パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

 

中東和平(パレスチナ問題)を語られるとき、イスラエルを軸にみることが多い印象がありますが、この投稿では、パレスチナ側の視点に立って、イスラエル・パレスチナ情勢の経緯を追ってみましょう。今回はオスマン帝国のパレスチナ支配の時代から、イスラエル建国、4回の中東戦争を経て、オスロ合意に至る過程を見ていきます。

 

なお、イスラエルから見た中東史については、過去の投稿を参照下さい。

イスラエル史➀:2000年の時を経た建国とその代償

イスラエル史②:つゆと消えたオスロ合意

 

 

★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 

<オスマン支配からイスラエル建国まで>

 

地中海の最東端の沿岸にある、土地の名前としてのパレスチナは、16世紀以降、オスマン帝国領の一部となり、その後、数世紀にわたってアラブ人やトルコ人が住み、イスラム教を信仰していました。また、パレスチナの地で生まれたキリスト教の教えを守り続けていたキリスト教徒や、少数ながらユダヤ教徒も生活していましたが、彼らは、イスラム教徒と大きな争いもなく共存していました。

 

パレスチナ人とユダヤ人の対立が始まったのは、19世紀末に始まるユダヤ人のパレスチナへの帰還を進めるシオニズムと、それを利用して第一次世界大戦においてオスマン帝国との戦いを有利に進めようとするイギリスの外交政策によるものであった。

 

ヨーロッパのユダヤ人がパレスチナに入ってくると、当然、元々、その土地に既に生活していたアラブ系のパレスチナ人との衝突(紛争)も始まったことは言うまでもありません。これが現在まで続く、約120年間のパレスチナ問題の発端です。

 

また、イギリスは大戦中にユダヤ人に対しパレスチナでの「ホームランド」の建設を認めるバルフォア宣言を出す一方、アラブ人には対トルコ反乱を条件に独立を認めるフセイン=マクマホン協定を結ぶという「二枚舌外交」を行い、パレスチナでのユダヤ人とアラブ人双方の権益に口実を与えたのでした。

 

しかし、第一次世界大戦後、パレスチナは委任統治領(実質的にはイギリスによる植民地統治)となりましたが、ユダヤ人の移住が多くなり、ユダヤ人とアラブ人との紛争が激しくなると、アトリー内閣は委任統治期限の終了と共に、パレスチナから撤退し、問題解決を国際連合に預けました。

 

 

<第1次〜第4次中東戦争>

 

国連パレスチナ分割決議と第1次中東戦争 

 

国連総会は、第2次世界大戦後、1947年11月、パレスチナをアラブ人国家とユダヤ人国家に分割する決議を採択しました。

 

パレスチナに、長らく暮らしてきたアラブ人にとってみれば、自分たちの土地が分割され、25〜30年ほどの間に大量に流入してきたユダヤ人の国が誕生することになります。また、その分割そのものも、アラブ人側に不利であったため、分割案は受け入れられず、アラブ人とユダヤ人の間での民族的な対立が深まっていきました。

 

ユダヤ人たちは、国連のパレスチナ分割決議を受け入れる形で、1948年5月、イスラエルの建国を宣言すると、これに反発した周辺のアラブ人を主体とするアラブ諸国(アラブ連盟軍)がイスラエルに攻め込む形で、第1次中東戦争が勃発しました。

 

戦いは、トランスヨルダン (後のヨルダン) のアラブ軍団がヨルダン川西岸に侵攻し(50 年に併合)、49年9月に、エジプト軍がガザ地区を占領し、軍事政権下に置きました。しかし、戦争そのものは、エジプト王国などアラブ連盟軍が敗北し、イスラエルは、領土を確定させ、事実上、パレスチナを占拠して国家を建設しました。

 

この結果、パレスチナの領土の中にかつて住んでいた75万人ものアラブ人たちが難民になって、近隣のヨルダン、レバノン、シリアなどに逃れていきました。この時、土地を失ったアラブ難民にとってはこれが現在に続く苦難の始まりであったので、イスラエルが独立宣言をした5月14日は、「大災厄(ナクバ)」として記憶されています。

 

なお、難民たちは、パレスチナ出身のアラブ人でしたが、パレスチナ人と自称するようになっていきました(パレスチナ人=パレスチナ出身のアラブ人)。

 

また、敗れたアラブ諸国では、王政に対する不満が強まり、1952年7月、エジプトで、ナセルらの自由将校団が王制打倒のエジプト革命を遂行し、翌6月、エジプト共和国が樹立、エジプトは王政から共和政に移行しました。また、エジプト革命は後にイラクにも波及するなど、第一次中東戦争は、アラブ側にも大きな転機となりました。

 

 

第2次中東戦争 

 

第2次中東戦争は、1956年10月29日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したことに反発したイギリス・フランスがイスラエルと共にエジプトを攻撃して始まりました。英仏軍の支援を受けたイスラエル軍はシナイ半島を占領しましたが、国際世論はアメリカ・ソ連のいずれもイギリス・フランスを非難し、英仏とイスラエルは国際的に孤立したため撤退し、エジプトのスエズ運河国有を認めました。

 

これによって、ナセルは戦争では敗れたものの、実質的な勝利を得て、アラブ世界の英雄として認められ、アラブ民族主義がさらに隆盛となりました。

 

アラブ世界の盟主を自覚するナセルは、1958年2月、アラブ的ナショナリズムの復活と汎アラブ主義を理想に掲げ、エジプトとシリアの国家連合、反米・親ソ路線の「アラブ連合共和国」を成立させ、アラブ世界の統合を目指しました。

 

この国家統合は、シリアの民族主義政党バース党政権からの働きかけにナセルが応じたものでしたが、ナセルの主導権に強まりに、シリア側が反発し、61年に瓦解しました。

 

その後は、逆にエジプトのナセル主義に反発した「サウジアラビア対エジプト」やバース党の主導権争いで対立した「シリア対イラク」など、いわゆる「アラブの冷戦」が、本格的に始まっていきました。

 

 

PLO (パレスチナ解放機構) の発足

 

60年代に入ると、パレスチナ難民の中にイスラエルと戦いパレスチナの解放を目指す動きが出てきました。パレスチナ人によるゲリラ組織である(アル=)ファタハがアラファトなどによって組織され、活動が始まると、1964年5月、エジプトのナセル大統領が召集したアラブ首脳国会議(13ヵ国が参加)で、アラブ連盟(45年3月設立のアラブ民族諸国の共通利害を守るための国際組織)は、 PLO(パレスチナ解放機構)を組織することを決定しました。

 

エジプト(ナセル)とシリアの支援によって結成されたPLO(パレスチナ解放機構)は、パレスチナ人の代表組織で、その目的は、アラブ人による国土の奪還(=パレスチナの解放)です。当初は、パレスチナ国家の建設を目指すアラブ人の国際機関という穏健な性格が強かったPLOでしたが、ファタハなど機構の中で最も過激な武装闘争を主張するグループが台頭し反イスラエルのゲリラ活動を頻発させるようになりました(65年頃からイスラエルに潜入して破壊活動を開始)。

 

これに対して、イスラエル側もPLOとパレスチナ=ゲリラに武器を提供しているとしてシリアに対して警戒を強めていきました。

 

 

第3次中東戦争

 

第2次中東戦争以降、国際世論がアラブ寄りになり、英仏も直接的にイスラエルを支援できなくなる中、PLOの結成を強く警戒したイスラエルは、みずから空軍など軍事力の強化に走り、1967年6月、第3次中東戦争を仕掛けました。

 

後に6日戦争と言われた短期間で、エジプトを主体とするアラブ軍は、イスラエルに敗北し、パレスチナ人の居住地であるヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)とガザ地区、シナイ半島を占領されました。同時に、多数のパレスチナ難民が生まれ、周辺のアラブ諸国に逃れていきました。

 

この敗北はアラブ諸国に大きな衝撃を与え、ナセルの権威は失墜し、PLOもナセル離れをするとともに、パレスチナ難民の救済のためにパレスチナの地を奪回することが、共通の目的となりました。

 

 

アラファトの登場

 

PLOでは、1969年2月、明確な武力闘争を掲げるファタハの指導者アラファトがPLO議長に就任しました。設立当初のPLOは、必ずしもゲリラ闘争やテロを戦術としてはいませんでしたが、アラファトが議長就任以降、パレスチナの解放と難民の帰還を実現するために、ゲリラ戦術による反イスラエル闘争に路線変更しました。

 

アラファトが国際舞台で存在感を高めたのは68年で、このとき、第3次中東戦争でイスラエルに敗れて、アラブ世界が自信を失う中、アラファトの率いる武装組織ファタハのゲリラがヨルダンのカラメという村でイスラエル軍を撃退したのです。

 

また、PLO内のパレスチナ解放人民戦線(PFLP)は、68年7月に、エル・アル航空のハイジャックを起こし、イスラエルに対する航空機ハイジャック事件の先駆けとなりました(この事件がパレスチナ・ゲリラの唯一の成功例であった)。

 

 

ヨルダン内戦とPLOのテロ活動

 

PLO議長に就任したアラファトは、当初、ヨルダンのパレスチナ難民キャンプを拠点に、テロ活動を指導し、周辺のアラブ諸国を巻き込みながらイスラエルに対する攻撃を強めていきました。その一方で、PLOはヨルダンの王政を批判するようになりました。

 

そうした中、1970年9月、PLO各派のパレスチナ・ゲリラ(PFLP)が、旅客機4機をハイジャックし、爆破するという旅客機同時ハイジャック事件を起こすと、イスラエルとの戦争や、反王闘争による国内の混乱を懸念したヨルダンのフセイン国王は、PLOとその傘下の急進派・パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の武力追放を決定、同年9月16日、その拠点の難民キャンプを襲撃し、ヨルダン内戦が勃発しました。

 

黒い九月事件」とも呼ばれ、アラブ同士の戦いとなったこの内戦で、PLOだけでなく一般市民にも多数の犠牲者が出しました。エジプトのナセル大統領が和平交渉を仲介しようとしましたが、そのナセルが同月28日に急死し、交渉は失敗しました。

 

PLOは、追われる形で、レバノンの首都ベイルートに本部を移し、南レバノンからイスラエルへ攻撃をしかけるようになりました。しかも、PLO内部で、過激な集団(過激派)が分裂と対立を繰り返しながらそれぞれ競うようにテロ活動を展開しました。

 

1971年11月、カイロを訪れていたヨルダンのワシフィ・アル・タル首相が暗殺され、72年5月には、PLOのパレスチナ解放戦線(PFLP)がイスラエル・ロッド空港で無差別銃撃事件を起こしたました(この事件では日本赤軍が協力したことでも知られる)。

 

さらに、同年9月、PLOの主流派ファタハが結成した秘密テロ組織「黒い9月」は、ミュンヘン・オリンピック襲撃事件を引き起こし、結果的に、イスラエル選手とコーチが殺害されました。「黒い九月(ブラック・セプテンバー)」は、ヨルダン内戦後にPLO主流派ファタハが創設した秘密テロ組織で、その存在はこの事件で一気に知れ渡りましたが、ファタハとの関係が明るみに出たために解散されました。

 

 

第4次中東戦争

 

アラブの盟主としてナセルを継承したエジプトの大統領となったサダトは、奇襲攻撃を受けた六日戦争(第三次中東戦争)の復仇として、奪われたシナイ半島などの奪還をめざし、1973年10月6日、シリアとともに突如イスラエルに武力攻撃を仕掛け、第4次中東戦争が勃発しました。(エジプト軍はシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始)。

 

不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされ、アラブ側は、緒戦においてはじめてイスラエルに勝利しましたが、劣勢であったイスラエル軍は、体制を整え、反撃に転じました。

 

すると、今度はアラブ諸国が「アラブの大義」を掲げて結束し、石油戦略を展開、アラブ連盟はアラブボイコット(対イスラエル経済制裁)を発動し、世界にオイルショック(第一次石油危機)を引き起こしました。アラブ産油国の組織であるOAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、イスラエル支援国に対するアラブ原油の販売停止または制限をするという石油戦略をとり、さらに、アラブ諸国を含む世界の産油国の組織であるOPEC(石油輸出国機構)は原油価格を4倍に引き上げる声明を出したのです。

 

戦闘そのものは、シナイ半島中間で膠着状態となるなか、アラブ側のイスラエルとそれを支援する西欧諸国へのこの政治的圧力によって、からくも停戦(有利な休戦)に持ち込むことがました。結局、シナイ半島のエジプトへの返還の見通しとなったものの、イスラエル軍の占領地であるゴラン高原・ヨルダン川西岸・ガザ地区を奪回することはできませんでした。

 

この戦争の結果、エジプトは財政不安にみまわれて軍事力によるイスラエルとの対決という路線から、和平を模索する姿勢に転換を強いられ、中東でのエジプト主導によるアラブ陣営の戦略は頓挫すると同時に、アラブ民族主義運動での主導権を失っていきました。

 

 

<エジプト・サダトの裏切り>

 

PLO、国連オブザーバー組織へ

 

1974年10月、モロッコの首都ラバトで開催されたアラブ連盟加盟国の首脳会議(アラブ・サミット)において、PLOはパレスチナ代表として参加しました。この会議において、アラブ諸国はPLOをパレスチナ人の唯一の正統な代表であることを認め、同時にヨルダンがヨルダン川西岸の統治権を放棄したことで、ヨルダン川西岸は、PLOの統治下に入りました(統治と言っても土地を支配したわけではない)。この結果、PLOは、形式的でも、その地を領有する(領土を持ち)権利を持ち、国家と同等の地位を得ることができました(それまでは「領土無き国家」とされていた)。

 

また、PLOは、同年11月、国際連合のオブザーバー組織として認められ(国連オブザーバーとしての代表権を獲得し)、アラファト議長が初めて国連総会で演説するなど、PLOが国際的に認められる動きも出てきました。

 

 

レバノン内戦

 

レバノンは、アラブ諸国の一員でありながら、国内でキリスト教徒も多く、宗教的な対立が起きる中、レバノンのキリスト教マロン派などは、レバノンに拠点(本部)を置くPLOのパレスチナ統治に対する反発を強めていきました。1975年4月、マロン派民兵組織などが、PLOの退去を求めて戦闘を開始、レバノン内戦が始まりました。

 

内戦は泥沼化していくと、シリアのアサド政権は、パレスチナで進む民主化がシリアに波及し、独裁体制が脅かされることを警戒し、レバノンに軍事介入してPLOを攻撃、PLOは苦境に立たされていきました。

 

 

エジプト=イスラエルの和平条約

 

エジプトのサダト大統領は、1977年に突然イスラエルを訪問、イスラエル議会で演説し、両国は、PLO抜きでエジプト=イスラエルの和平交渉を開始しました。翌78年9月には、アメリカのカーター大統領の仲介で、サダトは、イスラエルのベギン首相と、エジプト=イスラエルの和平で合意(キャンプデービッド合意)し、1979年3月にエジプト=イスラエル和平条約が締結、シナイ半島はエジプトに返還されることになりました。

 

これによって、エジプトとイスラエルの間の戦争は終わりを告げましたが、和平条約は中東地域における力の均衡を崩壊させました。エジプトがパレスチナにおけるイスラエルの存在を認めた(イスラエルを承認)ことで、PLOや他のアラブ諸国が強く反発し、エジプトはアラブ世界で孤立、対イスラエルのアラブの足並みは大きく乱れることとなったのです。

 

とりわけ、PLOのアラファト議長は激しく反発しました。エジプト=イスラエルの和平は、パレスチナでの当事者であるPLOを除外しての和平であり、ヨルダン川西岸・ガザ地区のパレスチナ人居住区はイスラエルの占領が続くこととなったからです。強い不信を抱いたPLOは、レバノン南部を基地として、盛んにイスラエルに対するテロ攻勢をかけるようになりました(ゲリラ兵士の潜入であるとか、越境攻撃などを行った)。

 

 

イスラエルのレバノン侵攻 (レバノン戦争) 

 

こうした事態を受け、イスラエルのベギン政権は、エジプトとの和平で南部での脅威を解消すると、北部のレバノンを拠点にイスラエル攻撃を繰り返すPLOに対する全面作戦に踏み切りました。

 

1982年6月、イスラエルはシャロン将軍の指揮のもと、レバノンに部隊を派遣し(レバノン侵攻を行い)、ベイルートを包囲し(レバノン戦争)、PLO部隊に対して同国からの退去を要求しました。また、このとき、以前からPLOと対立していたレバノンのキリスト教マロン派の民兵組織によるパレスチナ難民虐殺事件も起きました。

 

イスラエル侵攻によって、PLOは、レバノン(ベイルート)からの撤退を余儀なくされ、アラファト議長は本拠地をチュニジアのチュニスに移し、パレスチナ・ゲリラはアラブ諸国(中東各地)に離散しました。

 

パレスチナの地から遠く離れた結果、アラファト率いる主流派のファタハは、主導権を失い、それまでのようなテロ活動を続けることが困難となり、PLOの対イスラエル闘争は、大きな打撃を受けることになりました。

 

ただし、イスラエルを解体し、パレスチナ全土を解放するという「空論」(非現実路線)を捨て、外交手段による国際的な地位の向上を目指しながら、イスラエルとの「二国家共存」、即ち第三次中東戦争で占領されたヨルダン川西岸とガザにパレスチナ人の独立国家をつくり、イスラエルと共存する現実路線を模索し始めたのもこの頃です。

 

その一方で、PLO(ファタハ)のこうした転換に対し、パレスチナの若い世代は、これまでの原理的なゲリラによる戦いの継続を主張する新たな過激グループも出現し、パレスチナ解放を巡る方向性に分裂の傾向が現れてきました。

 

 

<ハマス登場とPLOの変化>

 

第一次インティファーダ

 

PLOがチュニジアに去り、パレスチナ側の解放運動が手詰まり状態になっていく中、パレスチナでは、1987年12月、イスラエル占領に抵抗する自然発生的な民衆蜂起、インティファーダが、ガザ地区に加えてヨルダン川西岸で始まりました。。

 

きっかけは、ガザ地区最大の難民キャンプ、ジャバリヤで、ユダヤ人入植者がパレスチナ人に刺殺された事件でした。その後、イスラエル人のトラックとパレスチナ人のバンが衝突し、パレスチナ人労働者4人が死亡する事故が発生すると、事故は入植者の親族による報復だとのうわさが広がりました。

 

すると、住民たちは、大人も子供も女性も、キャンプを包囲するイスラエル軍に、石を投げたりタイヤを燃やしたりという抗議行動を起こしました。この占領地のイスラエル軍に対する抵抗運動は、ガザ地区全体からヨルダン川西岸にも拡大し、大規模な住民蜂起に発展していったのです。

 

一連の抗議行動では、子どもや女性を含むパレスチナの一般市民が、武器を持たず、イスラエルの戦車や重火器を持った兵士に向かって石を投げて、戦いを挑んでいったことが特徴的でした。これは、ハイテク武装したイスラエル軍が圧倒的に有利であった、これまでの軍同士の戦いとは様相が異なるものでした。

 

このとき、インティファーダの中で、パレスチナ解放を目指すイスラム組織ハマスが創設されました(ハマスとはアラビア語で「イスラム抵抗運動」の頭文字を並べたもの)。ハマスは率先してこの暴動を煽り、写真などを世界に配信することで、世界の世論を味方につけました。

 

インティファーダは、イスラエルに対する抵抗・反抗の手段が、それまでのPLOのパレスチナ・ゲリラによるテロに代わって、投石という原始的かつ大衆的な蜂起へと変化したことを示すとともに、PLOの主流派ファタハに代わるハマスの台頭を印象づける結果となりました。

 

その一方で、インティファーダが世界中の注目を浴びると、パレスチナ人組織の間で勢力争いも始まりました。

 

当時、PLO(パレスチナ解放機構)には、議長ヤセル・アラファトの母体である、主流派のファタハ以外に、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)とDFLP(パレスチナ解放民主戦線)の2つの有力組織がありました。それに加えて、ハマスやイスラム聖戦機構など、PLOに属さないイスラム原理主義の武装組織が反イスラエル闘争に参戦し、PLOとも対立していったのです。

 

 

パレスチナ国家宣言、二国共存路線への転換

 

PLO(パレスチナ解放機構)は、第一次インティファーダの後、イスラエルとの武力闘争から、イスラエルと共存するヨルダン川西岸地区とガザ地区へのパレスチナ国家建設へと転換し、1988年11月、アラファト議長は、アルジェリアのアルジェで、パレスチナ国家(SoP)の樹立を宣言しました。

 

パレスチナ解放機構(PLO)の立法機関であるパレスチナ国民評議会(PNC)は、独立宣言を採択し、翌4月、アラファトは「パレスチナ大統領」に就任(PNCの代理機関であるPLO中央評議会がアラファトを初代パレスチナ大統領に選出)しました。また、臨時政府(パレスチナ解放機構執行委員会)設立され、国家としての形態を整えました。

 

もっとも、パレスチナ国家宣言(エルサレムを首都に指定)にもかかわらず、PLOは当時いかなる領土も支配していません。パレスチナは、イスラエルの支配下にあり、PLO は法的には亡命政府という位置づけでした(88 年から 94 年まで)。また、日本や西欧・北米諸国も国家承認していません。

 

しかし、国連総会は、その宣言を承認し、国連はPLOを「パレスチナ国民の代表機関」として認め、国連システムの中でPLOを指す場合は「パレスチナ」と呼ぶことを決定しました。

 

また、パスチナ国家樹立を宣言したアラファト議長は、1988年、国連総会で演説し、テロ行為の放棄(テロ活動停止)と「パレスチナにおける二国共存」路線を表明しました。

 

アラファトの提唱した「二国家共存」構想とは、イスラエル国家の存在を承認し、パレスチナの地で共存しようというもので、具体的には、パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、パレスチナ国家は、ヨルダン川西岸とガザ地区のみ(の残り22%)に限定(した「ミニ国家」と)することを表明しました。これに合せて、(PLOの憲法である「パレスチナ民族憲章」では非合法とされてきた)1947年の国連パレスチナ分割決議第181号を受け入れました。

 

加えて、パレスチナ問題を単なる難民問題と規定した国際連合の第242号決議を受諾し、また、将来、西岸・ガザが解放された場合、PLOがパレスチナ人の唯一正統な代表となることなども求めました。

 

この時、アラファトは、中東和平の道筋として、パレスチナ暫定自治を確立させ、イスラエル軍の段階的撤退を実現させた後、東エルサレムを首都と定めたパレスチナ国家の正式樹立を想定していたと言われています。

 

 

湾岸戦争

 

1990年のイラクによるクウェート侵攻後に起きた湾岸戦争では、アラブ側が一枚岩になりきれないことを明らかになりました。当時、イラクのサダム=フセインは、クウェート侵攻がイスラエルのパレスチナ占領に対抗する戦略であるとして、「リンケージ」と称してイスラエルをミサイル攻撃し、アラブ諸国に対して、イラクに同調することを求めました。

 

このとき、イスラエルがイラクに報復攻撃で反撃すれば、第5次中東戦争に発展しかねませんでしたが、アメリカがイスラエルに強く自重を求め、アラブ諸国もイラクに同調しなかったので、全面対決にはなりませんでした。

 

そうした中で、PLOのアラファト議長は、かねて親交のあったサダム=フセインへの支持を表明したために、湾岸諸国からの資金援助を失うなど、PLOのアラブの中での国際的地位が低下しました。この苦境が、後のイスラエルとのパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)に踏み切る要因の一つになったと見られています。

 

 

中東和平会議

 

逆に、89年の冷戦終結と91年の湾岸戦争によって中東での主導権を握ったのがアメリカで、米ブッシュ(父)大統領は、1991年10月末、ソ連ゴルバチョフ大統領との共催という形で、中東和平会議をスペインのマドリードで開催しました。二国家共存によるパレスチナ問題の政治的解決が図れたこの会議では、米ソ、イスラエル、アラブ諸国の代表も初めて一堂に集まる画期的なものとなりまた(とりわけ、この会議で初めてイスラエル代表と、パレスチナ代表が顔を合わせた)。

 

しかし、パレスチナ代表は単独ではなく、レバノンとの合同代表という形を取り、しかもイスラエルの強い反対で、PLOはパレスチナ代表から除外されました。事実上、パレスチナを統治する立場にあったPLOを排除した交渉は成功せず、中東和平は具体的な成果を得られないまま会議は閉幕しました。

 

会議に招聘されなかったPLOのアラファト議長は、国際的に存在をアピールする必要に迫られる中、91年12月にソ連が解体し、国際的な後ろ盾も失くしたことから、外交交渉での事態打開の必要性に迫られました。一方、イスラエルでは、92年の総選挙で、労働党が強硬派のリクードから政権を奪取し、ラビン内閣が誕生したことから、パレスチナ情勢の変化が期待されました。

 

(2024年4月4日)

 

<関連投稿>

イスラエル: 「ダビデの星」の国の基礎知識

パレスチナの最終的地位問題:解決への3つの論点

エルサレム:「シオンの丘」に立つ聖なる神の都

イスラエル史➀:シオニズム運動の結実とその代償

イスラエル史②:オスロ合意からガザ戦争まで

 

パレスチナ:ヨルダン川西岸・ガザ・東エルサレム

PLO:アラファトのファタハ、その闘争の変遷

ハマス:イスラム主義と自爆テロの果て

パレスチナからみた中東史②:オスロ合意とハマスの抵抗

 

 

<参照>

パレスチナとイスラエルの和平で最大の壁は何か命がけで「2国家共存」を進める指導者は出現するか

(2023/10/27、東洋経済)

イスラエル・ガザ衝突 原因は?なぜ和平が遠いのか? 地図と用語解説・年表でひもとく対立の構図

(2023年10月19日、東京新聞)

イスラエルvsハマス バイデン米政権はどう動く? トランプ氏が仲介した「アブラハム合意」とは?

(2023年10月27日、東京新聞)

論点 エルサレム「首都認定」

(毎日新聞2017年12月7日 東京朝刊)

「トランプ大統領の中東和平政策」(視点・論点)

(2017年02月21日、NHKオンライン)防衛大学校 名誉教授 立山 良司

中東和平、交渉前進せず オスロ合意から20年

(2013/9/13、日経 )

【地図で読み解く】中東9カ国&米中露3カ国…それぞれの「中東問題」への思惑とは?

(2023年11月22日 ニューズウィー)

コラム:エルサレム首都認定でトランプ氏が招く「悲惨な代償」

2017年12月9日、ロイター

トランプ米大統領、エルサレムをイスラエルの首都と承認

2017年12月7日、BBC

「アブラハム合意」とは何だったのか――UAE・バハレーンにとってのイスラエルとユダヤ

(中東調査会)

【解説】 イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる

(2023年10月18日、BBC)

東エルサレム East Jerusalem

(百科事典、科学ニュース、研究レビュー)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど