道教:神々の百貨店② 孫悟空も岳飛も神!

 

「中国の道教を学ぶ」をシリーズでお届けしています。道教には多くの神々が登場します。しかも、思想・宗教の「百貨店」と形容されるほど、神々の系譜は驚くほど複雑多岐で、様々な信仰形態がごっちゃになっていて、統一的な見解は不可能と言われています。

 

それでも、道教の神々は、大きく①尊神、②俗神、③神仙の3種類に分類することができます。前回説明してきた、三清(元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊)四御(玉皇上帝、北極紫微大帝、勾陳天皇大帝、后土皇地祇)は尊神の典型で、今回の投稿では代表的な俗神と神仙についてまとめてみました。

 

前回の投稿記事;道教:神々の百貨店➀ 老子や南極老人も神!

 

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<俗神>

 

道教では、雷公、瘟神、城隍、門神、竈君、財神、福神から、劉猛将軍、鍾馗、碧霞元君まで、様々な俗神が、全国で祭祀されています。

 

俗神とは、民間で大人気の英雄達が、高位の神として祭られた存在で、死後に神とされた人物も少なくありません。たとえば、現在の中国においては、「英雄」と聞かれれば、関羽、岳飛、托塔天王などの名があがると言われ、こうした英雄豪傑が神格化されたのです。加えて、そうした民間の俗神には、関聖帝君や文昌帝君などのように、皇帝に認定され、国家が正式な神として廟を建てて信奉されるようになった神もいます。

 

また、道教は俗神として、天地間の八方(方角)や五行の神々や、あの世の亡者の魂に関わる秦広王や宋帝王などのような鬼神も祭祀され、なかには、人の身体の四肢・五臓・六腑にも身神(しんしん)と呼ばれる神がいたり、五顕霊官のように道教の教義から作り出された神や、仏教を真似て作られた神もいたりしています。

 

このように多くの俗神がいるのは、道教と中国の民間の風俗・習慣が密接に結び付いていたことの裏返しでもあり、俗神を含む道教の神の多くは人が想像によって作り出したものとも言えます。では、有名な道教の俗神をほんの少しですが、紹介します。

 

 

  • 武神・財神

 

関聖帝君(かんせいていくん)

関帝(かんてい)

 

関聖帝君(関帝)とは、三国時代、蜀の劉備に仕えた武将で、国民的な大英雄の関羽(かんう)が、道教の神として神格化された姿です。関聖帝君(かんせいを縮めて、関帝(かんてい)と呼ばれることもあります。厳密に言えば、関聖帝君とは、神号(神名に付加する呼び名)であり、明の天啓帝が贈った封号(ほうごう)(爵位)である「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君(さんがいふくまたいていしんいえんしんてんそん)」の略称です(明末には関聖帝君の号が与えられた)。関羽(関帝)は、忠義に篤く武勇に優れる人物であった事から、8世紀末には武神(軍神)として、崇敬され始めたと言われ、宋の時代(960~1279)に、道教信仰の武神としての地位が高まり、王朝の祭祀の対象にもなりました。

 

また、元々は武神でしたが、信義を尊んだことから、民間信仰で商売を守る財神(財福をつかさどる商売の神さま)としても祀られるようになりました。中国だけでなく、東南アジア、日本、朝鮮など世界各地の中華街(チャイナタウン)には、ほぼ必ずと言っていいほど関帝廟(かんていびょう)が建てられています(関羽を祀った廟は「関帝廟」と呼ばれる)。さらに、算盤や新しい帳簿を発明したという伝説から商業神としてや、仏教寺院においてもお寺を守る「伽藍(がらん)神」としても祀られ(信仰され)るなど、関帝は道教における人物神の代表格として人気があります。

 

 

岳飛(がくひ)

岳鄂王

 

岳飛(1103~1142)は、南宋の武将で、中国の歴史上でも屈強とされ、北宋を滅ぼし、中国の南部にまで侵攻してきた女真族の国「金」を北宋の首都であった開封(北京)にまで撤退させるなどの功績を残しました(金は中国大陸の北半分を制圧)。しかし、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相の秦檜(しんかい)に、無実の罪で投獄され、過酷な拷問に対しても屈せず、最後は処刑(謀殺)されてしまいました。

 

その非業の死の後に、無実であった事が証明されると、名誉を回復され(かつての功績が称えられ)ました。1204年に鄂王(がくおう)に追封(ついほう)(岳鄂王と呼ばれる)された後、神格化され、明代に靖魔大帝に封ぜられました。岳飛は、農民出身ながら文武両道で、特に農民等の平民層に大変な人気を博しました。現在も、岳飛廟(びょう)に祀られ救国の英雄とされています。

 

 

二郎神(じろうしん)

顕聖二郎真君(けんせい じろうしんくん)                                   

 

二郎神は、治水の神、武神として知られています。中国神話において、水害を起こす蛟竜(こうりゅう)など魔物を退治する場面に登場する、七十二の変化の術を使いこなす武神です。道教において、一二を争う強者であり、暴れまわっていた時代の孫悟空を撃破・捕縛したり、悟空が三蔵法師に帰依した後も、度々下界で妖怪の討伐に向かったりするなど、「西遊記」や「封神演義(ほうしんえんぎ)」などの文学作品や民間伝承にも頻繁に名前が登場する人気者です。ただし、その正体がはっきりと分かっておらず、登場人物の一人楊戩(ようせん)と同一視される事もあります。

 

 

哪吒(那吒)(なた)

 

哪吒(那吒)は、毘沙門の子として、もともと仏教の護法神(仏法とその信者を護る神、仏法の守護神)であったものが、宋代から、徐々に仏教よりは道教系の神(道教神)に変容していった武神です。道教の信仰対象として、哪吒太子(なたたいし)、中壇元帥(ちゅうだんげんすい)、太子爺(たいしや)、羅車太子などいくつもの尊称がります。

 

哪吒(那吒)の由来は、インド神話の財宝神クベーラの息子のナラクーバラです。ナラクーバラを音写して、「那羅鳩婆」「那吒倶伐羅」などと書かれ、それが「那吒」になり、さらに「哪吒(なた)」に変じていきました(インドでは「ナラクーバラ」という神)。クベーラが毘沙門天として、托塔天王(たくとうてんのう)(後述)という名で、仏教に取り入れられると、息子のナラクーバラも、毘沙門天の息子として、その陪神として取り入れられ、西晋(265~316)の時代の頃に、那吒太子(なたたいし)の名で信仰の対象となりました。

 

しかし、宋以後に毘沙門天信仰が衰退すると、仏教では那吒(なた)は忘れ去られていきましたが、道教では民間説話に取り入れられて人気であったので、次第にインドの神である事は忘れられ、道教の神の一柱に収まっていきました。実際、哪吒(那吒)(なた)は、仏教や、西遊記や封神演義など中国の民話・説話などに登場しており、玉帝(玉皇上帝)の命令に従って、妖魔などを退治する天界でも屈指の武神(武将)として(二郎神とも組になって行動している)崇拝されていました。

 

その姿は少年で描かれることが多く、身体や衣服は蓮華でできています(ゆえに蓮華の化身ともされる)。明の小説『西遊記』では、三蔵法師に仕える前の暴れまわっていた時代の孫悟空を討伐する役目を担っています。

 

 

托塔天王(たくとうてんのう)

托塔天王は、哪吒の父で、仏教の毘沙門天の化身とされる武神です。本来は唐代初期の伝説的な名将(武将)・李靖の民間信仰でしたが、中国において、毘沙門天信仰が高まると、毘沙門天は李靖と同一視され、道教でも托塔李天王(たくとうりてんのう)の名で、神として崇められるようになりました。なお、それに伴い、那吒も道教に取り入れられました。ただし、宋以後に毘沙門天信仰が衰退すると、毘沙門天と同一視された托塔天王も、段々ほかの天王を率いる別格的な天王とみられるようになりました。

 

 

趙玄壇(ちょうげんだん)

趙玄壇(趙公明、趙玄朗、玄壇神)は、殷の紂(ちゅう)王の臣で、武神としてだけでなく、公正公平で商売繁盛も司る、財神として崇められています。財神としては、道教で五人組と称される「五顕財神(ごけんざいしん)」の筆頭であり、その配下に招財神、神宝神、納珍神、利市神の四神を従えています。五顕財神は、四方五路の財を集める神として五路財神(ごろざいしん)とも呼ばれます。宋代の頃から、五顕財神(五路財神)の信仰が定着しました。

 

また、趙玄壇は、古くからよく知られた神で、冥界で亡魂・悪霊を管理する神であり、また疫病を司る(疫病をはやらせたり取り除いたりする)瘟神(おんしん)としても扱われ、さらに、雷電、風雨を操り、禍を防ぐなど幅広い力を持つ神として信仰されていたそうです。

 

 

  • 駆蝗神(くこうしん)

 

劉猛将軍(りゅうもうしょうぐん)

劉猛将軍は、蝗(いなご、バッタ類)の害から農作物を守る神、駆蝗神として知られています。かつての中国では空を真っ黒に覆うほど大量の蝗が田畑を襲い、雑草まで食い尽くす被害を与えてきました。この蝗害を受けた農民の中には餓死する者も出るほどでした。その恐怖から、宋代の頃から農村では駆蝗神(くこうしん)への信仰が盛んになっていました。

 

 

  • 五岳神(五岳大帝)

 

五岳神(五岳大帝)とは、この中国中原にある五岳(五霊山)(=東岳泰山、西岳崋山、南岳衡山、北岳恒山、中岳嵩山)の神々のことをいい、それぞれ、東岳大帝(泰山府君)、西岳大帝、南岳大帝、北岳大帝、中岳大帝が該当します。

 

五岳(ごがく)とは、中国の道教の聖地である5つの山の総称で、五名山とも呼ばれます(五岳は儒教の聖地でもある)。陰陽五行説に基づき(聖なる山が5つあるというのは五行思想の影響で)、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北の各方位に位置する、以下の5つの山が聖山(霊山)で、それぞれ役割を持っているとされます。

 

東岳泰山(たいざん)(山東省)

山東の「泰山」は、古くから山岳信仰の聖地で、「五岳」の筆頭(五岳の中の最高位の霊山で)として東方の「東嶽泰山」とも呼ばれ、歴代王朝の尊崇を受けてきました。山上には、人間の寿命を支配し、それぞれの寿命を記した帳簿があると信じられ、人間の生死を司ります。泰山は古来、天神が下り死者の霊魂が寄り集う霊山として知られています。泰山と表記される場合もあります(泰山といえば東岳泰山をさす)。

 

南岳衡山(こうざん)(湖南省)

道教だけでなく仏教の聖地でもあり、魚類と星を司ります。

 

中岳嵩山(すうざん)(河南省)

中国の仏教禅宗の発祥地としても有名(少林寺のカンフーでも知られる)で、植物と土地を司ります。

 

西岳華山(かざん)(陝西省)

中国の道教の主流である全真派の聖地で、鳥類と金属を司ります。

 

北岳恒山(こうざん)(山西省)

多くの帝王・名将が戦った場所で、石炭や鉄など鉱物資源の集中地として知られ、陸上動物と河川を司ります。神話によると、万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われ、五岳として確立されたのは漢の武帝、宣帝の頃だとされています。儒教の礼では五岳は祭りの対象ともなっています。

 

 

  • 冥界の神

一般に、冥界を支配する道教の神が、東嶽大帝(泰山府君)と酆都大帝です。

 

東岳大帝 (東嶽大帝)(とうがくたいてい)

泰山府君

 

東岳大帝 (泰山府君)は、東岳泰山の神(山神)であり、かつ泰山冥府の主宰者であり、当初、冥界の最高神とされました。その起源は、後漢(25~220)のころにまで遡り、天帝(中国の最高神)の孫とも言われ、各地に東岳廟が建てられるなど、中国の人びとの信仰を集めました。

 

人の魂魄(こんぱく)(心と肉体)を召すことから、人の生死や寿命、福禄(官位)を司る神であり、また、死者の生前の行為の善悪を裁く神でもあり、仏教の閻魔(えんま)王に相当する冥府(めいふ)の神でもあります。インドに発生した仏教が中国に伝わるにおよんで、仏教の地獄や閻魔(えんま)王、閻魔天の思想と交じり合い、泰山府君には、生前に行った善悪にたいする審判や刑罰などの執行者のイメージが付与されていきました。

 

ただし、仏教と習合し、泰山府君は、冥界の最高神ではなく、人間界の天子にあたる「閻魔王」、冥府(めいふ)における総理大臣や大臣というランク付けで、閻魔(えんま)大王の眷族(=冥府(めいふ)の神)とされました(泰山府君はトップではなくなった)。ちなみに「府君」とは、漢代では郡を支配する太守の職名である。長寿、富貴、子孫繁栄、出世栄達などの現世利益の信仰の対象とされたとみられています。

 

なお、東岳大帝 と泰山府君の呼び名ですが、漢代に、民間では、東岳大帝より泰山府君(たいざんふくん/たいさんぶく)と呼ばれました。当時、地方州郡の太守を府君と敬称したことに由来しています(泰山太守閣下の意)。

 

しかし、その後、唐代には天斉王(てんせいおう)の名が与えられ、道教神としての東岳大帝の名は、宋代以後に定着しました。これは、泰山(東岳泰山)が五岳の第一として歴代王朝の尊崇を受け、その神も東岳天斉大生仁聖帝(てんせいだいせいじんせいてい)に封ぜられたからです。この結果、世間でも東岳大帝と呼ばれるようになったことから、地域に限られた泰山府君の古称は消え、わずかに晋(しん)・唐時代の古伝説にその名をとどめるだけになったと言われています。

 

さらに、前述したように、古代中国の道教系の思想では、北斗七星が北極星とともに人の生命を司る司命星とされる信仰が生まれ、人は生まれ年の干支から北斗七星のいずれかの星に属していると信じられるようになると、ここから人の生まれ年による「属星」という考え方が定まり、延命長寿のために、自分の属星を祈る北斗七星祭祀も生まれていきました。すると、泰山という山(=冥府)は、宇宙空間へと広がりをみせ、人間の寿命、運命を支配している天体の星の世界と「泰山」とが重ね合わせられました。

 

 

酆都大帝 (ほうとたいてい)

六朝時代(後漢滅亡の220年から隋成立の589年)に上清派の間でつくられたとされる道教の地獄神(地獄の最高神)で、泰山と並ぶもう一つの死者の世界である羅鄷都(らほうと)(死者がその死後まず行く場所)という地府(冥途)の主宰者です。冥府の王都、羅鄷都(羅鄷または鄷都(ほうと))は、魏・晋以降、道教の成立にともなって、新たに北方の果てに冥府があると伝えられ、羅鄷山(らほうさん)にあります。

 

羅鄷山は、中国北方の海のはるか彼方にあるとされる架空の山で、そこには、以下のような6つの天宮があると言われています。人間は死後にこの6宮にやって来るとされています。

第一宮:紂絶陰天宮(ちゅうぜついんてんきゅう)

(人間は死ぬとはじめに来て処分を受ける天宮)

第二宮:泰煞諒事宗天宮(たいさつりょうじそうてんきゅう)

(急死者が訪れる天宮)
第三宮:明晨耐犯武城天宮(めいしんたいはんぶじょうてんきゅう)

(賢人聖人ははじめに来る天宮)

第四宮:恬昭罪気天宮(てんしょうざいきてんきゅう)

(禍福吉凶、続命罪害のことを処理する天宮)

第五宮:宗霊七非天宮(そうれいしちひてんきゅう)

(現世において信仰が薄く、世間的なことに夢中になっていたものが来る天宮)

第六宮:敢司連宛屡天宮(かんしれんえんるてんきゅう)

(道を学んだにもかかわらず戒を破ったものが赴く天宮)

 

 

泰山府君と酆都大帝

もともと、酆都大帝(ほうとたいてい)は、泰山府君(東嶽大帝)とは別系統の冥界信仰から生まれた神でしたが、泰山府君とともに道教に取り入れられ、泰山府君の下に組み込まれました(酆都大帝を信仰する側は、酆都大帝を上に位置づける)。

 

さらに、通常、道教の冥府である羅鄷都(らほうと)の主宰者は鄷都大帝とされますが、第一宮にいる北帝君(北鄷大帝)が六天宮を統括しているという考え方がでて、羅鄷都の支配者・北鄷大帝が説かれるようになると、泰山は羅鄷都への中継地,泰山府君は北鄷大帝の下僚と解されるようになりました。

 

加えて、仏教の地獄説と習合すると、泰山府君を、閻羅大王、麾下(きか)の地獄の十王の一人とする十王信仰が成立して民間に盛行しました(日本にも伝わった)。この影響で泰山にある死者の世界も仏教の地獄に似たものとして描かれることにもなりました。

 

 

十王(じゅうおう)/十殿閻君

十王は、仏教や道教などにおいて死者の魂を裁く十人の裁判官のことで、唐末五代の頃、仏教の冥界と中国伝統思想が習合して、以下のように、十王(冥界の十殿の冥王)として定着するようになりました。

 

秦広王(しんこうおう)

宋帝王(そうていおう)

初江王(しょこうおう)

五官王(ごかんおう)

閻魔王(えんまおう)(閻羅(えんら)王)

変成王(へんじょうおう)

泰山王(たいざんおう)

平等王(びょうどうおう)

都市王(としおう)

五道転輪王(ごどうてんりんおう)

 

十王は、十殿閻君(じゅうでんえんくん)とも呼ばれますが、民間では十王が一般的です。また、仏教との融合によって、十王それぞれに本地としての仏たちが以下のように存在します。

 

秦広王 ⇒ 不動明王

宋帝王 ⇒釈迦如来

初江王 ⇒文殊菩薩

五官王 ⇒普賢菩薩

閻魔王 ⇒地蔵菩薩

変成王 ⇒弥勒菩薩

泰山王 ⇒薬師如来

平等王 ⇒観音菩薩

都市王 ⇒勢至菩薩

五道転輪王⇒阿弥陀如来

 

 

  • 辟邪神

 

辟邪(へきじゃ)とは中国で伝わる神獣(想像上の動物)の名称で、神獣が神格化または人格化され辟邪神(人間を不幸にする邪悪な鬼神を退治する神々)として、信仰を集めました。石敢當、鍾馗、門神などが辟に含まれます。なお、すでに紹介した、中壇元帥(哪吒(なた))も、辟邪神にも分類されます。

 

石敢當(いしがんどう)

石敢當は、丁(てい)字路(T字路)の突き当り等に設けられる、文字が刻まれた魔よけの石碑や石標のことを言います。福建省南部を発祥とする中国の風習で、泰山の頂上にも石敢當が存在します。由来は諸説ありますが、石の持つ呪力と関わる魔除けの石神信仰(石に宿る神霊に対する信仰)などが知られています。唐代(770年)に「石敢當」を設置して祓邪(ふつじゃ)・招福を祈願していたとの記録も残されています。

 

方相氏(ほうそうし)

もとは中国周代の官名で、宮中において追儺(ついな)(大みそかの夜のお祓い行事)や節分のとき悪鬼を追い払う為にでてくる神さま(現在では、その神さまに扮した人)を言います。四つ目で角があり、矛と盾を持ち、内裏の4門を回って鬼を追い出したとされます。

 

鍾馗(しょうき)

鍾馗は、中国の魔よけの神、地域の守り神で、唐の玄宗皇帝の夢に現れ邪鬼を払ったので,その姿を臣下に命じて描かせたのが起りと伝えられています。その時から邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われ、後に年末の大儺(たいな)(疫鬼(えきき)を追い払うこと))の時にも貼られたり、端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾ったりする風習が生まれたと言われています。日本で端午の節句に人形や絵姿で飾られます。

 

 

  • 門神(もんしん)

悪霊の侵入を防ぐ神で、魔除けのために門扉にはる神像のことをいいます。伝説では、門神は、中国の仏教寺院、道教道観(道教の施設)、民家などの建物の入口に立って、門番の役目をします。特に、万鬼(ばんき)の出入する鬼門には、門神が、衆鬼を監察・制御すると信じられています。門神とされる神や人は鍾馗、関羽、方相、青龍などさまざまです。

 

 

  • 厠神(かわやがみ/ししん)・紫姑神(しこしん)

 

厠神は、厠(かわや)(便所)にまつられる神さまで、厠の女神、紫姑神(しこしん)をさします。唐の則天武后のときの官僚李景の、聡明で美しい妾の何媚(かび)(紫姑)が、李景の妻に嫉妬され、ひそかに厠(かわや)の中で殺されました。天帝はこれを哀れんで神(厠神)としたと伝えられています。

 

すでに5世紀ころ,正月15日に紫姑神を迎えて,農作養蚕その他の事柄を占う習慣もあったとされています。ほかにも、妊婦が便所をきれいにすると美しい子が生まれるとか、紫姑神をまつれば女の願いがかなうという信仰の対象になっています。

 

 

  • 土地の神(広義の「土地神」)

 

城隍神(じょうこうしん)

中国の民間信仰における土地(城郭のある都市)の守護神で、冥界の司法と警備も司る神とされています。もとは天災や戦乱の時、都市とそこの住民を守るという冥界の地方官神だったそうですが、時代と共に、一家の命や財産を守るほか、雨乞い、豊饒、招福など自然や土地を守護する任務を担う神として、拡大解釈されていきました。

 

道教の考えでは、神々の社会も官僚制度で成り立ち(玉皇を頂点とする現世の官僚同様の機構を有する)、それぞれ階級があり、その中でもっとも高い地位にあるのが都(都市)の守護神である城隍神です。その下に、城外や村落などを治める土地爺(とちや)(土地公)や、墓所を治める后土神(こうどしん)(四御の一人で、土地の神の中でも唯一の女性神)などが存在します。城隍神は、土地神の上役的存在と言えます。

 

また、城隍神の中でも、省、府、州、県、市などの等級に別れており、土地に縁のある徳の高い人が死後、任命されると言われています。清の時代までは地方官が着任する際、赴任先の城隍廟に着任の報告をする習慣があったそうです。

 

 

土地神(とちしん)

中国の民間信仰における土地の守神で、城隍神(じようこうしん)が城市(都市)の守護神であるのに対して,土地神は郷村の守護神です(郷村とは有力農民を中心に形成されてきた自治的組織をもつ村落の連合体のこと)。天災や戦乱から住民を保護し、さらに住民の死後をもつかさどる神としてあつい信仰を集めています。

 

元来、儒教の社稷(しゃしょく)(天子や諸侯が祭った土地と五穀の神)の礼に対応して、民間、とくに農村の土地(農作地)および人民(生活)を守護する神として、道教にも取り入れられました。

 

城隍神を含む土地神への信仰は、後漢末・六朝時代からすでに見られ、唐・宋時代には全国に広まり、各地に土地神を祀る廟が建立されるようになりました。とりわけ、中国では、人が死ぬと,魂はまず城隍廟や土地廟に赴くと信じられていたことから,遺族はすぐ廟へいって廟神を拝したと言われています。

 

 

  • 竈神 (かまどがみ) (そうしん)

 

竈神(かまどの神)は、家族の守護神であるとともに監察神で、家の火所である竈に祭られています。その役割は、一年間,家の中にとどまって,一家の者たちの行為の善悪(善行・悪行)を監察し、年末に上天して、天上の玉皇大帝に報告することです。その後、竈神は,大晦日の深夜,その家に下すべき吉凶禍福を携えて再び厨房に降り,向こう一年、再び一家を監察します。

 

旧暦の12月24日(北方では23日)、かまどの大掃除をして、その夜,一家の主(男)が竈神(そうしん)の紙の像を貼った前で,線香を焚き,飴や酒肉(供物は時代・地方によって異なる)を供えて祭りました。各家庭は、よりよく報告してもらうために、供物を供えて饗応したと伝えられています。この行事を、祭竈節(さいそうせつ)と言います。

 

竈(かまど)は、日々の飲食を供する最も重要,かつ神聖な場と見なされていたことから、竈神は、人の命を司る神(司命神)として、かつて中国全土で最も広く,最も親しく祭られた神とされています。

 

監察神:人の行為を観察する神

司命神:人の命を司る神

 

 

*三尸三尸信仰)(庚申信仰

 

道教の教え(庚申信仰)では、人の体内には3匹の虫、「三尸(さんし)」(三虫(さんちゅう))が棲んでいるとされました。三尸は、それぞれ上尸、中尸、下尸と呼ばれ、小児や馬の姿に似ているとされ,それぞれ頭部,腹中,下肢にあって次のような害をなすそうです。

 

上尸(上の虫):頭の中に潜み、白髪やシワを作ったり、首から上の病気を引き起こしたりする。

中尸(中の虫):腹の中に潜み、五臓を悪くさせ、臓器の病気を引き起こす。

下尸(下の虫):脚の中に潜み、腰から下の病気を引き起こし、精を悩ませる。

 

この三尸は、人が死ねば自由になることができるとされ、絶えず人の行動を監視しながら、常々、人に悪行をさせたり、病気させたりと、人の寿命を縮めようと隙を狙っているそうです。ただし、普段は体内から出ることはできません。

 

しかし、1年に6度ある庚申(こうしん)にあたる夜、三虫三尸は、人の眠っている間に体内から抜け出て、天に上り、その人の罪過を天帝(閻魔大王)に告げ知らせるのだそうです。天帝(閻魔大王)は報告された罪の重さによって、その人の寿命を縮めると言われています。

 

そこで、庚申の日,昼夜寝なければ三尸は滅んで精神が安定し長生できるとする考え方が、唐・宋以後、広く流布するようになりました(庚申信仰)。実際、唐代には、三尸駆除法として、庚申の夜を潔斎して眠らずに明かす守庚申(しゅこうしん)が行われたとの記録も残されています。漢代の医方では、腹中の虫(蟯虫(ぎょうちゅう))の駆除が説かれました。

 

 

  • 文財神(ぶんざいしん)

学問の神で、民衆道教の信仰においては、関帝の武財神に対して文財神として祀られています。

 

蒼頡(そうけつ)

中国における学問神の一人で、漢字を作ったとされる古代中国の伝説上の人物が、神格化されました。鳥獣の足跡の細かい筋目が異なるのをみて、木や石に書くような古代の文字を初めて発明したと言われています。言い伝えでは、伝説上の君子・黄帝に記録官として仕える史官で、目が四つあり、見るもの全ての特徴をつかみ、ことごとく文字へと変えたそうです。

 

もっとも、蒼頡(前4667~前4596)は、実在した人物であったとの説がありますが、漢字は単一の人物によって創造されたものではないと現在では考えられています。いずれにしても、文字を書いた紙を粗末に扱った者は、蒼頡や、次に紹介する文昌帝君の神罰を受けると信じられていました。

 

文昌帝君(ぶんしょうていくん)

文昌帝君は、南宋の時代、科挙の普及に伴い学問や科挙を司るとして、学校などで祀られるようになり、元・明・清の時代、知識人の間で特に信仰を集めました。その背景には、中国における星神信仰があります。

 

文昌は、文曲(もんごく)という名で北斗七星の第4星(メグレズ)の中国名の一つになっています(中国名は、天権(てんけん)と文曲 の2つある)。また、中国では古来、北斗七星の第1星から第4星の天枢(てんすう)、天璇(てんせん)、天璣(てんき)、天権を総称して文昌宮(文昌星)と言うこともあれば、「北斗七星」の第一星を「魁星」、それに続く六つの星を「文昌星」と呼びこともあります。もともと、北斗七星は、消災解厄、功名・福禄・寿命など人間の運命を司る星として、北極星とともに古くから信仰されてきました。

 

こうした結果、本来、文昌星という星が、学問を司る神(星神)となり、次第に人格を付与(擬人化)されて文昌帝君となり、出世をめざす官僚や科挙(官吏登用試験)の受験生などから信奉され、守護神となっていったのです。

 

 

  • 竜王

龍王とは、中国の想像上の神獣である龍が、インドの影響を受けて、人格化されたもの(神格)です。中国の龍が、水・雲・雨と関係するという観念は古くからあり、先秦時代には、竜が水淵に棲むと記述され、漢代には、龍が昇れば雲がおきるなど、雷電・雲雨とかかわって竜の説話がありました。そうして、唐の時代に、中国古来の説話と結び付き民間信仰の神となったとされています。

 

それに、仏教伝来の際、仏教の八大竜王説が入ると、インド古来の蛇神ナーガと中国の龍の水神が習合し、「龍王」として中国に広まったと考えられています。唐代の頃には雨乞いの祭事として、東西南北中央の五つの方角の龍王である五方龍王に請雨祈願されました。さらに、宋代には天下の五竜(青竜・赤竜・黄竜・白竜・黒竜)神に封号(称号)が与えられ、各地域における干魃雨乞(かんばつあまご)いや水害除(よ)けの神として定着したと言われています。

 

なお、八大龍王とは、天龍八部衆に所属する、以下の竜族の8尊の竜(ナーガ)王のことで、釈尊が「法華経」を説いたとき、幾千万億の眷属の竜達とともに列席して説法を聴いたとされています。

 

〔1〕難陀(なんだ)(ナンダの音写、「歓喜」)

〔2〕跋(ばつ)難陀(ウパナン「弟ナンダ」)

〔3〕沙伽羅(しゃがら)(サーガラ、「海」)、

〔4〕和修吉(わしゅきち)(バースキ、「九頭」)、

〔5〕徳叉迦(とくしゃか)(タクシャカ、「多舌」)、

〔6〕阿耨達(あのくだつ)(アナバタプタ、「無熱悩」)、

〔7〕摩那斯(まなし)(マナスビン、「慈心」)、

〔8〕優鉢羅(うぱら)(ウトゥパラカ「青蓮華(れんげ)」)

 

 

 

神仙>

 

神仙とは、道教神としての神号を持たず、悠々自適な生活を送り、文明と縁を切り、洞天福地に住まい不老不死を目指し、昇仙を果たす仙人達をいいます。「仙」は修練を積んだ人が原形になっており、仙人は道を得た人のことをいいます。教主太上老君(老子)は、最も早い時期に道教を代表する神仙となった道の化身であり、天界から下に降りては人間に道を伝えたとされています。

 

道教は、死を嫌い、生を重視するので、道を修めるには、この道教の教義にしたがって生を養うことが求められます。道を修め、道を得ることは長生することであり、道と一体になった人だけが長生久視の仙人になることができると考えられます。また、道教の神霊は道を修行する人々を監督し、善を行うと寿命を延ばし、悪をなすと寿命を縮めます。そして、戒律を守り、善を行うことを怠らない人、忠臣・孝行な人、賢人、善良な人は、天神に迎えられ仙に昇り、仙人として名を列ねました。

 

道教には仙真という用語がでてきますが、仙真は、道を体得して、不思議な力を持つ「仙」になった人のことを言います。有名な仙真には、民間で盛んに伝えられた八仙(鍾離権・呂洞賓・鉄拐李・張果老・曹国舅・韓湘子・藍采和・何仙姑)や、斉天大聖、西蓁王爺、黄帝、西王母、王喬などがいます。以下に中国で人気があるとされる神仙を紹介します。

 

斉天大聖(孫悟空)

斉天大聖(せいてんたいせい)は、中国四大奇書の一つ「西遊記」の主人公の神仙で、日本でも有名な孫悟空が作中で名乗った称号です。斉天大聖とは、天にも斉(等)しい大聖者の意です。

 

花果山の仙石から生まれたサルの孫悟空は、仙術を会得し、天界にて大暴れ、如来に退治されましたが、その後、三蔵法師に帰依し、三蔵法師に従って天竺へ取経の旅をします。その道中、觔斗雲(きんとうん)という雲に乗り、瞬時に十万八千里を飛び回ったり、七十二の変化の術を持って、妖怪討伐をしたりする話は、日本でもよく知られています。あの孫悟空は、道教の神の一人であったのです。

 

西蓁王爺

西蓁王爺(せいしんおうや)は、唐の玄宗皇帝が、芸能の神として、神格化された姿です。玄宗は、楊貴妃との生活に溺れたことで有名な人ですが、在位中は演劇や音楽を愛好して、宮中に梨園という舞台を作り、全国の芸能、音楽関係者を集めて毎日のように上演、演奏させて彼らの生活を保護したことが知られています。玄宗と楊貴妃は、民衆の希求に応える神々であり仙人として、人気を集めています。

 

 

  • 八仙(はっせん)

八仙は、道教の8人の仙人達で、道教の仙人のなかでも代表的な存在です。伝説上の人物達ではなく、漢代から宋代に亘って輩出した実在の人物達です。8人の仙人をあわせた「八仙(はっせん)」の説は元代に始まるとされています。

 

八仙の位置づけはほぼ日本の七福神と同じで、祝賀や正月などの飾りとして用いられています。八仙のメンバーは時代によって異なっていましたが、現代では、呂洞賓、鐘離権、韓湘子、張果老、李鉄拐、曹国舅、 藍采和、何仙姑の八人で固定されています。八仙の神々は、一般的な仙人のイメージと違って、人間味があるのが特徴です。

 

李鉄拐(りてっかい)

李鉄拐は、名は李岳(りがく)、別名、鉄拐李 (てっかいり)ともいいます。粗末な服をきて、片足が不自由で、いつも鉄の杖をついているのが特徴です。李鉄拐(鉄拐李)の名前の由来も、「鉄の杖の李」からきています。

 

高位の仙人がどうして、こういう姿をしているのかというと、伝承によると、李岳は、ある時、身体を置いて魂だけを飛ばして、太上老君のおともをして旅をしていたところ、身体の見張りをしていた弟子が誤ってその身体を焼いてしまい、戻ってきた李岳は、やむなく近くの餓死者の身体を借りて蘇ったからだそうです。

 

 

漢鍾離(かんしょうり)

漢鍾離(別名:鍾離権(しょうりけん))は、もとは漢の将軍であったものが、後に出家して仙人となったとされています(漢の時代の人だから漢鍾離と。また雲房先生とも呼ばれている)が、本来は五代頃の人だと言われています。自称して「天下都散漢(天下一の暇人)」などと称していたのが、いつの間にか「漢の鍾離」となったそうです。でっぷり太っていて腹を出し、頭に子供のようにあげ巻きを結び、大きな団扇を持つ面白い姿で描かれています。呂洞賓の師匠としてよく知られ、道教の一派の全真教では、祖師の一人として数えられています。

 

 

3  呂洞賓(孚佑帝君)

呂洞賓(りょどうひん)は、中国の仙人の中で一番知られていると評されています。唐代の仙人として伝えられていますが、事実は宋初ころの道士(道術の士)との見方もあります。全真教教団によって宗祖の一人とされました。名は呂嵒(呂岩)(りょがん)で、字(あざな)は洞賓(とうひん)、またの名は、呂祖(りょそ)・呂純陽(りょじゅんよう)とも呼ばれ、唐後期から五代の頃に弱者や善良な者を助け、道教の布教を行ったと伝えられています。元代には孚佑帝君(ふゆうていくん)帝君の号が与えられました。

 

壮年の男性(道士)の姿をしており、頭に頭巾を被り、背中に剣を背負った姿で描かれ、剣仙としても知られています。伝説では妖怪退治も行っていました。漢鍾離(かんしょうり)の弟子で、二人は周囲の人を巻き込むモメ事をよく起こすなど人間味溢れる側面を兼ね備えています。

 

 

4  張果老(ちょうかろう)

張果老(名は張果(ちょうか))は、老人の姿であるためにこう称され、ひげを生やし、帽子をかぶり、いつも後ろ向きにロバに乗っていることで有名です。もっとも、伝説では、そのロバを、幻術によって動かしており、乗らない時は紙に戻し、また乗る時は水を吹きかけるとロバになったとされています。唐の玄宗皇帝の時代に生きていたとされますが、数百歳と称していた、死んだのにまた生き返ったなどの逸話も残されています。

 

 

何仙姑(かせんこ)

何仙姑は、八仙の中で、唯一の女性です。昔の女性は、本名が不明な場合が多く、何仙姑も姓は「何(か)」ですが、その名については不明です(「仙姑」は一種の称号)。則天武后(624〜705)の時代の人だとも言われ、伝承では、広州に生まれ、雲母を食べるようにとの神人のお告げに従った所、身が軽くなり、後に八仙に出会って得道したそうです。よく蓮の花を手に持って、優しく、綺麗な顔つきで描かれ、女道士である道姑(どうこ)のいでたちで登場することが多いようです。

 

 

藍采和

藍采和(らんさいか)は、八仙の中でも謎の多い人物です。唐の頃の人とされていますが、名前もよくわからず、藍采和というのも、本名ではないようで、そもそも男なのか女なのか、それすら明確ではありません。衣装がぼろぼろ、片足が裸足で、貧乏な人のように描かれますが、伝承によれば、手に拍子木を取って歌い、それで銭を得ていたそうです。ただし、その歌は、実は全部予言の歌で、あとから聴いた人が悟ることになったと言われています。

 

 

韓湘子(かんしょうし)

韓湘子(名は韓湘)は、唐の頃の実在した人物のようですが、普通に官吏になって世を終えており、仙人にはなっていません。有名な文人である韓愈(かんゆ)の甥で、笛を吹いている若い男として描かれ、不思議な幻術を身に付けていたという伝承があったことから、八仙の一人に数えられるようになったと伝えられています。

 

 

曹国舅(そうこくきゅう)(そうこっきゅう)

曹国舅の「国舅」とは、皇后の親戚であることを示す称号で、実際、仁宗皇帝の曹皇后の親戚とされています。貴族であるので、八仙の中でも一番豪華な服を纏い、役人の帽子をかぶる姿で描かれます。

 

八仙の中で、曹国舅だけは宋の人物で、曹景休(そうけいきゅう)、曹佾(そういつ))とも呼ばれていますが、確かに宋代に曹佾という人物は実在しているものの、仙人にはなっていないことから、韓湘子とじように、あくまで伝承が一人歩きしていった人物である可能性もあるようです。

 

このように、中国では有名な八仙ですが、このうちいかなる戯曲作品にも固定して登場するのは李鉄拐、漢鍾離、呂洞賓、藍采和、韓湘子で、その他は、何仙姑、張果老、曹国舅以外に、張四郎、徐神翁、風僧寿、玄壺子、劉海蟾などを含む場合があります。

 

 

女神>

道教には女神も数多く、すでに紹介した星神の母とされる斗母元君(とぼげんくん)や、八仙の何仙姑だけでなく、戦の女神である九天玄女(きゅうてんげんじょ)、人の運命を司る不老不死の西王母(せいおうぼ)、西王母の末娘の太真王(たいしんおう)夫人、東岳大帝(泰山府君)の娘の碧霞元君(へきかげんくん)、出産を司る臨水夫人等の人気があります。

 

また、女神は、娘娘(娘々)(にゃんにゃん)と呼びならわされます。娘娘は、女神、皇后、貴婦人などの最上級の女性に対して使われる尊称で、たとえば、送子(そうし)娘娘(子授け)、子孫娘娘(子孫繁栄)、痘疹(とうしん)娘娘(天然痘を治す)、催生(さいせい)娘娘(出産を促進)、眼光(がんこう)娘娘(眼病を治す)、天后娘娘(航海・漁業の守護者、媽祖(まそ))などの女神が知られています。

 

こうした女神のなかで、西王母は、すべての女仙を支配する最上位の女神で、次の第二位には、天界で最も高貴の女仙であり、長生をつかさどる上元夫人 (じょうげんふじん) の名前があげられます。また、東岳大帝(泰山府君)の娘である碧霞元君(へきかげんくん)は、地域によっては「娘娘(ニャンニャン)」神の筆頭にあげられることもあります。これらの女神の中から、西王母、碧霞元君、媽祖について詳しく紹介します。

 

西王母(せいおうぼ)

最高位の女神であり、全ての女仙(仙女)の長です。人びとの運命をつかさどる神とされたほか,民間信仰でも不老不死の女神として今日に至るまで尊崇を集め、のちに、瑤池金母(ようちきんぼ)とも呼ばれました。

 

崑崙山(こんろんさん)は、西王母が治めている仙境とされ、「山海経(せんがいきょう)」によれば、古く崑崙山に住む、人面虎歯豹尾 (こしひようび) の半獣神(半人半獣)として描かれていました。この戦国時代の崑崙山神仙説のなかで、西王母は神仙化されていき、秦・漢代には神仙思想が流行したことから、気高い不死の仙女とされるなど、後に美化され、絶世の美人となりました。その間、周の穆王(ぼくおう)や漢の武帝との会見伝説も生まれました。西王母は、周の穆王が西征するその途上に会い、また、漢の武帝に不老不死の仙桃を授けたとされています。

 

後漢時代には(道教成立後)、道教の神として庶民の運命を司る神とされ,魏晋以後、東王父という配偶者を得て、東王父と相対して祭られています(西王母が女仙を統率するのに対し、東王父は男仙を統率する)。

 

 

碧霞元君(へきかげんくん)

泰山信仰で、最も人気がある女神(「娘娘(ニャンニャン)」神の筆頭)とされ、特に華北地方(中国の東北部)では、西王母を凌ぐ信仰を集めていると言われるほどです。伝説によれば、碧霞元君とは東岳大帝 (山東省にある泰山の神) の娘とも,黄帝が泰山に派遣した7人の仙女のうちの1人とも言われています。

 

碧霞元君は、どんなに信心薄い者の願いでも聞いてくれる、神々の中でも、もっとも優しい女神であるとされ、天仙聖母碧霞玄君(てんせんせいぼへきかげんくん)、泰山老母(たいざんろうぼ)、泰山玉女(たいざんぎょくじょ)、天仙娘々(てんせんにゃんにゃん)、天仙玉女碧霞元君(てんせんぎょくじょへきかげんくん)など、様々な別名で呼ばれています。

 

 

媽祖(天后娘娘)

媽祖(まそ)は、航海・漁業の守護神で、中国沿海部を中心に信仰を集めています。生まれながら神霊を示し、人の禍福を予言したとされ、観音信仰と合体し、船乗り商人にとって、海難救助の神となりました。さらに、宋・元時代の海上貿易の繁盛とともに航海神として定着し、明の鄭和(ていわ)の南海遠征の船には媽祖像を安置して航海水運の安全を祈ったとされています。

 

東南アジア、台湾、琉球、日本にも伝播し、特に台湾では現在でも親しまれています。天上聖母、天妃(てんぴ)、天后(てんこう)、天后娘娘(ニャンニャン)とも呼ばれますが、尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられていることから、もっとも地位の高い神ともされています。

 

 

<霊符>

中国道教の霊符(れいふ)とは、悠久の太古より中国に伝わる道教秘奥の呪符(護符) (霊験あらたかなお札)で、不可思議な神仙の霊力がこめられています。

 

霊符には、一枚の清浄な紙に、複雑な図形や文字が書かれており、図形には、日月星を象徴していたり、あるいは山岳、河川、風雨、雷電などを意味したりするものが多くあります。一つ一つの符の形には深遠な意味があり、宇宙間に律動する神秘的な力がその形に共鳴を起こして、普通では考えられないような不可思議な力を発揮します。

 

どうして、そういう摩訶不思議な力があるかというと、御神符の世界では、世の中は全て「呪」で成り立っていると考えられているからです。「呪」とは「この世に存在する意味を与える強い霊力」のことです。目に見えるもの・見えないもの、名前のあるもの・無いもの全てがこの「呪」によって守られ、他の「呪」と複雑に共鳴し合いながらそこに存在しています。

 

したがって、一枚の紙に、中国道教秘伝の神言(呪)を宿らせ、それを開眼させることで天地の神秘な力を自分のものとし、体内に眠っている生命力(生きようとする強い霊力)を高めることができます。そこに泊まる玄妙な力も、霊符自体が宇宙の生成化育、変化流転の相をあらわす物だからこそ生まれると解されています。

 

また、それを授けた神仙と人との幽契(約束)により、霊符を持つ者には、ある種の神霊の加護があるとされています。それゆえに、御神符(霊府)は、これらを構成する様々な「呪(しゅ)」を操ることで、人間の願望を叶え、幸福へと導いてくれるだけでなく、国家の命運をも左右すると言われています。念を凝らして書き上げた霊符を用いれば、様々な神を召喚し、悪鬼を裁き、邪を降し、魔神を鎮め、諸病を治癒し、諸災を除くことができるのです。

 

このように、霊符は、不思議な霊験を持つ「神の符と呪」として、古来より秘密裏に伝えられ、用いられてきました。その始まりは、道教の起源でもある中国古代の敬天崇地思想(天を敬い地を崇拝する、自然を尊ぶ考え方)に由来するものと考えられています。これはつまり中国道教における符呪は、もともと太上老君(道徳天尊)など古来の神仙が、天地自然の様々な姿を写しとったもので、それが人に授けられた事が示されています。

 

霊符の最も早い文献上の記載は、後漢・霊帝(在位 168~189)の「三国志」に見られます。ここでは、張角が始めた太平道で、霊符を使って、病人を治したり、百鬼をこらしめ、土地の神々を駆逐したりしたという記述が残されています。

 

また、ある霊符を作り、これを使って地上の鬼神の主になるよう、道士が人に授けましたが、後にうっかりその霊符をなくしてしまい、、彼に恨みを持っていた多くの鬼たちに殺されてしまうといった逸話が残されています。霊符は、使って願いをかなえるばかりでなく、正しく保管もできていないと自分に怨みが返ってきてしまうという恐ろしいものでもあるのです。

 

鎮宅霊符と鎮宅霊符神

霊符の中でも、家内の安全を保つ(家宅を治める家人の安全を護る)ための鎮宅霊符(ちんたくれいふ)が特に有名です。これは、72種の霊符を一枚にまとめた護符で、魔除けに効果があるとされています。人間が住む家屋や、その地域、土地などには様々な鬼神が満ちており、それらが人間の行う不適切な行動によって穢れると考えられていたことが人気の背景にあります。

 

鎮宅霊符の歴史は、漢の時代に遡りますが、現在でも良縁成就・子宝・安産などを願い、霊符は作成されています。 時代を重ねるに至って、道教の道士たちは鎮宅霊符の技法を発展させ、五方角に貼るなどの技も編み出されました。

 

この霊符を司る神が、鎮宅霊符神(ちんたくれいふしん)です。鎮宅霊符神は、陰陽道最高の神であり、宇宙の源とされる北極星が神格化した存在のことで、太陽や月、星々(星神)を生み出し、世界のすべてを司る最高神であると言われてきました。 元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられてきました。

 

その神通は、第一にして霊験無比であり、ほかに及ぶものはないとまでいわれ、霊符を使った呪法により家内の安全が保たれていました。この信仰の中では、人間=星神の化身だと見なされており、霊符を用いることで星神と繋がり、いつでもその力を得られるのだと考えられてきたのです。

 

<関連投稿>

道教1 道教の源流:道教=老荘思想ではない!?

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道教5 道教の歴史:巫術と神仙から始まった…

 

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インドと中国の仏教を学ぶ

 

 

 

<参照>

道教とは何か?…道教の教えとその歴史(アイスピ)

道教の起源と形成

道教の歴史と思想・神々(中国語スクリプト)

中国史いろいろ 道教の神々 (戸田奈緒子)

八仙(中国民間神紹介6)(関西大学)

玄天上帝 Xuandi(関西大学)

中国神話伝説ミニ事典(神仙編)

ピクシブ百科事典

コトバンク

世界史の窓

Wikipedia

 

(2024年5月5日)