スーフィズム:ガザ―リーからサファービー朝へ

 

ここまで、イスラム教のスンニ派とシーア派について、対比させながら説明してきましが、今回は、スンニ派、シーア派を問わず、イスラム教に多大な影響を与えたとされるイスラム思想哲学がスーフィズムについてまとめました。ここでは、イスラム史上、最大の思想家とされるガザ―リーも紹介します。

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◆スーフィズムの誕生

 

スーフィズム(イスラム神秘主義)とは、神への賛美を唱えることによって、神との合一(霊的覚醒)を目指す民衆的な信仰形態とその思想で、9世紀半ば以降に形成されました。スーフィズムは宗派ではなく、信仰の「実践形態」の一つで、スンナ派でもシーア派でもみられます(スンナ派の間でより実践された感がある)。

 

「スーフィ―」という名称は、修行者が贖罪と懺悔の徴として、粗末な羊毛(スーフ Suf)を好んで身にまとって禁欲と苦行の中に生きていたことに由来しています。

 

スーフィズムは、内面的な心の平安を獲得しようとする試みであり、日常生活を規定する形式的なイスラム法を遵守するだけでは得られないため、イスラム法の遵守のみを求めるウラマー(イスラム法学者)と対立しました。

 

しかし、神との合一を目指して、心を神に集中させるという、より感覚的で分かりやすいスーフィズムの教えは都市の職人層や農民にも受け容れられていきました。また、スーフィズムは、どの宗教も神との合一という同じ目標を持っているとみなしていることから、キリスト教や仏教、ヒンズー教など他宗教に非常に寛容です。

 

 

  • スーフィズムの実践

 

信徒は、一般的に禁欲と厳しい修行を重ねながら、永遠の世界を求め、霊魂の救済を獲ようとします。具体的には、数々の奇跡を起こして民衆を救うカリスマ的な長老の指導の下に、世俗から離脱して、修道一筋に共同生活しながら、ひたすら禁欲と厳しい修行を重ねて、最後に神の啓示を受けることを目指しています。

 

ただし、スーフィズムの形態も幅広く、コーランとハディースのみを重視して簡素で規律正しい生活を送ろうとするグループもありますが、スーフィズムを象徴していると言えば、直接的、感覚的に神を体験することを重視するグループの存在です。

 

例えば、「アッラーフ、アッラーフ(神よ、神よ)」「ラー・イラーハ・イッラー・アッラー(アッラーのほかに神はなし)」といった唱句を、繰り返し心の中で想起したり、口で唱えたりする「ズィクル(一定の唱句を繰り返し唱える)」があります。

 

また、一心不乱に回転を続ける旋回舞踊を伴う「サマー(歌舞音曲)」もあります。回転は天体の運行を表し、回転を通して神と一体化しようとするのです。スーフィー教団のひとつで、トルコの「メヴレヴィー教団」は、スカートをはき、音楽に合わせて、くるくると回り続ける舞踊で有名です。

 

スーフィズムでは「聖者崇敬」と「聖者廟参詣」が重要な実践で、多くの国では聖者廟への参詣が熱心に行われています。

 

 

  • スーフィズムが生まれた背景

 

預言者ムハンマドが、宗教活動の中で最も激しく非難詰問したのは、現世のはかなさを知らず、物質的快楽の追求だけに専念し、自己の霊魂の救済をいささかも顧みようとはしない人々でした。

 

ところが、ムハンマドが西暦622年に、メッカからメディアに移動した後、イスラム教は急速に隆盛の一途を辿り始めました。「コーランか貢納か剣か」のスローガンのもとに始められた「大征服運動」(正統カリフ時代からアッバース朝初期までの時期)に成功するなど西アジア地域を席巻し、661年には、最初のウマイヤ朝が成立させました。

 

ウマイヤ朝(661~750)において、人々は富裕になり、とくに支配層は富と権力を保有するにつれて、その精神において物質主義的、享楽主義的世俗的、現世的となっただけでなく、神への懼(おそ)れを忘れ始め、イスラムは外面的な儀式となっていました。それに従い、啓示の内容も次第に積極的、現世肯定的に変わってきました。

 

そうした動向への反省・反発から、伝統的な信仰心を持ち、敬虔な人々の間に、期せずして、反世俗的・精神主義運動が起こってきました。その内容は、来世主義と禁欲主義であり、その中で自己の利害(審判への恐れや天国への望み)を超越した「神への愛」を強調するものでした。

 

こうした運動は、ウマイヤ朝の初期のイラク地方、ことにクーファの都を中心に発展し、多くの行者が出現するようになりました。彼らは、世を遁(のが)れ、山野に隠れ棲み、永遠なるものを求め、禁欲苦行の生活をしました。また、富と権力の追求に対する反発から、謙虚や忍耐を美徳とし、粗末な羊毛(スーフ )を好んで身に付けました(スーフィーと呼ばれた)。前述したように、これが、スーフィズムの起源となりました。

 

当時は修道院制度もなく、修道生活の基準もなかったことから、行者たちは、クルアーン(コーラン)の教えのままに審判の日を懼れ、罪悪の意識、神の意思に対する無条件の服従を修道の糧としていました。

 

ウマイヤ朝が滅び、アッバース朝の時代(750~1258)に入っても、イスラム諸国の物質的、現世的な社会の構造に変化はありませんでした。中央集権国家を目指したアッバース朝は、軍隊、官僚機構などを整備し、ウラマー(イスラーム法学者・知識人)が法体系を担いました。このウラマーがイスラムの教義と思想を、合理化・形式化した上に、礼拝や断食のやり方などの規則も定めて、これに従うことを求めていました。こうした形式化したイスラムのあり方に不満を持ち、儀礼や法規則よりも、心の内面や神への愛を重視する運動がスーフィズムだったのです。

 

スーフィズムは、もともと禁欲主義の修道苦行を意味していましたが、アッバース朝前期に、新プラトン思想やグノーシス的秘儀宗教、インドの宗教哲学、仏教などの影響を受けただけでなく、行者たちも体験を理論化するようになり、思想的に発展するようになりました。

 

 

  • スーフィズム進展の経緯とその系譜

 

7世紀の中頃のその萌芽があったスーフィズムが、本格的に組織化され始めたのは8世紀末とされ、クーファとその付近一帯で、来るべき神罰の恐怖に駆られ、続々と世を捨て、隠遁生活に入る人々が数千単位でいたと試算されています。

 

この頃には修道生活も組織化され、一定の修行道ともいうべきものが確定されたと言われています。スーフィ―は、世俗を離れて、禁欲的修行を実践し、世俗的要素を脱ぎ棄て、肉欲・情欲の誘惑を退けることによって現世の罪のわなを超絶しようとしました。

 

はじめスーフィーはきわめて少数でしたが、その中に、次第に聖者としてあがめられ、弟子や崇拝者を集める者が出てきました。各地に「スーフィー修養所」が作られ、そのような聖者崇拝はやがてスーフィー修道会に発展し、神秘主義教団を生み出していったのです。聖者とみなされたスーフィーらは、知識や規則ではなく、感覚で神と一体となる方法を広げながら、民衆の願望に答え教団を拡大していきました。

 

762年に、アッバース朝の新首都となったバグダッドには、早くから優秀なスーフィーたちも移り住んで活動し、スーフィズムのバクダット派を形成しました。そのバクダット派の始祖とされる存在が、「神の愛に酔った人」と称されたマアルーフ・カルヒー(~815)で、カルヒーの系統から、高弟のサリー・サカティーとハーリス・ムハースィービーがでました。

 

サリー・サカティーは、神秘道究極の境地は、神の「美」を直視し、合一することにあると考え、「愛」の完成は霊魂が愛の対象である神に向かって、「汝即我」と言い得るときに遂げられると主張しました。簡単に言えば、神人合一の境地に達することですね。

 

ハーリス・ムハースィービーは、人間の霊魂を上下に分け、上部は、英知を根本原理とする「精神」(上部)、肉体の原理であらゆる煩悩の源となる「自我」(下部)からなると考え、人間の心に起こる邪悪な思いは全て「自我」から発すると説きました。

 

その後、初期スーフィズムの最高峰とされる3人の傑出した神秘家、ジュナイド(~910)、バスターミー(~874)、ハッラージが現れるなど、スーフィーの動きは大衆を中心に影響力を拡大していきました。9世紀以降、スーフィーはイスラム神秘主義者を指す言葉となり流行していったのです。

 

ただし、スーフィーたちは、内面を重視し、神との合一を目指して各種の修行を行ったことから、中には、公然と飲酒や同性愛など、イスラム法を軽視する人々もでてきました。そのため、自らの権威を失墜させ、スンナ派イスラム国家体制を揺るがしかねないスーフィーたちの動きに危機感を持っていた体制的なウラマー(イスラム法学者)達は、スーフィーらを弾圧し、処刑されるスーフィーまでいました。

 

「われは真理(神)なり」の言葉で有名なハッラージュ(858~922)は、神人合一の神秘体験を通して、自己の魂が本質的に転換して神と等しくなるとして「我・即・真実在(神)」と宣言しました。人間が完全に変質し、そのまま永遠の神に融合し、神性と人性が合一する境地にまで高めたのです。

 

しかし、人性が神性の中に完全に融け入るというハッラージの神人合一論は、キリスト教の「受肉」の概念に等しいと見なされました。イスラム教では、イエスに神性を認めず、イエスは預言者の一人に過ぎません。結果として、ハッラージは、神を冒涜する異端者として告発され、死刑宣告を受け、バグダッドの刑場で十字架にはりつけられました。

 

このように、スンナ派イスラムとスーフィズム(イスラーム神秘主義)との対立は、激しさを増していきましたが、やがて、その対立は、克服され、スーフィズムは、スンナ派イスラーム教義の中に正しく位置付けられるようになりました(公認された)。両者の橋渡しをしたのが、イスラム中興の祖といわれるガザーリーでした。

 

  • スーフィズムの完成者、ガザ―リー

 

ガザーリー(アル=ガッザーリ)(1058~1111)は、セルジューク朝(1038~1157)のイスラム教スンナ派の神学者(ウラマー)で、イスラム思想史上最大の思想家の一人とされています。また、古典スンナ派思想(神学体系)の完成者であり、スーフィズムの影響を受けたガザ―リーは、霊的体験を信仰の中に位置づけ、スーフィズム(イスラム神秘主義)の理論化を初めて行いました。

 

ガザーリーは、1058年、ペルシアのホラーサーン地方の小村ガザーラに生まれました。地元で法学の基礎を学んだ後、ニーシャープールに来て、イマーム・アル=ハラマインの門下に入ると、たちまち先輩をしのぎ、ハラマインの代講をするほどその才能を発揮しました。1085年に師が亡くなると、セルジューク朝の宰相ニザーム=アル=ムルクの後援を受けてイスラム哲学、特にアリストテレス学派の研究に専心しました。

 

1091年には、時のイスラーム文化の中心地バグダードのニザーミーヤ(ニザーム学園)の教授に選任され、名実ともに、多数派であるスンナ派の神学・哲学の最高権威となりました。

 

ところが、数年後、突如として襲ってきた理性上の神学研究と、感性上の信仰心の矛盾に悩み、ガザ―リーは懐疑と不安に陥いりました。1095年、意を決して、教授を辞職し、真理を求めて、俗世を遁(のが)れ、各地を放浪する、11年間の彷徨生活に入ったのです(神秘主義に転じた)。

 

ガザ―リーはまずメッカへ、次いでダマスクス、エルサレムを経てアレクサンドリアまで歩き続けました。その間、冥想によって、神と直接触れるのでなければ決して真の救いは得られないということを確信するに至りました。すなわち、そしてイスラム神秘主義こそがイスラーム信仰の基礎になると悟ったのです。その後、故郷のトースに帰り、俗世を外に完全な隠者生活に入り、1111年12月にその生涯を閉じました。

 

ガザ―リーは、イブン=シーナー(980~1037)のギリシア哲学と融合させた合理主義的な考えを批判し、スーフィーとしての直接体験の必要性を悟ることにより、自身の神学にスーフィズムを取り入れ、独自の神秘主義思想を生み出しました。神と信仰者が一体化することによって真理に至ることができると説き、単なる合理的な「解釈」を排除し、世俗的な安逸から離れて瞑想することによって神と一体化をはかるという神秘主義(スーフィズム)の最初の理論をつくりあげ、その後のイスラム教に大きな影響を与えました。

 

ガザ―リーの影響で、ウラマーとスーフィーは融和し、ウラマーの弾圧は止み、スーフィズムは公認されていきました。現代のイスラム世界においても、ガザ―リーは思想的権威とされ、ウラマーたちはファトワ(イスラム法学に基づいて発令される勧告、布告、見解、裁断のこと)を出す際、ガザ―リーの見解を参照にすることが最も多いと言われたほどでした。

 

 

  • ガザ―リー後のスーフィズム

 

ガザ―リー後、12世紀ごろから、各地に神秘主義の修行者を崇拝するスーフィー教団(タリーカ)が生まれ、その活動が、イスラムの大衆化を進めました(カーディリー教団やメヴレヴィー教団、リファーイー教団など現在でも有名)。13世紀には、大半のウラマーたちがスーフィズムを容認するようになったと言われ、また、ほとんどのイスラム教徒がいずれかのスーフィ教団に所属していたとさえ指摘されています。

 

一方、スーフィズムの隆盛は、アフリカやインド、東南アジア、中国を含めた広範な地域にイスラムの教えが広がる原動力となりました。ムスリム商人の活動は、このような神秘主義教団の活動と一体になって進められ、現地の土俗的な信仰と融合しながらイスラーム教の普及が進むことに貢献しました。

インドでは、南インドに始まるヒンドゥー教の改革運動であるバクティ運動と結びつき、15世紀末のカビールや16世紀初めのナーナクなどのヒンドゥー教との融合をめざす新宗教運動を生み出しました。

 

また、スーフィズム(神秘主義)教団の一つサファヴィー教団は、1501年にイランに入り、サファヴィー朝((1501~1736)を建国し、19世紀になると、スーフィー教団は反帝国主義闘争でも重要な役目を担いました。

 

このように、スーフィズムは、禁欲主義を源流として、9世紀半ば以降に形成され、もともとは一部のエリートの運動で、反対も多かったのですが、11世紀までに民衆に広まっていき、ウラマー(イスラム法学者・神学者ら)と対立しながらも、前述したように、13世紀には公認され、広く民衆に普及していきました。

 

 

  • スーフィズムに対する反動

 

スーフィズム(神秘主義)は、イスラム教の普及拡大に大きな役割を果たしましたが、同時に各地で土俗的な信仰と結びついたりして、本来のムハンマドの教えからは離れる傾向もあり、スーフィズムに対する反動的な動きもありました。

 

12世紀のコルドバでは、イブン=ルシュド(1126~1198)がガザーリーのスーフィズムに反対して、アリストテレスによるイスラム神学の体系化を図りました。また、18世紀のサウジアラビアでは、スンニ派の復古主義的なワッハーブ運動がおきました。

 

これに対抗して、神秘主義教団の中にも、ネオ=スーフィズムと呼ばれる改革運動も起きました。それは、従来の神学やイスラム法(シャリーア)を軽視し、神秘体験のみを求めるという態度を改め、ワッハーブ派と同じくコーランとスンナだけに従うことを強調した運動で、代表的な教団には、イドリース教団や、その影響から起こったサヌーシー教団、さらに、スーダンのムハンマド=アフマドが起こしたマフディー教団などがあげられます。

 

しかし、総じて、スーフィズムの隆盛は、ワッハーブ派などイスラーム主義運動組織の台頭に、かつての輝きを失った感があります。

 

 <関連投稿>

イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに

イスラム教2:スンニ派とシーア派 4代アリーをめぐって

イスラム教3:ハワーリジュ派 過激集団、神学論争の草分け

イスラム教4:シーア派(十二イマーム派)  ガイバ思想とともに

イスラム教5:シーア派(イスマーイール派)   ファーティマ朝の誕生

イスラム教7:スンニ派(ワッハーブ派)復古主義とサウジアラビア

イスラム教8:スンニ派(イスラム法学派)ハナフィー学派を筆頭に

イスラム教9:スンニ派(イスラム神学派)自由意志か運命か?

 

 

<参照>

イスラム神秘主義、スーフィズム

史上最大の思想家ガザーリー

第4回「イスラーム神秘主義の思想と実践」(東洋哲学研究所)

スーフィズムの系譜(宗教新聞)

スーフィズムとは?(コトバンク)

スーフィズム(Wikipedia)など

 

(2022年6月27日)