ハマス:イスラム主義と自爆テロの果て

 

イスラエル・パレスチナ情勢の理解のために、今回は、PLO(パレスチナ解放機構)につ続き、パレスチナ側のハマスについて解説します。2023年10月、イスラエルへの大規模テロを仕掛けたハマスとはいかなる組織なのでしょうか?あまり知られていないハマスの実態を、その構成や成立ちを追いながら解き明かします。

 

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<ハマスとは?>

 

ハマス(ハマース)は、1987年のインティファーダ(民衆蜂起)の際に、発足したパレスチナ最大のイスラム主義組織(スンニ派イスラム系政治組織)で、アラビア語「イスラム抵抗運動」の頭文字を並べてハマスと名付けられました。

 

イスラム主義とは、イスラム法に基づく国家、社会建設を目指す思想で、イスラエルも含むパレスチナ全土は神にささげられた寄進地(ワクフ)であり、人為的な割譲は許されません。さらにイスラム世界を意味する「イスラムの家」に異教徒(この場合、ユダヤ教徒)が侵攻すれば、その防衛はイスラム教徒の義務となります。

 

それゆえに、ハマスの基本的なイデオロギーは、「パレスチナの全土を解放し、イスラム国家をつくること」で、その目標は、「イスラエル国家を消滅させて、すべての土地をパレスチナ人の手に取り戻し、外国に住む数百人のパレスチナ難民を帰還させる」ことにあります。実際、ハマスの創始者アハマド・ヤシン師の抵抗理論、「パレスチナの土地は宗教上の財産であり、手放すのは信仰の放棄にあたる」はハマスの重要な綱領となっています。

 

ですから、ハマスは、イスラエルと交渉することだけでなく、イスラエル国家の存在そのもの(生存権)を認めていません。当然、オスロ合意も認めていません。さらに、イスラエルを承認しないどころか、イスラエルの占領が続く限り、対イスラエル武装闘争(武力抵抗の)を継続し、長年にわたりイスラエルに対する数多くのテロ攻撃やミサイル攻撃を主導してきました。

 

当然、ハマスは、アメリカから「外国テロ組織」と認定され、厳しい制裁を課されています。イスラエルや米欧は、ハマスとの交渉には、ハマスが、①非暴力の宣誓(テロ放棄)、②イスラエルの承認(存在承認)、③93年のパレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)など過去の和平合意の順守をすることという3条件(制裁解除、交渉開始の3条件)だとしていますが、ハマスが応じる気配はありません。

 

 

  • ハマスの統治機構

 

ハマスは、何か得体の知れない存在と形容されることがあるように、序列と規則のある組織でなく、本部や支部も不明で、人々が集まる場所も定めれていません。ハマス構成員の人数も不明ですが、推定、3万人とも言われています。

 

活動の中心は、パレスチナ(ヨルダン川西岸とガザ)ですが、ヨルダンを拠点としていました。1999年にヨルダンから追放され、カタールに本部を移したと見られています。また、一部はシリア(ダマスカス)にも拠点を設置しましたが、2012年、いわゆる「アラブの春」でシリア騒乱が激化したため、ダマスカスの事務所は閉鎖され、カタールに合流しています。2023年10月以降、イスラエルから報復攻撃を受けるなか、ハマスの指導者は、カタールにいることは確認されています。

 

ハマスは組織上、政治部門と軍事部門に分かれていると言われています。

 

軍事部門

ハマスの軍事部門といえば、1991年に創設された、軍事部門のイッズディーン(エゼディン)・アル・カッサム旅団(または単純にカッサム旅団)をさします。1930年代にパレスチナにおける反英蜂起の精神的支柱となった英雄の名前にちなみ命名されました。

 

カッサム旅団の前身は、それまで活動していた軍事組織「パレスチナのジハード戦士たち」で、91年にこの組織を改称してカッサム旅団が誕生しました。「パレスチナのジハード戦士たち」自体は、ガザの難民キャンプから生まれた好戦的な武装グループで、87年のハマス結成よりも前の84年に既に対イスラエル活動を展開していたと言われています。

 

英シンクタンク、国際戦略研究所が発行する「ミリタリー・バランス」によると、ハマス1万5000人から2万人の戦闘員がいます。カッサム旅団は、即席のロケット弾や対戦車ミサイル、それに迫撃砲といった軽火器で武装しており、イスラエル(当時公表された諜報報告書)によれば、2014年の段階で、射程が20キロ未満の短距離ロケット弾をおよそ3900発、射程が最大45キロの中距離ロケット弾をおよそ1600発、射程が100キロから200キロの長距離ロケット弾を数十発、ハマスが保有していました。こうしたロケット弾などの性能は低いとされていましたが、最近になって射程や精度が向上したことも確認されています。

 

ハマスは自前での武器生産に加えて、イランなどから資金や兵器の支援を受けているとされているほか、アメリカのAP通信は10月7日の越境攻撃で、北朝鮮製の携行型ロケット弾を使用したと伝えています。

 

また、ハマスはガザ地区の地下にあるトンネルを利用し、兵器を密輸していると指摘されています。地下トンネルは兵器の貯蔵場所としても使われるほか、指揮所なども設置しているとされ、イスラエルの攻撃や監視の目を逃れるのに利用したそうです。

 

 

政治部門

ハマスは武装組織であると同時に、パレスチナの2大政党の1つでもあります。これまでにも政治部門が対イスラエル停戦交渉に応じたり、国際社会に対して弁明を行ったりもしてきました。

 

政治部門を支えているのがハマスの社会福祉活動で(もともとハマスは社会福祉団体だった)、ハマスは、イスラム教の基本理念に基づいて、学校、幼稚園、孤児施設、スポーツ施設、大学などを運営し(ガザだけで40の幼稚園と診療所15ヶ所があるという)、市民に提供するだけでなく、ガザ市民に対して、母子家庭への月1万5000円の支給や、若者の結婚資金支援、貧困層に対する医療奉仕など社会福祉活動を提供しています(ハマス内には、貧困者対策を担う喜捨(ザカート)委員会などがある)。

 

こうした地道な草の根の活動によって、ガザのおけるハマス支持を盤石なものにしてきました。これは、ハマスが、市民の支持を、ガザ統治の前提としているからにほかなりません。

 

ただし、ガザ住民というのは全員がハマス支持者というわけではなく(ガザの人々の中にもハマスの構成員もいる)、ハマスに対して非常に批判的な人物もいますし、場合によってはハマスによって拘束をされる、捕らえられるという経験をした人もいるようです。

 

このように、ハマスは、軍事組織として、福祉団体として、政党としての3つの顔を持っているのです。

 

 

  • ハマスの意思決定と指導者

 

各種公開情報をまとめると、ハマスには、アラブの伝統的部族会議であるシューラー会議(マジュリス・アル=シューラー)と呼ばれる最高評議会(党諮問評議会)があります。そこで、政治局のメンバー(政治的リーダー)が選出され、組織としての意思決定をしていきます。現在は、大学教授や学校教師、技師などテクノクラート(技術官僚)で占められています。

 

ただし、前述したように、宗教権威が絶対的な最高指導者君臨し、1人の指導者が全ての意思決定を行うイラン型の態勢ではなく、最高評議会(シューラー会議)も、寄り合いのような諮問の場で、組織としての意思決定は、集団合議によって行われていると見られています(イスラムの宗教指導者であるイマーム7人によって共同統治されているとする見方もありますが定かではありません)。ただし、ハマスの顔となる指導者は存在しています。

 

ハマスの指導者と目される人物

ヤシン(ヤースィーン)(87.12〜04.3)

ランティースィー(04.3〜04.4)

メシャル(ハーリド・マシャアル)(04.4~17.5)

ハニヤ(ハニーヤ)(2017.5~)

 

アフマド・ヤシン(ヤースィーン)(1937〜2004)は、70年代にガザ地区でイスラム主義運動を始め、ムスリム同胞団パレスチナ支部に加入、社会互助活動に従事する中、同ガザ地区指導者となりました。

 

87年、第1次インティファーダ(反イスラエルのパレスチナ住民の民衆蜂起)の際、アブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィー(ランティースィー)と共同でハマスを創設しました。

 

ヤシン(ヤースィーン)師は、ハマスの活動のため1989年に逮捕され、イスラエル軍事法廷で終身刑を宣告され投獄されましたが、脊髄の障害が獄中で悪化し全身麻痺の状態、またほぼ盲目となりました。97年、捕虜交換という政治的取引で釈放された後、ガザに戻り、パレスチナ解放闘争の精神的指導者となりました。イスラエルからその存在を危険視されたヤシンは、04年3月早朝、ガザ市内の路上を車椅子で通行中にイスラエル軍ヘリコプターのミサイル攻撃を受け、殺害されました。

 

翌日、強硬派として知られるランティースィー(アブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィー)が後継指導者(ハマス党首)に就任しましたが、同年4月、ガザ市中心部でイスラエル軍ヘリコプターの攻撃により暗殺されました。

 

その後、シリア在住のハレド・メシャル(ハーリド・マシャアル)が、後継者に選出され、2017年5月に退任するまで務め、現在は、政治局(政治部門)局長のイスマイル・ハニヤ(ハニーヤ)がハマスの指導者とみなされています(カタールから指揮)。ハニヤは、2023年10月のイスラエル・ガザ戦争以降、カタールの首都ドーハにいて、指揮を執っていることが確認されています。

 

 

  • ハマスの資金源

 

ハマスの活動資金はどこからくるのでしょうか?まず、ハマスには、ガザ地区への輸入関税、毎年約3億6000万ドル(約540億円)相当の収入が期待できますが、これは大きな額ではなく、イスラエルから容易に制限を受けることを考えると、ハマスの主要な資金源は、イランや湾岸アラブ諸国などからの援助金であることは容易に想像できます。

 

米財務省によれば、ハマスには、イランをはじめとする湾岸の友好国などから、年約7億5000万ドル(約1100億円)に及ぶとみられる資金が流れ込んでいます。そのうちイランからは、資金提供や軍事援助の形で年間1億ドルあまり(約150億円)を調達していると試算されています。ただし、一湾岸産油国からの財政援助や、在外パレスチナ人の送金については、2001年9月の米同時多発テロ後、米国の圧力で激減したと言われています。

 

ハマス指導部は、たびたび声明で、イランの革命防衛隊に対して資金や武器の提供への感謝を表していることからもわかるように、イランの支援を通じて、武器を蓄積し高度な軍事力を獲得しています。その一方で、広範な資金ネットワークの形成も進めながら、金融帝国を築いているとみられています。

 

獲得した数億ドル(数百億円)相当の資産は、スーダンやアルジェリア、トルコ、アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビアでの事業展開や運用によって、毎年10億ドル(約1500億円)以上の巨額な収益が生み出されている模様です。2023年10月のイスラエルとの戦闘開始後は、パレスチナ自治区ガザへの寄付を装って資金獲得に奔走していると見られています。

 

ハマスが傘下におさめる企業には、鉱山会社やマネーロンダリング会社などが含まれ、また、資金の送金の際には、、暗号資産(仮想通貨)取引所が活用されており、アメリカはこうした資金管理会社の運営者らを制裁対象に加えています。ただし、制裁を回避すべく入念に築かれたシステムを、イスラエルや欧米諸国は完全につぶすことができるかは疑問視されています。

 

 

  • ハマスの対外関係

 

ハマスにとっての外交というのは、諸外国を拠点としながらハマスの正当性を国際的に高めるための活動を行うことです。

 

イラン

イランは、イスラエルは敵対関係にあるので、同じように、イスラエルと敵対関係にあるハマスと協力関係を結んでいます。具体的には、イランの革命防衛隊からの資金や武器の提供とされ、イランがハマスを使ってイスラエルを攻撃するとか、イランが自らの駒としてハマスの行動を指示するといったような関係性ではありません。また、イランが同じく強力に支援しているレバノンのヒズボラを通じて影響力を行使しているとの見方もできます。

 

 

ヒズボラ(レバノン)

ハマスはスンニ派なので、レバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとは、宗教やイデオロギー面で意見の対立はありますが、対イランとの関係と同様、イスラエルは両者にとって共通の敵であるので、長年の同盟関係にあります。

 

ただし、ヒズボラはレバノンの抵抗運動組織なので、イスラエル軍がレバノンの領内に入ってくるような行動がない限り、ハマスに協力して軍事行動をとるということは基本的にないと解されています。

 

ハマスにとって、ヒズボラとのつながりは、ハマスの軍事部門アル=カッサムのメンバーがイスラエルの国境警備官を誘拐し、人質交換を拒絶されたことで殺害する事件を引き起こした1992年に遡るとされています。

 

この時、イスラエルは、1600人を超えるパレスチナ人を逮捕し、ハマスやイスラム聖戦などの幹部ら415人を密かに国外退去させ、南レバノンの無人地帯に送り込みました。ハマスは、レバノンに追放されている間に、ヒズボラの指導者たちと接触し、強い関係をつくり上げることができたと言われています(またイスラム組織の幹部たちとも自由に交流することができたとされる)。

 

 

フーシ派(イエメン)

ヒズボラと同じく、イランから支援を受けているとされるのが、イエメンの親イラン・シーア派武装組織フーシ派です。フーシ派は、2023年10月にイスラエルとハマスの戦争が始まってから、イスラエルを非難し、ハマスと連帯する姿勢を見せ、イスラエルへのミサイルやドローン攻撃を企てるだけでなく、紅海を航行する、イスラエルとつながりのある船舶を標的にしたミサイルを攻撃や、船に乗り込んで拿捕しています。

 

シリア

ハマスは、シリアのダマスカスに拠点を持っていましたが、2012年2月、いわゆる「アラブの春」で、シリア騒乱が激化すると、ダマスカスの事務所を閉鎖し、カタールへと拠点を移しました。それ以降、ハマスは、シリアとは一定の距離を置いているととは言われています。

 

エジプト

ハマスの源流組織である「ムスリム同胞団」(後述)は、エジプトで違法認定されて徹底的な取り締まりの対象となってから、表立った関係性はなくなったとされていますが、エジプト政府はハマスとの間に情報網を確立しており、カイロは、イスラエル・パレスチナ紛争の交渉の場にもなります。

 

トルコ・カタール

ハマスと同じ、同じスンニ派のカタールやトルコと親密を維持しているとみられています。とりわけ、カタールは、ハマスの事務所(拠点)も受け入れており(現在のハマスの政治的リーダーのハニヤも滞在)、イスラエルとの交渉の場にもなっています。

 

 

ハマスの歴史>

 

ハマスは、1987年12月にガザで発生した第1次インティファーダを機に、聖職者アハマド・ヤシン師らによって、結成されました(ヤシン師とランティースィー師が共同で創設)。

 

  • ハマスとムスリム同胞団

 

ハマスの母体となったのは、1928年にエジプトで創設された、汎アラブのスンニ派イスラム主義組織「ムスリム同胞団」です。そのパレスチナ支部は40年に誕生し、パレスチナ各地に拠点を置くなど、48年以降、特にガザ地区でその勢力を伸長していました。ヤシン師は「ムスリム同胞団」のガザ地区指導者でした。

 

イスラム復興を目指すムスリム同胞団は、英国統治時代に起きた反英蜂起には義勇軍を派遣するなどしましたが、エジプト本国で1954年に非合法化、弾圧され始めたため、その後、表面的には「政治よりも教宣」路線をとり、貧困者対策など福祉ネットワークを広げていったとされています(もっとも、ガザに限っては、エジプト(シナイ半島)に隣接しているという地理的な要因から、「ムスリム同胞団」の影響を受け続けていると言われている)。

 

設立前のハマスも、60年代(後半)、ガザ地区の「シャーティ難民キャンプ」というビーチに面した難民キャンプのモスクで、若者に対する教育の提供や、幼稚園。託児所の運営などを行う社会福祉団体から出発したと言われています。

 

一方、パレスチナのムスリム同胞団は、エジプト本国の同胞団とは異なり、1970年の「黒い9月事件(ヨルダン内戦)」に関わるなど反動的な側面を維持していました。この事件で、ヨルダン王政は、PLO左派が反王制闘争を扇動したと見なし、徹底弾圧(パレスチナ人が大量に虐殺されたとされる)を図った際、ヤシン師らは「無神論の社会主義者より(啓典の民の)ユダヤ教徒の方がまし」とヨルダン王政側に立って同胞と戦ったとされています。

 

  • ハマスの抵抗と自爆攻撃

 

その後、1979年のイラン革命で、イスラム統治が現実的なものになると、エジプトのムスリム同胞団は再び政治活動にかじを切ったとされています。ヤシン師もこれに呼応する形で、87年12月にインティファーダが始まる数カ月前、「占領と入植への抵抗組織をつくる」と宣言して、ハマスが創設されました。ヤシン師は、89年5月、武器密輸を理由に逮捕され、終身刑を言い渡されましたが、支持を集め、ハマスはPLO内のアラファトの権力基盤ファタハと勢力を争うようになりました。

 

93年9月、イスラエルとPLOの間で、オスロ合意が実現しましたが、ハマスは、PLO(パレスチナ解放機構)が主導して、イスラエルと和解し、イスラエルと共存した形でのパレスチナ国家の樹立を目指すという二国家共存案を受け入れませんでした。

 

オスロ合意を拒否したハマスは、これを阻止するために、「自爆攻撃」という直接行動に出ます。95年 4月、21歳の若者が約2キログラムの爆薬を詰めたカバンをバスの中で爆発させるという初めての自爆テロに及んでから、2000年初めにパレスチナ住民の2回目の大衆蜂起(第2次インティファーダ)が勃発した時期に、ハマスは数多くの自爆攻撃を実施しました。

 

これによって、ハマスは、欧米諸国からテロ集団、テロ組織として認知されました。ハマスが拠点としていたヨルダンは、1999年、ハマスが、イスラエルとヨルダンが結んだ1994年の平和協定を乱す非合法行為をヨルダンで行なっているとして非難し、ハマスをヨルダンから追放しました。

 

イスラエルも、2000年代に入り、ハマス幹部を大量摘発するだけでなく、「標的暗殺」というスラエル軍による特殊作戦によって、暗殺の対象としました。04年には、ハマスの創始者ヤシン師もイスラエル軍によって殺害されました。

 

 

  • ハマスの政治的躍進とガザ支配

 

一方で、ハマスは、2000年代中頃から、政治部門主導で、選挙を通して自分たちの支持を獲得するという動きを見せ始めると、2006年、パレスチナ自治区の国会にあたるパレスチナ自治評議会の2回目の選挙への参加を表明し(96年実施の1回目の自治評議会選挙はボイコット)、結果、過半数の議席を取りました。第一党になったハマスは、ガザ地区での支配権を確立したのです。ハマスの勝利を受けて、イスラエルだけでなく、欧米諸侯から、「ハマスが参加するパレスチナ自治政府へ支援を拒否されました。

 

この混乱に乗じる形で、選挙でハマスに敗れた「ファタハ」が、パレスチナのヨルダン川西岸地区からハマスを追い落としにかかり、同地区を統治した一方、ハマスは、逆にファタハをガザ地区から追放、07年6月にガザを武力制圧し、ガザを全面掌握しました。これ以降、イスラエルは、ガザ地区全体を封鎖下に置き、ハマスを封じ込めるという政策を取っています。

 

  • イスラエル・ガザ戦争

ハマスは、2023年10月7日、ガザ地区からイスラエルに数千発のロケット弾を発射したうえで、1500名規模がイスラエル側へ侵入し、イスラエル軍(IDF)兵士のほか、ハマスは、外国人やイスラエルの子どもや幼児を含む1400人あまりを殺害し、240人もの人質をガザに拉致する大規模テロ事件を起こしました。(このテロは、ガザに潜伏する、ハマスの軍事部門アル=カッサム大隊の司令官ムハンマド・デイフが計画したと言われている)。

 

これを受け、イスラエル国防軍は、ガザ地区への報復的な大規模空爆後に地上侵攻を展開する軍事作戦を実施し、ガザ市民に多大な犠牲者を出していることに対して、イスラエルに対する非難の声が高まっています。しかし、ハマスに対しても、「ガザの市民に数千人、数万人の犠牲者が出ることがわかっていて今回のテロを計画した」として、ハマスにとっては、数千人、数万人の住民の犠牲も宣伝戦の材料に過ぎないとの批判的な見方もでています。

 

(2024年4月4日)

 

<関連投稿>

イスラエル: 「ダビデの星」の国の基礎知識

パレスチナの最終的地位問題:解決への3つの論点

エルサレム:「シオンの丘」に立つ聖なる神の都

イスラエル史➀:シオニズム運動の結実とその代償

イスラエル史②:オスロ合意からガザ戦争まで

 

パレスチナ:ヨルダン川西岸・ガザ・東エルサレム

PLO:アラファトのファタハ、その闘争の変遷

パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

パレスチナからみた中東史②:オスロ合意とハマスの抵抗

 

 

<参照>

パレスチナ概況

(外務省HP)

「ハマス」とは何か…

(2023年11月7日、東京新聞)

最新パレスチナ情勢 なぜイスラエルと衝突?ハマスって?

(2023年10月16日、NHK)

イスラエルへのテロを主導する、ハマスとはどのような組織なのか?

(2023.11.30, Diamond Online )

米財務省、ハマス工作員らに経済制裁 「収入源を根絶」

(2023年10月18日、日本経済新聞)

イスラエルとハマス それぞれの軍事力は?

(2023年10月22日 NHK )

世界史の窓

コトバンク

Wikipeidaなど