鳩摩羅什と法顕:大乗仏教の本格的な受容

 

中国仏教史シリーズ3回目の今回は、初期の中国仏教の発展に貢献した鳩摩羅什と法顕の活躍した時代をみていきます。紀元前後に中国に仏教が伝来し、多くの訳経僧の尽力で、4世紀後半には、中国にも仏教が定着していきました。

 

五胡十六国の時代(304~439)の後期にあたる北の後秦(こうしん)(384-417)の時代には、中国を代表する訳経僧、鳩摩羅什(くまらじゅう)が長安に渡来し、また南の東晋(317-420)では、法顕が仏典を求めインドに渡るなど、中国仏教の発展において大きな出来事が重なりました。

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  • 鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマーラジーヴァ)

(344~413または350~409頃)

 

漢名の鳩摩羅什(くまらじゅう)はサンスクリット名のクマーラジーヴァの音写です。略称は羅什(らじゅう)または什(じゅう)。4世紀の末に、シルクロードを通って西域から、五胡十六国の争乱期(後秦の時代)に長安に来て、35部300巻の仏典を漢訳しただけでなく、釈迦の教えが正しく伝わるよう務め(格義仏教は一掃)、中国仏教の普及と発展に貢献しました。

 

西域のタリム盆地の小国、亀茲(クチャ)国(きじこく)(新疆ウイグル自治区クチャ市)で生まれ、父は貴族の血を引くインド人、母は亀茲国王の妹だったとされています。

 

7歳で出家し、9歳でインドに渡り、仏教を学びました。はじめは、原始経典や、経・律・論を研究する阿毘達磨(アビダルマ)仏教を中心に部派仏教(小乗)を学び、369年に、具足戒(正式な比丘や比丘尼になるための条件をすべて満たしたことを証明するための儀式)を受けました。その後、須利耶蘇摩(しゅりやそま)と出会って、大乗に転向したとされ、そこで主に中観派(「空」の仏教)の諸論書を研究した鳩摩羅什は、サンスクリット語も修め、亀茲に戻りました。

 

 

政治に翻弄された鳩摩羅什

しかし、亀茲国は、五胡の一つ前秦の苻堅(在位357~385)によって征服されていました。その時、釈道安から鳩摩羅什の高名を聞いた苻堅は、陣頭指揮をとっていた将軍呂光(りょこう)に、鳩摩羅什を長安に連行するよう命じました(384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となった)。

 

384年、呂光は鳩摩羅什を伴い敦煌まで戻りましたが、この時、中国統一を目指して南下した苻堅は、淮河支流の淝水(ひすい)で東晋との戦い(淝水の戦い)で大敗し、前秦も崩壊寸前になっていました。

 

そこで、呂光は、涼州(りょうしゅう)にとどまり、後涼(こうりょう)国を建国すると、鳩摩羅什も、そのまま17年間、涼州(甘粛省)に幽閉される形で留まりました。鳩摩羅什は、捕虜になったといっても、軍師的な立場で呂光を助けたとされ、その間、漢語を習得しました。

 

一方、当初、前秦の苻堅に従っていた羌(きょう)族の姚萇(ようちょう)は、自立して後秦(384~417)を建国すると、次の姚興(ようきょう)(394~416)は、前秦の残党勢力を滅ぼし、形式的に華北の西部に大きな勢力を築き上げました(後秦は403年に後涼を征服)。

 

鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の高名を知っていた姚興は、熱心な仏教徒として知られ、401年に、後涼にいた鳩摩羅什を、長安(西安)に国師の礼をもって迎え入れました(仏教が中国において国の支援を受けたのは姚興の後秦が初めてとされている)。

 

鳩摩羅什の功績

こうして、五胡十六国時代の混乱に翻弄された鳩摩羅什でしたが、中国で没するまでの約10年の間に、35部3000巻もの仏典の翻訳に携わりました。その漢訳には、「大般若経(大品般若経)」をはじめ、「法華経」、「阿弥陀経」(401年)、「維摩経」などの大乗仏典や、大乗仏教の理論書など多数にのぼります。

 

また、竜樹(ナガールジュナ)が般若経の「空」論を論じた「中論」、「十二門論」と、その弟子の提婆(だいば)(170-270年頃)の「百論」の三部の論書も漢訳され、中国で三論宗が成立し、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)はその開祖と位置づけられています。

 

それ以前にも経典の漢訳は行われていましたが、鳩摩羅什の訳は正確・流麗と評され、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、玄奘以前の旧訳(くやく)における代表的な訳経僧として、初期の中国仏教の発展に貢献しました。鳩摩羅什後も多くの三蔵法師が現れましたが、鳩摩羅什は、玄奘と共に二大訳聖、また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれています。

 

もっとも、鳩摩羅什の訳した「法華経」は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は鳩摩羅什自身の教義で改変されているという説もあります。

 

また、鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は長安に迎え入れられた翌年の402年に、姚興(ようきょう)の意向で女性を受け入れて(女犯)破戒し、還俗させられたという醜聞もあります

 

鳩摩羅什の没年は、はっきりしていませんが、409~413年の間と推定されています。鳩摩羅什の訳経と布教を通して、中国人のなかからも高僧を輩出させ、貴族階級のなかに多くの熱心な信徒を得て、寺院や仏塔も多く建立されました。

 

 

  • 法顕(ほっけん)(337~422)

 

一方、中国の仏僧による仏典を求めたインドへの旅が本格化したのは、4世紀以降のことです。インドに遊学した中国僧としては玄奘が有名ですが、法顕のインド巡礼(395~414)が、その最初でした。

 

東晋(265-420)の僧、法顕は、5世紀初めに、経典を求めて、シルクロードを経由して、グプタ朝時代のインドに渡り、帰国後、「仏国記」を著したことで知られ、持ち帰った仏典の漢訳も、インドなどから帰還した中国の僧侶たちによって進められました。

 

法顕(平陽郡襄陵県武陽(現在の山西省)の人)は、幼くして出家、20歳で具足戒(正式な比丘や比丘尼になるための条件をすべて満たしたことを証明するための儀式)を受けましたが、仏教の学究を進めるにしたがい、経典の漢語訳出に比べて、戒律の文献(律蔵)が、当時の中国には完備しておらず、また、経・律、共に錯誤や欠落もあることに気づきました。

 

インドへの旅

そこで、法顕は、仏典を求めて、399年、60余歳の老齢の身で、同学の慧景(えけい)、慧応、慧嵬、道整らの僧と共に、長安を出発して、陸路インドへ求法の旅に出たのでした。

 

長安を出発した一行は、シルクロードの西域南道を進み、途中ホータン王国を経由しつつ、敦煌から流沙(りゅうさ)(現在のタクラマカン砂漠)を渡りました。その後、鄯善(ぜんぜん)、于闐(うてん)を通り、パミールを越えて、出発から6年かかって、ようやく中インド(中天竺)に達しました(敦煌から西域に入り、ヒマラヤを越えて北インドに至った)。

 

法顕が訪れたのはグプタ朝のチャンドラグプタ2世の治世(在位376~415)で、グプタ様式の文化が開花した時代でした。

 

インドでは、釈尊にゆかりの王舎城(マガタ国)など各地の仏跡を巡拝し、仏僧の生活や戒律の文献について見聞を広めると同時に、法顕は都パータリプトラ(パトナ)で3年間、またコルカタ(カルカッタ)に近い港町のタームラリプティには2年間滞在し、仏典を研究と収集に努めました。その結果、「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」という大衆部の律蔵や、説一切有部の「阿毘曇心論(あびどんしんろん)」をはじめ、貴重な仏典を入手することができました。

 

さらに、タームラリプティから商船でスリランカ(師子国)に渡った法顕は、ここに2年間とどまり、化地部(けじぶ)の「五分律(ごぶんりつ)」や、法蔵部の「長阿含経(じょうあごんきょう)」などを得ました。

 

こうして、402年から411年まで、インド各地やスリランカで仏典を求め、仏跡を巡礼する旅を続けた後、海路、帰国の途につきました。途中、マラッカ海峡から、ジャワ島(耶婆提(やばだい)国)に立ち寄り、そこから広州に向かいましたが、暴風に流され、412年、青州(青島)(山東省)に帰着しました。前後14年にわたって27か国を歴訪するという途方もない旅で、この時、法顕は78歳でした。出発時、同行した僧たちは、途中で死亡したり、インドに留まったまま帰らなかったりで、帰国できたのは法顕一人だったそうです。

 

帰国後の法顕

帰国後、法顕は、東晋の都の建業(建康)(南京)に行き、請来した戒律などのサンスクリット経典(6部63巻に上ったとも言われる)を紹介しました。その際、涅槃宗成立の基となった「大般涅槃経」や、「摩訶僧祇律」40巻などが、南へ逃れてきて法顕と出会った仏陀跋陀羅(ぶっだばったら)(東晋の中国で活動した北インド出身の訳経僧)によって、漢訳されました。

 

このように、僧侶たちの生活の規範となる戒律に関する文献を持ち帰った法顕によって、僧院の運営や受戒作法など様々な作法が整備されていきました。また法顕は中国西域やインドの弥勒信仰を中国に伝えたとも言われています。加えて、法顕が記した旅行記「仏国記(法顕伝)」は、5世紀初めのインドや中央アジアについて書かれた貴重な史料となっています

 

422年、法顕は、荊州(けいしゅう)(湖北省)の江陵の辛寺(しんじ)で入寂しました。享年86歳(82歳とも)でした。没後、仏陀跋陀羅(仏馱什)によって、「五分律」も漢訳されました。

 

法顕のインド巡礼(395年–414年)を皮切りに、5世紀以降、中国からの巡礼者(中国の仏僧)たちが原典によりよく触れるために、彼らの仏教の源泉たる北インドへと旅をするようになりました。その数は、数十人の、あるいは数百人に上るとされています(玄奘もその一人である(後述))

 

また、法顕が持ち込んだ仏典の中でも、「十誦律」「四分律」「摩訶僧梢律(まかそうぎりつ)」などの律部経典が中国に伝訳され、律に関する研究が盛んとなりました(ここから、律宗が成立することになる)。

 

このように、鳩摩羅什(くまらじゅう)と法顕以降、大乗仏教の本格的な受容が始まったとされ、新たな中国仏教の流れが始まっていきました。

 

 

<関連投稿>

中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ

中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服

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中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!

中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

 

<参照>
鳩摩羅什とは(コトバンク)

鳩摩羅什/クマーラジーヴァ(世界史の窓)

法華経と鳩摩羅什(広済寺)

鳩摩羅什(新纂浄土宗大辞典)

鳩摩羅什(Wikipedia)

法顕(世界史の窓)

法顕(世界の歴史マップ)

法顕とは(コトバンク)

法顕(Wikipedia)

 

(2022年7月18日)