中国仏教史シリーズ4回目の今回は、魏晋南北朝の南北朝時代についてです。五胡十六国(304~439)と東晋の時代(317-420)、西域僧の仏図澄や鳩摩羅什、さらに漢人のなかからも、道安や慧遠、法顕など優れた僧侶が現れ、インドや西域から、「華厳経」や「法華経」などの代表的な大乗仏教の経典が続々ともたらされました。
439年、鮮卑族の拓跋氏(たくばつし)が立てた北魏(386~534)の第3代皇帝、太武帝(在位423~452)の時代に華北が統一され、動乱が続いた五胡十六国(304~439)の時代も終焉し、それ以降,華中の漢民族と対立する南北朝時代(439~589)に入りました。3世紀から続く、魏晋南北朝の時代(220~589)の最終局面において、中国の仏教はいかなる変遷をたどったのでしょうか?
★☆★☆★☆★☆
<太武帝の廃仏毀釈>
仏教は、太武帝が華北統一を進める中で、五胡十六国の北涼国(397~439)を滅ぼしたころから国内に広まってきました。きっかけは、太武帝が、北涼国にいた僧侶三千人を捕虜とし、多数の北涼国人とともに首都平城に強制移住させたことでした。
その後、各王朝が仏教を保護したことから、中国の仏教は広く信仰され、急速な発展を遂げました。ただし、西方から伝来した仏教は、確かに漢代に盛んであった儒教に取って代わりましたが、その当時、中国固有の道教も、神仙思想と結びついて、漢人の一般民衆の中に深く浸透していました。
道教の指導者寇謙之(こうけんし)(365~448)は、太武帝(たいぶてい)(在423~452)に仕え、北魏の宮廷の中に道教の影響が強まっていました。大武帝は、当初仏教を保護していましたが、道教信者となって道教を保護すると、道教による思想統一をはかるため446年に、諸州に詔し廃仏毀釈を断行しました。北魏・太武帝の法難(魏武の法難)とも呼ばれる仏教排斥では、首都平城の仏教寺院の多くは焼かれ、僧侶も殺戮されました。
その直接的な原因は、盧水胡(甘粛省)の蓋呉による太武帝への反乱事件である「蓋呉(かいご/こうご)の乱(445-446)」と言われています。鎮圧された際に蓋呉に関わりのある長安の仏教寺院に武器が隠されていたことが発覚したのです。
中国王朝では、このように、たびたび、外来宗教である仏教に弾圧が行われ、その中で特に大規模であった以下の四回の仏教弾圧をまとめて「三武一宗(さんぶいっそう)の法難」といいます(三人の「武」の付く皇帝と、一人の「宗」の付く皇帝の時に起こったため、そう命名された)。
三武一宗の法難
446年:北魏の太武帝による弾圧
574年と575年:北周の武帝による弾圧
845年:唐の武宗による弾圧
955年:後周の世宗の弾圧
これらの廃仏の共通原因の一つには、仏教が隆盛すると、税金や兵役を免れるために出家する人も増えてきたことによる国家財政的な問題や、僧侶の堕落という背景などが上げられます。
<文成帝の仏教保護>
三武一宗の法難の最初となった北魏の太武帝による廃仏は、北魏の仏教徒にとっては、苦難の時代となりましたが、次の文成帝(在位452~465)は、452年に、仏教復興の詔を発し、仏教保護に転じたことから、以後、再び仏教は盛んとなりました。この時代、仏教の再興に中心的な役割を果たしたのが、沙門統の曇曜でした。
- 曇曜(どんよう)(生没年不詳)
もと北涼(涼州(甘粛省))の僧で、太武帝の北涼征服によって魏都平城に移り、文成帝のとき仏教が復興すると、460年、西域渡来僧であった師賢の後を継いで、2代目の沙門統(しゃもんとう)となりました。沙門統とは、北魏の時代に国によって設置された仏教教団を統括する僧官の名称です。曇曜は、30年以上にわたり3代の皇帝に仕えて沙門統の地位にあり、北魏における仏教の繁栄に貢献しました。
曇曜の功績としては、国家の事業として、文成帝の460年、北魏の都・平城の近郊の雲崗(うんこう)に、大規模な石窟(せっくつ)寺院(雲崗石窟)を造営(開削)したことがあげられます(この事業は524年まで続いた)。雲崗には、インドのガンダーラやグプタ様式の影響を受けた15mほどの5体の大仏が造営されました(曇曜五窟(ごくつ)と呼ばれる)。
さらに、曇曜は、僧祇戸と仏図戸の制度を設け、北魏全体に普及させました。
僧祇戸(そうぎこ)
毎年、粟60石を僧曹(宗教行政を担当する役所、僧侶が長官を務めていた)に納める民戸のことをいう。徴収された僧祇粟は、凶作の年のための備蓄穀物として貯えられ、平時には貧窮した人民に貸し付けられた。
仏図戸(ぶっとこ)
中国における仏教教団の隷属民。曇曜が,476年ごろ孝文帝に奏請して設置したもので、重罪犯人や官奴(奴隷)を、寺院の清掃や寺田の耕作など仏教教団の労役に従事させた。
僧祇戸を通じて、貧民に貸し付けた利殖による財貨と、仏図戸の労働力によって、仏教教団の経済的基礎が強固になり、その資金は石窟造営の一大事業にも充てられました。
さらに、孝文帝(在位471~499)は、漢化政策の一環として、洛陽遷都を実行すると、仏教の中心も洛陽に移り、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並んだと言われています(永寧寺の壮大な伽藍を見た達磨は、連日「南無」と唱えたという逸話も残されている)。
また、洛陽の郊外の龍門(竜門)に、新たな石窟寺院(龍門石窟)の造営も始まりました(唐の玄宗皇帝の頃まで続けられた)。龍門の石窟は、雲崗のようなインドの影響は薄まり、中国独自の様式が見られるようになったという違いはありますが、両者とも、石窟寺院が作られた自然環境を反映して、石像や石彫(レリーフ)によって仏教世界が表現されたことは特筆されます。
その後も、宣武帝(在位500~515)・孝明帝(在位516~528)は、自らも仏教を信仰して保護したため、北魏の仏教は繁栄の一途をたどり、貴族にも信者が増えていきました。洛陽には多くの寺院が建設され、北魏の末に、1367の寺院があり、都市の三分の一は寺院に占められたとさえ言われています(北魏全体では、寺院数3万、僧侶2百万人という試算もある)。
<律宗と浄土教の展開>
一方、北魏(386~534)の時代、法聡(生没年不明)が、四分律宗(律宗)を開宗し、その後、地論宗の(開祖である)慧光(えこう)(468~537)が「四分律疏」を著して、四分律宗の基盤を築きました。
もともとは、東晋(317~420)の時代に、法顕によって、「十誦律」「四分律」「摩訶僧祇律」などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化しました。中国では、法蔵部の「四分律(しぶりつ)」が最も重んじられ、戒律(四分律)の研究と実践を行う仏教の一宗派が、律宗(りっしゅう)となったのでした。
また、中国浄土教の開祖(祖師)とされる曇鸞(どんらん)(476~542)も、北魏の僧(山西省の人)です(東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まるとされる)。曇鸞がいかなる師のもとで出家したかは不明とされていますが、50歳頃、インドから来たばかりの僧・菩提流支(ぼだいるし)との接見の機会を得た後、浄土教へと帰依したと言われています(なお、東晋(265-420)の僧、慧遠(えおん)(334‐416)は、浄土宗の初(始)祖と位置づけられる)。
- 菩提流支(ぼだいるし)(生没年不詳)
北インド出身の訳経僧で、508年、北魏の都、洛陽に来訪し、永寧寺(えいねいじ)に住しながら、700人の僧を率いて訳経に従事しました。東魏(534-550)期にかけての約30年間に、「十地経論(じゅうじきょうろん)」「入楞伽経(にゅうりょうがきょう)」「金剛般若経」、「無量寿経論(むりょうじゅきょうろん)」など39部127巻もの経論を訳出しました。
「十地経論」の翻訳によって、地論宗が誕生したことから、菩提流支は、後世、地論宗の祖とされました(弟子の慧光が、本論の研究を盛んにし,地論宗と呼ばれるようになった)。
また、菩提流支は、曇鸞(どんらん)に、浄土教諸宗のよりどころとする経典で、阿弥陀仏信仰を説く「観無量寿経」を授け、さらに、世親の「無量寿経論」を伝訳したことから、浄土教の一祖と仰がれています。達磨とほぼ同時代に活躍しました。
菩提流支より以前の中国仏教界は,クマーラジーバ(鳩摩羅什)によって訳出された竜樹系の大乗仏教に立脚するものでしたが、流支の訳出した経論は、竜樹以後の無着、世親らによって発展させられたインドの新しい大乗仏教の系譜上にあるものでした(出典)。
北魏はその後、六鎮の乱(りくちんのらん)と呼ばれる反乱をきっかけに、東魏(534-550)と西魏(534-556)の東西に分裂し、さらに東魏は北斉(550-577)が、西魏は北周(557-581)にそれぞれ滅ぼされました。
<北周の廃仏>
北斉(550-577)では、僧尼400万人、寺院数4万余と伝わるなど、仏教は興隆し、天台仏教が興ったのもこの頃です。これに対して、北周(557-581)では、三武一宗の法難の二番目となる「周武の法難(北周の廃仏)」(574~578)があり、北周の武帝が、仏教と道教に対する弾圧が行われる受難の時代となりました。
北朝の末期、北周(557-581)の武帝は、還俗僧の衛元嵩(えいげんすう)らの提言を受け入れ、574年と577年の2回にわたり、廃仏を行いました。この「周武の法難」とも呼ばれる弾圧では、仏教だけでなく、道教も弾圧の対象となり、僧侶,道士を還俗させられました(もっとも弾圧は主として仏教に向けられた)。
574年5月の「仏道二教を断ずるの詔」を発して行われた弾圧は、隣国北斉(ほくせい)に対する臨戦体制を整える最中に実施され、仏・道二教の排斥は、財産没収による国家財政への寄与という一面を持っていました。結果として、寺院は没収、300万の僧は軍民に編入されました。577年に実施された2回目の廃仏は、北斉を攻撃して滅ぼした後、北斉の旧領内にも適用するために行われたと言われています。
北周の武帝による弾圧は、華北の仏教は、大きな打撃を受け、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えるとともに、中国で末法思想(後述)が流行していくきっかけをつくったとも言われています。
また、北周の武帝は、仏教および道教を廃毀した後の574年6月、国立宗教研究機関のような施設として、通道観(つうどうかん)を設置しました(「通道観設置の詔」を発令)。
仏道二教廃毀以前に、武帝は、儒教・仏教・道教の三教に関する優劣論争を盛んに行わせていました。通道観設置の背景には、国家として、三教の教理を研究させる機関を設立し、(廃仏後の)旧僧道の中で優秀な者を、公費の研修員として収容させるという狙いであったと見られています。実際、通道観には、120名(一説に300名)の学士が置かれ、三教の研究に従事していたそうです。
北周の廃仏や、通道観の設置による儒教・仏教・道教の三教の教理研究は、「至道」という概念に基づいて(「至道」の名の下に)行われたとされています。
「至道」は、現実が真理実現の場所であり、真理を得るためには必ずしも出家する必要はないという中国的な発想から生まれた考え方で、ここから、現実のうちに真理を認めようとする「即事而真」(そくじにしん)(現実の事象、事物はすなわち真理である)の思想が定着していきました。
この結果、武帝による廃仏後、現実から目を逸らすのではなく肯定し、その中で真理を求める」という現実肯定に基づく仏教哲学が確立し、次の隋や唐の時代に、密教や華厳宗にも取り込まれていったとされています。
<末法思想>
一方、周武の法難は、当時、流行し出した末法思想との関連も指摘されています。攻撃した側にとっては、末法であるがゆえに仏教は堕落しているという弾圧の動機付けとなり、逆に仏教徒からすれば、末法の世であるから廃仏などが起きるという考え方も広がりました。
当時、中国で最初に見られたとされる末法思想が広がりつつある時代に生き、末法という時代を意識した僧侶に、中国の天台宗で第二祖とされる慧思(515~577)がいます。
- 慧思(えし)(515~577)
慧思は、515年に北魏で生まれ、529年に出家した後、534年に、慧文の許で禅の修行に励み、開悟しました。その悟りは、知識と瞑想で段階的に悟っていく漸悟(ぜんご)ではなく、一挙に悟る頓悟(とんご)でした(なお中国では,古く竺道生(じくどうしょう)が頓悟を説いたといわれている)。
慧思は、548年から,頓悟の体験にもとづく大乗仏教のあり方を山東・河南の各地で説きましたが、仏教界の激しい迫害にあいました。折しも、当時、北魏は、西魏と東魏に分裂し、それぞれ北周と北斉に交代するなど、世相が混乱したことから、南方へ向かうことを決意した慧思は、大蘇山(河南省)に入りましたが、ここでも迫害を受けると、末法の世に入ったことを実感し、逆に、衆生済度の使命と護法への情熱を燃やしたそうです。
それを示したのが、558年に慧思が自身の発心のさまを記した「立誓願文(りゅうせいがんもん)」で、正法五百年,像法千年,末法万年の三時説と末法思想が中国で最初に確認されました。そこでは、弥勒如来の下生の時に備え、その際に慧思自身の身と、自ら造り奉納した金字による二経(「大品般若経」と「妙法蓮華経」)が出現し、一切の衆生を済度せんことを願うとする旨が述べられています。
三時説とは、釈迦入滅後,しだいに仏教が衰え,釈迦の教えが行われなくなる時代が来るという仏教史観で、釈尊の入滅を起点に、仏教が完全に滅びる法滅までの時間を、正法・像法(ぞうほう)・末法の三段階に時代が区分されました。
釈尊の入滅の後しばらくは、釈尊が説いた通りの正しい教えに従って修行し、証果を得る者のいる、いわゆる教(教説)・行(実践)・証(結果)のそろった、正法の時代が1000年(一説に500年)続くとされます。しかしその後、教と行は正しく維持されるが、証を得る者がいなくなる、教・行のみの像法の時代が千年続き、さらには教えのみが残る、一万年続く末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至るとされています。
インドでは釈尊の入滅を契機として、時間の経過に伴う仏教の衰退や社会の荒廃を憂慮する思想が徐々に説かれ始めたが、正法・像法・末法という三時説そのものは、中国で成立したと考えられています。
実際、インドでエフタル族の迫害を目の当たりにした那連提耶舎(なれんだいやしゃ)が、558年に、北斉(550-577)に渡り、時代の悪化や法滅について説く経典を続けて漢訳したとされています。慧思の「立誓願文」では、「正法五百年・像法千年・末法万年」と三時の年数が定められるなど初めて明文化されました。
さらに、仏滅年代が計算され、慧思が生まれた515年は、(正法500年・像法1000年を経過し)すでに末法の82年に当たるそうです。なお、日本では平安中期,1052年に末法に入ったと信じられています。折からの戦乱・疫病などの社会不安もあって、浄土信仰が盛んになるとともに、鎌倉仏教発生の契機となりました。
さて、その後,慧思((515―577)は、556年頃、光州(河南省)大蘇山(だいそざん)に入り、(天台三祖となる)智顗(ちぎ)らに法を伝えました。568年には、智顗をふくむ他の弟子らと別れ、門弟子40余人と一緒に、湖南省の南嶽衡山入りを果たし、以後、寂するまでの10年近く、南嶽(南岳)を拠点として、坐禅講説などに努めました。南朝の陳の宣帝は、慧思に対して大禅師号を与えました(ゆえに南嶽大師と呼ばれる)。
以上、南北朝時代の北朝における仏教発展の推移を追ってきましたが、今度は南朝についてみてみましょう。
<南朝の仏教>
宋(420-479)
斉(479-502)
梁(502-557)
浄土教の祖師、蘆山(ろさん)の慧遠や、頓悟説をたてた道生、インドへ旅した法顕を輩出した東晋(265-420)の時代の流れを受けて、南朝でも仏教は盛んになり、民間にも定着していました。中でも、希代の崇仏皇帝とされる梁(502-557)の武帝(位502〜549)の時期に最盛期を迎えました。武帝は、504年に、道教を捨て仏教に帰し、建康(南京)には多くの寺院がつくられ、都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市となりました。
529年には、同泰寺(どうたいじ)に無遮大会(むしゃだいえ)(貴賤・僧俗・上下・男女の区別なくだれにでも財施・法施を行う法会)を設け、捨身(身命をすてて仏などに供養すること)をしたことでも知られています。
自ら「三宝の奴」と称した武帝はさらに、548年、西インドのバラモンの出身の僧侶の真諦(499~569)を広東に招きました。
- 真諦(499~569)
南朝の梁・陳時代の外来僧で中国の三大翻訳家の一人。梁の武帝の招きに応じ、548年、建康(南京)に来訪し、当時、梁に対して国内で起こった「侯景(こうけい)の乱」に遭いながらも、各地を転々としながら、漢訳と著述に専念しました。
その翻訳は、「金光明経」、「倶舎釈論」、「摂大乗論」、「摂大乗論釈」、「大乗起信論」など64部278巻に及びました(ただし、中国・日本に多大な影響を与えたとされる「大乗起信論」は、インド成立でないとする学説がある)。
この中で、無着の「摂大乗論」と、この論を世親が注釈した「摂大乗論釈(釈論)」に基づいて、摂論宗(しょうろんしゅう)が興され、これらを漢訳した真諦は、摂論宗(しょうろんしゅう)の祖とされます。
なお、陳(557-589)の時代、後に、天台宗の第三祖(実質的な祖)とされる智顗(天台大師)は、都の建康(南京)で、無名の状態から名をはせました。その名声は、当時の高僧、高官、皇帝にまで及んだとされています。
このような北魏及び南朝梁の南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北魏においては「六鎮の乱」に始まる東魏・西魏分裂、南朝梁では侯景の乱(こうけいのらん)による南朝の衰退によって、一転して混乱の極地に陥ることとなりました。
しかし、中国の仏教は、隋と、次の唐の時代にかけて、国家統制も加えられ国家との結びつきを深めながら、定着していきました。
<関連投稿>
<関連投稿>
中国仏教史① (漢):仏教はシルクロードを超えて中国へ
中国仏教史② (魏晋南北朝1):中国仏教の定着 格義仏教の克服
中国仏教史③ (魏晋南北朝2):鳩摩羅什と法顕 大乗仏教の本格的な受容
中国仏教史➄ (隋唐):玄奘と義浄 最盛期の中国仏教へ
中国仏教史⑥ (宋~清):伝統的教派の衰退と民間宗教の隆盛
中国仏教① 中国十三宗とは?:経・律・論で区分
中国仏教② 浄土教:阿弥陀仏の極楽浄土を求めて…
中国仏教③ 毘曇宗 (俱舎宗):中国にも伝わった上座部仏教
中国仏教④ 律宗:教義のない戒律だけの専門宗派
中国仏教➄ 禅宗:達磨から始まった中国起源の宗派
中国仏教⑥ 天台宗と涅槃宗:根本経典は法華経と涅槃経
中国仏教⑦ 三論宗と成実宗:般若教の「空」を説く!
中国仏教⑧ 法相宗と摂論宗:インド唯識派を継承!
中国仏教⑨ 華厳宗と地論宗:唯識から総合仏教へ
中国仏教⑩ 真言宗:インド密教を継承!
中国仏教⑪ 中国の民間宗教:白蓮教から羅経・一貫道まで
<参照>
仏教のルーツを知る(中国編)(BIGLOBE)
三武一宗の法難(世界史の窓)
三武一宗の法難 (新纂浄土宗大辞典)
ほか、コトバンク、Wikipediaから
(2022年7月18日)