イスラエル史➀:シオニズム運動の結実とその代償

 

2023年10月からはじまったイスラエル・ガザ戦争の惨状を、イスラエルとイスラム武装組織ハマスとの関係だけでみるのではなく、パレスチナ問題全体からみていかなければ、恒久的な解決の糸口を見いだすことはできないように思われます。そのためにも、イスラエルとパレスチナに関する歴史的な知識が欠かせません。そこで今回の投稿では、ユダヤ人とパレスチナ人が憎しみ合う原因をイスラエルの歴史を追うことで探り、この問題の解決につながるきっかけになればと思います。

 

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古代から近代のパレスチナ(エルサレム)

 

前17世紀頃、アブラハム、イサク、ヤコブ(ユダヤ民族の族長)が、イスラエル(パレスチナ)の地に定住しました。しかし、その後、飢饉により、イスラエルの民はエジプトへの移住を余儀なくされ、そこで圧政に苦しみました。前13世紀頃、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出(出エジプト)、シナイ砂漠を40年間流浪した後、イスラエル(パレスチナ)の地に定住しました。その間にシナイ山でモーセは、十戒などのトーラー(モーセ五書)を授かりました。このように、古来より、パレスチナはユダヤ教の聖地であり、ユダヤ人にとって宗教的(精神的)な意味を持つ土地と見なされています。

 

古代のイスラエル

旧約聖書によれば、神がエルサレムの地をユダヤ人に与えたとされ、紀元前1000年頃、ヘブライ人(ユダヤ人)がパレスチナにヘブライ王国を築きました(都はエルサレムに置かれた)。ダビデ王(在:前1000〜前961頃)の時、パレスチナ全域を支配する統一帝国が建設され、次のソロモン王(在位:前960頃~前922頃)は、エルサレムにヤハエ神殿を建設し、王国は、「ソロモンの栄華」と称される最盛期を迎えました。

 

その後、ヘブライ王国は、前922年ごろ、北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂しましたが、ユダ王国ではダビデの子孫がほぼ王位を継承し、300年以上もの間、首都エルサレムを守り抜きました。しかし、前586年に新バビロニア王国によって滅ぼされ、ネブカドネザル2世は、ユダヤ人をバビロンに連行・移住させました(バビロン捕囚)が、ユダヤ人は、その間、唯一神ヤハウェに対する信仰を捨てることはなく、民族的苦境の中でさらに信仰を強めていったとされています。

 

前538年、新バビロニアを滅ぼしたペルシア帝国のキュロス2世が、ユダヤ人を解放し、ユダヤ人たちは、ユダ王国の故地、エルサレムへ帰還し、ヤハウェ神殿の再建も許されました。ユダヤ教が成立したのも、この紀元前6世紀頃で、ユダヤ人たちは、ユダヤ教の信仰と律法(トーラー)を厳格に守るという形で、ユダヤ国家を維持していきました。紀元前2世紀頃にはエルサレムはユダヤ教徒の巡礼地となったと言われています。

 

その後、アレクサンドロス大王が、ペルシア帝国を滅ぼし、パレスチナの地はセレウコス朝シリアの支配から、最終的には、6年にローマの属州となりました。ユダヤ人は、ローマ帝国に抵抗し、反乱を起こしましたが、紀元70年頃、ユダヤ人の王国(エルサレム)は、ローマ軍によって壊滅、ヤハエ神殿も破壊されました。以後、祖国を失ったユダヤの民は、この地を追われ、世界中に離散(ディアスポラ)するという苦難へと向かうことになりました。

 

 

中世から近代のイスラエル

中世に入ると、7世紀には、パレスチナの地はイスラムの支配下に入りました。エルサレムは、イスラムの預言者ムハンマドが夜の天国の旅に出た地とされ、メッカ、メディナに次ぐ第3の巡礼地とされています。

 

その後、キリスト教の十字軍が起こされ、一時、エルサレム王国(1099〜1291年)が建てられ、聖地をイスラムから奪還しましたが、13世紀には、アラブの英雄サラディンによって再び奪われ、さらに、16世紀以降、パレスチナはトルコ人のオスマン帝国の一部となり、第一次世界大戦まで、イスラム支配は続きました。

 

一方、中世以降のユダヤ人は、欧州で迫害を受け続けました。ヨーロッパでキリスト教が広がると、ユダヤ人はキリストを処刑した人たちとみなされ、差別や迫害の対象になりました。さらには、疫病などの災難が起きるとユダヤ人を迫害する、という歴史がずっと繰り返されていきました。歴史的に、ヨーロッパでは、長年、ユダヤ人は伝統的に居住地域を限定されており、その外には住めない(こうしたユダヤ人地区をゲットーと呼ぶ)という差別的な状況がありました。

 

そのため、ユダヤ人はそれぞれの土地で、普通の人がなかなか就かないような仕事に就かざるを得ませんでした。その代表例が金融業で、中世ヨーロッパのキリスト教国の多くでは、お金を貸して利息をとることがいやしいこととされていたからです。しかし、やがて、貨幣経済が進む中、金融業の需要が増すにつれ、ユダヤ人たちは、住んでいる土地土地で富を握るようになりました。

 

昔から、自分たちの宗教であるユダヤ教を守るのに加えて、子どの教育にも力を入れていたことから、識字率が高く、やがて、知識階級の中でも影響力を持つようになっていったのです。

 

 

シオニズム運動の勃興

 

現在のパレスチナ問題は、1897年、ユダヤ人の間で、シオニズム運動が本格化した19世紀後半に遡ります。シオニズムとは、ユダヤ人の祖国回復運動(自分たちの国を創ろうという運動)のことで、世界各地で離散していたユダヤ人が、安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先として旧約聖書に書かれた「祖先の地」、ユダヤ人の故郷であるシオンの地(シオンの丘:エルサレム)に、ユダヤ人の国家を建設することを目指したのです。

 

当時、ヨーロッパでは19世紀末になって、各国で民族主義が広まり、他民族であるユダヤ人に対する迫害が一層、激しくなっていました。そこで、「民族主義」の迫害から逃れるため、パレスチナの地へ移住し、ユダヤ人国家を作れば、ユダヤ教徒という宗教の違いゆえの差別は存在しなくなるという考え方が、シオニズムを生み出したと考えられています。

 

そのきっかけとなった事件がドレフュス事件(1894)でした。これは、フランス第三共和政下で起きた反ユダヤ主義による陰謀事件で、1894年、ユダヤ系軍人がドイツのスパイとして告発されました。96年に真犯人が現れたものの、軍部がこれを隠匿したことが問題視されました。1899年、ドレフュスは釈放され、1906年に無罪が確定しましたが、19世紀末のフランスにおいても、反ユダヤ主義が根強く存在することが明らかになったのです。

 

この事件に危機感を持った人物が、ハンガリー出身のユダヤ人ジャーナリスト、ヘルツルで、ヘルツルは、1897年、シオニズム運動を組織し、自身を議長とする世界シオニスト機構を創設し、スイスのバーゼルで初のシオニスト会議を開催しました(ヘルツルは、イスラエル建国の父とされている)。シオニズムを推進する人々をシオニストと呼びます。会議では、欧州などで迫害されたユダヤ人を中心に、ユダヤ人の故郷であるシオンの地、、パレスチナに、ユダヤ人国家を建設することが謳われ、シオニズム運動が開始されました(パレスチナへの入植方針を決定しました)。

 

以降、パレスチナを「約束の地」とみなしたユダヤ人(シオニスト)は、当時の支配者であったオスマン帝国のスルタンを説得して、パレスチナへの移住を本格化させました。パレスチナに居住するユダヤ人の人口は、1880年代にすでに2万人を数え、1920年代には10万人を超えたとされています。ヨーロッパのユダヤ人がパレスチナに入ってくると、当然、元々、その土地に既に生活していたアラブ系のパレスチナ人との衝突(紛争)も始まったことは言うまでもありません。これが現在まで続く、約120年間のパレスチナ問題の発端となりました。

 

シオニズムを推進するシオニストたちは、パレスチナ人の不在地主(その地に住んでいない地主のこと)などから土地を購入し、そこにキブツと呼ばれる共同農場などを組織して、農業を始めました。しかし、そうすると、それまで、パレスチナ人の地主の土地を耕していた(地主に雇われていた)パレスチナ人の農民(小作農たち)は、土地を追われる結果となりました。なぜならば、自ら直接に農作業に従事したシオニストたちは、パレスチナ人の小作農は必要としなかったからです。

 

 

第一次世界大戦におけるイギリスの二枚舌外交

 

1914年に第1次大戦が始まりました。第一次世界大戦中、パレスチナを支配していたオスマン帝国と戦っていた連合国側のイギリスは、アラブ人とユダヤ人の双方の勢力から戦争協力を取り付けるため、双方に接近しました。

 

フセイン・マクマホン協定

1915年、イギリスの指導者のマクマホンとアラブ人の指導者のフセインとの間で、アラブ人の独立国家を約束する書簡が交換された。その内容は、アラブ側がオスマン・トルコへの反乱を約束し、その代償として、アラブ反乱軍の指導者フサイン・イブン=アリーに対し、イギリス側は、第一次世界大戦後、戦争に勝利した後にはオスマン帝国からのアラブ人の独立(アアラブ人によるパレスチナの独立)を支援するというものでした。これをフセイン・マクマホン協定(書簡)と呼びます。

 

バルフォア宣言

他方でイギリス外相アーサー・バルフォアは、1917年、シオニストたちの戦争への協力も求め、戦争に勝利を収めた後には、パレスチナに、ユダヤ人国家を建設することを許す(支持する)ことを約束しました。これを「バルフォア宣言」と呼びます。具体的には、バルフォアは、ユダヤ人富豪・ロスチャイルド男爵宛てに、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを支持すると表明し、ロスチャイルド家からの財政援助を受けました。

 

このようにイギリスは、自国の戦争目的のために、アラブ人とユダヤ人の双方に対して都合の良い約束をしていた(一つの土地を、アラブ人とシオニストの両方に約束した)のです。このイギリスの「二枚舌外交」が、現在まで続くアラブ・イスラエル紛争の原因となりました(火種をつくった)。

 

サイクス・ピコ協定

さらに、イギリスは、バルフォア宣言の前年、1916年にフランスとロシアとサイクス・ピコ協定を結び、3か国で、オスマン帝国のアラブ人地域を分割する密約を結びました(サイクスとは、この協定の交渉にかかわったイギリス人マーク=サイクス、ピコはフランス人の名前ジョルジュ=ピコ)。

 

それによると、イギリスは、イラク(バグダードを含む)とシリアのハイファとアッカの二港、フランスはシリアの領有、ロシアは、イスタンブールとダーダネルス,ボスポラス両海峡の両岸などカフカースに接する小アジア東部を、分割して領有し、パレスチナ(イェルサレム周辺地域)は国際管理地域と定められました。しかし、この秘密協定は、翌 17年ソビエトの革命政権によって暴露され、英仏二国間の協定となりましたが、結局、実現されませんでした。

 

セーブル条約

第一次世界大戦後の1920年8月に締結された、連合国とオスマン帝国とのセーブル条約において、パレスチナは、結局、イギリスの委任統治領となりました(1920年から1948年)。

 

国際連盟からの委任を受けた統治ではありましたが、実際にはイギリスがパレスチナの行政と安全保障を管理する強力な権限を持っており、イギリスがパレスチナを管理(支配)しました。フセイン・マクマホン協定とバルフォア宣言で、アラブ人とユダヤ人(シオニスト)に約束したパレスチナの土地を、どちらとの約束も守らずにイギリスは実質的に自国の領土としたのです(イギリスの支配する地域となった)。

また、バルフォア宣言から、イギリスの委任統治時代にかけて、シオニストたちはバルフォア宣言を根拠に、パレスチナへの移住を進め(イギリスは消極的ながらもこれを許した)、アラブ人とユダヤ人の緊張関係は高まっていきました。

 

 

ナチス・ドイツのホロコースト

 

1933年にドイツでナチスが政権を取ってから、ドイツ国内で差別が激しくなると、ユダヤ人たちは脱出を始めましたが、各国は国境を閉ざし、ユダヤ人を積極的に受け入れる国はなかったので、ユダヤ人たちはパレスチナに流入した。ユダヤ人たちは資本と技術を持っていたので、パレスチナのユダヤ人の社会は発展しましたが、現地のパレスチナ人の反発を引き起こし両者、の摩擦が激しくなっていきました。

 

1939年に第二次世界大戦が始まると、緒戦、ドイツは、フランスを打ち破ったのを含め、ヨーロッパ大陸の大きな部分を占領しました。そこでは、ユダヤ人の絶滅政策が開始されました。ポーランドのアウシュビッツを始め、ヨーロッパ各地に強制収容所が建設され、そこにユダヤ人が送り込まれ虐殺されました。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)で、最終的に約600万人のユダヤ人が殺害されました。強制収容所での惨劇の実態に、世界はショックを受け、ユダヤ人に同情的な国際世論が生まれ、シオニズム運動とイスラエル建国を後押ししました。

 

第二次世界大戦中のナチスの迫害でユダヤ人のパレスチナ移住が急増したことに加えて、第二次世界大戦が1945年に終結すると、ヨーロッパで生き残ったユダヤ人たちは、パレスチナを目指したことから、パレスチナのアラブ人との対立が深刻になっていきました。また、パレスチナのユダヤ人(シオニスト)たちは、イギリスを追い出し、パレスチナに自分たちの国を建設するために、反イギリスに転じ、イギリス軍に対するゲリラ攻撃を開始しました。シオニストの攻撃によって、イギリスの被害が大きくなっていきました。こうした背景下、イギリスはパレスチナの放棄を決め、パレスチナ問題を国連に委ねることにしたのです。

 

 

国連パレスチナ分割決議案

 

国連総会は、1947年11月、イギリスの委任統治下にあったパレスチナを、ユダヤとアラブの2国家に分け、エルサレムを国際管理下に置く「パレスチナ分割決議(国連決議181号)」を提案し、賛成多数で可決(採択)しました。この可決に当たっては、ユダヤ人に同情的な国際世論の存在が大きかったとされています。

 

この結果、パレスチナ地域の約55%をユダヤ人国家に、約45%をアラブ人国家に割り当てられることになり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教の聖地エルサレムは、東西に分けられ、西エルサレムがイスラエル、東エルサレムはヨルダンとされました。いずれにしても、この国連決議によって、イスラエルの独立が認められた形となったのです。

 

 

イスラエル建国と第一次中東戦争

 

パレスチナ人や周辺のアラブ諸国は、この国連決議の受け入れを拒否しました。というのも、この時期までにユダヤ人(シオニストたち)がパレスチナで所有していた土地は、ほんのわずかであったにもかかわらず、しかも、少ない人口のユダヤ人に50%以上の土地を与えるのは不平等だとみなしたからです(当時ユダヤ人の人口65万に対してパレスチナ人は100万を超えていた)。

 

そもそも、長年パレスチナに住み、土地を所有していたアラブ人は、欧米を中心とする国際社会が、アラブ人の土地の半分を一方的に奪い、勝手にユダヤ人に与えることを受け入れるはずがありませんでした。

 

これに対して、ユダヤ人(シオニスト)側は、国連のパレスチナ分割決議を受け入れ、翌1948年5月、この国連決議に基づき、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国を宣言(イスラエル共和国成立)しました。

 

すると、これを認めないパレスチナ人を支持する周辺アラブ諸国は同日、イスラエルに対する「聖戦」を宣言し、エジプト、シリア、レバノン、イラク、トランスヨルダン(現ヨルダン)からなるアラブ連盟5か国とイスラエルとの間で、「第一次中東戦争」が勃発しました。兵力に勝るアラブ連合軍でしたが、イスラエルに反撃され、1949年8月に事実上イスラエルの勝利という形で停戦協定を結ばれました。これを受け、国連は、最初のPKO(国連平和維持活動)として、国連休戦監視機構(UNTSO)(48年6月創設)を派遣しました(UNTSOは現在も活動を続けている)。

 

第一次中東戦争が終わってみると、イスラエルは国連決議が割り当てた、パレスチナ全域の55%の土地取得よりも多い78%を制圧し、残りの22%は、西南のガザ地区と北東のヨルダン川西岸地区で、それぞれエジプトとヨルダンの支配下に入りました。この結果、ユダヤ人(シオニスト)にとっては建国したイスラエルを守り抜いたことになり、50年には、エルサレムを首都と宣言しました(ただし、国連および国際社会はエルサレムをイスラエルの首都とは現在も認めていない)。

 

その一方で、パレスチナ人にとっては故郷を喪失し(自分たちの土地から追われ)、70〜75万人が難民となりました。国連は「パレスチナ難民の帰還か補償」を定めた決議を採択しましたが、実施されないまま、パレスチナ難民は難民キャンプでの生活を強いられることになりました。パレスチナ難民の処遇と帰還権は、現在でも解決されていない懸案事項となっています。

 

 

第二次中東戦争

 

1956年7月、エジプトのナセル大統領が、スエズ運河国有化を宣言したことを受け、10月に、運河に利権をもつイギリスが、フランスとイスラエルに働きかけ協同で、エジプトに出兵し、第二次中東戦争が始まりました。イスラエルは、第1次中東戦争でのエジプトから得た地域の支配を確保し、さらに拡大する意図があったとされ、エジプトからシナイ半島とガザ地区を占領しました(イギリスとフランスも運河地帯を占拠)。

 

しかし、国際世論は英仏とイスラエルの侵略行為を非難し、エジプトを支持する声が強く、11月、国連緊急特別総会が開かれ即時停戦、撤兵が決議されると、米ソの圧力もあり、3国は撤退を強いられました。その後、国連緊急展開軍(56.11-67.6) が派遣され、停戦となりました。エジプトは戦争では敗れたものの、スエズ運河の国有化を実現したことから、政治的には勝利を収めたとされ(以後、スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている)、ナセルは「アラブの英雄」として人気が高まりました。

 

 

PLO(パレスチナ解放機構)結成

 

60年代から、パレスチナ難民の中にイスラエルと戦いパレスチナの解放を目指す動きが強まったことを受け、64年5月には、アラブ連盟(45年3月設立のアラブ民族諸国の共通利害を守るための国際組織)は、 エジプトのナセル大統領などの支援を背景に、パレスチナ解放機構(PLO) を結成しました。

 

PLOは、パレスチナを追われ離散したパレスチナのアラブ(パレスティナ)人たちの,父祖の地パレスチナへの帰還と自決を実現しようとする政治運動組織の合同体(パレスチナ解放組織の統合機関)で、イスラエルに支配されるパレスチナの解放を目指しました。

 

当初は、パレスチナ国家の建設を目指すアラブ人の国際機関という穏健な性格が強かったPLOでしたが、ファタハなど機構の中で最も過激な武装闘争を主張するグループが台頭し反イスラエルのゲリラ活動を頻発させるようになってくると(65年頃からイスラエルに潜入して破壊活動を開始)、イスラエル側もPLOとこれを支援しているエジプトとシリアに対して警戒を強めていきました。武力による脅威の排除の機会を狙っていました。

 

 

第三次中東戦争(6日戦争)

 

1967年4月、ユダヤ人のゴラン高原入植問題などで対立するシリアとイスラエルの国境で両軍が衝突の恐れが高まると、エジプトのナセルは、翌5月、シナイからの国連緊急軍の撤退を求め、エジプト軍をシナイ半島に集結させるとともに、アカバ湾の入り口のティラン海峡を封鎖しました。ティラン海峡は、イスラエル南端のエイラート港があるアカバ湾と紅海の境界に位置する、幅8キロほどの海峡で、ティラン海峡封鎖はイスラエルにとって死活問題でした。

 

1967年6月5日、イスラエルは、エジプト、シリア、ヨルダンに電撃的奇襲攻撃を仕掛けます。イスラエル空軍は、エジプト空軍基地を爆撃、破壊し、イスラエル陸軍はシナイ半島・ガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃しました。また、シリアとヨルダンの地上部隊も攻略し、シリア領ゴラン高原と、ヨルダン領のヨルダン川西岸地域と東エルサレムを占領、わずか6日間で圧勝しました(イスラエルでは、第3次中東戦争を「6日戦争」と呼ぶ)。イスラエル軍の強さは、アラブ側の戦死者が3万人であったのに対し、イスラエルは670人にとどまったことからもわかります。

 

6月10日、イスラエルとエジプトは国連の停戦決議を受諾し、休戦となり、イスラエルは、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区,ガザ地区,シナイ半島,ゴラン高原を併合し、領土を3〜4倍近くに拡大させる形で、グリーンライン(停戦ライン)を拡大させました。

 

グリーンラインとは、1948~49年の第一次中東戦争の停戦ラインおよび、67年の第三次中東戦争によって、さらにそこから変更が加えられた停戦ラインのことをいいます。パレスチナがまだ、正式な「国家」として認められていない以上は、「国境」ではありませんが、イスラエルについては、国際的に国家として承認をされているので、グリーンラインが、そのイスラエルの領土を定めていることから、実質的に国境線ということができます(もっとも、イスラエルは、それ以上の領土的野心があるのか、国境画定はしていないと主張している)、

 

エルサレム奪還

イスラエルが1950年に首都宣言したエルサレムは、この戦いの前まで、旧市街を含む東エルサレムはヨルダン領でしたが、ここを占領したことで、イスラエルは東西併せた全エルサレムを実効支配することになりました。歴史的にも、ハラム=アッシャリーフ(高貴な聖域)と言われるエルサレムの神殿の丘は、1187年にサラディン率いるイスラム軍が十字軍から奪回した場所で、以来イスラム教徒が支配していましたが、今回、780年ぶりにユダヤ人が占有することになったのです。

 

ヨルダン川西岸とガザ

また、ヨルダン川西岸地区とガザ地区は、パレスチナ人が圧倒的多数を占め、歴史的にパレスチナ人にとって社会の中心地であり、将来のパレスチナ国家に向けても、中心的役割を果たすはずでした。しかし、逆に、イスラエルは、(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸とガザ地区内の戦略上の要衝やユダヤ教のゆかりの地に入植地を建設し、入植者には税軽減などの恩典を与える入植政策を実施しました。その結果、英BBC(23/12/6)によれば、現在、250以上の入植地に70万人以上のユダヤ人が居住しています。過去には、90年代に増加した旧ソ連からの移民の受け皿にもなりました。もっとも、イスラエルとアメリカを除く国際社会の大多数は入植を国際法違法だとみなしています。

 

ユダヤ人は1948年のイスラエル建国前にパレスチナと呼ばれた地域を、神から約束された土地という意味を込めて「イスラエルの地」と呼ぶそうです。したがって、パレスチナ占領地はその一部で、イスラエルの領土となります。ですから、入植は回復のための手段として正当化され、入植地の拡大が強力に推進されました。こうしたパレスチナもユダヤ人が支配すべきだとする考え方を「大イスラエル主義」と言います。

 

一方、第三次中東戦争によって、パレスチナ難民が100万人以上発生し、その大半がヨルダンに避難しました。国連は安保理決議242で、「イスラエル軍の占領地からの撤退とアラブ諸国の同国承認」を採択しましたが、当然のことながら実行されませんでした。また、戦いに敗れたアラブの指導者、エジプトのナセル大統領(在任56~70)の権威は失われ、その影響力も低下していきました。ナセルが70年に死去した後は、大統領はサダトに交代しました。

 

 

PLO議長・アラファトの誕生

 

PLOでは、1969年2月にファタハの指導者アラファトが議長に就任しました。「パレスチナ民族憲章」が採択され、パレスチナの民族自決のために、イスラエルに対する武力闘争とユダヤ国家の撲滅が呼びかけられました。これによって、PLOは、アラファトの下で、ゲリラ戦術によるイスラエルに対する抵抗と、パレスチナの解放を武力闘争で勝ち取る路線へと転換していきました。

 

72年5月のPLOの武装組織・パレスチナ解放人民戦線(PFLP)によるイスラエルのロッド空港での無差別テロ(テルアビブ空港乱射事件)や、72年9月のファタハの秘密テロ組織「黒い九月」によるミュンヘン・オリンピック襲撃事件などは国際世論から非難を浴びました。

 

また、1976年6月に起こった「エンテベ空港事件」は、イスラエルが最も強硬な姿勢を示したハイジャック事件として知られています。この事件では、イスラエルのベングリオン空港発パリ行きのエールフランス機が、PFLP(パレスチナ解放戦線)などのゲリラに乗っ取られ、アフリカ・ウガンダのエンテベ空港に着陸しました。しかも、この時、反イスラエルであったウガンダの独裁者アミン大統領はゲリラへの協力を表明する事態にまで発展しました。

 

これに対して、イスラエルは、空路エンテベに飛んだ特殊部隊がゲリラを急襲して殺害、人質209名を救助しました。このときイスライル兵の中では、ヨナタン=ネタニヤフが唯一犠牲となりました(ヨナタン=ネタニヤフの弟が後の首相ベンヤミン=ネタニヤフである)。

 

 

第四次中東戦争と石油ショック

 

ナセルに代わってエジプトの大統領となったサダトは、奇襲攻撃を受けた六日戦争(第三次中東戦争)の復仇として、1973年10月6日、シリアとともに突如イスラエルに武力攻撃を仕掛け、第4次中東戦争が始まりました。アラブ側の奇襲攻撃は、ユダヤ教で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日)に当たったため、イスラエルでは「ヨム・キプール戦争」とも呼ばれます。

 

不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされ、第4次中東戦争において、アラブ側がはじめて勝利するかにみえましたが、当初劣勢であったイスラエル軍は、体制を整え、反撃に転じると、シナイ半島中間で踏みとどまって膠着状態となりました。すると、アラブ連盟は、アラブボイコット(対イスラエル経済制裁)を発動し、世界にオイルショック(第一次石油危機)を引き起こし、イスラエルとそれを支援する西欧諸国へのこの政治的圧力をかけました。

 

これに対して、アメリカが、この時点で停戦を提案すると、国連で停戦協定が結ばれ、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となりました。シナイ半島に(第二次)国連緊急展開軍 (73.10~79.7)が、ゴラン高原に国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)(74.6~現在)がそれぞれ派遣されました。交渉では、アラブ産油国が石油戦略よって優位に立つ形で停戦に持ち込んだことから、軍事的には決着がつかなかったものの、政治的にはアラブ側が勝利したとされていますが、シナイ半島やガザなどパレスチナの占領地を奪還などすることはできませんでした。

 

逆に、第四次中東戦争でもイスラエルは負けなかった(アラブ側の侵攻は結局失敗したため、イスラエルの勝利とする見方もある)ため、以後イスラエルによるパレスチナ支配が長期化することになります。

 

一方、この戦いで、エジプトは緒戦で勝利を収め、イスラエル軍不敗の神話を崩したことから、アラブにおけるエジプトのサダト大統領の地位は高くなりましたが、4次にわたる中東戦争はエジプト財政を大きく圧迫し、サダト大統領は方針転換を迫られることになります。

 

 

サダト、イスラエル訪問と平和条約

 

エジプトのサダト大統領は、1977年11月、イスラエルを電撃訪問し、宿敵イスラエルと国交を結びました。イスラエルの存在を承認し、対等な交渉相手として和平交渉に入ることを表明したのです。1978年9月、アメリカ大統領の別荘「キャンプ・デービッド」で、当時のカーター大統領が仲介役となり、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相との間で「キャンプ・デービッド合意」がなされました。

 

翌79年3月、エジプト・イスラエル平和条約が締結され、同合意に従って、エジプトはイスラエルを承認し(両国は国交を回復)、イスラエルはシナイ半島を返還しました(82年4月に撤退完了)。これによってエジプトとイスラエルの対立を軸とする中東の対立関係は解消された形です。ただし、イスラエルとエジプトの和平は、81年10月、その功労者であるサダト大統領のエジプト同胞による暗殺という大きな代償を払いました。

 

 

イスラエル、レバノン侵攻

 

イスラエルはエジプトとの和平を実現し、南部での戦争の危惧をなくした上で、北部のレバノンを拠点とするPLO(パレスチナ解放機構)に照準を合わせました。

 

PLOの拠点は、当初パレスチナ人が全人口の半数以上を占めるヨルダンの首都アンマンに置かれていました。ヨルダン政府も最初はPLOを支援していたが、ゲリラの中にヨルダンの王政を批判するものも現れるなど、国内の混乱を懸念したヨルダン政府は、70年9月、PLOに国外退去を宣告し、パレスチナ・ゲリラ側と一時内戦状態となりました(黒い九月事件)。ヨルダンを追放されたPLOは、レバノンの首都ベイルートに本部を移し、南レバノンから反イスラエル闘争を展開していました。

 

一方、レバノンは、アラブ諸国の一員でありながら、国内でキリスト教徒も多く、宗教的な対立が起きる中、レバノンのキリスト教マロン派などは、レバノンに拠点(本部)を置くPLOのパレスチナ統治に対する反発を強めていきました。1975年4月、マロン派民兵組織などが、PLOの退去を求めて戦闘を開始、レバノン内戦が始まりました。

 

そうした中、レバノン内戦でレバノン政府軍が事実上解体していたことを受けて、イスラエルは、1978年3月、レバノンを侵攻し、レバノン国境から16キロのレバノン南部(南レバノン)を占領しました。国連安保理は、イスラエル軍の即時攻撃中止と撤退を求め、国連レバノン暫定軍(78.3―現在)を派遣しましたが、イスラエルは、自由レバノン軍(のちの南レバノン軍SLA)を組織して、パレスチナのゲリラに対抗させました。1982年6月には、南レバノンに再侵攻し、首都ベイルートまで制圧、PLO勢力を駆逐しました(この結果、PLOは82年8月、ベイルートから退去し、チュニジアに本拠を移した)。

 

PLOに代わり、対イスラエル闘争の前線にたったのがヒズボラなどのシーア派民兵組織でした。ヒズボラは、79年のイラン革命に影響を受けたレバノンのイスラム教シーア派指導者によって、イランの支援の下に創設され、自爆テロを頻発させながら、反イスラエル闘争を現在も続けています。

 

なお、イスラエル軍は、85年にレバノン中央部から撤退しましたが、南レバノンに安全保障地帯を設置し、事実上の占領を継続、2000年5月にようやく、係争地であるシェバア農場を除いて、撤退を完了させました(もっとも、ヒズボラとの衝突は散発的に続いている)。

 

(2024年4月2日)

 

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パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

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<参照>

イスラエルとパレスチナ。歴史的に複雑な関係を紐解く

(NewsCrunch 2023.11.10)

歴史はホロコースト前から始まっていた

イスラエルの起源に迫る─それはロシア・ユダヤ人が作った国だった。

(2023.11.15、クーリエ・ジャポン COURRiER Japon)

イスラエルに対抗するのはハマスだけではない…知っておくべき、これだけ多くのこれだけ多くの政治・武装組織

(2023年11月21日 NewsWeek)

【地図で読み解く】中東9カ国&米中露3カ国…それぞれの「中東問題」への思惑とは?

(2023年11月22日 ニューズウィー)

パレスチナという土地はあるが国はない 単なる「宗教対立」では語れないパレスチナ問題の発端

(2023.11.08、幻冬舎プラス) 高橋和夫

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(2023.11.16、幻冬舎プラス、高橋和夫)

ナチスの台頭でパレスチナにユダヤ人が流入 中東問題の始まりはヨーロッパ

(幻冬舎プラス、2023.11.16)

ヨーロッパで迫害を受けたユダヤ人が今度はパレスチナ人を追放

(幻冬舎プラス、2023.11.20)高橋和夫

【解説】 イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる

(2023年10月18日、BBC)

東エルサレム East Jerusalem

(百科事典、科学ニュース、研究レビュー)

世界史の窓

コtバンク

Wikipedia