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2020年09月29日

キリスト教:異端と魔女狩り

前回の投稿「修道院運動の盛衰」でドミニコ修道院が積極的に異端尋問に関わったことにふれましたが、今回は中世におけるキリスト教会の異端尋問と魔女狩りについてまとめてみました。

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  • 異端とは?

 

ローマ・カトリック教会において、異端は、「悪魔が神の意に反する誤った教えを神の教えのように見せかけて人々を騙すこと」と考えられ、異端者とは、「キリスト教徒を名乗りながら、正統な教えから外れる信条を持つ人」のことを言うと定義づけられています。

 

もっとも、最初は、多神教徒をキリスト教化する布教の段階では、まずキリスト教徒にすることが重要と考えられ、教義の細かな違いには寛容だったそうです。ですから、各地の教会では現地の異教由来の風習が残っている所もあり、初期キリスト教会は、地域色が強くでていたと言われています。

 

それが、11世紀のグレゴリウス7世による教会改革(グレゴリー改革)で、「教皇庁(教会本部)で決めた教えが全てのカトリック教会で同じように伝えられるべき」と教義の統一が重視されるようになりました。それ以降、異端とは、「ローマ教皇庁の見解から外れる考え方や信条」とされ、異端(者)は忌み嫌われるようになりました。この11世紀以降、ヨーロッパのキリスト教社会では教皇権が絶頂に向かう時期でもありました。

 

その一方で、1095年から始まった十字軍の影響で盛んになった東西の交流の過程で、新たな思想も流入するようになると、ローマ教会の権威を否定し、ローマ教皇庁の教義とは異なる「異端」の考え方も各地で広まるようになりました。

 

 

  • ワルド派とカタリ派

 

異端とされた中世の代表的な宗派が、12世紀末に現れたワルド派とカタリ派です。いずれもペルシア起源のマニ教の影響を受け、善と悪、精神と物体など二元論的な世界観を持っています。その教義は、教会の権力や富を否定し、イエスの時代に帰り、清貧を有るべき信仰の姿と考えて実践しようとする共通性がありました。

 

ワルド派

ワルド派は、フランス王国のリヨンの富裕な商人であったピエール=ワルドーが、1173年に、その家財をなげうって、使徒の生活にならった清貧を実践しながらキリストの福音を広めようとしたことから始まりました。その信奉者は「リヨンの貧者たち」と言われ、ワルド派は、リヨンを中心にフランス南部に広がっていきました。

 

当初は熱心な布教団体としてローマ教会からも認められていましたが、彼らの活動が教会の聖職者の統制の外で広がっていくことに警戒するようになったローマ教皇庁は、1179年、ワルド派の信仰に対し、神学者に審判に当たらせ、1184年に異端と断定しました。しかし、ワルド派は南フランスからイタリアのロンバルディア、さらにドイツ、スペイン、ボヘミアに拡大していきました。

 

カタリ派

カタリ派は、もともと10世紀半ばに現れ、12世紀にワルド派とともに広く知られるようになり、中世の最大異端セクトと言われました。彼らは南フランス、アルビを中心としたトゥールーズ伯領に集中していたことから、アルビジョワ派(アルビ派)とも呼ばれました。

 

その根本思想は、「神により創造された精神が、悪により創造された肉体・物質に囚われている」というもので、清浄派・清純者の意であるカタリ(Cathari)という宗団名からも類推できるように、彼らは、極度に禁欲的な戒律を奉じました。また、カタリ派(アルビジョワ派)は、旧約聖書やローマ教皇の権威を認めず、ローマ教会を悪魔の教会として攻撃するなど、過激に教会制度を否定し、自らがキリストの真の教会と主張しました。

 

当初は正しい教えの説教・説得により解決を計ったローマ教皇庁でしたが、その広がりを抑えられず、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)は、フランス国王フィリップ2世に十字軍派遣を要請し、1209年から20年にわたる「アルビジョワ十字軍」が実行され、ルイ9世の時代、1229年に殲滅され消滅してしまいました。

 

ワルドー派やカタリ派は、もともとはキリスト教を改革しうという民衆運動に端を発したもので、特に清貧運動をルーツとしています。その意味では、フランシスコ会などの托鉢修道会と共通するものがあるという見方もできます。しかし、両派の拡大や過激な主張(特にカタリ派)は、当時、領主のような地位であったカトリック教会のローマ教皇以下の高位聖職者にとっては、自己の権力や富を否定されることであるので、異端として弾圧したと見られています。

 

 

  • 異端審問から魔女裁判へ

 

「アルビジョア十字軍(1209~1229)」の後、ヨーロッパにおいて激しい異端審問が実施されるようになりました。インノケンティウス3世の時代から、反教会的な異端の取り締まりの最前線の役割を担うこととなったのが、ローマ教皇公認の修道会でした。中でも、13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになりました。フランシスコ会も、その極端な清貧の勧めで、当初は自らが異端認定されそうだったのだが、公認を受けると、やがて異端審問を担うようになったのは皮肉なことです。

 

異端の撲滅のために、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)は異端審問官を設置し、異端狩りのために各地の司教から独立した権限を与えました。異端審問を独自に行うことが出来るようになった異端審問官は、強引な異端審問と認定で怖れられ憎まれる存在となり、教皇から直接異端審問官に任ぜられた最初の一人であったドイツのコンラート・フォン・マールブルクは、悪名高い審問官の一人で、1233年暗殺されています。

 

異端に対する徹底的な撲滅がめざされるなかで、異端は魔女と結びついているとされ、14世紀には魔女そのものを取り締まる「魔女裁判魔女狩り)」が行われるようになりました。「魔女狩り」とは、中世のキリスト教世界で行われた異端を排除するために行われた宗教裁判のことで、13世紀当たりから盛んになっていきました。

 

そもそも魔女とは、キリスト教以前の多神教の時代から存在していた古いヨーロッパの俗信で、古来の神や精霊など超自然的な力を得て、奇跡を起こした人々をいい、一般的に、魔女は呪術を使って人々に害を及ぼすと信じられていました。後に、キリスト教が盛んになってくると、魔女は、悪魔と契約して、超自然的な力を持って妖術(邪悪な術)を行い、悪魔と通じて人を破滅に導く者(女性)を指すようになりました。もちろん男性を指す場合もあり、魔女は、魔術師・呪術師とも呼ばれました。

 

魔女が行う人の心を惑わす不思議な術(行為)が魔術で、悪い魔術を黒魔術といい、黒魔術を使ったと見なされれば容赦なく拷問や神判に掛けられ、有罪ならば処刑されました。一神教のキリスト教では、最初から魔術を多神教徒の迷信として否定していました。ただし、悪魔は、人々を惑わせ、神の教えから離れさせ、悪の道に誘い込む存在ですが、それほど強い力は持たず、全知全能の神の下で、人間の信仰を試す役割を持つとされてきました。「この世は神の摂理に従っており、正しい信仰を持っていれば怖れるに足らない」とされてきたのです。

 

しかし、既にみてきたように、急激に異端に対する恐怖心が煽られた11世紀以降、多くの人が魔女として迫害されるようになり、特に、14世紀はこの傾向が顕著になったのでした。その背景には、「14世紀の危機」と言われた社会不安がありました。天候不良による飢饉に加えて、この世紀の半ばに大流行した黒死病(ペスト)が社会不安を一気に煽る形となりました。

 

ペストは、総人口の3割以上が死亡したとされ、地域によっては人がいなくなった村もあったとすら言われる、前代未聞の大災害となりました。当時、これを悪魔の仕業と考え、聖書の黙示録にあるように、悪魔とその信奉者たちがキリスト教徒に戦いを仕掛けていると考え、恐怖に怯えるようにさえなったと言われています。

 

また、十字軍の失敗に続く、教会大分裂(大シスマ)(1378~1417)で、ローマ教会の威信が低下し、教会への批判が強まります。カトリック教会はこの批判を抑えるために、ますます、厳しい異端尋問を行うだけでなく、魔女そのものを取り締まる「魔女裁判(魔女狩り)」が行われるようになったのです。

 

15世紀に入ると、異なった信仰を持つ者はもちろんのこと、悪魔と契約した魔女、悪魔の力を呼び出す黒魔術を使う者も積極的に異端審問で裁かれることになりました。「魔女」は異端とは違う悪魔崇拝者として激しい迫害を受けました。密告によって、女性でも男性でも魔女だと訴えられると魔女裁判で拷問にかけられ、自白させられて魔女と断定されると、火刑などに処せられました。魔女裁判が盛んに行われると、「魔女狩り」はあらゆる反社会的存在に及ぶこととなり、その犠牲者が増えていきました。村落内でも、異分子を探し出し異端として弾劾することで秩序を維持する傾向が出てきました。

 

また、社会の中で孤立している弱者を、魔女に仕立て上げて、社会の不満をそらす意味合いがあったとされています。実際、黒死病の流行した時代には、魔女の仕業として、ユダヤ人が捕らえられました。

 

さらに、1414年のコンスタンツ公会議では、聖書中心の信仰を説いたウィクリフフスは、異端として処刑されました。また、英仏の百年戦争(1339~1453)の最中、フランス軍の救世主となったジャンヌ・ダルクも、イギリス軍によって捕らえられ、魔女として焼き殺されました。異端尋問や魔女裁判はしばしば政治的にも利用されたのです。加えて、王権も異端審問を主導するようになり、不満分子を異端として一方的に弾圧したり、財産を没収することが行われました。

 

 

  • ルネサンス・宗教改革と魔女狩り

 

近代の曙と呼ばれるルネサンス時代には、ヒューマニズム思想が興り、人間の尊厳や自由が意識され、文学や科学の面でも新しい知見がもたらされましたが、カトリック教会は地動説を異端とするなど、時代の流れに対応できませんでした。結果的に、教会の権威はさらに揺るがされました。

 

民衆の中の魔女に対する恐怖心も無くならず、16世紀の宗教改革の時代に、むしろ魔女狩り(魔女裁判)は頻発するようになりました。これは、魔女狩りが、カトリック教会だけでなく、プロテスタント側も盛んに行ったことにあります。新旧両派が、敵対する他宗派の人間を魔女であると告発するようになり、共同体から排除しようとしたからです。彼らの非寛容の行為は、1600年頃を最盛期に、18世紀まで続きました。理性と合理性の時代とされる近代になっても、また魔女の存在は信じられ、恐れられていたわけです。最後の魔女裁判は、イングランドが1717年、フランスが1745年、ドイツが1775年、スペインが1781年、イタリアが1791年という記録が残されています。

 

現在では、異端審判や魔女狩りは、人類史上でもまれな「神の名による大犯罪」とされ、そこに、イエスの精神はほとんどありませんでした。最終的に、ローマ教会は、1971年2月4日、「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、20世紀後半になってようやく、異端と破門の問題は終わりを告げました。

 

 

<参照>

Zorac歴史サイト – 魔女と異端

世界史の窓、Wikipediaなど

 

 

2020年09月27日

キリスト教:修道院運動の盛衰

以前の投稿「カノッサの屈辱」の中で、グレゴリウス改革が模範としたクルニュー修道院やベネディクトゥスの戒律について言及しました。今回は、中世のキリスト教に影響を与えたこれらの修道院の活動を掘り下げてみたいと思います。

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古代の迫害の時代とは異なり、総じて平和な中世の西欧キリスト教世界においては、「命がけの信仰」は求められなくなり、信仰は「修道」によって表明されました。

 

修道には、ローマから退き、世俗から隠遁して一人で生活する場合もありますが、中世ヨーロッパでは、共同体を作って清貧をモットーに各地につくられた修道院での生活をさしました。修道院は、一般信徒の集う教会に対して、世俗から離れて修行に打ち込む修道士が共同生活を送る信仰の場です。また、修道院は、聖書の研究など古典文探求の場でもありました。

 

一方、教会の政治的経済的基盤も不安定な中で、聖職者の中には、安逸に流れ、華美な生活を送るなど腐敗堕落した者すら出てきました。そうした中、イエスの生きていた時代の純粋な信仰からは次第に乖離していくことに対して、本来の信仰に戻そうとする修道士や修道院が現れ、数次にわたって修道院を中心としたローマ=カトリック教会の改革運動がおきました。それらの運動を総称して修道院運動といいます。中世では、以下のおおよそ4つの修道院運動が起きました。

 

6世紀:ベネディクト派の修道院運動
11世紀:クリュニー修道院による改革運動
12世紀:シトー派修道会による改革運動
13世紀:托鉢修道会による改革運動

 

 

  • ベネディクト派の修道院運動

 

西ヨーロッパにおける本格的な修道院は、529年、ベネディクトゥス(480~550)がローマ南方の山中に建設したモンテ=カシノ修道院が最初のものでした。モンテ=カシノ修道院では、服従・清貧をかかげ、祈りと労働をモットーとした修道士の集団生活が行われ、多くの優秀な修道士が育成されました。厳しい修行に身を置いたベネディクト派の修道士はヨーロッパでの布教に大きな役割を果たしました。

 

ベネディクトウスは、晩年に近い540年頃、「祈り、働け」をスローガンとした73章から成る修道会則、「ベネディクトウスの戒律」を執筆し、長い間、宗教的な規範とされ、後世の修道院運動に大きな影響を与えました。「ヨーロッパ修道院の父」と言われる聖ベネディクトウスは、イタリア中部ヌルシアの古代ローマ貴族の家系に生まれ、モンテ=カシノ修修道院で生涯を過ごしたとされています。

 

なお、自らもベネディクト派の修道士生活を送った経験を持った言われるローマ教皇グレゴリウス1世(在590~604)は、修道院活動を支持して、ベネディクト派の修道士をゲルマン人布教のためにヨーロッパ各地に派遣したとされています。

 

 

  • クリュニー修道院の改革運動

 

「ベネディクトウスの戒律」の継承者

 

フランク王国の保護のもとでローマ教会は安定しましたが、フランク王国の解体、ノルマン人の侵攻と言った変動の中で、9~10世紀にかけて、教皇を頂点とした教会・修道院に、聖職売買や聖職者の妻帯など腐敗堕落が表面化するようになってきました。そうした世俗化したキリスト教会・修道院に対して、本来の信仰主体の回復をめざした修道院運動が、910年、フランス東部ブルゴーニュに創建されたクリュニー修道院によって開始されました。

 

クリュニー修道院(クリュニー修族/クリュニー会)は、清貧と神への献身と厳しい自己鍛錬を信仰の柱とした6世紀の「ベネディクトゥス戒律」の厳格な遵守を掲げ、ベネディクト派の質素で規則正しい修道士のお生活を復活させる改革運動を展開しました。また、世俗の権力から離れるために、ローマ教皇に直結する組織形態をとったことも特徴です。

 

黒い修道士」と呼ばれたベネディクト修道会にあやかり、クリュニー修道院の修道士も「黒い僧衣」をまとい活動しました。クリュニー修道院では、規律の遵守とともに、典礼(祈りの儀式)が重視されました。ベネディクトゥス戒律のスローガンである「祈り、働け」の反映です。

 

修道院そのものは、フランスの地方君主アキテーヌ公ギヨーム1世が、ブルゴーニュのロワール県クリュニーの地にあった自分の荘園を教会に寄進して建てられましたが、1088年から1130年にかけて「第三教会堂」と呼ばれる大型の付属教会堂(聖堂)が増築されるなど、クリュニー修道院は、最終的に巨大な建物となりました。17世紀に、バチカン(ローマ教皇庁)のサン・ピエトロ大聖堂が再建されまでは、クリュニー修道院・第三教会堂が「ヨーロッパ最大の教会堂」でした。

 

クリュニー修道院は、きわめて高名で影響力のある修道院長を輩出しました。最盛期の頃の第5代修道院長オディロン(960~1049)はローマ教皇や神聖ローマ皇帝に並ぶ権威をもっていたと言われています。

 

歴代の修道院長に有能な人物が続いたこともあって、都市部だけでなく、農民や貧しい人達の救済を通して、地方への布教を行い、最盛期の11世紀から12世紀の半ばにかけて、クリュニー修道院は、中世ヨーロッパ最大の教団会派に発展拡大していきました。フランスのみならずヨーロッパ各地に建てられた管轄下におく修道院は1200を超え、修道士は2万人を数えました(影響下にある修道院となると1500とも2000とも言われる)。

 

クルニュー修道院の衰退

 

ただ、クリュニー修道院の「栄華」も長くは続きませんでした。クリュニー修道院は、ローマ教皇直属の教団であり、教皇の権威を絶対視しているが故に、形式を重視する傾向が強くなり、修道院が巨大化・権威化するにつれて、儀式・典礼が極端なまでに厳粛、豪華になっていきました。

 

一日の生活中、学習や作務にさかれる時間よりも、日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われました。例えば、修道士が全員参加する豪華な典礼や壮麗な連祷(司祭と会衆とが交互に唱える連続した祈り)などが重要視され多くの時間を注がれる傾向が強くなっていきました。なお、中世の多声音楽(ポリフォニー)は、クリュニー修道院で発展していったとも言われています。

 

それに合わせて、修道院自身も、豪勢な建物と装飾を誇るようになりました。教会建築は、永遠なる神の全能を人々の目にみえるかたちで表現することが求められ、教会堂は異常に高いヴォールト天井や見事な柱頭彫刻が用いられ、さらにその内部は、あらゆる細部にいたるまで、過剰ともいえる装飾を施す事が重要であると考えられるようになったのです。同時に、高位の聖職者や聖務する修道士の日常も華美と豪華になり、彼らの生活は著しく贅沢になっていきました。

また、庶民に高い税を求めたり、死後の救いを願う国王や有力諸侯らから、土地や財の寄進や、多額の献金を受けるようになり、修道院には富が蓄積され、修道院側もそれを望ようになっていきました。

 

教団創立から数世紀を経過する間に、莫大な資産と宗教的な権威を背景として、クリュニー修道院の権力は膨張・拡大を続け、王侯貴族を遥かに凌ぐほど強力であったと言われています。クリュニー修道院は、創建の大修道院を頂点とした、中央集権的な巨大ピラミッド型の封建的組織へと変貌していきました。

 

こうして、「ベネディクトウスの戒律」を尊守しながらも、クリュニー修道院は、「祈れ、働け」というベネティクトゥスの戒律の基本のうち、労働よりも「祈り」に偏ったため、本来の「清貧」が忘れ去られてしまいました。結果的に、神聖たる修道会は宗教的な規律と基本理念を失ったのです。こうして、修道院としての清貧が失われ、本来の質素な修道院から再び離れていったところで、クルュニー修道院の凋落が始まり、次に登場するシトー派修道会や托鉢修道会などの台頭をうけ、13世紀には完全に衰退していくことになるのです。

 

グレゴリウス改革

 

クリュニー修道院の発展の過程で、その影響を受けた聖職者がローマ教皇に選ばれるようになりました。最初は、キリスト教会の東西分裂の時の教皇となったドイツ人のレオ9世(在位1049~1054)でした。レオ9世は、聖職者の粛正の第一歩として、当時横行していた聖職売買(司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引したり、相続の対象とすること)と聖職者妻帯の禁止を宣言し、また慣例となっていた皇帝による聖職叙任権(司教や修道院長の任命権)を否定するなど改革派教皇の先駆けとなりました。

 

その改革は、グレゴリウス7世(在位1073~1085年)に継承され、聖職売買と聖職者妻帯を禁止し、さらに、実質的に皇帝の聖職叙任権を教皇に移すなど「グレゴリウス改革」と呼ばれる一連の改革を断行し、教会と教皇の権威を回復させました。特に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争は、1077年に「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件に発展しました(詳細については投稿「カノッサの屈辱」を参照)。

 

なお、その後、クリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(在1088~1099)が、1095年に十字軍運動を提唱して、教皇の時代を現出させ、時代は13世紀のローマ教皇権の最盛期へと向かうことになりました。

 

このように、クリュニー修道院の改革運動は、中世キリスト教に大きなインパクトを与えたことがわかります。グレゴリウス改革についても、クリュニー修道院の運動に影響を受けたと一般的には説明されています。ただし、クリュニー修道院は、叙任権を含む皇帝や国王の教会支配に対する保護権にはむしろ妥協的だったとされています。また、グレゴリウス改革のころのクリニュー修道院は、既にみてきたように、本来の清貧と厳格さを失い始めており、グレゴリウス改革までに、実質的にその役割を終えていたとの見方もあります。時代は、次に述べるシトー派修道会に移りかけていたと言えるかもしれません。

 

 

  • シトー派修道会の改革運動

 

白い修道士

 

シトー派修道院(シトー修道会)は、クリュニー修道院より2世紀近く経った1098年、元クルニュー会修道士のロベール(1027年~1111年)によって、クリュニーと同じブルゴーニュ地方のシトーの地に設立されたシトー修道院を始まりとしています。

 

祈祷と清貧、倹約と労働など「聖ベネディクトの戒律」の厳格な励行をかかげ、妥協を許さない厳格で禁欲的な規律の修道生活が行われました。ベネティクト派の修道士やクリュニー派の修道士が黒衣を身にまとったのに対し、シトー派修道会の修道士の僧衣は、自己犠牲と清貧を象徴する白でした。

 

白衣のシトー修道士達は、地面の上に寝て、深夜2時前の起床から夜8時に就寝する間、粗挽きの大麦と蒸したブナの葉を食すなど衣食住を極端なまで簡素化し、ひたすら神に献身する日々を送ったと伝えられています。

 

修道院は、人里離れた山間部や草原、島、農村に建てられ、俗界から逃れた修道士は、苦行と瞑想の共同生活を送り信仰の純化を求めると同時に、盛んに未開地の開墾を行い、大開墾時代の一翼を担いました。また、イギリスからもたらされた牧羊を飼育して毛織物をつくる羊毛業や、ワインの醸造などの農業技術や地方産業の発展にも貢献しました。

 

こうして、シトー派修道院(シトー修道会)は、フランスを中心に、西はイングランドからポルトガル、南はイタリア、北はスカンジナビアまで、ほぼヨーロッパ全土に広がり、創設から最初の100年で、ヨーロッパ各地に710か所、12世紀~13世紀の200年間で1470か所もの修道院が建てられました(全期間では1750か所)。

 

聖ベルナールの活躍

 

この発展は、12世紀の半ばに現れたシトー派クレルヴォー修道院のベルナール(ベルナルドゥス)(1090~1153)の功績によるものと広く認められています。フランス南部のシャンパーニュの貴族出身のベルナールは、1113年に、家族・親族・友人など約30名とともにシトー修道会へ入会した後、本人の人格とずば抜けた説教の力で、教団は一気に拡大し、シトー修道会は歴史的な発展を成し遂げたと評されています。ベルナールが直接的に関わった新たな修道院の建立では、世界遺産フォントネー修道院など、生涯で69か所、ベルナールの「教え子」たちが建立した数を含めると、シトー修道会の全体約20%、350か所を数えました。

 

ベルナールの存在は、シトー修道会だけなく、カトリック教会ひいてはヨーロッパ宗教界に広く知れわたり、ローマ教皇さえもが助言を求めるほどであったそうです。1146年には、ローマ教皇エウゲニウス3世(在1145~1153)が聖地エルサレム救援の「第2回十字軍」の派遣を提唱した際(エウゲニウス3世もかつてベルナールの弟子であった)、ベルナールは、十字軍の派遣と参加を呼びかける演説を各地で行いました。後に伝説的と評されたベルナールの説教に感動したフランスの「若年王」ルイ7世や神聖ローマ帝国のコンラート3世をはじめ多くの国王や有力貴族が十字軍への参加を決意したと言われています。総勢10万人をこえる規模となった第2回十字軍(1147年~1148年)は、「聖ベルナールの十字軍」とも言わるほど、ベルナールの影響力は絶大だったわけです。

 

しかし、十字軍の戦いそのものは、指揮官同士の意見対立などによる統制の乱れから、軍事的な成果を上げることができないまま、失敗に終わってしまいました。同時に十字軍の派遣を呼びかけたローマ教皇エウゲニウス3世、そしてその勧誘説教を行った聖ベルナールの指導力と権威は急速に弱まってしまいました。(二人とも1153年に死亡)。ベルナールの死後、シトー修道会は徐々に衰退していきます。

 

シトー修道会の終焉

イエスとその使徒たちと同じ生活に戻ることをめざした修道院の閉じ込められた使徒的生活を永遠に続けることにはどうしても不可能であることは、歴史の教えるところです(過去のどの修道会も、半世紀とその理想を保持しえたものはなかったとの指摘もなされている)。シトー派修道会も例外ではありませんでした。後のドイツの「東方植民」とも結びつき、彼らは未開地の開墾活動を継続していきますが、シトー修道会も羊毛や家畜などの生産物を売って莫大な富を有するようになると、シトー修道会の「清貧」は捨て去られ、次第に俗化していったのです。

 

こうしてシトー修道会も、クルニュー修道院と同じ運命を辿ることになり、12世紀後半以降は托鉢修道会の出現によって急速に衰退していきました。その後のシトー派は、「百年戦争」や「ユグノー戦争」など数世紀間にわたった政治的混乱の影響を受け修道院の数は激減し、意を異にする複数の地域活動グループが生まれるなど、凋落と崩壊への一途となってしまいました。最後は、1791年にフランス革命政府から「修道院解散令」が発令されたことで、シトー修道院は閉鎖され事実上消滅、700年の歴史の幕を閉じました。

 

 

  • 托鉢修道会

 

クルニュー修道院、シトー修道会と続いた修道院運動は、13世紀になると、托鉢修道会がその役割を担いました。托鉢修道会は、徹底した清貧を説き、労働と托鉢を重じる修道会で、イタリアのフランチェスコ会と、南フランスのドミニコ会などをさします。

 

富や財産を蓄えることで世俗化し腐敗していった過去の修道院を反面教師とした托鉢修道会の修道士は、都市や農村を歩き回り、托鉢(信者からの寄付)のみで生活しながらイエスの教えに忠実に生きようとしました。

 

当時のローマ教皇インノケンティウス3世(在1198~1216)は、この二つの托鉢修道会を正式に認可し、そうした運動を取り込み、利用しながら、ローマ教会の体制維持に努めました。

 

 

<フランチェスコ会(フランシスコ会)>

 

清貧宗団・小さき兄弟会

 

フランチェスコ派修道会(フランチェスコ会)は、イタリアのアッシジ出身の修道士フランチェスコ(1182~1226)が、1208年に創立した托鉢修道会です。豊かな商人の子であったフランチェスコは、もともと病弱であったそうですが、ある時、大病を患って生死の境をみてから、信仰に目覚めると、家を含むすべての世俗的な欲を捨て、イエスと同じような清貧の生活を送ることを決心したのです。

 

当初、11人の仲間とともに、フランチェスコは、アッシジ郊外の丘の上に「小さき兄弟会(小さき兄弟たちの修道会)」を創設しました。その基本理念は、無所有と清貧で、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音を宣べ伝えることでした。

 

ボロ布のようなガウンをまとい、腰を麻の紐で縛っただけとも言われた服装で、共同生活を始めた彼らは、イエスがそうしていたように、街々をまわり、人々に悔い改めることを説きました。一切の所有権を放棄し、わずかな手仕事と、托鉢(他者からの喜捨)によって生計をつないでいました(人々からは乞食僧団と揶揄された)。

 

フランチェスコが神の啓示を受けて出されたいう会則は、簡潔さと妥協の余地のない厳格さを示し、わずか3カ条だけで、以下の新約聖書(福音書)にあるイエスの言葉からきていました。

 

第一条:マタイ伝19章21節

汝、もし完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」

 

第二条:マタイ伝10章9,10節

財布の中に金、銀または銭を入れてはならない。旅行のための袋も、二枚の下着も、靴も杖も持って行ってはならない。

 

第三条:マルコ伝8章34節

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 

フランチェスコの活動は、最初のうち、異端まがいに思われていましたが、フランチェスコみずからローマに赴き教皇インノケンティウス3世に面会し、趣旨を説明したところ、1210年、ローマ教皇から活動の承認を口約されました(正式認可は1223年)。教皇直属の組織となったフランシスコ会((正式会名は「小さき兄弟会」)は次第に参加の修道士が増え、創設から20年足らずで、会員三千人の組織に成長しました。ただし、フランチェスコは、修道会の発展には興味を示さず、むしろ、エジプトなど異教の民の改宗に熱意を燃やしたと言われています。

 

フランシスコ会派の分離独立

 

その一方で、組織的に発展すればするほど、フランシスコ会(小さき兄弟会)の原点である清貧からは遠ざかっていくのも避けられませんでした。清貧を求めているにもかかわらず、多くの人々の喜捨によって、修道会の財産は豊かなものになっていったのです。

 

そうすると、厳格な清貧生活を守ろうとするフランチェスコと、ローマ教皇に従って組織を拡大しようとする多くの修道士が対立するようになりました。そうした中、最後までイエスの精神を守り「清貧」を貫いたフランチェスコでしたが、再び病に侵され、1226年、静かに息を引き取りました。フランチェスコは、2年後、フランチェスコ会出身の教皇グレゴリオ9世により列聖(聖人と認めらた)されています。

 

聖フランチェスコの死後も、フランシスコ修道会(小さき兄弟会)は、現実路線を志向する穏健派と、聖フランチェスコの遺志をあくまで貫こうとする厳格派の対立は続きました。やがて、穏健派は、「共同体の兄弟たち(共同体派)」(後に(1250)コンベンツアルまたはコンムニタス)、厳格派は「会則遵守の小さき兄弟たち(遵守派)」(オブセルバンテス)(1368)と呼ばれるようになりました。

 

1517年、教皇レオ10世は、公式に、共同体派(穏健派)の流れを汲む「コンベンツアル兄弟会」と、遵守派(厳格派)の「会則遵守の小さき兄弟会オブセルバンテス小さき兄弟会)」とに分割し、当初のフランシスコ会(小さき兄弟会)は独立した二つの修道会となりました。

 

さらに、1525年、「会則遵守の小さき兄弟会(オブセルバンテス小さき兄弟会)」からは、より急進的なカプチン派が分派し、「カプチン小さき兄弟会」となりました(1619年に公式に独立)。

 

こうして最終的に、聖フランチェスコが創設したフランシスコ会(小さき兄弟会)(第1会)は3つ修道会に分裂しました。

 

・コンベンツアル聖フランシスコ修道会(コンベンツアル小さき修道会)

・フランシスコ会(小さき兄弟会)

・カプチン聖フランシスコ修道会(カプチン小さき修道会)

 

かつての厳格派のなかの一部には、カトリック教会全体の蓄財を批判したりするなどいくつかの極端な主張は異端として退けられ、代々のローマ教皇に活動を禁止されているグループもあります。

 

このように、フランシスコ会(小さき兄弟会)は、分散しながらも、会則の遵守という形で聖フランチェスコの精神は共有し、カトリック教会での最大の修道会として、その後も発展を続け、13世紀末には会員数が3万人を誇りました。、宗教改革の際にも会員5万人、18世紀半ばにはその数は13万人以上に擁する教団として現在も存続しています。

 

フランシスコ会の海外布教

 

一方、フランシスコ修道会の修道士による世界布教も活発に行われ、イタリアだけでなく、ヨーロッパ全土、北アフリカ、パレスチナおよびシリアへ広がり、さらには中国にも教線は拡大しました。1246年、インノケンティウス4世の命によりモンゴル帝国の首都カラコルムを訪れたプラノ・カルピニ(1182ごろ〜1252)や、13世紀末には中国伝道を初めたモンテ=コルビノ(1247~1328)などに活躍は特筆されます。

 

会員(会士)たちの活動も、福音宣教に限らず、学問、教育、福祉活動の分野に及びます。特に、スコラ哲学者・神学者のウィリアム・オッカム(1285~1347)は有名です。

 

 

<ドミニコ会>

 

ドミニコ会は、13世紀初め、スペイン人の聖ドミニコ(ドミニクス)によって創設された托鉢修道会です。28歳まで人文科学、哲学、神学など学究に従事していたが、布教に立ち上がることを決意したドミニコは、1204(6)年、ローマを訪れて、教皇インノケンティウス3世に面会、フランスで異端として勢力を持っていたカタリ派の改宗を託されました。

 

そこで、ドミニコはカトリックの伝道のためには、カタリ派に勝る敬虔と厳格主義(清貧)が必要と悟り、自ら清貧の生活を営みながら、教会だけでなく、町の広場や辻で説教や討論を繰り返しました。その後、トゥールーズに拠点を移し、南フランスだけでなくスペイン、イタリアの異端者たちを改宗させました。1216年にローマ教皇ホノリウス3から、修道会として正式に承認されました(正式会名は「説教者会」)。彼らも信者の寄付によって生活していたので「托鉢修道会」に属します。

 

ドミニコ派修道会(ドミニコ会/説教者会)の精神は、「観想し、観想の果実を他の人々に伝えよ」ということばに表現されるとよく言われます。共同生活の中で、祈り、神学研究を行いながら、三誓願(従順、清貧、貞潔)によってキリストの真理を智り、伝える(説教を行う)という理想を求めました。

 

「私有であれ共同体のものであれ財産はいっさい所有しない清貧生活を実践しながらも、従来の修道院のような、規律に従って上長の命令を守り、一個所に定住することなく、ヨーロッパ中を旅をして、イエスの福音を宣べ伝える」ことを行動原則としました。

 

また、ドミニコ会は、学問的貢献が著しく、ドミニコ派修道士として出発したスコラ哲学トマス=アクィナス(1225頃~1274)など高名な神学者を輩出し、パリ、ボローニャ、ケルン、ローマ、オクスフォードなどの大学に神学教授を提供しました。

 

ドミニコ会士は、キリスト教の布教に情熱を燃やすと共に、当時民衆に広まっていた異端の取り締まりと異端の改宗の先頭に立って活動しました。既に述べたように、ローマ教会によるカタリ派(アルビジョワ派)やワルド派にたいする弾圧に積極的に協力しました。また、村落の隅々まで、反教会的な異分子を魔女狩りと称して摘発し魔女裁判にかけていきました。

 

ドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって、「神の犬 Domini canes」(ドミニ・カネス)とも呼ばれてしまうほどでした。スペインのドミニコ会の修道士、トマス・デ・トルケマダ(1420-1498):スペインの初代異端審問所長。最も激しく異端審問を行ったことで知られています。逆に、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士の、ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600):コペルニクスの地動説を擁護し、異端として焚刑に処せられました。。

 

16世紀になり宗教改革を迎えてても、ドミニコ会は、プロテスタントやカトリック教会の改革派に対する攻撃の先頭に立ち、宗教裁判所を舞台に、さかんに異端審問を行っていきました。

 

ドミニコ会以降、修道院運動は、彼らの活動は修道院を離れて街頭での布教を重視していたので、次第に衰退しましたが、ドミニコ会そのものは、近代の一時期、低迷することもありましたが、その後復活し、現在に至っています。

 

 

<参照>

中世ヨーロッパのキリスト教世界/クリュニー修族とシトー修道会

異端と正統④: 河童の川流れ

歴史 – コンベンツアル聖フランシスコ修道会 – 聖母の騎士社

OFM Japan/フランシスコ会

Wikipediaなど

 

 

2020年07月16日

キリスト教:東西教会はいかに分裂したか?

イエスの宣教から処刑、十二使徒やパウロの命がけの伝道を経て、ローマ帝国からようやく公認されたキリスト教は、その後、どう展開していったかを見ていきましょう。

 

ここまでの経緯については、以下の投稿を参照下さい。

イエスの生涯

原始教会 ペテロやパウロの伝道

 

ーーーーー

 

  • 公認されたキリスト教

 

ローマ帝国のコンスタンティヌス帝は、313年にミラノ勅令を出し、迫害され続けたキリスト教がローマ帝国内で信仰されることを公認しました。もっとも、帝国領内には、古来のローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼も残っていましたし、マニ教やミトラ教(太陽信仰の一種)などの異教の信仰も盛んでしたので、この段階でキリスト教は、まだ信仰できる宗教の一つと認められただけでした(もちろん弾圧され続けたことを考えれば、大きな成果であることは間違いない)。

 

キリスト教そのものも、教義はまだ定まっておらず、信仰のこまかい部分で疑問や矛盾点が指摘され、さまざまな解釈が存在していました。とくに、「イエス=キリストは神なのか人間なのか」で、はげしい論争が各地の教会で繰り広げられました。最大の論点は、やはりイエスの復活です。神学上、イエスの復活を認めるなら、イエスは神の子であるか、または神と同一の存在と認めなければならないことになります。

 

また、イエスは宣教中、ユダヤ教の唯一神であるヤハエ(ヤハウェ)を「わが主よ」と呼びかけています(キリスト教を起こしたのは弟子たちで、イエスは生涯ユダヤ教徒でした)。そうすると、イエスが神なら、一神教の絶対神とされるヤハエ(ヤハウェ)との関係はどう説明されるのか?さらに、イエスの母マリアにも聖性があるのかなどが論点となりました。マリアは普通の女性です。イエスが神なら、人間であるマリアが神を産んだことになります。

 

 

  • ニケーア公会議

 

初期のキリスト教徒たちは、これらの疑問について、論争を繰り返した結果、いくつかの派閥に分裂しました。その中で、代表的なグループがアリウス派とアタナシウス派でした。

 

アリウス派は、イエスを人間と考え、崇拝の対象にはしません(イエスに人性を強く認め、神性を否定)。イエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではないと考えるのです。イエスの神性が否定されるので、母マリアに聖性があるかの問題もおきません。

 

これに対して、アタナシウス派は、「神ヤハウェが聖霊に姿を変えて処女マリアに宿り、イエスとして生まれた」と考えます。つまり、イエスは神の子であり、本質において神性を持ち、神自身と全く同質であると主張します。また、マリアは「神の母」だから聖性も認められます。

 

このアタナシウス派とアリウス派の対立が深刻になってきたことを受けて、コンスタンティヌス帝は325年に、皇帝は各地の教会の責任者を集め「ニケーア公会議」を開催し、話し合いによる教義の統一を求めました。

 

会議では、アタナシウス派が「正統」とされ、イエスは人間ではなく神であるとして、イエスの神性が認められました。これに対して、アリウス派は「異端」と断罪され、ローマ帝国を追放されてしまいました。アリウス派は、その後、ゲルマン民族に伝わりましたが、やがて消滅したとされています。ただし、ユダヤ教のイエス観に近く、またイスラム教の下地になったとも言われています。

 

こうした教義論争は、このあともたびたび行われ、異端とされた学派は追放され、アタナシウス派が現在のキリスト教の教義を形作ることになっていきます。

 

 

  • 三位一体説

 

ニケーア公会議後、イエスは神の子であるというイエスの神性に加えて、神とイエスを一体と見る考え方と、聖霊にも神性を認める考えが結びつけられ、アタナシウス派の主張は、三位一体説として発展していきます。

 

欧米の映画などで、キリスト教会での洗礼などのシーンで、「父と子と聖霊の御名においてアーメン」と言って、十字が切られる場面を思い出される方はいませんか?三位一体説とは、「父(天にまします父なる神)」、「子(子なるイエス)」、「(イエスによって遣わされた)聖霊」は一体のものであるという考え方です。

 

より具体的には、神は、私たちとの関係において、「(父なる神)」,「(神の子)」,「聖霊」という3つの存在のしかたをしていると説明されます。

 

「父なる神」は、創造主としての存在です。

「神の子」は、イエス・キリストとして、この世に遣わされた存在です。
「聖霊」は、私たちを直接神と結びつけてくれる存在です。

 

神はこのように三つの存在の仕方をしてますが、実はその本性は一つで,それを指して「一体」と説明されます。「父と子と聖霊」は本質において同一で、「父」、「子」、「聖霊」は、どれもキリスト教の神のことを指すのです。本来、一神教であるキリスト教の神を,多様な呼び方をしているのですね。古代のキリスト者は、父と子と聖霊の三位一体を喩えて、太陽と光線と輝き、あるいは木、花、香りなどの関係に喩えて説明してきました。

 

こうして、アタナシウス派の三位一体説は、キリスト教の正統教義として体系づけられていきました。(381年に開催されたコンスタンティノープル公会議で、正統な信条よして確定)。その後、キリスト教会は西のカトリック教会と東の正教会とに分裂しますが、どちらも、三位一体説のアタナシウス派です(聖霊の考え方には違いあり)。

 

なお、余談ですが、キリスト教徒でなければ、キリスト教は、イエス=キリスト(救世主イエス)を神として信仰し、イエスに祈り、自分たちの救いをイエス=キリストにお願いしていると感じがちです。これは、三位一体説の中で、イエスが本来信仰していた「天なる父」以上に、「神の子のイエス」の方が突出した存在になった結果だといえます。

 

 

  • ローマの国教となったキリスト教

 

熱心なキリスト教徒だったとされる皇帝テオドシウス1世(テオドシウス帝)(在379年~395年)は、380年に、まずキリスト教の国教化を定めました。ただ、この時点では他の宗教団体も同様に信仰、布教が認められています。

 

また、翌381年に開催されたコンスタンティノープル公会議において、アタナシウス派の三位一体説が完成され正統であることを確定しました。この背景には、ニケーア会議後、アリウス派が勢いを盛り返し、時の皇帝コンスタンチヌス帝も妥協に傾いたことに対して、アタナシウス派が働きかけたのでした。

 

さらに、テオドシウス帝は、392年、アタナシウス派キリスト教以外の祭礼と供犠を法的に禁止する勅令を出しました。これによって、(アタナシウス派の)キリスト教は、正式にローマ帝国の国教となったのです。

 

異教への禁圧は徹底され、この勅令を無視して、393年にローマ領内のギリシアで、オリンポス十二神の祭礼が行なわれると、神殿の財産が没収され、ギリシアの古代オリンピア競技会も廃止されてしまいました。

 

 

  • エフェソス公会議

 

ただし、これで、アタナシウス派の地位が不動になったかというとそうではなく、5世紀に入ると、三位一体説を揺るがすネストリウス派が台頭してきました(後述しますが、この時、すでにローマ帝国は東西に分裂している)。

 

ネストリウス派は、イエスが神だとすれば、人間マリアから生まれるはずがないと考え、イエスは人間として生まれた後、神の性質を帯びたと考えます。神学的な難しい言い方をすれば、イエス・キリストの神性(神としての性質)と人性(人間としての性質)を区別して考えるのです。母マリアについては、生まれたときのイエスは人だったので、マリアの聖性も認められません。彼らは、マリアを「神(イエスのこと)の母」ではなく「キリストの母」と呼びます。

 

そこで、431年、東ローマ皇帝テオドシウス2世の招集によりエフェソス公会議が開かれ、ネストリウス派は異端とされました(追放されたネストリウス派は、その後ササン朝に伝道し、唐代の中国に伝わり景教と呼ばれた)。

 

 

  • カルケドン公会議

 

さらに、451年、カルケドン公会議が開かれ、最終的に三位一体説が正統であることが確認されました。この時は、アタナシウス派の三位一体論の一部である両性論と、これに反対するネストリウス派の流れをくむ単性論との対立がありました。

 

両性論は、イエス・キリストの神性(イエスの神としての本質)と人性(イエスの人間としての本質)を一体として考えます(イエスは人性と神性の両性を持つ)。ただし、それは融合した形で一つになって存在するのではなく、イエス・キリストは、神性になれば「父なる神と同質」となり、人性になれば「人間と同質」になる、すなわち、それぞれ別個に完全体として存在すると解釈しました。

 

一方、単性論では、イエスは人間として、この世に現れたが、それは形だけであり神性によって満たされているから、イエス・キリストの本性(本質)は神であると考えます。神学的には、「キリストの人性は、この世において神性と融合し、単一の神性をそなえた存在となった」とみなします。

 

このカルケドン公会議で、改めてアタナシウス派の三位一体説が、キリスト教の唯一の正統な教理であることが確認されました。もっとも、エジプトのコプト教会エチオピア教会、シリア正教会(ヤコブ派)、アルメニア教会など、三位一体説を否認し、単性説の信仰を捨てなかった宗派は今なお存在しています。

 

また、カルケドン公会議は、単性説に対して三位一体説を守る必要を感じたローマ教会の司教レオ1世の働きかけがあって実現しました。このため、この会議以降、ローマ教会の発言力が強まり、他の教会に対する首位権を主張するローマ司教は「ローマ教皇」と言われるようになったとされています。

 

いずれにしても、「正統」か「異端」かの大きな論争に終止符が打たれたと言えますが、今度は、同じアタナシウス派のキリスト教の同士の分裂が引き起こされていくことになっていきます。

 

 

  • ローマ帝国の東西分裂後の教会

 

時代の針を少し戻すと、テオドシウス帝は、395年、死に際して、帝国を東西に分割し、2人の子、長男のアルカディウスと、次男のホノリウスにそれぞれ分け与え、それぞれ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と、西ローマ帝国となりました。

 

テオドシウス帝はもともと、一つの帝国を2人で分割統治させる意向だったと言われていますが、結果的に、東西に分裂したまま、帝国は終焉してしまいます。東ローマ帝国は15世紀半ばまで存続しましたが、西ローマ帝国は、分裂後もゲルマン人の侵攻を受けて衰え、476年、傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされました。

 

さて、キリスト教の国教化がなされてから、少なくとも6世紀ごろまでに、ローマ帝国内には、「五本山」または「五大総司教区」などと呼ばれる、以下の5つの大きな教会の管理区域(5管区)がありました。

 

ローマ

コンスタンチノープル

アレキサンドリア

アンティオケヤ

エルサレム

 

それぞれの教会には、信徒を監督し指導する「総主教(総司教)」のようなまとめ役はいましたが、各教会間に、理念上は、優越性などなく、神のもとでみな同じであることで一致していました。しかし、実際は、長年ローマ帝国の首都があり、ペトロやパウロが殉教したローマ教会と、キリスト教公認後、帝都となったコンスタンチノープルの教会が有力となりました。

 

そして、ローマ帝国の分裂後、西ローマ帝国の西方教会、東ローマ帝国の東方教会という色分けされるようになりました。特に、7世紀になると、イスラム教がアラビア半島から勃興し、次第に勢力を西に広げたため、ビザンツ帝国は、小アジアやシリア、さらにエジプトなど北アフリカを失っていきました。キリスト教の拠点も、アレクサンドリア、アンティオキアだけでなく、聖地エルサレムまでもが、イスラム教徒に攻略されてしまいました。

 

こうして、西方のローマ教会(後のローマ・カトリック)と東方のコンスタンティノープル教会(後の正教会/ギリシャ正教)がキリスト教を代表するようになりました。いずれの教会も、アタナシウス派の三位一体説に従っているので、当初、教義上は大きな対立点はありませんので、共存する関係にあったと言えます。

 

しかし、西ローマ帝国滅亡後、欧州政治の変動に伴い、東西教会では次第に対立し、やがて分断していくことになります。

 

 

  • 東西教会対立の芽生え

 

コンスタンティノープル教会は、東ローマ(ビザンツ)帝国内にあって、皇帝と結びついて発展しました。東ローマ(ビザンツ)皇帝は、初期の教義論争にも積極的に介入し、公会議を開催しましたし、コンスタンティノープル総主教を初めとする高級聖職者の人事権にも介入するなど、教会に影響力を行使できる立場にありました。

 

コンスタンティノープル教会を筆頭にした、東ローマ(ビザンツ)帝国内の教会をひとまとめにして、現在では、正教会(ギリシャ正教)と呼ばれますが、「ギリシャ正教はビザンツ皇帝を首長とする」とか、「「ビザンツ皇帝は地上におけるキリストの代理人としてギリシア正教会を支配する立場にある」などと形容された時期もありました。かつては、「皇帝教皇主義」という用語も使われたこともあります(もっともそこまでの権限はなかったとの見方が現在では一般的)。

 

一方、ローマを中心とする教会は、ラテン語の文化圏にあったことや(ローマ教会のことをラテン教会と呼ぶこともある)、西欧への伝道が中心であったことなどから、次第に他の四総主教と違った歩みを始めていました。とりわけ、前述したように、キリスト教教会の首位権を主張するローマ教会は、独自に「法王」という考え方を導入し、ローマ教会の大司教は「教皇」と呼ばれるようになりました。

 

ただし、ローマ教会は、西ローマ帝国が滅亡し、政治的な後ろ盾を失ったため、当時、かつての西ローマ帝国の領域を再び統一しつつあったゲルマン人のフランク王国に接近します。フランク王国としても、統治者としての正統性と権威を与えてくれる存在を求めていました。800年には、フランク国王のカール大帝が西ヨーロッパを制圧すると、ローマ教皇はカールに「西ローマ皇帝」の冠を与えました(カールの戴冠)。こうしてローマ教会はフランク王国と結びついて、西ヨーロッパ全域に影響力を持つようになっていきます。

 

こうして、西ローマ帝国が滅亡した後の西方教会(ラテン教会)が、フランク王国との結びつきを強くしていくに従い、東方教会との距離が遠くなり、ローマ教会(西方教会)とコンスタンティノープル教会(東方教会)は、独自に道を歩み始めます。

 

 

  • 聖像禁止令

 

そうした中、東西教会を二分するきっかけとなったとされる「事件」が発生します。それは、8世紀のビザンツ帝国皇帝が打ち出した聖像禁止令を巡る聖像崇拝問題でした。

 

東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝レオ3世は、726年、聖像禁止令(偶像禁止令)を出します。これは、偶像崇拝を厳しく禁じたイスラム教の影響を受けて、聖像崇拝については否定的であったからです。これに対して、ローマ教会は、フランク王国などゲルマン人への布教に際して聖像(キリストなどの彫刻や絵画)を使っていたので、ビザンツ皇帝の禁止令に強く反発しました。

 

ビザンツ帝国の教会や修道院にあっても、聖像(イコン)を使用していたところもあったことから、ビザンツ帝国内でも聖像擁護派は、聖像破壊運動(イコノクラスム)と呼ばれる政策によって弾圧されました。

 

ビザンツ帝国での聖像禁止のうごきは9世紀には後退し、843年に、聖画像の使用は容認されて収束しましたが、正教会(ギリシャ正教)では、今日でもなお、偶像崇拝を避けるために、信仰に、イコンやモザイクなどの平画像の使用までしか認められていません。

 

 

  • 東西教会の分裂

 

もっとも、この聖像禁止令によって、直ちにキリスト教会の東西分裂をもたらしたわけではありません。実際は、これを契機に、教会の首位権、典礼のあり方、ブルガリア教会を巡る管理権、教義など、双方の教会の間に様々な問題が生まれてきました

 

例えば、典礼(儀式・祭礼)に関して、コンスタンティノープル側が問題にしたのは、ローマ教会(ラテン教会)の典礼の方法として、ミサに種なしパン(イーストを入れないパン)を使っていることで、これをユダヤ教的な異端であると批判したのです(東方正教会では、種入りパンを使用)。

 

また、何より双方がどうしても譲れない問題は、ローマの優位性、つまりローマ教皇の存在です。ローマ教会は、使徒ペテロを初代教皇として、自らの正統性を制度化していました。コンスタンチノープルは、「キリストの教会における普遍的裁治権を行使し、教義を決定する究極の審判者」とされるローマ教皇を認めることはできません。

 

そうした中、欧州では、9世紀ころから各地を侵攻し始めたノルマン人の活動が新たな脅威となっており、11世紀半ば頃にはシチリアから南イタリアに進出してきました。そこで、(当時、教皇は政治的な力も保持していた)ローマ教会とビザンツ帝国は、共通の敵に対抗するため、両者は軍事同盟を結ぶべく、協議を重ねました。ところが、協議の過程でこれまでの両者の問題が改めて浮き彫りにされ難航します。

 

1054年3月、ローマ教皇レオ9世は、コンスタンティノープル側との交渉役に枢機卿フンベルトゥスを派遣し、協議を重ねましたが、コンスタンティノープル総大司教ミカエル=ケルラリオスとの間で、神学上の問題や、西方教会の東方教会に対する優位性を巡り、大論争となりました。

 

そして、遂に、同年7月、ローマ教皇の特使フンベルトゥスが、総大司教ケルラリオスとその一門に対し、破門を宣告したのです。これに対し、ケルラリオスは主教会議を召集し、ローマ教皇の代理人フンベルトゥスを逆に破門すると言う事態となってしまいました。この事件をもって東西教会が分裂したとされています。

 

ただし、この教会分裂は、神学的動機よりも、むしろ政治的動機に基づく、偶然的な事件と見られています。ノルマン人に対抗するための同盟そのものも、コンスタンティノープル側からすれば、コンスタンティノープル主教座に属する南イタリア地方の教会管轄権をローマ教会が侵害する意図があると疑っていたとされています。ただ、動機はどうであれ、ローマ教会もコンスタンチノープル教会も、お互いを破門したことで招いた分裂が、それから900年以上続くとは予想もしていなかったはずであると解されています。

 

むしろ、両教会の分離を決定的にしたのは1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル占領によってであった言われています。この時、イスラムの支配下にあった聖地エルサレムを奪還する目的で、ローマ教皇が派遣した軍隊である「十字軍」が、エルサレムではなく、コンスタンチノープルを攻略し、ラテン帝国を建てたのでした。

 

いずれにしても、1054年を機に、キリスト教の世界は、東西に二分されました。ローマ教皇を中心としたローマ教会(ラテン教会、西方教会)は、自らの「普遍性」を主張し(「カトリック」とは普遍という意味)、「ローマ・カトリック教会」と名乗り、コンスタンチノープル総主教を中心としたコンスタンチノープル教会は、自らの「正統性」を主張して、「正教会(東方正教会、ギリシャ正教)」と名乗り、現在に至っています。

 

 

 

<参照>

聖書と歴史の学習館

世界史の窓

Manapedia(マナペティア)

5分で分かるキリスト教の歴史と神学

三位一体の意味、中部学院大学

父と子と聖霊、カトリック学校教師のページ

Wikipediaなど

 

2020年07月06日

キリスト教:イエスの十二使徒たち

今回は、原始キリスト教(初期教会)の確立に、生涯を伝道に捧げ、大半が殉教していった十二使徒と呼ばれるイエスの12人の弟子たちをみてみたいと思います。
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  • 十二使徒(The Twelve Apostles)

 

使徒とは、原始キリスト教会において最重要の地位を占め,大きな権限を委託された指導者群をさし、イエスは福音を伝えるために、12人の弟子を選んで、使徒と名づけました。

 

  • ペトロ(Petrus

(ヘブライ名シモン、英語名ピーター、仏語名ピエール、ロシア名ピョートル)。

 

ガリラヤの漁夫ペトロは、12使徒の最長老で、イエスの一番弟子、初代教会の指導者となりました(カトリック教会では初代ローマ教皇)。ガリラヤ湖で弟アンデレと漁をしている時にイエスに声をかけられ、最初の弟子になったとされています。

 

ペトロは、ローマで布教していましたが、AD67年、皇帝ネロの迫害により逆さ十字架にかけられて殉教しました。ローマのサンピエトロ大聖堂に埋葬されています。

 

 

  • アンデレ(Andreas

 

アンデレはペトロの弟で、兄ペトロとともにイエスの弟子になりました。元は、イエスと同様、洗礼者ヨハネの弟子です。アンドレは、黒海沿岸で伝道を行っていましたが、ギリシアのパトラ(Patras)でX字型の十字架で処刑されました。

 

 

  • 大ヤコブ(Jacobus

(英語名ジェームス、仏語名ジャック)

 

ヤコブは、同じ12使徒の一人、アルファイの子のヤコブ(小ヤコブ)と区別するために、大ヤコブ、またはゼベダイの子ヤコブと呼ばれます。

 

大ヤコブは、ヨハネの兄で、ペテロ、ヨハネと共にイエスの一番弟子とされています。イエスの死後、スペインで、6年間布教活動を行った後、エルサレムに戻り、最初のエルサレム教会の指導者となりました。しかし、当時は、パレスチナの王ヘロデ・アグリッパによるキリスト教迫害が激しさを増していた時で、44年頃、ヤコブは捕らえられ斬首刑になりました。使徒の中で最初の殉教者でした。

 

ヤコブの弟子達は、遺骸をパレスチナからスペインに運びましたが、その後、スペインはイスラムの勢力下に入り、その場所はわからなくなりました。しかし、9世紀になって、レコンキスタ(イスラム勢力からの国土回復運動)が進む中、ヤコブの遺体が、サンティアゴ・デ・コンポステーラの地で奇跡的に発見されました。以後、その場所は、イスラムと闘うキリスト教徒を守護するシンボルとなり、ヤコブはスペインの守護聖人と崇められるとともに、サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ローマ、エルサレムと並ぶ大巡礼地になりました。

 

 

  • ヨハネ(Johanne

(英語名ジョン、仏語名ジャン、露語名イワン、

女性形では、ジョアンナ、ジャンヌ、ジャネット)

 

大ヤコブの弟のヨハネは、ガリラヤの漁師の子で、アンドレと同様、イエスを洗礼した洗礼者ヨハネの弟子です。ヤコブ、ペテロと共にイエスの一番弟子という位置づけで、気性が荒い性格で、イエスから「雷の子」というあだ名を付けられたと言われています。

 

ヨハネは、常にイエスと行動を共にしましたが、12使徒の中で唯一殉教を免れ、晩年をエーゲ海のパトモス島で過ごしました。また、新約聖書の「ヨハネによる福音書」や「ヨハネの黙示録」を記したことでも有名です。

 

 

  • フィリポ (Philippe

(英語名フィリップ、スペイン語名フェリペ)

 

フィリポは、ヨルダン川の岸辺にいたところを、イエス自身が「私についてきなさい(使徒になるように)」とイエスに直接招かれて、弟子になりました。

 

使徒としてのフィリポの活躍の中には、例えば、エルサレムで、エチオピアの女王カンダケに仕える高官(宦官)に、イエスについて福音を伝え、洗礼を受けさせましたという事例があります。使徒行伝によれば、この宦官が洗礼を受けた最初の非ユダヤ人とされています(この高官は、エチオピアに戻り教会を設立し、エチオピアや北アフリカには、かなり早い時期にキリスト教が普及することに貢献した)。

 

その後、フィリポは、トルコ西部で宣教を行いました。そこで、神殿の軍神マルス(ギリシャ神話のアレース)の立像の下から現れた龍を退治し、龍の毒で病気になった人たちを癒し、死んだ者を生き返らせ、大勢の人々を改宗させたという逸話が残されています。

 

さらに、ヒエラポリスという町へ移動したフィリポは、エピオン派(ユダヤ教の要素を取り入れたキリスト教徒)の多くを改宗させましたが、異教の神官らに捕らえられ、逆十字に縛られた上、石打ちにされて処刑されました。この時、フィリポの娘2人も殉教したと伝えられています。

 

 

  • バルトロマイ(Bartholomew

(英語名バーソロミュー、バート)

 

バルトロマイ(別名ナタナエルNathanael)は、フィリポの友人で、フィリポのすすめで、イエスに会いに行きました。この時、イエスから「あなたは、真のイスラエル人。この人には偽りがない」と言われたことに感激して、フィリポとともに弟子になりました。

 

イエスの死後、インドからアルメニアで伝道活動をしていましたが、捕らえられて生きながら皮を剥がされる「皮剥ぎの刑」で殉教したとされています。

 

 

  • トマス(Thomas

(英語名トーマス、トム、トミー、仏語名トマ)

 

ガリレア地方の生まれで、ゲネザレト湖畔で漁師をしていたトマスは、イエスの弟子になり、イエスの「最後の晩餐」にも同席していますが、「疑い深いトマス」とのあだ名をつけられました。

 

復活したイエスは、弟子が集まったところに現れましたが、その場にいなかったトマスは、「イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じない」と言い張り、イエスの復活を信じようとしませんでした。

 

しかし、8日後、イエスはトマスの前にも現れ、「あなたの指を私の手とわき腹に入れてみなさい」と述べられたことで、トマスは復活を信じたとされています。その後、トマスはイエスの昇天に立ち会い、聖霊降臨の際には、聖母マリアや他の使徒たちとともに聖霊の賜物を受けたそうです。

 

こうした体験を受けて、トマスは宣教に立ち上がり、東方に赴きました。ペルシャで説教した後、南へ向かい、インドで伝道を行いました(南インドにはトマスが設立した教会がある)が、西暦68年~75年ごろ、チェンナイ(旧マドラス)のマイラプールという所で、ブラマン教徒により槍で刺されて殉教したと伝えられています。

 

 

  • マタイ(Matthaeus

(英語名マシュー、仏語名マテュー)

 

マタイは町の徴税人で、ユダヤ人社会からのけ者にされていました。当時、徴税人は、ローマ帝国から徴税業務を請け負った者で、貪欲な者がなる仕事とみなされ、住民からは嫌われていたのです。

 

ある日、イエスは収税所にいるマタイに「弟子になるように」と声をかけると、マタイは立ち上がって、徴税人の仕事を辞め、イエスの後に従いました。その後マタイは、裏切り者扱いされ嫌われている自分に声をかけてくれたイエスに、感謝を表すために、イエスと弟子たちを招待して盛大にもてなしたという逸話があります。

 

イエスの死後、当初エルサレムの教団内に留まったマタイは、その後、使徒として各地で伝道を行いましたが、エチオピアあるいはトルコ(ヒエラポリス)で殉教したとされています。ある教会の説教で、その地の王を批判するような内容であったため、その王が送った刑吏に刺殺されたと言われています。

 

マタイは、紀元80年から90年頃に書かれたとされる新約聖書「マタイの福音書」の著者でもあります。

 

 

  • シモン(Simon

(英語名サイモン)

 

シモンがイエスの弟子になったきっかけは、イエスを、ローマ帝国からユダヤの地を解放してくれる政治的指導者として期待したからだとされています。というのも、シモンは、ローマの支配に抵抗する「熱心党」と呼ばれる組織のメンバーでした。

 

熱心党は、紀元6年に、ローマのユダヤ総督が実施しようとした国勢調査に反対することをきっかけとして立ち上げられたガリラヤのユダヤ人が組織で、ユダヤの地を支配する外国勢力(ローマのこと)を認めず、戦ってでも独立の目的を実現しようとする国粋主義的な団体です。当初は、それほど影響力はなかったようですが、次第に民衆の支持を得て、紀元66年に、ローマ帝国に反乱を起こし(ユダヤ戦争)、反乱軍の中心的な存在となって、時の皇帝ネロのローマ軍と戦いました。しかし、70年に、エルサレムが破壊(ヤハエ神殿も倒壊)され、74年春に。死海の南岸に近いマサダの要塞も陥落し、戦いは終わりました。残された熱心党のメンバーも集団自決したと伝えられています。

 

さて、その熱心党の一員であったシモンでしたが、イエスの復活を機に回心し、伝道者(使徒)となり、エジプトに赴きました。その後、十二使徒のひとりであるユダ(タダイ)(裏切り者のユダではない)とともにペルシャやアルメニアで活動し、そこで殉教しました。一説には、ペルシャで、鋸(のこぎり)で切断されて処刑されたとも言われています。

 

ちなみに、シモンとは、イスラエルの祖ヤコブの十二人の息子の次男シメオンにちなんだ名前とされています。

 

 

  • 小ヤコブ(Jacobus

 

アルファイの子ヤコブあるいは小ヤコブと呼ばれているヤコブは、イエスの近親者で、イスラエルの習慣上、「イエスの兄弟」と呼ばれ、また、シモンとユダ(タダイ)の兄弟とも言われています。

聖霊降臨後に復活したイエスに出会い、エルサレム教会に加わり、教会を代表する人物として活躍し、初代エルサレム教会の司教になりました。新約聖書「ヤコブの手紙」の著者ともいわれ、パウロはヤコブをペトロとヨハネと共に教会の柱と見なしていたとされています。一説には、復活したイエスも小ヤコブに特別に現われたそうです。

 

ヤコブはモーセの律法を厳重に守り、毎日エルサレムの神殿に詣でるなど、キリスト教徒とユダヤ人の両方から聖人と仰がれていましたが、パリサイ(ファリサイ)人の反感をかい、殉教してしまいました。エルサレムの神殿の屋根から突き落とされ、人々の石を受けて倒れたところを、こん棒で打たれて殉教したといわれています。

 

 

  • ユダ(タダイ)(Judas)

 

小ヤコブの兄弟あるいはイエスの親族だったといわれるユダ(タダイ)は、イエスを裏切ったとされる「イスカリオテのユダ」ではありません。ユダという名前が嫌われて「忘れられた聖人」とも呼ばれており、実際、ユダ(タダイ)に関する資料はあまり残されていません。

 

ユダ(タダイ)は、バルトロマイとともにエデッサ(トルコ南東部のウルファ)やアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬されているそうです。別の伝承では、シモンとともに、ペルシャやアルメニアで活動したとも言われています。いずれにしても、ユダ(タダイ)は、かの地で、斧によって殺害されて殉教したとされています。

 

 

  • イスカリオテのユダ(Judas)

(英語名ジュード)

 

ユダがいつイエスの弟子になったかは、福音書には書かれておらず、不明です。聖書の中のユダは、イエスから信頼され、お金の管理を任されていましたが(ユダは財務担当だった)、銀貨30枚でイエスをユダヤ教の祭司長に売り渡し(ユダが持ちかけたとされる)、歴史上の裏切り者として描かれています。

 

ユダは祭司長たちをイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡したとされています。イエスは、彼の裏切り行為を知って、「私を裏切る人は生まれなければよかった」ときびしく戒める反面、「友よ、しようとしていることを、するがよい」とユダを友と呼び赦しています。

 

ユダは、イエスに死刑判決が下ったことを知り、ユダは自らの行いを悔いて、受け取った銀貨をユダヤ教の祭司たちに返そうとしました。これを拒絶されたユダは、銀貨を神殿に投げ込んで、首を吊って自殺したとされています。

 

 

  • マティア(Matthias)

 

イエスの復活後、エルサレムに戻ってきた使徒たちは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダの代わりに、マティアを使徒にたてることを、くじ引きで選びました。マティアは、トルコやカスピ海地方、また遠くエチオピアまで布教したと言われています。伝承では、エルサレムでユダヤ人によって石うちの刑にあい、斬首され殉教したそうです。

 

<参照投稿>

イエスの生涯

原始教会 ペテロやパウロの伝道

 

 

<参照>

聖書人物記 R.P.ネッテルホルスト(創元社)

聖書と歴史の学習館

キリスト教マメ知識:女子パウロ

Wikipediaなど

 

2020年07月05日

キリスト教:原始教会、ペテロやパウロの伝道

前回は、イエスの生涯についてみてきましたが、今回は、イエスが「復活」した後のキリスト教について、ローマ帝国に公認されるまでの経緯をまとめてみたいと思います。

 

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  • ペンテコステと教会の成立

 

キリスト教徒(クリスチャン)にとって、重要な行事が3つあります。それは、まず勿論、イエスの生誕を祝うクリスマス、それからイエスの復活を祝うイースター(復活祭)、そして、3つ目の大きな行事がペンテコステです。

 

ペンテコステ(聖霊降臨)とは、復活したイエス(キリスト=救世主)が天に昇ってから50日後、残された弟子たち(信徒120人)が集まって祈っていたところ、天(神)から聖霊が降りてきたという象徴的な出来事のことをいいます。現在も聖霊降臨節は、イースターから50日後にお祝いされています。ペンテコステは、ギリシャ語で50を指し、聖霊とは「神と人との生ける交わりをとりなしている御霊(みたま)、神そのもの」と定義づけられています。

 

このイエスが蘇られてから、50日後のペンテコステ(聖霊降臨)が、教会の起源とされています。紀元後35年頃の出来事です。キリスト教を信仰する人にとって欠かせない場である教会は、キリスト教を信仰する人々の集まりを意味しています。

 

ちなみに、「教会」とはギリシア語の「エクレシア」の訳語で、エクレシアにはもともと「人々の集会」「呼び出された者の集まり」を示す意味があるそうです。イエスの十字架の後、集まった人々のもとに聖霊が降りたわけですから、その場こそが教会(エクレシア)なのですね。

 

この時、約3000人の人々が使徒ペテロの説教に対して、イエスこそ旧約聖書が予言していた救い主(キリスト)であると信仰告白し、一つの共同体が形成されました。これが教会の始まりとされています(ゆえに、ローマ・カトリック教会では、ペトロを初代ローマ教皇とみなす)。

 

この原始教会とも呼ばれる最初の教会は、聖霊の降臨にあずかった、ペトロを含むいわゆる十二使徒(じゅうにしと)が中心となって、エルサレムに建てられました。イエスは自身も間接的ながら、教会を建てると宣べており(マタイ16:18)、約束が成就したわけです。

 

当初、イエスの死を聞いた弟子たちは、自分が助かりたい一心で師を見捨て、裏切ってしまったことに対して、深い絶望と後悔の念に苛まれました。しかし、イエスが復活し、聖霊を通して、彼らのもとに現れたという「体験」が、彼らは目覚めさせました。

 

弟子たちは、復活が神の愛の証拠であり、神の愛を説いたイエスは、みずからの死と復活で、その愛を体現した本当のキリスト(救世主)なのだ、と確信を得たのでしょう。それからというもの、弟子たちは、神の愛と、それを示したイエスの生涯と死、さらには復活を、まわりの人々に語り始めました(伝道の始まり)。これが、教会設立の原動力となり、キリスト教が広がっていく端緒となるのです。

 

 

  • 異邦人への布教

 

ペテロやヤコブなど12使徒(後述)たちは当初、エルサレムなどのパレスチナ地方で、「ユダヤ人、アブラハムの子孫」を対象に伝道をしていましたが、やがて、パレスチナ地方に住む非ユダヤ人への布教も始まります。

 

ペテロは、今のイスラエル北西部の町、カイザリヤに在住のローマ軍の「イタリヤ隊」の百人隊長、コルネリオに請われて、コルネリオの家の人々に説教すると、コルネリオ自身が回心しました(コルネリオは、ペトロから洗礼を授かった最初の異邦人とされる)。また、伝道者のピリポ(フィリポ)は、サマリヤ人(異邦人とされていますが、もともとは北イスラエル王国の住民でその後、混血)たちに説教し、多くの者がキリスト教の信仰を持ちました。

 

しかし、パレスチナでの布教は長くは続きませんでした。エルサレム教会の責任者だったヤコブは捕えられ殺されるなど、ユダヤ人による迫害が激しくなったのです。そこで、弟子たち、イエスの12使徒たちは、伝道のために地中海各地に散っていくのでした。

 

今日では、キリスト教の始祖はイエス・キリストと言われますが、キリスト教という一つの教団を興し、発展させたのは、ペテロやパウロなどイエス昇天後の弟子達でした。とりわけ、イエスの教えが、それまでギリシャ伝来のオリュンポスの神々を信仰していたギリシャ人に伝えられて、キリスト教は発展を遂げていくことになります。

 

そもそも、厳格には、キリスト教というのも、「キリスト」という言葉は、救世主を意味するメシアのギリシャ語訳であることからもわかるように、ギリシャ人に伝えられて、彼らがイエスの教えに従ったところで、出てきた名称です。

 

ギリシャへの伝道は、中東(西アジア)生まれのユダヤ教の一派が、異郷の西洋へ、キリスト教として、渡っていったという側面もあり、その教えは「西洋化=ギリシャ化」されていきました。

 

聖書にしても、新約聖書の原典は、イエスや12使徒達の共通言語であるヘブライ語(へブルゴ)ではなく、ギリシャ語で書かれています。イエスの言葉を含む新約聖書は、「ギリシャ語に翻訳」されて伝わり、私たちは聖書を読む際は訳文読んでいたのです。

 

 

  • パウロの伝道と教え

 

ギリシャ世界へ福音(神のみ言葉)を宣べ伝えた使徒が伝道者パウロでした。キリスト教の拡大は、パウロによって、ギリシャ人を対象とされたところから始まったと言っても過言ではありません。これによってキリスト教は、ユダヤ人だけではなく、人類すべての人々のための宗教となり、イエスは、人類の救世主(キリスト)」となっていくのです。

 

使徒パウロは、ユダヤ教パリサイ派の人物で、はじめはイエスの弟子たちや教会を迫害していましたが、やがて、イエスと出会うという超体験を通して回心し、イエスの教えを伝える側になりました。伝えられているその時の「パウロの回心」と呼ばれる逸話です。

 

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紀元34年頃、パウロは、ダマスコへ向かう途中、「サウロ(パウロのこと)、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエスの声を聞きました。すると、その後、目が見えなくなったパウロでしたが、キリスト教徒がパウロのために祈るとパウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになりました。この経験から、イエスがメシヤだったことを悟ったパウロはキリスト教徒となったのです。

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パウロはその後、自らの経験から、パレスチナの中では、イエスの教えを受け入れられないと判断し、今のトルコやギリシアといった各地に赴きます。そして、アンティオキア(現トルコの南端アンタキア)を拠点として、パウロは、生涯かけて伝道し、苦難の末、ギリシャ世界での布教を成功させました。

 

この背景には、パウロが、原罪や贖罪という考え方を使って、イエスの教えを、思想化し、キリスト教に普遍性を持たせたことにあると思われます。

 

旧約聖書の「創世記」には、以下のように、エデンの園(天国)にいたアダムとイブの話しがあります。アダムとイブは、神から「あなたは、楽園のどの木のからでも実を食べてよい。しかし、善悪の知恵の木の実を取って食べてはならない」と言われました。しかし、蛇(サタン)の誘惑により、二人は「知恵の木の実」をとって食べてしまいました…。

 

これが一番最初の罪で、原罪と言われます。キリスト教では、神の意志に背いたアダムとイブの罪を、人間は皆、原罪として背負っていると解釈されています(パウロはこの原罪思想を弘めた)。パウロは、神に背いて自分の欲望のままに生きようとしたことから来る原罪の苦しみから逃れるためには、どうしたらいいのかを考えたときに得た答えが、キリスト教だったのです。

 

パウロは、イエスが、十字架での死により、全人類の罪をまとめて引き受けたと考えました(贖罪思想)。さらに、律法の遵守は難しく、できたとしても律法を形式的に守るだけでは不十分で、神とイエスを信仰することで救われると教えました。すべての人間は罪人ですが、信仰によってのみ神の赦しが得られると、ギリシャ人たちに説いていったのでした(信仰義認説)。

 

また、死後の「神の国」という考え方も、人々を魅了しました。キリスト教徒にとっての死後の場所は、父なる神、またキリストがいる「天国」です。そこは、苦しみや罪もなく、栄光に満ち、喜びや愛が充満していると考えられました。イエスは、自身の死と復活によって、私たち人間のために、「天国の門」を開いてくれたと考えられています。

 

このギリシャ人への伝道におけるパウロ以降の思想が、現在のキリスト教の教えの骨格をなすという言い方をしても間違いではないでしょう。

 

 

  • キリスト教の拡大

 

こうして、初期のキリスト教は、当時の支配者であったローマ帝国へと入っていくことになるのでした。ユダヤ人を対象にしたパレスチナ地方の宗教活動であった「イエスの教え」は、先ずは北上してシリアに伝えられ、次いで、小アジア(現在のトルコ)の諸都市に伝わり、さらにギリシャ本土に伝道されていきました。

 

そうして、地中海各地で信者を増やしながら、帝国の首都ローマや、地中海に面するエジプトのアレクサンドリア、またトルコのアンティオキアなどに、キリストの名の下に集まる教会が建てられました。

これに応じて、キリスト教徒の組織化も進み、まとめ役となる監督、長老、執事といった役割を担う役職ができていきます。やがて、2世紀と3世紀、人数が増えるに連れて教会はますます階級的になる中、現代の司教や司祭、助祭といった「聖職者」が教会の指導者となったいくのです。

 

 

  • 新約聖書の成立

 

キリスト教の教典である聖書が生まれたのもこの時期です。聖書は、イエスが山上の垂訓などで語ったことを自ら書き留めたものではありません。イエスの教えは、使徒達によりパレスチナから地中海一帯へと伝えられる中で、使徒たちによって記されたイエスの生涯と言行録がまとめられました。西暦150年ごろには、新約聖書ができていたとされています(「新約」とは、イエスが神と新たに契約したという意味)。もっとも、エルサレムが崩壊した紀元後70年までには、新約聖書はほぼ完成して、教会の間で回覧されていたとも言われています。

 

前述したように、キリスト教という教団は、イエスの弟子達が作り出したものなので、新約聖書には、イエスが語っていた創造神「天なる父」の姿は前面に描かれず、「神の子イエス」その人のことが書かれいます。

 

なお、新約聖書に対して、ユダヤ教の経典である旧約聖書があります。新約聖書は、旧約聖書を土台としており、旧約聖書の知識なしには、キリスト教を十分に理解できないと言われいます。旧約聖書は、メシヤの民であるユダヤ民族の歴史書という側面と、メシヤの必要性を説き、メシヤの来臨を予測する「予言書」です。これに対して、新約聖書は、メシヤであるイエスが、私たちを罪から救うための「導きの書」と、キリスト教では位置づけています。ですから、イエスが宣教するまでの経緯を記すものとして、旧約聖書もキリスト教の教典とみなされています。

 

 

  • ローマ帝国による迫害から公認

 

さて、教会の組織や制度が整えられ、聖書も完成した2世紀中頃には使徒信条の原型もできてくるなど、キリスト教の基盤が確立しつつあった反面、ローマでの迫害は過酷を窮めました。

 

当時のローマは多神教でしたので、他の宗教に寛容でしたが、時の皇帝の性格によって、その政策は容易に変化していきました。キリスト教に対するローマ帝国最大の迫害といえば、西暦64年の皇帝ネロの弾圧で、ペテロやパウロも犠牲となりました。

 

303年にも多くのキリスト教徒が迫害されるなど、約250年近く、キリスト教徒たちは断続的に、ローマからの弾圧され続けたのです。なお、ペテロやヤコブ以外にも、12使徒のうち11人は殉教しています(パウロは12使徒には含まれない)。

 

しかし、それでもキリスト教は、ローマ人支配者からの弾圧を受け、殉教者を出しながら、根強く布教されました。時には、「カタコンベ」とよばれる地下の避難所に逃れ、ひそかに信仰が維持されました。

 

こうして、キリスト教は、やがてローマ帝国全土に広がり、もはやその勢力を無視できなくなりました。313年、時の皇帝コンスタンティヌスは、ミラノ勅令を出し、ついにキリスト教を公認したのです。ローマの統治には、弾圧よりも懐柔が有効とする政治的な判断でした。

 

公認後、新しい首都コンスタンティノープルや、エルサレムにも教会が建てられました。エルサレムへの巡礼も行われるようになり、そこでイエスの墓とされるものも発見され、その場所に「聖墳墓教会」が建てられました。こうして、ローマ帝国からの公認を得たキリスト教は、以後、さらなる発展を遂げるわけですが、ここに至るには、12使徒など指導者や信徒の犠牲の上にあったことは記憶に留められるべきですね。

 

*12使徒については以下の投稿記事を参照ください。

イエスの十二使徒たち

 

2020年06月26日

キリスト教:イエスの生涯

先日の投稿で、イエスとモーセの墓が日本にあるという極端な伝承を紹介しました。今回は一般に伝えられているイエスの生涯について、聖書などに書かれていることをまとめてみました。。

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  • イエスの生れた時代

 

イエスの生まれた時代は、古代ローマ帝国が地中海を支配し、その東に位置するパレスチナもまたその支配下におかれていました。当時、パレスチナはヘロデ王が統治していました。パレスチナには古くからユダヤ人が多く住んでいて、かれらはユダヤ教を信仰していました。イエスの父ヨセフと母マリアもユダヤ人です。イエスも、生涯、ユダヤ教徒として生活したユダヤ人でした。

 

ユダヤ教とはユダヤ人特有の民族宗教で、創造主ヤハエを信仰する一神教、ユダヤ人だけが救われるという選民思想、そのために課される厳しい律法、そして、「やがて、メシア(キリスト)が現れ、この世で神の僕として「新しい王国」を支配する」というメシアを待望することなどを特徴としています。

 

イエスが誕生した年は、紀元前4~7年頃(西暦1年頃だとする説もある)だと言われていますが、正確な年はわかっていません。新約聖書によれば、イエスは、パレスチナのベツレヘムの地で生まれました。父のヨセフは、貧しい大工職人で、マリヤは馬小屋で出産したと伝えられています。

 

ヨセフとマリアは、もともと、パレスチナの北部、ガリラヤ湖の西のナザレの地に住んでいましたが(イエスはナザレで産まれたとする説もある)、マリヤは、イエスをヨセフの実家のベツレヘムで産むために、ガリラヤの町ナザレから150kmも離れたベツレヘムへ移動しました。夫の実家と言っても、身寄りがあるわけでもなく、宿屋を探しても見つからないので、馬小屋に泊まっていたと言われています。

 

では、なぜナザレから遠く離れたベツレヘムまで行って、イエスを出産したかというと、ベツレヘムは、旧約聖書の英雄ダビデ王の出身地であったことが大いに関連していることが推察されます。イエスが誕生した頃、時のローマ帝国の皇帝アウグストゥスは、住民登録の勅令を出していたそうです。ヨセフは、ダビデの家に属し、その血筋であったとされていました。そこで、ヨセフは、ガリラヤの町ナザレから、ダビデの町ベツレヘムへ住民登録へ向かったと解されています。

 

 

  • イエス生誕の秘話

 

一方、イエスの生誕に関しては、世界の教会では、クリスマスの時などに、次のような神秘的な逸話として紹介されています。

 

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当時、ナザレの町に住んでいたマリヤは、貧しい大工のヨセフと婚約していました。あるとき、このマリアのもとに、主の天使ガブリエルが遣わされ、こう告げました。「あなたは身ごもって男の子を生みます。その子をイエスと名づけなさい。その子は救い主と呼ばれるでしょう。」しかし、マリアは、「わたしにはまだ夫がいません。どうして身ごもることがあるのでしょうか?」と尋ねると、天使は「聖霊があなたにくだり、神さまの力はがあなたを包むでしょう」と答えたのでした。

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この聖母マリアは処女のまま懐妊したという逸話は今も教会の立場です。また、当初、メシア(ギリシャ語読みで「キリスト」)であるイエスの誕生を知る人はだれもいませんでしたが、イエスが生まれた夜、一つの星が明るく輝いたのをみて、隣国の学者たちは、ユダヤ人の王が生まれたのだと考えたという話しもあります。その王を一目見ようと、エルサレムにやってきた学者たちは、新しく生まれた王はどこにいるのか、当時のパレスチナの指導者ヘロデ王に尋ねますが、エルサレムの人々はもちろんヘロデ王も知りませんでした。そこで、ヘロデ王は、学者たちにその王のことを調べて知らせるように命じたと言われています(ヘロデ王は、この時、イエスを捕らえるつもりだったとされている)。

 

ここで、もし、イエスの母マリアが、天使が言ったように、生れてくる子がユダヤ教で待ち望まれたメシアになる御子だと知っていたら、聖書にある予言を成就するために、ベツレヘムで出産したということなのかもしれません。その伝承予言とは、「イスラエルの救済者メシアは、古代イスラエルの王ダビデの家系に生まれ、ダビデの町であるベツレヘムで生まれる」というものでした。

 

いずれにしても、住民登録を済ませたヨセフとマリアは、イエスが産まれて8日目には、ユダヤ人男子の儀式である割礼を済ませると、ナザレに戻り、イエスをほかの子供たちと同じように育てたと言われています(イエスは「ナザレのイエス」と呼ばれる)。父のヨハネが大工であったので、イエスも伝道活動をする前の仕事は大工であったそうです。ただし、生誕と同様、聖書には、イエスの幼年期から青年期についても記述は少なく、その実際は不明です。

 

 

  • ユダヤ教の宗派

 

そんなイエスも、およそ30歳頃から、ついに公の伝道活動を開始するのですが、イエスが生きた時代のユダヤ教は、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派などいくつかの宗派に分かれていました。

 

サドカイ派は、祭祀階級で、聖地エルサレムの神殿で祭祀を執り行うだけでなく、ユダヤ社会の統治をローマから任されていました。また、パリサイ派は律法というユダヤ教の決まりごとを重視し、安息日に休んだり、食事の前には手を洗ったりといった細かな規則を民衆に教えていました。

 

一方、紀元前2世紀頃におこったエッセネ派と呼ばれた人々は、世俗から離れ、死海の近くの荒野で、修道院に似た禁欲的な共同生活を送っていたとされています。この団体の本部のような存在としてクムラン宗団がありました。

 

エッセネ派に属するためには、3年間の試験期間の後,厳粛な誓約により初めて加入を許されたそうです。家も家族も、捨てなければならず、財産の共有、独身主義など、共同体のあらゆる規律の遵守を義務づけられていたと伝えられています。日々の生活は、「教師」と呼ばれていた指導者に従い、農業を営みながら、祈禱,律法研究、祭儀的な沐浴などからなる日課をこなす質素な共同生活が営まれていたとされています。

 

西暦30年ごろ、このエッセネ派の一人でクムラン教団の出自とも言われたヨハネという人物が突然、荒野に現れて、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と唱えます。ヨハネは洗礼(バプテスマ)という当時としてはめずらしい儀式を行っていたこともあり、ヨハネのもとにはたくさんの弟子が集まっていました(ゆえに、ヨハネは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれた)。

 

30歳になったイエスもまた、ヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受けるために,ひとり100キロも南にある荒野へおもむきました。ただ、イエスの偉大さを知ったヨハネは、当初、イエスに洗礼を施すのをためらったと言われていますが、イエスの求めに応じて、ヨハネはイエスの全身を水に沈めてバプテスマを施したとされています。ただし、この経緯については、聖書にもどこにも書かれてはいません。イエスが荒野に赴き、ヨハネの弟子になったということは、イエスもエッセネ派の一員であった可能性もあります(通説では否定的)。

 

バプテスマを受けた後、洗礼者(バプテスマの)ヨハネの教団のなかで、イエスの存在は直ぐに大きくなりました。ある日、イエスはヨハネの元を離れ、故郷近くのガリラヤ湖まで戻り、教えを周囲の住民たちに説き始めたと言われています。イエスの宣教の始まりです。

 

聖書によれば、布教に立ち上がる前に、イエスは、神とともにあるために,40日40夜断食をされると、イエスを試みようとやって来たサタンの誘惑に屈せず、サタンを退かせたという逸話もあります。イエスが新約聖書(福音書)に登場するのは、まさに、30歳になって布教活動を始めた時期からです。

 

 

  • イエスの宣教

 

福音書には、イエスが、重い皮膚病患者を癒し、目の見えない人を見えるようにするなどさまざまな病人の治療をしたり、死者をよみがえらせたりするなど、多数の奇蹟が記されています。そうした奇蹟の業を行いながら、イエスは、悔い改めて神を信じることと神の絶対的な愛を語りました。

 

時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
(マルコによる福音書 1章15節)

 

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
(マタイによる福音書 22章37節)

 

また、神に対してだけでなく、「心と思いと力を尽くして神を愛し,自分自身を愛するようにほかの人を愛せよ」と「隣人愛」を説き、さらに、「汝の敵を愛せ」とも言いました。

 

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である
(ヨハネによる福音書 12章15節)

 

ユダヤ教では、神の愛は「選ばれた者」のみに向かうものと考えられていましたが、キリスト教の愛は、広く普遍的に、すべての隣人へ、ひいては人類全体へと向けられるもので、「アガペー」と呼ばれます。

 

この時代、貧しく飢えていた多くの民衆、とりわけ、虐げられ、迫害されていた徴税人や娼婦、病人や非ユダヤ教徒たちなどに向けられました。、こうした弱い人たちこそ、神から愛され、そして天国に行くことができるとイエスは説いたのです。

 

イエスが、様々な教えを説き、奇蹟を起こした結果、次第に、イエスのまわりには、漁師のペテロやヤコブ・ヨハネ兄弟、徴税人のマタイや、ユダなどの弟子が増え、弟子の集団が構成されていきます(福音書はペトロを筆頭とする「12使徒」をその代表としている)。彼らは、イエスとともに行動し、イエスが教えを説き、奇蹟を見せるのを間近で見ていました。

 

 

  • 山上の垂訓

 

イエスが山の上で弟子たちと群集に語った山上の垂訓(さんじょうのすいくん)と呼ばれる教えは、弟子たちに語った中で最も有名なイエスの教えです(新約聖書には「マタイによる福音書」の中に書かれている)。

 

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(『マタイ伝』5:1-2)

 

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、 左の頬をも向けなさい。

 

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

 

あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、 既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである

 

 

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。…

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい

 

 

  • メシア待望論

 

こうした説教を聞いた弟子をはじめまわりに集まった人たちは、イエスを、ユダヤ教で待望される救世主(キリスト)とみなすようになりました。イエスの言葉は、彼らの律法学者のようにではなく、権威に満ちたものであったからです。ただし、ここでいう救世主とは、悩み苦しむ人たちを救ってくれるという宗教的な役割だけでなく、パレスチナの地からローマを追い払い、ふたたびユダヤの独立を取り戻すという政治的な意味での救世主の役割も期待するようになったのです。

 

これに対して、ユダヤ教の指導者たちは、伝統的なユダヤ教とは異なるイエスの宣教を危険視します。ユダヤ教という民族宗教から一歩ふみだした普遍的なイエスの考え方は、ユダヤの宗教指導者達は理解しようとせず、逆にユダヤ教への冒涜と捉えます。

 

イエスも宣教活動の中で、ユダヤ教の指導的立場であったパリサイ派やサドカイ派を批判していました。ある時、イエスは、神聖なヤハエの神殿の領域で、商人たちが商売を行っているあり様に激怒し、両替商の台をなぎ倒し、商売人たちを追い出したという逸話があります。イエスの目には、これまでのユダヤ教が、形ばかりで内容のともなわない見せかけの信仰と映ったのでしょう。

 

このような過程を経て、イエスとその弟子たちの集団は、イエス自身の意思とはかけ離れて、過激な独立運動と見られるようになりました。パリサイ派やサドカイ派も、ローマ支配下で指導的立場にあったので、もし独立を求める反乱が起きれば、自らの立場が危うくなることを恐れたのです。

 

 

  • イエスの逮捕と処刑

 

こうした危うい状況下、イエスは宣教のために、聖地ルサレムに入りました。この時、イエスは、弟子の裏切りと、自分の逮捕と死を予感していたと解されています。エルサレム入城直後、12使徒を伴った晩餐では「このパンをわたしの肉、このワインをわたしの血と思いなさい」と告げています。また、弟子のユダに対して、「お前のしなければならないことをするがいい」と言い、ペテロに対しては「3度『イエスなど知らない』と言うだろう」と予告します(この時の晩餐は「最後の晩餐」と呼ばれ、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名)。

 

実際、イエスたちのもとに、ユダヤの警備隊がやってきました。先導者はユダでした。ユダは、「先生」と言ってイエスに駆けより、警備隊にだれがイエスかを示したといいます。イエスは抵抗することなく捕まり、サドカイ派の祭司の「自宅」で裁判にかけられました。弟子たちは、驚きあわてて逃げましたが、ペテロは連行されたイエスの後をつけていきました。すると、祭司宅の女中から、イエスの弟子ではないかと疑われましたが、「そんな人は知らない」とペテロは3回嘘をついたとされています。

 

当時のパレスチナでは、「宗教上の罪」の場合はユダヤの律法による石投げの刑でしたが、政治犯の場合は、ローマの刑法にしたがって十字架刑だったそうです。イエスは、政治犯として大衆を扇動した罪で死刑を宣告されました。イエスの刑は、ローマ帝国の法に基づいて執行され、からだを鞭打たれたあと、自身で重い十字架を背負ってエルサレム城内を歩かされました。民衆は、イエスが救世主ではなかった思い、罵声を浴びせました。サドカイ派やパリサイ派の人々もイエスを嘲笑しました。ゴルゴタの丘という処刑場所までたどりつくと、イエスは十字架に釘で手足を打ちつけられ、磔(はりつけ)にされました。さらに、イエスはそこで約3時間さらされ、耐えがたい苦痛を味わされた上で、処刑されてしまいました。死後、何人かの友人たちによって葬られたとされています。もし、これが事実なら、イエスは、わずか30年の短い生涯を閉じたことになりますが、話しはここで終わりませんでした。

 

 

  • イエスの復活

 

3日後の日曜日、イエスの宣教の旅に従ったとされるマグダラのマリア(聖母マリアとは別人)など女たちがイエスの墓を訪れると、墓の石が開いていました。「マルコによる福音書」によれば、墓のなかには白衣を着たひとりの少年が座って、「イエスは蘇って、ここにはいない」と言ったとイエスの復活が書かれています。

 

キリスト教では、イエスの死後、3日目の日曜日に,イエスの霊は体に戻り,再び肉体をまとわれ、復活したと教えられています。「死人のうちからイエスがよみがえる」という預言は成就したのです(ヨハネ20:9)

 

 

*キリスト教のその後については以下の投稿記事も読んでみて下さい。

原始教会 ペテロとパウロの伝道

イエスの十二使徒たち

 

 

 

<参照>

クリスチャンでなくても知っておこう!イエスの生涯とキリスト教の歴史(Tabiyori)

イエス・キリストはなぜ馬小屋で産まれたか

エッセネ派とは?キリスト教豆知識(女子パウロ会)

Wikipediaなど

2019年06月26日

宗教:大河ドラマ「いだてん」はインドの神様!

6月23日のNHK大河ドラマ「いだてん(韋駄天)〜東京オリムピック噺(ばなし)」の中で、韋駄天の意味を「足の速い神様のことだ」とか「だから御馳走様という」というなどドラマの中で、説明していました。日本人初のオリンピック選手、主人公金栗四三(マラソン)のニックネーム「いだてん」が、「いだてん」が神様の名前だったことを今になって知りました。自分の勉強不足を反省(よくよく考えれば韋駄天の天は仏教の天部を指している!)すると同時に、韋駄天がヒンズー教の神が由来であったことに驚きとある意味新鮮な気持ちになれました。

 

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韋駄天、その由来と意味

 

「韋駄天(いだてん)」とは、「足の速い神様」のことを指します。「韋駄天(いだてん) 」は、もともと古代インドの宗教バラモン教の神で、バラモン教がヒンドゥー教に継承された際には、破壊神・シヴァ(シヴァ神)の次男、軍神・スカンダとされました(兄の名は歓喜天だとか)。

 

韋駄天は、その後、お釈迦様が、仏教を興したとき、仏教の守護神として迎えられ、仏法と寺院を護る守護神とされました。インド仏教では、世界の中心にそびえるという聖なる山(須弥山)を四方に守る守護神がいて、それぞれ8人(計32人)の神様が仕えているという教えがあります。韋駄天はその四方(東西南北)を守る四天王のうち南を守る増長天に従う八大将軍の一人(三十二神将のリーダー)として信仰されるようになりました。

 

元々ヒンドゥー教の神様であった韋駄天(いだてん)が、仏教に取り込まれ、さらにインドから中国に伝えられる際、最初は「塞建陀(スカンダ)天」と音写で漢訳されました。それが何度も書き写される内に、一文字省略されたり、書き間違いが起きたり、さらには、道教の神様である韋将軍(いしょうぐん)とも混同されたりしながら、「韋駄天」となったと言われています。こうして、韋駄天は、仏教の神様となって、現在に至っています。

 

また、インドの伝承によると、お釈迦様がお亡くなりになられた日、捷疾鬼(しょうしつき:足の速い鬼)という鬼が、お釈迦様の御遺体から「仏舎利(ぶっしゃり:釈迦の遺骨・歯)」を盗んで、須弥山に逃げていきました。慌てた弟子たちが、韋駄天(いだてん) に仏舎利を取り返してほしいと頼むと、韋駄天は一瞬で、1280万キロともいわれる距離を駆け抜け、鬼(夜叉)を捕まえ、お釈迦様の歯を取り返したそうです。

 

この逸話から韋駄天は「速く走る神」とされ、それが由来となって、足の速い人を「韋駄天」と呼ばれたり、早い走り方、またとても速く走ることを「韋駄天走り(いだてんばしり)」と比喩表現したりするようになったそうです(韋駄天は「俊足の代名詞!」、身体健全(特に足腰)のご利益があるとも)。さらに「盗難・火難除けの神」ともされ、修行を妨げる魔障を走ってきて取り除いてくれるとして、寺院や僧侶の住居の守り神となっています。

 

さらに、インドの伝承では、韋駄天はその足の速さを生かし、釈尊(お釈迦様のこと)や、修行中の僧侶のために、東西を駆け巡って食べ物を集めて回って振舞ったことが、「ご馳走」という言葉の由来となりました。また、食後の挨拶の「ご馳走さま」という言葉も「足の速い神・韋駄天さま」からきています。こうして、今も、韋駄天は食卓を守る神様として慕われ、韋駄天を拝めば、食に不自由をしないという功徳があるとされています。寺院の厨房に祀られることも多いそうです。

 

<参考>

いだてん(韋駄天)とは?その意味と大河ドラマモデル金栗四三との関係

(2019年3月17日 ファンファンズ・カフェ)

 

歴史-文化 日本文化と今をつなぐ(2018/11/15、Japaaan記事)

仏像ワールド 韋駄天