釈迦は何を教えたか?:四諦・八正道から縁起まで

 

前回は、釈迦の生誕から入滅までの過程で、仏教がいかに成立していったかを紹介しました。その中で簡単に釈迦の教えについてものべましたが、今回はもう少し詳しく、釈迦が生きている間に何を教えたかついてまとめてみました。現在の仏教は、宗派がたくさんあってそれぞれ難解な印象があるのですが、その創始者である釈迦の教えは、単純明快でした。

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<釈迦の悟り>

 

前回の投稿(「釈迦の一生と仏教の誕生」)でも述べたように、王子として何不自由なく生活していたシッダールタ(釈迦)が出家するきっかけとなったのは、城門をでて、病気や貧困に悩み、苦しみ、死んでいく人々を見たからでした。

 

この時、シッダールタはこの娑婆(現実)の世界の「苦(苦しみ)」の原因は何か、そして、当時からインドで信じられていた輪廻(人は生死を繰り返すという考え方)を脱する、この場合、苦しみの連鎖をいかに絶つことができるかを智ろうとした(悟り)と言われています。

 

長い修業の後にシッダールタが悟ったことは、四諦(したい)の理で、さらに、苦の真因としての十二因縁(じゅうにいんねん)、苦から脱するための八正道(はっしょうどう)を顕(あきらか)かにしました。また、悟りを得れば日常的に求められる中道の精神と慈悲の心についても説きました。

 

釈迦の悟りの中核は、「四諦」といえ、四諦こそ釈迦が菩提樹の下で開かれた第一の悟りです。実際、釈迦(仏陀)が、入滅まで、衆生に終始一貫して説いたのが四諦の法門(仏教の教え)であったと言われています。釈迦は、この世にある四つの真理(四諦)を示しながら、八正道を歩むことで、私たちが持つ、生・老・病・死の苦しみから逃れ、現象へのとらわれから解脱した境地を説かれたのです。

 

四諦:苦しみとその原因および苦しみを滅する方法に関する4つの真理。

八正道:苦の原因を滅する8つの方法。

十二因縁:老死に至る苦の原因を12階段にわたって示した真理。

中道:両極端ではなくその中間的な生き方。

慈悲:生きとし生けるものに対して慈しむ心。

 

 

<四苦八苦>

 

釈迦は、「実相(じっそう)をありのままに受け入れる事が苦を滅する第一歩である」と説いたと言われています。では、世の実相とは何でしょうか。釈迦は、人生はすべて苦である(一切皆苦)と教えました。「苦」は「思いどおりにならない」という意味で、生・老・老・死の4つの苦しみを「四苦」と定義づけられました。

 

(しょう):生きるということは苦である。

(ろう):老いていくことは苦である。

(びょう):病にかかることは苦である。

(し):死ぬということは苦である。

 

どのような境遇に生まれるか思い通りになりません。生まれれば、老いたくなくともいつかは老いてしまいます。また、病気になりたくなくてもいつかは病気になり、死にたくなくともいつかは死なねばなりません。

 

また、四苦(生老病死)に以下の4つの苦を加えて、八苦という場合もあります。非常に苦労することを現在でも、四苦八苦(しくはっく)すると言いますね。

 

愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れる苦しみ

怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者と会う苦しみ

求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ

 

五蘊盛苦(ごうんじょうく)

人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)や心から生じる一切の苦痛や苦悩のこと、五陰盛苦(ごおんじょうく)、五取蘊苦(ごしゅおんく)ともいう。

 

 

<四諦>

 

このような人生の苦しみを解決するために説かれたのが、苦、集、滅、道の四諦です。日本語では、四諦の「諦」は「あきらめる」という意味にとられますが、ここでは「真理」を意味します。四諦とは、苦しみとその原因、および苦しみを滅すること、その滅に至る方法に関する4つの真理をいいます。

 

  • 苦諦(くたい)

人生はすべて苦しみに満ちている(四苦八苦)という真理。

 

  • 集諦(じったい)

苦しみの原因は心の迷い、煩悩にあるという真理。煩悩とは、私たちを悩まし、苦しませ、誤った方向に導く不善の心のことをいい、克服すべき3つの煩悩として、(とん)・(じん)・(ち)があると説かれています。この3つの煩悩を毒に例えて三毒(人間の諸悪・苦しみの根源)といいます。

 

貪欲:むさぼること
瞋恚(しんい):憎み、怒ること
愚癡:無知でおろかなこと(=無明)

 

集諦の「集」というのは「集起(しゅうき)」の略で「原因」という意味です。人生の苦しみにも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれを悟ることが求められます。不幸を呼び起こす苦しみの原因とは何かというと、必要以上にものごとを貪り求める渇愛(かつあい)にあると説かれています。釈迦も、もろもろの苦の原因は、自分の欲望にまかせて執著する貪欲(とんよく)であると教えました。

 

  • 滅諦(めったい)

煩悩を消すことで苦を取り除くことが出来るという真理。その方法が次の道諦で示されます。

 

  • 道諦(どうたい)

正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理。苦を滅する道は苦から逃れようと努力することではなく、八正道という八つの徳目を実践することです。

 

 

<八正道>

八正道(はっしょうどう)とは、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の8つの道のことをいいます。

 

正見(しょうけん)(正しく見る)
自己中心的な見方や、偏見を持たず、正しく物事を見ること

 

正思(しょうし)(正しく考える)

自己本位に偏らず、貪る心(貪欲)、怒る心、邪な心(愚痴)を捨て去り物事を考えること。

 

正語(しょうご)(正しく話し語る)

社会生活の上で、嘘、二枚舌、悪口、戯言を慎み、真理に合った言葉使いをすること。

 

正行(しょうぎょう)(正しく行動する)

殺生、盗み、淫行をせず、仏の戒めにかなった正しい行いをすること。

 

正命(しょうみょう)(正しく生活する)

人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけないこと。

 

正精進(しょうしょうじん)(正しく努力する)

自分の使命や目的に対して、怠りや脇道にそれたりしない一方、とらわれ過ぎたり偏ったりもせず、正しく励みこと。

 

正念(しょうねん)(正しく思いめぐらす)

自己本位によらず、ものごとの真実の実相を見極めることができるように、心を落ち着かせて正しく考える。

 

正定(しょうじょう)(正しく心を決定させる)

心が正しい状態に定まり、外部から迷わされないこと。

 

 

<三法印(四法印)>

 

釈迦が悟った人生についての普遍的な真理として、三つの基本理念である「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静、」があります。これを、仏教の特徴をあらわす三つのしるしという意味で、三法印(さんほういん)と呼び、前述した「一切皆苦」を含めて、四法印(しほういん)ともいいます。

 

  • 諸行無常

あらゆるものは絶えず変化してやまず、生滅変化する(生まれ、変化し、死ぬ)ことを言います。逆に言えば、この世に不変・常住なものはないということを意味します。

 

  • 諸法無我

諸法無我とは、存在するすべてのものは無常であるから(諸行無常)、常に同一の状態を保ち、自らを統制できる力をもつ「我(アートマン)」は存在せず、無我であるという意味です。「自分の命もすべて自分のもののようであって自分のものでない」などと例えられ、無我は非我(我にあらず)に近いとされています。諸法無我の根底にある法門(仏教の教え)が、因縁を説いた「縁起の法」です(⇒十二因縁)(後述)。

 

 

  • 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

無常であり、無我であるのが、ものの真実の姿で、これを悟ることができれば、迷妄が消え、静かな安らぎの境地に入ることができるという、仏教の理想の境地を示したものです。反対に、諸行無常、諸法無我を悟ることができないところに苦が生じるということになります。

 

迷妄の消えた安らぎの境地とは、悟りの境地であり、涅槃(ねはん)の状態です。悟りとは、釈迦が瞑想の中で論理的に把握した真理であり、悟った釈迦は、瞑想の中で、依然として火のように燃え盛る、自らの心の中の執着や欲望と戦い、やがてその火を吹き消し、苦を離れた静寂な心境(涅槃の境地)を獲得したと伝えられています。

 

 

<縁起の法>

 

この世に生れ出たものはなぜ無常の運命を免れられないのか(諸行無常)、またなぜいかなる存在も不変の本質を有しないのか(諸法無我)の答えが、縁起の法です。

 

縁起とは因縁生起(いんねんしょうき)の略で、一切の現象(ものごと)が生ずるには、かならず因(原因)と縁(条件)があると説かれます。例えば、お湯は、火という縁があって水からお湯になるといった具合いです。縁起の法は、「この世の全ての事に偶然は無く、全て必然である」、「全ての物事は縁で繋がっている」という考え方で、「人は善い行いをすると良い報いがあり、悪い行いをすると悪い報いがある」とする因果応報と言う言葉にも象徴されます。

 

釈迦は、すべての存在(諸法)の真実の姿(実相)を「縁起」に見出しました。ですから、一切の現象はこうした因縁の相互関係の上に成立しているから、「有我」や「不変」といったことはありえず、「無我」であり「無常」となるのです。

 

 

<十二因縁>

 

また、「一切皆苦」の世界にあって、釈迦は、人間の苦しみや悩みがいかに成立するかを瞑想し、その原因が、無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)の12の項目にあると悟りました。これは後に「十二因縁(じゅうにいんねん)」と呼ばれるようになりました。

 

  1. 無明(むみょう)

「無明」とは、無知、間違った判断という意味です。人間の存在発生の時、人は無知であり、知恵がありません。すべてのものごとのあり方や、人生についての意義を知らず、また知ろうともしない状態が無明で、根本煩悩とされています。

 

  1. (ぎょう)

「行」とは、無明(無知)のために、真理に合わない行動をすることをさします。これには、自分の過去世や先祖の代から潜在的に影響を受けた無意識な行為も含みます。

 

  1. (しき)

「識」は、そうした無意識の行動(行為)が、習慣によって、次第に物事を知り分ける意識ができあがってくるというような、識別作用の働きをいいます。私達の「識」の中には、生と死を繰り返す輪廻(りんね)した魂の潜在意識の中にある前世の業(ごう)(=行い)も含まれています。

 

  1. 名色(みょうしき)

「名色」とは、不完全な識(しき)(=心身の作用)が除々に形を整え、自分の存在を意識するようになる状態のことを言います。「名色」の「名」は無形のもの(心や精神世界)をいい、「色」は有形のもの(肉体)を意味します。

 

  1. 六処(ろくしょ)

「六処」とは、名色が発達して得られた心身の六つの働きのことをいいます。それは、(げん)(視覚)・(に)(聴覚)・(び)(嗅覚)・(ぜっ)(味覚)・(しん)(触覚)の五感と、その五官を分別や区別する(に)(心=知覚)の六根(ろっこん)をさします。人はこの段階の状態で、この世に生まれ出てくるとされています。

 

  1. (そく)

「触」とは、体の部分の五官(眼・耳・鼻・舌・身)と、心の部分の知覚(意)が発達した状態をいいます。これは、「名色」と「六処」が互いに影響しあって結果で、赤ちゃんが成長して両親を識別ができるように、人は、物事を見分け、判断できるようになります。

 

  1. (じゅ)

「受」とは、心に起こる最初の感情をいい、「触(心身)」の感覚が発達してくると、好き・嫌い・憂い・悲しみ・苦しみなどのような、さまざまの感情(「受」)が起こるようになります。人で言えば、6~7歳ごろを指します。ものの受け取り方や感じ方は、環境や価値観の違いから人によって異なりますが、これは過去の経験から生じてくると言われています。

 

  1. (あい)

「愛」とは、好きなものに心がとらわれることです。「受(好き、嫌い、苦楽の感情)」が起きてくると、ものごとに対して「愛着」が起きてきます。この「愛」は「渇愛」ともいわれ、異性に対する愛情と考えていいものです。だだし、この段階ではまだ無邪気な心の動きの状態だとされています。

 

  1. (しゅ)

「取」は、「愛」の感情が強くなって生じる所有欲や独占欲のことで、執着心と呼べるものです。反対に、嫌なものを遠ざけたい、逃げたいという心の働き「取」といえます。

 

  1. (う)

「有」とは、差別や区別する自己本位な心の状態のことで、「取(執着心)」の結果生じます。「有」が芽生えるのは、物事に対する考え方や判断が人それぞれ違ってくるからで、そうなると、意識に幸・不幸を感じるようになり、他人との不調和が発生し、人は憂・悲・苦に悩まされます。

 

  1. (しょう)

「生」とは、「有(差別心)」によって起きる対立や争いの結果生じる、苦しみの人生をいいます。この「生」は本人だけでなく、子々孫々にも影響を与えると考えられています。苦楽の意識は、業(ごう)(=行い)として、魂にすり込まれ、さらに次の世においても同じような意識で人生が展開されていきます。

 

12.老死(ろうし)

「老死」とは、人間はこの世に生を受ければ、やがて老いて死を迎えなければならない運命のことをいいます。

 

以上、十二因縁の教えは、「無明は行に縁たり」、すなわち「行というものは無明という縁を介して生じた…」式に、すべて縁起(原因と条件)の連鎖でつながっています(ゆえに十二因縁は十二縁起説ともいう)。

 

ここから、人間が苦の人生を送る状態は、「無明」を根本原因として、十二因縁のさまざまの段階においてその無知を深めた結果であるとされます。このように、十二因縁の法則を、「無明によって行あり、行によって識あり…」と、人間の存在発生から死にいたるまで、ものごとが縁により生じるものを順に観察し、苦の原因を追究することを「順観」と呼んでいます。

 

釈迦は、ブッダガヤーの菩提樹下において、この人生苦を消滅し、輪廻から解脱する為にはどうすればよいかを考えました。この時、順観の発想を逆転させ、「無明滅すれば行滅す、行滅すれば識滅す…」と苦滅への方法を示す「逆観」をなされ、縁起を順と逆に観じて、悟りを開かれたと言われています。

 

十二縁起説は、人間は、無明に基づいて、間違った生き方をしてきたことに対して、根本原因である「無明」を滅し、正しい判断力を得ることによって、人生の苦しみに消え、正しい生き方ができることを教えています。「無明」をなくさない限り、親や先祖の「無明」が、子や孫へと受けつがれ、いつまでも、苦楽の意識を継続され、束縛やとらわれから逃れることはないと説かれています。

 

インドでは古代から、あらゆる生き物は、死んではまた別の存在に生まれ変わり、何度も生死を繰り返すという「輪廻(りんね)」または「輪廻転生(てんしょう)」が信じられてきました。この観点からも、「無明」をなくさない限り、いつまでも「苦」の輪廻を繰り返すことになってしまいます。

 

無明をなくすためには、釈迦の教えを学び智ることです。人生において、偏りのない中道の精神で、八正道の行いを積み重ねると、次の世では、環境の良い処へと生まれ変わり、よりよい人生を送ることができます。そうすると、最終的には、輪廻から脱出し(これを解脱という)、涅槃の状態(仏の境界)に到達できるとされています。

 

 

<慈悲>

四諦、八正道、縁起など悟っていく過程で、さまざまな我執が取り除かれたとき、人は、周囲の人々やあらゆる生き物に対して慈悲の心が開花します。慈悲(じひ)とは、命あるものへの限りない慈しみの心をいいます。釈迦は、すべての命あるものに対して、慈悲の心を説きました。「慈」とは、あらゆるものを慈しみ、楽しみを与えること、「悲」は、命あるものの苦しみを悲しみ、その苦しみを取り除こうとする同情心です。

 

 

<平等>

インドは、カースト制という身分制度が古代から採用されていましたが、釈迦は、身分制度を、修行僧の集まりである仏教教団内に持ち込みまず、また、バラモン教の聖典ヴェーダの権威や儀式を認めませんでした。この意味でも、釈迦は、儀礼や身分にとらわれることなく、皆平等に、悟りの道を示しました。釈迦にとっての理想の世界は、慈悲の心をもとに、すべての生きとし生けるものが平等に生きることであると解されています。

 

 

<無記(むき)>

(釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたこと)

 

釈迦は、人生問題の解決とは無関係な、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無といった形而上学的問題について質問されても、沈黙を守ってあえて回答しませんでした。その一方で、釈迦は、バラモン教にもみられる神秘主義を克服し、正しい論理を身につけることも説かれています(のちの仏教哲学構築につながったとされる)。

 

 

<参照>

仏教ウェブ入門講座

仏様のお話し(養老山立國寺HP)

仏教とは?全日本仏教会

仏教のルーツを知る(小冊子「ダンマサーラ」)

初めての説法:サールナート

その18 初転法輪(最初の御説法) – お釈迦様のお話 –

仏様のお話し(養老山・立國寺HP)

仏様の世界(Flying Deity Tobifudo)

世界史の窓

Wikipediaなど

 

(2020年12月1日、最終更新日2022年7月6日)