イスラエル史②:オスロ合意からガザ戦争まで

 

イスラエル・ガザ戦争で、改めて知らされたイスラエル・パレスチナの深い闇について正しく理解すべく、イスラエルの歴史を追っています。前回の「イスラエル史➀:シオニズム運動の結実とその代償」に続き、ハマスが表舞台に登場する1982年のインティファーダから現在までを概観します。

 

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インティファーダ(パレスチナ抵抗運動)

 

1982年にPLOがイスラエルに押さえ込まれて、チュニスに移った5年後、1987年12月、イスラエルが占領したガザ地区やヨルダン川西岸のパレスチナ人住民の中から、イスラエル占領地支配に抵抗して、自然発生的に一斉蜂起(インティファーダ)が始まりました。

 

きっかけは、ガザ地区で、イスラエル人のセールスマンが刺殺された後、交通事故でパレスチナ人4人が死亡したことに対して、これがイスラエル人による報復だとして暴動が発生し、火炎瓶を投げた17歳の少年をイスラエル兵が射殺した事件でした。

 

その後も、パレスチナ人は大人も子供も女性も石を投げたりタイヤを燃やしたりするなど、占領地のイスラエル軍に対する抵抗運動は、ガザ地区からヨルダン川西岸にも拡大し、大規模な住民蜂起に発展しました。

 

イスラエル側も、これまでの、国家間の戦争という形態でもなく、ハイジャックなどのゲリラ戦術でもなく、民衆が「石を投げる」という単純な戦法で闘うという「民衆蜂起」に当惑、かつ想定を超える事態となり、蜂起の最初の一年で2万人が逮捕され、3百人が死亡したと推計されています(抵抗運動は1991年頃に下火となった)。

 

このとき、インティファーダの中で(或いは同時に)、パレスチナ解放を目指すイスラム組織ハマスが、若年層を中心にパレスチナ住民を組織して、創設されました。ハマスは、率先して、大衆蜂起を煽り、写真などを世界に配信した結果、世界の世論もパレスチナ側に同情的となりました。

 

また、民衆蜂起の高まりは、PLO内のアラファトの権力基盤であるファタハとハマスの勢力争いを誘発せると同時に、アラファト議長にも路線変更を促しました。

 

 

パレスチナ国家宣言

 

アラファト議長は、1988年11月、パレスチナ国家建設を宣言しました。これは、イスラエルの国家樹立を認めた1948年のパレスチナ分割案を受け入れたものと解され、初めてイスラエルの存在を認めて、二国併存にむけた交渉に入る余地があることを表明した画期的なものでした。

 

国連総会は、その宣言を承認し、国連はPLOを「パレスチナ国民の代表機関」として認め、国連システムの中でPLOを指す場合は「パレスチナ」と呼ぶことを決定しました。また、アラファト議長は、同年12月、国連総会で演説し、テロ行為の放棄(テロ活動停止)と「パレスチナにおける二国共存」路線を表明しました。

 

 

中東和平会談

 

湾岸戦争後の1991年10月、中東和平会談がマドリードで開催されました。これは、アメリカは、湾岸戦後の中東の安定を図るためにも、パレスチナ問題解決の必要性が生じていたことが背景にありました。

 

この会談では、米ソ、イスラエル、アラブ諸国の代表が初めて一堂に集まる画期的なものとなりました(冷戦期はアメリカがイスラエルを,ソ連がアラブ諸国を支援してきた)が、パレスチナ代表としてPLOの参加は拒否されたので、会議の実効性が乏しく、具体的成果はなく終わりました。しかし、初めてイスラエルとPLOが直接交渉に入る契機となり、この後、93年のオスロ合意へと向かっていくことになるのです。

 

 

オスロ合意

 

イスラエル・パレスチナの二国家解決を図ろうとするイスラエルのラビン首相は、はかねて親交のあったノルウェーのホルスト外相に仲介を求め、首都オスロでPLOとの秘密交渉を開始し、92年6月、直接秘密交渉が妥結しました。

 

調印式はワシントンのホワイトハウスで実施され、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)は、1993年9月、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言(オスロ合意)」に調印しました。

 

オスロ合意によって、イスラエルとPLOがはじめて相互承認(互いの生存権を承認)したうえで、イスラエルは、占領地から撤退しパレスチナ人が自治政府をつくることを認め、まず、ガザとヨルダン川西岸のエリコで先行自治を行い、その後自治を拡大することが取り決められました(ヨルダン川西岸・ガザからの段階的撤退)。

 

ただし、これによって、パレスチナ問題が解決したのではなく、初めて相互に相手を認めて和平交渉を開始することに合意したと言うことにしか過ぎません。それでも、オスロ合意は、正式にパレスチナ独立国家をつくってイスラエルと共存させる道(イスラエルとパレスチナの二国家共存への道)を開いた点で歴史的な合意となりました。

 

 

カイロ協定とオスロ第二合意 

オスロ合意に基づく交渉は、自治の実施と拡大から着手され、1994年5月の「カイロ協定」でガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで自治の先行実施が決まり、自治区での警察権の移行も実際されました(もっとも、イスラエルは自治区以外に広い入植地の行政と警察権を維持している)。

 

外交面でも、1994年10月、ヨルダンとイスラエルとの間で平和条約(イスラエル・ヨルダン平和条約)が締結されました。、

 

さらに、1995年9月には、オスロ第二合意(オスロ合意II)が成立し、自治地区の拡大が決定しました。対象拡大地区は、西岸地区の主要6都市(ジェニン、ナブルス、トゥールカルム、カルキーリヤ、ラマッラ、ベツレヘム)と450の町村でした。(ただし、ヘブロンはムスリムとユダヤ教徒が共通の聖地としているため自治の対象から除外)。

 

また、オスロ合意IIでは、パレスチナ自治政府の議会と統治機構議長の選出を行うことも決まり、96年に実施された選挙でアラファトは、大統領にあたる統治機関の議長に選出されました。

 

このように、中東和平への期待は高まりましたが、パレスチナ国家樹立への交渉は難航したうえに、パレスチナ武装勢力ハマスなどのパレスチナ過激派による自爆テロが頻発し、治安は悪化していきました。イスラエル国内でも反パレスチナの風潮が高まり、95年11月には、ラビン首相が同じイスラエルの過激主義者に暗殺される事態にまで至りました。

 

さらに、イスラエルでは96年5月の初めての首相公選で右派強硬派政党リクードのネタニヤフが当選し、政権交代すると、中東和平プロセスは完全に停滞し、合意した3年の間に最終的地位に関する具体的交渉も撤退も行われないまま、暫定自治期間の終了期限(99年5月4日)を迎えてしまいました(オスロ合意の暫定自治期間の5年は終わりました)。

 

キャンプ・デービッド3者会談

こうして、新しい合意成立の可能性が消えかかる中、2000年7月、任期切れが近づいたクリントン米大統領の仲介によるキャンプ・デービッド3者会談が開催されました。➀ヨルダン川西岸とガザにパレスチナ国家をつくり、②聖地エルサレムは東西分割する、③難民問題については、イスラエル領内の故郷への帰還権をパレスチナ側が放棄する内容のクリントン提案がなされましたが、パレスチナ側(アラファト議長)が妥協案の受け入れを拒否し、交渉は決裂しました。このクリントン大統領による和平努力が失敗した2カ月後、パレスチナ問題は新たな負の局面を迎えることになっていきます。

 

 

第二次インティファーダ

 

イスラエルの野党指導者だった強硬派のシャロン・リクード党首が、2000年9月、イスラム教とユダヤ教が聖地とするエルサレム旧市街の「神殿の丘」を挑発的に訪問しました。神殿の丘には、イスラム寺院のアルアクサ・モスクと岩のドームが建てられています。ここはイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒とキリスト教にとっても聖地ですが、礼拝が許されているのはイスラム教徒だけで、他の宗教の信者は訪問のみが認められています。

 

シャロン党首の訪問そのものは平和的に行われましたが、多くの反対の声を無視して強行されたことから、刺激されたパレスチナ人による抗議の民衆デモは、やがて、イスラエル治安部隊との衝突に発展し、多数が死亡する惨事に至りました。このシャロンによる「神殿の丘」訪問を機に、武力衝突が本格化し(第2次インティファーダと呼ばれた)、オスロ合意は実質的に頓挫してしまいました。なお、第2次インティファーダは、2005年2月のシャルム・エル・シェイク会談(後述)まで続くことになります。

 

 

分離壁(隔離壁)の設置

 

2001年2月には、そのシャロン・リクード党首が首相に就任し、パレスチナ自治区への軍事侵攻や、民衆蜂起を主導するイスラム原理主義組織ハマス幹部暗殺(04年3月にはハマス創始者、ヤシン師が殺害された)など「力による安定」を目指しました。

 

これに対して、パレスチナ側も武装グループが連続自爆テロで応戦するなど、治安の悪化が深刻になるなか、2002年、イスラエルは、パレスチナ人がヨルダン川西岸地区とイスラエルを自由に行き来できないようにする目的で1967年にヨルダン川西岸を占領する前の境界線沿い、一方的に分離壁の建設を開始しました。分離壁はセメント製の巨大な壁で、高さは標準3メートル、場所によって高さ9メートルにも達するものもあります。(有刺鉄線や電気フェンスのところもある)。なお、このイスラエル側の分離壁の建設に対して、国際司法裁判所は、2004年に、分離壁の建設を国際法違反と判断し、分離壁の撤去などを求める勧告的意見を言い渡しました。

 

また、イスラエル政府はアラファトPLO議長との断絶声明を発表し、02年9月には、ヨルダン川西岸地区ラマラにある議長府を包囲しました(アラファトは死の直前まで軟禁状態に置かれた)。

 

 

ロードマップ合意

 

米ブッシュ(子)大統領は、イラク戦争(03.3)を進める前提として、その大義のためにはパレスチナ和平を進める(パレスチナの安定を図る)必要が生じたことから、2002年6月、パレスチナ和平実現に向けての包括的な合意を提言しました。

 

2003年4月には米、EU、露、国連からなる「カルテット」が、「ロードマップ」を発表しました。これは、イスラエル、パレスチナ二国家共存に向け、関係者が取り組まなければならない義務を記載したものです。

 

第1段階(03年5月まで)

パレスチナ側:暴力の即時無条件停止、過激派の解体に着手。

イスラエル側:入植活動を凍結、01年3月以降に建設したユダヤ人入植地を撤去し、2000年9月以前の地点まで軍を撤去させる。憲法草案を作成する。

 

第2段階(03年6月~12月)

03年中に暫定国境を決めてパレスチナ暫定国家の創設、パレスチナ自治政府が憲法承認。

 

第3段階(04年~05年)

05年までに第2回国際会議で、国境線を画定、難民・入植問題、エルサレム帰属問題も解決し、パレスチナ国家を樹立する。難民については、パレスチナ難民のイスラエルへの帰還権について「帰還先はパレスチナ国家に限る」。

 

また、同年6月、ブッシュ大統領の仲介によりイスラエルのシャロン首相、パレスチナ自治政府のアッバス首相が、ヨルダンのアカバでの三者首脳会議がもたれ、イスラエル、パレスチナ双方も、ロードマップを受容しました。

 

これを受け、イスラエル側は、シャロン首相は、強硬姿勢を転換させ和平路線に転じます。パレスチナ自治区の一部からの撤退、封鎖の緩和や移動の自由の制限緩和措置を実施すると、パレスチナ側も過激派が一時停戦を表明すると同時に、一部過激派の摘発等に着手し、和平プロセスに前向きな動きが現れ始めました。

 

 

イスラエル、ガザ撤退

 

しかし、その後のパレスチナ側のテロとイスラエルの報復攻撃の繰り返しで、ロードマップ(行程表)は効力を失う状態となるなか、イスラエルのシャロン首相は、2004年2月、パレスチナ分離計画を発表しました。

 

これは、イスラエル軍を、1967年以来占領していたガザ全域とヨルダン川西岸の一部入植地(カディム、ガニム、ホメシュ、サヌルの4地区)からの撤退(入植ユダヤ人を引き揚げさせ、イスラエル軍基地も撤収)させる計画で、05年8月に撤退を開始し、1ヶ月で完了させました(ただし、その後も境界は管理している)。

 

これによって、崩壊の際にあったロードマップ(行程表)の再生につながると期待された一方、ヨルダン川西岸については、宗教的な意義が大きいより重要な入植地を守る狙いと見れました。

 

なお、この時、シャロン自身が党首をつとめる右派政党リクードは、シャロンの政敵であったベンヤミン・ネタニヤグフ(現首相)らが反対し、国会での承認が危ぶまれましたが、04年10月、労働党や左派政党からの支持を取り付け、国会を通過させたという経緯もありました。

 

すると、シャロン首相は、05年12月、和平交渉に消極的な与党リクードを離党し、中道勢力を結集するために新党「カディマ(前進)」を結成しました(ペレス労働党前党首も参加)。カディマは、06年3月のイスラエル総選挙で勝利し、政府・与党として、大規模入植地を維持したままヨルダン川西岸の占領地から部分撤退することでパレスチナを分離する政策を継続することになりました。

 

 

アラファト議長の死

 

2004年11月、アラファト・パレスチナ自治政府議長(PLO議長)(75歳)が、フランスの病院で死亡しましたなお、アラファトの死を巡っては、後に毒性の強い放射性物質ポロニウムで毒殺された疑いが浮上するなど謎が残されています。

 

アラファトの死を受けて、05年1月、パレスチナ自治政府議長選が行われ、和平に積極的な穏健派でアラファトの右腕であったマフムード・アッバスが当選し、新議長(=パレスチナ自治政府大統領)に就任しました(アラファトの死去に伴いPLOにも就任)。

 

シャルム・エル・シェイク会談

アッバス新議長の下、中東和平の期待が高まるなか、05年2月、エジプトのシャルム・エル・シェイクにおいて、エジプトおよびヨルダンの首脳の参加の下、イスラエル・パレスチナ首脳の直接対話が実現しました。この会談において、イスラエルの軍事作戦とパレスチナの武装闘争をともに全面停止で合意し、また 中東和平のロードマップのプロセスも再確認しました。なお、これにより、第2次インティファーダも終結したと位置づけられています。

 

 

ハマス、パレスチナ議会選圧勝とガザ制圧

 

2006年1月に実施された第2回パレスチナ評議会選挙で、イスラム原理主義組織ハマスが単独過半数をとり、勝利しました。自治政府主流ファタハのクレイ首相は敗北を認め総辞職、3月には、ハマス政権(内閣)発足し、ハニヤ首相が就任しました。

 

07年2月には、パレスチナ自治区の2大政治勢力である穏健派ファタハと、イスラム過激派ハマスの初の統一政権が樹立に合意、翌月発足しました。

 

しかし、06年12月頃から、ガザ地区でファタハとハマスの武装集団の武力衝突が頻発するようになっていたうえに、連立内閣発足後は、治安部隊の権限をめぐる確執が生まれました。結果として、各地でファタファ系とハマス系の治安部隊が併存するようになり、部隊の現場であつれきが増加してくると、ついに、2007年6月、ガサ地区で、ファタハとハマスは全面衝突、ハマスがパレスチナ自治区ガザ全域を制圧しました。

 

これによって、パレスチナ自治区は、ハマスがガザを、アッバス議長のファタハがヨルダン川西岸(ラマラ)をそれぞれ管轄する二重権力構造が確立し、分裂状態が続くことになっていきます。

 

一方、イスラエルでは、2006年1月、ガザ地区撤退を進めていたシャロン首相が脳卒中で倒れてしまいました。このため、国内での右派の影響力が強まることになり、パレスチナ評議会選挙後の07年から、テロ防止やイスラエル側の安全のためと称して、ガザ地区を囲む分離壁が建設され、イスラエルから隔離されました。これによって、現在、ガザ地区は、壁やフェンスに囲まれ、人とモノの出入りすら制限される封鎖状態にあり、ガザは、「天井のない監獄」と呼ばれています。

 

 

イスラエル、レバノン侵攻とシリア空爆

 

2006年7月、イスラエル兵2名を拉致したレバノンのイスラム教シーア派武装組織ヒズボラへの報復として、イスラエルはレバノンへ侵攻しました。ベイルートの国際空港を空爆し、レバノン各地の軍事施設やヒズボラ関連施設を攻撃しただけでなく、地上軍による南部への侵攻も実施されました。イスラエルによるレバノンへの大規模攻撃は、00年のレバノン南部からのイスラエル軍撤退後初めてのことでした。もっとも、国連安全保障理事会が停戦決議を採択し、両政府が受け入れ、攻撃開始から1ヵ月あまりで戦火は収まりました。

 

また、翌07年9月には、イスラエル軍がシリア北部の砂漠にある施設を空爆しました。後に米ホワイトハウスは、イスラエルが空爆、破壊したシリア東部の施設が、兵器級プルトニウムの生産目的で北朝鮮の支援を得て秘密裏に建設中の原子炉だったと発表しました。。

 

 

中東和平国際会議

 

2007年11月、米国アナポリス(メリーランド州)において中東和平国際会議が開催され、7年ぶりに和平交渉(和平条約を締結するための交渉)を再開する方針を宣言(することで合意)しました。中東カルテット(米・露・EU・国連)をはじめ40を超える国の外相級が参加した会議では、イスラエル、パレスチナ双方がロードマップの義務を直ちに履行し、(ブッシュ政権の任期内の)08年末までに和平条約締結を目指すことで一致しました。

 

この国際会議は、1991年のマドリード中東和平国際会議ならびに2000年のキャンプデービッド3者会談以来の歴史的な機会となりましたが、ブッシュ大統領退任後、アナポリス合意は頓挫してしまいました。

 

 

断続したガザ紛争

 

イスラム組織ハマスが07年6月にガザ地区を制圧して以降、イスラエルによる経済封鎖を本格化、また、高い分離壁でガザの境界封鎖を強化する中、イスラエルとハマスは、断続的に軍事的に衝突を繰り返しました。

 

2007〜09年のイスラエル侵攻

06年6月にガザ地区で発生したパレスチナ武装勢力によるイスラエル兵士の拉致事件(シャリート兵士拉致事件)を契機に、イスラエル軍がガザ地区に進攻する事件も発生しましたが、その余波で、07年12月、イスラエルとハマスは再び軍事衝突しました。翌08.年3月、イスラエル軍は「目的果たした」として、ガザから撤退し、イスラエルとハマスの間で、08年6月から半年間にわたって停戦協定が結ばれました。

 

12月に入り、停戦延長の交渉が持たれましたが失敗(失効)、ハマス側がガザ地区からのロケット砲攻撃を受けて、イスラエル軍は、ガザ空爆を開始し、09年1月に入り、地上侵攻を実施しました(アナポリス合意は瓦解)。

 

しかし、ほどなく、イスラエルは一方的な「停戦宣言」を出し(ハマスも抗戦を停止)、アメリカのオバマ新大統領が就任した日(20日)にガザの市街地から撤退しました(暫定的な停戦成立)。

 

パレスチナ和平交渉再開

その後、イスラエルとパレスチナの「2国家共存」による和平実現を目指したオバマ米大統領の強い働きかけをうけ2010年9月、イスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナ自治政府のアッバス議長は、パレスチナ和平について、約1年9カ月ぶりに直接交渉を再開しました。しかし、同月末にイスラエルがヨルダン川西岸での入植活動を再開したことから、暗礁に乗り上げました。

 

2012年3月のガザ空爆

2012年3月にも、イスラエルはガザを空爆による軍事侵攻が行いましたが、イスラエルとパレスチナは、2013年7月、和平交渉を再開しました。しかし、イスラエルのユダヤ人入植地建設などに反発したパレスチナは、一方的にハマスとの統一政府樹立を発表すると、イスラエルは翌4月、交渉中断を宣言しました。

 

2014年のイスラエル侵攻

2014年6月に、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区で、ユダヤ人少年3人の殺害事件が発生したことをきっかけに、イスラエルとハマスの間で戦闘が始まりました。当初、ハマスがロケット弾攻撃を行い、イスラエル軍は空爆で対抗していましが、2014年07月、ハマスが拠点とするパレスチナ自治区ガザ地区への地上侵攻を開始、ガザから戦闘員などを送り込むため掘削されたとみられる約10本のトンネルを発見し破壊しました。短期的な停戦と戦闘の再開を繰り返した後、最終的に、同年8月、隣国エジプトの仲介のもとで期限を決めない長期的な停戦期間に入ることで合意しました。

 

 

トランプ大統領、エルサレムを首都と認定

 

トランプ米大統領は、2017年12月、エルサレムをイスラエルの首都として正式に認めると発表し、在イスラエル大使館は、翌18年5月、テルアビブからエルサレムに移転されました(エルサレムの米国総領事館の一部を改装し、暫定的に大使館の機能を置くかたちで移転が完了)。これにより、アメリカは、歴代政権が約70年にわたり継続してきた政策を転換させた形です。

 

 

アブラハム合意

 

イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)は、2020年8月、「アブラハム合意」に署名し、国交を結びました。正式名称はアブラハム和平協定合意で、アラブ首長国連邦・イスラエル平和条約とも呼ばれます。アラブ首長国連邦(UAE)は、71年の独立以降、長年、イスラエルを”敵”として認識していましたが、合意により、相互に国家承認し、イスラエルはヨルダン川西岸地区の併合計画を保留しました(もっとも、入植活動を通じた事実上の併合は着実に進行しているとされる)。

 

この結果、UAEは、アラブ世界の中で、1979年のエジプト、1994年のヨルダンに次いでイスラエルと国交正常化した三番目の国となりました。

 

また、9月には、バーレーン(バハレーン)が、イスラエルとの国交正常化合意を発表し、ワシントンでUAEとともに3か国による調印式が行われれると、さらに、スーダン(10月)とモロッコ(12月)も、これに続き、イスラエルとの関係正常化に踏み切りました。

 

このように、もともとUAEとイスラエルの間で締結された外交合意(平和協定)である「アブラハム合意」は、アメリカの仲介によって、バーレーン、スーダン、モロッコがこれに続いたことから、イスラエルとの国交正常化を締結した一連の現象をまとめてアブラハム合意と呼ぶこともあります。

 

アブラハム合意に成立には、イランを包囲しようとするアメリカの強い意志がありました。「米・イスラエルvsイラン」の構図において、イラン(シーア派)の脅威を強調することで、アラブ諸国(スンニ派)を自分たちの陣営に取り込もうとしたのです。

 

地理的に、イランの直接的な脅威を受けているUAEとバーレーンは、アメリカとの軍事協力をより強化したいとする思惑がありました。アメリカは、バーレーンに米軍第5艦隊の司令部を置いています。また、モロッコに対しては、アフリカ北西部の西サハラの帰属問題で、トランプ政権は西サハラ全域の領有権をモロッコに認めると表明しました。さらに、スーダンに対しては、93年以降、アメリカが課していたテロ支援国家指定を解除しました。

 

加えて、アメリカとイスラエルは、イスラム世界の盟主サウジアラビアとの国交正常化交渉が水面下で進めています。両国が合意すれば長年にわたる「アラブ対イスラエル」の構図が一気に塗り替わる可能性がでてきます。

 

これに対して、パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長は、「パレスチナ人への裏切りであり、断固拒否する」と述べて、合意の撤回を要求しました。というのは、アラブ連盟には、イスラエルがすべての占領地から撤退し、東エルサレムを首都とする「パレスチナ国家」の樹立を認めることを条件に、アラブ諸国がイスラエルとの国交を正常化するという中東和平の基本原則を堅持しているからです。

 

パレスチナ側は、この原則が蔑ろにされ、また、アブラハム合意によって、イスラエルの占領が事実上容認されることに対して、強い危機感を抱くようになりました。実際、07年以来、イスラエルによる封鎖が続いているガザでは、慢性的な人道危機に直面している中、イスラエルとハマスは2021年5月、11日間にわたり激しい軍事衝突が起きました。

 

 

イスラエル・ガザ戦争

 

イスラム武装組織ハマスが、2023年10月7日、数千発のロケット弾攻撃を合図に、2000人を超えるハマス戦闘員が国境の壁やフェンスを破壊して地上から、また船を使って海から、さらにパラグライダーで空からイスラエル領内に侵入し、集落や野外音楽イベントなどを急襲し、一般市民を虐殺しました。イスラエル政府によると、少なくとも1300人の死亡し、200人近い兵士や民間人(女性や子供を含む)が拉致され、人質にされてガザ地区へ連行されました。

 

これに対して、イスラエルは、報復として、ガザ地区へ軍事作戦で応戦し、空爆や地上侵攻を行っていますが、ハマスの拠点を破壊するためだとして、病院の周辺や人口が特に密集している難民キャンプなどへの攻撃を続け、多くの市民が犠牲になっています。このため、イスラエルに対しては、ガザで大量虐殺を行っていると非難する声が世界各地で高まっています。しかし、イスラエルは、ハマスが武装闘争を放棄し、同国の存在を認めない限り、和平交渉には応じない姿勢をとり続けている。

 

(2024年4月2日)

 

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ハマス:イスラム主義と自爆テロの果て

パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

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<参照>

パレスチナとイスラエルの和平で最大の壁は何か命がけで「2国家共存」を進める指導者は出現するか

(2023/10/27、東洋経済)

イスラエル・ガザ衝突 原因は?なぜ和平が遠いのか? 地図と用語解説・年表でひもとく対立の構図

(2023年10月19日、東京新聞)

イスラエルvsハマス バイデン米政権はどう動く? トランプ氏が仲介した「アブラハム合意」とは?

(2023年10月27日、東京新聞)

論点 エルサレム「首都認定」

(毎日新聞2017年12月7日 東京朝刊)

「トランプ大統領の中東和平政策」(視点・論点)

(2017年02月21日、NHKオンライン)防衛大学校 名誉教授 立山 良司

中東和平、交渉前進せず オスロ合意から20年

(2013/9/13、日経 )

【地図で読み解く】中東9カ国&米中露3カ国…それぞれの「中東問題」への思惑とは?

(2023年11月22日 ニューズウィー)

コラム:エルサレム首都認定でトランプ氏が招く「悲惨な代償」

2017年12月9日、ロイター

トランプ米大統領、エルサレムをイスラエルの首都と承認

2017年12月7日、BBC

「アブラハム合意」とは何だったのか――UAE・バハレーンにとってのイスラエルとユダヤ

(中東調査会)

【解説】 イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる

(2023年10月18日、BBC)

東エルサレム East Jerusalem

(百科事典、科学ニュース、研究レビュー)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど