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2019年11月20日

皇室:【概説】大嘗祭の「大嘗宮の儀」

天皇陛下の即位に伴う最も重要な皇室祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心儀式「大嘗宮の儀」について、まとめてみました。

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  • 大嘗祭とは

 

「大嘗祭(だいじょうさい)」は、天皇陛下の即位に伴って行われる皇室行事で、天皇が一代に一度臨まれる伝統的な皇位継承儀式です。例年11月には、「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれる宮中祭祀があり、皇居内の神嘉殿(しんかでん)で、天皇が新穀(初めてとれたお米)を、皇祖、天照大神をはじめ神々に供え、自らも食し、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧を祈られます。即位した天皇が最初に行う際は大嘗祭として大規模に実施され、その中心的儀式が「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」です。

 

実は、「大嘗祭」に関する一連の儀式は、令和元(2019)年5月8日、皇居の「宮中三殿」で、天皇陛下が大嘗祭の中心的な儀式の期日を皇室の祖先や神々に伝えられる儀式から始まっていました。

 

5月13日には、大嘗祭で使う米を収穫する2つの地方を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が、宮中三殿にある国内の神々をまつる神殿で行われました。儀式では、亀の甲羅をあぶってひびの入り具合で物事を定める、「亀卜(きぼく)」と呼ばれる宮中に伝わる占いが行われ、「大嘗祭」で使う米を収穫する東の「悠紀(ゆき)」地方に栃木県が、西の「主基(すき)」地方に京都府が選ばれました。

 

その後、米を収穫する「斎田」が決まりました。「斎田」は「大嘗祭」で使う米を収穫する田んぼのことです。栃木県は「とちぎの星」という品種が作付けされた高根沢町の田んぼに、京都府は「キヌヒカリ」という品種が作付けされた南丹市の田んぼに決定しました。「斎田」に選ばれた田んぼの所有者である「大田主」さんも「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」に参列されます。

 

そして9月27日、栃木、京都それぞれの田んぼで、米を収穫する儀式、「斎田抜穂(さいでんぬきほのぎ)の儀」が行われました。収穫された精米と玄米は宮内庁が買い取り、皇居に納められました。こうした準備をへて、2019(令和元)年11月14日~15日に、大嘗祭の中心的な儀式である「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が挙行されることになりました。

 

  • 大嘗宮の儀とは?

 

「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」は皇居・東御苑に特別に設営された「大嘗宮」という建物で、夕方から翌日の夜明け前まで行われます。今回の儀式は、14日午後6時半から、東日本の新穀を供える「悠紀殿供饌の儀(ゆきでんきょうせんのぎ)」が行われ、15日午前0時半から、西日本の新穀を供える「主基殿供饌の儀(すきでんきょうせんのぎ)」が行われました。なぜ夜中なのかというと、即位を内外に宣言する即位礼は、政治的な儀式ですから、昼間に行われる一方、神祭りの儀式は古来、夜に行われてきたという背景があります。

 

「大嘗宮」は、大小30余りの建物が建てられています。主祭場は、中央の左右に配置されている「悠紀殿(ゆきでん)」と「主基殿(すきでん)」で、それぞれ入り口側の「外陣(げじん)」と奥の「内陣」に分かれています。

 

外陣には皇位の証しとされる三種のうち剣と曲玉、それから璽(じ)が置かれます。内陣は儀式を行う場所で、天皇陛下が皇祖神とされる天照大神と神々に、神の食事である神饌(しんせん)を供える部屋です。

 

「悠紀殿」と「主基殿」の奥には廊下でつながった「廻立殿(かいりゅうでん)」という建物があり、「大嘗宮の儀」に先立ち、天皇皇后両陛下が身を清めたり着替えられたりされます。

 

祭祀の間、他の皇族方や、一般参列者が入られる建物として、次のような建物があります。

帳殿(ちょうでん):皇后さま

小忌幄舎(おみあくしゃ):秋篠宮さま

殿外小忌幄舎(でんがいおみあくしゃ):女性皇族方
幄舎(あくしゃ):一般参列者

 

「大嘗宮」にはこのほか、宮内庁の「楽部(がくぶ)」が雅楽を演奏する建物や全国の都道府県から集められた特産物が並べられる庭積帳殿(にわづみのちょうでん)や、それにかがり火をたく建物などが設けられています。

 

では、「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」がどのように行われるかをみてみましょう。

 

  • 悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀

 

午後6時すぎに、神に供える食事を準備する「膳屋(かしわや)」の方から、宮内庁楽部の楽師が歌う「稲舂歌(いなつきうた)」が流れます。すると、大嘗宮の庭である庭積帳殿(にわづみちょうでん)に、全国各地の特産物、「庭積の机代物(にわづみのつくえしろもの)」が供えられ、神々に向けて披露されます。その数は全国47都道府県から221品目にもなります。

 

徳仁天皇は、大嘗宮の北端にある廻立殿(かいりゅうでん)で、身を清めるられた後、帛御袍(はくのごほう)と呼ばれる束帯姿から、神事服で最も格式の高い白い装束「御祭服(ごさいふく)」に着替えられます。この「御祭服」は、陛下が自ら、「神饌(しんせん)」と呼ばれる新穀などのお供え物をささげる大嘗祭と新嘗祭にのみお召しになられる特別なものです。

 

そうして、「廻立殿」を出られたあと、皇嗣の秋篠宮さまとともに廊下を進まれます。その際、侍従の持つたいまつ「脂燭」の明かりに導かれ、皇位の証しとされる剣と璽や、裾を持つ侍従、「御菅蓋(おかんがい)」と呼ばれるすげがさを持った侍従を前後に従え、陛下は、大嘗宮の東側にある悠紀殿に進み、その外陣に入られ、「悠紀殿供饌(きょうせん)の儀」が始まります。

 

一方、皇后さまは純白の十二単(ひとえ)に身を包み、天皇陛下のあと「廻立殿」を出て女性の皇族方とともに廊下を進まれます。そして「悠紀殿」のそばにそれぞれ設けられた「帳殿(ちょうでん)」に入り、「悠紀殿」に向かって拝礼されます。

 

皇后さまのご退出後、神饌を準備する「膳屋(かしわや)」から神への供え物を運ぶ「神饌行立(しんせんぎょうりゅう)」が始まります。「筥(はこ)」に入った米とアワの飯や酒、鮮魚や干物、果物など、供え物の「神饌(しんせん)」が運び込まれます。なお、このときの米は東の「悠紀」地方に選ばれた栃木県の米が供えられます。

 

続いて陛下は、「オーシー」という掌典の声の後、悠紀殿奥の内陣に入られます。宮内庁などによると、内陣には、中央に畳表と坂枕、覆衾(おふすま)(絹の布)を重ねた「寝座(しんざ)」が設けられています。そこは神が休む場所とされ、神のための布団と枕や服が置かれているわけです。また、寝座の西側には、神が座るための神座と、伊勢神宮のある南西の方角を向くように敷かれた天皇がすわるための御座が設けられています。

 

さて、内陣に入り、儀式(神事)に臨まれるのは陛下と、采女(うねめ)と呼ばれる2人の女官だけです。密室でどのような神事が行われるかは「秘事」とされ、皇太子(皇嗣)や皇后も儀式を目にすることはできません。皇后さまは、前述したように「帳殿(ちょうでん)」、秋篠宮さまは「小忌幄舎(おみあくしゃ)」に、女性の皇族方は、「殿外小忌幄舎(でんがいおみあくしゃ)」に入って拝礼されます。安倍首相ら一般の参列者は「柴垣」の外にある「幄舎(あくしゃ)」という建物に入り、儀式の様子を見守ります。

 

内陣で、どのような儀式が行われるかは非公開であり、宮内庁や、歴史的な文献から、おおよそ次のように推察されています。

 

(1)神饌を供える

陛下は、伊勢神宮の方を向いて内陣の御座に座り、采女(うねめ)2人の介添えで、米、粟(あわ)、魚や海藻、アワビの煮物、果物、白酒(しろき)、黒酒(くろき)など、神座に並べられた神饌(食べ物)を、竹箸(ばし)を使って箱から三個ずつ柏の葉の皿に載せ、天照大神とすべての神々に自ら供えられます。箱から皿へ移す回数は五百回を超えるとも言われています。このため、内陣で過ごされる約2時間半のうち、1時間20分は、この神饌を神々に供える動作に充てられるそうです。

 

(2)拝礼してお告げ文を読む

陛下は、神饌のお供えに続いて、拝礼され、五穀豊穣と国と国民の安寧を祈る御告文(おつげぶみ)を奏上されます。

 

(3)神と共に食する直会

ご自身も、新穀、粟、神酒(白酒しろき、黒酒くろき)を口にする直会(なおらい)が行われます。徳仁天皇が口に運ばれるのは、3口の新穀と粟(あわ)のみと言われています。

 

こうして、悠紀殿での儀式は約3時間で終了し、同じような儀式が主基(すき)殿でも行われます。

 

 

  • 主基(すき)殿供饌の儀

その後、引き続き、悠紀殿と同じ構造の主基殿(すきでん)で、西日本の主基斎田(京都府南丹市)の新米などを供える「主基(すき)殿供饌の儀」が、日付けの変わった午前0時半ごろから始まります。儀式は同じような所作で行われ、午前3時半頃まで続きます。

 

 

  • 謎の多い祭祀の根源

 

大嘗宮の最奥部、すなわち悠紀(ゆき)殿と主基(すき)殿の内陣で何が行われるのかは、前述したように、秘事とされています。ただし、昭和の大嘗祭の2年後の1930(昭和5)年、民俗学者の大家、折口信夫は古事記などの神話から連想し、「新天皇が寝座で覆衾(おうふすま)にくるまれることで『天皇霊』を身につける」とする「真床(まとこ)覆衾」論を唱えました。折口は、「天皇霊が(身体に)這入(はい)つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである」と書き記し、大嘗宮の儀では、悠紀殿・主基殿に置かれた寝具(寝座)で天皇霊と天皇が一体になる「秘儀」が行われるとしているのです。戦時中の国定教科書には、大嘗祭の「大嘗宮の儀」を「天照大神と天皇が一体となる神事」として掲載されていたそうです。

 

しかし、宮内庁や学者らは、寝座は、天照大神のための場所ですから、「天皇でさえ入ることはできない場所だ」と論じ、天皇が神格を得るとする秘儀説を否定しています。平成2年の大嘗祭直前にも、宮内庁は「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出しています。

 

「大嘗宮」は、11月21日から12月8日までの18日間の日程で、一般公開した後、取り壊されます。

 

 

  • 政教分離の原則との整合性めぐり議論

 

大嘗宮の儀は、皇室が祖とする天照大神や神々に新米をはじめとした「神饌(しんせん)」を供えるなど宗教色(神道色)が強いため、憲法上の国事行為である「即位の礼」とは別に、皇室行事として行われました。ただし、政府は、平成時(1990年11月)と同じように、天皇の一世一代の儀式であって「公的性格がある」として宮廷費(国費)を支出しています。今回の関連予算は、大嘗宮の建設費など計24億4300万円と見込まれています。なお、新嘗祭は皇室の私的な宗教行事として、天皇家の私的活動に使う「内廷費」でまかなわれています。

「大嘗祭」は前回、平成2年に戦後の新しい憲法のもとで初めて行われましたが、政教分離の原則との整合性をめぐってさまざまな議論が生じ、裁判でも争われました(結果は政教分離違反とは認められなかった)。

 

 

<参照>

「大嘗祭」厳かに…天皇陛下、大嘗宮で祈り

(2019/11/15、読売)

厳かに大嘗祭、とばり奥で静かに祈り=かがり火、陛下照らす

(2019/11/15、時事通信)

「大嘗祭」 儀式の内容から歴史までを詳しく

(2019年11月14日 NHK news web)

大嘗祭で供える麻織物「麁服(あらたえ)」

(2019.11.12産経West)

大嘗祭の織物作りを後世に 徳島など、地域で技術継承

(2019/11/15、日経)

皇居で大嘗祭 未明まで伝統儀式

(時事ドットコム2019/11/15)

いよいよ大嘗祭 夜通し行われる「秘儀」とは?

(2019.11.14 週刊朝日)

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く

(2019/03/01、SAPIO2019年4月号

大嘗祭|皇位継承式典 平成から令和へ 新時代の幕開け

(NHK News Web)

<代替わり考 大嘗祭>(上) 密室で安寧と豊穣祈り

(2019年11月13日、東京新聞)

天照大御神から伝わる重要祭祀「大嘗祭」はこのように行われる

(2019.11.13 産経)

大嘗宮の儀、厳かに 即位行事「大嘗祭」の中心的儀式

(毎日新聞2019年11月14日)

2019年11月18日

ニュース:大嘗祭の「大饗の儀」

皇居・宮殿で「大饗の儀」

(2019.11.16、産経新聞)

 

天皇陛下が大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」への参列者を招いてもてなされる饗宴(きょうえん)「大饗(だいきょう)の儀」が16日、皇居・宮殿「豊明殿(ほうめいでん)」で行われた。安倍晋三首相や三権の長ら約290人が参加。皇后さまと秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方も臨席された。陛下は正午ごろ、三種の神器のうち剣と璽(勾玉)をささげ持った侍従らと共に会場に入り「大嘗宮の儀を終え、皆さんをお招きし、大饗を催すことを誠にうれしく思います」とあいさつをされた。

 

豊明殿では天皇、皇后両陛下のお席の後ろの壁に、大正・昭和・平成の大饗の儀でも飾られた「錦軟障(にしきのぜじょう)」と呼ばれる長さ約9・3メートルの墨絵を配置。左右の壁には、大嘗宮の儀に米を納めた悠紀(ゆき)地方(栃木県)の那須連山や男体山、主基(すき)地方(京都府)の嵐山や天橋立などの四季の風景と、関連する和歌が描かれた屏風(びょうぶ)が立てられた。饗宴中は両地方の風俗舞も演じられた。参列者の献立は鯛のお造りと尾頭付きなど。朱塗りの「御台盤(おだいばん)」と呼ばれる両陛下の御膳には、参列者の献立に加えて蒸しアワビなどが並んだ。

 

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2回目の「大饗の儀」行われる「大嘗祭」の中心的儀式が終了

(2019年11月18日 NHK News Web)

 

天皇陛下が「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的な儀式、「大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)」に参列した人たちを招いて催される饗宴「大饗の儀(だいきょうのぎ)」の2回目が18日、皇居 宮殿で行われました。「大饗の儀」は「大嘗祭」の中心的な儀式の1つで、宮殿の「豊明殿」で2回に分けて行われます。

 

2回目の18日は、地方自治体の代表や各界で功績を挙げた人などおよそ280人が参列し、天皇陛下は正午すぎに皇后さまと「豊明殿」に入られました。そして「この機会に、国民の幸せと国の一層の発展を祈ります」などと、おことばを述べられました。続いて、参列した人たちとともに栃木県と京都府の「斎田(さいでん)」で収穫された米で造られた「白酒(しろき)」と「黒酒(くろき)」と呼ばれる濁り酒を口にされました。このあと栃木県と京都府の特産品が披露され、収穫された米やお祝いの料理に箸がつけられたということです。舞台では、宮内庁の楽部によって「風俗舞(ふぞくまい)」と呼ばれる舞楽なども披露されました。

 

18日の「大饗の儀」で「大嘗祭」の中心的な儀式は終わり、天皇陛下は来月4日、皇居の宮中三殿で関係する儀式に臨むなどして、即位に伴うすべての儀式を終えられます。

2019年11月15日

ニュース:大嘗祭の「大嘗宮の儀」

「大嘗祭」厳かに…天皇陛下、大嘗宮で祈り

(2019/11/15、読売新聞)

 

天皇が一代に一度臨む伝統的な皇位継承儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が14日夕から15日未明にかけ、皇居・東御苑で行われた。1300年以上続く最も重要な即位に伴う皇室祭祀で、天皇陛下は神々に新穀を供えて五穀豊穣と国家の安寧を祈られた。陛下は東御苑に建設された大嘗宮で、14日午後6時40分頃から同9時15分頃まで東日本の新穀を供える「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」に臨まれた。儀式は秘事のため非公開で、宮内庁によると、陛下は悠紀斎田(さいでん)(水田)の栃木県で収穫された新米などで作った「神饌(しんせん)」を神に供え、自らも食された。皇后さまも帳(ちょう)殿(でん)で拝礼された。

 

儀式には、秋篠宮ご夫妻と長女眞子さま、次女佳子さまら9人の皇族方のほか、安倍首相ら三権の長、国会議員、知事、各界の代表ら510人が参列した。陛下は15日午前0時半頃からは、西日本の主基(すき)斎田(京都府)の新米などを供える「主基殿供饌の儀」に臨まれた。425人が参列。儀式は午前3時半頃まで行われた。

 

大嘗祭は、稲作の収穫儀礼に根ざす儀式で、673年の天武天皇の時に一代一度の皇位継承儀式となり、室町から江戸時代まで約220年間の中断を挟み、受け継がれてきた。宗教的な色彩が強いため、憲法上の国事行為である「即位の礼」とは別に、皇室行事として行われた。政府は「公的性格がある」として宮廷費(国費)を支出。関連予算は、大嘗宮の建設費など計24億4300万円と見込む。

 

大嘗宮は、約90メートル四方の敷地に、木造建築など大小40近い建物で構成されている。21日~12月8日に一般公開した後、取り壊される。16、18日には、両陛下が大嘗祭の参列者らを招き、酒食を共にされる「大饗(だいきょう)の儀」が皇居・宮殿で行われる。

2019年11月10日

ニュース:天皇陛下の即位を祝うパレード挙行

両陛下を11万9千人が祝福 祝賀御列の儀

(2019.11.10、産経新聞)

 

天皇、皇后両陛下は10日午後、天皇陛下の即位に伴い、皇居・宮殿から赤坂御所をパレードする国事行為「祝賀御列(おんれつ)の儀」に臨まれた。約4・6キロのコース沿道には約11万9千人が集まり両陛下を祝福。両陛下は約30分のパレード中、絶えず手を振って応えられた。

 

両陛下のパレードは、平成5年6月のご結婚以来。午後3時前、陛下はえんび服姿に勲章、皇后さまは白のロングドレスにティアラと勲章を身に着け、皇居・宮殿前で、新調されたトヨタ・センチュリーのオープンカーにご乗車。新たに作曲された奉祝行進曲「令和」が宮内庁楽部により演奏される中、出発された。

 

パレードの車列は秋篠宮ご夫妻のお車のほか、安倍晋三首相、山本信一郎宮内庁長官らの車など約50台、約400メートルに及んだ。警視庁や国会議事堂正門前などを平均時速約10キロで進み、両陛下は左右の沿道で祝福する人々に笑顔で手を振るなどして応えられた。両陛下の車は午後3時半過ぎ、皇宮警察本部音楽隊の演奏に迎えられ、お住まいの赤坂御所に到着された。

 

パレードは「即位の礼」の中心儀式「即位礼正殿(せいでん)の儀」などと合わせて10月22日に行われる予定だったが、台風被害を考慮して延期されていた。5月の陛下のご即位から続いた国事行為「即位の礼」の一連の儀式は「祝賀御列の儀」で終了。両陛下は14、15日、皇室行事として、皇位継承に伴う重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」に臨まれる。

 

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天皇陛下の即位祝う国民祭典開催

(2019年11月9日、NHK News Web、抜粋)

 

天皇陛下の即位を祝う「国民祭典」が、9日、皇居前広場で開かれ、天皇皇后両陛下は、皇居の二重橋近くから、集まった人たちの祝意にこたえられました。「国民祭典」は、天皇陛下の即位を祝うため、超党派の議員連盟や、経済界などが参加する民間団体が開催しました。

 

第1部の「奉祝まつり」では、皇居近くで祝賀パレードが行われ、来年の東京オリンピックで活躍が期待される陸上の桐生祥秀選手や、フィギュアスケートの紀平梨花選手らによるテープカットのあと、秋田の「秋田竿燈まつり」や、沖縄の伝統舞踊エイサーなどの全国各地の郷土芸能が披露されました。

 

その後、第2部の「祝賀式典」が皇居前広場で開かれ、国会議員や各界の著名人、それに一般客の合わせておよそ3万人が参加しました。はじめに若い世代を代表して女優の芦田愛菜さんが、「天皇陛下のご即位にあたり心よりお祝い申し上げます。日本そして世界の平和に対する陛下のみ心(御心)に心を打たれました。古くから日本に伝わる文化を大切にしつつ新しい日本へと躍進していく時代になっていくことをせつに願っております」と述べました。

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このあと、ピアニストの辻井伸行さんらの演奏で、人気アイドルグループ「嵐」が、即位を祝ってつくられた「奉祝曲」を披露しました。「Ray of Water」というこの曲は、水をめぐる問題に関心の高い天皇陛下を意識してつくられたということで、演奏の間には、皇后さまが涙をぬぐわれる場面もありました。

 

そして、天皇陛下が、おことばを述べられました。天皇陛下は、「即位から約半年、多くの方々から寄せられる気持ちをうれしく思いながら過ごしています。またこの間、さまざまな機会に国民の皆さんと直接接し、皆さんの幸せを願う思いを私たち二人で新たにしてきました」と述べられました。

 

そのうえで、台風19号などの大雨災害で被災した人たちなどへの気持ちをあらわし、「ここに改めて国民の幸せを祈ると共にわが国の一層の発展と世界の平和を願います。きょうは寒い中にもかかわらずこのように大勢の皆さんが集まり即位をお祝い頂くことに深く感謝いたします」と締めくくられました。おことばが終わると、会場では万歳三唱が行われ、集まった人たちが手にしたちょうちんを振って祝意をあらわすと、両陛下もにこやかな表情でちょうちんを振ってこたえられていました。

 

2019年11月07日

神社:諏訪大社と住吉大社

10月16日の投稿で、長崎くんちと諏訪神社(鎮西大社諏訪神社)について書きましたが(「長崎くんちと諏訪神社の由来がおもしろい」)、本家の諏訪神社(諏訪大社)と住吉神社(住吉大社)について調べてみました。

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諏訪大社「

 

<概説>

諏訪神社と名のつく神社は、全国に約25,000社もあります。諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)と命名されるほど、諏訪神社は日本全国に広まっています(長崎の諏訪神社もその一つ)。その諏訪信仰の総本山が、長野県の諏訪にある諏訪神社で、現在は諏訪大社と呼ばれています。

 

また、諏訪大明神とも称される諏訪の神様は、水や風といった自然を司る竜神信仰であり、海や農業、狩猟・漁業の守り神として、古くから信仰を集めてきました。それゆえ、歴史のある港町には、水の守り神=海の守り神として、諏訪大明神が祀られています。長崎にわざわざ遠い諏訪から諏訪の神々が勧請されたのもこうした背景があったものと推察されます。

 

<祭神>

諏訪大社の祭神は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)(狭義には「諏訪大明神」とも呼称)と、その妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、全国の諏訪神社もこの2神を主祭神としています。

(明神:神を尊んで呼ぶ称。また神仏習合説によって神を仏教側から呼ぶ称。)

より正確には、諏訪大社は、先にできた上社と後から建てられた下社に分かれ、かつそれぞれ2つの社があり、全体としては4社で構成されています。4社の名称とその祭神は以下の通りです。

 

上社本宮:(主祭神)建御名方神
上社前宮:(主祭神)八坂刀売神

下社秋宮・下社春宮:

(主祭神)八坂売神

(配神)建御名方神、八重事代主神

 

諏訪大社としての公式な見解として、「4社」の祭神は、同じ建御名方神と八坂刀売神、総じて「諏訪大明神=諏訪大神」としています。または、上社の主催神は建御名方神、下社の主祭神が妻の八坂刀売神ともいえます。なお、配神とは、主祭神のほかに、同じ神社の中に他に祀られた神のことをいいます。凍結した諏訪湖の氷が堤状にせり上がる自然現象「御神渡り」は建御名方神が妻である八坂刀売神に会いに行く為に湖を渡った跡であると伝わっています。

 

<起源>

  • その1:記紀(「古事記」「日本書紀」)説

 

大国主命の国作りによって豊になった地上の国を見て、天界の天照大御神は、武神・建御雷神(タケミカヅチの神)を遣わし、地上の国を自分の子に譲るように迫ります。

これに対して、大国主命は答えを渋り、子で建御名方神の兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)(別称. 八重(やえ)事代主神または積羽八重(つみはやえ)事代主神)に委ねます。事代主神は、父の代わりに国譲りを承諾しますが、建御名方命は、容易に承知せず、建御雷神(タケミカヅチの神)と力競べをして決することになりました(この時の力比べが相撲のはじまりとされている)。

 

結果は、タケミカヅチが勝利し、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、信濃国の諏訪湖まで敗走します。追い詰められた建御名方命は、国譲りを認め、自身は諏訪湖から出ないことを約束し、許されました。こうして、建御名方命は諏訪湖のほとりに止まり、諏訪明神となった伝えられています。また、このとき、建御名方神は、諏訪の地から2度と出ないと誓いの印に、4本の柱を立て外に出ないようにしたとされ、これが諏訪大社の始まりとされています。なお、4本の柱が今も諏訪大社に伝わる御柱祭の起源となっています。

 

  • その2:甲賀三郎の物語

 

昔、近江の国に、甲賀に甲賀権守という者に三人の息子がいて、長男を甲賀太郎、次男を甲賀次郎、三男を甲賀三郎といいました。ある日、魔物を退治に出掛けた甲賀三郎は、地面に穴が開いているところを発見し、中に入るとそこには魔物に捕われていた姫君がいました。三郎はこの姫君を助け、妻に娶りました。しかし、姫君があまりにも美しかったので、兄たちは嫉妬し、姫君をさらってしまいました。

 

三郎は妻を探し回った結果、信州蓼科山の人穴で発見し、救出しますが、ここでも、兄弟達の策略にはまり、三郎はその人穴から出られなくなってしまいます。そこで、穴の奥底に進んでいくと、異国の維縵国 (ゆいまこく) という地底国に行きつきました。そこで、三郎は、そこの国王に気に入られて、その国の姫と結婚し、維縵国で13年暮らしました。しかし、時が経過しても、三郎は、前妻を忘れられないと、国に帰ることを希望すると、国王も仕方なく認めてくれました。

 

三郎は、なんとか日本に帰ってくることができましたが、出てきた所は信濃の国、浅間山の大沼でした。しかも、三郎の体は、巨大な蛇(龍の姿)に変わっていました。そのため、道行く人々に恐れられることを嫌がった三郎は塔の下に隠れていました。すると、その塔の前に、老僧に身を変えた神が現れました。この僧(神)に導かれ、池の水を飲み、僧が呪文を唱えるとヒトの姿に戻ることができたのです。

 

その後、前妻と再会することができた三郎は、妻と天竺に赴き、神通力を身につけ、神となって日本に帰ってきました。こうして、信濃の国に現れた二人は、諏訪の神となり、現在、諏訪大社の上社、下社にそれぞれ祀られるようになりました。

 

  • その3 融合・折衷

 

諏訪大社の由来は、この「記紀」と、「甲賀三郎」の物語があるのですが、地元では後者の話しが伝承として親しまれているそうです。ただ、どちらかの説が正しいかと言うよりは、「本来の祭神は出雲系の建御名方神ではなく、諏訪地方の先住民達が信仰する土着の神々であり、これらが建御名方神と習合した」と考えるのでがいいのかもしれません。

 

実際、もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われたという物語もあります。モリヤ神は、蛇または龍の形をした神様とされており、甲賀三郎が巨大な蛇になった話しとつながります。さらに、諏訪明神の神体は竜蛇であると古くから伝えられています。

 

この土着のモリヤ神とケミナカタ神が習合したという見方は、諏訪大社の神事や祭祀が、他の一般的な神社のものとは異なり土着信仰に関わる様式が数多くあることなどからも支持されています。例えば、動物の頭を備える御頭祭といった他では見られない風習、信仰が伝わっています。

 

加えて、古代の信濃国は、大和と先住民との境界に位置しており、両者が融合したという見方もあります。諏訪地方は、縄文遺跡が数多く発見されているだけでなく、最近では、稲作を中心とした弥生文化が一番最後?に伝播した地域であることも分かってきています。そこには、狩猟的=先住民文化(縄文文化)に、タケミナカタの「敗走」によって、農耕的=大和文化(弥生文化)が伝えられたと見る向きもあります。諏訪湖が文化の融合点だったのではないかというわけですね。

 

<パワースポットとしての諏訪大社>

諏訪大社の鎮座する位置が、風水的、地質学的にも特異であることから、諏訪大社は、パワースポットと呼ばれています。

 

  • 諏訪大社は、「フォッサマグナ(本州を東西に分割する大断層)」の西側の境界線である糸魚川・静岡構造線と、「中央構造線(南西日本を縦断する日本最大級の断層である)」の交わる場所に鎮座している。
  • 諏訪大社は、日本三霊山の富士山と立山を結ぶレイライン上に鎮座している。
  • 諏訪大社の真東に、鹿島神宮が鎮座している(鹿島神宮には、建御名方神と同じように軍神・建御雷神が祀られている)、つまり、両社で東西ラインを形成している。

 

<参考>

諏訪大社HP

諏訪の神様ってどんな神様?今日もゼロ発信・matchy

パワースポット諏訪大社のご利益・・・日本の観光地・宿

artwiki

関東農政局HP

 

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住吉大社

 

大阪の「住吉大社」は、下関など全国に約2300社ある住吉神社の総本社で、海洋国家日本の海の安全を守り、穢れを祓ってくださる厄除け、海上守護の神様として信仰されています。

 

<御祭神>

住吉大神(すみよしのおおかみ)

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

住吉大神とは以下の三男神の総称です。

●底筒男命(そこつつの おのみこと)
●中筒男命(なかつつの おのみこと)
●表筒男命(うわつつの おのみこと)

 

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、一般に神功皇后(じんぐうこうごう)と呼ばれます。この神功皇后こそ、211年に住吉大社を創建された方です。

 

<創建の由来>

第14代仲哀天皇の后である神功皇后は、住吉大神の加護を得て、新羅を平定され(三韓遠征・新羅遠征)、無事帰還を果たされました。この凱旋の途中、住吉大神のご神託があり、住吉大神を現在のこの地に鎮斎されました。また、大昔、住吉の地は松の名所で、その樹に三羽の白鷺が止まったのを見た神功皇后は、それを住吉三神の使いだと思われ、この地に祀ることを決めたとの伝承も残されています。のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられました。

 

<由緒>

祓(はらひ)の神

「記紀」神話によりますと、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の(よみのくに=死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。

 

住吉大神(住吉三神)は、伊邪那岐命がその穢(けが)れを清めるために海に入って禊祓いした時、「海の底」「海の中程」「海の表面」からそれぞれ、底筒男命 (そこつつのおのみこと)、中筒男命 (なかつつのおのみこと)、表筒男命 (うわつつのおのみこと)がお生まれになられました。この誕生の経緯から住吉大神は、神道で極めて大事な「禊(みそぎ)・祓(はらい)」を司る神とされています。住吉大社の夏祭りで、日本三大祭りに一つとされる「住吉祭」は、単に「おはらい」と呼ばれ、大阪だけでなく、摂津国・河内国・和泉国ひいては日本中をお祓いするという意義がある重要な神事とされています。

 

航海安全の神

住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があります。仁徳天皇の時代に、住吉津が開港されて以来、航海関係者や漁民の間で、海上安全の守護神として崇敬を集めました。特に、遣隋使や遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事が祈られたとされています。江戸時代に海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がりました。

 

農耕・産業の神

住吉大神が苗代をつくる方法を教えたという伝説により、古くから「農耕の神」として篤い崇敬を受けてきました。境内には約二反の御田があり、毎年6月14日には「御田植神事」が盛大に行われております。

 

弓の神

神功皇后の新羅遠征(三韓遠征)の際、神功皇后は住吉大神の神威を受け、御自らも弓鉾をとって御活躍されたという経緯から、弓の神としての信仰があります。

そのほかにも、住吉大神は、「相撲の神」、「和歌の神」としても崇敬を集めています。

 

<建築様式>

住吉大社には、第一本宮から第四本宮まで4つの棟があり、それぞれ底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后をお祀りしている。4棟はすべて海に向かって西向きに建ち、第一本宮から第三本宮が縦に並び建っている姿は大海原をゆく船団を表しているとされています。

 

また、4つの棟すべての本殿部分は、1810年(文化7年)に造営されたもので国宝指定を受けている。「住吉造(すみよしづくり)」という直線的な日本古来の建築様式で、神社建築史上最も古い様式だとされています。これに対して、重要文化財に指定されている4つの棟の拝殿部分は、曲線的で、大陸(中国)からの影響を受けた様式と考えられています。

 

なお、住吉大社は、奈良時代(749年)より伊勢神宮と同じように20年に一度の式年遷宮の制度が定められており、2011年(平成23年)には49回目の遷宮が「御鎮座1800年記念大祭」と合わせて行われました。

 

<島津家の誕生石>

住吉大社の境内には、島津家発祥の地となった「誕生石」があり、今でも「誕生石」として島津家代々から篤い信仰を受けています。そこは、源頼朝の寵愛をうけた丹後局(たんごのつぼね)が、不思議な狐火に導かれて、北条政子から逃れてきたところで、局はここで産気づき大石を抱きながら男の子を出産したとされています。この時生まれた子が、後の薩摩藩「島津氏」の祖となった「島津忠久」と伝えられています。

 

<参考>

住吉大社HP

住吉大社~みそぎの神様と国宝社殿の秘密~

住吉大社・神社専門メディア「奥宮」

2019年11月06日

歴史:沖縄と首里城

国の史跡でもあり、世界遺産、日本百名城にも選ばれている首里城が、火災で倒壊したというニュースは国内外に衝撃を与えました。沖縄と首里城の歴史を少し振り返ります。

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沖縄最大のグスク(城)である首里城(しゅりじょう)は、別名は御城(ウグシク)とも言う山城で、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城として、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました首里城の最初の築城は不明ですが、沖縄の三山時代には存在していたもようです。三山時代(さんざんじだい)と言うのは、1322年頃から1429年まで、沖縄が、北部の北山(ほくざん)、中部の中山(ちゅうざん)、南部の南山(なんざん)と3つの王朝に分かれていた時代をいいます。

 

このうち、琉球中山では、沖縄で生まれた最初の王統として、英祖王統(1259年頃~1349年)が、初代の英祖王から5代90年間栄えていました。その後、初代・察度(さっと)とその息子の武寧(ぶねい)の二代・56年間続いた察度王統(1350年~1405年)が続きました。

 

尚思紹王と尚巴志王

この時期、南山に、尚思紹王(しょう-ししょうおう)と言う人物が出ます。佐敷按司(佐敷の城主)を務めていた尚思紹王(1354~1421)には、嫡男の尚巴志王(しょう-はしおう)がいました。尚巴志王は、21歳のときに、父から南山の佐敷按司(さしきあんじ)を譲り受けると、1406年には中山王・武寧(ぶねい)を攻撃して察度王統(さっとおうとう)(1350年~1405年)を滅亡させます。

 

中山を手に入れた尚巴志王は、自らは王にならず、父・尚思紹(しょう・ししょう)に中山王に就いてもらいました。またこの時、尚巴志王は、中山の本拠を、英祖王統と察度王統の時代の浦添城から首里城に定めました。ここに、第一尚氏王統(1406年~1469年)が成立するとともに、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、首里城は、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇ることになります。

 

王国時代、首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開き、中国(明)をはじめ日本、朝鮮、ジャワなどとも交易を盛んに行われました。ただし、琉球王国では一般民衆の土地私有が認められていませんでした。そのため、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、農民などは貧しい生活を強いられていたと言われています。

 

琉球統一

さて、尚巴志王(しょう-はしおう)は、1416年には、北山王の居城である今帰仁城(なきじんじょう)も攻撃しました。この時、今帰仁按司の攀安知(はんあんち)は、家臣の裏切りもあって自刃したため、尚巴志王は北山も手に入れました。

 

1421年に、父・尚思紹王が死去すると、翌年、尚巴志王は中山王に即位し、首里城の整備を進めました。そして、1429年には、南山・島尻大里城(しましいおおざとじょう)の他魯毎(たるみい)を滅ぼし三山を統一し、初めて琉球を統一することに成功しました。尚巴志王はこのように大業を成し遂げ、1439年に亡くなると、次男・尚忠(しょう・ちゅう)が跡を継ぎ、第2代琉球国王(第一尚氏王統・第3代国王)となりました。その後、1453年、第一尚氏王統・第5代尚金福王(しょうきんぷくおう)の後、王位をめぐって王世子・志魯(しろ)と王弟・布里(ふり)との間で争いがおきました(志魯・布里の双方とも死去)。この志魯・布里の乱(しろ-ふりのらん)と呼ばれる争乱で、首里城は焼失してしまったのです。

 

さらに、1462年には、第6代国王の尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の重臣であった金丸が王位を継承し(クーデターで第一尚氏王統が滅んだとの見方もある)、第二尚氏王統の初代国王、尚円王(しょうえんおう)となりました。ただし、第二尚氏王統となっても、1453年の火災から復興した首里城は引き続き首都として栄えています。首里城は沖縄を統一してから大改修されたこともあり、戦闘用の軍事向けの城と言うよりは、政治や宗教の役割を重視した設計になっています。

 

1477年に即位した第二尚氏王統・第3代王の尚真(しょうしん)のとき、琉球に中央集権制を確立すると同時に、1519年には園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)が造られました。園比屋武御嶽は琉球王国の聖地のひとつで、国王が旅に出る際必ず拝礼したとされる礼拝所でした。

 

二重朝貢外交

琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、琉球と日本との衝突が起きていました。徳川幕府の成立後、島津氏は、琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとして画策して、1609年、琉球と薩摩藩との間で慶長の役が起きました。この時、薩摩藩の軍勢3000に対して、琉球軍は4000の首里親軍(しおりおやいくさ)などが首里城に籠城しましたが敗れ、琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王、尚寧王(しょうねいおう)は降伏して首里城を開城しました。

 

この結果、奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球王国は事実上、薩摩藩の従属国となりました。ただし、琉球は、薩摩藩へ年貢を納める義務を負いつつも、明国同様、清国にも朝貢(臣下の礼をとること)を続け体制を続けるなど一定の独自性を保っています(これを二重朝貢外交などと呼ばれる)。この慶長の役の際、薩摩軍の侵攻を許して城(グスク)は焼失してしまいました。その後、首里城は江戸時代において、1715年に3度目の火災で焼失しましたが再建され、太平洋戦争までその威容を保ちました。幕末の1853年には、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で那覇港を訪れ、首里城にて開港を求めるなど、日本の近代史の舞台にもなりました。

 

琉球処分

明治政府は、1871年に廃藩置県を行った翌1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年に琉球藩は沖縄県となりました。明治政府により琉球が強制併合された一連の過程は琉球処分と呼ばれ、約500年にわたって君臨した琉球王国はここに完全に滅亡しました。同年、最後の国王となった第二尚氏王統第19代の尚奉王(しょう・たいおう)は、首里城を明け渡し、明治政府の命令に従い、東京移住し、身分も、国王から華族へと格下げられました。

 

太平洋戦争

太平洋戦争中の沖縄戦では、日本陸軍が、首里城の地下に地下壕を掘って、第32軍総司令部としていたことから、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどから艦砲射撃を受け、首里城は灰燼に帰してしまいました。この時、首里城の地下では5000人もの重症兵が自決したとも言います。この沖縄の激戦で、琉球王国の宝物・文書も、その多くが失われました。わずかに残された宝物もアメリカ軍によって摂取され、一部は未だに返還されていません。

 

戦後復旧と今

戦後、首里城は、琉球大学のキャンパスとなりましたが、琉球大学の移転に伴い、1958(昭和33)年から復旧事業が開始されました。1972年5月の本土復帰の際、国指定史跡とされ、1992年、沖縄復帰20周年を記念し、約73億円かけて復元されました。こうして復活した首里城は、琉球王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂として、沖縄のシンボルとなったのでした。2000年12月には、首里城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産に登録されました。そんな首里城が、令和の時代に入った2019年10月31日、首里城祭りの開催期間中に全焼してしまったのです。

 

<参考>

首里城とは 尚思紹王と尚巴志王

「沖縄の世界遺産」守礼門や正殿 グスクとは?

「首里城は琉球王国の国王の居城だった(ニュース グッディ)」

沖縄県教育委員会HP

那覇市観光協会HP

沖縄観光HP

沖縄県観光チャネル

2019年11月01日

ニュース:沖縄・首里城、またも火災で全焼

“世界遺産“首里城で火災 過去にも4回の火災で繰り返し再建

(2019/10/31 FNN Prime online)

 

10月31日未明、沖縄の那覇市にある世界遺産の首里城で火事があり正殿など3棟が全焼した。里城は、2000年の九州・沖縄サミットの夕食会場として世界に発信されたほか、2000円札に守礼門が描かれるなど沖縄のシンボルとしても親しまれてきた。沖縄県民のみならず観光スポットとしても親しまれ、去年12月には首里城公園の入園者がのべ6000万人を突破した。

 

首里城は1453年に起きた王位継承を争う内乱で全焼して以降、これまでに4回の火災に見舞われている。1945年にはアメリカ軍の攻撃によって全焼。しかし、1992年に沖縄の本土復帰20周年を記念して、国営公園として復元するなど火災のたびに再建を繰り返して来た。戦後、多くの人々の努力により復元され一部が世界遺産にも登録されている首里城は沖縄の象徴的な建造物として親しまれていて、今年2月には三十数年にわたって行われた内部も含めた復元がようやく完了したばかりだった。

2019年10月29日

歴史:邪馬台国の真実を探る②

邪馬台国の真実を探る①に続くお話しです。

 

  • 九州説(北九州説)

九州説では、倭人伝にいう、2世紀後半から3世紀半ばにかけての邪馬台国は、北九州の伊都国に本拠を置いた時代の邪馬台国であると主張されます。伊都国の平原遺跡などから卑弥呼のものと思われる墓や副葬品が多数出土しており、卑弥呼は伊都国の出身という見方すら出されています。

 

また、倭人伝にある「環濠、宮室、楼閣、城柵」を備えた遺跡が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、福岡県の平塚川添遺跡などで見つかっているというのも九州説の論拠となっています。

 

さらに、古来、鉄は権力の象徴とよく言われますが、弥生時代の鉄器の出土数のトップは熊本と福岡であるのに対して、奈良からはほとんど出土されていないという指摘もあります。

 

加えて、倭人伝には、邪馬台国に対抗していた「狗奴国(くぬこく)」についての記載があります。狗奴国の所在地も熊本が有力視され、吉野ヶ里遺跡に匹敵する県内最大規模の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)が、狗奴国(くぬこく)の跡地と見られています。

 

一方、邪馬台国九州説から、さらに発展的に、邪馬台国東遷説が浮上します。

 

邪馬台国東遷論

これは、九州にあった邪馬台国が、王権とともにヤマト(大和)へ東遷し、大和朝廷になったとする考え方です。そうなると、1)神武天皇の東征は、邪馬台国が大和地方に進出したことであったという見方、2)邪馬台国時代の後に、神武天皇の筑紫(九州)から大和への遷都が行われたという考えまでてきます。逆に、3)邪馬台国は、大和朝廷が九州に攻め込む過程で、大和朝廷に征服されていたという説もあります。

 

 

  • 畿内説

九州説と畿内説との間で江戸時代から続く邪馬台国論争は、今も決着していませんが、2009(平成21)年秋に発掘された纒向(まきむく)遺跡の出現で、畿内説が優位になっています。

 

纒向遺跡(奈良県桜井市)は、今も神体山として信仰をあつめる三輪山のふもとに位置しています。そこで、宮殿を思わせる東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の巨大建物群の跡など4棟が見つかりました。また、3000個以上の桃の種、小動物、魚の骨が多数発見されただけでなく、土器も多く出土しており北陸、近江、河内、阿波、吉備などからも土器の搬入が確認されています。

 

卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政(まつりごと)を行い、倭国の首都だったのではないかとの期待が高まりました。また、纏向遺跡は、紀元180年頃にできたものとされていますが、卑弥呼が女王になった時期と一致しています。

 

さらに、纒向遺跡にある箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)は、日本最古の古墳とされており、これが、卑弥呼の墓であるとの見方が根強くあります。「日本書紀」によると、箸墓は、第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在で、何か予言の能力のようなものを持っていたらしく、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます(この逸話から箸墓という名がついたとも言われている)。この百襲姫(モモソヒメ)と卑弥呼のシャーマン的な姿が重なり、この古墳が、倭国の女王、「卑弥呼」の墓だと考えられているのです。

 

加えて、邪馬台国(卑弥呼の時代)に続くとされる大和朝廷(ヤマト政権)の時代は、地質学の観点から言えば、古墳時代(250~500年頃)にあたります(ヤマト王朝は、3世紀末から4世紀前半にかけて、奈良の地に出現したとされている。)

 

実際、3世紀中頃(247年か248年)、女王卑弥呼が亡くなったとされる頃、近畿地方の大和(奈良県)を中心に、瀬戸内海沿岸にかけて、古墳(有力者の墓)が造られるようになりました。最近の研究では、古墳時代の開始を、以前の3世紀末(大体280年頃)から3世紀中ごろとするのが大勢となっており、そうなると、卑弥呼の死亡時期とピタリと重なります。加えて、纏向遺跡があった邪馬台国とみられる地域は、紀元340年ごろ、急速に衰退したとされ、この時期も、初期の大和朝廷(ヤマト政権)が誕生したとされる頃と重なります。

 

このように、纏向遺跡の存在が、邪馬台国、畿内説を強力に後押ししています。これが、7月24日の「邪馬台国・畿内説は常識?」を投稿した背景です。

 

 

  • 畿内説批判

しかし、畿内説にしても批判がないわけではありません。特に、文献上から問題点が指摘されています。もともと「魏志倭人伝」に記された道のりと距離をそのまま読めば、邪馬台国は太平洋の海の中になってしまうことはすでに述べた通りですが、畿内説では「魏志倭人伝」に記された方角を「都合よく」解釈していると批判されています。

 

例えば、「魏志倭人伝」に「その(女王国の)南に狗奴(くな)国がある」と書かれています。畿内説の観点から狗奴国を考えようとすると、奈良県の南とは、紀伊半島の南部の熊野地方に当たりますが、そこに当時、女王国に敵対する勢力はなかったとされています。そこで、畿内説では、「魏志倭人伝」の「南」は「東」の誤りであるとして、狗奴国が、愛知県の濃尾平野にあった解釈しているのです。

 

また、邪馬台国畿内説は、日本の文献との矛盾も指摘されています。もっとも、日本の文献といっても神話に基づくいるのですが、邪馬台国の時代のに神武天皇の東遷(宮崎の高千穂から奈良の橿原へ)が行われたとすると、畿内に都があるのに、神武天皇が南九州から、東遷することは考えられません。

 

逆に、神武東遷が、卑呼の時代の前に行われたとすると、記紀(「古事記」「日本書紀」)に、神武天皇の後に、「女王」が即位したという記録はありません。あるとしたら、神功皇后が考えられますが、邪馬台国のあった時代と合致しません。

 

さらに、「纒向遺跡=邪馬台国跡」説も絶対ではありません。「纒向(まきむく)遺跡」の「まきむく」という地名は、「魏志倭人伝」には一度もでてきておらず、記紀には、第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の時代の下りで、「纒向の〇〇の宮」というのがでています。そもそも、第10代の崇神天皇が、大和朝廷(ヤマト政権)の創始者とも言われています。纒向は、崇神、垂仁、景行の三代にわたって都が置かれたヤマト政権の都であった可能性もあるわけです。

 

このように、邪馬台国が畿内にあったと、江戸時代から続く不毛に近い邪馬台国論争に、決着がついたとは言えないのですね。それどころか、邪馬台国の所在は、九州説・畿内説に限らず、以下のように、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地でその存在が主張されています。

 

邪馬台国はどこに(主要な九州説、畿内説以外)?

豊前宇佐説

吉野ケ里説

阿蘇説

奄美大島説

沖縄説

四国説

出雲説

 

どの説もそれぞれ興味深く、説得力もあります。個々の内容については、別の機会に紹介することにします。

2019年10月27日

神社:皇室にゆかりの御霊神社とは?

京都の御霊神社で、天皇陛下の「即位礼正殿の儀」と同じ日に、陛下の即位を報告する神事(奉告祭)が開かれたという以下のニュースがでていました。

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皇室ゆかりの御霊神社 即位を報告する神事 京都

(2019年10月22日、NHK News Web)

 

「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀」に合わせて、皇室とゆかりが深い京都の御霊神社では即位を報告する神事が行われました。「奉告祭(ほうこくさい)」と呼ばれるこの神事は天皇の即位を神に報告するもので、皇室とゆかりが深い京都市上京区の御霊神社で行われました。はじめに宮司が神前で祝詞をあげ、即位を報告するとともに皇室の安泰と国の平安を祈りました。拝殿では明治天皇の和歌が読まれる中、宮司が舞を納めました。続いて、平安時代からの和歌の文化を受け継ぐ冷泉家(れいぜいけ)和歌会の7人が王朝装束に身を包み、令和の出典となった万葉集から四季の和歌、5首を披露しました。

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即位礼と同時並行して神事が行われるというのは余程、格式のある神社か、文字通リ、皇室に深いご縁のある神社なのかと関心がでて、御霊神社について調べてみました。

 

 

御霊神社(ごりょうじんじゃ)

 

◆概説

御霊神社は、「上御霊神社(かみごりょう)」とも呼ばれ、平安遷都以来、京都御所の北側にある厄除けの神社、皇室崇敬の神社として知られています。

 

当時の京都では御霊(ごりょう)信仰が盛んでした。御霊信仰とは、その頃、頻発した天変地異や疫病が、時の政争により都を追われ非業の死を遂げた怨霊の祟りであるとされ、その御霊を神として祀ることで、疫神・疫病を鎮めようとする信仰です。御霊神社も、794年、桓武天皇の弟で、非業の死を遂げた早良親王の神霊を祀ったことが始まりとされ(早良親王は崇道天皇として祀られた)、以後、疫病除の霊社として有名になりました。

 

この御霊信仰を祭りにしたのが御霊会(ごりょうえ)で、鎮魂のための儀礼です。京都の夏祭りの多くは御霊会だと言われ、御霊神社の祭礼が、御霊会発祥の一つと位置づけられています。また、京都の上京区にある御霊神社の一帯は、かつて「御霊の森」が広がっていたとされ、境内は、室町時代の応仁の乱の発端の地になりました。

 

◆祭神

御霊神社の祭神(祀られている神)は、前述した桓武天皇の弟・崇道天皇(早良親王)だけでなく、奈良・平安時代初期に不運のうちに亡くなった他の七柱の神霊で、八所御霊(はっしょごりょう)として、本殿八座に祀られています。桓武天皇が794年5月に、崇道天皇の神霊を祀った後、仁明天皇、清和天皇の治世において、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀されました(6柱の神は六所御霊(ろくしよごりよう)と総称された)。さらに、この六所の荒魂として火雷神(菅原道真)と吉備大臣(吉備真備)が併祭されました。

 

  • 崇道天皇(早良親王)

桓武天皇の弟だった早良親王は、785年、長岡京造営長官・藤原種継暗殺事件に関与したとされ、淡路島に左遷され、断食死してしまいました。

 

  • 井上大皇后(いのえのおおきさき)
  • 他戸親王(おさべしんのう)

井上大皇后(井上内親王)は、桓武天皇の異母で、(桓武天皇の父光仁天皇の姉の)難波内親王を呪い殺した嫌疑により、子の他戸親王(桓武天皇の異母弟)とともに幽閉され、母子同時に死去しました。毒殺されたとの見られています。

 

  • 藤原大夫人(ふじわらのたいふじん)

生前の名前は、藤原吉子(よしこ)で、桓武天皇の夫人でしたが、謀反の嫌疑により、子の伊与(いよ)親王とともに川原寺に幽閉され飲食を絶たれ没しました(死後、藤原大夫人として祀られた)。

 

  • 橘大夫(きつだいぶ)

生前、有力貴族であった橘逸勢(たちばなのはやなり)は、842年の承和の変(伴健岑とともに皇太子恒貞親王を奉じて東国で謀反を企てたとされる)に連座したとして捕らえられ、伊豆へ流される途中で没しました。ただ、この事件は、藤原氏による最初の他氏排斥事件として位置づけられています。

 

  • 文大夫(ぶんのたいぶ)

生前の文屋宮田麿命(ふんやのみやたまろ)は、843年に突然謀反の疑いありとの訴えにより、伊豆に配流されれました。

  • 火雷神(からいしん)

火雷神(火雷天神)とは、太宰府左遷後に悶死した菅原道真のことと解釈されがちですが、時代が合わないため、上記六神(六座)の御霊の「荒魂」と解釈されています。

 

  • 吉備大臣(きびのおとと)

吉備大臣は、有力貴族の吉真備命(きびのまきび)のことという説もあります。確かに、吉備真備は、藤原仲麻呂に疎まれ、筑前守に一時左遷されたこともありますが、怨霊になったという話しは聞こえてきません。従って、上記六座の御霊の「和魂」と解釈されています。

 

なお、神道には、神様を祀るだけでなく、神様の魂を祀るという考え方がかり、「荒魂(あらたま)」は、神様の荒々しい力を示す神霊であるのに対して、「和魂(にぎたま)」は穏やかな働きのことをいいます。これらの八神は、平安京鬼門に祀られ八所御霊大明神と称されました。現在、御霊神社には12柱の神霊が祀られ、分祀も30余社あるとされています。

 

 

◆御霊祭

前述したように、上御霊神社の祭礼である御霊祭は、御霊会(怨霊の退散を祈願した御霊信仰の祭り)の発祥で、京都で最も古い祭礼の一つとされています。863年、平安京で「咳逆病」が流行し、朝廷主催の御霊会が神泉苑で行われました。このとき、六座(崇道天皇、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫)の神座を設け、祀られたとされています。

 

かつては神幸祭(7月18日)から還幸祭(8月18日)の一カ月に渡り行われ、江戸時代には、天皇、皇族も高覧されました(現在は、5月1日から5月18日まで催されています。神輿(みこし)は、明治になって1871年以来途絶えていましたが、2009年に神輿の御所巡行が約140年ぶりに復活しています。

 

◆由緒(由来)

御霊神社の創建と変遷の詳細は不明とされています。かつて、この京都の一帯は山背国愛宕郡出雲郷と呼ばれ、794年の平安遷都以前から先住していた出雲一族の居住する地域でした。

 

飛鳥時代~奈良時代

延暦年間(728-806)にかけて、出雲一族の氏寺としての出雲寺(上出雲寺)が創建されました。一説に最澄が開創したとも言われています。このお寺は、「上(かみつ)出雲寺」と「下(しもつ)出雲寺」に分かれており、その後、上出雲寺に鎮守社(寺の鎮守のために建立された神社)として御霊社が建てられ、これが現在の御霊神社になったと言われています。

 

移住氏族である出雲氏は、天穂日命(あめのほひのみこと)を祖神とし、賀茂氏とともに北山城盆地の開拓に関わったとされています。飛鳥時代、672年の壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に付き戦功をあげ臣の姓を賜りましたが、その後、出雲氏の勢力は弱く、平安時代初期にはすでに衰微していました。これに伴い寺も衰退した半面、御霊神社が上出雲寺御霊堂として知られていきました。

 

平安時代

794年

桓武天皇の勅願により、平安京の守神として、非業の死を遂げた桓武天皇の弟・早良親王(崇道天皇)の神霊を祀る。

 

863年

悪疫退散の御霊会が勅命で催された。

 

室町時代

1423年:足利義満が参詣し、太刀を奉納した。

1427年:足利義持が社殿を寄進。

 

室御霊神社の「御霊の森」が応仁の乱(1467-1477)の発端となりました。

応仁の乱とは、8代将軍・足利義政下、管領家の畠山、斯波家の跡目争いと、幕府管領の細川勝元と山名持豊(山名宗全)らの権力争いが絡んだ争乱です。1467年1月、御霊神社の森に布陣した畠山政長を、畠山義就の軍が攻めた「御霊合戦」を機に、戦乱は応仁の乱へと拡大していったのです。

 

1478年12月:御霊神社、焼失。その後、足利氏により再建される。

 

江戸時代

後陽成天皇(在1586年12月~1611年5月)の時、神輿と牛車が寄進される。

霊元天皇(上皇)の時、1723年9月、1729年2月に行幸された。この時、願文(がんもん)が納められ、以後、天皇家の産土神とされた。

光格天皇の時代、1788年の天明の大火により焼失するも、1790(1791)年に、内侍所(ないしどころ)が寄進され、1798年現在の拝殿が建立される。

 

明治

1868年:神仏分離令後の廃仏毀釈

1871年以降、御霊祭の御所巡行が途絶える。
1877年2月、明治天皇は勅使を参向させた。

 

現代

1952年12月、皇太子・明仁親王の成年式、立太子礼奉告の幣帛(へいはく=お供え物)を献じられる。

1968年1月、本殿の再建復興に際し、昭和天皇、常陸宮、秩父宮、高松宮、三笠宮の四宮家よりの寄進。1970年に本殿が再建される。

2002年、11月、当時の皇太子・徳仁親王が行啓

2009年、御霊祭の御所巡行が復活する。

 

御霊神社をどうして、上御霊神社とも呼ぶ理由は、上御霊神社とは別に下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)があるからです。下御霊神社については「日本の神社」の御霊神社へ。

 

<参照>

御霊神社HP

下御霊神社HP

きょうとnavi

Kyoto design

京都風光(京都寺社案内)HP

 

2019年10月25日

外交:即位礼に王族たちが勢ぞろい、米露中は?

天皇陛下が内外に即位を宣明された「即位礼正殿の儀」に180か国以上の代表が出席しました(なお、平成の即位礼のときは160か国からの参列があった)。今回の天皇即位の祝賀外交において、国王(皇太子を含む)や大統領など各国は元首級を日本に送ってきました。その数、約80か国にもなりました。皇室とゆかりの深い各国の王族からは、英国のチャールズ皇太子、オランダのアレクサンダー国王、スペインのフェリペ6世国王、ブータンのワンチュク国王など最高位の方々が多く参列されました。

 

まず、この機会に、世界には、国王を戴く王制や立憲君主制の世界の国々がどれくらいあるのかをみてみましょう。

 

【アジア・大洋州】

ブータン ワンチュク国王夫妻

ブルネイ ボルキア国王

カンボジア ノロドム・シハモニ国王

マレーシア アブドラ第16代国王夫妻

トンガ ツポウ6世国王夫妻

 

【欧州】

ベルギー フィリップ国王夫妻

リヒテンシュタイン アロイス皇太子

ルクセンブルク アンリ大公

モナコ アルベール2世公

オランダ ウィレム・アレクサンダー国王夫妻

ノルウェー ホーコン皇太子

スペイン フェリペ6世国王夫妻

スウェーデン カール16世グスタフ国王

英国 チャールズ皇太子

 

【中東】

バーレーン サルマン皇太子

ヨルダン フセイン皇太子

カタール タミーム首長

 

殺人教唆疑惑を受けているサウジアラビアのムハンマド皇太子も、当初は参列予定でしたが直前で取り止めとなりました。

 

【アフリカ】

エスワティニ ムスワティ3世国王夫妻

レソト レツィエ3世国王夫妻

モロッコ ムーレイ・ラシッド王子

 

一方、国王のいない共和制国家からも大統領など国家元首級の人たちが顔を揃えましたが、皮肉なことに、同盟国とされるアメリカからは元首級ではない人物が来られました。初のアジア系アメリカ人の女性閣僚のイレイン・チャオ運輸長官でした。1990年11月の上皇陛下の即位の礼の際には、クエール副大統領が参列したことから、今回も、前例に従って副大統領の来日が予想され、実際、ペンス副大統領で水面の調整が進んでいると報じられていました。アメリカの副大統領は、大統領継承順位2位で「元首級」と言えます。では、アメリカの運輸長官は、閣僚の中では何番目の地位にあるのかというと13位とぐっと下がってしまいます。

 

アメリカ大統領権限継承の順位(日本の内閣総d理大臣臨時代理に相当)は、1位から順に次のようになります。

副大統領兼上院議長(アメリカでは副大統領が上院議長を兼任)、

下院議長

上院仮議長

国務長官

財務長官

国防長官

司法長官

――――

運輸長官

エネルギー長官

教育長官

退役軍人長官

国土安全保障長官

(運輸長官は、国務長官筆頭の閣僚15名のなかでも下位に当たる)

 

チャオ長官ご本人がどうのこうのというつもりは全くありませんが、外交儀礼という観点から、これまでの日米関係を考えれば、もう少し人選に配慮があってもよかったのではないか正直思いました。逆の状況を想定して、例えばイギリスで新国王の即位式が行われたとした場合、日本を代表して国土交通大臣が派遣されることと同じです。

 

一説には台湾系のチャオ長官を送ることで中国に対するメッセージを発したという見方もあるようですが、神聖な即位の礼にそうした政治ゲームを入れられても迷惑な話しです。今回の人選は、日本に対するアメリカの本音の姿勢(アメリカは実は日本を軽視している)という声もあるようですが、そうではなく、単にトランプ大統領の文化的見識のなさからくるものということであって欲しいですね。

 

これに対して、ロシアと中国からは、今の日本との関係を反映した相応の人物が派遣されました。ロシアは、ウマハノフ上院副議長が参列しました。平成の即位礼のときは、ソ連時代のルキヤノフ最高会議議長でしたので、格下の人が送られた形です。日露の冷ややかな関係を反映してますね。

 

中国は、王岐山 国家副主席を派遣しました。王氏は実質的な指導者グループとされる共産党中央政治局常務委員の一人です。対外的にも副主席ですから中国のナンバー2かというとそうではありません。中国の場合は、中央政治局常務委員会での順位で政治的な地位がわかります。王氏は7人の常務委員の中で6位なので、決して「大物」とは言えません。もっとも、中国は共産主義国ですので、天皇制をよく思っていない国ですから、この人選は仕方がないことかもしれません。

 

なお、親日国とされるイスラエルとトルコからは、当初、ネタニヤフ首相とエルドアン大統領が参列すると発表があったようですが、国内政治の対応などから欠席となりました。

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