中国仏教の定着へ:格義仏教の克服⁉

 

中国仏教史シリーズ2回目の今回は、インドから中国に入ってきた仏教が、中国でいかに定着していくことになるのかをみていきます。時代は、後漢の滅亡後、魏晋南北朝に当たります。

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<魏晋南北朝の仏教>

 

魏晋南北朝(220~589)の時代は、隋や唐の時代に仏教がさらに花開く準備期であったと位置づけられています。仏教は漢の時代には伝わっていましたが、まだ、広く流布するまでには至っていませんでした。しかも、そこで行われていた仏教は、前述したように、老子や荘子の思想を借りて仏教を解釈しようとしました(格義仏教)。

 

中国仏教が本格的段階に入るのは、魏晋南北朝の時代からということができます。この時代は、中国周辺の非漢民族国家が独立し、漢民族のうちたてた中国固有の儒教よりも西方伝来の仏教を好む傾向がありました。

 

また、魏晋南北朝時代の各王朝は、仏教を保護したことで、仏教はたいへんな発展をとげました。そこで、西域の僧も、当時の諸政権と結びついて伝道や訳経事業を推し進めました。

では、以下のように、さらに細かく分類される魏晋南北朝時代(220~589)の仏教を時代の推移とともに見ていきましょう。

 

魏晋南北朝時代(220~589)

三国時代(220~265)

西晋(265~316)― 東晋(317~420)

五胡十六国(306~436)

南北朝時代(386~589)

 

<続く訳経僧の活躍① 三国時代>

 

三国時時代(220~265)とは、220年の後漢滅亡後、280年の晋の統一まで、華北の魏・江南の呉・四川の蜀(魏・呉・蜀)の三国が天下を3分し、互いに抗争した時代で、3~6世紀の魏晋南北朝時代という分裂期のはじまりとなりました。

 

後漢の1世紀頃までに、中国に伝えられていた仏教は、3世紀以降(魏晋南北朝の三国時代(220~265)以降)、サンスクリット語の仏典が、曇摩迦羅(どんまから)、康僧会(こうそうえ)、支謙(しけん)のようなインドや西域から渡来した僧らによって、本格的に漢訳されるようになりました。

 

三国の中の魏(220-265)では、曇柯迦羅(どんまから)、曇諦、康僧鎧(こうそうかい)らが活躍しました。

 

  • 曇摩迦羅(どんまから)(生没年不詳)

曇摩迦羅(曇柯迦羅)は、中部インド(パルティア)出身の僧で、最初、バラモン教とヒンドゥー教の聖典であるヴェーダ聖典を学んだ後、仏教に帰依したとされています。250年に、魏の都、洛陽に来て、白馬寺で、「僧祇戒心」などの経典の翻訳に従事しました。また中国で初めて戒律を授ける作法を伝えたとされます。

 

曇柯迦羅(どんまから)が来朝し、出家修道の儀礼を整えた際、朱士行という人物が、中国人で最初に得度(在俗者が仏門に入ること)(=出家受戒)した伝えられています(朱士行は授戒作法を受けた最初の中国人出家者)。

 

 

  • 朱士行(しゅしこう)(生没年不詳)

 

三国時代の魏(三国魏)の僧であった朱士行は、潁川(えいせん)郡(河南省許州の北東)の人で、漢人として最初の出家僧であり、かつ初めて西域求法の旅に出た求法僧として知られています。

 

出家して経典を究めた朱士行は、洛陽で、支婁迦讖(しるかせん)の訳した「道行般若経(どうぎょうはんにゃきょう)」を講じていましたが、文意が通じない箇所を見出しました。そのため、その完本たる「大品般若経(大品)(摩訶般若波羅蜜経)」を中国に招来させる必要性を痛感し、西域への求法の旅に出ることを決意すると、260年,インドに向けて旅立ちました。途中のホータン(于闐)で、「般若経」の原本を入手すると、282年、弟子の弗如檀(ふつにょだん)(法饒(ほうにょう))らに命じて、洛陽に持ち帰らせました。

 

自身は于闐(ホータン)において80歳で没しましたが、291年に、訳経僧の無羅叉(むら朱士行しゃ)と、竺叔蘭(じくしゅくらん)(父はインド系帰化人で洛陽生まれ)が、大品を「放光般若経」20巻として漢訳し、西晋の般若研究に貢献しました。

 

朱士行は、初めて仏典を求めて西域旅に出た求法僧として後世に名を残しましたが、中国の仏僧が、仏教を知るために直接インドへ旅するようになるのが本格化するのは、東晋の僧、法顕のインド巡礼(395~414)(後述)最初で、4世紀後半以降のこととなります。

 

 

一方、呉(222-280)では、支謙や康僧会が出たのに対して、蜀(221-263)は、道教国家として知られていました。

 

  • 康僧会(こうそうえ)(?~280)

康僧会は、中国三国時代の呉の訳経僧で、中央アジアの康居 (こうきょ)(ソグディアナ)の出身です。祖先は、代々インドにいたが父の代にインドシナに移住したといわれ,幼少時に両親をなくして出家したと伝えられています。

 

深く経,律,論の三蔵に通じ、247年、海路で呉の都建業に入った康僧会は、国王孫権の帰依を受け、江南地方で最初の仏教寺院の建初寺を建立したとされ、ここで仏教を広め経典翻訳を行ないました。

 

しかし、南中国に仏教の伝えられた最初といわれる康僧会ですが、康僧会に先立って、支謙が既に20年以上前に江南に宣教していることを考えると、この建初寺のエピソードは、僧会を讃仰するためにできた俗説と考えられています。また、康僧会が従事した経典翻訳の中でも、「六度集経」は訳経されたものではなく、康僧会自身の著述であろうとみられています。

 

 

  • 支謙(しけん)(195頃―254)

三国時代の呉の国の訳経家(出家僧ではない)で、康僧会(こうそうえ)による呉での活動の先例として下地作りの役割をなしたと位置づけられています。

 

大月氏国(月氏)からの帰化人で、生涯を在俗のまま過ごした支謙は、当初は洛陽で、支婁迦讖(しるかせん)の弟子であった支亮について学びました。また、語学の才に秀で、洛陽で西域諸言語を学んで六ヶ国語に通暁したそうです。

 

その後、後漢の最後の皇帝・献帝(けんてい)(在位189‐220)の時の動乱を避けて、長安から建業(南京)逃れ、呉の初代皇帝たる孫権の庇護を受けるに至りました。孫権の信任を得た支謙は、そこで、「博士」に任じられ、太子の孫登(そんとう)(209~241)の養育にあたりましたが、孫登が亡くなると、蘇州西部の穹窿山(きゅうりゅうさん)に隠居し、そこで死去しました。

 

その間(223年から253年までの間)、訳経に従事し、「法句経(ほっくきょう)」「維摩詰経(ゆいまきつきょう)」「大明度無極経(たいみょうどむごくきょう)」「瑞応本起経(ずいおうほんぎきょう)」など大乗、部派仏教の仏典49経を漢訳しました。

 

また、梵唄(ぼんばい)(仏徳を賛嘆するために、曲調にのせて経文などを唱詠するもの)の作成や、仏陀の一代記の訳出は、仏教の庶民化に貢献したと評されています。

 

 

<続く訳経僧の活躍② 西晋時代>

次に、三国時代から、魏晋南北朝(220~589)の西晋時代(265~316)に入りますが、この時代の訳経僧を一人あげるとすれば、竺法護(じくほうご)に尽きます。

 

  • 竺法護(じくほうご)(239―316)

西晋時代(265~316)に活躍した西域僧、訳経僧で、敦煌の月氏の家系(月氏系帰化人の末裔)に生まれ育ちました。当時の人たちは、竺法護のことを尊称して、敦煌出身のためか、「敦煌菩薩」と呼びました。

 

竺法護は、8歳で出家し、竺高座(じくこうざ)を師とし(師にちなんで「竺」姓を名乗るようになったとされる)、経典の研究に専心していましたが、方等経典(ほうとうきょうてん)(大乗仏教の経典を総称していう語)が西域にあるのを聞き、師とともに、西域36か国を遊歴し、多数の西域語仏典を携えて敦煌に帰ってきました。また、その遊行の間に、36ヵ国の西域言語に通暁するようになったそうです。

 

その後、266年から308年まで約40年間、敦煌のほか酒泉、長安、洛陽などで、以下のような仏典150余部300巻以上を漢訳しました。各地を遊方しながらの訳経であったことが伺えます。

 

大乗仏典

「光讃般若経」(こうさんはんにゃぎょう)

「正法華経」(しょうほけきょう)

「維摩詰経」(ゆいまきつきょう)

「大宝積経」(だいほうしゃくきょう)

 

上座部仏典

「普曜経」(ふようきょう)

「生経」(しょうきょう)

 

竺法護が漢訳した経典の中でも、「正法華経」は、鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」の登場以前に、法華信仰および観音信仰が中国に広まる基礎となりました。また、空を説いて、とらわれを捨てることを説く「維摩詰経」は、3世紀の西晋の貴族社会に馴染む教えで深く浸透しました。当時、老荘思想がもてはやされ、竹林の七賢(ちくりんのしちけん)に代表される清談(俗事を避けて自由に物事を論じること)が盛んでした。

 

竺法護の訳出経典は、鳩摩羅什以前の訳経では量質ともに最もすぐれていると高く評価されました。鳩摩羅什(くまらじゅう)以前の訳経を、古訳(こやく)と称しますが、竺法護の訳経は古訳経典の中心をなしました。

 

 

格義仏教と偽経

 

こうした西域からの優秀な訳経僧や中国人僧侶の尽力の結果、4世紀後半(西晋時代(265~316)を経て、五胡十六国の動乱の時代(304〜439))には、仏教は中国に定着していくことになりますが、前述したように、中国の人々は仏教を正確に受け入れていったのではありませんでした。当初は、支遁(314~366)に代表される格義仏教が主流でした。

 

中国では、仏教が定着する4世紀(後半)には、既に儒家思想(儒教)だけでなく、老荘の思想(道教)が流行していたため、中国の人々は仏教伝来の初期においては、道家思想(老荘思想)や儒教など中国固有の思想を媒介として仏教(仏典)は解釈されたのでした(仏教の儀礼部分も、儒教や道教に大きく影響されていたという)。

 

  • 支遁(314‐366)

東晋時代(317~420)の学僧で、幼い頃に西晋末の華北の動乱を避け、江南に移り住み、25歳で出家しました。「道行般若経」など、おもに般若系統の仏典を研究に専心した一方、老荘の学に通じ,「般若経」「維摩経」などを中国的教養のもとに解するなど、格義仏教の代表的人物です。例えば、般若の「空」を「即色義」と解釈するなど、老荘思想の影響を強く受けていたことが伺えます。逆に、「荘子」「逍遥遊篇」には独自の見解に基づいて注釈を加えています。

 

王羲之(東晋の書家・政治家)の要請によって会稽の剡山(えんざん)(霊嘉寺)に移り、そこで、仏典の講説を行い、弟子百人あまりを率いていたとされ、その後、哀帝(在位361~365)の招きにより、都の建康に出て、東安寺で「道行般若経」を講じています。

 

支遁は、貴族文化人の間で名声をはせた人で,清談(魏晋の時代に流行した俗事を避けて風流に親しむ生き方)の好手としても有名でもあり、王羲之や孫綽・許詢・謝安・劉恢らの東晋一流の文人らと交遊しました。

 

 

さらに、中国では、インドや中央アジアの原典から翻訳されたのではなく、中国人が漢語で撰述したり、長大な漢訳経典から抄出したりして創った経典がいくつもあり、偽教(ぎきょう)(中国撰述経典)と呼ばれました。中国で撰述された偽経は、400近くもあると言われています。

 

例えば、「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」というお経を創作され、仏の説いた父母の恩の重きを教え、ひたすらに父母の恩に報いるべきとする孝の道が説かれました。

 

また、「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)というお経は、釈迦十大弟子の一人である目連が餓鬼道に堕ちた亡母を救うために衆僧供養を行なったところ、母が餓鬼の身を脱したという話しが書かれています。この「盂蘭盆経」は当初、竺法護が翻訳した仏教経典とされていましたが、今では偽教と考えられています(死者に対する廻向の思想が説かれているパーリ語経典「餓鬼事経」が参考にされたとの見方がある)。

 

このような状態に変革を起こしたのが、やはり、4世紀頃に西域やインドから渡来してきた、「三蔵法師」と呼ばれる訳経僧たちでした。

 

「三蔵」というのは、仏教の教えを説いた経・律・論(経蔵・律蔵・論蔵)のことをいい、三蔵法師とは三蔵に精通した僧侶のことで、訳経僧(サンスクリットの経典を漢訳する僧)を指していうようになりました(単に「三蔵」と呼ぶこともある)。「三蔵法師」と言えば、日本では中国の伝奇小説「西遊記」に登場する玄奘を指していますが、三蔵法師というのは一般名詞であり、尊称であって、固有名詞ではありません。

 

 

<五胡十六国の時代>

(前趙~前秦)

 

魏晋南北朝(220~589)の五胡十六国の時代(304~439)は、南匈奴の劉淵が、304年に、西晋の内乱に乗じて建国すると、洛陽、長安を占領し、西晋を滅ぼして始まりました。この時代は、五つの部族が、中国本土(中国北半分)を漢民族以外の民族(夷狄(いてき))を支配した最初の時代です。

 

五胡とは、匈奴系の匈奴(きょうど)と(けつ)、トルコ系の鮮卑(せんぴ)、チベット系の氐(テイ)と(きょう)をさします。十六国とは、この五胡の民族が興した国をいいます。ここでは、仏教と関連する国を紹介しつつ、仏教史を概観していきます。

 

後趙

後趙(ごちょう)(319-351)は、奴隷出身で盗賊集団の首領から身を起こした石勒(せきろく)が興した匈奴系統の羯 (けつ) 族の国で、当初、前趙(匈奴が初めて華北にうち立てた国家)に従属していましたが、前趙の混乱に乗じて、前趙を併合し、華北全土を制圧しました。石勒の死後、石虎(在位334-349)は石勒の子である石弘を殺し帝位に就きましたが、国力は衰退し、死後は漢民族によって反乱が起きて(石氏と羯族は)滅びました。

 

この後趙の時代に西域から渡来した代表的な僧として、仏図澄があげられます。中国では、竺法護(じくほうご)に次いで西域から渡来した高僧として知られています。

 

 

  • 仏図澄(232―348)

 

仏図澄(ぶっとちょう)は、西域の亀茲(きじ)(庫車(クチャ))出身の僧侶で、9歳で出家、敦煌を経て310年、実に79歳のとき、敦煌を通って洛陽にきて、仏教を弘宣(ぐせん)しました(117歳になるまで天寿を全う)。この頃、五胡十六国(304~439)の混乱期(4世紀前半)で、五胡の一つ羯(けつ)族が建国し、北方民族を統一した後趙(こうちょう)国に招かれました。

 

仏図澄(ぶっとちょう)は、呪術に通じ、神通力をもっていたとされ、暴虐非道とされていた後趙王の石勒(せきろく)や石虎(せきこ)に対して、慈悲を説くなど、神変呪術を用いて教化し、後趙の国師として崇められました(石虎は石勒以上に仏図澄を敬信したと言われる)。

 

仏図澄自身は経典の翻訳も著述もしませんでしたが、石氏の援助もあり、30年間の布教活動で、各地に893もの寺院を建設するなど、華北に、外来の宗教である仏教の定着と興隆をもたらしました。また、仏図澄は門弟一万人ともいわれ、その門下から、初期中国仏教の基礎を築いたと評されている釈道安などの中国人僧侶が出ました。さらにその弟子の慧遠は中国の浄土教信仰の祖となりました。

 

 

前秦

第3代苻堅のとき西域を含む華北全域を平定し,前秦(ぜんしん)(351-394)を建国しました。五胡時代には珍しい政治の安定と文化の隆盛を築いたものの,東晋併呑に失敗して国家は瓦解しました。

 

  • 釈道安(道安)(312―385)

 

道安は、中国、五胡十六国時代(304~439)の僧で、経典翻訳の整理や僧団の儀式・規則の制定など、鳩摩羅什(くまらじゅう)以前の初期中国仏教の基礎を確立した代表的学僧と評されています。

 

河北省に生まれた道安は、12歳で出家した後、仏図澄の弟子となり、師の没後、各地の教化に努めましたが、五胡十六国の動乱に巻き込まれ、379年、襄陽(じょうよう)(湖北省)を攻略した前秦によって、長安へ連れ去られてしました。

 

その後、釈道安は、前秦の苻堅 (ふけん)(在位357~385)の庇護のもとで(もともと、苻堅は高名な釈道安を言わば政治顧問とするために連れ去った)、経典の研究に打ち込み、多数の経序を後世に残しました。

 

道安自身は直接訳経に携わることはありませんでしたが、大乗・小乗の別なく、当時訳経されていた主な経典を整理して、364年に経録(経典目録)を編纂しました(「綜理衆経目録」と呼ばれ、後世の漢訳大蔵経の基礎をつくったとされる)。

 

(釈)道安の当時の仏教の主流は、中国固有の老荘思想の概念や用語によって仏典を解釈する格義仏教でしたが、仏典とは仏教本来の概念や用語によって注釈・研究されなければならないという見解に立っていた道安は、老荘思想に対して仏教の独自性を確立しようとしたのでした。

 

この結果、経典の解釈は一新され、格義仏教より脱却した中国仏教の流れが始まりました。道安は、中国仏教初期の格義仏教からの開放者と位置づけられただけでなく、また、僧が守るべき規範を制定し、戒律をまとめたことから、中国人として初めて、仏教教団を組織した僧としても知られています。

 

なお、道安は、当時、西域で名を馳せていた鳩摩羅什を中国に招くよう、苻堅に建言したと言われています。しかし、苻堅も道安自身も亡くなってしまうので、これが実現することはありませんでした。鳩摩羅什が長安に渡来するのは次の後秦(384~417)になってからのことでした(後述)。

 

道安の数多の弟子の中には、中国の浄土教(百蓮社)の祖となる慧遠 (えおん) (334~416)がいます。なお、道安は慧遠とともに、説一切有部(せついっさいうぶ)の諸論書を講究する毘曇宗(びどんしゅう)の成立に貢献しています。

 

 

<東晋の時代>

 

一方、魏晋南北朝(220~589)の東晋(317~420)は、265年に西晋が滅んだ後に、王族の司馬睿が江南の建康(南京)を都とした時代です。華北が五胡十六国に分裂している間、宋(南朝)の成立まで、江南を支配しました。東晋の僧と言えば、慧遠と竺道生があげられます。

 

  • 慧遠(えおん)(334‐416)

 

東晋の(廬山に住んだ)高僧で、中国における浄土教の祖師と称され、同名の隋代の慧遠と区別して、「蘆山(ろさん)の慧遠」と呼ばれます。

 

慧遠は、雁門郡(山西省)出身で、21歳の頃に釈道安の元で出家し、道安の弟子として仏教経典や戒律を学び、道安に随って各地を転々としました。しかし、襄陽(じょうよう)(湖北省)に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて南下し、江南の廬山(江西省北部)に入りました(それ以後30年余り、慧遠は一度も山を出なかったという)。

 

また、慧遠は、長安の鳩摩羅什とも手紙で往来して親交を結んだことでも知られています。401年、鳩摩羅什が関中に入り国師として後秦の都長安に迎え入れられると、慧遠は鳩摩羅什と往復書簡を交わし、新出の経典についての疑問点等をただしたそうです。

 

廬山に東林寺を開いた慧遠は、402年に、この寺の阿弥陀仏像の前で123人の同志と、(「白蓮社」という念仏の結社を創設し)念仏実践の誓願を立てました。東林寺は、以後、中国における浄土教の根本道場となり,高僧や文人墨客がしきりに訪れるようになったと言われています。

 

その念仏の結社は、後に白蓮社と言われるようになり、慧遠は白蓮社の祖と仰がれるようになるだけでなく、浄土教の祖師とされています。また、その宗派は白蓮教とも言われるようになり、わかりやすい教えが大衆的な支持を受け、中国での仏教の民衆普及をもたらしました。(ただし、慧遠の念仏行は、後世の浄土三部経に基づく称名念仏とは異なり、「般舟三昧経」に基づいた禅観の修法であった)。

 

さらに、持戒堅固な慧遠は、戒律の整備にも努め、部派仏教の説一切有部の系統に属する戒律である「十誦律」の翻訳及び普及に尽力しました。また、当時、東晋の権力者、桓玄(かんげん)に対して仏法は王法に従属しないことを正面きって説くなど(「沙門不敬王者論」)宗教信仰の自主性を主張して対立したことでも有名です。

 

加えて、慧遠は、前述したように、師の道安とともに、部派仏教の説一切有部(せついっさいうぶ)の諸論書を講究する毘曇宗(びどんしゅう)の成立に貢献しました。毘曇宗が研究の中心に位置づけた阿毘曇心論(あびどんしんろん)の漢訳は慧遠によるものです

 

 

  • 竺道生(じくどうしょう)(355?‐434)

 

東晋末期から劉宋(南朝の宋)期において中心的役割を果たした仏教哲学者で、河北省出身、道生でも知られています。釈道安の同門、竺法汰(320‐387)の弟子で,廬山にあった慧遠(えおん)、僧伽提婆(そうぎゃだいば)、長安のクマーラジーバ(鳩摩羅什)などのもとでも勉学しました。また、クマーラジーバ門下の僧肇(そうちよう/そうじょう)や、詩人・文学者の謝霊運との深い学問的交流もあったとされています。

 

涅槃経の異訳である「般泥洹経(はつないおんぎょう)」を研究し、成仏できないとされていた、仏の教えを信じず、成仏する因縁をもたない闡提(せんだい)の成仏や、修業を積まなくても直ちに悟りを開けるとする頓悟(とんご)を主張しました。

 

竺道生は、当時の中国思想界が問題にしたあらゆる人間が聖人になることができるか」という問いに対し、「闡提成仏説」と「頓悟成仏説」を立てて答えましたが、保守的な僧侶によって宋の都の建康(南京)から追放され、蘇州の虎丘山に逃れました。

 

<関連投稿>

中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ

中国仏教史③ (魏晋南北朝2):鳩摩羅什と法顕 大乗仏教の本格的な受容

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中国仏教史➄ (隋唐):玄奘と義浄 最盛期の中国仏教へ

中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛

 

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中国仏教④ 律宗:教義のない戒律だけの専門宗派

中国仏教➄ 禅宗:達磨から始まった中国起源の宗派

中国仏教⑥ 天台宗と涅槃宗:根本経典は法華経と涅槃経

中国仏教⑦ 三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!

中国仏教⑧ 法相宗と摂論宗:インド唯識派を継承!

中国仏教⑨ 華厳宗と地論宗:唯識から総合仏教へ

中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!

中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る(中国編)(BIGLOBE)

中国仏教(世界史の窓)

中国の仏教(Wikipedia)

ほか、コトバンク、Wikipediaから

 

(2022年7月18日)