浄土教:阿弥陀仏の極楽浄土を求めて…

 

中国仏教の13宗(毘曇宗,成実宗,律宗,三論宗,涅槃宗,地論宗,浄土宗,禅宗,摂論宗,天台宗,華厳宗,法相宗,真言宗)の中の浄土宗についてまとめました。日本でも平安時代に浄土信仰が盛んとなり、鎌倉時代には浄土宗と浄土真宗が生まれました。

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<浄土教(宗)とは?>

 

仏教の浄土信仰(浄土思想)から生まれた浄土教は、2世紀後半から浄土教関係の経典が中国に伝えられ、東晋 (とうしん)(317~420)時代に廬山の慧遠(えおん)が結社化した後、宋代(960~1279)にかけて、中国仏教の主流となりました。

 

浄土信仰(浄土思想)とは、観仏(仏のすぐれた姿を心に念じて、安定した状態に入ること)や念仏によって、苦難に満ちた現世から離れ、阿弥陀仏 (あみだぶつ) の信仰による極楽浄土へ往生し、成仏することを願う信仰(思想)です。阿弥陀仏は西方浄土を創り、そこにすべての衆生を導くことを誓願し本願としたと説かれました。

 

このような浄土信仰(浄土思想)に基づく仏教の一派を浄土教といい、宗派としては浄土宗といいますが、本家のインドにおいても、中国においても、浄土信仰(阿弥陀信仰)は、(組織化された)一つの宗派として独立したものとはなりませんでした(ゆえに、本稿において、浄土宗ではなく、浄土教と表記する)。

 

 

<インドでの成立>

 

浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代と推定されています。浄土教の起源には、インド説,西方説がありますが,紀元100年頃に、阿弥陀仏信仰を説く「観無量寿経」と「阿弥陀経」が編纂されたのを契機としていたとされ、1〜4世紀にかけて、北西インドで広く展開したいたとみられています。ただし、繰り返しになりますが、インドでは宗派としての浄土宗が成立されたわけではありませんでした(中国では、浄土教として、独自に発展にした)。

 

  • 無量寿経(大経)

 

無量寿経(むりょうじゅきょう)は、霊鷲山で釈尊が阿弥陀仏について説法するという内容で、法蔵比丘の誓願とその完成や、極楽世界が描かれています。およそ100年(1世紀)ごろ北西インドで編纂されたと推定されています。サンスクリット語の原題「スカーヴァティー・ヴィユーハ」(「極楽の荘厳」という意)は、「阿弥陀経」と同一呼称なので、「無量寿経」を「大経」、「阿弥陀経」を「小経」,と呼んで区別されています。

 

サンスクリット原典だけでなく、チベット語訳、漢訳が現存しますが、日本では特記が無い限り「無量寿経」というと、康僧鎧の訳とされる「仏説無量寿経」の事を示し、浄土宗や浄土真宗では根本所依の経典とされています。その内容は以下のような説話でした。

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遥か久遠の昔、ある国王が、無上なる悟りを得ようと志し、出家して法蔵(ほうぞう)比丘と名乗ると、生きとし生ける者を救済するための本願として四十八願をたて、師仏・世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで、長い間修行を重ねたのち本願を完成(成就)させ、(成仏して)阿弥陀仏(無量寿仏)となった。

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「無量寿経」では、さらに、阿弥陀仏(法蔵)が住して、説法している西方(さいほう)の極楽浄土の荘厳さが描写され、この極楽への往生を願う人々に、念仏を中心とした種々の実践法によって、いずれも浄土に往生しうることを説き明かしています。

 

全体として、浄土教信仰をもっとも組織的に説いたもので、この経典によって浄土思想が確立したとされます。特に、日本では浄土教諸宗派の所依の経典とみなされたため広く流布し、本経の注釈書、解説書等も非常に多くあります。

 

法蔵菩薩

法蔵菩薩(法蔵)は、阿弥陀仏が菩薩であったときの名前(阿弥陀如来の前身)で、もと仏である人が、衆生救済のため菩薩の姿となり修行しました(法蔵とは「法の根源」あるいは「法の堆積」といった意味)。後に、世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで本願を立て、阿弥陀仏となったと伝えられています。

 

 

  • 阿弥陀経(小経)

 

阿弥陀経は、阿弥陀仏信仰を説く大乗仏教経典の一つで、1世紀頃に成立したと推定されています。日本では「無量寿経」と「観無量寿経」とともに「浄土三部経」と言われていますが、「阿弥陀経」はこのなかで最も早く成立していたと見られています。

 

サンスクリット語の原題「スカーヴァティー・ヴィユーハ」(「極楽の荘厳」という意)は、「無量寿経」と同一呼称なので,「阿弥陀経」を「小経」,「無量寿経」を「大経」と呼びます。鳩摩羅什(くまらじゅう)(クマーラジーバ)と玄奘の漢訳がありますが、中国、日本ではその流麗な訳文とあいまって、402年ごろに漢訳された鳩摩羅什訳のほうが用いられています。

 

ですから、中国や日本において、阿弥陀経とは、一般に「仏説阿弥陀経」(鳩摩羅什訳)をさし、日本の浄土教諸宗派では、特に阿弥陀経を、所依の根本経典の一つとして重視され、最も多く読誦(どくじゅ)されていると言われています。

 

阿弥陀経では、浄土往生思想が次のように簡潔平易に明らかにされました。

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釈迦(仏)が、阿弥陀仏の国土である西方極楽浄土の名号(みょうごう)を唱えて(名をあげて)、西方極楽浄土を称え、その優れた荘厳なありさまを描写した。その上で、この浄土に往生するために、阿弥陀仏の名号を一心に念ずること(称名念仏)を勧めると、六方世界の諸仏も、これを称賛・証明し、念仏による往生が説かれるようになった。

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  • 観無量寿経(観経)

 

観無量寿経は、釈迦が阿弥陀仏とその浄土の荘厳などを観想する16種の方法を説いた経典で、「観経」と略称されます。中国では、5世紀頃、西域出身で、劉宋(南朝の宋)の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)による漢訳(1巻)によって伝えられました。

 

観経(かんぎょう)と略される「観無量寿経」 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、漢訳のほかウイグル訳の断片が存するのみで,インドでは成立していなかったと見られています。4~5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されて漢訳されたか、または、中央アジアで成立した観法(かんぼう)(心に仏法の真理を観察すること)を素材として中国で撰述(せんじゅつ)されたと推定されています。

 

観無量寿経には、西方極楽浄土が描かれ、次のように信仰が高揚されています。

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インドのマガダ国,ビンビサーラ国、舎城(おうしゃじょう)(ラージャグリハ)において、太子・阿闍世(あじゃせ)(アジャータシャトル)が、父王・頻婆娑羅(びんばしゃら)(ビンビサーラ)を幽閉し悪逆を尽くした。

 

これを悲しんだ母后・韋提希(いだいけ)(バイデーヒー)が救いを求めると、釈尊(ブッタ)は、神通力をもって十方の浄土を示し、阿弥陀仏と西方(さいほう)極楽浄土を観想するための13種の観法(かんぼう)(心に仏法の真理を観察すること)を説いた。さらに、衆生(しゅじょう)が阿弥陀仏の浄土に生まれるために、三福(さんぷく)(善行)と十六観想(16の観法)を行うことが説かれた。

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観無量寿経は、中国において隋・唐代に広く流布し、慧遠(えおん)や善導(ぜんどう)だけでなく、天台宗の智顗(ちぎ),三論宗の吉蔵による注疏(ちゅうしょ)(解説書)があります。

 

とくに善導(ぜんどう)(613―681)は、「観経四帖疏(かんぎょうしじょうしょ)」を撰述し、観無量寿経の主意は、称名(しょうみょう)念仏による凡夫(ぼんぶ)の往生を説き、その後の、中国・日本の浄土教の発展に大きく影響しました。日本では、法然(源空)がこれを受け継がれていったのです。

 

このように、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の3仏教経典は、日本の浄土宗の開祖法然が、「浄土三部経」と命名し、それ以来,日本の浄土宗系宗派の根本聖典となっています。

 

なお、浄土往生の思想を強調した論書や注釈書も古来非常に多く、龍樹(150~250頃)の「十住毘婆沙論」「易行品」や、天親(世親)(400頃~480頃)の「無量寿経優婆提舎願生偈」(「浄土論」・「往生論」)があります。とりわけ、天親(てんじん)の「浄土論」は、後に中国の曇鸞(どんらん)の註釈を通じて後世に大きな影響を与えたとされています。

 

 

<浄土教を広げた中国の高僧たち>

 

前述したように、浄土思想は、2世紀後半頃に、中国に伝わったとされ、それ以降、漢訳が行われた浄土経は広く研究されましたが、浄土教(浄土宗)そのものは、東晋 (とうしん)(317~420)時代、廬山の慧遠(えおん)に始まったとされています。

 

 

  • 慧遠(えおん)

 

慧遠(334~416)は、402年、廬山の東林寺で門下123人とともに、白蓮社という念仏結社を興し(後に、これが中国浄土宗の創始とされる)、初期の中国浄土教の主流となりました。精神統一によって仏の姿を現前に見る(見仏)ことを説く「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」に基づいて、念仏三昧の修行の中で、阿弥陀仏浄土への往生(極楽浄土に生まれること)を誓願したとされています。禅観と念仏とが一体となり、見仏三昧に入ることが説かれました。

 

なお、「般舟三昧経」は、紀元前後に成立した最初期の大乗仏典のひとつであり、浄土経典の先駆とみられています。

 

ただし、浄土教(浄土宗)として、その信仰が深められ、大成したのは、6世紀から7世紀にかけて(南北朝から隋、唐の時代)出た、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしゃく)、善道(ぜんどう)らによるとされています。

 

 

  • 曇鸞(どんらん)

 

曇鸞大師(476~542)は、初め、三論宗系の「空」の思想や、仏性思想(誰もが仏に成りうる仏性を持つとする)の研究者で、また途中、道教を学び、不老長寿を願い神仙思想にも傾いていたと言われています。しかし、後に、洛陽で、インド僧で地論宗の祖でもある菩提流支(ぼだいるし)から「観無量寿経」を授かり、50歳を超えて深く浄土教に帰依しました。

 

山西省の玄中寺(浄土経の祖寺とされる)に住した曇鸞は、天親(世親)の「浄土論」(「往生論」)を注釈した「無量寿経優婆提舎願生偈註(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげちゅう)」(=「浄土論註」・「往生論註」)を撰述(書物を著すこと)するなど、曇鸞は、「無量寿経」「観無量寿経」の説法を通して浄土教の基礎を築きました。

 

また、曇鸞は、心に阿弥陀浄土を観想するといった観念の念仏から口で唱える念仏を説いた思想家としても知られ、日本の浄土宗誕生にも多大の影響を与えたとされています。

 

 

  • 道綽(どうしゃく)

 

曇鸞の教えを継いだ道綽(562~645)は、玄中寺に入り、念仏を広め、浄土信仰を深めました。48歳で曇鸞の碑に彫られた碑文に感じて浄土信仰に入ったと言われ、曇鸞の教えをより実践的なものに発展させたとされています。

 

若くして、北周武帝の廃仏を体験した道綽は、末法の世においては、煩悩を断ち切れない凡夫は罪悪にまみれて生きなければならないので、そのような衆生が救われる道は、阿弥陀仏の慈悲・本願に頼るしかなく、そのためにはすべてを捨ててひたすらに念仏を唱えることを説きました。自らは一日七万遍を唱え、人々には小豆をもって数える「小豆念仏」をすすめたと言われています。

 

道綽はまた、仏道修行を、難行道の聖道門(しょうどうもん)と、易行道の浄土門の二門に分け、末法の世には、「仏説無量寿経」、「仏説観無量寿経」、「仏説阿弥陀経」(日本では「浄土三部経」という)をよりどころとする、浄土門の易行道としての念仏による浄土往生を説きました。

 

末法の世は穢土であり、衆生は自らの力で、煩悩を自力で断ち切り、悟りの世界へ到達することは難しいと考えるようになってくると、すべての人間は、仏に成りうる仏性を備えているのだから、衆生は、「すべての人を必ず救う」と約束したという「阿弥陀如来の本願」に頼ることで成仏できるという考え方が広がってきました。

 

また、同時期に成立した禅宗は、自力による難行道を究めようとしたことに対して、浄土教は、一切を阿弥陀仏によって救済されることを信じる他力本願で、誰でもできる易行を説いて民衆に広がっていきました。

 

なお、道綽の撰述による「観無量寿教(仏説観無量寿経)」を解説した「安楽集」は、この仏教を聖道と浄門の二門に分けて説いた最初の著作でした。

 

 

  • 善導 (ぜんどう)

 

道綽の門に入り、道綽の教えを継いだ善導(613~681)は、「観無量寿経疏」(「観経疏」)を撰述(書物を著すこと)し、「仏説観無量寿経」(観無量寿経の漢訳)は「観想念仏」ではなく、一心専念に阿弥陀仏の名を念じる「称名念仏」を勧め、凡夫(ぼんぶ)の往生を説いている教典と説きました。

 

こうして、道綽と善導によって、曇鸞の念仏思想にその源を発した浄土思想は深められ、阿弥陀仏を「称名念仏」する浄土教の教理が完成(浄土宗は大成)しました。

 

 

以後、浄土教を専ら弘めていったのは、この道綽・善導の念仏思想(日本では「道綽善導流」と区分)で、日本の浄土宗もこの流れを源流としています。もっとも、この一派とは別に、慧日や法照などもでて、浄土教の発展に寄与しました。

 

  • 慧日(えにち)

 

慧日(恵日)(680~748)は、唐代の僧で,浄土教・慈愍流の開祖です(玄宗より賜った慈愍(じみん)(じびん)三蔵という号がある)。義浄のインド求法の業に感激して,みずから海路インドへの仏跡巡拝の旅に出た。18年間で70余国を巡礼して,陸路719年に長安に帰着しました。

 

慧日が始めた、いわゆる「慈愍流」は,禅と念仏を併修する念仏禅で、その特色は讃歌による宣揚にあり、とくに、精神統一によって仏の姿を現前に見る(見仏)ことを説く「般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)」にもとづく浄土教に重点がおかれているとされています。

 

慧日の教団(慈愍流)の発展は、仏教を知的な教理中心の学問から、情操的な宗教へと転回させるきっかけになり、宋以後の浄土教に大きな影響を与えたと評されていますが、中国ではその思想は主流とはなりませんでした。

 

 

  • 法照(ほっしょう)

 

高徳七人の一人に数えられる南岳承遠(しょうおん)(712~802)の高弟であった法照は、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し(それゆえ五会法師と称された)、8世紀後半の代宗・徳宗の治世に、南岳・五台山・太原・長安などの地域に、弥陀念仏教を広めました。

 

浄土教伝道史上、道綽(どうしやく),善導に比肩すべき教化の成績をあげたと言われています。善導からの影響も大きく、「後善導(ごぜんどう)」とも称されています。著書に、「浄土五会念仏誦経観経儀」、「浄土五会念仏略法事儀讃(五会法事讃)」などがあります。

 

法照の五会念仏讃の教えは,法照が住した五台山の般舟道場を巡礼し影像をも拝した円仁によって日本に伝えられ,比叡山常行堂を中心に平安時代に流行したと言われています。

 

 

<浄土教のその後>

 

浄土教が盛んになった背景には、中国仏教の初期の南北朝時代に始まった末法思想があります。中国では、この時代、たびたび廃仏が行われ、仏教は弾圧されました。実際、唐の時代、「会昌の法難」に代表される仏教弾圧が実施されるなど、浄土教(浄土宗)の取り巻く環境は厳しい一面もありました(そのことをブッダの教えが行われなくなる末法の時代が到来したと認識された)。

 

しかし、宋代に入ると、浄土教は、民間の仏教として、平易な念仏を手段に民衆に広まり、禅宗と並び、中国仏教の主流となりました。宋の太祖は、960年、建国と同時に廃仏停止を命じ、訳経院や印経院を建立するなど、法難によって弾圧された仏教を復興させました。また、浄土宗の系統は、蓮教とか白蓮教といわれ、南宋末には弥勒仏信仰と結びついて民間教団を作っていったとされています。

 

これに対して、他の宗旨は衰えていきました。中観や唯識のように難解な学問を説いたり、凡人にはなしえないような修行をしたりする宗旨は、民衆の支持を得られにくくなっていったからです。逆に、これまでの仏教は、台浄双修(天台と浄土)、戒浄双修(律宗と浄土)といったように、浄土経に融合していきました。(浄土経と禅宗の融合もあった(禅浄双修))。

 

とりわけ、明代には、慧日や善導の浄土教を基盤に、株宏が念仏と禅とが本来一体であるという禅浄一致説を説いたこともあって、中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなっていきました。これが、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となったとされています。

 

袾宏(しゅこう)

袾宏(1535~1612/1615)は、明代を代表する杭州出身の高僧で、明代に盛んになった、念仏と禅を融合させる禅浄一致を説く仏教者の代表的な存在です。さらに、禅と浄土だけでなく華厳と戒律も加えた総合的仏教を唱えました。加えて、儒教が隆盛であった明末の時代、儒学が至らない部分を仏教が分担するという儒仏道三教の調和も説きました。杭州の雲棲(うんせい)山に住持したことから雲棲袾宏とも呼ばれました。

 

このように、インドで生まれた阿弥陀仏信仰は、中国において浄土教という形で確立しましたが、中国では一つの宗派として独立したものとはなりませんでした。しかし、いろいろな宗に属する人々が盛んに阿弥陀浄土を信仰していたと言われ、浄土教は多方面に多大な影響を与えました。日本では、鎌倉時代に法然が浄土宗を興し、独立した宗派として大成させました。

 

 

<関連投稿>

中国仏教② 浄土教:阿弥陀仏の極楽浄土を求めて…

中国仏教③ 毘曇宗 (俱舎宗):中国にも伝わった上座部仏教

中国仏教④ 律宗:教義のない戒律だけの専門宗派

中国仏教➄ 禅宗:達磨から始まった中国起源の宗派

中国仏教⑥ 天台宗と涅槃宗:根本経典は法華経と涅槃経

中国仏教⑦ 三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!

中国仏教⑧ 法相宗と摂論宗:インド唯識派を継承!

中国仏教⑨ 華厳宗と地論宗:唯識から総合仏教へ

中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!

中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ

中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服

中国仏教史③ (魏晋南北朝2):鳩摩羅什と法顕 大乗仏教の本格的な受容

中国仏教史④ (魏晋南北朝3):末法思想と三武一宗の法難の始まり

中国仏教史➄ (隋唐):玄奘と義浄 最盛期の中国仏教へ

中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

 

<参照>

浄土教(新纂浄土宗大辞典)

浄土教の世界3.中国の浄土教(企業OBペンクラブ)

仏画 法蔵菩薩 (大津絵の店)

浄土教/浄土宗(世界史の窓)

浄土教とは (ことばんく)

浄土教(Wikipedia)

 

(2022年4月9日)