パレスチナからみた中東史②:オスロ合意とハマスの抵抗

 

パレスチナ側の視点に立った、イスラエル・パレスチナ情勢の経緯を追う、「パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り」に続き、今回は、オスロ合意から、ハマスの躍進をへて、イスラエル・ガザ戦争に至る過程をみていきます。

 

なお、イスラエルから見た中東史については、過去の投稿を参照下さい。

イスラエル史➀:2000年の時を経た建国とその代償

イスラエル史②:つゆと消えたオスロ合意

 

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オスロ合意;期待と失望>

 

オスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)

 

アメリカ主導の中東和平交渉の失敗後、ノルウェーのホルスト外相の仲介で、オスロで秘密裏にPLOとイスラエルの直接交渉が初めて行われ、中東和平に関する(オスロ)合意がなされました(オスロ合意)。アメリカはこの交渉には関与していませんでしたが、クリントン大統領の仲介という形をとり、1993年9月13日にワシントンのホワイトハウスで、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長が、オスロ合意(オスロ合意Ⅰ)(正式名:パレスチナ暫定自治に関する原則宣言)(略称:暫定自治原則宣言またはパレスチナ暫定自治協定)に調印し、ようやく和平実現への端緒をひらかれました。

 

オスロ合意の内容は、イスラエル・PLO間の相互承認とパレスチナの暫定自治(ヨルダン川西岸・ガザ地区での5年間の暫定自治)についての2点でした。

 

PLOはパレスチナ人の代表として、イスラエルを国家として承認し、イスラエルはPLOを、パレスチナを代表する自治政府として認めました。(イスラエルもそれまでテロリスト集団であると言っていた)。

 

PLOは、また、「イスラエル国が平和と安全のうちに存在する権利」を認め、「テロや他の暴力行為の行使を放棄」することを約束したことによって、ヨルダン川西岸とガザ地区の自治権を獲得しました。具体的に、イスラエルは、占領した地域(ヨルダン川西岸からガザ地区)から暫時撤退し、5年間にわたりパレスチナの自治を認める、暫定自治開始3年目までに最終的地位に関する交渉を開始し、暫定自治の終わる5年後に、最終的地位協定を発効させるというものでした。パレスチナ最終的地位交渉の中身は、エルサレムの帰属、パレスチナ難民の処遇、国境画定などが含まれます。

 

オスロ合意は、イスラエルとパレスチナという当事者同士がテーブルに着き、和平の道筋について大筋で合意したことの歴史的意義は大きく、この功績によってラビンとアラファトは94年にノーベル平和賞を受賞しました。

 

 

ガザ・エリコ先行自治協定(カイロ協定)

 

オスロ合意に基づき、94年5月、「ガザ・エリコ(ジェリコ)先行自治協定」(カイロ協定)が署名され、イスラエルは両地区から撤退し、PLOは同年7月、パレスチナ暫定自治政府(PA)を設立しました。また、同年5月、パレスチナ警察の第一陣がパレスチナに入り、さらに7月にはアラファトPLO議長とファタハのPLO指導部は、チェニスから25年ぶりにパレスチナへ帰還しました(まずガザに入り、後にヨルダン川西岸のラマラへ)。

 

この自治政府はPLO(パレスチナ解放機構)がその実体を担い、自治行政府の長はPLO議長が兼ねました。PLOはパレスチナを代表する国家機構となって自治行政府を主導することになったのです。これによって、ヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ人による「暫定自治(先行自治)」が始まりました。

 

 

オスロ合意II(オスロ第二合意)

 

ガザとエリコの先行自治の開始と自治区での警察権の移行が行われた後、次は(「二国家解決」に向けて)どのように自治を拡大して行くかについての交渉が行われ、1995年9月にワシントンにおいて「暫定自治拡大合意」(「パレスチナ自治拡大協定」またはオスロ合意Ⅱ、オスロ第二合意)が署名されました。主な内容は、自治区の拡大、統治の三段階区分、パレスチナ自治政府機構の発足の3点です。

 

パレスチナ自治区の拡大

パレスチナの自治区が、西岸地区の主要6都市(ジェニン、ナブルス、トゥールカルム、カルキーリヤ、ラマッラ、ベツレヘム)と450の町村に拡大されました。(ただし、ヘブロンはムスリムとユダヤ教徒が共通の聖地としているため自治の対象から除外)。

 

統治の三段階区

また、安全保障に関して、ヨルダン川西岸・ガザ両地区で自治政府(PA)は、イスラエル側よりこれらの地区内での治安・民生の権限・責任を委譲され、自治のため行政・立法・司法権限を執行することが定められました。

 

ただし、ヨルダン川西岸地区(東エルサレムを含まず)については、A、B、C地域に3区分(A、B、Cの3地域に分類)されました。

 

A地域:自治政府が治安と民政双方に関して責任を負う地域で、ラマッラやベツレヘム等主要6都市が該当します。

 

B地域:自治政府が民政に関して責任を負うが、治安に関してはイスラエル軍が原則、管轄する。(治安権限は双方だがイスラエルの権限が優越)、民生権限をPAが保持しています。

 

C地域:イスラエルが、治安・民生双方の権限を保持する。過疎地或いはイスラエルにとって戦略的重要地域等に該当し、順次PA側に移管されることが規定されました。

 

パレスチナ自治政府機構

さらに、オスロ合意IIでは、パレスチナの議会(PAの議会)と、パレスチナ統治機構議長(長官)(大統領にあたる)を選出することが決定されました。パレスチナ自治政府を安定させるためには,中央政府を頂点とする統治機構の整備が図られたわけです。

 

 

パレスチナ総選挙

 

オスロ合意IIに従って、1996年1月、第1回パレスチナ自治政府長官選挙と、国会に相当するパレスチナ立法評議会(PLC)選挙が、ヨルダン川西岸・ガザ両地区で実際されました。両地区で自治選挙が行われるのは史上初めてのことでした。

 

パレスチナ自治政府長官選挙では、アラファト議長が、初代の自治政府議長(大統領)に選出されました。これ(首長選挙)によって、パレスチナ国家(SoP)とパレスチナ暫定自治政府(PA)の大統領職が事実上統一された形となりました。また、議会選挙では、ハマスは不参加の中、自治政府(PLO)のファタハ系が定数88議席のうち55議席を獲得して圧勝し、アハメド・クレイが、パレスチナ立法評議会(PLC)議長に選出されました。

 

これによって、「オスロ合意体制」と呼ばれるイスラエルと共存するパレスチナ国家樹立に向けた枠組が整いました。パレスチナ自治政府(PA)おける立法権限は、パレスチナ立法評議会(PLC)が有し、行政権限は大統領を長とする行政機関(行政府)が有しています。一方、司法は、イスラエルの法令が優先され、西岸ではヨルダン、ガザではエジプトの法体系がそれぞれ機能しています。なお、憲法に相当するものとして、2003年3月に基本法が制定されました。

 

 

テロの応酬と暫定自治期間の終了

 

このように1990年代前半はパレスチナ問題に関して和平気運が盛り上がった時期でしたが、イスラエル・パレスチナの双方には根強い反対勢力がいて、オスロ合意に反対していました。

 

イスラエルでは「大イスラエル主義」を掲げるシオニストの過激派・ユダヤ教原理主義者とそれに近いリクードに代表される右派政党があり、ラビン労働党政権に敵対していました。95年11月にラビン首相がユダヤ教急進派に暗殺されたことは、イスラエル側にもオスロ合意に対する強い不満の表れであったと同時に、イスラエルでは再び強硬路線に転じていくことになります。

 

一方、パレスチナ側でも、イスラム原理主義を信奉するハマスやイスラム聖戦(PIJ)などのイスラム主義勢力が台頭してきました。彼らは、PLO(ファタハ)の妥協的な和平路線に対して、アラブの大義に反すると反発し、オスロ合意を拒否、暫定自治(パレスチナ暫定自治政府)も認めていません。

 

こうした背景もあって、オスロ合意のあと、イスラエルとパレスチナの間で、いくつもの暴力事件が発生しました。その中でも特筆すべき事件は、ヘブロン乱射事件とそれに対する報復テロです。

 

ヘブロン乱射事件

94年2月、アメリカ生まれのユダヤ人医師バルーフ・ゴールドステインが、ヨルダン川西岸にあるヘブロンのイブラヒム・モスクで自動小銃を乱射し、ラマダン期間中のイスラム教安息日の金曜日に、礼拝に来ていた8歳の子どもを含む29人のパレスチナ人を殺害し、100人以上を負傷させました。実行犯ゴールドシュタインはシオニズムを掲げるユダヤ人過激派組織「カハ」の幹部であることが判明しました。

 

ヘブロンは、ユダヤ人とアラブ人の共通の祖先、族長アブラハムの墓所がある聖地であり、ユダヤ教徒にとってはさらに、ダビデ王が即位した場所でもあります。一方、事件が起きた場所は、ユダヤ人が「マクペラの洞窟(預言者アブラハムを始めとする3代の族長とその妻を埋葬した墓所)」と呼ぶ古代からの聖地で、後にムスリムがイブラヒム・モスクを建てた所でした。

 

そこで、第三次中東戦争でヨルダン側西岸をイスラエル軍が占領すると、ヘブロンの近くに入植地を作り、ヘブロン中心部にも住むようになり、両者は一触触発の情況になっていたのです。

 

べブロン事件に対して、同年4月には、その報復として、21歳の若者がテルアビブ行きのバスの後部座席で約2キログラムの爆薬を詰めたカバンを爆発させるテロ行為に及びました(これが、はじめての自爆攻撃であった)。その1週間前にも、イスラエル北部の町アフラのバス停で停車していたバスに、後続の乗用車が突っ込み運転手もろとも爆発させるテロ事件も発生していました。

 

ハマスなどの反和平派は、オスロ合意反対を叫び、PLOアラファトも暫定自治交渉を中断させざるを得なくなりました。オスロ合意における入植地問題などの交渉が行き詰まっていたことで、和平反対派は勢いづき、ハマスのテロに大義名分を与える結果となっただけでなく、「自爆テロ」という新たな抵抗手段を実行するようになり、それがさらにイスラエル人を恐怖に陥れて報復を行うという悪循環が始まったのです。

 

そうした中、イスラエルでは96年5月の初めての首相公選でリクードのネタニヤフが当選し、政権交代すると、中東和平プロセスは完全に停滞し、合意した3年の間に最終的地位に関する具体的交渉も撤退も行われないまま、暫定自治期間の終了期限(99年5月4日)を迎えてしまいました(オスロ合意の暫定自治期間の5年が終了した)。逆に、ネタニヤフ政権はユダヤ人のパレスチナへの入植を増大させ、各地区でパレスチナ人との衝突事件が続きました。

 

しかし、1999年5月の選挙で、和平交渉再開を公約とした労働党のバラクが選出され、バラク首相は、オスロ合意締結6周年を契機として和平交渉を再開させました。同年9月、シャルム・エル・シェイク合意(エジプト)によって、最終的地位交渉が開始され、10月に西岸・ガザ間の安全通行路が開通したのに続き、西岸地区の7%の地域からのイスラエル軍の撤退等が実施に移されました。ただし、最終的地位交渉に実質的な進展は見られませんでした。

 

また、退任が近づいたクリントン米大統領は、2000年7月、キャンプ・デービッドにおいて米・イスラエル(バラク首相)・パレスチナ(アラファト議長)の三首脳会談(キャンプ・デービッド首脳会談)を主催し、オスロ合意で積み残された交渉に臨みましたが、エルサレム首都問題やパレスチナ難民帰還権問題などで双方の妥協が得られず、合意に至りませんでした(決裂しました)。これは、93年以来のオスロ合意が破綻したことを意味し、中東・パレスチナ問題は再び混沌とした対立の時期へと戻ってしまいました。

 

 

<インティファ―ダとアラファトの死>

 

第二次インティファーダ

 

2000年9月28日、イスラエルの右派リクード党の党首アリエル・シャロンが、イスラム教の聖地で、イスラム教徒が管理するエルサレムの神殿の丘に立ち入ったことを契機に、大規模なパレスチナ人の抗議行動(民衆蜂起)、第二次インティファーダが勃発しました。

 

その前線に立ったのがイスラム組織ハマス(この蜂起を行ったのがハマス)で、以後、パレスチナにおける主導権を握ることになるとともに、和平路線を採る主流派ファタハとの対立がさらに深まりました。これにより、再び自爆テロが頻発し、多くのイスラエル市民が死傷し、その報復によってさらに多くのパレスチナ人が殺されるなど、暴力の連鎖が止まりませんでした。

 

しかも、第二次インティファーダにともなう自爆攻撃は、ハマスだけでなく、イスラム聖戦機構やアル・アクサ殉教者旅団、世俗主義者、無神論者など様々なイスラム過激派によって実行されました。ハマスもまた、投石だけの戦術の限界を意識し、でイスラエルに対抗するミサイルなどで武装する方向に転じていきました。

 

 

シャロンの強硬路線と分離壁設置

 

これに対して、イスラエルでは、2001年2月には、その第二次インティファーダのきっかけを作った右派リクードのシャロンが首相に就任、対パレスチナ強硬路線を強化していきます。2001年9月、アメリカで9.11同時多発テロが発生すると、「テロとの戦争」を掲げたアメリカは、アラブ過激派の犯行と捉えアフガニスタンに侵攻を行いました。

 

世界の耳目がアフガニスタンに向かう中、シャロン政権はアメリカの「テロとの戦争」に同調し、PLOへの攻勢を強めました。ヨルダン川西岸にたびたび侵攻、ラマラの自治政府を包囲すると、2002年2月にはアラファト議長を軟禁状態に追い込みました。さらに、イスラエル政府は、2002年6月、パレスチナ人過激派の侵入を阻止するという理由で、安全保障フェンスとして、ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地とパレスチナ人居住区の間に分離壁(隔離壁)の建設を決定しました。

 

07年の段階で、壁の完成部分は409キロメートルに達しており(最終的な壁の建設は790キロメートルになる予定)、うち一部が8メートルの高さのコンクリート製壁からなっています。しかも、壁は67年戦争以前の停戦ラインであるグリーン・ラインに深く食い込んでパレスチナ自治区側に建設されています

 

 

ロードマップ合意

 

米ブッシュ(子)大統領は、イラク戦争を遂行する大義のためにはパレスチナ和平を進める必要が生じたことから、2002年6月、パレスチナ和平実現に向けての包括的な合意を提言しました(その前提としてアラファトのPLOをパレスチナから排除することを求めたとされる)。

 

2003年4月米、EU、露、国連からなる「カルテット」が、「ロードマップ」を発表しました。これは、イスラエル、パレスチナ二国家共存に向け、関係者が取り組まなければならない義務を記載したものです。同年6月、ブッシュ大統領の仲介によりイスラエルのシャロン首相、パレスチナ自治政府のアッバス首相が、ヨルダンのアカバでの三者首脳会議がもたれ、イスラエル、パレスチナ双方も受容しました。

 

これを受け、イスラエル側は、シャロン首相は、強硬姿勢を転換させ和平路線に転じました。パレスチナ自治区の一部からの撤退、封鎖の緩和や移動の自由の制限緩和措置を実施すると、パレスチナ側も過激派が一時停戦を表明すると同時に、一部過激派の摘発等に着手し、和平プロセスに前向きな動きが現れ始めました。

 

しかし、その後もイスラエル軍によるハマス等パレスチナ武装勢力幹部の暗殺とパレスチナ武装勢力による自爆テロという暴力の連鎖が再発したため、イスラエルは再び自治区の封鎖を強化し、パレスチナ武装勢力は停戦を破棄しました。

 

 

アラファトの死

 

パレスチナ人のPLO離れが進む中、パレスチナ自治政府大統領(議長)・PLO議長ヤセル・アラファトが、突如体調を崩し、2004年11月、パレスチナから移送されたフランスの病院で死亡しました。75歳でした。

 

アラファトの死をめぐっては、2012年7月に、中東の衛星テレビ局アルジャジーラが、また13年11月には、アラファト議長の死因を調べていたスイスの調査団が、独自の調査の結果、アラファト議長(当時75)は「毒性の強い高濃度の放射性物質ポロニウムで毒殺された疑いが強いことが判明した」と発表しました。一方、議長の死因を調べていたフランスの調査団は、2013年12月、「自然死」とする報告書をまとめています。

 

アラファトの死去に伴い、2005年1月、パレスチナ自治政府の長官(大統領)を選ぶ選挙が行われました。結果、既にアラファトの後を継いでPLO(パレスチナ解放機構)議長に就任していたムハンマド・アッバスが選出されました(なお、日本はPA長官の呼称をこの時からPA大統領と改めた)(首相にはファタハのクレイ氏が就任)。アッバスは国際社会に承認された、「二国共存」によるイスラエルとの和平を継承し、秩序の回復を目指しました。

 

アッバス議長の就任を受けて、中東和平への期待が高まり、2005年2月、エジプトのシャルム・エル・シェイクにて、ムバラク・エジプト大統領、アブダッラー・ヨルダン国王、アッバスPA大統領、シャロン・イスラエル首相による四者首脳会談が実現し、軍事活動と暴力の停止を双方が宣言し(これが、第二次インティファーダ終結とされた)、西岸6都市の治安権限の移譲、パレスチナ人拘禁者900名の釈放等についての合意がなされました。

 

 

 

<PLOファタハvs  ハマス>

 

イスラエル、ガザ撤退

 

2005年9月、イスラエル軍によるガザ撤退が無事完了し、1948年の第1次中東戦争以来、初めてガザ地区全域の完全な主権がパレスチナ人の手に渡りました。棚上げになっていたガザ地区とエジプトを結ぶラファハ通行所など、同年11月通行所が再開され、ガザ地区のアクセス問題も解決しました。

 

しかし、イスラエル軍は撤退したと言っても、イスラエルは境界を管理するだけでなく、イスラエルとの境界線には壁を設置し始めました。そのため、200万人のパレスチナ人の生活と移動は制限され、ガザ地区は、「空の見える監獄」とも呼ばれています。

 

 

ハマスの躍進とガザ支配

 

2006年1月、第2回パレスチナ立法評議会(PLC)選挙が行われ、イスラム原理主義組織ハマスが過半数の議席を獲得し勝利しました。クレイ首相は敗北を認め、総辞職し、同年3月、ハマス幹部であるハニヤPLC議員を首相とするハマス主導のパレスチナ自治政府(PA)の内閣が成立しました。民主的な選挙で政権交代が行われるのはアラブ世界では初めてのことでした。

 

PLO主流派ファタハ敗北の原因としては、民衆の期待を裏切る形となっていたことがあげられます。ファタハの支持基盤を国外のクウェートやイラクのパレスチナ人からの資金援助に置いていたため、現地のパレスチナ人を軽視しする傾向があったこと、ファタハによる政権の独占やアラファト自身の個人支配が色濃く、非民主的な腐敗が次第に目立っていたことなどが指摘されていました。

 

これに対して、ハマスは、自治政府のもとで不十分だった貧民救済や医療などの活動を積極的に行って民衆の支持を受けるようになっていたことや、綿密な選挙戦略が得票につながったと見られています。

 

しかし、イスラエルや欧米を中心とした国際社会は、ハマスをテロ組織と認定し、政権を認めていません。06年4月、米、EUなどは、パレスチナ自治政府(PA)に対する援助停止発表しました。

 

イスラエルも、05年頃からハマスによるロケット弾攻撃を受けていたので、ハマスをテロ組織と断定して交渉を拒否し、PA内閣との接触を停止(アッバス大統領及びその周辺との接触は維持)すると共に、テロ資金への流用を恐れ、PAへの2月以降の関税等還付を凍結しました。このように、ガザ地区を統治するハマスはイスラエル及び国際社会の大勢からはテロ集団と見なされて孤立し、経済封鎖を受けることとなりったのです。

 

さらに、06年6月にガザ地区で発生したパレスチナ武装勢力によるイスラエル兵士の拉致事件(シャリート兵士拉致事件)を契機に、イスラエル軍がガザ地区に進攻する事件も発生しました。一方、パレスチナ人の間でも、06年12月あたりからPLO主流派のファタハとハマスの間での内部抗争が激化し、ガザ地区でパレスチナ人同士の衝突が頻発しました。

 

この事態を打開するため、2007年2月、サウジアラビアの仲介によって、穏健派ファタハとイスラム過激派ハマスの統一政権樹立で合意、翌3月、「挙国一致内閣」が成立し、再びハニヤ首相を首班とする連立政権が発足しました。しかし、連立内閣発足後、ほどなく(5月上旬頃より)、ガザ地区でのファタハとハマスの対立は再び激化します。統一政権においては、政治面では、与党のハマスが首相のポストを握り、治安の正式な権限はファタハが握るという構図が続いていましたが、治安部隊の権限をめぐる確執から各地でファタファ系とハマス系の治安部隊が併存するようになったのに伴い、部隊の現場であつれきと小競り合いが増加するようになったのです。

 

そして、2007年6月、ついにガサ地区で、ファタハとハマスの治安部隊が衝突、ハマスはガザ地区内の大統領府や保安警察本部を占拠、ガザ地区全域を制圧(の掌握を宣言)する事態へと至りました。これに対して、アッバス大統領(議長)は、パレスチナ自治区全域を対象に緊急事態を宣言し、ハニヤ首相を罷免、ファイヤード前財務庁長官を首相とする、ハマスを排除した緊急内閣(危機管理内閣)を成立させました。

 

こうして、パレスチナ自治区は、ハマスがガザ地区を、アッバス議長のファタハがヨルダン川西岸パレスチナ自治区(ラマラ)を握る(管轄する)二重権力構造となり、パレスチナ自治区は「分断」されました(東エルサレムは、イスラエル占領下にある)。

 

一方、イスラエル軍は2005年にガザから撤退しましたが、その後も、境界を管理しています。また、パレスチナ評議会選挙後の07年から、テロ防止やイスラエル側の安全のためと称して、ガザ地区を囲む分離壁を建設してイスラエルから隔離しました。これによって、現在、ガザ地区は、壁やフェンスに囲まれ、人とモノの出入りすら制限される封鎖状態にあります。ガザは、「天井のない監獄」と呼ばれ、200万人に及ぶパレスチナ人が不自由な生活を送っているのが現状です。

 

 

中東和平国際会議(アナポリス合意)   

 

一方、国際社会は、和平プロセスへの取組を更に強化し、2007年11月には、ブッシュ米大統領が提唱した中東和平に関する国際会議がアナポリス(米国メリーランド州)で開催されました。そこで、08年中の和平合意に向け、イスラエル、パレスチナ双方が努力することで合意した共同了解がなされました(アナポリス合意)。

 

また、同年12月には、パレスチナの経済復興を後押しすることを目的に、パレスチナ支援国会議がパリで開催され、パレスチナの要請した金額を上回る74億円の拠出金が集まりました。ただし、ハマスは会議に招かれず、国際社会はハマスを排除して和平を進める立場が鮮明となりました。

 

 

断続したガザ紛争

イスラム組織ハマスが07年6月にガザ地区を制圧して以降、イスラエルによる経済封鎖を本格化、また、高い分離壁でガザの境界封鎖を強化する中、イスラエルとハマスは、断続的に軍事的衝突を繰り返しました。

 

2007〜09年のイスラエル侵攻

2007年12月、イスラエルとハマスの軍事衝突が起きると、翌3月には、イスラエル軍はガザから撤退し、イスラエルとハマスの間で、08年6月から半年間にわたって停戦協定が結ばれましたが、12月に入り、停戦延長の交渉が決裂しました。その後、イスラエルはガザ地区のハマスを空爆、ハマスもロケット弾で反撃すると、09年1月に入り、イスラエル地上部隊が侵攻するなど、ガザ戦争といわれる状態となりました。

 

アナポリス合意も、具体的な和平プロセスの進展は見られず、ブッシュ米政権の退陣とともに、事実上頓挫していましたが、このイスラエル地上軍のガザ侵攻で、アナポリス合意は完全に瓦解した形です。

 

さらに、イスラエルでは09年からはリクード党の最強硬派ネタニヤフが政権を握り、双方が妥協を拒否したことから、対決はさらに深刻化しました。もっとも、地上侵攻後、ほどなく、イスラエルは一方的な「停戦宣言」を出し(ハマスも抗戦を停止)、アメリカのオバマ新大統領が就任した日(09年1月20日)にガザの市街地から撤退し、暫定的な停戦が成立しました(停戦はしばらく維持された)。

 

2014年のイスラエル侵攻

しかし、2012年3月にイスラエル軍によるガザ空爆が実施された後も、2014年6月、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区で、ユダヤ人少年3人の殺害事件が発生したことをきっかけに、イスラエルとハマスの間で戦闘が始まりました。

 

当初、ハマスがロケット弾攻撃を行い、イスラエル軍は空爆で対抗していましが、2014年07月、ハマスが拠点とするパレスチナ自治区ガザ地区への地上侵攻を開始、ガザから戦闘員などを送り込むため掘削されたとみられる約10本のトンネルを発見し破壊しました。短期的な停戦と戦闘の再開を繰り返した後、最終的に、同年8月、隣国エジプトの仲介のもとで期限を決めない長期的な停戦期間に入ることで合意しました。

 

 

 パレスチナ、国連オブザーバー国家へ

 

国連総会は、2012年11月、パレスチナの国連での資格を、それまでの非加盟の「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げするための決議案を採決し、賛成多数で採択しました。オブザーバー国家は、正式な加盟国のような議決権は持たないものの、ほとんどの会合に出席が認められ、総会での発言権もあり、また、国際刑事裁判所(ICC)への訴追などが可能となります。国連本部には、それまで、正式加盟国の旗だけ掲げられていましたが、パレスチナがオブザーバー国家の地位獲得したことを機に、現在、パレスチナの旗も掲揚されています。

 

道のり遠いパレスチナ統一政府と総選挙

 

一方、分裂が続くパレスチナ自治政府PAの主流派組織ファタハと同自治区ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマスは、2011年5月、暫定統一政府の発足などを盛り込んだ和解案に最終合意し、14年6月、パレスチナ:統一の暫定政府を発足させました

 

正式な統一政府発足に向け、07年の双方の武力衝突以降、ファタハ主体の自治政府が統治するヨルダン川西岸と、ハマスが実効支配するガザ地区で分断されている行政や治安権限を一本化することや、半年後に自治政府の議長(大統領に相当)と自治評議会(国会に相当)の選挙を実施することが決められていましたが、結局失敗に終わりました。

 

また、ファタハとハマスは、2017年10月にも、エジプトの仲介の下で、10年に及ぶ分裂を解消することを目指した和解協議で合意に達しました。これにより、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸を拠点とするパレスチナ自治政府が、ハマスの実効支配するガザ地区を、再び完全な統治下に置き、自治政府の議長とパレスチナ自治評議会の選挙を実施することでまとまりました。アッバス議長も、これを「最終的」な合意と位置付けていましたが、過去に何度かなされた合意同様、現在まで一度も選挙は実施されていません。

 

 

<イスラエル・ガザ戦争へ>

 

トランプのエルサレム首都認定とアブラハム合意

 

こうした膠着状態が続くなか、アメリカのトランプ大統領は、2017年12月、エルサレムをイスラエルの首都として正式に認めると発表し、在イスラエル大使館は、翌18年5月、テルアビブからエルサレムに移転されました

 

また、イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)は、2020年8月、「アブラハム合意」に署名し、国交を結びました。合意により、両国は相互に国家承認し、イスラエルはヨルダン川西岸地区の併合計画を保留しました(もっとも、入植活動を通じた事実上の併合は着実に進行しているとされる)。

 

加えて、9月には、バーレーン(バハレーン)が、イスラエルとの国交正常化合意を発表し、ワシントンでUAEとともに3か国による調印式が行われれると、さらに、スーダン(10月)とモロッコ(12月)も、これに続き、イスラエルとの関係正常化に踏み切りました(イスラエルとの国交正常化を締結した一連の現象をまとめてアブラハム合意と呼ぶこともある)。

 

これに対して、パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長は、「パレスチナ人への裏切りであり、断固拒否する」と述べて、合意の撤回を要求しました。というのは、アラブ連盟には、イスラエルがすべての占領地から撤退し、東エルサレムを首都とする「パレスチナ国家」の樹立を認めることを条件に、アラブ諸国がイスラエルとの国交を正常化するという中東和平の基本原則を堅持しているからです。

 

パレスチナ側は、この原則が蔑ろにされ、また、アブラハム合意によって、イスラエルの占領が事実上容認されることに対して、強い危機感を抱くようになりました。実際、07年以来、イスラエルによる封鎖が続いているガザでは、慢性的な人道危機に直面している中、イスラエルとハマスは2021年5月、11日間にわたり激しい軍事衝突が起きました。

 

 

2021年ガザ紛争

 

イスラエルは、2021年5月、パレスチナ自治区のガザ地区を空爆して再びガザ戦争と言われる緊迫した事態となりました。きっかけは4月中旬、イスラム教のラマダーン(断食月)の開始に当たり、イスラエル当局がエルサレム旧市街入り口でパレスチナ人の出入りを制限したことに対してパレスチナ側が反発して暴動が起きたことでした。同じ時期にイスラエルが実効支配している東エルサレムで、一部のパレスチナ人に退去命令が出されたこともパレスチナ側の反発を強める要因となりました。

 

これに対して、ガザ地区のハマスの軍事組織が、イスラエル軍に対してロケット弾を発射し、それに対する報復措置としてイスラエル軍がガザ地区を空爆、さらに地上部隊が砲撃を加えました。ただし、今回はエジプトが仲介に動き、同年同月内に停戦となりました。

 

 

イスラエル・ガザ戦争

 

ハマス等パレスチナ武装勢力は、2023年10月7日、ガザ地区からイスラエルに数千発のロケット弾を発射したうえで、1500名規模がイスラエル側検問・境界を破って、イスラエル側へ侵入し、イスラエル軍(IDF)兵士のほか、ハマスは、外国人やイスラエルの子どもや幼児を含む1400人あまりを殺害し、240人もの人質をガザに拉致する大規模テロ事件を起こしました。

 

これを受け、イスラエル国防軍は、ガザ地区への報復的な大規模空爆後に地上侵攻を展開する軍事作戦を実施しています。今回イスラエルに侵入して奇襲攻撃を実行したのは、ガザ地区を拠点にしている武装組織ハマスです。実際、このテロは、ガザに潜伏する、ハマスの軍事部門アル=カッサム大隊の司令官ムハンマド・デイフが計画したと言われています。

 

テロの報復やテロリストの掃討の名目で無関係なガザ市民が殺傷される惨状が日々伝えられることで、世界中でイスラエルに対する当初の同情は批判に代わり、抗議行動も活発化しています。国連総会ではイスラエルのガザ空爆・地上攻撃に対する非難決議もなされたが、イスラエル軍はなし崩し的に地上での侵攻を行っていることも批判を強めています。

 

ハマスによる攻撃の背景に、アラブ4ヵ国とイスラエルとの関係を正常化させた「アブラハム合意」があると見られています。これまで、パレスチナは、宗教的にも民族的にも同じアラブ諸国から支援を受けてきましたが、アブラハム合意によって、UAE、バーレーン、スーダン、モロッコがイスラエルと国交を結び、さらに、報道された通り、アラブの盟主サウジアラビアまで合意に加わるとなれば、これは、パレスチナ、とりわけハマスにとっては決定的な「裏切り行為」であり、それを阻止するために攻撃に踏み切ったとみられています。

 

(2024年4月4日)

 

<関連投稿>

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エルサレム:「シオンの丘」に立つ聖なる神の都

イスラエル史➀:シオニズム運動の結実とその代償

イスラエル史②:オスロ合意からガザ戦争まで

 

パレスチナ:ヨルダン川西岸・ガザ・東エルサレム

PLO:アラファトのファタハ、その闘争の変遷

ハマス:イスラム主義と自爆テロの果て

パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

 

 

 

 

<参照>

パレスチナとイスラエルの和平で最大の壁は何か命がけで「2国家共存」を進める指導者は出現するか

(2023/10/27、東洋経済)

イスラエル・ガザ衝突 原因は?なぜ和平が遠いのか? 地図と用語解説・年表でひもとく対立の構図

(2023年10月19日、東京新聞)

イスラエルvsハマス バイデン米政権はどう動く? トランプ氏が仲介した「アブラハム合意」とは?

(2023年10月27日、東京新聞)

論点 エルサレム「首都認定」

(毎日新聞2017年12月7日 東京朝刊)

「トランプ大統領の中東和平政策」(視点・論点)

(2017年02月21日、NHKオンライン)防衛大学校 名誉教授 立山 良司

中東和平、交渉前進せず オスロ合意から20年

(2013/9/13、日経 )

【地図で読み解く】中東9カ国&米中露3カ国…それぞれの「中東問題」への思惑とは?

(2023年11月22日 ニューズウィー)

コラム:エルサレム首都認定でトランプ氏が招く「悲惨な代償」

2017年12月9日、ロイター

トランプ米大統領、エルサレムをイスラエルの首都と承認

2017年12月7日、BBC

「アブラハム合意」とは何だったのか――UAE・バハレーンにとってのイスラエルとユダヤ

(中東調査会)

【解説】 イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる

(2023年10月18日、BBC)

東エルサレム East Jerusalem

(百科事典、科学ニュース、研究レビュー)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど