中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

これまで、中国十三宗のついてみてきましたが、既存の伝統的な仏教に対して、中国では、隋の時代に、三階教(さんがいきょう)と呼ばれる中国由来の宗教集団(仏教教団)が誕生してから、宋の時代の白蓮教白雲宗や、明、清の時代には、羅経に始まり、天理教一貫道など民間宗教が続々と誕生しました。これらは、時の王朝から公認されたこともありましたが、基本的には邪教と認定され、弾圧を受けると、秘密結社化して、中国の政治にも影響を与えました。今回は、これらの民間宗教を個々にみてみたいと思います。

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<三階教>

 

三階教(さんがいきょう)(三階宗,三階仏法,普法宗とも呼ばれる)とは、北斉から隋にかけて活躍した僧信行(しんぎよう)(540~594)が開いた中国仏教の新しい教派(一宗派)で、地蔵信仰を説いた「地蔵十輪経」や「大集経(だいじっきょう)」などに基づいて唱えられたとされています。教団としては、隋,唐,宋にわたり約 400年間(6世紀後半から9世紀前半にかけて)、末法思想を背景に、都の長安を中心に都市型仏教として、一時栄えました。

 

  • 教義と実践

釈迦入滅後の仏教は、正法,像法,末法の時代に分けられますが、三階教は、仏法に三階 (3種の段階) があるとし,これらを第一階・第二階・第三階という独自の用語で呼びました。

 

三階教では、現在が、第三階の仏法の衰えた末法時代に属しているとして、末法の濁世に生きる凡夫である第三階の人は、愛憎の偏見からぬけられない破戒邪見の世に行きているので、正法(第一階)や像法(第二階)の時代のように、一乗や三乗の教えによっては救われないと説かれました。

 

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(参考)一乗と三乗の教え

一乗の思想は、仏教にはさまざまな教えがあるが、いずれも仏が人々を導くための手段として説いたもので、真の教えはただ一つであり、その教えによってすべてのものが等しく仏になると説くことをいう。この主張はインドの初期大乗仏教において成立したもので、とくに「法華経(ほけきょう)」で強調されている。一乗の思想は大乗仏教の精髄を示すものとして後代の仏教に大きな影響を与え、中国の天台(てんだい)宗、華厳(けごん)宗においてとくに重視された。

 

仏の教えは、人々の資質や能力に応じて声聞(しょうもん)乗(仏弟子の乗り物)、縁覚(えんがく)乗(ひとりで覚った者の乗り物)、菩薩(ぼさつ)乗(大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)の三乗に分けられるが、この三乗は一乗(一仏乗ともいう)に導くための方便にすぎず、究極的にはすべて真実なる一乗に帰すと説く。

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そこで、救われのためには、第三階の法である「普真普正法」が修されるべきであるとされました。これは、仏,法,僧の三宝を普く真実で正しいものとして受け入れ、すべての悪から離れ,すべての善を修する法のことをいいます。あらゆる仏、経典、僧侶に帰依し(普仏・普法・普敬)、自己の内にある悪を全面的に認め懺悔する認悪(にんあく)と、他者を全面的に肯定し敬う普敬(ふきょう)とを実践していくことが求められました。

 

普仏・普法・普敬によらなければ救われないとする教えは、「大方広十輪経(だいほうこうじゅうりんきょう)」や「大集経(だいじっきょう)」を所依の経典として独自に説かれたものです。

 

大集経(だいじっきょう、だいしゅうきょう)

中期大乗仏教経典の1つで、「大方等大集経」(だいほうどうだいじっきょう)とも呼ばれる。内容は、釈迦が十方の仏菩薩を集めて大乗の法を説いたもので、空思想に加えて密教的要素が濃厚であるとされる。

 

その実践は、乞食行で、三階教徒の生活は、同行同信の信徒が道俗の別なく集住し、布教につとめ、頭陀乞食に励みました。食事は戒律を守って一日一食、往来では長幼の別なく行き交う人々に礼敬していたと言われています。

 

  • 批判と弾圧

三階教の主張は、如来蔵・仏性思想(悉有仏性の思想)に基づくもので、それ自体は、大乗仏教の思想の延長線上にあると解されています。実際、三階教の思想と実践に対して、華厳宗の智儼(ちごん)などは積極的に評価しています。

 

しかし、第一階の一乗根機、第二階の三乗根機では救われないと主張したことで、既成の他宗派から批判され、とりわけ、専修念仏を標榜して念仏を唱えるだけで阿弥陀仏の極楽浄土に往生できる(末世には念仏によってしか救われない)と説いた浄土教とは激しく対立しました。浄土教も三階教同様に、末法思想の影響によって生まれましたが、三階教がより汎神論的であったのに対して、阿弥陀仏という特定の仏を信仰の対象とする一神教的な傾向を持った点に違いがあると指摘されています。

 

また、「三階」という枠組みが、経文に見いだせず恣意的であることや、開祖信行が仏の上位に置かれ神格化されている点など、三階教は批判されました。

 

一方、当時の寺院制度において、各宗派の僧が一緒に住むのが通例でしたが、三階教は、他宗派とは別組織で、三階教徒のためだけの独自の三階寺院を持つに至りました。例えば、隋の真寂寺(しんじゃくじ)、唐代には化度寺(けとじ)が、長安城内にあった三階教の中心寺院として有名でした。

 

また、化度寺内には、布施を受ける金融組織として、無尽蔵院が設けられていたことでも知られていました。しかし、一般人士の支持が過度に集まったため、弾圧の対象となり、無尽蔵院は、713年に、玄宗の勅によって破壊され、姿を消しました。

 

無尽蔵院の問題に限らず、三階教は、その独特な教義や活動の影響で異端視され、政府による弾圧を受けてきました。既に開祖信行の没後わずか6年後の600年(隋・文帝の治世)には、邪教と認定されました。

 

その後も、7世紀から8世紀前半にかけて数回にわたって禁圧を加えられ、9世紀前半に教勢を取り戻した時期もありましたが、宗派としての独自性が失われ次第に衰微していきました。そのため、日本に伝来することはありませんでした。

 

また、三階教では独自に編纂された典籍を持っていましたが、大蔵経(中国における仏教経典の総集)に入蔵されることはなく、三階教の教勢が衰滅した後は、一部が仏書に引用されて伝わる以外、全く失われたとされています(もっとも、20世紀になって、敦煌から数多くの三階教籍の写本が見つかり、その教義が明らかとなった)。

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<白蓮教>

 

白蓮教(びゃくれんきょう)は、宋・元・明・清の時代にわたり、存在した民間宗教の一つで、南宋(1127~1279)初期に、呉郡(ごぐん)(蘇州)にあった天台宗系の延祥院(えんしょういん)の僧侶、茅子元(ぼうしげん)(慈昭子元)(?~1166)によって、創始されました。

 

  • 阿弥陀信仰の浄土教結社から…

 

本来は、東晋(317~420)の時代に活躍した廬山(ろざん)の慧遠(えおん)が402年に興した白蓮社に淵源を持っています。実際、茅子元(慈昭子元)は、澱山湖(でんさんこ)(江蘇省)に白蓮懺堂を創建して民衆を集め、廬山慧遠の白蓮社の復興を掲げて、念仏結社の運動を始めました。

 

こうした背景から、創設当初の白蓮教(白蓮宗)は、阿弥陀仏を念じて浄土に生まれることを願う、阿弥陀信仰の浄土教結社であったと言われています。

 

信徒には、五戒、とくに不殺生戒(ふせっしょうかい)を守る(奉持する)ことを求め、また、菜食主義を奉じていました(それゆえ信徒は白蓮菜(びゃくれんさい)とも呼ばれた)。菜食主義や五戒の奉持は、マニ教の生活規範であることから、白蓮教はマニ教の影響を受けていると考えられています。実際、子元(茅子元)(慈昭子元)は、五戒の厳守を力説し、「一戒を念じて念仏一声して、すなわち五声に至る(五声念仏)」という新説も唱えました。

 

白蓮教は、当初、南宋の初代皇帝・高宗(在位1127~1162)の時代に、厚遇を受け、また平易な教理で民間に浸透しましたが、逆に、民衆の信徒が増え、教勢が盛んになったため弾圧、邪教とされ、茅子元は流罪となってしまいました。

 

これは、白蓮教団では、指導層が半僧半俗の妻帯者であったことや、男女を分けない集会を開いていただけでなく、念仏会の際に夜中に集い暁に解散する習慣があり、それが男女間の風紀上、また治安の面で問題視されていたことから、当初から既成教団などから異端視されていたのでした。さらに、信徒の中には、税役を避ける貧民の入信が増えていたことなどの影響もあったと見られています。

 

この弾圧以後、南宋時代には、白蓮教(白蓮宗)は、唐代三夷教のひとつのマニ教や白雲宗(はくうんさい)とともに邪教異端の代表とされ、茅子元の死後は、しだいに反体制的な傾向を帯びはじめていったと言われています。

 

元(1279~1368)の中期には、廬山東林寺の普度(ふど)が出て、子元の白蓮宗が邪説とされたことを正すために、その意趣を「廬山蓮宗宝鑑」10巻に著しただけでなく、自ら大都に上京して白蓮教義の宣布に努めました。その結果、1312年、4代皇帝の仁宗(在位1311~20)により白蓮宗は復興、布教の公認を勝ちとりました。

 

もっとも、白蓮教は、廬山を中心に正宗として存続し、強大な勢力をもつに至りましたが、ほどなく、再び禁止の憂き目を負うことになりました。

 

  • 弥勒信仰の宗教結社へ…

 

その後、元末の頃になると、もともと阿弥陀浄土信仰の宗教結社であった白蓮教でしたが、「弥勒仏の下生によって、この世に繁栄がもたらされる」という弥勒信仰を中核とする教団に変質をしていきました。

 

この背景には、白蓮教が、弥勒教と融合したことがあげられます。弥勒教は、弥勒菩薩の降生によって地上に、理想世界が実現すると説く宗派で、楽土を求める下層民衆の支持を受けました。ただし、天命を受けた天子の出現を待望する彼らの願いを利用して、隋・唐の時代から、しばしば宗教的反乱を起こしていました。

 

そうした弥勒教が、同じく下層階級に教民の多い白蓮教の中にいつしか混入していました。一説には、南宋末期には両者は混合し始めていたとされています。こうして、弥勒信仰の混入とともに、呪術的な信仰も加わって、白蓮教は革命思想が強くなると、何度も禁教令を受け、異端邪教視されるようになっていったのです。

 

  • 紅巾の乱

 

弥勒仏の下生によって、この世に繁栄がもたらされると信じる白蓮教徒は,大小多くの反乱を起こし、元末、政治混乱が大きくなると、白蓮教の勢力は拡大しました。1351年には、ついに、韓山童を首領とした「紅巾の乱」と呼ばれる大反乱を起こして元朝を崩壊に導きました。

 

この経緯を少し説明すると、元末群雄の一人である韓山童(かんさんどう)は、河北省に本拠をおく白蓮教会の会首で、父祖以来、白蓮教会を組織し、「天下大いに乱れれば、弥勒仏がこの世に下って衆生を救済する」と唱え(弥勒仏下生(げしよう)の説をもって布教し)、河南,安徽地方で反元の反乱を企てました。韓山童の蜂起は失敗しましたが、その子韓林児らが引き継ぎ、反乱は全国に拡がりました。

 

この大乱の中から興起した後の明太祖、朱元璋は、はじめは白蓮教の反乱に加わっていましたが、自らの支持基盤を拡大する中で、逆に白蓮教徒への攻撃に転じて反乱を鎮圧する側に廻り反乱を鎮定すると、1368年に自ら皇帝となって「明王朝」を開きました。このように、紅巾の乱の大勢力であった白蓮教は、白蓮教徒だった朱元璋が元を追い落とし皇帝となると一転して邪教として切り捨てられ、禁圧の対象となってしまいました。

 

明・清の時代にも民衆と結び付いた白蓮教は、厳しい弾圧を受けながらも、秘密結社として活動を続け,各地で反乱を起こしました。清代に入ったころには「白蓮教」という語彙は邪教としてのイメージが強く定着していたと言われています。

 

  • 「白蓮教の乱」から「義和団の乱」まで

 

清朝(1644~1912)の中期にあたる1796年には、長江(揚子江)中流域を中心とする山岳地帯で蜂起し、白蓮教の乱(嘉慶朝の乱)(1796~1804)を9年にわたり繰り広げました。清政府の「堅壁清野(けんぺきせいや)の策(焦土作戦の一種)」によって、反乱は各個に鎮圧されましたが、その支派は幾多に分れて民間に残存しました。

 

実際、白蓮教は、清代に、白蓮教系結社として、各地で新宗教を名乗ったため、清朝では、取り締まるべき反体制的な民間宗教結社を、邪教の代名詞としてまとめて白蓮教と呼んでいたと言われています。

 

度重なる弾圧により、白蓮教系結社も消滅したと思われましたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれました。天理教や清茶門教に加えて、清末の山東にでた排外主義的な拳闘集団である義和団もその一つとされています(義和団は、1900年に、各地で外国人やキリスト教会を襲い、列国の北京大(公)使館区域を包囲攻撃した義和団の乱を引き起こした)。

 

白蓮教は、清朝以後もさまざまな分派を有しながら宗教的秘密結社として活動し、近代中国における秘密結社の大半は白蓮教に関係しているとまで言われています。

 

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<白雲宗>

 

白雲宗(びゃくうんしゅう)は、中国で宋代から元代にかけて盛んとなった在家中心の庶民仏教の宗派で、沙門(清貧の修行僧)・清覚(姓は孔で、孔子の末裔を自認)によって開創されました。白雲菜(はくうんさい)とも呼ばれます。

 

27歳で「法華経」に啓発されて仏教に身を投じたとされる開祖の孔清覚は、禅を学び、20年以上の修行を経た後に、1085年、杭州霊隠寺に住しました。その後、北宋8代皇帝・徽宗(きそう)(在位1100〜1125)の大観年間(1107~1110)に、霊隠寺に設けられた白雲山庵において、在家信徒中心の新義を立て、戒律遵守の在家教団、白雲宗を結成しました(白雲宗の名はこの菴の名に由来する)。

 

白雲宗は、「躬(みずか)ら耕し自活する」という、妻子を娶らず、菜食中心の自給自足の清浄な生活を送ることを教団の理想とする戒律主義をとったことが特徴です。その教義は「華厳経」を根底におき、儒・仏・道の三教合一を標榜していました。また、仏教の修行によって得られる悟りの位を四段階に分けた「四果位」を発展させて、「四果十地」を説き、禅宗を極端に批判しました。

 

白雲宗の創設後の経緯を見ると、南宋の時代(1127~1279)、合法的な地位を獲得し、在家信徒を吸収していきました(禁止された時期もあった)。元代(1279~1368)に入ると、朝廷の公認を受け,清覚の遺骨を埋葬した浙江省を中心として発展し、その衆徒は数十万人に達するなど、一時は江南第一の大宗派となりました。

 

ただし、信者たちは、出家を名目として賦税の納付を拒否したことや、他宗派からの批判もあって、邪教の名のもとに政府から弾圧を受けては、再公認されるといった状態を繰り返す中、元の第4代皇帝・仁宗(じんそう)(在位1311~1320)の治世の1319年、宗主の沈明仁が投獄され、翌年、白雲宗僧が還俗させられ、禁圧を被りました。

 

その後、白雲宗は、1368年に明朝が成立してほどなく瓦解し、姿を消しました。その衆徒の一部は、白蓮教に加入したと言われています。

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<羅教>

 

羅教(らきょう)は、明の時代(1368~1644)、運糧軍人であった羅祖 (名は清)(1442~1527)が開創したとされる中国の民間宗教で、無為教(むいきょう)とも呼ばれます。その末流は秘密結社化し、いわゆる「会党(秘密結社)」の一つで、有名な青帮(チンパン)の源流ともされています。

 

羅祖は、27歳のときに、各地の師友に教えを乞う行脚の旅に出て、13年間、仏道修行や道教の修行、雑法・邪法などの苦行を経て、1482年に、「金剛般若経」の教理を会得したことで、悟りを得たと言われています。

 

羅祖は、教祖自らの宗教観を説いた、宝巻形式(仏教の教理,経典,因縁談などを通俗的に解釈した物語を地の文と歌詞を結合させて講唱した形式)の根本経典「五部六冊」(「苦功悟道巻」、「嘆世無為巻」などを含む)を作成し、1509年に、霧霊山(河北省密雲県)で立教しました。

 

その後、羅教の教線は、江蘇,浙江,福建,広東各省へ拡大し、その初期から漕運業者(水夫集団)や運搬業者などの間で信仰され、成長しました。羅教は当初、白蓮教や弥勒信仰を邪教・邪法として批判していたが、信者の増加と万物一体観の発展から明末清初の時代にはこれらとの習合が起こったとされています。

 

  • 教義

 

羅教の思想は、宋代以後の臨済禅を基礎として、「金剛般若経」に基づいた無為解脱の無為法(因縁の支配を受けない縁起の理法)を説くとされ、その教風は、個人主義的な勤学・清修を重んじていたと言われています。

 

宇宙万物の本体は「空」であり、老真空・無生老母・無極老祖・本来面目・家郷・自己光などと呼ばれます。「空」は原初から存在し、この世のすべてはこの「空」から流出・生成したとされ、万物は「空」の化体であり「空」と一体無二とであるといいます。

 

三教一致の道理を説いた「五部六冊」は、仏教書からの引用が多数みられるが、羅教の「空」は大乗仏教の「空」とは概念が異なり、むしろ老荘思想の「空」に近いとみられています。

 

さらに、羅教では「心」の働きを重視しており、「心」こそが仏であり本体であると気付くことで、誰もが悟りを得ることができるとされています。ただし、「五部六冊」には具体的な悟りへの方法は示されておらず、各人の主体性に任される形になっていると言われています。

 

  • 秘密結社化

 

そのためか、1527年の羅祖の死後、羅教はいくつもの系統に分派して行き、その教義も多様となっていきました。羅教の系統の結社は、各地に斎堂を建立し、そこを中心に活動を行いました。斎堂では、教祖の羅祖を祀り、天・地などの諸像と共に信者に礼拝させたと言われています。

 

教徒達も、当初は、聖典に注釈を施したり、宝巻や語録を著述する者が見られたりしたが、やがて、秘密の行法を伝習するようになり、明から清代にかけて、羅教は、江南地方(江蘇,浙江,福建,広東各省)でおもに水夫集団を中心として秘密宗教化していきました。さらに、同様に、運糧水手が組織した秘密結社である青幇(チンパン)との結びつきが生まれることとなりました(羅教がその源流ともみられている)。

 

このため、羅経は、明代において、伝統仏教の既成教団から、白蓮教と同様な異端宗教(邪教)として排撃されるに至りました。さらに、時代が下がって清代になると、さらに、支配者・官憲の手によって取り締まられるようになりました。

 

宝巻(ほうかん)

中国,講唱文学の一形態で、明清時代に流行した宗教芸能の台本のようなものです。世俗的な娯楽を目的とする演芸とは異なり、亡者への回向(えこう)(死者の冥福を祈る)を目的としました。

 

僧尼や道士により読誦される経典の内容(仏教の教理,経典,因縁談)を、俗人にも理解しやすい節のついた韻文と、物語的な要素を持った散文とを交互に配置させ、(通俗的に解釈した物語を地の文と歌詞を結合させ)て講唱しました。

 

仏教や道教の儀礼である礼懺(らいさん)(仏法僧の三宝を礼拝して、犯した罪を懺悔すること)において説唱される、語り物の台本を起源とします。また淵源を遡ると、唐代に流行した変文にまで及ぶとされています。

 

唐代の中期以後,都市の寺院で俗人に向ってする説法(いわゆる俗講) が流行し,それがのちに種々の題材を扱う講談に発達しました。宝巻はその俗講の直系です。

 

元代頃から流行したと考えられていますが、明,清代になって、「宝巻の宗教」とも呼ばれる民間宗教の教派(道教などの新興宗教)が宣教にこの形式を利用し、宝巻との関係が不可分なほどに密接になりました。羅教はその代表で、「五部六冊」と呼ばれる宝巻を根本経典とし、また、その他、大乗教・白陽教・弘陽教などの教派も、宝巻を聖典としていました。

 

また明代に入ると,白蓮教系の諸教団では,布教のための経典が製作されるようになりました。この通常,宝巻と呼ばれる経典のなかには,「真空家郷」「無生父母」の語が見られ,明末から清代にかけては白蓮教の「八字真言」といわれるようになりました。この「八字真言」は,民衆が,現実の父母や家・故郷との関係,すなわち地縁的・血縁的関係を否定して反体制的行動に身を投じる際に有力に働いた思想である、という見方もあるそうです。

 

(参考)

金剛経(こんごうきょう)

金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)

金剛般若波羅蜜経(はんにゃはらみつぎょう)(正式名称)

 

仏教経典で、大乗仏教運動の先駆をなす般若系経典の一つです。大乗仏教は、紀元前後ごろから興りましたが、用語や形式に原初的な要素が見られるため、3世紀以前の大乗仏教初期には既に成立していたとみられています。

 

その長さから、「三百頌般若経」等とも呼ばれますが、比較的短編の経典(小さな経)の中に、「空」の語はありませんが、一切法の空・無我が説かれています。真実の知恵は通常の認識によっては得られず,空によることが明らかにされ、一切のものにとらわれず超越すべきと教えています。サンスクリット本、チベット本のほかに、漢訳本は6種あり、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳がもっとも古く名高いものとなっています。

 

「般若波羅蜜」を強調する経典として、「小品般若経(しようぼんはんにやぎよう)」、「大品般若経」が挙げられますが、とくに一般に流行したものとして、「般若心経」とともにあげられるのが、この「金剛般若経」です(それらは「大般若波羅蜜多経」600巻(玄奘訳)として集大成されている)。

 

比較的短編で、凝縮されたその内容から、インド、中央アジア、東アジア、チベット各地に普及・流行し、注釈書も数多く作られ、日本でも禅宗で重んじられました。中国では、宗派を超え、儒家・道家に至るまで、百数十の註釈・講義が成立しました。禅宗で特に愛読され、禅宗の第六祖(南宗初祖)である慧能がこの経の一句で大悟したとされています。

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天理教>

 

中国の天理教は、19世紀の清代の宗教秘密結社(民間宗教)で、白蓮教徒の乱(1796年-1804年)が鎮圧された後に、その残党により結成され、教祖は郜生文(八卦教の分派の離卦教の開山祖師の郜雲隴の末裔)とされています。

 

こうした背景から、白蓮教の分派の一つ(白蓮教系)とみなされ、八卦(はつか)の名により教徒を分属組織したことから八卦教(はっけきょう)とも呼ばれました。

 

天理教は初め八卦教,三陽教,栄華会,竜華会などに分れて結社していましたが,やがて首都北京に近接する直隷省大興県出身の林清と、河南省滑(かつ)の李文成がこれらを統一して天理教としました。

 

李文成配下の多くは貧農であった一方、林清の配下には、太監(宦官(かんがん))、王府包衣、雇工など多種の分子を含んでいたと言われています。

 

中国の天理教は、「三仏応劫書」を経典とし、根源的な存在である「無生老母」への信仰(明・清代以降、様々な民間宗教、宗教結社で崇められてきた女神)と、将来される「劫」と呼ばれる秩序の破局(白洋劫)の際に、老母から派遣される救済者によって、覚醒した信者だけが、殺戮を免れ、母のもとへ帰還できるという終末(末法)思想が説かれています。

 

天理教の指導者らは、1812年、李文成が「真の明の王」であると発表すると、翌1813年、「反清復明」と呼号した林清らが、北京及び河南省で蜂起し、北京の紫禁城を襲撃しました(天理教徒の乱、癸酉の変(きゆうのへん))。しかし、反乱軍は3カ月で鎮圧され、失敗に終り、李文成は焼身自殺を遂げ、林清は処刑されました。

 

天理教徒の乱では、天理教の指導者が満州族の支配層から権力を奪取しようとする意図が強かったとみられています。

 

(参考)

八卦(はつか)

易(えき)学の用語。

易で、陰()と陽()の爻(こう)の組み合わせで得られる8種の形。

(陰爻(こう)と陽爻とを3本重ねることによって作られた8種類のパターン。)

具体的には、☰乾(けん),☱兌(だ),☲離(り),☳震(しん),☴巽(そん),☵坎(かん),☶艮(ごん),☷坤(こん)の八つを言います。

これらはそれぞれ,天,沢,火,雷,風,水,山,地を象徴します。

易はこの八卦を重ねあわせた64種類のパターン(64卦)(ろくじゅうしけ)によって占います。

易の卦(易で吉凶を判断するもととなるもの)。

卦(か)(け)とは,(陰の象徴)と(陽の象徴)の棒(爻(こう))をまず3本組み合わせて8種類のパターン(八卦(はつか))を作り,次にそれらを互いに重ねて64種類にしたものです。

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<一貫道>

 

一貫道(いっかんどう)は、清で発祥した現代中国の宗教的秘密結社で、修身を重んじ、普く天道を伝えることを目的としています。

 

老子を道祖とし,1880年代に王覚一(山東省出身)が出て内容を充実させ、その後、実質的な創始者とされる路中一(~1921)とその弟子の張天然(~1947)が指導者となりました。張天然は積極的に多くの仏堂を建立して布教し、河北,山東から揚子江流域一帯にまで教勢を拡大させたと言われています。

 

  • 教義と進展

 

その教義は、全ての宗教の根は同じとする万教帰一(五教帰一)で、道教を中心にしつつ仏教・儒教の(儒仏道)三教に、キリスト教やイスラム教も取入れて五教とし、一つの宗教に統合することが説かれました。また、五教の開祖を五教聖人と呼び、それぞれが教えを必要とする時代に生まれ、万物の親神に導かれるまま当時の状況に合わせて人々を教え導いたとしています。

 

明明上帝を最高神格(主神)とし、すべての宗教の神々の源とされています(万教帰一の根拠)。明明上帝とは、明清時代の民間信仰の最高神(女神)とされた無生老母(むしょうろうぼ)の別称です。

 

さらに、突き詰めれば、宇宙のすべてを創造した万物創造神ラウムがいて、あらゆる宗教宗派では異なる時代・場所・言語で、最高神ラウムという存在は表現されており、もともとは同一の存在であるとしています。一貫教においては、ラウムの神名が、「萬霊真宰無生老母(ばんれいしんさいむせいらうむ)」(無生老母)であり、明明上帝というのです。

 

なお、一貫道という名称は、「論語(里仁編)」の「吾が道は一を以って之を貫く」に由来します。経典としては、既存の三教経典(道教・仏教・儒教の各種経典)と、教団独自の道内典籍があります。

 

一貫道では、天地開闢以来の歴史を、青陽時代(東周以前の1500年間)・紅陽時代(東周から清までの3000年間)・白陽時代(民国から10800年間)と時代分類されますが、人間は世俗にまみれて本性を失い、罪障が重くなった今の世界は、末法であり,やがて終末の大災難が到来する「三期末劫」の状態にあるとされています。さらに、青陽・紅陽・白陽三期それぞれの末期に大破壊が起こるとしています。しかし、「三期末劫」の衆生を救済するため、明明上帝(無生老母)は、一貫道教を信ずる者を救済すると信じられています。

 

入信(得道)にあたっては信徒2名の紹介と保証が必要で、秘密儀式が執り行われるそうです。また、三宝(点玄関、合同印、五字真言)いう秘密教義もあり、内容を家族にも漏らしてはいけないとされています。

 

仏堂を宗教施設とし、至上の神(明明上帝)は偶像化することができないため、「老母灯」を点し、明明上帝を象徴しています。特に道教の術が占める比重が大きく、例えば、扶鸞・借竅(降霊術)は神仙の霊験の顕化と信じられています。

 

信者は、仏教の五戒に準じ、殺生・偸盗・邪淫・妄語・酒乱を禁じられており、三網五常、四維八徳の実践実行を重視されています。

 

三綱五常(さんこうごじょう)とは、儒教でいう、人として常に踏み行い重んずべき道のことであり、「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳、「五常」は仁・義・礼・智・信の五つの道義をそれぞれ指します。

 

四維八徳(しいはっとく)の「四維」は、礼・義・廉・恥の国家を維持するのに必要な四つの道徳を指し、「八徳」とは仁・義・礼・智・忠・信・孝、悌で、他者へ行いについての教えです(仁と義は重複している)。

 

  • 一貫道の戦後

 

中華人民共和国が成立すると、反共主義に立ち、反共ゲリラとして活動した一貫道は、反革命的な邪教(「反動会道門」)とされ、1950年から1951年にかけて組織は徹底的に弾圧さました。信徒は、国民党のスパイとして糾弾され、多くが殺害された為、中国大陸では水面下で秘密裏に活動するか、香港への逃避を余儀なくなれました。1954年、師母・孫慧明が、香港から台湾に移住した為、現在は台湾を中心に信仰活動を継続させています。

 

もっとも、当時の台湾(中華民国)では、宗教活動は制限されており、基礎組、発一組、宝光組、文化組、慧光組、紫光組、常州組、金光組、浩然組、法一組、明光組、安東組、師兄派などの多数の各派組に分かれて、台湾各地でバラバラに潜伏して地下活動をしていました。国民政府に公認されていた宗教は、9法人(道教、キリスト教、カトリック教、仏教、回教、バハイ教、天理教、理教、軒轅教)のみだったそうです。

 

しかし、やがて台湾の民主化とともに思想・信仰の自由が進み、1987年1月、台湾国内で公式に布教が解禁されました。さらに、台湾以外にも伝道されており、香港・日本・韓国・インドネシア・シンガポール・マレーシア・ブラジル・米国・フィリピン・カナダ・オランダ・イギリス・フランスに信徒が存在すると言われています。

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以上、中国の民間宗教の流れを概観しましたが、宋の時代の白蓮教運動にさかのぼる中国由来の宗教集団は、その後、羅経に始まり、天理教、一貫道など明・清の時代に浸透していきました。まさに、その源流は白蓮教にあるようです。実際、時の王朝も、これらの中国民間宗教の教派を包含して、天道(天道)または先天道(せんてんどう)と呼んでいます(ただし、現在の中国や台湾では、天道(先天道)を一貫教と認知している)。

 

<関連投稿>

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中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ

中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服

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中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

 

<参照>

三階教とは(コトバンク)

三階教(Wikipedia)

白雲宗とは(コトバンク)

白雲宗(Wikipedia)

白蓮教とは(コトバンク)

白蓮教(Wikipedia)

羅経とは(コトバンク)

羅経(Wikipedia)

天理教とは(コトバンク)

天理教(Wikipedia)

一貫道とは(コトバンク)

一貫道(Wikipedia)

 

(2022年7月15日)