

一方、国王のいない共和制国家からも大統領など国家元首級の人たちが顔を揃えましたが、皮肉なことに、同盟国とされるアメリカからは元首級ではない人物が来られました。初のアジア系アメリカ人の女性閣僚のイレイン・チャオ運輸長官でした。1990年11月の上皇陛下の即位の礼の際には、クエール副大統領が参列したことから、今回も、前例に従って副大統領の来日が予想され、実際、ペンス副大統領で水面の調整が進んでいると報じられていました。アメリカの副大統領は、大統領継承順位2位で「元首級」と言えます。では、アメリカの運輸長官は、閣僚の中では何番目の地位にあるのかというと13位とぐっと下がってしまいます。

 

アメリカ大統領権限継承の順位(日本の内閣総d理大臣臨時代理に相当)は、1位から順に次のようになります。

副大統領兼上院議長(アメリカでは副大統領が上院議長を兼任)、

下院議長

上院仮議長

国務長官

財務長官

国防長官

司法長官

――――

運輸長官

エネルギー長官

教育長官

退役軍人長官

国土安全保障長官

(運輸長官は、国務長官筆頭の閣僚15名のなかでも下位に当たる)

 

チャオ長官ご本人がどうのこうのというつもりは全くありませんが、外交儀礼という観点から、これまでの日米関係を考えれば、もう少し人選に配慮があってもよかったのではないか正直思いました。逆の状況を想定して、例えばイギリスで新国王の即位式が行われたとした場合、日本を代表して国土交通大臣が派遣されることと同じです。

 

一説には台湾系のチャオ長官を送ることで中国に対するメッセージを発したという見方もあるようですが、神聖な即位の礼にそうした政治ゲームを入れられても迷惑な話しです。今回の人選は、日本に対するアメリカの本音の姿勢(アメリカは実は日本を軽視している)という声もあるようですが、そうではなく、単にトランプ大統領の文化的見識のなさからくるものということであって欲しいですね。

 

これに対して、ロシアと中国からは、今の日本との関係を反映した相応の人物が派遣されました。ロシアは、ウマハノフ上院副議長が参列しました。平成の即位礼のときは、ソ連時代のルキヤノフ最高会議議長でしたので、格下の人が送られた形です。日露の冷ややかな関係を反映してますね。

 

中国は、王岐山 国家副主席を派遣しました。王氏は実質的な指導者グループとされる共産党中央政治局常務委員の一人です。対外的にも副主席ですから中国のナンバー2かというとそうではありません。中国の場合は、中央政治局常務委員会での順位で政治的な地位がわかります。王氏は7人の常務委員の中で6位なので、決して「大物」とは言えません。もっとも、中国は共産主義国ですので、天皇制をよく思っていない国ですから、この人選は仕方がないことかもしれません。

 

なお、親日国とされるイスラエルとトルコからは、当初、ネタニヤフ首相とエルドアン大統領が参列すると発表があったようですが、国内政治の対応などから欠席となりました。

2019年10月23日

皇室:「即位の礼」を深ぼり

 昨日行われた「即位の礼」の中の最も重要な儀式である「即位礼正殿の儀」について、その歴史や仕組みについてまとめてみました。皇室の伝統に根ざしながら、現代的な工夫も取り入れられていることがわかりました。

 

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「即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)」は、古代からの皇室の歴史を今に伝える重要儀式で、天皇の国事行為である「即位の礼」の中心儀式です。儀式は、宮殿(皇居)で最も格式の高い「松の間」で挙行されました。

 

「松の間」には、皇族方が並ばれ、三権の長らも定められた位置につくと、天皇陛下が、歴代天皇に伝わる三種の神器のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の複製品と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして、公務で使われる天皇の印章「御璽(ぎょじ)」、国の印章「国璽(こくじ)」とともに、「高御座(たかみくら)」と呼ばれる玉座に昇段されます。続いて、皇后陛下も「御帳台(みちょうだい)」と呼ばれる御座に昇られます。陛下が高御座から即位を宣言する「お言葉」を述べられた後、首相がお祝いの「寿詞(よごと)」を述べて万歳三唱し、参列者も唱和。儀式は約30分で終了します。

 

天皇陛下は、上皇陛下のご譲位により、令和(2019)元年5月1日に第126代天皇に即位されましたが、即位当日にも儀式はありました。これは「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」と呼ばれる儀式で、皇位継承の印である「三種の神器」のうちの剣(つるぎ)と曲玉(まがたま)を受け継がれました(投稿記事参照)。

 

そして、皇位継承から約半年を経た10月22日、「即位礼正殿の儀」で、国内外の代表が参列する中、天皇陛下が即位を公に宣言されたのです。歴史的にも、天皇の位と一体のものとされている神器を受け継ぐ「剣璽等承継の儀」は即位から間を置かずに行われてきましたが、即位を宣言する儀式は即位から一定の期間を置いて行われ、その期間は天皇によって異なっていました。

 

「即位の礼」の歴史

天皇の即位に伴う儀式(即位式)は、1300年以上前の飛鳥・奈良から平安時代にかけて整えられました。実際には、奈良時代後半、781年に即位した桓武天皇の時から行われているとされています(一説には、7世紀後半の天武天皇の時代には、即位の儀式が整ったとされる)。

 

この時から、新たな天皇が皇位の証しとして、神器(じんぎ)を受け継ぐ儀式(今の「剣璽等承継の儀」)と、即位を広く宣言する儀式(今の「即位礼正殿の儀」)とに分けて行われるようになったとされています。そうすると、古くは皇位を継ぐ「践祚(せんそ)」の儀式(皇位継承直後の践祚式)だけだったのが、平安時代前期から、十分に準備をして即位を内外に示す盛大な儀式(今の「即位礼正殿の儀」)が行われるようになったわけです。

 

儀式の変遷

儀式のあり方(様式)や雰囲気もさまざまな変遷を経てきました。即位式は、中国皇帝の即位儀礼を参考にして始まったこともあって、中国文化を色濃く反映した古代からの形式がそのまま受け継がれていました。遣唐使が唐の皇帝の豪華な即位儀礼を見て帰り、儀式の設備や装飾品、服装など、ほぼ唐の在り方に倣ったのです。平安時代後期ごろからは仏教色も加味され始めたそうです。

 

こうした様式は、江戸時代までの長い期間続いていましたが、1868年の明治天皇の即位式が大きな転機となりました。例えば、当初、「王政復古」を掲げていた明治政府は、それまで中国王朝「唐」の例にならった装束(しょうぞく)などのスタイルを一変させます。それまで、天皇や参列者は、「礼服(らいふく)」という中国風の装束や冠を身につけていましたが、明治天皇の装束に日本風の束帯である「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を採用しました。陛下がお召しになる「黄櫨染御袍」そのものは、平安時代、嵯峨天皇が天子の御服と定めて以来、天皇のみが着用できる色の装束として伝わっていました(現在も、「即位礼正殿の儀」だけでなく、宮中祭祀でも身につけられる)。また、陛下が頭にかぶられる「立纓(りゅうえい)の御冠(おんかんむり)」も天皇を象徴する冠として、唐風から和風の物に変わった一例です。

 

さらに、皇嗣(こうし)秋篠宮さまは皇太子の装束である「黄丹袍(おうにのほう)」を着用され、皇后さまをはじめとする女性皇族方は、十二単(ひとえ)を身につけられます。そのほか、宮内庁幹部や中庭に整列する職員らも古装束を身につけます。

 

このように、明治天皇以降、中国風(唐風)から、束帯や十二単など日本の風土に合わせて発展してきた独自の和様(和風)装束を、天皇や皇族が即位式で着用するようになりました。

 

儀式の場所

儀式が行われる場所はその時々で移り変わってきました。即位を宣言する儀式は、桓武天皇の即位以降、およそ1000年にわたって都が置かれた京都で行われ、当初、時の都の大内裏内の「大極殿(だいごくでん)」という建物を中心に行われていました。しかし、大極殿は火災による焼失と再建を繰り返し、平安時代の終わり頃に焼失したあとは再建されなくなったことから、大極殿の近くにあった別の建物で行われ、さらに室町時代の後期の後柏原天皇の即位式(1521年)以降は、天皇の私的区域内の「紫宸殿(ししんでん)」(現在、京都御所にある)で行われるようになりました。

 

明治時代に入ると、東京に遷都が決まり、天皇も京都から現在の東京に移られましたが、大日本帝国憲法とともに定められた1889年制定の旧皇室典範で、11条に「即位の礼および大嘗祭は、京都において行う」と明記されていました。従って、大正、昭和の儀式は京都御所の紫宸殿(ししんでん)で挙行されました。

 

こうした、旧皇室典範の中の天皇の践祚(せんそ=受け継ぐこと)、即位礼などについて、1909(明治42)年には、平安時代の儀式書などを参考にした「登極令(とうきょくれい)」が制定され、国風の儀式の確立が目指されました。とりわけ、調度品も日本風に改まりました。

 

「即位の礼」の調度品

高御座

即位礼正殿の儀で、陛下が昇られた玉座である高御座(たかみくら)は、飛鳥、奈良時代の文献に頻出していることから、遅くとも奈良時代から即位式で使われていたと推察されています。「登極令」にも、高御座の形状が詳しく規定されていました。例えば、「登極令」に基づき、西洋の王室儀礼を参考に、天皇と皇后が並び立つように規定され、「高御座(たかみくら)」だけでなく、一回り小さい皇后の「御帳台(みちょうだい)」も作製されました。

 

なお、現在の「高御座」は、「御帳台」とともに、1913(大正2)年に復元され、「高御座」は、大正、昭和天皇と上皇陛下の即位時に使用されました。「御帳台」の方は、大正天皇の貞明(ていめい)皇后は懐妊中で使われませんでしたが、昭和天皇の香淳(こうじゅん)皇后は皇后として初めて御帳台に立たれました。なお、天蓋(てんがい)もあり、約3千の部品からなる高御座と御帳台は、平成の即位の礼の後、解体され、宮内庁は京都御所の紫宸殿で保管していましたが、昨年9月、再び京都から皇居内へ陸送されました。

 

のぼり旗

また、即位式の際、前庭に並ぶ、「旛(ばん)」と呼ばれるのぼり旗があります。その「旛」も、奈良時代には朝廷の儀式に用いられたとされ、装束と同様、中国風のものが長く使われていました。とりわけ、江戸時代の即位式を描いた絵図には、中国で方角を司る霊獣である四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)の旛も見られました。しかし、明治以降は姿を消し、「八咫烏(やたがらす)」や「霊鵄(れいし)」といった神話に基づく図柄が刺しゅうされたのぼり旗や、榊(さかき)に5色の布を垂らす神式の旗が立てられるなど、こちらも、唐風から日本風に改められました。

 

そのほかにも、即位を宣言することばは、以前は「宣命使(せんみょうし)」という人物が代読していましたが、天皇みずからが読み上げる形に変わったことなども特筆できるでしょう。

 

明治になって、参列者も公家だけでなく、明治維新に貢献した武家出身者も加わりました。また、外国使節も招かれるようになり、さらに、全国各地で奉祝行事が行われるなど、国民にも広く歓迎されるようになりました。

 

戦後の「即位の礼」

戦後、旧皇室典範や登極令が廃止されて新憲法が施行され、皇室制度が現在のものに改められました。日本国憲法下で初となった平成の「即位礼正殿の儀」では、大正、昭和の儀式から、いくつかが変更されました。まず、160の国と機関の元首ら海外賓客が招かれたことから、警備などの理由から、儀式が京都ではなく初めて東京・皇居で行われました。のぼり旗に使われていた神話に由来する「八咫烏(やたがらす)」などの図柄は、政教分離を定めた新憲法のもとでふさわしくないとして姿を消しました。同じく、国民主権を原則とする現憲法の精神への配慮から、大正、昭和で紫宸殿の階段下からだった首相の万歳三唱は、天皇と同じ松の間で行われました。令和の儀式は、基本的には平成を踏襲された形です。

 

 

<参考>

即位式、奈良時代末から 明治以降、様式一変

(2019年10月21日、時事通信)

歴史伝える「即位礼正殿の儀」

(2019.10.21 産経)

即位の儀式の歴史

(2019年10月21日、NHK)

「即位の礼」進む国際化 「日本の国柄」示す好機に

(2019.10.21 産経新聞)

Wikipedia

2019年10月22日

ニュース:「即位の礼」、即位を内外に宣言

天皇陛下、皇居で「即位礼当日賢所大前の儀」

(2019/10/22、読売新聞)

 

天皇陛下は22日午前、皇居・宮中三殿で、「即位礼正殿(せいでん)の儀」を行うことを報告する皇室行事「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」に臨まれた。儀式は午前9時過ぎに始まり、陛下は神事服の「帛御袍(はくのごほう)」姿で回廊に姿を見せられた。皇位の証しである剣と璽(じ)(曲玉(まがたま))を持つ侍従を従えた陛下は、皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る賢所の内陣に入って拝礼し、「御告文(おつげぶみ)」を大和言葉で読み上げられた。

 

続いて、皇室の祖先を祭る皇霊殿(こうれいでん)、八百万(やおよろず)の神を祭る神殿を順に巡り、同様に報告された。その後、皇后さまも白い伝統的な装束「五衣(いつつぎぬ)」「唐衣(からごろも)」「裳(も)」姿で賢所に入り、続いて皇霊殿、神殿を拝礼された。

 

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天皇陛下、即位を宣言=「象徴のつとめ果たす」

(2019年10月22日、時事通信)

 

天皇陛下の即位の礼の中心儀式「即位礼正殿の儀」が22日午後、皇居・宮殿「松の間」で国の儀式として行われた。陛下は高御座(たかみくら)に上って即位を国内外に宣言し、「憲法にのっとり、象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と述べられた。正殿の儀には安倍晋三首相ら三権の長、180余りの国、二つの国際機関からの賓客約400人を含め、国内外から約2000人が参列した。

 

午後1時すぎ、天皇専用の装束「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を着た陛下が、皇位の証しとされる剣と璽(じ)などを持った侍従を従えて松の間に姿を見せ、後方の階段から高御座に登壇。続いて十二単(ひとえ)姿の皇后さまが御帳台(みちょうだい)に上った。打楽器の「鉦(しょう)」の合図で参列者が立ち上がり、侍従と女官の手によってとばりが開くと、天皇、皇后両陛下が姿を現した。高御座の「案(あん)」と呼ばれる台の上には剣と璽、国璽(国の印)、御璽(天皇の印)が置かれた。参列者が「鼓(こ)」の合図で礼をし、えんび服姿の首相が陛下の前に進んで一礼した後、陛下がお言葉を読み上げた。平成時の上皇さまのお言葉を踏襲しつつ「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら」などの文言を盛り込んだ。

 

続いて首相が「一同こぞって心からお慶(よろこ)び申し上げます」と即位を祝う寿詞(よごと)を述べ、後ろに下がって「ご即位を祝し、天皇陛下万歳」と発声。参列者も万歳三唱をした。とばりが閉じられた後、鉦の合図で参列者が着席。陛下に続き皇后さまが松の間から退出し、約30分で儀式は終わった。正殿の儀は、天皇を「象徴」と定めた現行憲法下では2度目。首相が陛下から約1.3メートル低い位置で万歳三唱をするなど、儀式の根幹部分は前例をほぼ踏襲した。

 

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皇居 宮殿で「饗宴の儀」

(2019年10月22日、NHK news web)

天皇陛下が皇后さまとともに祝宴に臨んで即位を披露し祝福を受けられる儀式、「饗宴(きょうえん)の儀」が22日、皇居 宮殿で行われました。天皇陛下はえんび服を着用し、「大勲位菊花章頸飾(だいくんいきっかしょうけいしょく)」という最高位の勲章などを身につけられています。また皇后さまはローブデコルテというロングドレスを着用し、上皇后さまから受け継いだティアラや勲章を身につけられています。そして午後7時20分すぎ、宮殿の「竹の間」に入られ、「饗宴の儀」が始まりました。

 

「饗宴の儀」は、国事行為として行われる「即位の礼」の儀式の1つで、合わせて4回行われることになっています。1回目の22日は「即位礼正殿の儀」に参列した180か国余りの元首や王族など、およそ400人が招待されました。
「竹の間」では、両陛下がおよそ1時間にわたって出席者から順番にあいさつを受けられました。あいさつを終えた出席者は「春秋(しゅんじゅう)の間」に移動し、食前の飲み物を手に秋篠宮ご夫妻など皇族方と和やかな雰囲気で歓談を行いました。ここでは上皇さまの即位を祝う前回の「饗宴の儀」でも演じられた「太平楽(たいへいらく)」という「舞楽(ぶがく)」の演目が宮内庁「楽部(がくぶ)」の職員によって披露されました。

 

また「即位礼正殿の儀」が行われた「松の間」では儀式で使われた「高御座(たかみくら)」と「御帳台(みちょうだい)」を出席者たちが見学する機会も設けられました。出席者たちは説明役の外務省の職員の話に耳を傾け、興味深そうにのぞき込んだり、「高御座」の前で記念撮影したりしていました。

 

このあと出席者は皇族方とともに食事会場の「豊明殿(ほうめいでん)」に移り、午後9時すぎ、両陛下が部屋の奥にあるメインテーブルの中央に着席されて食事が始まりました。食事は上皇さまの即位を祝った前回をほぼ踏襲した和食で、まつたけやくりなど秋の味覚も取り入れた合わせて9品が出されました。食事のあとは「春秋の間」に場所を移し、食後酒やコーヒーなどが出される中、和やかに歓談が行われました。このあと両陛下は出席者との別れのあいさつを交わされ、「饗宴の儀」は午後11時20分ごろ終了しました。両陛下は午後11時44分ごろ、車で皇居を出発してお住まいの赤坂御所に戻り、22日の全ての日程を終えられました。

2019年10月21日

歴史:邪馬台国の真実を探る①

先日10月9日の投稿で、「弥生時代の遺跡から胸に乳房が表現された女性とみられる人物の刻まれた土器片(紀元前1世紀ごろ)がみつかった」という報道を紹介しました。その女性が霊的な力を持つシャーマン(宗教的職能者)とする見方があります。そうすると、その時代は、邪馬台国の卑弥呼の時代から約300年前にさかのぼることから、当時の日本には女性が農耕祭祀で活躍する場がずっとあったことが示唆されるという点で注目されています。そこで、今回は、卑弥呼と邪馬台国についてまとめました。

 

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古代、中国を支配していた前漢の時代のことが記された「漢書」地理志によれば、  紀元前1世紀末頃(弥生時代の中期に相当)、中国は日本人を「倭人」と呼んでいましたが、当時の日本は百余国に分かれていたとされています。その後、中国では、前漢から後漢に代わり、その時代の歴史書「後漢書」東夷伝には、西暦57年に、博多湾岸にあった倭の奴国(なこく)が、後漢の都、洛陽に使者を送り、光武帝から金印「漢倭奴国王」を受けたとあります。

 

後漢に続く、魏の時代の歴史書、「魏志」倭人伝(「魏書」の東夷伝倭人の条)には、弥生時代の後期に当たる180年前後の頃、「倭国大乱」という70~80年も続く争乱の時代となり、「日本は大きく乱れた」とあります。この「倭国の大乱」は、奴国(なこく)と邪馬台国の争乱で、長く収まりませんでしたが、邪馬台国に女王卑弥呼が出現し、混乱を鎮め、30の小国を従えるようになったとあります。倭人伝によれば、「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と書かれています。

 

なお、この時代、日本の神話に照らし合わせると、応神天皇の父親である仲哀天皇が、現在の福岡県あたりに造営されていた皇宮を拠点に、熊襲と戦っていたとあります。

 

卑弥呼は、「鬼道によって国を治めていた」と伝えられ、祖霊信仰に属す祭祀に基づく政治がなされていたとみられています(鬼道とは巫女として神の意志をきくこと)。また、同じ魏志倭人伝には、「邪馬台国、女王の都するところなり」とも書かれています。ここから、卑弥呼は邪馬台国の女王と言うよりは、邪馬台国を含む倭国全体の女王で、邪馬台国にいたとの見方もあります。つまり、邪馬台国は倭国の首都だった可能性もあるわけです。

 

加えて、卑弥呼は、239年に魏に使いを出し、魏の皇帝・劉夏(りゅうか)から「親魏倭王」の称号と金印を授けられたとされています。その根拠は、「汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬(しじゅ)を与える」との記述が魏志倭人伝に見られるからです。当時の中国は、魏・呉・蜀がしのぎを削った三国志の時代でしたので、卑弥呼が外交相手に選んだのは、曹操(そうそう)が治める魏だったのですね。

 

そんなカリスマ的指導者、卑弥呼も、249年に近い頃に亡くなり、邪馬台国は、跡を継いだ宗女(嫡出の娘)、台与(とよ)=壱与(いよ)によって治められました。一説には、卑弥呼の死後、一時政治が乱れたものの、壱与(台与)という女性が王になり、争いを鎮めたとも言われています。また、「晋書」という中国の晋の国の歴史書には、266年に「倭の女王壱与が西晋に使者を送る」と記されています。

 

その後、邪馬台国がどうなったかは定かではありません。つまり、日本の歴史は、この後、大和朝廷(ヤマト政権)と呼ばれた統一国家ができて、日本を統治していくわけですが、その前の邪馬台国がどこにあって、大和政権にどう継承されていったかが明らかになっていないのです。こうした背景から、2~3世紀の日本に「邪馬台国」があったとされているのですが、日本の史料には「邪馬台国」は存在せず、中国の歴史書(「倭人伝」)に2000字の記載があるのみで、しかも方角と距離しか示されていません。

 

そこで、邪馬台国がどこにあったかについて、1910(明治)43年に、二人の学者によって、邪馬台国の所在地はそれぞれ九州、畿内と唱えられて以来、主に、北九州説と畿内説に分かれて、幾多の論争がおきましたが、いまだ結論には至、っていません。もはや今ある文献資料だけでは決着はつかないとの見方が支配的です。なぜこういうことになってしまったかというと、「魏志」倭人伝をそのまま素直に読むと、邪馬台国の位置は、太平洋のまん中のミクロネシア諸島のどこかか、小笠原の父島・母島あたりになってしまうからだそうです。

 

倭人伝では以下のようになっています。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり」、「(帯方)郡より女王国に至る(一万二千里…」、「邪馬台国、女王の都するところなり」

(現在のソウル近辺に相当する帯方郡から東南へ「5400キロメートルあまりの先に、女王卑弥呼の都する邪馬台国があり…」

 

つまり、古代の日本に、卑弥呼を女王とする邪馬台国があり、その邪馬台国は、帯方郡から東南方向に位置し、帯方郡から邪馬台国までの総距離が12,000里(5400㎞)あったとだけしか書かれていなかったのです。ですから、研究者たちは、方角を、例えば「南」となっているのを「東」と読替えてみたり、行程の日数や距離を縮めてみたりしながら、自説に合うように解釈してきました。著名作家の松本清張氏も、「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」と語っていたそうです。

 

なお、「魏志」倭人伝に記されている地名に従って、例えば、「帯方郡から南へ○○里、末蘆国から△へ〇〇里」というように、邪馬台国の位置を推測していくと、次のようになっていきます。

 

帯方郡⇒狗邪韓国⇒対馬⇒一大国⇒末蘆国⇒伊都国

⇒奴国⇒不弥国⇒投馬国⇒邪馬台国

 

「魏志」に書かれている「(魏からみて)奴国と投馬国は、邪馬台国より北、狗奴国は南にあり」というような記述などをもとに推測すると、各地名の現在地はほぼ固まっています。

 

帯方郡(たいほうぐん):現在の韓国ソウル

狗邪韓国(くやかんこく):現在の韓国釜山

対馬(つしま):現在の長崎県対馬市

一大国(一支国)(いきこく):現在の長崎県壱岐市

末盧国(まつらこく):現在の佐賀県唐津市から長崎県松浦市一帯

伊都国(いとこく):現在の福岡県糸島市

奴国(なこく):現在の福岡県春日市

不弥国(ふみこく):?

投馬国(とうまこく):?

邪馬台国(やまたいこく):?

 

そうすると、「帯方郡」から「奴国」までは、畿内説も九州説も一致していますが、「不弥国」から「投馬国」を経て、「邪馬台国」へ至る行程に違いがでて、論争が起こっているのです。では、それぞれの見解を少し検証してみましょう。

(続く)

邪馬台国の真実を探る②

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