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2025年04月23日

ローマ教皇フランシスコの死:その足跡をたどる

ローマ・カトリック教会の第266代教皇フランシスコが、2025年4月21日、亡くなりました。88歳でした。

 

フランシスコ教皇は、アルゼンチン出身で、2013年3月、中南米出身者として(南北アメリカ大陸および南半球から)初めて教皇に選ばれました。欧州以外で生まれて教皇になったのは、シリアで生まれて741年に亡くなったグレゴリウス3世以来、約1300年ぶりのことでした。また、イエズス会の神父としても、初の教皇であったことも話題となりました。

 

さらに、前教皇のベネディクト16世が、2013年2月、高齢を理由に生前退位を表明したことを受けての即位となりました。教皇が自主的に退位するのは、約600年ぶりのことでした。ベネディクト16世は、名誉教皇として、バチカンにいたため、2022年12月に亡くなるまでの10年近く、「2人の教皇」が存在していたことになります。

 

 

◆ フランシスコ教皇の誕生まで

 

フランシスコ教皇は、1936年12月、ムッソリーニのファシスト政権から逃れるため、1929年にイタリアからアルゼンチンに移住した両親の長男として、首都ブエノスアイレスで生まれました。名前はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。

 

神学校・イエズス会

ベルゴリオは工業高校で化学を学び、卒業前にはナイトクラブの用心棒や清掃係として働いたそうです。そんなベルゴリオは、20歳の頃に聖職者の道を志し、1955年から神学校に入りました。その後、1958年に、宣教師フランシスコ・ザビエルらが創設した修道会、イエズス会に入り、哲学を学び、やがて文学と心理学を教えていました。

 

ブエノスアイレスでの宣教

その10年後に司祭として叙階されると、速やかに昇進し、1973年にアルゼンチン管区長に就任しました。聖職者としてほとんどの期間を故郷のアルゼンチンで過ごしたベルゴリオ管区長は、貧しい地区での活動に力を入れ、ブエノスアイレスのスラム街で人身売買の被害者や低賃金の労働者を支援していたと言われています。、

 

一方、第二次世界大戦後アルゼンチンでは、1983年まで軍政が断続的に続きました。とりわけ、1976年から1983年にかけて、何千人もの人が拷問を受けたり、殺害されたりした、いわゆるアルゼンチンの「汚い戦争」状態にありました。その際、ベルゴリオ司祭(フランシスコ教皇)は、軍事政権に対抗することに十分努力しなかったこと、たとえば、軍によって二人の神父が誘拐された事件では、救済に尽力しなかったと一部から批判されたこともありました。

 

それでも、信者や地域社会を支える活動を続け、1992年、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世から、ブエノスアイレス補佐司教に、また、1998年にブエノスアイレス大司教に任命されました。さらに、2001年には枢機卿となり、カトリック教会の行政を担う教皇庁でさまざまな役職に就きました。

 

教皇に選出

ベルゴリオ枢機卿は、2005年に教皇就任を初めて志し、2013年3月に、ローマ教皇に選出されました。その際、教皇として、貧しい人のために尽くした中世のイタリアの聖人「フランシスコ」の名前を選び、貧しい人たちのための教会を目指す考えを示しました。

 

また、これまでの前任者が住んだ使徒宮殿内の華美な住居を利用せず、「精神的な健康」のために共同生活を送る方が良いと述べていたと伝えられています。

 

◆ 教会改革

 

教皇としては異例なその経歴が、ヴァチカンを刷新できるのではないかとも期待されたフランシスコ教皇は、マフィアの資金洗浄疑惑が指摘されたバチカン銀行に調査のメスを入れ、聖職者による児童への性的虐待問題でも外部有識者を含めた委員会を作るなど、カトリック教会の改革を進め、教会の秩序回復に努めました。

 

その一方で、教会がタブーとする同性婚や人工妊娠中絶、離婚などの社会問題では、比較的寛容な姿勢を見せ、「開かれた教会」を目指しましたが、保守派から伝統を破壊したと非難にされ、さらなる改革を求める進歩派からも不十分との批判を受けたときもありました。

 

◆ 地球規模の問題解決に向けて

 

そうした中でも、在任中、世界的に貧富の差が拡大しているとして格差の解消を訴えたほか、難民や移民の保護や気候変動への対応を呼びかけるなど、地球規模の課題解決に向けて積極的に発信してきました。

 

このうち核兵器をめぐっては2017年、バチカンは国家としていち早く核兵器禁止条約を批准しました。フラシスコ教皇は、核兵器の使用に加えて、開発も保有も一切禁止すべきだという歴代の教皇よりも踏み込んだ姿勢を打ち出しました。

 

長崎・広島訪問

2019年にはローマ教皇として38年ぶりに来日し、被爆地・長崎と広島を訪問、広島から発信したメッセージでは、「核兵器は使うことも持つことも倫理に反する」と述べ、核兵器は使用にとどまらず、保有についても「倫理に反する」と踏み込み、核兵器の廃絶を強く訴えました。

 

 

◆ 紛争の平和的解決と宗教間対話

 

さらに、在位12年間に約60か国・地域を訪れたフラシスコ教皇は、各地で続く紛争の平和的な解決を求めただけでなく、宗教間の対話にも力を尽くしました。

 

アメリカ・キューバ

地域紛争の平和的解決のために、フラシスコ教皇は、スペイン語を話すラテンアメリカ出身者として、2014年、アメリカ政府がキューバとの歴史的な和解に歩み寄った際に、国交正常化交渉の開始に向けた動きを仲介し、翌年の国交回復に貢献しました。

 

パレスチナ

また、2014年に、イスラエルのシモン・ペレス大統領とパレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長をバチカンに招き、共に平和のために祈る場を設け、3人で祈りを捧げました。

 

東方正教会

2013年3月にバチカン市国のサンピエトロ広場で開かれたフランシスコ新教皇の就任ミサに、1054年の大分裂以来初めて、東方正教会の主座であるコンスタンティノープル総主教庁のバルトロメオ1世総主教が参加しました。

 

また、2016年2月、フランシスコ教皇は、東方正教会の最大勢力であるロシア正教会のキリル総主教と、キューバの首都ハバナで歴史的な会談を行いました。東西のキリスト教会トップが会談するのは約1000年ぶりのことで、会談後、両者は「乗り越えるべき多くの障害が残っていることは認識しているが、今回の会談が、神の望まれる東西教会再統一に寄与することを願う」との合同宣言に署名しました。

 

ロシアによるウクライナ侵略では、フランシスコ教皇は、2022年3月、自らがキリル総主教とオンライン会議システム「Zoom」を通じて、話し合いを行い、仲介を模索しました。しかし、プーチンの戦争を支持したキリル総主教を、フランシスコ教皇が「プーチンの侍者になるな」と諫めたとされ、両者の関係は致命的に悪化しました。同年6月に予定されていたエルサレムでの2回目の対面会談も、その場で延期となりました。

 

プロテスタント

一方、教皇は、プロテスタントのルーテル派やメソジスト派と対話を持ち、分裂したキリスト教諸教派の一致を目指すエキュメニカルな活動を継続しました。

 

2016年10月、訪問先のスウェーデン・ルンドでルター派(ルーテル教会)の関係者と共にエキュメニカルな祈りの集いに参加、共同の祈りを捧げ、ルーテル世界連盟(LWF)の代表者らと会談した。この行事は、マルチン・ルターが1517年、宗教改革のきっかけとなった「95ヶ条の論題」を発表して500年を、また、同時に、カトリック教会とルター派の対話が1967年に開始されて以来、50年を、それぞれ記念するものでした。

ルーテル世界連盟(LWF)の使節は、2021年6月と2024年6月にも、バチカンを訪問しています。

 

また、フランシスコ教皇は、2017年10月、メソジスト教会とカトリック教会との間でエキュメニカルな対話が始まってから、50年を迎えたことを記念して、バチカンを訪問した世界メソジスト協議会(WMC)の指導者らと会談しました。両教会は、1967年に「メソジスト=ローマ・カトリック国際委員会」を設置して以来、対話のための重要な協力関係を維持しています。

 

 

◆ アジア外交と中国

 

フランシスコ教皇は、約12年の在任中、カトリック教会の信者が比較的少ないアジアや中東なども積極的に訪れ、和平外交を推進しました。

 

アジア外交においては、国境を越えた「人道主義」を強く打ち出しました。即位翌年の2014年、韓国を訪れて「平和のためのミサ」を行い、朝鮮半島の和解を促しました2017年には、ミャンマーに続いて、バングラデシュを訪問した際には、同国に逃れたイスラム教徒少数民族ロヒンギャの難民と面会し、ミャンマーによる迫害に警鐘を鳴らしました。

 

また、フランシスコ教皇は、特に、これまで外交関係のなかった中国との関係改善に強い意欲を示しました。2018年には、司教任命権をめぐり、歴史的な暫定合意を締結しました。

 

中国には推計1200万人のカトリック教徒がいるとされるなか、これまで、バチカンは中国の「政府公認教会」を認めず、中国側が独自に、中国国内のカトリック教会の司教を任命すると破門で応じてきました。暫定合意は非公開のままで、司教任命に際して双方の役割を認める内容とされています。

 

バチカン側が暫定合意で妥協を受け入れたとみられ、中国との関係改善の足掛かりをつくることを優先したものと解れています。しかし、カトリック教徒弾圧が続く中での対中接近には、宗教への介入を強める中国政府に譲歩した結果だとして批判の声も強く上がりました。これによって、中国がバチカンの「お墨付き」を盾に、信者に絶対服従を迫るという懸念がでています。

 

 

◆ 教皇とイエズス会

 

前述したように、フランシスコ教皇は、イエズス会出身の初めての教皇です。教皇のアジア外交は、おひざ元の西欧でキリスト教徒人口が減少する中、新たな地平を開こうとするものでしたが、教皇が、アジア布教の歴史を持つイエズス会出身だったことが大きいとみられています。

 

イエズス会は、1540年、元兵士イグナチオ・デ・ロヨラが教皇パウルス三世の承認を得て創設し、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルで知られています。フランシスコ教皇は特に、17世紀に中国・明朝に仕え、東西文化の懸け橋となったイエズス会の宣教師マテオ・リッチに敬意を抱いていたと言われています。

 

解放の神学

1960年代後半、カトリック教会内で、「キリスト教は貧しい人々の解放のための宗教である」とみなす「解放の神学」が中南米を中心にして支持を広げ、共産主義にも接近していきました。

 

解放の神学は、不正打倒を目的に、キリスト教の思想とマルクス主義社会学を統合した政治勢力ともなり、イエズス会はこの運動を積極的に支えたのです。1970年代に入ると、右派独裁のアルゼンチンなど中南米の軍政と対峙し、イエズス会の聖職者たちは、左翼活動家と共闘するなど、体制批判の尖兵になりました。

 

こうした背景で、ヨーロッパ出身の歴代教皇は無神論を掲げる共産主義を「悪魔」と忌避していたことから、イエズス会は長い間、バチカンから批判的な目で見られていました。共産圏のポーランド出身で「反共」のヨハネ・パウロ2世は、イエズス会を毛嫌いしていたことは有名です。

 

イエズス会と共産主義の関係については明らかではありませんが、ロシア正教会のキリル総主教は、元KGBの諜報員で、「マルクス主義的な汚染」を任務としたされ、解放の神学の「浸透」に貢献したと言われています。

 

いずれにしても、フランスコ教皇は、司祭・枢機卿の時代から、解放の神学に与することはなかったと見られています。むしろ、イエズス会の中には、フランスコ教皇が司祭の時代から「解放の神学」にあまり興味を持っていないと批判する人たちもいたそうです。

 

しかし、フランシスコ教皇の改革志向は、イエズス会の伝統の延長線上にあり、教皇が共産主義の中国に拒否感を抱かなかったのは、中南米出身だったことと無縁ではなかったと指摘されています。フランシスコ教皇は、司教任命権をめぐって、ベトナムとも和解を進めていました。

 

中南米出身者として初めての教皇、イエズス会の神父として初の教皇…など初物ずくめのローマ教皇フランスコは、多様性の時代の象徴的な教皇であったと言えるかもしれません。

 

 

<関連投稿>

カトリック教会:ローマ教皇とバチカン

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

キリスト教(カトリック、プロテスタント、正教会)

 

 

<参照>

フランシスコ教皇死去 ローマ教皇庁 2019年訪日 核廃絶訴え

(2025. 4.22  NHK)

教皇フランシスコ死去 南米からヴァチカンへ……カトリック教会を変えた伝統的な教皇 (2025.422 BBC)

ローマ教皇フランシスコ死去…同性婚・人工妊娠中絶に比較的寛容な姿勢、「開かれた教会」目指す

(2025/04/21 読売オンライン)

ローマ教皇フランシスコ死去 88歳 イエズス会出身初の教皇、その改革と逸話、そして“知の騎士団”の実像

(2025.04.21 coki)

評伝・ローマ教皇フランシスコ アジアで人道外交 中国共産党との「和解」で是非論も

(2025/4/21 産経)

ローマ教皇、ロシア正教会トップを叱責 プーチン氏の「侍者になるな」

(2022.05.08 CNN)

ローマ教皇フランシスコ死去、脳卒中と心不全で 初の中南米出身者

(2025・4・22 ロイター)

教皇がスウェーデン訪問、ルーテル教会代表らとエキュメニカルな祈り

(2016. 10. 31 バチカン放送)

 

むらおの歴史情報サイト「レムリア」

 

 

 

2025年04月05日

プーチンの侵攻から3年:改めてロシアとウクライナを学ぼう!

ロシアがウクライナに侵攻して3年が過ぎました。そもそもこの戦争は、ロシア大統領プーチンが、一方的にウクライナに侵攻したものです。なぜ、明らかに国際法に違反し、国際社会を敵に回すような非理性的・非合理的な行動をとったのか?その原因を探るために、ロシアとウクライナの歴史に遡って考えてみようと思いたち、両国について調べてみました。

 

当初、2カ月を予定していましたが、次から次に関心事が増え、スタートから5カ月近くたった本日、ようやく、以下のようなリサーチの成果を公開することができました。明確な答えがでたわけではありませんが、何かしらのヒントを得られたのではないかと思います。同じようにロシア・ウクライナ戦争にご関心の皆さまの資料の一つに採用されれば幸いです。

 

<ロシアの歴史>

ロシア史①:キエフ・ルーシとモスクワ大公国

ロシア史②:ツァーリとロシア帝国

ロシア史③:ロシア革命とソ連

ロシア史④:冷戦とソ連崩壊

ロシア史⑤:エリツィンとオリガルヒ

ロシア史⑥:プーチンの独裁国家

 

<ウクライナの歴史>

ウクライナ史➀:ルーシのキエフ大公国

ウクライナ史②:リトアニア・ポーランド・ロシア支配

ウクライナ史③:独立の失敗とソ連編入

ウクライナ史④:ソ連からの独立とロシアの侵攻

 

<ロシア・ウクライナ戦争を考える>

スラブ民族:ロシア人とウクライナ人の起源

ロシア・ウクライナ関係史:ルーシーの歴史的一体性

プーチンの歴史観:ルーシキー・ミール

ウクライナ侵攻:ロシアがNATOこだわるわけ

ロシア正教会とウクライナ正教会:もう一つの戦争

 

なお、ウクライナの首都は現在キーウですが、最近までキエフと表記でした。歴史の中にでてくる場合はキエフ、現在のウクライナの記述においてキーウでの表記を多用しています。ロシアのプーチン大統領については、失礼ながら敬称略で記載しています。

 

むらおの歴史情報サイト「レムリア」

 

 

 

 

2024年11月20日

ギリシャ神話:西洋の精神・思想、文化・芸術の脊柱

オリンピックの年、古代オリンピックについて投稿したことを皮切りに、ギリシャという国について、またその歴史について調べていくうちに、その関心はギリシャ神話にまで及んでいきました。

 

ギリシャ神話を学ぶことは、西欧の思想(世界観)・歴史・文芸・宗教の理解に不可欠です。またキリスト教とともに西欧の人々の精神的支柱となりました。実際、欧米の映画やアニメなどの作品の元ネタにもなっていることがわかりました。

 

ギリシャ神話は膨大で、すべてを語ることはできませんが、本HPレムリアでは主要なギリシャ神話について、以下のようにまとめてみました。これらの中には、古事記や日本書記の神話に類似の物語や、大人気アニメ「ワンピース」のストーリーにつながるような寓話など、新しい発見もありました。

 

<ギリシャ神話シリーズ>

ギリシャ神話 (総論):ガイアから始まる神々の系譜

ギリシャ神話①:世界の起源カオスと人間の創造

ギリシャ神話②:ゼウスらオリンポス12神の顔ぶれ

ギリシャ神話③:最高神ゼウス 天上の支配と繁栄

ギリシャ神話④:ポセイドン 海と大地の支配者

ギリシャ神話⑤: アポロン デルポイ神託と月桂樹の冠

ギリシャ神話⑥:英雄ヘラクレスと「十二の功業」

ギリシャ神話⑦:英雄アキレウスの活躍と死

ギリシャ神話⑧:英雄オデュッセウスの活躍と試練

ギリシャ神話⑨:トロイア戦争 ゼウスの手のひらで

ギリシャ神話⑩:密儀宗教・エレウシスの秘儀

ギリシャ神話⑪:ディオニソスとその秘儀

ギリシャ神話⑫:オルペウス教とその秘儀

 

 

<関連投稿>

古代オリンピック:ゼウスの神域・オリンピアの祭典

ギリシャ:西洋文明発祥の地の到達点

ギリシャ王室:かつてギリシャにも王がいた!

ギリシャ史 (古代):エーゲ文明からローマ支配まで

ギリシャ史 (近現代):独立戦争から王政崩壊まで

 

 

 

 

 

 

2024年10月12日

ヨーロッパの源郷・ギリシャとは?その国柄と歴史

2024年7月、パリオリンピック・パラリンピックの開催を機に、オリンピック発祥に地、ギリシャに関心が沸き、古代オリンピックからはじまり、ギリシャの古代史、さらにはギリシャ神話にまで、学習の範囲を広げていきました。

 

また、同年年5月の秋篠宮家の佳子さまのギリシャ訪問を受け、ギリシャの王室やギリシャの近現代史についてもまとめてみました。

 

もともと、大学では形だけは哲学専攻でしたので、ギリシャ哲学には愛着があり、今回のギリシャ・シリーズは、特別な思いを持ちながら取り組むことができました。

 

ギリシャ:西洋文明発祥の地の到達点

ギリシャ王室:かつてギリシャにも王がいた!

ギリシャ史 (古代):エーゲ文明からローマ支配まで

ギリシャ史 (近現代):独立戦争から王政崩壊まで

 

 

 

2024年07月09日

両陛下ご訪英、確認された日英の深いつながり

天皇、皇后両陛下は、2024年6月、国賓として英国を(公式)訪問されました(22日〜29日)。天皇が国賓として訪英するのは1971年の昭和天皇、98年の明仁上皇に続き26年ぶり3度目となりました。滞在中、天皇陛下とチャールズ国王は、2日英の最高勲章「大勲位菊花章 頸飾(けいしょく) 」と「ガーター勲章」を贈りあわれました。皇室、王室とも代替わりを経たうえでの親善訪問は、日英両国の絆をさらに深める機会となりました。訪英は当初、エリザベス女王の招待を受けて2020年春に予定されていましたが、新型コロナウイルス禍の影響で延期されていました。今年に入りチャールズ国王から改めて招待があったそうです。

 

今回、両陛下ご訪英において、個人的に関心がでてきたのが、両国君主が贈り合った勲章についてでした。そこで、本HP「レムリア」では、以下の4項目に分けて、日英の栄典制度についてまとめてみました。

 

日本の皇室とイギリスの王室の絆

日本の勲章:菊花章から…旭日章…文化勲章まで

イギリスの勲章:ガーター勲章とガーター騎士団

イギリスの勲章:オーダーとデコレーション

 

 

2024年05月29日

復活祭だけではない復活祭の典礼

カトリック教会やプロテスタント教会における2024年の復活祭(イースター)(復活の主日)は、3月31日の日曜日に終了しましたが、復活祭に関連する典礼(儀礼・儀式)はその後も継続され、この5月19日(日)の「聖霊降臨の主日(ペンテコステ)」で終了しました。また、復活祭(イースター)の前も、その準備期間として、40日間の「四旬節(レント)」が設けられていました。その間、受難の主日(棕櫚の日曜日)、聖なる過越の3日間において、多くの儀式が挙行され、改めて、キリスト教における復活祭(イースター)の重要性を再認識した次第です。

 

そこで、今回は、復活祭前の「四旬節(レント)」、「復活祭」、その後の「復活節」についてまとめた投稿記事を出しましたので、参照下さい。

受難節と復活節 : レントからペンテコステへ

 

また、イースター(復活祭)についてのさらに知りたいかたは以下のサイトへアクセス下さい。

復活祭(イースター):北欧神話から春の訪れ

 

<関連投稿>

キリスト教の教派

カトリック教会:ローマ教皇とバチカン

プロテスタント教会:ルター発の聖書回帰運動

東方正教会:ギリシャから正統性を継承

 

アメリカのキリスト教:バプティストを筆頭に…

 

キリスト教史

キリスト教史①:イエスの生涯とその教え

キリスト教史②:十二使徒とパウロの伝道

キリスト教史③:東西教会はいかに分裂したか?

キリスト教史④:修道院運動の盛衰

キリスト教史➄:異端と魔女狩り

正教会のキリスト教史:ギリシャからロシアへ

 

 

 

 

2023年04月06日

プーチンは国際刑事裁判所 (ICC) で裁かれるか?

 国際刑事裁判所(ICC)は、2023年3月17日、戦争犯罪の疑いで、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領に逮捕状を出しました。この後、プーチン大統領は逮捕され、国際司法の場で裁かれるのか、逮捕状後の展開を予想してみましょう。ICCはプーチン大統領を戦争犯罪人として裁けるのでしょうか?

 

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プーチン大統領らに逮捕状、ウクライナ侵攻めぐる戦争犯罪容疑 国際刑事裁判所

(2023/3/18、英BBC)(一部抜粋)

オランダ・ハーグに本部を置く国際刑事裁判所(ICC)は3月17日、ウクライナ侵攻をめぐる戦争犯罪容疑で、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領らに逮捕状を出した。 ICCは、ロシアが占領したウクライナの地域から子どもたちをロシアへと不法に移送しており、プーチン氏にこうした戦争犯罪の責任があるとしている。 ロシア政府は、戦争犯罪疑惑を否定し、逮捕状は「言語道断」だとしている。

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ウクライナのイエルマーク大統領府長官は「ロシアによる子供の連行は1万6000件以上が記録され、実数はさらに多い可能性がある」と指摘。「これまでに返還されたのは308人に過ぎない」とし、今後も返還に向けた作業を続けると表明しています。また、米エール大が2月に公表した報告書によると、「少なくとも6000人のウクライナの子供らがロシア国内の43施設に収容された。ウクライナ政府は3月初旬、収容者数が1万6000人を超えた可能性がある」と指摘しています。(2023/3/18、産経新聞より)

 

国際刑事裁判所(ICC)は、ロシアがウクライナに侵攻したことを受け、2022年2月からロシア軍がウクライナで行った戦争犯罪と人道に対する罪についての立件に向けて捜査を開始していました。今回の逮捕状はその結果ということになります。

 

ICCの管轄権

 

ICC(国際刑事裁判所)は2002年に発効したICCローマ規程によって設立され、123の国・地域が加盟していますが、ロシアもウクライナも非加盟で、通常、ICCは事件を管轄できません。

 

しかし、締約国ではない場合でも、事件の発生地の国か容疑者の国籍がある国のどちらかがICCの管轄権を認める(受諾)宣言をすれば、ICCは非加盟国の犯罪も裁くことができます。実際、ウクライナは南部のクリミア半島を一方的にロシアに併合された後の2015年、無期限の形で「戦争犯罪と人道犯罪について管轄権を受諾する」宣言をしています。

 

プーチン大統領は、戦況について側近から事実を知らされていないとの情報もありましたが、ICCの設置法「ローマ規程」には、軍隊の上官だけでなく政府の上層部にも責任は及ぶ「上官責任」の規定があります。実際に犯罪行為を行った「実行行為者」はもちろん、「自らは行っていないが、それを命じた者」も処罰の対象に含まれています。また、直接、命令していなくても、犯罪行為が行われていること(兵士らの行為)を知っていながら、プーチン大統領や軍幹部などが、その犯罪の実行を防止または抑制する措置を取らなかったことが認定されれば責任が問うことができます。

 

プーチンはロシア国内で拘束されない?

 

今回、逮捕状が出されたので、プーチン大統領は戦争犯罪容疑者になりましたが、この先、実際にプーチン大統領の身柄が拘束された後、ICCに引き渡され、プーチン大統領がオランダ・ハーグの裁判に出廷する可能性は極めて低いとされています。

 

ICC(国際刑事裁判所)には容疑者を逮捕する権限はなく、ICC捜査官がロシアに行って拘束することはできません(ICCが介入できるのは、国家が捜査や加害者の訴追を行えない、あるいは行おうとしない場合に限定される)。

 

もっとも、ICC非加盟国であるロシアは、捜査・訴追への協力義務も、身柄引き渡しなどの義務は負っていません。仮にロシアが加盟国であっても、ロシア国内で揺るぎない権力を享受しているプーチン大統領を、ロシア政府がICCに引き渡す見込みもありません。プーチン大統領がロシア国内にいれば、主権の壁、つまり、政権トップの場合は免責特権による保護もあります。ですから、プーチン大統領がロシアにとどまる限り、逮捕のリスクはないということになります。もし、プーチン大統領がロシア当局によって拘束されるとしたら、ロシア国内で政変が起きてプーチン大統領が失脚し、特権剥奪に至る場合ぐらいしか想定できません。

 

実際、セルビアのミロシェビッチ元大統領は1990年代のボスニア紛争における戦争犯罪と大量虐殺の罪で起訴され裁判中に獄中死したが、国際法廷がその身柄を拘束できたのは同氏が失脚した後でした。

 

また、リベリアのチャールズ・テイラー元大統領も、リベリアの隣国シエラレオネにおける戦争犯罪と人道に対する罪をほう助したとして2012年、国連の支援を受けたシエラレオネ特別法廷により禁固50年の有罪判決を受けたが、同法廷に引き渡されたのは、自国からの追放と亡命後のことでした。

 

プーチンがロシアを出国した場合

 

一方、プーチン大統領が国外に出た場合は、ICC規程に、締約国に対し、「国際犯罪の責任を負う者に対して自国の刑事裁判権を行使することが、すべての国の義務だ」とあるように、ICC加盟国には、捜査・訴追への協力義務が生じるので、プーチン大統領が入国したら拘束してICCに身柄を引き渡すことが求められます。

 

しかし、これまで、政治的考慮から、この義務を守らない国が多く、特に今回は、大国ロシアと敵対するリスクが生じることから、現実的には難しいとみられています。

 

たとえば、2003年、約30万人の民間人が犠牲となったスーダンの「ダルフール紛争」では、当時のバシル大統領に対して、ICCはダルフールでの戦争犯罪、人道に対する罪、大量虐殺の罪で09年及び10年に起訴したが、その身柄はまだ確保できていないどころか、その後、バシルがアフリカ諸国など他国を訪問しても、その国も拘束しませんでした。

(スーダンのバシル元大統領は19年、政権から追放され汚職の罪で有罪判決を受けたが、スーダンの軍指導部はICCに対する約束にもかかわらず、同氏引き渡しには依然消極的とされる)。

 

プーチンへの逮捕状の意義

 

加えて、ICCには、容疑者不在のまま裁判ができる欠席裁判の制度がないことから(ICCの裁判には被告本人の出席が必要)、「逮捕状止まり」になる可能性が高いことも懸念されています。ですから、今回、プーチン大統領に出された逮捕状によって、今後、プーチン大統領に有罪判決を言い渡して収監することは難しいでしょう。

 

もっとも、「プーチンに逮捕状を出す」ことに意義はあると見る向きも多い。プーチン大統領が外遊しても身柄を拘束されない可能性が高いにしても、ICC加盟国への渡航に慎重にならざるを得なくなり、首脳外交も制限されるかことが予想されます。何より、国際社会での威信が失墜することは間違いありません。

 

 

<資料>

国際司法や戦争犯罪についての基礎知識を学びたい方は、拙著

「なぜ?」がわかる!政治・経済(p225〜238)を参照下さい。

 

<参考>

露、プーチン氏逮捕状に「無意味」と猛反発 国家への攻撃とみなす

(2023/3/18、産経)

プーチン大統領の逮捕が困難な理由 戦争犯罪を認定する意義は?

(2022/04/20 aera)

プーチン氏を罪に問えても「逮捕状止まり」の可能性 「それでも意義はある」と専門家

(2022/04/19 aera)

解説:国際犯罪とウクライナ戦争

(2023/01/19、Swissinfo.ch)

「戦争犯罪」って? プーチン氏逮捕できる? ジェノサイドは

(2022年04月06日、就活ニュースペーパー)

 

 

2022年09月16日

エリザベス女王崩御:王位継承順位、称号・爵位はどうなる?

英国の女王エリザベス2世(96歳)が、2022年9月8日、滞在先のスコットランドのバルモラル城で逝去(せいきょ)されました。これに伴いチャールズ3世が即位しただけでなく、王位継承順位や称号・爵位の変更などがありました。女王崩御から約1週間経った現在のイギリス王室の状況をまとめました。

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<エリザベス女王の生涯>

 

エリザベス女王は、1926年4月21日にロンドンにて、ヨーク公アルバート王子(のちのジョージ6世・享年56)とエリザベス妃(享年101)の長女として誕生、1947年、21歳のときに、当時26歳で海軍将校だったフィリップ殿下(享年99)と結婚されました。ふたりの出会いは、エリザベス女王が13歳のとき、父の母校である王立海軍大学を訪問した際、フィリップ殿下が、案内役を務められたのが最初でした(出会いから8年もの年月を経て二人は結婚)。

 

エリザベス女王は、1952年2月に父である国王ジョージ6世の急死を受け、25歳の若さで即位しました。戴冠式は翌年行われ、史上初めてテレビ中継がなされたことで話題となりました。

 

以来、70年にわたって英国を統治し、在位70年7カ月は、(ヴィクトリア女王の記録を上回って)歴代の英国君主で最長でした(当時の英国首相はチャーチルで、歴代15人の首相が仕えてきた)。なお、72年以上にわたって君臨したフランス国王ルイ14世に次ぐ、世界史上2番目に在位期間の長い君主でもありました。

 

2021年4月、73年間連れ添われたフィリップ殿下が死去された後、自らも体調を崩され、主要行事を欠席することが多くありました。2022年4月に96歳の誕生日を迎え、6月には、英国で史上最長の在位70年間の祝賀行事「プラチナ・ジュビリー」が英国全土で盛大に開催された(プラチナ・ジュビリーを迎えた英国君主はエリザベス女王が最初となった)。

 

エリザベス女王は、確固たるリーダーとして威厳を放つと同時に、愛される存在で、国民から支持を得ていました。崩御後の世論調査では、国民の75%以上が「女王が好き」と回答しています。女王は、旧植民地諸国を軸とする連合体の英連邦(コモンウェルス)に所属するオーストラリア、ニュージーランド、カナダなど15カ国の元首でもあり、英連邦のほか世界からも「英国の母」と慕われていました。

 

日本の皇室との交流も深く、昭和天皇、上皇さま、天皇陛下の3世代にわたって続き、1975年5月には、英国の君主として初めて、夫の故フィリップ殿下と来日されました。

 

 

  • 開かれた王室

エリザベス女王がその在位期間中、力を入れてこられたことが英王室の近代化であり、大切にしてきた信念のひとつとされているのが、「開かれた王室であること」でした。

 

エリザベス女王が即位後、自ら始めたのがクリスマス当日に国民に向けてスピーチを送るクリスマス放送でした。1957年12月25日に初めてテレビでスピーチを放送して以来、毎年欠かさず続けられ、伝統行事のひとつになっています。

 

バッキンガム宮殿は一般見学用に一部開放され、最近では、国民とコミュニケーションを積極的に取るべく、SNS(交流サイト)で、積極的に情報発信が行われています。さらに、直系男子優先だった王位継承制度を男子優位から男女平等に変更したのもエリザベス女王の時代でした。

 

私生活では、フィリップ殿下との間に、新国王チャールズ皇太子(73)、アン王女(72)、アンドリュー王子(62)、エドワード王子(58)の4人の子どもに恵まれ、8人の孫と12人のひ孫がいます。

 

ただし、子どもたちが成長する一方で、スキャンダルとの縁も少なくありませんでした。なかでもチャールズ皇太子の不倫によるダイアナ元皇太子妃(享年36)との離婚は、世界的にセンセーショナルな話題となりました。さらに、ダイアナ元皇太子妃が不慮の事故で亡くなった際には、英国王室を批判する声が多くあがりました。それでも、エリザベス女王は、国民の前では、毅然とした態度を崩さず、持ち前のユーモアで人々を魅了してきました。

 

 

<エリザベス女王の葬儀>

 

葬儀は、死去から10日後の19日にウエストミンスター寺院で国葬が執り行われます。その後ウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂でも葬儀が執り行われ、女王は最終的に、両親と妹が眠るウィンザー城のキングジョージ6世記念礼拝堂に埋葬されます(キングジョージ6世の記念礼拝堂は教会の別の部分にある)。

 

1952年に亡くなった女王の父国王ジョージ6世は、もともと王室の保管庫に埋葬されていましたが、1969年3月26日に新しく建設された礼拝堂に移されました。2002年には女王の母もこの礼拝堂に埋葬され、さらに同年に亡くなった女王の妹マーガレット王女の遺灰も、ここに納められています。

 

また、2021年4月9日に99歳で亡くなったエリザベス女王の夫フィリップ殿下も、セント・ジョージ礼拝堂のロイヤル・ボールト(王室の墓廟)に埋葬されていますが、女王の埋葬に合わせ、殿下の棺は女王の隣に移されるとみられています。

 

 

<新国王チャールズ3世>

 

エリザベス女王の逝去に伴い、王位継承権第1位のチャールズ皇太子(73)が新国王「チャールズ3世」として即位しました。英フィナンシャル・タイムズ紙は、73歳のチャールズ3世は最も長く待たされた後継者であると同時に、即位時の年齢が最も高い王になると報じました。

 

チャールズ新国王は、母であるエリザベス女王が亡くなった時点で自動的に即位していますが、手続き上、新国王の即位は10日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で行われた王位継承評議会(数世紀にわたる組織で、王族や政治家、宗教指導者で構成)の会合で正式に宣言されました。会合の模様は初めてテレビ中継されました。チャールズ国王は母方から王位を継承しているので、女系王になります。

 

この後、新国王は戴冠式に臨むことになりますが、現時点で詳細は明らかにされていません。戴冠式は、伝統的にロンドンのウェストミンスター寺院で行われていますので、今回も踏襲されると見られています。

 

チャールズ3世は、ケンブリッジ大卒業後、軍隊を経て、ダイアナ妃との間にウィリアム、ヘンリーの2人の王子をもうけましたが、結婚前から交際していた現カミラ王妃との不倫関係を継続し、離婚の原因となりました。1997年のダイアナ妃の事故死後は、世間の強い風当たりを受けながら、2005年にカミラ妃と再婚しました。

 

かつて皇太子時代、「人生のほぼ全てを準備に費やした」と英メディアに揶揄されたこともあったチャールズ3世ですが、400以上の慈善団を後援し、環境問題や代替医療など、多くの分野の社会活動家としても存在感を示してきたと評されています。

 

<王位継承者>

 

女王の死と新国王の即位を受け、英国の王位継承順位の第1位は、チャールズ3世の長男ウィリアム王子となりました。第2位はウィリアム王子の長男、ジョージ王子(9)。3位と4位は、ジョージ王子の妹シャーロット王女(7)、弟のルイ王子(4)となっています。

 

2013年に施行された王位継承法では、「2011年10月28日以降に誕生した王族は、性別によってその人物またはその子孫が他の王位継承者よりも優先されることはない」と規定されました。従来のイギリスでは、長男子単独相続制に従って、王位は、王の直系の子孫に男子優先で女子にも与えられていましたが。2013 年法はこの原則を性別によらないで王位継承の順序を決定するように改められました。

 

2013年の王位継承法以前は、エリザベス女王の長女であるアン王女や、女王の孫娘レディ・ルイーズのように、女性が王位継承権を持つ男性の弟に順位を逆転されることがありましたが、現在ではそうした事態は起きていません。実際、ウィリアム王子の長女シャーロット王女の王位継承順位は3位で、弟であるルイ王子より先になっています。

 

王位継承順位の第5位はウィリアム王子の弟、新国王と故ダイアナ元妃の次男ヘンリー王子(37)。それに続く第6位と7位は、ヘンリー王子と米国出身の元女優、メーガン・マークルの息子アーチー・マウントバッテン・ウィンザー(3)と、娘のリリベット(1)です。

 

チャールズ新国王の子と孫に次いで継承順位の上位に入るのは、エリザベス女王のほか3人の子どもとその子・孫たちとなり、8位は女王の次男アンドルー王子(62)です。しかし、アンドルー王子は未成年に対する性的虐待などで起訴されました。さらに勾留中に死亡した米国人富豪ジェフリー・エプスタイン(性犯罪で有罪判決を受けた)と交友関係があったことで国民からの批判を受け、2019年以降、公務からから退いています。

 

イギリスの王位継承順位

  1. ウィリアム皇太子(チャールズ新国王の第1子)
  2. ジョージ王子(ウィリアム王子とキャサリン妃の第1子)
  3. シャーロット王女(同第2子)
  4. ルイ王子(同第3子)
  5. ヘンリー王子(ウィリアム王子の弟でチャールズ新国王の第2子)
  6. アーチー・マウントバッテン=ウィンザー(ハリー王子とメーガン妃の第1子)
  7. リリベット・マウントバッテン=ウィンザー(同第2子)
  8. アンドルー王子(新国王の弟で女王の第3子)
  9. ベアトリス王女(アンドルー王子の第1子)
  10. シエナ・エリザベス・マペッリ・モッツィ(ベアトリス王女の第1子)
  11. ユージェニー王女(アンドルー王子の第2子)
  12. オーガスト・フィリップ・ホーク・ブルックスバンク(ユージェニー王女の第1子)
  13. エドワード王子(新国王の末弟で女王の第4子)
  14. セヴァーン子爵ジェームズ(エドワード王子の第2子)
  15. レディ・ルイーズ・マウントバッテン=ウィンザー(エドワード王子の第1子)
  16. アン王女(新国王の妹で女王の第2子)
  17. ピーター・フィリップス(アン王女の第1子)
  18. サバンナ・フィリップス(ピーター・フィリップスの第1子)
  19. アイラ・フィリップス(同第2子)
  20. ザラ・ティンダル(アン王女の第2子)

 

 

<「称号」の変更>

 

  • カミラ夫人の肩書

新国王のチャールズ3世は9月9日、即位後の初の演説を行い、「新国王の妻」カミラ夫人はクイーン・コンソート(王妃)となると発表しました。

 

エリザベス女王は2022年2月、チャールズ3世の2番目の妻カミラ夫人の肩書を「プリンセス・コンソート(王の配偶者)」ではなく、「クイーン・コンソート(王妃)」となることを希望している(カミラ妃が将来「王妃」と呼ばれることを切に望む)と表明し、国民に許しと和解を促しました。

 

 

  • ウィリアム王子とキャサリン妃

 

王位継承順位第一位となったウィリアム王子は、国王から皇太子の称号である「ウェールズ公」も引き継ぐことになりますが、この称号は、父から息子に自動的に継承されるものではないため、新国王(父王)から付与される必要があります(新国王が決める)。

 

そこで、チャールズ新国王は、9月9日、ウィリアム王子夫妻、プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)とプリンセス・オブ・ウェールズ(皇太子妃)になると発表しました。これは、チャールズ新国王がウィリアム王子をプリンス・オブ・ウェールズの後継者に指名したことを意味します。この結果、ウィリアム王子は、ウィリアム皇太子(ウェールズ公ウィリアム)と敬称されることになります。

 

キャサリン妃は、1997年に36歳で悲劇的な死を遂げたダイアナ元妃以来、初めてプリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公妃)(皇太子妃)の称号を継承することになりました。なお、カミラ夫人もプリンセス・オブ・ウェールズの称号を持っていましたが、不倫の後にチャールズ皇太子(当時)と結婚した経緯もあってか、このプリンセス・オブ・ウェールズの称号を公に使用することはなく、コンウォール侯爵夫人と名乗っていました。

 

また、ウィリアム王子とキャサリン妃は、2011年4月に結婚した際、エリザベス女王によってケンブリッジ公爵、公爵夫人の称号をそれぞれ与えられていましたが、父チャールズが新国王に即位したことを受け、新国王と王妃がそれまで名乗っていたコーンウォールの称号も引き継ぎます。ウィリアム皇太子はコーンウォール公爵、キャサリン皇太子妃はコーンウォール公爵夫人ともなります。

 

実際、ウィリアム王子とキャサリン妃のSNS(ツイッターとインスタグラム)のアカウント名が、ケンブリッジ公爵夫妻から「コーンウォールおよびケンブリッジ公爵夫妻」に変更されていました(現在は、ウェ―ルズ公爵夫妻を使用)。

 

なお、チャールズ新国王は、1958年から持っていたコンウォール侯爵という称号を使うことはなく、長らくプリンス・オブ・ウェールズの称号を多く名乗っていました。

 

 

  • ウィリアム皇太子夫妻の3人の子ども達

 

今回の称号の変更に伴い、ウィリアム王子夫妻の子供であるジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子もこれまでの「ケンブリッジ」の名から「コーンウォールおよびケンブリッジ」の名になっています。正式には、次の称号を新しく得ることになりました。

 

プリンス・ジョージ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ

プリンセス・シャーロット・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ

プリンス・ルイ・オブ・コーンウォール・アンド・ケンブリッジ

 

また、「ウェールズ」の名をウィリアム王子が与えられたので、その称号も名乗ることになります。

 

 

  • ヘンリー王子夫妻の子ども達

 

王子と王女

チャールズ国王の次男ヘンリー王子と妻メーガン妃(サセックス公爵夫妻)の子どもたちで、王位継承順位6位と7位となったアーチーとリリベットは、「王子(プリンス)」・「王女(プリンセス)」の称号(肩書)と、殿下・妃殿下(HisまたはHer Royal Highness、HRH)の敬称を得て、アーチー王子(殿下)とリリベット王女(妃殿下)になれるかが注目されています。

 

イギリス王室における「王子」・「王女」の称号と、殿下・妃殿下(HRH)の敬称の付与には、ヘンリー王子の高祖父にあたるジョージ5世は1917年に、「王国の君主の子供、君主の息子の子供(孫)およびプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の長男の長男(曾孫の長男)」に与えられると定めました。

 

エリザベス女王の在位中、チャールズ皇太子の長男であるウィリアム王子の長子ジョージ王子までがこれに該当しました。エリザベス女王は、これを変更し、シャーロット王女とルイ王子まで拡大したことから、ウィリアム王子とキャサリン妃のお子さんたちは、全員、「王子」・「王女」の称号と、(王室高位メンバーを意味する)HRHの敬称を得ています。

 

そして、今回、女王が崩御し、祖父チャールズが即位したことで、現行法に則れば、アーチ―君とリリベットちゃんは、君主の孫という立場になり、希望すれば自動的に、王子と王女の称号とHRHの敬称が与えられ、アーチー王子殿下、リリベット王女殿下になれます(希望しない場合もある)。

 

当初、チャールズ新国王は、シニアメンバーと呼ばれる主要王族の数を減らして、王政のスリム化を検討していることから、これを認めない可能性もあると指摘されていましたが、英紙サンは、アーチー君(3歳)とリリベットちゃん(1歳)は近く、正式に王子および王女となるが、殿下または妃殿下(HRH)の敬称は得られない見込みだと報じました。後者については、ヘンリー王子とメーガン妃が、2020年に王室を離脱した際、王室との合意の一環で、HRHの使用を放棄し、「王室として働いていない」ことが理由にあげられています。

 

 

マスターとレディ

アーチーとリリベットは、親が保持する「サセックス公爵」の称号も持っていません。そうすると、爵位を持たない2人には何かしらの称号はあるのでしょうか?

 

こうしたケースでは、当初、慣例に従い、ヘンリー王子の従属爵位(下位の爵位)であるダンバートン伯爵を儀礼称号(儀礼上の称号)として使用するとみられていましたが、両親の意向により爵位ではなく年少の貴族の子息の呼称であるマスター(Master)とレディ(Lady)を使っています。現在、アーチーはマスター・アーチ―、レディ・リリベットという敬称で呼ばれています。

 

マウントバッテン=ウィンザー

また、アーチーとリリベッドは、マウントバッテン=ウィンザーという姓を名乗っています。実際、2人の正式な名前は

アーチー・ハリソン・マウントバッテン=ウィンザー

リリベット・ダイアナ・マウントバッテン=ウィンザー。

 

この姓は、1960年にエリザベス女王とフィリップ王配が結婚した際、2つの名字(女王のウィンザー家と王配のマウントバッテン家)を組み合わせて誕生しました。エリザベス女王とフィリップ王配は、自分たちの子どもや子孫のために、マウントバッテン=ウィンザーという姓を作ったのです。公式には、エリザベス2世と夫フィリップ・マウントバッテン公の間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザーとする枢密院令が発せられました。

 

もっとも、女王の子ども達は、ケンブリッジ公、サセックス公、ウェールズ公など、それぞれの称号で呼ばれているため、マウントバッテン=ウィンザーという姓は使用していません。

 

なお、ウィンザーは、王室が属する王朝の名前であると同時に、エリザベス女王の祖父ジョージ5世の決定により、王家の家名(ファミリーネーム)ともなりました。

 

 

<王朝名も変更?>

 

チャールズ3世新国王の即位とともに、イギリス王室は、王朝名(家名)をウィンザー朝からマウントバッテン=ウィンザー朝に変える可能性もあると言われています。これは、エリザベス女王の王朝名であるウィンザー朝に、エリザベス女王の夫で、チャールズ3世の父であるエジンバラ公フィリップの家名を加えた名称です。

 

マウントバッテン=ウィンザー朝という折衷名にするのは、チャールズ3世が王位を継承しても、エリザベス女王の直系血筋が絶えるわけではないという考え方で、ウィンザー朝の継続という強調したものと言われています。

 

ただし、前述したように、マウントバッテン=ウィンザーは、1960年にエリザベス2世と夫が創設した姓(苗字)で、このときは、家名(王朝名)が変更されたわけではありませんでした。そのため、チャールズ3世が即位した今もその家名(王朝名)はウィンザーのままで、姓のマントバッテン=ウィンザーとはずれが生じていることを調整する狙いがあるのかもしれません。

 

 

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