玄奘と義浄:最盛期の中国仏教

 

中国仏教史シリーズ第5回目は、中国仏教が最盛期を迎えた唐の時代についてです。仏教普及の原動力となったのが、玄奘と義浄がほぼ時を同じくして、西域やインドへ赴き、膨大な仏典をもたらしたことでした。唐の前の隋の時代から、中国仏教の経緯をみていきましょう。

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<隋の仏教>

 

隋(581~618)を興した文帝は、熱心な仏教帰依者で、北周の武帝が実施した廃仏から仏教復興に努め、儒教に変わって仏教を中心に据える宗教政策(仏教治国策)を展開しました。これには、仏教を統治における人心収攬(しゅうらん)にしたという動機もあったとされ、保護と同時に教団への厳しい国家統制がなされました。

 

また、都となった大興城(長安)は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となりました。

 

文帝はその晩年、崇仏の度を増し、中国全土の要地に舎利塔(仏舎利(釈迦の遺骨)を納める仏塔)を建立し、各地方の信仰の中心としました(これは、インドのアショーカ王が各地に建てたと仏塔(ストゥーパ)をモデルとし、また日本の国分寺の起源となったとされる)。

 

隋の第2代皇帝煬帝は、暴君の悪名高い天子でしたが、その即位前、晋王(諸侯王の王号)時代より、天台宗の智顗(ちぎ)を崇敬したことで知られています。実際、当時、天台宗の智顗や三論宗の吉蔵など名僧を輩出しており、仏教の教理も中国の仏教として発展していました。

 

智顗(ちぎ)(538-597)

天台宗の実質的な開祖。南岳慧思禅師に師事し、法華経と竜樹の中観教学から天台宗の教義を体系づけた。陳と隋の皇帝の帰依を得た。

 

吉蔵 (549-623)

六朝(南朝)末期から隋、唐にかけて活躍した学僧で、三論(龍樹の「中論」「十二門論」、提婆の「百論」)の教学を大成した。隋の煬帝に召されて揚州や長安に召され活動した。

 

なお、天台宗や三論宗以外にも、南北朝から隋にかけての6世紀には、以下のように、次々と仏教宗派が生まれています。

 

菩提流支(508~535)の地論宗

真諦(499~569)の摂論宗

菩提達摩(?~536)の禅宗

杜順(557~640)の華厳宗

 

但し、中国における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代の南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものであったとされています。

 

華厳宗でも天台宗でも、現世肯定に基づく中国の儒教的伝統をどう受け止めるかという点にあり、両者とも、現世の絶対的肯定を前提としたうえで、例えば、いかに輪廻からの解脱を根拠づけることができるかなどを共通の問題意識としていたと言われています。

 

一方、煬帝の治世である大業年間(605~618)において、北京南西の房山山頂の石室壁面に刻まれた経文である房山石経(ぼうざんせっきょう)が、天台大師・智顗(ちぎ)の兄弟弟子である静琬(じょうえん)によって、開始されました。

 

周武の法難(574年)による残酷な仏教弾圧などによりいよいよ末法の危機感を強くした静琬(じょうえん)(?‐639)は、経典が焼かれ、後に仏法が伝わらないことを恐れて、一切経を石に刻むことを発願し、房山に大蔵経全部を石に刻む事業を興しました。この壮大な仏教事業は、隋から、唐、遼、金、そして明へと千年に渡り続けられました。また、隋代には、一時、長安で流行した三階教と呼ばれる、インド由来ではない教派も生まれています。

 

 

<唐の仏教>

 

唐(618~907)の建国当初、仏教は、未だ国家の統制下にあり、造寺や度僧(僧の身分が公認された僧侶)の数は制限を受けていました。また、初代皇帝・李淵(高祖)(在位618~626)の時期には、元道士の傅奕(ふえき)による排仏案が何度も献策されていたとされています。

 

傅奕(ふえき)(554‐639)
唐初の官僚で、天文暦法学者(河北省出身)。官途に就く前は、道教の道士であり、激烈な排仏論者としても知られる。北周の通道観・学士となり,道士として隋の漢王楊諒(文帝の5男)に仕え,唐の高祖のとき太史令となった。太史令(たいしれい)は、中国歴代に設置された役職の一つで、当時は天文現象を観測して暦法を推算する職務を管掌した。

 

もっとも、その後、唐の時代、仏教は全盛を極めていきます。特筆すべきは、玄奘(600~664)や義浄(635~713)が西域やインドへ赴き、膨大な仏典をもたらしたことです。玄奘や義浄など仏教の国インドを目指して中国からインドへ旅立ったお坊さんは合計で、61名にも上りました(そのうち故国へ戻れた人はたったの5名で、その多くがインドもしくはその途中で死亡したり行方不明となったりしたとされる)。(義浄の「大唐西域求法高僧伝」より)。

 

玄奘や義浄がもたらした仏典によって、南山律宗や法相宗など、新しい中国仏教の宗派が形成され、また、天台宗や華厳宗、さらには浄土教や禅宗など、それまでに興された宗派もこの時代に大きな発展を遂げました。

 

 

  • 玄奘三蔵

 

紀元7世紀の最も著名な高僧は、玄奘三蔵(600~664)と言っていいでしょう。唐の国禁を破って天竺(インド)へ仏典請来の大旅行を決行し(630~644)、膨大な仏典をもたらしました。帰国後、二代皇帝の太宗(李世民)の庇護を受けて、組織的に漢訳が進められ、76部1335巻に及ぶ経典が翻訳されました。その忠実な逐語訳は、4世紀の鳩摩羅什から玄奘以前までの「旧訳(くやく)」に対し、「新訳」と称されています。

 

では、改めて、玄奘三蔵の生涯をみていきます。玄奘三蔵(602-664)は中国・隋代、洛陽付近で生まれ、唐代を中心に活躍しました。『西遊記』に登場する三蔵法師のモデルとなった実在の人物です。前述したように、三蔵は固有名詞ではなく、多くの三蔵がいますが、とりわけ玄奘に対して使われるようになりました。

 

玄奘の生い立ち

玄奘は陳家の四人兄弟の末子で、彼が10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て出家していた次兄のもとに引き取られ、13歳のときに出家しました。玄奘は25、6歳ころまで高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴し、「倶舎論」「摂大乗論」などを学びました。しかし、修行が深まるにつれて教えに疑念を懐くようになってと言われています。これに対して、各地の高僧はそれぞれ異なる説を立てており、経典を見ても、玄奘の疑問を解くには至らなかったそうです。

 

そこで、玄奘は、仏教修学でおこった疑問点を、天竺(インド)で、唯識の教義の原典に基づいて研究しようと志しますが、当時、唐は鎖国政策を取っており、国の出入りを禁止していました。玄奘は嘆願書を出して出国の許可を求めますが、認められませんでした。

 

インドへの旅

629年、玄奘は、27歳の時、意を決して、密出国により、独力で長安からインドへの旅に出ました(国禁を犯しての遊学)。その道のりは平坦な道ばかりではなく、灼熱のタクラマカン砂漠や極寒の天山山脈、時に盗賊に襲われるなど過酷なものであったことはよく知られています。

 

途中、吐魯蕃(トルファン)地方で栄えた高昌国の使者の懇請で、天山山脈南麓の吐魯蕃(トルファン)に向かい、ここで国王の大歓迎をうけ、インドへ往復する20年間の旅費などの寄進を受けたとされています。

玄奘は、この天山南麓を経由し、ヒンドゥー・クシ山脈を越えて、シルクロードを通り、インド北辺、現在のアフガニスタンから中インドに入り、630年、3年の旅を経て、ついに、中インドのマガダ国(天竺)にあるナーランダー僧院に至り、シーラバドラ(戒賢)法師と対面(一説に634年)しました。

 

以後、そこで(ナーランダー寺院)、戒賢(かいけん)論師に師事して、約5年、瑜伽唯識(唯識説)(「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」)の教えやサンスクリット仏典を学び、更にインド各地の仏跡を訪ねました。

 

635年、玄奘は、いったん師のもとを去り、東インドから南インド、さらに西インドを経由してインド半島一巡するなど諸方を歴訪しました。この間、近辺の諸師につき、例えば、ジャヤセーナ(勝軍(しょうぐん))居士(こじ)のもとで、2年ほど唯識(ゆいしき)の論典を中心に学びました。

 

638年、ナーランダー僧院に戻り、師と再会した後、640年には、東インドのクマーラ王の招聘を受け、王宮に1か月ほど滞在、さらに中インドのシーラーディーティヤ(ハルシャバルダナ、戒日王(かいじつおう))にも招かれました。翌641年、プラヤーガでの75日の無遮大会(むしゃだいえ)に参列したと記録に残されています。

 

こうして、ナーランダ寺院での修学を終え、かつ天竺各地の仏跡を訪ね歩いた後、641年の秋には、帰国の途につきました。そして、645年(一説に643年)、多くの経典、仏像や仏舎利を、20頭の馬の背に乗せ帰国しました。仏像8体、仏舎利150粒などのほか、玄奘が請来したサンスクリット原典は、総計520夾(きょう)、657部と伝えられています。帰路も、過酷な道を再び陸路により戻った玄奘の旅路は3万キロを超えたとされています。

 

帰国後の翻訳事業

唐の皇帝・太宗(李世民)(626~649)は、玄奘が密出国した身でありながら、迎えの使者をだすなど、玄奘を大歓迎しました。

 

玄奘は、645年2月1日、高句麗遠征準備のため洛陽にあった太宗皇帝(李世民)に拝謁、3月に長安に戻り、弘福(ぐふく)寺に住して、持ち帰った仏典の翻訳(準備)に取り掛かります。皇帝からの全面的な支援を受けた玄奘は、645年5月2日「大菩薩蔵経(だいぼさつぞうきょう)」の翻訳に着手しました。

 

さらに、唐の3代皇帝・高宗(在位649~683)は、玄奘に対して大慈恩寺を建て、翻経院を設置し、経典や仏像が焼失するのを避けるため大雁塔を作るなど、彼の翻訳事業のために多大の便宜を図りました。加えて、全国から優秀な僧侶が集められました。

 

このように、皇帝からの全面的な支援を受けた玄奘は、勅令によって、訳場を弘福寺、弘法(ぐほう)院、慈恩(じおん)寺、玉華(ぎょくか)寺に移しながらも、整備された訳経組織のもとに死の直前までつねに翻訳に従事しました。

 

訳出仏典総数は、19年間で、「瑜伽師地論」「成唯識論(じょうゆいしきろん)」など瑜伽唯識の論典や、「大般若波羅密多経(大般若経)」、「倶舎論」など600巻をはじめ、計75部1335巻(76部1347巻)に及びました。この分量は中国歴代翻訳総数の4分の1弱に相当するとされています。

 

鳩摩羅什などの積極的な意訳とは違い、玄奘三蔵の翻訳は、質的な面でも、訳語の統一を図り、原文に忠実に逐語訳がなされた跡がみられたとされています。このため、玄奘より前の西域の訳経僧による翻訳を「旧訳」、玄奘以後の翻訳を「新訳」と区別するようになるなど、中国訳経史上に一時代を画しました。

 

さらに、玄奘は、膨大な訳経(新訳経論)を基礎として、実質的に唯識宗(法相宗)と倶舎宗(抑舎宗)の祖師とされています(法相宗は、「成唯識論」を基本として、事実上、玄奘の弟子の慈恩大師・基(き)(窺基(きき))(632~682)によって開宗したとされる)。

 

なお、帰国直後、帝の求めに応じてまとめられたインド・西域に関する見聞録(旅行記)(地理的な記録書)である「大唐西域記(だいとうさいいきき)」は、7世紀前半の当該地方の地理、風俗、文化、宗教などを知るうえの貴重な史料となりました。大唐西域記は、唐僧玄奘がインド周辺の見聞を口述し、弟子の弁機がそれを筆録したもので、646年に成立し、玄奘三蔵と孫悟空で有名な小説「西遊記」の素材にもなりました(「西遊記」は、13~16世紀頃の成立とみられる)。

 

このように、命を掛けた求法の旅により、中国そして日本の仏教の発展を可能にした玄奘三蔵は、664年2月5日、63歳(一説に65歳。ほか異説あり)で示寂(じじゃく)しました。門下には、前出の基(き)(窺基(きき))や、長安の大慈恩寺で玄奘(げんじょう)の経典漢訳に参加した玄応(げんのう)のほか幾多の俊才が含まれています。

 

 

  • 義浄

 

義浄(ぎじょう)(635~713)は、唐代の中国生まれの訳経僧で、7世紀後半に、海路を利用してインドを往復し、その旅行記「南海寄帰内法伝」を著しました。

 

幼くして出家し、法顕(ほっけん)や玄奘の入竺求法(にゅうじくぐほう)の偉業に倣い、671年、37歳のとき、海路によって南海諸国を巡りインドに渡りました。この時、番禺県(ばんぐけん)(もと百越族の居住地)を同志数十名と出発しようとしましたが、余人は全て辞退したため、義浄一人、広州からペルシア船に便乗してインドに向かいました。

 

義浄の関心は、仏教徒の戒律にあり、これらの諸国で戒律がどのように実践されているかを自分の目で確かめたいと願ったとされています。

 

20日たらずで、東南アジアのスマトラ島とマレー半島を支配していたシュリーヴィジャヤ王国に到着した義浄は、ここに6ヶ月滞在し、サンスクリットの文字とその発音を学びました。シュリーヴィジャヤ王国は中国にたびたび朝貢し、室利仏逝国(後には三仏斉)として知られていました(現在のスマトラ島パレンバンを都としていた)。

 

国王の好意によって近くの小国を訪ねた後、翌672年12月にインドに到着し、鹿野苑(ろくやおん)や祇園精舎を巡拝するとともに、ナーランダー僧院などで13年間勉学しました。

 

鹿野苑:釈迦が悟りを開いてのち最初に説法した(初転法輪(しょてんぼうりん))場所

祇園精舎:須達長者(すだつちょうじゃ)が舎衛国(しゃえこく)の祇陀太子(ぎだたいし)の庭園を買って、釈迦のために寄進した寺院。

 

ナーランダ(那爛陀)寺で仏教の奥義をきわめ、各地を遊歴後、再び海路で帰路についた義浄は、685年にサンスクリットの仏典多数を携えて、室利仏逝(しつりぶっせい)(スマトラ島)のシュリーヴィジャヤ王国パレンバンに戻りました。

 

この時、義浄は、入竺求法僧(にゅうじくぐほう)の伝記をまとめた「大唐西域求法高僧伝(だいとうさいいきぐほうこうそうでん)」や、自らの求法の見聞をまとめた「大唐南海寄帰内法伝(だいとうなんかいききないほうでん)」などを著し、その国の大乗仏教が盛んであった様子を伝えています。

 

両著とも、当時のインドや中国の仏教研究、あるいはインドや東南アジアの南海地方の仏教徒の具体的な生活が詳しく記され、当時の社会や風俗を知るうえで貴重な史料となっています。義浄はこれらの著作を692年に友人に託して朝廷に献上し、自身は、694年にシュリヴィジャヤを離れ、翌695年、25年間に及ぶ30余国の遊歴を終え、広州に到着しました。

 

女帝・武則天(則天武后)(在位690~705)は、洛陽にきた義浄を、自ら洛陽の上東門外に出迎え、勅によって仏授記寺に迎え入れたと言われています。

 

義浄によって、400部、50万頌のサンスクリットの経律論のほか、金剛座、舎利300粒なども齎(もたら)され、経典は漢訳されました。この中には、インドから新たに根本有部(うぶ)の戒律文献も含まれていました。

 

訳経は、国家事業として洛陽・長安の大寺や内道場で行なわれ、実叉難陀(じっしゃなんだ)・阿儞真那・波崙らの西域渡来の僧が訳経を担当しました(武則天自らも序を著した)。漢訳された経典は、華厳経、唯識・密教などの仏典56部330余巻に及びました。

 

帰国後の漢訳事業で、中国仏教界に大きな功績を残し、三蔵の号を賜った義浄も、713年、79歳で亡くなりました。法臘(ほうろう)(僧尼の出家受戒後の年数)59でした。

 

 

  • 玄奘と義浄後の仏教

 

このように、玄奘(602-664)や義浄(635~713)の活躍(功績)によって、仏教が社会に浸透し、多くの宗派が布教活動に従事していました。

 

このうち、天台宗は、創設された北朝の北斉から隋唐の時代に拡大を続け、華厳宗も法蔵(643~712)によって大成しました。東晋の時代(317~420)に慧遠が興した浄土教は、前述したように、特に7世紀の道綽(どうしゃく)・善導(613~681)らによって大成しました。

 

その後、密教が、善無畏(637~735)と金剛智(669~741)によって伝えられ、8世紀には、不空(706~774)が密教を大成させました。なお、不空の弟子の恵果の密教は、真言密教として日本の空海に伝えられることになります。

 

一方、禅宗は、第五祖弘忍(602~674)以後、南北二宗(北宗禅と南宗禅)に分裂しました。分裂当初は、長安を中心とした唐の中心部、都市部に教線を張った神秀(?~706)の北宗が優勢でしたが、神秀の下を出た荷沢神会(684~758)が慧能に参じ、南宋が主流となっていきました。その後も、紀元9世紀は、黄檗希運(? ~850)・臨済義玄(?~867年)・趙州従諗(778~897)らの南宗禅が盛んとなっていきました。

 

これらの宗派の中で、唐代中期以後は、禅宗と浄土教、さらに密教が伸張しました。また、この時代、仏教信者の多い宦官勢力に影響されて、仏教を崇敬する皇帝が多く現れました。安史の乱後の第14代皇帝憲宗(在位805~820)も、そういった皇帝の一人でした。憲宗は、30年に一度しか開帳されない法門寺の仏舎利を長安に迎えて盛大な法会を執行しています。

 

 

  • 会昌の廃仏

 

このように、中国仏教は唐の時代、最盛期(黄金時代)を迎えました。しかし、憲宗が仏教を崇敬したという事実は既に紹介しましたが、当時、仏教は貴族層を中心に受けいられていたのに対して、道教は唐王朝の王室が信仰し、国教として保護されていました。このため、仏教と道教とはたびたび対立しました。

 

唐の後半の845年には、唐の武宗(ぶそう)(在位840~846))が、道士(道教の職業専門家)らの建議によって、「会昌の廃仏」(841~846)といわれる廃仏を行いました(武宗自身も、道教を信仰して不老長寿の薬を求めるなどに熱心だったと言われている)。

 

多くの仏教寺院が廃寺とされ、僧尼が還俗させられ、中国の仏教は、大きな痛手を受けました。「三武一宗の法難」と呼ばれる廃仏の三番目となったこの仏教弾圧は、もっとも規模が大きく、影響力も大きいと言われています。

 

王朝が過度に仏教を肩入れしたため、造寺などで出費が増えてしまったことに対する反発や、荘園その他の寺領を収公し、還俗させた僧尼からは、課税されない特権を奪うことによって、税収を上げようとしたことが背景にありました。

 

会昌の法難によって、国家の統制の中に組み込まれていた仏教教団に対する国家的保護の時代が終わるとともに、仏教の勢力は急速に衰えることになりました。仏教だけに限らず、唐代に栄えた外来宗教である景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教(祆教)、摩尼(マニ)教がいずれも中国で実質的に消滅するきっかけとなったと解されています。

 

弾圧自体は、武宗の治世のみで取りやめられ、次の宣宗(在位846~859)以降、仏教は復興することとなりました。しかし、この時期、唐代自体が安史の乱以降、各地の節度使勢力によって中央集権的な求心力を失っていたこともあり、往日の長安を中心に繁栄した様が再現されることはありませんでした。やがて、黄巣の乱を契機として、唐代は一気に衰亡の一途をたどっていきました。

 

一方、中国には主に大乗仏教が北伝仏教として伝えられましたが、仏教のシルクロード伝播は、7世紀にムスリムのイスラム帝国(カリフ国)が中央アジアに侵入したことに伴って衰え始めました。タリム盆地で発見されたフレスコ画などから、タリム盆地の中央アジア人仏僧と東アジア人仏僧とは10世紀頃にも盛んに交流していたと見られていますが、総じて、西域における仏教も衰退していきました。

 

それに伴い、中国仏教は、次第にインド仏教的な要素は弱くなり、宋代に仏教諸派が衰微する中、前述したように、浄土宗や禅宗が盛んになっていきました。

 

 

<五代十国時代の仏教>

 

唐が滅び、宋が再び中国を統一するまでの時代は、五代十国時代(907~960)と呼ばれる分裂時代となりました。五代とは、中国北部で興亡した以下の5つの王朝をいいます。

 

後梁(907~923

後唐(923~936)

後晋(936~946)

後漢(947~950)

後周(951~960)

 

また、十国とは、その他の地域で併存した、前蜀(891‐925)、後蜀(934‐965)、呉(902‐937)、南唐(937‐975)、呉越(907‐978)、閩(びん)(909‐945)、荊南(けいなん)(907‐963)、楚(907‐951)、南漢(909‐971)、北漢(947‐950)などを指します。

 

 

  • 後周の法難

 

唐代の会昌の廃仏(845年)の大きな打撃がありましたが、華北では後梁の太祖(大明節の行香)、後唐の荘祖(誕節の千僧斉)、後晋の高祖(国忌の行香)、後周の太祖(誕節の行香)はそれぞれ仏教行事を行い、その他の地域でも、呉越の杭州、南唐の金陵(南京)、閩の福州で仏教が隆盛となりました。

 

しかし、五代最後の後周(951~960)の世宗による廃仏の大法難(後周の法難)が、955年に起こり、中国の仏教教団は、四度目の激しい痛手を受けました(三武一宗の廃仏の第4回目)。

 

三武一宗の法難(四大法難)の最後の激しい法難となり、3300余寺が廃寺となりました。それまでの3つの大法難と比して特徴的なことは、道教と対立ではなく、国家財政が逼迫したために引き起こされたとされています。前述したように、仏教僧侶は租税と兵役が免除されていたので、僧侶や寺が増えると国家財政を逼迫したのです(国力にも影響を与える)。また、僧侶の特権を利用しようとする安易な動機による出家も増えて、堕落した僧侶も多くいたとされています。

 

ここまでの、中国仏教の発展段階をみると、インドでは豊かな商人らが仏教教団を布施という形で経済的に支援しきましたが、中国文化圏にはそういう風習はなく、各王朝が国家財政で仏教教団を支えてきました。このため、中国においては、僧侶や寺院が増えるとそれだけ国家財政は逼迫し、それが廃仏の要因ともなったりするなど、仏教は王朝の盛衰や滅亡に影響を受けてきたことがわかります。

 

<関連投稿>

<関連投稿>

中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ

中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服

中国仏教史③ (魏晋南北朝2):鳩摩羅什と法顕 大乗仏教の本格的な受容

中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

中国仏教① 中国十三宗とは?:経・律・論で区分

中国仏教② 浄土教:阿弥陀仏の極楽浄土を求めて…

中国仏教③ 毘曇宗 (俱舎宗):中国にも伝わった上座部仏教

中国仏教④ 律宗:教義のない戒律だけの専門宗派

中国仏教➄ 禅宗:達磨から始まった中国起源の宗派

中国仏教⑥ 天台宗と涅槃宗:根本経典は法華経と涅槃経

中国仏教⑦ 三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!

中国仏教⑧ 法相宗と摂論宗:インド唯識派を継承!

中国仏教⑨ 華厳宗と地論宗:唯識から総合仏教へ

中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!

中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る(中国編)(BIGLOBE)

中国仏教(世界史の窓)

中国の仏教(Wikipedia)

玄奘(世界史の窓)

玄奘とは(コトバンク)

玄奘(Wikipedia)

義浄(世界史の窓)

義浄とは(コトバンク)

義浄(Wikipedia)

 

(2022年7月18日)