唯識と瑜伽行派:アラヤシキとは

 

前回、「初期大乗」とも呼ばれる時代の大乗仏教の伸張の経緯について教義を交えて、説明しました。今回は、中期以降、成熟した大乗仏教において拡がった唯識論と瑜伽行派についてまとめました。

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<グプタ朝と唯識(唯識論)>

 

クシャーナ朝はやがて衰退し、4世紀には、ガンジス川流域に興ったグプタ朝が成立しました。グプタ王朝(320~550年)は、インド文明を継承し、インドの中部、西部、東部を統一し、アショーカ王に次ぐインド統一を成し遂げました。

 

グプタ朝の時代の仏教は、依然として宮廷の保護も受ける中、(中期)大乗仏教では、初期大乗経典の「般若経」の「一切皆空」などの流れを汲む、「唯識」という思想が生まれました。

 

唯識の思想は、龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと考えます。つまり、「空」の思想を受けつつも、外の世界に実在すると見えるものは、心の動き(識)が「空」の中に描き出したものであり、心(識)だけが実在すると説かれます。

 

唯識の「識」とは、対象を分別し認識する精神作用という意味で、五蘊(ごうん)(=色・受・想・行・識)の中の一つです。唯識では、その「識」作用を重視する考えに立ち、世界(欲界・色界・無色界の三界)は、ただ「識」によってのみ成り立つと考え、万有も「識」によってあらわし出されたものとされます。そうすると、各個人にとっての世界は、その個人の表象(イメージ)に過ぎなくなります。

 

唯識の思想では、「識」について、八種の「識」を仮定しています(八識説)。八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と意識、さらに、2層の無意識(末那識・阿頼耶)のことをいいます。または、「意識」を五種の感覚に加えて、六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)(=六識)として、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)を独自に加えた八つとする場合もあります。

 

感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき)(視覚)、耳識(にしき)(=聴覚)、鼻識(びしき)(嗅覚)、舌識(ぜつしき)(味覚)、身識(しんしき)(触覚)と呼ばれます。意識は自覚的意識のことを意味します。

 

これらの六識の下に末那識と呼ばれる潜在意識が想定されています。末那識(まなしき)とは、深層に働く自我執着心(寝てもさめても自分に執着し続ける心)のことをいいます。熟睡中は意識の作用は停止しますが、その間も末那識は活動し、自己に執着すると説明されています。

 

さらにその下に阿頼耶識という根本の識があります。阿頼耶識(あらやしき)の「あらや」とは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用をいいます。唯識思想では、この阿頼耶識が、眼識から末那識までの「識」を生み出しているとされます。また、阿頼耶識(あらやしき)が、他の識と相互作用しながら、我々が「世界」であると思っているものも生み出されていると考えられています。ですから、一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識していることになります(阿頼耶識については、後にさらに詳説します)。

 

そうすると、心の唯識性を認識した上で、すべての対象を空であると悟れば、人間は、物事にこだわらず、他者と争わず、心安らかに生きることができると説かれています。そうした究極の境地において、私たちは、無心となって、智慧と慈悲を発揮しうるとされています。この「唯識」を説く教派が、瑜伽行派(瑜伽行唯識学派、唯識派)で、以下に解説していきます。

 

 

<瑜伽行派とその教義>

 

瑜伽行派(ゆがぎょうは)(唯識派)は、インド大乗仏教史上、「空」を説く中観派(ちゅうがんは)と並ぶ、大乗仏教二大学派の一つで、インド僧・弥勒(みろく)(マイトレーヤ)(生没年未詳)を祖とする、唯識の教学を唱導した学派です。サンスクリット名はヨーガーチャーラ、瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)、唯識派、唯識瑜伽行派とも呼ばれます。

 

開祖の弥勒は、未来仏として信仰される弥勒菩薩と同じ存在とされ、歴史上の人物であることに疑問視する向きもありますが、瑜伽行派は、無著(アサンガ)(310〜390頃)・世親(ヴァスバンドゥ)(320~400年頃または400~480頃)の兄弟が教学を大成した後、論理学を完成した陳那(じんな)(ディグナーガ)(480~540頃)や、「成唯識論(じょうゆいしきろん)」の思想を展開した護法(ごほう)(ダルマパーラ)(530―561)、安慧(あんね)(スティラマティ、510~570頃)などが出て、主観的観念論の哲学体系を完成するに至りました。

 

 

瑜伽行派(唯識派)は、外界の対象の存在を否定し、すべての存在は元来実体のないもので「空」であるとみなし、世界万象(万有)は、人の認識(心)の表象にすぎない、「識」の顕現したものにほかならないと説きます。

 

また、私たちが認識しているものは「現実」をそのまま写しとったものではなく、私たちの心の上に映し出された影像(ようぞう)にすぎないと考えられています(「影像門」)。

 

瑜伽行派において、仏僧たちは、ヨーガ(=瑜伽(ゆが))(坐禅瞑想)の実践の最中に、外界の存在や心象が消え失せ、根源的な心識のみが唯一実在し、「識(心)」以外の何物も存在しない(識(心)だけは仮に存在する)という「唯識」の体験を得ます。根源的な心識とは、前述した深層意識の阿頼耶識(アーラヤ識)のことをいい、阿頼耶識によって、自分の意識も、外界にあると認識されるものも生み出していると考えます(唯識無境)。ただし、最終的には阿羅耶識もまた空であるとする境地に至ることが目指されます(境識倶泯)。

 

瑜伽行派の教義を支えるのが、「解深密経(げじんみっきょう)」や「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」などの著作です。

 

<解深密経>

 

解深密経(げじんみっきょう)は、唯識思想を初めて説いたといわれる、中期大乗経典で、唯識の教義を創唱したお経として、思想史上重要な意義をもつと評されています。その内容は、われわれの存在の根底に存する心意識に関する深密(じんみつ)(深く秘せられた趣旨)な仏の教えが解明され、また、「般若経」などに説かれた無自性(むじしょう)、空(くう)の思想をより明確なものに発展させた新しい教義としての唯識説が提唱されています。

 

龍樹(ナガールジュナ)(150~250頃)以後の、西暦300年前後に書かれたと推定されていますが、サンスクリット原典は現存せず、作者も不詳です。唐代の647年、玄奘(げんじょう)により漢訳されました(チベット訳もある)。

 

玄奘訳によれば、解深密経は以下の8章(8品)からなります。

 

  • 序品(じょほん)
  • 勝義諦相(しょうぎたいそう)品
  • 心意識相品
  • 一切法相(いっさいほっそう)品
  • 無自性相(むじしょうそう)品
  • 分別(ふんべつ)瑜伽品
  • 地波羅蜜多(じはらみった)品
  • 如来成所作事(にょらいじょうしょさじ)品

 

このうち、第3章に説かれる阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)説、第4、第5章における三性三無性(さんしょうさんむしょう)説、第5章における有・空・中の三時教判(さんじきょうはん)、第6章における影像(ようぞう)門などに、唯識説の中心となる思想が説かれています。

 

◆ 阿頼耶識縁起説

 

阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)説の説明の前に改めて阿頼耶識について、参照文献をもとにまとめてみました。

 

阿頼耶識とは?

 

阿頼耶識(アーラヤ識)(あらやしき)とは、大乗仏教の瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)学派のたてる独自の概念で、個人存在または宇宙万有の展開(発生)の根源とされる心の主体(種子)のことであり、また、通常は意識されることのない識(根源的認識)のことでもあります。

 

この「識」に関して、部派仏教の中、経量部の種子説,大衆部の根本識,化地部の窮生死蘊(ぐしょうじうん)などがこれまでにも出されてきました。このうち経量部の種子説は,後の阿頼耶識の先駆思想と考えられていますが、大乗の唯識学派は、「識」について、真の意味で、学問的な基準をもって説いたとされています。

 

普通私たちは、心は1つだと思っていますが、瑜伽行学派(唯識説)では、人の心は8つあると教えられています。それが「八識(はっしき)」で(ここでいう心とは、対象を識別し認識する作用のことをいう)、阿頼耶識は、その八識のうちの第8番目の識をさします。

 

仏教に説かれる8つの心「八識(はっしき)」

眼識(げんしき)

耳識(にしき)

鼻識(びしき)

舌識(ぜっしき)

身識(しんしき)

意識(いしき)

末那識(まなしき)

阿頼耶識(あらやしき)

 

このうち最初の5つは、感覚をつかさどる5つの心です。

 

第一眼識(げんしき):色や形を見分ける心

第二耳識(にしき):音を聞き分ける心

第三鼻識(びしき):匂いをかぎ分ける心

第四舌識(ぜっしき):甘いとか、辛いとか、酸っぱいとか、味を見分ける心

第五身識(しんしき):寒いとか暖かい、痛いとか快いなどを感ずる心

 

これら5つの心を「前五識(ぜんごしき)」と言います。前五識は、色々感じることができるのですが、記憶したり、考えたりすることはできません。そこで、6番目の「意識」で、前五識が統制され、私たちは記憶したり、判断したり考えたり、命令したりすることができます。

 

第六意識(いしき):周囲や自身の行動に対して認識する心

 

瑜伽行学派では、眼、耳、鼻、舌、身、意による六認識と、「意識」より深いところに、7番目の末那識(まなしき)と8番目の阿頼耶識があるとします。

 

 

第七末那識(まなしき):自己執着、我執を起こさせる心

 

意識は寝ている時や、卒倒した時には途切れます。意識が途切れたら何も考えていない無心の状態のはずなのですが、瑜伽行学派では、末那識 (まなしき)という途切れない心、思量の働きをする心があって、意識が途切れている時も、私たちに働きかけていると説きます。

 

また、私たちは、何かより強い力で動かされ、「頭で分かっていてもやめられない」ということがありますが、これも末那識の働きで、唯識派では、「(思量の働きをする)末那識が『悪』を造り続けている」という言い方をします。

 

これは、宇宙万有の展開(発生)の根源とされる心の主体である阿頼耶識は、本当は「無我」であるにも拘わらず、末那識は、阿頼耶識を固定普遍の我(自我)だと誤認して、阿頼耶識にまとわりついて、私たちに執着する心(自己執着)(我執を起す心)を作用させているからであると説かれます。

 

第八阿頼耶識:通常は意識されることのない万有の根源的な心の主体

 

前七識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識)が表層的、意識的であるのに対し、阿頼耶識(アーラヤ識)は、心理学でいう深層心理的、無意識的な認識で、八識の最深層に位置します。私たちが普段自覚できるのは意識なのですが、阿頼耶識はそれよりもはるかに深いところで、はるかに強い力で私たちを動かしています。

 

唯識説では、さらに、人間から仏へ悟りを開く時,阿頼耶識が仏の智慧たる大円鏡智(だいえんきょうち)に転換すると説かれています。

 

 

阿頼耶識の語源

 

阿頼耶識は、サンスクリット語では、アーラヤ・ビジュニャーナで、アーラヤの音写と、ビジュニャーナの意訳「識」との合成語です。「阿頼耶識」のアーラヤ(阿頼耶)は、住所、住居・場所、拠り所の意で、その場に一切諸法を生ずる「種子」(後述)を内蔵していることから、「(食料や財産など大事なものを保存している)蔵」と訳されることがあります。一方、ビジュニャーナは、認識の意味であり、識は心ということです。

 

ですから、「阿頼耶識(アーラヤビジュニャーナ)」とは、「阿頼耶」+「識」で、万有を蔵する「蔵のような心」という意味になり、蔵識(ぞうしき)と呼ばれることもあります。

 

では、阿頼耶識には、蔵のように何がおさまっているのかと言うと、仏教でいう「業力(ごうりき)」(業とは行いのことで、業力は「行いの力」の意)で、私たちの行いは、以下の3つの観点から捉えられます。

 

意業(いごう):心で思ったこと

口業(くごう):口で言ったこと

身業(しんごう):身体で行ったこと

 

それらの心と口と身体の行いが、目には見えませんが、決して消えることのない不滅の「業力」となって、阿頼耶識におさまります。そして、業力をおさめた阿頼耶識は、次々と変化しながら消えることなく流れていきます。

 

「業力」には、大象100頭よりも強いとさえ言われるものすごい力があって、やがて自らの運命を生み出します。もし善い行いをすれば、善業力(ぜんごうりき)となって、因果応報にしたがって善因善果(ぜんいんぜんか)(=幸せな運命)を生み出します。その一方で、悪い行いをしたならば、悪業力(あくごうりき)となって、因果応報にしたがって悪因悪果(あくいんあっか)(不幸や災難)を生み出します。

 

私たちの肉体は、生まれるときにできて、死ねば滅びますが、阿頼耶識は、肉体が生まれるずっと前から、肉体が滅びても、滅びることなく続いていき、蓄えられていた業力によって、次の世界を生み出す(次の世界に転生する)のです。ただし、次の世界は、過去の業の(善悪によって得た)果報である「異熟(いじゅく)」として生じるものです。

 

阿頼耶識は、ちょうど、「果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く、私たちの永遠の生命のようなもの」などと例えられたりします。万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしていますが、これは主として迷いの世界について説明する際に述べられ、私たちは、生まれ変わり死に変わり(永久に輪廻転生し続け)、永遠に苦しみ迷いの世界に生きて行く(苦しみ迷いの旅を続ける)と説かれます。

 

阿頼耶識は、蔵識(ぞうしき)以外にも、阿梨耶識(ありやしき)、種子識 (しゅうじしき)、無没識(むもつしき)、根本識 (こんぽんじき)、真識など様々な別称があり、それぞれに阿頼耶識が具えている、個人存在の中心として多様な機能や性質を表しています。

 

例えば、無没識(むもつしき)は阿頼耶識が万有を保って失わない、また、種子識 (しゅうじしき)は阿頼耶識が万有発生の種子を蔵しているという性質を表しています。後者の種子識の「種子」の概念は、阿頼耶識の理解にとって欠かすことはできません。

 

阿頼耶識(アーラヤ識)は、種子(しゅうじ)に例えられます。種子(しゅうじ、しゅじ)とは、植物の種子のように、いろいろの現象を起こさせながら万有を成立せしめる可能性を意味する仏教(唯識)の用語で、可能力のことをいい、この世の一切のものを生じる原因となるものです。ここから、阿頼耶識は、万有を生じさせる種子(しゅうじ)を内蔵し、他の諸識の生ずる基であり、身心の機官を維持する役割を果たしていると説かれます。

 

では、阿頼耶識に関する一般的な理解ができたところで、解深密経(げじんみっきょう)で説かれた阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)説についてみていきましょう。

 

 

3つの縁起

 

阿頼耶識縁起説の縁起(えんぎ)は、阿頼耶識が「種子生現行」、「現行薫種子」、「種子生種子」の3つの過程から成り立っていることを説いています。

 

  • 種子生現行

種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)は、阿頼耶識に蔵された種子より、この世の一切の現実(現象)が生じることをいいます。一切の現実(現象)とは、自我意識、意識ある存在者、自然などのあらゆる対象世界の現行(げんぎょう)(現象的存在、種子より生じた事象)のことで、これらは、阿頼耶識の中に蔵している種子(可能力)が原因となって顕現しています。

 

2.現行薫種子

現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)は、種子(しゅうじ)から生じた(顕現した)現行が原因となって、その人の阿頼耶識のなかに結果として、新たな種子を熏習(くんじゅう)」することをいいます。

 

熏習(くんじゅう)とは、「薫じた香が身にしみ、香りたつように行いが身につくこと」という語源から、仏教では、ある現象が影響して自らに習慣的な刺激を植えつけることをいいます。種子にはその「印象」が阿頼耶識のうえに植えつけられる(付加される)のです。このように、種子熏習説では、種子を熏習し、その種子が因となって種々の現象が顕現する(あらわれる)という点が明らかにされました。

 

3.種子生種子

種子生種子(しゅうじしょうしゅうじ)は、縁を得て薫じつけられた種子が、再び現行(種子より生じた事象)を生じ(再び現象を顕現し)、その現行(顕現した現象)が種子をまた薫じる(熏習する)という意味で、この繰り返しの中に、現実は成立します。唯識派の教義において、これは、阿頼耶識がそれらの表象の(果実としての)印象を、種子として自己のうちに蓄え、潜在化し、積集させる所だからできると説かれます。

 

このように、阿頼耶識に蔵された種子より、この世の一切の現象が生じ(種子生現行)、生じた現行(顕現した現象)が必ず新しい種子を阿頼耶識のうえに薫習し(付け加え)(現行薫種子)、薫じつけられた種子は、再び現象を顕現する(種子生種子)…という繰り返しの中に、万象は成立します。

 

これら「種子生現行」「現行薫種子」「種子生種子」という三つの過程は、すべて、諸法の種子を集め(種子を薫習、積集し)、諸法を生起する阿頼耶識のなかで起こる出来事であり、この絶えることがない阿頼耶識の因果の連鎖の循環活動のみが、万生には存在していると説かれています。唯識派の「ただ識のみが存在し、識の外には物は存在しない」の教説がこのことを象徴的に表しています。

 

 

  • 三性三無性説

 

三性三無性(さんしょう・さんむしょう)説とは、中観派(ちゅうがんは)の透徹した空性(くうしょう)を虚無的とみた瑜伽行派(ゆがぎょうは)が、ものごとの存在性に通底する三条件を規定し、その三重性から空性をとらえなおした教説です。仏教教理の核心である縁起の世界を要として、そこから煩悩の世界と悟りの世界が位置づけられました。

 

三性説(三自性説)

 

唯識思想では、あらゆるものは三つの有り方(三つの存在形態)において存在するととらえ、これに基づいて立てられた三性説は、存在のあり方を認識主観とのかかわりによって、遍計所執性、依他起性、円成実性の三つに分けた教義です。逆に、存在のあり方を否定的に表現したのが三無性説です。

 

依他起性(依他起自性)

依他起性(えたきしょう)は、縁起により生滅するものごとの姿であり、事物は縁起に依るという「他に依存する存在形態」を示しています。現象世界は、阿頼耶識(アーラヤ識)を因として現れては消える(刹那滅)、縁起によって成り立つ世界で、ゆえに空とされます。

(縁起によって生じている相)

 

遍計所執性(遍計所執自性)

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)は、現象世界が空であることに気付かずに、識(心)が自我と物に執着する結果、実在と思い込む煩悩の世界、つまり「仮構された存在形態」のことをいいます。これは、言葉でとらえた世界でもあります(主客として実在視されたあり方)。

 

円成実性(円成実自性)

円成実性(えんじょうじつしょう)は、修行によって自我と物に対する執着から脱した、空、真如、涅槃などと呼ばれる、いわゆる悟りの世界で、縁起を覚って円らかになる「完成された存在形態」をいいます(「主客の実在視をはなれた真実のすがた」)。一切法共通の性質である空性のことで、すべてに遍満する真実の世界です。

 

三性説は、迷悟の転換の機構も表すものであり、人間が縁起の理法に気付く(覚る)過程を分析しています。遍計所執自性への執着を離れることで依他起自性において円成実自性たる空性が現れ出ます。すなわち縁起である依他起自性(えたきしょう)は煩悩と覚りの契機となります。

 

本来、現象界は空です。しかしわれわれ凡夫は、本来空でありながら、「虚妄なる分別」により自我と物に執着してそれを実在と思い込み、煩悩の世界にいます。しかし、悟れば、現象世界が本来、空であることを観じ、自我と物に対する執着から脱して、ありのままの姿が見えるようになります。

 

 

三無性説(三無自性性説)

 

唯識学派は存在認識を「有(う)」の面からは三性として分析しますが,それにとらわれれば,それはまた執着された見解といわなければならない。それを打破するために,その同じ存在 (諸法) を三性とは逆に、それらには本来固定的な実体がない,という無自性の方面から認識しようとします。

 

自性とは本来、永劫不変の実在を意味しますが、これら三性(三自性)はそれに合致しません。そこで、この場合の三性の不成立を規定するのが、三無性(無自性性)(自性たりえないことの意)です。三無性とは、存在の3つの形態である三性の否定的側面を表わした語で、生無性、相無性、勝義無性の3つをいいます。

 

生無性

生無性は、依他起(えたき)性の否定的側面を言い、他の縁によって生起したものは自らの力で生じたものではないことを意味します。依他起(えたき)自性は、縁生(えんしょう)(一切の存在が因縁によって生ずること)の独存したものでないので「生無性」であるという言い方もします。

 

相無性

相無性は、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)の否定的側面をいい、言葉でとらえられたもの(相)には実体性がないことを言います。遍計所執自性は、分別に付加された本来存在しない特性であるので、相無性であるという言い方もします。

 

勝義無性

勝義無性は、円成実性(えんじょうじつしょう)の否定的側面をいう。円成実性はあらゆる存在の究極の真理であり、そのような真理は、最高の価値をもつものという意味で勝義(しょうぎ)です。また、勝義においては、すべての実体的なるものが存在しない、すなわち無性であるから、円成実性を勝義無性と言います。円成実自性は無自性そのものであるので勝義無性という言い方もします。

 

悟るとは、煩悩の世界から悟りの世界への転換を意味する。「ただ識のみ」の煩悩の世界から、完成された悟りの智慧の世界への転換、すなわち識から智への転換です。ゆえにこれを「転識得智」と言います。

 

では「転識得智」に至るために、われわれの心の中の阿頼耶識(アーラヤ識)には煩悩の種子を宿しているので、阿頼耶識の煩悩の種子をいかにして取り除くかが、唯識思想の悟りの構造の鍵となりますが、鍵は瑜伽(ゆが)(ヨーガ)行にあります。

 

 

  • 三時教判

三時教判(さんじきょうはん)とは、釈尊一代の教えを、以下の三つに分類したものです。(教判:仏教の教説を判定解釈すること)

 

  • 初時有教:法のみ有(う)である(不変で固有の実体をもつ)と説く教えで、すべての存在は因縁和合したものであるが、その要素そのものは時間を超越して実在するという説。小乗の教えがこれにあたるとみなします。
  • 第二時空教:一切諸法はみな空であると説く教えで、すべての存在は実体のないものであるという説。小乗から大乗への過渡期にある大乗教をさします。
  • 第三時中道教:非有非空(有に非ず空に非ず)を明かす教えで中道の説。真の大乗教を説くものとされます。

 

前の2者を未完成な教えで,あとの1者を完全に真実を説いている教えとします。

 

このように、解深密経(げじんみっきょう)の中の理論が中核となって、その後の瑜伽行派(ゆがぎょうは)の学説が展開していきました。実際、解深密経は、弥勒(みろく)の「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」、無著(むじゃく)の「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」、護法(ごほう)の「成唯識論(じょうゆいしきろん)」などに引用されるほど、瑜伽行派(ゆがぎょうは)の理論的支柱となっており、後世への影響が大きいとされています。

 

 

<瑜伽師地論>

 

瑜伽師地論(ゆがしじろん)は、解深密経(げじんみっきょう)ともに、瑜伽行派(ゆがぎょうは)の主要文献の一つとされ、漢訳では、弥勒(みろく)作、チベット訳は無著(むじゃく)作とされています。後者の場合、無著が、兜率天に住む弥勒菩薩の説を聞いて著したとの伝承も残されています。

 

瑜伽師地論は、瑜伽行(正しい瞑想の実戦)の観法(心に仏法の真理を観察すること)を詳説したもので、唯識の世界が明らかにされた論書で、修行の段階を詳細に述べ,阿頼耶識(あらやしき)、三性説(さんしょうせつ)、その他あらゆる問題を詳細に論究されています。

 

具体的には、瑜伽(ゆが=ヨガ)行者の境(きょう)・行(ぎょう)・果(か)を17地に分けて説明する本地分(ほんじぶん)(漢訳1~50巻)、その要義を解明する摂決択分(しょうけっちゃくぶん)(同51~80巻)など五部に分かれています。

 

境(きょう)とは、認識作用の対象(対境)のことで、現象、対象、外界の存在、心の状態をさします。

 

認識する感覚器官とその働きを合わせて「根(こん)」といい,(げん)(見る),(に)(聞く),(び)(嗅ぐ),(ぜつ)(味わう),(しん)(触れる)の五根があります。これらの五根には、それぞれ対応する対象があり,それらを順次に色境(しききよう)(いろ・かたち),声境(しようきよう)(声や音),香境(こうきよう)(香りや臭気),味境(みきよう)(甘・辛などの味),触境(しよくきよう)(触覚による冷・暖,堅・軟など)の五境とします。

 

なお、五根に「意」を加えて六根とし、また五境に「法」を加えて六境とする場合もあります。その場合、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根の感覚機官に対して、色・声・香・味・触・法の六境があると説かれます。

 

「行」(ぎょう)は形成力、人の内から出て、人の生存を形成していく力をさします。例えば、以下のようにさまざまな条件(縁)によって形成されます。

 

・五蘊(ごうん)(仏教で人間存在を構成する要素)のひとつ、「色・受・行・想・識」の「行」

・十二支縁起(じゅうにしえんぎ)の第二支の「行」

・諸行無常(しょぎょうむじょう)の「行」

 

果(か)は、仏教の真理を悟ること、悟りの境地を意味します。

 

このように、瑜伽師地論(ゆがしじろん)は、3~4世紀頃のインドの部派仏教および大乗仏教思想研究のための一大宝庫であり、大乗仏教の百科全書と位置づけられています。

 

さらに、解深密経(げじんみっきょう)や、瑜伽師地論(ゆがしじろん)以外にも、瑜伽行派(ゆがぎょうは)の教説を著わした論書があります。

 

  • 摂大乗論

「摂大乗論(しょうだいじょうろん)(マハーヤーナ・サングラハ)」は、北インドの無著(むじゃく)が5世紀頃に執筆した唯識の論書で、瑜伽行派の立場から、龍樹の般若思想と弥勒の唯識思想とを一つの組織に組上げた,いわば無着までのインド大乗仏教の教義全体を体系化してまとめられています。

 

10章からなり、阿頼耶識(アーラヤ識)の三性(さんしよう)説を中心に唯識を説き、「大乗阿毘達磨経」、「解深密経」、「十地経」、「般若経」が引用しながら、六波羅蜜,十地,三学,涅槃,仏身まで論じています。中国では摂大乗論を論拠として「摂論宗」が生まれました。

 

 

  • 唯識三十頌

 

「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」は、世親(せしん)(ヴァスバンドゥ)(400―480頃)が、30の頌詩(しょうし)(褒め称える詩)によって唯識思想の体系を説いた偈頌(げじゅ)(仏を称える韻文形式の書)です。「解深密経」から「摂大乗論」まで多くの書によって明らかにされた仏教の唯識説の要義が,30の頌(詩)によって体系的にまとめられました。

 

この「唯識三十頌」に対する釈論を作った学匠が10人おり、「(唯識)十大論師」と呼ばれました。十大論師がそれぞれ10巻ずつ著わし、「唯識三十頌に対する註(ちゅう)」は合計100巻あったと言われています。

 

このうち、安慧(あんね)(スティラマティ、510―570ころ)の注釈(「唯識三十頌に対する註」)は、サンスクリット本で現存しています。小著ですが、「下意識的な根源的認識である阿頼耶識(あらやしき)と、それを自我と誤想する末那識(まなしき)と、目、耳、鼻、舌、身、意の六つの現象する認識、という三層の認識のみの転変によって、外界の対象が実在しないにもかかわらず、自我と世界と多くの心理現象が仮現(けげん)する様相」を説き、唯識思想の体系を完成させています。

 

また、護法(ダルマパーラ)も、「唯識三十頌」を注し、唯識説を中心にまとめた「成唯識論(じょうゆいしきろん)」を出しました。

 

 

<瑜伽行派のその後>

 

瑜伽行派(ゆがぎょうは)は、6~7世紀頃から中観派との間によく論争が行われるようになりました。その一方で、教学上も、7世紀ころより有相(うそう)唯識派と無相(むそう)唯識派に分かれていきました。

 

有相唯識説とは、認識の対象は外界に在存せず、認識主体としての「識」そのものに認識内容の相(形象、すがた、かたち)がそなわっているとする、即ち、実在するのは、認識内部に現れる形象(相)であるとする考え方です。この理論は、世親の弟子であった陳那(じんな)(ディグナーガ)の「観所縁論」において説かれ、陳那は弟子である護法とともに、有相唯識派を形成しました。

 

これに対して、そのような相(形象)に実体性を認めない無相唯識の立場が無相唯識派で、陳那と同時代の徳慧(とくえ)とその弟子の安慧(あんね)が代表的な仏僧です。

 

ただ、インドでは、一般的には、有相唯識派、無相唯識派ともに、「唯識派」と呼ばれ、唯識派(瑜伽行唯識派)は、インド仏教の最後まで活動を続けたと言われています。瑜伽行派(ゆがぎょうは)(瑜伽行唯識派)は、唐の時代に、主として玄奘(げんじょう) (三蔵法師)によって中国に請来され、中国・日本では、法相(ほっそう)宗が立てられました。

 

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<参照>

仏教のルーツを知る

唯識(広済寺HP)

阿頼耶識(あらやしき)とは?(仏教ウェブ講座)

阿頼耶識(WikiDharma)

瑜伽行派とは(コトバンク)

瑜伽行派(Wikipedia)

 

(2022年7月7日)