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2019年11月23日

ニュース:ローマ教皇来日、長崎・広島訪問

ローマ教皇、日本に到着 広島・長崎など訪問へ

(2019年11月23日、朝日新聞)

 

約13億人の信者がいるローマ・カトリック教会のトップ、フランシスコ教皇(82)が23日夕、東京・羽田空港に到着した。ローマ教皇の日本訪問は、故ヨハネ・パウロ2世が1981年に来日して以来、38年ぶり2回目。フランシスコ教皇は、26日までの滞在中、被爆地の広島と長崎を訪れ、核廃絶に向けたメッセージを発表する。25日には東日本大震災の被災者と対面。天皇・皇后両陛下と面会し、同日夕には安倍首相とも会談する。

 

教皇は23日夕、前の訪問地のタイから、教皇特別機で東京・羽田空港に到着し、日本政府関係者やカトリック教会関係者から歓迎を受けた。フランシスコ教皇は、核兵器の使用と所有を一切認めない核廃絶を訴えており、今回の訪日には、被爆地の日本から「核無き世界」を全世界にアピールする狙いがある。日本政府は、2014年に安倍首相がバチカン(ローマ教皇庁)を訪問した際に、来日を要請。昨年には広島、長崎の両市長が連名で、訪日を要望する親書を送っていた。

 

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ローマ教皇、長崎の爆心地で演説「核兵器は私たちを守らない」

(毎日新聞2019年11月24日)

来日中のフランシスコ・ローマ教皇は24日午前、被爆地・長崎を訪れた。教皇は長崎市松山町の爆心地公園で原爆落下中心地碑の前に立ち、世界各国の指導者に向け「核兵器のない世界を実現することは可能であり必要不可欠なことだ」とメッセージを送り、兵器の製造や改良などの軍拡競争を「途方もないテロ行為だ」と厳しく指摘した。

 

教皇はメッセージで、被爆地・長崎について「核兵器が人道的も環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人だ」と表現。「核兵器は国家の安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない」と国際間にはびこる核抑止論も否定し、核兵器のない世界の実現に向け、個人や国際機関、核保有国などが一致団結するよう呼びかけた。

 

ローマ教皇の長崎訪問は1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり。同公園には、被爆者や高校生平和大使ら約1000人が集まった。特設ステージには、今年8月に米国から里帰りした浦上天主堂の被爆十字架や、被爆後の長崎が撮影地とされる写真で、教皇が「戦争が生み出したもの」とのメッセージをつけて配布を指示した「焼き場に立つ少年」が展示された。

 

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核の傘の下で語る平和は偽善 広島訪問のローマ教皇

(2019年11月24日、朝日新聞)

 

訪日中のフランシスコ教皇は24日午後、広島市の平和記念公園で、「平和の集い」に出席した。教皇は「戦争のために原子力を使用することは、犯罪以外の何物でもない」と指摘した。また、「核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるか」と述べ、名指しは避けながら、核抑止力を唱える国々を批判した。

 

ローマ教皇が被爆地で平和のメッセージを出すのは、冷戦下の1981年に故ヨハネ・パウロ2世が訪問して以来、38年ぶり。フランシスコ教皇は広島について「大勢の人の夢と希望が、一瞬の閃光(せんこう)と炎によって消された。人類に刻まれた記憶であり、私は平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じてきた」と語った。

 

教皇は演説で、「核の傘」の下にいながら平和について語る「偽善」を、強い言葉で非難した。「最新鋭で強力な武器をつくりながら、なぜ平和について話せるのだろうか。差別と憎悪の演説で自らを正当化しながら、どうして平和を語れるだろうか」

 

戦争のために原子力を使用することを、「人類とその尊厳に反し、我々の未来のあらゆる可能性にも反する犯罪だ」と宣言。「次の世代の人々が『平和について話すだけで何も行動しなかった』として、我々の失態を裁くだろう」と警告した。さらに、60年代に核の抑止力を否定し、軍備撤廃を唱えた教皇ヨハネ23世が出した回勅(公的書簡)を引用し「真理と正義をもって築かれない平和は、単なる『言葉』に過ぎない」とも語った。

 

その上で、フランシスコ教皇は人々に三つの行動を呼びかけた。これからの世代に「二度と繰り返しません」と言い続けるために「記憶すること」。自分だけの利益を後回しにして、平和に向かって「ともに歩むこと」。そして、原爆と核実験、紛争の犠牲者の名の下に「戦争や兵器はもういらない」と叫び、平和を「守ること」。これらが「広島においてより一層強く、普遍的な意味を持つ」と強調した。

 

 

 

2019年11月22日

ニュース:生物絶滅は隕石落下が原因か?

超古代史のなぞが、地質学の観点から明らかにされるきっかけとなりそうなニュースがありました。二つの記事を紹介します。

 

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1100万年前、巨大隕石落下か 南鳥島沖深海底の堆積物分析―海洋機構など

(2019年11月20日、時事通信社)

 

南鳥島沖の深海底で採取した堆積物から、約1100万年前に巨大隕石(いんせき)が衝突して生じたと推定される球状粒子を多数発見したと、海洋研究開発機構や千葉工業大、東京大などの研究チームが20日発表した。この時代のクレーターは陸上で見つかっていないため、巨大隕石は深い海に落下した可能性が高いという。堆積物の採取場所は南鳥島の南方、水深約5650メートルの海底下。南米大陸南端沖の深海底では約250万年前に巨大隕石が落ちた証拠が見つかっており、深海への落下が確認されれば2例目となる。大規模な津波を引き起こしたとみられるが、約1100万年前の痕跡は見つかっていない。

 

隕石衝突の年代推定には幅があるため、約1160万年前に地球規模で生物が大量絶滅した原因になった可能性も考えられるという。海洋機構の野崎達生グループリーダー代理は「今後は他の海域の深海底から採取した堆積物を調べ、巨大隕石の大きさや衝突地点を解明したい」と話している。論文は英科学誌サイエンティフィック・リポーツに掲載された。

 

南鳥島沖で2014年に海底鉱物資源を調査した際、採取した堆積物に含まれる白金族元素「オスミウム」の濃度が異常に高いことが判明。詳細に分析した結果、巨大隕石が落下、衝突した際の高温で溶融し、飛散して冷えて固まったとみられる物質を含む球状粒子が多数見つかった。

 

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最後の生物大量絶滅、隕石衝突が原因か 1160万年前 南鳥島沖に痕跡

(2019.11.20 産経新聞)

 

1160万年前に地球の生物が大量に絶滅したのは、巨大隕石(いんせき)が海に衝突したのが原因だった可能性があることを海洋研究開発機構などの研究チームが突き止め、20日付の英科学誌で発表した。生物の大量絶滅は、恐竜が絶滅した中生代白亜紀の6600万年前など3億年前以降に計11回起きたが、最も時期が新しく、人類の祖先である類人猿が繁栄していた1160万年前だけは原因が不明だった。

 

チームは小笠原諸島・南鳥島沖の水深約5600メートルの海底を掘削し、地層の試料を採取。分析の結果、オスミウムという元素が極めて高い濃度で存在することを見いだした。隕石や地下のマグマの活動が作るかんらん岩に多く含まれる元素だが、地層にかんらん岩は見つからなかった。また、中性子の数が異なるオスミウムの同位体の比率に宇宙で生じた特徴があり、地層の粒子に衝突の痕跡もあったことから、隕石の衝突に由来すると判断した。

 

オスミウム濃度の高さなどは、中生代三畳紀の2億1500万年前に地球に衝突し、直径100キロのクレーターが生じた直径3・3~7・8キロの隕石の痕跡に匹敵。そのため今回の隕石も直径数キロとみている。衝突時期は、オスミウムの年代測定で新生代中新世の1100万年前だった。大量絶滅が起きた時期とほぼ一致することから、隕石衝突が原因だった可能性があると結論付けた。

 

中新世の隕石衝突を示す陸上の大きなクレーターは2個見つかっているが、いずれも1500万年前ごろで今回と年代が合わないため、場所は不明だが海洋に落下したと推定。高温で海水が蒸発し、隕石に含まれる硫黄と反応して酸性雨が降り、地球環境の悪化をもたらしたとみられる。隕石が海に落下した痕跡の発見は難しく、これまで1件しか報告されていない。研究チームは「知られていなかった隕石の痕跡を発見した。今後は調査範囲を拡大し、詳しい落下地点や地球環境への影響を調べていきたい」としている

2019年11月22日

ニュース:両陛下、伊勢神宮に即位報告

天皇陛下「親謁の儀」で伊勢神宮外宮ご参拝

(2019.11.22、産経新聞)

 

三重県を訪問中の天皇、皇后両陛下は22日午前、伊勢神宮の外宮(げくう)(伊勢市)を訪れ、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告する「親謁(しんえつ)の儀」に臨まれた。

 

両陛下は宿泊先の内宮行在所(あんざいしょ)を出発後、衣食住の神である豊受大神(とようけのおおみかみ)を祭る外宮にご移動。先に天皇陛下が祭儀の正装「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」姿で馬車に乗車し、「三種の神器」のうち剣と璽(じ)(勾玉(まがたま))とともに、正殿に通じる門に到着された。馬車は重要な皇室行事で使われる宮内庁の「儀装馬車2号」で、上皇さまが平成時の「親謁の儀」で乗られたものを修復した。

 

陛下は鳳凰(ほうおう)の飾りの付いたかさのような「菅蓋(かんがい)」が差し掛けられる中、歩いて正殿に昇り、玉串をささげて拝礼された。陛下のご拝礼後、十二単(じゅうにひとえ)姿の皇后さまが御料車で正殿へ向かい、同様の所作でご拝礼。両陛下は23日、内宮(ないくう)で拝礼後、帰京される。

 

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両陛下「親謁の儀」で伊勢神宮内宮ご参拝

(2019.11.23、産経新聞)

 

三重県を訪問中の天皇、皇后両陛下は23日午前、皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る伊勢神宮の内宮(伊勢市)を訪れ、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告する「親謁(しんえつ)の儀」に臨まれた。

 

祭儀の正装「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」姿の天皇陛下は宿泊する内宮行在所(あんざいしょ)から、儀装馬車に乗車されて内宮・正殿に通じる門へ。正殿に昇り、玉串をささげ拝礼された。続いて十二単(じゅうにひとえ)姿の皇后さまが10日に行われた国事行為のパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」でも使用されたオープンカーで正殿に通じる門へ進み、同様の所作で拝礼された。両陛下は23日午後、帰京される。

 

一連の儀式を終えたことを報告される「親謁の儀」は今後▽27日に神武天皇陵(奈良県橿原市)、孝明天皇陵(京都市)▽28日に明治天皇陵(京都市)▽12月3日に昭和天皇陵、大正天皇陵(ともに東京都八王子市)-で行われる。

 

2019年11月22日

皇室:大嘗祭の歴史

前回は、報道で知らされる限りで、大嘗祭の「大嘗宮の儀」についてまとめましたが、今回は大嘗祭の歴史です。

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大嘗祭は、稲作を中心とした日本社会に古くから伝わる収穫儀礼の新嘗祭に由来する儀式で、1300年以上続く、即位に伴う最も重要な皇室祭祀です。戦国時代の前後に約220年間中断した時期もありましたが、江戸時代に再興され、現代まで受け継がれてきました。

 

大嘗祭の始まりは?

「古事記」と「日本書紀」には、皇祖神の天照大御神や古代の天皇が「新嘗の祭」を行ったとする記述があり、これらの歴史書が編纂された奈良時代より前から伝承されてきたとされています。実際は、飛鳥時代の7世紀頃に始まったとするのが、現在では一般的な考えです。

 

「新嘗祭(にいなめさい)」は、毎年11月、天皇が新穀(初めてとれたお米)を、皇祖、天照大神をはじめ神々に供え、自らも食し、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧を祈られる宮中祭祀です。「大嘗祭」は、その「新嘗祭」を即位後初めて、しかも在位中一度だけ大規模に行うものでしたね(⇒)。

 

 

天武天皇の時代に確立

当初は、毎年行われる新嘗祭と大嘗祭との区別はありませんでしたが、大嘗祭が一代一度の即位儀礼となったのは、7世紀後半の第40代天武天皇の時からです。正確には、天武天皇の673年に、大嘗祭が初めて行われ、皇后であった持統天皇のときに、毎年の新嘗祭と分離されました。ではなぜ、天武・持統期に大嘗祭が整備されたのでしょうか?それは、日本という国家意識の高まりと、日本的なものの継承という考え方の広がりがあったからだとされています。

 

まず、日本は、663年、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、朝廷を脅かす隣国、唐と新羅の連合軍に大敗するなど、危機的な状況に陥っていました。そこで、国としての体制強化のため、律令制の確立が急がれ、飛鳥浄御原令などが編さんされました。日本独自の君主号としての「天皇」が用いられたのも天武朝からです(それまでは「天皇」ではなく「大王(おおきみ)」などと呼ばれていた)。

 

大嘗祭が整備される以前にも天皇の即位儀礼自体は存在していました。現代の皇位の証しである三種の神器(鏡・剣・玉)を継承する「剣璽等承継の儀」や「即位の礼」に相当する儀式です。もちろん、記紀(古事記・日本書記)には、「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが天皇(スメラミコト)に渡されたことが記されており、これらは日本に古より存在する儀式ですが、当時は、服装などのスタイルや様式に中国の影響が色濃く反映していました。これは、その頃の日本は、遣隋使や遣唐使を通じて、当時の先進国・中国から先端の制度や文化を導入し、律令国家としての体裁を整えようとしていた時代だったからです。しかし、中国の文化を積極的に取り入れつつも、「日本的なもの」を確保しようとして生まれた制度が、稲作を中心とした日本社会に古くから伝わる収穫儀礼である大嘗祭でした。

 

こうした背景から、大嘗祭は7世紀後半、毎年行われる新嘗祭と区別され、代替わりの儀式として、皇室の伝統になり、歴代天皇に継承されたのでした。その過程で、それまで伝承されてきた儀式が、国家祭祀に高められました。それに伴い、儀式そのものも時代とともに変化を続けてきたようです。平安時代に書かれた宮中の儀式書の「貞観儀式(じょうがんぎしき)」や「延喜式」、「江家次第」などで「大嘗祭」の次第が明文化されたと言われています。

 

その中で注目されるのが、「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女の存在です。造酒児とは、大嘗祭の際、神に供える神酒を造る少女のことを言います。大嘗祭では、祭祀に使う稲穂を一番に抜き、稲と稲から造る神酒を造りのための米を最初につくというような一連の行為が、大嘗祭の当日までの儀式として取り入れられていて、その儀式を司る役を造酒児が務めていたのではないかと推察されているのです。つまり、大嘗祭は、造酒児が主役の前半と、天皇が主役となる後半との二部構成になっていたのではないかということです。

 

弥生時代に日本に広がったとされる稲作ですが、稲の収穫儀礼の主役は女性であったと見られています。遡れば、記紀神話の中で、稲作儀礼を行っているのは、天照大神や、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神です。そういえば、邪馬台国の卑弥呼も、呪術的儀礼を行いながら統治していましたね。古代の日本において、女性の役割が極めて大きかったことが伺えます。

 

 

途中中断された大嘗祭

さて、こうした長い歴史のある「大嘗祭」ですが、行われなかった時期もあります。
応仁の乱(1467~1478)をはじめとする戦乱や朝廷の困窮などを理由に、1466年の第103代後土御門天皇を最後に、大嘗祭は221年間、中断してしまいました。

 

復活したのは江戸時代の1687年、東山天皇の即位の時でした。朝廷再興を強く目指していた当時の第112代霊元天皇は、譲位を申し出て、後を継ぐ東山天皇の即位に際し、大嘗祭の復活を幕府に強く望んだのです。時の第5代将軍、徳川綱吉は朝廷の強い意向を認めた形でした。

 

当時は文治政治の時代で、幕府は、国内統治の手段として武力ではなく、秩序や儀礼を重視しました。上下の身分や階層秩序を利用することで、幕府の権力を維持しようとしたのです。大嘗祭を復活させることも、天皇や朝廷の権威を利用した幕府の保身と言っていいでしょう。

 

東山天皇に続く中御門天皇の即位の際には、大嘗祭は再び行われませんでしたが、徳川吉宗が、その次の桜町天皇即位に伴い、1738年に大嘗祭を再び復興させました。以後、大嘗祭は代替わりの度に実施されるようになりました。大嘗祭を含む天皇・朝廷の儀式も、統治の基盤の一つとしてしっかりやるべきだとして、幕府側から積極的に働きかけられたそうです。もっとも、江戸後期の朝廷は、財政も苦しく、内裏の庭に悠紀殿、主基殿と、神饌を調理する膳屋(かしわや)が一棟だけのときもあったと言われています。

 

 

近代から現代の大嘗祭

明治時代には皇室のあり方や儀式などについて定めた旧皇室典範などが制定され、「大嘗祭」は「即位礼」と並ぶ重要な儀式として位置づけられます。明治時代の終わり頃には平安時代の儀式書などを参考にしながら皇室の儀式などについて定めた「登極令(とうきょくれい)」が制定されました。例えば、「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は、大嘗祭から姿を消しました。富国強兵を推進した明治政府は、武人としての天皇像を求めたことも要因になっていると言われています。

 

近代国家として天皇の権威を示すために、大正天皇の大嘗祭から、より大規模になっていきました。東日本の悠紀(ゆき)地方と西日本の主基(すき)地方の新穀だけでなく、「庭積(にわづみ)の机代物(つくえしろもの)」と呼ばれる農産物や海産物も供えられるようになり、大正以降は全国から特産品が寄せられるようになり、国民との接点も広がりました。

 

戦後になると、旧皇室典範や登極令が廃止されて新憲法が施行され、皇室制度が現在のものに改められました。前回、平成2年の「大嘗祭」は、新憲法で定められた政教分離の原則を踏まえて皇室行事として行われ、この考え方は今回の「大嘗祭」でも踏襲されています。ただし、「大嘗祭」の主な次第は平安時代の頃から基本的に変わっておらず、今回の儀式も長い伝統を踏まえた形で行われました。

 

<参照>

「大嘗祭」 儀式の内容から歴史までを詳しく

(2019年11月14日 NHK news web)

皇居で大嘗祭 未明まで伝統儀式

(時事ドットコム2019/11/15)

いよいよ大嘗祭 夜通し行われる「秘儀」とは?

(2019.11.14 週刊朝日)

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く

(2019/03/01、SAPIO2019年4月号

大嘗祭|皇位継承式典 平成から令和へ 新時代の幕開け

(NHK News Web)

<代替わり考 大嘗祭>(上) 密室で安寧と豊穣祈り

(2019年11月13日、東京新聞)

大嘗宮の儀、厳かに 即位行事「大嘗祭」の中心的儀式

(毎日新聞2019年11月14日)

2019年11月20日

皇室:【概説】大嘗祭の「大嘗宮の儀」

天皇陛下の即位に伴う最も重要な皇室祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心儀式「大嘗宮の儀」について、まとめてみました。

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  • 大嘗祭とは

 

「大嘗祭(だいじょうさい)」は、天皇陛下の即位に伴って行われる皇室行事で、天皇が一代に一度臨まれる伝統的な皇位継承儀式です。例年11月には、「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれる宮中祭祀があり、皇居内の神嘉殿(しんかでん)で、天皇が新穀(初めてとれたお米)を、皇祖、天照大神をはじめ神々に供え、自らも食し、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧を祈られます。即位した天皇が最初に行う際は大嘗祭として大規模に実施され、その中心的儀式が「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」です。

 

実は、「大嘗祭」に関する一連の儀式は、令和元(2019)年5月8日、皇居の「宮中三殿」で、天皇陛下が大嘗祭の中心的な儀式の期日を皇室の祖先や神々に伝えられる儀式から始まっていました。

 

5月13日には、大嘗祭で使う米を収穫する2つの地方を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が、宮中三殿にある国内の神々をまつる神殿で行われました。儀式では、亀の甲羅をあぶってひびの入り具合で物事を定める、「亀卜(きぼく)」と呼ばれる宮中に伝わる占いが行われ、「大嘗祭」で使う米を収穫する東の「悠紀(ゆき)」地方に栃木県が、西の「主基(すき)」地方に京都府が選ばれました。

 

その後、米を収穫する「斎田」が決まりました。「斎田」は「大嘗祭」で使う米を収穫する田んぼのことです。栃木県は「とちぎの星」という品種が作付けされた高根沢町の田んぼに、京都府は「キヌヒカリ」という品種が作付けされた南丹市の田んぼに決定しました。「斎田」に選ばれた田んぼの所有者である「大田主」さんも「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」に参列されます。

 

そして9月27日、栃木、京都それぞれの田んぼで、米を収穫する儀式、「斎田抜穂(さいでんぬきほのぎ)の儀」が行われました。収穫された精米と玄米は宮内庁が買い取り、皇居に納められました。こうした準備をへて、2019(令和元)年11月14日~15日に、大嘗祭の中心的な儀式である「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が挙行されることになりました。

 

  • 大嘗宮の儀とは?

 

「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」は皇居・東御苑に特別に設営された「大嘗宮」という建物で、夕方から翌日の夜明け前まで行われます。今回の儀式は、14日午後6時半から、東日本の新穀を供える「悠紀殿供饌の儀(ゆきでんきょうせんのぎ)」が行われ、15日午前0時半から、西日本の新穀を供える「主基殿供饌の儀(すきでんきょうせんのぎ)」が行われました。なぜ夜中なのかというと、即位を内外に宣言する即位礼は、政治的な儀式ですから、昼間に行われる一方、神祭りの儀式は古来、夜に行われてきたという背景があります。

 

「大嘗宮」は、大小30余りの建物が建てられています。主祭場は、中央の左右に配置されている「悠紀殿(ゆきでん)」と「主基殿(すきでん)」で、それぞれ入り口側の「外陣(げじん)」と奥の「内陣」に分かれています。

 

外陣には皇位の証しとされる三種のうち剣と曲玉、それから璽(じ)が置かれます。内陣は儀式を行う場所で、天皇陛下が皇祖神とされる天照大神と神々に、神の食事である神饌(しんせん)を供える部屋です。

 

「悠紀殿」と「主基殿」の奥には廊下でつながった「廻立殿(かいりゅうでん)」という建物があり、「大嘗宮の儀」に先立ち、天皇皇后両陛下が身を清めたり着替えられたりされます。

 

祭祀の間、他の皇族方や、一般参列者が入られる建物として、次のような建物があります。

帳殿(ちょうでん):皇后さま

小忌幄舎(おみあくしゃ):秋篠宮さま

殿外小忌幄舎(でんがいおみあくしゃ):女性皇族方
幄舎(あくしゃ):一般参列者

 

「大嘗宮」にはこのほか、宮内庁の「楽部(がくぶ)」が雅楽を演奏する建物や全国の都道府県から集められた特産物が並べられる庭積帳殿(にわづみのちょうでん)や、それにかがり火をたく建物などが設けられています。

 

では、「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」がどのように行われるかをみてみましょう。

 

  • 悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀

 

午後6時すぎに、神に供える食事を準備する「膳屋(かしわや)」の方から、宮内庁楽部の楽師が歌う「稲舂歌(いなつきうた)」が流れます。すると、大嘗宮の庭である庭積帳殿(にわづみちょうでん)に、全国各地の特産物、「庭積の机代物(にわづみのつくえしろもの)」が供えられ、神々に向けて披露されます。その数は全国47都道府県から221品目にもなります。

 

徳仁天皇は、大嘗宮の北端にある廻立殿(かいりゅうでん)で、身を清めるられた後、帛御袍(はくのごほう)と呼ばれる束帯姿から、神事服で最も格式の高い白い装束「御祭服(ごさいふく)」に着替えられます。この「御祭服」は、陛下が自ら、「神饌(しんせん)」と呼ばれる新穀などのお供え物をささげる大嘗祭と新嘗祭にのみお召しになられる特別なものです。

 

そうして、「廻立殿」を出られたあと、皇嗣の秋篠宮さまとともに廊下を進まれます。その際、侍従の持つたいまつ「脂燭」の明かりに導かれ、皇位の証しとされる剣と璽や、裾を持つ侍従、「御菅蓋(おかんがい)」と呼ばれるすげがさを持った侍従を前後に従え、陛下は、大嘗宮の東側にある悠紀殿に進み、その外陣に入られ、「悠紀殿供饌(きょうせん)の儀」が始まります。

 

一方、皇后さまは純白の十二単(ひとえ)に身を包み、天皇陛下のあと「廻立殿」を出て女性の皇族方とともに廊下を進まれます。そして「悠紀殿」のそばにそれぞれ設けられた「帳殿(ちょうでん)」に入り、「悠紀殿」に向かって拝礼されます。

 

皇后さまのご退出後、神饌を準備する「膳屋(かしわや)」から神への供え物を運ぶ「神饌行立(しんせんぎょうりゅう)」が始まります。「筥(はこ)」に入った米とアワの飯や酒、鮮魚や干物、果物など、供え物の「神饌(しんせん)」が運び込まれます。なお、このときの米は東の「悠紀」地方に選ばれた栃木県の米が供えられます。

 

続いて陛下は、「オーシー」という掌典の声の後、悠紀殿奥の内陣に入られます。宮内庁などによると、内陣には、中央に畳表と坂枕、覆衾(おふすま)(絹の布)を重ねた「寝座(しんざ)」が設けられています。そこは神が休む場所とされ、神のための布団と枕や服が置かれているわけです。また、寝座の西側には、神が座るための神座と、伊勢神宮のある南西の方角を向くように敷かれた天皇がすわるための御座が設けられています。

 

さて、内陣に入り、儀式(神事)に臨まれるのは陛下と、采女(うねめ)と呼ばれる2人の女官だけです。密室でどのような神事が行われるかは「秘事」とされ、皇太子(皇嗣)や皇后も儀式を目にすることはできません。皇后さまは、前述したように「帳殿(ちょうでん)」、秋篠宮さまは「小忌幄舎(おみあくしゃ)」に、女性の皇族方は、「殿外小忌幄舎(でんがいおみあくしゃ)」に入って拝礼されます。安倍首相ら一般の参列者は「柴垣」の外にある「幄舎(あくしゃ)」という建物に入り、儀式の様子を見守ります。

 

内陣で、どのような儀式が行われるかは非公開であり、宮内庁や、歴史的な文献から、おおよそ次のように推察されています。

 

(1)神饌を供える

陛下は、伊勢神宮の方を向いて内陣の御座に座り、采女(うねめ)2人の介添えで、米、粟(あわ)、魚や海藻、アワビの煮物、果物、白酒(しろき)、黒酒(くろき)など、神座に並べられた神饌(食べ物)を、竹箸(ばし)を使って箱から三個ずつ柏の葉の皿に載せ、天照大神とすべての神々に自ら供えられます。箱から皿へ移す回数は五百回を超えるとも言われています。このため、内陣で過ごされる約2時間半のうち、1時間20分は、この神饌を神々に供える動作に充てられるそうです。

 

(2)拝礼してお告げ文を読む

陛下は、神饌のお供えに続いて、拝礼され、五穀豊穣と国と国民の安寧を祈る御告文(おつげぶみ)を奏上されます。

 

(3)神と共に食する直会

ご自身も、新穀、粟、神酒(白酒しろき、黒酒くろき)を口にする直会(なおらい)が行われます。徳仁天皇が口に運ばれるのは、3口の新穀と粟(あわ)のみと言われています。

 

こうして、悠紀殿での儀式は約3時間で終了し、同じような儀式が主基(すき)殿でも行われます。

 

 

  • 主基(すき)殿供饌の儀

その後、引き続き、悠紀殿と同じ構造の主基殿(すきでん)で、西日本の主基斎田(京都府南丹市)の新米などを供える「主基(すき)殿供饌の儀」が、日付けの変わった午前0時半ごろから始まります。儀式は同じような所作で行われ、午前3時半頃まで続きます。

 

 

  • 謎の多い祭祀の根源

 

大嘗宮の最奥部、すなわち悠紀(ゆき)殿と主基(すき)殿の内陣で何が行われるのかは、前述したように、秘事とされています。ただし、昭和の大嘗祭の2年後の1930(昭和5)年、民俗学者の大家、折口信夫は古事記などの神話から連想し、「新天皇が寝座で覆衾(おうふすま)にくるまれることで『天皇霊』を身につける」とする「真床(まとこ)覆衾」論を唱えました。折口は、「天皇霊が(身体に)這入(はい)つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである」と書き記し、大嘗宮の儀では、悠紀殿・主基殿に置かれた寝具(寝座)で天皇霊と天皇が一体になる「秘儀」が行われるとしているのです。戦時中の国定教科書には、大嘗祭の「大嘗宮の儀」を「天照大神と天皇が一体となる神事」として掲載されていたそうです。

 

しかし、宮内庁や学者らは、寝座は、天照大神のための場所ですから、「天皇でさえ入ることはできない場所だ」と論じ、天皇が神格を得るとする秘儀説を否定しています。平成2年の大嘗祭直前にも、宮内庁は「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出しています。

 

「大嘗宮」は、11月21日から12月8日までの18日間の日程で、一般公開した後、取り壊されます。

 

 

  • 政教分離の原則との整合性めぐり議論

 

大嘗宮の儀は、皇室が祖とする天照大神や神々に新米をはじめとした「神饌(しんせん)」を供えるなど宗教色(神道色)が強いため、憲法上の国事行為である「即位の礼」とは別に、皇室行事として行われました。ただし、政府は、平成時(1990年11月)と同じように、天皇の一世一代の儀式であって「公的性格がある」として宮廷費(国費)を支出しています。今回の関連予算は、大嘗宮の建設費など計24億4300万円と見込まれています。なお、新嘗祭は皇室の私的な宗教行事として、天皇家の私的活動に使う「内廷費」でまかなわれています。

「大嘗祭」は前回、平成2年に戦後の新しい憲法のもとで初めて行われましたが、政教分離の原則との整合性をめぐってさまざまな議論が生じ、裁判でも争われました(結果は政教分離違反とは認められなかった)。

 

 

<参照>

「大嘗祭」厳かに…天皇陛下、大嘗宮で祈り

(2019/11/15、読売)

厳かに大嘗祭、とばり奥で静かに祈り=かがり火、陛下照らす

(2019/11/15、時事通信)

「大嘗祭」 儀式の内容から歴史までを詳しく

(2019年11月14日 NHK news web)

大嘗祭で供える麻織物「麁服(あらたえ)」

(2019.11.12産経West)

大嘗祭の織物作りを後世に 徳島など、地域で技術継承

(2019/11/15、日経)

皇居で大嘗祭 未明まで伝統儀式

(時事ドットコム2019/11/15)

いよいよ大嘗祭 夜通し行われる「秘儀」とは?

(2019.11.14 週刊朝日)

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く

(2019/03/01、SAPIO2019年4月号

大嘗祭|皇位継承式典 平成から令和へ 新時代の幕開け

(NHK News Web)

<代替わり考 大嘗祭>(上) 密室で安寧と豊穣祈り

(2019年11月13日、東京新聞)

天照大御神から伝わる重要祭祀「大嘗祭」はこのように行われる

(2019.11.13 産経)

大嘗宮の儀、厳かに 即位行事「大嘗祭」の中心的儀式

(毎日新聞2019年11月14日)

2019年11月18日

ニュース:大嘗祭の「大饗の儀」

皇居・宮殿で「大饗の儀」

(2019.11.16、産経新聞)

 

天皇陛下が大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」への参列者を招いてもてなされる饗宴(きょうえん)「大饗(だいきょう)の儀」が16日、皇居・宮殿「豊明殿(ほうめいでん)」で行われた。安倍晋三首相や三権の長ら約290人が参加。皇后さまと秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方も臨席された。陛下は正午ごろ、三種の神器のうち剣と璽(勾玉)をささげ持った侍従らと共に会場に入り「大嘗宮の儀を終え、皆さんをお招きし、大饗を催すことを誠にうれしく思います」とあいさつをされた。

 

豊明殿では天皇、皇后両陛下のお席の後ろの壁に、大正・昭和・平成の大饗の儀でも飾られた「錦軟障(にしきのぜじょう)」と呼ばれる長さ約9・3メートルの墨絵を配置。左右の壁には、大嘗宮の儀に米を納めた悠紀(ゆき)地方(栃木県)の那須連山や男体山、主基(すき)地方(京都府)の嵐山や天橋立などの四季の風景と、関連する和歌が描かれた屏風(びょうぶ)が立てられた。饗宴中は両地方の風俗舞も演じられた。参列者の献立は鯛のお造りと尾頭付きなど。朱塗りの「御台盤(おだいばん)」と呼ばれる両陛下の御膳には、参列者の献立に加えて蒸しアワビなどが並んだ。

 

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2回目の「大饗の儀」行われる「大嘗祭」の中心的儀式が終了

(2019年11月18日 NHK News Web)

 

天皇陛下が「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的な儀式、「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」に参列した人たちを招いて催される饗宴「大饗の儀(だいきょうのぎ)」の2回目が18日、皇居 宮殿で行われました。「大饗の儀」は「大嘗祭」の中心的な儀式の1つで、宮殿の「豊明殿」で2回に分けて行われます。

 

2回目の18日は、地方自治体の代表や各界で功績を挙げた人などおよそ280人が参列し、天皇陛下は正午すぎに皇后さまと「豊明殿」に入られました。そして「この機会に、国民の幸せと国の一層の発展を祈ります」などと、おことばを述べられました。続いて、参列した人たちとともに栃木県と京都府の「斎田(さいでん)」で収穫された米で造られた「白酒(しろき)」と「黒酒(くろき)」と呼ばれる濁り酒を口にされました。このあと栃木県と京都府の特産品が披露され、収穫された米やお祝いの料理に箸がつけられたということです。舞台では、宮内庁の楽部によって「風俗舞(ふぞくまい)」と呼ばれる舞楽なども披露されました。

 

18日の「大饗の儀」で「大嘗祭」の中心的な儀式は終わり、天皇陛下は来月4日、皇居の宮中三殿で関係する儀式に臨むなどして、即位に伴うすべての儀式を終えられます。

2019年11月15日

ニュース:大嘗祭の「大嘗宮の儀」

「大嘗祭」厳かに…天皇陛下、大嘗宮で祈り

(2019/11/15、読売新聞)

 

天皇が一代に一度臨む伝統的な皇位継承儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が14日夕から15日未明にかけ、皇居・東御苑で行われた。1300年以上続く最も重要な即位に伴う皇室祭祀で、天皇陛下は神々に新穀を供えて五穀豊穣と国家の安寧を祈られた。陛下は東御苑に建設された大嘗宮で、14日午後6時40分頃から同9時15分頃まで東日本の新穀を供える「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」に臨まれた。儀式は秘事のため非公開で、宮内庁によると、陛下は悠紀斎田(さいでん)(水田)の栃木県で収穫された新米などで作った「神饌(しんせん)」を神に供え、自らも食された。皇后さまも帳(ちょう)殿(でん)で拝礼された。

 

儀式には、秋篠宮ご夫妻と長女眞子さま、次女佳子さまら9人の皇族方のほか、安倍首相ら三権の長、国会議員、知事、各界の代表ら510人が参列した。陛下は15日午前0時半頃からは、西日本の主基(すき)斎田(京都府)の新米などを供える「主基殿供饌の儀」に臨まれた。425人が参列。儀式は午前3時半頃まで行われた。

 

大嘗祭は、稲作の収穫儀礼に根ざす儀式で、673年の天武天皇の時に一代一度の皇位継承儀式となり、室町から江戸時代まで約220年間の中断を挟み、受け継がれてきた。宗教的な色彩が強いため、憲法上の国事行為である「即位の礼」とは別に、皇室行事として行われた。政府は「公的性格がある」として宮廷費(国費)を支出。関連予算は、大嘗宮の建設費など計24億4300万円と見込む。

 

大嘗宮は、約90メートル四方の敷地に、木造建築など大小40近い建物で構成されている。21日~12月8日に一般公開した後、取り壊される。16、18日には、両陛下が大嘗祭の参列者らを招き、酒食を共にされる「大饗(だいきょう)の儀」が皇居・宮殿で行われる。

2019年11月10日

ニュース:天皇陛下の即位を祝うパレード挙行

両陛下を11万9千人が祝福 祝賀御列の儀

(2019.11.10、産経新聞)

 

天皇、皇后両陛下は10日午後、天皇陛下の即位に伴い、皇居・宮殿から赤坂御所をパレードする国事行為「祝賀御列(おんれつ)の儀」に臨まれた。約4・6キロのコース沿道には約11万9千人が集まり両陛下を祝福。両陛下は約30分のパレード中、絶えず手を振って応えられた。

 

両陛下のパレードは、平成5年6月のご結婚以来。午後3時前、陛下はえんび服姿に勲章、皇后さまは白のロングドレスにティアラと勲章を身に着け、皇居・宮殿前で、新調されたトヨタ・センチュリーのオープンカーにご乗車。新たに作曲された奉祝行進曲「令和」が宮内庁楽部により演奏される中、出発された。

 

パレードの車列は秋篠宮ご夫妻のお車のほか、安倍晋三首相、山本信一郎宮内庁長官らの車など約50台、約400メートルに及んだ。警視庁や国会議事堂正門前などを平均時速約10キロで進み、両陛下は左右の沿道で祝福する人々に笑顔で手を振るなどして応えられた。両陛下の車は午後3時半過ぎ、皇宮警察本部音楽隊の演奏に迎えられ、お住まいの赤坂御所に到着された。

 

パレードは「即位の礼」の中心儀式「即位礼正殿(せいでん)の儀」などと合わせて10月22日に行われる予定だったが、台風被害を考慮して延期されていた。5月の陛下のご即位から続いた国事行為「即位の礼」の一連の儀式は「祝賀御列の儀」で終了。両陛下は14、15日、皇室行事として、皇位継承に伴う重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」に臨まれる。

 

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天皇陛下の即位祝う国民祭典開催

(2019年11月9日、NHK News Web、抜粋)

 

天皇陛下の即位を祝う「国民祭典」が、9日、皇居前広場で開かれ、天皇皇后両陛下は、皇居の二重橋近くから、集まった人たちの祝意にこたえられました。「国民祭典」は、天皇陛下の即位を祝うため、超党派の議員連盟や、経済界などが参加する民間団体が開催しました。

 

第1部の「奉祝まつり」では、皇居近くで祝賀パレードが行われ、来年の東京オリンピックで活躍が期待される陸上の桐生祥秀選手や、フィギュアスケートの紀平梨花選手らによるテープカットのあと、秋田の「秋田竿燈まつり」や、沖縄の伝統舞踊エイサーなどの全国各地の郷土芸能が披露されました。

 

その後、第2部の「祝賀式典」が皇居前広場で開かれ、国会議員や各界の著名人、それに一般客の合わせておよそ3万人が参加しました。はじめに若い世代を代表して女優の芦田愛菜さんが、「天皇陛下のご即位にあたり心よりお祝い申し上げます。日本そして世界の平和に対する陛下のみ心(御心)に心を打たれました。古くから日本に伝わる文化を大切にしつつ新しい日本へと躍進していく時代になっていくことをせつに願っております」と述べました。

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このあと、ピアニストの辻井伸行さんらの演奏で、人気アイドルグループ「嵐」が、即位を祝ってつくられた「奉祝曲」を披露しました。「Ray of Water」というこの曲は、水をめぐる問題に関心の高い天皇陛下を意識してつくられたということで、演奏の間には、皇后さまが涙をぬぐわれる場面もありました。

 

そして、天皇陛下が、おことばを述べられました。天皇陛下は、「即位から約半年、多くの方々から寄せられる気持ちをうれしく思いながら過ごしています。またこの間、さまざまな機会に国民の皆さんと直接接し、皆さんの幸せを願う思いを私たち二人で新たにしてきました」と述べられました。

 

そのうえで、台風19号などの大雨災害で被災した人たちなどへの気持ちをあらわし、「ここに改めて国民の幸せを祈ると共にわが国の一層の発展と世界の平和を願います。きょうは寒い中にもかかわらずこのように大勢の皆さんが集まり即位をお祝い頂くことに深く感謝いたします」と締めくくられました。おことばが終わると、会場では万歳三唱が行われ、集まった人たちが手にしたちょうちんを振って祝意をあらわすと、両陛下もにこやかな表情でちょうちんを振ってこたえられていました。

 

2019年11月07日

神社:諏訪大社と住吉大社

10月16日の投稿で、長崎くんちと諏訪神社(鎮西大社諏訪神社)について書きましたが(「長崎くんちと諏訪神社の由来がおもしろい」)、本家の諏訪神社(諏訪大社)と住吉神社(住吉大社)について調べてみました。

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諏訪大社「

 

<概説>

諏訪神社と名のつく神社は、全国に約25,000社もあります。諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)と命名されるほど、諏訪神社は日本全国に広まっています(長崎の諏訪神社もその一つ)。その諏訪信仰の総本山が、長野県の諏訪にある諏訪神社で、現在は諏訪大社と呼ばれています。

 

また、諏訪大明神とも称される諏訪の神様は、水や風といった自然を司る竜神信仰であり、海や農業、狩猟・漁業の守り神として、古くから信仰を集めてきました。それゆえ、歴史のある港町には、水の守り神=海の守り神として、諏訪大明神が祀られています。長崎にわざわざ遠い諏訪から諏訪の神々が勧請されたのもこうした背景があったものと推察されます。

 

<祭神>

諏訪大社の祭神は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)(狭義には「諏訪大明神」とも呼称)と、その妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、全国の諏訪神社もこの2神を主祭神としています。

(明神:神を尊んで呼ぶ称。また神仏習合説によって神を仏教側から呼ぶ称。)

より正確には、諏訪大社は、先にできた上社と後から建てられた下社に分かれ、かつそれぞれ2つの社があり、全体としては4社で構成されています。4社の名称とその祭神は以下の通りです。

 

上社本宮:(主祭神)建御名方神
上社前宮:(主祭神)八坂刀売神

下社秋宮・下社春宮:

(主祭神)八坂売神

(配神)建御名方神、八重事代主神

 

諏訪大社としての公式な見解として、「4社」の祭神は、同じ建御名方神と八坂刀売神、総じて「諏訪大明神=諏訪大神」としています。または、上社の主催神は建御名方神、下社の主祭神が妻の八坂刀売神ともいえます。なお、配神とは、主祭神のほかに、同じ神社の中に他に祀られた神のことをいいます。凍結した諏訪湖の氷が堤状にせり上がる自然現象「御神渡り」は建御名方神が妻である八坂刀売神に会いに行く為に湖を渡った跡であると伝わっています。

 

<起源>

  • その1:記紀(「古事記」「日本書紀」)説

 

大国主命の国作りによって豊になった地上の国を見て、天界の天照大御神は、武神・建御雷神(タケミカヅチの神)を遣わし、地上の国を自分の子に譲るように迫ります。

これに対して、大国主命は答えを渋り、子で建御名方神の兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)(別称. 八重(やえ)事代主神または積羽八重(つみはやえ)事代主神)に委ねます。事代主神は、父の代わりに国譲りを承諾しますが、建御名方命は、容易に承知せず、建御雷神(タケミカヅチの神)と力競べをして決することになりました(この時の力比べが相撲のはじまりとされている)。

 

結果は、タケミカヅチが勝利し、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、信濃国の諏訪湖まで敗走します。追い詰められた建御名方命は、国譲りを認め、自身は諏訪湖から出ないことを約束し、許されました。こうして、建御名方命は諏訪湖のほとりに止まり、諏訪明神となった伝えられています。また、このとき、建御名方神は、諏訪の地から2度と出ないと誓いの印に、4本の柱を立て外に出ないようにしたとされ、これが諏訪大社の始まりとされています。なお、4本の柱が今も諏訪大社に伝わる御柱祭の起源となっています。

 

  • その2:甲賀三郎の物語

 

昔、近江の国に、甲賀に甲賀権守という者に三人の息子がいて、長男を甲賀太郎、次男を甲賀次郎、三男を甲賀三郎といいました。ある日、魔物を退治に出掛けた甲賀三郎は、地面に穴が開いているところを発見し、中に入るとそこには魔物に捕われていた姫君がいました。三郎はこの姫君を助け、妻に娶りました。しかし、姫君があまりにも美しかったので、兄たちは嫉妬し、姫君をさらってしまいました。

 

三郎は妻を探し回った結果、信州蓼科山の人穴で発見し、救出しますが、ここでも、兄弟達の策略にはまり、三郎はその人穴から出られなくなってしまいます。そこで、穴の奥底に進んでいくと、異国の維縵国 (ゆいまこく) という地底国に行きつきました。そこで、三郎は、そこの国王に気に入られて、その国の姫と結婚し、維縵国で13年暮らしました。しかし、時が経過しても、三郎は、前妻を忘れられないと、国に帰ることを希望すると、国王も仕方なく認めてくれました。

 

三郎は、なんとか日本に帰ってくることができましたが、出てきた所は信濃の国、浅間山の大沼でした。しかも、三郎の体は、巨大な蛇(龍の姿)に変わっていました。そのため、道行く人々に恐れられることを嫌がった三郎は塔の下に隠れていました。すると、その塔の前に、老僧に身を変えた神が現れました。この僧(神)に導かれ、池の水を飲み、僧が呪文を唱えるとヒトの姿に戻ることができたのです。

 

その後、前妻と再会することができた三郎は、妻と天竺に赴き、神通力を身につけ、神となって日本に帰ってきました。こうして、信濃の国に現れた二人は、諏訪の神となり、現在、諏訪大社の上社、下社にそれぞれ祀られるようになりました。

 

  • その3 融合・折衷

 

諏訪大社の由来は、この「記紀」と、「甲賀三郎」の物語があるのですが、地元では後者の話しが伝承として親しまれているそうです。ただ、どちらかの説が正しいかと言うよりは、「本来の祭神は出雲系の建御名方神ではなく、諏訪地方の先住民達が信仰する土着の神々であり、これらが建御名方神と習合した」と考えるのでがいいのかもしれません。

 

実際、もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われたという物語もあります。モリヤ神は、蛇または龍の形をした神様とされており、甲賀三郎が巨大な蛇になった話しとつながります。さらに、諏訪明神の神体は竜蛇であると古くから伝えられています。

 

この土着のモリヤ神とケミナカタ神が習合したという見方は、諏訪大社の神事や祭祀が、他の一般的な神社のものとは異なり土着信仰に関わる様式が数多くあることなどからも支持されています。例えば、動物の頭を備える御頭祭といった他では見られない風習、信仰が伝わっています。

 

加えて、古代の信濃国は、大和と先住民との境界に位置しており、両者が融合したという見方もあります。諏訪地方は、縄文遺跡が数多く発見されているだけでなく、最近では、稲作を中心とした弥生文化が一番最後?に伝播した地域であることも分かってきています。そこには、狩猟的=先住民文化(縄文文化)に、タケミナカタの「敗走」によって、農耕的=大和文化(弥生文化)が伝えられたと見る向きもあります。諏訪湖が文化の融合点だったのではないかというわけですね。

 

<パワースポットとしての諏訪大社>

諏訪大社の鎮座する位置が、風水的、地質学的にも特異であることから、諏訪大社は、パワースポットと呼ばれています。

 

  • 諏訪大社は、「フォッサマグナ(本州を東西に分割する大断層)」の西側の境界線である糸魚川・静岡構造線と、「中央構造線(南西日本を縦断する日本最大級の断層である)」の交わる場所に鎮座している。
  • 諏訪大社は、日本三霊山の富士山と立山を結ぶレイライン上に鎮座している。
  • 諏訪大社の真東に、鹿島神宮が鎮座している(鹿島神宮には、建御名方神と同じように軍神・建御雷神が祀られている)、つまり、両社で東西ラインを形成している。

 

<参考>

諏訪大社HP

諏訪の神様ってどんな神様?今日もゼロ発信・matchy

パワースポット諏訪大社のご利益・・・日本の観光地・宿

artwiki

関東農政局HP

 

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住吉大社

 

大阪の「住吉大社」は、下関など全国に約2300社ある住吉神社の総本社で、海洋国家日本の海の安全を守り、穢れを祓ってくださる厄除け、海上守護の神様として信仰されています。

 

<御祭神>

住吉大神(すみよしのおおかみ)

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

住吉大神とは以下の三男神の総称です。

●底筒男命(そこつつの おのみこと)
●中筒男命(なかつつの おのみこと)
●表筒男命(うわつつの おのみこと)

 

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、一般に神功皇后(じんぐうこうごう)と呼ばれます。この神功皇后こそ、211年に住吉大社を創建された方です。

 

<創建の由来>

第14代仲哀天皇の后である神功皇后は、住吉大神の加護を得て、新羅を平定され(三韓遠征・新羅遠征)、無事帰還を果たされました。この凱旋の途中、住吉大神のご神託があり、住吉大神を現在のこの地に鎮斎されました。また、大昔、住吉の地は松の名所で、その樹に三羽の白鷺が止まったのを見た神功皇后は、それを住吉三神の使いだと思われ、この地に祀ることを決めたとの伝承も残されています。のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられました。

 

<由緒>

祓(はらひ)の神

「記紀」神話によりますと、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の(よみのくに=死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。

 

住吉大神(住吉三神)は、伊邪那岐命がその穢(けが)れを清めるために海に入って禊祓いした時、「海の底」「海の中程」「海の表面」からそれぞれ、底筒男命 (そこつつのおのみこと)、中筒男命 (なかつつのおのみこと)、表筒男命 (うわつつのおのみこと)がお生まれになられました。この誕生の経緯から住吉大神は、神道で極めて大事な「禊(みそぎ)・祓(はらい)」を司る神とされています。住吉大社の夏祭りで、日本三大祭りに一つとされる「住吉祭」は、単に「おはらい」と呼ばれ、大阪だけでなく、摂津国・河内国・和泉国ひいては日本中をお祓いするという意義がある重要な神事とされています。

 

航海安全の神

住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があります。仁徳天皇の時代に、住吉津が開港されて以来、航海関係者や漁民の間で、海上安全の守護神として崇敬を集めました。特に、遣隋使や遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事が祈られたとされています。江戸時代に海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がりました。

 

農耕・産業の神

住吉大神が苗代をつくる方法を教えたという伝説により、古くから「農耕の神」として篤い崇敬を受けてきました。境内には約二反の御田があり、毎年6月14日には「御田植神事」が盛大に行われております。

 

弓の神

神功皇后の新羅遠征(三韓遠征)の際、神功皇后は住吉大神の神威を受け、御自らも弓鉾をとって御活躍されたという経緯から、弓の神としての信仰があります。

そのほかにも、住吉大神は、「相撲の神」、「和歌の神」としても崇敬を集めています。

 

<建築様式>

住吉大社には、第一本宮から第四本宮まで4つの棟があり、それぞれ底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后をお祀りしている。4棟はすべて海に向かって西向きに建ち、第一本宮から第三本宮が縦に並び建っている姿は大海原をゆく船団を表しているとされています。

 

また、4つの棟すべての本殿部分は、1810年(文化7年)に造営されたもので国宝指定を受けている。「住吉造(すみよしづくり)」という直線的な日本古来の建築様式で、神社建築史上最も古い様式だとされています。これに対して、重要文化財に指定されている4つの棟の拝殿部分は、曲線的で、大陸(中国)からの影響を受けた様式と考えられています。

 

なお、住吉大社は、奈良時代(749年)より伊勢神宮と同じように20年に一度の式年遷宮の制度が定められており、2011年(平成23年)には49回目の遷宮が「御鎮座1800年記念大祭」と合わせて行われました。

 

<島津家の誕生石>

住吉大社の境内には、島津家発祥の地となった「誕生石」があり、今でも「誕生石」として島津家代々から篤い信仰を受けています。そこは、源頼朝の寵愛をうけた丹後局(たんごのつぼね)が、不思議な狐火に導かれて、北条政子から逃れてきたところで、局はここで産気づき大石を抱きながら男の子を出産したとされています。この時生まれた子が、後の薩摩藩「島津氏」の祖となった「島津忠久」と伝えられています。

 

<参考>

住吉大社HP

住吉大社~みそぎの神様と国宝社殿の秘密~

住吉大社・神社専門メディア「奥宮」

2019年11月06日

歴史:沖縄と首里城

国の史跡でもあり、世界遺産、日本百名城にも選ばれている首里城が、火災で倒壊したというニュースは国内外に衝撃を与えました。沖縄と首里城の歴史を少し振り返ります。

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沖縄最大のグスク(城)である首里城(しゅりじょう)は、別名は御城(ウグシク)とも言う山城で、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城として、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました首里城の最初の築城は不明ですが、沖縄の三山時代には存在していたもようです。三山時代(さんざんじだい)と言うのは、1322年頃から1429年まで、沖縄が、北部の北山(ほくざん)、中部の中山(ちゅうざん)、南部の南山(なんざん)と3つの王朝に分かれていた時代をいいます。

 

このうち、琉球中山では、沖縄で生まれた最初の王統として、英祖王統(1259年頃~1349年)が、初代の英祖王から5代90年間栄えていました。その後、初代・察度(さっと)とその息子の武寧(ぶねい)の二代・56年間続いた察度王統(1350年~1405年)が続きました。

 

尚思紹王と尚巴志王

この時期、南山に、尚思紹王(しょう-ししょうおう)と言う人物が出ます。佐敷按司(佐敷の城主)を務めていた尚思紹王(1354~1421)には、嫡男の尚巴志王(しょう-はしおう)がいました。尚巴志王は、21歳のときに、父から南山の佐敷按司(さしきあんじ)を譲り受けると、1406年には中山王・武寧(ぶねい)を攻撃して察度王統(さっとおうとう)(1350年~1405年)を滅亡させます。

 

中山を手に入れた尚巴志王は、自らは王にならず、父・尚思紹(しょう・ししょう)に中山王に就いてもらいました。またこの時、尚巴志王は、中山の本拠を、英祖王統と察度王統の時代の浦添城から首里城に定めました。ここに、第一尚氏王統(1406年~1469年)が成立するとともに、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、首里城は、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇ることになります。

 

王国時代、首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開き、中国(明)をはじめ日本、朝鮮、ジャワなどとも交易を盛んに行われました。ただし、琉球王国では一般民衆の土地私有が認められていませんでした。そのため、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、農民などは貧しい生活を強いられていたと言われています。

 

琉球統一

さて、尚巴志王(しょう-はしおう)は、1416年には、北山王の居城である今帰仁城(なきじんじょう)も攻撃しました。この時、今帰仁按司の攀安知(はんあんち)は、家臣の裏切りもあって自刃したため、尚巴志王は北山も手に入れました。

 

1421年に、父・尚思紹王が死去すると、翌年、尚巴志王は中山王に即位し、首里城の整備を進めました。そして、1429年には、南山・島尻大里城(しましいおおざとじょう)の他魯毎(たるみい)を滅ぼし三山を統一し、初めて琉球を統一することに成功しました。尚巴志王はこのように大業を成し遂げ、1439年に亡くなると、次男・尚忠(しょう・ちゅう)が跡を継ぎ、第2代琉球国王(第一尚氏王統・第3代国王)となりました。その後、1453年、第一尚氏王統・第5代尚金福王(しょうきんぷくおう)の後、王位をめぐって王世子・志魯(しろ)と王弟・布里(ふり)との間で争いがおきました(志魯・布里の双方とも死去)。この志魯・布里の乱(しろ-ふりのらん)と呼ばれる争乱で、首里城は焼失してしまったのです。

 

さらに、1462年には、第6代国王の尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の重臣であった金丸が王位を継承し(クーデターで第一尚氏王統が滅んだとの見方もある)、第二尚氏王統の初代国王、尚円王(しょうえんおう)となりました。ただし、第二尚氏王統となっても、1453年の火災から復興した首里城は引き続き首都として栄えています。首里城は沖縄を統一してから大改修されたこともあり、戦闘用の軍事向けの城と言うよりは、政治や宗教の役割を重視した設計になっています。

 

1477年に即位した第二尚氏王統・第3代王の尚真(しょうしん)のとき、琉球に中央集権制を確立すると同時に、1519年には園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)が造られました。園比屋武御嶽は琉球王国の聖地のひとつで、国王が旅に出る際必ず拝礼したとされる礼拝所でした。

 

二重朝貢外交

琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、琉球と日本との衝突が起きていました。徳川幕府の成立後、島津氏は、琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとして画策して、1609年、琉球と薩摩藩との間で慶長の役が起きました。この時、薩摩藩の軍勢3000に対して、琉球軍は4000の首里親軍(しおりおやいくさ)などが首里城に籠城しましたが敗れ、琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王、尚寧王(しょうねいおう)は降伏して首里城を開城しました。

 

この結果、奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球王国は事実上、薩摩藩の従属国となりました。ただし、琉球は、薩摩藩へ年貢を納める義務を負いつつも、明国同様、清国にも朝貢(臣下の礼をとること)を続け体制を続けるなど一定の独自性を保っています(これを二重朝貢外交などと呼ばれる)。この慶長の役の際、薩摩軍の侵攻を許して城(グスク)は焼失してしまいました。その後、首里城は江戸時代において、1715年に3度目の火災で焼失しましたが再建され、太平洋戦争までその威容を保ちました。幕末の1853年には、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で那覇港を訪れ、首里城にて開港を求めるなど、日本の近代史の舞台にもなりました。

 

琉球処分

明治政府は、1871年に廃藩置県を行った翌1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年に琉球藩は沖縄県となりました。明治政府により琉球が強制併合された一連の過程は琉球処分と呼ばれ、約500年にわたって君臨した琉球王国はここに完全に滅亡しました。同年、最後の国王となった第二尚氏王統第19代の尚奉王(しょう・たいおう)は、首里城を明け渡し、明治政府の命令に従い、東京移住し、身分も、国王から華族へと格下げられました。

 

太平洋戦争

太平洋戦争中の沖縄戦では、日本陸軍が、首里城の地下に地下壕を掘って、第32軍総司令部としていたことから、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどから艦砲射撃を受け、首里城は灰燼に帰してしまいました。この時、首里城の地下では5000人もの重症兵が自決したとも言います。この沖縄の激戦で、琉球王国の宝物・文書も、その多くが失われました。わずかに残された宝物もアメリカ軍によって摂取され、一部は未だに返還されていません。

 

戦後復旧と今

戦後、首里城は、琉球大学のキャンパスとなりましたが、琉球大学の移転に伴い、1958(昭和33)年から復旧事業が開始されました。1972年5月の本土復帰の際、国指定史跡とされ、1992年、沖縄復帰20周年を記念し、約73億円かけて復元されました。こうして復活した首里城は、琉球王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂として、沖縄のシンボルとなったのでした。2000年12月には、首里城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産に登録されました。そんな首里城が、令和の時代に入った2019年10月31日、首里城祭りの開催期間中に全焼してしまったのです。

 

<参考>

首里城とは 尚思紹王と尚巴志王

「沖縄の世界遺産」守礼門や正殿 グスクとは?

「首里城は琉球王国の国王の居城だった(ニュース グッディ)」

沖縄県教育委員会HP

那覇市観光協会HP

沖縄観光HP

沖縄県観光チャネル

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