禅宗:達磨から始まった中国起源の宗派

 

今回は、中国仏教の13宗(毘曇宗,成実宗,律宗,三論宗,涅槃宗,地論宗,浄土宗,禅宗,摂論宗,天台宗,華厳宗,法相宗,真言宗)の中の、最も中国的色彩が強いと言われている禅宗についてまとめました。

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<禅宗の発展>

 

禅宗は、大乗仏教の一宗派で、6世紀の南インドの僧・達磨(だるま)(ボーディダルマ)(470頃~528)を開祖として、唐代(618~907)に、中国仏教の中で独自に発展しました。唐から宋代にかけて盛んになり、日本にも強い影響を与えたとされています。その教義は大乗仏教の一般教義と変わりませんが、大きな違いは、禅宗では禅(座禅)によって精神的安定をえて悟りに至ることを目的とすることです。

 

  • 中国で興った禅宗

 

「禅」とはサンスクリット語(梵語)(Jhana)の音を漢字で表した(音写した)「禅那」の省略形で、もとの意味は「静慮」でした。また、元来、禅(座禅)は、戒律とともに、仏教の基本的実践の重要な徳目として、心を集中して正しく思惟するため坐禅を組むという仏教の修行法の一つでもありました。

 

実際、禅は、古くからインドで重視され、どの宗派でも行われるものでしたが、中国において、禅だけを重んじる宗派が現れ、それが禅宗と言われました。つまり、禅は、中国において、初めて禅宗という形で、宗派として確立したのです。

 

宗派としての禅宗は、それまでの仏教の教理や一切の分別を捨てて、ひたすら座禅を組む(瞑想する)ことによって、本来の浄らかな自己の本性を直感的に自覚し、仏陀の精神を直接観る(みる)、すなわち、悟りを開くことを説く自力仏教として発展しました。

 

ですから、禅宗は、大乗仏教ではあるのですが、他宗のように、拠り所とする経典や論をもって宗旨を立てるのではなく(経典から学ぶのではなく)、禅の実践を重んじ、悟りは、文字や言葉によることなく、修行を積むことによって自力で開き、心から心へ伝えるものだと教えます。このことは、不立文字(ふりゅうもんじ)とか、教外別伝(きょうげべつでん)など、禅宗の要諦(原則)を示す言葉で説明されます。

 

また、直感的な悟りの境地は、師が弟子に質問する(公案という)ことで、弟子が自ら体得するものとされました。ここで、悟りの機微は師から弟子に引きつがれる師資相承(ししそうしょう)や、師の心を弟子に言葉によらず伝える以心伝心が重要視されました。禅宗では悟りの伝達で「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行きました。

 

禅の目的は、インド・中央アジア、そして中国において、仏教が発展するにしたがって、もともとの仏陀の教えの周囲に積みあがった、戒律や儀礼、経典の解釈や、民族性に基づいて独自の見解を除去して、仏陀自身の根本精神を直接観ることです。禅の大家・鈴木大拙によれば、仏陀の精神とは、般若(ブラジュニヤ=智慧)と大悲(カルーナ=愛)だそうです。

 

 

  • 禅の起源

 

このように、禅は、唐代の初期に当たる8世紀、中国に発達した仏教の一形態ですが、その始まりはさらに早く、6世紀の初め、南インドから海路中国に渡ってきたとされる達磨(だるま)(ボーディダルマ)(470頃~528)が禅を伝えました。

 

禅宗の始祖の達磨(いわゆる「だるまさん」)は、仏陀より28代の祖師で、正しくは菩提達磨といい、南インドの王族に生まれました。520年頃、南朝の梁(502~557)の時代、正法を伝えるために、南海を経て、中国の広州に渡来し、当時、仏教学の最高峰とされた、初代皇帝の武帝(蕭衍(しょうえん))(在位502~549)と問答しましたが、正法を伝えるに足らずとし、北魏(386~534)の都・洛陽で教化にあたりました。

 

しかし、洛陽では受けいれられず、嵩山(すうざん)の少林寺(河南省)に入り、面壁黙座(壁に向かって黙って座り続ける)を行い、528年に没しました。少林寺では、のちに第二祖となる慧可(えか)に密に会ったと言われています。

 

達磨は、中国に渡来してから、自己修養の入り方・行じ方に関する論などからなる「二入四行(ににゅうしぎょう)」という独特の禅法を説いたと言われていますが、達磨が後世、禅宗の初祖として仰がれるのは、この「二入四行」の教えそのものというよりも、その修行によると解されています。

 

洛陽の都を一望することができる山の北側にある中国禅宗の有名な少林寺で、達磨は、壁に向かって座禅の修行をする「壁観(へきかん)の座禅を、身を以て行ないました。禅の教えの根本はこのような達磨の坐禅の実践から流れ出たものと解されています。

 

達磨はさらに日本にきて、聖徳太子と問答したとされ、平安末期に達磨宗がおこって、鎌倉新仏教の先駆けとなったとも言われています。

 

達磨の教えは、弟子の第2祖慧可(えか)(487―593)に引き継がれた後も、3祖僧璨(そうさん) (?~606年)、4祖道信(580~651)、5祖弘忍(ぐにん/こうにん)(602~675)と相伝され、禅宗教団は大きく発展しました。

 

 

<禅宗の分裂>

 

  • 北宗禅と南宗禅

 

弘忍には、神秀(じんしゅう)(606?〜706)と、慧能(えのう)(638―713)という2人のすぐれた弟子がいました。神秀は、修行を通じて徐々に悟得する「漸悟(ぜんご)」を規範としたのに対して、慧能は、一足とびに究極の悟りに至る「頓悟」(とんご)を旨としていました。

 

当初、弘忍の弟子の筆頭で、六祖とみなされていた神秀(じんしゅう)は、晩年に則天武后(在位690~705)により洛陽に迎えられ、帝室の尊崇を受けました。神秀の死後も、その弟子たちは、唐代帝室の保護を受け、多くの官人の支持を受けていました。

 

これに対して、慧能の弟子で、七祖を自称していたと言われる荷沢神会(かたくじんね)(684~ 758)は、神秀の教義を奉じるこの僧侶たちを「北宗(ほくしゅう)」と呼び、、真の仏法である頓悟(とんご)に反する漸悟(ぜんご)の教えを主張していると非難しました。また、真の仏法を伝えるのは自分の師である禅宗六祖の慧能であるとして、慧能が南方にて法を伝えていたことから、自らの立場を南宗(なんしゅう)と称しました。

 

(神秀の下を出た荷沢神会(684~758)が慧能に参じ、自らを七祖とし、慧能を禅宗六祖とする南宗禅の立場を確立した。)

 

神会(じんね)は、洛陽の荷沢寺に入って北宗批判を続けましたが、南宗に同調する者はほとんどおらず、逆に、神秀の弟子たちを支持する政府高官によって洛陽を一時追放されてしまいました。

 

しかし、神会は、755年に始まる安史の乱に際し、戦費調達のために、売牒(国家が僧尼となることを認可し証明するものとして発行した公文書である度牒(どちょう)を売る制度)を進言して、粛宗(しゅくそう)(756~762)の信頼を得ると、洛陽への復帰を果たしました。その後、北宗系統も継承されていきましたが、神会(じんね)を支持する役人は増加し、徐々に信心を集め始めました。

 

神会の南宗は、神会が荷沢寺に拠っていたため荷沢宗(かたくしゅう)とも呼ばれ隆盛し、神秀に代わりに慧能を六祖に定めることに成功しました。この結果、後世、禅宗の歴史では、5祖弘忍(ぐにん/こうにん)の後、「神秀は北宗禅を、慧能(正確にはその弟子の神会)は南宗禅をひらいたが、南宗禅が正統とみとめられ、慧能が6祖となった」と解されるようになりました。

 

しかし、762年に神会(じんね)が没すると求心力を失い、南宗は、急速に衰えていきました。さらに、845年には、武宗(在位840~846)による会昌の廃仏で徹底した弾圧を受け、洛陽内の南宗は、北宗とともに、いったんは消滅しました。

 

 

  • 南宗禅から五家七宗

 

それでも、中国禅宗においては、六祖慧能(えのう)の法を嗣いだ禅僧たちが、翌年の武宗の死後、活躍しました。この後代の禅僧たちは、自らの系統を南宗の系統であると認識し続け今日に至っています。その意味で、荷沢宗(かたくしゅう)は滅び去ったものの、南宗は、現在にまで続いていると言われています。

 

「六祖壇経(ろくそだんきょう)」などにも、慧能と南北宗論の記録が残され、南宗禅が、禅宗を継承したと認識されている論拠ともなっています。「六祖壇経(六祖大師法宝壇経)」は、慧能の弟子の法海が書き留めたとされる慧能の説法集で、禅宗における根本教典のひとつとなっています。内容は北宗禅に対して南宗禅の立場を明確に示され、また、新しい坐禅と禅定(瞑想)の定義なども記され、これを元に後の中国禅宗は確立・発展したと言われています。

 

ただし、もともと慧能の説法の記録だった「六祖壇経」は、荷沢神会(かたくじんね)がその宗旨をもとに、編修したという見方が有力で、中には、これを「偽書」と断ずる仏僧もいます。

 

禅宗教団としては、慧能(えのう)(638―713)によって、8世紀頃に組織化が出来上がったとされています。また、慧能の弟子の南嶽懐譲(677~744)と、その弟子の馬祖道一(ばそどういつ)(709~788)や、そのあとを継いだ百丈懐海(ひゃくじょうえかい)(749~814)が坐禅に対する禅宗の姿勢を明らかにするなど、禅宗の地位を確固なものにしたとみられています。

 

こうして、禅宗は、会昌の廃仏(845~846)を除けば、唐の仏教隆盛の中で、唐王朝との特別なつながりを保持しなから、独自の地位を占めていきました。なお、禅宗という語がもちいられるのは唐代(618~907)末期であったとされています。

 

慧能ののち禅宗は、唐代から宋代にかけて、臨済宗、潙仰(いぎょう)宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の「五家」が分立しました(禅宗五家と呼称)。これに、臨済宗から分かれた黄竜派と楊岐(ようぎ)派の勢力が五家と肩を並べるまで伸長し、この二派を加えて「七宗」と呼称されるようになりました。こうして、「五家」と「七宗」を併称した「五家七宗(ごけしちしゅう)」が中国禅宗のおもな分派(各派)を形成し、現在に伝わる全ての禅宗はここから派生したとされています。

 

 

<生き残った禅宗>

 

知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、禅宗では、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見ました。とりわけ、宋朝の勃興と共に、禅の発展と影響はその絶頂に達し、宋の後の元と明の時代は、仏教すなわち禅と言われるまでになりました。

 

宋代では、士大夫層(新興地主階級、官僚となった知識人)に受け入れられ、民間に広がった浄土宗と共に中国仏教の主流となりました。禅宗が士大夫に受けいれられたのは、自己の主体性の自覚に重点を置くことが彼らの関心に合致したためと考えられています。

 

禅宗は、大乗仏教の「般若経」にある空の思想に、道教(老荘思想)が融合して、独自の精神文化を形成したと言われ、特に、老子の教えと中国禅の共通点は多くみられます。さらに、禅は、教団の枠組みを超え、朱子学・陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えました。

 

他方、他の仏教宗派は急速な衰微の兆しを示しました。華厳、天台、三論、倶舎、法相、真言等は、迫害の結果、絶滅しないまでも、新鮮な血液の欠如ゆえに、非常な痛手を蒙りました。これらの宗派は、あまりにもインド的要素が強く、中国人の考えや感情、さらには中国の風土に完全には同化するのを妨げたと指摘されています。

 

<関連投稿>

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中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

 

<参照>

禅宗とは(コトバンク)

禅(Wikipedia)

中国の禅宗・日本の禅宗(宮川仏具店)

禅の歴史 ― 曹洞禅の源流を尋ねて(9)

(鏡島元隆博士「禅学概論講義ノ-ト」より)

 

(2022年7月13日)