シーア派(十二イマーム派):ガイバ思想とともに 

 

今回は、シーア派の最大勢力となっている十二イマーム派についてまとめてみました。なお、十二イマーム派が成立するシーア派の歴史的な推移については、「イスラム教2:スンニ派とシーア派」を参照下さい。

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  • 十二イマーム派とは?

 

十二イマーム派は、イスラム教シーア派の中の主流派で、全シーア派の8割を占める最大勢力で、シーア派では穏健派に属します。その名称は、アリーからフセインの血統の者、12人をイマーム(指導者)としているところからきています。

 

シーア派にとって、イマームは、預言者ムハンマドの知識、ムハンマドを通じて神から特別の知識を与えられている霊的能力を受け継ぐ、イスラムの最高指導者で、神格化される存在です。十二イマーム派は、その初代から十二代イマームまで継承された教義を崇敬する宗派として、シーア派内で、大きな力を保持しています。

 

 

  • 十二イマーム派の教義

 

十二イマーム派は、イマームが血縁によって世代を超えて受け継がれることや、イマームの不謬性といった独特のイマーム論を展開していきました。十二イマーム派を特徴づけている特異な教義が、アリーの子孫の12代をイマームとして尊崇し、第12代イマームは「隠れイマーム」である(後に再臨する)、とするものです。

 

874年に第11代イマームが亡くなると、第12代となるべき、当時5歳のムハンマド=ムンタザルは、礼拝後、忽然と姿を消してしまいました(その姿を誰も見たことがなかったという説もある)。シーア派の長老は、第12代イマーム、ムハンマド=ムンタザルが、死んだのではなくて、迫害を避けて、人間の視界からは見えない次元に隠れた(ガイバ(=お隠れ)に入った)と説明しました。

 

当時のシーア派は、以前に比べると政治活動を控えていましたが、アッバース朝からは疑いの目を向けられていました。それで、新しいイマームの身元の公表は賢明なことではないと判断されたとようです。

 

「隠れイマーム」となったムハンマド=ムンタザルは、サーマッラーの小洞窟に隠れ、特定の代理人と呼ばれる4人が、信徒たちとの仲介に当たっていたとされていましたが、940年以降、信徒たちとの交流はほぼ断たれてしまったと伝えらえています(なお、今日でも、シーア派の人々はこの洞窟の上に建設された小さなモスクに参集して、彼の帰還を祈っていると言われている)。

 

このように、10世紀半ばに「隠れイマーム」(ガイバ論)は確立し、十二イマーム信仰の枠組みが完成し、イスラム教の宗派としても、十二イマーム派が、名実ともに形成されました。その時期は、11代イマームが死去した874年以降ということもできます。

 

もともと、十二イマーム派は、シーア派の分派として位置づけられていましたが、サファビー朝(1501〜1736)から、現在のイラン、イラク、シリアなどのシーア派信者はほとんど十二イマーム派であるため、「シーア派=十二イマーム派」と解されるようになりました。

 

シーア派の第4代イマームのアリー・ザイヌルアービディーンが713年に死亡すると、ムハンマドバーキルが第5代イマームとなりましたが、ムハンマド・バーキルの弟であるザイド・イブン・アリーをイマームとして擁立する一派がザイド派を形成しました。一説には、この時、シーア派の主流派は、以後、イマーム派とも呼ばれるようになり、これが、十二イマーム派の始まりとされています。

 

一方、政治的にも、シーア派を信奉するブワイフ朝(932~1062)が、932年にバクダードを支配し、アッバース朝カリフを保護下に置くと、そのもとで十二イマーム派の教義も整備されていきました。第12代イマーム、ムハンマド=ムンタザルも、隠れた状態で生き続け、人々が神の最後の審判を受ける終末が迫るときに(世の終わりに)、マフディ(救世主)となって再臨し、世界を救済する、と信じるようになったのもこの頃からとされています。

 

 

  • 十二イマーム派の統治

 

11代イマームが死去した874年以降、シーア派(十二イマーム派)には、ムハンマド=ムンタザル以後、イマームは不在です。しかし、イマーム再臨まで、代わりに信徒に指針を与える人が必要になります。

 

特に、イマーム不在の中、信者は行動の指針として、聖典「クルアーン」やムハンマドの言行録「ハディース」、十二イマームの伝承を規範とするわけですが、その解釈が不統一だと混乱をきたしてしまいます。そこで、その役割を担うのが、大アヤトラやアヤトラといった聖職者、神学者であり、イスラム法学者です。

 

シーア派には、大アヤトラを頂点に聖職者の階層があり、その最上位の人々が、「隠れイマーム」の代理を務める宗教的権威とみなされ、彼らの社会での政治的発言力も大きくなります。実際、現行のイラン=イスラム共和国憲法では、イランにおける宗教法学者たちは「第12代イマームの代理として政治的権威を持つ」と書かれています。

 

十二イマーム派(シーア派)は、サファヴィー朝イラン(1501〜1736)の国教となりました。オスマン帝国と対峙したサファヴィー朝は、国家の存立意義を、スンナ派とは異なるシーア派(十二イマーム派)を国教とすることに求めたのでした。サファヴィー朝は18世紀に衰え、20世紀に成立したパフレヴィー朝も1970年代に世俗化を進めましたが、民衆レベルではシーア派(十二イマーム派)信仰は衰えることはありませんでした。

 

逆に、西欧化したパフレヴィー朝に反発した十二イマーム派ウラマー(宗教指導者)のホメイニによって1979年にイラン革命が起こされ、イラン=イスラム共和国が成立しました。革命によって、シーア派(十二イマーム派)は、更に強固なイラン国家の国教としての立場を固めています。また、イランだけではなく、イラク、レバノンなどでも勢力を保持しています。

 

こうして、シーア派の最大多数派となった十二イマーム派ですが、いくつかの分派教団も存在しています。

 

 

<バーフ教>

 

バーブ教は、1844年に、イランで、サイイド=アリー=ムハンマド(1820〜50)によって創始された、十二イマーム派の分派です。サイイド・アリー・ムハンマドは、自らを救世主(マフディーという)であり、また神と人々を仲介するバーブ(真理の門の意味)であると称し、男女平等、シャリーア(イスラム法)の廃止、階級差別の廃止、貧富の差の解消など、イスラム改革を唱え、救世主の出現を待望していた民衆の支持を受けました。

 

しかし、こうしたバーブ教の自由思想的な教理は、サイイド・アリー・ムハンマドが、預言者ムハンマドの宗教の終りを告げたとみなし、イランのカージャール朝(1796~1925)は、バーブ教徒を危険な反体制集団として弾圧しました

 

一方、貧困農民が多かったバーブ教徒は、封建支配とイギリスやロシアといった外国勢力への抵抗を唱え、1848年、各地で蜂起しました。しかし、バーブ教徒の乱(1848~52)と呼ばれた反体制運動は、政府当局により鎮圧され、1850年、サイイド=アリー=ムハンマドは捕えられ処刑、信徒も約4万人が虐殺されました。

 

このためバーブ教徒は、地下組織として活動するか、国外へ逃亡しました。その後もイラン社会で違法とされていますが、バーブ教には、100万人以上の信徒がいると試算されています。一方、サイイド=アリー=ムハンマドの弟子のバハー・ウッラーが、穏健なバハイ(バハーイ)教を興し、多くのバーフ教の信徒がバハイ教に移りました。

 

 

<バハイ教>

 

バハイ教は、イスラム教シーア派(十二イマーム派)から分かれたバーブ教の後継宗教とも捉えられている宗派で、19世紀半ば、バハオラ(バハー・ウッラー)(1817–1892)を名乗るイラン人のミルザー・ホセイン・アリー(生来の名前)によって創始されました。

 

1817年、テヘラン生まれでバーブ教信徒のバハー・ウッラーは、バーブ教が弾圧された際、逮捕されましたが、獄中生活の中で最初の神の啓示を受け、バハイ教を起こしました。

 

その教義の主要原則は、「すべての宗教の根源は一つである」との考え方に立ち、神の一体性、宗教の一体性、人類の一体性が強調されていることで、すべての人種、国、宗教の間において普遍的な平和と統一が提唱されています。そのため、バハイ教は、発祥地のイランや中東にとどまらない世界的な普遍宗教(世界宗教)としての性格を有した宗教となっています。

 

また、バハイ教は、基本的にはアブラハムの宗教の系列に含まれますが、モーセ、イエス、ムハンマドらに加えて、アブラハムの宗教に含まれていないゾロアスター、釈迦などの世界の全ての大宗教の創始者も神の顕示者であるとされ、バハイ教の創始者バハオラは、(当時)最も新しい時代に生まれた、神の顕示者の一人と位置づけられています。

 

バハイ教においては、他宗教を排除せず、相手を改宗させる目的での布教活動は禁止され、人種差別とナショナリズムを拒絶し、男女平等、一夫一婦制、アルコールや麻薬の禁止などを唱えています。さらに、サルから人間が進化したという安易な進化論を否定し、ヒトは、初めから人間としての特徴と可能性を持った独自の実体であるという創造論が主張されています。

 

バハイ教は、20世紀に入り、欧米で信徒を増やし、現在、世界中、191ヶ国に500~600万人がバハイ教を信仰していると推計されています。しかし、スンナ派、シーア派ともに、バハイ教をイスラムからの棄教者または背教者と見なし、依然として迫害の対象となっており、現在イラン本国では布教が禁じられ、イスラム諸国の中には、バハイ教の信者の身分証の発給を拒否する国もあります。

 

このため、バハイ教の本部(バハイ世界センター)は19世紀以来、イスラエルのハイファに移され、バーブの霊廟などを含めて、街にはバハイ教の建物が残されています。

 

<関連投稿>

イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに

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<参照>

十二イマーム派(コトバンク)

十二イマーム派(世界史の窓)

十二イマーム派(Wikipedia)

 

(2022年6月26日)