エルサレム:「シオンの丘」に立つ聖なる神の都

 

エルサレムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地です。現在なおも議論されている「パレスチナの最終的地位問題」でも、解決が最も困難とされるテーマでもあり、エルサレムについての正しい知識がなければ、イスラエル・パレスチナ情勢も理解できません。今回は、エルサレムについて、その歴史から現状まで、深く掘り下げてみました。

 

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<エルサレムの歴史>

 

  • 古代のエルサレム

 

歴史を紐解くと、エルサレムは紀元前11世紀には、すでにヘブライ王国の首都でした。旧約聖書によれば、神がエルサレムの地をユダヤ人に与えたとされ、紀元前1000年頃、ヘブライ人(ユダヤ人)がパレスチナにヘブライ王国を築き、前1020年に、初代サウル王の下、ユダヤの王政が始まりました。

 

その後、ダビデ王(在:前1000〜前961頃)の時、パレスチナ全域を支配する統一帝国が建設され、前1000年に、エルサレムは王国の首都となったのです。次のソロモン王(在:前960頃~前922頃)は、前960年、エルサレムに、ユダヤの民族的精神的中心をなす第一神殿(ヤハウェ神殿)を建設し、王国は、「ソロモンの栄華」と称される最盛期を迎えました。

 

その後、ヘブライ王国は、前922(930)年ごろ、北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂しました。イスラエル王国は、前722〜前720年の間に、アッシリアに滅ぼされ、10部族が追放されました(「失われた10部族」とも表現される)が、ユダ王国ではダビデの子孫がほぼ王位を継承し、300年以上もの間、首都エルサレムを守り抜きました。

 

しかし、そのユダ王国も、前586年に、新バビロニアに征服されると、エルサレムと第一神殿は破壊され、ネブカドネザル2世は、大半のユダヤ人をバビロンに連行・移住させました(バビロン捕囚)。それでも、ユダヤ人は、その間、唯一神ヤハウェに対する信仰を捨てることはなく、民族的苦境の中でさらに信仰を強めていたと伝えられています。

 

前538年、ペルシア帝国のキュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、ユダヤ人は解放されました。ユダヤ人たちは、ユダ王国の故地、エルサレムへ帰還し、ヤハウェ神殿の再建も許されたのです(第二神殿の建設)。

 

ユダヤ教が成立したのも、紀元前6世紀頃で、ユダヤ人たちは、ユダヤ教の信仰と律法(トーラー)を厳格に守るという形で、ユダヤ国家を維持していきました。紀元前2世紀頃には、エルサレムはユダヤ教徒の巡礼地となったと言われています。

 

 

  • ローマの支配とディアスポラ

 

その後、アレクサンダ―大王が、ペルシア帝国を滅ぼし、前332年、イスラエルの地を征服したことで、パレスチナのギリシャ人支配が始まり、アレクサンダ―大王の死後、パレスチナの地は、セレウコス朝シリア(前312〜前63)の支配となりました。しかし、ローマのヘロデ王が、前63から前4年の間、イスラエルの地を統治し、エルサレムの神殿も改築されましたが、最終的に、イスラエルは、6年にローマの属州となりました。

 

ローマによるパレスチナ支配に対して、ユダヤ人は、紀元66年、ローマ帝国に抵抗し、反乱を起こしました(第一次ユダヤ戦争)が、70年9月、ユダヤ人の王国とエルサレムは、ローマ軍によって壊滅し、ヤハウェ神殿(第二神殿)も破壊されました。一部のユダヤ人はマサダ砦に逃れ、玉砕するまで戦い続けましたが、73年に陥落しました。

 

また、132年にも、バル・コフバによる反ローマ蜂起が起きました(第二次ユダヤ戦争)、ヤハウェ神殿の跡地にローマの神であるジュピター(ユピテル)の神殿を建設しようとしたことが一因とされ、一時はエルサレムを占領して神殿を復興させましたが、135年に鎮圧されました。

 

こうして、ローマに抵抗し、祖国を失ったユダヤの民は、この地を追われ、世界中に分散する離散の民(ディアスポラ)となったのでした。長い苦難の時代の始まったのです。

 

 

  • イスラム支配

 

中世に入ると、ユダヤ人は、欧州で迫害を受けるなか、7世紀には、パレスチナの地(エルサレム)はイスラムの支配下に入りました。エルサレムは、イスラムの預言者ムハンマドが夜の天国の旅に出た地とされ、メッカ、メディナに次ぐ第3の巡礼地とされています。

 

その後、キリスト教の十字軍が起こされ、一時、エルサレム王国(1099〜1291年)が建てられました。エルサレムは、キリスト教の十字軍の支配下となり、聖地をイスラムから奪還しましたが、13世紀には、アラブの英雄サラディンによって再びイスラムに奪われました。

 

16世紀以降、パレスチナの地は、オスマン帝国の支配下にありましたが、エルサレムは3宗教に開かれていました。数世紀にわたってアラブ人やトルコ人が住み、イスラム教を信仰していた一方、パレスチナの地で生まれたキリスト教の教えを守り続けていたキリスト教徒や、少数ながらユダヤ教徒も生活していました。

 

このように、中世から近代にかけてのエルサレムは、歴史的および宗教的背景が絡み合った、難しい立場の都市でした(経済的な要所ではなかった)が、大きな争いもなく共存していました。

 

 

  • シオニズム運動

 

ユダヤ人の祖国復興の動きは、1897年から、ユダヤ人の間で「シオニズム運動」として始まりました。シオニズムとは、ユダヤ人の祖国回復運動(自分たちの国を創ろうという運動)のことで、世界各地で離散していたユダヤ人が、安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先として旧約聖書に書かれた「祖先の地」、ユダヤ人の故郷であるシオンの丘(エルサレム)、ユダヤ人の国家を建設することを目指したのです。

 

このシオニズム運動を組織し主導した人物が、ハンガリー出身のユダヤ人ジャーナリスト、ヘルツルで、ヘルツルは、1897年、自身を議長とする世界シオニスト機構を創設し、スイスのバーゼルで初のシオニスト会議を開催しました(ヘルツルは、イスラエル建国の父とされている)。会議では、ユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナに、ユダヤ人国家を建設することが謳われ、シオニズム運動が開始されました(パレスチナへの入植方針を決定)。

 

 

  • イスラエル建国と中東戦争

 

このユダヤ人国家を推進させたのは、結果的にイギリスとなりました。1917年から支配および委任統治していたパレスチナにおいてイギリスは、第一次世界大戦中、ユダヤ人国家の成立を認めるバルフォア宣言を出し、最終的に、第二次世界大戦後の1947年、国際連合による「パレスチナ分割決議」の採択に繋がりました。

 

決議では、パレスチナの土地はユダヤ国家とアラブ国家、そして国連管理下の国際都市エルサレムに分割されました。エルサレムは国連分割計画に基づいて独立した国際都市として構想されたのです。ユダヤ人はこれを受諾し、イスラエル建国を宣言しましが、これを認めないアラブ諸国は、イスラエルに攻め込み、1948年、第一次中東戦争が勃発しました。

 

イスラエル勝利に終わった第一次中東戦争(1948~49年)の際の休戦協定によって、休戦ライン(グリーンライン)が設定されました。このラインを基準に、エルサレムは、イスラエルが占領した西エルサレムと、ヨルダンが支配するアラブ人地区の東エルサレム(19 世紀にヨルダンが占領したエルサレムの地区)とに分断されました。エルサレムの西半分はイスラエルの支配下に入り(50年には首都宣言を行う)、有名な旧市街(後述)を含む東半分はヨルダンの支配下になったのです。

 

しかし、1967年の第三次中東戦争(「六日戦争」)に勝利したイスラエルは、東エルサレムも占領し、現在も、東エルサレムを実効支配しています。さらに、入植地を作りユダヤ人を移住させる入植政策を実施することによって、東エルサレム支配の既成事実化を図りながら、エルサレムの都市全体を管理下に置いています。

 

 

<エルサレム旧市街>

 

パレスチナの中心都市、エルサレムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3つの宗教にとっての聖地です。シオン山がエルサレムの別名であるように、標高835メートルほどの丘の上に建てられています。

 

この場所は、旧約聖書のアブラハムが息子イサクを生贄に捧げようとしたモリヤの丘であり、2000年前にユダヤ教の大神殿が建てられていた所です。また、イエス・キリストがその神殿の周囲を歩き回り、教えを説いていた聖なる場所でもあります。

 

現在、「聖地」エルサレムという場合、通常、エルサレム市全体のことではなく、わずか1キロメートル四方(面積0.9km2 の広さ)を城壁で囲まれた、「旧市街」付近を意味しています。エルサレムの旧市街とその城壁群は、エルサレムにある世界遺産のひとつ(1981年登録)です。

 

1860年代までは、この旧市街がエルサレムの全体でしたが、現在、旧市街は、東エルサレムに含まれており、北東はムスリム(イスラム教徒)(アラブ人)地区、北西はキリスト教徒地区、南西はアルメニア人(正教徒)地区、南東はユダヤ人地区と、4つのブロック(エリア)に分けられ、三つの聖地はひしめき合っています。

 

そんなエルサレムには、ユダヤ教徒にとっての神殿の丘や嘆きの壁、キリスト教徒にとっての聖墳墓教会、ムスリムにとっての岩のドームやアル=アクサ・モスクなど、3つの宗教それぞれに、歴史的な重要な遺跡を含んでいます。

 

 

  • ユダヤ教

 

嘆きの壁(神殿の丘)

旧市街は、ユダヤ教徒にとっては、紀元前10世紀以来、ユダヤの王国のエルサレム神殿がおかれていた聖地です。紀元1世紀(西暦70年)にローマ帝国により破壊されましたが、今も神殿の一部の外壁が残されています。それが、有名な「嘆きの壁」で、中世以降祈りの場として現在に至っています。

 

嘆きの壁そのものの全長は約490mに及びますが、一般には神殿の丘の西側外壁のうち地上に見えている幅約57mの部分のみを指します。この部分は広場に面しており、壁の前が礼拝の場所になっています。

 

歴史的には、紀元前20年、神殿はヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張されたといわれ、この「嘆きの壁」は、その当時、神殿を取り巻いていた外壁の西側にあたります。そのため、ユダヤ人は「嘆きの壁」ではなく「西の壁」と呼んでいます。

 

ユダヤ教の聖地であるエルサレムは、紀元前1000年にダビデが、イェブスを攻略し「ダビデの町」と改称、ここに「神の箱」を安置し、イスラエル統一王国の首都としました。

 

その後、961年、その子、ソロモンが王位につき、シオンの丘に第一神殿と王宮が建立されました。神殿はユダヤ教の長い歴史の中で最も神聖な建物となりました。以後「神殿の丘」は、第二のシオンと呼ばれ、イスラエル民族統合のシンボルとなるとともに、エルサレムを最も重要な聖地とする信仰が生まれました。

 

 

  • キリスト教

 

聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)

エルサレム旧市街は、キリスト教徒にとって、イエス・キリストが地上での最後の日々を過ごし、十字架にかけられた土地、すなわち、イエスの死と復活・昇天の地です。イエス・キリストが処刑された場所はゴルゴダの丘と伝えられていますが、旧市街にある聖墳墓教会は、まさにその場所に建つ教会で、キリストの墓があるとされています。教会内部には、イエスが十字架に架けられ処刑された場所やイエスの遺体を埋葬したとされる場所などがあります。

 

聖墳墓教会は、4世紀のローマ皇帝コンスタンティヌスの時代に遡るとされ、皇帝の母后(ぼこう)ヘレナは、326年、キリストの足跡をたどるために聖地を訪れ、イエスの最終晩年と関係のあった場所の確定し、その地を記念する教会聖堂の建設計画を立てたとされています。このようにして、エルサレムはローマ帝国公認のキリスト教の聖地になったのです。

 

ヴィア・ドロローサ

エルサレムの旧市街の中にあるヴィア・ドロローサ(ラテン語の意味は「悲しみの道」)は、イエス・キリストが処刑を宣告され、十字架を背負ってゴルゴダ丘(聖墳墓教会)に向かって歩いた道のことをいいます。現在では、キリストが死刑を宣告された「第1ステージ」から、復活したとされる「第14ステージ」まで指標があり、ヴィア・ドロローサの終着点が、聖墳墓教会です。

 

 

  • イスラム教

 

岩のドーム

イスラム教徒は、メッカとメディナに次ぎ、エルサレムを「聖なる都(聖地)」と見なしました。イスラム教の預言者(始祖)ムハマンドが一時メッカを追われ、メディナに滞在した際、一年ほどエルサレムの方角に向かって祈りを捧げたと言う逸話も残されています。

 

岩のドームは、イスラム教(徒にとって)の第三の聖地で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地である「神殿の丘」の上に建てられています。そこは、まさに2000年前にユダヤ教の大神殿が建てられていた場所で、そこからムハンマドが天に召された(天馬に乗って天に昇った)と信じられています。岩のドームは、モスク(イスラム寺院/イスラム教礼拝所)ではなく、その内部には、ムハンマドが昇天したとされる岩があり、その岩を覆うように作られた建物です

 

610年頃、アッラーの啓示を受けたイスラム教の創始者ムハマンドは、638年にエルサレムを攻略し、691年には、エルサレムの第一神殿および第二神殿の敷地に、カリフのアブドゥルマリクが「岩のドーム」を建造しました(完成692年)。金のドーム部分は11世紀に再建されて、現在に至っています。

 

なお、近年、イスラム教徒以外は内部に入ることができなくなってしまっています(立ち入りは許可されていません)が、「神殿の丘」の敷地内から間近で建物を見ることができます。

 

 

アル・アクサ・モスク(アル・キブリ・モスク)

アル・アクサ・モスクは、イスラム教において、サウジアラビアのメッカにあってカアバ神殿を擁する「聖モスク」、同じくサウジアラビアのメディナにある「預言者のモスク」に次いで、3番目に神聖とされています。

 

アル・アクサ・モスクは、一般的に、神殿の丘の上にある岩のドームの近く建てられたモスクと見られ、金色のドームの「岩のドーム」に対して、銀色のドームのアル・アクサ・モスクというように、両者は対象的にとらえられています(岩のドームに対して、銀のドームという呼び方もある)。

 

ただし、厳密に言えば、アル・アクサ・モスクは、建物そのものではなく、岩のドームも含めた敷地全体を指します(その大きさは、四方を壁に囲まれた14ヘクタールを超え、これは、エルサレム旧市街の約5分の1の広さに及ぶ)。

 

実際、アル・アクサ・モスクは、別名「ハラム・アッシャリーフ(ハラム・シャリーフ)」と呼ばれ、アラビア語で「高貴なる聖域」という意味で、ユダヤ教における「神殿の丘」のことです。一般的にアル・アクサ・モスクと思われているモスクは、「アル・キブリ・モスク」という名のモスクをいうそうです。

 

ですから、アル・アクサ・モスクに、「岩のドーム」と「アル・キブリ・モスク」の二つの建造物が建っていると言えますね。(それゆえ、アル・キブリ・モスクをアル・アクサ・モスクと呼んでも、間違いというわけではない)。

 

かつて預言者ムハンマドは、大天使ジブリール(ガブリエル)に導かれてサウジアラビアのメッカから「夜の旅」をし、「最も遠い」場所であるエルサレムに到着しました。この出来事を記念して、8世紀初め、ウマイヤ朝のワリード1世により、アル・アクサ・モスク(アル・キブリ・モスク)が創建さました。このモスクは、メッカの聖モスクに次いで2番目に古いモスクであり、1000年以上に渡る非常に長い歴史を誇ります。

 

アル・アクサ・モスクの「アル・アクサ」とは、アラビア語で「最も遠い」という意味で、当時、メッカから「最も遠い」場所とされたエルサレムに始祖ムハンマドが到達したことに由来します。その後、何度か再建されたのち、11世紀に現在のアル・アクサ・モスクになりました。これまでに少なくとも6回の修理が加えられ、残念ながら建設当初の姿は失われているそうです。

 

 

<エルサレムを巡る課題>

 

  • 嘆きの壁とアル・アクサ・モスク

 

旧市街地の中で、アル・アクサ・モスク周辺では、ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ人)の衝突がしばしば起きています。

 

イスラム教の岩のドームを含むアル・アクサ・モスクは、ユダヤの「神殿の丘」(イスラムでは「ハラム・アッシャリー」)と呼ばれる聖地に建設されています。そこは、2000年前にユダヤ教の大神殿が建てられていた場所で、ローマ帝国によって破壊されましたが、神殿を取り巻いていた外壁の一部が残され、現在、「嘆きの壁」と呼ばれるユダヤ教の聖地となっています。

 

そして、その嘆きの壁の上に、イスラム教の聖地「岩のドーム」が立っています。同じ構造物の壁(嘆きの壁)と天井(岩のドーム)が、ユダヤ教の聖地とイスラム教の聖地としてくっついているのです。そのため、神殿の丘はイスラム教徒とユダヤ教徒の最も熾烈な対立の場となっています。これまでもイスラエルの右派過激派によるアルアクサ・モスク放火事件や、爆破未遂事件などが起きました。

 

エルサレムでの最近の争いとしては、2001年にアル・アクサ・モスクに、イスラエルの強硬右派リクードのシャロン党首が、武装した側近1000名を伴って乗り込んだことを、きっかけにパレスチナ人との全面的衝突へと発展した第二次インティファーダ(民衆蜂起)があります。この場所はユダヤ教徒にとっても「神殿の丘」と呼ばれる聖地ですが、聖地管理の取り決めで礼拝ができるのはイスラム教徒のみとなっています。

 

一方、ユダヤ教では岩のドームのところに神殿を再興することが願いとされていますが、イスラエルの極右勢力は、イスラムの岩のドームを含むアル・アクサ・モスクの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張しています。

 

 

  • 東エルサレム入植問題

 

西エルサレムとは、エルサレムの市街地のうち、1948年の第一次中東戦争の後に定められた停戦ライン(グリーンライン)より西側の、イスラエルの支配下に残った地域のことをいいます。

 

東エルサレムは、現代のエルサレム東部の地区名で、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地でもある旧市街を含みます。パレスチナ国(パレスチナ自治政府)は、東エルサレムを首都とみなしていますが、現状はイスラエルが実効支配を行っています。

 

1967 年の六日間戦争の後、周囲の28の自治体が編入され、エルサレムの市域は戦前の西エルサレムの 3 倍の広さに拡大されました。これには、現在市街地とみなされる旧市街の北、東、南にあるヨルダン川西岸の近隣のいくつかの村と、それ以来建設された 8 つの郊外地区が含まれます。

 

イスラエルは、東エルサレムの実効支配を既成事実化するため、入植地を作り、ユダヤ人の入植を精力的に進めています。実際、統合した地区に、ユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入しました。2023年末時点でイスラエル入植地は14カ所、入植者は約23万人に達しています。

 

国際社会は、東エルサレムにおけるイスラエル人の入植は国際法上違法であり、これらの地域を不法入植地とみなしています。これに対して、イスラエル政府は、入植は拡張された自治体境界に基づいていると、異議を唱えています(パレスチナは、1949年の休戦協定に基づいているとして反対している)。

 

さらに、イスラエルは、ヨルダン川西岸の境界に食い込むように分離壁を建設中で(最も高いところで8メートル、全長は700キロ以上にもなる)、聖地エルサレム周辺でも、それが大詰めを迎えています。分離壁の建設は、テロリストの流入を防ぐという目的ですが、パレスチナ人を減らし、ユダヤ人を増やす政策にも寄与しています。

 

 

  • 首都エルサレム

 

一方、イスラエルは、1950年に(西)エルサレムを首都に定め、イスラエル政府は、新しい政府施設や大学、大シナゴーグ、クネセト議事堂を西エルサレムに建設しました。また、1980年には、イスラエル議会が、エルサレム法(イスラエル国家基本法)を制定し、第三次中東戦争(1967年)によって東西を統一したエルサレムを、「永遠の首都」と宣言しました(「統一全エルサレムは首都」と宣言)。これは、東エルサレムの事実上の併合を正式に定めた形です。

 

しかし、国連を含む国際社会は、3宗教の聖地であるエルサレムをイスラエルの首都として認めていません(暗黙の原則が貫かれている)。その背景には、国連が1947年に採択したパレスチナ分割案に、「エルサレムは国際管理下に置く」と定めています。また、1993年の「オスロ合意」でも、エルサレムの最終的な地位は和平協議の中で決められるとしています。政治的にも、パレスチナ、東エルサレムが将来、国家樹立の際、首都になると主張していることが配慮されています。

 

したがって、国際法の下では、東エルサレムは、ヨルダン川西岸の一部とみなされているので、パレスチナ領土の一部であり、現在は「占領地」という位置づけです。さらに、イスラエルが67年以来、設置してきた東エルサレムを含む多くの入植地も国際法上違法とされています。

 

そのため、各国は、大使館や領事館をテルアビブに置いていますが、アメリカのトランプ大統領は、2017年12月、エルサレムをイスラエルの首都として承認することを一方的に発表し、翌年、大使館をエルサレムに移設しました。2018年12月には、オーストラリアが西エルサレムをイスラエルの首都として正式に承認しましたが、トランプの決定に追随した国はありませんでした。

 

もっとも、エルサレムは、現在、イスラエルの大統領が統治しており、議会や最高裁判所のほか、大半の政府機関が置かれており、実質的には首都として機能します。

 

一方、パレスチナ自治政府は、東エルサレムを将来の独立国家の首都と位置づけており、中東和平交渉において、エルサレム帰属問題が現在も係争中です。現在、アルゼンチン、ブラジル、中国、ロシア、スウェーデン、オーストラリア、フィンランド、フランスや、イスラム協力機構加盟国全57か国など、 139 の国連加盟国 (193 国中) が、東エルサレムをパレスチナ国の首都と認めています。

 

こうした点から、エルサレムは一つの国家による排他的な主権下に置かれるのではなく、共同管理、共同統治することを目指すべきだとの見方が支配的です。

 

(2024年4月4日)

 

<関連投稿>

イスラエル: 「ダビデの星」の国の基礎知識

パレスチナの最終的地位問題:解決への3つの論点

イスラエル史➀:シオニズム運動の結実とその代償

イスラエル史②:オスロ合意からガザ戦争まで

 

パレスチナ:ヨルダン川西岸・ガザ・東エルサレム

PLO:アラファトのファタハ、その闘争の変遷

ハマス:イスラム主義と自爆テロの果て

パレスチナからみた中東史➀:中東戦争の敗北とPLOの粘り

パレスチナからみた中東史②:オスロ合意とハマスの抵抗

 

 

 

 

<参照>

パレスチナとイスラエルの和平で最大の壁は何か命がけで「2国家共存」を進める指導者は出現するか

(2023/10/27、東洋経済)

イスラエル、なぜ「3つの宗教の聖地」となったのか戦禍が絶えない理由を地理から紐解いてみる

(2023/10/18、東洋経済)

論点 エルサレム「首都認定」

(毎日新聞2017年12月7日 東京朝刊)

イスラエルとパレスチナ。歴史的に複雑な関係を紐解く

(NewsCrunch 2023.11.10)

中東和平交渉の主な論点は? 聖地帰属や境界線で溝

(2013/8/14、日経)

中東和平、交渉前進せず オスロ合意から20年

(2013/9/13、日経 )

東エルサレム East Jerusalem

(百科事典、科学ニュース、研究レビュー)

世界史の窓

コトバンク

Wikipediaなど