四書五経:論語だけではない儒教の経典

 

「中国の儒教を学ぶ」と題してシリーズでお届けしています。前回の「孔子・孟子・荀子・朱子…が教えたこと」に続き、今回は、その補強版として、儒教の経典について学びましょう。孔子の教え(儒教)は、孟子や荀子など門弟たちによって、実践倫理と政治哲学が加えられ,教学として体系化されることで、儒学として発展していきました。漢の時代から中国の中心的な思想になり、四書五経を中心に、儒学として広く学ばれ、やがて、日本や朝鮮など東アジアにも伝わり、道徳の基礎になりました。ここでは、儒教の学問化に大きく貢献した「四書五経」について、長くなりますが、1本の投稿記事にまとめて解説します。

 

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四書五経とは、儒教(儒学)における古典の中でも最も重要視されている典籍(基礎経典)の総称です。儒教(儒学)では、学問修養によって聖人君子となるべきだと説かれており、その拠り所として、「四書五経」が根本経典(儒教の規範)とみなされて重視されました。

 

四書は、論語、大学、中庸、孟子から構成され、

五経は、易経、書経、詩経、礼記、春秋を指します。

 

なお、儒学の書物のように、社会・国家の最も正統となる基本的な理念を示す書物を「経書」、儒学以外の書物が「緯書」と呼ばれることから、五経の易経、書経、詩経、礼記、春秋は「経書(けいしょ)」とも分類されます。

 

それでは、五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋』」、と四書(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)についてそれぞれ解説します。

 

 

<四書>

四書とは「大学」「中庸」「論語」「孟子」をさします。この順序で読むことが奨励されていました。

 

  • 大学

 

「大学」は、大学教育を論じた書で、漢の武帝が儒教を国教と定めて大学を設置した際、教育機関としての大学の理念(大学で学ぶべきこと)が書かれています。荀子の時代の後、漢代の紀元前3世紀頃(前430頃)に成立しました(正確な時代は不明)

 

孔子の弟子である曽子(そうし)(前505~前434年)の作とされますが、秦漢の儒家によって編纂されたものという見方もあります。南宋の朱子によれば、「大学」は、孔子の言を弟子の曽参(そうしん)(曽子のこと)が本文(経)を記述し、曽子の意を受けた門人たちが、その注釈(伝)を記録したとしています。

 

「大学」は、もともと、五経の一つである「礼記(らいき)」の中の一編(49篇中第42篇)に収められていました(ゆえに全2000字足らずで非常に短い)が、南宋の朱子は、大学を特に重視して取り出し、「論語」「孟子」と同列に扱って、四書の一つに加えて宋学の基本文献としました。さらに、四書の最初に置き、「初学の徳に入るの門」(四書の中で最初に読まれるべきもの)として、儒学入門の書としました。

 

大学には、「格物致知」から、「修己治人」、「治国平天下」に至る宋学の基本となる方法論(理念)が書かれているため、朱子学にとって、最も重要な文献とされました。

 

格物致知(かくぶつちち)
自己を正し、物事の道理や本質を深く追求し理解することで、知識や学問を深め得ること。

 

修己治人(しゅうこちじん)

自己の修養と同時に、他者を感化し正しい人の道を歩ませる)

 

治国平天下(ちこくへいてんか)

家を斉え、国を治め、天下も平らかにすること、即ち一国を治めて、更に進んで天下を安んずること。

 

ただし、朱子(朱熹)は、「大学」の本文に脱落(内容が抜けていること)と錯簡(さっかん)(装丁の段階で頁の順序が違っている)があると考え、論理的に再構成した上で、「大学」の注釈書「大学章句」を著しました。

 

大学章句には、儒家(大人)にとって必要な自己修養が、三綱領八条目の形で説かれています。三綱領は、「大学」における大切な「三つの柱」のことで、「明徳」「親民」「止於至善」です。

 

明徳:人間誰もが本来持ち合わせている明徳(正しく公明な徳)を明らかにすること

親民:民衆が親しみ睦みあうようにすること

止於至善(しぜんにとどまる);最高の善(至善)を身につけ保持(止まる)こと

 

八条目は、三綱領を実践してゆく手段方法で、「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」からなります。

 

格物:自分自身を正す
致知:自分自身を正すことによって知に到る
誠意:知に到ることによって意識が正常になる
正心:意識が正常になると内なる心も正しくなる
修身:心が正しくなると身が修まる
斉家:身が修まると家も斉うようになる
治国:家が斉うと、国も治まるようになる

平天下:国も治まると天下も平らかになっていく

 

この朱子による改編と注釈を経て、「大学」は朱子学の経典としての地位を確立しました。また、朱子学は官吏登用の科挙試験の必須科目となったため、「大学章句」は科挙向けのテキストとして清末まで重要視されました。

 

ただし、「大学」という古典を修正したことは、経書修正を認めることにもなり、後世へ悪影響を残しました。「大学」については、大学で学ぶべき教育の規範を書いたものが、修身・斉家から治国・平天下へと発展する政治思想の性格が帯びてきた感があります。

 

「大学」の名言・故事成語

君子は必ずその独りを慎むなり

君子は人目のないところでも、必ず自分の心を正し、行いを慎む

 

小人(しょうじん)間居(かんきょ)して不善を為し、至らざる所無し

小人は暇を持て余していると、とかく悪いことをしがちで止まらない

 

心ここに在(あ)らざれば、視(み)れども見えず・・・

他の事に心を奪われている状態では、じっと見ているようでも実際には何も見えていない(心を集中しないと何もできない)。

 

 

  • 中庸

 

「中庸」は、中庸(偏りがなく常に不変)の道理を論じ、そこから人はどのように道を踏み行えばよいかという道徳の原理を示した書です。儒教では、遠慮のない直情的な奇妙な行動を野蛮な振る舞いとして蔑み、人々を驚かすような突出した行為を嫌い、庸徳庸行(ようげんようこう)、即ち、ただ普通の徳(人が生まれながらに重ねていく徳性)に従った行いを尊重します。

 

孔子も、「論語」の中で、「中庸の徳たるや、其(そ)れ至れるかな…(中庸の徳(行き過ぎも不足もなく、いつまでも変わらない道徳)というものは至高である)と述べています。「中庸」は、「史記」の中に「子思は「中庸」を作る」とあることから、孔子の孫・子思(しし)が、前430頃に記述したとされています。子思(前492〜前431)は孔子の孫であると同時に曾子の弟子でもありました。

 

ただし、後世に付けくわえられたと思われる文章も多く、全篇の成立は秦または漢代の時代とされています(現在では秦代の儒者の手になるとする見方が多い)。「中庸」は、「大学」と同じく、本来、「礼記」の中の一編(第31篇)でしたが、中庸が宋学の理念に合致するとして重視した南宋の朱子によって、独立した書として取り出され、四書の一つに加えられました。

 

朱子は、旧来の構成を改めて全文を33章に分け、自らの思想を加えて、注釈書「中庸章句」をまとめました。「中庸章句」は、前半で天人合一と中庸の徳を、また後半で、そこに至るための誠の道(中庸の誠の域に達する修養法)がそれぞれ説かれています。具体的には、中庸とは偏りのない平常の道理であり、人間に本性として元来賦与されているものであるから、人間の本質に従い、良く養い自省し、喜怒哀楽の節度を保つことができれば、人間と自然の統一的調和がなされます(この状態を「天人合一」と呼ぶ)、この調和に達するためには、人間の諸行為の根本を探究することによって、人間本性の「誠」の充実を図ることにあるとして、その修養が説かれました。

 

朱子はまた、「誠」について、「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり(誠は天の道である。誠の発現につとめるのが、人の道である)」と述べています。

 

このように、「中庸章句」は、「誠」の経書であるとともに、儒教の総合的解説書であり、儒教の諸文献のうちでは最も思弁的、形而上学的と評価され、儒教思想の真髄を得たものとして、尊重されてきました。

 

『中庸』の名言・故事成語

義は宜なり。
義(という語の意義)は(社会規範における)宜(ほどよさ)である。

知者はこれに過ぎ、愚者は及ばず

知者(頭のよい人)はやり過ぎてしまうし、愚かな者は及ばずに終わってしまい、共にこの「中庸」に反しがちとなる。

 

至誠神の如し

至誠(しせい)の人(誠実に真心を尽くして物事に臨み行動する人)は神のような力(可思議な洞察力)をもつ。

 

 

  • 論語

 

論語は、儒教の始祖である孔子(前552~前479)と、その弟子たちの言行録をまとめたもので、合わせて20篇(10巻上下20篇)、512の短文が収められています。四書の中で最も古く、漢初(前200年頃)に編纂されたと推察されています。儒家の通説では、孔子の生前から、孔子の言行や弟子・諸侯・隠者との対話が記録され、孔子の死後、門弟たち(実際は、直弟子ではなく、弟子の弟子)がそれまでに書き留めていた師匠の語を編纂しました。

 

秦の始皇帝の焚書のあと、漢朝は広く書物を捜し求めた結果、「論語」には、①孔子の出生地である魯の地方に伝わる魯論20篇(「魯論語」)、②斉(せい)の地方で伝承された斉論22篇(「斉論語」)、③孔子の子孫の家(旧家)の壁に塗り込められた形で発見され、古文で書かれた古論21篇(「古論語」)の3種類がありました。

 

漢末の張禹(ちょうう)(? 〜前5年)は、このうち魯論と斉論を折衷して張侯論20篇を定め、これを普及させました。その後、後漢の時代、鄭玄(じょうげん)(127-200)は、魯論を基礎に斉論・古論の3種を折衷して20篇に集約したものが、今日伝わっている「論語」です(今日伝わる「論語」は、鄭玄本の系統)。

 

論語の内容は、孔子から弟子に向けた教えの言葉(孔子の談話)、弟子の質問に対する答え、高弟である顔回、子路、子貢といった弟子同士の討論という形で、国家・社会から日常生活における道徳倫理、身近な人生問題、政治論、門人の孔子観など多方面に関することが、短いながらも含蓄の深い言葉で記されています。

 

形式は問答形式で、「子曰~」という出だしで書かれていることが多く、弟子とのやり取りの中で、人間の最高の徳としての仁(人類愛)と礼(行動規範)の重要性や、人間としての道徳的な正しい生き方が求められています。具体的には、忠(まごころ)と恕(おもいやり)を中心とした仁愛の徳と家族的な孝悌倫理とによって、君子としての人格を高め、また国家社会の礼秩序を樹立するという儒教の原初的な理念が書かれいます。また、論語は、春秋時代の歴史・文学や、周代の政治、社会情況を知る上でも最も基本的な資料にもなっています。

 

一方、論語の注釈書としては、後漢から魏の時代の学者、何晏(かあん)(196年〜249年)の「論語集解」と、それにさらに注釈を加えた南朝梁の儒学者、皇侃(おうがん)(488年〜545年)の「論語義疏」、さらには、中国北宋の学者、邢昺(けいへい)(932年〜1010年)の「論語正義」や、朱子(朱熹)の「論語集注」が知られています。

 

論語の名言・故事成語

義を見て為ざるは、勇なきなり

目の前に困っている人を見かけたら、見て見ぬふりをするのではなく、手を差し伸べることのできる人こそが、勇気を持った人である

 

過ぎたるは、なお及ばざるが如し

何事においても、過分にすることは不足していることと同じく、良いことではない。

 

故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る(温故知新)

昔のことを研究して、そこから新しい知識や道理を見つけ出すこと。先人の知恵に学ぶこと。

 

 

  • 孟子

 

「孟子」は、孔子の説を発展させた孟子(前372~前289)とその弟子たちの言行録で、諸国を遊説した孟子が諸侯や知識人、門弟などと問答したことば(言行)が集められた(編纂された)思想書です。著者については諸説ありはっきりとはしておらず、孟子と弟子との共作、孟子一人で書き上げたもの、弟子のみが著作したと様々です(門弟の編集をもとにしているとの見方が多い)。

 

「孟子」は、その成立当初から長らく評価されず、経書(儒教のもっとも基本的な古典)として扱われていませんでしたが、唐代に韓愈や柳宗元によって評価を受け、唐の滅亡後に興った五代の後漢(こうかん)(947~950年)の時代には、趙岐(ちょうき)が注釈を加えるなど、その地位は上がっていきました。

 

さらに、宋代以降、経書に数えられると、北宋の神宗の代(1071年)に初めて科挙の科目に定められ、朱子(1130〜1200)が「孟子集注」を著し、「孟子」は四書の一つに列せられました。これ以降、朱子学の隆盛とともに、現在のような経書としての権威を確立しました。「孟子」は、本来、「梁恵王(りょうのけいおう)」、「公孫丑(こうそんちゅう)」など七篇でしたが、後漢の趙岐(ちょうき)が各編を上下に分けて注釈を加えたことから、全十四篇になりました。内容としては、「論語」と同様、孟子と為政者や弟子との問答形式をとり、孔子の仁の思想を仁・義によって祖述し、性善説に基づいた人の道や王道政治が説かれています。

 

「孟子」の名言・故事成語、

道は近きにあり、然るにこれを遠きに求む

道は近くにかならずある。どこか遠くを探し回る必要はない。

 

志は気の帥(すい)なり

目標を持てば気力は自然と湧いてくるもの。

 

去る者は追わず、来る者は拒まず

自分から離れて行こうとする者は、その意志に任せて、強いて引き留めない

 

 

<五経>

 

  • 易経

 

易経(えききょう)は、古代中国の易占いの書(占術理論書)で、前700頃に書かれた四書五経の筆頭にあげられる儒教の経典です。易経は、中国史上,実在の明らかな最古の王朝とされる商(殷)(前17、前16世紀初め~前11世紀,)の時代から蓄積された卜辞(ぼくじ)(亀甲・獣骨に刻んだうらないの文字)を集大成したものとして成立し、筆者は、今からおよそ3000~4000年前の中国伝説上の皇帝・伏羲(ふくぎ・ふぎ)または、周の文王(前12~前11世紀頃)とされています(後述)。

 

殷(商)の時代、亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨を焼いて、そのひび割れの形で吉凶を占っていました。その後、周(前1046年頃~前256年)の時代に入ると亀の甲が入手しにくくなったため、「筮(めどぎ)」という多年草の茎の本数を用いた占い方法に変わり、さらに、現在でも八卦(後述)で使われている、竹を細く削った平たい筮竹(ぜいちく)50本で代用されるようになりました。

 

」とは、宇宙の全真理をまとめた古代中国から伝わる占術であり思想哲学で、自然現象を万物の事象の象徴としてとらえ、生成変化を予測することによって、森羅万象を解き明かしてきました。

 

古代中国では、「易を知らざる者は宰相(首相)たる資格なし」と言われ、軍師が易を用いて戦況を予見していたように(日本の戦国時代においても同様)、あらゆる災いや争いを未然に防ぎ、解決することができる手段として、易は古くから重宝されてきました。それゆえ、易経は、占いの書にとどまらず、宇宙論、帝王学の書、哲学・倫理の書として、中国人の人生観や世界観に大きな影響を与えていきました。

 

易占の成立

陰陽二気

このような易の中心となる考え方は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万物の変則を説く陰陽思想です。

 

易では、この世の万物を陰陽の二気で構成されていると捉え、陰陽の二気を陽爻(ようこう)・陰爻(いんこう)という記号で表しました。(こう)とは、横棒で示される記号で、横一本線の「⚊」は陽を表し、横に二本線の「⚋」は陰を表しています。そして、☱兌(だ),☲離(り)のように、陰爻と陽爻とを3本重ねて、組み合わせることによって、1つの(け)(か) が作られ、卦にはそれぞれ名前がついていました。卦と爻(こう)の関係は、爻は卦を構成する単位であり、卦は爻を3つ組み合わせたものだとまとめることができます。

 

八卦

この易の陰陽の二気から、古代中国では、八卦(「はっけ」「はっか」)が生まれました。易の根源は、宇宙、万物の根源である「太極」と呼ばれ、八卦は、太極から「両義」が派生し、対立する陰陽二つに分かれます。次に、陰陽がそれぞれ分割し、少陽(春)・太陽(夏)・少陰(秋)・太陰(冬)の四象(ししょう)ができました(四象の中身については諸説あり)。そこから、さらにそれぞれ陰陽が派生して、三本の爻(け)からなる8種類の象(かたち)(=記号)ができ(これを八卦と呼ぶ)、それぞれの卦に、次のように名前(卦名)がつけられています。

 

☰乾(けん),☱兌(だ),☲離(り),☳震(しん),

☴巽(そん),☵坎(かん),☶艮(ごん),☷坤(こん)

 

加えて、八卦の乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤には、それぞれの現象を表す「正象(せいしょう)」が、以下のように割り当てられました。

天・沢・火・雷・風・水・山・地

 

ここから、卦(け)というのは、あらゆる物質を構成している万物の原子のような存在であることがわかります。古代中国では、八卦の8つの要素(8原子)が、自然界と人間界を支配する(天地万物はこの八原子の集合によって成り立っている)と考えられ、八卦で、「生死」「進退」「存亡」「盛衰」など人生や事柄の吉凶を占われました。

 

六十四卦

占い(易)では、八卦の属性や性質を参考に、さらに細かく時間や場所、方位を読み解くために、八卦を2つ重ねて掛け合わせる(八卦と八卦を上下に重ねる)ことで、六十四卦(ろくじゅうしけ・ろくじゅうしか)が生み出されました(8×8で64。)。

 

これにより、六十四個の卦で、森羅万象をより詳細に表現する手段が確立され、宇宙の全真理を表現できるようになりました。易経は、まさに、この六十四卦について体系的にまとめられた書物なのです。

 

易経の構成

易経は、本文(本体部分)で、六十四卦の内容を説明する「経」と、経を注釈・解説する「伝」で構成されています。「経」には、六十四卦のそれぞれについて、卦辞(かじ)と爻辞(こうじ)とが箇条書きに収められ、上経(30卦)・下経(34卦)の2巻に分かれています。

 

卦辞(かじ)は、卦の全体的な意味を説明するもので、一卦の意義を説明しています。彖辞(たんじ)ともいいます。主に「元」「亨」「利」「貞」「吉」「凶」を基本とした良し悪しを表す言葉で構成され、卦全体での吉凶を表しています。

 

爻辞(こう(かう)じ)は、卦を構成する6本の各爻(爻位(こうい))をそれぞれ説明したものです。爻辞もまた、その一爻での吉凶を表します。

 

伝(易伝)は、経(経文)を注釈・解説するもので、その本文の解釈を十の翼で助けるという意味から「十翼」ともいい、解説・注釈としてのちに書き加えられました。その内容は、この世における様々な事象を占い、不変の真理を紐解くために不可欠なものとされました。

 

易は聖人の著作

易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」と書かれています。今からおよそ3000年~4000年前の中国伝説上の皇帝・伏羲(ふっき・ふくぎ)(実在した大思想家とも言われている)が、天地自然の万法を、陰陽を用いた「卦(か・け)」で表したことが始まりとされ、まず初めに八つの卦である「八卦(はっけ・はっか)」が創られました。

 

その後、伏羲がさらにそれを重ねて六十四卦とし、次に周の文王が「経(卦辞と爻辞)」を作ったという説もあれば、周の文王(前12~11世紀ごろ)が八卦を重ねて六十四卦としたという説もあります。どちらの場合でも、易経は、宋代以前は「周易」とも呼ばれていたことから、周の文王が実質的に作成したと見られています。そして、孔子が「伝(経の注釈・解説)」を書いて、孔子から易経を学んだ商瞿(しょうく)(前522年 ~没年不詳)に伝え、漢代の田何(でんか)に至ったとされています。

 

さらに、後代では、伏羲が陰陽を唱え、周の文王が本文(「経」)を記し、孔子が解釈書(「行」)を書いたと集約され、「易」作成に関わる伏羲・文王・孔子は「三聖」と呼ばれました。ただし、あくまでも儒家によって後に作られた伝説と見られており、歴史的事実かどうかは不明です。

 

それでも、一般的には、易経は、春秋時代(前770~前403)、孔子(前552~前479)が、解説書(「行」)を書くことで、その編纂に携わり、同じ儒家である荀子(前313頃~前238頃)の学派によって、儒家の経典となったとされています。実際、戦国時代(前403年~前221年)から秦漢にかけて、儒家はその思想や主張を根拠づけるため、易経解釈に結びつけて展開していきました。加えて、易経は、自然現象を万物の事象の象徴としてとらえ、生成変化を予測する(森羅万象を解き明かそうとする)という内容から、儒家だけではなく道家にも尊重されました。

 

「易経」の名言・故事成語

天を楽しみ命(めい)を知る、故に憂えず

天命を自覚し、これを楽しむ境地になれば、人は憂いがなくなる。

 

君子豹変す

君子は豹変(ひょうへん)し、小人(しょうじん)は面(おもて)を革(あらた)む

君子は時代の変化に合わせて自分を素早く的確に変えていけるが、小人は表面的な変化しか出来ない(本質的には何の変化もない)。

 

虎視眈眈

虎が鋭い目つきで、じっと獲物をねらっているさま(強者が機会を窺っている様子)

 

顚(さかしま)に頤(やしなわ)るるも吉なり。虎視眈眈、其の欲、逐逐(ちくちく)たれば咎(とが)無し

上に立つ者が下に立つ者に面倒を見てもらうこともいいことだ。虎視眈眈として機会をのがさず、自分の徳を磨こうという欲を持ち続けれるのであれば、差し障りない。

 

 

  • 書経

 

書経は、儒学の経書、五経の一つで、上古からの政治における聖王や諸侯(君臣)の模範的言行、政治上の心構えや訓戒などの記録を編纂した中国古代の歴史書です。当初は、「書」または「尚書」といい、宋代以降に「書経」という呼び方が定着しました。もともと、原典としての書経は、堯・舜の伝説の時代から夏・商(殷)・周3代の帝王による仁政の事蹟を、100篇(へん)の書にまとめられたものです。古来の通説では、こうした記録を、周末に至って、孔子(前551~前479年)が編纂したとされてきましたが、近年の研究では史実であるとは認められていません(孔子の時には何らかの原初的な『書経』は存在していたとされるが…)。

 

実際、もとの書経は、周(前11世紀)などの王室に関する記録を中心に,儒家が他の前後の記録を加えて、先秦時代(戦国時代(前403~前221年))までに、魯に伝えられたものとみられています。神話的伝承を含んでいるものの、史書としての価値も高く評価され、儒家はこれを、天下統治の規範的理想を示すとして尊重してきましたが、秦の始皇帝の焚書などによって書経は一度、廃絶してしまいました。

 

しかし、その後、漢代に入り、「今文尚書」と「古文尚書」の二種が再発見され、再び世に出ました。

 

今文(きんぶん)尚書は、漢の文帝(在前180~前157年)の時に、秦の博士伏生(伏勝)(ふくしょう)によって伝えられました。堯の時代から春秋時代の秦の穆公(在位前659年~前621)までの記録で、当時通用の文字(隷書(れいしょ))で記されていました(それゆえ今文尚書と命名された)。

 

一方、古文(こぶん)尚書は、後に、孔子の旧宅の壁中から発見され(先秦時代の古文字(蝌蚪(かと)文字)で書かれていたので古文尚書と命名)、前漢の武帝のとき、孔子12世の孫で儒学者の孔安国(こうあんこく)が読み伝授しましたが、西晋末の永嘉(えいか)の乱で失われてしまいました。

 

しかし、その後、東晋の元帝(317~323)の時代、梅賾(ばいさく)という人物が、孔安国伝と称する『古文尚書』を朝廷に献上し、これ以降、この「書経」が正として扱われるようになりました(これを『偽古文尚書』とも呼ばれる)。

 

その構成は、今文尚書を33篇に分け、これに偽作の25篇を加えた全58篇からなり、尭・舜から秦の穆公に至るまでの時代を、聖王の「虞書(ぐしょ)」、夏朝の「夏書」、殷朝の「商書」、周朝の「周書」の4章に区分されています。

 

書経の名言・故事成語

教うるは学ぶの半ばなり

(人に教えるということは、半分は自分が学ぶということでもある)

 

習い性(せい)となる

(習慣が生来の性質のようになっていく。習慣は第二の天性の意。

 

皇天は親なく、惟(た)だ徳をこれ輔(たす)く

(天は、人を選んで親しくするようなことなく(特定の人をひいきすることはなく)。ただ徳のある人を助けるのである)。「皇天」は天の敬称。

 

 

  • 詩経

 

詩経は、前470頃に書かれた中国最古の詩集(詩歌全集)で、全305篇からなる五経の一つです(正確には311で重複する部分を考慮して305)。漢詩の原型でもあるため、孔子以来,儒家の経典とされました。

 

殷に続く西周初期から春秋時代の中期(前11世紀〜前6世紀頃)に、男・女、農民・貴族・兵士・猟師などに幅広く歌われていた民謡等、3千篇あった膨大な詩編の中から、孔子が雅楽に合う311(305)編を選んで編集したと史記に記されています。収録されている詩は、楽曲などを伴うものであるから歌謡である一方、内容・形式から文学作品とも見られるものも含まれています。もとは口承で伝播していましたが、春秋時代前期に書きとめられて成書化したとされ、荀子が生きた戦国時代の後半(紀元前3世紀頃)には現行本と近い形での「詩経」が成立していたと見られています。

 

現在の詩経は、風、雅、頌の三部から構成されています。

 

(ふう)とは、周王朝治下の諸国の民謡を集めたもので、詩経の大きな部分を占めます。

(が)とは、周王室に関連した宮廷の音楽の楽歌で、天子諸侯が賓客をもてなすときに用いられます。さらに、諸侯歌謡の「小雅」、天子歌謡の「大雅」に区分されます(その場合、詩経は4章からなる)。

(しょう)とは、王朝の宗廟(霊廟)祭祀の際に用いられる楽歌です。

 

詩経は、古く( 先秦時代に)は、単に「詩』と呼ばれたり、周(東周の後半=戦国時代)の時代に作られたため「周詩」とも呼称されたりしました。また、後漢以降、毛氏の伝えた「詩経」の注釈が盛行したため、この毛氏の業績によって、詩経は「毛詩」という名で呼ばれるようにもなりました。最終的に、経典としての尊称から「詩経」の名前が生まれたのは、宋代以降でした(そうすると、現存の「詩経」は漢代の毛公によって伝えられた「毛詩」のことになる)。

 

中国においては、漢代以降、「詩経」は、「書経」とともに「詩書」として並び称され、儒家の経典として大きな権威を持つようになりました。実際、中国の支配層である士大夫層の基本的な教養として学ばれ続け、孔子はこの詩を門人の教育に用いるなど、儒学の重要な教材となりました。

 

孔子は、論語の中で(為政第二02)、詩経について次のように述べています。

子曰く、詩三百、一言以てこれを蔽(おお)へば、曰く、思い邪(よこしま)なし

孔子が言うには、「詩経には、三百篇の詩があるが、その全部の内容を一言でくくると、それは、心に邪念がなく、まっすぐな気持ちである」

 

詩経の名言・故事成語

 

切磋琢磨

友人同士が互いに競い合い、共に向上すること(現在の用法)

学問や道徳の修得に、自ら励むこと(元々の用法)

 

切るが如く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し

切るように、削るように、叩くように、磨(みが)くように(自己修練を重ねた)

(年を重ねても、徳を修めようと自己練磨する君子を讃えてのことば)

 

他山の石

他山の石、以って玉を攻(みが)くべし

よその山で採れた(粗悪な)石でも、自分の玉を磨く助けにすることができる。

(転じて)他人のつまらない言行も自分の人格を育てる助けとなりうる

 

戦戦兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履(ふ)むが如し

恐れおののいて、深い淵に臨むように、また薄い氷の上を歩く時のように

細心の注意をはらって、慎重に対処すること、または危険な立場にあることの例えとして活用されます。。

 

 

  • 礼記

 

礼記(らいき)は、中国古代の東周(戦国時代)から秦・漢時代にかけての、礼の精神や理論、その倫理的意義、(戦国以前の)制度・習慣などについての古説を集めた書物で、哲学思想を最も多く含むと言われ、唐代以降に五経の一つとして儒学者から重視されました。「凡(およ)そ人の人たる所以は礼義なり(そもそも、人の人たるゆえんは礼儀にある)」として、礼儀の始め(基本)は、容体(姿勢や態度)を正す、顔⾊を斉(整)える(表情を和やかにする)、辞令を順にする(言葉使いに気を付ける)ことだと説いています。

 

礼記の内容については、礼理論や官爵・身分制度から、学問・修養、日常の礼儀作法や冠婚葬祭の儀礼に至るまで多岐に渡ります。「礼記」に注釈をつけた、山東省の学者、鄭玄(127‐200)は、その内容を「通論」「制度」「明堂陰陽記」「世子法」「祭祀」「吉礼」「吉事」「楽記」に分類しています。

 

礼記は、49篇で構成されています。前漢初期には「礼の記」 131編のほか,さまざまな礼に関する古記録が現れましたが,前1世紀に、まず戴徳 (たいとく) がこれらを整理して「大戴礼 (だたいれい) 」 85編を編集し,次いで、前漢宣帝(在位:前74〜前48)の頃の戴聖(たいせい)が、戴徳の「大戴礼 (だたいれい) 」を削って、「小戴礼」 49編を編集しました(この小戴礼が、唐以後正統な経書「礼記」となった)。

 

また、「礼記」は、多くの内容が集積されており、「大学」篇は、孔子の弟子である曽子(そうし)の作、「中庸」篇は孔子の孫の子思の作、「月令」篇は、秦の呂不韋の『呂氏春秋』に拠るなど、各篇は独立し、かつ、単独で読解する傾向があります(篇によって成立時期も異なった)。そのため、「大学」と「中庸」の2篇は、宋代には独立した経書となって、四書の一つとされました。

 

一方、礼記は、三礼(さんらい)の一つです。三礼とは、中国の儒教の礼に関する3種の古典で、礼記以外に、「周礼」と「儀礼」がありますが、三礼の中では、礼記が一番読みやすく礼を理解する際に優れているとされています。

 

周礼(しゅらい)は、周官ともいい,周代の官制を記した行政法典です。

儀礼(ぎらい)は、礼の実行様式を記し、周代の官吏の冠婚喪祭など、宗教的政治的儀礼を集録したものです。

 

「礼記」の名言・故事成語

 

直情径行(ちょくじょうけいこう)

感情のおもむくままにすぐに行動すること。

 

直情にして径行する者あるは、戎狄(じゅうてき)の道なり。礼の道は則(すなわ)ち然(しか)らず

感情の赴くままに行動するのは野蛮な人間の生き方である。礼に則った生き方とは異なる。

 

善く問いを待つ者は鐘を撞くが如し

立派な教師というのは、鐘を撞(つ)くようなものだ

 

(原文はさらに続き)

これを叩くに小なるを以てすれば則(すなわ)ち小さく鳴り、これを叩くに大なるを以てすれば則ち大きく鳴る

小さく叩くと小さく鳴るし(教えを請うものがくだらない質問をすれば、つまらない答えしか返ってこない)、大きく叩くと大きく鳴る(本質についた質問には本質を答えてくれるものだ)。

 

弱冠

年が若い(若い年の)ことの例え

 

人生十年を「幼」と曰ふ、學ぶ。二十を「弱」と曰ふ、冠す。

生まれてから十年目を「幼」と言い、先生について学び始めるときである。二十を「弱」と言い、元服して冠をかぶる歳である。

 

古代中国では二十歳を「弱」といい、その年で元服して冠をかぶったことから、若い年のことを「弱冠」と呼ぶようになりました。

 

 

  • 春秋

 

春秋(しゅんじゅう)は、東周時代の前半(=春秋時代)、孔子の祖国である魯の国の歴史を記した、編年体(年を追って年次で記録)の史書です。正確には、魯の隠公(前722年)から哀公(前481年)まで12代242年間の年代記で、前5世紀頃に書かれました。

 

儒教では、「春秋は孔子自身が著した」、または「孔子がもともと編年体の年代記を孔子が整理した」と言われていますが、不明な点も多く。「孟子」によれば、孔子またはその門人の編纂とされています。春秋の内容は、王・諸侯の死亡の記録、戦争や諸侯同士の会盟などの外交記録、日食・地震・洪水などにともなう自然災害の記録などで、しかも、各年が数行単位の簡潔な叙述をもって史実を年月日ごとに記した、年表または官報のような体裁をとっています。

 

しかし、儒教において、「春秋」は単なる歴史書ではなく、淡々とした記述の背後に、聖王の道という孔子の思想が隠されていることから、思想書であるとも解されています。孔子は、歴史批判をこめながら、大義名分を明らかにし,それによって天下の秩序を維持するという、徳に基づいた政治の理想を説いていたのです(こうした表現法は、現在も「春秋の筆法」と称されている)。ゆえに、春秋は五経の一つとして重視され、儒家の教科書に用いられました。また、書名の『春秋』が扱う時代を一つの区分にして「春秋時代」という名称が生まれるなど、後世の歴史にも大きな影響を与えました。

 

一方、「春秋」の 本文自体は簡潔であるため、解説書として、前漢初期には「公羊伝」、「左氏伝」、「穀梁伝」などが伝わりました。この三解説書を、「春秋三伝」と呼ばれています。現在、「春秋」という書物は単独では現存しておらず、一般に「春秋」と呼ばれているものは、この春秋三伝と呼ばれる注釈書に包括されて伝えられています。

 

公羊伝(くようでん)

子夏(しか)(孔子の門人)の弟子公羊高の撰とされ、本書より公羊学が起きました。「春秋」は事実の客観的なしかも簡略な記録にすぎないが,そこに託された孔子の精神である微言大義(びげんたいぎ)(一見なんでもない記述の中に隠されている奥深く重要な意味)が解明されています。孔子はこれによって革命を是認し,改制の実行を示したものとみなされ、清末の革命に影響したと見られています。

 

穀梁伝(こくりょうでん)

孔子の門人子夏(しか)の弟子穀梁赤(こくりょうせき)の作と伝えられています(ただし、書物として成立したのは漢の初期)。公羊伝同様、「春秋」に託された孔子の精神を純理的に解明していますが、現王朝肯定,天子絶対神聖の立場をとり、正、義の観念を重んじながら、法律的規範の立場から経文を注釈しています。唐・宋代の春秋学者に影響を与えた言われています。

 

左氏伝(さしでん)

孔子の弟子の左丘明の作と伝えられるが未詳で、穀梁伝同様、前漢の末に伝えられ、春秋三伝の中で、主流になったと評されています。「春秋」の記述に合わせて、史実や史話で解説しており、独立した歴史物語としても,文学的に高く評価されています。

 

春秋の名言・故事成語

春秋(春秋左氏伝)

 

国家を為(おさ)むる者は、悪を見ること農夫の務めて草を去るが如(ごと)くす

国の政治にあたる者は、悪事を見たら、農夫が雑草を取り去ることに努力するように

取り除かなければならない。

 

国の将(まさ)に亡びんとするや、本(もと)必ず先ず顛(たお)れ、而(しか)る後に枝葉(しよう)これに従う

国が滅びるときには、まず、国の根本の道義が失われ、そこから枝葉も枯れていく(必ず国全体が亡びる。

 

禍福は門なし。唯(た)だ人の召(まね)く所なり

禍の門とか、福の門というものはない。ただ本人自身が招いているものだ。

 

 

四書五経

 

ここまで、四書五経、九つの経典をそれぞれ解説しましたが、意外なことに、四書と五経では、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)が、漢代に先に定められ、宋の時代、南宋の朱子(朱熹)が、五経を補う基本図書として、四書(大学、中庸、論語、孟子)を定めて、「四書五経」と呼ばれるようになりました。

 

なぜ、四書より五経が先だったかといえば、儒教はつねに先王の道(せんのうのみち)として、伝説の堯・舜や、夏の禹王、殷の湯王、周の文王と武王を聖王として仰ぎ、孔子の教えの淵源(えんげん)もそこにあるという考え方から、直接に先王の道を記す五経がより尊重されるようになったからだと指摘されています。

 

漢の時代の五経

この易経をはじめとする経書(五経)は、荀子(前298〜前238)の時代を前後するころにすべてが出揃い、経書の学習を必須として教学の柱とすることは荀子に始まるとされています。

 

中国を最初に統一した秦が滅んだあとに中国を支配した漢は、秦の法家偏重から転換し、儒学(儒家)を政治に採り入れるようになりました。漢の武帝は、儒者の董仲舒の意見を容れて(董仲舒の献策により)、前136年に儒教を国教化、学問としては儒学を官学として採用したことから、儒教(儒学)は、中国の統一王朝の理念としてなりました。

 

当時の儒教は、すでに経書(けいしょ)の学習を中心とするものとなっていたとされ、このとき、「詩経」「書経」「易経」「礼記」「春秋」の5つの経書が最も重んじられていたことから、「五経」が定められ、この五経を教授する五経博士が置かれました(五経博士は官職である)。

 

もともと、五経は「六芸」や「六経」と称されていて、それは、「詩経」「書経」「易経」「礼記」「春秋」の五経に加えて、「楽経」の6つから成り立っていました。しかし、「楽経」は秦の始皇によって行われた焚書坑儒の影響を受けて散逸して内容は伝わっておらず、この「楽経」を除いた5つをが「五経」になったという経緯があります。しかし、五経は難解であったことから、漢代の儒学は各経個別の研究にとどまり、それ以降の儒教は、五経の訓詁学(注釈学)、すなわち「経学」として発展(展開)することとなり、哲学的・体系的な深まりはまだ生まれませんでした。

 

それでも、宋以前の儒教(儒学)の経典は、五経が中心で、五経は、唐代には科挙の受験の必須知識とされるようになりました。そのため、その解釈を一定にする必要が生じ、太宗は、653年、孔穎達(くようだつ)らに命じて、五経の官選注釈書である「五経正義」を編纂させ、それが、正統な解釈基準とされていました。

 

宋の時代の四書

これに対して、宋代に入ると儒教の現状に対して、革新的な気運が生じました。南宋の時代(1127~1279)に、朱熹(しゅき)(朱子)が、儒教の新しい一派として、儒学を宇宙論的体系のなかに位置づけた朱子学(宋学)を完成させたのです。

 

朱子(朱熹)(1130~1200)は、儒教の教祖孔子の存在を強調し(儒教の開祖としての孔子の地位を高めてより)、「大学」や「論語」のように、より孔子の著作に近い書を重んじました。

 

そのため、孔子がまとめたとされる五経の「礼記」から「大学」と「中庸」を独立させたうえで、孔子の言行録の「論語」と孔子の説を発展させた孟子の言行録である「孟子」とを合わせて「四書」としました。「論語」は孔子、「大学」は曾子(そうし)、「中庸」は子思、「孟子」は孟子のそれぞれの思想を伝える重要な書物とみなされ、「五経」に先んじて読むべきとされたのです。これは、朱熹が、「四書」を「五経」への階梯として孔子に始まり孟子へと続く道が伝えられていると考えたからにほかなりません。

 

なお、四書という名称は、この4つの書物を、孔子・曾子・子思・孟子(略して孔曾思孟)に関連づけて「四子」または「四子書」と呼ばれたことに由来し、その略称として「四書」となりました。さらに、朱熹が、主著の「四書集注」を発表するに至って、五経に代わり、四書が尊重され、五経よりも四書が官学権威の中心となりました。

 

四書集注(ししょしっちゅう)

四書集注は、四書を重視した朱子が記した「四書」それぞれの注釈書で、「論語集注」、「孟子集注」、「大学章句」、「中庸章句」の4編よりなります。宋代の学者の注釈を継承しつつ、さらに、自己の世界観に基づいて、朱子自身の注釈(解釈)を新たに加えられています。これによって、儒学は、倫理学としての本来性を取り戻す一方、それを宇宙論的体系のなかに位置づけられるようになりました。四書集注は、南宋の朱子(朱熹)が最も力を注いだ著述といわれ、朱子学のいわばバイブルと尊重されました。

 

こうして、四書は、元朝以降、官吏登用試験である科挙の科目とされたので、独自の地位を獲得して「四書五経」と併称されるまでに至りました。

 

宋の時代の五経

一方、宋の時代に宋学(朱子学)が興ると、五経においても、朱子学の影響を受けた、五経正義とは異なる解釈(註釈)が現れるようになりました。

 

儒教の経典の解釈(註釈)において、漢から唐までの解釈を古註(こちゅう)というのに対し、宋以降の解釈は新註(しんちゅう)と呼ばれます。新註は、宋学の学者による経書の注釈であるので、朱子学の中心をなしています。

 

明の時代の四書五経

このように、儒教の経典の解釈(註釈)は時代によって異なっていたため、元の支配を経て、明が興り、儒教(儒学)が再び活発になると、科挙の試験基準を確立するためにも、新たに公式の註釈を加える必要が生じてきました。そこで、永楽帝は、1415年、「五経大全」、「四書大全」、「性理大全」の所謂、永楽三大全を刊行しました。

 

五経大全・四書大全

永楽帝が、胡広(ここう)らに命じて編纂させた五経と四書の注釈書で、五経四書の公式解釈とされました。また、両書とも、朱子学の説によって解釈され、以後科挙の受験用国定教科書に採用されるとともに、科挙試験の解釈の基準となりました。四書は五経以前に読むべき入門書としてその地位を不動のものにし、元代以降、官吏登用試験である科挙の必須科目として取り上げられ、明代の科挙では宋学(朱子学)がその基本とされたので、出題も朱子が定めた「四書」が重視されることになりました。

 

性理大全

性理学(せいりがく)の大全集で、同じく胡広らによって編纂されました。宋・元の性理学の学説を、聖賢,鬼神,学,諸子,歴代,君道,詩などに分類・集大成させたものです。性理学とは、宇宙の原理としての理を究明し、人間の本性を明らかにしようとする、宋学の中核理論で、宋代から明代にかけて隆盛となりました。漢・唐代の 訓詁学と対比されます。

 

このように、「四書五経」は、儒学にとって欠かせない経書であり、6世紀の随の時代から科挙試験の中軸となりました。しかし、国家が経典の解釈を定めたために、儒学は形式化し、思想も固定化されてしまったことから、明・清代においては、科挙の受験者も四書と五経を暗記するだけで、四書五経の自由な研究はなされなくなりました。

 

<関連記事>

儒教➀ 孔子・孟子・荀子・朱子…が教えたこと

儒教③ 儒教は宗教か否か?

儒教④ 儒教の歴史:孔子と弟子たちの遺産

 

<参照>

「四書五経」に学ぶ人間学 | 人間学とは(致知出版社)

四書五経(Wikipedia)

四書五経とは (コトバンク)

四書(世界史の窓)

五経(世界史の窓)

「八卦」とは? (Oggi.jp)

易における「六十四卦」とは何か (四万都好)

 

(2024年4月14日)