密教:インド仏教最後の輝き

 

インド仏教シリーズの最後に、日本の仏教にも大きな影響を与えた密教をとりあげます。密教の隆盛が、インド仏教を終焉させるきっかけになったのは皮肉なことです。インドで密教が生まれた時代背景も含めて、インド仏教そのものについても考えます。

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ナーランダー僧院

 

グプタ朝の時代の5世紀頃、王の保護のもと、仏教の教学を学ぶ僧侶養成のための仏教大学と位置づけられるナーランダー僧院が、ガンジス川流域のビハール州南部、マガダ国の古都ラージャグリハに創設されました。唐から訪れた玄奘と義浄も学んだとされるナーランダー僧院は、7世紀のヴァルダナ朝、次のパーラ朝でも保護を受け栄えました。

 

ナーランダー僧院には、インド内外から秀才たちが集まり、学僧の数は、一時数千人から1万人にも上ったそうです。そこでは、仏教教学を中心に、バラモン教の教学や哲学、医学、天文学、数学などが研究され、インドにおける大乗仏教教学の中心となりました。

 

玄奘がインドにあった頃に、ヴァルダナ朝のハルシャ王(在位606-646)の時代で、玄奘は、この僧院で最高の学僧として尊ばれていたシーラパドラ(戒賢)のもとで学び大きな名声を得たと言われています。

 

このように、紀元前3世紀のマウリア朝(アショーカ王)に始まり、クシャーナ朝(カニシカ王)から、6世紀のグプタ王朝、7世紀初めのヴァルダナ朝の頃まで、千年以上の間、インド仏教が興隆し、インドは東洋文化の発祥地となりました。

 

インドにおける仏教の繁栄は、1200年頃、アフガニスタンから侵攻したイスラム教徒のゴール朝によって、終わりを告げるわけですが(ナーランダー僧院も破壊)、その兆しは、すでにグプタ朝の時代からありました。

 

 

◆ヒンズー教の浸透

 

グプタ朝の時代、宮廷が支えたのは仏教だけではなく、王朝はヒンドゥー教も保護していました。インド社会固有の宗教であるバラモン教から生まれたヒンズー教は、カースト制と結びついた伝統的な社会慣習を基盤とした多神教で、その頃、民衆に広く定着していました。

 

また、当時、サンスクリット語という聖典語による学術が盛んになったこともあって、伝統的なバラモン教やヒンドゥー教が普及し、バラモンの文化が復興していたことも、ヒンズー教を普及させる要因となりました。

さらに、クシャーナ王朝(1世紀半ば~3世紀前半)の時代は、東西貿易でローマ帝国より莫大な金が流入して経済は栄えていましたが、西ローマ帝国の滅亡(476)により、東西貿易は減り、経済は停滞していきました。それにともない、仏教を経済的に支えていた商業資本とそのギルド(商工業者の組合)は衰退していきました。

 

こうした背景で、相対的に農村に基盤をおくヒンズー教が優勢となり、都市部の仏教は、やがて圧倒されていきました。当時、仏教は、知識人の学問という性格に転換し始めていたと指摘され、次第に民衆から離れていったのです。そうなると、王朝側も、ヒンズー教徒のバラモン層の声に耳を傾けるようになっていき、まずます、ヒンズー教を利する結果となりました。

 

この傾向は、次のヴァルダナ朝の治世においても同様であり、仏教は依然として宮廷の保護を受けてはいましたが、大衆にはヒンドゥー教がさらに浸透していきました。このように、当時、最盛期を迎えていた仏教は、すでに、グプタ朝が始まった4世紀頃からヒンドゥー教に次第に押され、陰りが見えはじめていたのです。

 

 

◆密教の成立

 

ヒンズー教の勢力がさらに拡大した6世紀から7世紀にかけて、対応策が求められた仏教は、対抗するというよりも、むしろヒンズー教に妥協し、民衆に根強い土着の信仰、とりわけ、ヒンズー教に特有な呪術や儀礼を、仏教にも取り入れるようになりました。

それなりの勢力を保持しつつも苦境にあった当時の仏教徒たちにとっても、自分たちの身を守り、願いを実現してくれる超自然の力を求める機運もまた高まっていたとされています。

 

釈迦自身、病いに臥す弟子に対して、自ら、呪文のようなものを唱えながら業を施し、癒していたとの記録も残されていますが、釈迦は、日常の具体的経験では得られない、抽象的で超自然的な形而上のことをあえて説こうとしませんでした。

 

ですから、原始仏教では,呪術を禁じ、神秘的なものを排除されてはいましたが、一部の経典のなかに取り入れられていました。例えば、上座部仏教では、パリッタ(護経)と呼ばれるお経を読んで、除災や招福を祈る簡単な儀礼は行われていたとされています。

 

また、大乗仏教でも、真言(マントラ)(仏の真実の言葉、秘密の言葉)や陀羅尼(だらに)(呪文の一種)を唱えることで、除災招福などをかなえるという話しがお経にあるそうです。般若心経の中にも、「羯諦羯諦(ギャテイギャテイ)・・・」という呪文のような真言(しんごん)がでてきます。初期大乗の時代から、経典に書かれた真言や呪文を唱えることで、悟りを得るための精神統一の手段としたり、呪法の一つとしたりしていたことが伺えます。

 

そうして、2~3世紀頃、呪文を中心とする禍いを取り除く「除災経典」のような経典が単独で書かれようになりました。その後、4世紀頃には、「孔雀明王経」などの現世利益を目的とし、儀礼を主たる内容とする、いわゆる密教的な経典が登場しました(こうした6世紀までの密教を初期密教と呼ぶ場合がある)。

 

7世紀(半ば)になると、本格的な密教経典として、大日経(だいにちきょう)や金剛頂経(こんごうちょうきょう)などが出来上がりました。これらは、初期の密教が取り入れた雑多な呪術を整理され、思想と実践方法が体系化されたものです。

 

教義も大日如来を中心に展開されたこの時期には、曼荼羅(後述)も生み出され、信仰の目的は成仏することでした。中期密教とも呼ばれた頃の密教を、純正な密教と言う意味で「純密」、6世紀頃までの初期の密教を「雑密」として区別することがあります。空海が唐で学び、日本に伝えた密教はこの時代の純密でした。

 

また、7世紀半ばから後半にかけて、中国からインドへやってきた玄奘や義浄が、ナーランダー僧院を訪れたときには、既にそこは密教の根本道場となっていた報告されていたとされ、この頃、インドの大乗仏教の大勢は密教に移行していたことがわかります。なお、義浄は673年から685年にインドを訪問し、玄奘はその40年ほど前に滞在していました。

 

こうして、密教は、釈迦の入滅後1000年以上も経た7世紀に大乗仏教の一つの宗派としてインドで成立し体系化され、大乗仏教の中で主流派となりました(最盛期は8世紀とされる)。

 

 

密教の特徴

 

密教は、密儀を重視する仏教のことを言い、呪文(真言・陀羅尼)、手の印相(いんそう)(仏や菩薩が手指で示す形)、曼荼羅(まんだら)などを用いた神秘的な呪術によって現世的な利益を図ろうとします。

 

前述したように、釈迦は、仏教に神秘主義や形而上のことなど排除し、当初の仏教はこれを遵守しました。しかし、神秘主義を好むインドにあって、ヒンドゥー教の影響が強まってくると、もともと釈迦の教えになかった神秘的、形而上学的な内容が密教の教義に編入されました。

 

ヒンズー教は、インド古来のバラモン教の神秘主義的な要素を受け継いでおり、ヒンズー教の一派であるタントラ教(タントリズム)の秘密の教義体系が仏教に入り、密教となったという側面もあります。教義、儀礼は秘密で門外漢には伝えられないといった、秘密裏の相承形態もバラモン教やヒンズー教の特徴だと指摘されています。

 

 

◆密教の教義

 

密教とは、大日如来が説いた秘密の教えという言い方もできます。大日如来とは、真理そのもの、宇宙そのものの現れという存在で(「宇宙の永遠性普遍性=仏」とみなされる)、密教では、悟りの世界にいる大日如来によって、この世で悟る究極の道が説かれます。悟れば、内面の世界で自己が破られ、仏と合一することができ、現世で生きたまま成仏ができるとされています。

 

密教は、師匠から弟子へ厳格なルールを持って、秘密裏に儀式や作法(呪術)が口伝され、その教えも非公開で、神秘的な要素が多いのが特徴です。

 

こうした神秘的で儀礼的な密教の悟りの世界を象徴的に表現したのが曼荼羅です。曼荼羅は、釈迦や、原始仏教時代に現れた仏、大乗仏教で生まれた仏・菩薩、さらにはインド古来の神々を融合させた一つの宇宙観、密教的世界観を図示したものです。そこで、密教を行じる人は、瞑想の中で、曼陀羅の世界と神秘的な合一を果たすことが目指されるのです。

 

なお、密教の性質は、顕教(けんぎょう)との比較で説明されます。顕教は、釈迦が衆生救済のために説いた教えのことで、大乗仏教は、釈迦が語った教えを、明瞭な言葉で民衆に分かりやすく説きました。「顕(あ)らわに説いた教え」ということで顕教と呼ばれました。端的に言えば、これまでの大乗仏教の教えを、「密教」に対して「顕教」と呼称されたといえます。

 

一方、密教は、その神秘主義と秘密主義が昂じて、危険な教義や儀礼を生むことにもつながりました。例えば、後期密教の時代とも呼ばれた8世紀以降、密教の中に、ヒンドゥー教シャークタ派の聖典タントラの影響を受け、その中心的なシャクティ信仰が入ってきました(タントラ仏教とも呼ばれる)。シャクティとは、女性的なエネルギー、性力などを意味する女性的力動の概念で、性交によって仏と一体化し、呪術的な能力を発揮することができると考えられるようになったのです。これによって、一部の密教では、解脱を目指す性的な修行(性秘儀、ヨーガ)も行われるようになりました。

 

密教の展開

 

いずれにしても、密教は8~12世紀にかけて全盛期を迎え、インドにおいては、グプタ朝、パッラヴァ朝、パーラ朝などの庇護を受け、ベンガル地方などには巨大寺院を建設されました。

 

また、インド以外の地域でも、北伝仏教が入ってきた中国にも伝播すると、9世紀に中国に渡った空海や最澄によって日本に伝えられました。さらに、上座部仏教(小乗仏教)が定着していたスリランカでも、8~10世紀の間、密教が有力であったとされています。

 

しかし、生き残りをかけてヒンズー教の要素を取り入れて密教化した仏教は、ヒンズー教との違いが曖昧になって、皮肉にも、インドにおいて仏教が衰退していく契機となったのです。何より、密教化によって、インド仏教は釈迦の教えからかけ離れたものに変質してしまいました。ヒンズー教の側でも、釈迦をクリシュナ神の化身として崇められました。ヒンズー教徒にとって、釈迦は、ヒンズー教の聖者の一人で一つの神として扱われました。

 

ヒンズー教との区別がつかなくなってくると、仏教の存在意義がますます薄れて、ヒンズー教がさらに発展することにつながりました。加えて、8世紀頃からイスラム教徒の侵攻が始まると、不安からますます儀礼呪術の力が期待されるようになっていきました。

 

 

インド仏教の滅亡

 

このように、7世紀以降のインド仏教(大乗仏教)は、密教で盛んになりましたが、その内実はヒンズー教化して、本来の釈迦の教えは失われ、10世紀以降、イスラム教がインドに入って来くると衰退の一途を辿ります。

 

特に、11世紀頃に、イスラム勢力は本格的にインドに侵攻し、寺院や仏像を破壊し、僧侶たちも殺害され排撃を受けると、インドの地を捨ててネパールやチベット、インド東部・ミャンマー国境に避難していきました(彼らはそこで、仏教徒として細々と仏教を継承した)。

 

12世紀末までに、仏教は、インドの中央部では壊滅しました。例外的に、ベンガル地方のパーラ朝がナーランダー僧院を復興するなど、なおも仏教を保護していましたが、13世紀初めに滅亡したことで、仏教はインドにおいては消滅してしまいました。

 

涅槃経」というお経には、釈迦が亡くなる際、「一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く(仏教以外の宗教は、人々を苦しみの世界に落とす)」と説いたと、書かれているそうです。仏教が消えたその後のインドの歴史は、釈迦の予言通りになったとの指摘もあります。

 

もっとも、現在のインドでは、20世紀に、カースト制と不可触賎民差別に反対する「新仏教運動」が展開された結果、現在、下層市民を中心に1億人が仏教を信仰していると言われるなど、仏教復活の兆しもあるようです。

 

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仏教5 唯識と瑜伽行派:アラヤシキとは?

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る

密教(広済寺HP)

密教(世界史の窓)

密教とは(コトバンク)

密教(Wikipedia)など

 

(2022年7月7日)