儒教は宗教か否か?

 

「中国の儒教を学ぶ」シリーズの第3回となった今回は、初回時に問題提起した「儒教は宗教か否か?」に切り込みます。孔子によって創始された儒教は、家族道徳を教え、さらに徳による政治の理論を構築するなど、前漢から清の時代まで、国教・官学として機能してきました。そんな儒教は宗教ではなく、「儒教は倫理であり哲学である」という考えが一般的となっています。

 

実際、中国でも儒教の語はあまり用いられず、学派を意味する儒家、学問としての儒学が一般的だそうです。日本では「儒教は宗教ではない」というのは江戸時代以降、日本人の間に定着していったとされています。それでも、日本では、儒教と儒学を同一視し、混同されるのは、明治以後、学派、学問、教化のすべてを含んで広義に儒教と称し、キリスト教、仏教、イスラム教などと並称させるようになったという背景があります。

 

今回は、「儒教は宗教でない」という主張と、「宗教である」という主張を併記させながら、儒教の宗教性について考え、儒教は宗教か?という問いに答えてみたいと思います。

 

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<儒教は宗教ではない!>

まず、現在、儒教といえば一般的に次のような教えであると解されています。

 

儒教は、孔子(前552年~前479年)を始祖とする思想・信仰で、孔子は、春秋末期の乱れた世にあって、人間愛である「仁」を定着させ、社会秩序を意味する、当時失われていた「礼」を定着させることで秩序を回復させると同時に、孝、悌などの家族道徳を守ることによって治国平天下をめざした……。孔子の死後は、孔子の教え(「儒学」、「儒教」)を奉じる一派である儒家が、諸子百家の一つとして、儒教を広めた……。

 

一般の宗教では、神仏や死(死後の世界)が説かれますが、私たちが知っている儒教には、神も救済の教えもなく、絶対的な存在もいません。実際、儒教の創設者である孔子は、死後の世界に関心がなく、神、死など、形而上学的なことは語らなかったとされています。

 

弟子から「人間は死んだらどうなるのか?」と聞かれた孔子は、「生きることさえよくわからないのに、どうして死がわかるというのか」と答えたといいます。これは、論語にいう「怪力乱神を語らず」、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」の一節からきています。

 

ここから、儒教は、来世という概念がなく、死後の世界にもまったく関心がない、神を信じるのではなく、現世をどう生きるか、いかに正しく生きるのかといった人間の行動の規範や支配層(官僚)のための世俗倫理を説いた人間至上主義の思想であると見られています。また、儒教は、この世界の問題を、人間の行動によって、合理的に解決しようとしていると解されています。

 

それゆえ、儒教は道徳的行動と生活、政治についての教えであり、また宗教というよりも道徳観であるから、儒教はむしろ、儒学・儒家思想と呼ぶ方がより適切とされています。このように、儒教は宗教としての要素を欠けていることが、「儒教は宗教ではない」と言われる所以です。

 

 

<儒教は宗教である!>

一方、儒教は宗教である」という立場では、以下のような主張がなされます。

 

確かに、孔子は論語の中で神や死後の世界は語らなかったかもしれないが、私たちがこれまで知っている儒教(儒学)にでてくる孔子は、孔子の死後、数百年後に弟子達によってまとめられた「論語」の中にでてくる人物としての孔子である。

 

実際の孔子の教えは、論語だけに限定されたものではなく、書経や礼記など経書(儒教の経典)の中で、「神々」が登場している。また、孔子が生きた周の時代やそれまでの伝統・習俗・慣例などが儒教の教えに反映、継承されている。さらに、儒教とならぶ中国の宗教である道教や、外来の仏教などの教えが、儒教の中に取り込まれている。

 

では、こうした意見をふまえ、「儒教は宗教である」との立場から、儒教を深堀りしてみたいと思います。

 

  • 原始儒教思想

 

儒教とは、道徳的な教えというよりは、孔子(前551-前479)以前から「原始儒教思想」とも呼ばれる長く、古代から伝わる神話や制度、習俗などが熟成されて生まれた宗教と指摘されています。

 

天(天帝)への信仰

儒教において、その最高の価値として「天」を置いているとされ、中国の民衆も、古くから「天」の信仰をもっていたと言われています。孔子が生きた周の時代において、殷またはそれ以前から続く、神々や祖霊への祭礼・祭喪の制度がありました。儒教の経典(経書)の中にも記載があり、実際、儒教の祭喪(さいそう)の礼(喪に服することと祭祀を執り行うこと)には、多くの神々が出てきます。その中で、「詩経」「書経」などの儒教経典に見える宇宙の最高神は、昊天上帝です。

 

昊天上帝 (こうてんじょうてい)

周代の天空神で、宇宙の最高神として、万物の上に位置してこれを主宰しています(皇天上帝、皇皇后帝、単に上帝とも呼ぶ)。五方上下の守護を司る黄帝、白帝、赤帝、黒帝、青帝、天帝、地帝の一人でもあり(古くはこれを七帝といった)、(儒教経典では)五方上帝(黄帝、白帝、赤帝、黒帝、青帝)の上に昊天上帝がいるとされています。

 

また、昊天上帝は、下民の行為の善悪を評定して禍福を下す人格神ともされています。王朝の存亡は上帝の意志によると考えられたため,その祭祀は帝王みずからが行うべき最も重要な国家祭祀でした。

 

昊天上帝の「昊天」は大いなる天,「上帝」は天上の帝王で、殷商時代あるいはそれ以前からの最高神「天帝」に由来します。天帝とは、古代中国における天上の最高神、天地・万物すべてを支配する天の主宰神、人の上の存在、人を超えた存在で、上帝(昊天上帝)ともいいます。

 

ただ、その時の「天(天帝)」とは、物理的な天空や神格ではなく、人間の価値の源泉であり、天の倫理的力が信じられ、天は絶対的な権威を保持していました。宇宙は天によって保護され、万物は天によって成育するので、人間もすべて天から生まれ、かつ全ての人には天から一生をかけて行うべき「宿命」があると考えられていました。また、ここから、人間の性質は天から授かっているのだから、生来善なるものであるとみなされました(性善説の起源)。

 

この天の思想を受けて、古代中国では古来、人間関係の最上に位置するのは皇帝であり、皇帝は、天の使い(天子)と信じられていました。古代中国では、天帝の命令(天命)を受けた天子(てんし)が君子として国家の統治に当たるという考え方があり(君子の座に就くことは天命とみした)、天子(君子)は天帝を祀ることが義務とされていました。孔子もまた、地上の聖人と宇宙の天帝を対比させ、聖人の天帝の道を説き天道を地上に実現させようとしたと言われています。

 

その際、時の君子(皇帝)が悪政を行えば、天は自然災害の形を取ってこれを知らせる、つまり、天災や混乱は天帝の不徳と見なされました。

 

逆に、豊作や平和は天帝の徳の力であり、この世に聖天子が現れる前兆として、天は珍しい動物を遣わしたり、珍しい出来事を起こしたりして知らせる、と考えられていました。例えば、麒麟は、王が仁徳のある政治を行うと現れる動物とされています。儒教は、国の統治に「仁」や「徳」を求めることから、徳のある統治者、仁政、平和といった文脈で、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神や、龍、鳳凰、麒麟、亀の四霊といった瑞獣(すいじゅう)(縁起のよい獣)がしばしば語られます。

 

このように、王朝の存亡も、天帝(上帝)の意志によると考えられたため(易姓革命の起源),その祭祀は、君子みずからが行うべき最も重要な国家祭祀とされていました。

 

三大祭祀

中国古来における国家の祭祀には、郊(こう)・宗廟(そうびょう)・社稷(しゃしょく)などがありました。

 

郊祭(こうさい)とは、天の祭りで、皇帝がその国都の郊外で天または地をまつった祭祀をいいます(郊祀という場合も多い)。宗廟の祭礼は、祖先の祭りで、宗廟とは氏族が先祖に対する祭祀を行う廟(墳墓)のことです。

 

社稷の祭り(社稷の礼)は、土地と五穀の神の祭礼です。社は土地の神,稷は穀物の神(穀神)で、周代には両者は一体として土地神だったとも言われています(周代以後,土地神(社)と穀物神(稷)に分けられるようになった)。

 

社稷(しゃしょく)の語源は、土地神である社に、穀物神の后稷(こうしょく)が配祀されたことにありますが、后稷は、伝説上の周王朝の祖と伝えられる姫姓の祖先神です。穀神の稷が、周王朝の祖先とされるに至り,周代に政治的な礼の制度に取入れられたこともあって、社稷は、広く、国の守り神である天地の神とされ、社稷が国家自体をも意味する(国家・王朝の代名詞としても用いられる)ようになりました。

 

漢代に入って、武帝が、儒教を国教としてことで、これらの祭祀も、儒教の経書(けいしょ)をもとにした皇帝祭祀として、前漢末から後漢初頭までに典礼化され,以来,天地をまつることは,皇帝の専権となり、後世に受け継がれていきました。漢代からの皇帝祭祀(国家的祭祀)は、典礼化された郊祀(天)・宗廟(祖先)・社稷(土地と農業)の三大祭祀、および即位儀礼です。

 

郊祭(こうさい)は、冬至の際には天子が自ら王都の南郊に至って天を祀り、夏至の際には天子が自ら北郊に至って地を祀り、社稷(しゃしょく)の祭礼も、春秋2回行われ、天下の土地を祭る国家的祭祀になり、これを主催することは、長い間天子の重要な任務とされていた。

 

また、中国では古くから山岳・山神の崇拝がみられましたが、次第に五大名山である五岳(ごがく)が崇拝対象となっていきました。

 

東岳泰山(たいざん)

南岳衡山(こうざん)

西岳華山(かざん)

北岳恒山(こうざん)

中岳嵩山(すうざん)

 

儒教の礼でも、東岳泰山(たいざん) を第一とする五岳は祭礼の対象でした。ただし、これも、初めは東西南北の四岳でしたが、儒教を国教とした武帝が、中岳嵩山(すうざん)を祭祀した後、ほぼ、以下のように五岳として固まり、宣帝の紀元前61年に五岳の国家祭祀が確定したとされています。

 

天地人(三才)

さらに、戦国時代以降、世界は、天・地・人の三つの働きによって機能しているという天地人の思想が形成されましたが、天地人思想は、儒教にいう三才思想であり(出典元は「孟子」)、天・地・人(=三才)という宇宙の構成要素全ての協調が繁栄をもたらすという考え方(自然との一体を説く)です。

 

天神地祇と人鬼

日本と同様に、中国でも天と地の全ての神々を、天神地祇(てんしんちぎ)(神祇とも略される)と表現されます。天神(てんしん)は、天の神(天を司る神)、天界にいる諸神で、昊天上帝はその一神です。地祇(ちぎ)は、地の神(地を司る神)、地界に住む諸神で、社稷や五岳は地神として祭られました。

 

この天神地祇という用語も、もともと儒教で、死者の功績を称えて神として祀られた人鬼(鬼神)以外の自然界の神々を指す総称として使われた用語でした。中国で、鬼といえば、死者のことをさします。儒教では、人間の魂魂を、鬼とし神とし、宗教的な祭神の鬼神となし、祭礼が厳粛に取り行われました。孔子も「礼記祭義篇」の中で、鬼神について、「鬼神の鬼は、人間のからだにやどる魂魂の塊であり神はその魂気である。この鬼と神とを合して、鬼神を祭る…。人間は必ず死ぬが、死ねばその形塊は土に露してしまう。これが鬼と云うものである」と述べています。

 

孔子は、論語では「怪力乱神」を語りませんでしたが、実際は死後の世界を語っていました。さらに、儒教では、後に陰陽の説に従って、人は死後、(こん)(陽の精気)と(はく)(陰の精気)とに分かれ、魂は陽に従って天に昇り(返り)、魄は死んで土に返り(地に降り)、陰に従うと理論化されました。人間は精神と肉体に分けられ、魂(こん)は精神の主宰者であり、魄(はく)は肉体の主宰者というわけです。

 

 

三礼(さんらい)

書経や舜典(帝堯が定めた法則)によれば、古来より儀礼を重んじた儒教では、天神・地祇(ちぎ)・人鬼(亡き人の魂)を祀る儀式(葬儀を含む祭礼)は、三礼(さんらい)によって行なわれていました。三礼とは、儒教の経典のうち、礼に属する「儀礼(ぎらい)」「礼記」「周礼(しゆらい)」の3書のことをいいます。

 

儀礼(ぎらい)

古代の礼に関する文献を、儒家が伝承してきたものの一部で、冠婚葬祭を中心に共同体の祭礼や、聘礼(へいれい)(人を招聘する時の礼物)・覲礼(きんれい)(諸侯や属国の王などが、参内して天子に拝謁する礼)など官僚として必要な礼儀作法をまとめたものです。

 

周礼(しゅらい)

周王朝の官制(国家組織)を、天官(総理)・地官(教育)・春官(祭礼)・夏官(軍事)・秋官(司法)・冬官(土木)の六官に分けて記述したもの。周公旦の作とされます。

 

礼記(らいき)

五経の一つで、戦国末から前漢初期までに現れた、服喪・動作の規則,礼の解説,礼楽の理論、儀礼(ぎらい)の注釈など礼学関係の文献を、前漢の学者、戴聖(たいせい)が選録したものを言います。当時の学問集成の書として重要視されています。

 

なお、ここまで紹介した神々は、郊・宗廟・社稷、天神地祇など儒教の祭喪(さいそう)の礼に出る神々でしたが、山の神や川の神などのいろいろな「自然神」や祖先神など、それに対応する民間の生活文化の神々がありました。たとえば、土地神は、元来、儒教の社稷(しゃしょく)(=土地や五穀の神)ですが、民間、とくに農村では、土地(農作地)および人民(生活)を守護する神でした。

 

さらに、ここから、儒教のもう一つの宗教的側面として、民衆レベルで定着していた祖霊信仰と呪術信仰があります。

 

 

  • 呪術信仰と祖霊信仰

 

呪術信仰とは、具体的にはシャーマニズムです。シャーマニズム(巫術)とは、異界の神霊や呪術の力を信仰する原始的な宗教のことをいい、神がかりして神の言葉を人々に伝える事のできるシャーマン(呪術者)を通じて神々とつながっているとされます。シャーマンは多くは女性で、日本で言えば巫女にあたります。ギリシャやメソポタミアだけでなく、中国においても、物事を神託によって決し、神意をただすために犠牲獣を捧げる行為は広くみられます。

 

文明段階になってからも、神意を占うことは、「神権政治」として継承されました。殷(前17世紀頃〜前1046年)では、全能の存在である天帝が信じられ、吉凶禍福を司る天帝の神意を占う神託政治(祭政一致の政治)が行われていました。

 

また、中国では、日本のような神社ではなく、祖廟(そびょう)(祖先の霊をまつる建物)が崇拝の場所として一般的で、祖先崇拝に結びついて祖先神も祀られていました(殷の人々は帝を祖先神としたと言われる)。

 

儒教もまた、この祖先崇拝(祖霊崇拝)を基本としています。儒教の「儒」とは、もともと、原始宗教で、祈祷や葬送儀礼など祖霊の祭祀を行う(神事を司る)人々の意味があり、孔子の母が、「儒(巫女)」だった言われています。中国を訪れたイエズス会士は、儒教を、祖先を思い出す宗教としか見なしていなかったそうです。その意味では、儒教は、シャーマニズムを基盤にして生まれた宗教で、これを孔子が理論体系化したと言えます。

 

儒教では前述したように、人が死ぬと、魂と魄が分離し、魂は天に返り(昇り)、魄は死んで土に返る(地に潜(もぐ)る)とされました。そして、子孫が先祖を祀る儀式を行えば、天と地からそれぞれ戻ってきて再生すると見られていました。そこで、子孫は死者の魂をその家の霊廟に祭り、祭りにおいて死者の名を記した木主(人の霊にかえてまつる木製のもの、みたましろ、位牌)に死者の霊を降ろして供養する。また魄は遺体とともに埋葬し、土に返したのです。親が死んだら、位牌に名を記して、魂を位牌にまつり(位牌とともに廟に祀り)、遺体は土に埋めて土葬としました。そして、死者は、死後も生前と同じように生活すると見なされているので、線香を絶やしません。

 

この天(天帝)に対する信仰と、呪術信仰、祖霊信仰の部分は、「論語」を説いた儒学(儒家思想)では、述べられていない内容ですが、これらは、まさに儒教の宗教的側面であることは間違いありません。さらに、次の項目については、論語に出てくる孔子が説いた儒学の中心となる教えですが、そこにも、呪術信仰と祖霊信仰が根底に流れているようです。

 

 

  • 祖先崇拝としての孝

 

儒学は「孝」を重視します。一般的に儒学で教えられる孝とは、親孝行という狭い道徳的規範を意味し、親(血縁の年長者)に対する尊敬、親の命令に対する服従(子の親に対する絶対的服従の道徳)を意味しています。しかし、宗教としての儒教の観点からみた孝は、祖霊崇拝に行き着きます。

 

儒教はもともと、➀祖先祭祀をすること(先祖供養)、②家庭において子が親を愛し(父母の敬愛)、かつ敬うこと、③子孫一族が続くこと(子孫の繁栄)が、人間の務めており、この三つをあわせたものが「孝」です。

 

現在、私たちが知る儒教(儒学)の「孝」は、②のみが強調されていますが、父母の敬愛に加えて、祖先祭祀(先祖供養)と子孫の繁栄が合わせたものが、儒教でいう「孝」なのです。特に、➀、③は、「招魂再生」の死生観と結びついています。

 

招魂再生とは、死んでも、楽しかった懐かしいこの世に再び帰ってくることができるという観念で、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫が途絶えず、先祖である自分を祀る儀礼が行われ続けば、自分の魂(こん)と魄(はく)は分裂することなく、生命は存続していくことになると考えられています。

 

先祖あっての自分であり、子孫あっての自分(子孫に供養してもらい、自分の魂もこの世に呼び戻してもらえる)という認識の下(招魂再生)、過去(先祖)と現在(自分)と未来(子孫)は繋がり、私たちは単体(個体)ではなく、子孫は先祖と、過去も未来も、一緒に生きるものであるとみなされています。

 

儒教では、この世に帰ってくるために遺体はそのまま土葬し、依り代として位牌を拝み、亡くなった日の祥月命日(しょうつきめいにち)(故人があの世へ旅立ったのと同じ月と日にちのこと)にお参りする風習があります。それゆえ、儒教は、葬儀を重視し、葬送儀礼も確立しています。父母が亡くなると3年の喪に服し、この間は、官僚(士大夫)は公的な仕事から退きました。死後、13カ月目と25カ月目には祭儀が行なわれました。死者は幽界に行くため、死者を葬る場所は北方に、頭を北にして埋葬されました。これは、夏・殷・周の時代からの習慣でした。

 

こうした祭祀儀礼については、前漢(前206~8)に整理された儒教の経典の一つである「礼記」に書かれており、この中には孔子(前552~前479)の葬儀や意見も記されています。祖先の祭祀と子孫の繁栄を何よりも重んじることが、孝の実践的要請であり、孝こそが儒教の中核とも言えます。ですから、儒学において、親子関係を軸とした家族主義的道徳体系が成立しているのです。

 

 

  • 祖先崇拝としての礼

 

私たちが知る儒教において、礼は道徳的な意味でとらえられ、仁との関係で説明されます。相手を愛するの心が、相手を尊重するていねいな態度や行動となって表れるのがであると説かれました。また、春秋末期の乱世において、外には礼によって失われた秩序を回復し、内には人に接するに仁をもってすべきであると、政治的な観点からも捉えられました。

 

しかし、孝と同様、礼もまた、もともと、祖先をまつる宗教的な儀礼を意味しており、儀礼においては、祖先を中心とした秩序が重んじられていました。

 

天下の礼は、始めに返るを致すなり。鬼神を致すなり、和用を致すなり、義を致すなり、譲を致すなり(礼記・祭義篇)

世の中の儀礼は、物事の始めに返ることである。すなわち、鬼神(祖先や神)に通じることで、目上の者への親和が増し、親和が増すならば、道義が育成され、道義が育成されれば、譲る心が生まれる。

 

 

  • 祖霊崇拝と政治

 

儒教は、政治を重んじました。政治の基本は道徳であり、人々が仁を施せば、家は安泰、すなわち国家も治まり(治国)、天下も安定するとされました。政治についても、祖霊崇拝が根底のところで拘わっています。正しい政治が行われることによって、生者のみならず死者もが救われると考えられていたのです。天下の乱れをなくなれば、人々がみな幸福に暮らしていけるようになり、家(子孫)が途絶えるという不幸な事態も起きないと考えられたからです。

 

儒教は、孔子が古代の土俗的信仰の中の「儒」の思想を体系化し、これを学問と結びつけ、現実の社会に適応する道徳理論として成立させました。しかし、私たちが知る儒教の仁、礼、忠、孝の教えの背後には、実は極めて、宗教的な要素があったということが言え、儒教は、本来極めて宗教的であると言えます。

 

なお、日本では、儒学=儒教とされていますが、実際は、儒学(儒家思想)は、儒教の中核をなしますが、それがすべてではなく、祭礼、祖霊崇拝にみられるように、宗教的な部分を含めて、儒教が出来上がっていることがわかります。その本来の儒教の宗教的な部分は、日本では、仏教の中に取り込まれています。

 

仏教では、仏壇でご本尊を拝むのが本来の姿ですが、日本で仏教の家では亡くなった方の月命日に、仏壇に手を合わせる(仏壇の中段にある位牌を拝む)。そもそも位牌をつくる習慣は仏教ではなく儒教からきています。お彼岸やお盆に祖先の墓参りをすることやお盆の迎え火・送り火なども、すべて儒教に由来しています。

 

<関連記事>

儒教➀ 孔子・孟子・荀子・朱子…が教えたこと

儒教② 四書五経:論語だけではない儒教の経典

儒教④ 儒教の歴史:孔子と弟子たちの遺産

 

 

<参照>

「儒教」の教えや儒教思想とは?意味や特徴をわかりやすく紹介

(TRANS Biz)

「儒教」はただの宗教ではなかった!?「宗教」が「政治」に与えた、「大きすぎる影響」

(2023.06.23、現代ビジネス)島田 裕巳

そもそも「宗教」とは何か? 中国の宗教史から考える

(2021.10.21、クーリエ)

儒教の世界・その1(世界史の目)

世界史の窓

コトバンク

Wikipedia等

 

(2024年4月11日、最終更新2024年4月25日)