天台宗と涅槃宗:根本経典は法華経と涅槃経

 

今回は、中国仏教の13宗(毘曇宗,成実宗,律宗,三論宗,涅槃宗,地論宗,浄土宗,禅宗,摂論宗,天台宗,華厳宗,法相宗,真言宗)の中の、日本でもよく知られた天台宗と、最終的に天台宗に吸収された涅槃宗についてまとめました。

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天台宗

 

<天台宗の興り>

 

中国天台宗は、天台法華宗とも呼ばれ、鳩摩羅什の訳した「法華経(妙法蓮華経)」を所依(根本)の経典として、実質的に天台大師・智顗(ちぎ)によって開創されました。

 

中国の魏晋南北朝時代(220~589)の各王朝は仏教を保護しましたが、あいつぐ戦乱と社会不安の時代にあって、より救済を仏教に求める時代となるなか、天台仏教は、その南北朝時代(439~589)の末期の北朝に興りました。

 

天台宗が興った当時の中国仏教は、儒教や道教、老荘思想といった古来の宗教と対立しながら、独自の展開を見せますが、当時の代表的な教えは、天台宗に加えて、華厳、禅、念仏(浄土教)の思想であった言われています。

 

天台宗の初祖は慧文(えもん)、第二祖は慧思(えし)(南嶽慧思)(515~577)で、智顗(ちぎ)は天台宗三祖としてとなりますが、実質的には、智顗が天台宗の開祖とされています。

 

天台宗の総本山は、中国浙江省に位置する天台山国清寺(こくせいじ)で、天台宗発祥の地です。国清寺は、智顗(ちぎ)によって建設が始められましたが、智顗の没後、弟子の灌頂(かんじょう)らが、智顗に帰依していた隋の晋王、楊広(ようこう)(後の煬帝)の援助を受けて、601年に国清寺の前身となる天台寺を創建し、605年、隋(581~ 618)の2代皇帝となった煬帝(在位604~618)から、国清寺の名を賜与されました。

 

このように、天台宗の名称は、開祖の智顗(ちぎ)が天台山に住み、天台宗が天台山で生まれたことに由来します。

 

天台山

天台宗発祥の地で、本山である天台山は、神仙の棲む山として有名で、古来、仏僧・神仙・道士が多く住んでいました。もと道教の霊山で、「天上の三台星に応ずる地」とされて天台山の名が生まれたと伝えられています。天空には、「紫微星(しびせい)に坐(ま)します天帝を補佐する、上台・中台・下台の三台星がある」と考えられ、天台山は、その三台星の真下にあるという伝説がありました。4世紀中ごろから仏僧が入山しはじめ、仏寺建立が盛んになったと言われています。

 

天台宗の所依(根本)の経典「法華経」には、釈尊の「すべてのものは悟りを開く条件をそなえている」という平等主義の考え方がもっとも明確に述べられていると言われ、智顗(ちぎ)は、この教えに注目し、仏教全体の教義を体系付けたと言われています。

 

智顗(ちぎ)が、講義をした後に講義録として編纂された、「摩訶止観」「法華玄義」「法華文句」は、天台宗の聖典として天台三大部と呼ばれています。

 

 

<天台宗の教義>

 

智顗(ちぎ)は、禅観の実践を基盤に、この法華経の精神と竜樹の教学を中国独特の形にして、天台教学の体系を確立しました。この智顗の思想が次第に中国全土に浸透し、教団も大きくなっていった結果、そこに天台宗の名が自然に生まれてきたと言われています。

 

その教えとは、法華経を中心とした釈尊の教えの統一と、法華経の教えに立脚した悟りへの実践で、智顗禅師独自のこの教理こそが、いわゆる天台教学と言われる中国仏教屈指の思想となっています。具体的には、「一心三観」の思想を基にして、「十界互具の教え」が生まれ、そこから、天台宗の究極の教義である「一念三千」に発展していきました。

 

 

  • 一心三観

 

天台宗初祖の慧文は、龍樹による「大智度論」と「中論」に依って、「一心三観」の仏理を無師独悟(師に就かず自分一人で悟ること)し、それが、第二祖の慧思を介して、智顗に継承されたとされています。

 

一心三観とは、空観、仮観、中観を、3つに分けて順番に行うのではなく、三観を一思いの心のうちにおさめとって観ずることをいいます。これは、目の前の現象そのままが真理の現れであり、また、その真理は一つなので、それを三方向から見たものとしてとらえるという考え方からきています。

 

空観:執われの心を破る
仮観(真仮観):すべての現象が仮りのものながら存在することを悟る
中観:絶待的(対立を超越している)世界に体達する

「一心三観」によって体得する境地は、「諸法実相(全ての存在のありのままの真実の姿のこと)」と言われます。その後、この一心三観の思想から十界互具の教えが説かれました。

 

 

  • 十界互具

 

十界互具(じっかいごぐ)は、地獄から仏までの十界それぞれ(一つ一つ)が、互いに他の九界を具(そな)えているということで、地獄の衆生(しゅじょう)も仏となりうるし、仏も迷界の衆生となりうるという説です。

 

十界:地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の10の世界

 

更には、この十界互具から、以下に示す十如是(じゅうにょぜ)と三世間(さんせけん)とを掛け合わせた、三千が一念の心に具しているという、天台宗の究極の教義である「一念三千」に発展していきました。

 

 

  • 一念三千

 

十如是

如是(にょぜ)とは「かくのごとく」、「そのようである」という意味で、十如是(じゅうにょぜ)とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点、すなわち、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等(そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんまつくきょうとう)をいい、「妙法蓮華経方便品第二(「法華経」方便品)」で説かれていました(諸法実相とも言う)。

 

「十如是」のそれぞれの意味は、次の通りです。

 

「如是相(にょぜそう)」:相とは、表面に現れて絶え間なく一貫している性質・性分。

「如是性(にょぜしょう)」:性とは、内にあって一貫している性質・性分

「如是体(にょぜたい)」:体とは、相と性をそなえた主体

 

これら相・性・体の三如是は、事物の本体部分で、これに対し、以下の七如是は、本体にそなわる機能面を表しています。

 

「如是力(にょぜりき)」:力とは、本体に内在している力、潜在的能力。

「如是作(にょぜさ)」:作とは、内在している力が外界に現れ、他にも働きかける作用。

 

七つの機能面の中で、次の因・縁・果・報は、生命が変化していく因果の法則を示しています。

 

「如是因(にょぜいん)」:因とは、本体に内在する直接的原因。

「如是縁(にょぜえん)」:縁とは、外から因に働きかけ、結果へと導く補助的原因。

「如是果(にょぜか)」:果とは、因に縁が結合(和合)して内面に生じた目に見えない結果。

「如是報(にょぜほう)」:報とは、その果が時や縁に応じて外に現れ出た報いをいう。

 

「如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう」:本末究竟等とは、最初の相(本)から最後の報(末)までの九つの如是が一貫性を保っていることをいう。

 

十如是は、この十の如是を通して、「宇宙のあらゆるものの本当の姿はこうである」ということを示してくれている法門(教え)で、後に「一念三千」を形成する発端とされます。

 

 

三世間

三世間(さんせけん)とは、十界の相違が表れる三つの次元のことをいい(十界の差異は三つの次元に現れる)、五陰(ごおん)世間、衆生(しゅじょう)世間、国土世間を指します。五陰・衆生・国土は、十界のそれぞれに特徴があり違っているので、差異・区別の意である世間という語が伴います。

 

五陰世間(ごおんせけん)とは、衆生の心身が五陰であり、五陰の働きが十界によって異なることを意味します。五陰世間の五陰とは、色陰・受陰・想陰・行陰・識陰のことで、衆生の生命を構成する五つの要素をいいます。五陰の「陰」とは「集まり」の意味で、一切の衆生はこの五陰が集まって成立しているとされます。

 

色陰:生命体を構成する物質的側面。

受陰:知覚器官である六根を通して外界を受け入れる心的作用。

六根:眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根

想陰:受け入れたものを心に想い浮かべる働き。

行陰:想陰に基づいて想い浮かべたものを、行為へと結びつける心の作用。意思や欲求の働き。

識陰:色陰・受陰・想陰・行陰の作用を統括する根本の心的活動。認識・識別する心。

 

この五陰が一体となっているのが、それぞれの衆生であり、「衆生世間(しゅじょうせけん)」とは、衆生(個々の生命体)にも十界の差異があることをいいます。

 

国土とは、衆生が生まれ生きる環境のことで、「国土世間」とは、衆生の住する国土・環境にも衆生の生命境涯に応じて十界の差異が現れることをといいます。

 

前述したように、十如是(じゅうにょぜ)と三世間(さんせけん)と十界互具を掛け合わせて、「一念三千」という天台宗の究極の教義があります。天台大師(智顗)が「摩訶止観」の中で説きました。

 

一念三千(いちねんさんぜん)

日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっているという教えのこと。

 

「一念」とは、私たち一人ひとりの瞬間瞬間の生命のことです。

「三千」とは、「諸法」すなわち、すべてのものごと、あらゆる現象・はたらき(ありとあらゆる現象のこと)をいいます。

 

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界の一つ一つに十界を備えて百になります(十界互具)。そのそれぞれに十如是といわれる10の真理を備えて千になります。さらに、五陰世間、国土世間、衆生世間の三種世間を配して三千世間になり、これでありとあらゆる現象がおさまります。

 

一念三千では、私たちの「一念」に「三千」の諸法が具わっており、かつ「一念」が「三千」の諸法に遍く広がることが説かれます。この一つ一つの現象の中に、すべての真理がおさまっていることを「一即一切」ともいいます。このように、「一念三千」とは、一番手近な、自分の一瞬の心に三千がおさまっていると観察し、それを体得することをいいます。

 

 

  • 五時八教

 

すべての経典を釈迦が一生の間に順に説いたものと考えた智顗(ちぎ)は、五時八教(こじはっきょう)の教相判釈(きょうそうはんじゃく)(教判)と呼ばれる中国仏教の再編成を行いました。

 

これは、これまでに訳された経典を説法の形式、方法、内容から、釈迦の説法した時期を五つに分類し、それぞれの時期で内容に変化があったとして翻訳された経典を分別して価値評価をしたもので、具体的には、鳩摩羅什訳の「法華経」「摩訶般若波羅蜜経」「大智度論」、そして「涅槃経」に基づいて教義を組み立て、「法華経」を最高位に置くとともに、最後の時期に説いた教えとされる法華経と涅槃経こそが釈迦の本当に述べたかった教えであると位置づけました。

 

五時(5段階の順序)は以下の五つをいいます。

 

  • 華厳時(けごんじ)

悟りを開いて直ちに21日間、悟りの境地のままに「華厳経(けごんきょう)」を説いた。

  • 鹿苑時(ろくおんじ)

次の12年間は、「阿含経(あごんきょう)」を説いて小乗の機根(教えを聞いて修行しうる能力)の者を誘引した。

  • 方等時(ほうどうじ)

それに続く8年間は、小乗を批判して大乗に引き入れるために「維摩経(ゆいまぎょう)」などを説いた。

  • 般若時(はんにゃじ)

次の22年間は大小乗の執着を捨てさせるために「般若経」を説いた。

  • 法華涅槃時(ほっけねはんじ)

晩年の8年間は、「法華経(ほけきょう)」の一乗真実の教えを説き、最後の一日一夜、「涅槃経」によってこれまで漏れていた者もすべて救った。

 

当時経典が五月雨的に入ってきたがために、それぞれの経典がいつ頃つくられたものかまったく知られていなかったことから、この五時八教の教判は、正確な真偽は別にして、その後の中国仏教、また日本仏教の行方に多大な影響を与えるものとなったと評されています。

 

 

<中国天台宗の創始者たち>

 

  • 慧文(えもん)(生没年不詳)

北斉の僧で、龍樹の「中論」によって、一心三観の理を悟ったと言われています。

 

  • 慧思(えし)(515-577)

中国、南北朝末期の高僧。南岳衡山(湖南省)に僧団を作ったので南岳大師(南岳慧思禅師/(なんがくえしぜんじ))と呼ばれています。慧文のもとで禅の修行にはげみ、30歳をすぎたころ開悟。その悟りは、頓悟(とんご)といって、少しずつ悟っていくのではなく、一挙に悟る悟りでした。

 

自性清浄心を確信する頓悟中心の禅観と、護法のための菩醍戒などをもとに大乗仏教のあり方を山東・河南の各地で説き、天台宗だけでなく禅宗にも大きな影響を与えました。慧思は、インド仏教に改良を加え、中国の国土・人民にあった仏教を模索していたと言われています。ただし、仏教界の激しい迫害に遭いました。

 

 

  • 智顗(ちぎ)(538~597)

智顗は、南朝の梁の高官で学問に通じた父と、仏教信仰の篤い母の間に生まれました。7歳の時に観音経を一度聞いて暗記してしまうなど、幼少期から非凡の才能があったとの逸話も残されています。

 

17歳のとき梁が敗れ、一家が難民となった後、両親が死去し、両親の喪が明けた18歳で出家し、やがて慧思の門に入りました。慧思 (えし) に師事した智顗(ちぎ)は、初め、法華経の奥義を極めました。果願寺で出家し、「智顗(ちぎ)」と名付けられました。そして一心不乱に修行し、23才の時、当時高名な光州大蘇山(だいそざん)の慧思(えし)禅師を訪ね入門を許されました。

 

智顗は「法華経」の重要な修行である四安楽行を教えられ、修行すること14日、薬王品の焼身供養の文に至って忽然(こつねん)と悟りを得たと言われています(大蘇開悟)。

 

智顗(ちぎ)が30才の時、慧思禅師から、陳の首都建康(けんこう)(金陵(きんりょう)・南京)で布教せよと命じられたことから、金陵(南京)の光宅寺で、「法華文句」を講義したほか、故郷の草州に玉泉寺を創建して「法華玄義」と「摩訶止観」を講義し(これらは弟子灌頂の講義録として現在に伝わる)、人々の崇敬を、集めていました。

 

名声を聞いて集まる弟子が100人200人と年々増えましたが、逆に悟りを得る弟子の数が少なくなっていることに気付いた大師は、そこで8年間の建康での布教に区切りをつけ、ついに聖地天台山でさらに修行を深める決心をしたのです

 

智顗(ちぎ)は、575年、38歳の時、杭州の南の天台山に入山(天台山仏隴に入り)すると、南朝の陳の宣帝(在569~582)の保護を受けて、修禅寺(しゅぜんじ)を建て、天台宗の根本道場としました。天子の援助を受け、仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を開創して自らの唱える仏教の根本道場としました。

 

またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智顗を高祖と唱えるのはこのためです。その教えとは、法華経を中心とした釈尊の教えの統一と、法華経の教えに立脚した悟りへの実践で、智顗禅師独自のこの教理こそが、いわゆる天台教学と言われる中国仏教屈指の思想なのです。

 

天台教義を体系付けた智顗(ちぎ)禅師は、晋王広(しんのうこう。後の隋 煬帝)から特に「智者」の号を賜りました。さらに、智顗は、その晩年まで弟子の養成に努めたことから、「天台大師」(智者大師、あるいは天台智者大師)と尊称されるようになりました(諡(おくりな)された)(天台大師と称されるのは、天台山での修行で悟りを得て、天台山で入滅したから)。

 

こうして、天台大師の思想が次第に中国全土に浸透し、教団も大きくなってきて、そこに天台宗の名が自然に生まれてきたことはすでに述べた通りです。天台大師にはじまる天台宗は、その後6代を経て日本の伝教大師最澄に伝わります。天台大師が亡くなられてから200余年後、中国は唐の時代、日本は平安朝の頃です。

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涅槃宗

 

  • 涅槃宗とは?

涅槃宗(ねはんしゅう)は、「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」40巻を正依(しょうえ)の経典として開かれた宗派です(それゆえ、涅槃宗という名がついた)。東晋(265-420)の僧、法顕(337~422)が持ち帰った「大般涅槃経」等が漢訳され、涅槃宗成立の基となりました。

 

なお、大乗経典としての大般涅槃経(だいはつねはんきょう)には以下の訳本があります。

 

大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)

大般涅槃経(北本)

大般涅槃経(南本)

 

涅槃宗の根本的な教理は、大般涅槃経の説く法身常住(ほっしんじょうじゅう)(=如来は常住でうつり変わることなし)、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)(=一切の衆生に悉(ことごと)く仏性あり)などがあげられます(後に詳細)。

 

その盛期は、南北朝(420~589)から初唐にかけた時代でしたが、最終的に天台宗に吸収されてしまいました。

 

  • 涅槃宗の展開

では、涅槃宗の誕生から衰退までの経緯をみていきましょう。

 

当時、仏教普及に貢献していた訳経僧と言えば、鳩摩羅什(344~413)があげられますが、鳩摩羅什が生きた時代は、まだ涅槃経とそれらに関する教説が完全に伝えられていませんでした。したがって、鳩摩羅什は、法顕の訳した大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)をみることなく亡くなりました(生前より般若・法華・涅槃の教説群を常々「是れ大化の三門なり」と述べていたと言われる)。

 

しかし、法顕が、418年に持ち帰った大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)を自ら漢訳して伝えると、鳩摩羅什門下の四哲といわれる道生や慧観をはじめ、同門下の慧遠や道朗、超進などが競って、涅槃経を研究し、涅槃経こそ仏の説法の帰結した経典であると判じたことから、涅槃宗が始まりました。

 

その後、南北朝の時代に入り、北朝では、北涼(甘粛省)の曇無讖(どんむしん)(385―433)が、大般涅槃経を漢訳(これを「北本涅槃経」と呼ぶ)しました。

 

「北本」にまつわる逸話です。鳩摩羅什門下四哲の一人である道生(どうしょう)(355―434)は、いまだ法顕訳の「大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)」しか伝わっていなかった頃、この泥洹経に触発されて、「闡提(せんだい)成仏論(正しい法を信ぜず求道心を欠く者も成仏するという説)」を唱えました。しかし、他の学僧から強く否定、排斥され蘇州の虎丘寺に流されてしまいましたが、曇無讖が漢訳した「北本涅槃経」が、430年に東晋の建康(けんこう)(南京)に伝えられると、そこに闡提の成仏が説かれていたことで、その説の正当性が証明されたと言われています。

 

一方、南朝では慧観(えかん) (383~453)や慧厳(えごん)らが、宋の詩人、謝霊運の協力を得て、北本(大般涅槃経)を再治(さいじ)(調べ直して正す)した36巻本の「南本涅槃経」を、436年に作成すると、宋、斉、梁(りょう)、陳代を通じて、この南本がとくに梁代(502~557)で研鑽され最盛期となりました。

 

このように、南北朝時代に大いに栄えた涅槃宗でしたが、隋代(581~ 618)に、天台大師・智顗(ちぎ)が、天台宗を大成させると、涅槃宗は急速に衰え出しました。

 

「涅槃経」は、天台宗の「法華経」を援護する経文とまで呼ばれるほど共通性があったことも相まって、涅槃宗の教旨は天台宗に吸収され、涅槃宗はやがて天台宗に併合されてしまいました。

 

ただし、智顗の天台宗が、実践面に加えて、法華一乗を唱えるなど当時としては革新的・論理的な教理教学を打ちたてていたことに対して、当時の涅槃宗は、教理教学の研究だけに終始し実践を伴わないものになってしまっていたと指摘されています。結果として、日本では涅槃宗という宗派としての存在は認められませんでした。

 

 

  • 涅槃経(ねはんぎょう)

 

涅槃経は、「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」の略称で、小乗の阿含経典類から大乗経典まで数種あります。総じて、釈迦の入滅を叙述し、その意義を説く経典類の総称で、仏教の基本的な立場を明らかにされています(大般涅槃とは釈迦の入滅の意)。

 

一言で、涅槃経(大般涅槃経)と言っても、パーリ語で書かれた上座部経典長部(パーリ仏典経蔵長部)に属する第 16経(「大般涅槃経(上座部)」)と、これに基づいて大乗仏教の思想を詳細に述べた膨大な「大般涅槃経」に大きく分けることができます。

 

上座部(小乗)の涅槃経は、インドでの成立は3世紀末とされ、原典はパーリ語であったと推察されています。これに対して、大乗の涅槃経は、原典は失われ、龍樹(紀元150年頃に活躍)には知られていないことなどから、この編纂には瑜伽行唯識派が関与したとされ、4世紀くらいの成立と考えられています。

 

では次に、上座部(小乗)と大乗それぞれの大般涅槃経に対してなされた漢訳経典についてみてみます。

 

大般涅槃経(上座部)

小乗経典としての大般涅槃経(だいはつねはんきょう)には以下の訳本があり、釈尊の晩年から入滅前後までを伝記的に述べられ(釈迦入滅前の教説中心)、さらに入滅後の舎利の分配などが詳しく書かれています。

 

長阿含第2経「遊行経」

仏般泥洹経(ぶつはつないおんぎょう) (2巻)

般泥洹経(はつないおんぎょう) (2巻) ,

大般涅槃経(だいはつねはんきょう) (3巻)

 

大乗の「大般涅槃経」

同様に、大乗経典としての大般涅槃経にも以下の訳本があります。

大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)

大般涅槃経(北本)

大般涅槃経(南本)

 

大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)は、インドに渡った東晋の僧・法顕(ほっけん)が持ち込み、仏陀跋陀羅(ぶったばったら)とともに418年に漢訳(6巻)しました。大般泥洹経には、大般涅槃経の前半部のみが伝えられていると言われています(泥洹は、涅槃、釈尊の入滅の意)。

 

北本涅槃経は、北朝の北涼(甘粛省)で、また、南本涅槃経は、南朝の宋(420~479)の時代に、それぞれ漢訳された事からこう呼ばれます。

 

北本(きたほん)は、430年に曇無讖(どんむしん)(385―433)が漢訳し、40巻本に及びました。なお、北本の全40巻のうち前10巻は小乗の涅槃経の内容と同じです。

 

南本は、南本涅槃と称する慧観(えかん)・慧厳(えごん)・謝霊運らが訳し、36巻本あり、小乗?の大般泥洹経(だいはつないおんぎょう)?を参照しながら、北本を再治(さいじ)(調べ直して正す/校合訂正)したものです。

 

大乗の涅槃経(北本・南本)は、小乗の涅槃経(漢訳)とあらすじはほぼ同じですが、涅槃の事実よりも、法身常住、悉皆成仏一切衆生悉有仏性、草木国土悉皆成仏といった仏教思想が展開されるなど、趣旨が多少異なります。

 

法身常住(ほっしんじょうじゅう)

仏の法身そのものは不増不減(ふぞうふげん)に常住している(=仏の不滅性)

 

悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)

すべてのものが成仏する

 

一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう・しつうぶっせい)

一切衆生にことごとく仏性があり、だれもが成仏できる(仏となる)可能性があり、ゆえに、悪人でも救われる。

 

草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)

草木や国土のような非情なものも、仏性を具有して成仏する

 

ただし、この思想はインドにはなく,6世紀頃,中国仏教で生まれた考え方とされています(それでも、特に日本で流行した)。このように、涅槃経は、中国で独特の発展を遂げ、涅槃経を宗旨とする宗派「涅槃宗」が中国で興こりましたが、前述したように、日本には直接伝来しませんでした。

 

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中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

<参照>

天台宗について(天台宗HP)

天台宗の本山と開祖、その教えとは?(仏教ウェブ入門講座)

「天台宗」という名前の意味(天台仏教青年連盟)

天台宗とは(コトバンク)

天台宗(Wikipedia)

涅槃宗とは(コトバンク)

涅槃宗(Wikipedia)

 

(2022年7月13日)