PLO:アラファトのファタハ、その闘争の変遷

 

PLO(パレスチナ解放機構)

 

イスラエル・パレスチナ情勢の理解のために、今回は、パレスチナ側のPLO(パレスチナ解放機構)について解説します。カリスマ的指導者アラファトの死後、求心力と存在感を失い、色々な意味で主導権をハマスに奪われた感のあるPLOとはどういう組織なのでしょうか?

 

PLOの歴史については、以下の投稿記事を参照下さい。

パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

パレスチナからみた中東史②:オスロ合意とハマスの抵抗

 

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  • PLOとは?

 

PLO(パレスチナ解放機構)は、1964年5月、イスラエルからのパレスチナの独立を目的に設立された、パレスチナ解放諸組織で、パレスチナ自治区(ヨルダン川西岸とガザ)だけでなく、離散したすべてのパレスチナ人を公的に代表しています。国連をはじめとする国際機関においても、パレスチナ人を代表しており、1974年に国連のオブザーバー組織となりました。また、2012年に、パレスチナが非加盟のオブザーバー国家に昇格した際も、PLOがこれまで通り、国連におけるパレスチナ人の代表であることが確認されています。

 

ただし、PLOという一つの機関ではなく、ファタハやパレスチナ解放人民戦線(PFLP)など、いくつかの組織が集まってできた政治的統合機関です。実際、イスラム組織ハマスや、別の武装組織として知られるイスラム聖戦はPLOには加わっていません。

 

故アラファト議長も、PLOのトップでしたが、ピラミッド型の頂点に位置して、絶対的権力を保持していたかというとそうではなく、自身が所属したファタハという組織を通じて影響力を持っていたに過ぎませんでした。

 

そんなPLOは、ハマスやイスラム聖戦とは異なり、イスラム教を信奉する生粋のイスラム組織ではなく、アラブの民族主義者や、無神論者を含む社会主義者などからなる非宗教的・世俗的な組織です。

 

PLOがエジプトのナセル大統領の支援で設立された時期というのは、エジプトでの共和国革命(52年)以降、社会主義的な民族主義運動がアラブ世界を席巻していた時代でした。PLOもその流れを受け、イスラエルによって占領されているパレスチナのアラブ人解放を目ざす組織として誕生したのです。

 

ですから、設立当時は汎アラブ主義の枠組みのなかでパレスチナ運動を管理下に置こうとするエジプトの大統領ナセルの影響が強く、初代議長も親エジプトのアハマド・シュケイリが選出されました。

 

 

  • PLOの目的とその変遷

 

PLOは、1968年7月、憲法に相当するパレスチナ国民憲章(民族憲章)を採択し、イスラエルに対する武力闘争とユダヤ国家の撲滅を、以下のように呼びかけていました。

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9. 武力闘争はパレスチナ解放のための唯一の道である。これは全般的戦略であり,一時的戦術ではない。パレスチナのアラブ人は,彼らの国土を解放し,そこへ戻るための武力人民革命のために奉仕し,武力闘争を続ける彼らの絶対的決断と強固な意志を表明する。

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一方、民族憲章を採択した時期、PLOは、イスラエルを解体し、パレスチナ全土を解放するという目的を掲げつつも、パレスチナ国家樹立への構想を明確に持っていたわけではありませんでした。アラブ諸国がヨルダンによるヨルダン川西岸併合を黙認していたからです。

 

しかし、1967年の第3次中東戦争以降、この時占領された、ヨルダン川西岸とガザにパレスチナ人の独立国家をつくり、イスラエルと共存する現実路線に次第に転換していきました。

 

現在のPLO(ファタハ)=パレスチナ自治政府は、イスラエルを承認した93年のオスロ合意以降、イスラエルの生存権を認めた上で、第3次中東戦争後に設定された境界線を国境とする「2国家解決」、すなわち、ガザ、ヨルダン川西岸と東エルサレムを「パレスチナ」と定義するパレスチナ国家創設を目指しています。

 

また、96年1月に行われたパレスチナ自治選挙で、ファタハが圧勝した後の同年4月、国会に相当するパレスチナ民族評議会(PNC)は、PLOパレスチナ民族憲章(国民憲章)から「イスラエル敵視条項(イスラエル破壊条項)」の破棄を決定(98年12月、ガザを訪問したアメリカのクリントン大統領の立会いのもとで同条項削除を再確認)するなど、実質的な和平への動きもみられました。

 

オスロ合意によるパレスチナ暫定自治政府(PA)の創設後、PLOは自治政府の主要機能を担うだけでなく(自治政府=PLO)、イスラエルとパレスチナの間の唯一の正式の窓口として重要な役割を果たしていきました。

 

しかし、自治区の施政上の機能は自治政府に奪われ、次第に存在感は薄くなっています。たとえば、PLOの正規軍にあたるパレスチナ解放軍は、自治政府に移管され、自治区の治安を担うパレスチナ国家警備隊となっています。

 

それでも、PLOは、パレスチナ暫定自治政府(PA)の中核的組織です。とりわけ、PLO議長の地位はパレスチナ人全体の代表として国際的に認められています。

 

 

  • PLO議長

 

PLO(パレスチナ解放機構)議長は、PLOの最高指導者で(組織的には内閣にあたるPLO執行委員会の議長)、その代表的な人物といえば、35年近くPLOを率いたアラファト議長です。

 

ヤセル・アラファト

アラファト(1929〜2004)は、PLO議長、パレスチナ解放組織ファタハの中央委員会議長、パレスチナ暫定自治政府議長(大統領)など、派閥と政党、政府のすべての長を兼務しました。自治政府には、議会に相当するパレスチナ民族評議会がありますが、「実際にはファタハ中央委員会で承認されないと何も決まらない」と言われるほど権力を集中させたと言われています。

 

アラファトは、1950年に、PLOの主流派となるパレスチナ解放組織(武装組織)ファタハを自ら創設すると、第3次中東戦争でイスラエルに敗れて、アラブ世界が自信を失う中、1968年、アラファトの率いる対イスラエル武装組織ファタハの指揮官として、ヨルダンのカラメという村でイスラエル軍を撃退しました。これにより、アラファトは、翌年の2月、PLO議長に選出され、指導者としての地位を確立し、国際舞台でも存在感を高めていきました。

 

時局を読む政治的な勘に加え、度重なる暗殺の危機を乗り越えていったことから、アラファトのカリスマ性は一段と高められました。例えば、92年のリビアの砂漠への搭乗機墜落事故では絶望といわれながら救出されたことなどはこの事例です。

 

このように、「アラブの大義」を錦の御旗に国を治めてきたアラファトでしたが、2004年11月、疑惑の死を遂げました。

 

アラファトの死をめぐっては、2012年7月に、中東の衛星テレビ局アルジャジーラが、また13年11月には、アラファト議長の死因を調べていたスイスの調査団が、独自の調査の結果、アラファト議長(当時75)は「毒性の強い高濃度の放射性物質ポロニウムで毒殺された疑いが強いことが判明した」と発表しました。一方、議長の死因を調べていたフランスの調査団は、2013年12月、「自然死」とする報告書をまとめています。

 

アラファト議長の死後、2004年11月、PLOナンバー2であったアッバス前首相が、PLO新議長に選出され、翌05年1月、パレスチナ自治政府の長官(大統領)を選ぶ選挙で、アッバスが選出されました(なお、日本はPA長官の呼称をこの時からPA大統領と改めた)。

 

歴代議長

シュケイリ (1964. 6〜1967. 12)

ハマウダ  (1967. 12〜1969. 2)

アラファト (1969. 2 〜 2004. 11)

アッバス  (2004. 11〜 )

 

 

  • PLO本部

 

PLOの拠点は、当初、パレスチナ人が全人口の半数以上を占めるヨルダンの首都アンマンに置かれました。しかし、ヨルダンが、イスラエルとの戦争や国内の混乱を懸念し、1970年9月、パレスチナ・ゲリラを追放した(黒い九月事件)で、PLOはアンマンを追われ、レバノンの首都ベイルートに本部を移しました。

 

その後、1982年、イスラエル軍がレバノンに侵攻しベイルートを包囲(レバノン戦争)すると、パレスチナ・ゲリラはアラブ諸国に離散し、PLOも本部をチュニジアの首都チュニスへの移転を余儀なくされました。しかし、93年のオスロ合意後、アラファト議長がパレスチナに戻り、現在、PLO本部は、ヨルダン川西岸のラマラ(ラマッラ)に置いています。

 

 

  • PLOの統治機構

 

PLOは、最高意思決定機関として、国会に相当するパレスチナ民族評議会(PNC)と、その代理機関のパレスチナ中央評議会(PCC)、内閣にあたる執行委員会、軍事部門のパレスチナ解放軍(PLA)、財政部門のパレスチナ民族基金(PNF)などで構成されています(いずれも、PLO創設の1964年5月、東エルサレムで発足した)。

 

パレスチナ民族評議会(PNC)(議会)

PNCは、PLO(パレスチナ解放機構)の最高議決機関で、PLO組織の指導権を握っています。通常2年ごとに会合が開かれ、PLO議長や、内閣に相当する執行委員会(PLOEC)委員を選出します。また、PNC開催が困難なときこれに代わるものとして、PNCの代理機関であるべきパレスチナ中央評議会(PCC)が置かれています。

 

PLO執行委員会(内閣)

PLO執行委員会は、議長を中心となって、政治事項を執行します。その下部には各省庁にあたるものとして政治局、国際局、交渉局などがあります。

 

パレスチナ解放軍(軍)

パレスチナ解放軍(PLA)は、1964年に、PLOの武装闘争路線を支えるための軍事組織として結成され.PLOの正規軍となりました。ただし、パレスチナ暫定自治政府(PA)の結成後は、パレスチナ国家警備隊として、自治政府に移管されています。

 

 

  • PLOの構成組織

 

PLO(パレスチナ解放機構)は、前述したように、アラファトの属した主流派ファタハ(メンバーの過半数を占める)のほかにも、最も急進的なマルクス=レーニン主義を掲げたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)、パレスチナ人民党など、さまざまな組織の連合体で、現在以下の10の政治組織(参加組織)を統括しています。

 

ファタハ(最大派閥)

パレスチナ解放人民戦線(PFLP)

パレスチナ解放民主戦線(DFLP)

パレスチナ人民党(PPP)

パレスチナ解放戦線(PLF)

パレスチナ民主連合

パレスチナ人民闘争戦線(PPSF)

アラブ解放戦線(ALF)

サーイカ

パレスチナ・アラブ戦線

 

PLO主流派

 

ファタハ(パレスチナ民族解放運動)

 

ファタハ(Fatah)は、PLO(パレスチナ解放機構)および現在のパレスチナ自治政府の主流派であり、パレスチナ最大の世俗派政党でもあります。PLOの歴史は、まさにファタハの歴史と言っても過言ではありません。

 

組織の名称は「パレスチナ民族解放運動」を表すアラビア語Harakat al-Tahrir al-Filastiniの頭文字を逆から綴った(読んだ)ものです(アラビア語で「勝利」という意味もある)。

 

48年の第1次中東戦争とイスラエルの建国によって75万人以上のパレスチナ人が住む場所を追われた「ナクバ(大厄災)」から約10年後の1959年、ヤセル・アラファト(元議長)やマフムード・アッバス(現議長)など、パレスチナから外国に離散した活動家が中心となって結成されました。

 

ファタハは当初、武装闘争を志向し、その武装部門(ゲリラ組織)であるアルアクサ殉教者旅団は、イスラエル攻撃を繰り返し、68年ヨルダンのカラーマにおける対イスラエル戦で名を馳(は)せました。翌69年にファタハを率いるアラファトがPLO議長に就任すると、ファタハはPLO内での主流派の地位を確実なものにしました。

 

また、ファタハが秘密裡に結成したテロ集団「黒い九月」は、72年9月にミュンヘン・オリンピック襲撃事件を引き起こしました(後にその存在が明るみにでて、「黒い九月」は解散)。

 

ファタハは、PLOが武装闘争路線を転換した後も、PLO内で主流派として勢力を持ち続け、93年のオスロ合意後も、暫定自治政府内の与党でした。しかし、2006年1月のパレスチナ立法評議会選挙で、予想に反してハマスに敗れ、さらに、翌年の07年には、ハマスによってガザを追われ、現在はヨルダン川西岸のみの支配となっています。形式的には、今も、全パレスチナの代表は、自治政府のファタハですが、自国民によるテロを抑えきれておらず機能していない状態です。

 

 

PLO反主流派

 

パレスチナ解放機構(PLO)に参加していますが、オスロ合意に反対する強硬派の中で、代表的な組織として、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と、パレスチナ解放民主戦線(DFLP)があげられます。

 

存命中のアラファトは、パレスチナ自治政府の母体PLO議長も兼務していましたが、アラファトの影響力は、PLO内の主流派最大組織「ファタハ」のみでPFLPやDFLPのようなPLO内の非主流派組織に対して、議長としての統制力を及ぼすことはできませんでした。PELPやDFLPは、現実には議長の指揮下にはなかったのです。

 

 

パレスチナ解放人民戦線(PFLP)

PFLPは、1967年 12月に、医学博士、ジョルジュ(ジョージ)・ハバシュ(1926〜2008)によって結成された、パレスチナ・ゲリラ組織の一つで、PLO内の反主流派最大派閥、かつ最強硬派です。

 

最も急進的なマルクス=レーニン主義(ネオ・マルクス主義)を掲げ、社会主義を志向した民主主義的民族解放闘争によるパレスチナ解放を目標としています。実際、オスロ合意に基づいた、パレスチナ自治政府とイスラエルによる二国家共存に向けた交渉には断固反対の立場を取っています。

 

また、ハマスなどのイスラム主義に対しても、コーランの教条主義的な「イスラム国家化」として反対し、パレスチナ社会の世俗的なライフスタイルを支持しています。

 

PFLPは、これまでも(70年代前後から)、パレスチナに世界の注目を集めるために、テロに訴えることも、ハイジャックによる多数の民間人を巻き込むことも辞さない闘争を展開し、また、PLO内でもファタハ内急進派グループ(「黒い九月」など)と過激なテロを競いました。1968年7月のエル・アル航空426便ハイジャック事件と、1970年9月、旅客機4機同時ハイジャック事件も、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の犯行で、イスラエルに対する航空機ハイジャック事件の先駆けとなりました。

 

また、1974年には、日本赤軍と共同で、シンガポール事件(同国ブクム島にあるロイヤル・ダッチ・シェルの石油精製施設を爆破した事件)と在クウェート日本大使館占拠事件を起こしました。その後もパレスチナ解放人民戦線(PFLP)は、1978年からイスラエル人、あるいは中産階級アラブ人を標的に対する攻撃を数多く行ない、1996年12月には入植者を殺害する事件を起こしています。

 

PFLPの軍事部門は、「アブアリ・ムスタファ旅団(アブー・アリー・ムスタファー旅団)」として、その名が知られています(名前の由来は、元最高指導者の名からとられている)。

 

こうした過激なテロ活動を続けたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に対して、アメリカやEU(欧州連合)、カナダ、イスラエルの各国政府は、PFLPをテロ組織に指定しています。

 

なお、PLO内においては、PFLP は、74年の2つのテロ事件後、PLO執行委員会(執行部)から非難され、資格停止処分を受けました。その後、PFLPがイスラエルを電撃訪問して和解したエジプトのサダト大統領の政策に対する反対路線をとったことを、アラブ諸国に評価され、1981年4月に復帰しました。また、93年のオスロ合意には反対し、今度は自らPLOを離脱しましたが、96年に復帰しています。

 

PFLPの活動地域はイスラエル国内、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、レバノン等に及んでいますが、イスラエルに対する闘争は、現在、ハマスの過激な活動が目立っており、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の存在感は薄くなっています。

 

現在、PFLPは、パレスチナ自治政府の野党で06年1月の総選挙でも議席を獲得していますが、わずか3議席しかありません。PFLPの今の主な支持基盤は、ハマスのようなイスラム主義者の台頭に脅かされている、世俗志向志向のパレスチナ人労働者や大学生、また、パレスチナ内のキリスト教徒コミュニティなどに限定されています。また、現在、千人単位のPFLPの活動家が、イスラエルの刑務所に囚われていると推計されています。

 

 

パレスチナ解放民主戦線(DFLP)

DFLPは、1969年、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の左派集団が主流派から分裂して、設立された反イスラエル武装組織です。PDFLPのリーダーはナイエフ・ハワートメで、PFLP内の毛沢東思想傾向のグループのリーダーとみられていました。ハワートメは、PFLPが武装闘争を重視し過ぎていると批判し、より草の根運動で、より思想的に重視した組織を作ろうと考えたのでした。

 

したがって、パレスチナ解放民主戦線(DFLP)は、PFLPと同様にマルクス・レーニン主義を掲げてはいますが、PFLPよりは穏健派とされ、パレスチナの対イスラエルゲリラの知識層の大半の支持を得ていたとされています。そうした経緯で生まれたDFLPでしたが、1978年、ファタハと幾つかの問題で衝突し、一時的に対イスラエル強硬派に参加したこともありました。しかし、1980年代は活動が停滞し、1991年には一部組織の分裂も発生しています。

 

1993年のオスロ合意の際、DFLPはPLOの意思決定から除外されていたことから、合意は非民主的で、パレスチナ人の法的権利を剥奪するとして反対派に回りましたが、他の対イスラエル強硬派とは異なり二国家共存には反対しませんでした。そのためか、アメリカは、DFLPを1997年にテロ組織(FTO)に指定しましたが、99年に指定解除しました。その後、2000年に始まった第二次インティファーダでは、反イスラエル組織としての主導権は、ハマスに握られ、DFLPは存在感を示す事ができませんでした。

 

 

  • PLOの資金源

 

PLOには、イスラエルがヨルダン川西岸・ガザ地区(07年以降は西岸のみ)で徴収した税金の還付分や、他のアラブ諸国から資金援助に加えて、中東の湾岸諸国など海外で働くパレスチナ人から徴収しているとされる税(解法税)、さらには、アラファト議長の時代からあった「パレスチナ資産」といった豊富な財源があります。

 

アラブ諸国からの資金援助

反イスラエルのアラブ諸国(特に産油国)の指導者は、(アラブの同胞として、イスラエルと戦っているパレスチナ人を支援するため)パレスチナ解放という「アラブの大義」に惜しみなく資金を提供してきました。逆説的ですが、かつてPLOが反イスラエルのテロを起こせば、それによって、イスラエルと戦うための資金が集められました。湾岸諸国の中には、国内政治の批判を回避するために援助を惜しまない国もあったと指摘されています。

 

パレスチナ資産

アラファト議長は、総額40億160億ドルとも言われる「パレスチナ資産」を秘密裏に管理していたと言われています。これは、PLOの国際的な事業活動からくるもので、(アラファトの側近の仕切るさまざまな企業による)南米でのバナナ栽培やアフリカでのダイヤモンド取引、アラブ各国の不動産やギリシャの船会社、モルジブの航空会社などへの投資が行なわれていました。アラファト議長は、政敵に囲まれる中、アラブ各国に築いた金脈で権力基盤を固めた一方、同時に資金面での疑惑を生みました。

 

 

(2024年4月4日)

 

<関連投稿>

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エルサレム:「シオンの丘」に立つ聖なる神の都

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イスラエル史②:オスロ合意からガザ戦争まで

 

パレスチナ:ヨルダン川西岸・ガザ・東エルサレム

ハマス:イスラム主義と自爆テロの果て

パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

パレスチナからみた中東史②:オスロ合意とハマスの抵抗

 

 

<参照>

パレスチナ概況

(外務省HP)

イスラエルに対抗するのはハマスだけではない…知っておくべき、これだけ多くのこれだけ多くの政治・武装組織

(2023年11月21日 NewsWeek)

パレスチナという土地はあるが国はない 単なる「宗教対立」では語れないパレスチナ問題の発端

(2023.11.08、幻冬舎プラス) 高橋和夫

「アラファト秘密口座」にあったパレスチナ資産の行方

(2004年12月号、フォーサイト)

イスラエルとハマス それぞれの軍事力は?

(2023年10月22日 NHK )

世界史の窓

コトバンク

Wikipedia