スンニ派とシーア派:4代アリーをめぐって

 

前回は、「ムハンマドは何を教えたか?」と題して、イスラム教の教義について解説しましたが、ムハンマドの死後、正統カリフ時代を経て、イスラム教は、大きくスンニ(スンナ)派とシーア派に分裂し、その後も、スンニ派とシーア派内でも、さらに幾つかの派に分かれています。元は一つであるイスラム教が、その後多くの宗派に分かれた大きな要因はなんだったのでしょうか?今回は、このスンニ派とシーア派についてまとめました。

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現在のスンニ派とシーア派

 

現在、世界の人口70億人の5分の1、約14~16億人がイスラム教徒(ムスリム)ですが、そのうち、85%以上がスンニ派で、10~15%がシーア派(ほかにハワーリジュ派も含めて少数派として数えられる)となっており、イスラム世界で、スンニ派は多数派、シーア派は少数派という位置づけです。

 

ただし、確かに割合から考えれば、スンニー派が圧倒的に多く、シーア派はイスラム世界全体では少数派ですが、それは人口の多い東南アジアなどでほとんどがスンナ派であることによります。中東ではスンナとシーア派の人口は全体ではかなり拮抗しているとも言え、シーア派が多数の国もあります。

 

例えば、イランでは、シーア派は9割を超え、アゼルバイジャンやバーレーンで7割前後、イラクで約6割を占めています(なお、バーレーンでは、シーア派が多数派だが、王家・支配階級はスンナ派)。また、レバノンのシーア派は5割未満ですが国内最大の宗派になっており、クウェートでもシーアは30%とかなり大きな少数派となっています。

 

ほかにも、シリアではシーア派の割合は12%と推計されていますが、アラウィ―派をシーア派の流れを汲むとみなして加えれば15-20%になると試算されています。イエメンでも北部にシーア派の一派ザイド派がいます。そのほか、アフガニスタン、パキスタン、サウジアラビアの東部などにも、比較的大きなシーア派のコミュニティーがあると言われています。

 

 

  • スンニ派とシーア派の分断の背景

 

イスラムの世界は、7世紀半ばに、カリフ(後継者)の正統性をめぐる争いからスンナ派とシーア派に二分され、それぞれ、異なる世界観、歴史観を形成しました。スンニ派とシーア派の対立は、イスラム教の始祖である「預言者ムハンマドの後継者に誰がなるべきか?」をめぐる争いの歴史です。これは、シーア派内においても、その後もさまざまの分派を生みだした要因となっています。

 

また、教義面では、スンニ派は、「イマームの再臨」というメシア(救世主)思想を持つシーア派の独自思想を受け入れていない点も、両派の大きな対立点です。

 

スンニ派とシーア派の対立は、政治的対抗という側面も加わって深刻さを増しています。例えば、アッバース朝やセルジューク朝が支配者となっていた時にエジプトでおきたファティーマ朝や、オスマン帝国による支配時のイランのサファヴィー朝の樹立などがあげられます。

 

 

  • スンニ派とシーア派、制度面の違い

 

一方、スンニ派とシーア派では、祭祀や礼拝など制度の面でも違いが生じています。例えば、スンニ派は、日に五回の礼拝を行いますが、シーア派では、イラン(十二イマーム派)の場合、昼と午後、夕べと夜の礼拝を合体させるので、礼拝は、一日に3回となります。毎週金曜の礼拝は、スンニ派では重要な集団的礼拝ですが、シーア派(イラン)では特別礼拝がある時以外は特別視されていません。

 

また、スンニ派はメッカ巡礼を最も重視しています(巡礼はメッカのみ)が、シーア派はメッカだけでなく、伝説的なイマーム(指導者)の霊廟(墓)への巡礼も重視しています。

 

イスラム教徒にとって、メッカ、(ムハンマドの霊廟がある)メディナ、エルサレムは、共通の3大聖地です。シーア派は、これに、イラクのナジャフやカルバラ、イランのコムやマシャドも重要な聖地に加えています。

 

これらはいずれも、シーア派が正統な指導者(イマーム)とみなしてきた人やその近親者の墓などがあるところです。イラクのナジャフには、4代カリフであり初代イマームでもあるアリーの霊廟、イラクのカルバラには、アリーの子のフセインの霊廟があります。また、シーア派の主流十二イマーム派にとっては、十二イマーム派の第8代イマームであるイマーム・レザー(アリー・アッ=リダー)と、その妹ファーティマ(マアスーメ)の廟(イマーム・レザー聖廟、ハズラテ・マアスーメ廟)がイランのマシュハドとコムに位置し、それぞれ聖地となっています。

 

加えて、シーア派では、第4代カリフ、初代イマーム・アリーの殉教の日(イスラム暦ラマザーン月21日)、アリーの子であるフセインの命日、ムハンマドの死と同日になる息子ハサン(第二代イマーム)の命日、ファティーマ(ムハンマドの娘、アリーの妻)の命日などを服喪として身を慎みます。

 

特に、フセインの命日は、「アシュラ」の祭礼が行われます。これは、アリーの息子(預言者ムハンマドの孫)で、シーア派第3代イマームのフセインが、680年にカルバラで戦死(殉教)したことを悼んで、イスラム暦の1月10日に行われ、シーア派にとって最も大事なシーア派を象徴する宗教儀礼(行事)の一つです。

 

この「フサイン殉教を悼む日」では、シーア派の信徒は、剣を掲げ、手で自分の胸を打ったり、鎖で自分を打ったりして、自分の身体を傷つけ、泣き声を上げながら町を歩くことで、追悼の意を表します。中には陶酔したように血を流す人もいるそうです。「カルバラの悲劇」で、フサインを見殺しにしてしまい、フサインを守れなかった自分たちを責め、フサインの死を嘆いてわが身を打つのだそうです。「アシュラ」から40日目には、「チェヘラム」と呼ばれる喪明けの儀式も行われます。

 

組織の面においても、スンニ派の世界では、基本的に聖職者には上下がありませんが、シーア派には、国によって「大アヤトラ」を頂点にした聖職者の階層があります(位階制が確立)。「大アヤトラ」は「隠れイマーム(後述)」の代理を務める宗教的権威とみなされ、社会での政治的発言力も大きいとされています。

 

このように、スンニ派とシーア派は、宗教儀礼や制度の面で異なる部分もありますが、教義も大元のところでは同じであることから、同じモスクで礼拝に参加しますし、共にメッカ巡礼に行くこともできます。

 

では、スンニ派とシーア派がいかに分裂したか、分裂後、両派はいかに展開していったのかを、それぞれの立場から見ていきましょう。まずは、多数派で正統派とされるスンニ派からです。

 

 

<スンニ派(スンナ派)>

 

  • スンニ派誕生の背景

 

イスラム教の預言者ムハンマド(マホメット)は、後継者を指名しないで632年に没しました。ムハンマドには男子がいなかったので、信徒の共同体の合議制によってムハンマドの妻の父親アブー・バクルが初代カリフ(信徒に対する神の代理人)に指名されました。2代目のカリフはバクルの親友ウマル、3代目はムハンマドに経済的にも軍事的にも貢献したクライシュ族のウマイア家(シリア領)の後ろ盾によって選ばれたウスマーンでした。

 

ウスマーンの後、4代目カリフにムハンマドの娘ファーテイマの婿で、従兄弟のアリーが指名されましたが、シリア総監でウマイア家一門のムアーウィヤがこれに反対してイスラム教同士の内紛に発展しました。

 

戦いを優位に進めたアリーが、ムアーウィヤの和議の提案に応じ、停戦協定を結んだことに反発したアリーの支持グループは、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えて、アリー陣営を離脱し、ハワーリジュ派を立ち上げました。

 

ハワーリジュ派は、イスラムに反したとしてアリーを暗殺、ムアーウイヤがカリフとしてウマイヤ朝を開きました。これに対して、ウマイヤ朝を認めないアリーの支持者は、アリーとその子孫のみが、ムハンマドの正統な後継者(カリフ)であるとして、シーア派(「アリーの党派」)を形成していきました。

 

こうした正統カリフ時代の経緯から言えることは、スンニ派が一つの宗派を立ち上げたのではなく、もとは一つであったイスラム共同体(ウンマ)から、まずハワーリジュ派、次にシーア派が分かれていったということです。その中で分離することなく、そのまま残った多くの人たちがスンニ派として大多数派を形成したわけです(「スンニ派」という呼び方も後世になって使用されるようになった)。

 

こうした背景から、スンニ派は正統派と呼ばれ、「六信五行」など一般的に知られているイスラムの教義は、スンナ派の信仰内容が紹介されることが多くあります(もちろん、シーア派にも共通する内容は多数含まれる)。

 

 

  • スンニ派イスラム国家

 

スンナ派(スンニ派)とは、4代目のアリーを含めた正統カリフと、それに次ぐウマイヤ朝やアッバース朝のカリフ(ウマイヤ朝、アッバース朝の統治)を認めた多くのイスラム教徒(ムスリム)のことをいいます。

 

スンニ派は、イスラム教の創始者ムハンマドの後継者(カリフ)を、初代から会議、協議、選挙等、合議で選ばれた指導者を認めてきました。4人の正統カリフ(アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリー)は、実際こうした慣行に従い「信者の総意に基づいて選出されたカリフ」でした(これに対して、シーア派は血統重視しこれを認めない)。

 

もともと、「スンナ(スンニ)」という名称は、「ムハンマド以来、積み重ねてきた慣行(言行・慣習)(スンナ)とイスラム共同体に従う者」を意味です。

 

 

カリフとマフディー

 

このように、スンニ派において、イスラムの指導者は、カリフ(神の使徒の代理人、後継者)ですが、シーア派にとっての最高指導者は、神格化される存在ともなっているイマーム(後述)です。

 

スンニ派にも、「イマーム」がいますが、これは礼拝の導師、先達のこと(原義は「規範」とかその規範を守り適用する「指導者」という意味)で、集団の指導者であれば基本的に誰でもイマームになれました。アラーのもとに人々は平等であり、カリフといえども信徒であり、世俗の指導者を尊重する考え方があります。ですから、スンナ派ではカリフがイマームということにもなれば、優れた学者などもイマームと呼ばれることもありえます。

 

また、「マフディー(救世主)」も、シーア派の間では特に、世界の終末に現れて正義を実現するメシア(救世主)という意味で使われ、マフディーたるイマームが世界の終末において救世主として再臨するまで幽冥界に隠遁をしているのだとするガイバ思想も生まれました。

 

しかし、スンニ派の場合、マフディーは、もともとの語源である「(神によって)正しく導かれた者」という意味で、4人の正統カリフを指すとされていました。ですから、スンニ派には、マフディーに救世主(メシア)再臨の発想はなく、この点がシーア派との乖離の主な原因とされています。

 

 

ウラマー

さて、イスラムの最初の統一国家(帝国)ウマイヤ朝が滅び、アッバース朝の時代になると、軍隊や官僚機構などが整備され、中央集権的なイスラーム国家体制が確立していきました。

 

このスンナ派の国家体制の中で、法体系の構築を担ったウラマーと呼ばれるイスラーム法学者の社会的地位と影響力が強まっていきました。これは、アッバース朝のころから、イスラム法(シャリーア)の解釈が分かれ始めたため、ウラマーが法の解釈・運用をして、カリフを支えることが期待されたからです。

 

また、ウラマーは、イスラムの教義を体系化し、マドラサ(イスラム学院)の教師、イスラム法廷の裁判官(カーディー)、モスクの管理者といった職業に就きながら、一般信徒である民衆に対して、礼拝や断食のやり方などを含めた生活一般についての助言や指導を行いました。

 

このように、スンニ派のイスラム国家において、政治権力を行使するカリフ(後継者)と、法の解釈・運用を行うウラマー(イスラム法学者)による一種の共同統治体制がとられていました。同時に、イスラム法やイスラムの教義の体系化も進められ、イスラム法学派やイスラム神学派も誕生しました。

 

 

  • イスラム法学

 

イスラム初期の150年間で、ダマスカスやメディナなど各地に、イスラム法の解釈を巡り、多くのイスラムの法学派(マズハブ)が形成され、発展していきました。このうちスンナ派では特に、マーリク法学派、ハナフィー学派、シャーフィイー学派、ハンバル学派の4学派が、四大法学派として公認されました。

 

このうち、例えば、ハナフィー学派は、イスラーム法学の諸学派の中で最も寛容な法学派と知られ、全ムスリムのおよそ30%を占める最大勢力となっています。これに対して、非常に厳格・保守的、伝統主義的な法学派が、ハンバル(ハンバリー)法学派で、サウジアラビアを中心に支持されています。

 

ただし、これらの法学派は、宗派ではありません。各派は同じスンニ派で、イスラムの信仰そのものに相違があるのではなく、法解釈の方法が異なっているだけなのです。実際、各派は相互交流が行われてきました。なお、シーア派にも、ジャファル法学派と呼ばれる独自の法学派があります。

 

 

  • イスラム神学

 

イスラム神学は、原初のイスラムには存在しませんでした。ムハンマドの存命中は、イスラムの教え(聖典クルアーン)について、解釈の問題が生じた場合、ムハンマドの意見を聞けば解決されたからです。

 

しかし、預言者ムハンマドが没すると、ムスリム(イスラム教徒)の様々な疑問に対する解答や、キリスト教徒やマニ教徒など異教徒との論争を強いられるようになると、「クルアーン(コーラン)」やムハンマドの言行などイスラムの教義を体系化する必要が生じてきたのです。

 

そこで、ウマイヤ朝(661~750年)末期から、アッバース朝(750~1517)に至る時代にかけて、無数の学派と学者が生まれ、イスラームの予定観と自由意志、信仰と行為の一致、「神の唯一性」、コーランの被造性の問題などがイスラム神学上の問題として議論されるようになりました。

 

この中でも、教義上の分裂の起点となった、人間の運命は神から予め定められているか、人間は自由意志を持つかという「予定(運命)と自由意志」論争になった問題では、当初、人間の自由意志を否定するジャブル派と、これを肯定するカダル派に分れました。

 

これらの諸派は体系的な神学を形成するには至りませんでしたが、その後、精緻な思弁的神学の体系を築き上げたムゥタジラ派(ムータジラ派)がでて、イスラム史上、初の神学派としての地位を確立しました。

 

ムゥタズィラ派は、神学上の問題を合理主義の立場から応答し、「宿命(予定)と自由意志」については、カダル派の流れを引き継ぎ、自由意志を認めました。しかし、ムゥタズィラ派(ムアタズィラ派)の合理主義・理性主義的な考え方は、人々には受け入れられず、ムアタズィラ派は徐々に衰退に向かいました。代わって、合理主義と伝統主義の間をとる中道的なアシュアリー派が台頭し、スンニ派の正統な信仰を擁護しました。

 

その後、ほぼ同様な思想を持ったマートゥリーディー派が出て、アシュアリー派とともに、スンニ派の二大神学派となるなど、スンニ派という枠組みの中で、イスラム神学は発展していきました。

 

 

  • スーフィズム

 

イスラムの神学や思想・哲学を学ぶ上で、スーフィズム(イスラム神秘主義)の理解は不可欠です。スーフィズムは、内面的な心の平安を獲得するために、神との合一(霊的覚醒)を求める、民衆的な信仰形態とその思想で、神への賛美を唱えることによって、心を神に集中させ、直接的、感覚的に神を体験することを重視します。

 

9世紀半ば以降、本格的に形成されましたが、その背景には、ウマイヤ朝(661~750)が成立してから、人々は富裕になるにつれて、物質主義的、享楽主義的になっていく傾向がでてきたことへの反動として、来世主義と禁欲主義、自己の利害を超越した「神への愛」が強調されたことなどがあげられます。

 

スーフィズムを実践する人々はスーフィーと呼ばれ、762年に、アッバース朝の新首都となったバグダッドには、早くから優秀なスーフィーたちも移り住んで活動し、スーフィズムのバクダット派を形成しました。

 

スーフィズムは宗派ではなく、信仰の「実践形態」の一つで、スンナ派でもシーア派でもみられますが、イスラムの発展史においては、スンニ派への影響が大きかったようです。実際、アシュアリー派もマートゥリーディー学派も、スーフィズムの伝統を重んじていることで知られています。

 

スーフィズムは、日常生活を規定する形式的なイスラム法を遵守するだけでは得られないため、当初、イスラム法の遵守のみを求めるウラマー(イスラム法学者)と対立しました。スーフィズムの浸透とともに、両者の対立は、激しさを増していきましたが、やがて、イスラム中興の祖、古典スンナ派思想(神学体系)の完成者と評されるガザーリーの橋渡しで克服され、スーフィズムは、スンナ派イスラム教義の中に正しく位置付けられるようになり、公認されました。

 

ガザーリー(1058~1111)は、セルジューク朝(1038~1157)の治世下で活躍したイスラム教スンナ派の神学者(ウラマー)で、イスラム思想史上最大の思想家の一人とされています。スーフィズムの影響を受けたガザ―リーは、霊的体験を信仰の中に位置づけ、スーフィズムの理論化を初めて行うと同時に、イスラム法学の学問としての役割の定義を試みました。

 

結果として、公認されたスーフィズム(イスラム神秘主義)はイスラム社会に浸透し、イスラーム教の普及拡大に大きな役割を果たしました。

 

しかし、その半面、本来のムハンマドの教えからは離れる傾向もあり、後世、スーフィズムに対する反動的な動きもでてきました。その代表的な存在が、18世紀のサウジアラビアで生まれたスンニ派の復古主義的なワッハーブ派です。ワッハーブ派とは、18世紀半ば、サウジアラビアで、ムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブ(1703~1792)が興した一宗派で、本来のイスラムの教えに立ち返ることを提唱した厳格な復古主義のイスラム改革運動で、現在もサウジアラビアの国教となっています。

 

ここまで、スンニ派を概観してきました。彼らは、イスラムの教義や法の解釈、またイスラムの信仰形態において、主義主張の異なるグループに分かれることはありましたが、宗派として分裂することはなく、一枚岩を保っていたと言えます。これに対して、宗派として分裂を繰り返してきたのがシーア派です。次にシーア派についてみてみましょう。

 

 

<シーア派>

 

シーア派は、ムハンマドの従兄弟で娘婿でもある第4代カリフのアリーと、その子孫のみが、ムハンマドの血統を受け継いでいるので、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」「ムハンマドの後継者(カリフ)」になるべきであると主張する宗派です。イスラム世界ではスンニ派に次ぐ勢力を誇ります。

 

 

  • シーア派誕生の経緯

 

イスラム世界の第4代カリフで、初代イマームとされるアリーは、ムハンマドの従兄弟にあたり、ムハンマドから兄弟と呼ばれるほど親しく、その娘ファーティマを妻に迎え、ハサンとフセインという二人の子をもうけました。アリーは信仰、軍事的才能、雄弁さなど様々な面で高く評価されていましたが、ムハンマドが亡くなったとき、初代カリフ(後継者)として、ムハンマドの親友アブー=バクルが選ばれました。

 

しかし、アリーこそを後継者(イマーム)にすべきだと主張した人々が「シーア・アリー(アリー党)」とよばれるグループを形成し、後のシーア派の源流となりました(シーアとは党派(派)の意味で、シーア・アリーは「アリーの党派」と訳された)。

 

アリーも最終的には、第4代カリフに選ばれましたが、反乱を起こしたウマイヤ家のムアーウィヤと争い、結果的に、内輪もめから分派したハワーリジュ派の刺客によって661年に暗殺されてしまいました。第4代カリフ、アリー(在位656~661)が暗殺されたことによって、ウマイヤ家のムアーウィヤが正式なカリフとなり、以後は選挙によらず、ウマイヤ家の家長によるカリフ位の世襲を宣言し、ウマイヤ朝が開始されました。

 

これに反発したアリーの支持者は、ウマイヤ朝を認めずに、預言者ムハンマドの血を引き継ぐアリーの子孫のみが、ムハンマドの正統な後継者(カリフ)で、イスラムの指導者(イマーム)であるとして、シーア派を本格的に形成していきました。シーア・アリーが正式名ですが、後にこのアリーが省略されて「シーア派」となりました。

 

アリーの子孫とは、アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子ハサンとフサイン、およびその子孫をさします。ムハンマドの子女の多くは早世し、ムハンマドの血脈は、娘のファーティマを通じてのみ残されたため、ムハンマドの血を引くことは、アリーとファーティマの子であるハサンまたはフサインの子孫であることを意味したのです。

 

このように、シーア派は、イマーム(指導者)として、預言者ムハンマドの血を引くこと(血統)を重んじ、ムハンマドとの血縁のない、アリー以前の3人(アブー・バクル、ウマル、ウスマーン)の正統カリフの権威を認めていません。

 

このシーア派に対して、ウマイヤ朝の体制に従う、これまでのムスリム(イスラム教徒)は、スンニ(スンナ)派と呼ばれるようになり、イスラム共同体は大きく分裂しました。スンニ派のウマイヤ朝下では、スンニ派は多数派、シーア派は少数派を形成し、現在もスンニ派がイスラム世界の最大勢力となっていることはすでに述べた通りです。

 

 

  • イマームとマフディー

 

一般的に、イスラムの世界では、イスラム教の指導者は、カリフ(神の使徒の代理人、後継者)と表されてきました。しかし、シーア派では、カリフには預言者ムハンマドが持っていた宗教的権限はなく、ウンマ(イスラム共同体)の指導者として政治的権限だけが、与えられているとみなされました。そこで、(宗教的)指導者の「称号」としては、カリフではなく「イマーム」が重視されています。

 

シーア派は、「神は預言者を通じて人々を導かれた。ムハンマドは最後の預言者で、これ以降、預言者は出現しませんが、神は預言者の代理を、その時代時代にイマームとして使わされる」と考えたのです。シーア派において、シーア派の開祖ともいえるアリーは、第4代正統カリフであると同時に、初代イマームであり、アリーの血統の者で最高指導者がイマームとされました。

 

当然、完全な人間で間違いを犯さないと考えられたイマーム(指導者)は、救済の道程における唯一人の導師であり、信徒たちが分裂することがないように指導していく立場の人物で、すべての信者の精神的指導者とみなされました。ですから、イマームは、時には、コーランや伝承集成を、独自の解釈で理解し実践するなど、教義の決定権と立法権を持ち不可謬性を持つとまで主張されるようになっていきました。

 

イマームというのは、元来の意味は、「規範」とかその規範を守り適用する「指導者」という意味で、シーア派はスンニ派に比べて預言者、イマームを神格化しています。これは、シーア派にとってのイマームは、預言者ムハンマドの知識、霊的能力を受け継いでおり、また、ムハンマドのようにアッラーの言葉を理解できる特別の関係を持ち、ムハンマドを通じて神から特別の知識を与えられているとみなされたからです。

 

イスラムの中でも、とりわけシーア派において、始祖ムハンマドは、(理論や判断に間違いがない)無謬であったとされ、アリーを含めた後継のイマーム達にも、その無謬性は受け継がれ、かつ、超能力的、超人的な神聖性があると考えられました。中には、アリーおよびその子孫のイマームを神の化身とみなす人々もいます。

 

イマームの神格化は、さらに、神がイマームに顕現するという立場、即ちイマームのマフディー性を主張する立場も生まれてきました。マフディーとは、世の終末の時に現れ、真のイスラーム社会を築くとされた救世主(メシア)を意味します。こうした背景から、シーア派は、アリーを崇拝し、その子孫をイマームと呼んで崇めたのでした。

 

神と人との仲保者であるイマームには、神からの包括的な知が与えられるとされたことから、イマームへの絶対的服従が強調されました。また、それゆえに、次代のイマームは現イマームの指名によって継承されました。しかし、このような主張は,イスラムでは否定されている個人崇拝を容認するものとして,スンナ派から厳しく非難されています。

 

また、ムハンマドの「血統」のものだけを「カリフ」や「イマーム」と認めるという、シーア派の血統主義の立場は、アリー以後の指導者(イマーム)を誰にするかによって、内紛の引き金となりました。イマームの継承には、ムハンマドの血統をひくことと先任者から指名されることが条件とされたのでしたが、指名がないままにイマームが亡くなるようなことがある場合など後継を巡って争いが生じ、結果として、シーア派内でさらに分派を繰り返していきました。

 

 

  • アリー後のシーア派

 

初代イマーム、アリーの死後、子のハサン・イブン・アリーとその弟のフサイン・イブン・アリーが、それぞれ第2代、第3代のイマームになりました。ハサンは、父の死後まもなく、ウマイヤ朝のムアーウィヤに降りました(669年に死亡)が、弟のフセインは抵抗を続け、ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世(在位:680~ 683)(ムアーウィヤは680年に死去)に対して叛旗を翻しましたが、680年に、イラクのカルバラの戦いで、悲惨な最期を遂げました(カルバラの悲劇)。

 

このような苦境の中で結束したシーア派は、名実ともに組織として成立していったとされます。しかし、それは同時に、スンニ派と決定的に決別するとともに、ウマイヤ朝内での政治勢力として完全に力を失うことにもなりました。実際、シーア派の人々は、時のカリフの圧政に苦しんだとされ、ウマイヤ朝(661~750)からアッバース朝にかけて反乱を繰り返しましたがいずれも失敗しました。

 

その一方で、フサインの死後もアリーの子孫たちは、イマームに就任し続けたものの、やがて誰をイマームとみなすかによってシーア派内でも分派が繰り返されるようになっていきました。

 

 

カイサーン派の分裂

(第4代イマーム:アリー・ザイヌルアービディーンの時代)

 

フサインの死後、フサインの子であるアリー・ザイヌルアービディーン(658~713)が第4代イマームとして認められました。しかし、これに反対して、アリーと別の妻ハウラとの子で、フセインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・ハナフィーヤをイマームとする一派が分派し、後に急進派として知られるカイサーン派となりました(カイサーン派がシーア派最初の分派となった)。

 

カイサーン派は、685年に指導者ムフタールのもとで、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤを、イマーム(後継者)でありマフディー(救世主)である」と宣言して擁立し、クーファで決起しました。ムフタールの乱と呼ばれたこの乱で、カイサーン派は一時イラクの大部分を支配したものの、687年にクーファが陥落し、ムフタールの死によって乱は終結しました(なお、「カイサーン派」の成立は、正確にいえば、ムフタールの死後のことであった)。

 

また、ムフタールが擁立したムハンマド・ブン・アル・ハナフィーヤが700年に没すると、カイサーン派の中で、ムハンマド・ブン・アル・ハナフィーヤの遺児をイマームとする一派と、「ムハンマド・ブン・アル・ハナフィーヤは死んだのではなく、神によって隠され、一時姿を隠しているにすぎず、やがて地上に再臨して正義と公正とを実現する」と説く一派とに分裂しました。

 

後者の考え方は、「イマームの隠れ(=ガイバ)と再臨」というシーア派独特のメシア思想で、その後、ほかのシーア派の分派にも取り入れられていくようになり、「ガイバ」思想は、彼らの教義形成において大きな影響を与えました。

 

また、「マフディー(救世主)」という言葉も、もともと、「(神によって)正しく導かれた者」という意味で、4人の正統カリフを指すとされていましたが、前述したように、シーア派の間では特に、世界の終末に現れて正義を実現するメシア(救世主)、つまり、スンニ派に対するシーア派独自のイマーム(指導者)の意味で使われるようになりました。シーア派の立場では、マフディーたるイマームが世界の終末において救世主として再臨するまで幽冥界に隠れている(ガイバ)のです。

 

 

ザイド派の分裂

(第5代イマーム:ムハンマド・バーキルの時代)

 

一方、シーア派本流(主流)の第4代イマームのアリー・ザイヌルアービディーンが713年に死亡すると、ムハンマド・バーキルが第5代イマームとなりました。しかし、ムハンマド・バーキルの弟であるザイド・イブン・アリー(698年頃~740年)は、740年、ウマイヤ朝に対して、シーア派の本拠で、バクダット南方に位置するクーファで反乱(ザイドの蜂起)を起こしましたが、数日間で鎮圧され、処刑されました。

 

これを受け、9世紀頃に、ザイドの支持者たちが、ザイドとその子孫をイマームとする一派を形成して、ザイド派となりました。ザイド派は、現在も有力な宗派として存続しており、イエメンおよびカスピ海沿岸諸国、マグリブといったスンナ派イスラーム帝国の周縁に広まっています。

 

 

イマーム派

なお、シーア派の主流派は、以後、イマーム派とも呼ばれるようになります。イマーム派(後の十二イマーム派)は、イマームが血縁によって世代を超えて受け継がれることや、イマームの不謬性といった独特のイマーム論を展開していきました。

 

 

タキ―アの思想

一方、第5代イマームのムハンマド・バーキルが743年に死去すると、その子であるジャアファル・サーディクが第6代イマームとなりました。ジャアファルの時代、イスラムの思想において、特筆すべきこととして、弾圧に直面した場合、信仰を隠しても良いとする「信仰隠蔽(タキーア)」の教義を説かれるようになったことがあげられます。また、シーア派におけるイスラム法学派となるジャアファル法学派が生まれ、シーア派の教義が確立されました。

 

 

イスマーイール派の分裂

(第7代イマーム:ムーサー・カーズィムの時代)

 

第6代イマーム、ジャアファル=サーディクが765年に没すると、次のイマーム継承をめぐって、長男のイスマーイールに受け継がれたと考えるグループと、その弟のムーサー・カーズィムに受け継がれるべきとするグループに分かれました。結果的に、ムーサー・カーズィムが第7代イマームに承認されましたが、ムーサーの兄イスマーイールの子を推す一派はイスマーイール派として分派しました。

 

そのイスマーイール派も、いったんはファーティマ朝を成立させるなど勢力を誇示した時代もありましたが、その後もイマームの継承をめぐって分裂を繰り返し、ニザール派やムスタアリー派、ドゥルーズ派やアラウィー派などが分派していきました。

 

 

これに対して、シーア派主流派(イマーム派)は、第7代ムーサー・カーズィムの後も、フセインの系統が代々イマームの地位を継承し、8代アリー・リダー(799~818)、9代ムハンマド・タキー(818~835)、10代アリー・ハーディー(835~868)、11代ハサン・アスカリー(868~874)と続きました。

 

彼らは、ムハンマドの血統という高貴さの故に、シーア派の崇敬を受けましたが、実質的な力を失って行きました。ただし、例外的に政治の表舞台に現れたのが、第8代イマーム、アリー・リダーでした。アリーは、アッバース朝のカリフ・マームーンに支持されイラン北東のホラーサーン地方に招かれ、その後継者にまで指定されました。しかし、最後は暗殺され、その墓廟はイランのマシュハド(殉教者の意味)にあり今も多くの参詣者が訪れています。

 

 

隠れイマームの誕生

(第12代イマーム:ムハンマド=ムンタザル)

 

第11代イマーム・ハサン=アスカリーが、874年に死去した際、次のイマームを息子のムハンマドが継ぎましたが、突然人々の前から消え、その姿を以後、誰も見たことがありませんでした。すると、初代イマームのアリーから数えて12代目のイマーム、ムハンマド=ムンタザル(ムンタザルは「待望される者」の意は、死亡したのではなく、「神によって隠された」、「異次元空間に『お隠れ(ガイバ)』になって、姿を消してしまった」という説が信じられるようになりました。

 

さらに、「隠れイマーム」のムンタザルは、終末の世を迎えた時に、マフディー(救世主)として再臨し、抑圧されてきたシーア派の人々を救済するという、メシア(救世主)思想が、シーア派内に広がりました。9世紀末から10世紀初頭の出来事でした。

 

こうして、イマーム派は「十二イマーム派」と呼ばれるようになり(十二イマーム派の誕生)、ここから、ムハンマド=ムンタザル以降、シーア派にイマームは存在しません(イマームは12代までしか続かなかった)。

 

このように、分裂を続けていったシーア派ですが、12世紀までに、12人のイマームを認める十二イマーム派と、それぞれ別なイマームを支持するイスマーイール派(その後さらに幾つかに分派)、ザイド派の3派に分かれ、現在も宗派として一定の勢力を保持しています。ただし、現在では、一般にシーア派と言えば、十二イマーム派を指します。

 

 

シーア派分裂の経緯

初代イマーム:アリー

第2代イマーム:ハサン・イブン・アリー(アリーの子)

第3代イマーム:フサイン(ハサンの弟)

 

第4代イマーム:アリー・ザイヌルアービディーン(フサインの子)

⇔ムハンマド・イブン・ハナフィーヤ(フサインの異母兄弟)

カイサーン派

 

第5代イマーム:ムハンマド・バーキル(アリー・ザイヌルアービディーンの子)

⇔ザイド・イブン・アリー(ムハンマド・バーキルの弟)

ザイド派

 

第6代イマーム:ジャアファル・サーディク(ムハンマド・バーキルの子)

 

第7代イマーム:ムーサー・カーズィム(ジャアファル・サーディクの子)

⇔イスマーイール・イブン・ジャアファル(ムーサー・カーズィムの兄)

イスマーイール派

 

第8代イマーム:アリー・リダー(エマーム・レザー)

第9代イマーム:ムハンマド・タキー

第10代イマーム:アリー・ハーディー

 

第11代イマーム:ハサン・アスカリー

⇒ムハンマド・ムンタザル(ハサン・アスカリーの子)=隠れイマーム(=ガイバ)

十二イマーム派

 

<関連投稿>

イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに

イスラム教3:ハワーリジュ派 過激集団、神学論争の草分け

イスラム教4:シーア派(十二イマーム派)  ガイバ思想とともに

イスラム教5:シーア派(イスマーイール派)   ファーティマ朝の誕生

イスラム教6:スーフィズム ガザ―リーからサファビー朝へ

イスラム教7:スンニ派(ワッハーブ派)復古主義とサウジアラビア

イスラム教8:スンニ派(イスラム法学派)ハナフィー学派を筆頭に

イスラム教9:スンニ派(イスラム神学派)自由意志か運命か?

 

 

<参照>

スンニ派とシーア派、何が違い、なぜ対立

(2014/8/10 日本経済新聞)

シャーフィイー学派とハンバル学派

イスラム神学のあらまし

イスラム神秘主義、スーフィズム

史上最大の思想家ガザーリー

第4回「イスラーム神秘主義の思想と実践」(東洋哲学研究所)

スーフィズムの系譜(宗教新聞)

 

カイロで考えたイスラム(10)

カイロで考えたイスラム(14)
カイロで考えたイスラム(15)
カイロで考えたイスラム(17)
カイロで考えたイスラム(31)

(宗教新聞、在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉)

 

(2022年6月25日)