イスラム神学:自由意志か運命か?

 

シーア派は、後継者を誰にするかで分裂を繰り返したのに対して、スンニ派は一枚岩で、宗派としては分裂することはありませんでした。しかし、時代の推移とともにイスラムの教えを体系化する必要に迫られるなか、イスラム神学を発展させましたが、その解釈の面で、いくつかの神学派に分れました。今回はイスラム神学についてまとめました。

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イスラム神学(カラーム/思弁神学)とは、思弁と論理によってイスラム信仰における問いを解決しようとする神についての論証の学のことで、「神の唯一性の学」(イルム・アルタウヒード)とも呼ばれています。おもにスンニ派内で発達しました。

 

 

<イスラム神学発生の背景>

 

イスラム神学は、原初のイスラムには存在しませんでした。例えば、聖典「クルアーン」には、論理的矛盾があったとされ、本来ですと、これが信徒のつまずきの元となるおそれがあるのですが、そのことが大きな問題となることはありませんでした。ムハンマドの存命中は問題が生じれば彼の意見を仰げばよかったからです。イスラムが生まれた地に住む砂漠の民が、首尾一貫した教義を求めることもありませんでした。

 

しかし、預言者ムハンマドが没すると、様々疑問に対する解答が不可避になってきました。また、イスラム教の地域的な拡大に伴い、ペルシアやインド、特に論理的、思索的なギリシャ思想の根づいていた地域を征服するに至ると、キリスト教徒やマニ教徒など異教徒との論争を強いられるようになり、「クルアーン(コーラン)」が教えるところを体系化する必要が生じてきたのです。

 

そうした中、イスラム神学の主要なテーマとして、イスラムの運命観と自由意志、擬人神観、信仰と行為、神の属性・本質をめぐる「神の唯一性」、神のことばであるコーランの被造性の問題、聖典(クルアーン)解釈などが、イスラム神学上の問題として議論されるようになりました。

 

その時期は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝(661~750年)末期から、アッバース朝(750~1517)に至る時代で、この頃、無数の学派と学者が生まれました。最初のイスラム神学派とされるのがムゥタジラ派ですが、それ以前にも、イスラム神学時代の先駆けとなったグループがいくつかありました。

 

 

ハワーリジュ派とムルジア派の「信仰と行為」論争

 

  • ハワーリジュ派

ハワーリジュ派(ハーリジ派)は、「信仰とは、信仰告白と共に行為である」と主張し、信仰において「行為」を重視し、信仰は信仰告白のみでは足りず、実践的な要素、正しい行為が伴わなければならないと説きました。しかも、大罪を犯した信者はもはや信者ではなく、その者たちの信仰は消滅するとしました。さらに、そうした「不信者(カーフィル)」は、殺害されるべきであり、聖戦(ジハード)を行わなければならないとさえ主張したのです。

 

この理念に従ったハワーリジュ派は、シリア総督ムアーウィヤとの戦いで和議に応じた4代カリフ、アリーは罪を犯したとして、暗殺しました。また、(アリーに対する)反逆という大罪を犯したムアーウィヤ(ウマイヤ朝の創始者)のウマイヤ朝も認めませんでした。とりわけ、ウマイヤ朝が、680年、カルバラーの戦いで、4代カリフ、アリーの子、フセインの軍に対して、72対3000の圧倒的な数を背景に圧勝し大虐殺を行なったことに対して、「不正である」として厳しく批判しました。

 

ここから、「信仰と行為」についてのイスラム神学上の問いは、現体制の正当性の是非という問題にまで発展していきました。このように、神学的な批判を始めたハワーリジュ派に対して、ウマイヤ家では自らの正当性を理論付けしなければならなくなり、その役割を担ったのがムルジア派でした。

 

  • ムルジア派

 

ムルジア派は、イスラム神学確立以前(初期イスラム神学)の神学派の一つで、8世紀前半に、イラクの都市クーファを中心に発展しました。ハワーリジュ派とシーア派のいずれにもくみせず、むしろ、ハワーリジュ派(ハーリジ派)のウマイヤ朝攻撃から、ウマイヤ朝の立場を弁護する役割を果しました。

 

信仰=行為とするハワーリジュ派に強く反対したムルジア派は、「たとえ、大罪を犯した人間でも、イスラムの信仰を告白する限り、信仰者は信仰者(信者)である」と主張し、信仰は行為とは関係なく成立すると反論しました。

 

さらに、「人間に対する裁きは人間が下すべきではなく、神(アッラー)に一任すべきだ。もしその者が悪いのなら、神自らがこれを裁くはず、大罪者か否か、罪人が地獄に行くかどうかの判断は、最後の審判の日まで延期される」と説くなど、信仰と不信仰の問題は神の審判に待つという立場をとりました。もともと、ムルジアという名称は、アラビア語の「延期」(イルジャー)に由来します。

 

こうして、信仰と行為を切り離し、ハワーリジュ派が非難するウマイヤ朝のカリフの犯した罪に対する決裁を「延長」したムルジア派は、現世におけるカリフの正当性を擁護し、ウマイヤ朝体制を支持することになりました。

 

さらに、ムルジア派は「信仰による罪からの救い」を主張するに至ります。人は、どんな罪を犯そうが、アッラーと預言者ムハンマドに対する信仰さえ失わなければ、地獄に落ちることはなく、必ず救済されると説いたのです。

 

こうしたムルジア派に対して、クルアーン(コーラン)の解釈を通じ,イスラム教徒の多数の者に支持されうる教義と儀礼の定立・箇条化を図ったとして批判的にみる向きが出た一方、逆に、ハナフィー法学派に近い政治的穏健派の立場に通じるものでもあったので、ムルジア派は、広く受け入れられることになりました。

 

 

<ジャフミー派とハシュウィー派の「擬人神観主義」論争>

 

聖典クルアーンには、神についての擬人的感覚的表現がありますが、聖典の表現を文字通り受け取り、神を人間と同様に解釈するか(擬人神観主義)、またはそうした表現を比喩表現と解するかで見解が分かれました。

 

擬人的表現の解釈について、ハシュウィー派に代表される擬人神観主義者は、聖典の表現を文字通りそのまま解して、神を人間と同様に理解しました。これは、神の絶大さを強調する「クルアーン(コーラン)」の影響を受けた多数派の「伝統主義」の立場によるもので、聖典を直解することが説かれました。

 

これに対して、ジャフミー派と呼ばれる人々は、聖典の直解主義を不合理として批判し、神の擬人的表現を、比喩的解釈(ターウィール)としました。

 

 

<ジャブル派とカダル派の「運命・自由意志」論争>

 

◆「運命・自由意志」論争

 

イスラム神学上の大論争を巻き起こしてきたものの一つは、予定論(宿命論)に関してでした。イスラムの「六信」の一つに運命(カダル)を信じるというのがあります。何を信じるのかと言えば、「人間の行為は、神の意志として予め定められている」という予定論(宿命論)です。

 

そこから、「人間には自分自身の意志を選択する能力が認められているか」、「人間が実行の選択権を持ち、人間の責任において善悪が決定することができるか」という疑問が提起され、人間の「自由意志」か「予定(運命/宿命)」かについての長い論争がありました。

 

初期ムスリム(イスラム教徒)の間では、イスラム教で強調される神の力の絶大性が強調され、「アッラーは唯一の神であり、アッラーをおいて他に神はないので、アッラー以外の創造者はない」というイスラム的信仰に立つ限り、人間の善行、悪行は勿論、この世に起こる出来事は全て神の創造より出たものであり、人間の自由意志は否定され、唯一絶対のアッラーが人間のすべてをあらかじめ定めていると解されていました。

 

こうした、すべての出来事は神の意志に由来するのだから、人間には自由意志はないという教えは、例えば以下のように、クルアーン(コーラン)の至る所に見出されます。

 

「人間にふりかかるのはすべてアッラーが定めたものだけである」(9章51節)

「イスラムの信仰に入る者を見ては、あたかもその人自身が進んで神の途を選んだようにも見えるが、実は、神の途を選ぼうという気持ちが起こることが既に神によって定められているのだというのである」(第33章36節)

 

その一方で「クルアーン」には、次のように、神の教えに従うか背くかは人間の自由意志によるという正反対な記述もたくさんあります。

 

「アッラーからの真理を信じるかどうかは自分次第である」(18章28節)

「真理は主の下し給うところ、しかし、信じたいものは信じ、背きたいものは背くがよい」(第18章28節)

「汝にふりかかる幸運は、全てアッラーの授け給うたもの、汝にふりかかる災難は全て汝自身から来る」(第4章81節)

「アッラーがどうして悪を命じたりなさろうか」(第7章7節)

 

これらの章句から判断しようとすれば、神の途に進む人も進まない人も、「人間の為すことはいかなることでも、ただ人間の意志に委ねられており、人間は、善行、悪行いずれにせよ、行うか、行わないかの選択権を持っている」と結論づけることは可能です。

 

当時、イスラム世界は次第に統一性を失い、社会にいろいろの矛盾が発生、様々な罪業が公然と行われていました。いつ終わるかわからない動乱、陰謀、不正、悪業を前に、人々は、悪の数々を神がするのだろうかと疑問を持つようになりました。そして、全能で、完全無欠で至高最善の神が、これほどの悪業を行うはずがない、神以外の者(悪魔)が人間をそそのかし、やらせているに違いない、と考えるようになりました。実際、クルアーン(コーラン)にも、至るところで、悪を人にさせるのは神ではなく、悪魔だと述べています。

 

初期のイスラムの学者たちは、こうしたクルアーンの句をなんとか整合的に理解しようとした結果、人間の自由意志を否定するジャブル派と、これを肯定するカダル派とが対立しました。

 

「運命(予定)/自由意志」論争は、教義上の分裂の起点となり、イスラム神学の萌芽とも言えるものでした。さらに、両派の対立は、当時のウマイヤ朝政権の政治に対する肯定と否定という対応にも発展したのです。

 

  • ジャブル派(ジャブリ―派)

 

ジャブル派は、人間の自由意志、すなわち選択の能力(イフティヤール)の発現を否定し、神の予定説を主張しました。ウマイヤ朝(661~750)の末期にでた彼らは、人間の意志,行動は、アッラーの定めた運命によって、すべて神によって決定されているので、何事もただ受け入れるだけで自らは動かないという宿命論者(決定説論者)です。

 

さらに、神が全てを決めて、人間は強制的に従わされているのだと捉えるジャブル派の考え方は、ウマイヤ朝の悪政も、アッラーの意志として甘受させる作用を果たしました。

 

 

  • カダル派

 

カダル派は、ウマイヤ朝(661~750)の末期、シリアの首都ダマスカスに発生したイスラム神学の一学派で、イスラムにおける最初期の哲学的学派とされています。正確にいつ、どこで、誰によって興されたかは明らかではありません。

 

カダル派は、神の予定・宿命を正面から否定(予定調和説を否定)し、人間が自由意志を持つことを主張しました。カダル派の自由意志論では、人間は善と悪、いずれかを自由に選び取ることができるという行動の選択権を持つと考えられます(これをカダル派の「行為の創造」論という)。この「人間は自分の行為を創造する」という主張は、カダル派の中心的な綱領となりました。

 

そのため、人間の責任において善悪が決定するので、人間には自らの行動に責任が生じるとされます。したがって、アッラーは善のみを創造するので、悪は人間、もしくは悪魔(シャイターン)に由来するとされます。人間の自由意志が認められる世界にあって、政治の不正は糾弾され、ウマイヤ朝への批判につながりました。

 

さらに、アッラーが罰を与えることの正当性と、悪がこの世に存在することにアッラーの責任はないと説かれました。

 

なお、カダルは、宿命を意味する言葉で、宿命を否定する自由意志論者たちがカダル派と呼ばれたのは、当時の多数派からの蔑称とされていますが、カダル派がカダルの問題を常に取り上げて論じたことに由来します。

 

カダル派の主張は、その後、アッバース朝時代、ムゥタズィラ(ムータジラ)派(神学)に取り入れられました(カダル派はムアタズィラの前身、ムータジラ神学の母体と評される)。

 

なお、カダル派以外に、人間の自由意志論を認める神学派として、カダリー派がいました。カダリー派も、共同体の現状を批判し、人間の自由意志と倫理的責任に加えて、神の正義を強調しました(神の正義の問題をイスラムにおいて最初に取り上げたのがカダリー派と評されている)。

 

このように、初期イスラム神学派としては、信仰と行為についてハワーリジュ派とムルジア派、擬人神観主義をめぐりジャフミー派とハシュウィー派、運命(予定)と自由意志に関してジャブル派とカダル派など、多くのイスラム神学派が生まれ、イスラム神学の萌芽が見られましたが、これらの諸派は体系的な神学を形成するには至りませんでした。

 

しかし、ヘレニズムの影響もあり、イスラム教徒の間にも合理主義が発達してくると、こうした個別の問題を理性的に綜合し、理論的に神学体系を構築した、ムウタズィラ派が出てきました。

 

 

<ムゥタジラ派>

 

ムゥタジラ派ムアタズィラ派、ムータジラ派)は、イスラム神学の一派で、ワーシル・イブン・アター(700~748)とアムル・イブン・ウバイドを創始者とします。彼らは初め、初期イスラムの著名思想家ハサン・バスリー(642~728)の「思想サロン」に属していましたが、大罪を犯した人間についての意見が師と対立したため、師のもとから離れて自らの学派を設立したとされています。

 

ムゥタジラ派の名も、「離脱者」(ムゥタジル)に由来するとされています(「袂を分かつ」、「離れた」、「身を引いた」という意味のアラビア語動詞の変形)。

 

当初のムゥタジラ派は、イスラム神学(カラーム)を確立したとはいえませんでしたが、次第に精緻な思弁的神学の体系を築き上げ、創設から1世紀後には、イスラム史上初の体系的神学派と呼ばれるようになりました。現在、厳密な意味でのイスラム神学(カラーム)は、ムゥタジラ派とともに始まったと評されています。

 

 

ムゥタジラ派の「予定・自由意志」論

ムアタズィラ派は、宿命(予定)と自由意志の問題に合理主義の立場から応答しました。カダル派の流れを引き継いでいるとされるムゥタジラ派は、自由意志と人間理性を強調し、「人間は自由意志で自分(自身)の行為を創造する」という「行為の創造」という思想を根本的信条としています。

 

ムゥタズィラ派にとって、人間の不正、罪、悪は、神とは無関係であり、人間自身の行為の結果であって、その行為には倫理的責任が伴うと考えました。ただし、人間は理性を与えられており、それによって善悪を知ることができるので、その行為は、理性的な基準により善であるか悪であるか判断されるとみなされました。

 

この点から、正統派(スンニ派)が認めていた、最後の審判のときにムハンマドが神に執り成すことで信徒がなした罪を軽くしてくれるという「執り成し」の教義を、ムゥタズィラ派は否定しました。

 

神は、善行には天国で報いますが、悪行を地獄で罰するとして、己が創造した行為に応じて地獄の火に焼かれることはあれば、それは当然の報いとみなしました。ですから、予言者が信徒を救い出すことはありえないと考えたのです。

 

ムゥタジラ派の「神の唯一性」論

また、ムゥタジラ派は、神の唯一性の問題について、神の超越性と絶対的唯一性の立場から、本質とは異なる、力、知識、生など神的属性の存在を否定しました。神の本質とはその永遠性のみであり、その他の性質はすべてこの永遠性から派生すると考えました。

 

したがって、「クルアーン(コーラン)」ですら、その永遠性は否定され、クルアーンは、神と共に永劫の昔からあったのではなく、他の被造物と同じく創造されたものとされました(「クルアーン創造説」)。

 

さらに、ムゥタジラ派は、神を人間的に考えることを排除するという特徴も持っていました。「コーラン」には、神を人間のように描いている箇所がありますが、その場合は、比喩的に解釈されなければならないと考えました(ジャフミー派の擬人神主義に近い)。

 

ムゥタズィラ派にとって、クルアーンは理性によって解釈されるべきものでした。ハンバリー(ハンバル)派に代表される伝統主義的保守派が、理性と啓示の「矛盾」に際しては、理性的判断を中止して啓示をそのまま「様態のいかんを問わず」受け入れたこととは対照的です。

 

こうした見解は、すべて、ヘレニズム(ギリシア哲学)の影響を受けたムゥタズィラ派の合理主義からくるもので、結果的に、ムゥタジラ派は多くの伝統的信条を否定し、個々の論点を理性的に綜合しながら、神学体系を構築していきました。

 

アッバース朝の庇護とアシュアリー派の台頭

このように、合理主義的なムアタズィラ派は、初期アッバース朝(750~1517)の第7代カリフ、マアムーン(マームーン)(在813~833)、第8代のムウタスィム(ムータシム)(在833~842)、第9代のワースィク(ワーシク)(在842~ 847)のときに、公式的教義として認められる(公認の教義される)など最盛期を迎えました。ムゥタジラ派の神学を強制され、それ以外の宗派は弾圧されました。

 

しかし、その後、合理主義・理性主義が過ぎるとして、人々には受け入れられず、またムアタズィラ派の内部からも反発がでてきました。このため、ムアタズィラ派は徐々に衰退に向かい、のちにアシュアリー派の批判にあって勢力を失っていき、13世紀ころには、スンニ派神学の世界から姿を消しました。ただし、シーア派神学、とくにザイド派の神学に受け継がれていったとされるなど、ムータジラ派はその後衰えましたが、その思想は多くシーア派に吸収されていったと言われています。

 

 

<イスラム二大神学派>

 

  • アシュアリー派

 

アシュアリー派は、神学者アシュアリー(873―935)を祖とするスンナ派の正統神学派で、ムゥタズィラ派が、合理主義・理性主義で、伝統を軽視し、保守的な人たちから反発を受けたことに対する反動として誕生しました。実際、アシュアリーは、40歳までムゥタズィラ学派に属していましたが、ムゥタズィラ学派の合理主義神学から決別して新たな学説を打ち出しました。

 

アシュアリー派の思想

 

アシュアリー派は、ムゥタジラ派と同じく理性的思弁(カラーム)によって、多数派の正統の信仰(信条)を証明し、これを擁護する神学派で、アシュアリーは、神の属性やクルアーンの被造性、予定説や自由意志、その解釈方法などについて、ムゥタズィラ学派の人々と互いの思想を論駁し合いました。

 

理性の万能性を説き、合理的な思考(思弁)によって、信仰を導き出すムゥタズィラ神学派に対抗するため、アシュアリーは当初、思弁を排して、もっぱらクルアーンとハディースの章句に依拠する保守的なハンバル法学派の思想に接近しました。しかし、やがてハンバル学派の思想をも見直したアシュアリーは、両者の中間に位置する思想に到達しました。

 

例えば、神の唯一性の問題について、イスラム神学では、神が一つということは、神の独一性、神と被造物との間に隔たりがあるか(隔絶性)が問題視されます。これについて,ムータジラ派は神の絶対的唯一性を説く立場から、多性を示すとする神の属性(人格、性格)を否定するのに対して、アシュアリーは、神の本質に永遠に内在する属性を認めつつ、神の超越性と人格性を調和させようとしました。

 

聖典クルアーン(コーラン)に関して、ムゥタズィラ学派はクルアーンの永遠性を否定して創造されたものと見なした一方、ハンバル学派はクルアーン、章句を表す文字、筆写に用いた紙や墨までもが無始から存在する永遠のものだと主張しました。これに対して両者の中間をとるアシュアリーは、神の言葉自体の永遠性を肯定しながらも、それを記録する文字、紙、墨は、人間が考案・製作したものだと定義しました。

 

このため、アシュアリーの思想は、両方の学派から攻撃され、スンナ派の神学として、現実に受容されるまで長い時間を要しました。それでも結果的に、アシュアリー神学派はスンナ派の四大法学派(マズハブ)のうち、ハンバル学派ではなく、マーリク学派とシャーフィイー学派に属する法学者にも継承されました。

 

一方、神学上の主要テーマの一つである予定(運命)と自由意志に関しては、予定説(宿命論)を否定し、自由意志を主張するムゥタジラ派に対して、アシュアリー派は、人間の自由意志を完全に否定しないようにしながらも、神の定める運命の絶対性を強調する予定説の立場をとりました。さらに、人間は神の創造した行為を獲得するという「獲得理論」を主張しました。

 

「獲得理論」とは、アッラーは人間の「行為」すべてをあらかじめ作り定めているが、人間は神の創造した行為を、アッラーによって創造された能力を用いて「獲得」することができ、その瞬間に自由意志が用いられる、というものです。

 

神の正義については、ムゥタジラ派が理性による善悪の一般的判断を可能とするのに対して、アシュアリーは善悪の判断は、啓示によってのみ知りうるとの立場をとります。

 

なお、互いの思想を論駁してきたアシュアリーとムゥタズィラ学派の人々は、存在論において、原子論(あらゆるものは、それ以上分割できない極小のもの(原子)が集まって構成されているとする理論)を認める点においては、一部のムゥタズィラ学派の人間を除いて一致していました。

 

 

アシュリー派の展開

 

アシュアリーの思想は、彼の死後、高名な弟子たちによって発展的に引き継がれていきました。バーキッラーニー(940~1013)は、「知」に関する議論において、「知」を直接的な体験によるものと、クルアーンやハディース(ムハンマドの言行録)を通して得られる間接的なものに分けました。これによって、合理的論証を成立させる「知」の本質を追求し、「知」の枠組みが確定させたことで、アシュアリー派は、神学派としての基礎を形成させたと評されています。

 

また、ギリシア哲学の方法論を導入した哲学的神学の草分けとされるイマーム・アル=ハラマイン・ジュワイニー(イマーム・ハラマインとも)(1028~1085)が、セルジューク朝の宰相ニザームルムルクによってニザーミーヤ学院の教授に任命されると、アシュアリー学派は、国家の保護を受けるようになり、ムゥタズィラ学派を上回る勢力になりました。ジュワイニーは、法学派ではシャーフィイー派に属し、その後のスンニー派神学研究の基礎を築いたと言われています。

 

さらに、ジュワイニーの弟子で、イスラム神学上、最高峰とされるガザーリ(1058―1111)によって、アシュアリー学派はより発展していきました。前述したバーキッラーニーの二つの知の上下関係を巡って、直接的な知を至上とするスーフィー(神秘主義者)と、間接的な知を重視するウラマー(法学者)が対立していましたが、ガザーリーは中間の立場をとりそれぞれの領域内の学問の役割の定義を試みました。

 

元来、イスラム神学(カラーム)は「哲学」(ファルサファ)とは別でしたが、ガザーリーは、神学と哲学を接近させました。人間の自由意志論を否定するガザーリーは、哲学の論理学と形而上学を批判的に受容し、その思弁の度は深めたことで、アシュアリー神学は、より哲学に近い性質を持つようになっていったのです。

 

このように、アシュアリー学派は、合理主義と伝統主義の間をとる中道的な神学派として、現在もイスラム教スンナ派の正統神学派と認められています。

 

 

  • マートゥリーディー派

 

マートゥリーディー神学派は、アブー・マンスール・マートゥリーディーを起源とし、現在のスンナ派内で多数を占め、アシュアリー学派に並ぶ正統神学派とみなされています。

 

アブー・マンスール・マートゥリーディー(?~944)の生涯については、あまり知られていませんが、サマルカンドに生まれ、マー・ワラー・アンナフル(中央アジア、アム川北岸、かつてのソグディアナ地域)で活躍し,サマルカンドで没したとされており、マートゥリーディーの活動は、おおむねこの地方に限定されていました。

 

しかし、中央アジアの地に成立したマートゥリーディー派は、イスラムに改宗したテュルク諸部族や南アジアのムスリムに受け入れられただけでなく、16世紀にシーア派化する以前のペルシアのハナフィー法学派のムスリム(イスラム教徒)に広まりました。さらに、オスマン帝国やムガル帝国でも、独占的な地位を占めていたとされています。

 

マートゥリーディー学派は、同時代のアシュアリー派の神学者アシュアリーと同じく、ムゥタジラ神学を批判しながら、今日のスンニ派イスラム神学の基礎を築いたと位置づけられています。

 

ただし「マートゥリーディー学派」を示すアラビア語が使用され始めるのは、学祖とされるマートゥリーディー(~944年)が生きた時代よりかなり遅く、14世紀になってからです。この時、中央アジアの学者タフターザーニー(~1390年)が、スンニー派正統派神学(カラーム)の起源を説明する際に使用したそうです。マートゥリーディー学派は、以前、「サマルカンド派」あるいは「マーワラーアンナフル派」と呼ばれていました。

 

マートゥリーディー学派の教義

 

アシュアリー派とほぼ同じ立場ですが、神の絶対性を強調するアシュアリー派に対して,マートゥリーディー学派は、人間の理性を相対的にやや重視し、人間の行為における自由意志を認めたりする点を多少の相違点としてあげることができます。

 

彼らの主張によれば、人間は、理性を与えられた被創造物であり、すべての可能性を創造した神に与えられた可能性の範囲内で、自らの行動を決定する自由意志を与えられています。

 

また、人間は、理知的に神を認識することができますが、神に関するある一定の知識は、預言者によってもたらされたものであるから、そのためには啓示と預言者の指導が必要であるとします。その道徳規範(倫理)は実在し、理性によって認識可能であり、それには預言者の指導を必要としません。

 

神の言葉であるクルアーンは被創造物ではないが、それが音や文字のような形をとれば、それらは被創造物となるとされています。またハディースは理性と対立する場合は信頼できないとしていますが、人間の知性はすべての真理をつかむことはできず、それには神秘的な啓示が必要であると考えられています。

 

スーフィズムの伝統を重んじていることでも知られるマートゥリーディー学派は、神が自らに似せて人間を創造したとする擬人説に反対していますが、人間に神的な特徴が備わっている可能性を否定しているわけでもありません。

 

以上、イスラム神学の流れを概観してきましたが、スンニ派のイスラム神学におて、現在、アシュアリー派とマートゥリーディー学派がイスラム教(スンニ派)の二大神学派として位置づけられています。

 

<関連投稿>

イスラム教1:ムハンマドの教え クルアーンとハディースに

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イスラム教7:スンニ派(ワッハーブ派)復古主義とサウジアラビア

イスラム教8:スンニ派(イスラム法学派)ハナフィー学派を筆頭に

 

 

<参照>

イスラム神学のあらまし(宗教新聞)

イスラム神学とは(コトバンク)

ムゥタズィラ派(Wikipedia)

アシュアリー派(Wikipedia)

マートゥリーディー学派(Wikipedia)

 

(2022年6月28日)