律宗:教義のない戒律だけの専門宗派

 

今回は、中国仏教の13宗(毘曇宗,成実宗,律宗,三論宗,涅槃宗,地論宗,浄土宗,禅宗,摂論宗,天台宗,華厳宗,法相宗,真言宗)の中の律宗についてまとめました。

★☆★☆★☆★☆

 

<中国における律宗とは?>

 

律宗(りっしゅう)は、戒律(律部経典)の講究と実修を行う宗派で、戒律を重視し、律蔵の研究を進める人たちによって開かれました。北伝仏教・大乗仏教の宗派の一つ。隋の都、揚州に本山が置かれました。

 

(りつ)とは、毘奈耶(びなや)の漢訳(サンスクリット語ビナヤの音訳)で、僧団(サンガ)に属する出家修行者(比丘・比丘尼)の守るべき規範(釈尊によって定められた禁止と罰則に関する条項)です。その僧団内の(道徳や生活様相も含む)規則である「律」をまとめた集成書が律蔵で、インドから中国へ伝えられました。

 

中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われていました。具体的には、東晋(317~420)の時代に、仏僧が日常生活で守らなければならない戒律が書かれた経典(律部経典)や律蔵が漢訳されると、戒律に関する研究が盛んとなり、戒律だけを専門に研究する律宗が成立しました(その後、朝鮮や日本にも伝えられた)。

 

そもそも律典(律についての法典)は、「戒本(かいほん)」、「広律(こうりつ)」、「羯磨(こんま)」に分けられます。戒本(かいほん)とは、出家者が受け持たなくてはならない禁戒(250戒)の条文のみを集めた書物です。広律(こうりつ)とは、戒本に対していう用語で、戒本の条文を、その由来を含めて注釈細説したものです。また、僧伽(そうぎゃ)(教団)の行事など運営法についても詳しく説明されています。羯磨(こんま)は、広律の中の僧伽(そうぎゃ)(教団)運営の上で必要な作法部分を抄録したもので、中国で多くがまとめられました。

 

中国の律宗は、インドで成立した五部の律(五部律)のうち、四部の広律(こうりつ)を翻訳・研究したのが始まりです。

 

インドの仏教教団が分裂した部派仏教時代に、法蔵部や大衆部などの部派は、それぞれ僧団の規則、道徳、生活様相などをまとめた律蔵を所持していました。インドの五部律(ごぶりつ)とは、以下の5部をいいます。

 

インドの五部律

法蔵部の「四分律(しぶりつ)」

説一切有部の「十誦律(じゅうじゅりつ)」

化地部の「五分律(ごぶんりつ)」

飲光部の「解脱律」

大衆部の「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」

 

このうち、中国で翻訳された四部の広律とは、四大広律とも呼ばれ、飲光部の解脱律を除いた、四分律、十誦律、五分律、摩訶僧祇律をさします。これらはすべて、戒本の条文を注釈細説した広律なので、内容の骨格はほぼ同じですが、細かな点においては相違がありました。

 

中国では、四部の広律を比較研究した結果、法蔵部の「四分律(しぶりつ)」が最も重んじられ、律宗は「四分律」を所依(しょえ)として開宗されました。それゆえ、律宗は、四分律宗ともいいます。さらに、南山律宗、相部宗(そうぶしゅう)、東塔宗(とうとうしゅう)といった律宗系の宗派が唐代に成立しました。

 

 

  • 法蔵部の「四分律」

 

四分律

四分律(しぶりつ)は、部派仏教時代、上座部の法蔵部(曇無徳部)が伝えた60巻よりなる律典で、五胡十六国時代の後秦(384~417)の時代、法蔵部の僧、仏陀耶舎(ぶっだやしゃ)によって漢訳されました。

 

仏陀耶舎(ぶっだやしゃ)は、4~5世紀のインド(カシュミール)の僧で、当時、亀茲(きじ)(クチャ)からきた鳩摩羅什の師として教え、後に、鳩摩羅什に招ぜられて408年長安に入りました。長安では、中寺に住し、410年から412年にかけて「四分律」」四分戒本」「長阿含経」を漢訳しました。仏陀耶舎は、大小乗経数百万言を記憶したといわれ、「四分律」も自己の暗記に基づいて訳したと言われています。

 

四分律の内容は、初分より第四分にわけられ(ゆえに四分律の名称がある)、戒を受けた男女の修行僧である比丘(びく)、比丘尼(びくに)に対する戒律や、受戒・説戒・安居・自恣(じし)など広範囲におよび、その説明は過不足がなく、行き届いていると評価されています。

 

受戒(じゅかい)

仏教の教団に加入するために、仏教に帰依する証として、出家、在家の別を問わず、遵守すべき戒めを受けること(これを「戒律を受持する」という)、またそのための儀式をいいます。

 

説戒(せっかい)

戒律を読み聞かせること。律の作法として、毎月、半月の終わりの日に、同一地域の僧を集めて、戒本を読み聞かせ、半月間に犯した罪を反省懺悔させる行事。

 

安居(あんご)

1か所に集まって集団で修行すること。それまで個々に活動していた出家修行者たちが、雨期に、一定期間、1か所に滞在し、外出を禁じて集団の修行生活を送ること、および、その期間のことを指す。

 

自恣(じし)

一般に夏安居(げあんご)の最後の日(7月15日)に、集会した僧が安居中の罪過の有無を問い、反省懺悔しあう作法。

 

 

法蔵部が伝えた四分律は、当初、説一切有部(せついっさいうぶ)の十誦律(じゅうじゅりつ)に押されて、研究されませんでした。というのも、中国における律学は、当時、鳩摩羅什らが訳出した十誦律が主流を占め、羅什の弟子たちが長安で勢力があったからです。

 

しかし、北魏(386~534)の時代、法聡(生没年不明)が、四分律宗を開宗し、その後、地論宗の(開祖である)慧光(えこう)(468~537)が「四分律疏」を著して、四分律宗の基をなし律宗の勢力を拡張させました。(「疏」は、注釈をさらに細かく説き明かした書物)ゆえに、法聡と慧光は四分律宗の祖とも言われ、律宗は、中国で慧光(恵光)以後,四分律をもとに開かれた学派とその系統という言い方が可能です。

 

その後、隋唐代に至って、道宣(どうせん)の南山宗、法礪(ほうれい)の相部宗、懐素(かいそ)の東塔宗の三宗が成立しました。

 

慧光の系統に属していた道宣(596―667)は、唐初、終南山に住して、四分律をもとに戒律の行事を解説した名著「四分律行事鈔」3巻(律三大部)をはじめとする戒律学の5大部を著して、南山律宗を開き、律宗を大成させました(南山大師と呼ばれる)。

 

また、645年に、玄奘(げんじよう)がインドから帰国すると,道宣は、招かれて長安弘福寺での仏典翻訳事業に参加し,祇園精舎の制に模した西明寺が658年に完成すると,その上座に招かれました。なお、道宣の門下からは、周秀・道世・弘景らの名僧が出て、さらに、日本律学の実質的な祖と目される鑑真は、道宣の孫弟子です。

 

一方、「四分律」を研究した法礪(ほうれい)(569~635)が、唐代に、「四分律疏(しょ)」を出し、四分律の宗である相部宗(そうぶしゅう)を開きました。また、その弟子の懐素(かいそ)(624~697)は、法礪の「四分律疏(しょ)」を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗しました。

 

道宣の南山宗、法礪(ほうれい)の相部宗、懐素(かいそ)の東塔宗の3宗のうち、その後、相部宗と東塔宗は衰退しましたが、南山律宗は、宋代に至っても、「会正記」著者の允堪(いんたん)や、「(四分律行事鈔)資持記」著者の元照が出て、盛んに伝持されました。

 

特に、元照(がんじょう)(1048~1116)は、道宣の南山律を再興し(南山律宗の一六祖と仰がれる)(元照の中興)、資持派を立て、同じ律宗系の允堪(いんたん)の会正(えしょう)派と対しました。また、戒律と浄土教の研鑽と教化に励み、両者の双修・融合に尽力しましたことでも知られています。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳しましたが、律宗の展開には影響しなかったと言われています。

 

 

<四部律以外の律典>

では、以下に、中国に伝わった四部律以外の律典について解説します。

 

  • 十誦律

十誦律(じゅうじゅりつ)は、部派仏教の説一切有部(せついっさいうぶ)(薩婆多部)の律です。

 

「十誦律」61巻は、北インド出身の弗若多羅(ふにゃたら)が、十誦律を暗記していたことから、鳩摩羅什(羅什三蔵)が、404年に、弗若多羅の暗記に基づいて漢訳を始めました。しかし、その3分の2を訳した時、弗若多羅が死去したため、翻訳作業は中断してしまいました。しかしその後、西域出身の僧で、405年に長安にきた曇摩流支(どんまるし)が十誦律の梵本(ぼんぽん)(インドの本)を持っていたので、鳩摩羅什は曇摩流支と共に残りの翻訳を完成させました。ただし、訳文を刪煩(さんじゅ)(校正)しないうちに鳩摩羅什が没したので、その後、羅什の律の師であった卑摩羅叉(びまらしゃ)がこれを校訂して、61巻として、十誦律を409年頃、完成させたと言われています。

 

鳩摩羅什の没後は、羅什の弟子たちが長安では主流となって栄えていました。そのため、前述したように、中国では、410年頃から500年頃までは、もっぱら、羅什が翻訳した十誦律が研究され、十誦律に基づいて律の実践が行われていました。ただし、四分律に対して十誦律は、アビダルマ的(注釈書的)的な問答分別が多く、説明が煩雑で、直ちに意味を取りにくいという指摘され、後に四分律が中国律宗の主流となったことはすでに述べた通りです。

 

 

  • 摩訶僧祇律

 

摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)(僧祇律)(40巻)は、仏教の大衆部(摩訶僧祇部)に継承されてきた律(規律)です。416年から418年の間に、北インドの僧、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)(359~429)と、法顕(ほっけん)(337~422)により共訳され、東晋時代(317~420)の中国大陸で成立した律蔵の一つとなりました。

 

摩訶僧祇律は、戒文(条文)の解釈に重点がおかれ,四波羅夷法(しはらいほう)は特に詳しく書かれていると評されています(波羅夷:僧侶が最も行ってはならない重罪をいう)。また、釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語である本生譚(ほんしょうたん)(本生教)(ジャータカ) などが含まれています。

 

本生譚:釈迦の前生における修行(菩薩行)を説いた経典

 

法顕

東晋の僧、法顕(ほっけん)(337~422)は、中国に律蔵が完備していないのをなげき、律を求めて六十歳を過ぎてから、インドへ399年に向かいました。北インドでは、律は暗記されており、写本はありませんでしたが、中インドのパータリプトラまで来て、ついに、僧祇律(そうぎりつ)の梵本(ぼんぽん)(インドの本)を得ることができました。法顕は、これを写得し、さらにセイロンで化地部(けじぶ)の律をも得て、414年に広州に帰来しました。その間、説一切有部の「十誦律」と、法蔵部の「四分律」とがすでに訳されていましたが、法顕はそれにめげず、直ちに僧祇律を漢訳しました。

 

 

仏陀跋陀羅

 

仏陀跋陀羅(ぶっだばったら)(359~429)は、東晋の中国で活動した北インド出身の訳経僧です。仏陀跋陀羅は、サンスクリット名ブッダバドラの音写で、意訳されて覚賢(かくけん)、仏賢(ぶっけん)とも言います。

 

17歳で出家した仏陀跋陀羅は、罽賓(カシミール)で、東晋の訳経僧、智厳(ちごん)と出会い、智厳から、中国では正しい禅法を教化できる師を求めていることを聞き、中国行を決意しました。最初、青州に渡来し、406年(弘始8)長安に至り、当時長安にいた鳩摩羅什(くまらじゅう)と親交を結び、ともに法相(ほっそう)を論じたが、性格があわず別れたと伝えられています。

 

その後、長安の道恒らの有力僧の排斥を受けて、元は鳩摩羅什(くまらじゅう)の弟子であった慧観(えかん)らの門弟40名を伴って南へ逃れました。排斥の原因は、仏陀跋陀羅(ぶっだばったら)の持していた禅法と戒律が、鳩摩羅什の影響下にあった長安仏教界には受け入れられなかったことにあるとされています。

 

そこで、南方の廬山(ろざん)へ行き、中国東晋の僧で、後に中国浄土教の祖とされる慧遠(えおん)に敬重され、禅法関係の「達磨多羅禅経(だるまたらぜんきょう)」を中国語訳して座禅の普及に努めただけでなく、「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」「華厳経(けごんきょう)」」「観仏三昧海経(かんぶつざんまいかいきょう)」など13部125巻を翻訳したことで知られています。

 

 

  • 五分律

 

五分律(ごぶんりつ)(三十巻)は、仏教における上座部の一派である化地部(げじぶ)(弥沙塞部(みしゃそくぶ))によって伝承された律です。内容が五分されるところからこの名があります。漢訳として、「弥沙塞部和醯五分律」が現存しています。

 

東晋の僧、法顕(337頃〜422頃)がセイロンで化地部の律を得ましたが、これを訳出しないうちに死去しまいました。その後、僧の慧厳(えごん)(363~443)や、仏教哲学者、竺道生(じくどうしょう)(355?‐434)などが、金陵に来た佛陀什(ぶったじゅう)に請うてこれを訳し、423年に漢訳が完了したとされています。

 

ただし、五分律は、他の「十誦律」、「四分律」、「摩訶僧祇律」と比べると、分量が少なく、条文の説明も簡略であるために広く研究されませんでした。

 

<関連投稿>

中国仏教① 中国十三宗とは?:経・律・論で区分

中国仏教② 浄土教:阿弥陀仏の極楽浄土を求めて…

中国仏教③ 毘曇宗 (俱舎宗):中国にも伝わった上座部仏教

中国仏教➄ 禅宗:達磨から始まった中国起源の宗派

中国仏教⑥ 天台宗と涅槃宗:根本経典は法華経と涅槃経

中国仏教⑦ 三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!

中国仏教⑧ 法相宗と摂論宗:インド唯識派を継承!

中国仏教⑨ 華厳宗と地論宗:唯識から総合仏教へ

中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!

中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ

中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服

中国仏教史③ (魏晋南北朝2):鳩摩羅什と法顕 大乗仏教の本格的な受容

中国仏教史④ (魏晋南北朝3):末法思想と三武一宗の法難の始まり

中国仏教史➄ (隋唐):玄奘と義浄 最盛期の中国仏教へ

中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

 

<参照>

徹底解説!律宗の宗祖・教え・特徴的な戒律・葬儀や埋葬の方法について

(よりそうお葬式)

元照(新纂浄土宗大辞典)

根本分裂-分裂した僧伽(法楽寺HP)

律宗とは(コトバンク)

律宗(WikiDharmaオンライン版仏教辞典)

律宗(Wikipedia)

 

(2022年7月13日)