シーア派(イスマーイール派):ファーティマ朝の誕生

 

イスラム教シリーズ、今回は、シーア派の分派で、主流派とはならなかったものの、一時、北アフリカを中心に勢力を拡大し、イスラム政治に大きな影響を与えたイスマーイール派について、まとめました。

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  • イスマーイール派の分裂

 

イスマーイール派は、8世紀に起こった、イスマーイールの子孫をイマームとするイスラム教シーア派の一派で、七(しち)イマーム派と呼ばれることもあります。

 

シーア派第6代イマーム、ジャアファル・サーディクが、765年に死去すると、後継者問題が発生しました。生前ジアャファル・サーディクは当初、長男であるイスマーイール・イブン・ジャアフィルを後継者に指名していましたが、イスマーイールが755年に死去したことから、改めて次男のムーサー・カーズィムを後継者に再指名しました。シーア派多数派(後の十二イマーム派)は、この指名を認めてムーサ―・カーズィムが第七代イマームとなりました。

 

しかし、シーア派の教義では、イマームは神の霊感によって行動し、絶対に誤りを犯さないものであり、言い直し、訂正などできないものであるとされています。そのため、最初のイマームの指名は撤回できないものであるとして、ムーサーを拒否したグループが現れました。彼らは、イマーム位は先に没した長子イスマーイールに伝わっているから、死去したイスマーイールの長男であるムハンマド・イブン・イスマーイール(740~813)がイマーム位を継ぎ、第7代目のイマームであると主張して、イスマーイール派を立ち上げたのです。さらに、ムハンマド・イブン・イスマーイールは、最後のイマームで、その死後も、将来、救世主(マフディー)としてこの世に再臨すると信じられるようになりました。

 

このように、七代目のイマームを誰とするかで、シーア派は、ムハンマド・イブン・イスマーイールをイマームであるとするイスマーイール派が分離し、ムーサ―・カーズィムをイマームと認めた十二イマーム派とに分裂してしまいました(この意味では、イスマーイール派は、十二イマーム派の分派とする見方もされる)。

 

その後、およそ100年間、イスマーイール派の活動は明らかではありませんが、バスラやアフワーズ、サラミーヤに拠点を置いて、秘密裏に組織網を作っていたとされています。

 

一般のイスマーイール派の信徒も、自らの信仰を意図的に隠すこと(タキ―ア)を実践し、金曜礼拝もモスクではなく、ジャマーアト・ハーナと呼ばれる集会所で行われていました。ただし、9世紀後半になると、各地にダーイーと呼ばれる宣教師を派遣しながら、秘密結社的な革命的宣教活動を活発に展開していくようになったと言われています。

 

 

  • ファーティア朝の誕生

 

そうした中、サラミーヤにおいて、この運動の指導者の一人、ウバイド・アッラーが、組織の主導権を握ると、自分はイスマーイールの子孫であり、自分こそが真のイマームであると宣言し、10世紀初めに、北アフリカにファーティマ朝(909~ 1171)を創設しました。当時、イスラム世界は、バクダットのアッバース朝が支配していましたが、ファーティマ朝は、政治的にアッバース朝のカリフに対して、独自のカリフを立て、教義上、シーア派イスマーイール派が、スンニ派イスラムに挑戦した形で対抗しました。

 

978年には、ファーティマ朝第4代カリフ、ムイッズが建設したアズハル・モスクに、イスマーイール派の最高教育機関となるアズハル学院が開講され、カイロは、シーア派のイスラム神学・法学研究の中心地となりました。

 

アズハル学院で、イスマーイール派の教理を学んだ教宣員たちは、その後、ファーティマ朝がエジプトを中心に勢力を拡大したこともあって、ファーティマ朝の版図に留まらず、イスマーイール派の布教活動を活発化させました。10世紀には、西はサハラ砂漠のオアシス地帯、東はイエメン、オマーンなどの湾岸地域に加えて、シリアから、イラン、パキスタン、インド西部などイスラム世界の各地に散らばってイスマーイール派の信仰を広げ、イスラーム世界を掌握するほどの勢いをみせました。

 

 

  • イスマーイール派の特徴

 

イスマーイール派は、グノーシス主義や新プラトン主義のような隠れた知(神秘主義的教説)を強調するところに特徴があります。例えば、聖典解釈においては、誰にでも可能なクルアーンの一般的な解釈と、イマームだけが知ることのできる秘教的な内的真理が区別されました。

 

イスマーイール派は、シーア派の7代目イマームから始まったことから、7を象徴的な数字として特別視します。イスマイール派の歴史観(世界観)では、歴史(人類史)は、7000年周期で循環し、7000年は七つに区分され、その各周期に七人のイマームがいる(各周期は預言者や仲介者の出現によって始まる)とされています。そして人類史第六周期の第七イマームは、イスマーイール・イブン・ジャアフィルの子ムハンマド・イヴン・イスマイールであって、その再臨において全ての真実が明らかとされると信じられ、さらに、従来のシャリーアも廃棄されるとしまた。

 

 

  • イスマーイール派の衰退

 

このように、ファーティマ朝は、アリーとファーティマというムハンマドに最も近い血を引いており、もっとも理想的な統治者とされ、10世紀後半から11世紀にかけてイスラム世界に強い影響を持ちました。

 

しかし、ファーティマ朝が1171年に滅亡し、新たな覇者となったサラディンのアイユーブ朝がスンナ派であったことは、シーア派のイスマーイール派の最盛期が終わったことを意味していました。代わって、シーア派の主流となったのが十二イマーム派であり、イスマーイール派は再び主導権を握ることはありませんでした。

 

それでも、イスマーイール派は、シーア派のタキーヤ(信仰秘匿)の伝統に従い、表向きスンナ派信徒として振る舞う一方、イスマーイール派であることを明らかにして戦う諸地域への援助を行うという戦略を採っていました。

 

例えば、セルジューク朝(1077~1308)支配下のイランなどの地域では、都市統治者ごとの分権傾向が強いセルジューク朝に対して非常に有効に機能し、イスマーイール派はイラン高原に自治領域を連ねて政治勢力を形成することに成功しました。

 

イスマーイール派は、9世紀末以来,北アフリカだけでなく、シリア、イエメン、中央アジア、イラン、インドにも勢力を保持した一方、10世紀末にドゥルーズ派、11世紀末にはニザール派やムスターリー派などの分派が続きました。

 

 

<ニザール派>

 

ニザール(ニザリ)派は、1094年のファーティマ朝の内紛において、敗れた側のイスマーイール派の分派です。イスマーイール派の中の最も過激な一派とされ、一時、暗殺教団とも形容されました。

 

1095年、ファーテイマ朝8代カリフ(イスマーイール派18代イマーム)、ムスタンシルの没後、当初兄ニザールが継承を予定していました。しかし、当時のファーティマ朝の全権を掌握していた宰相アフダルが、妹婿でニザールの弟アフマドを、アル・ムスタアリー・ピッラーとして、イマーム(指導者)兼カリフ(後継者)に即位させたのです。

 

これに対して、ニザールは弟をカリフに仰ぐことは出来ないとして、アレキサンドリアで反乱を起こしましたが、すぐに鎮圧されて、カイロに幽閉された後、1098年頃までに死亡しました。このとき、ムスタアリーを拒否して、ニザールを正統なイマームとした人々がイスマーイール派から分派して、(後に)ニザール派となりました。ファーティマ朝もムスタアリーをイマームとしたので、ニザール派はファーティマ朝とも絶縁しました。

 

その後、ニザール派は、イラン人でカイロに行ってイスマーイール派の教学を学んだハサン=サッバーフを指導者とし、イランとイラクおよびごく一部のシリアのイスマーイール派の支持を獲得し、伸張していきました。

 

ハサン=サッバーフは、11世紀末から13世紀半ばまでの間、イラン北部のエルブルズ山脈山中のアラムート(鷲の巣の意味)などの要塞を拠点に、シリア地方からイラン東部のホラーサーン地域を支配する狂信的な教団をつくりました。

 

主に城砦の奪取や要人の暗殺といった手段で、当時、宗教的に対立したスンニ派のセルジューク朝に抵抗し、その独特の暗殺戦術から、ニザール派は、「アサッシン教団(暗殺教団)」と称されました。11世紀末には(1095年ごろは)、ハサン・サッバーフの指示によって50件におよぶ、フィダーイー(自己犠牲を辞さない者という意味)による暗殺を敢行したとされ、スンナ派の住民の間には、テロ手法をとる活動を恐れられました(過激な暗殺教団と認知されていた)。

 

一方、ニザール派の教義は、ギリシア哲学やキリスト教の影響を受けており、特にアリストテレスの言う「能動知性」を通して英知界にのぼり、そこで一者と交わるイマームによって人間の救済があるとしました。独自の解釈ではありますが、ニザール派自身は、イスラムの宗教的義務の履行を重視しているとされています。

 

そのためか、当初「暗殺教団」との異名をとり、正統派イスラムの敵のように批判されたニザール派でしたが、13世紀以後は穏健的な方針を持つ一派に変化し、存続していきました。19世紀以降、ニザール派のイマームは、アーガー・ハーンと呼ばれるようになりました(現在のイマームはアーガー・ハーン4世)。

 

ニザール派自身は、21世紀初頭において、シリア、インド、アフガニスタン(バダフシャーン州)、タジキスタン(ゴルノ・バダフシャン自治州)から、タンザニア、ミャンマー、欧州など世界全体に、アーガー・ハーンに従う数百万人の信者がいると試算されています。なお、ニザール派の分派としてインドにホージャー派があります。

 

 

<ムスタアリー派

 

ムスタアリー派は、1095年、ファーテイマ朝8代カリフ(イスマイリ派18代イマーム)、ムスタンシルの没後、後継者争いでニザール派に勝利して、イマームでカリフになったアル・ムスタアリー・ピッラーを支持するイスマーイール派の分派です。ファーティマ朝も、ムスタアリーをイマームとしたので、ムスタアリー派と呼ばれました。

 

当時のイスマーイール派は、本拠地エジプトに加えて、中央アジア、イラン、イエメン、シリアなどに教線をのばしていましたが、イランとイラクおよびごく一部のシリアを除いて、ファーティマ朝のムスタアリー派に移行したと言われています(ただし、イスマーイール派=ムスタアリー派と一括して扱われる場合もある)。

 

ムスターリー派は、その後、1132年にムスタアリーと対立したハーフィズィー派が分裂しましたが、現在も20万人余りの信者がいるとされています。インド亜大陸に定着したムスタアリー派は、ボーホラー派と呼ばれています。

 

一方、イスマーイール派は、イマーム信仰が強く,イマームへの服従を主張するとともに、中には、「アラゥイー派」や「ドゥルーズ派」など、イスマーイール派からイマームを神格化する極端派(グラート)と呼ばれる特殊なシーア派イスラムも誕生しました。

 

 

<アラウィー派>

 

アラウィー派は、主にシリアのラタキア地方の地中海沿岸部・山岳地帯に広がるイスラム教シーア派のイスマーイル派の流れを汲む分派で、シーア派の十二イマーム派の11代イマーム、ハサン・アスカリー(846~874)の側近であったイブン・ヌサイルに由来するとされています。

 

ヌサイルは、859年ごろ、神と人々を仲介する「バーブ(真理にいたる門)」を自称し、新たな教義と簡易な実践で信徒を獲得していったとされています。(従って、アラウィー派は、「ヌサイル派」とも呼ばれる)。10世紀には、シリア地方に定着しましたが、スンナ派などから迫害を受けて、地中海沿岸部の山岳地帯へと逃れたと伝えられています。

 

アラウィー派では、両親ともにアラウィー派の男子だけが教義を学ぶことができ、16歳以降に教義を習得し、その教義を外に漏らしたものは殺されるとさえ言われるほど、アラウィー派は、神秘主義の色彩が強い宗派です。

 

例えば、アラウィー派には、シーア派に起源を持つという秘伝の奥義が伝えられているとされています。ただし、それはシリアの諸宗教の混交,と言われていますが、明らかではありません。

 

アラウィー派の具体的な教義も、イスラム教の中では極めて異端的で特殊な内容となっており、イスマーイール派を土台に、シリアの土着宗教や、キリスト教、マズダク教、マニ教、仏教の要素も混在する独特なものとなっています。

 

キリスト教からは、三位一体説と似た思想を取り入れ、パンとワインを用いる聖餐に似た宗教儀礼があり、イスラムの祝日のほかに、クリスマス、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)のような、キリスト教と共通の祭日を祝っています。また、霊魂の転生を信じ、生前に善行を積めば、死後、新たに人間に、悪行を重ねれば動物に生まれ変わるというインドの輪廻に似た転生思想を持っています。

 

伝統的なイスラムの教義の運用においても、アラウィー派には「異端的」な要素があると指摘されています。例えば、イスラムの五行のうち、信仰告白(シャハーダ)、礼拝(サラート)は行いますが、断食(サウム)・喜捨(ザカート)・巡礼(ハッジ)を行いません(特にハッジを偶像礼拝として否定)。その一方で、神(アッラー)は人間の姿をとって現れることがあると考え、彼らが神格化するアリーは、神が地上に現した最後の姿と解釈しています。また、礼拝にモスクを使わず、宗教指導者の家に集まって行われることが多く、シリア北西部に独自の神殿があるそうです。イスラムの教えでは、禁止されている飲酒も認められています。

 

では、アラウィー派は、シーア派の異端かというとそうではなく、イスラム教の4代目カリフ、初代イマームのアリーを崇敬し、神格化しているという点では、すべてのシーア派と共通しています。

 

現在、世界のアラウィー派人口は130万人、そのうちシリアには100万人が住んでいるとされ、それ以外はレバノン,トルコ南西部の海岸に広がっています。シリア全体でおよそ12%程度とされますが、アサド大統領のアサド家とバース党(シリアで形成されたアラブ民族主義政党)、軍の高官ら指導者層がアラウィー教の信者であることから、現在でもその政治的勢力は強力です。

 

アラウィー派がシリアの実権を奪取できた背景には、シリアにおいて、アラウィー教徒は、長らくスンニ派支配体制下で2級市民的地位に甘んじてきましたが、宗主国フランスが現地人を兵士として募集し始めると、それに応じたアラウィーの若者の多くが、独立後、軍部を掌握したことなどがあげられます。

 

 

<ドゥルーズ派>

 

ドゥルーズ派は、11世紀初め、シリアでシーア派のイスマーイール派から派生した一宗派で、ファーティマ朝の第6代カリフ、ハーキム(在位:996~1021)を神格化することにより、ファーティマ朝の多数派から分派して誕生しました。

 

神格化されたハーキムは、実際、ファーティマ朝時代を代表する建築物と言われるカイロのハーキム・モスクをはじめとする多くのモスクを建設するなど、イスマーイール派のための宗教施設の建設、寄進を盛んに行いました。さらに、対外的にも、ハーキムの治世にイスマーイール派は、ファーティマ朝の支配版図を超えて、東のイラク、イランから中央アジアに広まるなど、大きな功績を残していました(その一方で、ハーキムは奇人であったとも伝えられ、衝動的で、冷酷な面を持っていたとも伝えられている)。

 

そんなハーキムは、伝承によれば、その治世において、1021年2月13日の夜、いつものように郊外に出かけたまま、行方不明となってしまいました。数日後、短剣で刺した跡のあるカリフの衣服が砂漠で発見されましたが、遺体は見つかることはありませんでした。

 

その後、ハーキムの神格性を主張していた教宣員のグループは、行方不明になったハーキムは殺されて死んだのではなく、自発的に失踪して幽冥界でのお隠れ(ガイバ)に入ったのだと信じました。彼らは、ハーキムを神の最終的体現であるとして「我らの主」と呼び,その死を認めず,「復活の日」にハーキムは「隠れ(ガイバ)」からの再現し救世主(マフディー)として再臨すると説きました。

 

一方、ハーキム失踪後、ハーキムを神格化するグループは、イスマーイール派の従来の教義を堅持する多数派により弾圧され、ファーティマ朝の支配するエジプトを追われて、シリアに逃れ、その地でドゥルーズ派と呼ばれる集団を形成しました。

 

ハーキムの神格化と、復活の日に救世主として再臨するというキリスト教的な教義以外にも、ドゥルーズ派は特異な教義を持っています。彼らは、メッカを聖地とみなさないため、メッカの方角への礼拝を行わず、メッカ巡礼(ハッジ)も行いません。また、ラマダーンの断食(サウム)は禁止されてはいないが義務ではないので、通常、行われません。加えて、アラゥイー派と同じように輪廻転生を認めています。さらに、「クルアーン」以外に独自の聖典「ヒクマ・シャリーファ」を持っています。

 

このように、ドゥルーズ派は、グノーシス主義などの影響を受けたとみられる独自の教理を発展させていただけでなく、さらにその集団は外部世界と一線を画しているなど「異端」的な要素を多く持っていたため、他のイスラム教徒から迫害されました。ドゥルーズ派の思想は、エジプトでは受け入れられませんでしたが、シリア北部、レバノンの山岳地帯の人々の間には浸透させることはできました。

 

その後、ファーティマ朝第8代カリフ、アル=ムスタンスィル・ビッラー(1036~1094)の死後,後継イマームをめぐって、ドゥルーズ派は大きく分裂しました。

 

しかし、ドゥルーズ派は、オスマン帝国解体後の1925年に、シリア地方を統治したフランスに対するシリア地方全域を巻き込む抵抗闘争の端緒となった「ドゥルーズ派の反乱」を起こし、社会的地位を向上させ、勢力を拡大しました。1975年から始まったレバノン内戦時においても、キリスト教徒のマロン派と激しく対立し、その存在感を示しています。

 

現在、ドゥルーズ派の信徒は、レバノンやシリア、イスラエルなど合わせて100万ほどいるとされます。イスラエルにおいて、ごく少数ながら、ドゥルーズ・コミュニティがあり、イスラエル多数派のユダヤ人と「血の盟約」を結び、ドゥルーズ派の男性は、イスラエル国防軍における兵役義務があるように(イスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人にはない)、ユダヤ人社会においても特異な存在です。

 

<関連投稿>

イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに

イスラム教2:スンニ派とシーア派 4代アリーをめぐって

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イスラム教9:スンニ派(イスラム神学派)自由意志か運命か?

 

 

<参照>

イスマーイール派とは?(コトバンク)

イスマーイール派(世界史の窓)

イスマーイール派(Wikipedia)など

 

(2022年6月26日)