中国における伝統的教派の衰退と民間宗教の勃興

 

中国仏教史シリーズ最終回は、宋から清の時代までの仏教の展開を追います。唐の時代に最盛期を迎えた中国仏教でしたが、宋の時代から、浄土教と禅宗以外の伝統的な教派は徐々に衰退し、代わって、白蓮教などの民間宗教が盛んになってきました。

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<宋の仏教>

 

(北)宋(960~1279)の統一後、宋の太祖は、960年、建国と同時に廃仏停止を命じ、訳経院や印経院(経典や各種文献を刻版・印刷する工房)を建立した一方、行き過ぎた仏教への肩入れをやめました。出家制度においては度牒(どちょう)(出家得度の証明書)の出売を行なって、国家財政の一助とするとともに、賜額(しがく)制度、寺院の資産への課税による寺院統制を行い、やがて五山十刹制度として国家の統制の下に管理する事に成功しています。

 

賜額:君主から賜った扁額(へんがく)、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(がく)

 

  • 禅宗と浄土教の隆盛

 

それでも、後周の法難によって弾圧された仏教は復興するなか、宋代においては、とりわけ、禅宗と浄土教が隆盛となり、他の仏教諸派が衰微していきました。また、浄土念仏と他宗の融合もおこり、禅浄双修(禅と浄土)、台浄双修(天台と浄土)、戒浄双修(律宗と浄土)といったように、各宗の中には、浄土教と融合する教派もありました。

 

禅宗は、新興階級である士大夫層に受け入れられて、他の宗派にかわって仏教の主流となりました。儒教の宋学の形成にも強い影響を及ぼすなど、宋代に全盛期を迎えました。禅宗は12世紀には、臨済宗や曹洞宗など多くの宗派に分かれながら、めざましく発展を遂げました。

 

浄土宗系では、阿弥陀信仰が盛んになり念仏によって極楽浄土に往生するというわかりやすい教えと結びついて民衆に浸透していきました。

 

両者(禅宗や浄土念仏宗)に共通するのは、具体的でわかりやすい修行の実践でした。その一方、中観や唯識のような他の宗派は、難解な学問を説いたり、凡人にはなしえないような修行をしたりするので、民衆の支持を得られにくくなったのです。

 

もっとも、衰えていく他の宗旨も多かった中、天台宗においては、高麗(朝鮮)の諦観(たいかん)法師(?~971)が入宋(961)し、天台山にて、天台教学の入門書である「天台四教儀(てんだいしきょうぎ)」を著しました。

 

宋代には、司馬光の「資治通鑑(しじつがん)」(1084年)の影響を受けて、通史(編年体)として叙述された仏教史書が編纂されるようになり、南宋時代の天台宗の僧、志磐(しばん)(生没不詳)による「仏祖統紀(ぶっそとうき)」がその代表的な作品とされています。

 

 

  • 民間宗教の芽生え

 

一方、仏教を他の宗教と融合させる中国独自の仏教解釈もなされました。宋の禅僧、仏日契嵩(ぶつにちかいすう)(1007‐72)は、仏教の五戒や十善は本来、儒教の五常と一致するものであるとして、1062年に出した「輔教編」の中で、儒・仏の一致を説きました。儒教が治世の教え(世を治める)であるのに対して、仏教は治心の教え(心を治める)であるから、治心によって初めて治世は完成されると主張されました。

 

同じように、劉謐(りゅうびつ)(生存年不詳)は、「三教平心論(さんきょう へいしんろん)」(成立年不詳)を著わし、儒教と仏教、あるいは道教も含めた三教が融合すると主張しました(仏教の「治心」、儒教の「治世」に対して、道教は、もって身を治む「治身」とされた)。こうした仏教、儒教、道教の三教融合の思想は、北宋初期からの風潮となりました(宋を滅ぼし、仏教を受け入れた金の時代でも続いた)。

 

また、宋代において、禅宗や浄土教以外にも、観音信仰や地蔵信仰など現世利益的な仏教が民衆によって信仰され、四大霊場への巡礼も流行していきました。

 

四大霊場

普陀山 観音菩薩 浙江省普陀県舟山群島
五台山 文殊菩薩 山西省五台県
峨眉山 普賢菩薩 四川省峨眉県
九華山 地蔵菩薩 安徽省青陽県

 

やがて、こうした傾向は、既存の仏教とは一線を画した民間宗教として、阿弥陀信仰の浄土教結社の白蓮教や、儒・仏・道の三教合一を標榜した白雲宗など宗教結社(民間教派)の創設につながりました(時の政府からは邪教として弾圧の対象となる)。いずれにしても、宋代の中国仏教は、インド起源の仏教が次第に本来のインド的な特色を失い、中国的な仏教へ変貌していったことが伺えます。

 

なお、宋代には木版印刷が普及した結果、膨大な経典を集大成した「大蔵経」が、「蜀版大蔵経」として初めて刊行され、日本や高麗(朝鮮)などの近隣諸国にも贈与されました。

 

一方、五代十国の争乱を終わらせた漢民族による統一をなした宋でしたが、華北の一部の燕雲十六州はなお遼(契丹)に支配され、その圧迫を常に受けていました。また西方の西夏、後には遼に代わって台頭した女真の建てた金の圧迫を常に受け、その防衛のための軍事費は常に宋王朝の財政は圧迫していました。

 

遼や西夏に対する防衛、また和平策による贈与は財政負担を強めたため、第6代皇帝・神宗(しんそう)(在位1572~1620)のときの1070年、王安石を登用して財政その他の政治改革を行って財政再建をめざしたがたが、結局失敗しました。

 

その後、北方で金の力が強大になってくると、宋は金の強大化を遼を攻める好機と考え、金と結んで遼を南北から同時に攻め、1125年遼は滅亡しました。しかし、逆に、遼に代わって華北に金が進出し、1126年、都開封は金に攻略されると、翌年、上帝徽宗と皇帝欽宗以下の皇族が金によって連行され(靖康の変)、ここで、事実上、宋は滅亡しました。ただし、その難を逃れた皇族の一人で、徽宗の子高宗が江南に逃れ、宋を再建、臨安を都に南宋が建国(1127年)されました。

(南宋ができたので、靖康の変で滅んだ宋を北宋と呼んで区別される)。

 

 

<モンゴル・元の時代の仏教>

モンゴル帝国(1260~1271~1368~)

元(1271~1368)

 

遼が滅んだ後、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス=ハンが急速に勢力を伸ばし、1206年にモンゴル帝国を建国しました(首都カラコルム)。モンゴル帝国は、西遼、ホラズム・シャー朝を滅ぼし、さらにクリミア半島を略奪するなど帝国の領土を拡大する中、チンギス・ハン没後、ハン位を継いだオゴタイは、1234年に金を滅ぼしました。

 

13世紀後半、チンギス・ハンの孫のフビライが第5代皇帝になると、都を大都(北京)に移し、1271年、国号を中国風の「元」と定め、1279年に南宋を滅ぼし、異民族として初めて中国全土を支配しました。

 

中国地域の仏教は、北宋以降、禅宗と浄土教を中心に盛んで、元王朝では、在来の宗教に対しては寛容であったとされていますが、チベット仏教が盛んでした。というのも、元は、モンゴルの時代から、王朝が、インド密教の流れをくむチベット仏教に帰依し、チベット仏教に国教的な地位を与えていたからです。

 

1239年、モンゴル軍がチベットに侵攻し、翌40年に攻略されたチベットはモンゴルの支配下に入りますが、チベット僧パスパ(パクパ)(1235~1280)は、モンゴルとの和平に尽力しました。1253年には、雲南遠征の途上にあったフビライに謁し、フビライの待僧となり、また、1258年の道仏論争が行われた際、道教側を論破するなど、フビライの信任をえていました。

 

フビライは、1260年に第5代ハンとなると、パスパを招請し、翌年国師(皇帝に仏法を説き伝える法師)に任じました。さらに、パスパは、当時、文字を持たなかったモンゴル人に「パスパ文字」を制定し、その翌年の1270年に帝師(帝王の老師)に任じられました。この結果、パクパは、チベットにおける仏教の政教権だけでなく、中国を含む全モンゴルの仏教界に対する指導権を得たのでした。

 

こうしたフビライとパクパの蜜月関係もあって、14世紀頃には、モンゴル人たちもチベット仏教を受け入れ、首都大都を始め各地にチベット仏教寺院を建てられ、王朝はチベット仏教を篤く保護しましたが、そのため支出がかさみ、元の財政を圧迫しました。

 

また、モンゴル人による異民族支配が続く中、元王朝は、モンゴル人優遇政策をとり、漢人を冷遇しました。このため、民衆の反モンゴル感情が根強く、阿弥陀信仰の結社であった白蓮教が、弥勒仏が現れて民衆を救済するという下生信仰を掲げて、元に対して反乱を起こすようになり、1351年の「紅巾の乱」は元を滅亡させることにつながりました。

 

なお、チベット仏教は、明や清の朝廷にも微妙な影響力を行使し続けたとされています。実際、清の時代には王朝がチベット仏教に心酔したとされ、密教が広まるきっかけにもなりました。

 

 

<明の仏教>

 

明(1368~1644)とそれに続く清の歴代皇帝は仏教を保護してていたと同時に、統制も行う中、当時の仏教は、宋時代からの流れを受けて、禅と浄土教が隆盛で、また、三武一宗の法難以後の宗派が融合する傾向(禅宗と浄土教の融合も含む)が更に強くなりました。

 

ただし、教学や教団などに大きな発展や展開はなく、出家者である僧尼にも、四大師と称された明代の4人の高僧以外に、目立った活動をする者は見られず、仏教そのものとしては、次第に衰退していきました。

 

 

  • 明代の四大師

                            

雲棲祩宏(うんせいしゅこう)(1535~1615)

中国浄土宗の第八祖に擬せられた雲棲祩宏は、1571年、杭州の雲棲山に至り、廃寺となっていた雲棲寺を重修して再興し、弟子教育と著述に専念しました。陽明学が栄えて,仏教が不振なのをなげき,禅と念仏を宗として再編につとめ,その所説は、禅宗と浄土宗(浄土教)の両者の兼修(「禅浄双修」)を説くと同時に、「仏儒清和」に基づき、禅・浄土・儒教を共に学ぶ雲棲念仏宗を起こしました。

 

憨山徳清(かんざんとくせい)(1546~1623)

仏教・儒教・道教に精通した憨山徳清は、三教の思想の融合を主張しました。仏教では、臨済宗を伝承しましたが、禅と浄土の両方を修めるように提唱しながら、禅宗の復興に尽くしました。禅宗の六祖で、頓悟(とんご)を尊んだ慧能大師の考えを継承したとされています。その後朝廷の政争に巻き込まれ、投獄され、流刑処分を受けました。紫柏真可とは交友関係にありました。

 

紫柏真可(しはくしんか)(1543~1604)

20歳で具足戒を受けた後、華厳経に出会い、後に法相宗を学ぶ一方、最終的には、禅と浄土教を習合させた禅浄一致を説きました。明末思想界を席巻した陽明学の祖、王陽明の影響もあったのか社会的関心が強く、憨山徳清の流刑や、鉱税の害等を糾弾したことから、官僚に目をつけられ、神宗の後継者問題にからむ事件に連座したとされ処刑されました。

 

益智旭(ぐうえきちきょく)(1599~1655)

天台から禅宗・華厳・法相まで学び、禅宗と教宗・律宗の三学がお互いに作用しているとして、三学一源論や儒釈(仏)同帰を唱えたました。ただし、最終的に浄土宗に帰し、念仏三昧論を中心思想として浄土信仰に尽力しました。中国浄土宗の第九祖に擬せられています。

 

 

  • 居士仏教(民間宗教)の隆盛

 

伝統的な仏教宗派が低迷する一方で、知識層においては在家の居士(出家をせずに家庭において修行を行う仏教の在家信者)による居士仏教(こじぶっきょう)(在家の仏教信者たちの間で行われる仏教)が盛んとなっていきました。

 

中国では、宋代の白蓮社や白雲宗の結衆がその一例です。居士仏教は、道教や民間信仰と混合する場合が多くみられます(むしろ、居士仏教より民間宗教という名称が広く使われている感がある)。

 

明の時代では、いわゆる仏教系の民間宗教においては、浄土教系に属する宋の時代に生まれた白蓮教に対して、禅宗系の民間宗教の代表として、羅教が挙げられます。

 

羅教は、儒教や仏教、道教の要素を取り入れながらも、それら三教とは一線を画した民間宗教の経典である宝巻を所依の経典として、三教の伝統的教派とはより異質な民間宗教として出現しました。その発展の過程で、秘密結社である青幇や紅幇との結びつきも密接になっていったと指摘されています。

 

 

<清の仏教>

 

清代(1644~1912)に入り、白蓮教の流れからくる天理教と、天理教と同じ最高神、無生老母(むせうろうぼ)を共通の神とする一貫道が、ともに宗教秘密結社として、活動していたことが特筆されます。

 

  • 天理教

 

中国の天理教は、19世紀の清代の宗教秘密結社(民間宗教)で、白蓮教徒の乱(1796年-1804年)が鎮圧された後に、その残党により結成されました。

 

「三仏応劫書」を経典とし、根源的な存在である「無生老母」への信仰(明・清代以降、様々な民間宗教、宗教結社で崇められてきた女神)と、将来される「劫」と呼ばれる秩序の破局(白洋劫)の際に、老母から派遣される救済者によって、覚醒した信者だけが、殺戮を免れ、母のもとへ帰還できるという終末(末法)思想が説かれています。

 

 

  • 一貫道(いっかんどう)

 

清で発祥した現代中国の宗教的秘密結社で、修身を重んじ、普く天道を伝えることを目的としています。老子を道祖とし,1880年代に王覚一(山東省出身)が出て内容を充実させ、その後、実質的な創始者とされる路中一(~1921)とその弟子の張天然(~1947)が指導者となりました。

 

その教義は、全ての宗教の根は同じとする万教帰一(五教帰一)で、道教を中心にしつつ仏教・儒教の(儒仏道)三教に、キリスト教やイスラム教も取入れて五教とし、一つの宗教に統合することが説かれ、河北,山東から揚子江流域一帯にまで教勢を拡大させました。

 

なお、宋の時代の白蓮教運動から、羅経、天理教、一貫道など明・清の時代に由来する中国由来の民間宗教の教派(宗教集団)を包含して、天道(天道)または先天道(せんてんどう)と呼ばれます(ただし、中国や台湾では、天道(先天道)を一貫教と認知している)。

 

これらは、白蓮教に根を持っているという言い方も可能ですが、そうではない居士仏教の運動も清末には起きています。

 

 

  • 楊文会の金陵刻経処

 

清朝末期になると、楊文会を中心とした開明的な居士仏教の運動が起きました。楊文会(よう ぶんかい)(1837~1911)(楊仁山(ようにんざん)の名前でも知られる)は、刑部の官僚として勤め、曽国藩や李鴻章らの幕僚でしたが、太平天国の乱(1833~1864)のあと、1864年仏教信者となると、仏教研究、弘通(ぐずう)(=仏法を弘めること)、出版の面で仏教の復興運動に力を入れました。

 

その仏教信仰は、「大乗起信論」を根本としながら、「妙法蓮華経」、「華厳経」や、「唯識論」に及び、最終的には、浄土教に帰着し、誦経念仏の実践を精励したとされています。

 

楊文会の最大の功績は、1897年(光緒23)に、同志たちと南京に金陵刻経処を設けたことです。仏教の復興の前提は、まず経書を救うことであるとして、破壊された経書を探し求めました。1886年に駐英露公使の随員としてロンドンに行った際、日本の南条文雄と出会ったことをきっかけに多くの中国では失われた経典(底本)を日本から輸入するなどして、改めて製版、印刷し、戦乱によって失われた仏教書の刊行に尽力しました。その生前に刊刻した経典は、二千巻余と称されています。楊文会は、インドへの布教を目的とした仏教専門学校を設立しました。

 

以上、明・清の時代に入って伝統的宗教の低迷とは裏腹に、盛んになった民間宗教(≒居士仏教)を中心にみてきました。

 

 

<関連投稿>

中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ

中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服

中国仏教史③ (魏晋南北朝2):鳩摩羅什と法顕 大乗仏教の本格的な受容

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中国仏教⑦ 三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!

中国仏教⑧ 法相宗と摂論宗:インド唯識派を継承!

中国仏教⑨ 華厳宗と地論宗:唯識から総合仏教へ

中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!

中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る(中国編)(BIGLOBE)

中国仏教(世界史の窓)

中国の仏教(Wikipedia)

ほか、コトバンク、Wikipediaから

 

(2022年7月18日)