漢:仏教はシルクロードを超えて中国へ

 

本HPの仏教シリーズにおいて、これまで、インドにおける仏教の創設から発展、衰退の経緯をみてきました。今度は中国における仏教の伝播について、時代毎に6回に分けてまとめました。今回はその第1回目で、インドの仏教がどのように中国に入ってきたかについてみていきます。日本の仏教は中国から入ってきただけに日本仏教のルーツを知る上でも重要です。

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仏教の中国への伝来

 

インドで釈迦が興した仏教は、南は東南アジアの国々へ広まり(南伝仏教)(紀元前3世紀にはスリランカに伝わった)、北はガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと伝搬(北伝仏教)しました。とりわけ、紀元前後頃に新たに大乗仏教が興ると、後者の流れは、中央アジア(または後には南方の海路)を経て(シルクロードを経て)、中国大陸、さらには朝鮮半島から、日本やベトナムなどの東アジアに広まっていきました。

 

インドから中国に仏教が伝わる際、両国に間には、ヒマラヤ山脈とチベット高原という大きな山脈が横たわり、シルクロードを経由しても、カラコルム山脈やタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠が地理的な障壁となったために、長い時間がかかりました。

 

それでも、遅くとも、西暦紀元前後には、ガンダーラ(現在のパキスタンやアフガニスタン)からカラコルム山脈を越え、シルクロードを伝って、仏教が中国にもたらされたとみられています。

 

中国に仏教が伝わった時期は確定されていませんが、前漢(前206~後08)の末期から、紀元1世紀の後漢(25~220)のころにかけて中国に伝えられ、魏・晋・南北朝(184~589年)時代という動乱期を経て、唐代には多くの宗派が形成されるなど独自の発展を始め、浸透していきました。

 

 

<中国仏教の始まり>

 

中国への仏教伝来には諸説があります。伝来に関する説話としては、「後漢書(ごかんじょ)」西域伝(せいいきでん)の記録では、中国の仏教の初伝に、「明帝霊夢説(めいていれいむせつ)」と呼ばれる古くから伝わる、次のような、明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話があります。

 

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後漢の時代の64年(67年とも)、2代皇帝、明帝(めいてい)(在位57~75年)はある夜、全身から光を放つ「金人」が飛来して殿庭に下り立つ夢を見た。翌朝、博学の家臣・傅毅(ふき)に、それが「仏」というものであると教えられた明帝は、さっそく蔡愔(さいいん)、秦景(しんけい)らを西域(インド)に派遣し、仏法を求めさせた。秦景(しんけい)らは、かの地で、迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)のインド僧に出会い、彼らと共に経典や仏像を白馬に乗せ、はるばる洛陽の都に帰還した(これを記念して建てられたのが、「白馬寺」であると言われている)。
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ただし、後漢書(巻四十二)によれば、中国で最初に仏教の信者となったのが、この明帝(在位57‐75)の異母兄で、光武帝の三男の楚王英(劉英(りゅうえい))(?~71年)であるとされています(仏教を信奉していたという記述がある)。

 

しかし、(「後漢書」には)劉英の封地である彭城でも、西来の外国僧や在家の優婆塞が居たことを示されており、都の洛陽や長安には、この頃、既に多くの僧や俗人の信者がいて、宣教に当たっていたのではないかと推察されています。

 

実際、少なくとも東西の交易の活発化が始まった前漢の時代(紀元前206~後08年)には、西域(中央アジア)から、中国にシルクロードを経由して、仏教は伝来していたとみられています(その時期は、明帝の治世より古い時代と考えられている)。

 

文献上でも(史実の公伝としては)(中国北魏の正史「魏書」を構成する「釈老志」(しゃくろうし))(「魏略」の「西戎伝」))によれば)、前漢末期の哀帝(在位:前7~前1)の時代の前2年に、現在のアフガニスタン北方にいたイラン系遊牧民の大月氏国国王の使者伊存(いそん)が、博士弟子(官職・五経博士のもとに置かれた役職、学者の生徒)の景盧(けいろ)に「浮屠教(ふときょう)」と言う経典を口伝したというのが、諸説の中でもっとも早いものとなっています(浮屠とはブッダの音写)

 

いずれにしても、既に、東西の貿易路であり、インドと中国の文化接触の幹線であったシルクロードを通じて、1世紀から2世紀後半にかけて、仏教は陸路により中国にもたらされましたとみるのが最も一般的です。

 

きっかけは、前漢の武帝(前156-前87)は匈奴をゴビ砂漠の北方へ追いやり、張騫(ちようけん)がパミール高原を越えて西域遠征を行ったことにより、シルクロードが開通したことにあります。

 

当初は交易に従事した隊商や帰化人が帰依していたに過ぎないと考えられていますが、後漢の時代(25~220)、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していきました。1世紀中頃以後には中央の貴族・知識階層にも熱心な信者をもつようになってきたと推定されます。

 

とりわけ、北インドのクシャーナ朝(1世紀半ば~3世紀前半)がカニシカ王の治世下、中央アジア方面に伸長し、今日の新疆、タリム盆地のカシュガル・ホータン・ヤルカンドを統治下に置くなど、(タリム盆地の)中国の領土にまで伸長した影響は大きかったとみられています。

 

 

<漢の仏教>

前漢(前206~後08)  後漢(25~220)

 

訳経僧の活躍

 

こうした背景の下、文化的交流が非常に盛んになり、このシルクロードを通って、西域の大勢の僧侶が経典を携え、中国の首都の洛陽や、時には建業で活動、滞在し、部派仏教と大乗仏教の両方の仏典を漢訳しただけでなく、またその作法を披露しました(37人の翻訳者が知られている)。

 

紀元67年には初のインド人僧・竺法蘭(じくほうらん/ダルマラタナ)や迦葉摩騰(かしょうまとう/カーシャパマータンガ)が、漢土に到来したことが記録に残されています。

 

また、桓帝(在位 146~167)の治世の紀元147年に、初の西域僧・安息の安世高(あんせいこう)や、翌年の月氏の支婁迦讖(支讖)(しるかしん ローカクシェーマ)をはじめ、安玄、竺仏朔(竺朔仏)、支曜、康巨、康孟詳、竺大力などが、都の洛陽に来て、布教や、インド経典の漢語訳に携わりました(彼らはみなクシャン朝の支配下にあった地方の出身者)。桓帝は、皇帝としての最初に仏教の信者となったと言われています。

 

さらに、初めての漢人出家者(初の中国人僧)として厳仏調(げんぶつちょう)が現れ、安世高や安玄の訳経を助けました。こうした流れの中、現状に満足できずに本場のインドへ行って仏教を学びたいと考える中国人僧も現れ、彼らの往来によって中国とインドの交通は活発になりました。

 

さて、こうした訳経僧の中で、明帝の求法説話などが架空の創作とすると、記録に残っている限り、中国で初めて本格的に仏教の経典を翻訳したのは、後漢の時代の西暦148年、中国に渡来したパルティアの王子で、仏教に改宗した安世高とみられています。

 

 

  • 安世高(あんせいこう)(?~170頃)

 

中央アジアから中国に来た最初の仏僧で、本格的訳経者。安息国(パルティア)の太子でしたが、皇太子位を捨て出家し、仏教教義の解説書であるアビダルマ(阿毘達磨)(≒小乗)や禅経を学んだ後、中国伝道を志しました。148年に洛陽に至ると、以後、20余年間にわたり34部40巻の部派仏教系の経典類を漢訳し、仏典の漢訳を体系づけただけでなく、洛陽における仏教寺院建立にも尽力しました。

 

当時の安息国は、上座部(小乗)の説一切有部(せついっさいうぶ)が盛んで、安世高もこの流れを受け、禅観経典(「安般守意経(あんぱんしゅいぎょう)」(=小乗の禅≠禅宗)、「陰持入経(おんじにっきょう)」等の部派仏教の禅観に関する経典)や、「八正道経(はっしょうどうきょう)」など阿含(あごん)経典に加えて、阿毘曇(あびどん)学(アビダルマ論書)の教理書などを翻訳・紹介しました。

 

禅観経典: 「大道地経(だいどうじきょう)」、「安般守意経(あんぱんしゅいぎょう)」、「陰持入経(おんじにっきょう)」等。

阿含経典:「人本欲生経(にんぽんよくしょうきょう)」(いわゆる十二縁起(十二因縁)関連の話題が取り上げられる)、「八正道経」、「四諦経 (したいぎょう)」、「転法輪経 (てんぼうりんぎょう)」等。

阿毘曇教理書:「阿毘曇五法経(ごほうきょう)」等

 

ただし、確実な訳経は「人本欲生経」「大安般守意経」「陰持入経」「道地経」の四部だとする見方もあります。

 

これらの安世高の翻訳には、大乗仏教の影響はみられず、伝統的な部派仏教に根ざした仏教を中国に伝えました。

 

その後、安世高は、後漢の霊帝(168~189)代の末期に、関中(中国北部の陝西(せんせい)省)・洛中の騒乱を避けて、老齢の身で廬山から予章(現在の南昌)へ達し、ここで東寺を建立し、さらに、広州から北上して会稽(かいけい)(浙江省)にまで来たとき、市井の乱闘に巻き込まれ死亡したとされています。

また、西域から渡来して、大乗仏教を最初に広く中国に伝えた訳経僧に、支婁迦讖がいます。

 

  • 支婁迦讖(しるかせん)(しろうかせん)

(147年頃~没年不詳)(164~186頃に活動)

 

支婁迦讖は、ガンダーラの方面を支配した大月氏の人で、後漢(25~220)の桓帝(かんてい)(146~167)の治世の最後の年となった167年に洛陽にきてました(安世高よりやや遅れて洛陽に移住した)。そこで約20年間、霊帝(168~189)の治世の178~189年に、代表的な「道行般若経」をはじめ、「般舟三昧経」、「阿閦仏国経」など、13部27巻の大乗経典を訳出しました。安世高の部派仏教(小乗)に対して初めて大乗経典が漢訳されました。

 

道行般若経」(どうぎょうはんにゃきょう)

般若経典の中でも最も古い「八千頌般若経」(はっせんじゅはんにゃきょう)を「道行般若経」(どうぎょうはんにゃきょう)として漢訳。般若経典の中で最初の訳出となりました。(179年に漢訳)

 

般舟三昧経」(はんじゅざんまいきょう)

般舟三昧経は、阿弥陀仏およびその極楽浄土について言及のある最古の文献で、三昧(≒瞑想)によって極楽浄土の阿弥陀仏を現前に見ることが述べられ、初めて中国に阿弥陀仏が紹介さました(179年10月8日に漢訳)。「般舟三昧経」が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されることにつながったとされています。

 

阿閦仏国経」(あしゅくぶっこくきょう)

東方にいる阿閦如来(あしゅくにょらい)について説かれた経典で、衆生には浄土としての妙喜国への往生が勧められています。

 

上座部経典を漢訳した安世高と並び、最古の(大乗仏教の)仏典漢訳者として位置づけられた支婁迦讖は、初期大乗仏教が中国に定着していく上で、中国の知識人に強い影響を与えたとされています。

 

安世高によって部派仏教(小乗)が、また支婁迦讖によって初期大乗がほぼ同時に伝えられました。このため、仏教伝来当初から混乱があったされ、これが、中国で独自に経典の優劣を判ずる教相判釈(教判)による仏教へと連なる背景となったとの見方もあります。

 

 

<道教の影響>

 

さて、西域を通って伝えられた仏教は、1世紀の後漢時代に中国に浸透し始めた際、はじめは老子や荘子の道家思想と同化して受け入れられたとみられています(後に格義仏教と呼ばれる)。

 

例えば、後漢の桓帝(かんてい)(在位146~167)は、皇帝としての最初に仏教の信者となったことで知られていますが、「後漢書」によれば、166年に、桓帝は、宮中に「黄老と浮屠(ふと)の祠(ほこら)を立て、共に祠(まつ)る」と記録されています。

 

浮屠(浮図)(ふと):仏陀

黄老:道教の仙人

 

これは、神話や伝説上の帝王黄帝(こうてい)と、道家思想の開祖・老子とを結び付けた黄老思想(前漢の前2世紀頃に流行)の流れを受けたものとみられています。

 

この時代、黄老(黄帝・老子)と仏陀が同列に扱われ(道家と仏教が習合し)、仏陀は、老子とともに神として祭祀されていたことが伺えます(これは前漢の時代から続いていたとも言われる)。また、一説には、ともに、不老長寿の霊力のあるものとして信じられたと言われ、仏教は現世的な功利を目的とする信仰の形で後漢の社会に受け入れられていたとも解されています。

 

<関連投稿>

中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服

中国仏教史③ (魏晋南北朝2):鳩摩羅什と法顕 大乗仏教の本格的な受容

中国仏教史④ (魏晋南北朝3):末法思想と三武一宗の法難の始まり

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中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

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中国仏教➄ 禅宗:達磨から始まった中国起源の宗派

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中国仏教⑦ 三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!

中国仏教⑧ 法相宗と摂論宗:インド唯識派を継承!

中国仏教⑨ 華厳宗と地論宗:唯識から総合仏教へ

中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!

中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る(中国編)(BIGLOBE)

中国仏教(世界史の窓)

中国の仏教(Wikipedia)

ほか、コトバンク、Wikipediaから

 

(2022年7月17日)