三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!

 

中国仏教の13宗(毘曇宗,成実宗,律宗,三論宗,涅槃宗,地論宗,浄土宗,禅宗,摂論宗,天台宗,華厳宗,法相宗,真言宗)の中の三論宗と、その寓宗となった成実宗についてまとめました。

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<三論宗>

 

  • 三論宗の系譜

 

三論宗(さんろんしゅう)は、インドの竜樹(ナーガールジュナ)(150頃〜250頃)の中観派(ちゅうがんは)の系譜を引き継ぎ、般若経の「空」の教えの精髄を説いた、中国仏教十三宗の一つです。

 

三論宗の教えの源流は、一般的には、インドの竜樹(ナガールジュナ)とその弟子提婆(だいば)とされますが、さらに遡って、高祖(一宗一派を開いた高僧)を文殊菩薩とし,次祖を馬鳴(めみょう),三祖を龍樹とするとする立場もあります。いずれにしても、三論宗は、中国では晋代(265~420)に成立し、隋代(581~618)に吉蔵(きちぞう)によって大成されました。

 

所依の経典は、「中論」「十二門論」「百論」で、三論宗の三論とは、この3部の「般若経」の「空」を論じた論書からきています。「中論」と「十二門論」は竜樹(ナガールジュナ)の著作、また「百論」はその弟子の提婆(だいば)の著作で、401年に長安にきたインドの鳩摩羅什(クマーラジーバ)(344~413)によって翻訳(漢訳)され、「三論学派」または「三論の学」となりました。

 

鳩摩羅什(くまらじゅう)は、龍樹の「空」の教えが、2人の高弟、龍智(りゅうち)と提婆(だいば)に継承され、2派に分れた際、提婆が相承した流れを汲む仏僧です。

 

その鳩摩羅什(くまらじゅう)の門下に、南朝の梁(りょう)(502~557)の時代、その教えを江南に伝えた高句麗の僧、僧朗(そうろう)がいました。僧朗は、クマーラジーバ没後、辺境地域に流散して分裂していた「三論の学(三論学派)」を統一しました。この時、拠点となったのが、南朝の斉(479~502)の時代に創建された、中国南京郊外に位置する摂山(しようざん)棲霞寺(せいかじ)です。次の梁(502~557)の時代に僧朗がここに住して以後、「三論の学」が盛んになりました。

 

その隆盛ぶりは、梁の武帝(在位502~549)に、当時盛んであった成実論(じようじつろん)(成実宗)を捨てさせ、三論の学(三論宗)を奉じさせたほどでした。

 

その後、僧朗から、僧詮(そうせん)、法朗(ほうろう)を経て、吉蔵(きちぞう)と受け継がれました。吉蔵は、三論宗という宗の組織体系が構築させたことから、三論宗の宗祖(開祖)とされます。

 

  • 三論宗の宗祖・吉蔵

 

吉蔵(きちぞう)(549~623年)は、中国六朝時代末から、隋、唐初期にかけて活躍した金陵(江蘇省南京市)の出身の僧で、先祖は安息国の人とされています。紹興酒で有名な紹興近くに位置する浙江省の会稽(かいけい)にある嘉祥寺(かじょうじ)に住んでいたところから、後に大師号(皇帝から贈られる大師の尊号)として、嘉祥大師(かじょうだいし)と称されました。

 

597年には、天台宗の智顗(ちぎ)と交流を深めたとされています。また、信者となったとされる隋の煬帝に召されて、その命により、揚州の慧日道場や長安の日厳寺を開き、三論や法華の布教や講説を行いました(三論教学を大成(三論宗)させたのはこの頃)。

 

吉蔵(きちぞう)は、三論の注釈書、「中論疏(しょ)」、「百論疏」、「十二門論疏」および「三論玄義」などを著して、三論(龍樹の「中論」「十二門論」、提婆の「百論」)の教学を大成させました。この中で、「三論玄義」は、龍樹の空観を最も簡明に要約し解説した仏教入門書(教科書)として高く評されています。さらに、三論やその所依の経典だけでなく、「法華経」や「華厳経」諸大乗経を講讃し注釈書を著しました。

 

 

  • 三論宗の教え

(龍樹の空観を説いた吉蔵の教え)

 

三論宗では、般若の「空」を教理の根幹とします。「仏教の根本的な哲学である般若皆空・諸行無常で代表され、特にこの世界の現象そのものには実体がない、すなわち空である」という点を強調しています。

 

吉蔵は、釈迦の教理が「二諦八不(にたいはっぷ)の理」を終極の思想としているとし、破邪顕正(はじゃけんしょう)を説きました。これは、「俗」も「真」(二諦)もすべての存在は、互いに因となり果となり、依り支え合っていて、独立した実体はないのである(八不)から、「空」にも「有」にもとらわれず、諸宗の偏執(誤った見解や偏り)を取り除き(破邪)、中道を実践し正しい道理を顕(あらわ)しなさい(顕正)という主旨だと解されています。

 

なお、八不は、真理に合する中道の実践も説かれているとして「八不中道」とも呼ばれます。当時、姸(けん)を競っていた諸学派の中にあって、三論の学が説く「破邪顕正」(はじゃけんしょう)が、仏教の根本真理であると説かれたのです。三論宗では,「八不を破邪、中道を顕正」の意味に解しているとされています。

 

また、三論宗では、他宗が自分たちの依拠する経(経典)の価値の優劣を問題視するのに対して、各宗派の経(経典)は人々を導く方法において違いはあるが、本来は執着を離れるために説かれたという同一の価値を持つと説かれます。

 

 

  • 三論宗の衰退

 

このように、三論宗では、烈しい空観の修禅にその特徴があり、成実宗が三論宗の寓宗(ぐうしゅう)(独立しておらず他宗に付属している宗旨)となるほど発展しました。しかし、唐代には、天台宗や華厳宗、法相宗の隆盛の陰に隠れ、宗風が振るわなくなり、学問としてのみ存在するようになり、最終的には、禅宗の中に吸収されていきました。

 

なお、中国において、三論宗は三論学派(三論の学)で、「三論宗」の語が用いられたことはなかったとの指摘があります。では、中国の三論学派が、日本で「三論宗」と呼ばれるようになったのは、奈良時代の天平年間(749-757)、東大寺において、「三論宗」が南都六宗の一つとして公的に確立されてからだということのようです。

 

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<成実宗>

 

成実宗は、三論宗の付宗(付属する宗派)で、3~4世紀ごろのインドの仏教学者、訶梨跋摩(かりばつま)の著わした「成実論」に基づいて、成立しました。「成実論」は、部派仏教(小乗仏教)の教理に大乗的趣旨を加味した仏教概説書です。

 

中国では、五胡十六国の後秦(384~417)の時代の412年に鳩摩羅什(くまらじゅう)が「成実論」を漢訳し、弟子の僧叡がそれを説教して始まりました。その後、鳩摩羅什門下の僧導(そうどう)や僧嵩(そうすう)、僧導の弟子・道猛(413~475)によって宣揚されました。

 

南北朝時代には、最初、北朝で継承された後、南方にも広まり、特に、南朝の梁代(502~556年)で最も隆盛となりました。梁の三大法師と称された光宅寺の法雲、開善寺の智蔵(ちぞう)、荘厳寺の僧旻(そうみん)は成実の論師で、当時の仏教界の大立者と評されています。「成実論師」「成実師」などの呼称もおこり、一大学派が形成されました。そこでは、万物はすべて空(くう)であり、無であることを悟る(一切皆空と観じる)ことによって、煩悩(ぼんのう)を解脱し、涅槃に到達することができるとの教義が研究されました。

 

しかし、三論の研究が次第に盛んになり、隋代に、三論宗祖の吉蔵らによって、成実論が、小乗の論(部派仏教)と批判されてからは、次第に「成実論」の研究は衰えてきました。(吉蔵は三論宗の教義の綱要書である「三論玄義」の中で大乗の空と成実の空との相違点を論じた)。初唐には既に宗派としての形跡を失っていた成実宗は、最終的に三論宗の寓宗(付宗)となりました。

 

 

<関連投稿>

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<参照>

三論宗とは(コトバンク)

三論宗(国史大辞典・世界大百科事典 – ジャパンナレッジ)

三論宗(新纂浄土宗大辞典)

三論宗(Wikipedia)

成実宗とは(コトバンク)

成実宗(Wikipedia)

 

(2022年7月10日)