スンニ派(ワッハーブ派):復古主義とサウジアラビア

 

今回は、イスラム復古主義運動の中核を担い、スンニ派の中で保守・強硬派に分類されるワッハーブ派についてまとめました。現在、サウジアラビアの国教の地位を保持しているワッハーブ派は、いかにしてその地位を得たのでしょうか?

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ワッハーブ派とは、18世紀半ば、アラビア半島の内陸中央部のナジュド(ネジド)地方で、ムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブ(1703~1792)が、原始イスラムへの回復を唱えて起こしたイスラム改革運動による一宗派です。

 

現サウジアラビア王国の国教にもなっているワッハーブ派は、宗派としてはスンナ派に属し、法学上は、14世紀シリアの神学者イブン・タイミーヤの思想の影響を強く受け、イスラム法学派のうち厳格なハンバル(ハンバリー)派の立場をとります。

 

彼らは、自らをムワッヒドゥーン(一神教徒)と称しますが、日本では「ワッハーブ派」と呼ばれ、英語圏では「ワッハービズム」としてよく知られています。しかし、「ワッハービズム」は敵方が付けた言い回しであるので、イスラムの純化運動(初期イスラムの時代(サラフ)を模範とし、それに回帰すべきであるとする)をあらわす「サラフィーイズム(サラフィー主義)」が好まれているそうです。

 

 

  • ワッハーブ派の教義

 

ワッハーブ派は、ムハンマド時代の純粋な教えが、スーフィズムの神秘主義や聖者崇拝、偶像崇拝によって間違った方向に向いていると批判し、こうしたイスラムを「浄化」して、教祖ムハンマド時代の厳格な教えに立ち返るべきであるとするイスラム復興打ち出しました。

 

ワッハーブ派の最大の特徴は、タウヒード(神の唯一性)が強調されることで、これを徹底させるために、本来のイスラムの教えに立ち返る厳格な復古主義的思想が求められます。

 

イスラム本来の教えとは、預言者ムハンマドが直接伝道した人々から数えて3世代までの「サラフ」(先祖の意)により理解されていた教えを指すとされ、それは、預言者ムハンマドの示した「クルアーン(コーラン)」とスンナ(ムハンマドの言行と慣行)だけをよりどころとした神の教えです。

 

ワッハーブ派は、クルアーン及びスンナの規定に基づかなければ、何も認めてはならないとしています。スンナにルーツを持たない革新的な慣行である「ビドア」は断罪されます。また、理性的、象徴的、比喩的な手法により、クルアーンを解釈することも禁じられています。さらに、人間は、アッラーの手の内にあるので、人間が意思の自由を持ち得るとの主張は異端とされます。

 

ワッハーブ派は、聖地崇拝、聖者崇拝、偶像崇拝を否定しました。聖地の聖廟も破壊されました。アッラーだけが、天地創造、全知全能であるので、アッラー以外の崇拝対象はすべて虚偽であり、それらを礼拝する者は、死に値するとさえ主張されました。祈祷での預言者、聖人、天使等の名の言及は、多神教の徴候、偶像崇拝につながると否定されます。

 

また、神秘主義(スーフィズム)などの影響で、預言者ムハンマドを含めた聖者と呼ばれた人々の命日を偲んだり、彼らの生誕の日を祈ったりする聖者崇拝も廃されました。たとえそれが、普通のムスリムの生活に根付いた習慣であっても拒絶すべきものとされました。

 

ワッハーブ派は、ムスリム(イスラム教徒)にとっては、以下の4つの休日だけを遵守することを求めています。

 

イード・アル=フィトル(バイラム祭)

⇒ラマダーン月の断食終了を記念した斎明けの祝日

 

イード・アル=アドハー(クルバン・バイラム)

⇒メッカ巡礼(ハッジ)終了日の犠牲祭

 

アーシューラー

⇒断食潔斎の日

 

ライラトゥ=リ=ムバラカ(権勢の夜)

⇒全ての生物及び植物界がアッラーフに服従するラマダーン月の神秘の夜

 

このように、ワッハーブ派は、イスラム改革運動のため、こうした極めて厳格なシャリーア(イスラーム法)の遵守を求めています。ワッハーブ派の出現は、現代では一般に、イスラム原理主義と呼ばれている復古主義または純化主義のイスラム改革運動の先駆的な運動となりました。

 

 

  • ワッハーブ派の創設とワッハーブ王国の樹立

 

ワッハーブ派の始祖であるムハンマド=イブン=アブド=アル=ワッハーブ(アブドゥルワッハーブ)は、メディナなどヒジャーズ(アラビア半島の紅海沿岸の地方)、イラク、イラン、シリアなど各地を遊学しました。その間、一時はスーフィズムに傾注したとされていますが転向し、神秘主義を否定したハンバル(ハンバリー)派イスラム法学者イブン・タイミーヤの思想の影響を受け、故郷のナジュド(ネジド)に帰国しました。

 

ワッハーブは、故郷に戻ると、タウヒード(唯一神崇拝)の布教をはじめ、クルアーン(コーラン)とムハンマドのスンナに戻り、イスラム教を純化することを説き、当時ナジュドで流行していた聖者崇拝、スーフィズムを異端者として激しく排撃しました。

 

ワッハーブの説法に惹きつけられ、多くの有力者が集まりました。1774年に、ディルイーヤ(現在のリヤドの一部)に移った際、ワッハーブは、地元の有力者で、同じナジュドの豪族(小部族の首長)であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードと交流を持つようになり、やがて2人は宣教盟約を結びました。これは、ワッハーブは宗教問題を、ムハンマド・イブン・サウードは政治・軍事的問題をそれぞれ担当するという「相互支援協定」でした。

 

伝承では、両家の盟約の証として、ワッハーブは、1745年に、ワッハーブ派の守護者を意味する聖剣ラハイヤンを、サウード家のムハンマド・イブン・サウードに授けたとされています。また、サウードの息子を娘の養子に迎える形で結婚させることで、両家の結び付きを強化しました。

 

これにより、ワッハーブは、ムハンマド・イブン・サウードの武力を背景に宣教を進めることが出来き、ワッハーブ派が形成されるようになる一方、サウード家は、現代に至るまでワッハーブ派の守護者となり、その教えを受け入れてワッハーブ派を保護しながら、勢力を拡大・保持することができました。

 

こうして、ムハンマド・イブン・サウードと結んだワッハーブは、オスマン帝国の支配から自立し、ワッハーブ王国(第1次サウド王国)を建国しました。これによって、ワッハーブ派の信仰とサウード家の権威は、中部および東部アラビア全体へ急速に拡大していきました。

 

1792年のムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブの死後、サウド家の長が教主の地位を継承し、政教両権の保持者となりました。しかし、サウド一族と、アール・アッ=シャイフ(イブン・アブドゥル・ワッハーブの子孫たち)およびイブン・アブドゥル・ワッハーブの弟子たちとの間の「権力分配に関する取り決め」という二人のムハンマドが結んだ「相互支援協定」は、300年近く経った今でも歴史的合意となって継続しています。例えば、ワッハーブ家は、教主の地位は失っても宗教施設の管理・支配は維持しているとされています。

 

さて、ワッハーブ王国は、1802年、メッカとメディナを含むヒジャーズ地方を占領し、アラビア半島の大部分を支配し、その後、シリアやイラクにも進出しました。メッカやメディナのイスラム教の聖地を占領した際、虐殺や破壊行為に及んだと言われており、1805年にはメディナにあった教祖ムハンマドの墓廟さえも破壊しました。これは、預言者の墓であっても、墓を崇拝するのは許されないとするワッハーブ派の厳格な宗教純化の表れとされています。

 

しかし、イスラーム教の聖地をワッハーブ派に占領されたことを受け、オスマン帝国のカリフマフムト2世は、エジプト総督ムハンマド=アリーに軍隊を派遣すると、ワッハーブ王国はアリー軍に敗れ、1818年にいったん滅亡しました。

 

ただし、このワッハーブ王国の樹立は、アラブ人の民族的自覚のはじまりとされ、ワッハーブ派のイスラム純化運動は、インドや東南アジア、さらには中国にも広がっていました。

 

 

  • サウジアラビア王国の建国

 

ワッハーブ王国が滅亡した後、ワッハーブ派と結ぶサウード家は、一時クウェートに逃れていましたが、リヤドに戻ったアブドゥルアジズ(イブン=サウード)が勢力を回復しました。当時、イギリスの支援を受け、オスマン帝国に反乱を起こしたハーシム家のフセインが建国したヒジャーズ王国(1918~1925)がアラビア半島のヒジャース地方を支配していましたが、攻勢をかけたイブン=サウードは、1924年にメッカを陥落させ(翌年、ヒジャーズ王国は滅亡)、1932年にサウジアラビア王国を樹立しました。

 

これによって、ワッハーブ派は、サウジアラビアの国教として復興し、シーア派が強いイエメンを除いたアラビア半島の大部分に広がりました。このように、ワッハーブ派のイスラム改革運動は、イスラーム原理主義の一つの源流となり、現代のイスラーム原理主義運動に影響を与えています。

 

 

<参考:イフワーン>

 

1932年のサウジアラビア建国に際して、イフワーン(「同胞」という意味)と呼ばれる強力な民兵組織がサウジアラビア建国を助けたとされています。

 

イフワーンは、極めて原理主義な集団として知られ、電話、ラジオ、自動車など近代文明を全否定する文化浄化という考え方を持っていました。このため、近代化を進めるサウード家に反発して、電話線の切断や自動車の打ち壊しなどの破壊活動を行うイフワーン運動(1927年-1930年)を展開していました。

 

この運動は、サウード王家に鎮圧されましたが(生き残ったイフワーンは地方のオアシス周辺での原始的な生活に帰っていったとされる)、この運動は、当時の中国のムスリムにも影響を与えたとされています。

 

前述したように、ワッハーブ王国の樹立を受け、中国にはワッハーブ派が19世紀末に伝えられていました。それまで、中国では、カディーム派など旧来の教派を中心にイスラム教が信仰されていましたが、1888年にメッカに巡礼した中国人ムスリムの馬万福が、ワッハーブ派を学び、1890年に帰国した後、カディーム派などを批判する形で、イスワーン派を創始しました。

 

中国のイフワーン派は、回族軍閥に支持されて勢力を拡大しましたが、1936年、イフワーン派のアホン(指導者)で、マッカ巡礼に赴いた際にワッハーブ派の典籍を持ち帰った馬得宝が、これを研究して新たな教えを伝授し始めたことをきっかけに、翌年、馬得宝の新たな教えに従うサラフィーヤ派(白派)に分裂しました(一方、馬万福からの教えを堅持するイフワーン派は、「蘇派」と呼ばれる)。

 

両派を比較すると、サラフィーヤ派の方が、ワッハーブ派より忠実であるとされ、実際、中国のイフワーン派は、ワッハーブ派原理主義を否定しており、イスラム法学派のうち、ワッハーブ派の属する厳格なハンバル(ハンバリー)派ではなく、スンナ派ハナフィー学派に属しています。

 

<関連投稿>

イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに

イスラム教2:スンニ派とシーア派 4代アリーをめぐって

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イスラム教8:スンニ派(イスラム法学派)ハナフィー学派を筆頭に

イスラム教9:スンニ派(イスラム神学派)自由意志か運命か?

 

 

<参照>

ワッハーブ派とは(コトバンク)

ワッハーブ派(世界史の窓)

ワッハーブ派(Wikipedia)

イフワーン派とは(コトバンク)

イフワーン派(Wikipedia)など

 

(2022年6月28日)